ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

金美鈴さんに会った

2010-09-30 | 日本のこと
今。

毎朝毎朝ニュースを見て怒り心頭の今、ある意味一番話を聴きたかった人に会えました。

金美鈴さん。
御存じ、日本人より日本を愛する、日台のマドンナ。
TОの所属する某会で話を伺う機会があると聞き、駆け付けました。

金さんはご存知のように日本に帰化した台湾人。
留学で在日中、台湾独立運動に参加したため、長い間台湾に帰ることを許されませんでした。
2006年まで台湾総督府で政策顧問の仕事に携わっていましたが、現在もメディアで子育て、教育、社会、政治などへの提言を行っています。


この日の金さんは秋らしい紫色のベルベットのジャケットにロングスカート、
足許はなんとネイビーブルーのスニーカー。
76歳とは思えない美しさです。
小柄でほっそりした体で登壇するや、ハリのある声で一言。

「私の講演では私語は許しません」

多忙を極める金さんが今回異例ともいえるこの会でのスピーチを引き受けたのは、紹介者Y氏の亡くなった兄上の縁だそうです。

Y氏の兄上は昔台湾に留学していたころ、国際文化会館で館長秘書だった金さんに日本で勉強するように勧めていたのですが、記者として乗り込んでいた船が金門島の砲撃に巻き込まれ客死してしまいます。

親しい友人であり、留学の手引きをしてくれるはずたった人を亡くしたショックで打ちひしがれる金さんの前に現れたのがY氏の母上でした。

「息子があなたとした約束を果たすために来ました」

金さんは母上の尽力で早稲田大学に留学します。
この何より日本人らしい日本人との出会いが、金さんを「日本人より日本を愛している台湾人」たらしめる最初のきっかけだったのです。


さて、御存じのように日本は1945年までの50年間、台湾を統治していました。
韓国と違って、台湾の7割以上の人は,現在も日本統治を評価しています。
もちろん、統治という体制の中に光があれば影もあったわけで、喰いつめ者や、権力をかさに着る程度の悪い日本人がいたことも事実ですが、日本は初めて得た統治領土をあくまでも正しいルールに則って経営し、心血を注いで本土並みにしようと、惜しげもなく金や人を送り込みました。

この統治のときに台湾に植え付けられた
「約束を守ること」
「向上心」
「清潔観念」
などの美点は、いまだに台湾社会の規範となっており、それを以て光の部分を台湾人は公平に評価しているのだということです。


日本が敗け、去った後の台湾に蒋介石がやってきました。
台湾の人々は、日本統治時代の清潔で公平な社会を懐かしむようになります。
その後、李登輝総統のもと、自由と民主を旗印に独立運動が起こり、現在に至るわけですが、台湾人と言っても中国本土から来た台湾人は台湾の独立を認めず、なおかつ日本に対して反日を続けています。

ですから尖閣諸島で台湾からの船が出ていくようなことがあるとき、それはほぼ100パーセントの確率で「本土出身台湾人」なのだということです。


「尖閣諸島」


先週、バカミンスがやくざ国家中国が放った当たり屋船長を釈放してしまいました。
日頃民主ヨイショに余念のないコメンテーターさえ不満を口に出し、
日頃全く政治問題に興味を持たないそのへんの主婦ですら「おかしい」といい、
あの選挙で民主に入れた『自民お灸派』『やらせてみよう派』でさえも「何をやっている!」

海軍搭乗員の会で元大尉が言われた
「いやなニュース」
の最たるものが、これだったのではないでしょうか。

国士、金美鈴が尖閣問題について何をしゃべるのか。
この言葉が出たとき会場は(最初からですが)静まり返りました。

「途中で折れるなら、最初からしないほうがまし。

中国という国は日本とは全く違います。
彼らはどんなカードを使ってでも、卑怯と言われようが何と言われようが自国の国益とプライドしか守るつもりはありません。

お人よしの日本人が「落とし所」
などと甘いことを言い、「釈放したからフジタの4人返して」などといっても、
「それとこれとは別、釈放するなら悪かったって認めたんだから賠償と謝罪よこせ」
とにべもありません。

取れる利益は取る、自分が悪いなどとは決して思っていない。

しかし、ある意味それは国家として当然のことなのです」


甘いのは、愚かなのは、あの中国に対してあのような外交しかできないアマチュア政権をマスコミに煽られて選んでしまった日本人なのだ、と金さんは憤懣やるかたない様子で語りました。


そして、経済という「目先の金」欲しさにふらふらした外交をしているうちに、国体は無茶苦茶になってしまう。
しかしながら、国益を守らずして、長期的に経済的な安定などはありえないのだと。

(確かに昨日時点で経団連がさっそくこれ以上の土下座を要求しているようです)

そして、もっとも重要なのは、この問題は日中の間だけのものではない、ということ。
中国は、南沙諸島、東沙諸島でいろんな国と領土問題を起こしています。
先進国であり、アジアの発言力が大きい日本が中国に対してどう対応するかは、世界中が、とりわけこの当事国などは息をを飲んで見ていたはず。
しかしこのていたらくです。

「ノーと言えない日本に皆がっかりしています」

と金さん。

ある雑誌が「中国にモノ申す」というタイトルでコメントをいただきたい、と言ってきたそうです。

金さんはそれに対して
「中国は法治国家ではない、人治国家です。
そんな国に言うことなど何もないし、言っても無駄です。
言いたいことがあるとすればそれは日本人に対してです。
はっきりものを言え、途中で節を曲げるな、国を愛せと」
と答えたそうです。

65年もの間、中国と言うブラックホールに飲み込まれずに、いまだ台湾が国体を維持している理由の一つに「台湾人の愛国心」があります。

かつて「朝まで生テレビ」に出演した金さんは、そこで福島瑞穂の信じられない発言を耳にしたそうです。
「そんなこと言って、けっこう福島さんも愛国心あるんですね」
出演者の一人の揶揄に対し、福島瑞穂は顔の前で手を振り、
「ありませんありません!」
と大慌てで否定したというのです。

「こんな国会議員が大臣をやり、北朝鮮の代弁者でしかない辻本清美のようなものが議員に当選する。
一体日本はどういう国なんですか!」


この日、金さんが登壇した壇上には日の丸が掲揚されていました。
登壇前金さんは国旗に丁重に一礼。
公演後席に戻る前に今一度一礼。

講演後、御挨拶に伺いました。
間近に見る金さんのチャーミングな笑顔に魅了されてしまいましたが、金さんの方でも、おじさんばかりのこの会にわざわざゲスト参加で話を聴きに来たエリス中尉に少し興味を持たれたらしく、「ぜひ○○の方にも遊びにいらっしゃい」と言っていただきました。


金さんが言った、
「昔の日本人が持っていたもので失われたものがある。
今こそそれを問われているのではないですか。
日本は、台湾のために日本であってほしい。
台湾は日本のために台湾でいたいと思っています」

という言葉と、国旗に礼をする金さんの姿を見て、思わず感極まってしまったのに・・・

最後に挨拶した人が言った、
「(言いたいことを言ってくれて)なにか胸がすっとしたような」
という言葉にずっこけました。

違うでしょそれ。

金さんは「あなたたちのような方にちゃんと声をあげていただきたい」
って最後に言ったんだぞ。
すっとしている場合じゃないってば。


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いねむりの達人

2010-09-29 | 海軍




敬愛する大野竹好中尉が兵学校卒業時に与えられた芳名録には「漫画と居眠りの達人でもあった」と書かれています。

漫画はともかく、居眠りの達人とはどのような達人だったのでしょうか。


これを読んでいる方で、小学校から大学、専門学校の全講義、会社での会議や講演会、つまらないコンサートでも一度も居眠りをしたことがない、という方はおられるでしょうか。
眠ったことはないが眠気と戦ったことならある、という方を含めると、100パーセント「無い」としていいと思います。

エリス中尉、先日長時間にわたる歯医者での治療中つい寝てしまい、医師の指を噛んで「いたっ」と叫ばれてしまいました。
横になって一時間半眼をつぶっていて寝るなって方が無理よね。


さて、先日映画「勝利の礎」を紹介しましたが、二十前後の眠たい盛りの男の子があんなに一日中あたかも止まると死ぬかのようにやれ体操の水泳の武道のカッターの棒倒しのとやっていれば、日中の座学はもちろん、夜の自習時間に眠たくならないわけがありません。

特に、「五分前」に待機し、黙して眼をつぶり待つという時間。
これは寝るよねー。
大野生徒はこういう瞬間に要領よく睡眠をとっていたのでしょうか。

兵学校の座学は軍事学と普通学に分けられ、軍事学は教官と言っても兵学校卒の軍人ですから居眠りをすると
「バシン」と鞭で教卓を叩く音とともに

「菅野生徒~っ」 (←特別出演)

という叱声がとんできたもののようです。

したがって、居眠りはもっぱら普通学の優しい民間人教官の授業で行われました。
わかっていて見て見ぬふりをしてあげる教官が多かったそうです。

それから、皆さんもおそらく覚えのある「昼食後の授業」。
あれは魔の時間ですね。

特に昼食にライスカレーが出たときの午後の授業は、まるでカレーに睡眠薬でも入っているのではないかというくらいみんなが枕を並べて?居眠りしたそうです。
炭水化物が多いからでしょうかね。
生徒があまり寝るので一度防止策として梅干しと苦いお茶が出たのですが、梅干しが減るばかりで何の効果もなかったそうです。

居眠りに梅干しって・・・効く?


