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バーキン片手に靖國神社

「パールのピアス」報道カメラマンの死〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-07-31 | 歴史

ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」、今日は戦争報道についてです。

■ メディアはベトナム戦争を終わらせたか

アメリカでベトナムが大々的に報道されるようになったのは、
1965年春に米軍の戦闘部隊が相当数投入されてからのことです。

それ以前は、インドシナに駐在するアメリカ人報道官の数は
1964年の時点でも20数人と大変少ないものでした。

戦争が激化した1968年には、ベトナムにはあらゆる国籍の、
約600人ほどからなる報道関係者が駐在し、
米国の通信社、ラジオ、
テレビネットワーク、主要新聞やニュース雑誌のために取材していました。


ベトナム軍事支援司令部(MACV)は、報道関係者に軍用の交通手段を提供したので、
彼らの中にはそれを利用して現場に赴き、直接取材をする者もいました。


危険を避けたい多くの記者は、首都サイゴン(現ホーチミン市)に滞在し、

米軍広報部の日刊ブリーフィングから記事を得ていたのですが、
この「当たり障りのない」「肝心なことを明らかにしない」ブリーフィングは
そのうち「5時の愚行」と呼ばれるようになります。


当ブログでは繰り返しになりますが、ベトナム戦争は
テレビを介して
初めて一般人が目のあたりにしたという意味で、
このように名づけられました。

 "第一次テレビ戦争 "

ベトナムで撮影されたフィルムは東京に飛ばされ、
すぐに現像、編集されてアメリカに送られました。


重要な記事は全て東京から衛星で直接送信されたのです。

「テレビが戦場をアメリカのリビングルームに直接運んできた」

とはよく言われますが、実際にはほとんどのテレビ番組は
戦闘中ではなく、
終了した直後に撮影されたものであり、
多くは従来のニュース記事と変わるところはありませんでした。

実際、夜のテレビのニュース番組で放映されるのは、
撮影されたばかりのものではなく、
通信社の報道をもとに
アンカーマンが読み上げる簡潔なレポートというのが普通でした。

 

ベトナム戦争におけるメディアの役割については、実は今も議論が続いています。

ここハインツ歴史センターの解説の論調もそうですが、アメリカの敗北には、
メディアの役割が大きかったという説がある一方、

「メディアはアメリカのベトナムでの活動を支持していた」

と結論づける専門家もいるということなのです。

前者は、メディアが戦争そのものにネガティブな報道をすることで、
アメリカ国内での戦争支持率が低下し、
検閲されなかった戦争報道が、
敵に貴重な情報を提供し、米軍を不利に導いたとしています。

確かに1968年2月、「アメリカで最も信頼されている男」として知られる
CBSイブニングニュースのキャスター、ウォルター・クロンカイトが、

「ベトナム戦争は膠着状態に陥っている」

と評したことは、ベトナムに関する世論が大きく変わるきっかけとなりました。

しかし、この懐疑的で悲観的な報道姿勢がアメリカ国民を変えたのではなく、
様々な原因によって国民に浸透していった「ベトナムへの幻滅」が
単に反映されたに過ぎず、リンドン・ジョンソンが言ったように

「クロンカイトを失えばミドルクラスの国民を失うのと同じだ」

と嘆くほどの影響が実際メディアにあったかどうかは甚だ疑問だ、
というのが
後者の意見なのです。

実はメディアはクロンカイト発言まではベトナムでのアメリカを支持しており、
彼らの報道が懐疑的になっていったのは、クロンカイト発言が
国民の総意であるという「お墨付き」となってからだ、というのが、
懐疑派の
メディア専門家の見解なのです。

 

ベトナム戦争関係の報道は基本無検閲でした。

戦時中、MACVがジャーナリストを軍規違反で有罪にした例は数えるほどしかなく、
メディアも「軍の意向」に反するような報道はほとんどしていませんでした。

つまりアメリカ人の戦争への幻滅は、さまざまな原因が重なって生まれたものであり、
メディアはその1つにすぎず、

「報道が戦争を終わらせた」

というのは誇張であるというのが後者の結論です。

今回も衝撃的な写真が世界を変えた、という言い方をよく紹介していますが、
それでも実際に国民の世論を動かしたのは、戦争で亡くなる犠牲者が増えた、
という、個々にとって深刻な現実そのものだったというのです。

■ その後のアメリカの報道管制

時は降って1983年、カリブ海に浮かぶ島国グレナダでクーデターが起きた際、
東カリブ諸国機構、およびバルバドス、ジャマイカ軍とともに、
アメリカ軍も侵攻を行いました。

これを「グレナダ侵攻」といいますが、当時のレーガン政権は、
侵攻作戦中の報道を制限することにより、ベトナム時代の自由な報道対策を覆し、
ついでにベトナム戦争に関する情報へのアクセスや、
資料の移動の自由までを制限することにしました。

その後、イラクの自由作戦を皮切りに、2003年には報道関係者を
アメリカ軍の部隊に取り込むという方針が取られるようになりました。

Reporting Vietnam(1998)

は、ベトナム戦争の総決算というべき著書で、2巻からなり、
1969年の「ミライの虐殺事件」(ソンミ村虐殺)の発覚から
1975年のサイゴン陥落までの出来事を追っています。

テーマごとに違うライターが手がけ、

ラオスでの南ベトナムの失敗」
「アメリカの士気の低下」
「プノンペンの陥落とクメール・ルージュの勝利」

「南ベトナムの最後の日々」

などと言ったテーマが語られています。

 

 

■  The Press and the Military 報道員の「戦死」

ディッキー・チャペル(Dickey Chapelle)
は、第二次世界大戦中太平洋の最前線に参加した経験を持ちます。

マサチューセッツ工科大学で航空設計を学んだ彼女の最初の志望は
航空パイロットでしたが、航空写真の仕事を通じて写真家になり、
太平洋戦線では硫黄島や沖縄の写真も残しています。

チャペルは1965年11月4日、ベトナムでのクアンガイ省チューライ付近で行われた
捜索・破壊作戦「ブラックフェレット作戦」を行う海兵隊の小隊と行動中、
前を歩いていた中尉が蹴ったブービートラップの爆発で死亡しました。

このブービートラップは、迫撃砲弾の上部に手榴弾を取り付けたトリップワイヤー式で、
破裂の際、断片が頸動脈を直撃し、彼女を死亡に至らしめたものです。

彼女の英語版Wikiには、瀕死の彼女が、従軍牧師から
最後の秘跡を受けているところを
やはり従軍カメラマンの、


ヘンリー・ヒュート(Henri Huet)1927-1971

が撮影したシーンが掲載されています。(wiki

そのヒュートも、この写真を撮った6年後の1971年2月10日、
南ベトナムによるラオス南部への侵攻作戦(ラムソン719作戦)で、
司令官の戦線視察に同行するため乗ったヘリが、北ベトナム軍に撃墜され、
他のフォトジャーナリスト3名、乗員11人全員と共に死亡しました。

彼らのUH-1ヒューイのベトナム共和国空軍のパイロットが方向を誤り、
ホーチミン・トレイルの最重防御地域に飛び込んで、銃撃を受けたのです。

ヒュートは、戦地を取材する同僚たちの間で、常にその現場での献身、
勇気、そして能力が尊敬され、ユーモアのセンスと優しさでも知られる人物でした。

当時の彼を知るかつての報道員の一人は、

「彼はいつも笑顔を絶やさない人物でした」

と述べています。
彼については、日本でも出版されている、

『レクイエム 
ヴェトナム・カンボジア・ラオスの戦場に散った報道カメラマン遺作集』

でその作品が紹介されています。

このときヘリに乗っていてヒュートと共に死亡したカメラマンは、

File-larry burrows.jpg
『ライフ』誌のラリー・バローズ(Larry Burrows)(44歳)。

彼の作品は次の通り。

Larry Burrows: Vietnam


そして、『UPI』誌のケント・ポッター(Kent Potter)



そして、『ニューズウィーク』誌の日本人カメラマン、
嶋本啓三郎
でした。

墜落現場は北ベトナム側だったので戦後までは未確認でしたが、
1996年になって再発見され、その2年後には、インドシナなどで
MIA(任務注行方不明)の遺体を回収する米国防総省の部隊である

JTFFA(Joint Task Force Full Accounting)

の捜索チームが山腹を発掘したところ、航空機の部品、カメラの部品、

35mmフィルムなどが発見され、さらに人骨の痕跡も発見されました。
ただし人骨は風化してこのとき身元の鑑定を行う状態ではありませんでした。

2002年末、統合POW/MIAコマンド(JPAC)と改称された捜索部隊は、
状況証拠によるグループ識別を理由に、この事件の終結を宣言しました。

その後、公式の場に遺骨を埋葬する機会がないまま、2006年になって、
ワシントンD.C.のニュージアムが遺骨の受け入れに同意し、
JPACから遺骨を譲り受け、2008年4月にあらためて慰霊式が行われました。

このとき行われた慰霊式には、ヒュート、バローズ、ポッターの親族をはじめ、
多くのベトナム戦争時代の同僚を含む100人以上のゲストが出席しています。

この式典に出席したリチャード・パイル氏とホルスト・ファース氏は
事故当時APのサイゴン支局長であり、

「Lost Over Laos〜A True Story of Tragedy, Mystery, and Friendship」
(ラオスでの失踪〜悲劇とミステリーと友情の真実)

の共著者です。

この本では、4人の写真家の個人的な物語、彼らの死に至るまでの出来事、

そしてパイルがようにしてJTFFAの墜落現場の発見に貢献したかが語られています。

■ 戦場に散った日本人カメラマン

20180228193901

沢田恭一 Kyoichi Sawada

ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)側の村がアメリカ軍の爆撃を受け、
村から逃げてきた女性たちが川を歩いて逃げてくるあまりにも有名な写真、

「安全への逃避」

でピューリッツァー賞を受賞したカメラマンの沢田教一は、
1970年10月28日、
UPIプノンペン支局長のフランク・フロッシュとともに
タケオ州での取材を終え、
車でプノンペンに戻る途中、
何者かに待ち伏せされて暗殺されました。

2人の遺体は道路近くの田んぼに放置されており、銃弾が飛び散っていました。
車内には血痕も弾痕もなかったので、外に引きずり出されて処刑されたものとされます。

彼らは民間の車を運転し、明るい色の民間の服を着ていたので、
兵士と間違われた可能性はなく、ただ、愛機のライカや
腕時計等の金品は無くなっていたことから、

襲撃者は最初から物盗りが目的だった可能性もあります。

ピューリッツァー賞を受賞したカメラマンの中には、
「ハゲワシと少女」のように
カメラを向ける間にどうして助けなかったのか、
という世間のバッシングを受け、

(実際には南京の幼児のように、あの状態だったのは一瞬で、
すぐにカメラマンは
ハゲワシを追い払ったにもかかわらず)
自殺してしまったケビン・カーターのような人もいますが、

沢田の場合は、「安全への逃避」の場面に遭遇した時、シャッターを切った後
泳ぎ着いた家族に手を差し伸べ、彼らから感謝されています。

さらに沢田はその後も村を何度か訪れて子供たちにケーキを配り、
ピュリツァー賞の賞金36万円のうち6万円を家族にプレゼントしました。

彼がなくなったという知らせが届けられると、家族はもちろん、
村全体が悲しみで包まれたという話が残されています。

峯作品

峯弘道 Hiromichi Mine

日本語の資料が少なく、彼の正しい名前の漢字がわかったのは、
日本で行われた葬儀会場の写真からでした。

1940年生まれ、上智大学経済学部を卒業後UPI東京支局に勤務。
1964年7月にはベトナムに渡りました。
彼の最も有名な写真である砲弾を受けた輸送機カリブーの写真は、
世界報道写真賞とピクチャー・オブ・ザ・イヤー・コンペティションで賞を受賞。

1968年3月5日、フエとフバイの間の道路で、乗っていた装甲兵員輸送車が
500ポンドの地雷に触雷して死亡しました。

ミネは、ベトナムで殺された最初の日本人特派員である。
東京に戻る彼の遺体に付き添ったのは、同じくベトナムで命を落とすことになる
同僚の沢田教一でした。

 

■ 殉職女性カメラマン第一号、チャペル

Dickey Chapelle.jpg

最後に、殉職した女性カメラマン、ディッキー・チャペルの
(今ふと思ったのですが、ポリコレ文化大革命のおかげでこの言葉はなくなり、
そのうち『カメラパーソン』とかになるんでしょうか・・・やれやれ)
ことについて、少しお話ししておきます。

冒頭写真をよく見ていただくと、一見男性のように見える彼女ですが、
耳にはパールのピアスをしているのがお分かりいただけるかと思います。

権威に屈しないことで知られたこの小さな女性のいつものスタイルは、
ファティーグジャケット、オーストラリアのブッシュハット、
ドラマチックなハーレクイングラス、そしてパールのピアスでした。

第二次世界大戦中は、写真家としては平凡だった彼女ですが、戦後、
並々ならぬ努力によってあらゆる戦場の取材を行いました。

1956年のハンガリー革命では、7週間以上も収監されたこともあります。

彼女は部隊と一緒に移動するため、空挺部隊と一緒にジャンプすることを覚え、
数々の賞を受賞し、軍部とジャーナリストの両方から尊敬を集めました。

「あの女を今すぐここから追い出せ!」

 第二次世界大戦末期、沖縄の戦線に参加した頃の彼女は、
アメリカ海兵隊の将軍からこう言われたこともあったといいます。

 

1961年、ディッキーはベトナム戦争が始まると、
ベトナムへと当然のように旅立ちました。
アメリカ政府は、当初彼女のイメージを失墜させようと必死に?なりました。

戦闘的な海兵隊員になりたがっていた「少女」。

タバコを吸い、酒を飲み、飛行機から飛び降り、自分の息子くらいの
若い男たちと泥の中で寝ていた「トラブルメーカー」等々。

しかし、彼女の後ろには一般大衆がいて、しかも味方となっていたため、
政府は、むしろ彼女の愛国心を利用してCIAのために働かせる手に出ました。

そして彼女の作品から800枚もの写真がいつの間にかどこへともなく消えました。


彼女が撮影した、ベトナム空挺部隊による共産主義「容疑者」の死刑執行写の瞬間は、

あの「サイゴンの処刑」よりも丸6年も前に撮影されていました。
(39:30あたりから)

Behind The Pearl Earrings: The Story of Dickey Chapelle, Combat Photojournalist | Program |

ちなみにこの映像の43:30あたりから彼女がフィールドに倒れている様子、
遺体が担架で運ばれていく様子が全て記録されています。
担架の横を歩いているカメラマンは、おそらくヒュートでしょう。


地雷を受けて斃れた彼女の最後の言葉はこのようなものでした。

“I guess it was bound to happen.”
(こうなることはわかっていたわ)

彼女の遺体は、6人の海兵隊員からなる儀仗兵とともに本国に送還され、
海兵隊員として丁重な葬礼をもって送られました。

彼女は、ベトナムで戦死した最初の女性戦場記者であり、
同じくベトナムで死んだ最初のアメリカ女性記者でもあります。

そして、ベトナム戦争の報道員として亡くなった、あるいは姿を消した
様々な国からの、少なくとも135名の写真家のひとりです。

 

続く。

 

 

 


「ベトナメリカ」 アメリカに渡ったベトナム難民〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-07-29 | 歴史

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展のご紹介も、
そろそろ終わりに近づいてきました。

わたしがこの戦争展に行ったときはコロナの前で、普通に人が
マスクをせずに自由に行きたいところに行くことができたため、
この歴史センターにも平日にもかかわらず結構な観覧客がいました。

我々と違い、アメリカ人にとってのベトナム戦争は、なんらかの形で
自分や自分の家族、親しい人が実際に参加し、関わり、場合によっては
反対デモで気炎を上げたりした思い出があるわけですから、
どんな層の人たちにとっても興味深いものであったはずです。

展示の前には写真のように立ち止まって説明を丁寧に読む人がいるので、
彼らがつぎの展示に移るまで写真を撮るのをしばし待つ、ということが
一度ならずありました。

しょせん他国人のわたしには、そんな彼らの様子もまた興味深く映ったものです。

■ The United States  Refuges Act of 1980(アメリカ難民法)

「1980年米国難民法(Public Law 96-212)」

は、難民を米国に受け入れるための恒久的かつ体系的な手続きを提供し、
受け入れた難民の定住と安定のための規定を設けることを目的とした法律です。

1980年、エドワード・ケネディ上院議員は、難民に代わって
恒久的な法的・制度的枠組みを作る法律を後押ししました。

具体的には、ベトナム戦争の余波で東南アジアから難民として
アメリカに逃げてきた100万人以上の人々の定住を助けるものです。

ここに展示されているのは

G.B.トラン(Tran)作「VIETNAMERICA」(ベトナメリカ)

という、難民となってアメリカに来た漫画家の作品ですが、
トランは、ベトナム人始め、カンボジア、ラオス人、そしてモン族出身で
アメリカに来てから本や映画、アートなど展示品で、自ら
移民と難民の経験を表している人々のひとりです。

”VIETNAMERICA”

「皆さん、飛行機から降りてください!」

「心配いらないよ、トリ、
ここはフィリピンだ
もう安全だよ」

「グアム島へようこそ
皆さん、わたしについてきて難民手続きをなさってください」

「合衆国はあなたがたのためにここサンディエゴで
仮の収容所をすでに用意しております」

「早く皆さんにスポンサーと家が見つかることを祈っていますよ」

「足元にお気をつけください」

「サウスカロライナへようこそ!」

”コホンコホン・・・エヘン”

「フリーダム」

「リバティ」

「そして人民による人民のための政府。

建国の父たちは、この貴重な宝物を私たちに伝えてくれました。
 その上にアメリカは成り立っているのです」

「帰化の手続きには平均5年かかります」

「その間、難民の在留資格で仕事や学校に通い、
アメリカで新しい生活を始めることができます」

この法律はジミー・カーター大統領によって署名され、1980年4月1日に発効しました。


難民法は、祖国で迫害を受けている人々の緊急なニーズに応え、
認められた難民に援助、亡命、再定住の機会を提供することが目的で、
これが米国の歴史的な方針であるとしています。

ここでいわれる難民の定義は、

「居住国もしくは国籍のない国、または国籍のない国にいる者で、
人種、宗教、国籍、特定の社会集団の一員であること。

または政治的意見を理由とする迫害、または
迫害の十分な根拠のある恐れのために、その国に戻ることができず、
その国の保護を利用することができない、または利用したくない者」

と定められています。

アメリカ合衆国の難民の年間受け入れ数は、会計年度ごとに5万人が上限ですが、
緊急時には、大統領は12カ月間、この数を変更することができます。

移民国籍法の変更に伴い難民再定住局が設立され、同局は
国内での難民の再定住と支援のためのプログラムへの資金調達と管理を行い、
難民が経済的に自立するための雇用訓練や職業紹介、英語訓練、現金援助を
男女平等のもとに行います。

難民とは

米国が「難民」という言葉を「移民」と区別し、移民政策とは別に
難民に特化した政策を作り始めたのは、第二次世界大戦後のことです。

1948年以降の初期の難民法はちゃんとした法的な根拠に乏しいもので、
1979年になって初めてエドワード・ケネディが法案を提出するまでは、
個々の例に対しケースバーケースで対応していたのが実態でした。

当時、アメリカにやってくる難民は平均20万人で、そのほとんどが
インドシナ人やソ連のユダヤ人、つまり政府の抑圧から逃げてきたケースです。

再定住にかかる費用は4000ドル近くにのぼりましたが、
ほとんどの難民は最終的に連邦所得税でその額を支払っていました。

多くのアメリカ人は、難民の数が急激に増えることによる、いわゆる

「フラッドゲート・シナリオ」

を懸念していたのですが、この時決定した5万人の上限は
アメリカへの移民全体の10%に過ぎず、カナダ、フランス、オーストラリアなど
いわゆる先進国からの移民に比べれば小さな数字でした。

法案では6969人のアメリカ人に対して1人の難民を受け入れるという割合です。

 

蛇足ですが、日本国はそもそも難民法に相当する法律を制定していないため、
オリンピックを名目に入国して逃亡し、つかまって難民申請したところで、
そもそも法整備はまったくありませんから、拒否され強制送還されて終わりです。

 

■ アメリカに渡ったベトナム孤児

1974年、カリフォルニア州バークレーのバックナー氏は、
ベトナム孤児であった幼児のトゥイ(Tuy)を養子にしました。

バックナー家でアメリカ人として育ったトゥイですが、大きくなってから
両親を見つけるためにベトナムに渡っています。

出征証明書をもとに両親が住んでいると思われる場所を探し当て、
現地の世話人に尋ねたところ、

「あなたのお母さんを知ってますよ!今田んぼに出ています」

トゥイはこの時のことをこう語ります。

「その時突然、小さな小さな女の人が私に向かって歩いてきたんです。
彼女はわたしの頭をいきなり掴んで・・そして言ったんです。
『私の子だ!』と」

何故彼女が頭を掴んだかというと、息子の頭にあった傷跡を確認したのでした。
彼女はどうしても息子を育てられず孤児院に置いてくるという辛い選択をしたのです。


写真は、1993年、トゥイ・バックナーが母親と再会したあと、
彼の傷についての話を彼女から聞いているところで、
トゥイは親子の確認となった傷を手で触っています。

孤児院に登録されていたトゥイの当時の身分証明写真。

■ ピッツバーグに定住したベトナム人医師

南ベトナムの医療隊の外科医であるNghi Nguyen博士は、
戦争中、メコンデルタ最大の都市であるカントーで、
米軍の医療スタッフに加わって一緒に仕事をしていました。

写真はいかにも頭の良さそうな高校時代の学友とグエン博士(左から3番目)

お姉さんもいたようです

グエン博士のベトナムでの出生証明書

1975年4月に北ベトナム軍がサイゴンに接近したとき、
アメリカ領事館で働いていたグエン博士の妹は、
家族で国を脱出することを決断しました。

グエン博士(左)家族と妹家族。

博士が家族と共に彼らに空港で別れを告げていると、
どういうわけか、グエン博士、彼の妻ハン、二人の子供も
アメリカ当局によって急遽同じ飛行機の座席が提供されたのです。

アメリカ側がそこまで予想していたかはわかりませんが、これは英断でした。
医療隊にいたということは、戦時中アメリカ軍に協力していたことになり、
ベトナムに残っていれば彼と彼の家族は報復に直面する可能性もあったのです。

グエン博士は瞬時に全員での出国を決断しました。

家族は1975年、南カリフォルニアのキャンプ・ペンドルトンに到着しました。
戦争中に同僚で友人でもあったアメリカ陸軍軍医の助けを借りて、
グエン博士はバーモントで医師の助手の(医師免許が無いため)仕事を得ました。

写真はバーモント時代のグエン一家です。

1979年にダートマス・ヒッチコック医療センターで医療訓練を受けた後、
グエン博士はピッツバーグのアレゲニー・バレー病院で麻酔医として働くことになりました。

アメリカに来てからグエン家には二人息子が増えています。
写真は、4番目に生まれた息子の洗礼式のため訪れた
ピッツバーグのセント・ピーター・カトリック教会での一コマです。

グエン博士は、それ以来ピッツバーグに定住し、現地でのベトナム協会の会長を務め、
そのほかにもベトナム系のカトリックコミュニティでも活動を続けています。

ちなみに、この名前で検索すると、ご本人は2021年現在82歳で現役、
ピッツバーグにはこのグエン博士を含めて43人も「グエン」という名前の医師がいました。
(ベトナムにはよくある名前なんでしょうか)

このうち何人かはこのグエン博士の血族なのかもしれません。

 

 

続く。


オレンジ・エージェントと徴兵逃れ犯罪への”恩赦”〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-07-27 | 歴史


■ RESIGNS ニクソンの辞任

1974年8月、ニクソン大統領は辞任し、後任をジェラルド・フォード副大統領に引継ぎました。
彼は辞任することによって、

「憲法に違反し、それを覆した」

と衆議院で弾劾されることを回避したのです。
ニクソンの容疑は、彼の再選委員会に関連するウォーターゲート複合施設内の
民主党全国委員会本部への盗聴機器設置のために侵入した事件に端を発していました。

そしてニクソンは大統領職を辞任した史上初の大統領となったのです。

1974年9月8日、ジェラルド・フォードは、大統領就任からわずか1カ月で、
失脚した前任者リチャード・ニクソンに無条件で完全な恩赦を与えました。

彼のこの時の声明は

「ニクソン前大統領は、既に十分苦しみを受けた」

というものでしたが、フォード大統領の真意は、刑事裁判を行えば

「(ニクソンを)さらなる懲罰と堕落にさらすことの妥当性について、
アメリカに長期にわたる分裂的な議論を引き起こす」

ことを懸念したからだと言われています。

ウォーターゲート事件やベトナム戦争の影響で混乱していた当時、
フォードは大統領恩赦を裁判に先行して行使したわけですが、
その評価は賛否両論であり、その評価はフォードの任期中ずっと続くことになります。

 

そしてこれにより、ニクソンは以後一切の捜査や裁判を免れたものの、
恩赦を受けたというのは本人が有罪を認めたことでもあります。

それを受けてか、ニクソンは死後に行われる元大統領としての国葬を自ら辞退しています。

ちなみにニクソンがホワイトハウスを去った時、彼はマリーンワンに乗ったはずなので、
この写真はいつのものかはわかりません。

 

■ FREEDOM OF INFORMATIONACT 情報公開法議会

”怖いなあ、反戦派の特別ファイルだけでこれだぜ!”


