ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

オフィサーズ ワードルームの「序列」〜USS「エドソン」

2023-11-30 | 軍艦

ミシガン州ヒューロン湖のサギノー湾から流れ込む
サギノー川ぞいに退役後の姿を留める駆逐艦、
USS「エドソン」の内部を探訪するシリーズ。

ブリッジの階から一階下の艦長・副長室、通信機器室、
そしてトップシークレットである通信傍受室まで見てきました。

ここでさらにもう一階下のフロアに移動します。



ドアの上の「艦内アドレス」はI-59-I、

WR MESS RM WR LOUNGE
8 FWD BAT. DRESSING STA
(ワードルーム メスルーム、ワードルームラウンジ、
8フォワードバッテリー、ドレッシングステーション)

ワードルーム単体の意味は、軍艦における将校のための娯楽室・食堂、
またはコミッションオフィサーそのものを指します。
ここでは「ワードルーム」を「士官」という意味で使っています。

また、ドレッシング ステーションは、戦闘時に負傷者が出た場合、
応急手当てなどをする部屋のことで、その際はテーブルがベッドになります。

ここにあったワードルームそのものの説明によると、

ワードルームは士官が食事をしたり、会議を行ったりする場所でした。
このメスは各士官からの寄付によって賄われていたものです。

ワードルームパントリー勤務の士官付きの料理人は、
士官用の調理は厳密に下士官とは別に行うことになっていました。



士官用の調理を行ったWR手前のキッチン

そこは、フォーマルな食事、適切な服装、厳格な行動規範を備えた
一種の
「ジェントルマンズクラブ」に似た雰囲気を持っていました。

この傾向は、艦の規模が大きくなればなるほど顕著になります。

特に海軍では艦内にスペースのない潜水艦であっても、
厳密に士官と下士官兵の食事場所は分かれていましたし、
使われる食器も陶器製にこだわる、などという違いはありましたが、
どうしてもキッチンは同じにせざるを得ない場合もありました。


■ 「ラインオフィサー」と「スタッフオフィサー

特に海軍ならではというか、ワードルーム内における序列もあって、

キャビンの使用も暗黙の了解のもとに、

ライン-オフィサーは右舷側
スタッフ-オフィサー
は左舷側

と昔から決まっており、現在も変わっていません。

このライン-オフィサーとはなんぞや、って話ですが、
「ライン-オフィサー」または「オフィサー・オブ・ザ・ライン」とは、
アメリカ海軍またはアメリカ海兵隊の将校または准尉であり、
一般的な指揮権を持ち作戦指揮の地位に就く資格を持つ将校のことです。

オフィサー・オブ・ザ・ライン(Officer of the line)

という表現は、18世紀から19世紀にかけてのイギリス海軍で、当時は
シップ・オブ・ザ・ライン(Ships of the line)
と呼ばれていた大艦艇そのものの呼称に由来しているという説があります。

語源は、当時は艦砲が船に横付けされていたため、この効果をあげるために
帆を動力とする軍艦を「ライン」に組織したことから来ています。

つまり戦術または戦闘部隊の指揮を行う資格を持つ将校を意味しますが、
この用語は一般的に米陸軍では使用されません。

具体的には、

海軍航空士官および海軍飛行士官

水上戦士官
潜水艦戦士官
海軍特殊戦/海軍特殊作戦 (NSW/NSO) 士官
(SEALsから成る、 特殊戦戦闘機 (SWCC)士官
爆発物処理(EOD)士官(海軍潜水士官で構成される)


などを指し、さらにラインオフィサーの中でもこれらの士官を


「非制限(Unrestricted,URL)ラインオフィサー」

と称します。
それでは逆の


「制限付き(Limited Duty)ラインオフィサー」

は何かというと、

情報、暗号、海洋学/気象学、工学任務、
航空工学任務、航空機整備、広報

などの分野に所属する士官のことです。

「原子力潜水艦の父」ハイマン・リッコーヴァーが少将になったとき、
これに強く反発し反対したのは、「非制限ラインオフィサー」でした。

彼らの中では、あくまでも、
「アンレストリクテッド LO」>「リミテッドデューティLO」
だったということを表します。

そしてスタッフ-オフィサーは、非戦闘専門分野を任務とする将校であり、

弁護士、チャプレン(従軍牧師)、土木技師、
医療サービス専門家、兵站・財務管理専門家

などを指します。
言及されてませんが、軍楽隊の指揮官もこちらに含まれるでしょう。

スタッフオフィサーのことは「幕僚団士官」ということもあります。

しかし、海兵隊は海軍とは異なり、幕僚隊が存在しないため、
機関将校や補給将校、法律関係将校は「全てラインオフィサー」です。

ちなみに、海兵隊の医務隊、歯科医務隊、看護師隊、
チャプレン隊には士官はいません。
その役職が必要な場合は、海軍から派遣されます。

空軍はというと、医務、看護、歯科、医療サービス(医療管理)、
生物科学、法務官、チャプレン隊に配属されるのは「専門将校」と呼ばれ、
法務官はラインオフィサーともみなされ、空軍の一線(LAF)に属します。
(ちなみに空軍には准尉はいない)

そして、「ライン-オフィサー」の発祥の地であるイギリス海軍では、
その連邦加盟国ともども、この言葉もその地位も消滅し、存在しません。


■ ワードルーム Ward Room



・・・と散々説明してきたわけですが、

「エドソン」のように「右舷と左舷」にシートが分かれていない場合は、
(窓際のシートはすべて左舷側にある)
制限なしもありも、そもそも序列もあったもんじゃない気がしますね。



このシートの中でもどこが「上席」とか、暗黙の了解があったとかかな?



まあそんなことはどうでもよろしい。

ワードルームメスの奥に目立っているこのボロボロの星条旗ですが、
わたしの想像通り、やはり特別なイベントを経験していました。

1941年12月7日、真珠湾攻撃があったとき、
駆逐艦USS「セルフリッジ」DD-357に翻っていたものだそうです。



U.S.S セルフリッジ

1942年1月15日
司令官より
米艦隊司令へ

題;1941年12月7日 真珠湾における行動についての報告

当艦は、1941年12月7日の空襲中、
真珠湾とそこに拠点を置く船舶の防衛に参加す。
空襲発生当時係留せし岸壁X-0、ほぼ北東に艦首をむけていた。

艦外右舷側に「ケース」「リード」「タッカー」
「カミングス」「ホイットニー」。

作戦開始時、すべての機銃に対し、
0.50 口径と 1.1 口径の弾薬が箱で用意されていた。
銃は有人で装填するのみの状態ですぐに使用できる状態にあった。

乗艦していたのは9人の士官と乗組員の99%。

朝のモーニングカラーズ(旗掲揚)の約 4 分前に、
甲板士官が日本軍の飛行機から発射された魚雷が
USS「ラレイ」(Raleigh)LPD-1 に命中したのを目撃。

ほぼ同時にシグナルブリッジから海軍航空ステーションが火事と連絡あり。
甲板士官はジェネラルクォーターズのアラームを鳴らし、
状況を確認したうえで、出港のため機関室にボイラーの点火を命ず。

0758頃、セルフリッジの50口径機関銃、日本軍機に向けて発砲し、
すぐに1.1口径機関銃が続いた。
これらはこの地域における攻撃後の最初の発砲とされる。

砲撃を受けた敵機2機が墜落。
1機は「カーチス」に向かってダイビング中1.1銃が命中したものである。
翼がもぎ取られた飛行機はベコニングポイントの海岸近くに墜落した。

「セルフリッジ」の西に向かって低空飛行していた別の飛行機が、
ノース海峡のUSS「ラレイ」に爆弾を投下した。

3機目の飛行機は、1.1インチの砲撃の中を飛んでいたが、
丘の中腹にある生け垣の陰に消えるのが目撃された 。

4機目は、左舷の50口径機関銃で胴体下部を撃たれ、煙を上げ始め、
最後に目撃されたときはセルフリッジの北のサトウキビ畑に向かったが、
その後この飛行機が墜落したことが確認されている。

戦闘中m850発の1.1インチ口径弾と2,340発の.50口径弾が消費された。
人的被害はなかった。

唯一の物的被害は、右舷側にある小さな円錐形のへこみであり、
これは小銃の銃弾によって付いたと考えられる。

艦の装備性能は、乗組員の能力と同様優れていた。
襲撃中、弾薬供給の中断によって発砲が滞ることは一度もなかった。
銃撃に加わらない乗組員も、最も効率的かつ迅速な方法で弾薬を補給した。

戦闘部隊としての乗組員の行動、協力、冷静さ、士気は素晴らしく、
誰か特定の士官や兵士の行動が傑出していたというものではない。

行動調書




本棚にあるのはほとんどが艦艇年鑑などの関係書ですが、
左上にジャック・ロンドンの「アドベンチャー」が見えます。



長いテーブルを挟んで両側に椅子が並びます。
ワードルーム士官たちはここで食事を取ったのでしょう。
それにしても、このテーブルの並びも艦体に対して横向きですので、
「左舷側」「右舷側」の階級分けはできません。

「エドソン」のラインとスタッフオフィサーはどう住み分けていたのか。



トイレが広すぎい!
これ、個室ですよね。



■ ステートルーム State Room

ここは区画名でいうと「ステートルーム」とされています。
士官の寝室ということですが、艦長、副長ときてNo.3となると、
自衛隊でいうところの「船務長」「砲雷長」でしょうか。


■ 支払い事務所(Disbursing Office)

ここは海軍艦艇の会計事務所です。
このオフィスは乗組員の給料日を管理する任務も負っています。
少なくとも過去にはそうでした。

「エドソン」の給料支払いは、通常 2 つの場所のいずれかで行われました。
食堂デッキで行われることもあれば、
この支払事務所の窓の外で行われることもありました。

ただし、変わらないことが 1 つありました。

給料日にはいつも衛生兵「コーアマン」Corpsmanがいたことです。
なぜ衛生兵か。


USS 「エドソン」は比較的小型の船であったため、
乗組員が一つのところに集合することはめったにありません。

衛生兵の任務の一つは、乗組員に必要な予防接種を受けさせることですが、
この要件を全員に遵守させるのは非常に困難なことでした。

しかし、給料日になるといずれにしても誰もが同じ場所に集まり、
必ず全員がお金のある場所に集中することになります。

そこで衛生兵たちは、彼らのブースを支払い事務所の前に設置して

予防接種を受けないと給料がもらえないシステムにしていました。

現在、軍の全てで乗組員は乗艦中に自分のお金にアクセスするため、
直接預金システムに参加することが義務付けられていますし、
アメリカ海軍は船舶にATMを装備しているのが標準となりました。

(すげー)

給料受け取りたかったら注射を受けろ、という技が使えなくなったのです。

しかし、コロナ以降、予防注射に対する考え方も随分変わって、
むしろワクチンを打たなければ勤務に参加できない、
などの縛りができているはずなので、そちらは無問題となっています。



■ 人事部(Personnel Office)

NAV/X 部門に配属された職員 をパーソネルマン(PN) といいます。
パーソネルマンもまた、(艦のヨーマンとともに)
個人の人事経歴記録の管理について責任を負っていました。

ここでは、22人の士官と315人の下士官兵に関する記録について、
大手企業や会社で保管されているものと同様の業務を行っていました。



タイプライターはアタッシェケース付きのモバイル式。
電化製品の仕様に時代が感じられますね。


続く。




爆撃士官「キッド・ワンダー」〜メンフィス・ベル アメリカ国立空軍博物館

2023-11-28 | 飛行家列伝

B-17爆撃機、メンフィス・ベルのメンバーから、今日は
パイロット以外の士官のうち一人を紹介します。

「アメリカ軍の爆撃スキルと装備は私の知る限り世界一だ。
このことに疑いを挟む余地はない」

と自らの強さを力強く断言したのは、ヴィンス・エバンス大尉、
メンフィス・ビルの爆撃士です。

船なら「砲雷長」に相当する爆撃機爆撃担当の士官を日本でなんと呼ぶのか、
ちょっとわからなかったのですが爆撃士とここでは書きます。

英語では、爆撃担当の下士官兵のことも、
爆撃機から爆弾をリリースする士官も、Bombbardier、
ボンバルディアというフランス語源の言葉になります。

さらにこの単語の読み方ですが、フランス語ならボンバルディエ。
しかし、ピッツバーグでよく散歩したオハイオ川のほとりにあった会社、
カナダの「Bombardier」はボンバルディアと読むらしいです。

さて、メンフィスベルのボンバルディアである、
Vinson ‘Vince’ Evans ヴィンソン「ヴィンス」エヴァンス 

メンフィス・ベルの写真を見ても、動画を見ても、
この人物の特徴的な顔は、一目で他の人との見分けがつきます。



映画「メンフィス・ベル」で爆撃手を演じたのはビリー・ゼインでした。

あの「タイタニック」のローズの金持ちの婚約者役、
あの見るからにキレやすくDV亭主になりそうな(というか実際殴ってたし)
冷酷かつ完璧にエレガントな男っぷりが印象的な俳優です。

「メンフィス〜」では、医学生であるとついた軽い嘘に自分が苦しめられる、
内心に葛藤を抱えた複雑な育ちの青年士官という役どころ。

最後のミッションでメンバーの一人が重傷を負った時、
医学生なら助けられるだろ?と皆に詰め寄られて
医学部は1週間でやめたんだ〜!とぶっちゃけるシーンが忘れられません。

■ 生い立ち

人は彼を「キッド・ワンダー」と呼びました。
それは、彼が次に何をするつもりなのか誰にも予想がつかなかったからです。

妹のペギーによると、こんな逸話がありました。

「11歳くらいのとき、父の車でダウンタウンに来ていた彼が、
こっそり自分で運転して家まで帰ってしまったことがありました。
父親はダウンタウンで置き去りにされ、立ち往生です。

家にいた母親は車が帰ってきたのを見ましたが、
11歳の彼は運転席に座るとほとんど外から姿が見えなかったので、
母親は無人の車が帰ってきたように思ったそうです。

彼がどうやって古いウィペットのクラッチとブレーキペダルを踏めたのか、
わたしたちにも誰にも全く想像がつきません」

彼は1920年にテキサス州フォースワースで生まれ、
高校を卒業後、ノース テキサス教育大学に通いました。

その後若くして起業し、伐採会社を経営して成功していましたが、
ヨーロッパで戦争が激化すると、実業に興味を失った彼は、
血気盛んな青年らしくスリルと興奮を求めて
真珠湾攻撃の直前にパイロットを目指して空軍に入隊しました。

ただ、ソロに十分な資格が得られず、爆撃機に転向することになりました。
つまり操縦の技術は今ひとつだったってことでしょうか。
しかし、配置されたところで、彼は才能を発揮しました。

彼は爆撃手として必要な素質を持っていたのです。


■ 派手だった女性関係

モーガンもそうでしたが、二十歳そこそこの搭乗員を色々と掘り下げても、
英雄的な話なんぞ滅多にあるものではなく、
だいたい出てくる話は女関係くらいのものです。

ということで、なまじメンフィス・ベルで有名になってしまったため、
他の男子ならまーそういうこともあったよねー程度で忘れられる話が、
彼の場合もこうして歴史に残ってしまうのだった。🙏

それでは彼の「ザ・クズ」エピソードの数々をどうぞ。

大学卒業後すぐに事業を始めていたヴィンスは、
航空隊に入りワラワラに着任する頃には、すでにバツイチとなっていました。
(モーガンはそのころバツ3ですが、この人は特殊だと思います)

そして第91爆撃隊の一員としてイギリスに向かう二日前、
ディニー・ケリーという女性と結婚しました。
つまり彼らは二日間だけの甘い新婚生活を送ったわけですが、
この二日が彼らの結婚のピークであり最後でもありました。

なぜなら彼はそれっきり彼女のもとに戻ってこなかったからです。

イギリスに到着するなり、彼は基地近くの農家の娘と仲良くなり、
彼女に会うために毎晩基地からこっそり抜け出し、朝になると
彼女にもらった新鮮な卵と牛乳を持って戻ってくるようになりました。

