唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『成唯識論講義』 唯識入門 第三回目骨子

2013-01-14 14:41:15 | 心の構造について

第三回、講義分骨子
 前回は、宗前敬叙分と『論』の分科について話しました。(『三十頌』は『二十論』が外境が実在する考えを破斥したのを受けて、唯識の教理を述べたものです。)
 分科について今一度整理をしますと、『三十頌』の構成は境・行・果と相・性・位と初・中・後について組織されています。境は対象、行は方法、果は結果。何を対象とするのか。そしてどのような方法で行ずるのか。その結果はどのようなものなのか、を明らかにすることに力点がおかれています。
 境 - 第一頌から第二十五頌
 行 - 第二十六頌から第二十九頌
 果 - 第三十頌
 この三分科をみてわかりますように、『三十頌』は教理に重点が置かれています。実践問題は『論』をみないとわかりませんが、第二十五頌の終わりのほうで 「是の如く成ぜられたる唯識の相と性とを、誰か幾ばくの位に於いて、如何が悟入するや」
と、これが実践問題になる問いです。
 「前の二十四頌は宗として識の相を明かす。即ちこれ依他なり。第二十五頌は唯識の性を明かす。即ち円成実なり。後の五頌は唯識の位を明かす」として、相・性・位の三分科が述べられます。
 そして前二十五頌が略説・広説に分けられ、初めの一頌半が略説唯識として、唯識の概略が説かれ、後の二十三頌半が広説として述べられています。第二十六頌から第三十頌までが行位として「後」ということになります。
 「此の三十頌を初・中・後に分かつ。初めの一頌半は略して心に離れて別の我・法無しと標して、以て論旨を彰して唯識の相を弁ず。次にある二十三頌半は、広く唯識の若しは相、若しは性を明かして諸諸の妨難を釈す。後の五頌は唯識の行位を明かす。」
 そして結論として、釈結施願分に「この論は三分として唯識を成立す。是の故に説いて成唯識論と為す」と述べられて、成唯識論は三分(初・中・後)として唯識を明らかにしているのである、と説明されています。『論』でも広・略ということで相、唯識の内容を明らかにしているのですが、『浄土論』も同様の形式をとっています。「広略相入」という、広説二十九句、摂めれば一法句に入る。一法句とは第一義諦、広説は妙境界相、「欲如実修行」という言葉でもって貫かれています。
 諸法は五蘊・十二処・十八界と差別されているが、性は円成実、法性は平等である、これを一頌で述べられています。相と性は別々のものではなく、離れては存在しないことを暗示しているのですね。超越的内在と言っていいのかもしれません。
 宗前敬叙分、宗の前に敬叙し造論の意趣を述べる部分になります。敬と叙の二つに分けられています。敬は序文(帰敬序)、「叙」は発起序になります。敬は敬礼(きょうらい)、「唯識の性に於いて満に分に清浄なるもの」に対して三業(身・口・意)を以て礼拝、帰命する。ここが帰敬序になります。三業ということですが、特に「意」、意思ですね。この意思から身体的行為と言語的行為が生起してくるのです。意思の働きによって礼拝という行為が行われてくる。
 「満」とは真如を悟ったもの
 「分」とは『述記』に「世親は地前の菩薩なりといえども、唯識性に於いて決定して信解したまえり、未だ真を証せずと雖も、また随って修学し、分に所得あるが故に、分清浄者と名づく」と述べられており、「分に所得有るが故に」という意義において分清浄者、この「満と分において清浄なる者を稽首す」。信解ということですが、勝解ということ、信が決定されている状態をいいます。教えを信じ理解して行じていく意欲。
 そして次の二句が発起序になります。「我今彼の説を釈して、諸の有情を利楽せん」(私は、『唯識三十頌』を解釈して、あらゆる情識を有する有情を利益し安楽を与えたい)という菩薩の願が述べられる。
 『経』『論』を解釈するということは、個人の事情によるものではなく、「諸の有情を利楽」せんが為であるということですね。「諸の有情」というのは人・法二空に於いて迷謬(メイビュウ・メイミョウ)するものであると、先ず知っておいてください。有情satta薩埵と音写されています。二つの解釈があり、法性を有するもの。情と識を有するもの、感情と認識という心を有するもの、人・数取趣(シュシュシュ)・補特伽羅と訳される。
 次から、造論の主旨が述べられます。ここに安慧と火弁と護法の三説が挙げられる。
 第一が安慧の説が述べられる。
二の重障とは煩悩障と所知障、二の勝果とは涅槃と菩提。我執によって煩悩障が起こり、法執によって所知障が起こる、反対に我空によって涅槃を得、法空によって菩提を得ることができる。「悟断得果の解」を以て『論』を造るのである、という解釈になります。この解釈は『論』を解釈する全体像を示している。
