ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ストライカー装甲車のヘヴィメタル・イラクの自由作戦〜兵士と水兵のための記念博物館

2021-02-28 | 歴史

ピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館展示、
定礎の奥に102年ぶりに取り出されたタイムカプセルの中身の展示のあとは
いきなりイラク関係とわかるコーナーが現れましたが、とりあえず
時系列順でいきたいので、この後に現れた湾岸戦争展を紹介します。

■湾岸戦争

湾岸戦争のとき、アメリカの派兵を宣言するパパ・ブッシュの支持率が
90%を超えたというニュースを見て、ふとわたしなどは
西部劇で悪のガンマンと対峙する保安官を指示する街の人々という構図を思いました。

クェートに侵攻したイラクはわかりやすい「制裁すべき悪」であり、
アメリカにとってこれほど大義のある開戦理由はなかったはずです。

第二次世界大戦後、事態解決のために世界が一致団結したのは初めてで、
侵攻から5ヶ月目、多国籍軍の空爆から始まった、

「砂漠の嵐作戦」Operation Desert Storm

は、陸上部隊の進攻100時間で圧倒的勝利を収めました。

このときの攻撃はCNNによって生中継され、これが
世界で初めて戦闘が同時に世界に発信された瞬間となりました。

展示ケースはこの湾岸戦争関係の資料が収められています。

砂漠地用戦闘服のことをデザートバトルドレスユニフォームと言います。
なぜかDBDUという略称まであるらしいんですが、このDBDUは、
第475補給部隊のエルマー・スヴェダ曹長が「砂漠の盾」作戦で
着用していたものです。

「砂漠の盾」作戦は、イラクのクェート進攻に対し、アメリカが
世界に「協力を呼びかけながら」国境付近に展開した進駐そのものを指します。

国連軍というのは政治的に正式な編成ができないため、アメリカは
「有志を募る」という形で自らが進攻の先陣を切ったのでした。

475補給部隊はペンシルバニアのグリーンズバーグの本拠地とする部隊です。

これがスヴェダ曹長のようです。

ユニットを悲劇が襲ったのは1991年2月25日の夜のことでした。
イラクのスカッドミサイルがバラックを直撃し28名が死亡、
110名が病院に搬送され、150名が軽傷を負いましたが、
多くが深刻な心的外傷を負うことになりました。

部隊はたった6日同地に駐留する予定であったそうです。

カッドミサイルが直撃した後の写真が右側に並んでいます。

スヴェダ曹長が無事だったのかどうか記述がなかったのですが、
検索していると、2017年に彼の父親が亡くなったという葬祭会社の通知が出てきて
(父親は海軍軍人で空母『ランドルフ』に乗っていたらしい)彼が喪主であることから、
少なくともこのときにはピッツバーグで健在であることがわかりました。

左は作戦に参加した軍人個人に対しクェート政府から贈られたメダル、
右はサウジアラビアバージョンだそうです。

真ん中の小瓶には土が入っているのでしょうか。

このとき戦死した第475補給部隊の隊員に対しては
パープルハート勲章が授与されました。

名簿を見ていると、女性の名前もありました。

2018-5-21 Clark.jpg

SPC Beverly Sue Clark
まだ23歳だったそうです。

R.I.P.

 

■ アメリカ大使館爆破事件の旗

1983年、平和維持の目的でレバノンのベイルートに駐留していた
アメリカ大使館で爆弾テロが起こりました。

これに続き1984年9月20日、自爆テロの車が大使館の別館を爆破し、
20名のレバノン人、2名のアメリカ人職員が犠牲になりました。

このデパートメントフラッグは、そのときベイルートのアメリカ大使館に掲げられていたものです。

■ イラク戦争

1904年の開館時そのままの石の床、大理石の柱、そして南北戦争の地元部隊の記念プレート。
そういった昔ながらのものに囲まれて、この展示は、周りの雰囲気に合わせ
新たに作られた木枠とガラスという展示ケースの中に納められていました。

まずこのケースの中の説明を翻訳しておきましょう。

「イラクーアフガニスタンオペレーション」

2001年9月11日。
われわれのアメリカ本土は決して攻撃されることはない、
という神話は永遠に崩れ去りました。

同時多発テロによってニューヨークとワシントンが攻撃されてから
数ヶ月以内に、アメリカの軍事力は(ミリタリーリソース)
我が国へのさらなる脅威を探索し、
それを和らげる要求がなされることになります。

 

つまり同時多発テロへの報復としてイラク侵攻を行ったということを
まわりくどく言うとこういうことになるということですね。

わたしは9・11のときアメリカに住んで、事件の後の国内の
一種異様な雰囲気を肌身で体験したものですが、驚愕に続く恐怖、
犠牲者に対する祈りのような空気が次第に「愛国」へと変わっていくなか、
ブッシュ大統領がイラクに対する「悪の枢軸宣言」を行ったとき、
ほぼなんらかの軍事行動は誰にも予感される認識となったと感じました。

そして2003年、ブッシュ大統領がイラクに大量破壊兵器があることを理由に
先制攻撃を行ったと言うニュースが流れたとき、

「やっぱりそうなったか・・」

という薄寒い気持ちでサンフランシスコの曇天の下を歩いたことを思い出します。

その後、

「本当にイラクに大量破壊兵器はあったのか」

については、情報を提供した本人(イラク人科学者)が

「サダム・フセインを失脚させるためについた嘘だった」

と認めたことで、十万人以上の市民が犠牲となったイラク侵攻は
ブッシュ大統領、そして「イラクの自由作戦」に参加した
イギリスのトニー・ブレア首相に対する評価を落とす結果になりました。


単純に考えて、たとえイラクが大量破壊兵器を持っていたとしても、
アメリカがイラクに侵攻することが自衛の戦争なのかと言う疑問は湧くわけですが、
それに正当性を与えたのが、やはり同時多発テロという「本土攻撃」だったわけです。

さて、ここにはこのようにイラク侵攻について簡単にまとめてあります。

もともと「対テロ戦争」The grobal War on Terrorism"
と呼ばれていた我が国の軍隊は、現在、

イラク不朽の自由作戦(Operation Iraqi Freeom OIF)

アフガニスタン不朽の自由作戦(Operation Enduring Freedom OEF-A)

に配備されています。

 

しかし今日はイラク戦争について深く掘り下げることは目的ではないので、
これくらいにして、展示の紹介に参りましょう。

砂漠仕様のカモフラージュセットはヴェテランの寄贈品です。

ヘルメットに装着されているのはカメラ?

左胸のマークから、空挺部隊に所属する軍人であることがわかります。

「イラクの自由作戦」に展開する制服の持ち主、マシュー・ボシャン大尉。

Soldiers of the 1st Squadron (Airborne), 40th Cavalry Regiment, salute during the national anthem at the 4th Brigade Combat Team (Airborne), 25th Infantry Division's deployment ceremony at Sullivan Arena, Anchorage, Alaska, Nov. 29, 2011.  The 4-25th ABCT,

ボーシャン大尉が所属し「イラクの自由作戦」に展開していたのは、

第4空挺旅団戦闘団
4th Brigade Combat Team (Airborne), 25th Infantry Division

でした。

同戦闘団は、イラクの自由作戦で53名を、普及の自由作戦では
13名の兵士を戦闘で失っています。

ボシャン大尉(右)が手にしているのはロケット弾。
この数分前、彼らの乗っている車のターレットを取り巻く保塁を直撃したものです。

ところで全く関係ないのですが、車の手前に搭載?されているのは
アメリカではおなじみの色付きゲータレードです。

ボシャン大尉のマネキンが持っているボディアーマーは
アメリカ兵に配布され、かれらの命を脅威から守る工夫がなされていました。

ベストの左側にはファーストエイドキット、黒のメタル製汎用カラビナ
右側にはウェブ用ユーティリティポーチ、銃弾、手榴弾入れが付いています。

左下はボシャン大尉のニットスカーフです。
戦闘で息子を亡くした母親が、息子の思い出のために手作りし、
部隊の兵士たちに届けられたたくさんのそういった品の一つで、
このニットスカーフは、2004年8月に戦死した兵士の母親が編んだものだそうです。

このスカーフをつけて任務にあたっている間、その兵士が
息子のようにならないことを祈りながら、母たちは贈り物を編みました。

この小さな旗は「Memorial Guidon」と説明されています。
ギドンとは、紋章旗と言う意味ですが、この旗は、
イラクの自由作戦で英雄的な戦死を遂げた

ロバート・ファイク1等軍曹 Robert Fike

ブライアン・フーバー参謀軍曹 Bryan Hoover

の二人の死を顕彰しているものです。

Pennsylvania National Guardsman remembers his fellow soldiers' 'ultimate  sacrifice' - pennlive.com

2人はペンシルベニア陸軍州兵でした。

ロバートJ.ファイク1等軍曹(38歳)とブライアンA.フーバー参謀軍曹(29歳)ら
ペンシルベニア陸軍国家警備隊第1大隊、第110歩兵連隊3名は
アフガニスタンのブラードバザールで徒歩パトロール中、
自爆テロの爆発に巻き込まれ、二人が死亡したというものです。

彼らの棺はピッツバーグに帰還し、アレゲニー墓地
(南北戦争からの戦死者が埋葬されている古い墓地)に埋葬されました。

マシュー・ボシャンはイラク任務中二回負傷をしています。
これらについても彼はこのように述べています。

「場所もタイミングも運が悪かったんだ・・・どちらも」

そして彼はパープルハート章と、柏葉勲章を授与されました。
彼の部隊は大変危険な地域に展開していたため、
ボシャンの隊だけで86名がパープルハートを与えられており、
そのうち21名が彼の部下でした。

戦争博物館の展示にアップル製品が登場するのを見る日がこようとは感無量です。

戦争に関わりのないわたしたちと同様、兵士たちもまた、
音楽が戦争の日々のストレスから開放するものだと感じています。

ボシャン大尉はこのiPodを最初のイラク遠征に持っていきました。
これをM1128 ストライカーMGSのサウンドシステムに繋いで、
哨戒任務に展開する前に鳴らして聴いていたそうです。

同行するメンバーにはヘヴィメタルが大変喜ばれました。
おそらくかれらの任務へ気分を盛り上げるものだったのでしょう。

しかしこのiPodはたった3ヶ月使用しただけである日突然「死んで」静かになりました。

イラクではさすがにアップルケアも使えないしねえ・・・・

アップルケアといえば、近代の戦争にコンピュータは基本装備です。
このラップトップもボシャン大尉がイラクで使っていたものですが、
これもまたすぐにうんともすんとも動かなくなったそうです。

その原因は砂埃と現地の気候ですが、もしかしたらアップルも
今なら砂漠仕様の特別バージョンを作れるかもしれません。

そんなストライカーとボシャン大尉。
え?こんなのストライカーではないぞ、また間違えたな、って?