今日マンガでご登場願った学生時代の野中五郎少佐。
後年「野中一家の野中親分」として、その攻撃精神あふれる指揮ぶりとカリスマで海軍航空隊の至宝とまで言われた中佐ですが、兵学校の成績はいつもテールエンドを低迷していました。
ハンモックナンバーなど全く眼中になく、そもそもろくに勉強しなかったようですが、主な原因はほとんどの授業を睡眠に当てていたからだそうです。

その堂々たる居眠りっぷりは本日マンガにした通り。
野中生徒は背筋をしゃんとのばしたまま寝ることができたそうです。

気持ちよく寝ていたら後ろからコンコンと頭を叩かれ、後ろ席の同級生だと思い思いっきり不機嫌に振り向いたら井上茂美校長だった、という話があります。
この教育熱心な校長は、しょっちゅう教育現場に足を運び生徒の様子を見て回りました。

校長に起こされては目が覚めないわけにはいかなかったでしょうが、ある軍事学の教官、ある日こんな手で生徒の目を覚まさせました。

「おい、みんな起きろ、これを見せてやる」
と言うので生徒が?とその手に持ったものを見ると・・・・

それは、美人の水着写真。

今と違い、戦前で、女人禁制の兵学校で、軍事学講堂でよりによって教官からそんなものを見せられ、みんなはいっぺんにしゃっきりと目が覚めてしまいました。
「どうだ、きれいだろ」
にこりともせずに教官続けて
「眼が覚めたのなら今から大事なことを言う。では始めるぞ」

その後みんなは熱心に講義を聞いたそうですが、水着のインパクトよりも(いや、それもあったかな)講義に集中させるためそういう手にでた教官に驚いたと言った方がよさそうです。

こんな話は、おそらく海軍ならではで、陸軍幼年学校ではありえなかったでしょうね。



この逸話を収めた「海軍兵学校よもやま物語」によると、
「うそかまことか、七十四期のだれかは、姿勢を正し、両眼をカッと見開いたまま居眠りしていたそうだ」
ということですが・・・

大野生徒がこんな達人だったら・・・なんかやだなあ。




生出寿著 「海軍兵学校よもやま話」 徳間文庫刊
回想のネイビーブルー 元就出版社
同期の桜 豊田穣 光人社




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ホテル試泊体験

2010-09-28 | つれづれなるままに
先日書いた「海軍パイロットとカメラ」の日の記事に対して、ニコン研究会所属、工業用ニッコールレンズ研究家の方から坂井三郎中尉の撮った写真についての興味深い記事をコメントとしていただきました。
この4月にオリジナルネガから写真をプリントした、というものです。
そのページのアドレスもいただいていますので、宜しければコメント欄をご覧ください。



さて本題。
大阪に10月オープンするホテル、セント・レジスに試泊してきました。
試泊とは、正規オープン前のしばらくの間、料金を取らずに関係者や客を招待して「慣らし運転」をするシステムのことです。

御存じない方に説明しておくと、ホテルマンという業種は「職場を転々としてそのたびに出世していく」ものなので、新しくホテルができると既存のホテルから自分のこれまでの部下や、なじみの顧客ごと引っ越してきます。

ですのでこの試泊には今までのホテルでの得意客をホテルマン(ただしあまり下っ端では駄目)が招待する、ということが多いようです。
今回、大阪の某ホテルで知り合いだった方がこのホテルに移ったため、試泊のお誘いをいただきました。

我々は「都落ち」の関東住みなので新幹線で移動です。
「上阪」途中で観たのですが、画像の富士山、ちょっと驚きませんか?
真っ黒の富士山、もしかしたら初めて見たかもしれない・・・・・。
日本大丈夫か。

ホテル入口。
まだオープンしていないので囲いがあります。
このホテル、御堂筋線の本町駅直結なのですが、高級ホテルでありながら交通至便。
むしろ、高級路線を目指すなら不便なところに立地を求める、という従来のホテルとは少し方針を別にするようです。
この辺りは繁華街ではなく、オフィスしか周りにはないので、アッパークラスのビジネスユースを見込んだものかもしれません。

最近のホテルによくあるように、一階と上層階がホテルになっている作り。
インテリアは明るめで、あまり流行を追わないオーソドックスタイプです。

部屋はどちらかといえば狭いのですが、今まで最もホテルの部屋で問題だった「テレビの面積」が壁掛けで解決できるため、それを生かし、バスが窓に面しているなど、解放感のある省スペースな部屋となっていました。


でも、このガラスは「普通のガラス」なので、開けっ放しで夜お風呂を使うと、御堂筋を走る車からは丸見え、とのことでした。

さて、この試泊というもの、驚いたことに「飲食費も無料」です。
夜は二つあるレストランのうち、フレンチでいただきました。
フランス料理そのものが今日本ではあまりありがたがられず、特に「重い感じ」が避けられる傾向にあるので、メインダイニングはここもイタリアンのようですが、一階はカフェ風フレンチ。
「ビストロ」という感じの内装で、料理にも期待をしたのですが・・・・・・


客にはチェックインの時、分厚いアンケート用紙を渡され、各項目について「いい」「悪い」で評価する仕事があります。
ホテルの方も、試運転時に問題をあぶり出さなくてはいけないので、ただで泊めて飲み食いさせるというのは全てこの「評価」が欲しいから。
そう、まさにこれは試泊客の料金代わりの仕事なのですが。

我々が一番厳しい評価を下したのが実はここのフレンチでした。
気難しそうな、星一徹風フランス人シェフが客席をのし歩き、客に挨拶するのですが、みんな「おいしいです」としか言えないですよね、特に日本人は。
でも、このフランス星一徹の料理、はっきり言って
「くどい」。

上の写真の板のようなものが乗ったスープのような、これ「キッシュ」なんですが、上の板はベーコン入りのパイ。これを崩して下の卵クリームスープに混ぜると、あら不思議、キッシュの味が・・・・

しませんでした。

意余って力足りず。

コロッケのようなものは、割ると中にでんでん虫が!
TOに押し付けたら
「砂がある」
といって食べず。

エスカルゴは、日本人には受けないんだよ!
わかってくれ星一徹。

骨付き羊肉はそのまんま「羊の味」。
これもほとんどの日本人には嫌われますわなあ。
もう少し工夫してくれ星一徹。

そしてデザート。

ケーキバイキングで自分で取ったデザートじゃないんですよ。
もうすこし何とかならなかったのだろうか。
日本人のデザートに対する、特に「見た目の美しさ」への要求は厳しいんですぞ。
味も今一つ甘いだけで工夫なし。
最後の頃には食べるのに飽き飽きしてしまうようなフルコースでした。

というわけで、シェフがフランス人、というのが裏目に出ているとしか思えないというか。
他がほとんど「はい」、食事の欄だけ真っ黒に小さな字で書きこまれているアンケートになってしまいました。

このホテルは、何と試泊期間を一か月しています。
以前知っていた大型ホテルは試泊が3日だったので、その長いのに驚きました。
もちろんのこと、この期間客から料金を取らないわけですが、ホテル側にすれば、試運転の間というのは失敗が許される最後の練習期間なので、むしろお金を払ってお願いしたいくらいの貴重な機会なのです。

しかし、スタッフの錬成度はかなり高いレベルにあるのではとお見受けしました。

このホテルは大型ホテルではないので、新人ホテルマンらしきぎこちないサービスをするスタッフは少なくともあまり見当たらず、特にフロント階にはベテラン女性ホテルマンをたくさん配してきめ細やかさを出そうとしていたようです。

長らく男性中心だったホテル業界ですが、ある意味この業種は下手な男性社員より高学歴の能力のある女性を集めやすいという理由で、優秀な女性を多く登用するホテルが最近増えています。

ここもその傾向がありました。
ボンクラ男子学生を一人新人採用するなら、優秀なよそのホテル経験者の女性、ということでしょうか。
ただし、要所要所、責任者は男性であり、外国人です。


オープン前のホテルに客として泊ったのは初めてですが、稼働していないホテルというのは何かまだ「仏作って魂入れず」といった感じがあります。

人が入り、行き来して、いろんなことが起こって、初めてホテルというのは命を与えられるのですね。



今回ホテルのインテリアで一番ウケた絵。

大阪城、グリコ、たこ焼き、カニ(道楽)、科学館?、ビリケン、ユニバーサル、通天閣、太陽の塔、ビジネスパークのビル、かな?






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プレーンの下に海軍魂

2010-09-27 | 海軍
このお絵かきツールでの画、最近ちょっとうまくなってません?文字通りの自画自賛ですが。
勿論当社比で、例えば最初の作品「セルゲイ・ラフマニノフ」なんかと比べると、ですけどね。
この絵、どうやって描くかというと、10センチ四方くらいのスペースに、エリス中尉の場合中指一本でパナソニックの小型ノートパソコンの丸いところ(なんて言うんですかここのこと?)をなぞり、線を引いたりエアブラシ機能で(やっぱり中指で)影を付けたりするのです。

ご存じない方のために説明すると、お絵かきツールとは全く下書きなしで描くと、菅野大尉シリーズなどのように、字ですら可哀そうな人が書いたみたいになってしまうくらい思う通りにならないものです。
写真をまず大まかに線だけでスケッチし、それをスキャナでクロップしたものに「彩色」するという形でもう一度上から線を描いたり、彩色、白抜きしたりして仕上げています。

うちにはマックもあるので、何も中指の技能の限界に挑戦するようなこんなやり方でなくても、そちらでバンブーというパッドでペンを使って描くこともできるんですが、今回も何となく中指で描いてしまいました。

この方法でも、今日のような小さい人物の顔などは大変な苦労です。
非常に粒子が粗いので、少し手元が狂うと全く違う眼や鼻になってしまいます。
今日画像の顔も描いては薄消しで削り、の繰り返し。

この世界を究めて「お絵かきツールアーティスト」を目指そうかな。



そんなごたくはいいからこの二人の男前の説明プリーズ、という声が聞こえてきたので本題に入ります。

それにしても、ほれぼれしませんか?
当時流行の最先端だったタック入りウェストのだぶだぶズボン、裾はダブル。
粋にかぶったソフト帽、ぴかぴかに磨き上げられた靴は二色使いのサドルシューズにオックスフォードでしょうか。

何と言ってもポケットに手を入れた彼らの立ち姿。
まるでスーツの広告のモデルのようにきまっています。
この瀟洒な紳士が揃って「海軍中尉」だなんて、なんだかかっこよすぎて映画みたいですね。

左人物は二○四空飛行隊長、宮野善治郎大尉、右は台南空分隊長、若尾晃大尉の、いずれも大分空に赴任していた中尉時代です。
周りの背景から、別府のレス(料亭)の庭で撮られたことがわかります。



さて、海軍士官は任官した途端、軍服も私服も自前であつらえなくてはいけません。
軍服については海軍御用達のテイラーにオーダーしたのだと思いますが、プレーンと言われる背広一式についても、こと身なりにやかましい海軍はいろいろと「お達示」をしたもののようです。

お達示といえば、海軍では軍装で外出する際には行き先や行動などに厳しい制限が付けられました。安い居酒屋や怪しげな待合などはもってのほか、八百屋や魚屋などの買い物もダメ、酷いのは「みっともないから軍服で傘をさすな」・・・

軍服では傘をささず、たとえ急に雨が降ってきても走ってはならない、という傾向は日本に限らず世界基準での軍人の規範でした。
確かに傘をさしたり、頭に新聞をかざして走る軍人の姿は想像できません。
雨のときに許されるのは「雨用マント」
このようなものも、一式自費で揃えなくてはいけないのですから、大変です。

さらに洋服は英国製生地で仕立てさせろの、必ず帽子をかぶれの、裕福な家の子弟ならいざ知らず、農家や漁師はもちろん、普通の家庭の子弟にとってもさぞ違和感のある世界だったことと思います。

「海軍の食事マナー」の日にお話しした「礼法集成」には「端正典雅なるのみならず、努めて質素を旨とし」「香水、ポマードなどはこれを用いざるを可とす」と述べてあるにすぎません。
しかし実際は質素より「スマート」がモットーとされた海軍ですから、香水もポマードも、特別仕立ての背広を着てダンスホールに毎夜繰り出したモダンボーイ士官などには必需品だったでしょう。
流行について礼法集成は「分に応じ俗に従い」と、適度に取り入れるようにとのお達しです。