ウォーターゲート事件の影響を受けて、議会は1974年に情報公開法

Freedom of Information Act(FOIA)

を強化しました。

2004年に機密解除された文章によると、フォード大統領は
情報公開強化修正案に署名したいと考えていましたが、ラムズフェルド首席補佐官
チェイニー副官らから、法案を拒否するように説得されていました。

しかし、臨時議会の決定によって情報公開法が成立し、
政府の秘密保持の主張に対する司法審査が行われることになりました。

その改正法を簡単にいうとこういうことです。

「市民に関係する文書を政府が管理することの規制」

(1)プライバシー法の適用除外を条件として、自分自身に関する記録を見る権利

(2)記録が不正確、無関係、時宜を失している、または不完全である場合に記録を修正する権利

(3)同法で特別に許可されていない限り、他人に自分の記録を見ることを許可することを含む、
同法の違反に対して政府を訴える権利

が保証されることになったわけです。

具体的には、戦時中の政権における過度の秘密、誤った情報、および
不正行為などに対して、一般人がアクセスすることができるようになり、
たとえば政府機関によってスパイされ、あるいは嫌がらせなどを受けた反戦活動家も、
その事実を明らかにした上で、新たに個人情報を保護し直すことができました。

 

■ BAN AGENT ORANGE  枯葉剤の禁止

ダイオキシン(エージェント・オレンジ)

エージェント・オレンジはベトナムで植生をクリアにするために使用されました。
これにはダイオキシンという化学物質が含まれていました。

人々はダイオキシンが深刻な健康問題を引き起こす可能性を懸念しています。
科学者たちはその効果を研究していますが、それでも全てが明らかにはなっていません。

枯葉剤は、ベトナム戦争中に米軍が使用した強力な除草剤です。
と言っても、邪魔な草を取るためとかいうヌルい目的に使われたのではありません。

コードネーム "ランチハンド作戦 "と呼ばれる米軍の作戦では、
1961年から1971年にかけて、ベトナム、カンボジア、ラオスにおいて
2000万ガロン以上のさまざまな除草剤が散布されました。

除草剤の中でも最もよく使われたのが、致死性の化学物質ダイオキシンを含む、

エージェント・オレンジ(Agent Orange)

でした。

枯葉剤は後に、ベトナムの人々はもちろん、帰還したアメリカ軍人と
その家族にも、
がん、先天性異常、発疹、深刻な精神的・神経的問題など、
深刻な健康被害をもたらしたことが証明されています。

1961年から1971年にかけて、米軍は様々な除草剤をベトナム本土に散布し、
敵の軍隊が使用していた森林や食用作物を破壊しました。

冒頭写真のようにヘリコプターを投入し、広範囲にに強力な混合除草剤を散布したため、
敵のみならず南ベトナムの住民が使用していた作物や水源もやられてしまいました。

アメリカがこの作戦で使用した除草剤は合計2,000万ガロン以上。
また、米軍基地周辺でもトラックやハンドスプレーで散布していたのです。

各種除草剤は、それが入っていたドラム缶の色で呼ばれており、オレンジのほかに、
ピンク、グリーン、パープル、ホワイト、ブルーもありました。

製造していたのは(悪名高い)モン○ント社や○ウ・ケミカル社などです。

このうち枯葉剤オレンジは、ベトナムで最も広く使用され、最も強力な効き目で、
その使用割合は、ベトナム戦争中に使用された除草剤の総量の約3分の2にあたります。

 

枯葉剤に含まれるダイオキシン

枯葉剤の深刻な問題はダイオキシンが大量に含まれていたことでした。

ダイオキシンは非常に難分解性が高く、環境中、特に土壌、湖沼、
河川の堆積物、食物連鎖の中で何年にもわたって残留します。
魚や鳥などの動物の体内に蓄積され、人間は肉、鶏肉、乳製品、卵、貝、魚など
汚染された食品から暴露が行われます。

ヒトがダイオキシンにさらされると、皮膚の黒ずみ、肝臓の異常、
皮膚病が現れるほか
、2型糖尿病、免疫系の機能障害、神経障害、
筋肉の機能障害、ホルモンの乱れ、
心臓病なども引き起こします。

発育中の胎児は特にダイオキシンの影響を受けやすく、流産や二分脊椎など、
胎児の脳や神経系の発達にも影響があると言われています。

ハフポスト記事;ダイオキシンによる障害を持って生まれた子供

 

退役軍人の健康問題と法廷闘争

アメリカでは、ベトナム帰還兵やその家族から、発疹などの皮膚の炎症、
流産、精神的な症状、2型糖尿病、子どもの先天性異常、ホジキン病や前立腺がん、
白血病などのがんなど、さまざまな症状が報告され、枯葉剤が問題になりました。

1988年、「ランチハンド作戦」に関わった空軍の研究者ジェームズ・クラリー博士は、

「1960年代に除草剤プログラムを開始したとき、除草剤に含まれる
ダイオキシン汚染による被害の可能性を認識してはいた。
しかし、敵に使うものだから、
誰も過剰に心配することはなかった

自分たちの仲間が除草剤で汚染されることなど考えもしなかった」

と述べています。

1979年に、ベトナムで枯葉剤を浴びた240万人の退役軍人による集団訴訟が起こされ、
5年後、法廷外の和解により、除草剤を製造した大手化学会社7社が、
退役軍人とその近親者に1億8000万ドルの補償金を支払うことで合意しました。

しかし、枯葉剤とその影響をめぐる論争はこれで終わったのではありません。

2011年6月の時点でも、いわゆる「ブルーウォーターネイビー」
と呼ばれる退役軍人(ベトナム戦争で潜水艦に乗船していた人々)が、

地上や内陸水路で活動していた他の退役軍人と同様に、
枯葉剤関連の給付金を受け取るべきかどうかについて議論が続いていました。

その問題は約2億4千万ドルの和解金で決着しました。

1991年、ジョージ・ブッシュ大統領はエージェント・オレンジ法に署名し、
枯葉剤被害による病気を労働災害とすることを認めています。

ベトナムにおける枯葉剤の影響

アメリカ軍人の問題は解決を見つつありますが、問題はベトナムです。

ベトナムでは、除草剤による環境被害と、
約40万人の死亡または負傷が報告されています。

また、50万人の子供が重い先天性障害を持って生まれ、200万人が
癌やその他の病気に苦しんでいると主張しています。

2004年、ベトナムの市民グループは、米国の退役軍人と和解した企業を含む、
30社以上の化学企業を相手に集団訴訟を起こしました。

枯葉剤の使用は国際法違反であるとし、数十億ドル相当の損害賠償を求めたものです。

しかしニューヨーク州ブルックリンの連邦判事はこの訴訟を棄却し、
2008年にも別の米国裁判所が上告を棄却したため、原告ベトナム人はもとより、
米国の退役軍人たちを激しく憤慨させることになりました。

なぜ米国政府はベトナムの化学兵器被害者への補償を拒否するのか。

それは、もし彼らの被害を保証することになれば、つまり、

「米国がベトナムで戦争犯罪を犯したことを認めることになるから」

に他なりません。

いったんそれを認めれば、その後は政府に対し、数十億ドル単位の訴訟が
雪崩を打って起こされることになることが明白です。

ゆえにアメリカ政府はそれをなんとしてでも避けなければならないのです。

 

■ 枯葉剤二世による救済活動

トラン・ティ・ホアンはベトナムで、ヘザー・バウザーはオハイオで育ちました。

しかしどちらもエージェント・オレンジの第二世代の犠牲者です。
ホアンは両足と片手の一部が欠損した状態で、ヘザーは右足、数本の指、
片足の爪先がない状態で生まれました。

重度の障害を抱えて生きてきた彼女らの経験は、他の多くの犠牲者に対する
各種の保護への運動を加速させることになりました。

ホアンはベトナムの救済組織であるVAVAとその米国側のパートナーである

「ベトナム枯葉剤救済&責務運動」

に協力しており、ヘザーは枯葉剤の第二世代生存者のために、

「ベトナム退役軍人の子供たちのための健康同盟」

を設立しました。
この写真は彼女らがワシントンDCで米国・ベトナムの枯葉剤犠牲者に
包括的な支援を提供する法案を推進している議員と会った時のものです。


■徴兵を逃れたアメリカ人と彼らの戦後

1960年代後半から70年代前半にかけて、約10万人のアメリカ人が
徴兵召集を避けるために海外に渡ったといわれています。

そのほとんど、約90%はカナダに行き、合法的な移民として受け入れられています。

また、何千人もの人々が、時には身分を変えて国内に潜伏しました。
加えて、約1,000人の脱走兵が不法にカナダに入国しました。

カナダ当局は一応公式には彼らを起訴または国外追放するとしていましたが、
実際には彼らは放置されたも同然で、カナダの国境警備隊は上から

「それらしい’アメリカ人にはあまり質問しないように」

とまで言われていたそうです。

ベトナム戦争が終わった後も、連邦政府は徴兵忌避者を起訴し続けました。
徴兵法違反で告発されたのは209,517人、正式に起訴されなかった人は約36万人に上ります。

カーター大統領が恩赦を発動する前は、カナダに逃れた者は米国に戻ると
実刑判決を受けることになっていました。
恩赦が出ても約5万人の徴兵忌避者がカナダへの永住を選んだのは、
そこで職を得たり地域社会に馴染んでいった人がそれだけいたということです。

彼らの中には、カナダ国民となって政治の世界に入っている人もいます。

■ Clemency Campaigns(徴兵拒否者救済プログラム)

ベトナム戦争時代、85万人もの男性が、徴兵制から、そして
軍隊から逃れ、犯罪者として扱われていました。

戦後、市民とベテランのグループは、これらの人々の赦免を求めて
大統領であったフォードと続いてカーターに訴えを続けました。
両大統領の政策は次の通り。

●フォード政策

フォード大統領は国家的な和解キャンペーンの幅を広げ、
彼らに課された刑事罰を是正すると発表しました。

有罪判決や処罰を受けていない者に対しては、24ヶ月間の
「代替勤務」と引き換えに恩赦を与えること、また、脱走であっても
有罪判決を受けた者に対しては、委員会を設置して事件を審査し、
可能な限り「政府の許し」を得られるようにしました。

●カーター政策

1976年の大統領選挙では、ジミー・カーター候補はそれを公約にして
大統領選を戦いました。

「和解のためには、国の傷をつなぎ、分裂の傷を癒す慈悲の行為が必要である」

大統領に当選後、カーターは、就任初日に選挙公約の実現として、
徴兵を逃れた何十万人もの男性に無条件で恩赦を与えました。

当時、この恩赦は退役軍人団体をはじめ、非愛国的な「犯罪者」を
無罪放免にすることに反対する人たちから多くの批判を受けました。

たとえばアリゾナ州上院議員のバリー・ゴールドウォーターなどは、この恩赦を

「大統領がこれまでに行った最も不名誉なこと」

とまで呼びました。
カーターはこれに激怒し、最後まで彼を許さなかったそうです。


逆にアムネスティ団体は、脱走兵や不名誉除隊者、暴力的な反戦デモ参加者などが

恩赦の対象になっていないという理由でカーターを非難しています。

左派は、白人中産階級の徴兵逃れが、貧困層の脱走兵よりも優遇されている、
と言う理由で非難しました。

選挙ではベストはなく、ベターを選ぶしかないのだという言葉を思い浮かべますね。
全てを満足させる政策などこの世には存在しないってことかもしれません。

 

続く。

 


彼は何故撃たれたか〜映画「シン・レッド・ライン」

2021-07-25 | 映画

映画「シン・レッド・ライン」、最終回です。

日本軍の高地にあるキャンプの攻略に成功したC中隊。
狂乱の後の虚無ともいうべき時間が訪れていました。

頭に掛けていた水を葉っぱにかけて水滴が転がり落ちるのを見ているのは
ウィット二等兵でしょうか。(ベルと俳優が似ていて見分けがつかないときがある)
彼は水をすくいながら、脱走して滞在していた原住民の村の海を思います。

 

何度もこだわってみますが、タイトルの「シン・レッド・ライン」と同じ状態だった
日本軍の防御は、むしろ飢餓状態に陥って戦力を欠いていたことで壊滅しました。
歴史的故事とは程遠い結末となったわけです。

ますますこのタイトルの真意がわかりかねるのですが、次に進みます。

一方、トール中佐は、スタイロス大尉にいきなり引導を渡しました。
指揮権を取り上げる、という強い言い方で、解任を申し渡したのです。

部下の命を優先して中佐の命令に従わなかったことが原因でした。
表向きはマラリアにかかったということで勲章付きの実質クビです。

作戦を成功させたC中隊には、ウェルシュ軍曹から1週間の休暇が申し渡されます。

「腕の中で部下が死んで行ったことがありますか」

このスタイロス大尉の問いに、トール中佐は何も答えませんでした。

しかし彼が出世に貪欲で冷酷無比なだけの男でないことはこのカットに表されます。
彼の視線の先には、足の指に認識票の付けられた米兵の遺体がありました。

(ニック・ノルティ出番終わり)

スタイロス大尉の解任は、部下たちにショックを与えました。
自分たちを守ろうとして正面攻撃の命令を拒否をしてくれたことを知っていたからです。

しかし大尉は、彼らを慰めるためにむしろ帰れるのは嬉しい、といいます。
そしてギリシャ語でこういいます。

「”君らは息子みたいなものだ”」

それを聞く部下の目には光るものが・・・。

日本軍の駐屯地が焼き払われていきます。
竹を吊った鳴子、南洋の植物でこしらえた生花のような鉢、そして
まさかの仏像が炎に包まれていくのでした。

「パールハーバー」でも、確か日本軍の軍艦内に仏像があって、
狭い艦内でローソクをボーボー燃やしていた記憶がありますが、
この、格段に日本という国に対する理解度のアップしている映画においても、
ついうっかりこんなことになってしまうのは残念です。

日本人は偶像崇拝をしません。
まあ、この頃の限定で御真影に礼をするということはあったかもしれませんが、
こと宗教に関する限り、八百万の神があっちこっちにいる関係で、
手を合わせる対象は太陽だったり祖先だったりで、少なくとも
こんな大きな仏像を野戦地に持ち込んで拝んだりはしないものだと思います。

考えてみてください。
家に仏壇(祖先を祀っている)はあっても、仏像を持ち込んで拝む人っていませんよね。
仏像はお寺にあって、その寺の歴史や言われとともに信仰を集めるものです。

この映画の面白さは、何回も見るうちに気づく細部にもあります。
たとえば休暇が決まって湧き立つ兵隊たちのシーンですが、

トラックの上にも、この飲み物が配られている集団にも、
何人かの兵が日本軍の基地でゲットした寄せ書きの日の丸を振ったり、
あるいは肩に引っ掛けたり、手拭いのように頭からかぶったりしているのが見えます。

そうやって戦利品としてアメリカ兵が持って帰り、戦後
本人が死んだり、持て余したりして、地方の博物館に流れてきた
数え切れないくらいの寄せ書きの日の丸をわたしはこちらで見てきました。

いい土産とばかりに持って帰ったものの、戦争も終わり、
そんなものを持っていても自慢にならないどころか、ふと我に帰ると、
敵とは言え日本人の遺品を手元に置き続けるのにも何やら後ろめたさというか、
(アメリカ人にそういう感覚があるのかどうかはわかりませんが)
一種の「ゲンの悪さ」を感じた結果なのだろうとわたしは思います。

それは「悔恨」あるいは人間的な「良心の目覚め」からきたものだとしましょう、
ここにもすでに己が戦場で犯した「通常なら犯罪、しかし戦場では無罪」の行為を
後悔している人物がいました。

日の丸の寄せ書きや血のついた時計を持って帰った米兵のように。

死にかけの日本兵を挑発しながら、遺体の口から金歯を抜いて集めていたデールです。

いまさら彼の中で何が起こったのでしょうか。
金歯を入れた袋を手にして、彼は荒く肩で息をつき、あの日のことを反芻していました。
死にかけている日本兵の言葉を。

「貴様も・・死ぬんだよ・・貴様も・・・」

言葉は理解せずとも、それが自分に、自分の生に投げかけられた
永遠の呪詛であることだけはわかるのです。


彼は瘧(おこり)にでもかかったように激しく震え、なぜか後方に向かって
(そこには日本兵のヘルメットが積まれている)投げ棄てます。

そして天を仰いだその耳には、日本兵の笑い声が響いているのでした。

彼は自分で自分を抱くようにして嗚咽し続けます。

ストーム軍曹(ジョン・C・ライリー)はウェルシュ軍曹に、
戦場での命は全て運にしか過ぎないから何を見ても何も感じない、といい、
ウェルシュはそれに対しこう言います。

「自分はそこまで無感覚になれない。君らと違って。
先が見えるからかもしれないし、下から麻痺していたのかもしれないが」

兵隊がワニを捕まえました。
ワニはこの映画の一番最初に出てきた生き物です。
これから喰われるワニを取り囲んだ兵隊たちは、一様に厳粛な顔をしています。

ベル二等兵がことあるごとにその姿を思い浮かべ、心の支えにし、
自分の存在を「解き放ってくれた」とまで手紙に書いた彼の妻が別れを告げてきました。

「空軍大尉と愛し合うようになったから別れてください」

これは酷い。
戦地にいる夫に、しかも戦前は将校だった夫、今は事情あって二等兵の夫に向かって、
代わりに好きな将校ができたから離婚しろとは。

「あなたはきっとノーと言うでしょうね。
でも、とにかくわたしたちが一緒だったことを忘れて欲しいの」

(字幕は誤訳で『私達の思い出のためにも同意して欲しい』となっている)

 

何度か見ていて気づいたのですが、彼女の後方にこちらに向かって歩いてくる男性がいます。
どうも陸軍の軍人のようなので、おそらくこれが「空軍大尉」でしょう。

ちなみに、アメリカでこの時代空軍は存在しませんから、彼女の相手は当然
陸軍パイロットということになるわけですが、1941年には
"Air Corps"から "US Army Air Forces" に改称されているとはいえ、
日常的にたとえば空軍大尉は"Air Force Captain"とは言いませんでした。

正解は"Air Corps Captain"となります。

ベルは読み終えるまで落ち着きなく髪の毛をかきあげ、
鼻の下を擦りながらなぜか薄ら笑いを浮かべ、
資材や燃料の置かれた飛行場をふらふら歩き回るのでした。

ところでこれ何?

ウィットは1週間の休暇に以前滞在した原住民の村を訪れました。

しかし、以前と違い村人は彼を冷たい目で見るばかり。
よからぬものを持ち込む災厄とばかりに不信感をあらわにするのでした。

ウィットは疎外感に打ちひしがれて村を後にします。

基地に帰る途中、彼は膝を壊して置いてけぼりにされた兵士、アッシュと会いました。
帰隊するのを助けると言うと、かれは明るく言います。

「おれはこの戦争を降りるよ、ウィット」

「ここは静かで平和だ。足手まといになるし、そのうち誰かくるだろう」

「そう言っとくよ」

うーん、それって「脱走」というやつなんでわ?

隊に帰ってきて兵隊たちが日常生活を送っている姿を見る彼の目が、
潤んできて涙が一滴溢れるのですが、この涙がなんなのか説明はありません。

自分がかつてより良い場所を求めて逃避した原住民の村でなく、
逃げ出したはずの隊にしか自分の居場所はないことを知ったからでしょうか。

青い鳥は自分の家にいた的な?

そして、鑑賞者をさらに煙に巻くように、ウィットとウェルシュの間に
「分裂症じみた」会話が交わされるのでした。

要約すると、ウェルシュがウィットの存在を気にかけていることを
隠していてもウィットは見抜いているということです。(たぶんね)

「曹長殿は寂しくなったことはありませんか?」

「人が周りにいるときはなる」

「人がいると?」

「お前は今でも美しい光を信じているのか?どうだ?
お前は俺にとって魔術師なんだ」

「おれにはあなたにまだ火花が見えてますよ」

うーん。わけわからん。
そもそも軍隊で上官と部下がする話じゃないだろこれ。

1週間の休暇を終えた中隊はまたしても次の戦闘任務を行います。
胸まで浸かる沢を渡りながら、彼らは砲撃の音を耳にしました。
しかも近づいてきています。

ベル(二等兵なのに)にここは危険だから脱出すべき、と言われるのですが、
スタイロスの後任の隊長バンド大尉は、すぐに決断を下さず、斥候を出すなどと言い出します。

ウィットは適当に斥候に指名された(近くにいただけ)ファイフとクームスを
庇うように、自分も一緒に行くと名乗りをあげ、そしてどちらにしても
ここにい続けるのは拙い作戦だと進言します。(二等兵なのに)

沢を警戒しながら進む3人の斥候を見ているミミズク。

敵の増強部隊(そんな余裕が日本にあったとは思えないんですが)に発見され、
銃撃を受けたクームスが倒れます。

遠くにその銃声を聞いて沢に身を伏せる中隊のメンバーを凝視するコウモリ。
まるで愚かな人間たちの行いを監視しているようです。

ウィットは、ファイフに自分が残って食い止めるから隊に戻れと指示します。
ウィットに生存の意思がないのに気づくファイフでした。

クームスを置いて(見捨てて)移動するウィットの足音を、この日本兵は聞きつけます。

隊に戻ったフィフが真っ先に発した言葉はただ、

「敵が来るぞ。隠れろ!」

ベルがウィットのことを尋ねても
呆然としていてしばらく何も聞こえない状態。
というか、ここにどうやって隠れるんだって話ですが。

そのウィットは一人で日本軍を引き付けていました。
鳥の声を真似ながらジャングルを沢と違う方向に走ります。

ジャングルを抜け、広場のような草地に躍り出た瞬間、彼は自分が
四方を囲まれていることに気がつきました。

ところで、周りを囲んでいる日本兵たちは、どう見ても「餓島」と言われた地で
補給が途絶え、食糧の不足で絶望的な状態にあるようには見えません。
みんな頭に草の葉っぱを載せて元気いっぱい走り回っております。

「降伏しろ!」

先ほどアップになった日本兵が(将校かもしれません)ウィットに呼びかけました。
周りには、彼に銃を向ける何人かと、その外側に銃を向けて警戒している兵がいます。
(この辺りがなかなか細やかな演出だと思った次第)

日本兵は怒鳴ることなく、

「お前か?俺の戦友殺したの」

と語りかけてきますが、今回も英語で字幕はありません。

「わかるか。俺は。お前を殺したくない」

その言葉に対してウィットが浮かべるのが冒頭画像の表情です。

「わかるか。俺は、お前を殺したくない」

二度目の同じ言葉は、泣く寸前のようです。

「もう囲まれてるぞ。すぐに降伏しろ」

軍人であればもう少し声を張り上げそうですが、極度の緊張のせいでしょうか。
そして、次に

「お前かあ・・・俺の戦友殺したのは」

今回のは質問ではなく、探していた相手を見つけた、という調子で。
そして、

「俺は」

と言いかけて、

「動くな」

いきなり声を張り上げ(同一人物とは思えない声で)

「とまれええ!降伏しろお!」

それまでただ呆然と立ち尽くしていたように見えたウィットは、
むしろその声に促されたかのように、ゆっくりと銃を持ち上げ・・

撃たれました。

なぜ彼が投降しなかったかについては、可能性の高そうな仮定として、
自分が犠牲になることで中隊の全員を守ろうとした、としておきます。

捕虜になって仲間の居場所を尋問されることまで考えたかどうかはわかりませんが。

彼が助かるつもりがなかったことは、最後の瞬間の動きが
妙にゆっくりしていることに表現されていると思いました。

彼は撃たれるために銃を構えたのです。

南洋の海で現地の子供達と海に潜った残像が彼の網膜をよぎった(という設定)。

後日、中隊はウィットの亡骸を発見し、その場に葬ります。
一人残ったウェルシュ軍曹は彼に声をかけるのでした。

「お前の輝きはどこにある?」

そしてウェルシュいうところの「反吐が出る」陳腐な演説を
張り切って行う新しい隊長、ボッシュ大尉。

言わずと知れたジョージ・クルーニーですが、本当に一瞬だけの出演で、
しかもウェルシュに言われるまでもなく滑稽な役回りです。

「我々は家族だ。お前らは息子、俺は父親でウェルシュ軍曹は母だ」

皮肉なことに、この訓示の「君らは息子」はスタイロス大尉の言い残した言葉と同じです。

(あほくさ・・・)

帰国する兵士たちが岸に向かっています。

彼らの視線の先には夥しい数の十字架が・・・・って、
なんで墓地のあちこちでスプリンクラー(水撒き機)が回ってるんですかね。

この輸送船は、ロイヤル・オーストラリアン・ネイビーの
HMAS「タラカン」にしか見えないんですが、もちろん当時は存在しません。

この船に乗る有名どころはショーン・ペンのみ。

皆、帰国してからのことを言葉少なに話し合っています。
誰もがこの戦場で何か大切なものを無くしてきたと感じているのかもしれません。

ところで、えーと、こんな人いたっけ?

