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不沈のサムと「シルバーサイズ」のアドミラル〜潜水艦ペット事情

2023-01-30 | 海軍

今日は、「シルバーサイズ」シリーズのちょっとした息抜きというか、
潜水艦などで飼われていたペットについて紹介があったので、
船のジンクスと共にこれをご紹介します。


潜水艦の乗組員は(その任務上当然かと思いますが)
「シルバーサイズ」の布袋さんの像のように、ジンクスを担ぎがちでした。

元々船は何かと担ぐ場面が多い乗り物です。
昔から言われる「7つの船の迷信」とは、

1、船に女性を乗せると不吉

このため船乗りたちは航海中は実際の女性を「諦め」、
船に女性のお守りをつけたり、裸体の女性画を飾ったりした。

2、進水式と命名式の神話

古来船の進水と命名には生贄を捧げていたが、
それがいつの間にか血の代わりにワインとなり、
現在ではシャンパンの瓶を割ることになっている。
この時瓶がうまく艦体で割れないと縁起が悪いと言われる。

3、金曜日に出港すると縁起が悪い


キリストが磔にされたのが金曜日だったから。
今ではそんなことわざはどこにも残っていません。

4、船上で口笛を吹いてはいけない

船上で口笛を吹くと嵐を呼び、手を叩くと雷を呼ぶ。

5、船の幽霊と呪い

船で命を落とした人がいるとその魂が留まって、
霊魂が事故や災難を起こす呪いをかける

6、バナナを船に積むと縁起が悪い

1700年代、バナナを積んだ船のほとんどが海上に姿を消し、
目的地にたどり着けなかったことから、
バナナは船にとって不吉なものと考えられていた。

また、船に積んだバナナはすぐに発酵して有毒ガスが発生し、
船乗りの命を奪うという説もある。
さらに、ある種の毒蜘蛛がバナナの房に潜んでいて、
それに刺されて多くの船員が死んだという説もあり、
船にバナナを積むのは縁起が悪いという迷信を強めている。

7、船の禁句

海運の初期から、「さようなら」「溺れる」などの言葉は
船上では使わないこととされていた。
また、「グッドラック」という言葉は不吉をもたらすと考えられていたため、
船員は口にすることができなかったという奇妙な説もある。

万が一、「グッドラック」と言われた場合、その不幸を覆すには、
素早くパンチを繰り出して(相手の)血を抜くしかなかった。


「グッドラック」と何気なく励ましたら、
いきなりゲンコツが飛んできて血を噴かされたら、
本当にたまったものではありませんね。

バナナを乗せない船はもうないでしょうし、
金曜日に出港するなと言われても、戦争中では
そんなこと気にしている場合ではなかったでしょう。


また、ジンクスや「縁起物」は、
その船ごとに伝統的に決まっていた例もあります。

ちなみに、第二次大戦の潜水艦で実際に担がれていた例としては、
USS「フライヤー」ではコーヒーは絶対にヒルズブラザーズ一択でしたし、


USS「レクイン」(ピッツバーグで今回見てきたあれです)では、
ピーナツバターはピーターパンでないとダメ、とかがありました。


ソントンじゃダメなのか

■潜水艦とお守りとしてのペット

かつてこのブログでも戦争と動物というシリーズで紹介しましたが、
そのジンクスの一つに動物があり、
潜水艦にはしばしば動物が持ち込まれました。

「軍艦猫」として最も歴史的に有名だったのが、
かつてこのブログでも紹介したことがある、
「アンシンカブル(不沈の)サム」
と呼ばれた白黒のハチワレ猫に違いありません。

World Of Warships - Head Over Keels: Unsinkable Sam 

しかし、ご覧になるとお分かりですが、
「不沈のサム」は船のお守りなどになっておらず、
むしろ彼が乗った船は3隻沈んだわけですから、
最後にはセイラーの間ですっかり怖がられてしまっています。




「シルバーサイズ」と同じ潜水艦USS「シラーゴ」SS-485では、
ハチワレの猫を飼っていたようです。
ちゃんと専用の救命ジャケットも作ってもらっていますね。
ジャケットには彼の「マックス」という名前が書かれています。

特に猫は、古来より「船のお守り」とされてきたので、
ジンクスを何かと担ぎがちなサブマリナーにとって、
ペットというより「守り神」的な意味があったようですが、
(結果的に不沈のサムことオスカーは別ね)

潜水艦に連れ込まれる方もいい迷惑ですが、
ご利益があったのか、「シラーゴ」は無事戦後を迎えました。

古来より、猫は船のラッキーシンボルとされ、
厄除けや幸運をもたらすとされてきましたが、
より実際的な理由としてはネズミの発生を抑えるためでした。

黒死病の発生には、船内のネズミが原因とされていました。

現在のアメリカ海軍は条件付きで船猫を許可しています。
まず第一に、その猫がすべての予防接種を終えていること。
次に、艦内の獣医治療施設に登録されていること。
そして最後に、指揮官がその猫を承認していること。

艦長が猫嫌いだったらアウトって話ですか。

これらの条件をすべて満たせば、艦猫は米海軍の艦艇に大歓迎されます。

最も海軍の船と一言で行っても大きさも機能も様々で、
ペットを飼えるスペースがある船もあれば、そうでない船もあるので、
この質問に対する明確な答えはありません。

ただ、言えるのは、艦内でペットを飼っている人は、
確実に海軍の規則には反しているということです。



というわけで、現在アメリカ海軍では猫を配備していませんが、
第二次世界大戦中は、猫を潜水艦に正式に「装備」しました。

もちろん任務は潜水艦の中をパトロールしてネズミを獲ることです。
猫がいないと、ネズミが食糧を食い荒らし、ロープを噛み切り、
船内に病気を蔓延させる可能性があるので切実だったのです。

現在、海軍の船に猫を乗せることは無くなりました。

現代の海軍の船には、すべての人員の動きを追跡する
高度な生体認証セキュリティシステムを搭載していて、
すべての乗員が記録されているのですが、猫を承認しない限り、
緊急時に猫の居場所を確認することができなくなり、
生存を追跡することは困難になってしまったからです。

もちろんこれは海軍だけの傾向で、普通の船には案外多くの猫が
船員たちの友人として、乗り込んでいるものです。


ところで第二次世界大戦中、海軍の艦艇における猫は大変人気があり、
この時期、多くの潜水艦にマスコットとして犬や猫が配備されました。


「ペニー」という黒い犬がいたのは、
USS「ガーナード」(Gurnard SS-254)

7回の哨戒を成功させ、叙勲もされた優秀艦です。
戦没しなかったのは黒犬のご利益でしょうか。

犬もペットとしてだけでなく、役目がありました。
巡視船が外国の海を航行する際に、
危険を知らせたりするなどの番犬としての任務です。




「ホランド型」という最初のアメリカの潜水艦のタイプ、
この31番艦USS S-31(SS-136)です。
この潜水艦にもペットを連れ込んだ人がいて、
その名前が「ザ・マリオット」であるというのですが、



猫?と思ったらキツネでした。
キツネもお守りになったのか、S-31はホランド型ながら
第二次世界大戦で8回もの哨戒に出て生き残りました。


驚くべきことに、「シルバーサイズ」にも、その時その時で
多数のペットが持ち込まれていたという記録があります。

まず、前部魚雷室で飼われていたのが、ネズミ。
これは、潜水艦の中に発生したネズミを捕まえてペットにしたのではなく、
「飼い慣らされた」とされています。

が、捕まえたネズミを飼い慣らした可能性も微レ存。

歴史的記録?によると、(つまり正式な文書に残っているらしい)
犬が乗っていたことが2回あったそうで、
一匹はエアデールテリア、もう一匹はジャーマンシェパードの雑種。

どちらかはわかりませんが、ちゃんとラッタルを登って「乗艦」し、
どちらの犬にも「アドミラル」という名前がついていたそうです。
(ありがち。南極探査船に乗船した三毛猫も船長の名前をつけられていた)

潜水艦は甲板に乗艦してからが大変だと思うのですが、
そこから先はやっぱり人間が抱いて下ろしてやってたんだろうな。



これはアメリカ海軍の公式写真として残されている、
USS「ホエール」Whale SS-239
の、まるでモップのような犬と水兵さんのツーショットです。

「ホエール」もこのモップ犬のご利益か、11回の哨戒を生き抜き、
11個の殊勲章を授与されました。


これもUSS「ホエール」ですが、なんと雄鶏を飼っていたようですね。

いや、これ・・・本当にペットだったのか?

まあ、いつもふんだんに食べ物が食べられたアメリカ海軍潜水艦だもの。
クリスマスの日でも、彼が丸焼きになってテーブルに乗ることだけは、
決してなかった。

と信じたい。

続く。


アフターバッテリーコンパートメントと”ピッグボート”の意味〜潜水艦「シルバーサイズ」

2023-01-28 | 軍艦

潜水艦「シルバーサイズ」の中央部まで見学してきました。
コントロールルームとコニングタワーの後ろには、
後部バッテリー室の上にあるクルーズギャレー、そしてメスです。


クルーズメスは乗員の食堂であり、娯楽室であり、
まるで居間のような場所であると説明しましたが、
この部屋には乗員が必ず見る掲示板があります。


今ではもちろん乗員への連絡とかではなく、見学者のための
「シルバーサイズ」のスペック紹介にのみ使われています。
カレンダーだけは、1944年の6月のものとなっています。

このカレンダーを宣伝のために製作&配布した、
「ケルソー肥料と種 ケルソーズフィード*シーズ」
という会社が、まだ現存するのかミズーリ州を検索していたところ、
結果としてそちらは見つからなかったのですが、その代わり
全く偶然に、わたしの昔の知り合いの名前のFacebookを見つけました。

仕事のため来日した彼女とはかなり仲良く付き合っていましたが、
仕事の契約が切れセントルイスに帰ってから一度、

「クルクルドライヤー(アメリカにはない)を送ってほしい」

と手紙に20ドル同封して頼んできたことはあり、
しばらく手紙をやりとりしていましたが、いつしかそれも途絶えました。

その後、わたしがアメリカ在住中、行方を探したことがあります。
まだSNSもなかったので、相手を探すのには
インターネットで住所を検索するしかなく、これという住所に
一通手紙を送ってみましたが、返事はありませんでした。

発見したフェイスブックから彼女のHPも見つかり、
現在セントルイスに住んでいることがわかりました。

私事ですが、とても嬉しいハプニングで、
「シルバーサイズ」に感謝することがまた一つ増えました。



そして今更ですが、ここにある「シルバーサイズ」紹介文をあげておきます。

USS「シルバーサイズ」は、真珠湾攻撃からわずか8日後、
1941年12月15日にアメリカ海軍に就役し、
1942年4月30日に通算14回となる彼女の戦争哨戒の
最初の任務に出発しました。

そして、日本沿岸の東シナ海に沿いの
「帝国の水域」(エンパイアウォーターズ)
で、太平洋艦隊の一部として任務を行いました。

また、マリアナ諸島、カロライナ諸島、ビスマルク諸島周辺、
およびソロモン諸島に沿ってガダルカナル島に至る
主要な敵の航路をパトロールしました。

彼女の使命は、石油、ボーキサイト、ゴム、石炭、食品、
そして鉄鋼などの原材料と物資の敵の輸送を止めることでした。




こちらの掲示板には、前回紹介したこのクルーメスで
第10回となる戦時哨戒中の乗員がくつろぐ写真に、
彼ら一人ひとりの名前を添えています。

そして、右上には第二次世界大戦中の喪失潜水艦全ての艦名が、

「 STILL ON PATROL」(未だ哨戒中)

という戦没潜水艦に捧げられるフレーズの下に記されています。
名簿にあるのは、

「シーライオン」「グラウラー」「ワフー」「グレイバック」

など、ここで語った記憶もある潜水艦を始め、52隻。

これに対し、日本海軍の喪失潜水艦はというと、伊号だけで約80隻、
呂号も合わせると、130隻近くになっています。

日本と違うのは、戦没年月日がわかっていない艦がないことでしょうか。

日本の場合、通信を絶って帰投しなかったことから、
不明のまま戦没と認定された艦がいくつもあります。


■ 水兵の信条(Sailor's Creed)

左上の「Sailor's Creed」は、自衛隊でも入隊の時に行う
自衛官の宣誓のようなものです。

これが作戦本部長の手によって書かれたのは、1993年といいますから、
決して歴史としては古いものではありません。
水兵=セイラーという言葉は、文字通りの階級の意味ではなく、
海軍軍人全てのマインドを表す象徴的なものですから、
このクリードを述べるのは水兵に限りません。

ー水兵の信条ー

私は、アメリカ合衆国の水兵です。

私は、アメリカ合衆国憲法を支持し、これを遵守します。
そして、私の上に任命された者の命令に従います。

私は、海軍の敢闘精神を持ち、世界の自由と民主主義を守るために
私の前に逝かれた方々を代表します。

私は、名誉と勇気と献身と、誇りをもって
我が国の海軍戦闘部隊に貢献します。

私は、卓越性を持ち、すべての人の公平な扱いを誓います。

Sailors Creed

(アメリカのTVコマーシャル)

現在、「水兵の信条」は新兵訓練所で全職員が暗記し、
士官訓練にも取り入れられています。

また「下士官信条」というのも存在し、下士官章授与式では、
下士官信条と船員信条の両方を行うのが慣例となっています。

提督だろうが元帥だろうが、海軍の制服を着たものはまず水兵であり、
然るのち士官、曹長、下士官、飛行士、海兵隊員、水上艦員、
そして潜水艦員となるのである。

これは、団結と海軍のエスプリに影響を与える重要なポイントです。

What Navy Recruits Go Through In Boot Camp | Boot Camp | Business Insider


ついでに、これは「水兵の信条」を探していて見つかった、
リクルートたちの新兵訓練です。

12:00くらいに、ガスの充満する部屋でマスクを外させて
それに耐えるなどというとんでもない訓練があって驚きます。

1:40、潜水艦を希望したリクルートに、教官がなぜ?と聞くと、
彼は率直に「モアマネー(給料が高い)」と答えています。

そして、最後。
訓練を終え、晴れてセーラー服を着た時には
やっぱり皆泣いちゃうんですね・・。

わたしもこういうのに滅法弱いもので、もらい泣きです。


■ クルーズ・ベーシング(Crew's Berthing)



クルーズ・メスの隣のカーテンの向こうは乗組員の寝室です。
下士官兵のほとんどはここにある2〜3段のバンクで寝ていました。



湾曲した壁は、結露を防ぐための断熱材として
コルクの層で覆われています。



このコンパートメントのクルーバンク=乗員寝室には、
36の寝台が備えてあり、通常「シルバーサイズ」では
72名の乗員が勤務していましたから、寝台は常に

「ホットバンキング(hot-banking)」

で稼働していました。
映画「Uボート」で、二交代でベッドを「温める」んですよ、
と新しく乗り込んできた予備少尉に古株が説明していたように、
ドイツ海軍と同じく「シルバーサイズ」では
このベッド交代システムが採用されていました。

ここに限らず多くの潜水艦乗員はこのホットバンクを経験しています。

ホットバンキングは、ベッドの数以上の乗員が乗り込んでいる艦、
全てで行われていました。

下士官兵は乗艦すると自分の寝床があてがわれますが、
最悪の場合、同じラックを8時間ごと、3人でシェアさせられました。

ベッドは一瞬たりとも空いている時間がありません。

「Uボート」で水兵が言っていたように、これだと
ベッドに潜り込んだときまだ先住者の体温が残っていて
暖かいまま=ホットバンクなので、この名称になりました。

最悪の場合と書きましたが、「シルバーサイズ」は
乗員の数の2倍バンクを有していたので、これに当てはまらず、
二人で一つのバンクをシェアしていたことになり、
厳密な意味でのホットバンクになったことはありません。






左舷と右舷の壁には小さなパイプと蛇口のようなものが見えますが、
これは、このコンパートメントを囲むようにある
燃料タンクの内容物をサンプリングするときに使用されます。

燃料はタンク内の水に浮いており、
実際の燃料の内容を確認するための唯一の方法は、
この高さのいろいろな部分からサンプルを取ることなのです。

・・・・と説明には書いてありますが、
この燃料というのが具体的にどういう状態だったのか、
これを読んだだけではよくわかりません。

乗員の寝室ですが、その頭上を見ていただくと、
まさに人間は機械に同居させていただいている感じ。


潜水艦乗員が「給料が高い」というのは当時どうだったか知りませんが、
例え給料が高く、食事がダントツに豪華でも、
潜水艦勤務が最も人間の生理にとって不自然で過酷であることは、
要の東西を問わず、素人にもわかることです。




「海軍で最も献身的な志願兵の集まる場所」

と言われた潜水艦において、ここは彼らの「ホーム」でした。

後述するように、「シルバーサイズ」には
犬などのペットが何匹か飼われていた記録があるそうですが、
彼らが最もその時間を過ごしたのは、間違いなくここだったでしょうし、
あの、「シルバーサイズ」最初の戦死者となったマイク・ハービン水兵が
甲板で撃たれてから、海軍葬によって海に葬られるまでの間、
その身体が横たえられていたのもここでした。



このデッキの床のハッチを開けると、そこには、
この名称でお分かりのように、実際のバッテリーが並んでいました。

ここは「シルバーサイズ」の地下室となり、
ビジターの目に留まることは平常全くない部分です。

ぎっしりと並んだ200トンもの鉛蓄電池は、
淡水の充填されたタンクの中に保持されていました。
これは「シルバーサイズ」に搭載された
二つのバッテリーコンパートメントの二つ目となります。

「シルバーサイズ」のの電気負荷は全て、
艦体が潜航している時にバッテリーから電力を供給されていました。

浮上すると、バッテリーには再充電が必要です。

これは、一つまたは複数の主発電機の出力を
バッテリーに切り替えることによって行われました。

各バッテリーは直列に配線された2ボルトを生成することのできる
合計126個のセルによって構成されています。

電池セルは、21セルずつ前後6列に配置されていました。

「サーゴ」級の潜水艦の鉛蓄電池は重量1,647ポンド、
電解液31ガロン、高さ21インチ×21インチ×54インチでした。

バッテリーの充電は何度も書いていますが浮上中にしか行うことができず、
さらに充電中に発生する水素ガスを除去するために、
バッテリーコンパートメントの換気が必要でした。



続いては、「ヘッド」つまりバスルームです。
ヘッドは右舷側、乗員寝室の隣にあります。

ん?トイレにドアがないんですが・・・・。
そして驚くことに、二つしかありません。

70人にトイレふたつってこれひどくないか。
もしかしたら混雑時には甲板で用を足し・・いやなんでもない。

前にも書きましたが、トイレの機構と使い方は大変複雑で、
加圧された汚水が逆流しないようにできています。



そして左舷に位置する洗面台、これも二つです。
70人に対し洗面ボウル一つか・・・・。

皆ちゃんと歯とか磨けたのかな。

展示にはありませんが、洗濯機が「あったこともある」そうです。
洗濯機がないときは甲板で雨が降った時手洗い?

空いているドアはシャワーで、これも二つしかありません。

繰り返しになりますが、厨房の係は毎日入浴しないといけなかったので、
「シルバーサイズ」ではスチュワードだったアフリカ系の3人だけが
毎日シャワーを使っていたということになります。

一般の乗員は二週間に一度だけですから、
一回の哨戒で1度かせいぜい2度入ることができるペースです。

水上艦では、海上航行中に運よく雨が降れば、
皆が石鹸を持って甲板で天然のシャワーを浴びたそうですが、
潜水艦では残念ながらそのチャンスもそう多くなさそうです。

そしてこれこそが、兼ねてからわたしにとって謎だった、
「ある疑問」に対する恐るべき答えだったのです。

この2行を読んで、わたしは思わず(生理的に)戦慄しました。

なぜ、潜水艦を「ピッグボート」と呼ぶのか。
その起源がここにあります。

「豚の船」という、思わず聞いただけで鼻を摘んでしまいそうな通称は、
この過酷な環境と、それに甘んじ、身を委ねた男たちの身体から放たれる
「香気」が語源だったのです。


続く。


クルーズ・メスとグルメな潜水艦〜潜水艦「シルバーサイズ」

2023-01-26 | 軍艦

潜水艦「シルバーサイズ」の内部を前部から順番に紹介しています。
コントロールルームとその上部のコニングタワーまで来て、
(コニングタワーは公開していないことが分かりましたが)
4つ目の区画、それはアフター・バッテリー、通称クルーズ・メスです。


後部バッテリーと言いながら、こうして見るとここは
艦体のほぼ真ん中にあることがお分かりいただけるかと思います。

士官居住区であるオフィサーズ・ワードを取り上げたとき、
実はここが潜水艦の心臓であるバッテリーの上にあって、
その正式名称は「フォワードバッテリー」であること、
バッテリーの上はとりあえず重要な機器を置く必要がないので、
人間が「住まわせてもらっている」のが潜水艦であることが分かりました。

というわけで、今回のは後部のバッテリーです。
司令塔とコントロールルームを挟んだこの艦底部分に、
400個のバッテリーの半分があるので、正式名称はこちらも

「アフター・バッテリー」

その上の部分に乗員の居室を「置かせてもらっている」
ということも、もう説明する必要はないでしょう。

クルーズ・クォーターズ(Crew's Quarters)はいわば
ボートの中の「ホーム」というべき部分です。

鉛蓄電池のセルの上にプラットフォームデッキが置かれているので、
テクニカルな名前こそ「アフター・バッテリー」なのですが。

潜水艦のこのセクションは、制御室(コントロール・ルーム)の水密ドア、
そして前部エンジンルームの水密ドアの間
と定義されます。

コンパートメントで言うと、前から4つ目となります。



これは「その辺り」の壁です。

壁に貼られたプレートの上には「バルクヘッド」(防災隔壁)とあります。

興味深いのは下の十字のプレートですが、
十字の縦部分に「センターライン」と記されているのです。

これはつまりボートのちょうど半分の位置を表しているのでしょうか。
なぜここがセンター、ということを厳密に記す必要があるのか。

重量の配分の関係かな?