高木肇氏の「非情の空」には中尉の実家への手紙が紹介されていますが、その中に背広生地をマニラから川真田中尉に頼んで送ったという記述があります。

「合いの方は自分のつもりで、冬のは父上のつもりで買ったのですが、色合いなど具合が悪いようでしたら如何様にお取計い下さるとも結構です 特に私は別段いらないのですから」

それを買求めたときにはなかった「ある覚悟」がラバウルに転戦するときには芽生えていたということでしょうか。
「別段いらない」の言葉に隠された真意を思うと胸が塞がれる思いです。

そして送られた背広生地を家族はどうしたのでしょうか。
言葉通りそれを着ることはなかった笹井中尉ですが、裕福な都会っ子だった中尉のこと、飛行学生時代はこの二人のように上から下までキメて上陸したのでしょう。



鈴木實中佐は麻仕立てのりゅうとした白い背広にブルーと思しきカラーシャツに合わせた写真を残しています。
そのポーズもポケットに手を入れて少し崩した雰囲気がこれも伊達男風。
何故か海軍さんは背広で写真を撮るとき必ずと言っていいほどポケットに手を入れます。
軍服でそれは許されませんからここぞとばかりとるポーズなのでしょうか。


この鈴木中佐の他の写真を見ると、ソフトをあみだに被ったコート姿や、白シャツ(防暑服でしょうか)の計算された着崩し方といい、軍装でさえきっちり着ているのにどこか抜け感のあるたたずまいといい、天性のセンスとしか言いようのない着こなしのリズム感の良さを感じます。

しかしどんな格好をしていても、ぴんと張り詰めたようなまなざしの強さに、軍人としての精神の緊張と矜持が垣間見えるようです。


宮野大尉と若尾大尉のプレーン姿が粋でありながらそれだけで終わらず緊張感すら湛えた凛々しさを備えているのも、彼らがただの洒落者ではなくその瀟洒な仕立ての背広の内に海軍軍人としての闘志や理想、使命感などの志を秘めていたからに違いありません。






江田島教育 豊田穣著 新人物往来社
非情の空 高木肇著 光人社
画像参考:祖父たちの零戦 神立尚紀著 講談社














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2010-09-26 | つれづれなるままに



「美の仕分け」の日に、ソールの赤いエナメルのパンプスをアップしましたが、
今日画像のと同じ、クリスチャン・ルブタンのものです。

この、赤いソールのパンプス、街で見かけたことのある方は、
赤がアイ・キャッチャーとなって
目がそこに行ってしまうように思われませんでしたか?

ルブタン特有の(最近マネブランドもあるようですが)このレッドソール、
「フォロー・ミー シューズ」と言います。
蠱惑的な女性が、ちらりと振り返りながら「ついてきて・・」
と囁くような、というイメージのネーミングだそうです。


今日のルブタン、ヒールは軽く12センチはあるでしょう。
おまけに甲にかかる部分はやく2センチ、指の半分は見えている状態。
こんな靴で歩けるのかって?
そもそも、この豹柄のパンプスを履くような場所があるのかって?

ご安心ください。
一度も履いたことはございません。

履きもしない、というか、履けもしない靴を何故持っているのか、
という説明は後にして、この、ハイヒール、というもの、
わざわざ少しのスタイルアップのために、この纏足のようなものを
女性というものはどうしてあえて履くのでしょうか。



このルブタンと、セレブリティ着用率の高さでは双壁と言われる
「マノロ・ブラニク」というブランドがあります。
セレブリティは(わたしは『セレブ』という言葉が大っ嫌いなんだぜ)
この靴を「顔で笑いながら瀕死の思いで我慢して履く」と言われます。

マノロ13足、ルブタン6足。
売るほどとは言いませんがそれなりの数持っているわたしに言わせると、
全く、とんでもない履き心地です。
どれもこれも、

「走るときはダメ」
「電車に乗るときはダメ」
「長い間立っているときもダメ」


じゃあいつ履くんだ?
運転手つきのリムジンでパーティに行ってすぐ帰ってくるときか?
雑誌のグラビア撮影のときか?
という代物です。


そして、特にこの豹柄ルブタンを、履けもしないのに、何故持っているか?
については・・・。
う~ん。何故だろう。
強いて言えば「女でいるためのお守り」かなあ。
多分今後も履くことは無いような気がします。



忘れられない話を。
大戦の頃、女性スパイを尋問するとき、わざわざ靴を脱がせて
はだしで男性の前を歩かせ精神的屈辱を与える、
ということがあった、というのを聞いたことがあります。

アメリカでは今空港のセキュリティチェックで、
総員靴を脱いで裸足でゲートをくぐらなくてはいけません。
ゴム草履がファッションである大半のアメリカ人には
痛くもかゆくもないのでしょうが、少なくとも何十年前のヨーロッパでは
寝室でしか脱がない靴を脱いで足を男性の目にさらすということで、
特に女性のプライドはずたずたになったもののようです。

今のところあそこで靴を脱がせる国はアメリカだけのような気がします。

ヨーロッパ人がアメリカ人を馬鹿にする原因の一つに
こういうところがあるように思えるのですが、どうなんでしょうね。


某ファッション評論家いわく
「ヒールの高さは『女度の高さ』に比例する」

そうかな?という気もちらっとしないでもないのですが、
男性でありながら女度の錬成に命を賭けている風の
某有名メイクアップアーティストなどは
「10センチ以下はローヒール」と言っていますね。
彼にとってはこれも、分かりやすく「女」でいるための
一つの修行なのかもしれません。


まことに、ファッションとは、お洒落とは、
愚か者の行為であることよなあ、と嘆息せずにいられません。

真冬にギリシャ神話風薄着のドレスを着て
肺炎になった帝政ナポレオン時代の女性。
コルセットを着用し続けて圧迫によるうっ血で
内臓を無茶苦茶に傷めたヨーロッパやアメリカの女性。
はては30センチの長さになるまで首にリングをはめ続けるアフリカの女性に、
足の骨を砕いて包帯を巻き10センチの纏足を作る中国の女性。
お洒落のために身を削る例は古今東西どこにでも見られます。

彼女らすべて
「今綺麗でいられたら命が短くなっても構わないわ!」
という心意気だったのだと思います。

「お洒落のために我慢なんか絶対しない!
ハイヒールでよたよた歩くなんて馬鹿馬鹿しい!」
と言えるあなた、エリス中尉はあなたを心の底から羨ましく思います。

でも、自分がそうなろうとは多分一生思わないだろうとも。

履き心地のよいぺたんこの靴でいつもすたすた歩くだけの人生では、
何か女として大切なものの一つを置き去りにしそうではないですか。
さらに、一歩歩くのもふらつくハイヒールを我慢して、
しかし涼しい顔でエレガントに歩く瞬間も時々はなければ、
女として産まれてきた甲斐がないと思います。

もちろん、命を縮めるまで頑張る必要はありませんが。






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現代版「椿姫」

2010-09-24 | 音楽
オペラは高尚なもの、と思っている方、それは間違いです。

たしかに、それを表現するためには特殊な能力を持ち気の遠くなるほどの努力を重ねた芸術家が必要なわけですが、内容は、そのへんのドラマ、下手するとみ○もんたの思いっきりな電話相談コーナーと変わらなかったりします。

オペラが敷居の高いものと思っていたTOを一度モーツァルトの「フィガロの結婚」に連れていったことがあります。

兵隊に行かされる少年(女性歌手が演じる)に慰め半分からかい半分で歌われる「もう飛ぶまいぞこの蝶々」では
「羽飾りのイケてる帽子も、ロン毛も、もう許されないぞ!」と訳され、おまけに興味半分で少年と戯れた少女のアリアでは「○○喪失しちゃったわ」と(○○もそのまま)字幕に出たので、大いに驚いていました。

もともと中世の領主の「初夜権」が話題になっているオペラですからね。


これに限らず、オペラのストーリーの俗なことと言ったら、大抵のオペラが現代の色恋沙汰にシチュエーションを置き換えるだけであとは全く同じ、というくらいです。
三角関係。不倫。
愛憎のもつれによる殺人。
結ばれない運命に絶望して心中。
力で女性をものにしようとする権力者。


因みに、先日の「椿姫」を今風にアレンジしてみます。


菫(すみれ)は銀座のホステス。
バー「つばき」のママをしています。
お店はパトロンに出してもらったものですが、彼女はつまり雇われママ。
もともとホステスで、その美貌から有力な男性を渡り歩いていた彼女が今愛人として出資を受けている男性も、企業のオーナーです。

上司のお供で店に来て彼女に一目ぼれした大企業重役の息子有人(ゆうと)は彼女に言いより、菫もほだされて同棲するようになりますが、彼女はいつしか有人を真剣に愛するようになっていました。
ある日、有人の父親、譲治が菫のもとを訪れ、有人の妹の縁談に差し支えるから別れてくれと切り出します。

最初こそ蔑みの目で菫を見ていた譲治ですが、話をするうち彼女の真摯な思いにふれ、心から気の毒に思います。
父親の思いを汲んだ菫は身を引くことを決意。
黙って有人のもとを去ります。

驚きショックを受けた有人は、菫の店に乗り込みます。
菫は、やはりパトロンを愛していると有人に苦しい嘘をつきます。
怒りに我を忘れた有人は、そこにいたパトロンにポーカーを挑み、勝ち金を菫の顔に叩きつけますが、何故か接待でそこに現れた譲治にたしなめられます。

菫は実はがんに侵されていたのでした。

何ヶ月かして、それを有人が噂で聴きつけます。
父親に彼女のことを聴かされ、本当のことを知った彼女の元を訪れたときにはもうがんは体中に転移してたのです。


菫は「有人さんが帰ってきたのだから、先生、もう少し生きさせて」と主治医に頼みますが、実は彼女の臨終は迫っていました。
父親の譲治も「今度は娘として抱きしめにきたよ」と慰めます。

菫は自分の写真を有人に渡し、
「あなたが誰か別の人と結婚するときには、この写真を彼女にみせてね。
そして、『ぼくたちのために祈ってくれているひとだ』って言って」
と頼むのです。

彼らの見守る中、いまわの際の菫は「生きられるわ。ほら、私はこんなに元気よ」
とベッドから飛び起き、ろうそくが消える直前ひときわ明るく燃えるように、病室を飛び出して廊下を走りだします。

再び有人の胸に抱かれたとき、菫は息を引き取っていました。





前回書きましたが、このオペラの原題は「道を誤った女」といいます。
「椿姫」の「椿」とは、ヴィオレッタ(菫)がアルフレード(有人)の求愛を受け入れるとき、白いツバキの花を彼に渡して
「何故これを?」
「しおれたら返しに来てもらうため」と、会いに来る口実を作ってやることから来ています。

菫は、父親の頼みを受け入れ、身を引くとき、自分の過去を悔い
「道を誤った女には、もう真実の愛を受ける資格はないのでしょうか」
と、後悔するのです。



さて、この話ですが、菫の店で有人がみんなに責められてから、月日がたち、菫が危篤になるころどうして有人が本当のことを知ったのだと思いませんか?
特に、父親の譲治が息子と菫を別れさせておいてどうしてそれを許すようになったのかが、今一つよくわかりません。


もしかしたら、彼女が不治の病で助からないから、安心して再会を許したのでは?
最後くらい夢を見させて送り出してやりたい、というか、このまま死なれちゃ後味悪いからと考えた、というのはあまりに意地の悪い考えでしょうか。


だって、生きていたとしても、たぶん結婚、許しませんよね?










