非国民通信

ノーモア・コイズミ

他人の犠牲を善行に見せるには

2008-05-25 20:09:46 | 非国民通信社社説

 色々なところで、ものの順序が入れ替わることがあります。主客転倒とも言いましょうか。例えば、あの光市母子殺害事件の判決にもそれが見られました、従来は「他に方法がない場合に限り死刑にする」のが順序でしたが、それが「死刑を回避する理由がない限り死刑にする」との宣言があったわけです。あの裁判での最大の転換はここにあるように思ったわけですが、往々にしてこの入れ替わりは自覚されないまま行われてしまうものです。

 さて、「トリアージ」なる概念があります。まぁ災害医療現場など制約のある状況下で、最善の結果に繋げるべく患者を選別することですね。別に目新しいものでも何でもありませんが、これを得々として語る人がいたわけです、経営学の分野で。それにツッコミを入れているのが↓こちら↓です。

あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 ―(元)登校拒否系

 要約すれば、権力の側から一方的に人を選別する「トリアージ」の欺瞞と「トリアージ」という言葉によってその選別を正当化しようとする論者の欺瞞を指摘するものです。色々な意味で「わかっていない」コメントが殺到していますが、リンク先のエントリ本文は是非お読みいただければと思います。

 このトリアージ――選別するのは常に権力の側であり、それが災害医療現場であれば、患者の側に選別の権利はありません。勿論、専門家が適正な基準で誤りなく判断を下せば、その選別によって助かる命の単純な数が選別しなかった場合のそれを上回る可能性はあります。ともすると残酷に思えるこの選別行為が、大局的に見ればより多くの人を救う行為であるとしてトリアージを推奨、支持する人もいるわけです。

 ところが、物事も順序が容易く入れ替わる、主客転倒が常であるこの社会でトリアージの概念が本来の域を超えて幅を利かせるとどうなるのでしょうか? つまり、本来トリアージの「主」たる目的としては「助かる人を最大にする」ことがあり、その「従」たる手段として「助けられない人は捨てる」という選別があったわけです。そしてトリアージにおいてこの2つは不可分であり、「主」のあるところには必ず「従」が付随します。「助かる人を最大にする」ために「助けられない人を捨てる」行為と組になっているのがトリアージなのですが、これが転倒すると?(「助けられる/助けられない」の判断が誤っている可能性は留保しますが、この段階で誤っている可能性が常に存在することは念頭に置いておいてください)

 つまり「助かる人を最大にする」選択と「助けられない人を捨てる」選択はトリアージにおいて同時に現れるもので、片方があればもう片方もあると、そう類推されるものでもあります。「助かる人を最大にする」以上は「助けられない人を捨てる」選択も当然あるだろう、と。ではその逆、「助けられない人を捨てる」選択がそこにあった場合は? 多くの人はそこに「助かる人を最大にする」選択も同時にあるのだろうと信じます。信じますが、果たしてそうかな?と。

 AならばBである、しかしBならばAである、そうは限らないわけです。クマならば哺乳類ですが、哺乳類ならばクマという訳ではありません。ですから「助かる人を最大にする」選択が「助けられない人を捨てる」選択を常に伴うとしても、「助けられない人を捨てる」選択が「助かる人を最大にする」ことに結びつくとは限らないわけです。なのですが、この一方通行の関係を理解せず、主客転倒したままトリアージの論理を拡大させていくと「助けられない人を捨てる」ことこそが「助かる人を最大にする」ことであり、往々にしてそれが最善だと言うことになってしまいます。そして「助けられない人を捨てる」人は「助かる人を最大にする」ヒーローとして想起されるようになる、と。

 このヒーローとは、小泉純一郎や竹中平蔵であり、橋下徹でもあります。つまり彼らは「助けられない人を捨てる」行為に邁進してきた、邁進しているわけですが、その支持者から見ればそのトリアージは「助かる人を最大にする」ための積極的な善行なのです。一方でその選別に反対する人や手を緩める人は「助かる人を最大にする」ことを阻む抵抗勢力であり害悪と、そう位置づけられもします。そしてここで求められている「主」は「助けられない人を捨てる」ことの方にあり、いかに人を選別し切り捨てていくかが追求され、いかに人が選別され切り捨てられたか、その被害の度合いが大きければ大きいほど、「助かる人を最大にする」ための改革は進んでいるとしてヒーローへの支持は高まるのです。

 災害医療現場においては、その選別が最善である場合もあるのかも知れませんが、それが社会的トリアージ、政治的トリアージとなると話は別で、大半の場合は誤った基準でトリアージが行われます。まず危機を煽り、それが災害救助現場と同様の非常事態であるかのように錯覚させることから始まり、その非常事態において「助かる人を最大にする」ために「助けられない人を捨てる」選択を受け容れるよう迫るわけですが、それが抵抗なく犠牲を強いることに寄与することはあっても、犠牲に見合う対価が得られたことなどなかったでしょう? もたらされたのは犠牲だけです。