この最後のシーンにはペンをのぞいて「普通の人」ばかりしか登場しません。

から誰?

「おお、私の魂よ 私をその中に導きたまえ」

これが最後のモノローグです。

ところで、もう一度最後に「シン・レッド・ライン」とはなんだったのか、
恐る恐る仮説を立ててみたいと思います。

戦況的には最後の防御線を張ったのは高地における日本軍であり、
日本を表す「赤」はこの言葉とリンクしますが、もちろんそれは違うでしょう。

踏み込んだ解釈をするなら、それは人の精神のどこかにある一線であり、
戦場にあって、人が何かを守るための最後の戦いをする防御線ではないでしょうか。

人によってはそれを宗教と呼び、また別の人は良心と呼ぶかもしれません。

もっと物理的に、生と死を分ける境界線(つまり偶然)を指しているかもしれません。

この映画は史実によるガダルカナル戦とは大きく異なっています。

そもそも主体となるのが海兵隊ではなく、(映画では海兵隊が壊滅したからと言っている)
陸軍であることからしてアウトですし、その他映画的な荒さも目立ちますが、
戦争を素材にして哲学と真理を探究しようとしたと解釈するべき作品でありましょう。

従来ステロタイプで描かれがちな日本軍兵士をもその一部に参加させるなど、
まるで戦争小説を読んでいる誰かの心をそのまま再現しようとしているようです。

とても一筋縄では理解し難い?作品だと感じました。

 

終わり。

 


捕われた日本軍〜映画「シン・レッド・ライン」

2021-07-23 | 映画

映画「シン・レッド・ライン」2日目です。

この戦いが今後の地位を決定するため後がないトール中佐命令によって、
弁護士出身のスタロス中佐指揮するチャーリー中隊は、日本軍が陣地を構築する
丘の上を攻略しようとしています。

高所からの砲撃と狙撃によって多くの命を失いながらも、そんな中
日本軍が撤退しているらしい様子に感づいた中隊ですが、
激しい戦闘ストレスはすでに何人かの兵隊の精神を蝕んでいます。

「俺はもう嫌だ!」

錯乱して叫ぶマクロン軍曹(ジョン・サヴェージ)を、周りは呆然と眺めるだけ。

狙撃されたテッラ二等兵(カーク・アベセド、『バンドオブブラザーズ』にも出演)
に駆け寄るウェルシュ軍曹(ショーン・ペン)。

もう動かすこともできない彼には、周りの死体から集めた
モルヒネの缶を最後に渡してやることしかできません。

「さよなら、曹長どの」

彼を残してまたもや弾丸を潜って帰ってきたウェルシュに、

「明日叙勲の申請を」

とスタイロス大尉がいうと、

「もしそんなことをしたらすぐにやめてやる。
そしたらこの無茶苦茶な隊をあんた一人で仕切ることになりますぜ!」

うーん、ウェルシュ軍曹、怒ってます。

「勲章?くだらねえ」

まあ、こういう状況で何が勲章だ、と誰でも思うでしょう。

「何してるんだ?窪みに寝てるじゃないか!
今すぐ敵の機銃をクリアしろ!オーバー!」

膠着中のスタイロス大尉のもとにトール中佐からはガンガン電話がかかってきます。

「斜面でたくさんやられて・・・2分隊なら出せますが」

するとトール中佐、ヘルメットを地面に叩きつけ、

「ガッデム!全員を今すぐ動かして戦わせろ!」

側面のジャングルから偵察を出して攻撃するべき、
というスタイロスにトールは激怒し、あくまで正面突撃を行わせるように言います。

するとスタイロスは命令を拒否し、言うに事欠いて

「こちらには二人、そちらにも証人がいます」

「営倉の弁護士みたいな言い方はやめろスタイロス!
君がろくでもない弁護士だったことは知ってるぞ!

ここは法廷じゃない!これは戦争だ!いまやってるのは戦闘だ!」

それでもスイタロス、一歩も引かず、その攻撃は自殺に等しい、
2年半一緒の部下をしに追いやる命令はできない、と動きません。

するとトール中佐、自分がそこに乗り込む!と荒々しく電話を切ってしまいます。
そのあと、スタイロスはギリシア語で何か言うのですが、それは

「Ta echi chasi aftos」(彼はそれを失った)
「xery tee moo lay」(彼は自分が何を言っているかわかってない)

という批判的な言葉でした。



その間にも負傷で死んでいく兵。(一コマ出演)
ビード二等兵役のニック・スタールは「ターミネイター3」のジョン・コナー役です。

怒りに任せて山中を駆け上ってきたように見えるトール中佐。
この映画の不思議な(分裂症的な?)ところで、トールの内心の声は以下の通り。

「墓場に閉じ込められた。蓋を開けられない。
俺は思いもよらない役割を果たしてる」

部下の命を案じて突撃できない中隊長の尻を叩いて多くの兵を殺す役割。
それがトール中佐の望んだものではなかったことは確かです。
今彼は自分で自分をどこかから第三者として見ているような感覚に陥っています。


しかし、その役割を果たすべく、今度こそ反対できなくなった中佐に
「俺のやり方で」日没までに高地を攻略する、と強い口調で言い切るのでした。

斥候を命じられたベル二等兵。
ベルは昔将校だったらしいのに、この戦争では二等兵です。

軍隊を辞めたあと戦争になり、兵卒で参加したということでしょうか。

そして彼は、またもや草むらを匍匐前進しながら妻のことを思うのでした。
揺れるレースのカーテン、海に腰まで浸かってこちらを誘う妻。

そんな妄想をしながらも、敵のバンカーには機銃が5門あることを突き止めます。

トール中佐はさっそくトーチカを攻略する志願者を募りました。
間髪入れず名乗り出たのがベル二等兵です。

 

その晩、ウェルシュ軍曹は脱走して懲罰部隊に入れられたウィット二等兵に、
またもやちょっとした語り掛けをするのでした。

「お前ができることなんてこの世の中でどんな意味がある?
この狂気の中で一人の男ができることなんて。

死んだとしてもそれっきりだ。
全てがうまくいく別の世界なんてありゃしないのさ。

世界はここだけだ。この島(ロック)だけ」

どこからともなく現れた野犬が、遺体の肉を喰らう闇の中、

精神が壊れたマクロンが一人叫んでいました。

「俺を撃つやつは誰もいない!」

攻撃の朝が明けました。
もしかして人生最後となるかもしれない朝、皆の表情は沈鬱です。

攻撃開始。

トーチカまで接近し、砲撃を指示後、敵基地まで突進した偵察隊は、
(一人やられて)6名の拳銃と手榴弾だけでトーチカと守備隊を殲滅。

「クリア!」

ちょっとこのシーケンスが都合よすぎというか、敵の弾は当たらず
こちらの攻撃だけがうまくいきすぎて安易な展開という気がしますがまあいいや。

手を挙げて出てきた日本兵を罵り蹴飛ばし殴り撃ち殺すクィーン伍長。
輸送船の中でキレまくって叫んでいた男です。
まあそういう人はこういうことをするってことです。

ドン引きする、極めて常識人のベル二等兵。

「一人殺した」

と呟き、誰かと抱き合います。

ここからちらほら?日本の俳優が顔を出すのですが、
アメリカと日本のサイトでの情報が不確かすぎて、誰が誰かわかりません。
米サイトによると、将校役は光石研信太昌之、となっていますが、
日ウィキだと光石さんも信太さんも兵隊とされています。

捕虜となった日本軍兵士たちも、彼らを見る米軍兵士たちの表情も様々です。

何やら拝んでいる兵、何やらぶつぶつ呟く兵。
すすり泣く者、細かく壁を叩く者・・・。
同じ日本人から言わせてもらうと、どうも日本人らしくないという気もします。

じゃどういうのが日本人なのかと言われると、やっぱりじっとして、
アメリカ人からは無表情に見える諦めの沈黙に徹するのではないかなあ。

遺体と日本兵たちの体臭が臭い、と文句を言い、
そんならタバコを鼻に詰めろといわれてその通りにしているデール1等兵。

日本兵たちに向かってなんとなく手を振ってみたりしております。

一方、アメリカ人の視線を剛然と見返していた将校は、
ウィットが差し出した食べ物から目を背けました。

偵察攻撃を成功させたガフ大尉(ジョン・キューザック)に、
トール中佐はもうごっきげんで、兵たちへの勲章の授与を請け合います。

実は肝心の水の補給が足りていなかったりするのですが、
この勢いでもう一押しやって、勝利を確実にしたくてたまらないのです。

「水など!喉が乾いて倒れたらそのまま放っておけ」

ガフ大尉、一瞬押し黙って、

「もしそのまま死んだら?」

「敵の弾でも死ぬぞ!」


この作戦成功=出世のためにはなりふり構わないトール中佐の役を、

ハリソン・フォードが断ったわけがなんとなくわかる気がします。

演じられるられない以前に、あまり彼のトール役が想像できないというか。
フォードってほぼ主役の正義の味方しか演じたことないですよね?
「What lies beneath」は思いっきり悪役だけど、これピカレスクものに近いし。

トール中佐は、言い訳のように

「君は出世し損なう気持ちを知らんだろう。
君は士官学校出たてですぐ戦争にありついた。
しかし俺にとってはこの15年で初めての戦争だ」

言い、なおも哀れみを称えたようなガフ大尉の視線に、

「君もいつかわかる」

あまりわかりたくねえなあ、とガフ大尉は思っていたことでしょう。

 

結果的にニック・ノルティが適役だったんじゃないかな。
とにかくトールの足掻きっぷりを描き切った演技は見ものです。

囚われの日本兵とそれを見遣るC中隊のメンバーの姿が執拗に描かれます。

フィフ伍長は、

「君はたくさんの死人を見たか?」

と心の中で語り出します。
「君」とは、手榴弾のピンを抜いてしまい死んだストーム軍曹。
もちろん死んだ人に語りかけているわけです。

「たくさん。死んだ犬と変わりないさ。慣れさえすれば」

ストームの答えがこれですが、一体彼はどこでそれを見たのでしょうか。

「俺たちはしょせん肉の塊なんだよ、若いの(キッド)」

戦友の遺体に手を合わせる者もいます。

そして、ウィットのには、顔面だけを残して土に埋まってしまった
(あるいは顔だけ残されて後は無くなった)日本兵の顔が、こう語りかけてくるのでした。

「君は正しい人?親切な人?このことに自信を持ってる?」

このこと、とは、日本兵が顔の皮だけになるにいたった行為のことです。

「人に愛されているかい?僕が愛されていたように。
善や真実を愛したからと言って、自分の苦しみが減るとでも想像しているの?」

 

そしてトールのいうところの「この勢いで制圧」を目指す攻撃が始まりました。
それを迎え撃つ日本兵は、むしろ覚悟を決めているように見えます。

どこかで日本人の描き方が人種差別的、侮蔑的であるという感想を見ましたが、
このシーンと、ベルに語りかける「日本兵の顔」のシーンだけからも、
わたしは決してそんな意図は監督にはなかったと断言できます。

ところで、ふとこの段階でタイトルの「The thin red line」を思い出して、
わたしはあることに気がつき、愕然としました。

クリミア戦争における「赤いライン」は、アメリカ軍ではなく、
どう考えても状況的に今のこの日本軍であることに。

しかし勿論この後、日本軍の基地はあっけなく制圧されます。
なぜなら、彼らは補給の途絶えたガダルカナルで飢餓状態に陥った末、
戦う以前にほとんど食糧不足で壊滅しかかっていたからです。

むしろそんな状態の日本兵士のなかにあって、万歳突撃で散ることを覚悟した
先ほどの一団を描く、そこには製作者の畏敬をすら感じさせます。

聞き取れる日本語は、

「カミキ行くぞお!」「手も足もいうことをきかん!」

そして雄叫びをあげながら突入し、やられてしまう・・。

武器を持たず、最初から手を挙げて降参しようとするのは軍属でしょうか。
この一連の一方的な「殺戮」のシーンで流れる音楽は荘重で悲壮です。

中には壕に逃げ込んで自爆する兵もいます。

彼らを見ながら今度はトレインが呟きます。

「この巨大な悪 どこからきたのか?
どうやって世界に忍び込んだのか?」

「どんな種、どんな根から育ったのか?
誰がこれを行っているのか?
誰が我々を殺した?
人生と光を奪ったのは?
わたしたちが知っていたかもしれない光景を見て嘲笑っているのは誰?」

銃を傍に置いて日本兵の手を取り肩を抱き寄せる米兵。
しかし、次の瞬間彼は味方の銃で撃たれて死にます。

こういうシーンがあまりにも切れ目なく続くため、普通に観ているだけでは
因果関係を結ばぬうちに次に行ってしまい、気づかない人もいるでしょう。

もう一つの問題は、繰り返しますが、モノローグです。

英語字幕では誰が言っているかが表されるのですが、字幕がないと
それを誰が言ったかまったくわからないままです。

トールなのかダールなのかフィフなのか、ベルなのかウィットなのかトレインなのか。
(あれ?名前が全員一音節だ・・・・これ偶然じゃないですよね)

 

しかも最初に指摘したように、この人たちの呟きはほとんど同じ内容であるため、
声の違いを聴き分けることもほとんど不可能なのです。

しかし、誰がいつ呟いているのか分からない状態で観ている身には
理解が追いつかなくても無理からぬことと思われます。

しかも、これらのモノローグのほとんどはオリジナルではなく、
映画にもなった「此処より永遠に」から引用されていて、
キャラクターへの認識を混乱させる原因になっています。

トレイン;

「我々の破滅が地球の糧か?草を育て太陽を輝かせるのか?
あなたの中にもこの闇があるのか?
この夜をやり過ごしたことがあるか?」

(『あなた』って誰〜!)

デールは日本軍の上等兵の傍らにわざわざ寝そべり、銃を腹に当てて

「その歯を肝臓にめり込ませてやろうか」

とからかい出します。

「お前は死ぬんだ」

そして空を見上げて

「あそこの鳥が見えるか?お前の生肉を食べるんだ」

うーん・・・悪趣味なやつ。

「お前が行くのはそこからもう帰って来られないところだ」

そして指をダメダメ、というように振ると、日本兵はそれに対し、

「貴様・・・」

「ん?」

「貴様・・・」

「ん?」

「いつか・・・いつか死・・死・・死ぬんだ・・貴様・・死ぬんだよ」

この上等兵の日本語は翻訳されることはありません。

おそらくデールが相手が何を言っているのかわからなかったように、監督は
アメリカ人の観客にもデールと同じ立場を与えたかったのではないでしょうか。

もっとも、アメリカの映画サイトでは日本語が理解できる人がこれを翻訳し、

Kisama とはフレンドリーでない「あなた」の意味で「汚いやつ」、
Moは「too」(もまた)、Itsuka は "someday or sometime, one day etc."
Shinu は "to die".という意味の動詞、"Da yo" は強調と感嘆符の語尾

とわかっているようで少しわかっていない解説をしていました。
日本語ムツカシネー。

日本人だけを貶めて描いているように観た人は、おそらくこういう場面を
見落として、視点の公平さを見誤っているのではないでしょうか。

一瞬なので、DVDで何度も観た人しか気づかないのではないかと思うのですが、
鼻にタバコをつっこんでいる男(多分デール)は、いくつもの金歯を手に持っています。

もちろん日本兵の死体から盗んだものです。
彼は数えていた金歯をしまいこむと、別の日本兵の死体に座ったままにじり寄り、
その頭を抱え込んでナイフを構えるのでした。

しかし、デールがこれを以て悪人だと断じるべきではないでしょう。

それ(たとえば死体の歯を抜くこと)をできるかどうかは
その人間の資質によって変わってくるでしょうが、
たとえどんな資質を持った人でも、平時であれば
決して行わないことをしてしまうのが戦争だからです。

米兵たちが座り込む中、瀕死の戦友を抱き抱え、嗚咽する日本兵。

一連のシーケンスで流れる音楽は、ジマーのオリジナルではなく、
チャールズ・アイブズThe Unanswered Question」(答えられざる疑問)です。

Ives: The Unanswered Question / Premil Petrovic / No Borders Orchestra

さて、先ほど「シン・レッド・ライン」の状態であったのは日本軍だった、と書きました。
しかし、語源となった故事とは違い、日本軍は何もかもが勝る米軍に屈したわけです。

 

それではこの言葉をタイトルにした真意とはどこにあったのでしょうか。

 

続く。

 


「シン・レッド・ライン」の歴史的意味〜映画「シン・レッド・ライン」

2021-07-21 | 歴史

コアな鑑賞者や専門家から軒並み高い評価を得る映画というのは、
得てして
一般大衆からの人気を得ることができないものですが、
この作品は
その典型のようなものだと思われます。

1998年、テレンス・マリックの監督・脚本によって、日米戦、
あのガダルカナルの戦いを実話ではなく架空の物語として描いた

「シン・レッド・ライン」(The Thin Red Line)

は、キャスティングの段階ですでに大変な話題を呼びました。

しばらく活動を休止していたマリックが久しぶりに映画を作るという情報が流れると、
数多くの有名俳優が、殺到という言葉が相応しいくらいのアプローチをしてきたのです。

ブラッド・ピット、アル・パチーノ、ゲイリー・オールドマン、ジョージ・クルーニーなど
一流の俳優たちが、わずかな金額でもいいから(中には無料でもいいという人もいたとか)
仕事をしたいと申し出、ブルース・ウィリスは、出演について話をしにきてくれるなら、
キャスティングクルーのためにファーストクラスのチケット代を負担するとまで言いました。

ジョシュ・ハートネットはこの作品のオーディションを8回受けるも、不採用。

出演が決まる前にマリックに会ったショーン・ペンは、

「1ドルでいいからどこに行けばいいか教えてくれ」
”Give me a dollar and tell me where to show up."

とまで言ったそうです。

制作側からはロバート・デ・ニーロ、トム・クルーズにも打診が行われたそうですが、
オファーのあまりの殺到ぶりに、キャスティング・ディレクターは、
これ以上のリクエストを受け付けないと発表しなければならないほどでした。

監督は、そのほかにもジョニー・デップ、マーティン・シーン、ケビン・コスナー、
ディカプリオ、マシュー・マコノヒー、イーサン・ホーク、ウィリアム・ボールドウィンなどに
役割を検討し、実際に会って話をしているそうです。

ただ、ハリソン・フォードはニック・ノルティが演じたトール大佐の役を断り、
ニコラス・ケイジなどは、マリックが二度目にキャスティングの話をしようと電話をしたとき、
電話番号が変えられていて連絡が取れなくなっていたそうです。
ちゃんと断れよケイジ(笑)

しかし、贅沢というのかなんというのか、そうやって山ほどの俳優のラブコールを断っておきながら、
やっとのことで出演にこぎつけたジョージ・クルーニーはほぼ端役扱いで一瞬だけ、
本人は自分が主役だと思っていたエイドリアン・ブロディ(『ピアニスト』の主役)は、
撮影したはずのシーンのほとんどがカットされていて、
彼はプレミアで観たときに初めてそのことを知って愕然としたそうですし、
もっとひどいことに、ゲイリー・オールドマン、ミッキー・ローク、マーティン・シーン、
その他のように、撮影したはずなのに完成版にはどこにも出演していない、
つまり出演箇所が全てカットされてしまったなどという俳優たちもいました。

これを剛気(あるいは俳優の無駄遣い)と言わずしてなんと言う。

そして、もはや映画が一流かどうかはこの人がスコアを書いているかどうかで決まる、
(とわたしが勝手に定義しているところの)ハンス・ジマーの起用。

戦争映画としては画期的なカメラワーク、淡々と紡がれる哲学的なモノローグ。

ついこの間紹介したそのドイツ軍版である「ライプシュダンダルテ」は、
改めてこの作品のヨーロッパ版を狙ったのに違いない(つまり二番煎じ)と思われました。

 

その結果、評論家は百点満点で78点、レビュー集計サイト「Rotten Tomatoesm」では
80%の支持率を得ているなど、概ね評価の高い作品ではありますが、
一般の意見を覗いてみると、(もっともこれは日本人の感想ですが)

「全く面白くない」「意味不明」「よくわからない」

というのがちらほらあって、これはある映画評論家の言うところの

「混乱していて未完成な感じがする」

「分裂症的なところが偉大という評価から遠ざけている」

という部分が、エンタメを求める鑑賞者に分かり難さを与えているのだと思われます。

わたしには特にわかりにくくも意味不明とも思えませんでしたが、
「ライプシュタンダルテ」に退屈したという鑑賞者が一定数いるように、
戦争映画に活劇的スリルやわかりやすいドラマを求める向きには
確かに面白くもおかしくもないであろうという気はしました。
映像はともかく、それに付随するセリフがその大きな原因です。

たとえば、トレイン二等兵のモノローグ、

「この偉大な悪は、どこから来たのか?
どうやって世界に忍び込んだのか?
どのような種、どのような根から成長したのか?
誰がやっているのか?
誰が我々を殺し、我々から命と光を奪い、
我々が知っていたかもしれない光景を見て我々をあざ笑っているのか?
私たちの破滅は地球のためになるのだろうか?
草の成長や太陽の輝きを助けるのだろうか?
この闇はあなたの中にもあるのか?あなたはこの夜を通り過ぬけたことがあるか?」

こんなポエムが続くと、結構うんざりする人もいることでしょう。


ただ、評論家に「混乱」「分裂症」と言わせる部分の正体については、
この項を締め括るときに結論できればいいなと考えております。

さて、本題に入る前に、例によってタイトルについて話しておきましょう。

さすがの日本の配給会社も、この映画に「南海の死闘」とか「太平洋の悲劇」とかいう
どこにもありそうなタイトルをつけるのははばかられたと見え、大人しく(?)
原題のままの(ただしThe抜きで)「シン・レッド・ライン」を採用しています。

これは、当ブログ映画部から見ても英断というか当然の帰結で、
逆にこれ以外のタイトルがありうるのかと聞きたいくらいです。

しかしながら、この言葉が全く日本の鑑賞者に理解されていないにもかかわらず、
配給側からは、まったく説明を行おうという努力がなされていないように見えます。
(ならなんで今回に限って原題をそのまま採用したんだ、と意地悪く思うわけですが)

そこでネットを検索したところ、日本語ではほぼこの言葉についての情報が
ゼロのようですので、
映画の説明に先立ち、この語源から紐解いていきたいと思います。

「The Thin Red Line」

薄い赤色のライン、意味はそのままです。
この赤とはなんであるか、というと、赤い軍服を着た兵隊たちの作る防衛線です。

この言葉は、ラドヤード・キップリングの詩「Tommy」(『Barrack-Room Ballads』)
の一節からの引用です。

Then it’s Tommy this, an’ Tommy that, an’ “Tommy, ‘ow’s yer soul?
” But it’s “Thin red line of ‘eroes” when the drums begin to roll,
The drums begin to roll, my boys, the drums begin to roll,
O it’s “Thin red line of ‘eroes” when the drums begin to roll.

