第二の解釈。
「又彼の苦根の意識と倶なるは、是れ余の憂の類なるをもって、仮って説いて憂と為せり」(『論』第五・二十五左)
(地獄において苦根が第六意識と相応する場合は、他の雑受処である餓鬼・畜生界や人天の憂根と似ているので、これを仮に憂受と説いているにすぎなく、実際は憂受ではない。)
「論。又彼苦根至假説爲憂 述曰。彼地獄等苦根。意識倶者。與餘雜受處・及人天中憂根相似。亦在意識逼迫受故。説彼苦根爲憂。實非憂受 問若爾第三定樂。似餘地意識中喜。應名喜根。爲決此疑更今應解。」(『述記』第五末・九十五左)
(「述して曰く。地獄等の苦根の意識と倶なる者は、余の雑受処と及び人・天の中の憂根と相似せり。亦意識に在って逼迫受なるが故に、地獄の苦根を説いて憂と為す。実には憂受には非ず」
問。若し爾らば、第三定の楽は、余地の意識の中の喜に似たれば応に喜根と名づく。此の疑を決せんが為に更に今解すべし。)
地獄において相応するのは、第六意識に在っては逼迫受であるといわれますが、逼迫受の説明のところでは、「第六意識と倶である逼迫受で地獄の中のものをただ苦受という、なぜなら地獄は純受であり、尤重であり、無分別だからである」、と説かれていました。ここの解釈では第六意識と倶である逼迫受は人天の中ではつねに憂受といい、餓鬼界と畜生界では憂受とも苦受ともいうことに似ているので、憂受というにすぎなく、仮に憂受というのあって、実には憂受ではない、というのが第二の解釈です。
第三の解釈
「或いは彼の苦根は、身心を損するが故に苦根に摂められると雖も、而も亦は憂と名づく」(『論』第五・二十五左)
(「彼の地獄等の苦根は通じて能く逼迫して身・心を損ずるが故に、苦根に摂すと雖も而も亦憂と名づく」(『述記』)と述べられているように、地獄の第六意識の苦受は、身心を損悩するので、苦受といわれ、苦根に摂められるのですが、また憂受ともいわれるのであって、実に憂根ではない、ということでが第三の解釈になります。 (つづく)