そのおかげで、彼はしばらく「エッグ・オフィサー」と呼ばれていました。
そしてその農家の娘というのは、モーガンに言わせると

「彼女『も』本当に可愛かったよ」

「も」ってなんなんだ「も」って。

それはモーガンに言わせると、エヴァンスが狙った女の子たちは
例外なくほとんど可愛かったからという意味だそうです。

また他の乗組員の証言によると、エヴァンスは、イギリスツァー中、
農家の娘の他に少なくとも 2 人の女性となんかあったそうです。

一人は、エヴァンスがロンドンで出会ったケイというナイトクラブの歌手。
農家の娘、ナイトクラブの歌手って本当に好みのレンジが広いな。

このケイという歌手とは割と本気だったようで、
戦後は彼女とイギリスで結婚するつもりだという噂もあったほどです。

そして彼女と任務以外の時間をずっと一緒に過ごすためにロンドンに滞在し、
早朝にモーガンや友人に電話して「試合」の予定があるかどうかを確認し、
そうでない場合はそのまま彼女の部屋にいたそうです。

すでに「ゲーム」が始まりかけていて、慌てて基地に戻った彼が
爆撃機の出発ぎりぎりに滑り込む、ということもありました。

「機がすでに離陸線に向けてタキシングしていたところに、
遅れた彼は走ってきて、飛行機に”スクランブル”をかけてきました。」

戦地にいる士官で、しかも航空だからおおごとにならなかったみたいだけど、
海軍ならこれ懲戒(下手すれば軍事裁判)だよなあ・・・。

まあ、我が帝国海軍でも、中尉が呉から出航する軍艦に乗り遅れ、
早船をチャーターして追いつき、なんとか乗り込むも新聞沙汰、
という事件があったといいますが・・。

【ゆっくり解説】悲報・帝国海軍中尉、遅刻して置いてかれる。

この海軍中尉もクラブの歌手、じゃなくてレスのエス(エスはシンガーのS)
つまり置屋の芸者と後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しんでいたのかしら。


そして帰国してからの彼のお相手ですが、これがなんとハリウッド女優でした。

メンバーはアメリカに帰国した時、ヨーロッパでワイラーが撮影した
陸軍省の映画の背景音声を吹き込む仕事のため、
ハリウッドに立ち寄るということがあったのですが、そこで彼は
魅力的なスターレット、ジーン・エイムズに出会ってしまいました。



二人の間に新たな火花が飛び交い、アメリカに帰国した途端、
彼はイギリスの彼女、ケイの記憶を失ってしまいました。

戦後、彼は脚本家としてハリウッドで仕事をするようになりますが、
そのきっかけとなったのは、このときウィリアム・ワイラーが彼を
メンフィス・ベルの映画の一種の「技術顧問」扱いしたことでした。

そのため彼は他の乗組員よりもハリウッドとカリフォルニアで
多くの時間を過ごし、女優と浮き名を流すことにもなったわけです。

それにしても可哀想なケイ。そしてディニー。
・・・・あれ?・・・ディニー?DINNY?



彼が爆撃手として配置されるノーズの下の文字、見えますかね?
DINNY・・・これって・・二日間結婚していた人。

エヴァンスはこのことについて新聞記者に問われ、こう言い放ちました。

だって仕方ないじゃないですか。
僕たちは結婚する数日前に知り合ったばかりだったんだし」

そう、そして二日後ヨーロッパに行っちゃったんですよね。
なら結婚なんかするなっつーの#

メンフィス・ベルのマーガレットも、ディニーもそうでしたが、
男たちがヨーロッパに戦いに行ってからの半年、
彼女たちは婚約者と夫の無事だけを祈り、彼らのことだけを考えて
帰ってくる日を指折り数えて待っていたのです。(そのはずです)

しかし、ああしかし、若い男、ことに明日の命を知れない
有り余るエネルギーを持て余す男たちにとって、半年は長すぎました。

帰ってくるなり女優と派手に付き合い出したことは、
いやでも彼女の耳に入り、(新聞記者の口から聞かされたりする)
彼の不実さに激怒した彼女は、

「彼が自分のところに戻ってきて、ちゃんと説明しない限り
わたしは絶対に離婚しない!

と宣言し、彼の妹も彼女に味方して兄を責め立てました。
彼の妹ペギーは、兄について後年しみじみとこう語っています。

「私の兄は真の’スカートチェイサー’でした。」

スカートチェイサー、意味はお分かりですね。
しかも彼は、ほとんど目先のことしか考えない短慮な男でもありました。

「ある日、エヴァンスから電話がありました」

ボブ・モーガンはインタビューで回想しています。

「絶望的な様子で彼は言いました。
『ボブ、僕を国外に出られるようにしてもらえないか?』と」

前にも書きましたが、当時モーガンはB-29に乗るための訓練中でした。

この新型爆撃機に魅せられた彼は、メンフィス・ベルの後も軍に残り、
B-29に乗って日本への攻撃に加わるわけですが、ベルのメンバーで
たった一人、彼についてきたのがこのヴィンス・エヴァンスでした。

その理由は、モーガンのように新型機に魅せられたからでも、
モーガンを慕っていたからでも、ましてや国を思ってのことなんかでもなく、
とりあえずディニーから逃げるためだったのです。

「なぜ彼がそんなに切羽詰まっていたかですか?
それはですね、ヴィンスはジーンと結婚したみたいなんですけど、
自分がまだディニーと結婚していたことを忘れていたらしいんです」

んなわけあるかーい(笑)

B-29に乗るのも命の危険があることは彼も百も承知だったでしょうが、
ことをうやむやにできるなら死も覚悟して、ってことだったんでしょうか。


エヴァンスと女優のジーンは1944年の9月17日に結婚しましたが、
一児(ヴァレリー)を設けたあと、すぐに離婚しています。

その子供については何もわかっていません。

■ 航空搭乗員としてのヴィンス・エヴァンス

機長、ボブ・モーガンは彼についてこう言っています。

「彼は乗組員にとって点火プラグみたいなもので、
他にあんな人材はいませんでした。
第 8 空軍で最高の爆撃手の一人でもありました」

メンフィス・ベルが爆撃任務の多くで先頭機に選ばれたのには
彼の爆撃スキルがその理由だったと言われています。

また25回の任務を遂行する戦闘航空乗組員の心理について、
エヴァンスはこんな洞察を提供しています。

「面白いことですが、何回爆撃任務を行っても、
恐怖から完全に抜け出すことはできません。
最初の 5 ~ 6 回の襲撃では、かなり緊張し、そのとき、あなたは
『私は生きてこの任務を終えることはできないだろう』と思います。

それについてちょっと運命論者となってしまうわけです。

そして20回目くらいになると、あれ、もしかしたら、
自分にはチャンスがあるかもしれないと考え始めるんですが、そうなると
自分で自分の心をバイオリンの弦を張り直すように締め変えます。

そして最後の 5 つのミッションに緊張して臨むんです


ボンバルディア、爆撃手の配置は、エポキシガラスのノーズの先端です。
戦闘中ここにいることがどんな危険なことかおわかりでしょうか。

ワイラー監督の「メンフィス・ベル」では、ここを攻撃されて負傷したり、
破損した先端から落下したナビゲーターがいたことが描かれています。


■ 戦後

戦後、人々はこの爆撃機エースが作家としても才能があることに気づきました。

実際彼は子供の頃から物語を書いており、素晴らしい想像力を持ち、
大学時代、彼は短編小説を書いて多くの注目を集めたこともありました。

ハリウッドに関わったことをきっかけに、彼は脚本を書きました。
ハンフリー・ボガート主演の「大空への挑戦(チェイン・ライトニング)」
ロック・ハドソン主演の「大空の凱歌(Battle Hymn)」
などの作品に彼の名前が残されています。

彼はエネルギッシュな人物で、執筆活動以外にも、
メキシコでボートを操縦し、ロサンゼルスでレストランを経営し、
カリフォルニア州ポモナでレースカーを運転したりしていました。

しかし、彼がこんなお金のかかる道楽にのめりこめたのは、
裕福な資産家、マージェリー・ウィンクラーと逆玉結婚したからでした。

彼はその潤沢な資産を元に牧場経営、レストラン経営をはじめ、
なかでもえんどう豆のスープのレストランは大成功し、
エヴァンス夫妻はロナルド・レーガンとも親しいセレブとなりました。

1979 年、ヴィンスはロンドンで100 年以上の歴史のある
イングリッシュ パブを購入して事業拡大しています。

■ 空に散ったボンバルディア

1980年4月20日、エヴァンスは妻、23歳の娘ベニシアとともに、
24歳のパイロット、ナンシー・マインケンの操縦する
エヴァンスの専用機でパロアルト空港を離陸しました。

エヴァンスが操縦士免許は持っていたものの計器の資格がなかったこと、
そしてその日曇っていたことが事故につながりました。

彼らの飛行機は、計器着陸の指示を求める無線を最後にレーダーから姿を消し、
その日は悪天候と暗闇のため2時間で捜索は打ち切られました。

翌日早朝、飛行機の残骸と彼ら全員の遺体が丘の中腹で発見されました。

事故を報じる新聞記事

息子のピーターは、飛行機に乗っておらず命拾いしています。
妹のペギーによると、事故の前、彼は病気の母親を見舞い、

「お母さん、早く良くなってね。
元気になったらメンフィス・ベルを見に連れて行ってあげたい」

といったそうです。

エース爆撃手であり、ロマンティックでエネルギッシュな実業家、
「キッド・ワンダー」の旅が終わりを告げたのは、その10日後でした。

妹のペギーは、

彼は残りの人生においてその名前に忠実に生きたのだと思います。」

と語っています。


続く。


ヴェリニス大尉と愛犬シュトゥーカの物語〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-11-25 | 飛行家列伝

メンフィス・ベルの搭乗員について、国立空軍博物館の展示をもとに
順番にお話ししていこうと、機長のボブ・モーガンから始めたところ、
この人のパーソナルライフ(というか女性関係)がぶっ飛んでいたので、
つい一項を割いて、彼の6人の妻と恋人について語ってしまいました。

なんというか、モーガンの天然さと、ベルのノーズアートのモデル、
マーガレット・ポークの品格が際立つ話でしたね。

今日もベルのクルーの紹介をしていこうと思います。
ということで、副機長のジム・ヴェリニス大尉です。

■ ジェームズ・ヴェリニス大尉 副機長

"今、クルーは、任務終了まで25回しかないことを知っている。
士気は上々だ。”


ジム・アンジェロ・ヴェリニス

任務終了まで25回、ということは、これから任務開始ってことですね。

前にも書きましたが、メンフィス・ベルの副機長として帰国し、
国債ツァーに参加したヴェリニス大尉が実際にベルの副機長として飛んだのは
一度だけで、後2度、機長としてベルを率いました。

彼が選ばれたのは、ベルの前に彼自身が率いるB-17で任務を行い、
通算25回に相当する実績を上げていたからだと思われます。

博物館には彼がツァーのため渡欧していた6ヶ月のうち、
2ヶ月しか埋められていない「1日1ページ日記」が展示されており、
上の言葉はそこに書き記されたある日(任務開始前)の記述です。

しかし、任務が始まってから2ヶ月目、ヴェリニス大尉は
同じ日記にこのように書き記しています。



”コンバットの影響は着実に出ている。
みんな家に戻ることばかり考えている。
現在までに隊員の約3分の1を失ったわけだが、

まだ任務の半分も完了していない。
なんて危険な毎日なんだ!!!!


ヴェリニス(Verinis)という姓はギリシャ系です。
ギリシャから移民してきた両親はアイスクリーム店を営んでいました。

彼はコネチカット州ニューヘブンで育ち、大学卒業後、
航空士官候補生として1941年 7月に陸軍航空隊に入隊します。

航空訓練で最初の単独飛行となったとき、
彼は着陸の際水平飛行にできず機体を失速させてクラッシュしています。

そのとき彼は全身にガソリンをかぶったまま機内に閉じ込められ、
火が出る前にコクピットから引きずりだされて出され、
命は助かったものの、顔と頭を何針も縫う怪我を負いました。

結局ソロで飛ぶ戦闘機には「飽きた」として、ヴェリニスは、
B-17のファーストパイロットの資格を取りました。

ヴェリニスを含む搭乗員たちはヨーロッパに送られたものの、
しばらくは編隊飛行の練習などで出撃させてもらえませんでした。
彼は、そのむしゃくしゃする思いを日記にこのように綴っています。

10月13日
「まだ何もさせてもらえない」

10月15日
「アンクルサムはいったい何をしていることやら」

10月17日
「最近はよくポーカーをやっている」

10月23日
「誕生日おめでとう、俺!
ケンブリッジのアメリカンバーでちょっとしたパーティーを開いた。
魅力的な英国の女の子が集まるレックス ボールルームに行ってきた!」

そしてこの1週間の間に、事態は動きました。
機長として彼が率いるB-17が決まったのです。

10月31日
「今日、航空団本部は我々を引き継いだ。
これで戦闘の準備が整った。
もう出撃までそう長くはかからないだろう。」

1月12日
「私には新しい飛行機が割り当てられた。
”コネチカット・ヤンキー”と名付けることにした。
彼女の”歪み”を直すのに忙しい」



「コネチカット・ヤンキー」の指揮を取ることになったヴェリニス大尉
(後列左)

ヴェリニスの個人認識用ブレスレット

BBCのインタビューに答えるヴェリニス大尉


映画で副機長のルークを演じたのは、テイト・ドノバン
上層部との話し合いでシャッターにポーズするルークは、
このとき「女の子が目当てでプールの監視員をした」などと言っています。

女の子が好きで陽キャラという彼の映画での描かれ方は、
キャラ付けというやつで、実際そうだったかどうかはわかりません。

この俳優テイト・ドノバンですが、ディズニーのアニメ、

「ヘラクレス」で主人公ヘラクレスの声優を務めています。

(さらに余談中の余談ですが、ヘラクレスのテーマソングを歌っていたのは、
『デスペレートな妻たち』でブリーに言いよる不気味キャラの薬剤師、
ジョージを演じるロジャー・バートだと知った時は衝撃でした)

ところで、実際の写真でも、映画でも、マスコット犬を抱いているのは
この副機長ということになっています。

今日はメンフィス・ベルのマスコット犬についても話します。


■ マスコット犬 シュトゥーカ


マスコット犬シュトゥーカはヴェリニス大尉の飼い犬でした。

シュトゥーカはドイツの急降下爆撃機、ユンカース 87 の名称です。
Sturzkampf-flugzeug (シュトゥルツカンプ-フルークツァウク)
という単語の短縮形で、英語に訳すとそのまま「急降下戦闘機」という意味。

1943年の春、メンフィス・ベルの副操縦士であるジム・ヴェリニスは、
元気いっぱいのスコティッシュテリアの雌の子犬にこう名付けました。

シュトゥーカの物語は、1943年の2月か3月頃から始まりました。
ヴェリニスは、メンフィス・ベルのナビゲーターであるレイトンとともに、
ある日リラックスするためにロンドンに小旅行に出かけました。

彼らが通りを歩いていてペットショップの前を通りかかったとき、
窓を通して小さな子犬が目につきました。
小さな犬は覗き込んだ彼に強くアピールしたので、
彼は店に入ってすぐに彼女を買い求めたのです。

「正確な値段は覚えていませんが、アメリカドルで50だったと思います。」

この「急降下爆撃機」がアメリカ軍に与えた最大の攻撃はというと、
兵舎の寝室の床に置かれた主人の靴下を噛み砕くことでした。

帰国後、副機長の連れていた犬はすぐに話題になり、

「実際に酸素供給装置を備えた小さな箱に入れられて
メンフィス・ベルの爆撃任務に参加した」

という噂がまことしやかに新聞記事になったこともありますが、
ヴェリニスはそれを否定しています。

「どこからそんな話がでてきたのかわかりませんね。
誰かがでっち上げたんだと思います。
もし爆撃機が高度 10,000 フィート以下しか飛ばないなら、
シュトゥーカを乗せて飛ぶこともあるかもしれませんが、

そもそもミッションの時はそんな低空で飛行しませんから

映画メンフィス・ベルでは、最後のミッションからベルが帰ってきたとき、
地面に寝そべっていた犬(黒のスコッチテリアではない)が、
機影も見えず爆音も聞こえないのに、ぴくんと耳を立てて頭をもたげ、
エプロンに向かって一目散に走り出すシーンがありました。






ミッションに参加しなかったシュトゥーカはもちろんですが、
実際にも彼の飼い主は25回のミッションを生き残り、
彼らは一緒にアメリカに行くためB-17に乗り込みました。

「そのときが彼女にとって初めての飛行機搭乗体験だったと思います。
エンジンがかかり、飛行機が動き始めると、彼女は緊張して、
前後に走りまわりましたが、吠えたり叫んだりはしませんでした。」

これまでにも書いたように、機長のボブ・モーガンは腕のいい操縦士で、
それゆえ特に公衆の面前では、ここぞとスタントを行うのが常でしたが、
彼女は最初こそ少しびっくりしていたものの、すぐに慣れて、
新しい都市に到着するたびに飛行機の中で振り回されても全く平気どころか、
あらゆるワイルドな事態を楽しんでいるかのように見えたそうです。

どこにいってもシュトゥーカは群衆に大好評でした。
人々はこの可愛らしい犬に熱狂し、彼女はというと、
自分が注目を集めることを楽しんでいるようだったそうです。

各都市に到着するたびにメンバーは地元でパレードを行いましたが、
シュトゥーカはまるで女王様のように見物人に迎えられました。

メンフィス・ベルを報じるマスメディアのカメラマンは、
こぞって「空飛ぶ犬」の画像を求めて彼女を追いました。

そして今でも良くある話ですが、犬は、女の子を誘うための餌、
じゃなくて、格好の口実にもなってくれます。

「でさ、今泊まってる部屋にその犬がいるんだけど、見にこない?」

「え〜?犬なら見たいわー」

彼女らはホテルのドアを開けるとそこにシュトゥーカがいるのを見ると、
例外なく驚いて、こう言ったそうです。

「へえ、本当に犬を飼っていたのね」

ちょっと待て。
「彼女”ら”」?

