唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門 (35) 三受について 第四門

2013-01-21 23:06:04 | 心の構造について

 第三の解釈

 「或いは彼の苦根は、身心を損するが故に苦根に摂められると雖も、而も亦は憂と名づく」(『論』第五・二十五左)

 「彼の地獄等の苦根は、通じて能く身・心を損ずるが故に、苦根に摂すと雖も、而も亦憂と名づく」と『述記』には述べられています。、地獄の第六意識の苦受は、身心を損悩するので、苦受といわれ、苦根に摂められるのですが、第六意識の慼受という意味からまた憂受とも名づけられるのである、しかし実に憂根ではない、と説かれています。

 例を示す(地獄は苦根のみであること)

 「近分(ごんぶん)の喜を、身心を益するが故に是れ喜根なりと雖も、而も亦は楽と名づくるが如し、顕揚論等に、具さに此の義を顕せり」(『論』第五・二十五左) 

 『顕揚論』第二(大正31・486b)に、「離生喜楽に滋潤せらる」と説かれていて、(離生喜楽は欲望や悪を離れたことから生ずる喜楽で、これにより初禅を得るという。
 この意味は、欲界を離れる時、その上界(色界)の定に人は潤わされ、その感受は喜受となるが、その益は心だけに及ばず、身をも潤すので、仮に楽の名を立てるのである。『顕揚論』第二に「経(雑阿含経第十七巻)に説くが如し、謂はゆる離生喜楽に滋潤せらる、乃至広く説く。是れを初・二静慮の近分と謂う等といえり。」 

 初めは初禅・第二禅の近分(ごんぶん)中の喜受は身・心を益することを、例をもって示します。即ち近分定に起こる感受は喜受であるけれども、身・心を益するので、喜根に摂すると雖も身を益することにおいて楽というのである。その証拠に『顕揚論』第二に詳しく説かれている。このことは、地獄の第六意識に憂根があると説かれているのも、この例にあるように、実際は苦根であると、いう。

「論。或彼苦根至而亦名憂 述曰。彼地獄等苦根。通能損身・心故。雖苦根攝而亦名憂」

 「論。如近分喜至具顯此義 述曰。初・二近分地中喜受益身・心故。雖喜根攝而亦名樂。此説在何處。顯揚第二論具説此義。謂彼論云。如經説所謂離生喜樂之所滋潤。乃至廣説。是謂初・二靜慮近分等。五十七・對法第七皆與彼同。故復言等。豈爲有樂言便近分有樂受 有亦何爽。」(『述記』第五末・九十五左。大正43・426c)

 (「述して曰く。初・二の近分地中の喜受は、身・心を益するが故に、喜根に摂すと雖も、而も亦、楽と名づく。此の説は何の処に在るとならば、顕揚の第二の論に具に此の義を説けり。謂く彼の論に云く、経に説くが如し。所謂る離生喜楽に滋潤する所なり、乃至広説す。是を初・二静慮の近分と謂う等といえり。五十七・対法の第七も皆彼と同じ、故に復、等と言う。豈楽の言有る為に便ち近分に楽受有りといわんや、有りというも亦何ぞ爽(とが)かなる。)

  •  離生喜楽 ー 色界の第四段階の静慮の初静慮のありよう。欲界の悪(我欲)を離れて生じた喜びと楽とを受けるありさま。
  •  滋潤(じじゅん) - うるおすこと。うるおし育てること。(「離生喜楽が其の身を滋潤す」)