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ねずみ上陸

2010-09-23 | 海軍
海軍で勤務が終わり町に繰り出すことを「上陸」といいます。
これは、例えば飛行機乗りで地続きの繁華街に行くときでもそう言ったわけですが、当然のことながら元々は艦船勤務の乗組員が「陸に上がる」ことからきています。

搭乗員がレスに繰り出すといったたぐいの「上陸」と違い、船乗りの上陸への憧れはは切実なものでした。
そりゃそうでしょう、狭くて揺れる艦内にむさくるしい野郎ばかり、寝るのはハンモックに、水が少ないためろくに入浴もできない。
一日千秋の思いでその日を待ち焦がれたものでしょう。

突然ですが、かわぐちかいじの「ジパング」をご存知ですか?
日本の最新鋭護衛艦がタイムスリップによって一九四二年の太平洋に迷い込んでしまい、大東亜戦争に参加し歴史の流れを変えてしまう、という空想戦記マンガです。

これ、大きな流れはともかく、細部的には突っ込みどころ満載のマンガなのですが、エリス中尉が一番気になったのがこの点なんですね。

迷い込んでしばらく、乗員はどこにも寄港することなく、かなり長い間海上をさ迷いますが、いかに最新鋭護衛艦でもそんな長く食べ物や燃料、水や自動販売機のジュース(お金を入れてジュースを買うシーンあり)も補給なしでいけるのか?
さらに、総員がこのように長くどこにも上陸しないで大丈夫なのか?

という・・・。


まあ、その話はともかく、海軍では上陸を例えば懲罰によって差し止めしたり、報償として増やしたりしました。
軍楽兵の楽器適性の記事の日に、音が出ないので上陸止めはしばしば、という人を紹介しましたが、それを決定するのは甲板士官や先任伍長という上官。

こっそり魚釣りをしたとか、時間に遅れたことなどに対してその程度に応じて「上陸止め何回」などと言い渡されたそうです。
連帯責任で一人の不始末のため班全員が上陸止めになったりした日には、その一人に対して皆のよせる怨嗟の声はマジで物凄いものだったと思われます。

さて、今日の話題ですが、報償として増やしてもらえる制度になんと「ねずみ上陸」というものがあったというのです。

どこから忍び込むのでしょう、艦船の中にもねずみはいました。
ねずみ撲滅の奨励策として、兵員がねずみを捕まえて先任伍長にみせると、一匹につき一回の上陸を許されるというのが「ねずみ上陸」と呼ばれていました。
嘘のようですが、というか、この名前だけで笑えるんですが。
しかし、一匹につき一回。
なかなかのグッド・ディールです。
みんなのいるところにねずみがあらわれたりしたら、みんなで俺が俺がと追いかけまわすの図が展開したのでしょうか。


さて、そうなってくると、どこの世界にも当然のことながらズルをしようという奴が出てくるわけで(^_^;)
海軍さんといえども例外ではありません。



どこからか生まれてまもない子ネズミを見つけてきて、巣ごとチェストに持ち込み、自分の食べ物の残りで大切に飼育し、かなり成長させたところで一匹おもむろに伍長に持っていったところ

あまりに綺麗で毛つやが良すぎ、ばれてしまいました。

可哀そうのなのは、逆に子ネズミの数だけ上陸止めになってしまったということで、いやー、ねずみ算で増えた子ネズミ、いったい何匹分だったのでしょうか。


また別の兵ですが、ねずみはねずみ、陸のネズミでも海のネズミでも上陸できればいいねずみと、毛沢東のようなことを考え(ちょっと違うかな)ねずみ取り機で借家の裏通りの側溝に仕掛け、ボスネズミと見られる大物を一匹捕え、苦心して艦内に持ちこみました。

意気揚々と伍長に差し出したのですが、今度は反対にあまりにもそのネズミが汚れていて、いかにもゴロツキねずみ然としており、そもそも狭い艦内で捕えられたにしては

あまりに巨大だったため、怪しんだ伍長に問い詰められ、ばれてしまいました。

報償をもらうつもりが、上官をたばかる軍人にあるまじき態度がはなはだけしくりからんということで、このたびは上陸止め二回の刑に処せられました。


古来より日本では猫は船の守り神といわれ、特にオスの三毛猫は珍重されて長い航海に連れていかれました。
守り神でもあったのでしょうが、主な目的は船内でねずみを取らせるためだったのでしょうね。
「主計大尉 小泉信吉」の手紙にも、艦内で軍医が猫を飼っていたという記述があります。
ねずみ上陸がすべてのフネ対象の制度だったかどうかはわかりません。

猫を持ちこんでいない艦だけのものだったのではないでしょうか。



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NHKホール、9月19日のブーイング

2010-09-22 | 音楽
先日「オペラ座の宰相」というタイトルで、前フリをしましたが、この日、この秋初めてのオペラに行ってまいりました。
NHKホール、英国ロイヤルオペラ引っ越し公演によるヴェルディ作曲「椿姫」。

入口には大入り満席御礼札。
相撲ばかりでなく、オペラやコンサートでも、これをやるんですよ。
演目のポピュラーさに加えて、この日の主役ヴィオレッタ役のアンジェラ・ゲオルギューが今や脂の乗り切った当代一のプリマとされているからで、彼女は実力とともにその美貌でもナンバーワンと言われているのです。
開演前、期待の高まる瞬間。


ところが、この直後出てきたのは指揮者ではなく劇場支配人。
アンジェラ・ゲオルギューが来日できず、代役のYさん(仮名)になったことを謝るためでした。
「歌手急病につき本日の何々役は代役」
というもの、オペラに行けば必ずと言っていいほど見る看板で、理由が必ず「急病」というのも、まあ、実はどうしようもない理由だったとしてもそう言えば誰も文句は言うまい、という主催者の意図が見えます。
そうはいっても大抵の場合は代役になったとしてもそれが何か?というレベルなので、問題が起きたというのを見たことはありません。

しかし、この日のゲオルギューはこの公演の「目玉」だったし、彼女を聴きたくて来た客はかなり多かったのではないかと思います。
大入り札の横に実は「ゲオルギュー休演」の張り紙があり、皆かなりテンションが下がっていたと思うのですが、支配人はいつもなら張り紙ですましてしまうこの代役措置について舞台で謝るという方法で聴衆をなだめにでました。

なんでも、彼女の娘が難病で、ロンドンでの手術を受けたのですが予後がよくなく、ブダペストで再手術を受けることになったというのが休演の理由。

そのとき支配人の説明によると、代役のYさん(仮名)は、5月にも誰やらの代役を務め、絶賛された(から今回も大丈夫)ということ。

この説明に一抹のいやな予感を感じたのはエリス中尉だけだったでしょうか。
だって、そうでしょう?
彼女はつまり野球で言うところの代打専門。
レギュラーメンバーには、しかししてもらっていないわけですから。
これだけの大役に最初から抜擢されるほどの実力はないということです。

そして代打のYさん(仮名)でラ・トラヴィアータ(原題『道を誤った女』)は始まりました。
容姿はなかなかのYさん(仮名)、舞台には映えます。
しかし、たちどころにいやな予感は的中。
音程がジャストミートしないブレブレの高音、聴いていていっこうに気持ちよさのない伸びのなさ。

ゲオルギューでなかったということでどうしても意地悪な耳?で聴いてしまうのかしら、と好意的になろうとしながら聴いていたのですが、一幕の終わり、有名なアリア「花から花へ」で決定的な事件が起こりました。
歌手にとっては難関ともいえるラストのハイトーンでめまぐるしく上下降する音階部分の音がすっぽ抜けてしまったのです。

いろいろオペラを聴いてきましたが、これほどわかりやすいミスを主役歌手がしたのを初めて聴きました。
思わず心臓がどきんとしたくらいです。

そのアリアで一幕が終わるのですが、アリアの後にとても拍手する気になれず、私は憮然としてしまいました。
ところが、あまり分かっていない観客もいたのか、それとも上手くいかなかったと明らかに分かっていても一応儀礼だからか、拍手する人はいたのですね。

「ヨーロッパなら、これブーイング起きるだろうなあ」

そう思いつつ休憩後の第二幕。
先ほどの劇場支配人、また出てきます。
いわく
「一幕最後のアリアを聴いてお気づきかと思いますが、代役のYさん(仮名)は日本に来てから起こったアレルギー性の病気でこれ以上歌えないと指揮者が判断しました」


とたんに起きる激しいブーイング。

(何度も言いますが)これまで何度となくオペラを聴いてきましたが、会場でブーイングが起こったのを初めて聴きました。
いや、あんたたち、さっきのすっぽ抜けアリアに一応拍手してたじゃないよ、と思う位の激しいブーイングでした。
このオペラのチケットはS席4万9千円。
その金額と元々の期待を考えると彼らの怒りも分からないではありません。

「しかしご安心ください。我々には、さらにその代役、アイリーン・ペレスがいます」

とたんにブーイングは爆笑に。
こういった公演には、ピンチヒッターを何重にも用意しているとは聞いたことがあります。
主役が急病で倒れた、風邪を引いたなど、少しの体調が出来に大きく影響する歌手には、特に何重にもこうやって保険をかけているのです。
しかし、代打歌手にとってもそれはビッグチャンス。

代役で主役をしのぐほど出来がよければ、それは「彗星のようなデビュー」と絶賛され、将来の栄光へのステップとなり得るからです。
現に、ゲオルギューのデビューもある歌手の代役を務めて成功したことからだったそうです。


「今彼女は大急ぎで着替えをしております」


この言葉に再びなごむ聴衆。
なんというか、日本の聴衆は優しいなあ、と思った瞬間です。
甘い、とも言うか。
まあ、こうなったら仕方ないから誰でもいい、お手並み拝見しよう、という空気が会場を流れました。

そして、代役のYさん以上に意地悪い目で迎えられるという逆境の中で、第三のヴィオレッタ、アイリーン・ペレスは登場しました。


失礼ながらゲオルギューほどの美貌ではなく、色の浅黒い小柄なヒスパニック系のアメリカ人である彼女は、しかし、健気にも繊細な歌唱と、意外な演技力で頑張りを見せます。


この「椿姫」は、高級娼婦であるヒロインが最後結核で死んで行くのですが、結核で死にそうな病人が朗々と歌い上げすぎるのはいかなものか、というオペラそのものの大きな矛盾に対し、消え入るようで実は計算されたピアニッシモの声でそれを解決し、さらにここぞというときには小さな体から驚くほどのフォルテを繰り出します。

