万年青(おもと)の正月飾り
專立寺坊守 松尾教甫作
『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ
第二十五頌
「牟尼説法蘊 数有八十千 彼体語或名 此色行蘊摂」
(牟尼の説く法蘊は、数八十千有り。彼の体は語或は名にして、此れは色・行蘊の摂なり。)
- 法蘊 - 蘊は積聚の義、法に種々あるから法蘊という。「数八十千(八万四千)の法蘊は能く有貪と有瞋と有痴と等分との有情の行を治すが故なり。四種に、各、二万一千有り。」
(釈尊の説かれた法蘊は、その数、八万四千である。その体は語か或は名句文であるから、これは、若し語であるならば、色蘊の摂であり、若し名句文であるならば行蘊の摂である。)
- 名句分 - 名と句と文。不相応行に属するが、その存在性において、有部の教説では、名・句・文は、声とは別に実体として有るとする。しかし、唯識は、声の上の屈曲が名句文であり、声を離れて実体としてあるのではないと説く。 名とは最小単位の名詞などの言葉、句とは最小単位の言葉が連なってできる文章、文とは文章を構成する文字をいう。
第二十六頌
「有言諸法蘊 量如彼論説 或随蘊等言 如実行対治」
(有るが言く、諸々の法蘊は、量は彼の論に説くが如し、或は蘊等の言に随う、如実は行の対治なり。)
- 「彼論」 - 『法蘊足論』のこと。
- 行 - 貪・瞋等の煩悩は行蘊に摂められるので、煩悩の行が八万四千あるという。
法蘊の量は、有る人が言うには、『法蘊足論』に、六千頌有ると説かれているから、すべてが皆、六千頌だという、又、有る人が言うには、蘊とか処とかいう一々の法門を一々の法蘊という。しかし、真実は、貪瞋等の煩悩の行が八万有り、その八万の煩悩を対治する為に、釈尊は八万の法蘊を説かれたのである。
第二十七頌
「如是余蘊等 各随其所応 摂在前説中 応審観自相」
(是の如く、余の蘊等は、各々その所応に随って、前説の中に摂在す、応に審に自相を観ずべし。)
このように、種々の法門もそれぞれの所応に随って五蘊の中に摂まる。すみやかにその所を審に観察すべきである。
第二十八頌
「空界謂竅隙 伝説是明闇 識界有漏識 有情生所依」
(空界は謂く竅隙(きょうげき)なり、伝え説く是れ明闇と。識界は有漏の識なり、有情の生の所依なり。)
- 竅隙 - あな・すきまという意。「門・窓、及び口・鼻などの内外の竅隙を名づけて空界と為す。」
空界と識界について述べられています。空界とは、すべての間隙をいう。明闇という表現は、有部の教説では、空界の体は、昼は明、夜は闇であると説いています。しかし、経量部ではこれを仮法として別体なしといっています。世親の解釈は経量部の説に随って、「明闇」は「伝え説く」という二字をもって、こういう解釈もあるとして、配しています。空界は、界門では色界に摂められる。
識界は有漏界を指しています。六界は有情の生の所依であるから、有漏界というと説かれ、随って無漏界は識界とはいわない。
『倶舎論』 桜部 建著 p70より抜粋しますと、
「仏の教説を八万の法蘊というが、これは自性からすれば声(しょう)か名(みょう)かであって、五蘊の上でそれを見れば色蘊・行蘊に含まれる。その法蘊の量は『法蘊論』六千頌にひとしいともいい、五蘊・十二処から三十七道品・六通などに至るまでの一々の法門がすなわち一々の法蘊であるともされる。しかし、実は、有情の八万の所行に対して、その対治として八万の法蘊が説かれたのである。
その他の蘊・処・界、たとえば戒などの五蘊とか十遍処とか六十二界とか、もそれぞれ自相(自性)を考察すればみな五蘊・十二処・十八界の中のいずれかに含ましめらるべきである。それらのうち、空界とは虚空(無為法の一。法界に含まれる)ではなく明・闇であって色界に含まれる。識界とは七心界に属するすべての識ではなく有漏の識のみを意味する。というのは、この場合識とは有情の生のよりどころとなるものをいうのだからである。」
以上で、『倶舎論』巻第一の概略を終わります。ひきつづき、来週より、第四節 十八界の諸門分別に学びたいと思います。来週以降もお付き合いのほどよろしくお願いいたします。