■クルーズ・ギャレー(乗員用キッチン)



最初に現れるのが、ギャレーです。

このステンレススチールだけでできた区画は、
どんな小さなアパートのよりも、さらに狭い厨房です。

まあ、現地の説明にはそんなふうに書かれていますが、これは
アメリカを基準にしており、日本の住居でこれくらいは普通だと思いました。

わたしが結婚して、最初に東京山手線内で借りた家のキッチンは、
横に細長くて、人がすれ違うことすらできなかったのですが、
少なくともここは、作業をしている人の後ろを通ることくらいできます。

そして、ここには二人のシェフとパン焼き職人
(別名:毎日シャワーを浴びられる人たち)3人が働いていました。

何しろ、四六時中24時間、80名の乗員の誰かしらが
ものを食べたり、コーヒーを飲んだりするのが潜水艦です。

ただでさえ乗員の士気を落とさないように、
食べ物はふんだんに積まれているという、アメリカの船の中でも
まあ言うたら特殊な環境でしたしね。

3人の厨房係は、この、ほとんど電話ボックス3つ分の職場で
それこそ休む暇もなく、食べ物を提供し続けました。


前にもなんとなく挙げたこの写真のアフリカ系水兵さん二人。

実は彼らは「シルバーサイズ」で働いていた
3人のスチュワードのうちの二人です。

アンダーソン・ロイヤル(Anderson Royal)写真左

ウィリアム・レイピア(William Rapier)

1942年の第二次と第三哨戒の間に、真珠湾に停泊した艦上、
3"50口径デッキガン(甲板砲)の前で撮影した写真です。

このとき写っていないもう一人のスチュワードも、

ハーバート・オドム(Herbart Odom)

というアフリカ系アメリカ人で、この三人はある意味有名人でもありました。

1940年代には、人種隔離政策(Racial segregation)
がアメリカでは存続していたので、艦艇乗組のアフリカ系の海軍要員は、
通常、食堂のスチュワードのような役割に任務が限定されていました。

もちろんスチュワードは潜水艦に不可欠のメンバーですし、
そもそも潜水艦乗組員は、たとえスチュワードであっても、最低限、
艦内の全ての任務について大雑把な知識を持っている必要がありました。

非常時のみならず、彼らは電話を操作し、魚雷を搭載し、
見張りの任務の順番にもちゃんと組み込まれていたのです。

「シルバーサイズ」においては、19歳だったアンダーソン・ロイヤルが
(しかしロイヤルっていうこのファミリーネーム凄すぎね?)
日本の軍艦に対する水上魚雷攻撃を行ったとき、
トラッキングを行って、艦の成績に貢献し、その後彼は
「ドルフィンマーク」の資格を取得していますし、
オディムは配置についた魚雷発射管で日本船を撃沈したこともありました。


ギャレーをもう少し詳細に見ましょう。

床はおそらく改装されて、別のものに変えられていると思いますが、
いずれにしても当時もこのような滑りどめの模様があったでしょう。

中のゴミを捨てたばかりらしいゴミ箱もありますが、
これは週末のお泊まりキャンプで出たらしいゴミの捨て場所です。

中で飲み食いしないのになぜゴミが出るのかわかりませんが。



潜水艦のキッチンでは、大量の料理を作るのに、フライパンは使いません。

右側の鉄板は焼き物、炒めものを作るためのグリル。
このグリルそのものがフライパンとして機能するというわけです。

酸素を消費する火を使うのはご法度なので、オール電化キッチンです。

ところで、最近人から、オール電化にしてしまったお家の人が、
一人暮らしなのに最近の電気代値上げで電気代10万越え、
という恐ろしい話を聞いてしまいました。

わたしは火がガスかどうかで食べ物の味(とくにご飯な)
が変わると固く信じているので、そもそも
オール電化など頼まれても選択しませんが、
こんなご時世になると、大変だなと思います。

キッチンで使わずとも、暖房やIT関係で死ぬほど使う電気、
これが今年の6月にまた値上げになるなんて、
地球どうなってしまうん?と心配になってきます。


閑話休題。
このグリルですが、直接炒め物をするだけでなく、
網のようなものを載せて料理できたようです。

グリルのサイドにはそういう器具を装着するためのスリットがあります。


80名の食事を作るのに、水道管が一つしかないのが潜水艦のギャレー。
ちなみに「シルバーサイズ」にはアイスクリームメーカーもあったとか。

アイスクリームはアメリカ人の士気の源ですからね。
(公式にもそれが認定されていたという)



グリルとグリルの間にも何やら熱が出そうな器具が・・。
シチューなどの鍋を乗せるためのコンロかもしれません。


グリルの下にあるにはオーブンかな。
コンロの横には、一度に4枚が焼けるトースターもあり。


キッチンの上部には一応小さな扇風機があります。
時計は10時を指して止まっていました。

■クルーズ・メス(乗員食堂)



ギャレーに隣接して、小窓でつながっているのが乗員食堂。
クルーズ・メス、クルーズ・ダイニングといわれるところです。

居住空間にはテーブルが4つしかなく、6人しか座れません。
どんなに詰めても、同時に24人しか座れないのですが、よくしたもので
潜水艦で全員一緒にご飯を食べることなどないので無問題。

ギャレーの床のハッチを開けると、そこは冷蔵貯蔵庫と武器弾薬庫
ジャガイモと弾薬が一緒にあるわけですね。
甲板砲の弾薬の貯蔵場所で、ここから甲板に弾薬は手で運ばれます。

逆にギャレーの頭上は、メインの吸気バルブと人間が呼吸する空気を
供給する廃棄バルブのコントロールシステムがあり、
これはボートが浮上すると、開きます。

上部から突き出た大きなパイプは、
長さ3フィートの甲板砲の弾薬を上面に移動するための導管となります。


これを「ポテトハッチ」というのですが、甲板につながっています。
海の中ではもちろんどちらもハッチは閉じてあります。



これはクルーメスの左舷壁となります。

反対の右舷側にも、これと同じ大きな折り畳み式の回転ハンドルがあり、
これは安全バラストタンクのフラッドバルブを手動で制御します。

そして、食べ物!

潜水艦部隊に所属する、最も有難い理由の一つがそれです。

閉所恐怖症を克服し、澱んだ空気に耐え、
常に敵の存在にピリピリしていなくてはなりませんが、
とにかく潜水艦の潤沢な食べ物は、若い彼らには大変な魅力でした。

そこで出されるのはプライムリブステーキ、照り焼きステーキ、
シュリンプクレオール、ロブスターニューバーグ風、そしてピザ。
いうまでもなく、獲れ獲れの新鮮な魚。

魚はわざわざF作業(自衛官のあなたならご存知ね)しなくても、
潜水艦が浮上した後、甲板に乗っかっていたりします。

デザートに至っては、フランス風の滑らかなチーズケーキ、
チョコレートケーキ、乙女心をくすぐる素敵なプリンに、
艦内のアイスクリームメーカーで作ったばかりの新鮮なアイスクリーム。

食事と食事の間には、お好みならサンドウィッチがいつも食べられますし、
温かいコーヒーももちろんのこと飲み放題。

わざわざ積み込まれた60ガロンものコーク・シロップから、
コーラを作る機械で、ソーダもいつでも飲むことができました。

キッチンこそこの狭さですが、食べ物に欠くことはなく、
欲しければいくらでも制限なしになんでも食べられるのが潜水艦です。

パトロールに出発するときには、文字通り艦の隅々まで
極限に至るまで食べ物が詰め込まれているのが常でした。

パイプの間にはぎゅうぎゅうに詰め込まれた麺とパスタの箱。
二段ベッドの下と通路の裏にはこれでもかと食品の缶詰各種。
エンジンの後ろにさえ、そこには小麦粉の袋が搭載されていました。

そして、ハッチを開けた床下の冷凍庫と二つの冷蔵室は
いうまでもなく限界までぎっちりと、食べ物が詰め込まれていました。

それでも、ついついしてしまうのがつまみ食い


第10回目の哨戒中、レコードで楽しむ乗員たち。

クルーズ・メスは乗員たちは食事をするだけの場所にあらず。
交流によって互いの親睦が大いに深まる生活の基点でした。

彼らは将校たちのように個室を持っていませんから、
手紙を書くのも、クリベッジやトランプをするのもここに来ます。

クリベッジというゲームは聞き覚えがないでしょう。

これは、畏れ多くもアメリカの潜水艦において、
「公式な」娯楽として特別な位置を占めるトランプゲームです。

やり方は興味のある方だけリンク先を見ていただくとして、
このゲームにはスコア用のボードが必要とされるのですが、

アメリカの太平洋艦隊で最も古い現役の潜水艦の司令官室には、
第二次世界大戦時の司令官である、あの

リチャード・オケインも使用していたクリベッジボードが置かれている。

このボードは、最も古い潜水艦が退役するときに、次に古い現役の潜水艦
(即ち新たに最古参となる潜水艦)に引き継がれる。(wiki)

という古式ゆかしい?ゲームだそうです。

そして、乗員たちはクルー・メスでおしゃべりしたり、ラジオを聴いたり、
写真のようにレコードを聴いて過ごしました。


おそらくクリベッジプレイ中

まあ、せめてこんな楽しみでもないとね。
何しろ潜水艦ですから。


続く。


コニングタワーは立ち入り禁止〜潜水艦「シルバーサイズ」

2023-01-24 | 軍艦

さて、潜水艦「シルバーサイズ」を前部から順に見学し、
3番目のコンパートメントであるコントロールルームまできました。
今日はそのコントロールルームの上に当たる部分です。

冒頭のメーターは、バラストタンクの状態を表すもので、
「メインバラストタンク」「燃料バラストタンク」
などと書かれており、単位はタンクの圧力を表します。


■コニングタワー(司令塔)



コニングタワーはコントロールルームの真上、セイルの下です。
全体図を見ればお分かりのように、司令塔の床は、
外甲板とほぼ同じ高さとなっています。


コニングタワーには天井と床二つのハッチがあります。



その中って、確かこんなだった気がするんですが。
もうすっかり物置と化しています。
まあいいや。よくないけど。

司令塔のコンパートメントは幅およそ8フィート(2.4m)、
長さ15フィート(4.57m)の円筒形とそこそこの広さですが、
6〜8人が任務を行うのには窮屈なくらい、機材で埋め尽くされています。



そこは、コルクで裏打ちされた湾曲した白い壁(衝撃防止かな)
を除く、ほとんどの全てが灰色にペイントされていて、
各種ケーブル、チューブ、ゲージ、スイッチ、ライト、
何にするのかいちいちわからなくらい難解なガジェットがあります。



前方魚雷発射室に一番近い部分、つまり前方エンドには、

「プライマリー・ヘルム・ウィール」(主舵輪)

があります。

潜水艦の操舵室には窓はなく当然外は全く見えません。
その代わりその前には彼らが必要な全ての機器が備えられています。

方向、速度、水深を測るためのジャイロコンパスレピータ、
艦内インターフォン、およびアラームなどなど。

そして操舵手の右肩の上にはブリッジに続くハッチがあります。
映画で急速潜航の指令が下ると乗員がだーっと降りて行きますが、
それこそがこのハッチなのです。

しかし、残念ながらわたしが見学した時、
コニングタワーの内部に入ることはできませんでした。



制御室にあったパネルが確認するための唯一の写真です。

潜望鏡の向こうに地図のためのテーブルがあり、
右側の赤いものが魚雷の「トリガー」です。


こここそ、潜水艦の頭脳みたいなところなので是非見たかったのですが。
潜望鏡を見ることができないなんて、あんまりですよね。

■ TDC(トルピード・データ・コンピュータ)

さて、コニングタワーにはレーダーがあり、
当時全てのアメリカ軍の戦闘艦が搭載していたコンピュータもありました。

魚雷データコンピュータ(TDC)は、
潜水艦と目標の位置を追跡する冷蔵庫サイズの機器で、
潜水艦のとターゲットのポジションを追跡することができます。



これは「シルバーサイズ」と同型艦の、サンフランシスコの
USS「パンパニート」のコニングタワーです。
TDCは写真の一番左にある機器です。


こちら「シルバーサイズ」。
左端がTDCです。

TDCは、潜水艦、ターゲット、魚雷の同時運動の問題を解決し、
発射のための情報を下方の魚雷室に連続的に送り込みます。



魚雷のジャイロスコープには適切な方位が設定されるので、
魚雷を発射すると、搭載したジャイロが魚雷を所定の方位に向け、
ターゲットへの直線コースを保持します。

TDCは当時の最先端技術であり、誰でも操作できるわけではなく、
三角法の言語に堪能な、熟練のオペレーターが必要とされました。
(それで大学専門卒の予備士官が必ず乗っていたんですかね)

潜水艦の動きからのデータは、オペレータが
ターゲットの動きに関するデータをプログラムしている間、
自動的にコンピュータに送られます。

その際、レーダーやターゲットが艦橋に搭載しているトランスミッターなど、
オペレータはさまざまなソースからその対象を選択できます。

レーダースコープ(パネル写真TDCとハンドルの間)
の上には魚雷表示パネル(トルピード・インジケーター・パネル)があり、
これらの点滅式パネルは、前後方の魚雷発射管の状態を示します。

発射する魚雷がここで選択され、パネルに
「発射準備完了」
と表示されたら、トマト缶のサイズの赤い発射ボタンを押して、
電気の力で魚雷を発射することができます。

もし電子システムが故障したとしても、
魚雷は魚雷発射管からマニュアルで発射できる仕組みでした。

コニングタワー・コンパートメントの後端には、
地図作成ナビゲーションテーブルと推測航法アナライザーがあり、
ナビゲーターは、プロッターが速度と方位に基づいて
ボートの経路を自動的にトレースするのを見ることができました。


■ ソナーと潜望鏡

ソナーユニットはコニングタワーの後方左舷側にあります。

爆雷検出パネルは、ボートの外側に設置された水中聴音機によって
検出された爆音を拾い、爆弾を回避するための最適のコースを決定します。

コニングタワーの写真をもう一度ご覧ください。

ソナー前方には二つのDC電気モーターとケーブルアセンブリがありますが、
これはビールの樽ほどの大きさで、潜望鏡を上げ下げするためのものです。

また、中央には、直径10インチの光沢のあるステンレス鋼のパイプが
垂直に走っていますが、これが潜望鏡のチューブです。

潜望鏡の通された穴は艦体を縦にどこまでも深く続いており、
コニングタワーの二階下であるポンプ室のネガティブタンクまで達します。

「シルバーサイズ」の場合、前方の大きなペリスコープは探索用、
その後ろには近接作業用の小さなスコープもあります。

潜望鏡を上げ切った時、潜望鏡は65フィートの
「ペリスコープ デプス・トゥ・キール」に十分な高さとなるのです。



潜望鏡が貫く艦体を縦切りして見るとこんな感じ。
ペリスコープ・ウェル、潜望鏡井戸の高さは潜水艦とほぼ同じです。


■ コニングタワーの役割

コニングタワーとは、強いていえば攻撃の神経中枢といったところです。

ここに勤務する乗組員は、敵であるところの日本の艦船に忍び寄り、
それを時には何日にもわたって追跡するために、気の遠くなるほど長時間、
湿った、澱んだ空気と茹だるような暑さと、彼ら自身の体臭()と、
そして汗、その他の体液と汚れに塗れていました。

わたしは今回、結局コニングタワーを見学することはできませんでした。
それは、博物館側が見学を特別なグループだけに限っているからです。

しかし、博物館は、このように胸を張ります。

「ここを特別に訪問することができた人は、
きっとこの任務に志願した海軍乗組員の献身に
心から畏敬の念を抱くことでしょう」


なんでも、ここへの立ち入りを禁止しているのは
安全上の理由なのだそうですが、
ぜひ、一生に一度しか来ることのない日本人にも、中を見学して
乗員の献身に畏敬の念を抱くチャンスをいただきたかった。


■ アタックセンター・アラーム


ところで、これはそのペリスコープウェル、
コンパートメント中央にある潜望鏡井戸の天井部分です。

「シルバーサイズ」の警報は色によって意味が違います。

赤は衝突、
グリーンは潜航と浮上、
黄色が総員配置(ジェネラルクォーター)


「潜航せよ!」
「戦闘準備せよ!」


などの攻撃センターからの命令は、艦内のスピーカーで放送されます。

そして、そのアクティビティに特化したアラームが鳴り響き、
命令が繰り返されるのでした。

その後、全ての乗組員が、ボートの現在の状態を
確実に把握した上で次の行動が行われたのです。


■レイディオ・ルーム



ところで、コニングタワーの下のコントロールルーム。
こちらはジェネレーターなどの機器が搭載。



壁にかかっているのは左が非常用のライトで、
右は各コンパートメントの電気スイッチだと思います。
家庭にもある配電盤みたいなものじゃないかな。


コニングタワー、魚雷室、艦橋などのオフ・オンスイッチ。
おそらく艦内放送の音声用だと思われます。

いずれにしても現在コードは切られていて、生きていない状態です。



レーダー電子機器のラックがこのコンパートメントの後端の中央にあり、
ここが無線室となっています。

巨大な黒い無線送信機と受信機が、小さな机の周りに配置されています。



このコンパートメントの最後にあったのが、
つい最近設置されたらしい、このプレート。

ウォーレン・スタインWarren Stein R.M.2の想い出に捧ぐ

第二次世界大戦中、
潜水艦U.S.S.「 プライス」
SS-390で乗務を行う

1923-1998

R.Mというのは、「レイディオ・マン」Radio Manのことです。

アメリカ海軍と沿岸警備隊の下士官で、
通信技術に特化した格付けですから、スタインさんは、
通信下士官だったということになります。

レイディオ・マンはメッセージの送受信の管理、
通信の信号の使用の責任者であり、潜水艦の場合、
一人でルーティングされたメッセージが艦のさまざまな部署に
適切に届いているかを確認する責任者となります。

また、暗号装置が正常に作動し、キーの変更が行われることを管理したり、
暗号や関連する電子機器の検査やチェックを主ないます。

ここにプラークでその名前を残されているウォーレン・スタインさんは、
「シルバーサイズ」での勤務をしたことはありませんが、
第二次世界大戦中「バラオ」級の「プライス」USS Plaice
レイディオ・マンを務めた経験がありました。


USS「プライス」
スタインさんはこの中にいたかも・・

この経験から、スタイン氏は、地元で展示される「シルバーサイズ」の
「レイディオシャック」(無線室)の復元に協力したのでしょう。

こういうかつてのベテランの無償の奉仕によって、
記念艦はかつてのままの姿を後世に遺していけるのです。



続く。



海上自衛隊 第4航空群ニューイヤーコンサート@やまと芸術文化ホール

2023-01-22 | 音楽

「ここ10年で最も強い寒波が来る」

と、アメリカ五大湖沿いやボストンの寒さを肌で知っている人間が聞くと
ついつい鼻でわらってしまうようなニュースが、
あたかも人心の不安を煽るように流された冬のある日のこと。

寒波の襲来など、『すこ〜しも寒くないわ〜』と歌い飛ばすような
そんな(我ながらベタなマクラだな)ハートウォーミングな
海上自衛隊横須賀音楽隊のコンサートを聴いて参りました。

■ 海上自衛隊 第4航空群

我が海上自衛隊には航空群が全国に7つ存在します。
それらは航空集団の隷下に置かれ、航空集団司令部は厚木にあります。

そのナンバーの根拠はわたしにはさっぱりわからないのですが、
番号の若い順に、

第1航空群 鹿屋
第2航空群 八戸
第4航空群 厚木
第5航空群 那覇
第21航空群 館山
第22航空群 大村
第31航空群 岩国


となっております。

この日コンサートを主催したのは、厚木の第4航空群でした。
P-1哨戒機を運用する第3航空隊他、
補給隊、基地隊、硫黄島基地隊、南鳥島派遣隊
を含みます。

厚木海軍飛行場というと、何年か前、
防衛団体の主催でアメリカ海軍基地の見学をした経験があります。

日本が無条件降伏を受け入れ、コーンパイプを咥えたマッカーサーが
「バターン号」から降り立って以来、ここには
アメリカ軍の航空基地がずっと存在しており、
1971年からは海上自衛隊が共用を開始して現在に至ります。

米軍基地見学の際は、海上自衛隊部分に併設された広報資料館で
自衛官の説明付きで見学をさせていただきましたが、
たしか坂井三郎氏の書なんかが展示してあった記憶もあります。

さて、今回は、知人からのご紹介でチケットをいただき、
初めて航空集団主催のコンサートに行くことになりました。


■ やまと芸術文化ホール SiRiUS

大和市の存在すら下手したらよく知らなかったわたしですが、
今回初めて行ってみて、まず文化ホールの素晴らしさに目を見張りました。

シリウスについて

ホール、図書館、会議室、交流フロア、こども図書室、
地域資料室、貸しスタジオ、調理実習室、一階のスターバックス、
おそらく1日座っていても誰にも怒られなさそうな空間。
本は無人で返却でき、一冊づつ殺菌消毒処理が行われます。

しかもそれが大和駅から歩いて数分のところにあるという。
このホールと周りの雰囲気だけで、
大和市民になる価値はありそうに思えました。


■ コンサートに先立ち

コンサートに先立ち、国歌の演奏が行われました。

「ユカ」さんとアナウンスされたところの女性歌手が登場し、
彼女がアカペラで実にスリリングな「君が代」を歌い上げる間、
会場の最上階以外の観客は起立を行いました。

続いて、横須賀音楽隊のメンバーの一部が入場。
この時入場してきた隊員に、以前他所の音楽隊で見た何名かを認めました。
この3年の間に、かなりの移動があったようです。

そして、彼らによって、殉職した自衛官の魂のための儀礼曲、
「国の鎮め」
が奏楽されました。

国の鎮め


以前、映画「戦場にながれる歌」の解説で、この曲について
戦前から陸軍軍楽と海軍儀制曲に共通する儀礼曲である、
と解説したことがあります。

その際、「今日の祭りの賑わいを」などという歌詞からも、
この曲はもともと葬送曲ではなく、元始祭や新嘗祭など、
おめでたい皇室行事に用いられてきた(勿論軍歌ではない)ものであるが、
現在、海上自衛隊では「命を捨てて」とともに
慰霊の式に用いられている、と書きました。