この詩の中で、キップリングは英国の歩兵(トミー)を
「the thin red line of heroes」(細く赤いラインの英雄たち)
と呼んでいますが、これはクリミア戦争の「バラクラヴァの戦い」における
第93連隊の兵士たちを指しているのです。

クリミア戦争は、1853年に始まり、3年後の1856年に終結しました。

オスマン帝国、イギリス、フランス、サルデーニャの連合軍が、
クリミアに侵攻し、ロシアの潜在的な拡大を阻止すること目的としたものです、

クリミアの小さな港町バラクラヴァを確保するために、
イギリス軍、フランス軍、オスマン・トルコ軍の大部隊が派遣され、
保塁地が作られましたが、2,500人以上のロシア騎兵が攻め込んできました。

ロシア軍は熟練した騎兵を中心に構成されており、機動力に優れています。

オスマン・トルコ軍は防衛線を維持することができず、
サザーランド・ハイランダーズ第93連隊が保持する第2防衛線に退却を行いました。

そこで、約200名のハイランダーが二列からなる「赤く」「薄い」ライフル隊を形成します。

伝統的には、騎兵は4人で1列に並んで対抗しますが、司令官のキャンベル卿は、
ハイランダーが新型のミニー銃で武装していて十分な再装填が可能だと判断したのです。

砲撃とともに400人のロシア騎兵が突撃してきたとき、キャンベル卿は兵士たちにこう叫びました。

「ここから退くことはできない。この場で死ぬしかない」

しかし、生存の可能性がほとんどない状態で立ち往生していた部隊は、
敵を撃退しただけでなく、残っているロシア軍を追撃しようとまでしました。

この戦いに立ち会った『タイムズ』紙の特派員が、イギリス軍の勇気を

ロシア軍の騎兵隊とイギリス軍の拠点との間には「鋼鉄で覆われた細い赤の筋」、
すなわち93部隊の「シン・レッド・ライン」があるだけだった

と書き、この記事から「シン・レッド・ライン」という言葉が生まれたのです。

A diorama of the action in the Regimental Museum at Stirling Castle. Photo: Kim Traynor / CC-BY-SA 3.0具体例

圧倒的な攻撃を受けたときに、薄く広がった部隊が踏ん張る様子を表す表現として
この言葉は現在も英語圏では残されており、たとえば、
アメリカでは炎の赤とかけて、消防隊を意味することもあります。


さあ、ということは、映画はこの勇気あるハイランダーたちのように
それを彷彿とさせる「逆転」があるということなんでしょうか。

 

1943年、南太平洋のガダルカナル島では、主要な米国の攻撃が終わりに近づいています。
アメリカ陸軍は、この作戦に終止符を打ち、日本軍の最後の抵抗を打破するために
完全な装備からなる師団を上陸させました。

と思ったら、映画はいきなりワニがジャングルの湖沼に沈むシーンから、
メラネシアの原住民の子供たちが海を泳ぎ、砂浜で遊ぶ光景が展開します。

この冒頭で流れる曲は、ガブリエル・フォーレの「レクイエム」終曲
「In Paradisum」です。

楽園へと導きますように 天使たちがあなたの到着したときに迎え入れ
あなたをい殉教者たちが 聖なるところエルサレムへと案内しますように

Requiem, Op. 48: VII. In Paradisum

「自然の中心(heart)でのこの戦争ってなんだろうか。
なぜ自然は自分自身と競い合うのか?陸と海は争うか?」

とかなんとかビーチでポエムってる野郎は、しばらく見ていないとわかりませんが、
実はアメリカ陸軍上等兵、ウィット (ジム・カヴィーゼル)

レクイエムは村の子供達が手をたたき歩きながら歌う歌に変わります。

ポエム野郎、実は隊友と一緒に、AWOL(absent without leave)つまり
無許可離隊(脱走ともいう)してメラネシアの原住民と一緒に暮らしているんですね。

しかし、海岸線に突如現れたのはアメリカ軍の哨戒艇によって、彼らは確保されてしまいました。

彼は兵員輸送船に戻され、投獄されます。

上官ウェルシュ軍曹を演じるのは「1ドルでもいい」とオファーを受けたショーン・ペン
彼の言によると、ウィットは元から「そういう奴」だったようです。

彼らは第25歩兵師団C(チャーリー)中隊。
ヘンダーソン飛行場を確保し、日本軍から島を奪取してそのルートを遮断する作戦の
援軍としてガダルカナルに送り込まれてきました。

彼は懲罰部隊送りで、そこで負傷者を搬送する係を言い渡されます。
彼はせめてもの反発で、軍曹に自分が見た「別の」世界について話してみますが、
俺には見えない世界だ、と一蹴されるのでした。

実際の軍隊ならおそらく話半分でふざけるなと怒られると思われますが、
この映画ではほぼ全ての登場人物がこの調子なので、その心配はありません。

甲板では大隊長トール中佐(ニック・ノルティ)クインタド准将(ジョン・トラボルタ)
何やら話し合っていますが、作戦についてではありません。

いわば軍における出世と処世術に対する達観を披露する准将に対し、
トール中佐の方は複雑な思いでそれに相槌を打っています。

 

トールはどうやら出世が遅くようやく中佐になった人物で、そのことは
彼が二階級上のクインタドより歳をとっていることからもわかります。

家族を犠牲にし、上にときには媚びてなんとか得てきた今日の地位。
彼は心の中で、これ以上の昇進は望むべくもなく自分はおそらく死ぬこと、
この戦いが勝利の作戦を指揮する最後のチャンスであると呟きます。

 

海軍輸送船の中ではC中隊のメンバーが来し方行く末について思いを巡らせています。

小さい頃継父に煉瓦で殴られたのより今の方が怖い、
と軍曹に訴えるドン・ドール二等兵(ダッシュ・ミホク)

支離滅裂なドールの話を聞きながら不安そうなフィフ伍長(エイドリアン・ブロディ)

中隊長のせいでこんなところに来た、と八つ当たりするマッツィ二等兵

八つ当たりされているのは繊細な元弁護士、中隊長のスタロス大尉(イライアス・コティズ)

1942 年 8 月 7 日、C中隊は無敵の状態でガダルカナル島に上陸します。

おそらくこの映画で人間の次によく出てくるのがオウム。
自然の象徴として、この生き物の映像が多用されます。

島の内陸部にC中隊はジャングルを踏み分け進んでいきます。
このいかつい面構えの兵隊は、ケック軍曹(ウッディ・ハレルソン)

「それら様々な形で生きているあなたは何者?
あなたが全てを捕らえ、与える死
また、あなたは全ての生まれくるものの源泉となる
あなたの栄光 慈悲 平穏 真実
あなたは魂を鎮め 理解する
勇気と満たされた心を」

この映画で哲学的なつぶやきを行う係?は、どうやらトレインのようです。



そのつぶやきをバックに、既婚の元将校、ベル二等兵(ベン・チャップリン)
故郷に残してきた妻の姿をありありと思い浮かべるのでした。
ベル二等兵の妻は劇中何度も何度も(オウムなみに)追想によって登場します。

 

進軍の途中で中隊メンバーは海兵隊員二人の死体に遭遇しました。(画像自粛)
先遣隊である海兵隊は日本軍の激しい抵抗に遭っていました。

たどり着いた海兵隊キャンプでは原住民に担架を洗わせていますが、
たちまち川に真っ赤な血が流れていきます。

やがて中隊は敵の要所であるヒル 210を発見し、
トール司令は丘を正面突破する作戦を提唱しました。

日本軍は丘の頂上、谷全体を見渡せる場所にバンカーを設えており、
丘を攻略しようとしても機関掃射や迫撃砲で撃退されるでしょう。

中隊長スタロスは無理だと言いますが、トールは進言を跳ね除けました。

作戦決行の夜明け、トール中佐は連絡の電話でスタロス大尉に
「ポイント」(陸軍士官学校のこと)で読まされたというホメロスの詩から
(英語ではホーマーと発音するのでどうもシンプソンを思い浮かべてしまう)

"Eos rhododactylos . . . rosy-fingered dawn."(薔薇色の払暁)

という言葉を気の利いたことを言っているつもりか、得意げに披露するのでした。
君はギリシア系だろ、といういらん一言に
スタロス大尉は取り合わず(笑)

「我々を援護する砲の種類は?オーバー」

「105ミリ2中隊だ」

「それでは全く効果はありません(won't make a dent)オーバー」

それでも敵に落ちれば効果大だ、とトール中佐。

朝一番で激しく砲撃が始まり、中隊は緊張の極に。
もうみんな顔色が真っ青です。

そっとペンダントの妻の写真を見ているのはベル二等兵でしょうか。

ほとんどの兵は戦闘そのものが初めてで、シコという二等兵は
出発を命じられても胃が痛くて立つこともできない、といいながら、
ウェルシュ軍曹が「衛生兵に診てもらえ」といったとたん、
脱兎のようにその場から駆け出していくという有様。

ホワイト大尉が先にいる二人に「進め」という意味で手を振り回しているのに、
二人とも大尉を見つめたまま硬直して動こうとしない様子はリアルです。

しかし、ようやく二人は動き出した途端、日本軍の狙撃手に瞬時にしてやられてしまいます。
丘の上からの的確な攻撃に次々部下が倒されていくのに呆然とするスタロス大尉。

懲罰部隊に高圧的に担架で負傷者「ジャック」を運ぶように命じたところ、
(ジャックって誰?)脱走して担架兵になったウィットが、
そのジャックを運んだら元の部隊に戻してもらえるか、とかネゴしてきました。

このポエム野郎、なかなか抜け目ないやつです。

スタロス大尉には、もう後がないトール中佐がガンガン電話でハッパをかけてきます。
自分が出世するかこのまま終わるかの瀬戸際だけに血圧あがりっぱなし。

そして、どんな犠牲を払っても正面からの攻撃で高地を奪取するよう命じますが、
部下が眼前で大砲の餌食となっているのに、
勇ましい返事など彼にはできません。

ここでケック軍曹と日本兵との間に心温まる?会話が行われます。
窪地に伏せるケック軍曹に、日本兵がこう叫ぶのです。

”We know you there, Yank!"(そこにいるのが丸見えだぞ、ヤンキー)

ケックがそれに対し

”Tojo eats shit! "(トージョーくたばれ!)

というと、

” No, Roosevelt eats-a shit!"(いーや、ルーズベルトがくたばれ!)

こんな気の利いた?罵り言葉が咄嗟に日本人の口から出てくるかしら、
と思ったのですが、まあ、たまたまそういう人がいたんでしょう。

そのケック軍曹ですが、日本軍が退却していったらしいというのに、
ついうっかり手榴弾のピンを間違って抜いてしまい、
味方を守るために自分が覆いかぶさって下半身が吹き飛ばされてしまいます。

「自分のケツを噴き飛ばしちまった!ばかな新兵みたいに」

「俺の女に手紙を・・男らしく死んだと」

「もう無茶苦茶だ・・もう女とやれねえ」

ドールはケックが息絶えてから、

「(妻に)手紙を書くのか」

と聞かれるとなぜかものすごくうろたえ、

「馬鹿いえ、知らない相手だ」

とパニクるのでした。


続く。

 


終戦と「ナパームガール」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-07-19 | 歴史

ベトナム戦争が終わり、兵士たちが帰国を行います。

■ AFTERMATH(ベトナム戦争の影響)



ベトナム戦争における軍事従事者の死亡数

58,315  アメリカ軍

162,000〜220,000 南ベトナム軍

820,100〜1,100,000 ベトコン/北ベトナム軍

5,200 連合軍

ベトナム戦争は肉体的、精神的な傷を負った多くの人々を含め、
世界中の人々にとっていまだに生きた記憶であり続けています。

ベトナム戦争は、国内及び世界に計り知れない深刻な影響を及ぼし、
20世紀の歴史に一際深く刻まれた出来事となりました。

アメリカでは、戦争が提起した根本的な問題、深い分裂、そして
戦争が明らかにした市民参加の力が、その後の国の在り方に大きく関わっていきました。

■ 帰らなかった兵士

ボストン大学を卒業してフリーランスの通信員としてベトナムに渡った
ディック・ヒューズは、テト攻勢後の混乱したサイゴンで
犯罪をしたりポン引きをして生きていた現地の男の子12人を
借りた家に呼び寄せ、一緒に暮らしていました。

彼が到着したのは1968年の4月でした。
到着した途端、彼はサイゴンのストリートチルドレンに話しかけていました。

「彼らは路上で寝ていて、いつも浮浪者として逮捕され、
どこかの刑務所に連れて行かれていました。
もし十分な広さの家を手に入れたら、この子たちに
居場所を提供できるのではないかと思ったのです」

彼は

「シューシャイン・ボーイズ・プロジェクト」Shoeshine boys project

を組織し、ベトナム人のスタッフ・ボランティアを雇って、
7つの新しい家を開設しました。

最終的には、2500人のホームレスの子どもたちに住居と職業訓練を提供しています。

アメリカに帰るとテレビ番組にも出演して、募金活動を行いました。
1975年4月30日に共産党が南ベトナムを制圧したときも、
ヒューズは逃げずにサイゴンに留まり、1年以上も仕事を続けました。

上の写真は、床屋で見習いを始めた少年が、さっそく
ヒューズの髪を梳かしているところです。

ディック・ヒューズは、帰国後、俳優としての活動に加えて、アメリカ政府や
アメリカの化学会社に対して、枯葉剤によるベトナム人被害者への支援を働きかける、
という活動にも深く関わり続けました。

 

■ 帰れなかった兵士

もうこのブログではお馴染みのPOW/MIAのマークとブレスレットですが、
このブレスレットの名前、

マイケル・エストシン少佐(LCDR Michael Estocin)

に皆さん覚えがありませんか。
当ブログではどこかのMIA案件の紹介の時にこの人のことを書いたことがあります。

海軍パイロットで名誉勲章を授与されたエストシン大尉(当時)は、
ベトナムへは三度にわたって派遣され任務を行いました。

36歳の誕生日をあと1日に控え、しかも故郷での休暇があけてわずか数日後、
彼の操縦する飛行機は任務中行方不明・未帰還となりました。

彼の機体が墜落したのか着陸できたのかについては相反する報告があり、
どちらかわからず遺体も未発見のまま公式に死亡宣告されました。

彼の名前に敬意を表して名付けられた

ミサイルフリゲート 「エストシン」USS Estocin, FFG-15

は1981年に海軍予備艦隊の一部として就役し、2003年まで運用されました。

ゲイリー・ラドフォード(Gary Radford)・右と友人だった
ルイス・ホワード(Lewis Howard)

ピッツバーグ出身のラドフォードとジョージア出身のホワードは、
同じ中隊に配属され、そこで親友となりました。

出身地も人種も違う二人ですが、とても馬があったようです。

砲兵隊の小隊長だったラドフォードとその部下になったホワードは
同じ戦場で戦闘任務にあたっていましたが、ホワードは戦闘中行方不明、

つまりMIAになりました。

ホワードの家族に、彼が行方不明(おそらく死亡)であること、
彼が亡くなった時の戦闘の状況をラドフォードが誠実に書き記し、伝えた手紙です。

ホワードが最初ライフルマン、次いでラジオトランスミッターのオペレーターで、
任務中は重たい機器を常に扱う激務だったが彼は自分のそばにいつもいて、
親友というかもうすでに家族同様だった、と書かれています。

ホワードがMIAになったのは1970年ですが、この手紙は
それから19年後、遺族の住所が明らかになったのか、
ラドフォードがそういうことができる状態になったのかはわかりませんが、
1989年の日付でホワードの家族に送られました。

 

冒頭写真は帰国するアメリカ兵たちですが、そんななかの一人であった
ジョージ・クニス(George・Kniss)の日記にはこんなこと書かれています。

「・・・・して戦場に戻ってきた。
明日になれば、今日の会議や合意事項の詳細が聞けるだろう。
しかし、グループのリーダーたちは諦めて、リーダーの
”腰を据えた
新たな条件”に合意し、戦場に戻っていったようだ。
これはクーデターのようなもので、しばらくの間、事態は急展開した。

クーデターとベトナム政府の2回の再編を見た後、
私はこの状況全体に魅了されたような気がする。
また、私はここの全てに嫌気がさし、無関心になってきた」

■ 徴兵廃止

SOME OF OUR BEST『MEN』ARE WOMEN.

「men」は普通に兵士たちの意味で使われるので、この、
(今では
ポリコレ的にかな〜り問題のありそうな)ポスターの意味は、

「我々のベスト『メン』の何人かは女性です」

となります。

1973年、アメリカは徴兵制を廃止して志願制度に切り替えました。

多様な政治的視点を持つアメリカ人が徴兵を終わらせた理由というのは、
公平性、個人の自由、良心の自由、そして不当な戦争への否定などがあります。

その後、兵役はもはや市民の義務ではなくなりました。

そこで、アメリカ軍はこのような志願者を募るポスターに工夫を凝らし、
特にのリクルートに力を入れる方向に舵を切りました。

 

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展の展示には、一際目立つ
このようなジュラルミンのトランクとその中身があります。

これは、

ローズ・ガントナー(Rose Gantner)

という女性がベトナムに携えていった私物です。

ローズはピッツバーグ出身で、この写真も市内にかかる
ピッツバーグのトレードマークである橋のたもとで撮られています。

写真が撮られたのは1967年7月で、彼女が一度ベトナムに赤十字から送られた後、
帰ってきて故郷で1ヶ月だけを過ごしたときのことでした。

 

ローズが二度目のベトナムツァーを終えたとき、彼女は持っていったアイテムを
全てこのトランクに詰めこんで、ピッツバーグの実家に送り、
それっきり
戦後の生活の中ですっかりそのことを忘れていました。

彼女がトランクの存在をふと思い出し、次にトランクを開けたのは30年後です。
それは彼女にとって「ベトナム時代のタイムカプセル」となりました。

ここでも一度お話ししましたが、ローズがベトナムにいったのは、
彼女が兵士たちを精神的に慰め、楽しませる「ドーナツ・ドリー」だったからでした。

トランクの中には、彼女が戦地で兵隊のレクリエーションに使用したゲームや、
香港に行った時に母親と姉妹のために購入したシルクのチャイナドレスや、
(彼女はそれを配ることすら忘れていたようです)サイゴンの市場で買った小物、
ドーナツ・ドリーとして必携だったソーイングセットなどがそのまま出てきました。

彼女自身がベトナムで過ごすための生活用品、例えば携帯ヒーターやポケットナイフ、
「ファティーグ」ユニフォームのセット、そして彼女の宗教である
ロシア正教のイコンなど、戦地での生活と快適さのためのアイテムが詰められています。

ローズ・ガントナーのトランクは、アメリカ赤十字の支給品です。

ローズのトランクの蓋の裏にはこんな認識のための紙が貼られています。

ベトナムに「ドーナツ・ドリー」などボランティア人材を派遣する部署のもので、
ローズの所属はアメリカ赤十字、彼女は旧姓で名前を記されています。

武器や発火物を入れないこと、など、内容物に関する注意書きがあります。


■ ナパーム・ガール

"ナパーム・ガール "は、1972年、ベトナム戦争の恐怖を世界に知らしめた有名な写真です。

この写真には、9歳の少女が裸で助けを求めて叫び、走っている姿が写っています。
彼女は、ベトナムのタイニン省チャンバンという小さな村で、
米軍のナパーム爆撃を受けた後、幸運にも生き残った一人でした。

1972年6月7日、北ベトナム軍(VNA)が南ベトナムの町チャンバンを占領しました。
VNAは、空爆や砲撃を避けるために、村人の中によく潜入していたのです。

多くの村人は逃げ出して村の仏教寺院に避難しました。

その中には『ナパーム・ガール』、ファン・ティ・キム・フックもいました。
2日目になると、戦闘はどんどん寺に近づいてきた。
寺院から逃げようとした村人は不幸な運命をたどりました。

VNAを殺すために、ナパーム弾を含む爆弾が村に降り注いだのです。

AP通信社のカメラマン、ニック・ウト(Nick Ut)が撮影したこの写真は、
逃げ惑う村人、
南ベトナム兵、報道カメラマンに囲まれて裸で走る少女の姿が
全世界に衝撃を与え、ベトナム戦争そのものを象徴する一枚となりました。


写真のキム・フックは何事かを叫んでいるように見えますが、
後年彼女自身が語ったところによると、それは

「Nóng quá, nóng quá」(『熱すぎる、熱すぎる』)

という言葉だったそうです。

わたしはこの写真で、少女の後ろにいるのは敵兵士であり、
彼女は追われているのだと思い込んでいたのですが、
写っているのは一緒に逃げる南ベトナム兵と報道カメラマンです。

 

当初ニューヨーク・タイムズの編集者は、
少女が裸であることから掲載をためらったそうですが、
最終的にこの写真は翌日の第一面を飾ることになります。

この写真は後にピュリッツァー賞を受賞し、世界報道写真賞にも選ばれました。

写真を撮った後、カメラマンのウトは彼女と他の負傷した子供たちを
サイゴンのバルスキー病院に連れて行きましたが、彼女の火傷は重度で、
おそらく助からないだろうと診断されました。

しかし、14ヵ月の入院と、皮膚移植を含む17回に及ぶ外科手術を経て、
彼女は助かり、1982年には歩けるようになる手術を受け、成功しました。

これだけの手厚い医療を受けることができたのは、彼女が
衝撃的な写真の主人公だったおかげということもできるかもしれません。

■ ナパーム・ガールの戦後

1972年にリチャード・ニクソン大統領が参謀と会話している音声テープには、
ニクソンがこの「ナパーム・ガール」の写真を見て、

「あれは修正されたものじゃないのか」

とつぶやいたことが記録されています。
カメラマンのウトは、

「20世紀で最も記憶に残る写真の1つとなったにもかかわらず、
ニクソン大統領は新聞に掲載された私の写真を見て、その真偽を疑った。

私にとっても、多くの人にとっても、この写真はこれ以上ないほどリアルなものでした。
この写真は、ベトナム戦争そのものと同じくらい真実でした。

私が記録したベトナム戦争の恐怖は、修正される必要はなかったのです。

あのおびえた少女は今も生きていて、あれが現実だったことを雄弁に物語っています。
30年前のあの瞬間は、キム・フックと私にとって忘れられないものになるだろう。
それは結果的に私たち二人の人生を変えたのです」

と語っています。

左上:通過する飛行機が爆弾を投下する中、写真を撮る男性

右上:軍服を着た報道員、クリストファー・ウェインがキム・フックに水を与える
   ウェインはこの後彼女の火傷に水をかけた

右下:大やけどを負った孫(キム・フックのいとこで3歳のダン)を抱えて
   反対方向に走っていくキム・フックの祖母タオ

逃げている間に、キム・フックのいとこ、ダンは亡くなりました。

キム・フックも体の半分以上に大やけどを負っていたので、もし
体に水をかけてやったたウェインやベトナム人カメラマンのウトの助けがなければ、
爆弾投下から数時間後には死んでいたことでしょう。

 

生きながらえたキム・フックはベトナムの大学で医学を専攻していましたが、
大学を追われ、共産主義のベトナム政府にプロパガンダの象徴として利用されました。

何度も手術を繰り返すも、絶え間ない痛みに苛まれた彼女は
ついには自殺まで考えましたが、
キリスト教に救いを求めるようになります。

その後キューバに留学、留学先で知り合ったベトナム男性と結婚。

 

1992年、モスクワに新婚旅行に行く途中、カナダへの政治亡命を願い出て許可され、
カナダ市民権テストに満点で合格し、現在はカナダ国民となっています。

キム・フックと報道班員のウェインと彼女は戦後再会を果たしました。

そして彼女の運命と、世界を変えることになった一枚撮ったカメラマンのウトとは

現在でもしょっちゅう電話で話すほど、親密に連絡をとっています。


続く。

 

 

 


ソンミ村大虐殺とトンプソン准尉の勇気〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-07-17 | 歴史

ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」は、どちらかというと
参加したアメリカについて言及している展示物が多く、
ベトナム軍についてはほとんど語られていないという印象ですが、
「ベトナム人の受けた災厄」として象徴的となった例の

「サイゴンの処刑」

「川を脱出する家族」

の他には、やはり世界に衝撃を与えたこの写真(の掲載された本)
つまりアメリカ国民に衝撃を与えたページが見開きで展示してありました。

■ Mỹ Lai massacre ソンミ村虐殺事件

ミーライ大虐殺( Thảm sát Mỹ Lai)は、ベトナム戦争中の1968年3月16日に、
南ベトナムのソンティン地区で米軍が非武装の南ベトナム市民を大量に殺害した事件です。