瀕死の状態のはずなのに「生きられる気がする」とベッドを抜けて部屋を駆けまわり、次の瞬間恋人の腕に帰ってきたときには息絶えていた、という最後を演じる頃には、みんなはすっかり彼女が好きになっていた・・・と思います。

終わってからのカーテンコールは、これまでにないほど暖かいもので、何度も何度も呼び出されている彼女が、観客からだけでなくオーケストラピットの団員からの拍手を認めたとき、感極まって涙ぐむのを、私はオペラグラス越しに見ていました。

しかし、「彼女は第二のゲオルギューになれるか?」

という質問には・・・・・。

たぶんNО、かな。
人が悪い答ですが。










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SAMURAI!~西澤廣義との再会 後編

2010-09-21 | 海軍


中編の日にいただいたコメント欄を読んでいただければわかりますが、なんと、羽鳥の正しい読み方は「はとり」ではなく「うとう」なのだそうです。
(Kさん、階級の間違いについてもご指摘ありがとうございました)

これって・・・・・・

だって、もしフレッド・サイトウがインタビューして坂井さんの口から「ウトウ」って聴いたのなら、間違えるはずはないじゃないですか。
まさか、サイトウ氏が「羽鳥」と書いたのをマーチン・ケイデンが「ハトリ」と読み間違えた、ということはありえませんよね。

コメントを下さった方によると、「印刷か編集の段階で」ハトリになったということですが、つまり、フレッドは坂井さんから「ウトウ」と自分の列機の名を聞いたのではなく
「そのときの列機」を、台南空のメンバー表か何か(漢字ふりがな無しの)に求めた、ってことになりますよね。

このインタビューは、まさに「あらすじだけ」で、細かいところはその時点で見ることのできた資料とつきあわされて書かれた、ということですか?

「当てにならないことばかりだが、坂井さんの口から聞いたはずだから、たぶんこれははとり」
と、鬼の首を取ったように予想してしまったんですが、これすら正しくなかったとは・・・。
  orz ←昨日もこのマーク使ったような

というわけで、はからずもSAMURAI!創作度の予想以上の高さを実証してしまう結果になりましたが、気を取り直して後編まいります。



<前回までのあらすじ>

日本で再会した坂井と西澤。
お互いの無事を喜び合う二人だったが、西澤の口から笹井中尉、太田敏夫、羽鳥と米川らラバウルの戦友の死を聴かされ、ショックを受ける坂井。

一方、時系列が混乱した作品のせいで、これからラバウルに再進出するはずだというのに明日にはフィリピンに行かされそうな西澤(笑)

さて、二人の運命は・・・?!

私は茫然とした。
西澤は私の言葉を待って沈黙している。
そんなことが起こりうるのか?どうやって彼らが全員死んでしまうというんだ?
四人の私の戦友たち。
彼らは私が横須賀海軍病院でなすすべもなく横たわっている間に殺されてしまった。
そのとき私は何故彼らの戦死を今まで知らされなかったのかを知った。
西澤や中島司令は私の目の手術が行われるときにそれを私に報せるにしのびなかったのだ。

彼らの顔が私の脳裏をよぎる。
モレスビー上空で宙返りをしたときコクピットから笑いかけた太田。
空戦中いつも私の機の尾翼にぴったりとついて、いつも私の機を見守り撃墜から守ってくれた米川と羽鳥。
笹井中尉、かれも・・・・彼らは・・・死んだのだ。

私は声を出してすすり泣いた。恥も外聞もなく、子供のように。
それを止めることもできなかった。私の躰はどうしようもなく打ちのめされた。



ここで注目すべきは列機に対する坂井の言葉です。

ガダル上空で負傷したとき、坂井はサザーランドに追いかけられている米川、羽鳥(うとう)を掃射によって助け、そのあとサザーランドをドッグファイトに持ちこむわけですが、その両者に対し
"always alert to protect me, to keep from being killed."
という表現をしています。

「尊敬する軍人スレ 君の尊敬する日本軍人を理由付きであげよ」
というインターネットのスレッドで
「坂井三郎 僚機喪失ゼロの偉業はすごい」
というものがあれば
「坂井三郎は自分を守ってくれた偉大な列機に感謝すべき」
というコメントも付いていました。

私も「俺の愛する列機来い」の日に、「列機に守られたという一面もあるのでは」と書きましたが、ここでの坂井さんは自分が守られたことだけを列機に感謝しています。

作者のマーティン・ケイデンは航空記者出身の作家で、戦闘隊における列機と隊長機の関係と言うものを熟知しているはずですから、もしかしたら坂井さんがインタビューで言わなかったことも想像で付けくわえたのかもしれません。

いや、今となっては確実にそうだと思います。

しかし―これは私見ですが、このころの坂井さんには自分を唯一無二の最強撃墜王などという意識はなかったのではないでしょうか。
自分で言ったことではないにしろ、やはりここに書かれているように自分の命あるのも列機のおかげだと思っていたのではないでしょうか。
「僚機喪失ゼロ」は結果であって、それを当初謳い文句にしたのは、本人ではなく「撃墜王」などといって元搭乗員に冠を被せたがる世間ではなかったでしょうか。

そして後年、世間と噂と時代の波の中で、実際坂井さんがどのように思っていたかはいつのまにか彼方に押しやられてしまったという一面もあるのでは、そして坂井さんもいつのまにかその「撃墜王坂井三郎」に自分を押しこめるようになりきるしかなかったのでは、と・・・・。


大変失礼な言い方になるかもしれませんが、坂井さんこそあの戦争にその一生を戦後も蹂躙され続けた犠牲者だったように思えます。



さて、目の前で坂井が泣くのを見た西澤、動転してとんでもないことを言い出します。

西澤は私の手をつかみ、やめてくれと言った。
「三郎、お願いだ!」かれは哀願した。
「頼むから泣かんでくれ!」
私はかれを見上げた。

「俺は呪われてるんだ!」わたしはかれの言葉に息を詰まらせた。
「俺は笹井中尉や太田がやられるのを見ていない!
彼らがいなくなったことすら知らなかったんだ。
戦友なのに!
三郎、俺たちの親友たちなのに、俺は彼らがやられるのに何もできなかった!
俺は悪魔の私生児に違いない」
かれは憤怒をあらわにした。
「かれらが死んでいく間敵機は俺の周りを飛んでただけだ!」


「悪魔の私生児」はないだろう、と思いましたが、あえてこの英語版の感じを出すためにそのまま訳しました。

それにしても西澤さん・・・。
そこまで責任感を感じなくても。
というのは、前回も言ったように、彼らが戦死したとき、あなた一緒に出撃してないんですから・・・。(爆)

笹井中尉(8月26日)羽鳥二飛曹(9月13日)戦死の頃、西澤廣義はなんとマラリアで伏せっていました。
復帰し、ようやく行動調書に西澤廣義の名前が見えるのが9月27日以降。
(因みに台南空行動調書には西澤ではなく、西沢と書かれています。本当はどちらだったのでしょうか)
しかし、太田敏夫戦死の10月21日は出撃せず。
米川二飛曹に至っては、戦死ではなく盲腸炎での病死です。

ちなみに10月21日の台南空行動調書には太田敏夫飛曹長(最終)の欄には「グラマンfc1機撃墜 行方不明」とだけ記されています。
士官パイロットである隊長機の大野竹好中尉はそれを目撃しなかったということで、おそらく太田飛曹長の戦死認定はかなり遅れたものと思われます。

なお、このときに「行方不明」であり未確認であった太田敏夫については、戦後アメリカ側の資料から撃墜した人物の名前も明らかになっているそうです。

しかし、笹井醇一中尉を撃墜したというカール准将もそうですが、その名前を明らかにすることについては、果たしていかがなものかと思います。

戦争という状況の中で誰が誰を撃墜したということを明らかにするのが果たして「史実の確保」という大義名分を以てしても必要なことなのか・・・・。
陸戦で「誰それは何々兵曹に射殺された」と語り伝えることがはたして歴史なのか、と考えてみると自ずと答は出るように思うのですが。




話がそれました。
小説(でいいですね?)に戻ります。
西澤が、ことが起こったとき一緒にいなかったという意味で「守れなかった」というのは間違いではありませんが、それにしても、当時毎日のように戦友が亡くなっていく当時の戦況の中でこんなに戦友の戦死に逆上するというのも何か違和感があります。
あちこちで見る当時の搭乗員気質によると、彼らは戦友の死についても、自分自身の生死についてさえ恬淡としてまた無関心を装っていたもののようです。

坂井さんが笹井中尉の死に号泣した、というのは事実でしょうが、少なくとも西澤飛曹長(当時)はここまで取りみださなかったことは確かで、ここでの表現は平和な時代の価値観で書かれたものならではです。
さて、この章は次のように締めくくられます。

かれはもう一度腰を下ろした。
「いや、違う。それは違う。俺にできることなんてなかったんだ。
敵の飛行機がただ多すぎたんだ。そう、多すぎただけなんだ」
かれの声は消えいるようだった。

我々は長い間、お互いを見つめながら黙って座っていた。

それ以上何を言うことがあっただろう?

 


何と感動的な終わり方でしょうか。
エリス中尉思わず翻訳しながら涙ぐんでしまいました。

冒頭画像は二人が豊橋で再会した時の有名な写真です。
西澤はダンディに微笑んでおり、少なくともここに描かれたような愁嘆場などなかったことが見ただけでわかります。

しかし、坂井さんはこころなしか厳しい表情です。
あらかじめ知っていたとはいえ、西澤廣義から笹井中尉や戦友の最後についてさらに詳しいことを聞かされた後の表情ではなかったでしょうか。






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FUSHIGI BALL とは?

2010-09-20 | アメリカ
この夏アメリカにいたときのこと。
うちでは観られないテレビがいつでも見られるので、息子は大喜び。
さっそく好きな番組をセットして(何しろチャンネルが100くらいありますから)かじりついていたのですが、ボストン到着当初からしょっちゅう流れる、

FUSHIGI!