はいご覧の通り。
アフガニスタンでのストライカー。
車体上面ハッチ周辺にブラストパネルと呼ばれる装甲板が追加されています。

アメリカの軍事史上初めて、女性が戦闘後方支援ではなく
戦闘の支援を行ったのが、イラクの自由作戦とアフガンの自由作戦でした。

しかし、あるジャーナリストに言わせると、イラクとアフガンでは
130名以上が亡くなり、そのうち好きなくない女性が男性と一緒に戦って
その結果亡くなっているにもかかわらず、
式には戦闘に参加していなかったということになっているということです。

このジャネール・ザルコウスキー1等兵は第101空挺師団の民事部隊所属ですが、
名前を検索するといやと言うほど写真が出てきます。

Janelle Zalkovsky

お好きな方のためのサービス画像

イラクの自由展開部隊の基本装備です。

ところで大量破壊兵器が発見されなかったことで、
結論としてブッシュやブレアは評価を落とした、と書きましたが、
イラク戦争を支持した同盟国にも激震が走りました。

ブレア首相はこのことによって国民が「騙された」と感じたため、
支持率が急落、任期を残しての早期退陣に追い込まれています。

イラク戦争を支持したデンマーク国防相は辞任を余儀なくされ、また、
ポーランドのクワシニエフスキ大統領などは、

「アメリカに騙された」

とまで厳しく批判をしています。

日本の久間章生防衛相(当時)は(日本の政治家には珍しく)

「大量破壊兵器があると決め付けて、戦争を起こしたのは間違いだった」

と発言し、オーストラリアのブレンダン・ネルソン国防相にいたっては、

「原油の確保がイラク侵攻の目的だった」

と大胆な発言をして批判を浴びたそうです。

ブッシュ大統領は退任直前のインタビューで

「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、
イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」

と述べ、それに対して記者が

「大量破壊兵器を保有していないことを事前に知っていれば、
イラク侵攻に踏み切らなかったのではないか」

と質問すると

「興味深い質問だ」

とだけ答えたそうです。

ってか答えになってないし。

また、ヒラリー・クリントンは、開戦に賛成しましたが、
侵攻は誤りだったと認めています。

 

続く。

 


定礎の奥の『タイムカプセル』〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-26 | 歴史

ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館、ここで
ちょっと他にはない珍しい展示が現れました。

いきなり結論を言うと、

タイムカプセル

です。

1908年10月2日、完成を2年後に控えたここピッツバーグの記念博物館の前には
コーナーストーンの設置セレモニーのために招待された多くの群衆が集まっていました。

画面の奥に見られるGAR(南北戦争ヴェテランの軍人会)の旗は、
このコーナーストーンセレモニーの日、ヴェテランたちが持って行進したもので、
2年後、記念館が完成したときには再び行進につかわれたものです。

 

cornerstoneというのは日本語だと礎石(そせき)、隅石の意味ですが、
レンガや石造りの大きな建物の隅に置く記念の礎石を「定礎」といいます。

定礎とは本来は礎石建物の基礎となる礎石を定めることですが、
ヨーロッパでも古来から建物の基準となる石に着工時に印をつけ、
建物の完成や存続を祈るという慣習が行われてきました。

日本では西洋建築が普及しだすとともにこの定礎の慣習も始まり、
ビルの入口などには「定礎」と刻まれた板が設置されたりします。

で、ここからが本題なのですが、この「定礎」の中には

鉛・銅・ステンレス製などの金属製の定礎箱が
建物の図面・定礎式当日の新聞・出資者名簿などが
入れられた
タイムカプセルとして埋め込まれている

ということを皆さんはご存知だったでしょうか。

つまり、当博物館の「定礎」すなわちコーナーストーンが
1908年(完成後)設置されたということです。

ここでいきなり余談なんですが、つい先日、韓国のソウルにある
韓国銀行の旧本店の建物の礎石「定礎」の文字が、
伊藤博文の直筆だと確認されたというニュースがありましたよね。

筆跡を鑑定したのが「韓国の専門家」というのと、その照合の方法が
インターネットで公開されている伊藤博文の資料を見て判断、
というのが限りなく当てにならないという気がしますが、
今後韓国ではにっくき伊藤の直筆を削るか、それとも保存して
前に看板を立てるかということを検討中だということです。

そこでわたしがふと思ったのは、定礎の文字のことばかりに目が行っている
韓国の人たちは、もしかして「定礎」の下にある「定礎箱」については
何の知識もなくそこにそんなものがあることも知らないのではないかと言うことです。

もし「定礎」の文字を削除するのならば、その部分を取り壊すことになりますが、
そこで初めてタイムカプセルの存在に気づいた彼らは中身をどうするでしょうか。

歴史的に貴重なもののはずなので、そのときにはぜひ日本に返してもらいたいものですが、
まあ・・・無理だろうなあ(笑)

 

閑話休題、この兵士と水兵のための記念博物館のコーナーストーン設置を報じる新聞です。

慣習の通りであるとすれば、コーナーストーンは建物の南東角に置かれます。

セレモニーでスピーチを行なったお歴々の中には、
当時合衆国副大統領だったチャールズ・フェアバンクス、ペンシルバニア州知事、
そして南北戦争のヴェテランであるホレス・ポーター将軍などがいました。

11時すぎ、コーナーストーンが定位置に差し入れられました。

ANNO DOMINI、省略してA.Dは西暦紀元です。

MCMVIII

は1908をあらわすローマ数字です。

ローマ数字換算サイトが見つかったのでキャプチャしておきました。
「私」は「I」が自動翻訳されてしまったのでしょう(´・ω・`)

こちらの定礎は、ローマ数字で礎石を置いた日を記すのが慣習です。

そして、コーナーストーンを入れるその前に、歴史的資料が収められた
銅製のケースが内部に収められたのでした。

ちなみに、当日の新聞(ピッツバーグ・サン・テレグラフ)が報じた「箱の中身」とは。

1、ルーズベルト(セオドアですよ)大統領、スチュアート前大統領、
前知事サミュエル・ペニーパッカーなどの写真

2、博物館の設計図コピー

3、当博物館コミッティーの選挙議事録

4、ピッツバーグで発行されている主要新聞4紙

5、アレゲニー郡地図

6、投稿者名簿

7、ユニオン軍第一野営地のヴェテラン名簿

8、戦争捕虜になった北軍兵士のバッジと名簿

9、米西戦争第15駐屯地ヴェテランの名簿

10、米西戦争アルフレッド・ハント・駐屯地ヴェテラン名簿

11、海外任務ヴェテラン名簿

12、G.A.R名簿と襟章

13、マクファーソン開放部隊の名簿

14、北軍女性補助部隊の名簿

15、南軍発行の1ドル札

16、アレゲニー郡最高裁判所判事の写真

17、ピッツバーグ銀行(市で最初に創立された銀行)の歴史

18、ピッツバーグに最初に創立された長老派教会(プレスバイテイリアン)の歴史

19、アメリカ合衆国国旗

以上です。

タイムカプセルの箱は今、ここに見ることができます。

その理由は、コーナーストーン設置からまるまる102年後の2010年、
つまり設置したのと同じ10月2日に、建物から取り出されたからです。

1908年に花崗岩のブロックの空間に差し込まれ、
そして、102年間、当博物館の建物の角に収められていた銅のボックス。

作業を行った石工たちはCost companyという、1927年創業の
90年レンガ積み一筋!の地元会社から派遣されていました。

日本ではレンガ積み職人などいるのかどうかもわかりませんが、
アメリカではいまでも煉瓦の建物が普通にあちこちに現存しているので、
そのメンテナンスだけでも結構な仕事が請け負えるのだと思われます。

ボックスとハンダ付されていなかった蓋は全く濡れておらず、
コンディションも大変良かったので、中身もおそらく
いい状態で保存されているのではと期待されていました。

ところが・・・・・・・!

ここにはその中身が展示してあるわけですが、結論から言うと
大変残念なことに、セメントは長年の間に水分を吸い込み、
それが銅製の箱の中を侵食してしまっていました。

中のものはこんなになってしまっていたのです。

箱が気密ではなかったため、写真に見られるように、内部に結露が形成され、
内容物が飽和パルプと汚れの塊に化してしまいました。

銅製の箱の蓋を取った博物館のキュレーターたちが一斉に

「ああ〜・・・・・」(´・ω・`)

と落胆の声を上げた様子が目に浮かぶようです。

この茶色の塊、劣化した紙の束のかたまりは、1908年の礎石の
タイムカプセルに入っていたオリジナルの内容そのものです。

内容のほとんどが名簿などの紙だったことが残念な結果になってしまいました。


何年にもわたり、封印されなかった銅の箱の内側に
結露が形成され続け、中に収められていた紙、写真、そしてメダル、
これらの堆積物に文字通り雨が降り続けていたようなものです。

塊からなんとか水分が排出されると、今度は箱の内部に残っている
いくつかのメダルを、最新のテクノロジーで見つけることができるか、
そこが興味の焦点となりました。

2012年2月。

アレゲニー郡監察医事務所がこの「ケーキ」をX線撮影し、
そこに南北戦争のベテランのメダルの輪郭をはっきりと捉えました。

「ケーキ」のレイヤーの中にははっきりとメダルの存在が認められます。

赤の画鋲を打ってあるのは同じ場所となります。

このX線写真を撮るのにどうして検死官(監察医)事務所に依頼したのかは謎ですが、
そもそもこういう「ややこしいもの」があるところに出張してくれて
対象の何に関わらずX線を撮ってくれる組織というのはよく考えたら
法医学研究部門を持つ検死官事務所くらいしかないかもしれません。