どうもこの言い方だと、ヴェリニス大尉、ツァーの間中、
犬の話で女の子を誘って何人も部屋まで連れ込んでいた模様。

そして女の子たちも彼の犬話を単なる口実だと思っていた模様。
口実とわかっていてあえて連れ込まれてあげる的な。

あっ!

今気がついたんだけど、マーガレットとモーガンがツァー後別れたのは、
モテモテの搭乗員たちが、このように各地で遊びまくっているのに、
公式な「婚約者」同伴のモーガンにはそのチャンスがなかったからか?

それとも、彼女がいるのに同じように羽目を外したからか?


■ シュトゥーカの ”ショートスノーター”

その頃、シュトゥーカがウィスキーが好き、という噂が広まりました。

何人かが面白がって犬にソーサーいっぱいのウィスキーを渡すと、
驚いたことに彼女はそれを本当に飲んでいたそうです。

「彼女は少しよろめき、おどけた様子でどこかへ行って
横になって眠っていました。」

これ普通に動物虐待でしょう。
犬はアルコールを体内で分解することができないので、お酒は絶対ダメ。
シュトゥーカのその後って、どこにも書いていないけど、
天寿を全うできた気がしない・・・。


ところでお酒といえば、「混合酒一杯(少なめ)」を語源とする、
「ショートスノーターshort Snorter
というものをこ存じでしょうか。

大西洋を飛行機で横断する搭乗員が「お守り」にしたもので、
1ドル札にいろんな人のサインを書き込んで、それを携帯します。



上はヴァンデンバーグ将軍が1942年に作ったショートスノーター。

ハップ・アーノルド、アイゼンハワー、ルイス・マウントバッテン提督、
共和党のジョン・タワー
(当時海軍にいた)など有名人のサインがあります。
(ちなみにタワーは後年航空機の墜落事故で死亡している)

名前を書くスペースがなくなったら、新しい1ドル札でまたそれを始めます。
これを大量にコレクションしている搭乗員もいたそうです。

戦闘の無事ではなく、あくまで「太平洋横断の無事」を祈るものなので、
ヨーロッパからアメリカに帰国する搭乗員は皆これを持つのですが、
シュトゥーカも犬の分際で自分のショートスノーターを持っていたそうです。

さすがの有名犬、彼女のショートスノーターには

「クラーク・ゲーブル、バージェス・メレディス、
映画『ベル』を作ったウィリアム・ワイラーなどのサインがあった」

ということです。

挨拶するメンフィス・ベルのメンバーとシュトゥーカ

5:54で彼女がヴェリニス大尉によって一瞬紹介されています。


続く。



モーガン大尉の6人の妻〜メンフィス・ベル アメリカ国立空軍博物館

2023-11-23 | 飛行家列伝

さて、国立博物館のメンフィス・ベル展示から、
25回ミッションを達成して帰国後ツァーを行ったメンバーについて
さらっとお話ししていくつもりだったのですが、
機長のロバート・モーガン大佐(最終)という人について
「メンフィス・ベル」のモデル、マーガレット嬢との関係を始め
色々とすごかったので、彼の功績とかメンフィスベルの戦歴とは
全く関係ないことですが、余談としてお話ししておくことにします。

【生涯に6度の結婚】

ベルのミッション25回終了後、帰国して戦債ツァーに参加した彼は、
その後も軍に残り、少佐に昇進して太平洋戦線に赴きました。

彼はサイパンから発進する
B-29スーパーフォートレス「ドーントレス・ドッティ」
の機長として日本本土への爆撃任務を行い、
その年の終戦を受けて現役を引退し予備役にとどまりました。



ちなみにこのB-29の愛称、「ドーントレス・ドッティ」は、
彼の4番目の妻
ドロシー・ジョンソン・モーガンにちなんでいました。

4番目!とわたしも最初は驚きましたが、よくよく読むと、
彼は生涯に結婚した相手だけで6人、お付き合いした人は数知れず。

「(自分の人生には)酒と女と歌が多すぎた」

と自ら豪語する、派手な女性遍歴の持ち主だったのです。


いわゆるMMK

■最初の結婚 ドリス

最初の結婚はなんと彼15歳のとき、公立高校の13歳の下級生、
ドリス・ニューマンと駆け落ちしたときにさかのぼります。

駆け落ちながら、正式に婚姻届を出したらしく(出せたんですね)、
結婚日は1931年6月6日、そして9日後の6月15日に離婚。
(見つかって連れ戻され、怒られて諦めたパターン)

このことは公式にはなかったことにされていたのですが、
彼がなまじ有名人になってしまったことでジャーナリストに掘られ、
ゴシップとしてすっぱ抜かれたという形です。

ですから、今でもこの結婚歴は媒体によってはなかったことになっています。


この頃から、彼の実家モーガン家には次々と不幸が連続しています。
まるで息子の15歳駆け落ち事件がきっかけだったかのように。

まず、回復不可能なガンにかかった妻が悲観して拳銃自殺。
まだ若い母を失ったボブは、これに打ちのめされます。
そしてほどなく大恐慌が起こり、父が経営していた家具製造会社は
ほとんど倒産に追い込まれ、父は家を売る羽目になり、
しばらくは自分の会社の倉庫で警備をしながら暮らしていたほどです。

しかし、よほどガッツのある実業家だったのか、モーガン父はその後
頑張って会社を立て直し、復帰どころかなんなら前より事業を拡大し、
息子をアイビーリーグに入れられるほどの生活水準に戻しました。

実業家の鑑(かがみ)、まさに尊敬すべき父親です。

ところが息子ときたら(学業の方はちゃんとやっていたようですが)
またもや、女性関係でやらかしてしまうのです。

■第二、第三の結婚 アリス、マーサ

やらかしというのは、大学在学中となる彼20歳の夏に
アリス・レーン・ラザフォードという女性とまたしてもノリで結婚。
本人の証言によると、

「結婚生活は秋まで続いたが、また離婚になってしまった」

ひと夏の恋ならぬ結婚だったわけですね。


そしてその次の結婚はこのときから3年後、23歳のときです。
少尉に任官したときに、ウィングマークを彼の制服の襟に留めた女性、
ペンシルバニア大学の同級生、マーサ・リリアン・ストーン嬢

3度目の結婚をしました。

彼がウィングマークを取得したのは真珠湾攻撃の6日後で、
結婚はその2週間後だったということなので、
1941年の12月年末に結婚式を行ったと考えられます。

しかしながら、その結婚は予想に違わず、彼が
第91爆撃隊に配置転換された翌年5月にはもう終わっていたようです。

つまり半年も保たなかったということです。
せめて半年くらい付き合っていれば、戸籍に傷をつけずに別れられたのに。

まあ、アメリカ人に「戸籍に傷」なんて概念ありませんかね。

そんな早く離婚するならなんで結婚する?と問いただしたくなりますが、
当時の男女は「お付き合いイコール結婚」でしたし、なによりこの頃、
ボブはとにかく仕事で怒られっぱなしで、かなりの心労が重なり、
与えられた任務をこなすだけでいっぱいいっぱいの状態でした。

その上、彼は仕事でもやらかしが多かったようです。

「マクディルに駐留している間、よく湾内の対潜哨戒に駆り出された。
潜水艦を見つけたことは一度もないけれど、ある日曜日、
きれいな芝生のある大きな家でパーティーをやっていたので、
僕は飛行機をパンチボウルに落とすくらい低空飛行させてみた。

後からパーティーをしていたのが司令官の家だったと知った。

翌朝、指揮官に呼び出され、散々叱られて、
"あの提督の指揮下にいる限り、昇進はないと思え"と言われた。」


その後、モーガンはワラワラに転勤しますが、そこでも彼は
軍の規則で義務付けられている制帽の着用を拒否し、
裸で飛び回っていたため、ウェストポイント出身で
予備航空士官を毛嫌いしていた士官に連日叱責され、
あらゆる汚れ仕事を押し付けられるという目に遭っています。

「訓練中の飛行機が山中に墜落し、搭乗員全員が死亡したとき、
彼は遺体を回収しに行く仕事を私に命じた。」


士官学校卒が「本チャン」ではない大学出の士官、
正規軍と対等に飛行できるようになったパイロットを虐める、
というのはアメリカでもあったことなんですね。

その頃、彼は「メンフィス・べル」マーガレット・ポークと出会いました。

彼女とは婚約指輪を贈るところまで行ったはずなのに
どういうわけか、結婚には至らなかったのはお伝えした通りです。

これまでの3回、ほとんど脊髄反射で付き合うと同時に結婚してきた彼が、
なぜマーガレットとはあれだけ騒がれていたのに結婚しなかったのでしょうか。

写真を見てもわかるように、モーガンはMMでした。

背が高く(おそらく185cmくらい)すらっとして端正な顔立ちにブルーの瞳、
育ちの良さそうな物腰にアイビーリーグ出身の学歴。
しかも今一番ホットな職業であるミリタリーパイロットです。

こんな優良物件、女の子が放っておくはずがありません。

彼自身が言うように、彼の周りには常に女の子が群がりよりどりみどり。
おそらくマーガレットは、そのうちの一人として
たまたまつきあっていただけの女性だったのではないでしょうか。



映画でも到着後機長がコクピットの写真を手に取るシーンがあります。
任務の間、彼がマーガレットを思っていたのは嘘ではなかったでしょう。

帰国したモーガンは迎えにきていたマーガレットにキスし、
その写真は翌日新聞の第一面を飾りました。


後ろの士官の無関心なこと(笑)

そして、その後、彼女は6月から始まった戦時公債ツァーに同行しましたが、
わずか2ヶ月後には彼らの恋愛は終わっていたといいます。

まあなんだ、勢いで結婚しなくてよかったね、としか・・・。

■第四の結婚 ドロシー

モーガンは、帰国後のツァー途中でボーイングの工場を見学し、
そこでB-29に魅せられてこの爆撃機に乗るキャリアを選択しました。

彼が4度目の結婚をしたのはB-29指揮官となる頃のことです。
相手は、彼のB-29の名前となったドロシー・ジョンソンでした。

ドロシーとは1979年に離婚していますが、彼女との間には
ロバート・ナイト・モーガンJr.という男児始め、
4人の二男二女を設けています。

ドロシー・ジョンソン・モーガン逝去のお知らせ

彼がB-29でサイパンから出撃した回数は26回で、
1944年の11月から1945年の3月にかけてのことです。

そして戦争が終わると、予備役に籍を置いたままかれは
一般人としての生活に戻りました。
飛行時間は2,355時間、引退の正式な日は1945年9月9日でした。

マーガレットとの再会

父の遺した家具会社を経営しながら民間パイロットを目指しました。
B-29についてきてくれた爆撃手のヴィンス・エバンスは
ウィリアム・ワイラーの伝手で映画の脚本家になっていたため、
彼の人脈からTWAのパイロットの仕事を紹介されたのですが、
どう言う理由か、就職にはつながらなかったようです。

そこで実家の家具会社を存続させつつ、VWビートルの販売をしていました。
ドイツの工場に爆撃を落として英雄になった男がドイツ車を売るというのは
なにやら皮肉に思えますが、本人的にはなんともなかったのでしょうか。


そしてドロシーとの結婚生活ですが、専業主婦の彼女とのあいだに子をなし
生活に追われるうちに、モーガンの悪い癖が頭をもたげてしまいました。

ドロシーはモーガンが初めて半年以上結婚生活を持続させた相手ですが、
それは彼女を特に愛していたからとかではなく、子供も生まれたこと、
そして彼がその頃すでに「制服マジック」が解けたただの男となり、
以前ほど女性が群がってこなくなったからだったんだろうと思います。

現に、50年代、彼らの夫婦仲は崩壊と修復の繰り返しだったそうですし。

そんなとき、かつてのパイロット時代の栄光の残渣というか、
残光が、彼の男心?に火をつけてしまうのです。

あるとき、出張でボブはメンフィスに行き、
モーガン・マニュファクチャリング社の関連工場を訪れました。

その際、下心満載でボブはマーガレットに電話をかけて連絡をとり、
独身だった彼女もそれに応じ、
二人は再会してしまいました。

それではご本人の自伝から、このときのことを語っていただきましょう。

『束の間の悲しい時間、

私たちのロマンスは再び燃え上がった。
私たちは何度か会った。
いろいろな場所で会う約束をした。
手紙を書き、愛し合い、議論した。
それはすぐに終わった』。


・・・まあそうなるでしょうな。

言うてこの頃はまだどちらも30代ってところですから、
焼け木杭に比較的火もつきやすかったんでしょうけど、
ボブ、これ不倫ですよ?

一つ言えることは、あのとき結婚しなかったことが
このときの焼け木杭に火をつけたということでしょうか。




■ 第五の結婚ーエリザベス

ドロシーと1979年5月24日に離婚したモーガンは、
6月には5番目の妻エリザベス・スラッシュと結婚していました。

これエリザベスと不倫してたってことだよね?