というボールのコマーシャルに目が釘付け。

このように、このボールをジャグリングしている映像と、どこかの公園でこのボールを持って「アメイジング!」「イットメイクスミーファン!」なんて言っているアメリカ善男善女が交互に映り、フシーギ!フシーギ!と連呼しています。


アメリカメディアにおける日本と言う国の扱いに関しては、またいつかお話ししようと思っていますが、いまだに「ニンジャ」「ブシドー」「ゼン」からある意味一歩も出ていないと言ってよく、ドラマなんぞを見ていても「ひょりろり~♪」と尺八が鳴ったら、なんか仙人のようなおっさんがでてきて、主人公に啓示を与える、みたいなステロタイプばかりなのですが、この商品名も「不思議」。アメリカ人の考えるところの神秘的な、ってイメージですか。

映像を見ると、いかにも重力から解き放たれたように宙に浮いて見えるんですねこのボールが。
手と手の間をまるでするすると浮いているように移動する。
うーん、確かに不思議だ。


この画像を子細に見て
ちょっと待て。これって実はただの・・・
と思った方。

少し黙っていてくださいね。

さて、このフシギボール、もう息子は欲しくてたまりません。
「これ、次の公文(問題集)のプライズにする!」

勉強の嫌いな息子を持つ親は苦労します。
公文問題集を10日分やったらちょっとしたご褒美でカードやコマなどを買ってやることになっているのですが、そのプライズにフシギボールが欲しいと言い出しました。

アメリカにいるときにアマゾンで宅配を頼むことがあるのですが、滞在中に受け取らないといけないので頼んでもいつ配送になるかわからないようなものはできるだけ着いてすぐ手配しています。
息子がそれを言い出した時には帰国まで一か月ありました。

「いいよ。ネットで頼んであげる」

配送先を借りているアパートの管理会社にしておけば、留守中に部屋に放り込んでおいてくれます。

「三日で配送だって」
「やった!」
「でもまだプライズまで(公文)できてないよ。今からやって」
「は~い」

という、ドラマのようなほのぼのとしたやり取りの後、息子、毎日のように
「フシギ来たかな」
「今日は来たかな」
「いつかな」
と、首を長くして待ち続けました。

しかし、待てど暮らせど、フシギ、きません。
「不思議だね~」
と、お約束のシャレを言い出したころには帰国まであと一週間。
メーカーに電話をしてみました。
繋がりません。
メールしてみました。
曰く
「大変好評で、今配送が滞っています。もう少しお待ちください」

そして得意げな
「フシギボール発送しました!」
と言うメールを受け取ったのは、ロスアンジェルスに向かう空港のラウンジにいるとき。

「どーする?」
「うーん、もうあきらめるか」

アパート管理会社はここ数年の付き合いなので、送ってくれといえば日本まで送ってくれるかもしれませんが、配送代まで持ってくれるかどうか?

そこで、LA在住の友人に相談。
業者から受取人払いで彼女の家に送ってもらい、来年また会う時にでももらいましょう、息子と同年代の女の子がいるので、一年間遊んでもらってよし、ということに決定。

ところが、その女の子もテレビで見て「フシギほしい」と言いだしたらしいのです。
ちょうどよかったじゃないか、と思いきや、何を思ったのかその友人、うちのフシギが届くまで待ち切れず、
別に注文したというのです。
そして、うちに開包せずにそのまま国際便で送ってくれるとのこと。
「うーん、やっぱり、あのCF見ていたら欲しくなるよね」
と言いつつ、待っていました。

そして、ある日届いた国際小包。



これって、もしかして。
ええい、皆まで言うな。

ただのボールでした
(T_T)

種も仕掛けもない、ただのボール。
ただ、御覧のように二重構造になっていて、外のアクリル部分が動いていないように見え、内側の金属部分が微妙にでこぼこしているので
扱い方によっては、見ている人には無重力に見えないこともない
という・・・。
つまり、やってる人間にとっては面白くもなんともない
という・・・。


俺・・・騙された・・・のか? orz


上の小さな画像は、「練習したらこんないろんなジャグリングができますよ」という練習DVD。
このお兄さんは「フシギ・マスター」つまりジャグラーです。
そりゃ上手いわ。あんたは上手い。
おまけにね、中心が金属なもんだから、やたら重い。
説明によると
「落とすと壊れるので、練習はカーペットの上でやってね」

実物を箱から取り出したとたん

息子「・・・・・・・・・」
母「・・・・・・・・・・」

やおら手にとって床にたたきつけようとする母。

「ママっ!やめて!ほら、こんなにしたら浮いてるように見えるよ?
それにさ、キレイだからオブジェみたいに飾れるよ!」

必死で取りなす息子。

それにしても、日本なら「あれインチキ」ってすぐにネットでばらされるんでしょうにね。
何で配送が追いつかないほどの売れ行きになるかな。
そこで二言目にはエリス中尉が思い浮かべるこの言葉。

「アメリカ人って・・・・・ばか?」

LAの知人も・・・。

しかし、ネット注文のとき「今なら安い夜光るフシギ!要りますか?」

YESをクリックしてしまったアメリカ人以上の馬鹿者はわたしです。
暗い所で光ったっておもしろくもなんともないっつーの。



四つあれば、こんなこともできるよ、って?ほほう、それは・・・


って誰が買うかあああっ!







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SAMURAI!~西澤廣義との再会 中編

2010-09-19 | 海軍
さて、マーティン・ケイデン著、SAMURAI!前半いかがでしたでしょうか。
再会するだけでもう大変なことになってしまったサカイとニシザワ、後半ではさらに愁嘆場となってしまいます。

西澤一飛曹は坂井先任に「志望して明日フィリピンに行くことになった」と言うのですが、これも、実際はこの再会から一年後のことです。
教官をしていた時期と言い、これといい、作者はどうやらまるまる一年勘違いしているようですね。
そして「そんなに早く?」と驚く坂井に彼はこう答えます。

「横須賀近辺を飛び回ってるのは性に合わん。俺はまた自分の手で戦いたい。ただアクションあるのみさ。日本でじっとしているなんてまるで生殺しだ」

アメリカでは任地を希望すればその通りになったのでしょうか。
実際は西澤一飛曹の階級で自分がどこへ行きたいなどと表明することすらできなかったでしょう。ここは勿論創作です。
実際は西澤はこの一年後岡嶋清熊大尉のたっての希望でフィリピンに行くことになります。

それを受けて坂井はこう切り出します。

「貴様がうらやましいよ、西澤。
でも、まあ、ラバウルのことでも話していってくれよ。皆がどうしてるか。
笹井中尉はどこにおられる?それから、太田は?一緒じゃないのか?
俺の列機だった米川と羽鳥は?彼らのことを聴きたい」

「何?」
かれは私を凝視した。顔が青ざめ、その目に絶望がよぎった。
「聴いていなかったのか・・・・」
「何を言っているんだ?」
かれは力なく手を振った。
「いったい何があったんだ西澤?一緒に帰ってきたんじゃなかったのか?」

かれはくるりと背中を向けた。その声はしめつけられるようだった。
「三郎、彼らは・・・・・」
かれは手を額に当てた。そしてその手をぐりぐりと回した。

「死んだ」

信じられん・・・・!そんなはずはない!
「何を言っている?」私は叫んだ。
「みんな死んだよ。きさまと俺だけだ、三郎。きさまと俺だけ・・・まだ生きているのは俺たちだけだ」

嘘だ!
頭がこの悲劇を理解しようとする間、私の膝はがっくりと折れ、私はテーブルにもたれかかった。



坂井さんにラバウルの同僚の死を、特に笹井中尉の死を伝えたのは誰だったのでしょうか。
実際は西澤廣義ではないことは事実です。
台南空がラバウルを引き上げ、豊橋で再結成されたときにはもう坂井さんは笹井中尉の死を知っていました。

余談ですが、「坂井ががっかりするから知らせるな」と言って、皆が知らせなかったため、半年間はそれを知らなかった、と「大空のサムライ」にあります。
坂井さんががっかりするから、というより、誰もかれに真実を告げる役目を引き受けたがらなかった、というのが本当のところではなかったかと私は思うのですが・・・。

「笹井中尉が最初だった。
8月26日のガダル哨戒のときだよ。
もうきさまが知っているような感じじゃなかった。三郎。
もうワイルドキャットが何機いたかわからない。
太陽を背に際限なくなだれ込んできたんだ。
編隊をばらばらにされてしまって絶体絶命だった。
ちりぢりになったので誰も笹井機が墜ちたのを見ていないんだ。
怪我をしたか何かで先に帰ったのだろうと思っていたんだが、我々がラバウルに帰っても中尉は帰っていなかった・・・。
そしてそのまま帰ってこなかった」

西澤は弱々しくしくため息をついた。

「それから太田だ。たった一週間あとだよ。
出撃するたびに何機も喰われていった。
ガダルカナル上空は完璧に敵の制圧下にあった。
太田も笹井中尉と一緒だ。誰もかれの機が墜ちるのを見ていない。
ただ、帰ってこなかったんだ」

「それから三日四日して米川と羽鳥がやられた。どちらも同じ日に死んだ。
俺と一緒に帰ってきたのは齊藤司令、中島少佐、生き残った隊員十八人に搭乗員六人。
それだけだ」


前半で書きましたが、この本のためにまず日系二世のフレッド・サイトウが坂井さんにインタビューをしました。

「大空のサムライ」執筆の際は、台南空の行動調書が手掛かりにされたそうですが、最初にサイトウ氏のインタビューを受けたとき、坂井さんは主に記憶をたどっていたと思われ、そのため時系列や事実があいまいになった部分がこの本にはあちこちに見られます。
たとえばこの部分だと、8月26日のガダル哨戒に西澤一飛曹は参加していませんし、太田二飛曹が笹井中尉の一週間後に戦死したということになってしまっています。
(実際は二カ月後)

ただ、この本ではっきりしたことがあります。

羽鳥一志二飛曹の名前です。
羽鳥を何と読むかということについてあちこちの記述では「うとう」「はとう」説があり、なんとなく「うとう」かなと思っていたのですが、意外やこの英語版ではHatoriとなっています。

坂井さんがサイトウ氏に直接受けたインタビューですので、これは間違いようがなく、この本の「はとり」が正しいのではないかと思います。
他にあまり信憑性のないこのSAMURAI!ですが、羽鳥の読み方に関してだけはこれが最終結論かもしれません。

それにしてもドラマティックですね。
まるで映画を見るようです。

まだまだ(!)続きますので、再会編を三編に分けることにしました。


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SAMURAI!~西澤廣義との再会 前編

2010-09-17 | 海軍
昨日の創作童話「大じいちゃんのゼロ戦」、いかがでしたでしょうか。
今ここでお断りするまでもなく、あれはフィクションであり、登場人物、団体は架空のものです。
が、実際に起こったことをベースにしており、私自身もエキストラ出演しております。


これからご紹介しようとしているサブロー・サカイ語り、マーティン・ケイデン作、一部空想戦記小説SAMURAI!における事実と創作の割合とほぼ同じと言えるかもしれません。


画像は本の表紙一部。
真ん中でチャートを持っているのが西澤廣義飛曹長だと妄想しつつ、読んでみましょう。

今日の場面は、坂井三郎がガダル上空で傷つき帰国後、ラバウルから帰ってきた西澤廣義と再会するシーンです。
いつも通りエリス中尉拙訳につき、翻訳的に正確でない部分もあるかもしれませんがご容赦ください。

背の高い痩せた男が煙草をくわえ、ゆっくりとした様子で部屋にいた。そうそう!全く変わっていない。
かれは私を見上げ、大きく口をあけて笑い、叫んだ。
「坂井!」
私は彼の名を呼んだ。
「西澤!」
次の瞬間私たちは言葉にできない幸せに互いの背中を叩きあった。
私はこのよき友を離して見た。
「貴様をよく見せてくれ!」
私は泣いた。
「元気そうだな。怪我もしてないのか?」急いで私は聞いた。
「あるもんか、三郎」嬉しい答が返ってきた。
「11月にラバウルを発った。ひっかき傷もないぜ。
俺を狙う弾と言う弾がただ全く外れだったってことだな」