監察医というのは日本でもよくドラマで描かれますが、
誰かが亡くなった時、その死体を検査し、死因の特定を行い、
死亡診断書を発行し、法執行機関と緊密に協力するのが仕事です。

犯罪現場を訪れたり、法廷で証言したりというドラマでお馴染みのシーンは
よくあることで、このために検死官は法医学の知識を専門としています。

まあしかし、この場合はX線照射だけですぐにメダルの存在がわかる
非常に「楽な」仕事だったことでしょう。

ついでに、日本のドラマだと、髪の毛の長い若いきれいなおねーちゃんが
検死官だったりする嘘くさい設定が多いのですが、昔医学部の人に聞いた話だと、
法医学の人は、六畳一間の(そんな部屋あるのか)荒屋に住んで、
一升瓶を抱えて飲んでいるような(本当にそういった)

「やっぱりちょっと普通じゃない」「世捨て人みたいな」

傾向の人が監察医をやっているということでした。
もちろんこれを聞いたのは昔のことなので、今はどうだか知りません。

アメリカでは現在、あんな広い国なのに監察医は五百人くらいしかいません。

平均年収は1千万から5千万円くらいなんだそうですが、アメリカでは
他の専門医でももっと高い賃金がもらえるわけですから(整形外科とかね)
その仕事の性質もあってなかなか成り手がなく、不足している業種だそうです。

さて、ここには1908年当時、ピッツバーグに存在した
4種類の新聞が展示されています。
茶色いケーキの手前の塊は新聞であることがこの状態でもわかりますが、
タイムカプセルの中にはこれと同じ四紙が収められていたそうです。

この新聞はコーナーストーン設置の日のニュースがトップなので、
タイムカプセルに入れられたのは別の日付のものだと思われます。

この日の新聞に掲載されたコーナーストーン・レイイングセレモニーの様子。
星条旗を持っている陸軍の軍人のズボンの色は青に黄色なのでしょう。

座っている人の右側に、挿入前のコーナーストーンのが見えます。
確認しにくいですが、ボックスにリボンが結ばれているのがおわかりでしょうか。

そこでこれをご覧ください。

これは102年後に取り出されたコーナーストーンの奥部分です。
リボンの名残がセメントにはっきりと刻印されており、
ここに展示されている破片に見ることができます。

この「濡れた塊」が取り除かれたボックスの隅から、
左下の コイン2個が見つかりました。

これはタイムカプセルに意図して収められたものではないと考えられています。

タイムカプセルの中にものを納めたのは、当日招かれた来賓だったのですが、
その誰かのコインが最後の瞬間に滑り落ちたのではないかというのです。

コインのうち一つは1906年のBarber dime(10セント)バーバーという彫刻家が
デザインした1892年〜1916年発行のもので、もう一つは1907年発行の
「インディアンヘッド・ペニー」、(1セント)でしたが、どちらも
内容リストには含まれていないため、アクシデントだったと判断されています。

この右側のケースの中のものが本物です。
これは「ミリタリー・フラット」と呼ばれる小さな錫製の玩具で、
20世紀初め頃のものです。

二人の南北戦争の兵士が馬に乗っている意匠で、これが発見されたのは
花崗岩の基礎の接続部分で、押し込まれていました。

それが2010年にコーナーストーンを外して中のものを取り出した際、
タイムカプセルと一緒に中から出てきたのです。

どこの誰が花崗岩の継ぎ目にこれを入れたのかはわかっていませんが、
可能性としては、1908年にタイムカプセルを納め、コーナーストーンを
設置する作業を行った石工がうっかり落とした(かわざとそこに置いた)
ものと考えられています。

わたしは、石工が「わざと」置いたのだという気がしますが。
石工がいくつか知りませんが、普通こんなものを持って仕事にきませんよね?

彼は、その仕事をするにあたり、何か小さなものを中に置くために
わざわざ家をでるときポケットに入れてきたんじゃないでしょうか。

だって、自分が確実に死んだ100年後に、自分が置いたものが
どんなものであれ、後世の人々の目に留まるというのは、なんというか、
ちょっとしたワクワク感があるじゃないですか。

「これはなんだろう」

100年後の人々がその品をめぐって想像を巡らすことを思いながら、
ちょっとした「役得」として彼がこれを置いてきたというのがわたしの想像です。


銅製のタイムカプセルの一番最後に収められたのは星条旗でした。
この国旗が比較的無事な姿で残ったのは、ものが積み重ねられておらず、
被害の酷かったサイド部分に接していなかったからだろうと思われます。

旗のポール部分、その先の部分も上部から見つかりましたが、
これはごらんのように腐食してしまっていました。

2012年、取り出された後のコーナーストーンのくぼみには、
新たなタイムカプセルが設置されることになりました。

 

今度は中身が腐食することが決してないように、
環境の影響を一切受けない堅牢なステンレスの箱が特注されました。

次にタイムカプセルが開けられるのは2112年の10月2日(予定)。

そのとき、未来の人々はコーナーストーンの奥にどんなものを発見するのでしょうか。

 

続く。


パンジ・スティークとライフの「顔」〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-24 | アメリカ

ピッツバーグのSSMM、いきなりベルリンの壁の石が登場したかと思うと、
その次はベトナム戦争の展示が始まりました。

まず、上を見上げるとそこにはベトナムの黄色い星が。

この旗はベトコンの戦闘旗で、南ベトナム軍、正確には

ベトナム共和国陸軍(Army Repubric of Vietnam)

のアメリカ人アドバイザーとして歩兵部隊に出向していた
第619地域軍監視部のJ・W・スキッツ大尉が鹵獲したものです。

 

スキッツ大尉の部隊がカンボジア国境近くのアン・タン・ハムレット(地名)
に差し掛かると、ベトコンの旗が竹のポールに靡いていました。

ARVIN(ベトナム共和国陸軍)の大隊が接近すると、
小銃などの発砲が両軍の間に起こりました。

その後の小競り合いで敵を追い払い、フレンドリーファイヤによる死傷者はありませんでした。

旗をよく見るとところどころ銃弾の穴が認められます。
(あまりにささやかな穴なので虫食いかと思った)

部隊は旗を奪うと、これをスキッツ大尉に進呈しました。

黄色い星の部分にはなにやら書き込みがありますが、ベトナム語で

戦闘の行われた日付(1969年6月17日)と敵の被害(3名)、
そして鹵獲した武器

AK-47 2基、アメリカ製M-79グレネードランチャー

が書いてあるそうです。

これはベトナム軍の慣習なんでしょうか。

アメリカ軍の指揮官に進呈するのなら、なんというか

もう少し気の利いたことを書き込むもののような気がしますが。

 

そして、旗の左下にベトナム戦争が始まってすぐに発行された
「ライフ」誌があります。

「ベトナムで死んだアメリカ人の肖像ー1週間の喪失」

というタイトルとともに、そのうちの一人の顔写真が表紙になっています。

冒頭に挙げた写真はライフの特集をパネルにしたものです。
このライフの文章を翻訳しておきましょう。

次のページに示されたさまざまな顔は、公式発表による言い方をすれば
「ベトナムでの紛争に関連して」殺されたアメリカ人男性たちのものです。

この242名の氏名は、5月23日から6月3日までの一週間の戦死者として
にペンタゴン(国防総省)によって発表されましたが、
名前の横の戦死年月日の記述を除けば、特別な意味はありません。

死者の数は、この戦争が始まって以来7日間の累計であり、
同時にその数字は1週間の平均戦死者数となりました。


しかし、これらの個々の死者について語ることはこの記事の意図ではありません。

なぜなら我々は彼らが巻き込まれた世界史のうねりの中で
彼ら自身がどう思ったかを正確に伝えることはできないのです。

ただ、遺されたいくつかの手紙から、彼らはベトナムにいる自分を強く意識し、
ベトナムの人々に強い共感を示し、彼らの甚大な苦しみに愕然としていた、
ということを知るだけです。

彼らの中には自発的に戦闘任務期間延長した人もいれば、ただ
ひたすら故郷に帰りたがっていた人もいました。

この企画にあたって、彼らの家族はほとんどが家族の写真を提供し、
その多くが自分の息子や夫の死は「必要なことだった」と信じています。

しかし、この戦争で戦死したアメリカ人の数は、
たしかにベトナム人の死者数よりはるかに少ないものの、
それが朝鮮戦争での死者総数を上回ってから、国の発表は
毎週三桁の数字がコンスタントに出ている状態です。

この非情な数字に「変換」された、全米の何百もの家庭の苦悩。
我々はここにその一人一人の顔を改めて見つめ、思いを馳せる必要があります。

その「数」を知る以上に、それが「誰」だったのかを知る必要があります。

一週間のあいだに亡くなった死者の顔。

彼らの家族、そして友人たちにとっては掛け替えのないものでも、
何者でもない無名なアメリカ人の一人であった彼らが、
突如このギャラリーによって人々に知られることになりました。

そんな一人一人若いアメリカ青年たちの眼差しがこちらを見ています。

1963年 5月28日−6月3日

最初の1週間で戦死した人々は全員が陸軍と海兵隊の兵士です。
その中の一部を拡大してみましたが、ここだけ見ても、ほとんどが
20歳か21歳という若い年齢です。

全体をくまなく見ても、圧倒的に多い年齢が20歳、21歳。
また18歳、19歳という数字も見えます。

下段の真ん中に37歳の軍曹がいますが、この人は
パイロットという技能職についていたようです。

ベトナム戦争関連の展示がその旗の下にありました。

ベトナム製USMCボディ・アーマー

この内側にはこんな「使用上の注意」が書いてあるそうです。

「戦闘における死傷者のうち70%が 
fragmentation type weapon の被害です」

フラグメンテイション・タイプとは、断片化タイプという意味ですが、
平たくいうと、対象を木っ端みじんこにしてしまうタイプという意味で、
つまり爆弾、地雷、IED、大砲、迫撃砲、戦車砲、機関砲、ロケット、ミサイル、
そして手榴弾などの総称です。

「柔軟なショルダーパッドと襟のこのベストは、
これらの武器からかなりの保護を提供します。

しかしながら、これによって近接からの小さな武器を
全て防ぐものではありません

どうかご使用の際にはそのことを考慮して適性に着用してください。

あなたの命を守ります!IT MAY SAVE YOUR LIFE!