 少し詳しくみていきます。
 「今此の論を造せしことは二空の於に迷謬有る者に正解を生ぜしめんが為の故なり。」
 「述して曰く。下は論を造ることは、悟と断と得果となることを顕す。」この科段は初の悟を顕す。
 悟 - 二空(我空・法空)
 断 - 二重障(煩悩障・所知障)・二障(我執・法執)
 果 - 二勝果(涅槃・菩提)
 この悟・断・果といっているのは、大乗の智慧によって、大乗の障を否定して、大乗の果を得ることを顕し、大乗全体を包んでいる。
 先ず、我空・法空に於いて、これが悟りになるわけです。二空から始まります。二空がスタートになり、これに迷謬せる者に、正解を生ぜしめることが目的になります。二空がスタートになるといいましたが、二空が本来の私たちの姿をあらわしているのです。しかし私たちは本来を顛倒して、我・法を執して迷謬しているのです。簡単にいうと、迷は無明、謬は疑惑になりますが、『述記』には「一切の異生と外道は、二空に於いて全く解了せざるを名づけて迷者と為し、声聞・独覚及び悪取空のみには空理を邪解し、分に智有る(我空は知っているが、法空を知らない、謬って理解している)が故に、名づけて謬者と為す。不解と邪解のひとを合して迷謬と名づけ、或は但だ不解の無明を迷と名づけ、若しは不正解の邪見を謬と名づけ、痴と邪見との人を迷謬者と名づく。」
 この迷謬する者に正しい理解を生ぜしめるためというのが造論の趣旨です。正解については、「正は、謬を除く。解とは、迷を除く」。『述記』には「迷者には解を生じ、謬者には正解せしむるなり。」それではなぜ迷謬するのかといいますと、次に出てきます文章です。
 「解を生ぜしむることは二の重障を断ぜしめんが為の故なり。」
 我空・法空を正しく理解すると、二の重障(苦悩の世界)が断ぜしめられる(脱することが出来る)と述べられています。
 二の重障とは、煩悩障と所知障ですね。では、何故このような二の重障が生ずるのかということですね。ここで我執・法執が問題とされまする。
 「我・法と執するに由って二の障具に生ず。」
 「執」が「障」の根なのです。我と法との執に由って縛られる。
 『述記』に、「煩悩障は品類衆多なれば、我執を根と為す。諸の煩悩を生ず。若し我と執せざれば、煩悩無きが故に。無我の理を証するときは、我見便ち除く。根断するに由るが故に。此れは見道と及び究竟位との煩悩を断ずるに依って説く。」
 「所知障の中には、類亦た非一なれば、法執を本と為して、余障生ずることを得。法空を証する時に、法執便ち断ず。根断するを以ての故に。」
 実我・実法があるという思いですね。実は実体化で、現実に永久不変に存在するものである執着をおこすわけです。この執着に由って二の障が生ずるということなのですね。我執・法執です。厳密には倶生我執と分別我執、倶生法執と分別法執とに分けられますが、これは後に出てきますので、今は省略します。しかし特に大事なところですので、しっかりと覚えておいてください。
 二の障が「安楽解脱身 大牟尼なるを法と名づく」という、仏法からいただく救済を妨げているのですね。倶生とは「恒に身と倶なり」、身とともに有るもの、命を授かったと同時に我執・法執は身とともに有るということなのです。仏法は心の問題ということに変わりはないのですが、もっと深いところに身の問題があるということを教えています。ですから救済は心の救済ではありますが、身の救済でもあるわけです。身が安楽である、楽は身体の問題であるのです。安楽とですね、染汚性もともに合わせ持っているということに注目しておきたいところです。
 「若し二空を証しぬるときは、彼の障も随って断じ、障を断ずれば二の勝果を得んが為の故に」
 正解を以て勝果を得る、正解を生ずることにおいて、二の重障を断じ、二の重障を断ずることにおいて二の勝果(真解脱と大菩提)を得る、これが『三十頌』制作の意図になるわけです。障の根が執ということになります。執を破ってくる働きが二空です。本来性です。本来性に背いているのが執ということですから、執するものなく執しているということなのです。破って空ではなく、本来空なのです。こういうことがはっきりしないものですから、理性というものを生きることの基盤に置いているわけです。理性が絶対化になる、だから理性がゆきづまると生きることもまたゆきづまるわけです。だから理性は考えられたもの、生きるということは本来性を生きているものですから、ここに顛倒がおこっているのです。理性に執着する、執着が障を引き起こしてくる。こうであらねばならない、こうあるべきだという実我・実法に縛られて、煩悩障・所知障という二の重障が生じてくるのです。私たちが何故あるがままに生きることができないのかという構造が、まずはじめに大前提として提起されていることになります。