このとき、第23歩兵師団第11旅団、第20歩兵連隊第1大隊C中隊、
第23歩兵師団第3歩兵連隊第4大隊B中隊の米軍兵士により、
347人〜504人の非武装の人々が殺害されました。

犠牲者の数に大幅な違いがあるのは、正確な数がいまだに把握できていないからです。

犠牲者は、男性、女性、子供、乳児など多岐にわたり、26人が起訴されましたが、
最終的に有罪となったのはC中隊の小隊長ウィリアム・カリー・ジュニア中尉だけでした。

カリー中尉は22人の村人を殺害した罪で有罪となり、当初は終身刑の判決を受けましたが、
自宅謹慎のまま3年半だけ服役しあとは釈放されています。

後に、

「ベトナム戦争で最も衝撃的なエピソード」

と呼ばれたこの戦争犯罪は、アメリカでは「ミライの虐殺」
ベトナムでは「ソンミの虐殺」と呼ばれています。

1969年11月に公になると、この事件は世界的な怒りを引き起こしました。

ことに殺害の範囲や隠蔽工作が明らかになったことで、
アメリカのベトナム戦争参戦に対する国内の反発を呼ぶことにもなったのです。

しかし、後述しますが、当初、虐殺を止めようとした3人の米軍人は、
一部の米議会議員や国民から裏切り者として糾弾されたりしています。

かれらが戦地で非戦闘員を保護したことで米軍に認められ、
死後1名が勲章を授与されたのは、事件から30年後でした。

 

■ 事件までの経緯

第23歩兵師団第11旅団、第20歩兵連隊第1大隊のチャーリー(C)中隊は、
1967年12月に南ベトナムに到着しました。

最初の3ヶ月間は、ベトナム人民軍やベトコン軍との直接戦闘はなかったのですが、
3月中旬までに中隊は地雷やブービートラップによる28人の死傷者を出し、
さらにミライでの虐殺の2日前に、中隊は人気のある軍曹を地雷で失ったばかりでした。

1968年1月のテト攻勢の際、米軍情報部は、敵がソンミ村に避難し、
村人が彼らを匿っているという情報を持っていました。

そこでソンミでの敵捜索作戦に投入されたのがA・バーカー中佐率いる
タスクフォース・バーカー(TFバーカー)で、彼らの呼ぶところの
『ピンクの村』での掃討作戦が計画されました。

「積極的に侵入し、敵に接近し、永久に彼らを一掃せよ」

という命令を受けたバーカー中佐は、大隊司令官たちに、

「家を燃やし、家畜を殺し、食糧を破壊し、井戸を破壊し、毒を盛るように」

と命じたとされます。

裁判での証言によると、攻撃前夜、チャーリー中隊のアーネスト・メディナ大尉は、

「民間人は市場に行っているはずだから残っているのはベトコンかそのシンパだ」

と言ったというのですが、小隊長たちは、メディナ大尉の命令は

「ベトコンと北ベトナムの戦闘員、女性や子供、動物も全て容疑者だ。
彼らを殺し、村を燃やし、井戸を汚すように」

「歩いているもの、這っているもの、唸っているものすべて破壊せよ」

というものだったと口々に証言しました。

3月16日の朝、メディナ大尉率いるチャーリー中隊の約100人の兵士が、
ヘリコプターでソンミに着陸し、村に入り、田んぼや草むらにいる人に発砲しました。

 

村人たちは最初はパニックになったり逃げたりしませんでしたが、
彼らに対する殺害は何の前触れもなく始まりました。

兵隊は村人を銃で殴り、井戸に投げ入れてその上から手榴弾を投げ込みました。
寺の周りに跪いて泣きながら祈りを捧げていた女性や子供たちは
全員、頭を撃たれて殺されました。

右側の男の子を左手で抱いた女性は、虐殺の前に性的暴行を受けたため、
自由な右手で衣服のボタンを留めています。
証言によると、
彼女を含む全員がこの写真が撮られた数秒後射殺されました。

 

ゾムランでは約70~80人の村人が集落のはずれにある灌漑用の溝に押し込まれ、
ウィリアム・カリー少尉の命令によって兵士たちに射殺されました。

命令は何度も繰り返され、ある兵士はM16ライフルの弾倉を数本使い切ったと証言しました。
その際、女性たちは、

「ノーベトコン」(わたしたちはベトコンじゃない)

と言って子供をかばおうとしましたが、中隊は、
赤ん坊や幼児を抱いた
10代から老齢までの男女を撃ち続けました。

なぜ民間人にここまでしたかというと、アメリカ兵の多くは
村人たちが全員手榴弾で攻撃してくると思っていたからでした。
(だと証言しています)

検察側の証人である下士官のデニス・コンティは、

「多くの女性が、子供を守るために覆いかぶさったため、
銃撃が終わっても何人かの子供たちは生きていた。
その後、歩ける年齢の子どもたちが立ち上がると、カリーは彼らを撃ち始めた」

と語りました。
集落の敵への支援を断つという理由で、家畜にまで殺戮は及びました。

マイケル・ベルンハルトPFCが通りかかったとき、虐殺は進行中で、

「歩いていくと、こいつら(法廷にいる男性たち)が変なことをしていました。
建物に火をつけて、出てくる人を銃撃したり、小屋に入って銃撃したり、
村人を集めてからまとめて銃撃したり・・。

村中に人の山があちこちにありました。
まだ生きている人たちにM79グレネードランチャーを撃ち込んでいました。

彼らは、女性や子供も普通に撃っていました。
私たちは抵抗を受けず、犠牲者が出たわけでもない。

他のベトナムの村と同じように、「オールド・パパサン」(なぜ日本語)
や女性、子供たちがいましたが、実のところ、死んでいようが生きていようが、
軍人年齢の男性は一人も見た覚えがありません」

ソムランの南側にある未舗装の道で殺された村人のグループ。

この写真を撮影した陸軍のカメラマン、ロナルド・ヘーベルの目撃証言によると、

「女性や子供も含めて15人くらいが90mくらい離れた土の道を歩いていました。
突然、GIがM16を撃ち、M79グレネードランチャーを人々に投げ始めました。
自分が見ているものが信じられませんでした」

作戦最後の日、二つの中隊はさらなる住居の焼き討ちと破壊に関与し、
ベトナム人の抑留者に対する継続的な虐待を行っています。

軍事法廷では、チャーリー中隊には殺害に参加しなかった者がいたものの、
公然と抗議したり、上官に意見を申し立てていないことも指摘されました。

午前中までに、チャーリー中隊のメンバーは何百人もの民間人を殺し、
数え切れないほどの女性や少女を強姦したり暴行しました。

ミライで武器を見つけられず村人がベトコンである可能性は無くなった上、
彼らからの攻撃どころか反撃も全くなかったにもかかわらず。

 

■ ヘリコプター乗員が試みた虐殺阻止

アメリカ師団第123航空大隊B中隊(エアロ・スカウト)のヘリコプターパイロット、

ヒュー・トンプソン・ジュニア准尉
(Warrant officer Hugh Thompson Jr.)

が地上部隊への近接航空支援のためにソンミー村上空を飛行していると、
地上に死傷している民間人を発見し、現場に着陸しました。

 

トンプソンはそこで出会った軍曹(第1小隊のデビッド・ミッチェル)に、
この人たちをを溝から出すのを手伝ってくれないか、と尋ねましたが、
軍曹は、

"help them out of their misery". (溝よりこの悲惨な状況から出してやったらどうですか)

と答えるだけでした。
ショックを受けて混乱した彼は、その後カリー少尉とこんな会話をしています。

「トンプソンです。ここで何が起こっているんですか、少尉?」

「カリーだ。これは私の仕事だ」

「これは何です?この人たちは誰ですか?」

「ただ命令に従っているだけだ」

「命令?誰の命令ですか?」

「ただ従っただけだ」

「しかし、彼らは人間であり、非武装の民間人ですよ?」

「いいかトンプソン、これは私のショーだ。
私がここを仕切っている。君が気にすることではない」

「ええ、立派なお仕事ぶりですね(Yeah, great job.)」

「 ヘリに戻って自分のことに専念したほうがいいぞ」

「これで済むと思わないでくださいよ!(You ain't heard the last of this!)」


トンプソンがこの後ヘリを離陸させたとたん、
ミッチェルが溝の人々に向かって発砲を始めました。

トンプソンはその後、壕に集められたベトナム人たちに
アメリカ兵たちが近づいていくのを発見したので、近くに着陸し、

「私が村人を壕から出すので、もしその間、
兵隊が逃げる人たちを撃ったら
発砲して止めても構わない」

とヘリ乗員部下のコルバーンアンドレオッタに第二小隊に銃を向けさせ、
そこにいた中尉(第2小隊のスティーブン・ブルックス)に、

「壕には女性と子供がいます。
彼らを脱出させるのを手伝ってくれませんか」

と頼むと、ブルックス中尉は

「彼らを脱出させるには手榴弾を使うしかない」

と言いはなったのですが、トンプソンは中尉に部下の制止を頼んで壕に入り、
怖がる12~16人の民間人をなだめすかしてヘリコプターに連れて行き、
全員を友人のUH-1パイロット二人の助けを借りて、2機のヘリに分乗させました。

しかし、ここまででトンプソンが見たものはこの戦争犯罪のごく一部だったのです。

ミライに戻ったトンプソンと乗員たちは、いくつかの大きな遺体の山を発見しました。
彼らはヘリを着陸させ、乗組員長のグレン・アンドレオッタ特技兵4が溝に入り、
無傷で生存していた4歳の少女を発見して、安全な場所に運びました。

他にも生存している子供を見つけ病院に搬送した後、トンプソンは
本部に飛び、上官に虐殺の事実を怒りを込めて報告しています。

彼の報告はすぐに作戦の総指揮者であるフランク・バーカー中佐に届き、
バーカーは直ちに地上部隊に「殺戮」をやめるよう無線連絡しました。

その後の同様の作戦は同じ事態になる恐れから中止され、
このことは数百人レベルの民間人殺戮を防いだといわれています。

 

■ その後

そしてミライでの一連の行動に対して、トンプソンは特別空軍十字章を授与され、
アンドレオッタと砲手のローレンス・コルバーン銅星章を授与されました。

その後、グレン・アンドレオッタは1968年4月8日にベトナムで戦死したのですが、
彼の死後に授与された勲章やトンプソンが授与された勲章の引用文は
上層部が虐殺の事実を隠蔽しようとする思惑から、

「ミライで少女を『激しい十字砲火』から救出した」
「的確な判断により作戦地域におけるベトナム人とアメリカ人の関係を改善した」

捏造した記述が含まれていたため、トンプソンは怒って賞状をを捨てました。

戦後30年近く経った1998年、トンプソンのヘリコプター乗員の勲章は、

敵との直接的な衝突を伴わない勇敢さに対して米軍が授与できる最高の勲章

とされる

ソルジャー・メダル(Soldier’s Medal)

に変更されました。

SoldMedal.gif

このときの勲章の引用文には、

「ミライで行われた米軍による不法な非戦闘員の虐殺の際、少なくとも
10人のベトナム民間人の命を救った、任務を超えた英雄的行為に対して」

と書かれていたのですが、それでもトンプソンは当初、受賞を拒否しています。

■ 同国人からの誹謗中傷

トンプソンは事件についてペンタゴンの公式調査で証言しました。

ワシントンDCに召集され、下院軍事委員会の非公開の特別公聴会に出席したところ、
そこで彼は、アメリカ軍による虐殺事件を隠蔽しようとしていた議員たち、特に
メンデル・リバーズ委員長(民主党)は仲間のアメリカ軍に武器を向けたことで
トンプソンだけが処罰されるべきであると公言し、彼を激しく非難した上、
なんなら軍法会議にかけようとまでしましたが、失敗に終わりました。

L Mendell Rivers.jpgリバーズ下院議員

トンプソンは、アメリカ軍人を告発する証言をしたことで、
多くのアメリカ人から悪者扱いされ、誹謗中傷を受けることになりました。

2004年に出演したテレビ番組では、

「電話で死の脅しを受けたり、.朝起きるとポーチに死んだ動物や
切り刻まれた動物が置かれていたりしました」

と告白しています。

■ 軍法会議と戦後

この事件で殺された民間人の数はは資料によってまちまちで、
今に至るまで正確な人数は分かっていません。

虐殺現場の慰霊碑には、
1歳から82歳までの504人の名前が記されていますが、
アメリカ軍の公式推定値は347人と低めの数字です。

そもそもアメリカ軍は当初この作戦について、「激しい銃撃戦の末」
「128人のベトコンと22人の民間人が死亡した」と発表していたのです。

1970年11月17日、軍法会議で、司令官のコスター少将をはじめとする
14人の将校が、事件に関する情報を隠蔽した罪で起訴されましたが、
後にほとんどが不起訴となりました。

カリー中尉は一貫して、

「自分は指揮官であるメディナ大尉の命令に従った」

と主張しましたが、判決では20人以上の計画的な殺人の罪終身刑を宣告されました。
これは起訴された中で唯一の有罪判決となりました。

のちにカリーの判決は、終身刑から20年に短縮され、
裁判開始から4年後には仮釈放されています。

一方メディナ中尉は虐殺につながった命令をしたことを否定し、
すべての罪を免れ、無罪判決を受けましたが、数ヵ月後、彼は
証拠を隠蔽し、民間人の死亡者数について嘘をついたと認めました。

虐殺に関わった一人の分隊長は、誰でもその場にいたら
ああするしかなかった、と2010年になって語りました。

「ミライについて話すと、ほとんどの人は
『まあそうなんだけど、違法な命令なんだから従うべきではなかったよね』
というんですよ。

でも信じてください。そんなことはできないんですよ。
軍隊でそんなことは不可能なんです。
もし戦闘状態で、いやそれはできません、その命令には従えません、
といったとしたら、壁の前に立たされて撃たれるだけです」

ミライでの虐殺記念日には毎年関係者が集まり続けました。
その中には、あの日トンプソン准尉に命を助けられた14歳の少女、
8歳の少女などが出席していました。

 

2009年になって、沈黙してきたウィリアム・カリー氏は、初めて
公式に虐殺について謝罪しました。

「あの日、ミライで起こったことを後悔しない日はありません。
殺害されたベトナム人やその家族、巻き込まれたアメリカ人兵士や
その家族にも申し訳ないと思っています。大変申し訳ありませんでした。

なぜ命令を受けたときに立ち向かわなかったのかと聞かれれば、
私は少尉で指揮官から命令を受け、愚かにもそれに従ったと言わざるを得ません」

しかし、当時7歳だった生存者の男性は、この謝罪を
 
"terse"(簡単な、そっけない)

ものだと評し、時間が経っても和らぐことのない痛みが残ることを
彼に思い出させるために、自分や多くの家族の置かれた窮状を説明した
公開書簡をあらためてカリー氏に送りつけました。

「戦争だったから」

という言葉は彼にとって殺戮行為へのなんの釈明にもならなかったようです。
彼はあの日のことを許していないし、これからも許すことはないのでしょう。


続く。

 


ジッポーライターが語るベトナム戦争〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-07-15 | 歴史

ハインツ歴史センターの特別展、「ベトナム戦争展」より、
展示物をご紹介しながらベトナム戦争について考察しています。

 

■ 哲学者のヘルメット

激戦となったハンバーガーヒルで戦った、ニューヨーク・クイーンズ出身の
サル・ゴンザレスが装着していたヘルメットが展示されています。

左の方には「ピース・アンド・ラブ」の言葉とピースマーク、

フィリス ケイティ ロンダ ジュディ

という女性たちは彼のかつての恋人でしょうか。

彼は哲学的な文句をヘルメットに細々と書き込んでいて、
その内容がなかなか興味深いので、原文と翻訳を挙げておきます。

Hail to our learning in combat!
Forgive them father for they know not what they do!

我々の戦闘における教えに万歳!
父よ、彼らをお許しください。
彼らは自分が何をしているか知らないのですから

 We are the unwilling, led by the unqualified doing the unnecessary, for the ungrateful

我々は不本意ながら、不適格者に率いられ、不必要なことを、恩知らずな者のために行う

Our fathers have lost their way, that my friend is why you’re here today

我々の父親たちは道を踏み外してしまった 友よ、それが今日君がここにいる理由だ

When you have nothing you have nothing to lose

何も持っていなければ 失うものは何もない

Old soldiers never die-just young ones

老兵は死なず ただ若兵が死にゆくのみ

 

これらの隻句が全てこのゴンザレスさんのオリジナルなら、
彼はなかなかの思索家であり、インテリだったと思われます。

特に最後のは、マッカーサーの有名な言葉をもじっていて秀逸です。

展示物の説明にこの哲学者がハンバーガーヒルでどうなったのか、
全く触れられていないのですが、このヘルメットについては

「ベテランのサルバドールが着用していた」

と説明があるので、おそらく彼はこの戦いで生き残ったのでしょう。
だとすればヘルメットにうっすらと見える血痕は、誰のものなのでしょうか。

 

■ 予備士官パイロットとアークライト作戦

パイロットのオキシジェンマスク付きヘルメットと、本人のIDが展示されています。
これからわかることは、

名前:リチャード・G・ナルショフ(Richard Narushoff)

所属:アメリカ空軍

階級:エアフォースROTC-少尉

ナルショフ氏はピッツバーグ在住で、地元のデュケイン(Duquesne)大学
ROTC(予備役将校訓練課程:Reserve Officers' Training Corps)終了後、
空軍に加わり、1969年にはB-52爆撃機のナビゲーターとしてベトナムに参戦しました。

ヘルメットだけでなく、フライトスーツも展示されています。
いずれも本人の寄贈によるものです。

ナルショフ氏はベテランとして戦争体験を語る「オーラルヒストリー」に参加しています。

翼の生えた剣が城壁の前に立ちはだかっている意匠の舞台章、
空軍の名札には、通称である「リッチ・ナルショフ」とあります。

ナルショフ氏がB-52勤務で使用していたナビゲーション用の品々。
ストップウォッチ、フラッシュライト、機内で使用した低空地図、
計算用のメジャーなどです。

B-52は長距離爆撃機で、7万ポンド(3トン強)の爆弾と核爆弾を搭載することができます。
ナルショフがナビとして参加したのは「アークライト作戦」の一環で、
タイ、グアム、沖縄、日本(なぜか現地の説明は別々に書かれている)
そしてフィリピンの基地から飛び立ってラオス・カンボジア上空でミッションを行いました。

「アークライト作戦」(Operation Arc Lightとは、1965年に開始された
グアムに駐留するB-52 ストラト・フォートレスを用いた爆撃作戦です。

アークライト作戦は敵ベースキャンプ、集結地、補給線などに対して行われ、
爆弾は地上からは全く機体を確認できない高度30,000フィートから投下されたため、
気がつけば空から爆弾が降ってきた、という状態だったそうです。

この作戦以降、ベトナム戦争中は「アークライト」という言葉が

「近接航空支援のプラットフォームとしてB-52を用いる」

という意味で使われ、コードネーム にもなっていました。

ナルショフ氏は無事で帰還することができましたが、この作戦で
1965年6月から1973年8月の間にアメリカ空軍は31機のB-52を失いました。

うち18機は北ベトナムで撃墜されています。


■ ベトナム戦争ベテランのアートグループ

シカゴに「National Veterans Art Museum」なるミュージアムがあります。

ベトナム戦争やその他の戦争・紛争の退役軍人が制作したアートを
展示・研究している施設です。

エントランスホールの天井には、ベトナムで亡くなった米軍兵士を表す
58,226枚のドッグタグが吊るされています。

この美術館の使命は、米国のあらゆる軍事紛争に参加した退役軍人による
アート作品の収集、保存、展示を通じて、戦争の影響に対する理解を深めることです。

250人以上のアーティストによる約2,500点の芸術作品が展示されており、
老若男女を問わず、軍事紛争に肉体的・精神的に関与した人々の視点から
戦争を理解してもらおうという試みであり、また、退役軍人に
戦闘や兵役の経験を芸術的に表現する場を提供するという使命を負っています。

オンライン・コレクション

ここに展示されているのはその中から、

ブルース・サマー(Bruce Sommer)氏の「Anguish」(苦悩)

という作品です。
苦悩に歪む男の顔。
過酷な体験そのものなのか、それともそれを体験した記憶なのか・・・。

■ WARTIME SAYINGS  ON ZIPPOS(ジッポーの語る戦争)

全く知らなかったのですが(というか考えたこともなかったのですが)
ジッポーライターというものの生産地は、ここペンシルバニア州です。

1932年に誕生したオイルライター、ジッポーは、ベトナム戦争に行った
250万人のアメリカ将兵の必需品といっても過言ではありませんでした。
それくらい戦場ではタバコが必須だったのです。

ジッポーの表面は柔らかいクロームプレートで覆われており、そのため
彫刻が容易で、個性的な表現のためのキャンバスともなりました。

出征してきたアメリカ人に対し、そのための基本的なツールを備え、
ジッポーライターにストックスローガンや画像を掘り込んで提供するのは
ベトナム人の業者にとって大変「美味しい」ビジネスとなったようです。

軍用車両や航空機、武器、ユニットの紀章、
駐在したベトナムの地図やたわいもない落書きめいたもの、
ピンナップガール風にピースマーク、警句など、
モチーフは様々で、彼らはこぞってそれで「自己表現」を行いました。

ここには全部で280個のライターが展示されています。
それらを一つ一つ見ていくと、1960年から70年にかけて、戦地に赴いた
アメリカ人たちの考え、ユーモア、そして勇敢さを垣間見ることができます。

FROM THE WORLD, BEYOND BEYOND
THERE DOMES A PLACE CALLED VIET-NUM

「世界の果てのその果てに 
ベトナムと呼ばれる場所がある」

こんな言葉を刻印した兵士もいました。

この展示は、

The  John and Jennifer Monsky Zippo Collection」

からの出展です。

■ ベトナム戦争の象徴としてのジッポー


このコーナーにはここに展示されている以外の軍人ジッポーが
備え付けのiPadで観覧できるようになっていました。

海軍軍人はやはり自分の艦の姿を刻む人が多いのかも知れません。

このような彫刻が施されたジッポーは、終戦後も多く残っており、
コレクターの間で大金で取引されているそうで、ちょっと検索すれば
アマゾンやebayでベトナム戦争のジッポーはすぐに見つけることができます。

(なので、時々偽物が流通しているのだとか)

一目でわかるこのライターに刻まれたイメージやスローガンは、
故郷から遠く離れた場所で兵役に就き、戦い、そして
死んでいった若者たちの心や人生を痛切に感じさせてくれます。

発売以来、ジッポーライターは、アメリカ軍と長い関わりを持ってきました。

真珠湾攻撃でアメリカが第二次世界大戦に突入すると、ジッポー社は
ライターの一般消費者向け販売を中止し、軍用のみに生産を切り替えています。

戦争に突入すると同時にジッポーライターは製造法も変えました。
平時に使われていた原材料は戦時中軍需生産に振り向ける必要があったため、
ジッポー社はスチールに「黒ひび割れ加工」を施すという製造法に変えました。

そしてジッポーライターはベトナム戦争の象徴ともいえる存在となります。

ベトナム戦争に参加した米軍兵士のほとんど全員がジッポーライターを携帯しており、
そのため、興味深く、時に感傷的なカスタマイズライターが生まれたのです。

ライターに刻まれたスローガンやイメージの多くが、
ベトナム戦争の典型的なイメージとなったわけですが、当初そのデザインは
多くが軍人であることに誇りを持ち、自分が戦っている目的を強く信じるがゆえに
自分の所属する部隊名やバッジ、標語など愛国的なものが中心となりました。

しかし、ベトナム戦争は、公民権運動、ビート・ジェネレーションやヒッピー運動、
ロックンロールの反乱、そして反戦運動などの高まりと反比例して、
年を追うごとに「不人気」となっていったのです。

多くの若者が志願して戦争に参加した一方で、労働者階級やマイノリティ社会から
不本意ながら徴兵され、興味のない戦争に参加させられた若者もいて、
ジッポーライターのスローガンの中で心に響くものの多くは、
得てしてこの後者の若者たちから生まれたものであるのが、言うなれば
他にはなかった独特の傾向だったということでしょう。

"死にかけるような体験をするまで、本当に生きたとはいえない
人生には、戦うものだけが知る味があり、それは守られている者には決してわからない”

死の淵から帰ってきた兵士の言葉です。

 

おそらくベトナムに出征するまでは日本にいたのであろう兵士の
鳥居を象った部隊章のジッポーライターの左側には、
元々刻まれていた意匠が全くわからなくなるほど完璧に
弾痕がくっきりと刻まれた「銃痕ジッポー」があります。