いつからこの曲が慰霊用になったかは調べがついていませんが、
少なくとも大東亜戦争時、真珠湾の九軍神や山本元帥の葬列では
こちらではなく「命を捨てて」が演奏されていました。

「命を捨てて」という題名があまりに直裁すぎるということで、
現代の鎮魂には「国の鎮め」がよいのではと考えられたのかもしれませんね。

余談ですが、安倍元首相の国葬に対しずっと反対を叫び続けていた人たち、
本番でこの「国の鎮め」が演奏されたということでもう大騒ぎ。
「やっぱり(何がやっぱりだ)軍国主義じゃないか〜!」
と怒りマックスになっていたようですが、もう・・・なんかね。

厳密には前述のごとき事情で演奏されるようになった儀礼曲であり、
軍歌でもないし、戦争で命を失った人のための曲でもないのですが、
・・こういう人たちに何を言ってもわかってはもらえないんだろうな。





続いて第4航空群司令、金山哲治海将補(お父上は巨人ファン?)
の挨拶がコンサートに先立ち行われました。

遠目には大変お若く見えましたが、それも
スマートで体型が年相応に見えないせいかと思われました。

会場には厚木基地の米軍関係者らしき姿が多く見受けられましたが、
アナウンスは、彼らに配慮して、挨拶のセンテンスごとに英語訳があり、
挨拶の内容には、米軍関係者に対する日頃の協力のお礼や、
来場している偉い人(厚木基地司令マニング・モンタネット海軍大尉
(航空集団の司令なのに大尉)への特別な感謝の言葉が盛り込まれました。

そして、COVID19が発生してから、このような集まりは初めてであること、
久しぶりの機会に一同喜んでいることなども述べられました。



横須賀音楽隊の隊長もこの間交代していました。
新隊長は昔呉音楽隊におられた北村善弘一等海尉です。

そしてコンサートが始まりましたが、プログラム前半、
第一部の指揮者は副隊長(のはず)岩田知明一尉が務めました。

この日の演目は、一言で言って、難しい曲はひとつもなし。
一般人にとって親しみやすくポピュラーな曲ばかりでした。

おそらく会場にいる人のほとんどが、全部とはいいませんが
そのほとんどの曲を知っているor聞いたことがあったに違いありません。



■ ラデツキー行進曲の「拍手」

1♪ラデツキー行進曲 ヨハン・シュトラウス1世

2♪春の声 ヨハン・シュトラウス2世

プログラムにはどちらも「ヨハン・シュトラウス」とありましたが、
じつは全くの別人(って2世は1世の息子なんですが)です。

おそらくこの日は「ニューイヤーコンサート」ということで、
わたしも行ったことがある(とさりげなく自慢)
ウィーン楽友協会大ホール通称黄金ホールで行われる
本家ウィーンフィルのニューイヤーコンサートに倣い、
こちらの定番であるシュトラウス親子の作品が選ばれたのだろうと思います。

「ラデツキー行進曲」は、北イタリアの独立運動を鎮圧した
ラデツキー将軍を讃えて作曲された作品ですが、
本場のニューイヤーコンサートでは必ずアンコールにこれが演奏されます。

そして、ニューイヤーコンサートファンならご存知だと思いますが、
ラデツキーの時には、必ず指揮者が観客に手拍子での参加を求め、
客席を向いて「大きく」とか「小さく」とか「ここは叩かないで」
などという拍手への指揮を行うのが慣例となっています。

この日の最初のプログラムで、横須賀音楽隊は、
このウィーンフィル方式に則り、「拍手参加」を客席に求めました。

ちなみにウィーンフィルだとこんな感じです。

ラデツキー行進曲 ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート


この慣習は、初演の際、客席にいたオーストリア軍の将校たちが、
身内のラデツキー将軍を讃えるという内容の曲に興奮して?
つい全員が手拍子や足踏みで拍子を取ったことから始まりました。

その後指揮者が率先して観客に手を叩かせるようになり、現在に至ります。

横須賀音楽隊、いきなりウィーンフィル方式で観客を巻き込み、
これですっかり会場を「温め」、準備は万端に持っていき、
次のシュトラウス(子)の「春の声」へと音楽は流れていきました。


3♪歌劇「蝶々夫人」より「ある晴れた日に」ジャコモ・プッチーニ

司会が、次の曲の説明として、

『海上自衛隊音楽隊の祖先である海軍軍楽隊は、
(あの変な「君が代」←横須賀音楽隊の演奏?を作曲したこともある)
本国では軍楽隊員、日本ではお雇い外人である
ジョン・ウィリアム・フェントンによって発展した』

というような話をマクラにしたので、ふむふむと思って聞いていたら、
なぜかいきなり軍楽隊がオペラの曲を演奏するようになった、
ときて、いきなり「マダムバタフライ」に話が着地して驚きました。

フェントン関係ねえ。

それはともかく、この曲目を見た時から、わたしは
横須賀音楽隊の歌手、中川麻梨子三等海曹のパフォーマンスを
おそらくこのコンサートで一番楽しみにしていました。

声量といい表現力といい、本当に素晴らしかったです。
特に「L'spetto.」のところ、びりびりーっと鳥肌が立ちました。

プッチーニ 《蝶々夫人》 「ある晴れた日に」 マリア・カラス(1)

ところでね。

もしお時間がありましたら、ぜひマリア・カラスのウン・ベル・ディを
聞きながら歌詞を確認していただきたいと思うのですが、

ある晴れた日
遠い海の彼方に
ひとすじの煙が立ち上り
船が現れる
白い船は港に入り
礼砲を鳴らす


礼砲で迎えられる白い船(アメリカ軍艦)で
蝶々夫人のもとにやってくるはずの人とは、他でもない、
アメリカ海軍の士官、ピンカートンであるわけですよ。

ついでに言えば、彼の勤務するのは戦艦「エイブラハム・リンカーン」

このピンカートンという男、とんでもない野郎で、
蝶々さんと3年も結婚生活をして子まで為しておきながら、
アメリカに帰るなり、アメリカ女性と結婚してしまうのです。

で、のうのうと妻を連れて「リンカーン」で日本に帰ってくるんですわ。
恥知らずか。

蝶々さん、ようやく再会を待ち焦がれていた夫に会える、と
軍艦に行ったら、本人はいなくて、その代わりに
ケイトとかいうピンカートンのアメリカ人妻と対面させられてしまうんだ。

しかもピンカートン、そのことを深く恥入りながらも、
蝶々さんに言い訳もできず、結局逃亡してしまうんですよクズが。

日本の武士道の教えにより、彼女は恥を濯ぐ方法として、
目隠しをした子供に日米の国旗を持たせ、
自らの喉を突いて自害し果てるという、まあ救いようのない話です。

わたしがこれを聞きながら考えたのは、
会場に多数お運びになっているアメリカ海軍軍人の皆さんは、
そんな話だと知ってるんだろうか、知ってるよね?ってことでした。

ピンカートンがアメリカ海軍士官であるから、海軍つながりで
アメリカ海軍からのお客さん多数のこの日のプログラムに選んだとか。

まさかと思いつつ、ちょっと狙ってた?と疑るワタシガイル。


ところで司会のMCなんですが、次の曲を紹介するのに、
またしてもフェントンの名前を出してきたので、ふむふむ、と思っていたら、
なんとフェントンがイギリス人、イギリス人と言えばホルスト、
次はホルストの曲をどうぞ、とまるで連想ゲームのような解説でした。

曲目解説の台本をもう少し練ったがいいと思いました。(苦言)


4♪吹奏楽のための第一組曲 グスタフ・ホルスト

この日のプログラムの中で最も「吹奏楽っぽ」かったのが、
ホルストの吹奏楽のための第一組曲です。

ホルストは「惑星」一曲で有名になった、などと
まるで一発屋よばわりする失礼な人もいますが、
この吹奏楽のための組曲1と2は、はっきり言って名曲です。
吹奏楽界では、古典作品として大変重要なレパートリーとなっています。

吹奏楽のための第1組曲 III- マーチ


「青春吹奏楽」レパートリーとして取り上げられるくらいですから。

当日は三曲続けて演奏されましたが、聴くと必ず
イングランドの荒野がイメージされる、(ちょっとウェスタン風でもある)
わたしも大好きなこのマーチの動画を上げておきます。


5♪ディズニー・クラシックス・レビュー

お子様も多数おられ、さらにはときおり赤さんの泣き声も聴こえるという
この日の観客にはこの選曲が大いに喜ばれたことでしょう。

ここからが第二部の始まりで、指揮者は隊長の北村一尉になりました。

曲の内容は、

ハイ・ホー ~口笛吹いて働こう ~星に願いを ~
ハイ・ディドゥル・ディー・ディー



6♪ 「アナと雪の女王2」より
「Into the unknown〜心のままに」

松たか子が歌う『アナと雪の女王2』より
「イントゥ・ジ・アンノウン~心のままに」 

オリジナルしか見ていないのですが、最初のバージョンの大ヒットを受け、
柳の下のどじょうを狙ってリリースされた「アナ雪2」。
ヒットしたんでしょうか。したんだろうな。

そちらの「レリゴー」に相当するメインの曲がこれだそうで、
中川三曹が日本語でこれを歌いました。

この日のアンコールには「レリゴー」が選ばれたのですが、
そのどちらのバージョンも、原曲が英語にもかかわらず、
日本語バージョンで歌ったのが色んな意味で大成功だと思いました。


7♪ ジャパニーズ・グラフィティXII

ジャパニーズグラフィティ12とはなんぞや。
それはほかでもない、日本の名作アニメ、「銀河鉄道999」と
「宇宙戦艦ヤマト」
のテーマソング三曲のメドレーでした。

生で聴く本チャンの(つまりある意味本家による演奏という意味)
「宇宙戦艦ヤマト」は、感動的ですらありました。
「銀河鉄道999」も、「ヤマト」も、すっかり日本人のスタンダードです。

ところで、なぜ「ヤマト」の曲を選んだのかというと、
この日の演奏会場が大和市だから。

異論は認めない。

8♪ マンボ No.5

ペレス・プラードというとマンボの王様が作曲したマンボの名曲。

なんてことを知っているのはきっとわたしだけにちがいない。
と思いつつ、なぜこの曲が選ばれたのか考えてみました。

今年は令和何年ですかー?
はい、年ですね。
で、マンボNo.5と。

異論は認めない。

この曲はボンゴなどラテンの曲に欠かせない打楽器がリードしますが、
ここでもう一度、会場の拍手による参加が強要されました。

サルサなど、アフロキューバン音楽でテンポを構成するリズムで、
クラーベ「clave」(スペイン語で鍵の意味)というのがあります。


拍手でこのリズムを取らせ、その上で
マンボNo.5の演奏が行われるというわけです。

ボンゴ奏者が途中でリズムを変化させ、頭をたたかせたりして
なかなか楽しいひと時でした。

ちなみに、No.5だけでなく、マンボNo.8、という曲もあります。

ペレス・プラード楽団 9/12 マンボ No.8 ( Mambo No.8 )

他は知りません。

9♪ スィングしなけりゃ意味がない
It Don't Mean a Thing (If it Ain't Got That Swing)

最後は、デューク・エリントンの名曲でした。
なんでもエリントンがシカゴの酒場での演奏の休憩時間に作ったとか。

この歌の歌詞ですが、タイトルをそのまま歌えばいいことになってます。

ちょうど横須賀音楽隊の演奏(@下総基地)が見つかったので
貼っておきます。

スウィングしなけりゃ意味がない /
海上自衛隊横須賀音楽隊 下総航空基地開設63周年記念行事

この曲は各自のアドリブソロが楽しめますが、
特に4:00くらいから始まるドラムのソロを是非ご覧ください。
この日も女性ドラマーが迫力のパフォーマンスで会場を沸かせました。

失礼ながら見た目は楚々としたヤマトナデシコ風の方なのに、
その気迫とのギャップに、つい萌えてしまいそうでした。

自衛隊音楽隊の人材の多彩さにはいつも驚かされます。


というわけで、ポピュラーで親しみやすい曲に包まれて、身も心も温まり、
「少しも寒くないわ」と(くどい?)会場を後にしました。

素晴らしい一夜を演出してくれた横須賀音楽隊の皆様と、
海上自衛隊第四航空群の皆様には、心から感謝を申し上げる次第です。







ルーブ・ゴールドバーグもびっくり?〜潜水艦「シルバーサイズ」

2023-01-20 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴン湖に係留展示されている
潜水艦「シルバーサイズ」内部紹介、前回までに
第二区画となる「フォワードバッテリーコンパートメント」、
通称オフィサーズ・アイランドまでが終わりました。

前方から入って行って後方に抜けるこの見学順路に沿って歩くと、
区画を区切る2番目のドアが現れます。



この二つ目の水密ドアを潜りますと、
次はいよいよ、この部分となります。


ボートの真ん中に当たるコントロールルーム
そしてその上に位置するコニング・タワーです。

■ コントロール・ルーム



まずは制御室、コントロールルームからです。

計器、ゲージ、スイッチ、およびバルブの塊が全体を埋め尽くす部屋、
それが制御室であり、ここでほとんどの艦体制御が行われます。

コンパートメントの大きさは長さ20フィート、幅約10フィートで、
両側を水密ドアで仕切られています。



潜水艦の中央近く、ボートの上にあるフィン型の構造物、セイル。
コントロールルームはこの真下に当たります。



「コントロールルームは、複雑な機械や装置を愛するすべての人に、
暖かくてファジーなフィーリングを与えます」

(『シルバーサイズ』パンフレットより)

まあ確かにそういう人もいるでしょう。

このゾーンで他の見学者とバッティング。
そして、わたしは彼らとバッティングして遠慮しまったことで、
このパネルの向こうの写真を詳細に撮ることを忘れてしまいました。

痛恨のミスです。



ここには2基の直径18インチ、高さ2フィートのジャイロコンパスがあり、
ここからボート全体のレピータに情報を伝達しています。

ラダーウィール(かろうじて左端にジャイロが見えている)

コンパートメントの前方先端、艦首側は、あたかも
窓のないアナログ時代の飛行機のコクピットです。

操舵を担当する乗組員は、任務の際、この直径3フィートの舵輪
(または上のコニングタワーの舵輪)の前に立ちます。

彼の前には、ジャイロコンパスレピータ、速度を表すピトーメータ
動力指令を操縦室に伝えるロータリーエンジン指令電信機
深度音響機、その他のガジェット、チューブ、ワイヤーがあり、
何の気なしに訪れた見学者を完全に混乱させるでしょう。
(とパンフに書いてある)



右端にかろうじて見えているジャイロコンパス

この部分を「ダイブ・ステーション」と称します。
大体左舷にあることが多いようです。




舵輪からすぐ右下側に目を写してみましょう。

ずらりと真鍮のハンドルが並んでいますが、これは
油圧バラストタンクのベントを行うバルブです。

潜水艦では「ベントを行う」イコール「バラストタンク注水」です。

バルブは、引くことでオープンポジションになり、
バルブが開くと、同時にバラストタンクの上部の空気が抜け、
そうするとタンクの底に水が入るという仕組みです。



通称「クリスマスツリー」

そのレバーの上、舵輪の右側をご覧ください。
緑と赤のインジケーターライトのパネルがあります。

このスイッチは、それぞれが潜水艦の各ハッチ、
または開口部にあるマイクロスイッチに接続されています。

これらのインジケーターは、開口部が閉じているかどうかを見るもので、
このパネルを一眼見ただけで、ダイビング・オフィサーは、
艦の全てのドアとハッチが閉じられ、潜航の準備可能かがわかるのです。

ただし、これはハッチが開いていることを警告する役目しか持たないので、
これでボートの水没が防げるわけがありません。

万が一にも、ライトの豆球が切れて状況を把握できないまま
敵機襲来が来て急速潜航することにでもなったら大変ですから、
スイッチの通電状態はきっと毎日チェックされたものと思われます。

そして、緑と赤のランプから、いつの頃からか、この設備は
🎄「クリスマスツリー」🎄
と呼ばれるようになったということです。

実際に哨戒中にクリスマスを迎えたこともある、「シルバーサイズ」。

その夜のレッドアンドグリーンライトは、故郷のクリスマスツリーを思わせ、
乗員たちの郷愁を一掃掻き立てたことでしょう。 

知らんけど。


左舷側のもう少し後方に、舵輪のような二つのウィールがあります。

これで、艦首と完備にあるダイブプレーン(潜舵)
航空機のテールよろしく上下に傾けて艦の動きをコントロールします。

ちなみに、舵輪、潜舵、バラストタンクのベント。
これらは全て油圧式となっています。

潜舵を操作するのは二人の操舵手で、
彼らの前には三つの大きな深度ゲージ、
まるで大工が使うような泡水準器などの計基盤があります。

これらの手の込んだ?大仰な機械類について、博物館の説明は

「ルーブ・ゴールドバーグが自慢しそうなほどの付属レバー」

としているのですが、
Rube Goldberg Machine
これは何かと言いいますと、アメリカの
「ピタゴラスイッチ」とお考えください。

というか、「ピタゴラスイッチ」が実はNHKのオリジナルなどではなく、
こちらが本家だということはあまり知られていません。
わたしも知りませんでした。

Inside the Book: Rube Goldberg | The New York Times


そこであらためて「ルーブ・ゴールドバーグマシーン」の定義とは。

普通にすれば簡単にできることを、あえて手の込んだからくりを多数用い、
それらが次々と連鎖していくことで実行する機械・装置のこと


です。

前置きというか関係のない説明をくどくどと行いましたが、
潜水艦のコントロールルームにある、「ルーブ・ゴールドバーグ」的マシン、
その一例が「ネガティブ・タンク」であるということが言いたかったのです。

そもそもなぜ「ネガティブ」なタンクなのか。
その稼働の過程とは以下の通り。

→ネガティブ・タンクをオープンする。
→内部が水で満たされる。
→するとそれで
負の浮力が発生する。
→ボートが引き下げられる。
→当然潜水の速度が早められる。

というわけで、これを負の浮力を発生させる=「ネガティブタンク」
と称するわけです。
日本語のウィキだと、ネガティブタンクのことは

「メインタンクの補助用の浮力微調整用小型タンク」

とだけなっていますが、このピタゴラ的説明の方が
名前の由来が分かりやすくていいですね。


潜舵コントロールの後方には、トリムバラストタンクにつながる
水バルブのマニフォールド(内燃機関の吸排気をする)があります。

これでボートの前部及び後部に水を送り、艦体のバランスを調整します。



二つの潜舵のこちら側には鋼鉄製の梯子が見えていますが、
梯子は部屋の中央にもあります。

コントロールルーム(制御室)の真上のコニングタワー(司令塔)には
中央にあるラッタル(はしご)からアクセスします。

この後方にあるのが、艦内の装備でも最も重要な、浮上ステーションです。




美しく完全に磨き上げられた真鍮の空気圧ゲージの列。
全てのバラストタンクと空気貯蔵庫の圧力を示します。



その下にはバラストタンクに高圧空気を入れるためのエアバルブがあり、
空気を入れることで、水を排出し艦をを浮上させます。



上部にも同じような磨き上げられた真鍮のパイプがあり、こちらは
低圧の空気をタービンブロワーからバラストタンクに導きます。

ブロワーはボートが水面にあるときに、
タンクから水を吹き飛ばすためのもので、
これによって圧縮空気の使用を節約することができるのです。




レーダー電子機器のラックがこのコンパートメントの後端の中央にあり、
ここが無線室となっています。

巨大な黒い無線送信機と受信機が、小さな机の周りに配置されています。


■魚雷起爆装置

ここで、見学中のわたしには気が付かなかったのが、天井です。
コントロールルームの天井こそ、重要な装置が満載だったのですが。



現地のパネルの一部にはその写真もありましたが、ご覧の通り。

ここには、インターコムロラン無線ナビゲーションシステムなど、
さまざまな電子機器や機械制御装置が詰め込まれています。

そして、古びたコーヒーの缶そっくりの赤い円筒には、(どれ?)
魚雷の起爆装置があるのです。(だからどれ?)

