非国民通信

ノーモア・コイズミ

ミソジニストの沈黙

2021-02-14 22:02:23 | 社会

恨み節残し途中退席、森会長「意図的な報道があった」(読売新聞)

 東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(83)が12日、辞任を表明した。発足以来、大会の運営組織を率いてきたが、女性に対する不適切な発言で表舞台を去ることに。後任を巡る混乱も起きており、大会関係者からは「早く騒動を収めて」との声が上がった。

(中略)

 「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」。辞任の引き金になった3日の会合での発言については、「女性を蔑視する気持ちは毛頭ない」と強調。「女性をできるだけたたえ、男性より発言してもらえるよう絶えず、すすめてきた」と主張し、「多少、意図的な報道があった」などと不満も口にした。

 

 さて森喜朗が女性蔑視発言を取り沙汰されて組織委の会長を辞任するに至りました。発言の内容自体に擁護の余地はありませんけれど、辞任にまで追い詰められたことには少し同情しないでもありません。何しろ、このレベルの妄言なら別に珍しくないですから。

 特定の人々を蔑み、貶めるような暴論なら、普通に有力政治家の口から聞かされてきたはずです。この程度の発言で辞任しなければならないようであったなら、石原慎太郎が首都の知事になることはなかった、麻生太郎はとっくに政界を退いていた、トランプだって共和党の予備選で早期に撤退していたことでしょう。政治家の妄言は別に珍しいことではありません。それが失脚に繋がることが珍しいのです。

 問題発言として報道されたとき、多くは「発言が誤解された」「真意が伝わらなかった」そして森氏が言うように「意図的な報道があった」みたいな弁明が行われます。総じて政治家の問題発言とは自身の真意が伝わったからこそ問題視されるものですが、一方で擁護の声を聞かされることも少なくありません。発言を批判する側は曲解している、メディアの偏向報道である云々…… しかし森氏に関して擁護の声はほぼ聞こえないわけです。

参考、ヘイトの町・小田原

 かつて小田原市役所では2007年から2017年にかけて、生活保護受給者を罵倒する文面の入ったグッズを職員が作成、市役所内部で頒布や販売を行っていました。10年に及ぶ地道なヘイト活動の結果として全国紙で報道されるに至ったのですが、それに対する批判もあれば、同数に近い擁護の意見も寄せられたことが伝えられています。世の中、そういうものではないでしょうか。

参考、賛同者も多いようではありますが

 あるいは公立福生病院で医師が透析患者に治療中止を促し、死亡者を続出させていたなんて事もありました。背景には医師の思想信条があり、「人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」などと主張した日本維新の会の某公認候補を彷彿とさせるものでしたが、やはり意思を擁護する声も多かった、治療中止を正当化する超理論を展開する人も目立ったわけです。

 ……こうしたことを思えば、森"元"会長だってもう少し擁護されても良さそうな気がします。なぜ森氏ばかりが批判されるのか、発言の中身がどうしようもないことについては異論がないかも知れません。しかし、どんな妄言、暴論、ヘイトスピーチにだって支持者はいた、賛同者も多く、批判に負けないだけの擁護者もいました。それなのにどうして森氏にだけは味方がいないのでしょう?

 まぁ総理大臣在籍期間中には記録的な低支持率を残すなど、元から不人気な人ではありました。そんな不人気でも要職を渡り歩くあたり、国民から不人気なだけで政界やスポーツ関係の理事会に所属する人々の間では、何かしら支持を得るものを持っていたのであろうと推測されます。国民が政治家を判断するのとは別の基準で、高く評価されてきたに違いありません。国民とは別の基準で、ですね。

参考、厳罰化を求める世論>反中感情

 10年余り前、中国で日本人4名に対する死刑が執行されたことがありました。容疑は麻薬の密輸と言うことでしたが、これに対する日本側の反応が専ら中国政府による執行に肯定的なものであったことを覚えています。当時も今も変わらず反中感情の強い日本ですが、それ以上に厳罰志向が強く、死刑制度への信頼感が高いことが要因でしょうか。

 右派の著名人でこれを批判したのは櫻井よしこくらいで、いつ何時であろうと中国のやることに批判的であるという点で一貫性を見せた人は少なく、排外主義者の多くはこの問題では沈黙を守ったと言えます。中国に対する敵意よりも、犯罪容疑者へ厳罰を与えること、毅然として死刑を執行する姿勢への賛同が優った結果と判断するほかありません。

 森喜朗と同じような女性観を持っている人は、本当は多いはずです。だからこそ組織委も男性中心で運営されてきた、今回のような発言も人目を憚らず口にされたわけです。それでも森氏への賛同者が表に出てこないのは、かつて中国への反発感情を死刑への賛同意識が上回った時と同じようなものだと言えます。森の不人気は、ミソジニーを超克した、と。

 結局のところ、誰もが泥船から逃げ出す機会を窺っていたとも言えます。何事もなければ森喜朗体制の下、昨年の段階で終わっていたはずのオリンピックも、新型コロナウィルスの感染拡大状況を鑑みるに今となっては無茶な話でしかありません。ナショナリズムの祭典への熱気を維持できなくなった人も少なくない、スポンサー企業も協賛金の支払いをダラダラと続けたくはないでしょう。

 そこへ来て今回の件は、引き際を見計らっていた人々にとって好都合だったはずです。撤退の大義名分として森氏の発言は十分に「使える」ものでした。ファンの多い政治家は問題発言があっても無理筋の擁護をしてくれる人が少なくありませんが、森氏のファンは国民の間に少なく、オリンピック熱もすっかり冷めたところ、かくして森氏は引責へ。でも他の妄言政治家の存在を思えば、自分ばかりが詰られることへの恨み節くらいは許されても良さそうな気がしますね。

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1 コメント

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Unknown (あああ)
2021-02-21 01:12:38
流石ですな。
腑に落ちました。

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