このライターによって、持ち主はもしかしたら致命的な傷を免れ、
一命を取り止めたのかもしれません。

 

続く。


「海ゆかば」〜映画「海軍特別少年兵」

2021-07-13 | 映画

映画「海軍特別年少兵」2日目です。

本作はタイトル画でもお分かりのように、主役の少年たちがほぼ無名
(その後俳優として名前が残っているのは二人だけ、一人が梅雀で、
もうひとりがバイプレーヤー福崎和弘)であるため、その分予算を
全フリしたのではないかというくらい、脇役が豪華キャストです。

主役と言っていい工藤役の地井武男といい、このベテランたちの存在は、
熱いけれど、時として生硬な少年たちの演技を補って余りあります。



さて、入団から2ヶ月経った8月13日(お盆ということでしょうか)
初めて家族との面会が許されました。

林の母はさすがに来ていませんが、同級生の江波の母(山岡久乃)が
林に母親からことづかった差し入れを持って面会にきています。

 

しかし嬉しそうに外に出ていく教班の者を尻目に、教室に残って、
手持ち無沙汰に艦隊勤務などをハーモニカで吹いている者もいます。

入隊を決めたときに殴られた医者のせがれ宮本と、身内らしい身内が
横須賀で賤業婦に身を落としている姉しかいない橋本です。

二人とも家族が来るはずがないと決めてかかっていました。

が、来ていたのです。

橋本の姉ちゃん、
ぎん(小川真由美)は門を出る吉永中尉を捕まえ、
ついつい溢れ出る職業的なしなを含んだ声音で、

「大尉さん!頼まれてくんないかしら」

「わたしは中尉です」(´・ω・`)

「あっ、あははは・・あたし陸軍ならよくわかるんだけど」

そうして弟への差し入れのこと付けを頼みました。
自分のことを弟が恥ずかしがるので、会わずに帰るつもりです。

しかも持ってきたのがお客にもらった恩賜の煙草とお酒。
どちらも訓練生には年齢的にも禁止されています。

 

吉永中尉はなんとか渡せるお菓子だけを橋本に届けてやりました。
橋本の隣の宮本の父は、息子から

「あんな非国民ずっと監獄にぶちこんどけばいいんだ」

とアカ呼ばわりされて毛嫌いされているわけですが、

なんと、来ていたのです。この父ちゃんも。

そして、なんたる偶然、海兵団の近くの飲食店でそうとは知らず出会い、
時節柄売り物もない外食券飲食店に居座って飲食物を交換しているうちに、
お互いが身内に面会に来たものの、歓迎されない立場ゆえ気後れして
会わずに帰ろうとしている同類同士であることに気づきました。

ちなみに撮影時、本当に季節は夏の盛りだったらしく、
この小川真由美始め、ほとんどの出演者は首筋にびっしょり汗をかいています。
今ならメイクさんが拭うんでしょうけど、そのままになっています。

「床屋なら立派なもんじゃないの。どうして会ってやらないの?」

なぜか宮本父、自分が医師であることを隠しています。
そして、

「国のためっていうけど、俺たち貧乏人は国から恩を受けちゃいねえ」

だから会っても激励なんてできない、とついつい日頃の思想を語ってしまうのでした。
ぎんは無邪気に、

「おじさん、そんなこと言ったらアカと間違えられるよ?」

そこで宮本父は、警察で拷問を受け、脚を潰されたことを最後に告白します。
息子が、「父は”びっこ”」と言ったのは、嘘ではなかったのです。

 

そんな宮本父に、ぎんはかまわず恩賜のタバコを(それもつい頭を下げて)
取り出し、渡そうとしますが、まあ受け取るわけないですよね。

ぎんは宮本父が出ていくと、またしてもタバコを拝むように頭をひょいと下げてから
火をつけますが、一口吸ってすぐ消し、

「ん、やっぱり吸い付けたタバコの方が口に合うね」

彼らの生徒生活が軽快な音楽とともに活写されます。
総員起こしのあとの吊り床納めも、手早くできるようになった頃、

9月、辻堂海岸で陸戦訓練の総決算ともいえる野外演習が行われることになりました。

「気持ちいい〜!」

彼らにとって嬉しいのは、民宿の食事と、それから「布団で寝られること」。
わたしが心配した通り、ハンモック就寝はやっぱり結構辛いことなんですね。

大声で歌いながら(またしても『艦隊勤務』)お風呂に入ったり、
枕投げをしたり、まるで修学旅行気分です。

林はいつになくはしゃいで、今までこんな美味しいご飯や
フカフカの布団で寝たことはない、といい、

「俺、海軍にきて本当に良かったと思ってる」

ああああ、それはフラグ(以下略)

ちょっとじーんとなってしまったみんなは、気をとりなおすように
栗本のリードで今度は

「四面海なる帝国を 守海軍軍人は 戦時平時の別ちなく 勇み励みて勉むべし」

「艦船勤務」を歌い出します。

しかし次の日の紅白戦で事件が起こりました。

林が帯剣(ベルトにつけている短剣)を失くしたのです。

「なにっ!」

「教班長・・・」

この頃の梅雀さん、健気でキュート。声とか可愛すぎ。

とかいってる場合ではありませんね。
日没まで皆でで捜索を行い、さらにその後は工藤と林二人で探しますが、
広い海岸のあちらこちらを走り回っているので、見つかりません。

ついに、工藤は林に宿に一人で帰るように言付けるのです。
それが取り返しのつかない悲劇を生むことになると想像せず・・。

 

陸海軍を問わず、武器の扱いは常に「陛下から頂いたもの」として、
細心の注意が払われるのが常でした。
もちろん自衛隊だって何か部品をなくしたら、全員で出てくるまで探すそうですが、
(『あおざくら』『ライジングサン』参照)そうなった時のプレッシャー、
恐怖感はおそらく今日の比ではなかったと想像されます。

果たして、一人で暗い顔をして夜道を歩いてきた林は、
宿の前でくるりと踵を返してしまうのでした。

一方、切り株に腰掛けてタバコ休憩していた工藤は、
その近くに帯剣を見つけたのです。

宿舎に林が帰っていないことに不安を覚え、総出で必死の捜索を行いました。

「林〜!帯剣は見つかったぞ!」「林〜!」

ああしかし、林は廃屋の梁に首を吊って自殺していたのです。

嗚咽する班員たち。

武器を失くしたことを苦にして自殺する兵隊、というのは
よく創作物で目にしますが、実際にそういうことがあったかどうかは
(あったんでしょうけど)具体的に資料になっているわけではありません。

しかし、気の弱い者や、失くしたことより罰直が死ぬより怖かったりすると、
こういうことも起こったのだろうとは思います。

ちなみに、自衛隊では備品をなくして自殺したという事件はないようですが、
ただ、一人の隊員がなくした銃の捜索のため残業した時間が長く、
(のべ56日間)それが原因で鬱になり自殺、と言う例はあったようです。

そこで工藤は、

「貴様そんな弱虫だったのか!」

と言うや、変わり果てた姿の林を軽々と抱き起こし、頬を往復ビンタ。
いや、遺体の胸ぐら掴んで引き起こすのってそんな簡単じゃないと思う。

それに、普通の神経をしていたら仏様に対しそんなことできませんて。

案の定吉永中尉が色をなし、

「工藤上曹、死者への無礼は許さんぞ!」

その悲しい知らせは岩手の父と母に伝えられました。
へたへたとその場に座り込む母(林八重)。

そして父(加藤武)。

彼は林が給料を全て仕送りしだすと、心を入れ替え、
酒をやめて真面目に働くようになっていたのです。

一つだけ空席になった食事テーブルを囲み、皆表情を硬らせています。

「お前たち、何か俺に言いたいことはあるか」

全員を食後グラウンドに集合させ、木銃を持たせて、

「言いたいことを言えないような女の腐ったようなのに教育した覚えはないぞ」

余談ですが、「女の腐ったの」という言葉は、この頃の映画にしょっちゅう出てきます。
自粛か放送コードか知りませんが、いつの間にか死語になりました。

この言葉は性差別的であると言って終えばそれまでですが、
女性という性そのものを貶めているわけではないと思うのです。

ちゃんとした女性ならそうではない、という意味で「腐ったの」という
「但書」がついているわけで、本来なら女性らしい(とされる)傾向である
「控えめ」「感情を抑える」が腐って悪化すると、
「陰険」「はっきりしない」「明朗でない」等々になるといいたいわけですよ。

まあそもそも「女性らしい」という言葉そのものが差別とされる今日、
「誰かを不快にさせる」この言葉は遅かれ早かれ淘汰されていく運命だったと思いますが。

生徒たちを外に追い立てて、棒術の棒を持たせ、

「俺の胸を突いてこい」

教班長はいうのですが、生徒たちにそんなことできるわけないよね。
皆「やあー!」といいながら代わりに藁人形に突進し、
工藤もまた生徒を押し除けて突撃するのでした。

「弱虫は死ね!」

と繰り返しながら。

そして工藤上曹は志願して転属していきました。

「わたしはフネの方が性に合っているようです」

最後に予備士官である教官たちに向かって、チクリと一言。

「あなた方とは違い、彼らの家庭は世間の庇護が受けられず、
貧乏ゆえに自分たちしか頼るものがない者が多いのです」

そして敬礼をして去っていきました。

いつも虚無的なリアリスト、山中中尉は、

「工藤上曹は生徒たちに負けたんだ。彼らは純真そのものだ」

そしてこんなことを言います。

自分はここに転任命令を受けた時、もう少し生きられるとほっとした。
そんな卑怯な自分に比べ、幼い彼らがその純真さで死を尊いと思い、
生を放棄しているの見て、負けたと思った。

「だから俺もフネに転任願いを出した」

橋本の姉、ぎんが突然弟との面会を求めてやってきました。

艦艇実習で生徒には会えないことを知ると、彼女は、
自分が結婚して満州にいくことを伝えてくれ、と吉永中尉に頼みます。

ところで、彼女が出て行った途端、教官の国枝少尉がいうんですよ。

「あの女、素人じゃないでしょう」

素人じゃなければいきなり「あの女」呼ばわりですかそうですか。
映画スタッフの感覚なのかもしれませんけど、これも失礼よね。

 

しかしその夜、橋本はハンモックで涙に咽びました。
姉が結婚するということが嬉しかったのです。

次の日の手旗信号訓練で、姉の結婚のことを知った江波が橋本に送ります。

「オメデトウ」

喜び勇んで返答する橋本。

「アリガトウ」(´;ω;`)

5月27日の海軍記念日には演芸大会が行われました。
もうすぐ彼らが入隊して1年が経とうとしています。

「貫一お宮」の舞台で江波とともにお宮に扮した橋本が笑いを誘っているその時、

吉永中尉が憲兵隊に呼ばれてみると、そこにはなぜかぎんがいるのです。
彼女は逃亡兵と一緒に満州に行こうとしてつかまってしまったのでした。
結婚するというのは彼女の願望にすぎなかったようです。

ここでよくわからないのは、吉永中尉とぎんを憲兵隊の剣道場で面会させ、
その生い立ちから二人の馴れ初めまでを語らせる憲兵隊の意図です。

帰ってきた吉永中尉は本当のことを橋本に話しそびれます。
いや、ちょっとこれはいくら言い難くても告げるべきでは?

さて、秀才の江波が砲術学校入校を命じられた日、
校長であったかれの父が急死したと知らせがありました。


学校を辞めて軍需工場で働いていたところ、鉄材の下敷きになったのです。

父が学校を辞めた理由は、自分の生徒を海兵団に送り込み、結果的に
彼らを死に追いやることに加担している罪の意識に耐えられなかったからでした。

一人残され、息子だけは戦地に行って欲しくないと必死にすがる母に、江波は

「僕は生まれなかったものと思ってください」

と冷たく言い捨てて故郷を後にします。

 

そして、次の瞬間、彼らは砲術学校を卒業し、同日のうちに
硫黄島海軍守備隊への配属を命ぜられていました。

 

硫黄島で戦闘を行なった海軍部隊は総勢7500名ほどでしたが、
航空戦隊と設営隊、そして警備隊からなるもので、
ここにどのくらい特年兵がいたかはわかりません。

ただ、実際にありえないこととして、海兵団の同班だった江波らが
ここでも同じ部隊におり、中隊長は教官だった吉永中尉、おまけに
工藤教班長までおなじ部隊にいたりします。

昭和20年2月16日、米海軍機動部隊の500隻が硫黄島を包囲しました。

島の形が変わるほどの艦砲射撃と砲撃で戦力は消耗していき、
わずか数日で陸海軍の守備隊は壊滅状態に陥りました。

洞窟に身を隠す彼らの耳に、米軍の投稿を呼びかける声が聞こえてきます。
手榴弾を投げ込んだだけで行ってしまいますが、実際ならもっと執拗だったはず。

そして、ついに最後の時がやってきました。
栗林中将発信の電文は、最後の総突撃、玉砕を慣行する旨伝えてきていたのです。

中隊長である吉永中尉は、同時間に万歳突撃を決心しました。

しかし、吉永中尉は、4名の少年たちには突入でなく「待機」を命じます。

年少兵を玉砕に巻き込むのは忍びず、たとえ見つかったとしても
アメリカ軍も子供である彼らを殺すことはないだろうと考えたのでした。

一緒に突入させて欲しい、と必死で頼む彼らでしたが、
吉永ははねのけ、待機場所への出発を命じました。

「江波上水以下4名、出発します」

そこで彼らの後を追って立ち上がったのが工藤でした。
制止する吉永中尉に、工藤はこう言い遺します。


おそらく「そういう教育」を受けてきた彼らは捕虜になることを望まず、
軍人としての行動を取って殺されるであろうから、私は一緒に死んでやると。

「もう遅いのです。そう彼らにさせたのはわたしであり、あなたです」

工藤の考えた通りでした。

自分たちだけで突入し、玉砕することを決めた少年たちは、死を前に
生まれて初めての恩賜の煙草を咽せながら吸い、各々の思いを語り合います。

自分が死んだら姉も少しは肩身が広くなるだろう、と橋本。

喧嘩別れしたが、自分を育ててくれたやさしい父親だった、と宮本。


そして、父が死んだときのように会津武士の妻である母は、

皆の前では涙ひとつ見せず、また納戸に隠れて泣くだろう、と栗本。

そして全員で「海行かば」を歌いました。

そのとき、彼らは見たのです。
自分たちを追ってやってきた工藤教班長が銃弾に倒れる姿を。

敬愛する工藤教班長の後を追うかのように、彼らは次の瞬間
一斉に突入し、わずか14年の若い命を散らせていきました。

映画は最後に、海軍特年兵戦死者の名簿と碑を映し出します。

東郷神社境内にある特年兵の碑文にはこのような文が捧げられています。

戦争のこわさも その意味も
知らないまゝで 童顔に
お国のための 合言葉
一ずに抱きしめ 散った花
十四才の あゝ 夢哀し

 


「艦船勤務」〜映画「海軍特別年少兵」

2021-07-11 | 映画

東宝映画が毎年終戦に合わせて公開していた
「東宝8・15シリーズ」最後の作となった、

「海軍特別年少兵」

を取り上げます。

昭和20年、硫黄島の戦い。
米軍11万人と艦船多数の兵力に対し、その5分の1(艦艇ゼロ)で
これを迎え撃った日本は
次第に追い詰められていました。

突入してきた日本兵を射殺したアメリカ海兵隊員は驚くのでした。

「子供じゃないか」

そして日本人のむごさとやらを非難するわけですが、
その子供兵士こそが、本作のタイトルにもなっている

「海軍特別幼年兵」

通称特年兵です。

しかし、日本海軍とて最初から少年を戦争に投入しようとしたのではありません。
元々の目的は、将来の中堅幹部の養成を目的にした制度であり、基礎教育終了後は
海軍兵学校に学ばせ、幹部に育成するための教育機関だったのです。

海軍特別幼年兵という言葉を検索すると、ほぼこの映画の情報しかないのですが、
なぜかというと、もともとその名の制度による戦闘団があったわけではないからです。

日本が敗戦の最終段階に追い詰められるに至って、海兵団という
各鎮守府にあった海軍教育課程の生徒を戦場に駆り出すしかなくなりました。

追い詰められたドイツでも最後の方はヒトラーユーゲントが駆り出されたように、
日本の切羽詰った事情が生んだのが特年兵であった、というわけで・・・、
つまり日本も負けていなければここまでする必要もなかったのです。

だから、子供が戦争に参加していたからということで

「なんと酷い奴らだ!」

と日本人を非難するならば、その前に自分たちが、
沖縄で女子供を含む一般人を
海上の軍艦から艦砲を壕にぶち込んで
殺したりしていないことを証明してからにしていただきたい。

とやたら冒頭から喧嘩腰ですが、こういう、どこかの高みに立って
人道上の非難をしてみせる全ての言論に、わたしは猛烈にムカつくもので。

とはいえ、実際にアメリカ人が言ったわけでもないセリフに、今更
怒ってみるというのもちょっと大人気ないので、とっとと始めましょう。

 

オープニングタイトルは、彼らが神奈川県の三浦郡竹山村に、昭和16年
「横須賀第二海兵団」として開団後、改称された武山海兵団の入団試験で
健康診断を受けている映像に重ねられます。

武山海兵団は、戦後陸自の竹山駐屯地、海自横須賀教育隊として転用されています。
今調べてみたら、横須賀音楽隊もここが本拠地らしいですね。

そういえば何年か前、某デパート旅行会主催の観光ツァーで駐屯地見学したことがあります。

監督は今井正。

この人の作品には、あの「ひめゆりの塔」なんて作品もありましたね。
戦争中には戦意高揚映画を撮っていながら、戦後は反動で?左に振り切れて
共産党員にまでなってしまったあたり「戦争と人間」の山本薩夫とそっくりです。

振り切れといえば、山本作品の「皇帝のいない八月」なんてすごいですよ?
自衛隊反乱分子が武力クーデターで右翼政権樹立を企む!てな話ですから。

さて、入団が決まった少年たちが、各々の私服をセーラー服に着替えると、
地井武男演じる「教班長」、工藤上等兵曹が、なぜか竹刀を持って、
これまで身につけていたものを一切故郷に送り返すように、怒鳴ります。
兵学校でも行われていた慣習で、これは「娑婆っ気」を捨てて、
今日から海軍軍人なるための一つのイニシエーションのひとつです。

ナレーション役である登場人物の一人、江波洋一が

「海軍二等水兵となる」

と言っています。
1942年までは四等水兵からのスタートでしたが、改正されました。

班ごとに分かれるや、工藤教班長から1番に自己紹介を命じられた林宅二

「お前からだ」

うーん、これは違うかな。
教班長なら、生徒のことは貴様というんじゃないかな。

ところで、このいかにも東北の貧農で酒浸りの父を持つ息子という役柄がぴったりな、
素朴な風貌の俳優ですが、これが映画デビュー作となった中村まなぶ
のちの中村梅雀だというので、クレジットを見て驚きました。

『もみ消して冬〜我が家の問題なかったことに〜』のお父さん役で、
軽くファンになってしまったわたしですが、調べてみると
実はプロのベーシストとしても活躍していると知り、二度びっくり。

彼は母親に少しでも楽な生活をさせてやりたい一心で
教師の勧めもあり、海兵団を志願したのでした。

「郷土会津の誇りにかけ、昭和の白虎隊員として華々しく討死する覚悟です!」

会津若松出身、栗本武
白虎隊といえば、東郷神社境内にある「海軍特年兵之碑」には、

「戦場での健気な勇戦奮闘ぶりは 昭和の白虎隊と評価された」

と記されています。

栃木県出身の宮本平太は貧乏な開業医の息子です。



彼の父吾市(三國連太郎)は当時のインテリにありがちな左翼主義で、
かつ無政府主義者思想でもあり、海兵団に入るという息子に
「社会主義者」「非国民」と言われて思わず殴りつけたりします。

そんな父を思い出しながら、かれは

「父の分までお国に尽くします!」

「親父がどうしたというのだ」

「私の父は・・・びっこなんです!」

放送禁止用語などというものはなかったころの作品です。

長野県出身、橋本治

「私は早く死にたくあります!」

流石の教班長もこの答えの意味を追求しません。
彼もまた、貧困家庭の出身でした。

林宅二と同郷の江波洋一は、教師の息子です。

林拓二を海兵団に入れるように説得したのは何を隠そう彼の父。

「水飲み百姓より帝国海軍軍人がいいに決まってる」

ところが、林の母親を説き伏せた教師の父(内藤武敏)(山岡久乃)は、
なぜか自分の息子の入団となると渋い顔をするのでした。

父親は海軍兵学校や陸軍士官学校を受けるならともかく、
秀才で中学に通っている息子がなぜ2等水兵なんぞに、と不満なのです。

起床ラッパが鳴り響き、少年たちの海兵団1日目が明けました。

海軍なので当たり前ですが、釣り床で寝ています。

これいつも思うんですが、寝返り打てなくて辛くないんですかね。
横向き寝とかうつ伏せ寝とかしたい人は特に。

総員起こしで全員が「釣り床納め」、ハンモックを畳みますが、
初めての朝なので皆まだもたもたしています。



階段は全力で駆け下り。昇る時は一段抜かしです。
服装など身嗜みチェックのために踊り場には全身が映る鏡があります。

総員校庭に集合し、ここで海軍体操をするはずですが、
本作ではいきなり甲板掃除(床拭き)となっています。

整列が「どん尻」になった者は練兵場一周。
案の定、林が最初の罰直を受けてしまいました。

やっと食事の時間になったと思ったら、教班長は林を狙い撃ち。
階段の横にあった「今日の標語」は何か聞いてきました。

答えられない林に代わって指名された江波が、
嫌味なくらいスラスラと標語を暗唱します。

「聖戦完遂は我らの双肩にあり!堅忍不抜の海軍精神を磨け」

林は決して標語を見ていなかったわけではありません。
しかし、国民小学校をほとんど家のせいで欠席していたため、
「完遂」という字は覚えていても、これをどう読むのかわからなかったのです。

しかし、言わせて貰えばその設定そのものに矛盾があります。

特年兵はその中から将来海軍兵学校予科に進むシステムも設けており、
初年兵教育として中学3、4年の学力を付けさせるのが目的だったので、
国民学校もろくに通っていない生徒はそもそも海兵団に入れなかったでしょう。

林はまたしても昼飯抜きという罰をうけることになりました。

ちなみに中村梅雀氏は自身のブログで、本作DVD発売を機にこう語っています。

「撮影するにあたり、実際の年少兵だった方々に当時の事を教わり、
訓練や生活は本当にリアルに再現した。

今井正監督は決して手を抜かない。
殴るのも全て本気で殴らせた。
殴る側も役に徹しなければ殴れない。
その厳しさ苦しさ痛さは、今も忘れられない。

それは、どこまでも厳しく優しい、監督の愛情なのだ。
映画に対する情熱なのだ。
どんなシーンも、納得がいくまで決して諦めず、何度でもやり直しをした。
だから少年兵たちの目が生きている。

鬼教官の工藤教班長役の地井武男さんは、少年たちを殴り続けた。
本当に大変だったと思う。」

続いて教練の様子が描かれます。
座学、行進、敬礼、手旗信号。

そしてカッター訓練でもやっぱりヘマをする林。
オールを落とし、自分も落ちてしまいます。

林が泳げないことを教班長に報告した同郷の江波、
ついでに橋本も水に突き落とされ、しかも助けてもらえません。

泳ぎ着いたところをオールで突き放され、

「帝国海軍軍人がカナヅチで義務を果たせると思うか!」

いや、いくらなんでも泳げないのにこれは無茶というものでしょう。
下手したら死ぬよ?
水泳訓練してやれよ。

初めての日曜日、まだ外出は許されず、生徒たちが命ぜられて
故郷に海兵団生活について「感じたままを」手紙に書いていると・・、

予備士官の東京帝大卒英語・国語担当、吉永中尉がやってきて、
手紙を書こうとしない橋本に声をかけました。

何故書かないのか、彼は理由を答えようとしません。

その理由は、養父母への反発でした。

彼の叔父夫婦、大滝秀治と佐々木すみ絵
ちょい役、しかもこんな憎まれ役を大物が演じる贅沢な映画です。

養ってやっていることを恩に着せてこき使い、水商売で働いている
姉からの仕送りが途絶えると、ご飯のお代わりにも小言を言う夫婦。

 

教班長が手紙を書かせたのは、何も知らない彼らが油断して、
甘えた泣き言を故郷に書き送ることを見越してのことでした。

「そんな甘ったれたことで帝国海軍軍人と言えるか!」

父親への反発から手紙を書かなかった宮本と橋本、高みの見物。

しかし手紙を書かせた理由はそれだけではありませんでした。
教班長は林だけを呼び、手紙を朗読させます。

それはなぜか江波の母に当てた手紙でした。
そこには俸給が出たらお金を送るので、それを父にわからぬように
母にだけ渡して欲しいと切実なことが書かれていました。

父というのが穀潰しの酒浸りで、入隊前夜も田んぼで息子に絡み、
殴り合いをしてきたのです。

理数科担当の教官、予備士官の山中中尉が着任してきました。
山中中尉役の森下哲夫はバイプレーヤーとして(Dr.ヒネラーとか)
いろんなドラマに出演、2019年に逝去しています。

同じ東京帝大出身の吉永中尉は同僚の国枝少尉(辻萬長)に紹介しますが、
なんでか物凄く態度が悪く、国枝少尉、ムッとしてます。

これはあれかな?国枝少尉が国学院大学卒だからとかそういう理由?