暑い地域で使用されていたオリーブドラブの半袖シャツです。

こうやって飾ってあるとわかりませんが、実は女性の看護師用です。
ロイス・シャーリー少佐(右襟が少佐の階級章)が着用していたもので、
彼女はベトナム戦争時、サイゴンの陸軍病院勤務でした。

右側のマークは横に倒れていて特定するのに苦労しましたが(笑)

U.S. Army Officer Branch Nurse N Brite

だそうです。
つまり看護師部隊で、翼の下に「N」の文字が見えます。

シャーリー少佐は現在当博物館のボードメンバーということで
この寄贈を行ったということのようです。

敵の銃弾跡の残るアメリカ軍の水筒は、1996年、MIA(戦闘中行方不明)
の捜索任務が行われた際にベトナムで回収されたもので、
ベトナム戦争のベテランでD-205歩兵第101空挺師団所属だった
元陸軍レンジャーのゲイリー・ラドフォードが、
ファイアベース・リコルド(ヒル1000)で収集しました。

左のトランプと同じ大きさのカードは、「サバイバルカード」
ベトナムに展開する部隊の兵士たちに配られたもので、
毒性のある植物や危険な蛇についての情報と、もし
その害を受けてしまったらどうするかが書かれています。

それでも蛇に噛まれてしまったら、右側の携帯用キットが活躍します。

このキットは、毒のある爬虫類と接触する可能性のある米兵に提供され、
咬傷の影響を減らすのに役立つグッズが含まれています。

使い方が蓋の裏にすでに貼ってあるというのも親切ですよね。

一部キャンバス地をつかった「M1966 ジャングルブーツ」

こういう形のブーツをファッション的には「コンバットブーツ」と呼ぶのですが、
最近ではスニーカー と同様、オサレブランドのラインに普通に出るようになって、
「セリーヌのコンバットブーツ」「ルブタンのコンバットブーツ」なんてのが
市民権を得ていたりします。

基本的にコンバットブーツのデザインは誕生以来全く変わっていないので、
わたしがアメリカに行くとときどき利用するrealrealというリサイクル通販で買った
エルメスのコンバットブーツ未使用(笑)というのも、皮が上等で
綺麗なことを除けば
この写真のブーツと形はほぼ同じだったりします。

という自分の趣味の話はともかく、このブーツはエルメスと違いベトナム製。
内側がキャンバス、ボディはレザー、甲の近く通気口があり、
水と汗を逃すというまるでジェオックスのような作りになっています。

しかも、普通のハードユースと大きく違うのは、ソール(靴底)に
ステンレスのプレートが挟んであることで、行軍するには
なかなか重くて大変かもしれませんが、これは、

パンジ・スティーク(Punji Steak)

と称する先端を尖らせた竹の断片を踏み抜く怪我を防止するためでした。

パンジ・スティーク

このパンジ・スティークは、実はアメリカがベトナム戦争で「勝てなかった」
原因の一つではないかという説もあるくらいです。

パンジという言葉自体は「パンジャーブ地方の動物用の罠」からきており、
ベトナム戦争において南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は
アメリカ兵に対し、この、単純でありながら効率的に敵を殺傷できる
パンジ・スティークを各種トラップの中でも多用しました。

写真を見てもわかるように、ベトコンのパンジ・スティークは多くの場合
30〜60cm程度の長さで、先端の鋭利さを長持ちさせるために火入れをして
硬化させ、さらには傷を化膿させるため人や動物の糞尿を塗ってあったりしました。

これらをジャングルの敵の通り道に少し角度をつけて立てておくわけですが、
このブーツのように靴底に鉄板が入っていないと踏み抜いてしまうのです。

パンジスティークをつかったトラップはバリエーションがあって、

【トラバサミ】

仕掛けの薄い板を踏み割ると左右からパンジ・スティークで挟まれる

【パンジ・ピット(Punji pit)】

落とし穴の底にパンジ・スティックがたくさん・・

【マレーの門(Malayan gate)】

ワイヤートラップによって作動するパンジ・スティック

など、多種多様でした。

この手のブービートラップは、単に物理的に被害があるだけでなく、
心理的な損害において計り知れないものをアメリカ兵に残しました。

 

先ほどの「ライフ」記事では、戦争に巻き込まれたベトナムの人々に
アメリカ軍人として派遣されていったアメリカ人は共感を持った、とありましたが、
このブービートラップは、実際に戦地にあったアメリカ軍の兵士に、
ベトナム民衆に対する「埋めがたい間隙と不信」を生じさせたといいます。

なぜか。

ベトナム人は味方のはずの南ベトナム人であっても、
アメリカ兵に罠の在りかを決して教えなかったからです。

 

続く。

 

 

 


第643予備航空部隊と朝鮮戦争〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-22 | 歴史

ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館の展示ですが、
一応時系列にそって並べられているものの、どうしても
ペンシルバニア州近郊のヴェテランの寄付した品に偏りがちです。

かろうじて左上の端っこが五大湖のひとつエリー湖と面しているだけで、
広大なくせに海なし州であるペンシルバニア州のピッツバーグは、残念ながら
海軍のゆかり深いフィラデルフィア(これも海ではなく川に面しているだけ)
からあまりに遠いのです。

海なし州から海軍軍人になる人も普通にいるとは思いますが、やはり
海軍のお膝元である地域と比べると当博物館の展示に圧倒的に
海軍関係のものが少ないのはこのせいなのかもしれません。

空軍基地はすぐ隣のオハイオにライトパターソン基地という「大物」があるせいか
ペンシルバニアにはひとつもありません。

さて、そんなピッツバーグの軍事博物館の陸軍航空隊についての展示です。

いまさらですが、アメリカ陸軍航空隊(United States Army Air Corps, USAAC)は
第二次世界大戦中に「航空軍」US Army Air Forcesとなり、さらに戦後、
1947年にはそれは空軍になったので、もう存在していません。

ここには朝鮮戦争以降の海軍航空隊、陸軍航空隊の関係資料が並んでいます。

■ 朝鮮戦争の勃発

まず、USN、アメリカ海軍の白いマフラーをあしらった
ボマージャケットが展示されていますが、その前には
朝鮮戦争がどのように始まったかの今更な説明がありました。

先日、習近平が朝鮮戦争について中国がアメリカ軍を撃退したとしたうえで、

「如何なる覇権主義もいずれも行き詰まる。
安全保障、主権、
領土及び発展利益が脅かされた時、我々は真っ向から反撃する」

と声明を出したとき、世界中から

「は?朝鮮戦争は中共とアメリカの戦争じゃねーし」

と一斉に突っ込まれたということがありましたよね。

どうも歴史についてあまり明るくないらしい習主席のために、
ここに書いてあることを翻訳しておきます。

「1950年6月25日、北朝鮮共産主義者がソビエト連邦とともに
南朝鮮に武力をもって侵攻を行った。

二日後、国連軍の安全委員会はソ連代表の欠席のまま、
南朝鮮を支援することを決定した。

同日、アメリカ大統領トルーマンはアメリカ軍を南朝鮮の援助のために
出動させるという決定に基づき命令を下す。

トルーマンがこのとき称した「ポリス・アクション」によると、
国連軍の5分の4はアメリカ軍で占められていた。

この行動により、北朝鮮軍は三十八度線を突破。

その時点で中国は強大な兵力の「志願軍」をもって参戦し、
ロシアは武器を調達するなどして援助を行った」

この事実からどうして覇権主義がアメリカにあったと言い張れるのか、
どうにも不思議でしょうがないのですが、そう思い込んでいるのか、
それとも特定アジア独特の

「嘘も100回言えば本当になる」

というあれなのでしょうか。
とにかく、アメリカにとっての朝鮮戦争とは、

「第二次世界大戦での戦いの多くと同じくらい野蛮で、
さらには費用のかかる戦争であることを確かにした3年間」

ということになっております。

まあつまり、朝鮮戦争はあくまでも朝鮮半島の主権を巡る紛争で、戦ったのは
アメリカ主体であったとはいえ、西側自由主義陣営諸国を代表する国連軍と、
東側会主義陣営の支援を受ける中共人民志願軍の交戦であったわけです。

紛争が開戦から3年後の1953年7月27日に終了するまで、
500万人のアメリカ軍関係者が任務にあたり、戦死者は5万2千246名、
負傷者10万3千284名、MIAつまり任務中の行方不明者8177名でした。

朝鮮戦争は開戦から3年後に休戦しましたが、平和条約が調印されなかったので
いまだ終戦にはなっていません。
わたしたちはあまり詳しいことを知る機会がない三十八度線ですが、
アメリカ軍は現在も南北国境に駐留して停戦を維持しています。

■ 第653海軍予備隊の戦い

ピッツバーグのVF-653、第653海軍予備隊は61名の士官と西部アメリカの
部隊からやってきた下士官兵で構成されていました。

1951年10月から1952年2月まで、彼らは

空母「ヴァリー・フォージ」USS Valley Forge

に配属されることになりこのことは彼らを
戦争中最も「デコレーテッド」つまりその功績を評価され受勲された
戦闘機隊のひとつに押し上げることになりました。


飛行隊パイロットは1952年7月にバレーフォージでポーズをとる

空母「ヴァリー・フォージ」甲板上のVF-653のメンバー。

1952年7月に撮られた集合写真は、18人のフライトジャケット姿の乗組員です。
彼らの足元には、水玉模様と笑顔のピエロが描かれた13の飛行ヘルメットが並んでおり、
これは、彼らの行方不明の仲間を表しています。