コントロールルームの床にはグリッドのハッチがありますが、
これは下のコンパートメント、ポンプ室に通じています。



制御室の地下にあるポンプ室

この部屋の非常に狭い空間には、二つの3,000psi 空気圧縮機、
冷却及び空調コンプレッサー、二つの低圧ブロワー、
ビルジポンプ、トリムポンプ、油圧ポンプなどがあります。

潜望鏡のある位置の底部は、ネガティブバラストタンクの上になります。
ちなみに「シルバーサイズ」博物館の説明には、

この空間は、閉所恐怖症には絶対に適していません。

とありますが、そもそも閉所恐怖症は潜水艦に乗ってきませんよね。




続く。

潜水艦の充電問題とエーテル麻酔のこと〜潜水艦シルバーサイズ

2023-01-18 | 軍艦

潜水艦「シルバーサイズ」でもらったパンフレットの中に、
こんな写真がありました。



前回掲載するのを忘れていたわけですが、これは
オフィサーズ・クォーター、実はフォワードバッテリーの左舷天井にある
ベンチレーション・ブロワーだそうです。

フォワード・バッテリーの床にあるハッチを開けると、
そこには200トン(全体量の半分)の電池があるので、
人体に有害なハイドロジェンガスを取り除くために
このような排気システムを備えているということなのでした。

というわけで、今日は潜水艦の充電問題にこだわってみます。


■危険がいっぱい!潜水艦の充電


当時潜水艦がバッテリーを充電するという不可欠な行為は、
敵に海面で遭遇する危険と、その際発生する音が敵を呼び寄せる危険、
それ以上に発生するガスの危険と必ず隣り合わせでした。

アメリカ海軍が、その後潜水艦の動力を原子力推進に変えたのも
当然のことだと思われますが、我が海上自衛隊の潜水艦は
ご存知のように最近まで縁蓄電池を使っていたのです。

その後、アメリカと違って原子力に一切頼ることができない自衛隊は、
浮上しなくても充電ができるシュノーケルシステムを選択しました。

ただ、このシステムも原子力潜水艦に比べれば楽というわけではありません。

なぜなら、充電の際には、シュノーケルだけを海上に出し、
深度を維持したまま航走しないといけないので、操艦の苦労
(といっていいのかどうか)がそれなりにあるわけでございます。

それにシュノーケルそのものが敵に見つからないわけではありません。
潜望鏡だって、時々航空機や駆逐艦から見つかって爆撃されるのですから。

海が荒れた日は、シュノーケルの先から海水が入ってくることもあるとか。

そうなると安全弁は自動で閉じてくれるのですが、今度は
エンジンが艦内の空気を吸い込みがちなので、艦内の気圧が下がり、
乗員阿鼻叫喚、ということもなきにしもあらずだと想像するわけです。


そこで日本国自衛隊としては、2020年に就役した「おうりゅう」から
リチウムイオンバッテリーを搭載するという画期的な変革を行いました。


「おうりゅう」SS-511

リチウムイオン電池を潜水艦に搭載する計画は、
発案から完成までなんと23年の年月がかかっています。

この長い年数が何を表すかというと、これだけ昔から、現場では、
シュノーケルに変わる安全な充電システムが
切実に求められていたということにほかなりません。


■ 海上自衛隊のリチウムバッテリー採用

ところでこのリチウム電池ですが、海外旅行をする人は、
航空会社のカウンターで、
「預けるお荷物の中にリチウムバッテリーはありませんか?」
と聞かれたことがあるかと思います。

アメリカから日本に荷物を送るときも、USPS(米国郵便)では
カウンターの職員が立て板に水のように浴びせてくる質問の中に、
「リチウム電池は入っていないか」
というのがあり、その答えとしてカウンターの機器に表示される
「NO」をクリックしないと、荷物を受け付けてもくれません。

なぜリチウム電池ばかりこうも口うるさく聞かれるのかというと、
それは発火しやすいからです。

10年くらい前に、ボストンのローガン空港に駐機していた機体が
リチウムイオン電池の発火を起こすという事件が起きて以来、
飛行機の機体にリチウム電池を使うことさえも見直されました。

ここでわたしが疑問に思ったことがあります。

一般にリチウム電池の発火の原因は、外部衝撃と異常発熱ですが、
だとすると、そういう条件下に置かれやすい戦闘艦に
なぜわざわざリチウム電池を選んだのか、今更ながら不思議なのです。

リチウム蓄電池にすると、蓄電量は従来の電池の2倍になることから、
潜航時間が大幅に伸び、充電の回数も減りますから、
原子力の手段を持たない自衛隊には願ってもない手段なのは確かです。

しかし、リチウム電池の危険性については誰でも知っていることなので、
発火問題については当然開発段階でも織り込み済みのはずです。

ここは、それらの問題はとうの昔に解決しているが、
潜水艦という特に秘密の多い兵器である関係上、
リチウム搭載の安全対策についても厳重な箝口令が敷かれているせいで
あまり語られることはないのである、と考えることにしましょう。

それにしても、どなたかこの疑問について何かご存知ではありませんか。


■ オフィサーズルームの記念写真


オフィサーズ・ワードルームの一隅には、
二つの記念額が掛けられています。

「シルバーサイズ」が撃沈した日本船の遺留品である浮き輪
(おそらく前にも出てきたことがある『神戸丸』のものと思われる)
に手をかけて、艦上で撮ったと思わしいこの写真の一人、
ロバート(ボブ)ウィリアムズ一等機関兵に捧げられたものです。

U.S.S.「シルバーサイズ」SS 236

ROBERT "BOB" WILLIAMS MM 1st CLASS


第二次世界大戦中の彼の下の勤務において
その哨戒中果たした卓越した働きに対して贈る

U.S.S「シルバーサイズ」SS-236 戦時哨戒8回

U.S.S.「シーオウル」 SS-405 戦時哨戒4回


1992年5月24日
彼のシップメイト、サブマリナー一同

U.S.S.「シルバーサイズ」&

海事博物館ディレクター一同より

アメリカにはボブ・ウィリアムズという名前があまりに多すぎて、
検索しても、この人についての情報は一切見つからなかったのですが、
書かれていることから推測すると、この人は、
かつては「シルバーサイズ」乗員だったようですが、
1944年に「バラオ」級潜水艦「シーオウル」が就役したとき転勤し、
第二次世界大戦中に「シーオウル」で哨戒3回に参加、
そして朝鮮戦争期間中に一度だけ行われた哨戒に参加したようです。



そしてその隣の盾には、展示用の改装で張り替える前の
オリジナルの「シルバーサイズ」デッキの木片が飾られていました。

そして、盾には、デッキを修復するために協力した
退役軍人からなるボランティアグループの名前が書かれています。
やはりこういう事業に手を上げたのは、
ほとんどが実際に潜水艦に乗り込んだサブマリナーだったんですね。

彼らの第二次世界大戦中の勤務先(乗り組んだ艦)だけを記しておきます。

USS「SAURY ソーリー」SS-189

USS「BLILL ブリル」SS-150


USS「REDFISH レッドフィッシュ」SS−395


USSOCOM(アメリカ特殊作戦軍

 United States Special Operations COMmand)

USS「BLOWERS ブロワー(フグ)」SS-525


USS「SILVERSIDES シルバーサイズ」SS-236

USS「S-42」SS-153

USS「LAMPREY ランプレイ」SS-372

USS「POLLACK ポラック」SS-180


■ 艦内での虫垂炎手術における麻酔について

「シルバーサイズ」をすっかり有名にした、「虫垂炎切除の手術」
について、私事からちょっと考えたことがあったので書きます。

前回、ファーマシスト・メイトのトーマス・ムーア
水兵ジョージ・プラターの虫垂切除術を行ったき、
4時間半の処置が終了するより

ずっと前に脊髄麻酔が切れてしまい、

エーテルを使用してなんとか最後まで眠らせた、
ということを前回書いたわけですが、麻酔といえば、
わたし自身がその体験をしたのでちょっとご報告です。

昨年ちらっとブログ上でご報告したわたしの内視鏡手術ですが、
全身麻酔を受けたことがある方ならご存知のように、
エーテルを嗅がされてほぼ数秒以内に意識を失い、
次の瞬間目覚めたと思ったら手術は終わっていました。

通常の手術で患者が意識を失った途端、麻酔医は口から管を突っ込んで
人工的に呼吸を管理し、手術が終わったら患者を目覚めさせます。

施術中眠らせていた患者を起こすタイミングも、上手い医師ならば
ぴたりと終了に合わせることができるそうです。

意識が戻って自発的に呼吸できることを確認したら、
麻酔医は患者に告知確認した上で、口に突っ込んでいた管を
ずるずると引き出すのですが、いやまあ、これの苦しかったのなんのって。

はっきり言って、今回の手術で辛かった&痛かった瞬間ベスト3は、

1、この管を抜く時と、
2、退院の日に鼻からガーゼを抜いたとき、そして
3、退院後検診で残っていた組織の一部を鉗子を突っ込んで取った時

でした。

鼻からガーゼを抜いた時はもう壮絶でした。

「これ持っててください」

と言われて地蔵のように胸元に捧げ持たされた膿盆の上に、
主治医が果てしもなく次々とガーゼを引っ張り出して来るのです。
これが痛い&辛い&終わらない。

永遠に続くかと思った時間が終わり、トレイを看護師さんに渡すとき、

え・・・っ」

と驚愕のあまり声を発してしまったほど、
その上は大量の真っ赤な包帯による小山ができていました。

昔、自分が出産したばかりの赤子を見た途端、
「こんな大きなものが、今までどうやって体に収まっていたのだろう」
と衝撃を受けましたが、今回もそれに類する衝撃です。

これだけの包帯を詰め込む空間が身体の中(しかも鼻腔)によくあるもんだ。
と今更ながら人体の不思議に目を見張る思いでした。

しかも術後一週間も経っているのに、こんな痛い思いをするのだから、
例えば手術が終わってからこれだけの包帯を鼻の穴につめこむとき、
もし万が一麻酔が切れていたらどんな恐ろしいことになるでしょうか。

長々と語りましたが、要は、患者にとって、
手術中麻酔が切れるほどの恐怖と危険はないということがいいたいのです。

「シルバーサイズ」の例でも、もし開腹中目が覚めてしまったら、
冗談抜きで、患者は痛みでショック死していたかもしれません。

エーテル麻酔に切り替えることを誰がいつ決定したのかは
そこまで記録を確かめることはできませんでしたが、
一つ言えるのは、手術中麻酔がこのままでは切れると分かったとき、
寝ている本人以外の全員が生きた心地もしなかっただろうということです。

そして、脊髄麻酔をエーテルオンリーに切り替えたのは英断でした。

しかしその代償として、潜水中の潜水艦の中に煙が立ち込め、
爆発性の高いエーテルが満ちた潜水艦に、今爆弾が投下されたら、
患者どころか全員が確実に死亡という状態になりました。

結果としてそういう事態にならず、全員が無事で哨戒を終えました。

これはただ単に「シルバーサイズ」が幸運だったということなのですが、
それでも、一人の命を救うためにあえて全員にリスクを負わせる
この決定を下した艦長は、実に豪胆だったといえるのかもしれません。


続く。



フォワード・バッテリー・コンパートメント(士官居住区)〜潜水艦「シルバーサイズ」

2023-01-16 | 軍艦

一連のシリーズも終わったので、またもう一度
ミシガンマスキーゴンの「シルバーサイズ」博物館シリーズに戻ります。



いよいよ艦内探訪編に突入した潜水艦「シルバーサイズ」シリーズ。
今日2回目にお送りするのは前方から2番目の区画、

フォワード・バッテリー・コンパートメント
(Forward Battery Compartment)


です。



全体で言うと、この赤丸部分になります。


「シルバーサイズ」の見学で最初に通るのが前部魚雷発射室。
前部魚雷発射室との境を隔てる水密ドアをくぐります。

するとそこに現れるのが

オフィサーズ・クォーター(士官居住区)

なので、この部分のことは前部バッテリーコンパートメントというより、

「オフィサーズ・カントリー(Officer's Country)」

という名称の方が一般的となっています。
ご覧のように、狭い廊下がコンパートメントの奥まで走っており、
床はグリーンのリノリウム、そして壁は磨き上げられたステンレスです。

魚雷室からやってきた者の目で見ると、このコンパートメントは
それまでほど複雑なものはなさそうで、現実にその通りです。

コンパートメントの長さは27フィート、幅13フィートで、
左舷側に士官の食事を暖かく保つためのパントリーがあります。
その後ろにはワードルーム(おそらくボートの中で最も快適で家庭的な部屋)
があって、ここで役員たちが食事をしたり会議を開いたりします。



さて、実際に見ていきましょう。

ステンレスのパントリーは廊下のポートサイド、左舷側にあります。
見学者の進行方向から言うと右側です。

コーヒーメーカーを置くラック(ポット二つ分)、
綺麗なシンクと、トースターが見えます。

しかし、シンクには、

注意
わたしたちの潜水艦をどうか綺麗に保ってください!!!!
シンクの中にはいかなる液体も流してはいけません

と貼り紙があるところを見ると、少なくともキッチン関係の設備は
キャンプなどでも使われていないらしいことが推察されます。

キャンプに参加した人の写真を見ても、
ベッドに寝たり(毛布持ち込みでオーバーナイトするので)、
艦橋で敬礼したりしているものはありますが、
サンドイッチや飲み物を取っている様子は全くありません。

キャンプの詳細も、食事はついてこないとなっているので、
もしかしたら夕食はお弁当か、親と一緒に食べるのでしょうか。

いずれにしても、実際の「シルバーサイズ」でも、
パントリーは食事の準備用ではなく、簡単なそれこそサンドイッチ、
コーヒー、そして軽食を作るために使用されていたようです。

オフィサーズ・アイランドにあることから、
「シルバーサイズ」の賄い係は、このエリアに待機して、
士官たちが食事をする間、サーブしたり食器をひいたり、
ウェイターの役割を果たしていたようです。



そしてその士官の食事ですが、もう少し後ろにある「ボーツ・ギャレー」
(boat's galley)
で調理したものが運ばれていました。

ただし、大型の水上艦などと違って、何かと公平な潜水艦勤務ですから、
士官たちは下士官兵と同じものを食べていたということです。

空母や戦艦などは厳密に階級ごとに食事のランクが違って、
ことに士官と下士官兵のラインは残酷なくらい露骨でしたが、
潜水艦の場合、ちゃんとしたキッチンは一つしかありませんから、士官も
せいぜいおやつや夜食を作ってもらえるくらいの役得しかなかったようです。

ちょっと特別気分があるとすれば、士官用テーブルがあって、
同じ食べ物でも、士官たちには高級な陶器に乗せて供されることでした。

その食器を収納していたのが、このパントリーだったのです。


こちら、ワードルームでございます。
ダイニングテーブルは拡張が可能。

そしてこのテーブルこそが、あの手術で手術台となったのです。

「シルバーサイズ」をすっかり有名にした、1942年12月22日の事件は、
戦闘とはほぼ何も関係のない「虫垂炎の手術」でした。

医師免許を持っていない、薬剤師のトーマス・ムーアが、哨戒中、
水兵ジョージ・プラターの虫垂切除術を行ったというこの件ですが、
今回調べたところ、手術のために打った脊髄麻酔は、
その間攻撃があったせいか、単に手際の悪さか、4時間半の手術が終了する

ずっと前に切れてしまい、
代わりにエーテルを使わざるを得なかった

ことがわかりました。

おいおい。

そして潜水中の潜水艦の中で、爆発性の高いエーテルを使ったところ、
手術中煙が立ち込め、乗員の極限の緊張で満たされました。

しかし、ここで何度も書いているように、スプーンを開口器にするなど
ムーアはお手製の用具を駆使して、手術をなんとかやり遂げたのです。

彼は薬剤師だったので、これまで手術は横で見ているだけだったのですが、
盲腸の手術に立ち会った経験があったことはラッキーでした。

これが本当の門前の小僧習わぬ経を読むってやつです。

ちなみに、このとき手術したムーアと手術されたプラターですが、
それからさらに60年間生きたと言う情報が残されています。
(ところでプラターはともかく、ムーアのその情報いる?)


手術された人(左)とした人


区画では、「シルバーサイズ」哨戒を紹介するシリーズで何度も登場し、
史実と照らし合わせて検証したところの「戸棚に描かれた旭日旗」
つまり彼らが撃沈撃破した(と確信していた)日本艦船の数をペイントした
食器戸棚を左上にご覧いただくことができます。



扉は部屋全体に9枚しかないので、
最初の9回分の哨戒の戦果しか残されていません。



コンパートメントの残りの部分が、士官たちの寝室となります。

そしてこれが艦長室
潜水艦では、ただ艦長だけが一人部屋に寝起きすることができます。

艦長室にはバンク(寝床)、デスク、金庫(safe)、
艦内電話、そしてジャイロ・コンパス・レピーター(従羅針儀)、
デプス・ゲージ(深度ゲージ)
などが装備されています。

従羅針儀とは艦の中心にある主羅針儀に対して、
一般の艦船では左右の張り出しウィングにあったりするもので、
主羅針儀と同一示度を表示しています。
潜水艦ではなんと艦長の私室に備えてあるものなんですね。

いかに個室と言ってもこれだけ色々あれば狭くなりそうですが、
お好きな人にとっては、なかなかコージーな居住空間かもしれません。



そしてその向かいにあるのが、”yeoman’s office"

ヨーマンというのはそのままの意味でいうとイングランドの独立自営農民、
と全く意味がわかりませんが、海軍ではこれを事務下士官としています。



プロトコル、海軍からの指示の受け取り、下士官兵の評価、
下士官のフィットネスレポート、メッセージ受け取り、訪問者取継ぎ、
電話、郵便、メールなどの管理がその仕事です。

ファイルの整理、事務機器の操作、事務用品の注文と仕入れ、
手紙、通知、指令、書式、報告書の作成、そしてタイプ。

乗組にはヨーマン、ヨーマン・サブマリン共に最低4年の勤務が必要です。



ヨーマンの階級は次のようになっています。

ヨーマン シーマン 新卒 / YNSR (E-1)
ヨーマン シーマン アプレンティス(見習い) / YNSA (E-2)
ヨーマン シーマン / YNSN (E-3)
ヨーマン 3等水兵/ YN3 (E-4)
ヨーマン 2等水兵 / YN2 (E-5)
ヨーマン 1等兵 / YN1 (E-6)
チーフ ヨーマン / YNC (E-7)
シニア チーフ ヨーマン / YNCS (E-8)
マスター チーフ ヨーマン / YNCM(E-9)。

(「ヨーマン」がゲシュタルト崩壊してきた)

ちなみに最強のヨーマンとは、

「ヨーマン・フラッグ・ライター」(Yeoman Flag Writer)

というヨーマンで、
通常一等兵曹(E-6)以上の階級とされ、将官や将校、その他、
上級士官の個人的なスタッフとして仕える能力の持ち主です。

同じ副官でも、大佐と提督のそれは、
経歴も能力もかなり違うというのと同じでしょう。

「フラッグライター」の仕事は、個人的および専門的な通信文 を起草し、
社会的な使用、プロトコル、名誉および儀 式に関する事項を処理し、
旅行命令を作成および清算するという任務のほか、
将官または将校が署名する「将校報告書」を作成します。

彼らはいかなる部署からも独立して機能することができなければなりません。

フラッグライターとして勤務する者は、非常に目立つ立場にあるため、
常にプロフェッショナルな態度で行動することを要求され、
さらに、将官のいかなる追加的要求をも十分に満たせなくてはなりません。



”ヨーマンズ・オフィス”

『ヨーマンは「シルバーサイズ」全てのレポート、ファイル、
及びその他の書類を追跡する役目を持っていました。

ヨーマンは下士官であり、事務的な仕事全般を請け負いました。』





あとは士官たちの寝室となります。

ところで普通レンズだったのでこんな写真しか撮れませんでした。
どうしてiPhoneの広角で撮ることを思いつかなかったのか。(反省)

この部屋はXO(副長)などちょっと偉めの士官用だったのか、
二人分のバンクしかありません。


士官室には一応洗面台も取り付けてあったりします。
洗面ボウルは引き出して使います。



それでも三段ベッドが基本。
一番上は壁が斜めですが、とりあえず飛び起きても
頭を打つことはないので、一番階級が上の人が取ったと思われます。



向こうのベッドは、ベッドの下に収納引き出しがあるので、
下の段のベッドはベッドごと引き出して使います。

うーん、ここもなかなか寝心地良さそう。(当社比)



不思議な作りの洗面台ですが、どうも折りたたみできる
洗面ボウル部分が紛失してしまっているように思われます。

扉の向こうはおそらくシャワールームだったと思われます。


これが正しい姿

■ 潜水艦の”ヘッド”とシャワー


さて、ここで士官たちが使っていたトイレとシャワー室を見るために、
もう一度扉をくぐって前部魚雷発射室にお戻りください。

トイレのことを海軍では「ヘッド」と言いますが、
(昔帆船時代にトイレは船首に開けた穴から”落として”いたことから)
ここにあるのは士官用ヘッド、士官用シャワーブースです。


この潜水艦の中では、特にボーイスカウトなどの少年団体向けに
週末のスリープオーバー(お泊まり)企画が催されている、
ということをご紹介したことがありますが、もしかしたら
艦内で寝泊まりするキャンパーのために、少なくとも電気、水、
そしてトイレと洗面所は使えるようになっているのでしょうか。

まさか、夜中トイレに行きたくなったら、
その度に上陸しなければならないってことは・・・ないよね?

それはともかく、「シルバーサイズ」が現役時代のトイレについてです。


立ったまま用足し禁止(多分ね)

潜水艦のトイレは、加圧された海水で洗浄されます。
ボールバルブがトイレの水洗を操作し、
「トイレの配管の中フリー」(何もない状態)にすることができます。

流した後は、便器の横にあるバルブを手動で回して便器に水を補給します。
この方法は、次のような手順で行います。

1、レバー式の排水弁を開ける
2、洗浄バルブを開く
3、便器と排水管の両方を十分に洗浄するのに十分な時間、
バルブを開いたままにしておく
4、排水弁を閉じる
5、水洗弁を閉める前に、数インチの水を排水弁にかける


昔はその手順が12段階あり、そのうち一つでも失敗したら
そのときはかなり悲惨なことになったそうです。

潜水艦のトイレでは、衛生面が最優先されます。
そして最も憂慮されるべき悲惨な「洪水」が起きないようにするため、
さまざまな工夫が施されています。

例えば、パイプの下には、異なるセクションを隔離するためのバルブがあり、
排泄物を処理するときに、圧力が意図した方向にのみかかり、
使用者の方に決して戻ってこないようになっています。

潜水艦のクルーは、最初から手順の実行方法を脳髄に叩き込まれますので、
彼らがその手順で失敗を犯すことはまずありません。(多分)

(ここまで書いて、ここのトイレは一般の人、特に子供には
絶対に使わせるの無理、と確信しました)


そしてシャワーです。
水が貴重な潜水艦内で、どのくらいの頻度でそれは許されたのか?

答えは、

料理人、パン職人は毎日
士官は3〜5日に1回
乗員は13〜15日に1回

というご無体なものでございます。

士官の3〜5日でも大概だと思うのに、下士官兵となると
二週間に一度しかシャワーが使えなかったとは・・・。

まあ、匂いは自分がその中にいると慣れますからね。
側が思うほど本人たちは苦痛ではなかったと・・・信じたい。


さて、潜水艦のシャワーは、家庭用とほぼ同じように設置されています。
温水と冷水があり、再循環ポンプでお湯が出るようになっているので、
水の使用量を最小限にして、すばやく効率的に利用するのです。

水の使用量を減らすことは、潜水艦乗組員にとって常に大きな課題です。

もちろん海水から水を作ることができないわけではありませんが、
使用する水が少なければ少ないほど、ポンプで汲み上げる水も少なくなり、
結果としてできるだけステルス性を保持することにつながるからです。


できるだけ廃棄物を減らすこと。
この掟により、シャワーの時間は通常は3~5分です。

潜水艦乗員は効率的な体の洗い方を熟知しています。

体を濡らす!