ときにボブ・モーガン60歳。
彼らのハネムーンは、航空アーティストのロバート・テイラーが描いた
メンフィス・ベルの版画にサインをしに行くことでした。

エリザベスとの結婚は、彼女が1991年肺がんで他界するまで続きました。

彼女の死のおよそ1年前、彼らは1990年公開の映画
「メンフィス・ベル」の撮影を見学に行き、宣伝活動もしました。

そのとき出席していた8人の元クルーとともに、モーガンは
映画スタッフに本物の台詞やディテールに関する提案をしたにもかかわらず、
監督のマイケル・ケイトン・ジョーンズは彼らの協力を断っています。

その結果、映画はボブ・モーガンが見事に控えめに言ったように、
『歴史的に不正確な』ものになってしまいました。

このことは元クルーたちにとっては苦い記憶となったことでしょう。

■ 第六の結婚ーリンダ

エリザベスが亡くなってわずか3ヶ月弱後の4月、モーガンは
航空講演会の広報担当だった47歳のリンダ・ディッカーソンと知り合い、
4ヶ月後には25歳の歳の差結婚式を挙げていました。

相変わらず切り替えと結婚に至るまでの時間が短か過ぎ。



このとき二人は、よりによってメンフィス・ベルの前で結婚式を挙げました。
エノラ・ゲイの機長だったポール・ティベッツ准将が司祭役となり、
副機長だったジム・ヴェリニスがベストマンを務めるという演出です。

しかし、この企画には批判も多くありました。

「有名な爆撃機の翼の下で開催されるこの結婚式は、
今は亡きマーガレット・ポークの記憶への侮辱であると強く感じる。
モーガン大佐の宣伝のための安価な策略であり、極めて悪趣味だ。
ましてやマーガレットがそのアイデアを喜ぶなどと誰が思うだろうか。」

彼らの結婚を報じるシカゴ・トリビューンの記者に、モーガン自身が

「ポークさんとは結婚しませんでしたが、
戦時中のロマンスを共有した間柄ですので、自分がモデルの
グラマー・ガールを描いた爆撃機の機首の下で行われる結婚式を
認めてくれるでしょうし、喜んでくれると思います」

ぬけぬけと?こう語ったのが反発を呼んだようです。
マーガレット・ポークは1990年に68歳でがんのため亡くなっていました。


■ マーガレット・ポークとメンフィス・ベルの銅像

冒頭の写真は、メンフィス、オーバートン・パークの退役軍人プラザにある
マーガレット・ポークと「メンフィス ベル」の乗組員の記念碑です。

ポークとモーガンは結局結婚することなく終わりましたが、
だからこそ?彼女が死ぬまで二人は良い友人だったそうです。

戦時ツァーの終了とともに別れた後、彼女は航空会社の客室乗務員になり、
28 歳で結婚して数年後離婚しています。

弁護士だった父親の財産を相続した彼女は、その後結婚せず、
さまざまな慈善団体、特にアルコール乱用に対処する団体を支援し、
「メンフィス・ベル」の存続のためにも寄付を惜しみませんでした。

退役軍人プラザの記念碑は、ベルというより彼女を称えるためのもので、
それはあたかも彼女の名を冠した爆撃機が飛ぶのを見上げているかのように、
頭を空に向けて傾け、右手で目を太陽から守っている彼女の姿です。



像の石灰岩の台座の裏側には、彼女の「愛の物語」を伝える銘板があります。


続く。

「軍機オブ軍機s」通信傍受システムの二人〜USS「エドソン」

2023-11-20 | 軍艦

ヒューロン湖沿いのベイシティに展示されている
「ザ・デストロイヤー」ことUSS「エドソン」艦内探訪、
ブリッジから一階下のコンパートメントにやってきました。

■ エグゼクティブ オフィサー ルーム


艦長室ほどではありませんが、広い個室です。
このベッドは平常はソファとして使われているような作りです。



ある艦では艦隊司令などが乗艦してきたときには、
司令官は艦長室を使い、艦長は副長の部屋に移動し、
副長はさらに下のベッドに移動ということになっていました。

自衛隊ではどうかわかりませんが、アメリカ海軍の艦船では
そうなったとき階級に従い、ベッドを「降格」させることもあります。



しかし、居室としての設備は艦長室並み。



個室に専用トイレ付き。
艦内表示には「COMM HEAD」(司令官トイレ)とあります。
やはりここはエグゼクティブ・オフィサー専用室のようですね。

■ レイディオ・ルーム



無線室、レイディオ・ルームにやってきました。



歴史的展示艦艇であっても、ここまできちんと
現役の時の姿通りに無線室を保存しているところはそうありません。
たまにあっても、ほとんどはフレキシガラスで覆われて、
ガラス越しに中をのぞけるようになっているものです。

「エドソン」で感心したのは、その気になれば
すぐ近くに立って機器の全てを見ることができることでした。



ここから、かつて関係者以外立ち入り禁止だったようです。
一体ここにどのような機密があったのでしょうか。


ここにはトランスミッター、パワーサプライ、アンプなどの機器が
整然と積み重なっています><
うーん・・・まだこれくらいでは「機密」とはいえないよね。



説明によると、ここには「ファイアー アックス」消防斧があったようです。
ここから先はコミュニケーションスペースなのですが、
ここへの出入り口が一つしかないため、緊急の場合に
出入りを確保するために、ドアに備え付けてあったのだとか。

ということは、ここから先が「機密」なんでしょうか。

■ メッセージ解読室



こちらにはタイプ、椅子の向こうにある機器はなんぞや。


大きなゲーム機にキーボードをつけたような・・・。
これはデコーディング エネミー メッセージの機器、
つまりここで敵の通信を傍受&解読していたのです。



なるほど、これで「関係者以外立ち入り禁止」のわけも、
入り口に斧があったわけもわかりましたね。

機器の上に置いてある分厚い書類は使マニュアルです。



この部屋では2人の係がメッセージの解読を行なっていました。

ベトナムの洋上でこの狭い部屋に詰めっぱなしはさぞきつかったでしょう。
部屋は一応空調はされていたそうですが、艦艇がが攻撃されると
部屋は密閉され、あるいは永久にそこから出られません。

なぜならここにある機器そのものが「機密」だから。
艦が危機に陥ると、自動的にここは破壊される仕組み
だったそうです。
(どのようにして破壊するかまではわかりませんでした。

自爆装置がどこかに仕掛けてあったのかもしれません)

そうなったとき、この部屋の傍受係は、自力で
閉じ込められる前にここから脱出しなければなりません。

どこから脱出するかって?


はい、この小さな丸いハッチからです。
ハッチの上には赤い字で

「脱出用スカットル 前にものを置くこと禁止」

と書いてあります。

非常時を知らされてから、乗員がこの窓から外に出て
梯子を降りて脱出するのに与えられた余裕はわずか数秒
だったそうです。

なんかハッチを開けるだけで数秒くらいかかってしまいそうなんですが・・。
よく見るとハッチの上に非常用のライトもありますが、
そんなもの持って出る余裕なんかなさそうですし。

ここで勤務していた二人は、間違いなく、海軍内でも
最も戦闘の極限状態にさらされていたと言えるかもしれません。


ちなみに「ここで働いていました」という人が戦後も現れないのは、
その存在そのものが「機密扱い」だったからです。

彼らの存在に限らず、「エドソン」には戦後秘匿され、
現在でも明らかにされていない機密部分があるとされます。



それを踏まえた上で、この部屋(防音設備になっている壁)に貼られた
張り紙に書かれたことを見ていきます。

毎日所定の時刻に暗号化された電子キーが変更されます。
その場合、通信者は他のセキュア通信機器と通信しません。
変更が行われているときは、通常、
許可された乗組員 2 名のみがここに入ることができます。
ドアはボルトで閉められ、カーテンが引かれ、
これらの 2 つの看板がドアの外に吊り下げられ外部をシャットアウトします。




ここからは秘密保持の観点からの法的解釈などの通知。

トップシークレット
「機密扱いは、国家安全保障に損害を与えるなど、
極めて重大な事態を引き起こすことが合理的に予想される
情報または資料の不正開示に適用されます」

シークレット
「国家安全保障に重大な損害を引き起こすことが合理的に予想される資料
または情報の不正開示に適用される機密扱い」

 コンフィデンシャル
「国家安全保障に損害を与えることが合理的に予想される資料
または情報の不正開示に適用される機密扱い」

アンクラシファイド
「公式使用のみ」の一般情報が含まれる場合

なおその詳細について。

機密扱いの資料のすべてのページには、
各ページの上下に適切な機密扱いのマークが付けられます。
すべての文書のすべての段落には、段落の冒頭に適切な分類
(T/S、(S)、(C)、(U)) が付けられるものとします。

最高機密とマークされた文書には、各ページに
ページ数が記載されたページ (LE 1/5) が付けられます。
すべての機密文書は、厳格なガイドラインに従ってのみ格下げされます。

(格下げについて:必要な発行元政府機関の指示は、
発行元機関との協議後にのみ格下げされ、いかなる機関も個人も、
他の機関から作成された文書を格下げしてはなりません。
州長官またはその職員であっても文書を格下げすることはできません)

CIA、DIAからの発信、FBI、VISE VERSA!
多くの場合、文書には「複数の情報源」とマークが付けられており、
この場合、提供元の各機関に個別に連絡する必要があります。

機密文書は、適切なレベルの分類 LE に対して事前に承認された機器、
および回路でのみ送信できます。

機密情報のみがクリアされたシステムでは
極秘情報を送信することはできません 。

機密文書は、その適切な分類レベルについて
事前に承認された機器および回線でのみ伝送できます。

すなわち、極秘情報は、極秘扱いしか許可されていないシステムでは
送信することはできません。

機密文書は、適切なレベルでクリアされたコンテナ、
または電子機器にのみ保管されます。
誤った取り扱いは、偶発的または意図的であっても重罪となり、
罰金あるいは収監によって処罰される可能性があります。



クラシファイドマテリアル金庫

この部屋とこの特別ファイルキャビネットは、
トップシークレットの機密資料を保管するために使用されていました。

組み合わせは 3 か月ごとか、あるいは
担当者の移動があった場合に変更されました。

別の大きなCMS金庫がコーヒー瓶(写っていない)の後ろの
整理デッキにあり、その下には機密文書
(例えば機器の技術マニュアルなど)が保管されていました。



ここにはかつて下の写真の機器がインストールされていました。
展示にあたって復刻することができなかったらしく、苦渋の判断で写真のみ。



本棚の上には1976年から1991年までのジェーン年鑑が揃っています。
Jane's Yearbook は昔は軍艦だけの年鑑でしたが、現在は範囲を広げ、
兵器だけでなく、商船や鉄道、都市交通システムなども扱っています。

ここにあるのは「兵器システム」「水面下兵器システム」
「ファイティングシップ」「ミリタリーコミュニケーション」「水上艦」

しかしいずれも「エドソン」の活動時期とは異なっています。

そのほかには

「世界の戦闘艦隊(コンバットフリート)

「ソ連海軍ガイド」


などが並んでいます。



「RECCE BOOK」のRecceの意味がわからないのですが、
要するにベトナム戦争時、周辺に投入されていた
ソ連海軍艦艇の艦影早見表です。
単語帳のようなリングに通した見やすい仕様となっています。



ここで階段が現れたので降りていきますと、



階段の下には「ツアーガイド順路」として上を指し示していました。
わたしはどういうわけか見学路を逆行してきたようです。
でも今更やり直すわけにもいきません。
仕方がないのでこのまま逆行を続けます。



説明がないのでわかりませんが、こちらが洗い場のような感じで、
右手の小さな窓から食器が運ばれてくる感じでしょうか。

さて、わたしは一体どこにやってきたのでしょうか。



続く。




「駆逐艦通信士のワッチ模様(by ゴートロッカー)」〜USS「エドソン」

2023-11-17 | 軍艦

今日はベトナム戦争に参加していたときの「エドソン」の空気というか、
雰囲気が垣間見える資料を中心にご紹介します。

■ ベトナム戦争中の「エドソン」



これには、ベトナム戦争中行われた補給線遮断&艦砲射撃作戦、
「オペレーション・シードラゴン」Operation Seadragon 
の際に乗組員に回された情報が書かれています。

作戦そのものは1966年10月から1968年10月末日までの実施でしたが、
このお知らせは、1967年5月27日の日付となっています。

この頃、作戦は最盛期であり、参加していたのは2隻の巡洋艦と、
「エドソン」含む12隻の駆逐艦群で、彼女が艦砲射撃で優れた成績を挙げ、
勲章を受けることになったのも本作戦の戦果によるものです。

お知らせには、作戦に参加していた他の駆逐艦の名前や、
旗艦USS「ストッダード」「ターナー・ジョイ」と協力して

作戦にあたり、USS「プロビデンス」が加わる、といった内容や、
「ストッタード」はそのあと艦隊修理のために佐世保に向かう、
などと書いてあるのですが、これってここに書くこと?と思ったのが以下。

水を節約すること!
水の消費量が許容限度を超えています。
洗浄目的で汲み出すのはバケツの半分までにしてください。
『ネイビー・シャワー』を心がけましょう。
ウェット ダウン、ソープ ダウン、そしてリンス オフ、以上!」





「ゴートロッカー」というのが、海軍隠語で「山羊」と呼ばれるところの
海千山千のCPOのロッカーであるという話はここでも何度かしましたが、
その「ゴートロッカー」を名前に冠したコーナーに投稿された、
元駆逐艦レイディオマンCPOの書いた詩を、一部翻訳しておきます。

「ティンカン(駆逐艦)レイディオマン ワッチ」〜昔の様子

ワッチのためにここに来たが、少なくとも何も起こっていない
デスクの男が俺に言葉をかける
ちょっと聞いてくれ、俺がここで彼から聞いたことを

「放送は良好です。回線すべて稼働しています。
コーヒーは淹れたてなのでカップに注いでください。
トラフィックはすべて停止しています。送信するものはありません。
ビーチ ファイバーは揃っています。

あ、タバコをちょっともらえませんか?

周波数は安定しており、ギアの調子が悪くなるなどはありませんでした。
1 時間以上何も変更していません。
ブリッジは何も言ってこないし、COMBATは眠っていて、
いまのところ電話はピーとも鳴っていません。
ログは最新で、ファイリングも完了してます。

それじゃまた。
勤務を楽しんでくださいね!」 

素晴らしい言葉を残して彼は去り、
ワッチはいいスタートを切ったかに思えた。

数分経っただろうか、いや、それ以下かな。

OPS ボスが私の最初の 2 つのルーチンを持って入ってきた。
 

「急ぎです。これが厄介で、ドラフトが遅くなってしまって・・
待てないって言われてしまったんです。
それで、すぐに取り組みます返事してしまったんですが、
これで何か問題が起きるとはどうも信じられないんですよ」


そこですぐにログインして、テープマンに

「頑張ってくれ!」
「できるだけ早くやってくれ!」

と伝える。

彼が「はい」と答え、俺は人に面倒を押し付けられてほっとしていると、
放送オペレーターが
「フラッシュ!」と叫ぶじゃないか。


しゃあない、COMBAT、ブリッジ、OPS までルートを決め、
他に立ち寄らずに急いで戻る。

要するにマーフィーの法則みたいなもので、
自分のワッチになると必ず問題が続出して忙しくなる、というあれかしら?
と思ったのですが、最後のオチを読んで納得しました。
彼はこの後も目の回るようなワッチをこなし、次のワッチにこういうのです。

「放送は良好です。回線すべて稼働しています。
コーヒーは淹れたてなのでカップに注いでください。
トラフィックはすべて停止しています。

送信するものはありません。
ビーチ ファイバーは揃っています。


あ、タバコ貸してもらえます?