2人が重傷を負い、11人が死亡または行方不明。

この写真は、海軍のカメラマンが写真を撮りにきたとき、メンバーの一人が
自分のカメラを渡してこのショットを撮ってくれと頼んだものでした。

彼らのほとんどが微笑みを浮かべているのがむしろ壮絶に思われます。

クラウン(ピエロ)の顔が描かれた赤地に白の水玉。
これが第653海軍予備飛行隊のトレードマークです。

太平洋戦線において空母「ワスプ」「レキシントン」の甲板から
ダグラスのドーントレスSBD 急降下爆撃機を飛ばした、海軍航空隊の
クック・クリーランドという隊長のもとに部隊は結成されました。

www.cityofpensacola.com/ImageRepository/Documen...Cook Cleland(1916-2007)

クリーランドは第二次世界大戦時の戦闘機エースでした。

また、3,000馬力のプラットアンドホイットニーR-4360を搭載したコルセアで
1947年のトンプソントロフィーレースでの勝利を収めた飛行家です。

クレランドのリーダーシップの下、緊密で意欲的なチーム、VF-653が誕生しました。

ヘルメットの部隊マークについては、航空隊の一人のパイロットが、
ある日自宅から送られてきたキャンディーの袋からヒントを得て、
飛行ヘルメットを白い水玉模様で赤く塗ってみたことがきっかけで生まれました。

イラストレーターだった彼はさらにピエロを加えたテンプレートを創作し、
このファンキーなイラストは各パイロットのヘルメットの側面に手描きで施されました。

テンプレートになったピエロはニヤリと笑っているものでしたが、この写真の
レイ・エディンガーのヘルメットのピエロは皆のものと違い、眉を潜めた顔に描かれています。

これは、エディンガーが副長(XO)であり、飛行隊の規律を担当していた、
ということともちろんのこと関係があったはずです。

朝鮮戦争の始まりとともにVF-653を含む14個の海軍予備役軍団が現役になりました。

 

訓練に入ってすぐにVF-653は事故で二人のパイロットを失いました。
戦術訓練中2機が空中衝突を起こし、脱出するまもなく海面に激突したのです。

配備中、彼らは三日勤務をこなすたびに1日の休暇を与えられました。
その休暇時間を彼らは日本で過ごしました。

 

戦闘にはダグラスA-1「スカイレイダー」と高速で足の短いジェットエンジンの
グラマンF9F「パンサー」も参加しましたが、コルセアは、1,000回以上出撃を行い、
その中で10人が戦死あるいは行方不明になります。

ヴォートのF4Uコルセアについては何度もここでお話ししてきました。

1943年から最初に海兵隊に採用されましたが、そのときも
空母に着艦するのには問題があるとされていましたが、
海兵隊の成功のあと、いくつかの問題が解決された1944年からは
海軍の空母においても運用されるようになってきます。

ベント・ウィングのコルセアは第二次世界大戦期における
最高の戦闘機の一つであったことは間違いありません。

朝鮮戦争が始まるとまたしてもコルセアの出番となり、その際には
有事にアクティブとなったVF-653のような予備航空隊がこれを使用しました。

歴史的にもこれが最後のプロペラ式戦闘機が活躍した最後の瞬間でした。

 

「ヴァレー・フォージ」は4月2日に日本の横須賀に向けて出発するまでに、
ATG-1のパイロットは1,500をはるかに超える出撃回数を記録し、
その過程で飛行隊まるまる一つ分の人員を失いました。

 

■ フライト・ナース

Medical evacuation Nurseは朝鮮戦争の間
エアフォースで任務を行うことを許可された唯一の女性でした。

この写真は戦災孤児の医療担当をしているフライトナースです。

フライトナースは、ヘリコプターやプロペラまたはジェット機による
航空医療避難チームの一員として任務を行います。

B-26の銃撃手が銃座を操作するときに使用した機器、

「Target Sighting Station」

が右の方に見られます。

 

潜水艦の潜望鏡のように真ん中のスコープを覗きながら
ハンドルを操作したのではないかと想像。

朝鮮戦争当時のパイロット用マスク。
現在のようなハイテックな防寒素材があった時代ではないので、
このマスクもみたところただのフェルトっぽい生地のようです。

内側が起毛した寒冷地用ブーツ。

戦傷による身体不自由になった兵士たちについての展示の中で
朝鮮戦争では凍傷による指の欠損が大変多かった、と書きましたが、
半島における寒冷期の戦線はとにかく寒さが過酷だったようです。

余談ですが、朝鮮半島に唐辛子をもたらしたのは日本人って知ってました?
それは豊臣秀吉の朝鮮出兵のときで、持ち込んだのは加藤清正

そもそも唐辛子は南米が原産で、日本にはポルトガルの宣教師が伝えました。
ただ、日本人は辛いものを好まなかったのか、食用としてではなく、
観賞用とか、足袋の爪先に入れて霜焼けを防ぐために使っていたのです。

加藤清正が朝鮮戦争で携行したのも、武器(目潰し)、毒薬、そして
凍傷を予防するためだったのです。

当然朝鮮人は食べるだけでなく凍傷予防になることを知っていたはずなので、
なんならアメリカ軍に配布すればよかったものを、しなかったんですね。

朝鮮戦争時の武器などが展示されています。

アメリカ製のシャベルと短刀などもありますが、それより
もしかして右側二振りは・・・日本刀じゃないでしょうか。

アップにして柄の部分を見てみると、右側には桜、
左の刀にもそれらしい模様が刻印されています。

朝鮮戦争では当時は日本軍人だった朝鮮人将校が指揮を執る場面がありましたが、
この日本刀もそういった日本軍出身の士官がもたらしたものだったと思われます。

General Hong Sa-ik.jpg

陸軍士官学校卒の朝鮮人将官といえば

洪 思翊(こう しよく ホン・サイク)

が真っ先に思い浮かびます。
戦後マニラで戦犯指名を受け、処刑されています。

ROKA General Paik Sun Yup July 27th 2011 CE.jpg

今年7月99歳で没した白 善燁(ペク・ソニョプ)は、満洲国軍の士官学校卒で、
朝鮮戦争の英雄でもありました。

 

ところで朝鮮戦争当時、中共の後ろ盾に旧ソ連がいましたが、しかし、
現在のロシアと中共に友好関係は全く存在していません。

朝鮮戦争において覇権主義を食い止めたと豪語した習近平ですが、
まさにお前がいうなであり、その時代遅れの覇権主義において
真に孤立していたの中国であるというのは明らかです。


2021年現在、アメリカの選挙に介入することで、その覇権を搦手で達成しようとした、
(といわれる)中国ですが、はてさて、そううまくいきますでしょうか。

続く。


POW(戦争捕虜)とMIA(戦闘時不明者)おまけ;マケインの’正体’〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-20 | 歴史

POW(Prisner of war)=戦争捕虜、
MIA(Missing In Action)=戦闘時行方不明者

に対する対策は、戦争を遂行する、あるいはした国家にとって重要課題です。

「あなた方は忘れられていない」

戦死傷者については、亡くなれば国家の名でそれを悼み、顕彰を行い、
負傷者については治癒と社会的復帰を支援するという対処がありますが、
POW/MIA についてはいずれも相手国との折衝を介在させなければ
解決には結びつかないことですし、なんといっても家族が国家に向ける期待値は
戦死傷者のそれより格段に切実なものになることは必至だからです。

以前も当ブログではPOW/MIAについて触れていますが、ここピッツバーグの
兵士と水兵のための記念博物館にもそのコーナーがあったので、取り上げます。

まず、ガラスケースの内部は収容所のような鉄条網のディスプレイがあり、
そこには冒頭写真のようによく見ると捕虜になった将兵の名前が刻まれた
金属製のブレスレットがいくつも掛けられています。

「ベトナム戦争の期間、POW/MIA兵士に対する社会認識は、
我々にとって世界的な問題ともなりました」

ここでもこのような書き出しで説明が始まります。

1970年初頭、草の根活動として、ここにあるような、戦闘行動で
行方不明になったり捕虜になったと思われる軍関係者の名前を刻んだ
ブレスレットが認知を広く深めるためにに活用され出した時期がありました。

多くの人々がこのブレスレットを着用することで、南東アジアで行方不明になった
兵士たちの名前を決して忘れないという約束と、そして
POW/MIAのたどった運命が明らかになるその日まで、
決してこれを外さないという意志の表明を行ったのでした。

 

■ 南北戦争

まずここにある版画?は、南北戦争の初期に北軍兵士の捕虜を収容するためにあった
アンダーソンビル捕虜収容所の全景です。

同じアメリカ人同士でも分かれて戦争すれば捕虜にもなる訳ですが、
この頃はヨーロッパ方式で、基本的に捕虜交換システムによって
元の軍に戻ることができる仕組みでした。

交換を待つ間捕虜を収容していたのがこれらの施設です。

この交換システムが崩壊したのは、人種差別による理由でした。
つまり、南軍が、白人と黒人の捕虜の価値を同等に扱うことを拒否したので
交換システムが成り立たなくなったのです。

アンダーソンビルはジョージア州にあり、今ここには博物館ができているそうです。
ここに投獄された4万5千人の北軍兵士のうち、1万3千人が死亡しました。

南北戦争時の捕虜収容所は両軍側にいくつもありましたが、
ここは最悪の収容所となりました。

かろうじて収容期間を生き延びた(生きてるのか?)北軍兵士。
アンダーソンビルでは食料の供給が行き届かず、南軍の兵士ですら
上に苦しんだそうですから、捕虜は尚更酷い待遇に置かれてこうなりました。

 

南北戦争時代に捕虜になったハミー・クロウという人が妹か姉かに送った手紙です。
こんなことでもないとこの手紙が日の目を見ることもないと思うので、
全文翻訳しておきます。

ソールズベリー(sic)N.C. 1862年4月8日

ぼくの愛しい、愛しいサリー姉さんに手紙が書けることになりとても嬉しい。

ああ、サリー、我が家や友人たちから100マイルも離れたところにいるにもかかわらず
戦争捕虜になっている僕たちが毎朝、そして毎晩、我等の天の父上に
お守りくださいますように、そして我が家へ帰らせてくださいますようにと
お祈りすることがどんなに楽しみなことか、姉さんにわかるだろうか。