水を止める!

石鹸をつける!

水で流す!

以上!

潜水艦では、効率と無駄を省くことが何よりも大切なのです。


■なぜ『フォワードバッテリーコンパートメント』か

ところで、第二の区画にはほとんどが寝室とかしかないのに、
なぜこの部分の名称が「バッテリー」なのでしょうか。

その手がかりは、廊下の頭上に見られます。



オフィサーズ・クォーターの廊下の左舷側には、
一見場違いな送風機モーターがぶら下がっていて、
その真下の床には、細身の男性が入ることのできるハッチがあります。

ハッチを開けると、そこには死んだ前艦長の霊が・・。

じゃなくて、そこは現在、まるで洞窟のような空間、
しかも”おまいらのお婆ちゃんのうちの地下室”みたいな空間です。
(これはアメリカ人向けの説明なので、
”おまいら”は当然アメリカ人です念のため)

しかし、このボートが就役していた頃、このスペースには
ボートの400トンの鉛蓄電池のうち半分がぎっしりと満たされていました。
つまり前部バッテリー200トン分ですね。



より精密な状態を知りたい方のために、
バッテリーと送風システムの図解を示しておきます。

ベンチレーション大事。

戦後展示艦となってから、「シルバーサイズ」からは
バッテリーは取り外され、空間となった部分のバラストの損失を補うため、
コンクリートブロックに置き換えられました。

ところで、海軍はどうやって400トン、合計52個のセル
(それぞれ21✖️15✖️54インチ、重量1,650パウンド)

のバッテリーをドアとハッチの廊下の下から取り出したのでしょうか?



この答えは、わたしの写真には残っていないので、
お見せするわけにはいかないのですが、
少し移動した場所の頭上には重いスティールパッチが確認されます。
一旦圧力隔壁に開けられた穴を防ぐためにシールされ、溶接されています。

つまりそこから入れたものを出し、後を塞いだのでしょう。


バッテリーは潜水艦特有、かつ不可欠な動力部品です。
なぜなら、空気吸入ディーゼルは、水中ではそれほど長くは保ちません。

そしてプロペラは発電機としてのみ起動するものではなく、
電気モーターによって駆動されます。

バッテリーは、発電機からの450ボルトの電力を蓄え、
ボートが潜航したときに電力を供給します。

バッテリー電源の持続時間は、
ボートの速度と充電の状況によって異なってきますが、
通常、ボートはバッテリーを充電して一晩中水面を航走しました。

前部バッテリーは、126個の蓄電池を前後に21セルずつ、
6列で配置され、それらは31ガロンの電解液を含み
ます。

これらのバッテリーは浮上した状態でなければ行えず、
充電中には発生する水素ガスを除去するための換気が必要でした。

天井のブロワーは、水素ガス排出システムの一部であり、
バッテリーを充電するときに発生する爆発性のガスを除去するものです。



第2のコンパートメントは、どちらかというとバッテリーが主で、
士官用の居住区というのは、あくまで従ということになります。

さすがは潜水艦。
って何がさすがかわかりませんが。


続く。



「勝利のコカコーラ」タスキギー・エアメン〜スミソニアン航空博物館

2023-01-14 | 飛行家列伝

「我々を飛ばせてください!」

アフリカ系アメリカ人搭乗員が訴えているのは
War Bond、つまり戦時国債を買おうという呼びかけ。

「ヴィクトリー・ボンド」とも呼ばれていた戦時国債とは、
政府が発行する負債証券で、つまり国民に買わせて
戦争に必要なお金を集めるための方法です。

いうならばアメリカ国民が戦費のために
政府に資金を貸し付けて、政府がそれを運用するわけです。

プロパガンダとして行われる戦時国債の購入の呼びかけには、
必ず愛国心や良心へのアピールが伴いました。

アメリカで戦時国債を推し進めたのは、ヘンリー・モーゲンソーです。
1940年の秋、プロパガンダを専門とする政治学者に協力を求め、
財務省は以前成功した「赤ちゃん国債」「防衛債」に替えて販売しました。

1941年12月7日に日本軍が真珠湾を攻撃し、米国が参戦すると、
債券の名称は最終的に戦時国債に変更されることになります。

宣伝のために、あらゆるアート関係が動員されました。

Warner Brothers | Any Bonds Today | 1942

「国際を買おう」と踊るバックス・バニー。


以前当ブログでも詳しく説明したことがある、
ノーマン・ロックウェルの「四つの自由」とか。

面白い?のは、アメリカは国債を買わせるために、例えば宗教の教義で
戦争を遂行することに協力することを禁じられている
クェーカーやメノナイト、ブレザレン教徒のための代替として、
「War」と書かれていない国債を販売していたことです。

冒頭のアフリカ系パイロットを使ったポスターも、
ある意味そういった役割を担っていたかもしれません。

アフリカ系が航空分野に進出し、剰え士官になることに反発していた
当時のKKK寄りの白人はこれを見て面白くないかもしれませんが、
流石にこれを見て国債を買わないというくらいの黒人嫌いより、
これを見て国債を買おうと思う黒人の方が多いに違いないからです。

国債はその辺うまくできていて、例えば「戦時国債」と書かれた
10セントの切手もあって、これは何枚か集めて
財務省公認のアルバムにコレクションするなどということもできました。

子供でもお小遣いで買うことができるのがミソです。

国債を集めるための宣伝活動として、
軍楽隊がコンサートに回ったり、あるいは地元の野球チームと
タスキギー飛行隊のメンバーとの親善試合、なんてのもあったようです。

ちなみにこのポスターの飛行士にはモデルがいて、
タスキギー・エアメンのウィリアム・ディアスWilliam Diezだそうです。

実物の方が明らかにイケメン

■ 防衛隊(On The Home Front)

さて、アラバマ州タスキギー航空基地は、お話ししてきた通り、
アフリカ系アメリカ人の戦闘機ならびに爆撃機パイロット養成のための
Vital Center、中心となりました。


タスキギー航空基地で、主任飛行教官の
C・アルフレッド「チーフ」アンダーソンの操縦する飛行機に乗る
エレノア・ルーズベルト大統領夫人の図。

またこれか、と言わず、今日は別の話ですので我慢してください。

エレノア・ルーズベルトのこの時の「気まぐれ飛行」が
本当に気まぐれだったのか、実はそうではなかったのかはともかく、
大統領夫人が飛行機に乗るのが好きだったことは間違いありません。

そして、アメリカ軍の中の人種平等を公然と推進していたのも事実でした。

無邪気な天性のリベラルであったらしい彼女は、
「他民族に対する愚かな偏見」を嫌い、真珠湾攻撃直後には
わざわざカリフォルニアの日系アメリカ人たちと一緒に写真を撮ったりして、
多くの「保守派」アメリカ人の怒りを買ったりしています。

「本当に忠実なアメリカ市民のために」

という信念のもと、日系アメリカ人の権利も守られるべきだとし、
政府によって凍結された日系人の資産から生活費を引き出せるように、
ワシントンの政府高官に直々に掛け合ったりもしています。

日系人たちとは手紙をやりとりし、収容所を訪問し、資材を寄付、
奨学金の設立と、彼女は考えられる限りの方法で支援を行いました。

そのせいで、彼女は有形無形の脅迫も受けていたらしく、
いつの間にかピストルを携帯するようになっていたと言われます。

あるとき「最も恐れていることは何か」と問われた彼女は、

「恐れること・・・それは、

肉体的、精神的、道徳的な恐れの結果、
自分の正直な信念からではなく、

恐怖によって及ぼされる影響に甘んじること」

と答えました。



「ホームフロント」とタイトルされたコーナーの写真より。

アフリカ系アメリカ人の男女が航空機の組み立て工場で作業しています。

パイロットやエンジニアだけでなく、当時アフリカ系は
あらゆる防衛産業に労働力を提供していました。

INTO COMBAT〜 実戦への投入



リンクウッド・ウィリアムズ Linkwood Williams

練習機の横に立つウィリアムズ。
タスキギー飛行士の中でもインストラクターを務めるほど、
才能のある黒人飛行士の一人でした。

そうして創立され、訓練を受けたタスキギー航空隊のメンバーが
いよいよ実戦に投入される時がやってきました。



戦闘に投入されたタスキギー・エアメンの紹介です。


コカコーラの瓶を持って
チャールズ・B・ホール 
Charles Blakesly "Buster" Hall 1920-1971


「バスター」というあだ名をつけられたホールは、第二次世界大戦中、
アフリカ系メディアによって最も評価されたパイロットでした。

彼はまた、敵機撃墜した戦闘機パイロットとしての、
初めてのアフリカ系アメリカ人という称号を持っています。

インディアナ州の窯焼き職人の家に生まれた彼は、
学業、フットボール、陸上競技で優秀な成績を収め、
イースタン・イリノイ大学では、医学部予科を専攻しました。

大学在学中は学費を稼ぐため、勉強しながらボーイをしていたそうです。

1941年、航空士官候補生としてアメリカ陸軍航空隊に入隊し、
タスキギー軍飛行場で上級飛行士候補生の訓練をうけ、
ウィングマーク取得と同時に、士官任官を果たしたホールは、
その後第332戦闘航空群第99戦闘航空隊に配属されました。

「バスター」(やっつける人みたいな意味)というあだ名は
彼が戦闘機パイロットとして実績を上げてからつけられたものです。

第99戦闘機隊のメンバーとして北アフリカ、イタリア、地中海、
ヨーロッパで通算198のミッションをこなしました。

初撃墜は1943年7月、シチリアのカステルベトラノ飛行場を爆撃する
B-25中型爆撃機の護衛任務に就いた彼は、
P-40でドイツのフォッケウルフFw190 Würgerを初撃墜し、同時に
敵機を撃墜した最初のアフリカ系戦闘機パイロットとなったのです。

その日の帰投後、初勝利を祝って、第99戦闘飛行隊は、
シャンパンの代わりに、最後に冷えたコカ・コーラのボトルを
「バスター」ホールに与えました。

この写真で、ホールが持っているのはその時の「勝利のコカコーラ」です。

しかもこの撃墜は、1943年に99戦闘飛行隊が唯一獲得したものでした。

彼はこの功績により、殊勲十字章を獲得しましたが、
もちろんこれもアフリカ系アメリカ人で初めての快挙でした。

彼はすぐにアフリカ系マスコミのスターになり、
いくつものアフリカ系新聞がホールの勝利を大々的に報じました。

例えばピッツバーグ・クーリエ紙には、

「99戦闘機隊のパイロットがナチの飛行機を落とす」

という文字が大見出しに踊り、彼の似顔が早速描かれました。

また、連合国最高司令官ドワイト・アイゼンハワー将軍は、
ジミー・ドーリトル将軍カール・スパッツ将軍などの将官とともに
北アフリカの部隊を訪問した際、第99戦闘飛行隊の基地を訪れて
バスター・ホールを個人的に祝福しています。

彼の活躍に牽引された黒人飛行隊第99部隊はさらに快進撃を行いました。

1944年、イタリアのアンツィオではFW190の大編隊を迎撃した際、
11機のドイツ軍機を撃墜し、国内を驚かせます。

すでに大尉となっていたホールは、この空戦で2機のFW190を撃墜し、
空中戦での勝利を3に伸ばし、またしても殊勲十字章を獲得しました。

第二次世界大戦中、第332戦闘機隊パイロットのうち、
9人が、3機撃墜を記録していますが、ホールはその一人となります。



アンドリュー・D・ミッチェル中尉 Andrew D. Mitchell

写真は、ギリシャ上空で撃墜されたあと、無事に基地に帰還をして、
メディアのインタビューを受けるミッチェル大尉です。

彼が撃墜されたのは、第51兵員輸送航空団の護衛任務でのことでした。
敵地に降りた彼を、現地のパルチザンが匿ってくれ、
連合国に逃げ延びる手伝いをしてくれたことなどを語っています。

額の包帯はそのときの怪我がまだ癒えていなかったということでしょう。


アーウィン・B・ローレンス大尉 Erwin B. Lawrence

ローレンス大尉は1944年ギリシャのドイツ空軍基地への爆撃任務中、
戦死したタスキギー航空隊員です。

タスキギーの最初の卒業生であったローレンスは、この時
第99戦闘機隊を率い、北アフリカ、次いでイタリアで任務を行いました。

1月27日、ドイツ軍のアンツィオを急襲の際、少尉だったローレンスは
FW-190と交戦して、これを撃墜し初勝利を挙げました。

3ヵ月後、ローレンスは大尉に昇進し(スピード昇進がすごい)
第99戦闘飛行隊の指揮官として、いくつかの護衛任務を指揮しました。

ローレンス大尉は、P-40とP-51に乗って、
1年半の間に100回近い任務を遂行し、戦死しました。

イタリアのフィレンツェにあるアメリカ人墓地に埋葬されています。



リー・A・アーチャー大尉 Lee A. Archer

第二次世界大戦中の第332航空隊の中で、
彼もまた最も優れた戦闘機パイロットの一人と称賛されます。

第二次世界大戦中、アーチャーは爆撃機の護衛、偵察、地上攻撃など、
169の戦闘任務をこなし、4機の敵戦闘機を撃墜したと主張していましたが、
彼の死後、この主張には論争が起こっているそうです。
(撃墜数に疑義が起こるのは当時のあるあるですが)

しかし、彼が1日の戦闘で3回の空戦勝利を収めたのは確かです。

ちなみに、タスキギーエアメンには、アーチャーと同じく、
一回の出撃で3機を撃墜したパイロットが4名もおり、
他の3人は、ジョセフ・エルスベリー、クラレンス・レスター、
ハリー・T・スチュワート・ジュニア
であることもわかっていますが、
残念ながら他戦闘機パイロットほど彼らは有名ではありません。



■ スコードロンマーク


第99戦闘機隊 第100戦闘機隊(レッドテイルズ)
第302戦闘機隊  第301戦闘機隊


左から時計回りに、全てアフリカ系航空隊のマークです。
どれもキャラが心なしか「黒人ぽい」気がします。

左下のにゃんこ?は画力が微妙すぎてなんとも言えませんが。

人種差別撤廃と共に黒人だけの部隊は無くなりました。

第100戦闘機隊は冷戦後縮小された結果、不活性化されましたが、
「レッドテイルズ」の遺産を尊重するという意志から、
アラバマ州立空軍の戦闘機部隊としてイラクにも遠征をしています。
ファイティングファルコンを使用していましたが、
2023年以降はF-35ライトニングIIを装備することになっています。

第301、302戦闘機隊は現存し、いずれもF-22を装備する空軍部隊です。



そしてその上に立つ第332戦闘機群、「スピットファイア」のマーク。

戦地から手紙を書くエアメン

■ フリーマン・フィールドの反乱

最後に、本日紹介したバスター・ホール中尉も関わっていたという、
黒人将校のある反乱についてご紹介して、この章を終わります。


1945年、インディアナ州のフリーマン陸軍飛行場で事件は起こりました。

それは、黒人に使用を許されない将校クラブを、
黒人爆撃隊のメンバーが解放しようとして起こった事件でした。


第二次世界大戦は終わり、戦争への貢献を認められた黒人航空部隊でしたが、
そもそも人身から差別が撤廃されたわけではないので、
相変わらず軍には白人と黒人の分離を厳格に行う基地司令が存在し、
全ての人種に解放されるべきとされていた将校クラブも、
そんな司令の下では黒人将校のしようを禁じるといった状態のままでした。

反乱の起こったフリーマン基地の司令セルウェイ大佐は、「分離派」。
まあ平たくいうとバリバリの「差別派」で、移転先のこの基地に
将校クラブを最初から二つ、白人黒人専用と分けて作りました。

そこで黒人将校グループはこの隔離に異議を唱える行動計画を決定しました。

抗議方法は強行突破あるのみ。

まず、二組の黒人将校がクラブに入り、サービスを拒否されますが、
彼らはあえて、何回もクラブへの着席を試みました。

そのうち白人の将校が銃をむけて退席を求めるも、彼らは拒否。

ついには逮捕命令が出されても、何人かは抗議行動を続けました。
騒ぎは二日間つづき、合計61名の黒人将校が逮捕される騒ぎになりました。


基地司令セルウェイ大佐は、一旦彼らを釈放してみせ、
分離規則を受け入れるサインをすれば逮捕はしないよー、と迫りましたが、
1001人の黒人将校は、誰一人としてサインをしなかったため、
結論として162人が逮捕(そのうちの何人かは2度逮捕)されました。

逮捕された黒人将校たち

軍法会議の結果、3人は比較的軽い罪でしたが1人は有罪になりました。



ロジャー・テリー中尉(Rodger”Bill"Terry)の罪状は、
白人中尉を「もみくちゃにした」というもので、150ドルの罰金、階級剥奪、
さらには不名誉除隊という厳しい判決を受けました。

驚くべきことですが、この騒動が起こったのは1945年6月。
いくらもう勝ちが見えていたとはいえ、一応日本との戦争中です。

戦争中の軍隊が、こんなことでいいのか。いやよくない。

しかし、当時はまだ公民権運動も起こる前のアメリカ、
結局この判決は覆ることなく、そのまま騒動は収められてしまいました。

その後、1995年、空軍は公式にこの時のアフリカ系将校の行動について
有罪となったテリー中尉のの軍法会議の判決を無効とし、
15人の将校を免責としました。

ちなみにたった一人有罪とされてしまったロジャー中尉ですが、
元々カリフォルニア大学で法律の学位を取っていたため、
除隊後は、ロスアンゼルスの地方検事となることができました。

そして映画「レッドテイルズ」が制作されたときには、
当事者としてアドバイザーを務め、2009年に87歳で亡くなりました。

後世の公民権評論家は、この反乱について、

「軍隊の完全統合に向けた重要な一歩であり、市民的不服従を通じて
公共施設を統合しようとする、後の努力の模範である」

と評価しています。


続く。




戦う『黒い翼』ベンジャミン・O・デイヴィスJr.〜スミソニアン航空博物館

2023-01-12 | 飛行家列伝

いろいろと間に挟まって中断されていましたが、
スミソニアン博物館展示の航空シリーズの続きをやります。

これも途中までになっていた黒人ばかりの航空隊、
タスキギー・エアメン展示から、黒人で初めて将軍までなった
ベンジャミン・O・デイヴィスJr.についてもう一度お話しします。

「Into Combat」(戦闘への投入)としてまず、

「デイビスは、第二次世界大戦中、北アフリカ、
そしてイタリアにおける空中戦において
ナチスドイツから味方の長距離爆撃機を援護する任務で
タスキギー・エアメンを率いました」


とあります。

■ ベンジャミン・O・デイヴィスJr.


タスキギー・エアメンの物語は、ベンジャミン・O・デイヴィスJr.の生涯と
そのキャリアなしで語ることはできません。

ベンジャミン・オリバー・デイヴィス・ジュニアは、
1912年ワシントンDCで、ベンジャミン・O・デイヴィス・シニア
エルノーラ・ディッカーソンの3人の子供の2番目に生まれました。

父のデイヴィス・シニアはアメリカ陸軍で最初に黒人将校になった人物です。



なぜこの時代、デイヴィス・シニアが将官になれたのか、
不思議に思われる方もおられるでしょうか。

それには、フランクリン・ルーズベルトのニューディール政策時代当時、
つまり1940年ごろは、黒人ばかりの航空隊を結成するのに
ルーズベルト妻が一役買ったことでもわかるように、
アフリカ系アメリカ人に対して寛容であった時期があったからでした。

戦争前夜ということもあって、政府はアフリカ系の役割拡大を画策しており、
分離された黒人部隊の司令官に黒人を任命することも行われました。

そんな中、バッファロー・ソルジャー(黒人陸軍部隊)出身で、
優秀だったため、戦術学の教授まで務めた経験のあるデイヴィス・シニアは、
ごく限定的な責任を負う権限しかなかったとはいえ、
黒人で初めて准将にまでなることができた人物でした。

ちなみにデイヴィス・シニアの最初の妻(デイヴィス・ジュニアの母)は、
3人目の子供が産まれてすぐ合併症で世を去り、シニアは再婚しています。

デイヴィスJr.がパイロットになったきっかけは、
彼が13歳の1926年夏、ワシントンD.C.で開かれた航空ショーで、
バーンストーミング(航空ショー)パイロットの操縦する飛行機に
搭乗したという経験でした。

当時、多くのアフリカ系アメリカ人の若者が、航空の世界を知った時、
まだそこには伝統的な階層階級が存在せず、
自分たちも自由に羽ばたけるかもれしれないと希望を持ちましたが、
彼もまた、この世界に可能性を見出したのかもしれません。


【ウェストポイント入学】



普通大学を卒業した後、彼は陸軍士官学校、ウェストポイントに入学します。

士官学校を受験するには、国会議員の推薦が必要となるので、
彼は当時唯一の黒人議員であったシカゴ選出の
オスカー・デプリースト下院議員(イリノイ州選出)の後援を受けました。


公民権運動を行い、反リンチ法などを提出した人

4年間の在学中、デイヴィスはクラスメートから完全に孤立しており、
必要なこと以外で声をかける者は、ほとんどいなかったといいます。

ウェストポイントのドミトリー(宿舎)は二人一部屋が普通ですが、
デイヴィスだけは一人部屋で、食事も一人で取らされていました。

黒人が同じ士官候補生であることを疎ましく思う同級生たちは、
当初彼が士官学校から追い出されることを期待していたかもしれません。

しかし、彼はその重圧の中、より課題に懸命に取り組みました。

そして4年後、1936年の年鑑「ハウザー」(榴弾砲の意)掲載の
彼の写真の下には、このように記されていました。

「プリーブ(1年生)の年とは比べものにならないほど
難しい課程を克服した勇気、粘り強さ、知性は、
クラスメートの心からの賞賛を得た。

そして、自分の選んだキャリアを諦めないその一途な決意は、
彼が将来どんな道を選ぼうとも、尊敬を集めないわけがないだろう」


1936年6月、彼は級友から心からの尊敬を集める存在として、
276名のクラスの35番という成績で卒業します。

しかしながら、3年生になり、航空隊の配属を志願した彼は、
アフリカ系アメリカ人であることから不合格を言い渡されています。

彼が少尉に任官した当時、陸軍に存在したチャプレン以外の黒人将校は、
ベンジャミン・O・デイヴィスSr.とベンジャミン・O・デイヴィスJr.、
この二人のデイヴィスだけ、そう、つまりデイヴィス父子だけでした。

彼父の配属は分離された黒人歩兵連隊、バッファローソルジャー部隊であり、
当然のように将校クラブに入ることはできませんでした。



デイヴィスJr.は卒業後、ウェストポイントでの士官候補生時代に出会った
アガタ・スコットと結婚しました。

【タスキギー航空隊へ】

1937年、デイヴィスはアラバマ州タスキギーの黒人大学である
タスキギー・インスティテュートで軍事戦術を教えることになりました。

彼の父デイヴィスsr.も数年前に全く同じコースをたどっています。
これは決して偶然ではなく将校になってしまった黒人の「行き場」として
陸軍が考えた、最も無難な配置というべき措置でした。

白人兵を黒人が指揮するということは人種的にあってはならないので、
黒人将校は、黒人の訓練機関で指導をさせるしか使い道がなかったのです。


1941年初頭、ルーズベルト政権は、戦争が近づくにつれ、
黒人の軍への参加拡大を求める国民の圧力に応え、
ついに陸軍省に黒人の飛行部隊を創設するよう命じました。

そして、その頃大尉となっていたデイヴィス大尉は、
タスキーギ陸軍飛行場での最初の訓練クラスに配属されることになります。
(これがタスキーギ・エアメンという名前の由来)


タスキーギで最初にウィングマークを獲得したクラスは、
新しく創設された第99戦闘飛行隊の中核をなすことになりました。
AT-6訓練機の前に立つ、

(左より)
チャールズ・S・ロバーツ大尉 Charles Roberts
ベンジャミン・O・デイヴィスJr.大尉 Benjamin Davis
チャールズ・デボーJr.中尉 Charles Debow
マック・ロス中尉、Mac Ross
レミュエル・R・カスティス中尉 Lemuel Custis


1942年3月、ともに航空士官学校の訓練を修了したメンバーです。

デイヴィスJr.と4人の同級生は、アメリカ軍創設以来初めての
アフリカ系アメリカ人戦闘機パイロットとなったのでした。

のみならず彼らは陸軍航空隊の航空機を操縦した
最初のアフリカ系アメリカ人将校でした。

【第99戦闘航空隊司令】

その後中佐に昇進した彼は、初の黒人だけの航空部隊である
第99追跡飛行隊の司令官に任命されました。

第99戦闘機隊のエアメンの前で司令官として話をしているデイヴィスJr.