以下略。



「エドソン」艦内報です。

これはベトナム戦争中に実際に起こったことです。

「今日アンレップ(補給)の予定。

艦体中央で火薬を、艦尾で弾薬を受け取りながら前方に燃料補給したい。
これを書いている時点ではそれが実現できるかはわかりませんが
一応用意はしておいてください」

「報道機関のさらなる関心が我々に向いています。
現在、私たちのDMZ砲撃に関連して、報道機関の代表者が
『エドソン』を訪問する予定のようです。
前回同様、皆様のご協力をお願い致します。
どうかフレンドリーかつ協力的に接してください。
ただし機密情報には注意


「シカゴ出身のジェームズ・マンゼルマン少尉が昨日、
『空から来た大きな鳥』に乗って転勤してきました。
兵器部門への配属です。ウェルカム・アボード!」

「クルーズブックは完成の最終段階にきているので、
フォトコンテストの応募はもうすぐ締め切ります。
あなたの写真をブックに載せてみませんか?
何月何日までに提出、審査員はXOの誰々以下3名」

など、とても戦争中(というか戦闘中)とは思えないほど呑気な感じ。

というか、ことベトナム戦争に関しては、陸軍と海軍の「温度差」って
随分あったんじゃないかと思うんですが・・・どうなんだろう。




次の部屋ですが、椅子がたくさんあることから、
おそらく士官のメスデッキではないかと思われます。


 
壁には各種プラークのほか、キャラハン中佐とかいう士官の
サーベルやベルトが額装されて飾られています。
この人の名前を調べたのですが、情報は出てきませんでした。



鳥居のマーク・・・厚木基地勤務になったことがあるようです。



「エドソン」現在の写真と共に、彼女が所属した部隊などのパッチ。

左上は「グループ4」。
左下の「DESRON」「Destroyer Squadron」駆逐戦隊を意味します。
「エドソン」が所属した第23駆逐戦隊は、サンディエゴを拠点とする
駆逐艦とフリゲート艦の戦隊です。

1943年創設と歴史のある戦隊で、特に第二次世界大戦中の行動、
アーレイ・バーク司令官の指揮下で行った戦闘が特に有名です。

「リトル・ビーバーズ」という戦隊のあだ名は、そのまま
エンブレムに描かれているインディアンの少年のキャラクターの名前です。

駆逐戦隊が設立された頃の1943年はやっていた漫画で
フレッド・ハーマンの「レッドライダー」という作品に
「リトルビーバー」というネイティブアメリカンの少年が出てくるのです。

第23駆逐戦隊は南太平洋にて多くの作戦に参加したため、
戦隊のメンバーはしばしばビーバーのように忙しいと言ったことから
なかばシャレで選ばれたデザインだということですが、このエンブレムは、
リトルビーバーが東條英機に矢を放っている様子を描いたものなんだとか。


ちなみに第23駆逐戦隊はサンディエゴを拠点に現在も存続しており、
このマークは今日も現役で使用され続けているということです。

「日本をやっつける」という意味から部隊名に「サンダウナーズ」と付け、
太陽を落とすイメージのエンブレムを、日本との戦争が終わっても
ずっと使い続けるような人たちですから、これくらいは基本というものです。


ハセガワ模型さんから拝借

ダウナーといいながらしっかり旭日旗を機体に描くちゃっかりぶり。
本家帝国海軍もやったことがないのにこいつらときたら(略)


続く。


CICと艦長室〜USS「エドソン」

2023-11-15 | 軍艦

ミシガン州のヒューロン湖沿いにあるサギノー湾から流れ込むサギノー川。
そのほとりに、戦後の名駆逐艦と呼ばれた「エドソン」が展示されています。

後部甲板から乗艦したわたしは、火器管制室に続き、甲板の魚雷、機銃、
続いてはブリッジと順番に見学してきました。

さて、次はどこに案内されるのでしょうか。


ブリッジの横には艦長が詰める個室=シーキャビンがありました。
これに相当する施設は、軍艦の規模に関係なくどこにでもあります。


メインの艦長室ではありませんが、それでもしっかりと、
「お一人様」用の施設は揃っています。

■ CIC(コンバットインフォメーションセンター)


CICにやってきました。
CICとは
「コンバット インフォメーション センター」のことです。
戦闘情報センターとも言い、軍艦の司令塔であり頭脳でもあります。

ここは、レーダー操作ステーション、チャート、
および通信ステーションへの回路の本拠地として機能します。

レーダー、ソナー、電子盗聴装置、見張り台など、
すべての船舶センサーからの情報は、このコンパートメントで収集、
表示、評価され、処理されます。

敵対的な状況では、砲術士官、電子戦士官、対潜士官、および CIC 士官が、
どの敵の脅威にどのような方法で対処するかを艦長にアドバイスします。

そして艦長またはその資格のある代理人である
戦術行動士官は、
武器を発射して敵艦と戦う命令を出します。



映画でもテレビでも、おおよそ軍艦が舞台となる創作物で
CIC が描かれていないものはほとんどないと言ってもいいでしょう。

そしてそこには大きな地図、多数のコンピューター・コンソール、
レーダーおよびソナーリピーターのディスプレイや各種コンソール、
さらには、グリースペンシルで注釈が付けられた座標プロットが描かれた
エッジライト付きの透明なプロッティング ボードなどで埋め尽くされます。

CICのコンセプトが生まれた当時は、

オシロスコープのブラウン管ディスプレイ上に、レンジを示すだけの
「Aスコープ」というものが使用されていましたが、
それは次第にレーダーディスプレイへと変革を遂げていきます。

現在のCICクルーは、ソナー、レーダー、ポーラプロットと、
コンピュータからこのようなデータセットを取得することで、
正しい範囲と方位で海図や地図上にデータをプロット(入力)し、
コンタクトのコースと速度を正確に計算することができるのです。


CICの意義は、軍艦の現在状態とその周辺に関する情報をまとめて管理し、
これを指揮官に供給することにあります。

指揮官は一般に、近くの艦橋やプロットを見ることができる場所にいます。
(『エドソン』の艦橋からここまですぐだったことを思い出してください)

もしフラッグオフィサー(艦隊司令)が乗艦している場合は、
本来のものと別に、旗艦司令部や艦隊CICが置かれることになります。

いずれにしてもCICの機能は、情報の発注、収集、
そして意思決定者へのそれらの提示を行うという点は同じです。

潜水艦、水上艦、航空機のいずれであっても、
情報収集の種類や管理、通信システムなどに多少の違いはあれ、
指揮官に状況や選択肢を明確に提供するという任務や使命は変わりません。


左手の椅子の上に見えているグリーンの機器は、
極表示とレーダースイープを示す
計画位置インジケーター (PPI)表示です。

海上の船に送り返される鮮明なレーダーエコーは
地図のように細かく地形の特徴を示しており、、
海から見ると、地元の海図の地形と一致しています。



CICに隣接した
チャートハウス、地図の保管所でもあります。

ちなみに普通に英語のChart House で検索すると、出てくるのは
そういう名前のシーフードレストランばかりです。

■ 艦長室



ここで階下に降りる階段が現れました。



艦長私室です。

デスクの上の写真は、1968年3月31日から1969年8月27日まで
「エドソン」の指揮官を務めた
ジョン・S・ホームズ中佐夫妻。

記念艦となった「エドソン」に500ドルを寄付したときの記念だそうです。


艦長寝室のベッドはマット二枚重ね?
いや、これは単にマットが一つ余っていただけだとは思います。



右下、「エドソン」が五大湖にやってくることが決まった時の記念盾です。
写真は海軍艦隊司令と艦長だと思われます。



先ほどのホームズ艦長の着用していた海軍コートと軍帽。



次のコンパートメントには、舫でデコレーションされた写真、
ベトナム戦争に参加した陸軍部隊のポスター、ヘッジホッグの爆薬などの展示。


 
こちらのベトナム戦争ポスターは、参加した空軍部隊の紹介です。
鳥居をあしらったマークは、おなじみ在日米軍のものですね。

右下「パールハーバー」ポスターはUSS「ジョン・C・ステニス」のものです。

原子力空母「ジョン・C・ステニス」の母港は、サンディエゴ→キトサップ、
とパールハーバーとは何の関係もないはずなのですが・・・????

しかも航空機はどう見ても真珠湾攻撃の時のあれ。
真珠湾に寄港するだけでこんな大袈裟なことするんですかね。




右上のポスターには、

「平和はそれだけでは守ることはできないから」

という軍備増強の必要とその維持の努力についての標語が書かれています。





続く。



メンフィス・ベル搭乗員の肖像/モーガン機長〜アメリカ国立空軍博物館

2023-11-13 | 航空機

さて、いよいよメンフィス・ベルの搭乗員を紹介していきます。

メンフィス・ベルに配属された若者たちは、
第 8 空軍重爆撃機乗組員の一般的な構成でした。

ワシントン州、インディアナ州、テキサス州、コネチカット州など
米国全土の州から集まった19歳から26歳までです。

第8空軍と同じように、そして一般的な俗説に反して、
彼らは任務のほとんど(すべてではありませんが)を一緒に飛びました。

固定メンバー以外にも上部砲塔砲手兼技師 3名、
 腰部砲手3名、副操縦士は数名がベルで任務を行っています。

【戦時国債ツァーメンバー】

メンフィス・ベルの戦時債券ツアーのクルー。
このうち初期のメンバーは9人です。

カシマー "トニー" ナスタル SSgt(スタッフサージャント) (右下) は、
25回ミッションを終了しており、帰国の資格を持っていましたが、
実際にメンフィス・ベルに乗ったのは1回だけでした。
何か事情があって戦時公債ツアーに追加されたメンバーです。

黒いスコッチテリアのシュトゥーカくんもツァーに参加したようで、
メンバーの「公式マスコット」として左上に抱っこされて写っています。

【初期コンバットツァーメンバー】

こちらは爆撃ミッションツァー初期メンバーです。

日本なら前方で椅子に座り、中央に機長と副機長、
その周りに士官が配置されるところですが、
アメリカ陸軍の規則はあまり厳密ではないらしく、
機長と副機長、航法士と爆撃手が後ろで立っています。

こんな写真もありますし

機長が後ろから顔をだすという帝国海軍にはあるまじき構図

ちなみに写真の名前の横に説明がある4名が士官となります。

下段左下のボールタレット砲手(丸いボール状の下部砲塔)、
セシル・タレットがここぞとばかりにウィンクしています。

【アメリカに帰国前のメンバー】


アメリカに帰国する前にジェイコブ・デバース元帥
(ヨーロッパ遠征部隊指揮官)と握手するモーガン機長。

【機長としてのヴェリニス大尉】


メンフィス・ベルの副機長として名前を残す、ジェームズ・ヴェリニス大尉
(上段左)は、実際に行ったベルでのミッションは5回だけで、
その後は機長として別のB-17を指揮していました。

これは彼が指揮した「コネチカット・ヤンキー」クルーとの写真です。

なぜ帰国メンバーとして5回しか飛んでいないヴェリニス大尉が選ばれたか、
その後のベルの副機長はどうなったのか、一切わかりませんが、
選定については陸軍的に何か「基準」があったんじゃないかと思います。

ところで余談ですが、ベルのメンバーと撮った写真では
背が低いように見えるヴェリニス大尉、この写真だとむしろ大きい方です。

つまりベルにはモーガン機長始め、やたら背が高い人が揃っていたようです。

■ ロバート・ナイト・モーガン
Robert Knight Morgan 機長 指揮官


"どうやって地獄のヨーロッパ遠征を25回もくぐり抜けて
故郷に帰ることができたのかを一言で言うならば・・・
それは『チームワーク』です。

ロバート”ボブ”モーガンについては、メンフィス・ベルのノーズアートの件で
マーガレット・ポーク嬢のことを取り上げながら少し話しました。


似すぎか

1990年の映画では、マシュー・モディーンが演じました。
「フルメタル・ジャケット」でインテリ新兵のジョーカーを演じ、
「ダークナイト・ライジング」では確かジョーカーにやられていましたよね。

ちなみに、映画では機長の名前はデニス・ディアボーンとなっています。

映画で最後のミッションの時、もし帰国できたらそれぞれ何をしたいか、
わいわいと機内無線で盛り上がっていたら、
「実家が家具会社をやっているんだが、手伝わないか」
と機長自らがいきなり言い出すシーンがあります。

ところが、それに対して、今みたいに命令されるなんて真平だ、
と全員が本音をぶちまけだし、彼は傷つくという苦い展開を、

映画を観た方なら覚えておられるのではないでしょうか。

まさかとは思いましたが、彼の父親は、実際にも
家具製造会社を3つも所有する裕福な実業家でした。

彼はハーバードやスタンフォードと共に世界最高峰のビジネススクール、
アイビーリーグのひとつであるペンシルバニア大学ウォートン校に学び、
卒業後、予備士官として飛行訓練を受け、B-17のパイロットになりました。

彼は車が好きで地元では有名な「走り屋」だったため、
戦闘機を選ぶのではないかと思われていたようですが、
一人でやるよりチームで何かを成し遂げる職種を好み、
結局9人のクルーと組んで任務を行う爆撃機の操縦を選びました。

ただし、彼の爆撃機の操縦は「まるで戦闘機を扱うよう」だと言われたとか。



メンフィス・ベル帰国後叙勲されるモーガン機長。



左上から:
大尉の階級章
少佐階級章
シニアパイロット航空章
コマンドパイロット航空章


■ 東京大空襲〜B-29の機長として



ツァーの途中、ボーイングの工場に立ち寄った時、モーガンはそこで
アメリカ空軍が新しい航空機を開発したことを知りました。

B-17よりも、B-24よりもはるかに大きく、強力で、高く速く飛ぶ飛行機、
そう、ボーイングB−29スーパーフォートレスです。

すっかり魅せられたモーガンは、志願して日本本土攻撃部隊に加わります。
ちなみに「ベル」のクルーで彼と一緒の進路を選んだのは
爆撃手のヴィンス・エヴァンスだけでした。
(爆撃オリジナルメンバーで機長の左で肩を抱かれている人)

エヴァンスがモーガンについてきたのには実はちょっとした
「訳」(というかエヴァンスにとっての利得的理由)があったのですが、
そのことについてはエヴァンス大尉の項でお話しします。



左:第8航空隊のパッチ
左:第20航空群B-29部隊のパッチ



このアメリカ人は中国の味方です
中国軍民で救護してください 
航空委員会

と刺繍された太平洋戦域で携帯されたモーガンの「救護要請章」。

英語の説明には、これが血液型を知らせるものであり、かつ
助けた人には褒賞が出ると書かれている、とありますが、
少なくともこの面にはそういった情報は見られません。

彼の指揮するB-29「ドーントレス・ドッティ」は、
1942年4月18日のドーリットル空襲以降、
日本の首都への初めての爆撃となる東京空襲を指揮しました。

モーガンが指揮する爆撃群が日本本土に最初の空襲を行ったのは
1944年11月24日のことです。

そのとき「ドッティ」に同乗していたのは「ベル」時代の爆撃手、
ヴィンス・エバンスと爆撃総司令官エメット・オドネルJr.准将でした。

モーガンはサイパンから東京に出撃し、
日本上空で26回のミッションを完了しています。
彼の自伝から、そのうち一回のミッションに関する記述によると、

「マリアナ諸島から1,500マイルも離れていた。
ドーントレス・ドッティを駆るエメット・オドネル准将は、
111機のB-29を率いて武蔵島エンジン工場に向かった。

飛行機は30,000フィートから爆弾を投下し、
精度という多くの問題の最初のものに出くわした。
B-29は優れた爆弾照準器(ノルデン)を装備していたが、
低い雲を通して目標を確認することができなかった。

また、30,000フィートで飛行するということは、
時速100〜200マイルのジェット気流の中を飛行するということであり、

爆弾の照準はさらに複雑になった。
空襲に参加した111機のうち、目標を発見したのはわずか24機だった」


ドッティはまた、1945年3月9日、10日の東京大空襲にも参加し、
初の夜間低空火器爆撃(ミーティングハウス作戦)を行っています。

この空襲は第二次世界大戦における単一の空襲で最も死者の多いものであり、
単一の軍事攻撃としては、ドレスデン、広島、長崎を上回るものでした。

■ ドーントレス・ドッティの謎の墜落

東京空襲の後、ドーントレス・ドッティは帰国することになりました。
このときのドッティはモーガンではなく別の機長が操縦していました。

1945年6月7日、フェリーに乗るためにクェゼリンから離陸したのですが、
離陸してわずか40秒後、機体は太平洋に墜落、沈没しました。

これにより、乗員13名のうち10名が即死し、
残骸から投げ出された3名は、その後救助艇によって救出されましたが、
ドッティの残骸は現在に至るまで発見されていません。

残骸は、機内に閉じ込められた10名の乗員の遺体とともに
水深約6,000フィートにあると考えられています。

機体が見つからないのでこのときなぜ墜落したのかも解明していません。

ボブ・モーガンは8月15日の終戦を受けて中佐で現役を引退し、
予備役に留まって最終的に陸軍大佐のランクを得ています。

 死去


モーガン 1990年代

モーガンは2004年4月22日、彼が85歳の時、フロリダ州レイクランドの
レイクランド・リンダー国際空港で開催されたエアショーに出演して帰宅中、
アッシュビル・リージョナル空港の外で転倒し、首の椎骨を骨折して入院。

2004年5月15日、肺炎を含む怪我による合併症のため死去しました。

■受賞と勲章

殊勲飛行十字章第3位
航空勲章第11章 
空軍大統領部隊賞 
アメリカ国防功労章
アメリカ・キャンペーン・メダル 
アジア太平洋キャンペーン・メダル 3
欧州・アフリカ・中東キャンペーン・メダル 5
第 2 次世界大戦勝利勲章 
空軍永年勤続勲章 第 4 勲章 
陸軍予備役勲章 10 年分




続く。



25回の爆撃ミッション〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-11-10 | 航空機

アメリカ国立空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦中爆撃機のアイコンとなったB-17、
メンフィス・ベルについてお話ししています。

今日は、ベルが実際に完遂したミッションについて取り上げます。

1943年1月23日。

フランス占領下のドイツ軍Uボート基地上空の対空砲火が飛び交う空で、
メンフィス・ベルは命がけで戦っていました。

史上最も有名なフライング・フォートレスとなる運命にあった
この米陸軍航空隊のボーイングB-17Fは、
潜水艦檻を標的とした4つの爆撃機群のうちの1つに混じって、
編隊を組んで目標であるロリアンの潜水艦基地に近づいていました。