僕は毎日姉さんのことを考え、我が家で再会することを楽しみにしている。

姉さん、長い手紙を書きたいのはやまやまだけど、許してください。
僕らに許された手紙は便箋一枚だけなんだ。

僕は今のところとても元気でそれなりにここの生活を楽しんでいるよ。
220人の野郎どもの立てる騒音だけはちょっといただけないけど。

連中の一部は捕虜になって10ヶ月だが、僕はまだ1ヶ月だ。
今まで3〜4回家に手紙を書いたけど、僕がどのように捕まって、
どこに連れて行かれたかは新聞で読んで知っていると思います。

僕はここにきてから聖書をもう半分読み終えました。
おそらくここを離れるまでに全部読み終わることができるでしょう。

ヘッティーに会ったら自分自身とチャーリーの身体には
十分気をつけるように言ってください。
数ヶ月以内にもし捕虜交換で帰れたら、そのときはもう一度
彼女を抱きしめることができます。

もっと手紙を書きたいのだけど、手紙一通につき10セント取られるし、
だいたいちゃんと届くかどうかも怪しいからね。

全て順調であることを知らせるために少しずつでいいから
頻繁に手紙をください。

あなたの弟 ハミー・クロウ

おそらく彼の本名はハミルトンか何かだと思われます。
罫のために一枚しかもらえなかった紙を何重にも折って、
そこにぎっしりと書き込んでいます。

 

■ 第一次世界大戦

まずは第一次世界大戦時の資料からです。

「フランス軍の捕虜になったドイツ軍兵士のユニフォーム」

というのがなぜここにあるのか訝られるのですが、これは
1918年、フランスで戦死したアメリカ歩兵が、どこかで入手して
珍しい記念品として実家に送ってきたものなのだとか。

持ち主の所属は

Ulanen Reg. Von Katsler(Schlesisches)

カッツラーのウラネン連隊(シレジア)ということでいいんでしょうか。

Ordre de bataille de l'armée allemande en 1914 - Wikiwand

調べてみると、この連隊の制服は確かにここにあるのと同じです。

ところで、帽子の天辺に「PG」と縫い付けられていますが、これはフランス語の

「Prisoner De Guerre」

POW兵士であることを意味しています。
帽子に縫い付けさせられたんでしょうかね。

■ 第二次世界大戦

続いて第二次世界大戦における戦争捕虜についてです。

エリス・ニュートン(Ellis Newton)はバルジの戦いに第99分隊で参加したとき
22歳で軍曹でした。

ニュートン軍曹

戦闘初日となる1944年の1月初旬、ニュートンはドイツ軍の戦車隊に捕らえられ、
銃殺刑に処せられるところだったのですが、幸運なことにドイツ陸軍の高位の将校が
彼とその他のアメリカ軍捕虜の処刑についてとりなしてくれ、命は救われました。

そして彼の妻と8歳になる子供は、ニュートンがドイツ軍捕虜となったと知らされました。

この鎖には、アメリカ軍の認識票と、真っ二つに割れてしまっている
ドイツ軍の捕虜であることを証明するドッグタグが繋げられてます。

ちなみにこれがドイツ軍捕虜に与えられる捕虜認識票。
どうしてドイツたる国の軍でこのような仕様のタグが制作されたのか
若干理解に苦しみますが、いかにも経年劣化で二つに割れそうなデザインですよね。

捕虜収容所の食糧と医療は基準を下回り、多くの囚人が課せられた困難に屈しました。

ニュートンの体重は開放された時ヨーロッパ到着時の86キロから54キロになり、
81歳で亡くなるまで捕虜時代の身体的、精神的ストレスは彼を苦しめました。
栄養状態が劣悪だったせいで、すべての歯が抜け落ちるなど、悪影響は援護も続きました。

(とあるのですが、歯が抜け落ちるのは栄養というより衛生状態の問題だったと思います)

上の割れていないドッグタグは、99分隊のメル・ウェイドナー軍曹のもので、
タグには囚人番号とどこで捕虜になったかも記されているそうです。

ウェイドナー軍曹

ウェイドナーはバルジの戦いで「ドアトゥドア・ファイティング」
の結果捕虜となりました。
Door to door fighting とはもちろん「戸別訪問」ではなく、市街戦のことだと思います。

1945年2月、コレヒドールとバターンで3年間投獄されていた陸軍看護師たちが
開放されてアメリカに帰国するためにトラックに乗り込んでいるところだそうです。

看護師たちはそれまでの着古した服の代わりに新調した制服を与えられました。

 

■ 朝鮮戦争

1952年12月、海軍予備士官パイロットのウィリアム・M・フランコビッチ大尉は、
厳重に防御された鉄道橋を航空爆撃するというミッションを成功させ、
その功績に対して殊勲飛行十字章を授与されましたが、そのわずか3週間後、
彼の乗った飛行機が(コルセア?)エンジントラブルを起こし、
彼はそれっきり行方不明になったため、MIAと認定されました。

ここに展示されているブレスレットにはフランコビッチ大尉のものもあります。
彼の弟であるマーク・フランコビッチは、当博物館にそれを寄付しました。

戦後アメリカは戦闘のあった地域で朝鮮戦争時の遺体をいくつか持ち帰りましたが、
マークは海軍からもしDNA照合などの呼びかけがあっても答えないだろう、
といっているそうです。

「もう50年も前のことだから・・・・」

このあたりのアメリカ人の死と遺体に対する考え方は
日本のそれとは宗教観の相違もあって、ずいぶん違うものです。

日航機の墜落の時に亡くなったアメリカ人の家族が、
息子の遺体については全くその特定に無関心だったことは
当時の日本人にある意味カルチャーショックを与えました。

もちろんそれがアメリカ人全ての考えではないとは思いますが、
キリスト教の場合特にその傾向はあるようです。

 

■ ベトナム戦争

「サイレント・リマインダー」(物言わぬ遺留品)として、ここには
1996年にベトナムで採取された戦争の遺留品が展示されています。

これらは1970年に戦闘が行われていたシャン・バレーの旧戦場で見つかったものです。

506歩兵大隊の第101空挺部隊であったゲイリー・ラドフォードは、
1996年に捕虜帰還事業で帰国することのできたただ一人のアメリカ人でした。

彼は当時同じ戦場から避難する前に目撃した同じ部隊の
二人の兵士の最後の居場所を指摘するのに情報を提供しました。

その残された二人は結局見つけられることはありませんでしたが、そのかわり、
このM60機関銃と錆びたヘルメットが彼の示した場所近くから見つかりました。

26年の時を経るあいだ、これらはずっとジャングルの中に置き去りにされていたのです。

 

■ ベトナム戦争のPOW おまけ;ジョン・マケイン”疑惑”

さて、ところで、「あなたを忘れない」として当時ブレスレットに名前を記された
一人の捕虜に、アメリカ海軍のパイロット、ジョン・マケイン少佐という人物がいました。

あのマケイン・Jr.の息子であり、のちに共和党の上院議員になったマケイン三世です。

マケインの暗い過去 / 「ハノイ・ホテル」での囚人生活 : 無敵の太陽救出されたマケイン

いきなり展示の意図とは離れてしかも脱線しますが、それにしても皆さん、
この救出されたばかりのマケイン三世の様子をごらんください。

5年間というもの拘束され、その間拷問されていたというわりには
弱ってないどころかむしろ元気すぎやしないか、と思われませんか?

前回当ブログで

「マケインは捕虜となって拷問されていたたらしい」

などと世間一般の認識をそのまま何の検証もなく載せてしまったわけですが、
なんだかこの艶々した顔を見ていると、猛烈に疑問が湧いてきてしまい、
目の前の便利な箱で調べてみたところ、このカンは当たっていました。

 

1967年10月26日、海軍パイロット、マケイン少佐は、A-4スカイホークでの任務中、
北ベトナム軍に地対空ミサイルで撃墜され、脱出したところを捕虜になりました。

彼は脚と腕を負傷しており、拷問の痕だということになっていましたが、
実はこれ、脱出の際に負傷しただけで、拷問でも何でもなかったというんですね。

それどころか、北ベトナム軍(ロシア)はマケインが「大物」の息子であることから
彼の治療を行い、(同時期に捕虜になったアメリカ人は治療してもらえなかったと証言)
5年間「ハノイホテル」
(収容所)の特別室で丁重に扱われていたという噂があるのです。

目的は何かというと、懐柔して治療をはじめとする好待遇の代償に、
マケインからアメリカ軍の情報を聞き出すためであり、マケインさんたら
唯々諾々とそれに従って口を割ったというのです。

口を割れば無事に返してあげよう、拷問されたことにして帰国すれば
君は英雄になれるよ、そしたらゆくゆくは政治家になって・・・
とかなんとかささやかれたんでしょうか。

関係者の間ではマケインは「ソングバード・ジョンと呼ばれていたそうです。
これってよっぽど「よく歌った」という意味でしょっていう。

というのがメディアは報じない「マケインの黒い過去」らしいです。

しかも、帰還してきて捕虜生活を耐え抜いた英雄として政界に進出、
(ついでに糟糠の妻を捨てて財界の大物のお嬢様と再婚)
大物となった1991年、ソ連が崩壊し、KGBの機密書類が流出すると、

マケインは上院の外交委員会での立場を利用して機密ファイルを封印し、
戦争捕虜を取り戻すチャンスを潰してしまったというのです。

自分が捕虜として苦難を舐めたのに、どうして捕虜奪還のために
公開すべき情報をここで握り潰してしまったのかって話ですよ。

これは、つまりマケインのようなソングバード的アメリカ人捕虜が
定期的にソ連の諜報将校から尋問を受けていて、得た情報がファイルにあったため、

それによってマケインが情報を売り渡していたという事実が明らかになる、
ということで隠蔽のために強権発動したっぽいですね。

 


マケインが死んだとき、アメリカのCNNを始めとする左派メディアが、
(彼らの嫌いな共和党の議員なのに)不自然なくらい持ち上げて、
ヒラリーやオバマ、
クリントンがいかにその死を悼んでいるかを報道する一方、
マケインがトランプ大統領を嫌っていて、絶対葬式に呼ぶなといったとかなんとか、
そんな報道が世の中を席巻していた訳がやっとわかりました。