カーチスP-40戦闘機を装備したこの飛行隊は、
1943年春に北アフリカのチュニジアに派遣されました。

そして、コークスクリュー作戦の一環として、ドイツが支配する
パンテレリア島に対する急降下爆撃の任務で、初めて戦闘を行います。

コークスクリュー作戦は、第二次世界大戦中、シチリア島侵攻に先立ち、
イタリアのパンテレリア島(シチリア島とチュニジアの間)侵攻作戦です。

島を防衛するイタリア軍守備隊に対しイギリス海軍の機動部隊と共に
アメリカも戦闘機、中型機、重爆撃機による5,285回の爆撃が行われ、
タスキギー航空隊もこれに参加したということになります。


爆撃された燃料倉庫の横を走るイタリア軍兵士

ただし、この時、イタリア軍の守備隊長は前夜、
ローマに降伏の許可を求め、その日の朝に許可を受けており、
イギリス軍の最初の上陸のときには、既に降伏したあとでした。

つまり戦闘する必要はなかったということです。
ヘタリア伝説かな。

ただしこの時の空爆で直撃された砲台は2門だけで、17門がニアミス、
34門が破片や破片で損傷。
攻撃側の重爆撃機の精度は 3.3%、中爆撃機は 6.4%、
軽戦闘機は 2.6% ということで決して高い練度ではありません。


【第332戦闘機群〜”レッド・テイルズ”】

1943年9月、デイヴィスはアメリカに帰国し、海外進出を準備していた
より大規模な黒人部隊、第332戦闘機群の指揮を執ることになります。

この時、デイヴィスは黒人飛行部隊に対する人種偏見と
真っ向から戦うことになったのです。


アメリカに到着後すぐに、黒人パイロットを航空戦闘に参加させるのを
やめさせようという動きが、どこからともなく起こってきました。

陸軍航空部隊の某上官が、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル将軍に、
第99飛行隊の成績が悪いとして作戦から外すことを勧告したのです。

確かに先ほどの数字によるとイタリアでの攻撃精度は高くありません。
それはデイヴィスの部隊に限らず全体的な傾向に過ぎなかったのですが。

もちろんデイヴィスJr.はこれに激怒しました。
これまで部隊に欠陥があるなどとは言われたこともなかったからです。

デイヴィスは早速ペンタゴンで記者会見を開いて部隊を擁護し、
陸軍省の黒人軍人の活用を検討する委員会に弁明を行いました。

これを受けてマーシャル将軍はあらたに調査を命じましたが、
その間第99師団の戦闘行為を中止させることはしていません。

そんな1944年1月、アンツィオ防衛を行なっていた第99飛行隊が
2日間で12機(11機という説も)の敵機を撃墜するという成績を挙げます。

この時彼らが乗っていたP-40Lは、フォッケウルフFW−190より
80マイルも速度が遅かったにもかかわらず。

このことは国内に向けて、この部隊、ひいては
黒人パイロットの適性についての証明となりました。

この時金星を上げたメンバー。
左から、

ハーバート・クラーク少佐(のちに被撃墜、地上でパルチザン活動を行う)
レオン・ロバーツ中尉1機撃墜(のちに墜落、戦死)
ウィリー・フラー中尉
ウィリアム・キャンベル中尉(戦後空軍で活躍)
アーウィン・ローレンス中尉(煙幕ケーブルに激突、戦死)

デイヴィス大佐の率いる第332戦闘機隊は、イタリアに到着します。



イタリアのアドリア海沿岸に位置するラミテッリ空軍基地は、
1944年から5年にかけて、デイヴィスの指揮する
第332戦闘機グループの本拠地となりました。

パイロットは第15空軍の戦略爆撃作戦を支援するために
P-51マスタング戦闘機をドイツの上空奥深くまで飛行させました。

時には彼らはベルリンへの長距離護衛任務で、
1600マイルの往復飛行を完遂していました。

映画「レッド・テイルズ」では、黒人に護衛されることを嫌悪する
白人爆撃機パイロットが、自分の身の危険を顧みず
爆撃機を守って撃墜されていくのに感動して泣くシーンがあります。

そして、映画のラストに現れる字幕には、確か、

「護衛した爆撃機を一機も失わなかった」

とあった記憶があります。


P-51マスタングのコクピットに座って
ウィリアム・トンプソン(中央)らと話しているデイヴィスJr.。


4個飛行隊からなるこのグループは、機体の特徴的なマーキングから
「レッドテイルズ」と呼ばれました。


これは映画のポスター

1944年夏には、マスタングからP-47サンダーボルトに移行しました。


「200」と書かれた紙の前で、エスコートミッション、
掩護任務が200回を超えたということを
第332ファイターグループのエアメンに告知しているデイヴィス。
1945年イタリアのラミテッリ航空基地にて。


下の可愛らしい絵は、第332戦闘機隊のメンバーの描いたもので、
基地のあったラミテッリの風景だそうです。

1945年夏、デイヴィスはケンタッキーにあった
黒人だけの第477爆撃隊を引き継いで指揮を執りました。



戦争中、デイヴィスJr.の指揮する飛行隊は、
ドイツ空軍との戦闘で素晴らしい記録を残しました。

出撃回数 15,000回以上
撃墜 12機
地上での撃破 273機

損失、戦闘機66機爆撃機 25機。

デイヴィス自身はP-47とP-51マスタングで67回のミッションを指揮。

彼はオーストリアへのストラフリングランで銀星章を、
ミュンヘンへの爆撃機護衛任務で殊勲飛行十字章を受章しました。


■ 軍隊の人種差別撤廃

1948年7月、ハリー・トルーマン大統領は、
軍隊の人種統合を命じる大統領令9981号に署名しました。

このときデイヴィス大佐は大統領令を実施するための
空軍計画の起草に直接携わっています。

アメリカ陸海空軍の中で空軍は、最初に完全統合されることになりました。



1949年、デイヴィスは空軍大学に入学し、
その後20年にわたり国防総省や海外赴任先で勤務を行いました。

1953年、朝鮮戦争が開始されると、デイヴィスは
第51戦闘機迎撃飛行隊(51FIW)の指揮官として再び戦闘に参加し、
朝鮮半島の戦闘ではF-86セイバーに搭乗しています。

1953年、朝鮮戦争期に小隊を率いて飛ぶデイヴィスJr.少佐機(手前)

デイヴィスはこの時期、日本に赴任しています。

1954年から1955年まで東京の極東空軍本部で作戦・訓練部長を務め、
東京滞在中に一時的に第13空軍副司令官として准将に昇格したのです。

その後米国に戻り、米国空軍本部での勤務を経て少将に昇進を、
そして4年後の1965年中将に昇進し、1967年、
フィリピンのクラーク空軍基地で第13空軍の司令官に就任しました。

もちろんこの頃には、軍における人種分離策は撤廃されており、
デイヴィス司令官の部隊には普通に白人がいたことも付け加えておきます。


デイヴィスJr.の現役での最終配置は、アメリカ打撃司令部副司令官。
さらに中東・南アジア・アフリカの司令官としての任務も担い、
1970年に現役を退きました。

■四つ星

1998年12月9日、デイヴィスJr.はビル・クリントン大統領政権下、
アメリカ空軍大将(退役)に昇進し、四つ星記章を獲得しました。



クリーブランドのO・A・チルドレス博士(自由人権委員会委員長)から
フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領への書簡で、
ベンジャミン・O・デイヴィスを准将に任命することを賞賛しています。

アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト閣下

拝啓

我々は、最近閣下が決定されたベンジャミン・O・デイヴィスの
アメリカ陸軍准将への任命に感謝の意を表します。

これはあなたがニグロアメリカンのために行なってきた
多くのことの中でも、特筆すべきことであります。

実際、我々はそれがその中でも最高のものであり
彼の優秀さと功績に対するあなたの認識を非常に光栄に思っております。


2002年、デイヴィスJr.の妻アガサが3月10日、94歳で死去すると、
その4ヶ月後の7月17日、デイヴィスも後を追うように亡くなりました。

デイヴィスは一足先にアーリントン国立墓地に眠っていた妻と並んで葬られ、
葬儀の際には、彼が第二次世界大戦の時乗っていたのと同じ、
レッドテイル仕様のP-51マスタングが上空を飛行したということです。


続く。



令和4年度映画タイトルギャラリー その4

2023-01-10 | 映画


新春映画タイトルギャラリー、最終日となりました。
しかし、こうして挙げてみると、去年は映画紹介が多かったなあ。
過去最高の作品数だったような気がします。

■ 「緯度0(ゼロ)大作戦”Latitude Zero
日米合作SF特撮浪漫

「海底2万マイルの国」

昔々、アメリカの二人のプロデューサーが、
とても面白いドラマをラジオ番組のために企画しました。

それは、他でもない1870年にジュール・ベルヌが発表した
「海底二万里」を、文字通り「深化」させたもので、
この地球の海の下には人類にはまだ知られざる世界、
緯度ゼロの土地が存在しており、高度な文明によって管理された社会で
人々は幸せに暮らしているという設定にはじまっていました。

しかしこの企画はアメリカでは当時相手にされなかったため、
彼らはアメリカ文化偏重でなんでもありがたがる傾向にあった日本に
上から目線で一気に映画化を持ち込んだのです。

アメリカ側から「第3の男」の主役、ジョセフ・コットン、そして
シーザー・ロメロといういい役者をキャスティングし、
日本からは英語の堪能な当時のトップスターを集めたのですが、
さあ撮影開始というところで、このアメリカの制作会社、
倒産してしまいます。

しかし乗りかかった船、日本側は俳優にギャラの支払いを待ってもらい、
コットンやロメロなどが漢気を見せて契約を継続したため、
なんとか撮影することができたのが、本作「緯度ゼロ大作戦」です。

いや、こうして経緯を記すととんでもない詐欺じゃないか、
と思うわけですが、1969年当時、さあこれから高度成長期というとき、
日本人にまだまだ根強かった外国に対するコンプレックスが、
こういう無茶苦茶なビジネスを横行させる理由だったという気がします。


さて、ストーリーは、海底探査船「富士」の潜水球で調査中、
海底火山の爆発に巻き込まれてしまった海洋学者、
宝田明、岡田真澄、アメリカ人ジャーナリスト、リチャードの3人が、
目覚めたら緯度ゼロに位置する海底の国が所有する潜水艦、
「アルファ」号に収容されていた所から始まります。

海底人であり科学者、アルファ号船長の役がジョセフ・コットン。
そして潜水艦乗組の医師が平田昭彦とリンダ・ヘインズ

このリンダ・ヘインズという無名の女優については、
なぜかその存在に強く惹かれたクェンティン・タランティーノ
引退後を追跡し、本まで記していることをこの映画の解説で知りました。

よっぽど好みドンピシャのタイプだったんでしょうかね。

海底にはかつては艦長の同級生であった科学者、
シーザー・ロメロが率いる悪の一団がいて、アルファ号を襲います。

ロメロは彼の愛人その1(コットンの奥さんが演じている)を侍らせつつ、
その2(黒い蛾という名の日本人)を潜水艦艦長として繰り、
アルファ号にちょっかいを出しまくるわけですが、
この目的は見たところあくまでもコットン個人への攻撃であり、
緯度ゼロの国に対しては何の攻撃も仕掛けてきません。

どうして同じ海底人同士仲良くできないのかというと、
どうもかれらがかつて知り合いであったことに原因があるようです。
「アンダースタンフォード大学」時代、喧嘩でもしたんでしょうか。

緯度ゼロの国の進んだ文明は、実は
地上の科学者の実績をスパイを送って盗んできたり、
死んだと思わせて科学者を攫ってきたりして作り上げてきました。

悪役が自らを悪役たらしめる悪行を行う目的というのは、創作モノでは
得てしてはっきりしない(漠然とした”世界征服”とかね)ものですが、
さて、この映画でマリク(ロメロ)は一体何をしたかったのか。

それは遺伝子治療の権威、岡田博士と娘を誘拐してデータを盗むこと。

遺伝子操作で何をしようとしたのかまでは謎、というのもだけど、
自身も地球より進んだ科学を持つ国の科学者であるなら、
遺伝子操作くらい自分の力で何とかしろ、と声を大にして言いたい。

海底の国に連れてこられた地表人トリオは、何の因果もないのに、
ぶっちゃけノリで岡田親子の救出に向かいます。

そこには、マリクが悪ノリして人間を改造して作った大きなネズミやら、
蝙蝠人間やらが待ち構えていますが、彼自身は、
嫌がる「黒い蛾」の身体に禿鷹とライオンの体をつぎはぎにした、
飛ぶライオン「グリホン」に復讐されて因果応報な最後を遂げます。

その後の宝田明他、地表人3人組ですが、緯度ゼロの生活を経験した結果、
あまりにもそこでの生活が快適なのと、岡田真澄のジュール博士は
海底人のリンダ医師といい仲になってしまったこともあって、
ジャーナリストのリチャード以外はそこに残ることを選びました。


その後、リチャードが地表にもどったとき、彼が救出されたのは
アメリカの宇宙計画にカプセル回収で参加していた日本国の自衛艦でした。

そこで彼を驚きが待っています。

護衛艦「いそなみ」には、アメリカ海軍司令としてコットン、
「いそなみ」艦長として宝田明、そして宝田のカウンターパートである
アメリカ海軍側の艦長として、ロメロがしれっと収まっていたのでした。

んなあほな、といいたい所ですが、実はわたし、こういう展開が大好物です。
日米海軍の軍人姿の3人を登場させてくれたという、それだけで、
この映画に対する評価が爆上がりしたことを、ここに告白しておきます。



■ 「モリツリ〜南太平洋爆破作戦」MORITURI
極限下における海の男たちの人間ドラマ

「死に往く闘士たちの敬礼」


「モリトゥリ」という肝心の映画のタイトルの意味が理解できません。
まず、MORITURIとは、

「AVE IMPERATOR, (皇帝万歳)
MORITURI TE SALUTANT」

というローマ帝国時代の歴史家の言葉の一部で、
この英訳を英語ではこのようにしています。

Those who are about to die salute you
死を前にした者たちがあなたに敬意を表する

わたしは映画の最初にこの文を引用し、映画を解説しながら
この言葉の隠喩するところを解析しようと試みましたが、
結論として「皇帝」の意味するところの存在を映画には見出すことはできず、
隔靴掻痒の感のまま、この項を終わることになってしまったのです。

しかし、あれから時間が経ち、今この言葉とストーリーには、
タイトルの「MORITURI」の部分、つまり

「about to die」

という限定された意味だけが重要なのではないかということに思い至り、
なーんだ、とあたかも膝裏かっくんされたような気になりました。

それならば、この映画の出演人物たちは、一人残らず
何かの形で死と直面することになっており、特に主人公の
カイル(マーロン・ブランド)とミュラー(ユル・ブリンナー)は、
それこそ公のために死に行く覚悟で任務を遂行しようとしますから、
このタイトルには何の矛盾もなくなるというわけです。

さらに「皇帝」への忠誠を広義での公を果たすこと、と考えれば、
あれこれと悩むほどのことなどなかったのかなという気もします。

これも個人の感想ですので、正しいか間違っているかはわかりません。


さて、ストーリーは非常に複雑でありながら、荒唐無稽ではなく、
どこかの戦場で本当にあったことだとしても違和感がないくらい
リアリティがあって、最後までグイグイとこちらを引き込んでいきます。

そうでない部分があるとすれば、主人公がどちらもドイツ人で、
にもかかわらずセリフが英語であることくらいでしょうか。

舞台となるのは、資源を積んで日本から出港する予定のドイツ貨物船。
貨物船「インゴ」船長は、ユル・ブリンナー演じるミュラーです。

イギリス軍に脅迫されて船の自爆装置を無効化するため
ナチス党員になりすまして「インゴ」に乗り込むカイル(ブランド)。

立場の違う二人の男の間に起こる出来事は、
次第に思想信条を剥ぎ取ったところにある人間性を顕にしていきます。

後編

冷酷で利己的、隙あれば船長の立場を乗っ取ってしまう
副長のクルーゼや、政治犯のドンキー、そして
自分の身を投げ出してアメリカ人捕虜を説得し、
カイルの反乱計画に協力するユダヤ人の娘、エスター。

これらの登場人物の思惑とそれぞれのバックボーン、
信念と正義の希求が織りなす海の上の極限の争い。

出演者の名前に比してあまりに無名ゆえ、全く存在を知らずにいましたが、
出逢えてよかったと、見終わったとき心から思えた作品でした。



■ 「軍医 ワッセル大佐」The Story of Dr. Wassell
実在の軍医をモデルにした戦時プロパガンダ作品

前編

1944年、日本軍が侵攻を続けていたジャワ島に取り残された傷病兵を
軍医として率い、彼らを無事に帰国させた実在の人物、

コリドン・マクアルモント・ワッセル博士
Corydon MacAlmont Wassell 1884−1958


がその功績を大統領に讃えられ、叙勲されたことをきっかけに、
戦時プロパガンダ映画として撮影されたのが本作品です。

ワッセル医師をゲイリー・クーパーという大物に演じさせ、
規模としてもかなり大掛かりな作品でしたが、
肝心のワッセルという人が普通に品行方正、真面目な医師で、
傷病兵部隊を連れ帰った以外に活躍というような活躍がなかったため、
映画では思いっきりあることないこと、たとえば
ワッセル本人やら傷病兵やらのロマンスをふんだんに盛り込み、
(というのが実はアメリカのプロパガンダには重要だったりするのですが)
本人からすればこれ一体誰のこと、みたいな話になってしまいました。

コリドン(変わった名前ですよね)・ワッセル本人は
映画の技術顧問として制作に協力こそしているのですが、
タイトルに名前を出さないように頼んだり、自分の親族にも告げず、
さらに映画で得た収益を全て寄付してしまっています。

これは本人の控えめで堅実な人格ゆえの行動、と言われていますが、
わたしはむしろ、ワッセル医師が、出来上がった作品を見て、
これが自分のことだなんて、と気恥ずかしく思う気持ちと、
自分がこんな風に語られるのを良しとしたと周囲に思われたくなくて、
できるだけ名前を残さない方法を選んだのではと考えています。

それくらい、この映画における主人公の軍医は、垣間見える
ワッセル軍医の実像とはかけ離れているように思えてなりません。

少なくともいくつかの記事を当たった限り、ワッセル医師についての真実は、

アーカンソーで生まれ、しばらく田舎で医者をしていたが、
その後医療宣教師として中国に渡った。

1942年には、ジャワ島にあるオランダの病院で、
約40人の戦傷兵が入院している連絡係として、国連軍の中佐を務め、
その後彼らをフリーマントルまで送り届け、安全を確保することに成功した。
彼は海軍十字章を授与され、大統領によってその行為が賞賛された。

ということに尽きます。

まず、映画では、中国に渡ったのは、新聞記事で見た
マデリンという看護師に写真で一目惚れしたからとされますが、
実際のワッセル医師が医療宣教師として渡中したのは、
最初の妻メアリーと結婚してわずか2年後のことでした。

書かれてはいませんが、中国には妻メアリも同行していたと思われます。

彼女との間には4人子供を儲けていますが、15年間の結婚生活を経て
26年にメアリが亡くなると、ワッセル医師、その年のうちに、
マデリンという映画のヒロインと同じ名前の女性を妻に迎えているのです。

映画が制作された時、ワッセルの妻はすでにマデリンだったため、
制作側としては、配慮してヒロインの名前をマデリンとし、
ついでに中国で出会ったというストーリーまででっちあげました。