ゴールに達するために、ロバート・K・モーガン大尉と乗組員は、
ドイツ軍戦闘機の防護バリアーを突破し、
基地周辺を覆う厚い対空砲火をくぐり抜けなければなりません。

彼らの任務は至極単純明快なことでした。

降下を複雑にする回避行動をとらず、安定した状態を保ち、
最後に "Bombs away "(爆弾投下)と言う。
その後はイギリスのバシングボーンにある第8空軍基地に帰るだけです。

しかし、そこに辿り着くまでに、戦闘機の執拗な攻撃が待っています。

「22分間、彼らは私たちに地獄を見せた。」

あるとき、ベルはフォッケウルフFw-190に正面から攻撃されました。

「通常ならダイブして逃げるのだが、
私たちの下には別のグループがいたから、それはできなかった。
そのとき機首を狙った砲弾が尻尾に当たったんだ」

尾部砲手であるジョン・クインラン軍曹が、

「機長、尾翼がやられました。機長、尾翼がやられました!
尾翼が燃えている!尾翼全体が機体から離脱している!」


息を呑んで沈黙していると、

「機長、まだ燃えています。機長、まだ燃えています!」

さらに一瞬の静寂の後、尾翼の砲手が今度は落ち着いた声で。

「機長、火は消えました」

モーガン機長はは後に、

「今まで聞いた中で最も甘美な”音楽”だった 」

と語りました。
その後パイロットが確認すると、尾翼がないようにみえました。
実際にエレベーターが損傷して、コントロールが難しく、
飛ぶのはもちろん、着陸はもっと大変でしたが、それでも
モーガン機長は優れた操縦技術でベルを基地に連れ戻すことに成功しました。


破損した垂直安定板

■124485

これまでお伝えしたように、メンフィス・ベルとその乗組員は、
ナチスドイツの打倒に貢献した重爆撃機の乗組員として、さらに
後方支援要員の奉仕と犠牲を象徴する時代を超越したシンボルとなりました。

彼らはヨーロッパ上空で25回の任務を完了し、
米国に帰還した最初の米陸軍航空隊の重爆撃機として有名になりましたが、
それが陸軍によって調整された「初めて」であったことは、
前回の「メンフィスベルになれなかった爆撃機」の項で説明しましたが、
今日は実際のメンフィス・ベルの実績について掘り下げてみます。


メンフィス・ベルは、USAAFの戦略爆撃作戦の初期段階で、
イギリスのバシングボーンの第91爆撃グループ、
第 324 爆撃飛行隊に配属された B-17F 重爆撃機です。

1942年11月から1943年5月まで、メンフィス・ベルと乗組員は、
ドイツ、フランス、ベルギーなどへの25 回の爆撃任務を実施しました。

つまりたった半年の間に25回の任務を完遂したことになります。


しかし、「たった半年」と言っても、その半年間、
無事に任務を継続できる爆撃機は現実には稀でしたし、
25回の任務まで何も起こらない方が稀というものでした。

現実に、メンフィス・ベルのヨーロッパ遠征中、
第8空軍は平均して18回の出撃ごとに1機の爆撃機を失っていました。

そしてバシングボーンから出撃した最初の3ヵ月間で、
ベルが所属した爆撃機群の80%が撃墜されました。

モーガン機長がそのことをこんなふうに説明しています。

「朝食を10人で一緒に取る。
その日の夕食には自分以外に一人しかいない。

そういうことだ」

1990年の映画「メンフィス・ベル」でも、目の前で
一緒に出撃した爆撃機を撃墜され、無線から落ちていく彼らの
断末魔の絶叫が聞こえてくるという壮絶なシーンや、

出撃前の壮行会の行われる中、ベルの搭乗員一人が彷徨い出て
「死にたくない!」と泣くシーンがあったのを思い出します。


そんな中、メンフィス ベルはいくつかの戦闘任務で損傷しつつも、
その度生還し、1943年5月17日に 25 回目の任務を完了しました。

25回目の任務を終えて機を降りてきたクルー

そしてその後彼らははアメリカ全土の戦時公債ツアーのため帰国しました。 

124485というのはメンフィス・ベルの機体番号です。


■メンフィス・ベル戦闘ミッション内訳


ミッションを行った場所と落とした爆弾数がペイントされたパネル。
25回ミッションの割に目的地が少ないのは、いくつかの都市
(特にフランスのサン・ナゼール)が重複しているからです。

25回の爆撃目的地内訳は、フランス18回、ドイツ6回、オランダ1回。

また、爆弾の上に描かれた星は、赤がグループリーダーとして7回、
黄色がウィングリーダーとして8回飛行したという意味を持ちます。

1)1942年11月7日 - フランス、ブレスト

2)1942年11月9日 - フランス、サンナゼール

3)1942年11月17日 - フランス、サンナゼール

4)1942年12月6日 - フランス、リール

5)1942年12月20日 - フランス、ロミリー・シュル・セーヌ

6)1942年12月30日 - フランス、ロリアン
(機長:ジェームズ・A・ベリニス中尉)

7)1943年1月3日 - フランス、サン・ナゼール

8)1943年1月13日 - フランス、リール

9)1943年1月23日 - フランス、ロリアン

10)1943年2月14日 - ドイツ、ハム

11)1943年2月16日 - フランス、サンナゼール

12)1943年2月27日 - フランス、ブレスト

13)1943年3月6日 - フランス、ロリアン

14)1943年3月12日 - フランス、ルーアン

15)1943年3月13日 - フランス、アベヴィル

16)1943年3月22日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン

17)1943年3月28日 - フランス、ルーアン

18)1943年3月31日 - オランダ、ロッテルダム

19)1943年4月16日 - フランス、ロリアン

20)1943年4月17日 - ドイツ、ブレーメン

21)1943年5月1日 - フランス、サン・ナゼール

22)1943年5月13日 - フランス、メオー
(機長:C.L.アンダーソン中尉)

23)1943年5月14日 - ドイツ、キール
(ジョン・H・ミラー中尉搭乗)

24、25)
1943年5月15日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン
1943年5月17日 - フランス、ロリアン
1943年5月19日 - キール、ドイツ
(機長:アンダーソン中尉)

24回目、25回目任務が、上記3つのどれであったかは
情報源によって意見が分かれていて決定できないのだそうです。

しかも、5月17日の「ベル搭乗員にとっての25回目ミッション」は、
メンフィス・ベル機体にとっては実際は24回目の出撃でした。


爆撃ミッションというのはいつも同じメンバーでなく、
ときには機長が変わったりしました。
全ての乗員がベルで25回の任務を完遂したわけではありません。

機長のロバート・モーガン大尉がメンフィス・ベルで出撃したのは20回、
副機長ヴェリニス大尉に至っては、ベルに乗ったのは機長を務めた一回だけ、
25回というのは他の爆撃機で挙げた回数だという話もあります。

メンフィス・ベルの乗組員として名前を挙げられているのは、
日本版ウィキでは定員の10名ですが、英語版では15人いるのも
いつも固定のメンバーではなかったということを表しています。

また、モーガン機長以下クルーは、ベル以外のB-17で数回出撃しており、
それは

1943年2月4日 - ドイツ、エムデン ”Jersey Bounce”

1943年2月26日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン ”41-24515”

1943年4月5日 - アントワープ、ベルギー ”Bad Penny”

1943年5月4日 - ベルギー、アントワープ ”
The Great Speckled Bird”


に後一回を足した5回の任務であることがわかっています。
また、メンフィス・ベルに乗るメンバーも同様で、
全く別の搭乗員を乗せて5回任務を行っています。

半年の間、メンフィス・ベルに搭乗したクルーは50名に上りました。
機体の整備や配車ならぬ配機の都合でこういうこともあったんですね。



わたし個人は、爆撃地のほとんどがフランスであったのも意外でした。

確か映画の爆撃シーンで、目標の向上が雲で見えないのを、副機長が、
適当に落として帰ろう、どうせみんなナチなんだというのを機長が拒否、
視界が晴れるまで粘って待っていましたが、実際はそうでも、
映画ではわかりやすくドイツに落とすということにしたのでしょう。

まあ、フランスに落とすときでも、当時の状況を考えると、
「どうせみんなナチ」という言葉が出ても間違いではありませんが。


25回の戦闘任務中、ベルの公式記録は8機の敵戦闘機撃破となっていますが、

実際にはその他5機撃破、少なくとも12機に損傷を与えたとされます。

爆撃手ビンセント・B・エヴァンスの見事な働きもあって、
ベルは驚くべき正確さで、ブレーメンのフォッケ・ウルフ工場、
サン・ナゼールとブレストの閘門、
ヴィルヘルムスハーフェンの埠頭と造船施設、
ルーアンの鉄道操車場、ロリアンの潜水艦格納庫と動力施設、
アントワープの航空機工場の爆撃を行いました。


ところで、「ロリアンの潜水艦基地」というので、瞬時に
映画「Uボート」Das Boot のラストシーンを思い出してしまいました。





25回ミッション完遂で帰国の権利を得たベルの搭乗員は、
イギリスで国王も出席する式典に参列しました。



式典で、ベルのメンバーは、ジョージ6世夫妻の謁見を受けました。
(妻はエリザベス妃、字幕のクィーンは『王妃』の意)
機体の向こう側にいるのは整備クルーです。

ちなみにジョージ6世は海軍兵学校を卒業し、士官候補生時代は
「ジョンソン」の通名で戦艦「コリンウッド」に乗り組んでいますし、
ユトランド沖海戦には砲塔担当の士官として参加しています。


このときジョージ6世が着用しているのは空軍の制服ですが、
おそらく王族特権?で海軍航空隊から空軍にスライドし、
所属を空軍に転籍したためだと思われます。

王は、対戦終結間際には戦略爆撃隊に所属していたというだけあって、
メンフィス・ベルのメンバーにはぜひ会っておきたかったのでしょう。


ベルは、ドイツ空軍がまだ戦闘機で圧倒的な優位を保ち、

ナチス政権の防衛が強固であったこの戦争で、
最も危険な空襲に参加した爆撃機のひとつです。

彼女はメッサーシュミットやフォッケ・ウルフと激突し、銃弾を浴び、
対空砲火を受け、5度にわたってエンジンの1つが撃ち抜かれ、
それでもそのたびに帰ってきました。

この伝説的な爆撃機が最も長く前線から遠かったのは、
輸送の問題で主翼の交換が遅れた5日間だけでした。


当時を振り返って、モーガン機長は、その25回の中には


「簡単な任務もミルクランもなかった」

と断言します。
そして、B-17のミッションを成功させた秘訣があるとすれば、

「タイトなフォーメーションで編隊を組むこと。
そうすれば驚くほどの火力を出すことができた。
それと、ノルデン爆撃照準器のおかげで高高度から精密爆撃ができました。
また、乗組員にはちょっとした神の介入もあったように思います」

「公の場でしばしば "死ぬほど怖かったでしょう?"と尋ねられる。
不安と心配はあった。とても忙しかった。
10人それぞれに仕事があった。怖がっている暇はなかったよ」


そして彼はこう付け加えるのでした。

「ヨーロッパ上空の地獄を25回もくぐり抜け、
死傷者を出さずに戻ってこられた理由を一言で言うなら、
それはチームワークだ。
フライング・フォートレスで戦闘したことのない人には
おそらくそれがどれほど重要なことかわからないだろうと思う」


動画を検索していたら、空軍博物館に
リニューアルされたメンフィス・ベルがお披露目されたのは、
わたしが見学するわずか2年前だったことがわかりました。

Memphis Belle Unveiling

動画途中で、機長モーガン大尉の息子さん(そっくり)という人や、
他のメンバーのご子息が何人か登場し、
ベルがあらたに生まれ変わって展示された感激を語っています。

動画では、修復にどれほどの技術と年月、熱意が注がれたかも
写真を共に説明されていますので、感動的な音楽と共にお楽しみください。



続く。





映画「海の牙」Les Maudits(呪われしものたち) 後編

2023-11-07 | 映画

さて、映画「海の牙」ならぬ呪われしものたち、後半と参りましょう。
今日のタイトルは、登場した海軍軍人を描いてみました。

左上から砲雷長、副長、米軍大尉、艦長、輸送船長、
下はUボート出航時の艦長と副長です。

フランス製作の映画のせいか軍事考証が甘く、
ナチスドイツの軍帽のエンブレムの上につける鷲のバッジがなかったので、
こちらで勝手に描いておきました。

■ クチュリエの死


ナチス再興ご一行様が当てにしていた南米の支援者、
ラルガに裏切られ、これを腹立ち紛れに殺害したフォルスター、
実際に手を下したウィリー、Uボートの副長が帰還しました。

つまり、補給先のあてははずれてしまったということになります。



彼らが乗って帰ってきたボートは
舫が解かれ、海に放棄されました。



それを見たジャーナリスト(正体がバレたスパイ)
クチュリエの顔に決心が浮かびました。
上着を脱いで海に飛び込み、ボートに乗り移って逃げようと。



必死で泳ぐクチュリエに、フォルスターは何発も銃弾を撃ち込みます。
この銃の撃ち方で彼の親衛隊での経歴が想像できます。


船端に手をかけたクチュリエの体を銃弾が貫きました。



甲板に脱ぎ捨てられた死者の上着を海に蹴落とし、
この冷酷な男は残った弾をヒルデの目の前で海に撃ち込みます。

■ エリクセン逃亡



艦は出航し、停泊の間閉じ込められていたジルベールはほっと一息。



ウィリーはこれからフォルスターにお仕置きを受ける予定。
(ベルトによる鞭打ち。子供か)

しかし、ここでまたしても事件が起こりました。



ノーマークだったエリクセンがいつの間にか消えていたのです。
彼は甲板下のゴムボートで脱出していました。
ジルベール医師がボートを見つけた時甲板にいたのは彼だったんですね。



娘のイングリッドは、人目を避けるように誰もいない場所に忍び込み、



そこにいた猫を抱いて涙を流しました。
うーん・・・・お父さん、普通娘を置いて自分だけ逃げるか?

■ 通信士の「自殺」


艦長は、工作員は当てにならないので、
付近にいるドイツの補給船に救援要請をしようと提案しました。



救援を打電した通信士は、ジルベールに
補給船に乗り移って逃げるチャンスだと囁きます。



フォン・ハウザーもそろそろ弱気になり始めますが、
フォルスターはいまだに敗北は想定内だった!などと強気です。

「あんたのような腰抜けにはもう任せられないから指揮を執る!」



フォン・ハウザーにはまたしても暇なヒルデが擦り寄ってきますが、
彼は今それどころではないと追い払います。

地位と輝かしい未来あってのトロフィーワイフならぬ愛人など、
そのどちらもが失われそうな今、何の価値がありましょうか。


その直後、通信士が持ち場で死んでいるのが発見されました。
フォルスターは自殺だと言い放ちます。

彼は色々と「知り過ぎてしまった」のです。

■ もたらされた終戦の報



Uボートは補給船と接舷を行いました。


補給船からは船員たちが興味津々で見物中。



敗戦の情報を補給船からシャットアウトするため、フォルスターらは、
たった3人の乗組員を作業に派遣するにあたって、

「補給船の船員とは口を聞くな。何も視るな」

と厳しくお達しをしておいたのですが、口はきかずとも、何も見ずとも、
耳からはいくらでも情報が入ってくるわけで・・・。



艦内に戻った3人は、早速仲間に伝えます。

「終戦だ!」

「本当か?終わったんだな?」


停泊中施錠された部屋に閉じ込められていたジルベールはそれを聞きつけ、
イングリッドにドアを開けてくれるように頼みました。


フォルスター、フォン・ハウザー、潜水艦長の3人は輸送船に移乗し、
輸送船長から終戦の知らせを改めて聞かされました。
デーニッツ直々の指令として送られてきた電文には、

「ドイツ軍全艦隊は最寄りの港に寄港せよ」

フォルスターは、そんな命令が聞けるか!我々には任務がある!
と怒鳴りますが、潜水艦長は上司であるデーニッツの指令に従うと言い切り、
意外やフォン・ハウザーも敗戦を受け入れて輸送船に残る選択をしました。

二人は輸送船長と共に船内に姿を消します。

ここでお気づきの方もいるかもしれませんが、この艦長です。
司令官とあろうものが、いくら敗戦を受け入れたといっても、
ボートを放棄して部下を残し、真っ先に輸送船に移乗するって・・。

こんなのたとえお天道様が許してもカール・デーニッツ閣下が許しますまい。

今更ですが、こういうときに司令官たる艦長は(民間船であっても)、
最低限、艦長命令で命令通り近くの港に入港させる責任を負うものです。


■ ヒルデ惨死



フォン・ハウザーは乗員に命じてヒルデの荷物を運ばせるのですが、



訳のわからない彼女は、持って行かせまいと必死で抵抗。



フォルスターが潜水艦に戻ると、南米でラルガ殺しに加担したあの少尉が、
彼にとんでもない計画を囁きます。

「輸送船を、潜水艦に残っている10名で撃沈しましょう」

この悪魔の所業を提案したのがなぜUボートのNo.2なのか、
ついでになぜ副長クラスなのに彼の階級が少尉なのか、
このあたりが色々と理解できないのですが、何よりわからないのは、
なぜここで輸送船を葬る必要があったか、です。

計画をあきらめて敗戦に従ったフォン・ハウザーと艦長を罰するため?