さすがはソングバード・ジョン。
マケイン三世さんてば、そちら側の方だったんですねー(棒)

そして、

「葬式に呼ぶな」

といったくらい、マケインがトランプを憎んでいた原因はというと、
トランプがマケインのベトナムでのことを大統領という立場上知ったうえで、
「彼は負け犬じゃないか」(シャレじゃないよ)と侮辱したことがあったのだとか。

(本当はもっと違う理由もあるようなんですが、ここは一応穏便に)

 

当時のわたしには全く見えていませんでしたが、マケイン議員本人の政策そのものも
共和党議員なのに、こと移民に関しては妙に左よりで(だからメディア受けがよかった?)
それどころか、死んでからアルカイダのメンバーと仲良く写った写真なんかも出てきたし、

彼らの資金提供の窓口になってテロをさせていたという情報公開もされたというじゃありませんの。

逃亡防止のGPS足輪を隠すためか、右や左に日替わりでギプスも嵌めてた写真もありましたし。

ヒラリー、オバマなど、葬式における「マケインアゲアゲ」のメンバーを見れば、
2021年の今となっては、だれでもいろいろと察してしまうというものです。

いまさらながらにあの時感じた違和感に思い当るわたしでした。

 

海軍軍人出身というだけで清廉な政治家だと信じていた自分が情けない(´・ω・`)

 

続く。


「ある軍曹の日記」から「我らが生涯の最良の年」へ〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-18 | 歴史

                Harold Russell

ピッツバーグの「兵士と水兵のための記念博物館」の展示から、
前回は南北戦争と第一次世界大戦で負傷した場合の戦場での手術、
イコール手脚を切り落としてしまうという当時の治療のスタンダードと、
四肢を欠損した元兵士たちを取り巻くものごとについてお話ししました。

続いてのコーナーでは第二次世界大戦以降に、それらの医療が
どのように変化していったかどうかについての展示から始まります。

■ パープルハート名誉戦傷章

ケース全体が紫色で彩られているのは、負傷した軍人に与えられる
パープルハート勲章のリボンの色をあしらっているからです。

パープルハート章は、アメリカの「名誉戦傷章」です。
戦闘を含む作戦行動によって死傷した兵士に対して与えられます。

 

 

ケースには戦傷で四肢を失った人のための義足が展示してあります。
膝から下、腰から下全部、パラリンピックで見たことがあるような
メカニカルな最新式。

前回ここで触れた南北戦争の負傷兵ハンガーが起こした会社、
「ハンガー」の義手義足などもあるに違いありません。

何の写真かと思いましたが、朝鮮戦争での一コマです。
説明によると、この戦争は冬の間、写真のような状況に置かれた
多くのアメリカ兵が凍傷で手足の指を失いました。

これも戦傷には違いありませんが、パープルハート勲章はもらえません。

義耳、義足、手指義手。
ちなみに現代ではシリコーンという素材の登場によって
ここまでリアルな再現ができるようになりました。

SATOGIKEN(装飾義手メーカー)

指にはネイルアートもすることができるんですね。

第一次世界大戦の後、顔の欠損部分に装着したのは
見た目も不自然な素材(木とか粘土とか)でしたが、
シリコンによってかなり自然な外見の緩和が可能になりました。

写真は顔の右上部と鼻です。
しかし、ここに展示してあるものは現代のものよりまだ不自然です。

義手、義足を動かすための金具。

このコーナーでは、「イラクの自由」作戦で腕を失った

ドーン・ハルフェーカー
Dawn Halfaker陸軍大尉

が紹介されていました。

ハルフェーカー大尉は「イラクの自由作戦」において
ミリタリーポリスとしてイラク警察の再建任務を遂行していまいた。

これは、イラク人と協力して、彼らを訓練しつつ、警察署の安全を確保し、
武装勢力から活動地域を保護するという任務でした。

ある日のパトロール中、彼女の乗ったハンビーが待ち伏せに遭い、
彼女はロケット推進の手榴弾を投げられ、腕を失いました。

彼女は当時25歳。
もう人生は終わったと考えました。
スターバックスに並んでコーヒーを買ってきて
ドアを開けることでさえ、彼女の心を悩ませる心配事となりました。

しかし、彼女はその後心機一転、テクノロジーソリューション企業、
Halfaker and Associatesを興し、会社は並外れた成功と成長を達成しました。

彼女はもちろんパープルハート章を受賞していると思いますが、
彼女の履歴にはそのことは出てきません。



■ 「ある軍曹の日記」

まず、お時間のある方は、次の短編映画(上映時間22分)をご覧くだされば
説明を費やさずともこの人物の立場がお分かりいただけると思います。

Diary of a Sergeant - WWII FILM from BEST YEARS OF OUR LIVES 27680 HD

ハロルド・ラッセル軍曹は1944年6月6日、ノースカロライナ州のマッカールキャンプで
TNT爆弾の爆発で両手を失いました。

事故後フックのついた義手を受け取り、トレーニングを始めたとき、
彼は陸軍が戦闘で四肢を欠損した兵士のために制作した

「ある軍曹の日記」

というこの短編映画に出演しました。
この映画について「陸軍のプロパガンダ」と説明している媒体もありますが、
観たところこれは、というより「ガイドライン」に近いのではないかと思われます。

Diary of a Sergeant (1945)

それではさくっと映画の内容について説明しておきましょう。
爆薬の事故で両手を失ったハロルドが、両手を牽引された姿でベッドに横たわり、
事故について回想するこのシーンから始まります。

両手があった頃の思い出に耽りながらつい涙を浮かべるハロルド。
看護師が彼の口にタバコを加えさせ吸わせています。

「タバコも一人で吸うことができない」

そもそも病室でタバコっていうのがアリな時代だったんですよね。

「Dデイの上陸で負傷した怪我ではない」ため、
「パープルハートをもらえるわけでもない」

「ただ手を失っただけ」

と絶望するのでした。

同室は全員が手か脚を片方、あるいは両方失った患者ばかりです。
まず彼らは義手をつけて通常の生活を営んでいる人の映画を観て、
そののち、専門家による測定を受けます。

義手を調整するスタッフは全員が軍人です。

Diary of a Sergeant – The Unwritten Record

そしてフックのついた義手が装着されました。
事故が起きて初めて彼が自分の「手」で持ったものは鉛筆です。

Diary of a Sergeant, 1945 - YouTube

しかし、牛乳の瓶などを持つためにはコツと訓練が必要です。
義手のフックは反対側の肩の筋肉の動きで開閉させることができます。

彼はその仕組みを「潜水艦の潜望鏡と同じ」といっています。

いろんな形の素材の違うものを持つ訓練が行われます。

Diary of a Sergeant – The Unwritten Record

続いて生活に必要なシチュエーションを想定した訓練です。
電話、コインをスロットに入れる、コーヒーカップを持つ、
窓を開ける、ドアのノブを回す、ブザーを押す、チェーンを引っ張る・・。

健常者が何も考えずにやっていることのなかには、
義手にはとても難しいことというのがたくさんあるのです。

車の運転はもちろん、パンクの修理まで練習しています。
昔は必須だったんでしょうね。

This Disabled WWII Veteran Was the Only Actor to Win 2 Oscars for the Same  Part | Military.com

そしてハロルドが帰郷する日がやってきました。
若い女性の隣に座ることを、彼は彼女を脅かさないかと恐れますが、
生活にも慣れ、故郷のボストン大学で学位をとるために通学を始め、
そして最後にはついにデートをする様子も描かれます。

ちなみにデートの時、彼は制服をバリッと着て髪をなでつけて行きますが、
制服はボタンではなくベルクロ留めの仕様にリメイクしています。

最後のシーンは、入院中は看護師に書いてもらっていた日記を
自分自身でペンを持って書き込み、未来に希望を持っている彼の姿です。

■ 「我等の人生の最良の年」への出演

さて、ところで、映画ファンの皆さんであれば、
ウィリアム・ワイラー監督の「我等の生涯の最良の年」という映画について
ご存知からあるいはご覧になったことがあるかもしれません。

「死ぬまでに見たい映画」にもリストアップされている名作です。

The Best Years of Our Lives (1946 poster).jpg

第二次大戦から福音してきた三人のもと元軍人たちが
故郷で直面する様々な社会問題、そして家族との問題。

このポスターにはどういうわけか帰還兵のうち
二人しか顔写真が出ていませんが、この一シーンをご覧ください。

航空母艦乗組の元海軍水兵で、撃沈された時の火傷がもとで
両手を義足にしているという設定の登場人物、ホーマー。

このひと、さっきのリハビリ映画の主人公のラッセル軍曹なのです。

この映画の撮影が始まる直前、ワイラー監督が(おそらく)
負傷兵についての実態を知るために軍を訪れてこの内部啓蒙映画を観たところ、
ホーマー役はこのラッセル軍曹がぴったりだ!と惚れ込み、
すでに決まっていたホーマー役を下ろしてラッセルをキャスティングしたのです。

最初の脚本ではホーマーは脚を失ったという設定でしたが、
(それであれば俳優が健常者でも演出で障碍があるように見せられる)
ラッセルに合わせて細部は書き換えられました。

ラッセルは啓蒙ビデオに描かれていたようにボストン大学に通学中でしたが、
撮影のために一時中止し、終了してから復学して経営学の学位を取っています。

彼はホーマー役でそれまで演技の経験が全くなかったにもかかわらず、
アカデミー助演男優賞、アカデミー名誉賞を受賞しました。

本物ではないと思いますが、彼が受けたアカデミー助演男優賞のトロフィーです。

彼がアカデミー賞を受賞したのは、演技の素晴らしさというより、
彼の戦傷退役軍人という立場にアメリカ映画界が敬意を表したと見られます。
わたしには少なくとも彼のセリフや演技がうまいのかどうか判断できませんが。

そして、アカデミー賞とは別枠で、

「全てのヴェテランたちに希望と勇気をもたらした」

ことにより名誉オスカー章を授与されています。

彼はボストン大学にもどったあと、退役軍人会のCEOを務め、
また、二本の映画、そして二本のドラマにいずれも退役軍人という設定で
出演しています。

 