しかし、ワッセル医師が巷間言われる通り常識的で堅実な人物であったなら、
特に子供たちがすでに成人して映画を見ることを考えれば、
この展開はいくらなんでも・・・と考えたとしても不思議ではありません。


「軍医ワッセル大佐(改め少佐)」

制作しながら最後まできたとき、ワッセル軍医の着ている制服が
タイトルの大佐ではなく少佐であることに気がついたので、
後編のタイトルで微力ながら訂正を試みてみました。

邦題をつける映画会社の人、ちゃんと映画を見ようよ・・・。

さて、当作品の内容ですが、
実在の主人公からしてあることないこと創作されているくらいですので、
脇役となる戦傷兵や現地のオランダ軍人、看護師など、
その間でいろんな色恋沙汰が展開するのも、当然の成り行きでしょう。

アーカンソー出身のホッピーに執着するジャワ人看護師トレマティーニ、
オランダ人将校と付き合っているのを知らずに、
オランダ軍の従軍看護師を好きになるアンディ、
女とみれば誰でもいい男なども加わって、比較的どうでもいい?恋愛話が、
ワッセル本人が語ったジャワからの脱出劇の間に散りばめられていきます。

わたしは実在の人物をモデルにした物語は好きですが、この作品に関しては、
少なくとも本人が作品化にあまり乗り気?でなかったらしい、
ということを資料から推察したとたん、評価が爆下がりしてしまいました。

世間的にあまり作品そのものが有名でないのも、
あまりの装飾過多が、人心に響かなかったせいかなあという気がしています。



■ 「金語楼の海軍大将」
戦後の価値逆転が生んだお笑い軍隊活劇


当時すでに落語界の重鎮だった柳家金語楼が三等水兵となり、
色々あって、海軍大将として陸戦隊部隊の前に登場するという話。

当時58歳の金語楼を主役にするのなら、常識的に考えて、
海軍大将が、何かの弾みで水兵(とは言わんがそれ並の)扱いをされ・・
という方向にまずなりそうなものですが、何を思って映画会社は
こんなキテレツな設定でお正月映画を撮ってしまったんでしょうか。

しかし、それもこれもこれが金語楼だから許されたのかもしれません。
これだけの有名な大物がやってるからもういいや、みたいな。



ストーリーは、中国本土の海軍陸戦隊で、現地の中国人が
坊屋三郎演じる陸戦隊の司令官(海軍大将)を誘拐し、
陸戦隊を爆破しようと企むのを、たまたま身代わりになって捕らえられた
三等水兵金語楼が、何もしないうちにあれよあれよと周りが事件を解決し、
何もしていないのに、最後にご褒美として海軍大将の格好をして
全部隊に号令をかけさせてもらうというものです。

こうして書いただけでも十分にバカバカしい内容なんですが、
そのときそのときの登場人物のドタバタに笑っているうちに、
結局最後まで面白く観てしまう、というあざとい作りとなっています。

わたしとしては、ロケが行われた横浜の埠頭や赤レンガ倉庫、
中華街などの当時の景色を大変興味深く鑑賞できて満足でした。



というところで、昨年度掲載の映画全作品紹介を終わります。

またぼちぼち、映画ログを制作していきますので、
どうか今年もよろしくお付き合い願います。





令和4年度映画ギャラリー その3

2023-01-08 | 映画


平成4年度掲載映画の挿絵を挙げながら振り返るシリーズ、3日目です。

■ 「サブマリン爆撃隊」Submarine Patrol
ジョン・フォードの傑作コメディ戦争映画


時はおりしも第一次世界大戦勃発時。

ニューヨークにあったブルックリン海軍工廠に、
ふとした気まぐれで海軍に入りたくなった富豪のドラ息子が、
海軍の思惑でよりによって駆潜艇の機関長として配備され、
そこで実戦を通し、海軍の任務やら真実の愛やらに目覚める話です。

駆潜艇(英語ではサブマリン・チェイサー)とは、
当時Uボートに対抗するために設計されたもので、
爆雷を主力武器とする小型の艦艇です。

全てをなめてかかっていたボンボンが、生死を分ける戦いを経て、
一人前の海軍軍人としてこれからスタートするでしょう、
というところまで運ばれるストーリーは、さすがジョン・フォード監督
ところどころに海軍リスペクトをふんだんに盛り込みながら
(フォードは筋金入りの海軍オタク)最後までこちらを引き込んでいきます。

研究材料のマウスを船に持ち込んでいる大学生、
陸にレストランを持ち船の給養と掛け持ちしているコック、
年齢をサバ読んで16歳で入隊してきた少年、
人の顔を見れば金を借りようとするタクシー運転手。

キャラの立った駆潜艇の乗員たちのエピソードも、
このストーリーに見応えを与えている要素でした。

プレイボーイのタウンゼント3世が海軍工廠で見初めた、
輸送船の船員でもある美女スーザンとの恋愛模様や、
それに反対する父親の輸送船船長が間違いで駆潜艇に乗ってしまい、
一緒に難局を乗り切って娘の相手として認めさせるという展開も、
お約束な展開とはいえかえってワクワクさせられます。

かといってふざけてばかりでもなく、
真面目に?輸送船を護衛したりUボート基地を急襲し、
当時にしては迫力のある特殊撮影などを使っていますし、
スロウ8やマストの星、士官の乗艦時のしぐさなど、
海軍についてその内部を民衆に紹介しようという姿勢も感じました。

さらに女性の観客は、タウンゼント3世自身のゴージャスなムードと、
乙女の夢を叶えるような素敵なデートの演出をさぞ楽しんだことでしょう。

白黒映画で画質も決して良くありませんが、
昨今の画像だけはいい穴だらけの設定の戦争映画より
よっぽど1時間半を費やす意味がある佳作だと思います。

■ 「グラマ島の誘惑」
皇族軍人と女たちの「逆アナタハン」

ディアゴスティーニの「戦争映画コレクション」の配布でこれを見たとき、
とにかくその発想の奇抜さと忘れられない展開に驚愕しました。

戦争末期、無人島に流れ着いたのがよりによって
皇族軍人(とお付き武官)と9人の女たち。
しかもその女たちのほとんどが、本来皇族とは決して縁のなかった
慰安婦だった、という破天荒な設定は、
終戦当時世間を騒然とさせた「アナタハン島」の惨劇に着想をえています。

宮様兄弟、香椎宮為久と為永殿下を演じるのが
森繁久彌とフランキー堺、御付き武官桂小金治
その他有名俳優女優をありったけ揃えたことからも、
映画会社の力の入れ具合がわかるというものです。

女性陣も慰安婦の二人を除く全員が有名女優ばかり。
ただしダンサーだった春川ますみはこれが映画初出演です。

映画では、美貌の未亡人を弟宮と現地のカナカ人(と見せかけた脱走兵)
が取り合ったり、御付き武官を慰安婦(轟由紀子)と従軍画家(淡路恵子
で取り合ったり、いつのまにか兄宮が智慧の遅れた宮城まり子を孕ませたり、
と思いつく限りのややこしい男女関係が入り乱れて大騒動に。



この映画の一筋縄でいかないところは、終戦になって彼らが
米軍の手によって内地に送り返されてからが山場になるという展開です。

為久の嫁(久慈あさみ)は夫の行方不明中、パトロンを得て
銀座のど真ん中に「大銀座温泉」なるスパを経営し、
もう皇族という身分を失う夫に引導を渡そうと虎視眈々。

弟宮の為永は、吉原ソースなる商品を海外に輸出して成功し、
従軍画家坪井(岸田今日子)は島での出来事の暴露本でベストセラー作家に。

慰安婦たちはやり手の一人を除き、風営法施行後に
戦前のビジネスに手を染め引っかかりお縄になるという成長のなさ。

為久との間に子供を作り流産した「あい」(宮城)は
二人で船に乗り脱出する途中、死亡してしまいますが、
なぜかニュースでそれを知った彼女の妹が現れ、
為久をソフトに恐喝してお金をせびるという・・・。

こんなてんやわんや(死語?)が息つく間も無く展開され、
最後は、グラマ島に残った脱走兵と未亡人の二人が
水爆実験に巻き込まれることを暗喩して映画は終わります。


さて、この絵はブログでは採用しなかったバージョンです。

この映画の紹介ログを制作し始めた頃は、
どうせたいして取り上げることもないだろう
と思い、1日で終わらせるつもりでこのタイトル絵を描きましたが、
進むうちにとても収まらないことがわかり、この絵を三分割して
三日分のタイトル画を作ったというわけです。

当ブログ映画シリーズは、最初に絵を描いてしまうため、
ときどき(というか結構頻繁に)こういうことになってしまい、
そうなると、最初の絵を2〜3日分に分けて制作し直す羽目になります。

(という、ブログ制作の舞台裏でした)

アナタハン事件、皇太子殿下(現上皇陛下)のご成婚、
そしてアメリカの太平洋における核実験、華族制廃止、
そういった時事を取り上げつつ、今まで誰も触れたことがなかった
「雲の上の人」を下々の民とごちゃ混ぜにするという、
あり得ない展開ですが、評価すべきは、そんな扱いであっても
皇族を表現する筆致にどこかしら愛と哀しみが感じられたことでしょうか、



■「潜航決死隊」Crash Dive
タイロンパワー主演 ロマンス過多プロパガンダ潜水艦映画


1943年、第二次世界大戦真っ只中、
タイロン・パワーとアン・バクスターを使ってプロパガンダ映画を作る。

しかもフィルムはこの当時にしてカラー。

やっぱりアメリカってとてつもなくお金持ちだったんだなあ、
こんな映画からもしみじみ彼我の戦力差を思い知らされます。

同じ頃、白黒アニメで少年向け戦意高揚作品、
「桃太郎の海鷲」を制作していたアニメーターたちが、
ある日日本軍が戦地で拾ったか押収したディズニーのアニメを見て
これは戦争負けるわ、と打ちのめされたという話をつい思い出します。

さて、この映画を観たとき、何やらデジャブを感じたと思ったら
それは、今日冒頭にご紹介した「サブマリン・パトロール」でした。

本作監督アーチー・メイヨージョン・フォードの関係は知りませんが、
3歳違いと同年代で、二人ともそれぞれ第一次・第二次世界大戦開戦時、
海軍のためにロマンス多めの戦意高揚プロパガンダ作品を監督。

その作品の内容も、大富豪と海軍一家というバックボーンを持つ、
傲慢な美青年が、自分の意志に反して方や駆潜艇に、方や潜水艦に乗せられ、
どちらも実戦を現場で叩き込まれて、最後は海軍魂に目覚めるというもの。

これはどう考えても後発のメイヨーがフォードの作品をパク、
いや、リスペクトしてアイデアを拝借したのでは、という気がします。

わたし個人でいうと、それまであまり好きでなかったタイプの
タイロン・パワーという俳優が、実は当時現役軍人で、
ウィングマーク持ちの航空士官(パイロット)であったことを知り、
俄然印象が爆上がりしました。

本稿にも書きましたが、パワーは戦闘機を志望しながら
年齢制限のため輸送飛行隊で勤務し、クェゼリン、硫黄島、
そして沖縄における輸送ミッションに参加して叙勲されています。

44歳の若さで急死したときも予備役少佐であり、その葬儀は
現役軍人に対する栄誉を伴う儀式によって行われました。

ストーリーは、魚雷艇乗りでブイブイ言わせていた海軍一家のホープが、
人手不足の潜水艦に副長として配置される所から始まります。

フォードの「サブマリン・パトロール」と同じように、
主人公はここで上官である艦長とぶつかります。
フォード版との違いは、なんとこちらのバージョンでは、そうとは知らずに
この艦長の恋人(アン・バクスター)をパワーが好きになり、
ガンガンと非常識な、とても男前ならやらないようなアタックをかけて
元々現状の恋人に物足りなさを感じていた女性の気持ちを揺すぶります。

「戦時下の三角関係」




女が性悪(って言っちゃう)なものだから、
二人が一人の女性を巡って取り合っていた(というか二股かけられていた)
ことを艦長が知った時には時すでに遅し。

女性の気持ちはすっかりイケメン金持ち海軍一家のホープに移っていました。
まあ、タイロン・パワー相手なら勝てないよね普通。

おり悪しく、それが判明した直後、彼らの潜水艦は出撃を迎えますが、
個人的な感情はとりあえず横に置き、二人はUボート基地に潜入、
上陸して倉庫を爆破するという快挙を成し遂げます。

その後艦長はパワーに女譲るという敗北宣言?をし、
帰国したパワーはいきなり彼女と結婚をすませてロマンスにカタをつけ、
やおら、自分を潜水艦勤務に追いやった?叔父の海軍提督に向かって、
自分が乗り込んだ潜水艦はもちろん、全ての部隊が素晴らしい、
アメリカ合衆国海軍万歳、と取ってつけたように海軍礼賛を始めて、
観ている人すべてをあっけにとらせて?終わります。

コネチカット州グロトンの当時の潜水艦基地の様子や、
潜水艦乗りの慣習などをちょいちょい挟んだり、
とにかくお金がかかっていて映像も大変綺麗ですが、
ロマンス部分と海軍宣伝部分の割合があまりにキッパリしすぎて、
まるで一つの話の中に二つのストーリーが流れているように感じ、
さらに主人公やヒロインの人物描写があまりにイージーで、
その行動に共感を得にくいという無理も随分感じさせます。

骨子は似た二つのストーリーではありますが、
「サブマリン・パトロール」と「クラッシュ・ダイブ」、
この2作品を評価するなら、画質と白黒対カラーのハンディを勘案せずとも、
圧倒的に前者の圧勝だとわたしは声を大にして言うでしょう。

結論:やっぱりジョン・フォードの名前はダテではなかった。
=腐っても鯛。

続く。







令和四年度掲載映画ギャラリー その2

2023-01-06 | 映画

令和4年度に掲載した映画紹介ブログをタイトル絵で振り返るシリーズ、
二日目です。

■ 「水兵さん」
海軍省検閲済みの海兵団リクルート映画

日本の戦況が目に見えて不利になっていた昭和19年5月、
海軍は戦地に送り込む対象年齢をさらに引き下げるため、
海兵団への志願者を増やすための国策宣伝映画を松竹に作らせました。

30年後となる昭和の時代、この映画をベースにして、
「水兵さん」のその後の運命を描いた作品が
東宝映画の「海軍特別年少兵」であることを、
わたしはこの作品を取り上げることによって初めて知りました。

海兵団に入団者を増やすためのリクルート映画ですから、
基本募集側の都合の悪いことは書かれませんし、
最初から最後まで作り物の綺麗事に終始するわけです。

わたしはこのような映画をみると、たとえばあの
映画「ハワイ・マレー沖海戦」に主演した若い俳優が、その後、
実際に出征して戦地で命を落としたと知った時に感じたような
なんとも言えないやるせなさを持たずにいられないのですが、
幸か不幸か?本作に出演する少年たちは、
当時海兵団に入団資格があるような若年層ばかりなので、
実際に年少兵になるようなことでもなければ、
戦地にやられるという事態にはならなかったはずです。

映画のストーリーは、海兵団に入りたい少年が、まず父親の反対を押し切り、
試験を受け、近所の人や幼なじみに応援されながら入団を果たす。
その後、海兵団での彼らの生活と訓練が紹介され、
仲間の失敗に連帯責任を取らされたり、病気の団友を気遣ったりしながら
最後には海兵団の課程を修了して卒団するところで終わります。


1972年制作の「海軍特別年少兵」と同じく、この映画は
海兵団の水兵に無名の少年たちを起用している代わりに、
彼らを取り囲む軍人に有名俳優を登場させます。

海兵団員を直接指導する鈴木教範長に、小沢栄太郎。



小沢栄太郎というと、こんなイメージしかありません。
この映画の35歳のときの小沢は、随分と丸顔の小太りで、
映画のクレジットを見るまで全く気がつきませんでした。

でね。
この教範長というのが、不気味なくらい優しいんですよ。
安全装置をかけ忘れたまま銃を収納してしまった訓練生を
殴りつけるでもなく、道場に二人で正座し、

「お前の不注意は俺の教育が足りなかったためなんだ!俺の責任だ」

なんていうわけです。

その他、海兵団の分隊長で、出征し海戦で赫赫たる戦果を挙げる、
山口中尉役に原保美

この人が歌人原阿佐緒の息子だったことを知ったのが
この映画を取り上げたことの成果の一つでしたが、この俳優、戦後は
「聞けわだつみの声」で、学徒士官を虐める悪士官を演じたりしています。

そして、山口中尉が出征した後の、後任の分隊長が笠智衆という具合です。

当時の横須賀(当時の『三笠』の姿も見られる)の様子や、
陸戦訓練をする辻堂の風景、父親が働くようになった
海軍工廠の様子などを見ることができますし、なんといっても、
この映画のシチュエーションをほとんど流用して作られた、戦後の
「海軍特別年少兵」と比べて鑑賞されるのもまた一興かもしれません。

 「ビロウ」Below
潜水艦ホラー

「呪いの潜水艦」

2022年の夏、わたしのアメリカにおける最も重要なイベントは
シカゴ空港から目的のピッツバーグまで車で移動しながら
途中の、主に五大湖沿いにある海軍遺跡を訪ねることでした。

そして、何を隠そうその壮挙を思いついたきっかけは、
他ならぬこの二流ホラー潜水艦映画を観たことに始まります。

映画に使われたのが、ミシガン湖沿いに展示されている
第二次世界大戦のガトー級潜水艦「シルバーサイズ」であると知り、
ピッツバーグに縁があるうちにチャンスがあればそれを観てみたい、
ついでに五大湖の海軍博物館をしらみつぶしに訪ねたい、
とひそかに野望をつのらせていたところ、願いが聞き届けられたのか、
夏の渡米のとき、シカゴからピッツバーグまでの便が取れなくなりました。

これはもう、五大湖ネイバルミュージアム巡りをせよという、
東郷平八郎閣下のお告げに違いない。

その結果、思ったよりたくさんの博物艦をめぐることができ、
わたしはそのアイデアをくれたこの映画には感謝しています。

ストーリーは、病院船をドイツ軍艦と間違えて撃沈してしまった
アメリカ海軍の潜水艦幹部が、その事実を隠すために
よりによって艦長を亡き者にしてしまうのですが、
病院船の生存者である女性看護師とイギリス人船員、そして
病院船に乗っていたドイツ兵士を救出し乗艦させたときから
不思議な霊的現象が相次ぎ、幹部が一人ずつ謎の死を遂げていく中、
潜水艦は撃沈した病院船の沈没地点に引き戻されていくというものです。

「見える敵と、見えない敵」

主人公のオデール少尉は、潜水艦の幹部たちが艦長を殺害した経緯を
哨戒に最初から乗っていたはずなのに全く知らないという設定で、
このプロットの穴はいくらなんでも変すぎないか、と
わたしは非情にもブログで突っ込みまくりました。

アメリカ海軍の当時の潜水艦の哨戒について知識があれば、
艦長が死亡したのに潜水艦が帰投せず平常任務を続けるのも、
ましてや哨戒途中で少尉だけが乗り込んでくるばかりか、
艦長の死亡についてなにも聞いていない、
なんてことあるはずないとわかるはずです。

この不思議な状況設定について、わたしは、
「外から乗り込んできた女性看護師だけでは主人公として弱い」
ことから、アメリカ軍側に「謎を解く係」としての主人公を
なんとしてでも一人据えたかったからだと決めつけてみました。

おそらくこれは当たっていると思います。

そして、潜水艦を病院船の沈没地に呼び寄せたのは、
果たして艦長の霊だったのか、ということについても考察してみました。

ちなみに本作をきっかけに見学を果たした「シルバーサイズ」シリーズは、
まだしばらく続きますので、どうぞお付き合いください。(宣伝)

■ 「世界大戦争」
日本版「渚にて」 核世界終末もの


1961年(昭和36年)、当時冷戦から宇宙戦争へと緊張する米ソ間で
「U-2撃墜事件」などが起こり、核戦争への懸念が起こっていた頃、
その不安に乗じるように創作物を通して終末思想が語られました。

1960年にはオーストラリアを舞台とした「渚にて」がヒットしましたが、
この作品はその舞台を日本にしてもっと派手にやってみました風味です。

のみならず、当時の大手映画会社はこぞって似たような終末ものを製作し、
民心を不安で煽り立てるようなあざといマネをしていました。

本作では米ソと具体的な国名はなく、「連邦国」「同盟国」と称され、
わかりにくいのですが「連邦国」が西、「同盟国」が東側となります。

西側潜水艦が東側海域で哨戒中拿捕されたことをきっかけに、
地中海沿岸で両側の小さな衝突が頻発し、
それがどんどん拡大化してついには核戦争に・・という設定です。

戦後の混乱を逞しく生き抜いて、これから幸せを掴もうとする
運転手(フランキー堺)一家、その娘と彼女の婚約者である航海通信士、
彼の船の給仕長(笠智衆)の娘が保母を務める保育園の子供や関係者、
そんな市井の善男善女の日常を描きながら、その生活が
ある日終焉を迎えてしまうまでを描きます。


映画は軍事衝突にもリアリティを持たせるべく、
各方面の軍人たちがどのように最終衝突を回避するかを描きます。

二日目の挿絵では、皆瞬間しか登場しなかったものの、
展開を盛り上げた各国の軍人たちを描いてみました。

左から同盟国ミサイル基地司令、自衛隊司令、
左下西側国日本基地司令、在日ミサイル基地司令の面々です。

ざっと終末=人類滅亡に至るまでを箇条書きしておきます。

西側ミサイル潜水艦が東側海域で拿捕される

地中海沿岸で軍事衝突が起こり軍用機が撃墜される

西側ミサイル基地(在日本)に大陸間弾道ミサイルが導入される

東側、偵察によってそれを察知、対抗するためミサイル発射準備

西側基地で核ミサイル発射命令が降るが間違いとわかり寸前で中止

朝鮮半島38度線で軍事衝突

東側国、氷山で核弾頭実験していて雪崩でショートし、起爆装置稼働

東側基地司令、命懸けで配線を遮断し発射を寸前で中止

38度線で一旦停戦

と思ったらベーリング海でF戦闘機とMok(MiGのこと)が交戦

世界各地でここぞと紛争が顕在化 おおごとに

いつのまにか世界中で核爆弾を発射する流れに

東京の中心部にどこからか核ミサイルが飛んでくる

核発射に対する報復が始まり、世界壊滅←いまここ


途中まではままあるというかいい線いっていたのに、
世界各地の暴動が起こった後、あっちこっちが核を発射する、
という流れがなんとも映画的かつ非現実的です。

それを決定する大元である国家の中枢部が日本国以外全く登場せず、
一体誰がいつどんな結論で核のボタンを押したのか、
説明されないままというのが、詰めの甘い脚本だとしか思えません。