だとしたら鼻持ちならない奴決定ですが・・・。

吉永は生徒たちについてこんな逸話を紹介をします。

彼の担当である英語の時間、江波訓練生が、海軍なのに
どうして敵国語である英語を勉強するのかと聞いてきたのです。

「英語など時間の無駄に思えてなりません」

海軍ではバケツ=オスタップ(ウォッシュタブの変化形)、
ゴーヘイ=前進、そのまま(Go ahead)、ラッタル=階段(Ladder)など、
英語からきた名称が多く、海軍という軍隊の任務上艦船の臨検や尋問、連絡にも
英語が必要となってくるため、最後まで英語教育を中止しませんでした。

本物の特年兵が監修していたというからには実話なのでしょうけど、
この「考査で成績最下位だった班は食事抜きでテーブルを持って立っている」
というのはあまりにも不条理です。

だって、必ずどこかの班が最下位になるわけですよね。
おまけに工藤さんたら、テーブルを持ち上げている彼らの腰を、
「海軍精神注入棒」とやらでバンバン叩くんですもの。

これも梅雀さんによると「本当にやっていた」ということになります。

 

しかもこれが「一人足を引っ張る奴」=林のせいだと思っていて、
聞こえよがしに嫌味を言う栗本と林を庇う橋本の間で乱闘騒ぎになる始末。

まあ、すぐに仲直りするんですけどね。

しかし、この件でさすがに見かねた吉永中尉と工藤の間で口論が起こります。

罰直主義は利己心を増長するので是正すべきという吉永。
罰直は海軍精神を鍛えるための伝統であるという工藤。

吉永は教育は愛であると主張し、工藤は力であるとし、平行線に終わるのでした。

吉永の意見はもっともですが、そもそもこの戦争中という非常時において、
彼らの置かれた立場を平時の理論で測るのはいかがなものかとも思われます。

彼らの意見の対立は、実に最後の沖縄の戦場にまで持ち越されることになります。

会議の間ずっと落書きをしていたらしい山中中尉ですが(笑)、
若手教官だけになると、早速吉永に向かって

「教育は愛なんてそらぞらしい、工藤のいうのが本当だ」

さらに、

「教育が愛などと言うなら、どうして特年兵制度などに反対しないんだ」

と大正論をぶつけてきます。

そりゃそうだ。
軍人直喩を唱え、人間に見立てた藁人形に銃剣を持って突撃する訓練。

こんな教育を14歳の子供に行うことそのものが愛とは程遠いじゃないか、
というのが山中中尉の本音であり、実は誰もが口には出さないけれど、
心のどこかで誰もが疑問を持たずにいられない矛盾が大前提なのですから。

訓練生は出した手紙だけでなく返事もしっかり検閲されます。
教班長に母からの手紙を音読させられる会津藩士の家系の息子、栗本。

まるであの「フォレスト・ガンプ」のダン中尉の家系のように、栗本の家は
戊辰戦争、日清戦役、日露戦争、シベリア出兵で代々男たちが戦死しています。
彼は兄も支那事変で亡くしているのです。

檀那寺の和尚(加藤嘉)は無責任に(笑)戦死者を出すことを
日本でも数少ない名誉な家だと称えるのですが・・

彼の母(奈良岡朋子)は決してそれを嬉しいとも思っていないようです。
人前では繕っていても世のほとんど全ての母親の気持ちは皆同じでしょう。

次に呼ばれたのは橋本。
今三島にいてお客には兵隊が多い、と言う手紙に、工藤は
(そんなことくらい察しろと言う気もしますが)

「お姉さんは何をしているんだ」

「姉は酌婦・・いいえ、娼妓です」

「・・(´・ω・`)」

最後は林でした。

母親は、給料3円50銭なのにどうして5円も送ってこられるのか、
と手紙に書いており、それを読みながら林は驚愕します。

「教班長・・・わたしは3円(しか送っていません)」

「きっと手紙を書いた江波のお母さんが聞き間違えたんだろう」

しかし、教員の間でもこの金額の相違は話題になってしまい、
工藤はその理由を尋ねられ、苦し紛れに、

「きっと同じ教班の者が同情して・・そうだと思います!」


・・・工藤教班長・・・
これはいわゆる一つの・・・・

 

続く。


キャンパスツァーとインディペンデンス・デイ(独立記念日)〜アメリカ滞在

2021-07-10 | アメリカ

豪雨のあと、一瞬の奇跡のような爽やかな日が訪れましたが、
あっという間に最高気温33度の夏日に戻ってしまったピッツバーグです。

なので、公園の散歩はコースにまだ陽の差さない早朝に行くことにしました。

いつもなら無人のごはんタイムに乱入してきた人間に戸惑っている若い牡ジカ。

リスも朝の方が活動的です。


街を歩く人のマスク着用率は二十人にひとりといったところですが、
ホテルのある一角はピッツ大医学部病院の集中地帯なので、
医療関係者が多いということを考えると、ここではほとんどが
マスクを外し、飲食店も平常営業を始めたと言っていいかと思います。

最初に「ヌードルヘッド」という麺専門店で外食をしました。
去年は店を閉めて店頭でテイクアウトだけしていましたが、今回行ってみると
広い店内が埋め尽くされていて流石の人気ぶりでした。

いつもここにくるとこのチキンパッタイを頼み、半分食べて持って帰り、
次の日野菜を足すなどのアレンジをして頂きます。

MKは、車がないと行けない郊外のお気に入りのレストランで
このバッファローウィングスを食べるのを楽しみにしていたようです。

ここのウィングはとても肉が柔らかく、適度なピリ辛が食欲をそそります。

シェイディサイドには、アップルストアがあるというイケてる商店街があります。
ある朝そこの朝食専門フレンチ風カフェに連れて行ってもらいました。

わたしは朝食を食べないのでお茶だけです。

この日、MKが大学の「内部見学ツァー」をしてくれました。
ここにはかつて立派な研究室のビルがあったのですが、
2023年完成予定で新築工事に入っています

大学のシンボルであるタワーとその周辺の、最初にできた建物に手をつけず、
新しい建物をこの旧校舎と渡り廊下や壁などで接続していくのがアメリカ式。

古い建物を大事にするお国柄なので、この建築法はどこでも見られます。

ちなみにMKはタワーの頂上まで昇ろうとしたそうですが、さすがに鍵がかかっていたそうです。
しかも、後から、あのタワー近辺は物凄い電磁波だから近づかないほうがいいと言われたとか。

おいおい、後から知ってどうする。

学内には、最初の校舎の建築時の現場写真と設計図がパネルされて飾られています。
左手に線路が見えていますが、工事現場の写真の左側に今でもあって、貨物線として利用されています。

斜面の上に建っているので、表からみると2階建、
裏から見ると6階建というトリッキーな建築です。

まずは機械工学部から。
大学のシンボルである黒いスコッチテリアは充電でお休み中。

木工所みたいですが、何をするところかわかりません。
建築学科とかかなあ。

MKによると、その前日、教授たちが皆で片付けをした跡だそうです。
片付け=廊下にゴミを出すこと?

まだ片付いていないのかと思いきや、これが通常の状態だということです。

これがMKのワークスペースだそうで。

飲みかけの水とほったらかしておくのはいかがなものか。

壁全体がホワイトボードになっている仕組みです。
書かれた字がMKのと似ているのでこれあなたの?と聞くと、全く違う、との返事でした。

偏見かもしれませんが、アメリカ人も理系の人って字の下手な人が多い気がします。

 

創立当初の機械工学部(だと思う)。
当時の大学生は皆スーツに革靴といういでたちだったんですね。
この写真は現在の同じ校舎の廊下に飾ってありました。

説明がありませんが、おそらく1940年代ではないでしょうか。
機械のたたずまいから通信関係の研究ではないかと思われます。

アメリカの工学大に学はもちろんですが軍事研究のための予算が出ているので、
MKに言わせると、当大学にも「秘密のラボ」があって、そこでなにやら
武器兵器の研究が行われているとかいないとか。

出入りできるのはごく限られた研究員だけという噂があるそうです。

ここで一旦外に出てみます。
大学は5月から夏休みに入っているので、人影はほとんどありません。

チャレンジャーで事故死した宇宙飛行士の一人、

ジュディス・アーリーン・レズニック(Judith Alrene Resnik)

が本大学の卒業生であることから作られた碑。
このモニュメントの形は、彼女がエンジニアの名誉クラブ、
くしくもMKが先日その末席を汚すことになったところの
τβπ(タウ・ベータ・パイ)であったことを表します。

このマークは、時計のネジを巻くための鍵と橋脚の架台を組み合わせた形を
図案化しており、創設時はそれが工学への誠実と卓越の原則を象徴するものだったのです。

MKにも周りの誰にも、これが何を表していて何のためにあるのか
説明がないので全くわからないという謎の団子モニュメント。

「でもなんか可愛くない?」

「雪の日、マフラーと帽子付けてもらってたよ」

しかし大学キャンパスという地にありながら、よく今日まで無事落書きされずに来たものです。

ギネスブックにも乗っているという噂の、

「最もしょっちゅうペインティングされたフェンス」

ですが、最近の学生はどうもやる気がないらしく、今は

「一度これを塗ってみたかった」

という投げやりな文句が白地に書かれているだけのもの。
それと、π二乗=9ってこれ何なんだよ・・。

π^2=9.86960440109・・・・???

さて、この割と最近の建築っぽい建物は、コンピュータサイエンスセンター。

この日は独立記念日の休日だったため、観光客がうろうろしていましたが、
キャンパスは自由に歩けてもさすがに校舎には鍵がかかっていて入れません。

外からドアを開けようとしている家族をMKは中から開けて入れてやりました。



このビルは某ゲイツ夫妻が寄付したということで、「ゲイツセンター」というそうです。
ゲイツは本学出身ではないのですが、いろんなところに寄付することで
自分の名前を全米の工科大学にまるでマーキングするかのように残しまくっているようです。

ちなみにこのご夫婦、最近離婚されたということですが、学生の間では
ビルのどこをメリンダが取るんだろう、というジョークが一瞬流行ったとか。

それよりわたしはなぜ今更離婚などしなくてはならなかったか、その本当の理由が知りたい。

ほとんどのアメリカ人がマスクを外し始めたアメリカですが、
まだ一応最警戒時のポスターと使い捨てマスクはそのままです。

マスコットのスコッティくんが、マスクをして食べ物はテイクアウト!と宣言しています。
(アメリカのテイクアウトはこのような紙パックがよく使われる)

本学の歴史はイコールコンピュータの歴史でもあると言いたいわけですな。

ざっと要約してみると、コンピュータの専門センターが創設されたのは1956年、
最初に導入したのはIBM650、2番目がBendixG-20、AIを作ったのもうちです的な?

この前段階では、コンピュータでチェスをやったとか、人工知能とか、
まあざっとそんな感じのことが書かれています。

ゲイツビルの裏はまるでホテルのようなアクリル柵に囲まれた
ベンチのコーナーがあります。

一階の大きな窓の内側にはなにやら水槽のようなものが・・。
これは当ブログ的に大変興味深い、海軍艦船関係の研究を行うプールと見た。

しかし、たかだか大学なのにこんな設備まであるなんてすごすぎない?

もう一度機械工学科のビルに戻ってきました。
これはナノテクの研究室で、二重ドアになっており、
入室の際には必ず(コロナと関係なく)マスクとヘアキャップが必須です。

大規模な木材の加工を行うことができそうな部屋。
天井からぶら下がっている黄色いチューブはダストスイーパーかな。

さて、ジュライフォース、独立記念日の7月4日のテレビニュースです。

ブルーエンジェルス結成75周年記念、ということは、
第二次世界大戦が終わってすぐ結成されたってことですね。

独立記念日には、恒例イベントとしてアメリカは各地で花火が打ち上げられます。

しかし、アメリカでは花火は買える場所もやっていい場所も限られていて、
どうしても花火を買いたい人はわざわざ越境し、使用する期間も限定的です。

その理由は、銃声と似ている花火の炸裂音とか、大量の火薬を使うことにあるようです。

わたしが昔住んだマサチューセッツ州は全面的に花火の売買と使用が禁じられ、
唯一許されているのが独立記念日のスポンサー付きの花火大会だけでした。
花火を買いたいマサチューセッツの住人は、ニューヨーク州との州境、
インターステート近くに集中している花火屋まで行かなければいけません。


つまり独立記念日は、アメリカ人にとって年に2度だけ解禁された
(もう1日はニューイヤーズ・イブ)花火を楽しめる日でもあります。

この日、老若男女は花火の見学スポットに陽が高いうちから詰め掛け、
ご覧のように芝生にチェアを並べてビールなど飲みながら9時過ぎまで待ちます。
去年中止されたイベントなので、今年の復活は皆が喜んだでしょう。

ここはわたしが去年の夏と今年の冬泊まっており、毎日歩いた河原なのですが、
車で様子を見るのがやっとでした。

MKは友達と連れ立ってバスで河原に来て花火を最後まで見たそうです。

 

9時になりテレビの中継を見ながらホテルの窓外を見ると、
ざっと見て少なくとも二十箇所から花火が上がっているのが見えました。

どこの地域でも陸海軍の軍楽隊が中心になってパフォーマンスを行いますが、
特に凄かったのがこのリモートによる海軍選抜メンバーのアカペラコーラス。
とんでもなく高クオリティの演奏でした。

FOXニュースでは、ウェストポイントの花火を中継していました。
お行儀よく制服を着て並んで座り見物している士官候補生たちも映っています。

インディペンデンスデイの次の日は月曜ですが、恒例として
この日もアメリカではお休みとなるようです。

9時からの花火の後散々ビールを飲んだりして、次の朝から仕事、
というのはあまりに過酷だということなのでしょう。

翌日公園を歩くと、至る所に花火の燃えかすが落ちていました。

こんなパッケージも。

TNT(トリニトル・トルエン?)のWAR TIMEなる花火。
しかもパッケージには群をなして飛ぶ爆撃機・・・。

TNT Fireworks

どんな物凄い花火かと思ったら。

 

 

 

 


メッサーシュミット Bf 109〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

2021-07-08 | 航空機

スミソニアン博物館の第二次世界大戦の航空シリーズ、まずは展示機のひとつ、
スピットファイアと彼らが活躍したバトル・オブ・ブリテンについて取り上げました。

今日はまず、バトル・オブ・ブリテン時代のRAF(ロイヤルエアフォース)機を、
スミソニアンの展示写真から紹介します。

■ バトル・オブ・ブリテン時代のRAF航空機

アブロ ランカスター Abro Lancaster

イギリス空軍でも最も成功した重爆撃機、アブロランカスター。
4基のマーリンエンジンを搭載していました。

「ショートスターリング」「ハンドレイ・ページ・ハリファックス」とともに
対ドイツ夜間爆撃の主力となり文字通りの一翼を担いました。

1942年から1945年にかけてドイツの主要都市はことごとく破壊され、
爆撃によって数十万人もの市民が犠牲になることになりましたが、
防衛のため撃ち落とされた何千機もの搭乗員の命もまた失われることになりました。

ボールトンポール・ディフィアント Boulton Paul Defiant

ボールトンポール。
今までどこにも見たことがなかった軍用機の会社名です。

複座戦闘機で4門の後方砲塔を備えており、前方武器がありません
前方を攻撃できない戦闘機などというものが存在していたのも初めて知りました。

いったいどんな効果を期待してこんな仕組みにしたのかと思いきや、
この奇妙なコンセプトは初戦闘となったダンケルクでのみ効果を発揮することになります。

ドイツ軍戦闘機はこのシェイプからこの機体を

ハリケーンと間違えて

ディフィアントの後方から近づき、後方銃にやられることになりました。
もちろん情報はすぐさま共有されますから、効果があったのはこのときだけで、
その後はルフトバッフェ戦闘機の敵ではありませんでした。

そのため、日中の作戦からは引退し、夜間戦闘機にジョブチェンジ。
この後方銃も、夜間の対爆撃機戦には当初のみ効果的だったとされます。

しかしながら、元々夜間用として開発されたのではないため、
本格的な夜間戦闘機が新しく投入されるようになると、引導を渡されて
標的曳機や救出用などの雑用に格下げされてしまいます。

difiantというのは、反語好きのイギリス空軍の趣味を反映して、
スピットファイア(癇癪持ちの女)を彷彿とさせる、

「反抗的な人」「従わない人」「喧嘩腰の人」

とろくでもないやつの意味なのですが、こちらはスピットファイアと違って
性能がアレで皮肉屋のRAFパイロットたちに嫌われてしまったため、
difiantから取った、

Daffy (馬鹿・うすのろ)

という愛称(愛はあまりなさそうだけど)で呼ばれていたそうです。

ん・・・?ダッフィ?
ダッフィって・・・どこかにいましたよね。

ほら、極東の某テーマパーク発祥の熊のぬいぐるみ、
あれ、確かスペルもドンピシャでDaffyだったような気が・・・。

今調べてみたら、英語のウィキもしれっと”Daffy”で記述があります。
「ダッフルバッグに入っていたからダッフィー」という、日本発祥ならではの
捻りのない名前の起源まで翻訳されているので驚きました。

英語圏の人たちは、この「馬鹿・うすのろグマ」という名前を当初どう受け止めたのか(笑)

 

さて、熊でないほうのダッフィ、ダンケルクでは確かに何も知らない敵機を落としましたが、
メッサーシュミットには通用せず、逆に落とされまくったため引退を余儀なくされました。

続くバトル・オブ・ブリテンにおける当時のRAF側の飛行機不足は切実で、
もうこの際、飛ぶものならなんでも投入したい、という切羽詰まった状態だったはずですが、
それでも出撃させてもらえなかったといえば、
ダッフィーがどう思われていたかわかるというものです。

デハビランド・モスキート de Havilland Mosquito

機体が木製のデハビランド・モスキートは、
1944年初頭まで、驚くべきことにRAF最速を誇る機体でした。

モスキートは爆撃機、戦闘爆撃機、写真偵察機として運用され、
その日中細密爆撃の能力には正確さにおいて定評があったということです。

空中迎撃レーダーを搭載しており、夜間飛来する敵爆撃機に対しては
夜間戦闘機としてパスファインダー=開拓者のような役割を果たしました。
(ダッフィーが用無しになったのはこのせいだと思われます)

高速性能は、ドイツのV-1「バズ・ボム」飛行爆弾の撃墜に対し効果を上げました。


元祖巡航ミサイル?V-1

■ 同時代のルフトバッフェ航空機

メッサーシュミットMesserschmitt Bf. 110C

ドイツ軍機の72分の1模型が展示されています。
メッサーシュミットなのでMeを付けて表記することもありますが、
スミソニアンではバイエルン航空機製造を意味するBfを冠しています。

「駆逐機」Zerstörer(ツェアシュテーラー)

とも呼ばれた重戦闘機で、適宜投入すれば実績をあげることができたのですが、
バトル・オブ・ブリテンでは所詮双発機であったこともあり、
スピットファイアにめちゃくちゃにやられてしまいました。

このとき、ドイツ空軍は237機のBf110を投入し、223機を失っています。
(逆にこの4機がなぜ生き残ったのか、わたしはそれが知りたい)

バトル・オブ・ブリテンでは重爆撃機の護衛どころか、敵が来ると
Bf.109に援護してもらわなければならなかったそうです。

「ルフトバッフェのダッフィー」的立場だったんですね。

ユンカース・シュトゥーカJunkers JU 87B

逆ガル翼の急降下爆撃機、シュトゥーカ。
急降下するときにサイレンのような音を出したことから、
「悪魔のサイレン」と敵に恐れられたので調子こいて
実際にサイレンをつけてみた機体もあったようです。

このサイレンのことを、ドイツ兵は「ジェリコのラッパ」
(ジェリコが吹いたラッパの音で城壁が落ちたという聖書の逸話)

と呼んでいたとか。

ポーランドで1939年ブリッツ(電撃戦)を行うシュトゥーカ
 

ブリッツではともかく、バトル・オブ・ブリテンでは、防弾性能の低さが裏目に出て
スピットファイアやハリケーンに多数が撃墜されてしまいました。

ユンカースJunkers JU 88A

ユンカース社が開発した軽爆撃機。
バトル・オブ・ブリテン以降も終戦まで主力爆撃機として運用されました。

 

ところで、我が大日本帝国海軍では、双発急降下爆撃の研究のために、
1940年末、この
Ju 88 A-4を輸入しています。

しかし、海軍工廠がおこなった試験飛行の際、木更津飛行場を離陸したっきり、
行方不明になってしまいました(-人-)

沈んだ機体は東京湾の海底の泥に埋まってしまったか、あるいは今でも
機体の一部は魚の住処になっているかもしれません。

■ メッサーシュミット109

ヴィリー・メッサーシュミットの有名な単座戦闘機Bf109シリーズは、
史上最も大量に生産された戦闘機のひとつです。

もう一度説明しておくと、試作機を製造したのがBfと略される
Bayerische Flugzeugwerke AG
で、1938年メッサーシュミット社に社名変更しましたが、

ドイツの公式出版物では「Bf109」と表記され続けていたものです。

 

何かとナチスの政治的な宣伝が目立った1936年のベルリンオリンピックですが、
なんと、この新型戦闘機の最初の公開デモンストレーションまでやらかしています。

デビュー後、Bf109の最初のモデルは1936年から39年のスペイン内戦の後期に参加しました。

その後、ポーランドとヨーロッパ西部におけるブリッツ、「電撃戦」キャンペーン、
そしてバトル・オブ・ブリテンでその名声を獲得しました。

その成功は、優れた機動性と正確で安定した操作性に尽きました。
つまり操縦が容易でしかも性能が発揮しやすいということです。

 


■ ライバル、スピットファイア

スピットファイアは、ドイツ空軍の戦闘機に本格的に挑戦した最初の航空機です。
スピットファイアの方がわずかに速く、操縦性も優れていましたが、
高所での性能はメッサーシュミットが勝りました。

つまり機体の性能は一長一短あってほぼ互角だったことになります。
そうなるとものをいうのはパイロットの技量ですが、この点においても
英独空軍の搭乗員には操縦技術の差はほとんどないとされていました。

しかし、1940年のバトル・オブ・ブリテンでは、地元で戦ったRAFが有利でした。
しかも、Bf109の燃料容量では、英国上空での戦闘時間は20分が限度であったため、
多くの109型パイロットが燃料を使い果たし、英仏海峡の氷の海に墜落しました。



Bf109は、1943年以降、ドイツ本土に襲来するアメリカ陸軍航空隊の
重爆撃機による昼間の空襲の迎撃に投入されましたが、
ことごとく激しい防御の十字砲火を受けることになりました。

インテイクの下の注意書きには、

注意して開閉してください

空冷はフードに内蔵されています

と書いてあります。

Bf109は戦争期間を通じて使用され続け、絶えずアップグレードされました。
このGー6モデルは、1942年に最初に戦闘機ユニットに納入され、
東部戦線で広範な任務に携わってきたものです。

このマーキングは、東地中海空域で活動した

7 staffel II./JG 27 第7飛行隊第3航空群第27戦闘航空団

の機体を再現しています。

連合国軍側にとってしばらくこの戦闘機は幻の存在でしたが、
1944年、フランスのアルザス地方のパイロット、ルネ・ダルボアが
109G-6に乗ってイタリアのアメリカ陸軍に亡命を求めたため、
初めて鹵獲することができたという経緯があります。