計画を物陰で耳にしたジルベールとイングリットは蒼ざめます。



そしてヒルデはというと、半狂乱になってフォルスターと揉み合い、
フォン・ハウゼンに知らせるために輸送船に移乗しようとするのですが、



ショックと興奮でわかりやすく錯乱状態に。



フォルスターは一応彼女を止めております。
はて、ヒルデなど邪魔なだけなんじゃなかったっけ。



ひらひらの赤いガウンを翻し、輸送船の梯子に飛びついたヒルデ。
足をかけ損ねてそのままずるずると海中まで滑り落ちていき、
次の瞬間、彼女の体は船体の間に挟まれ、潰されてしまいます。

このシーンですが、本当に女優(スタント?)が水に落ち、沈み、
挟まれるまでが、カメラの切り替えなしで撮影されています。

種明かしをすれば、おそらく船体と見えるのは上から吊った板で、
スタントは水に落ちるとすぐさま板の下を潜って向こうに脱出、
(水中に板の下端らしきものがちょっと見える)脱出が終わると、
輸送船の方の壁をこちらに打ち付けるという仕組みでしょう。

これでも大変危険なスタントだったと思いますが。



いずれにしても超ショッキングなシーンで、誰しも衝撃を受けます。

■ 輸送船撃沈



しかしこいつらはそんな光景にも眉ひとつ動かさず。
補給が完了すると、艦長代行として少尉が命令を下して離艦を行います。



そして、輸送船から遠ざかっていくと見せかけて・・・。



魚雷発射命令。
しかしこの男、少尉にしては老けすぎてないか。



魚雷室、#1と#2が装填を完了。



発射!



魚雷発射シーンは本物です。
が、これは本当に潜水艦?



至近距離から狙われた輸送船はひとたまりもありません。



魚雷爆発&沈没シーンは実際の戦時フィルムから取っています。



救命ボートの映像も実写。
実際こんな状況で沈没したとしたら、誰も避難できなかったと思いますが。



魚雷を発射中の後部魚雷室に、前部魚雷室の魚雷員がやってきて、

「正気か?同胞の船だぞ!」

ちなみにこのメガネの乗組員は士官です。
冒頭のイラストで着ている制服の袖から中尉だとわかります。

はて、もうひとつ謎。
副長が少尉で砲雷長が中尉って、命令系統的におかしくない?



両者の間で揉み合いになります。



輸送船が沈んでいく様子を平然と眺める人たち。
フォルスターがうそぶきます。

「あんな美しい船を連合国に渡すわけにはいかん」


さらにこの老けた少尉、機関銃で救命艇の人々の殺戮を命じます。
生き残って撃沈を証言されたら困るからですね。



煙たいフォン・ハウゼンも、何かと自分に逆らう艦長も、
この世から抹殺できるとご満悦のフォルスター。

■ 反乱



艦内での乱闘は続いていました。




砲雷長が叛逆を甲板に報告しますが、



直後、射殺されました。



悪辣少尉による同胞殺戮は続いていました。



フォルスターは海面を探照灯で照らして殺戮のお手伝い。



そこに艦内での争いに勝ったまともな乗組員たちが駆けつけ、
少尉と銃弾装填を行っていた下士官に襲い掛かりました。



この副長には今までよっぽど嫌な目に遭わされていたんですね。
彼はこの後海にデッキから叩き落とされました。

ザマーミロだわ全く。



フォルスターは隙を見て艦内にコソコソと避難。
武器を持ってきて反逆者を始末するつもりです。


生き残った乗組員たちは食料を積んで、
救命艇で潜水艦から脱出する準備を始めました。

ジルベール医師もイングリッドを連れて彼らのボートに乗ろうとしますが、
丁度艦内に戻ってきたフォルスターに殴られて、気絶してしまいます。



フォルスターは艦内に閉じ込めていたウィリーに、
居丈高にピストルを出せと命じます。
救命艇にむかってまた撃ちまくるつもりでしょう。

フォルスターにピストルを渡したウィリーは、
次の瞬間無言でフォルスターを背後からナイフで刺しました。



DQNの一突きでほぼ即死するフォルスター。
脂肪分厚そうだけど急所だったのかな。

■ 救命艇での脱出



救命艇に乗ることができたのは、結局イングリッドと、



「フォルスターを殺してきた」

と得意げに宣言しながら走ってきたウィリーでした。

いやちょっと待って?

少尉とそのシンパ、諸悪の根源フォルスターをやっつけたら、
もう潜水艦から脱出する必要ないのでは?

Uボートの乗組員なんだし、給油も補給もすませたばかりですよね?
うーん、ここで彼らが潜水艦から逃げる理由がわからん。

■ Uボートでの漂流



ジルベールが気がついた時には、



救命艇はすでに遠ざかっていました。



以来何日間も、無人の潜水艦で一人漂流する毎日。



このまま誰にも知られず死んでいくのかと思うとたまらなくなった彼は、
蝋燭の灯りでノートに回想録を筆記し始めました。



しかし、全くの孤独ではありませんでした。



この猫さんのためにも食べ物が無くなる前に見つかりますように(-人-)



些細なことも全て思い出すままに書き記していきました。
主にここで出会った人々のことを。

「軽率で臆病なクチュリエ、
海に身を投げたガロシ・・・フォルスター。
情緒不安定だった未亡人のヒルデ・・・フォルスター。
不良のウィリー・モールス・・・フォルスター。
彼らが語りかけてくるようだ。
奇妙な作業だ」

フォルスターが何度も出てきます。
彼らの声を、顔を思い出しながら、彼はひたすら書きました。

ところで、艦内にはそのフォルスターのはもちろん、
何人もの人の死体が転がっていたはずなんですが、
それってせまい潜水艦でかなりやばい状態なんでは・・・。

まあ、映画だからその辺は気にすんなってか。

そして。

■ 「呪われしものたち」



その随想録の最初の読者となったのは、
フランス語を喋るアメリカ海軍将校でした。



ヘラヘラと彼にコーヒーを勧めながら彼の肩を叩きます。

「これで最終章が書けるな。
”最後はアメリカ海軍の魚雷艇に救出された”

・・・あとは受けるタイトルだ。どうする?」



「・・Les maudits. 呪われた者たち」

ラストシーンでは、彼の乗っていた潜水艦が魚雷艇に処分されます。











あ、もちろん猫も一緒に助けたよね?

終わり。



映画「海の牙」Les Maudits(呪われしものたち) 中編

2023-11-04 | 映画

ルネ・クレマンの限界心理ドラマ、「海の牙」二日目です。
本日はいつものイラストではなく、各国で上映された時の
ポスターを集めてみました。

まず冒頭画像は、フランスで公開されたときのメインポスター。
このポスターに「呪われしものたち」なんてタイトルなら、
オカルト映画かななんて勘違いする人もいそうです。

頭を抑えているのは、ガロッシ夫人ヒルデです。



その2。
シルエットになっているのはフォルスター、女性はヒルデ(似てない)。
さて、それでは右側の男性は誰でしょう。

実はこの映画のポスターでトップに名前を記され、顔が描かれている
「ダリオ」という俳優は、まだ前半には出てきていません。

左は潜水艦のガンデッキで揉み合っている人影でしょうか。



ハンガリー語でElatkozott Hajoは「呪われた船」という意味です。
このポスターでもダリオの名前が最初になっていますね。



イタリア語は「呪われたものたち」と、原題そのまま。



我が日本公開の時のポスターもどうぞ。
とりあえず映画のポイントを全部盛ってみました感がすごい。

「敗戦前夜密かに逃れるUボート乗組員の反目と憎しみ」

この煽り文句も火曜サスペンス劇場の予告みたい。
細かいことを言うようですが、彼らは「乗組員」じゃないんですけどね。


日本公開ポスターもう一つ。
これもダリオの名前が最初に書かれています。

これらのポスターからは、ヒルデがこのあと、この絵のごとく、
ガウン?を翻して狂乱状態になるのがクライマックスと想像されますね。

さて、それでは「呪われしものたち」二日目です。

陸軍中将と元親衛隊の大物、その愛人「たち」と愛人の夫、
学者父娘、ジャーナリスト、途中でさらってきた医師、という
どう考えてもこいつらに何ができる的なメンバーでUボートに乗り込み、
第三帝国南米支店を創設して世界征服を企む人々。(というか二人)

そんなことできるわけないとこの二人以外は誰しも思っているわけですが、
乗りかかった船ならぬUボートは、大西洋を順調に進んでいきます。

そして南米に到着する前に1944年4月30日がやってきました。

■ ガロシの自殺


ベルリン陥落、ヒトラー総統死去のニュースがもたらされます。


しかしフォルスターとフォン・ハウザーにはそのニュースが信じられず、
戦略に違いない!もし本当なら公表するはずがない!と正常バイアス全開です。



ジャーナリストのクチュリエは現実を見ようよ、と冷静。



ガロシも今やナチスへの不信感を隠しません。

「この状況でまだ勝利を信じてるのか?」


ヒルデはニヤニヤ笑いながら問題を矮小化してみせます。
自分に冷たくされて怒ってるのね、と言わんばかりに。

「あなたが苛立ってるわけはわかってるのよ。
でも、ずっと信念通り行動してきたのにどうしたの」


そんな妻にガロシは静かに、

「もう君の言いなりにはならない。もう終わりにしよう」


いつのまにかベルリン陥落のニュースと全く関係なくなってないか。


夫婦の不仲の元凶がそのとき話に割って入ります。

「ちょっといいかね。
それなら君が約束したイタリア国内の産業を譲るという約束は反故か?」

「もう十分でしょう。
わたしが今までどれほど犠牲を払ったと思います?」


(ヒルデに)

「彼に教えてやれ。数えるんだ。幾晩だった?」

「な、何を言ってるの?」

「随分前から気がつかないふりをしていた。
彼と関係があることをな」

「じゃなぜ乗艦したの?
わたしなんかより自分が好きなくせに!」

「・・・・・君を愛してる。
私に残っているのは君への愛だけだ。
これ以上それを汚さないでくれ
!」



(0゚・∀・) + ワクテカ +


そのままテーブルから立ち上がったガロシは、
「幸運を祈るよ」と皆に告げ、その場を去りました。



そして一人甲板に出ました。
甲板では見張りが数歩歩いては折り返す規則正しい足音が響きます。



構造物の影に降り立った彼は、自分の懐から全財産を海にばらまきました。


そして皆の前から永遠に姿を消したのです。



妻の裏切りを見てみぬふりをしてきた実業家のガロシですが、
第三帝国の終焉を知ると同時に、妻から悪意を浴びせられ、
彼女に自分への愛情がないことを確認するや、自分を消し去りました。



もちろんそんな妻が夫の死に打ちひしがれる様子は微塵もありません。

額の傷を隠すためヘアスタイリングに苦労していたところ、
水兵に届けられた唯一の夫の遺品である財布に
小銭一つも残されていないのを確認し、不機嫌さを募らせます。



そしてわかりやすく次の金蔓、フォン・ハウゼンに媚を売り始めます。

今までは愛人という立場でしたが、これからは全面的に面倒をみてもらわねば。
流石のフォン・ハウゼンも人目がある!とたしなめますが、

「夫はもういないの。気にすることないわ」

「気は確かか?少しはわきまえろ」


亭主に死なれても悲しむふりさえ見せず擦り寄ってくるこの女の厚顔に
げんなりというか辟易としている様子。

しかもこの会話を皆に聞かれているのですからたまりませんよね。

■ 蓄積する不満と悪意


中でもジャーナリストのクチュリエは、弔意どころか、
死人が出たというのに平然としている連中にほとほと嫌気がさしています。

彼は、死んでもう何にも悩まずにすむガロシを羨ましくさえ思い、
忍び持っている毒をいつ飲むかというところまで追い込まれていました。

ただし、彼の焦りにはまだ皆が知らない理由がありました。



こちら、その恥知らず4人組。

フォルスターとフォン・ハウゼンの間のチェスボード越しに、
ヒルデはウィリーに笑いかけ、ウィリーもニヤニヤ笑い返します。

あんたらどっちもこのおっさんたちに囲われてるのと違うんかい。


そのとき、Uボートの水兵たちが皆で歌う
「別れの歌(ムシデン)」が聴こえてきました。

別れ (歌詞つき) 鮫島有美子 ムシデン  Muss i denn

「ムシデン」 Muss i denn は、映画「Das Boot」(Uボート)でも使われた
ドイツ民謡で、日本では「さらばさらば我が友」という歌詞で歌われます。

元々シュバーベン地方の歌詞で、愛する女性を故郷に残し、
出征する兵士が故郷に戻って結婚しようという内容であるため、
陸海空問わずドイツ軍の兵士に愛唱されていました。


たちまちフォルスターが血相変えて怒鳴り込み、やめさせます。
言うに事欠いて

「総統が亡くなったんだぞ!それでもドイツ国民か!」

死者(ガロシ)にもう少し敬意を払え、とクチュリエにいわれて

「碌でもない男を敬っても仕方ない」

と嘯いたその直後に。


その後、フォン・ハウゼンにチェスで負けたフォルスター、
それを軽く指摘したウィリーをいきなり引っ叩いて八つ当たり。

ウィリーの怒りのゲージが溜まっていくのが見える・・。


潜水艦は南米に近づいてきましたが、現地の工作員から連絡がありません。
連絡がないと、上陸もできないという切羽詰まった状態になり、
フォン・ハウザーは計画者のフォルスターをなじり始めます。



そのとき、ジルベール医師にクチュリエが近づいてきました。
君の身が危険だ、フォルスターに殺されるぞと脅しつつ、

「上陸時に逃してやるから、その代わりいざというとき証人になってくれ」

と交換条件を出してきます。
実は潜水艦にはクチュリエがスパイであるという報告が入っていました。


上陸の知らせにヒルデは大喜び。



クチュリエはジルベール医師に証言の約束を取り付けて一安心。

証人として彼がどこで何をどのように証言させようとしているのか、
一切説明がないのでわかりませんが、命の保証を得たと思ったのでしょう。



学者エリクセンは、こっそりお金をポケットに詰め込んでいます。



ジルベールは、これが逃げる千載一遇のチャンスと考えました。


しかし前回確認した場所にボートとオールはありません。
彼はフォルスターの差金だと思っていますが・・。

■ 上陸


フォルスターらは、とにかく誰か上陸させて様子を探ることを決定しました。



ウィリーとUボートの少尉一人が上陸を命じられ、



二人はゴムボートで漕ぎ出していきます。



それを見送るUボート乗組員。



南米の某国に上陸した二人、
現地の連絡&調達係とされる人物の会社を目指しました。



輸入会社の社長、フアン・ラルガという人物です。


車から降りてきた男にラルガの居どころを聞いたらシラバックれ。



本人であることがすぐにバレて、二人に追求されたラルガは、
工作員はもうとっくに逃げ出した、と連絡しなかった言い訳を始めました。

元々ナチスの残党と一旗上げようとして、
物資調達と南米での要人への連絡係を引き受けたこの人物、
戦争が終わった今、こちらに付いても全く旨味がないと踏んだので、
勝った方のアメリカに鞍替えして商売しようとしていました。

何とかしようと口では言いながら、給油も物資調達もする気がなく、
わずかなドル札で彼らをていよく追っ払おうとします。



Uボート士官が上に聞いてくるといって出ていった後、
彼は残ったウィリーを手なづけようとします。

ちなみに、このラルガを演じているのがマルセル・ダリオという俳優です。
彼の名前は知らなくても、「カサブランカ」「キリマンジャロの雪」
「紳士は金髪がお好き」「麗しのサブリナ」「陽はまた昇る」
「おしゃれ泥棒」に出ていたということで、人気と実力をお察しください。

「落ち目の連中とは手を切るんだ。
もはやドイツの時代は終わったよ」

そういって匿ってやるからコーヒー豆の倉庫に隠れていろ、
とバカなウィリーを唆していると、



士官が怒り狂ったフォルスターを連れて帰ってきました。
居丈高に約束を破ったラルガを責める責める。

しかし、ラルガも海千山千、脅しをのらりくらりとかわします。


ふと気づくとウィリーの姿がありません。
ウィリー、どうやらさっきのラルガの甘言を真に受けた模様。

「どこにいった!」

「知らん。ただもうあんたにはうんざりだと」



ウィリーはラルガの言ったとおり、コーヒー豆倉庫に潜んでいました。


ラルガを殴りつけ、ウィリーを探しにくるフォルスター。


しかし、豆のこぼれる音で居所を知られてしまいます。



不思議なことに、この男にひと睨みされただけで、ウィリーは
蛇に睨まれたカエルのように従順になり、前に進み出てしまうのでした。
そして、階段を登る彼の後をうなだれて着いてきます。

・・・共依存かな?