まあしかし、それもこれも、映画ではとにかく
「地球最後の日の市民の姿」を描くことを目的としていたので、
その辺はむりやりそうなったことにしているわけですね。

「人類最後の日」

人類最後の日、運転手フランキー堺の高野家では
晴れ着を着てありったけのご馳走を作り、
日常をすごしながらその瞬間を迎えようとします。

最後まで「核を受けた唯一の国日本は核保有の反対を訴える」
とこの後に及んでそれしか結論が出なかった日本国政府の長、
総理大臣山村聡は、国会議事堂で一人閣議室の丸テーブルにに座っています。

笠智衆の娘の保育園長は、子供たちを寝かしつけ、
自衛隊のミサイル防御基地では、モニターを全員が凝視しながら
各々の配置についたまま、そして、
航海中だったため無事であった高野の娘の婚約者の船は、
(ちなみに船長は東野英治郎)壊滅した故郷、日本に向かいました。

家族と愛する人とともに、祖国の土になることだけを目的に。


このエントリ内でも、当時発生したばかりだったウクライナの戦争について
取り上げましたが、年を越した今現在も、それは終わっておりません。

映画では、全ての軍人たちが核戦争を回避するために
東西のいずれかにかかわらず努力をする姿が描かれており、
この世に戦争をしたい人などいないということを強調していましたが、
それでも起こってしまう戦争ってなんでしょう、
と当たり前の疑問をぶつけてみました。

ネットなどでは第三次世界大戦などという言葉が散見されますが、
それが絶対に起こり得ないことだと誰にも言えないのももどかしい現実です。



続く。




令和4年度掲載映画ギャラリー その1

2023-01-04 | 映画

しばらくMKが帰国してお出かけが続きブログに手をつけられず、
間が空いてしまいましたが、恒例のお絵描きギャラリーをやります。

平成4年は、実質わたしもイベントで外に出ることがなく、
おうち時間を満喫したといってもいいかもしれません。

よかったことは、特に食事をいろいろと見直し、
ドックを受けたりその結果を受けてメンテナンスしたりと、
健康に留意する機会になったこと、そして
時間があったので映画のブログをたくさんアップできたことです。

それでは、例年通り一昨年の12月掲載分からです。

「太平洋機動作戦」Operation Pacific
ジョン・ウェイン出演 第二次世界大戦潜水艦エピ紹介映画

その1

2011年の12月にはなんと2本映画を紹介していました。
そのうち一つがジョン・ウェインの海軍もの、
「太平洋機動作戦」Operation Pacificです。

ウェイン出演の戦争映画の邦題は似たようなものが多くて、
紹介しておきながらその邦題を忘れてしまうことが多いのですが、
この作品も少し経つと題名を忘れてしまいました。


有名な戦時中のエピソードや実在の人物を彷彿とさせるのは
戦後のアメリカ戦争映画あるあるですが、この映画は
負傷した自分を置き去りにして艦を潜航させよと命じた
潜水艦USS「グラウラー」のハワード・ギルモア艦長のエピソードが登場し、
さらには潜水艦USS「クレヴァル」がネグロス島から女子供含む
一般人を収容して脱出したという実際の話が織り込まれています。

後半には、有名な「信管不発問題」を海軍一丸となって解決した、
あの「日本軍艦花魁事件」も登場します。

映画ではジョン・ウェイン扮するギフォード副長に対し、
左下の「パップ」ペリー中佐が潜水艦「サンダーフィッシュ」の艦長で、
この艦長が日本軍との交戦で傷ついた自分を放棄して

「Take her down!」

と艦を潜航させる命令を下すという展開です。

”Take Her Down!”

映画によってその時の気分で絵のタッチを変えていますが、
この度もアメコミを意識して描線多めで描いてみました。

これは、「サンダーフィッシュ」が、かつて「グラウラー」と
日本の「早埼」の間でも起こったように、艦体をぶつけ合った
(実際は突撃してきたのは『早埼』の方だった)
という史実をベースにしており、この場合、彼が主人公なので、
敵への突撃を、自ら艦橋に立って(まぢかよ)命じているシーンです。



また本作ではサイドストーリーとして、ウェインとかつて夫婦だった看護師、
メアリー・スチュアート中尉との絡みがあります。

二人はかつて愛し合って結婚したのですが、ギフォードの多忙が続き、
そんなときに最初の息子が生まれてすぐ亡くなってしまいます。
それがきっかけで二人は離婚してしまうのですが、
実はお互いを(特に男の方は)忘れられない・・・という状況です。

そうはいいつつ、メアリには新しいパイロットの恋人がいて、
ウェインの方はなんとか彼らの仲に割り込もうと必死。

航空と潜水艦は微妙に仲が悪い、という
世界共通の認識をここでもうっすらと思い出させる設定です。

乗員が「デスティネーション・トーキョー」を鑑賞するシーンがあります。
ケーリー・グラント主演の有名な潜水艦映画で、公開は1943年でした。

現在進行形で紹介している潜水艦「シルバーサイズ」で実際に起きた、
哨戒中、突如虫垂炎を発症した乗員を薬剤師がオペする、
というエピソードが盛り込まれているということを知り、
わたしもこの映画を当ブログでも紹介したくて探したのですが、
日本では公開されていないせいで、DVDも輸入するしかないようです。


それはともかく、劇中、潜水艦副長であるウェインが、
この映画を観た若い通信士官にどうだった?と聞くと、

"Oh, all right I guess, sir...
the things those Hollywood guys can do with a submarine."
(ハリウッドスターが潜水艦でできること、って感じですかね)


と本職ならではの感想を漏らすのですが、のちにこの士官が、
実際の戦闘に遭遇し、周りを敵艦に囲まれて思わず、

「俺もう一生ハリウッドの戦争映画バカにしねー」

と呟くのが個人的にツボでした。



「Uボート 最後の決断」In Enemy Hands
潜水艦ファンタジー「呉越同舟」


”Meningitis"(髄膜炎)


久々に映画として楽しめた戦争映画でした。
「Uボート 最後の決断」の原題は、イン・エネミー・ハンズ=「敵の手で」。

もうタイトルでネタバレもいいところですが、何かの弾みで
Uボートに呉越同舟することになってしまった独米サブマリナーが、
敵と手を取り合って難局を脱しようとするという話です。

どうしてそんなあり得ない状態になったかというと、
まずアメリカ側のUSS「ソードフィッシュ」の副長が髄膜炎を発症。
そのうちそれがUー429と遭遇し、新米艦長の指揮する米潜水艦は撃沈。

”Laconia-Order"


米潜の面々が捕虜にされ、Uボートに連れ込まれてしまうという展開です。

そもそも狭いUボートに捕虜を収容するという展開からして
ありえないわけですが、そのありえなさを、かのデーニッツが発布した
「捕虜救助禁止令」ラコニア令を歴史的に紐解きつつ、説明してみました。

繰り返しになりますが「ラコニア事件」とは、1942年、
大西洋西で沈没したRMS「ラコニア」号の生存者を救出した
ドイツ軍のUボート3隻が、赤十字の旗を立てて、
連合軍兵士と多くの女性子供が乗っていることを示していたにも関わらず、
米軍のB-24リベレーターの爆撃を受け、そのほとんどが死亡した事件です。

これに激怒したデーニッツは、

「今後沈没した敵船の生存者を救出する努力を禁ず」

という「ラコニア令」をドイツ海軍全軍に布告しました。
(映画では事実をぼかして、これがヒトラーの非情な命令だったとしている)


しかし、この映画は「呉越同舟」の状況ありきなので、
あえてそれについては触れずに、Uボートに米軍を救出させています。

しかも、この設定にこだわるあまり、
なぜUボートの艦長が上の命令に逆らってまで捕虜を取ったのか
最後まで全く説明されません。


その後、米軍側がUボートに持ち込んだ髄膜炎は瞬く間に蔓延し、
ドイツ軍は壊滅状態に。

もはやこれまで、とドイツ側艦長は、乗員の命を救うため
アメリカへの投降を決意し、さらに米潜メンバーに
操艦を共同で行うことを提案するのでした。

その後はもうご想像の通り、別のUボートに裏切り者として攻撃されたり、
米駆逐艦からも攻撃されるはめに。

しかし波瀾万丈の展開を経てなんとか終結します。

”In Enemy Hands"


映画の非現実的でツッコミどころ満載の設定はともかく、
この作品の扉絵を作成するのは、とても楽しい作業でした。
個性豊かで男前な米独サブマリナーたちは、
その衣装を含め、たいへん描きがいがあったといえます。



「太平洋航空作戦」Flying Leathernecks
赤狩りの中生まれた朝鮮戦争戦意発揚ウェイン映画

前編

当時アメリカの映画界に吹き荒れた赤狩り旋風で、
制作側は露骨な踏み絵を映画関係者に踏ませました。

その一例が、

「わたしは共産主義者と結婚した」

という映画の監督のオファーを断れば、アカとしてブラックリスト入り、
というようなあからさまなやり方でした。

本作の監督、ニコラス・レイは超のつくリベラルであり、
この面白くなさそうな映画の監督を拒否しましたが、
ブラックリスト入りを見逃してもらう代わりに、罰ゲームとして?
この国策映画のメガホンを取ることになったと言われています。



レイはウェインに対抗させるため、あえて彼と対立する部下役に
リベラル俳優ロバート・ライアンを配しましたが、
蓋を開けてみると全く問題は起こらず、映画の撮影はスムーズでした。

彼らは政治的な立場を脇に置いて、プロとしての仕事をやり遂げたのです。

この映画は、日本語字幕をつけられたバージョンでは、
収録時間の関係で大事なところがあちこちカットになっており、
さすがはリベラル監督というのか、セリフも複雑で通り一遍ではないので、
実際の脚本を見ると、原語で試みられていた深い会話が
ことごとく台無しになっているのがなんとも残念に思われました。

翻訳の限界はたいていの外国映画に共通する宿命ですが、この作品ほど
日本語訳で観た印象と実際がかけ離れていると思ったことはありません。

それはほとんど原作の冒涜に値する思うほどでした。


ジョン・ウェインの戦争ものでは、だいたい彼の演じる軍人は
彼の見た目よりかなり若い年齢が就くべき階級ですが、
これもある意味ウェインものの宿命と言ってもいいかもしれません。

彼のモデルはカクタス航空隊のジョン・スミス少佐ですが、
当時38歳だったスミスを演じるには、ウェインは老けすぎでした。

実際の年齢の44歳より明らかに彼は老けて見えるくらいです。


ストーリーは、海兵隊の前線部隊に赴任したウェインが、
部下に慕われ次期隊長を目されていた副長の上に立ち、
彼にダメ出しをしながら指揮官とは何かを叩き込むというもので、
その間に彼らの部隊のパイロットは、いろんな理由で戦死していきます。

そして部下たちも、副長のグリフも、仲間の戦死を通じて、
戦地の過酷な現実と、戦争という任務の遂行には、
時として非情にならざるを得ない司令官の宿命について、
その真実を目の当たりにすることになるのです。

帰国してまた前線に戻ったカービーは、
同じ部隊の指揮官として日本軍との死闘に臨みますが、この戦いで
副長のグリフは作戦成功のために部下を見捨てるという辛い経験を強いられ、
今度こそ上に立つ者の苦悩を思い知るのでした。

中編 
後編

最後にカービーは、自分の後任として隊長に推薦したグリフに、
初めて司令官としての本音と真実、そして自らの苦悩を告げ、
戦地を去っていきます。

翻訳と大幅なカットのせいで外国人には本当の良さが分かりにくいですが、
アメリカでは大変高い評価が与えられている戦争映画です。


続く。



新年あけましておめでとうございます〜京都と靖國神社

2023-01-02 | お出かけ

前回のブログのタイトルで思いっきり年号を間違えておりました。
いやはや、もう令和になって5年目ですか。
体感的には?今年4年目くらいがちょうどだと思っていたのですが。

と、新年早々言い訳から始めてしまいましたが、
みなさま、明けましておめでとうございます。
今年も精進して参りますのでご指導ご鞭撻よろしくお願い申し上げます。

今日は年末の京都旅行の続きからご報告です。



京都人はパンとコーヒーを特に好むことで有名です。
学生街でもあることから喫茶店文化が根付いている土地であり、
昔から老舗の珈琲店には一杯のコーヒーで何時間も過ごす
大学生の姿が京都らしさでもあったわけですが、
古いものだけに固執するばかりが京都ではありません。

おそらくスターバックスが登場した時も、そして
ブルーボトルコーヒーがサンフランシスコからやってきたときも、
京都にはそれを受け入れて取り入れてきました。



前回の京都で南禅寺のブルーボトルコーヒーに行き、
ここでも紹介しましたが、今回は京都に3店舗あるといううちの
もう一軒の、烏丸三条駅近の六角カフェに行ってみました。



ここも京都ならではの町屋の半分を改装して2階をカフェにしています。

写真を見ればわかりますが、建物の半分は自転車屋さんで絶賛営業中。
自転車を売ったり修理する以外にレンタルが中心みたいですね。



ドキドキするくらい古い自転車が、ブルーボトル側の外壁に。

辻森自轉車店
TEL(22)5732番


という宣伝のためのプレートはこの轉という字から判断するに
当用漢字制定の1946年以前のものだったことがわかります。
タイヤは劣化して全体が泡だったようにブツブツしています。



土壁をむきだしてそこにブルーボトルのマーク、
この手法は南禅寺の同店にもみられたものです。


マイナーフィギュアズ製オーツを使ったラテは、
ハートの尻尾から吸い込んでいくように飲む仕掛け。

人大杉以外はとてもいいカフェでしたが、残念だったのは
トイレがひとつしかなく(狭いから仕方ないですが)、
その使用法が日本と違う国からきた観光客のせいで、
視覚的にも嗅覚的にも不快な思いをさせられたことでした。

オシャレなお店的にはやりたくないかもしれませんが、
これはやっぱり中国語か図解で使い方を掲示するべきでしょう。



京都最終日はもはや定宿と言っても過言ではない祇園の料理旅館に宿泊。



TOは京都での仕事での会合や懇親会など食事の利用は続けていましたが、
わたしは久しぶりの宿泊となります。


お部屋は最近家族で来ると必ずチョイスする別館です。
本館とは川と道ひとつ隔てたところにあります。


お正月を迎える床の間の掛け軸は可愛らしい寿老人で、
その下には小槌の飾りがあしらわれていました。



到着するとまずお茶とお菓子でもてなされます。
この日は抹茶の味がなんとも京都らしいあんこ餅でした。

チェックアウト時間と朝食時間のご案内も
女将手書きで和紙に書かれているのが「ここ」らしさ。



夕食は、ちょうどアメリカから観光に来ていた
MKの友人二人を招いて本館でいただくことになりました。



彼女ら同士はサンマテオの高校の同級生だったという関係。
一人はMKと同じ大学院工学部で知り合い、もう一人はシカゴ大学を出て
シアトルにある、誰でも知っているビッグテックカンパニーMで
コンピュータ技術者として働いています。

日本ではわざわざ工学部に枠を設けて増やそうとしているリケジョですが、
アメリカでは普通に「いるところにはいる」んだなあとしみじみ。

それどころか、MKによると、彼の大学院には、
リケジョかつオリンピック選手、いう人がいるそうで、
アメリカ人としても背が高く目立つ人だなあと思ったら、
オリンピックで金メダルを取った水球の選手だったということです。

Mackenzie Wiley



夕食会場は昔わたしの姉妹が泊まったことのある部屋で、
妹が撮ったこの庭に板前さんらしき人影が写っていました。

今回初めて女将にその話をしてみたら、

「はあ・・先代も先先代もまだ生きてますし、
それより前の板前やったとしても多分わからしまへんやろなあ」

と言外に物怪の類の存在を否定されました。
うーん、このかわし方、さすが祇園の女将。



さて、見た目は日本人ぽいがアメリカ人二人を加えた夕食会、
八寸は干し柿にカラスミ大根、ホタテのスモークなどを
名前は忘れましたが柑橘類の皮の入れ物にあしらったもの。

配膳の女性は、さすが世界的に名前の知れた料亭に勤めるだけあって、
メニューを全て英語で説明していきます。



メインの焼き物は最初カニと伺っていましたが、
MKが肉の方がいい、といったのでステーキになりました。

なんでも「幻の京都牛」をバルサミコ酢で味付けたものだそうで。
たいへん心苦しかったのですが、わたしには全部食べられませんでした。


本当の?メインはフグ鍋で、中居さんはこれを、

「フグは日本語のハピネス=フクと発音が似ているので、
おめでたい席には登場します」

といいつつ、フグの毒は免許のあるシェフによって完全に取り除かれている、
と外国人の心配を和らげることも忘れていません。

ところがそこで、TOが、

「いや実は本当に美味しいのは毒のあるところなんですよ」

などと言い出すので困惑するアメリカ人女子(笑)
ややこしいグルメ知識を外人に垂れ流すのやめれ。

写真はフグを食べた後のお出汁に柚子を投入した雑炊です。


次の朝、朝食までの時間鴨川を散歩しました。
冬の朝の京都はきりりと冷えた空気がまた一段とよろしおすなあ。
と思いながらテクテク歩いていると、携帯に電話が。



朝食の時間を30分勘違いしていました。
慌てて宿に帰り、カウンターでの朝食に加わります。



ご飯は普通とお粥から選べます。
だし巻き卵は卵3個は余裕で使ってそうなボリュームでした。



部屋に帰ると、女将からのお手紙が。

今回の関西旅行、TOが「腰が痛いから」と新幹線で行ったため、
わたしとMK二人で音楽を聴きながら楽しくドライブで往復しました。

おりしも巷では帰省ラッシュが始まっていたので心配しましたが、
少なくとも出発してしばらくは快調に進みました。

しかしやはりそのまま順調に行くわけもなく、
昼過ぎに新東名で事故が起こり、あっという間に渋滞が12キロに。

車のナビ(愛称ルードヴィッヒ)が提案するまま、
芦ノ湖をながめる湯河原と箱根の山道をうねうねと進み、
さらにルードヴィッヒの道案内で平塚市の海の見える道を通って
予定より2時間近く遅く自宅に帰りつきました。



女将の手紙に「富士山が見えるとよいですね」とありましたが、
新東名を走っているとこれでもかとその姿を眺めることができました。



大晦日、MKはお嬢さんたちと1日「日本観光」に出てしまいましたが、
日付が変わる頃明治神宮で並んでいる写真を送ってきて、
変わった瞬間「あけおめー」と電話してきました。

初詣が済んだ後は彼女らのホテルのソファで寝たそうです。

と言うかこの写真も外人さんが多いね。



さて、2023年、令和5年が明けました。
わたしはコロナ禍と渡米で行けなかった靖國神社に初詣に行きました。

行動制限が解かれた久しぶりの元旦となったわけですが、
明らかにその前とは人出が少なくなっている気がします。



それでもたくさんの参拝客が列を成して神前に出るのを待っています。



前回から大きく変わっていたのが手水のしくみでした。
柄杓をとって手に掬い口に含んで出す、という方法ができなくなり、
竹筒から流れ出す水で手を洗うだけになりました。
疫病蔓延を防ぐため、口に含むのは禁止です。



しかし上を見ると、手水の正しい作法が図解で記されているのであった。
これをそのまま置いているということは、
いつか従来の方法に変わることもあるということかな?



昇殿参拝を申し込みましたが、やはり人は例年より少なめでした。

昇殿の時間になるまで、申し込んだ人はお金を払い、
神主の祝詞で読み上げてもらう名前を記述して、
あとはお茶などいただきながら床暖房の効いた快適な待合室で待ちます。

わたしの後ろには女二人、男一人の3人グループがいましたが、
そのうち一人の女性(おそらく二十歳くらい)が、モニターを見て、

「英霊って何?」

と発言したのにはたまげました。

大人になるまで英霊を知らずに生きてきた人も世の中にはいるでしょうけど、
問題は、英霊という言葉を知らない人が、なぜここにいるかって話です。

彼女の言葉に、男性が、

「戦争で亡くなった人のこと」

といったあと、ちょっと取り成すように、

「こういうところに来ると、やっぱりそういうこと考えるよね」

と言ったのですが、それに対し、彼女が言い放ったのは、

「わたしそういうのあんまりー」

という言葉でした。(二人はそれに対し無言)

「そういうのあんまりー」な人がなぜここ靖國神社にいるんだろう。
しかもお金を出して昇殿参拝しようとしているんだろう。

とつぜん前の席から振り向いて、

さて、ここでクイズです!
今あなたがいる神社の御祭神は、次の三つのうちどれでしょうか?
1、英霊、2、明治天皇、3、お狐様」


とか言ってやろうかと思いました。言いませんけど。



元旦は6時で早々と参拝を終了です。
福引も今年は行われていませんでした。


参道はいつの間にか整備されて新しい休憩所ができ、
突き当たりの広場には出店のコーナーになっていました。

休憩所兼レストランでは、「鳥濱トメさん(特攻の母)の親子丼」
などというメニューもいただけるということです。



MKはというと、元日を友達と遊び倒したようです。
六本木ヒルズの展望階から元旦の夕日を楽しんだり(冒頭写真)
今ヒルズでやっているアニメ展などを見たりと。



夜になってヒルズにMKを迎えに行き、3人で家に戻りました。
ヒルズ横のけやき坂では、名物ライトアップに多くの人が集まっていました。

皆様はどんな年の初めをお迎えになったでしょうか。