 「助かる人を最大にする」ために犠牲になれと迫る、これは純然たる脅迫ですが、より多くの人を助けるという大義名分がそれを正当化します。そしてこの脅迫が発生したとき、トリアージの考え方を内面化している人々は「助けられない人を捨てる」ことを善行として讃え、その脅迫に抗う人々を「助かる人を最大にする」ために殺そうとするわけです。かくして「助けられない人を捨てる」ことは多数の支持を獲得し、それに異議を唱える人は抹殺されてゆくわけですが、そこで「助かる人を最大に」出来たかどうかは往々にして問われません。「助けられない人を捨て」たのだから、もう片方の対も為されているに違いないと、そう確信されて終わりです。

 トリアージが成り立つためには、本当に限定された緊急事態であり他に選択肢がないことが一つの条件として必要です。ところが社会/政治の分野では、あるいは雇用や福祉などの分野では、危機でもないのに危機を煽ることでトリアージを迫る発想が幅を利かせています。これは死刑判決を巡る消極的選択と積極的な選択と同様で、全員を助けることが出来ず他に方法がないからトリアージを行うのではなく、トリアージを回避する特別な理由がない限りはトリアージを行うもので、この両者には決定的な違いがあるはずです。そして今、広汎に選択されているのは後者だとしたら?

 危機を理由に、そして危機の中で「助かる人を最大にする」口実で、誰か/何かを切り捨てることが常態化しています。そしてそれは、犠牲を迫られる側の人々からこそ強く支持されてすらいます。権力の側にとって目的は「切り捨てる」ことそのものであるにしても、トリアージを信奉する被支配者はその「切り捨てる」行為を「助かる人を最大にする」ものと信じていますし、時には被支配者の側からそれを要求することすらあります。トリアージを信奉する被支配者はそれが「助かる人を最大にする」ことと同義と確信して「助けられない人を捨てる」ことを要求し、権力がそれに追随する場合すらあるほどです。

 繰り返しになりますが「助けられない人を捨て」れば「助かる人を最大に」出来るとは限らないのですが、クマならば哺乳類であり、哺乳類ならクマであると信じる人もいるものです。そして「助けられない人を捨て」れば「助かる人を最大に」出来るとの盲信もまた根深く、この場合は選別すること自体が目的となり、選別することこそが正義にすらなります。かくして(結果としてそうなったのではなく)積極的な判断の結果として国民なり住民なりに負担や犠牲を強いれば強いるほど、「助かる人を最大にする」英雄として祭り上げられる、それが小泉であったり、橋下であるわけです。

 (元)登校拒否系の常野氏はこのトリアージの概念を乱用し、切り捨てられる側の犠牲を当然のことであるかのごとく印象づけようとする人々に警鐘を鳴らします。一方で、こうした犠牲を強いる論理を当然と思いこんでいる人、他人に犠牲を強いることを好ましく思っている人、それへの異論を感情論と呼んで黙殺しようとする人は、この肥大化したトリアージへの異議を拒絶します。それが色々な意味で「わかっていない」コメントにつながるわけですが、その辺の人の論法は例によって似たり寄ったり、災害医療現場などの本当の緊急事態で「上手くいった(と、思われている)」ケースを想定してトリアージの有効性と必要性を説くわけです。

 もちろん、本来使うべきでない領域に拡張されたトリアージの概念を批判しているエントリに対し、偶々トリアージの概念が上手く当て嵌まったケース(本来の場面で使われたケース)を持ち出されても意味がないと言いますか、何の反論にもなり得ていません。ストライクゾーンに投げることすら出来ないのなら、勝負にすらなりませんよね? それでもなお、本文とは無関係なトリアージの有効性なり必要性を持ち出して、それが危機的状況でも何でもない政治や社会に対しても必然であるかのごとく語る欺瞞の多さに、人を切り捨てることへの強い欲望を感じないではいられないのです。

 

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参考、
「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か ― 過ぎ去ろうとしない過去


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8 コメント

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難しい問題ですね。 (単純な者)
2008-05-26 12:53:39
こんにちは。

「トリアージ」緊急的な災害医療現場など制約のある状況下で、最善の結果に繋げるべく患者を選別すること。

極めて難しい概念とその説明に取り組まれているのでじっくりと読ましていただきました。問題意識の所在にもおおむね賛同させていただきます。

見捨てられる側の患者サイドにとれば極めて納得が出来にくい考え方とは思います。しかし限定的な機材・医療スタッフをより有効に配置して救える可能性という判断を優先した方が良い。これを政党に成立させるためには事前に十分な議論をして備えが必要です。それでも難しいと考えさせられました。

米国の人気テレビ映画で手術中の他の患者に施術中の医療チームをストップさせて大統領暗殺テロの秘密を持つ搬入した重傷の容疑者の手術に強引に振り替えさせたのを覚えています。

この例は脚本が作りだしたお話しですが、医療でさえも資金力・情報力・外的な強権力・情実等などがその判断に大きな影響力を与えていることを一部想像させるものなんでしょう。