部屋には恐怖で蒼ざめたラルガが直立していました。



フォルスターは顎でテーブルの上のナイフを指し、
ウィリーはナイフを手にとると、ラルガに近づいていきます。


それを見ながらタバコを咥えるフォルスター、
目線を二人にやったままライターで火をつける士官。

誰も一言も発しません。




「Non.....Non!」



ウィリーが外れたカーテンレールを見やって無言の殺人シーンは終了します。


続く。





映画「海の牙」Les Maudits (呪われしものたち) 前編

2023-11-02 | 映画

「禁じられた遊び」「太陽がいっぱい」「パリは燃えているか」
「雨の訪問者」・・・・・。

これらの不朽の名作を世に生み出したルネ・クレマン監督が
若き日に挑戦した、潜水艦内という極限状態での集団心理ドラマ、
それが今回の「海の牙」です。

原題は「Les Maudits」、英語圏では「The Damned」と翻訳され、
どちらの意味も「呪われた者たち」という意味になります。

邦題の「海の牙」はいい感じですが、映画のどこにも存在しない言葉です。
映画の内容を考えても、どこからこんな言葉が出てくるのか謎。
潜水艦が舞台ということで何がなんでも「海」を入れたかったのでしょうが。

それにしても「牙」って何?意味不明。
どうして素直に「呪われしものたち」としなかったのか。

まあ、原作に忠実なつもりで、
「呪われた潜水艦」
としなかったことだけは褒めてあげてもいいです。
(でも絶対その案も企画の段階で出たに1フランスフラン)

■ Uボートの人々


蝋燭の光のもと、ノートに何かを書き綴る手元の映像で映画は始まります。
これが誰の手で、いつ何を書いているのかは最後にならないとわかりません。


1945年4月18日。

ここはドイツの支配から解放されたフランスの南西部、ロワイアン。
戦争中避難&疎開していた人々が街に戻ってきていました。



瓦礫の散乱する道を歩き、以前住んでいた家に戻ってきたのは
ここで生まれ育った医師、ジルベールという人物です。

彼の名前は日本語媒体だと「ギルベール」と表記されていますが、
普通はGirbertという綴りはフランス語だとジルベールとなるはずです。

念の為、映画内で確かめようとしたのですが、
作品中彼の名前が発せられることは一度もありませんでした。



部屋の片隅で見つけた幼き日に使っていたハーモニカを吹きながら、
彼は戦争が終わって平穏な毎日が戻ってくることを願っていました。
すぐに別のところにいた妻(か恋人)もここに戻ってくるでしょう。

しかし、その希望を打ち砕き彼の人生を変える出来事が、
同じ頃、遠く離れたオスロですでに始まっていたのです。



ここはノルウェー、オスロのドイツ海軍潜水艦基地。
ベルリン陥落の数日前、ここに集結してきた人々がいました。



ドイツ国防軍のフォン・ハウザー将軍


ナチス親衛隊員、フォルスターウィリー・モラス
フォルスターはウィリーを「部下」と紹介しています。

映画の中で彼は「親衛隊長」と呼ばれているので、
陸軍の三つ星将官に相当する「高官」ということになります。
退役したとはいえ、実はハウザーと同等かそれ以上という立場です。


彼らはドイツ崩壊前になんらかの任務を負って潜水艦に乗り込むようです。



撮影に使われたUボートは、戦後すぐだったこともあって
残っていた本物が使われています。

このシーンは本物の潜水艦基地から本当に出航させています。



男たちの視線の中、オセロットの毛皮を着こんで乗り込んできたのは、
イタリア人実業家ガロシの妻、ヒルデ、30歳。

彼女はズデーデン地方出身のナチス信奉者であり、
フォン・ハウザー将軍が同行させた彼の愛人です。
呆れることに、ナチスの協力者である彼女の夫も同行しています。


彼女の夫ガロシはムッソリーニの信奉者で、工場経営で富を築き、
そのおかげでこの特上美人妻をゲットしたものの、
いつのまにか嫁がナチス高官とできてしまったのを知りながらも
立場上見て見ぬふりをしている辛い立場ということになります。



しかも、フォン・ハウザーに対する周りの忖度か指示かはわかりませんが、
潜水艦では夫でありながら妻と部屋を一緒にしてもらえないという扱い。

全く馬鹿にされていますが、ガロシはそんな妻に強く執着しています。
ですが、自分が愛されているという自信もないものだから、
こんな状態でも下手に出て彼女を責めることができません。


潜水艦での初めての夜、彼は妻の部屋に忍び込みますが、
ヒルデはそんな彼を冷淡に追い払いました。

彼女にとってガロシは単なる金蔓なのは確かですが、
だからってフォン・ハウザーを愛しているのかというとそれも違いそうです。

要は金と地位を得る手段として男を利用してきた女ということなのでしょう。

一連の夫婦の会話はフランス語で行われます。
この映画では、ドイツ語とフランス語が入り乱れ、
一部の者以外はどちらも理解できるという設定です。


ガロシ夫婦はイタリア人とドイツ人ですが、乗り込んできたのも
ヨーロッパの枢軸国を中心に多国籍にわたるメンバーです。

左はフランス人ジャーナリストのクチュリエ
右はノルウェーの科学者エリクセンとその娘イングリッド

エリクセンは娘と違ってフランス語もドイツ語も喋れません。


出航してから全員が初めて顔合わせした席で、
フォン・ハウザー将軍から任務についての説明が行われます。

っていうか、詳細も知らないで自発的に潜水艦に乗る人なんている?



曰く。

「我々はこれから南アメリカで人脈を駆使して情報局や施設を設置し、
ドイツから総統始めナチス指導者が到着するのを待つ。
そこで建て直した第三帝国で世界に対し勝利するのであ〜る」


乗り込んだメンバーには皆それなりの役目があるようです。
実業家のガロシは海外にいる同胞との連絡係、
ジャーナリストのクチュリエは宣伝と広報担当、
学者のエリクセンは研究(何の学者でなんの研究か謎)などなど。

こんな自発性のないメンバーでそんな大事業が成し遂げられるものかしら。

■ 負傷したヒルデ



潜水艦はスカンジナビア半島を出て英仏海峡に差し掛かりました。




カレー海峡は最も危険な海域と言われているポイントです。





そこでUボートは英軍艦艇に発見されてしまいました。



潜水艦の角度を示す照準器(初めて見た)。



目標深度270mからは、エンジン停止して沈降を継続。


さらに深度を下げる潜水艦に、駆逐艦は爆雷を雨霰と落としてきます。


この緊張と恐怖、初めて潜水艦に乗った一般人には到底耐えられません。
浸水に気づいたガロシ、よせばいいのに慌ててそれを妻に報告。



するとこちらもよせばいいのにわざわざベッドから立ち上がるものだから、
爆発の揺れでドアの角に額を強打してしまいました。



不運にもヒルデ、打ちどころが悪くて昏睡状態に。

「愛する妻よ・・私のせいだ・・・」

とイタリア語でしょげるガロシ。
ただでさえ疎まれているのにさらにこれで嫌われてしまいそうですね。

フォン・ハウザーは彼女を軍医に診せるために
フランスのロワール潜水艦基地に上陸することを提案しました。

しかし、到着してみると、基地にはフランスの旗がはためいています。
ロワールからドイツ軍が撤退したことを彼らはこの時初めて知ったのでした。



しかし、フォルスターは夫人を下艦させろと言い張ります。

ハウザーの愛人枠で乗ってきたヒルデなど、
なんの役にも立たず、邪魔なだけだからですねわかります。

フォルスターはフォン・ハウザーになんの遠慮もしておらず、
フォン・ハウザーも、フォルスターに向かって、

「私に言わせれば君の部下(ウィリー)の方が用無しに見えるがね」

と言い合いになります。
そして、使えるやつかどうかこの際試してやる、と言い放ちます。

おっしゃる通り、親衛隊長の部下にしては、このウィリーという若造、
態度が悪くて覇気がなく、なんの役にも立たなさそうなDQN臭ふんぷん。

ナレーションによると、ウィリーはドイツ人ですが、
フランスでゴロつきをしていてフランス語が堪能という人物。
(演じているのはミシェル・オクレールというフランス人俳優)

そもそもそんな男がなぜ元親衛隊長の部下に?と疑問が湧きます。

このやりとりから、もしかしたら実はこの二人、
フォン・ハウザーとヒルデみたいな関係?とわたしは思ったのですが、
ナチスは同性愛禁止(バレたら収容所行き)だったしなあ・・。


とにかく、この狭い艦内で覇権争いを始めた二人のドイツ人によって、
ウィリーとフランス人のクチュリエがロワールに上陸し、
ヒルデを手当てする医師を「調達」してくることが決定してしまいました。



その頃、フォルスターは、ロワールからドイツ軍が撤退していることを
知っていながらなぜ言わなかったかと通信士に八つ当たりしていました。

「役立たず!」「オーストリア人のくせに!」

などと無抵抗の通信士を罵ります。
オーストリア人っていうのはこのドイツ人にとって蔑みの言葉なんだ・・・。

あれ?ヒットラーってどこの出身だったっけ。

■ 拉致された医師


さて、そのときロワールのジルベール医師は急患の診察をしていました。
赤ちゃんと、抱いてきた老婆、どちらもが病気です。


彼女らが出ていくと、入れ替わりに潜水艦の拉致実行組がやってきました。

クチュリエが「妻がそこで事故に遭って」と嘘をついて往診を頼み、
一緒に外に出た途端、残りの二人が銃を突きつけながら取り囲みます。



医師はわけわからんままUボートに押し込まれ、
そのまま潜水艦後方へと歩かされました。



前部魚雷発射室からマニューバリングルームを通り、



エンジンルームを抜け、



司令塔を通り兵員バンクを見ながら歩いていくと、



士官寝室があり、ここに負傷者が寝ていると言われます。


ヒルデを診察した医師は、額の傷は大したことないが、
脳震盪を起こしており、放っておいたら死んでいたと言います。

脳震盪で死んでいたかもしれないって、硬膜外血腫で出血していたってこと?
それなら注射なんかでは治らないとおもうけどなあ。
もしかしたら本当は大したことないけど一応そう言ってみた的な?

そのとき、まだ治療が終わってもいないのに艦内が騒然とし始めました。
潜水艦は出航を始めたのです。


「しまった、やられた!」

ジルベール医師が内心叫んだ時には、時すでに遅し。
おいおい、俺をどこに連れていく気だよ。

ていうか、このUボート、なぜ最初から軍医なり乗せとかないのって話ですが。
愛人はともかく学者やジャーナリストなんかよりよっぽど必要でしょうに。


やられた!と思いつつ仕方がないので寝ていたギルベール医師ですが、
鐘の音で目を覚ますと、



にゃあにゃあと鳴きつつ近寄ってくるハチワレ猫あり。

クチュリエが「まるでノアの方舟だ」と多国籍の乗客を評しましたが、
潜水艦内は独仏伊那威墺太利猫という陣容だったわけです。


こんなとき人はこれをモフらずにはいられないものなのである。
すると、Uボートの乗組員がやってきて、ドイツ語で問いかけます。

「食事を皆と一緒にどうですか」

ジルベール医師は反射的にドイツ語で返事をしてしまいましたが、直後に

「しまった!」

と後悔します。
なぜドイツ語がわかることを隠さねばならないのでしょうか。
もしかしたら、本名ギルベルトというドイツ人だったりする?

■ 生き残りを賭けて



テーブルに着こうとすると、隣のクチュリエが読んでいるのは
自分の家の玄関に置いてあった新聞であることに気が付きます。

こいつ人んちのもの盗んでおいて堂々としてんじゃねー。



彼はここではドイツ語の質問もわからないふりを通すことにしました。
さっきドイツ語で会話したばかりの乗員が変な目で見ていますが?

彼がそれを隠すのは、とにかく生きて帰るために慎重にってことなんでしょう。
知らんけど。



呼ばれて医師が席を外した途端、冷酷なフォルスターは、
あいつ怪しいし、用は済んだから始末しようなどと言いだします。

おいおい、使い捨てか。



艦長に具合の悪くなった乗組員を診察させられたジルベール医師、
この状況で生き残るため&拉致られた腹いせを兼ねて、
ただの風邪の乗組員を伝染病だと嘘をいいます。

伝染病患者が出れば医師が必要とされ、自分の身は当分安全になるし、
隔離やなんやで狭い艦内でみんなの苛立ちがつのり、憎悪が蔓延して
互いに潰し合いを始めるかもしれないという目算もありました。


彼は考えたのです。

狭い空間での集団生活は、訓練された軍人でもない一般人には拷問と同じ。
たとえ海軍軍人でも、潜水艦内で隔離患者が出たりすれば同様でしょう。

「僕が作り出した海に浮かぶ強制収容所」

彼は脳内でうそぶきます。
そして周りを注意深く観察するだけの精神的余裕を得ました。



その時通信士が「具合が悪いから診てくれ」と彼を呼びます。
悪いところはないみたいだが、と言って外に出ようとする医師に、
通信士は格納庫にゴムボートがあることを小声で告げました。



さらに甲板に出た際、学者の娘、17歳になったばかりのイングリッドから、
潜水艦の行き先が南アメリカであること、そして
フォルスターがあなたを殺したがっているから気をつけるようにと囁かれます。

周りは彼の敵ばかりではなさそうです。



その頃艦内では、昏睡から覚めたヒルデが旦那を責め立てていました。
医師を拉致してきたのは彼の考えだと吹き込まれたようです。



「僕は君と将軍のことを知っても何も言わなかったのに」

「なんですってー!きいー!」

あーもうずっと昏睡してろよ。



フォルスターとウィリーはそんなガロシを呼びつけて、嫌味っぽく、

「あんた・・実は(第三帝国の)勝利を疑ってるんだろ?」

イライラが高じていちゃもんつけてみました的な?
閉鎖された艦内に憎しみと苛立ち、疑念と嫌悪が形になってきつつあります。


そのとき、一斉に水兵が水密扉を閉め始めました。

潜航が始まることに気がついたジルベール医師は、
脱出するなら今だ、と行動に移します。
内側のハッチが閉められる前に、ボートのありかを探さねば。

ラッタルを上っていく医師を、通信士は部屋からじっと見ています。



そこには通信士の言った通り、オールとガスボンベはありましたが、
外側のハッチを開けてみたら、


あれ?甲板に誰かいる?



わけがわからんままに慌ててて艦内に戻ります。
とにかく通信士が信用できる人物であることが確認できました。

ところでさっきの人・・・・・誰?


続く。