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消せない汚れ

私は信じていました。必ず仏様が自分に一番あった場所に導いてくれることを。そしてそこで今まで培った実力を100パーセント発揮して活躍できることを。
「これまで真面目に仏様に仕えてきたのだからきっと道は開ける」

私の兄弟子がこんな話をしてくれました。淡路島のあるお寺を復興された住職の有名な話ですがその住職は修行を大切にしていて来る日も来る日もお寺の為に一心に祈って護摩を焚いていたそうです。しかしお寺は復興どころかひもじくなるばかり。いったいこれだけ真剣に拝んでいるのにこの世に仏はいないのか。
もう心のどこかが切れてしまった住職は仏具をほおりだして投げつけて仏様に「やってられない」と怒鳴りつけたそうです。ふてくされてその日から「どうにでもなれ」と投げやりになったそうですが・・・・。

普通ここで罰当たりなことをしたからもうダメだろうと思われがちなのですか、その日を境にお寺の運気が好転して沢山の人の支援をうけて立派なお寺へと復興されたとのこと。

ん~。なんだか為になるようなならないような話だなーと私はその時に聞いていました。
でもこうしてお寺を辞めた時のことを振り返ると私にはそんな綺麗でない。ブサイクで恰好悪い投げやりな思いがよーくわかるのです。
頭の中が「お花畑」のような楽観思考は誰でももちがちです。まるでドラマやアニメのように最後はハッピーエンドみたいに気持ちよく終わるストーリー。どこか自分がヒーローのようになんでもできるかもしれないと脳が勝手に不安視をさせないためにインプリントするみたいに。

現実はどうでしょう。皆さんおわかりのようにそんなに甘くはありません。社会は厳しいのです。最終的には自分自身しか頼れない。それが本当なのです。

私のお寺生活での最後はけっして17年も働いてきた終わりとしてはそれに見合うものではありませんでした。
「こんな終わり方でいいのか。あれだけ命を懸けて勤めてきたのに。こんなにあっさりと、はい終わりですみたいに。感動や達成感もない」

私はお寺という山を下りました。もう二度とここには戻らない、そんな下り方でした。
信じた道はお師匠さんには認めてもらえませんでした。
「私は裏切ったのだろうか。最低な弟子だ」
そんな思いは今でも持ち続けています。

「北の国」からの名ゼリフ。「人間は生きていれば石けんではけせない汚れをだれもがもつものだ」

私の衣は汚れてボロボロでどうしようもないかもしれません。だからいつでも自分がけっして素晴らしいとは思えないのです。まわりから褒められたとしても心の中の虚しさは消すことができません。
結局、自分はこのような生き方しかできない人間なのだと思います。

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