しかも医療器材や薬品や医療スタッフの配置・転用という上部機関の意志決定というのもあり如何様にも力の入れ方・抜き方もあるものなのです。情報力の偏在にはとくに入念に意を尽くすシステムを用意しないと
せっかくの努力がいたずらに混乱を招きそうです。

それを更にこの概念を援用して「社会/政治の分野」にも適用させるというのは仰るようにほとんど無茶な話しか冗談話しですよね。情報リテラルシーひとつとっても、今は未だ少数の上部に・・官僚組織などに隠されていて、それを大多数が無意識の中に諦めた形の社会を構成しているわけなんですからね。

本当にそんないたずら話で盛り上がっているところがあるとするとビックリです。

では。

発話の心理には (kuroneko)
2008-05-26 14:07:18
「冷徹なわたし」ってブリッコしたい欲望もありそうですね。
Unknown (Bill McCreary)
2008-05-26 22:56:31
トリアージというのは、究極の場面でのみ採用する概念であって、けっして乱用してはいけないんですよね。つきすすめば、容易に「社会に不要な連中は抹殺せよ」みたいな概念になってしまいますから。

仮に、災害現場でも、医者と看護婦その他の条件が完備していればトリアージなんて採用すべきではないし、採用するとしたら一生の禍根の思いを関係者の方は持っていただきたいと思います。

さて、小泉とか竹中とか橋下とかいう人たちは、あるいは死ぬまで切り捨てられる側にはならないのかもしれませんが、なぜか今現在切り捨てられっている側なのに、自分はそうでないと勘違いしているのかどうか知りませんが、小泉らを支持している頭の悪い人たちが少なくありません。なぜでしょうか。
Unknown (非国民通信管理人)
2008-05-26 23:21:12
>単純な者さん

 なるほど、医療の現場に限定してみても(それがドラマの脚本であっても)、権力側の一方的な意思で選別が行われ、それが全体にとってのプラスだと描き出されてしまうことは大いにありますね。どこにいても政治や権力とは無関係ではいられないのなら、なおさら運用には配慮が必要であり、やむを得ない選択として行われるべきだと思うのですが、それを拡大解釈、肥大化させようとしている人もいます。無邪気というか、無思慮と言いますか……

>kuronekoさん

 端的に言い切ってしまうと、それも大きいでしょうね。自分は感情に流されず冷徹に物事を判断しているのだと、そう信じている人はこの選別の論理に嵌りやすい、と。

>Bill McCrearyさん

 そう、条件が揃っていれば全員を救うのが当然の理想であって、それが不可能になるやむを得ない事情がある場合の消去法の選択が元来のトリアージだったはず、それを肯定的に、積極的に広げようとする発想は排除の理念でしかないですよね。ところがその排除の理論の犠牲者にも排除の理論の支持者が多いわけで、どうも現実を直視できていないとしか……
Unknown (kama)
2008-05-27 19:15:38
この件に関して色々ブログを読んだんですが、阪神大震災の現場で否応なく「トリアージ」を体験された(らしい)この医師の方の言葉が一番正鵠を射ているかと
http://childdoc.exblog.jp/7140736
Unknown (非国民通信管理人)
2008-05-27 23:35:32
>kamaさん

 興味深い記事の御紹介をありがとうございます。全員を救いたくとも、それができないからやむを得ずトリアージに至った現場の感覚と、積極的にトリアージを推奨する立場、その両者の違いがより鮮明に認識できるような気がしました。
Unknown (ruru)
2008-05-28 01:54:12
まだまだ一般に知れ渡っているとは言いがたい、これから普及させていく制度について、過信や誤用に警鐘を鳴らすことは必要なことだと思います。
しかし、その制度を普及させることそのものについて欺瞞と吐いて捨てるのはいかがなものなのでしょうか。

社会的トリアージ、政治的トリアージといった言葉を使っているところから、まるでトリアージが災害現場以外の場所で乱用されているような口ぶりですが、具体的にどのような事例を指して「危険だ、欺瞞だ」とおっしゃっているのでしょうか?

というかそもそも、
>自分は感情に流されず冷徹に物事を判断しているのだと、そう信じている人はこの選別の論理に嵌りやすい、と。

この一文からして、トリアージが何故必要とされているのか、本当に理解しているのか正直疑問なんですが・・・
冷静に判断できない、そもそもそんな知識がない人にでも、ガイドラインを設けることでなるべく合理的で客観的な判断を下すことができる、そのための制度なんですよ?
自分の判断に自身のない人ほど、この制度は助かると思うのが普通だと思うのですが。
Unknown (非国民通信管理人)
2008-05-28 23:15:39
>ruruさん

 >具体的にどのような事例を指して~

 本文中で例示されたような事例を指して危険性を明らかにしております。

 >冷静に判断できない、そもそもそんな知識がない人にでも~

 ruruさんのようにトリアージの概念を曲解されている方が多いわけですが、そのような誤った理解の元でトリアージを広めようという発想が危険なのです。

 >自分の判断に自身のない人ほど、この制度は助かると思うのが普通だと思うのですが。

 ではruruさんのように自分は正しいと信じ込んでいる人には無用の長物と言うことになりますね。

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