その後、陸軍航空隊(AAF)は評価のためにこの戦闘機をアメリカに輸送しました。
輸送の際には部隊のマーキングと迷彩をすべて剥がし、航空技術情報司令部は
この戦闘機にFE-496という在庫・追跡番号を付与しました。

戦後、空軍はメッサーシュミットをスミソニアン国立航空宇宙博物館に移管し、
その後展示のために修復が行われ、現在の姿になりました。

上階から見ると、109はまるでエンジンを抱えているように見えます。

Bf109の試作機の飛行は1935年、そのときには
ロールスロイス社ケストレル695馬力エンジンを搭載していましたが、
最終的にダイムラー・ベンツのDB600シリーズ倒立V型水冷エンジンに決定しました。

スミソニアンによる修復終了後のコクピット。

ルフトバッフェの7.スタッフェルIII./JG27。
当博物館がマーキングを再現した部隊です。

バトル・オブ・ブリテンの間、占領下のフランスに置かれた
ルフトバッフェの航空基地に並ぶI./JG3(第1航空群第3戦闘航空団)のBf109。

■ 東部戦線における空中戦

重武装で飛ぶソビエト空軍の

イリューシンII 2 シュトゥルモヴィーク(攻撃機)

ドイツとソ連の間の空中戦は西部戦線とは異なっていました。
アメリカとイギリスはドイツの高高度爆撃に焦点を合わせましたが、
東部の広大な地における陸上戦闘では、空中戦と言っても低高度で行われ、
軍の作戦を支援しました。

1941年6月、ドイツ空軍によるソビエト飛行場への壊滅的な襲撃が行われましたが、
赤軍空軍はゆっくりと回復し、結果的にソ連は1945年までに
世界最大の戦術空軍を建設することになるのです。

東部戦線では国土の広大なため、戦闘の集中する部分以外は
防空も大変手薄で、その結果ルフトバッフェのシュトゥーカなどは
西部よりこちらで長らく使用されていました。

しかし、ソ連はこの間にいくつかの一流の戦闘機や攻撃機を開発し、
ルフトバッフェは東に最高のユニットを配備することを余儀なくされました。

 

続く。

 

 


RAFの「外人部隊」イーグル航空隊〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

2021-07-06 | 航空機

「第二次世界大戦の航空」コーナーに展示されている5カ国の戦闘機のうち、
スーパーマリン・スピットファイアについて前回ご紹介したわけですが、
そのスピットファイアとダンケルクの戦い、そしてアメリカ人の誇り、
イーグル・スコードロンについてお話ししておくことにします。

■ シュナイダーカップ三連勝のスーパーマリン

クリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」には、このコーナーにある、


ロイヤルエアフォース(RAF)スーパーマリン・スピットファイア


ルフトバッフェ メッサーシュミットBf109

がどちらも登場します。
実際に展示されている航空機はそのときの

「ダイナモ作戦」Operation Dynamo

に参加したものより制作されたのはもう少し早い時期であるということですが。

1940年5月26日までにドイツ軍によってダンケルクの港に追い詰められ、
海岸に隔離され、ドイツ軍の急降下爆撃機Stukasや戦闘機Bf109の格好の標的となった
フランス、イギリス、ベルギーの軍隊を救出するために、英国海軍が発動した作戦。

それがダイナモ作戦、別名

「ダンケルクからの撤退(Dunkirk evacuation)」

でした。

映画の感動的なラストを観ずとも、この撤退作戦が成功に終わったことは
誰でも知っているわけですが、
もしもこの作戦にロイヤルエアフォースが、というか、

わずか15機のスピットファイアが出動していなければ、

ダンケルクは悲劇に終わっていたかもしれないことを知る人はあまりいないでしょう。

ノーラン監督は、英国海軍だけでなく、35万人近くの連合軍将兵を救うことになった
スピットファイアのパイロットたちの活躍にもちゃんと焦点を当て、
この歴史的な事実を後世に残そうとしたのでした。

 

「ダンケルク」はスピットファイアの最初の大きな戦いとなりました。

スピットファイア部隊がダンケルクに派遣されたのは、兵士を守ることはもちろん、
兵士が取り残されている海岸に向かう海軍やボランティアのヨットなどの船を守るのが目的です。

(映画ではこのボランティアのヨットもフィーチャーされていましたね)

そして、5月23日、ドイツ空軍の爆撃機が攻撃の準備をしていたとき、
第92飛行隊のスピットファイアは、Bf109110の両方からなる17機のドイツ機を撃墜しました。

その2日後、同飛行隊はBf110に援護されたユンカースJu87の一群と交戦、
相手に再び大きな損害を与え、ダイナモ作戦の順調な進行を可能にしたのです。

ダンケルクで、アラン・ディアロバート・スタンフォード・タックという
2人のRAFパイロットは、それぞれ6機の敵機を撃墜しエースになりました。

Portrait of Wing Commander Alan Christopher 'Al' Deere, RAF, July 1944. CH13619.jpg
Alan Christopher "Al" Deere(1917−1995)
Air commodore

Robert Stanford Tuck.jpg

Robert Roland Stanford Tuc(1916-1987)
Wing commander

エア・コマンダーは准将、ウィングコマンダーは中佐。
いずれもロイヤルエアフォース独特のランクです。

ついでなので、RAFの空軍士官のタイトルを挙げておきます。
どれもこれも馴染みがなさすぎてわたしには全くピンときません。

少尉=Pilot  officer パイロット・オフィサー

中尉=Flying officer フライング・オフィサー

大尉=Flight lieutenant フライト・ルテナント

少佐=Squadron Leader スコードロン・リーダー

中佐=Wing Commander ウィング・コマンダー

大佐=Group captain グループ・キャプテン

准将=Air Commodore エア・コモドーア

少将=Air vice marshal エア・バイス・マーシャル

中将=Air marshal エア・マーシャル

大将=Air chief marshal エア・チーフ・マーシャル

元帥=Marshal of the Royal Air Force マーシャル・オブ・ザ・ロイヤル・エア・フォース


空軍大佐の「グループキャプテン」という名称の重みのなさは異常。
ちなみにRAFではいわゆる「金ピカ」がマークにつくのは准将以上からになります。

しかしタック中佐、大舞台でエースになった割に出世してなくないか?

■ スピットファイアの「元祖」スーパーマリンレーサー

さて、続いてスピットファイア誕生までの経緯についてお話しします。

スピットファイアを設計した、

レジナルド・J・ミッチェル(CBE Reginald Joseph Mitchell 1895-1937)

です。

彼は当時盛んだった航空レース、シュナイダー・トロフィーレース用に
最初のスピットファイアを設計し、この機体はレースに3連勝して
名誉あるシュナイダーカップを英国に持ち帰るという快挙を成し遂げました。

スピットファイアの元祖は、なんと水上機だったんですね。

水上機のレースで勝ち抜くことを目標に改良するうち、
特にエンジンの技術は進化し向上していき、2年ごとに行われていた
シュナイダーレースの最後の三回は、そのいずれもが
UKチームの駆る

スーパーマリン・レーサー

の独壇場となりました。
結果的に英国は優勝カップを永久に祖国に持ち帰ることになったのです。


Supermarine S.6B ExCC.jpg
シュナイダーカップ最後の優勝機

 

■ スピットファイア戦闘機の誕生

ミッチェルはこのスーパーマリン・レーサーにロールス・ロイス社製のV型12気筒エンジン
「マーリン」を搭載し、戦闘機に仕立て上げることにしました。

彼はドイツの動向に強い関心を持ち、英国の防衛力を向上させるには、
特に空軍力の強化が必要であると考えていたのです。

ただし、ミッチェルはこの「スピットファイア」という名前を気にいっていませんでした。
Spitfire=火を吐くという言葉の一般的な意味は、

「癇癪持ちの女」

という身も蓋もないものだったからです。

世の中にはグレの香水「カボシャール」(強情っぱり)のように、あえて
ネガティブなミーニングで商品を魅力的に見せるというマーケティング法がありますが、
ミッチェルはそうした逆説を好まなかったと見えます。

後世の、特に外国人の我々には「スピットファイア」というと、もはや
この伝説の戦闘機しか思いつかなくなっているわけですが。

いくら気に入らずとも、命名を行ったのはいわばお客様であるRAF
さすがのミッチェルも受け入れるしかなかったようですが、

最後まで慣れることはなかったようで、のちにこんなことまで言っています。

"Spitfire was just the sort of bloody silly name they would choose.”

「血なまぐさく」「馬鹿げていて」「いかにも彼らが選びそうな」名前

うーん・・・これ、同時にさりげなくロイヤルエアフォースをディスってませんかね。
ミッチェル先生、もしかしてパヤオみたいな(笑)飛行機好きの軍嫌いだったのか?

 

ミッチェルは1933年にスーパーマリン社から新設計の300型を進める許可を得ました。

このスピットファイアは、もともとスーパーマリン社の個人的な事業でしたが、
すぐにRAFが興味を持ち、航空省が試作機に資金を提供したのです。

薄い楕円形の主翼はカナダの空力学者ベバリー・シェンストンが設計したもので、
ハインケルHe70ブリッツと似ていると言われています。

また、翼下のラジエーターはRAEが設計したもので、
モノコック構造は米国で最初に開発されたものです。

ミッチェルの天才的な才能は、高速飛行の経験とタイプ224を使って
これらすべてを一つの形にまとめ上げたことにあるといわれています。

スピットファイアの試作1号機(シリアルK5054)は、
1936年3月5日にハンプシャー州イーストリーで初飛行しました。

 

■ 戦時中生まれた派生型スピットファイア

スピットファイアの原型は、8挺の機関銃を搭載した戦闘機の必要性から生まれました。
戦時中、様々なバージョンのスピットファイアが製造ラインから生み出されています。

Bf109に対抗するための高空飛行バージョン。
フォッケウルフFw190に対抗するための超低空飛行が可能なバージョン。
そして、ドイツ軍の動きを監視するための偵察機バージョン、さらには
海で溺れたパイロットを救うための海空救助活動用の機体などです。

また、空母搭載用に

スーパーマリン・シーファイア Supermarine Seafire

という艦載フック付きがあったこともご存知かもしれません。

Seafire 1.jpg
Royal Canadian Navy Supermarine Seafire Mk XV

「シーファイア」という名前からは、オリジナルの「癇癪女」の語源は
全く消え去っているのがちょっと面白いと思ってしまいました。

 

■ アメリカ人パイロット集団、イーグル航空隊


スピットファイアは、イギリスや英連邦のパイロットのみならず、
フランス、ポーランド、チェコスロバキア、ベルギー、アメリカなど、
国際的なパイロットたちによって操縦されていました。

1940年9月、アメリカ軍の戦闘機パイロットからなる第71航空隊が
ロイヤル・エアフォースに加わるために編成され始め、10月19日には、
最初の「イーグル飛行隊」がスピットファイアに乗って戦闘を行いました。

彼らアメリカ人パイロットの多くはカナダで志願したか、あるいはロイヤルカナディアン、
カナダ国内カナダ空軍にリクルートして採用されたという経緯です。

そのいずれでもない人の中には、イギリスに直接渡ったり、
自力で飛行機を飛ばしてなんとかフランスに行った熱心な人もいました。

あまりにもアメリカからの志願者が多かったので、1941年になると、
イギリス空軍はさらに2個のイーグル飛行隊を追加で結成することになりました。

当時アメリカ政府はパイロットたちがイギリス連邦のために戦っている間、
規則としてイギリスの市民権を保持できるように特別に取り計らっていましたが、
1941年12月になってアメリカが参戦することが決まると、当然ながら
多くのイーグル隊員はアメリカ陸軍航空隊への移籍を要請することになりました。

その後、イーグル飛行隊は、

アメリカ陸軍航空隊 第8空軍 第4戦闘機群

第334、第335、第336飛行隊

としてアメリカのマーキングをつけたスピットファイアで戦いました。

敵機を撃墜した第71航空隊のマッコルピン(Carroll W. McColpin)
フライングクロスを受け取り、仲間に祝福されているところ。

離陸準備をすませ、いかにも闘志満々のイーグルたち。
第一次世界大戦のときフランスに向けて飛んだチャールズ・スウィーニー大佐
名誉航空隊司令となっていました。

その直属の司令、カンサス出身の航空隊長ウィリアム・E・G・テイラー
そのままイギリス海軍の艦隊航空隊に就役しています。

スクランブルがかかり、各自のホーカー・ハリケーンに駆け乗るイーグル。

哨戒から帰投してくる2機のイーグル航空隊ハリケーン。

レディールームで次なる戦いを待つ第71航空隊メンバー。

RAFからアメリカ陸軍航空隊に再編成後、ブリーフィングを行うイーグル航空隊長
ドナルド(ドン)・ブレイクスリー(Don Blakeslee)中佐

超イケメン

博物館に展示されているスピットファイアは140機生産されたマークVIIの1機です。

高高度での飛行が可能で、25,000フィートで時速408マイル出せました。
124飛行隊が使用したマークVIIは、ミッチェル爆撃機を援護しながら、
Bf109を123機破壊するという活躍をしています。

1943年3月、博物館のスピットファイアは、リバプールの工場からアメリカに送られ、
5月2日に陸軍航空隊に受領されました。

そして戦後1949年から博物館に所蔵されています。

 

続く。
 

 

 

 


スピットファイアとバトル・オブ・ブリテン〜第二次世界大戦の航空機・スミソニアン航空博物館

2021-07-04 | 航空機

これだけ何回も取り上げてきてまだ紹介が終わらないスミソニアン博物館展示。
いかに膨大な展示物を所有しているかということの証左であるわけですが、
今回改めて写真を点検したところ、これでもまだ半分も消化していないことがわかりました。

というわけで、次に取り上げるのは、スミソニアンのシリーズから、

「第二次世界大戦の戦闘機」

このブログ的には前回の「空母の戦争」とともに比重をおくべきテーマでありながら、
色々と他にも語りたいことがあって、今更になってしまいました。

『第二次世界大戦の飛行』より「航空」と言う言葉の方が適切だったね、
と日本人としては若干残念ですが、とりあえず日本語なのでよし。

第二次世界大戦の航空を語って日本を語らないわけにいかないのですから、
こういうのを見るとほっとします。

 

まず、コーナー最初の説明からです。

第二次世界大戦の航空

1939年に始まり、1945年に終わった第二次世界大戦は、
歴史上最大かつもっとも破壊的な戦争でした。

戦闘による死傷者、爆撃、飢餓、大量殺戮、その他の原因により、
5000万人以上が亡くなりました。

ドイツのポーランド侵攻を支援する最初の空襲から、
1945年8月のアメリカによる日本への原子爆弾の投下まで、
全ての軍事作戦において航空は重要な手段となりました。

さまざまな空軍が、陸海軍を支援しただけでなく、
敵国の都市と産業の戦略爆撃において独立した役割を果たし、
あらゆる面で輸送と補給において後方支援の役割を果たしました。

第一次世界大戦と同様に、戦争は航空の技術開発を押し進めたのです。

このギャラリーには、5機の有名な第二次世界大戦の戦闘機が展示されています。

ここではなぜかその5機についての説明は省かれているのですが、
一応最初なので当ブログでは写真だけでも紹介しておきましょう。

詳しい紹介は後日になります。

スーパーマリン スピットファイア Spitfire ロイヤルエアフォース

ノースアメリカン P-51D ムスタング アメリカ陸軍航空隊

メッサーシュミット Bf 109 ドイツ ルフトバッフェ

三菱 零式艦上戦闘機Zero 日本帝国海軍

マッキ フォルゴーレ Folgore イタリア空軍

「フォルゴーレ」などという名前の戦闘機が存在することは、
ここに来るまで全く知りませんでした。
博物館のいうようにこれが「第二次世界大戦の最も有名な戦闘機ベスト5」かというと
ちょっと疑問ですが、まあそれはいいでしょう。

戦闘機の他には巨大な航空エンジンが目に着きます。

プラット&ホイットニー 
ダブルワスプ R-2800 CB16・2列・ラジアル18エンジン

プラット・アンド・ホイットニー社が開発したアメリカ初の18気筒ラジアルエンジンです。
第二次世界大戦中は、グラマンF6Fヘルキャット、ヴォートF4Uコルセア、
リパブリックP-47サンダーボルトなどの戦闘機に搭載され、
戦後はダグラスDC-6などの旅客機に搭載されました。


■ バトル・オブ・ブリテン

さて、今日のメインテーマは、スピットファイアが活躍した、
「バトル・オブ・ブリテン」です。

これについては以前も取り上げたことがあるわけですが、
あらためてスミソニアンの見解に沿ってご紹介していこうと思います。

 

バトル・オブ・ブリテンと呼ばれる一連の戦闘のうち、最初の決定的な空中戦は、
1940年の夏の終わり、ドイツ軍の計画されたイギリス侵攻によって幕を開けました。

このときのイギリスの勝利は、ドイツ軍の侵攻に必要な空中戦の優位性を否定しただけでなく、
逆に彼らを打ち負かすことができたということを証明することになります。

ルフトバッフェの打倒RAF(ロイヤルエアフォース)計画というのは、
空爆を行う重爆撃機の掩護を行う戦闘機が、RAF戦闘機を空中戦に誘い込むことであり、
これは緒戦においてはある程度の効果があったといわれます。

当時のRAFパイロットは技量も高く、また戦闘機の性能もすぐれていましたが、
いかんせん保有する機体が少なすぎたのです。

その状況を覆したのがRAFの高い暗号解読能力とレーダー警戒網でした。
空中機動隊はこれによって得た情報を最大かつ効果的に利用し攻撃を行いました。

 

ルフトバッフェが当初の攻撃目標を変更したことも、結果的に有利に運びました。
当初、彼らはレーダー基地と前線の航空基地の攻撃を計画していたのですが、
いろいろとあって(?)
ロンドン市街に空爆目的を変更したのです。

なぜこれが良かったかというと、ロンドン都市空襲の間、RAFは
緒戦の空襲で破壊されていた基地を修復、
消耗し崩壊寸前だった
RAF戦闘機軍団を回復させることができたからでした。

1940年9月15日、ロンドン空襲を経てバトル・オブ・ブリテンは終了しました。
ドイツ軍は侵攻艦隊をすぐさま解散したものの、この後8ヶ月にわたり、
イギリスは「ブリッツ」と呼ばれる夜の定期的な都市攻撃に見舞われることになります。

それでは写真と共に説明していきます。

1940年9月7日、ルフトバッフェは人口密度の高いロンドンのドックエリアに
昼夜を問わない激しい攻撃を開始しました。

翌朝は地域全体で火事が猛威を揮いましたが、結果として
夜間攻撃への切り替えはある意味失敗であることが判明します。

確かに彼らは物理的に大きな損害を与えることができましたが、
かえってイギリス人の士気は燃え上がったのです。

 

スミソニアン博物館の第一次世界大戦について取り上げたとき、
戦略爆撃は民衆の戦意を喪失させることを目的として始まった、
と歴史的な経緯について説明したことがありますが、それでいうと
ドイツ軍の都市爆撃は「失敗」であったといえるかと思います。

真珠湾攻撃も、この一撃でアメリカが打ちのめされて和平交渉に応じるなどと
考えた日本の読みは外れ、「リメンバーパールハーバー」で一丸となった大国に
完膚なきまでに叩きのめされたのは歴史の示す通り。

この壮大な社会実験?から得られた結論があるとすれば、戦略爆撃は
一度や二度の短期ではかえって逆効果であるということです。

一国の市民の戦意を完全に喪失させるためにはそれこそ執拗に繰り返す夜間空襲や、
なんなら原子爆弾を投入するしかない、という言い方もできるかもしれません。

イギリスの防衛の鍵。

それはレーダー基地、監視ポスト、オペレーションセンター、そして送電線でした。
これらのネットワークによって提供された情報が戦闘機集団の戦いを支援しました。

この写真は、敵機の位置情報を送信するRAFのコマンドオペレーションセンターで、
実働スタッフは全員女性軍人です。(奥に責任者らしいおじさんが一人)

ハインケルHe111爆撃機KG55が海峡を越えてイギリスに向かいます。
しかし、He 111の貧弱な防御兵器はRAFのハリケーンスピットファイアの前に脆弱でした。

名機と言われたメッサーシュミットBf109及び110護衛戦闘機も大きな損失を被りました。

ロンドンのバッキンガム上空を浮遊するのは

弾幕気球(Barrage Balloons)

弾幕気球は第二次大戦のイギリスがまさにドイツ軍の攻撃に備えて考案したもので、
「阻塞気球」とか「防空気球」と訳したりします。
気球をケーブルで係留して浮かべ、敵機の低空飛行を牽制します。

シェイプがなんとも金魚のようで可愛い ´д` ;

たかが風船と思われるかもしれませんが、戦闘機よりは大きいサイズなので、
十分に抑止力はあったようです。

戦隊司令からドイツ軍の爆撃機襲来に対する迎撃命令を受けて
ハリケーン戦闘機に乗り込むために全力疾走するRAF601、
ロンドン郡所属戦隊のパイロットたち。

緊張感と躍動感に心惹かれて食い入るように見てしまう写真です。

ルフトバッフェの攻撃を迎撃するためスクランブルをかけている
第501飛行隊の2機のホーカー・ハリケーン

スーパーマリンのスピットファイアほど有名ではなかったものの、
ハリケーンはバトル・オブ・ブリテンの戦闘機軍団の主力となりました。

スピットファイアより遅く、機動性にも劣るとされながらも非常に効果的に戦果を納めたのです。

 

■ スーパーマリン・スピットファイア

それではバトル・オブ・ブリテンの主役、スピットファイアについてです。

スーパーマリン スピットファイア Mk. VII

スピットファイアは英国航空史におけるレジェンドです。

ホーカー・ハリケーンと共に、バトル・オブ・ブリテンではドイツ空軍から
イングランドを守ることに成功し、戦争中はあらゆる主要戦線で活躍しました。

そのパフォーマンス、そして操作性は大変優れています。

もともと同機は「マリン」という機体がアップグレードして「スーパー」、つまり
「スーパーマリン」になったものですが、このときのエンジン出力の増大にうまく対応し、
機体も丈夫で長年の耐用年数を誇りました。

Mk.VIIは140機しか生産されていませんが、史上2番目の高高度バージョンです。

ここに展示されている機体は1943年5月、評価のためにRAFが工場から
アメリカ陸軍航空に譲与されたもので、アメリカで飛行していました。

戦後の1949年、米空軍は機体をスミソニアンに寄贈しています。

コクピットの写真。
イギリス機なので単位がメートル、kgとなっているのがいいですね。
(いまだにアメリカのポンド・フィート法に全く慣れないわたし)

イギリス上空を飛ぶスーパーマリン・スピットファイアMk VII
誰しもこの独特な翼の形に目が奪われることでしょう。

この翼は、高高度でのパフォーマンスを向上させるために追加された設計で、
翼端が極端に細長くなっているのが特徴です。

博物館に展示されているスピットファイアはこのマーキングを採用しています。

この俯瞰図は、スーパーマリンスピットファイアに特有の、
スリムな胴体と楕円の翼がよくわかる角度となっています。

MK.Iは、バトル・オブ・ブリテンで活躍したバージョンです。

北アフリカに展開していた第154飛行隊のスピットファイアMk. Vb

バトル・オブ・ブリテンが終わった後、スピットファイアは
フランス上空でルフトバッフェの掃討を続けました。

その後、彼らはアメリカの爆撃機を援護しましたが、その航続距離の短さから、
大陸からの爆撃機の流れの出入りをカバーするには限界がありました。

スピットファイアは地中海、中東、東南アジアを含む他の全ての戦場で使用され、
様々な条件下において役割を果たすことが証明されました。

さて、スピットファイアについては次回もお話しするのですが、
ここで最後にぜひ観ていただきたい動画を挙げておきます。

William Walton : Spitfire Prelude and Fugue. Video clips.

わたしの好きなイギリスの作曲家のひとり、サー・ウィリアム・ウォルトン
1942年にスピットファイアの設計者、レジナルド・ミッチェルの伝記映画のために書いた

「スピットファイア・プレリュードとフーガ」
 Spitfire Prelude and Fugue

を、空駆けるスピットファイアの勇姿に合わせたビデオクリップです。

前半のプレリュード部分では第二次世界大戦中の実写、
後半のフーガになってからは現存する機体が華麗に空を舞う映像となっており、
特に前半ではドイツ軍戦闘機や爆撃機を撃墜しているシーンなどもみることができます。

スピットファイアの飛翔ををイメージして作曲されたので当然とはいえ、
音楽と映像の融合の妙にはちょっと感動してしまいました。


続く。