私は意気込んだ。
「ハッ!俺たちが貴様につけた名前は正解だな。
全く貴様は『我らが悪魔』だ、わが友よ。
ラエやラバウル上空では貴様には見つからないようにしなきゃってことだ、西澤。
とにかくまた会えてただ嬉しいよ」



あの~。

盛り上がっているところすみませんが、ちょっといいでしょうか。
まず、この二人、実際は坂井三郎が上官なので、西澤廣義は敬語でしゃべっていました。
しかし、英語ではまったくタメ口で会話しています。

これは、同じ階級でも先任に任命された坂井が上官になると、西澤は敬語で話さなくてはいけない、という日本海軍の慣習が描かれていません。
しかし、たとえそれを知っていたとしても、敬語で英文にするとどうしても語尾にsirなどと付けざるを得ず、"good friend Nishizawa"という印象にならないため、あえてこのようにしたのかと思われます。
「三郎」などと呼んでいるのも、英語圏では「友人」と言える間柄なのに名字を呼び合う、ということに違和感があるため、あえてそうしているのでしょう。

まあ、坂井さんと西澤さんが固く抱擁するシーンを見なくて済んだのは、若干なりとも日本人の習慣を知った上で書いているようではありますが、(武田信行著『最強撃墜王』では嬉しさのあまり抱き合ったことになっています)
それにしても
"Let me look at you!"
ていうのは日本人のメンタリティには違和感のある表現です。

実際の二人の再会第一声は

「おお、西澤」
「おす、先任」

くらいだったんではないかと。

ラバウルに従軍していた人の手記によると、海軍では「おはようございます」を「おおす」、「願います」を「ねえす」とやたら短く省略していたといいます。
狭い艦内を移住の基本とするため、敬礼や食事の仕方もやたら省スペースになっていた海軍ですが、どうも時間と労力も節約していたようです。

続けます。



「俺がいなくなってから向こうでどうだったんだ?
いまじゃ貴様は海軍一のパイロットだ。ああ、ガダルカナル上空の貴様が眼に浮かぶよ」
彼は手を振った。
「撃墜数なら貴様の方が上さ。俺なんか正確な数字すらわからんよ。多分五十機かそこらってとこだろう。まだ貴様には及ばんよ」
彼は微笑んだ。
「自分じゃ気付いてないかもしれんが、貴様は今でも俺らのナンバーワンさ」

「おい、馬鹿言うなよ」私は言った。
「俺は貴様が飛ぶのを何度もみてるんだ。西澤、俺は貴様が近いうちに撃墜王になるんじゃないかって思ってる。
まあいい、貴様、佐世保ではどうしていたんだ」



はい、再び失礼いたしますよ。

やっぱりアメリカ人の創作だなあ、と思うのがこの部分。
「何機落としたか」などと言うようなことは、この二人に限らず搭乗員同士の話題にはならなかったのではないでしょうか。
彼らは確かにラバウルで戦闘機乗りとしての腕を競い合い、研究会もして切磋琢磨し合っていたようですが、撃墜するということが個人技ではなくチームとしての戦果であるという海軍全体の考え方は大戦初期であっても浸透していたはずで、ましてやこのように「貴様が一番」「いーや貴様が一番」などとは決して口に出さなかったはずです。

さて、続いては西澤飛曹長が文句を垂れます。

「横須賀に行かされたんだ」彼は答えたが、顔は憂鬱そうだった。
「教官だよ。上は俺に教官をやれっていうのさ、三郎。
想像できるか?俺ががたがたのおんぼろ複葉機で走り回ったり、あほな若い奴らにバンクやら旋回やら、パンツの乾かし方まで教えてる姿をよ。この俺が!」

私は笑った。その通りだ。
西澤はこの世で最も教官に向いていないタイプだ。


西澤廣義が大分で予科練の教官をするのは時期的にもっと後のことで、このころはせいぜい豊橋で台南航空隊あらため二五一空の錬成にあたり鴛渕孝中尉らを編隊飛行で鍛えたりしていたにすぎません。

かれが大分で教官をしたのは昭和18年12月からで、この二人の出会いの一年後です。
武功抜群で軍刀が与えられ、その直後大分空に転勤させられていますから「ACES HIGH」の日に話したリチャード・ボングに対する「エース保護措置」のような待遇が西澤にも与えられたのでは、と言う気がします。

そして、教官としての西澤は、それを不服としていたかどうかは分かりませんが「お前たちが飛行機に乗るのは三年早い」と口癖のように言いながら検定になかなか合格を出さない教官であったと伝えられます。
司令にその理由を尋ねられ「未熟なまま彼らを戦地に送り出すわけにはいかない」と答えたというのです。
かれの指導はそれは厳しく、黙っていてもあたりを払うような迫力と威厳もあって、練習生たちは畏怖の念を持ってその厳しい指導に甘んじたということです。

少なくとも、この英語版西澤のように
「この俺様がパンツの乾かし方を」
と言い放つような傲慢さは実際の西澤廣義からは感じ取ることはできないのですが、当然教員としての彼がどんなであったかまで彼らが知っていたとは思えません。

おそらく、ボングがそうであったように撃墜王たるものは教官職など不満として当然、という先入観と思い込みで書かれた部分だと思います。

まあ、性格的に人付き合いの悪い陰気なニヒリストであったという一説もありますから、教官職を心から喜んでいたとも思えませんが、当時の軍人がすべからくそうであったように、かれも自分に与えられた職責に非常に忠実に取り組んだのは間違いないでしょう。

さらに英語版西澤、このように言います。

「でな」かれは続けた。
「ちょっとやったが、もうムカついてきちまってな。
また戦地に行けるよう転勤願いをだした。
今朝フィリピン行きの辞令が来たよ。
それできさまに会いに来たというわけだ」


いろいろ突っ込みどころの多いこのセリフですが、続きは次回に。

さて、後半では西澤廣義の口からショッキングな事実が坂井三郎に伝えられます。


どうぞお楽しみに。



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創作童話「大じいちゃんのゼロ戦」

2010-09-16 | 海軍
ぼくにはひいおじいちゃんがいる。
クラスのみんなにはおじいちゃんはいるけど、ひいおじいちゃんがいるのはぼくだけだ。

本物のおじいちゃんもいるのでひいおじいちゃんのことは大じいちゃんって呼んでる。

でもこの大じいちゃんはみんなのおじいちゃんより元気だったりする。
家族で会いに行くといつもニコニコしながらおこづかいをくれる。
「ダイスケはサッカーやってるのか。ポジションはどこだ」
なんて、よそのおじいちゃんより話もイケてるんだよな。

あるとき家族で一緒に遊びに行ってみんなでテレビを見ていたら、ブルーインパルスが映った。
パイロットはヘルメットにマスクをして隊長機が二機に無線で指示するんだ。
そして一糸乱れず宙返り。
「俺、ブルーインパルス乗りたいなあ」

思わず言うと、大じいちゃんがこちらを向いて
「ダイスケはパイロットになりたいのか?」
って聞く。
「一応、男だし」
って、ヘンな答え方しちゃった。

「大じいちゃんはゼロ戦にのってたのよ」
お母さんが言った。

え、それマジ?

「本当だ。乗ってたぞ」

大じいちゃんは写真を見せてくれた。

日本が戦争したってのはもちろん知ってるけど、まさか大じいちゃんがゼロ戦に乗ってたなんて知らなかった。
明日学校で自慢できるぜ!

白黒の写真の大じいちゃんはパイロットの服装をして、腕組みをしてこちらをにらんでいた。
「大じいちゃん、強かった?」
大じいちゃんはそれには答えない。
代わりにお父さんがこう答えた。
「おお、強かったぞ。おじいちゃんはな、みんなにゼロ戦の神様って言われてたんだ」
「・・・・マジ?」

大じいちゃんはチョー強そうに見えた。
でも、これって・・・。
今はもう仕事してないけど、お母さんが「大じいちゃんは先生だった」って言ってた。
だって、バリバリ機銃撃ってたんだろ?
そんなコワイ人が先生してちゃヤバいんじゃないか?

「大じいちゃんってさ・・・もしかしてさ」
やっぱり言えないよな。人を殺したことあるのか、なんて。
「なんだ?」
やさしい目をして聞くからつい言っちゃった。
「敵をやっつけたってことはさ、それは」

大じいちゃんはしばらく黙った。
「おじいちゃんは戦争で敵の飛行機をさんざん撃ち落とした。
おじいちゃんと一緒に飛んでいた仲間の飛行機もやられてたくさん死んでいったよ」

それから大じいちゃんはぼくにもわかりやすいようにいろんな話をしてくれた。
戦艦から離着陸する戦闘機に乗ってたこと。
自分が戦っている間に、海の上の味方の軍艦がいつの間にかみんな爆弾でやられてしまってびっくりしたこと。
飛んでた飛行機の燃料がなくなって、海の上に不時着して4時間も泳いでいたこと。
「あの時は死んだ方が楽だと思ったぞ」
よく助かってくれたよなあ。そのとき死んでたらぼくも当然生まれてないわけだから。
ガダルカナル、とかミッドウェーなんて名前も聞いた。

もちろん、敵機と戦ったときの話もあった。
そのとき撃たれたケガのあとを見せてくれた。
服に隠れてて今まで知らなかったよ。

「大じいちゃん、俺、この話学校の自由研究にしていい?もっと聞かせてくれる?」

思わず言った。

「いいとも」

大じいちゃんは少しびっくりしたみたいだったけど、すぐ嬉しそうな顔になった。
ぼくもうれしい。
だって、自由研究何をしていいのかまったく思いつかなくて困ってたんだもの。


このときの自由研究は学校で特賞を取った。
ひいおじいちゃんがゼロ・ファイターっていうだけで、自慢できるのに、いまやちょっとした校内の有名人。
びっくりしたのは音楽の先生が廊下で呼びとめて
「カワダくんのひいお爺さんって、カワダハジメさんだったのね!
先生、本で読んだことがあるのよ」
なんて言うのさ。
大じいちゃん、有名人だったんだ・・・。

先生って言えば、話聞いたときに言ってたなあ。

「戦争で殺したり殺されたりするのを見たから、もうこういうことはしちゃいけないってことを子供たちに伝えたくて先生になったんだ」

ゲームでしょっちゅう敵をやっつけたりするけど、まわりで本当に人が死ぬなんてはっきり言ってピンとこないもんな。
今回聞いた話は結構ショックだった。
でも、聞いてよかったよ。
戦争はよくない。当たり前のことなんだけど、大じいちゃんが言うから説得力ある。



この間、大じいちゃんがある会に連れて行ってくれた。
それは、昔ゼロ戦に乗っていた人たちの集まりだ。
勿論、もうみんなおじいさんになっている。
大じいちゃんだって元気だけどああみえてもう90歳なんだ。
会場にはたくさんのおじいさんと、会のスタッフみたいな人がいた。
この人たちがみんなゼロ戦乗ってたのか。
なんか信じられないな。

「カワダ中尉!」

大じいちゃんにこう呼びかける人がいた。
中尉だって・・・かっこよすぎる。

大じいちゃんはみんなの前であいさつした。
そしたらその後、司会していた人が、ぼくの名前を呼んでいきなりみんなに紹介するんだよ。

「若いときのカワダさんそっくりだ」

って声がどこからともなく聞こえる。
ぼく、ひいおじいちゃんのあの写真みたいなのかな。
あんな怖いか?
・・・でもちょっと嬉しい。
ゼロ戦と写ってる大じいちゃんカッコよかったもんな。


「ダイスケくん、君のひいおじいちゃんはね、すごい人なんだよ。
きみはそう思ってないかもしれないけど」

司会の人はこう言った。

残念でした。
こちとら大じいちゃんのすごさはもうとっくにご承知だぜ。






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海軍パイロットとカメラ

2010-09-15 | 海軍
昭和13年、南京基地で撮られた四元(志賀)淑雄海軍中尉です。

弾けるような笑顔が何とも微笑ましい四元中尉、リラックスして飛行服のベルトをだらんと外してしまっていて、全身のシルエットがまた一段と微笑ましい(?)ですね。
このナイスショットは、田中国義一空兵の手によるものだそうです。
四元中尉の手にもほとんどシャッターに指を置いたままのカメラがあります。
お互いに撮りっこしていたんですね。きっと。

さて、今日はこの搭乗員のカメラのお話。

水交会である元大尉にお会いして、最初ロビーでお話したとき、大尉が「写真を取るのが好きで」というようなことをおっしゃっていました。
この年代の男性って、一度はカメラに夢中になっているような気がするんですよね。

そういえば、亡くなった父の遺品にライカがありました。
とてもじゃないけど家族には扱えなさそうな代物だったので、迷った末、母が売ってしまいました。
父は勿論元大尉より下の世代ですが、青年がこぞってカメラに夢中になった時期というのは結構長かったようですね。
ブームのサイクルが今と違い長かったのかもしれません。

戦闘機パイロットの話を読んだりきいたりしていると、時々このカメラについての話がでてきます。

豊田穣氏は、霞空勤務のころ写真を始めました。

「海軍67期史の笹井中尉」の日に書きましたが、この飛行学生時代には、士官生活を通じて最も精神的にも金銭的にもゆとりがあるので、高価なカメラをこの時期に購入する士官は多かったもののようです。
豊田氏のお師匠は同期で偵察に行った松岡達少尉でした。
当時5百円以上した(少尉の給料2カ月半分)ローライフレックスを持っていた松岡少尉は、レオタックスという中級のカメラを持っていた豊田少尉に暗室でよく一緒になり、「ピントが甘い。焼きがオーバーだ」などと指導してくれたそうです。

松岡少尉の玄人はだしの技術伝授のおかげで、豊田氏は戦後新聞記者としてカメラをいじる仕事に就き「どうやら紙面に使える写真が撮れた」とのことです。

芳名録にも「写真は余技の域を脱していた」と書かれた松岡少尉、偵察を志願したのはこの趣味と無関係ではなかったでしょう。
戦死しなければ戦後はその道に進まれていたのでしょうか。


当時の青年にとってカメラは「知的な玩具」ですから、学生出身の予備士官のカメラ熱はさらに盛んなものだったようです。

予備士官のH大尉の話です。
隊の生活に慣れてきたある日、分隊長の
「お前たちは学生であることを忘れるな。読みたい本があれば読め。持ち込みを許す」
という夢のようなお達しとともに
「パイロットには写真の技術も必要である」
という理由でカメラの持ち込みを許可され、使い始めたのだそうです。

大喜びで皆が隊内に持ち込んだカメラは
「ライカ、コンタックス、ローライフレックス、エキザクタ、レチナ、そしてH大尉のセミ・ミノルタ」など、非常に種類豊富で大尉を驚かせました。
「海軍にはいってよかったという実感を、みんなが持ったのではなかったろうか」
と大尉は書いています。


ここで少し寄り道をして「海軍の写真の撮られ方」の話をします。

「海軍というところは何かにつけて写真を撮るところで」
と誰かが書いていましたが、確かに当時にしては隊の写真がたくさん残されているように思います。
写真を撮るときの並び方も厳格に決まっていて、最前列で折椅子に座るのが士官、その中でも一番真ん中が階級が上で、端に行くほど下でした。
(この「折椅子」も、指揮所では士官以外は絶対座れなかったとのことです)
一番前に地べたに座らされる下士官、兵がいるときには最前列はこの人たちになります。

「大空のサムライ」で有名になった台南空の五人の写真ですが、こんな少人数でもこの法則は守られており、前列にしゃがんでいるのが二人の兵曹(太田二飛曹、西澤一飛曹)後列真ん中がこの中の最上官だった笹井中尉、その両側が坂井先任と高塚寅一飛曹長です。
海軍の写真の撮り方の縮図という感じですね。

先日、旧海軍出身者の会合に参加する機会がありました。
ここでは旧海軍での階級はまだ生きています。
全員での写真も撮ったのですが、前列中央に近いところから士官、予備士官、下士官と階級順の並びとなっており、懇親会の会場でも厳密にそれは席次に反映されていました。
勿論、たとえば海兵卒士官の中でも学年が上であれば席次は上となります。



さて、話を戻します。

士官は高給取りですし(特に少尉クラスは独身貴族多し)、予備士官ももともと大学に行けるほどには裕福な家の子弟ですから、カメラをもつことが流行ったとしても自然なことでした。

当時カメラは高級品ですから、勿論誰でも持っていたわけではありませんが、ラバウルの坂井三郎中尉は、下士官でありながら、「当時一台で家一軒買えるほどの高級品だった」ライカを所持していました。

この「家一軒」については検証していません。
そんな高価だったのか、少し疑わしいのですが、この「家一軒」の出所は小林たけし氏の戦記マンガだったりするので、ご了承ください。
ちなみに、私は小林氏のファンです。

さて、坂井さんの「大空のサムライ」の中で、全く坂井機に後ろを取られていることに気がつかない「呑気な敵機」を「いつもならライカで撮るのだが、このときは下に回ってスケッチした」という記述があります。

これを読んだとき、零戦にカメラを持ち込んで空戦のとき邪魔になったり、振動や衝撃でカメラが壊れたりしないのかなあと思ったのですが、実際はどうだったのでしょうね。

坂井中尉は昭和17年8月6日、ガタルカナル上空で怪我をし、帰国します。

坂井さんはガタル決戦の三日前、三か月滞在したラエからラバウルに移動しました。
その際、撮りためたフィルムとライカをラエに置いてきてしまったそうです。
すぐに戻ってくると思っていたからだそうですが、そのためフィルムは高価なカメラとともに戦火に消えてしまいました。


現像されることなくこの世から消えてしまったそのフィルムには、どんなラバウルの空が、そして誰が、どんな表情で写っていたのでしょうか。





「海軍予備学生零戦空戦記」土方敏夫著 光人社
「ポートモレスビー邀撃戦」小林たけし 学研
画像参考:「零戦最後の証言」神立尚紀著 光人社 より
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ルンバくんの歌

2010-09-14 | つれづれなるままに
うちにはロボットがいます。

お掃除ロボットルンバのことなのですが、もううちでは人格化しているので「くん」付けで呼ぶことをお許しください。

お宅にルンバのある方はよくご存じだと思いますが、部屋中走り回ってお掃除してくれる健気なロボットです。

ただし、こいつがいれば掃除しなくて済む、というものではありません。
「四角い隅を丸く掃く」が手抜きの代名詞ですが、形態が丸い以上いくら触角のようにつけた回転ブラシが隅の方をやってくれると言っても限界がありますし、2年余にわたる観察の結果、その日の気分で行かない部屋もあるようです。
うちでは毎日一回11時に作動するようにプログラムしておいて、細かいところや目につくところは自分でやる、という風に使っています。

もともと楽するため、というより「面白い」ので買った、というものなので多くは期待していないのですが、エリス中尉家の家庭事情として、「夏の間2カ月日本にいない」という生活をここ何年か続けているため、留守に掃除してくれるルンバくんは非常にありがたい存在なのです。

TOは日本に残って仕事してますが、掃除までしてくれないしね(-"-)
まあ、ルンバ以上にこちらには期待もしておらぬが。

このルンバくん、非常によく働くやつなのですが、家に帰ってみると「巣」(掃除が終わると自走して戻る充電器)に帰っていないことがあります。

「床に落ちていた紐やコードに絡まったり、巻きこんだりして動けなくなった」
「自分で内側から戸を閉めてしまい、中で走り回っているうち電池が無くなって野垂れ死にした」
「毛足の長いシャギーラグの上を走って息絶えた」

以上の事態のときは、巣がカラです。
変わったところでは、紙袋をすっぽり被って動けなくなった、という日もありました。
先日は息子のチェロのケースを被ってその中で休眠中。
おお、なかなか粋なマネを。

自分で戸を閉めて洗面所内などで客死したときに、持ち上げると、
と、何とも切ない短調のメロディで泣きます。

「すんまへん、わて掃除しているうちに、自分で戸ぉ締めてしもたんや~」
(なぜか大阪弁)
と言い訳しているかのようです。

「はあ、お疲れさん(T_T)」
と、抱えて巣に返してやると、今度は
「そどみそっそど~」とファンファーレ風の「巣に帰ったときの得意げな音」を出します。

「・・・もうええっちゅうの」
ついエリス中尉も大阪弁で労をねぎらってやります。

この、「巣に帰る」という動作も、簡単にやっているようで結構頭を使うものらしく、先日たまたまお掃除終了して巣に帰っていくルンバくんを目撃しました。

すると、一旦巣に着いたものの、微妙に角度が悪かったらしく、巣の中でぐるぐる回転した後、何を思ったのか一端さっと、避退します。

おお、やりなおしか!

息をのんで(嘘)見つめていると、一メートルくらい避退後、反航して、突入。
今度は角度の調整をしながらの直進です。
そしてみごとに撃沈、じゃない帰巣したルンバくん、実に得意げに

(見ててくれはりましたか、わし今日はやりましたでえ)

毎日頑張っているんだね、と目頭を熱くした(嘘)エリス中尉でした。


今年、アメリカから帰国してみると、ちゃんと巣に納まっていたので、感激して
「すごい!どこにも引っかからず夏中無事で毎日働いたのね!」
というと、TO、

「家にいるとき動き出したら鬱陶しいからプログラム止めた」

・・・・・って、動いてなかったのかよ(-_-メ)

自分で掃除しないんだったらせめてそゆこと止めてくれる?


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