余談ですが、1992年、ラッセルは2度目の妻の病気の治療代を捻出するために、
オスカーのトロフィーをオークションに出し、世間の非難を受け、
アカデミー賞の発行元?である映画芸術科学アカデミーAMPASはこれに反対しました。

このとき、彼は、

「なぜこのことを批判する人がいるのかわからない。
妻の健康は回顧や感傷のための思い出より遥かに重要だ」

と反論しました。

AMPASはトロフィーを換金することを授与者に禁じていましたが、
その契約への署名が行われるようになったのは1950年以降だったので、
ラッセルの受賞はその前だったということで規定は免除されました。

 

続く。

 

 

 


中身のない袖〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-17 | 歴史

ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館の次のブースには、
「中身のない袖」(The Empty Sleeve)と題された、
父親に抱かれて中身のない袖をけげんそうに持ち上げる幼子と
宙を物思わしげに見つめる父親を描いた絵があります。

■ 中身のない袖

南北戦争の後、戦闘で負傷した帰還兵は、しばしば
「中身のない袖」に表される姿で絵画の題材になりました。

Heroes Come with Empty Sleeves

戦闘で手足を失うことは、現代に限らず、
およそ軍事が記録に残されるようになった太古の昔から、
本人にとっても彼の家族にとってもこれほどの悲劇はないでしょう。

手足の欠損によって永遠に失われた機能あるいは感覚に取って代わるものはないのですから。

The empty sleeve by Giosue de Benedictis on artnet

「中身のない袖」別バージョン。

我々の社会史を通じて、一般に不意の事故によって四肢を喪失することは、
それだけで
幅広い感情を伴って語られ認識されてきたものですが、とくに
南北戦争の初期にいつのまにか世間に伝播したこのフォルクローレ、
イメージとしての「中身のない袖」は、当時
「悲劇と引き換えに得た名誉のしるし」と見なされました。

冒頭の若い父親はまだ自分の右手の不在に慣れておらず、
呆然としているように見えますが、この年老いた元大佐が
袖の中身のないことに不思議がる孫娘に対しそれを語って聞かせる様子は
むしろ誇らしげにすら見えます。

The Empty Sleeve – Andries Klarenberg

しかし、四肢の欠損が外観を損なうものであることはもちろん、それが
「ハンディキャップ」であることは名誉を持って償えるものではありません。

いつの頃からか義手、義肢は、失われた腕や脚の外観を補うのみならず、
失われたいくつかの機能を取り戻すために開発され発達してきました。

今回はは南北戦争以降のころから、こんにちのコンピュータデザイン、
そしてファイバー素材を使った義肢義足に至るまでのお話です。

そして現代では、不幸にして四肢を失ったとしても、それはハンディキャップではなく、
その人の機能を通常の状態に戻し、可能な限り充実した生活を送ることを目的とした
ひとつの挑戦(退役軍人にとっても、医学会にとっても)にしていこう、
と特に現場ではポジティブに考えられているということです。

さて、それではこのケースの中のものを見ていきましょう。

■ ハンガー義肢株式会社

My Favorite Historical Person: James Hanger | Emerging Civil War

ジェームズ・エドワード・ハンガー 
James Edward  Hanger 1843−1919 

まず、南北戦争時代のこの人物から。

彼は1861年、18歳でバージニアの南軍に入隊しました。
彼が入隊しオハイオに出征した翌朝、
戦闘が始まり、その最初の銃弾が
運悪く彼のいた厩舎に飛び込んで彼の手足を直撃します。

負傷してから約4時間、ハンガーは厩舎で耐えていましたが、脚はほとんど粉々だったため、
手術によって腰の骨の約7インチ下は切断され、手も切り落とされました。

ちなみに手術を行なったのはオハイオ州のボランティア医師でした。
つまり北軍(敵)側の医療によってハンガーは命存えたことになります。

その後、南北戦争では50,000回以上負傷者の手足の切断手術が行われることになりますが、
ハンガーのこの時の手術はその一番最初の例となったのでした。

その後、彼は捕虜交換規定によりバージニア州の実家に戻されました。

 

ここまでならハンガーは単に南北戦争の「中身のない袖」のひとりに過ぎないのですが、
彼の凄かったのは、自分の義肢を魔改造して商品化してしまったことです。

義足義肢生活になったハンガーは、膝上義肢のフィット感と機能、
両方に不満を持ち、快適にしようと、まず、新しいプロテーゼ(装着部分)を設計しました。

彼のデザインの画期的だった点は、腱にゴム製のバンパーを使用し、
膝と足首の両方にヒンジを取り付けて動きやすくしたことです。

彼は1871年にそれで特許を取得し、その他の改良のために発明した装置は
いつの間にか国際的にも評価されるようになりました。

バージニア州政府が正式に彼に膝プロテーゼの製造を委託したのをきっかけに、
彼は「JE Hanger Inc.」という会社を起こし、それはスタントンとリッチモンド、
最終的にワシントンDCに拠点を置く企業となりました。

彼の発明は義手義足の機構だけでなく、段階調節できるリクライニングチェア、
水車、ブラインド、そして自分の子供のために作った玩具「馬なし馬車」がありました。

ちなみに彼は30歳で結婚し、息子六人、娘二人に恵まれています。
息子たちは全員、家業に従事していました。

おりしも優秀な義肢装具の必要性は第一次大戦中のヨーロッパで高まっており、
ハンガーの会社はイギリスとフランスで契約を締結することに成功し、
 1919年にハンガーが亡くなったとき、同社はアトランタ、セントルイス、
フィラデルフィア、ピッツバーグ、ロンドン、パリに支店を持つ大企業に成長していました。

ハンガーの子供と孫は、義理の親、いとこ、その他の仲間とともに、
会社の運営と拡大を続けました。
もちろん同社は現在も存続しています。

Hanger Inc.

 

■南北戦争時代の『外科手術』の恐ろしさ

ハンガーが手脚を切り落としたときにはまだなかったと思われますが、
手前にある金属製でカーブのついた専用の「手脚切断用手術台」が考案されました。

南北戦争で被弾した大尉の身体から取り出された銃弾。
どうしてこれが額に入っているのかはわかりません。

その弾丸を取り出したのはきっとこのような道具に違いありません。

これらの骨を切断するための鋸と弾丸ヘラ(体内の弾丸を取り出す)は
南北戦争で外科医が携帯している手術キットの典型的なものでした。
スチール製で持ち手のハンドル部分は黒檀が用いられています。

しかしこれらが手術の合間に清拭されることはほとんどなかったといわれます。

したがって道具そのものに細菌が繁殖し、それが次の患者に対して使用されることで
しばしば感染症を引き起こして患者を死に追いやるということが起こりました。
しかし、当時の人々は患者の死が不潔な手術道具のせいだとは思っていなかったのです。

不思議なことのようですが、この時代は世界的にも公衆衛生という概念が
やっと認知されたかどうかという頃で、
南北戦争のころというのはまだ
マラリア、腸チフス、結核、コレラ、
破傷風ですら、病原菌が原因であるということが
ようやくわかってきた
という時期でしたから、感染症の予防などという概念がありませんでした。

抗生剤の誕生も1900年代になってからですから、この頃までは手脚を負傷すれば
切断するのが唯一の「助かる道」とされていました。

したがって戦場の医師は負傷した手脚を切り落とすのが主な仕事だったのです。

立てかけてあるのは南北戦争時代に使用されていた松葉杖です。
原始的ですがこれほど効果的なものはありません。
松葉杖そのものの形は生まれてから今日まで
ほとんど変化していないこともそれを実証しています。

■ 第一次世界大戦の四肢切断手術

第一次世界大戦のとき、ルイス・ビブ博士の携帯していた
フィールド用の手足切断キットです。

大きな箱に入っている最も大型の機材は骨鋸、そのほか、
ナイフ各種、プローベ(探り針)、結索針、注射器などなど。

これら手術道具は最高級のスティール製で、洗浄しやすいように
その上からクロームのコーティングがされていました。

滅多に洗うことがなかったという南北戦争時代とは
衛生と感染症についての概念がまるっきり変わっていた、
ということがこれらの仕様からもうかがえます。

これらの機材は、すべて野戦病院において医師が、患者の手足を
切断するために必要な道具ばかりです。

ビブ博士は左端の人物です。
彼が手足を切り落とした?野戦病院はテント張りで、
中央に木の枝を組み合わせた「HOSPITAL」というサインがあります。

第一次世界大戦といえば、どうしても「西部戦線異常なし」を思い出します。

脚を失った級友の見舞いに行くと、

「脚の先が痛い」

と幻肢を訴えるのに怯える者がいるかと思えば、
もう必要がなくなったからとそのブーツを欲しがる者がいたり・・。

もっともそのブーツを手に入れた者も、すぐに永遠にブーツを必要としなくなるのですが、

最初に読んだときに、このころはどうしてこういとも簡単に
四肢を切り落としてしまうのだろうと不思議だったのですが、
全ては抗生物質の誕生以前だったということだったのです。

手前の写真の主、リントン・ヘーゼルバッカーは第一次世界大戦時
フランスに出征して信号隊で任務を行なっていました。

戦闘の間、ヘーゼルバッカーはいわゆる「シェルショック」に苦しめられられ、
加えて毒ガスの爆発に遭って肺にもダメージを受けています。

この写真はヘーゼルバッカーがリハビリを受けたサナトリウムの様子で、
何をしているかというと、皆でバスケット(画面右下にある)
を作っているのだそうです。

セラピーの一環としてバスケットを編むということをしていたんですね。

彼の写真と水筒がバスケットの上に置かれていますが、
これが彼の作ったものかどうかはわかりませんでした。

World War 1 Shell Shock Victim Recovery (1910s) | War Archives

動画の青年は、最初の状態からリハビリを行なって、
すっかり良くなり、まっすぐ歩けるようになりますが、
起立した時の手にまだ怪しげな動きが残っています。

シェルショックは戦闘ストレス反応の一つに付けられた名称です。

第一次世界大戦でこの症状が兵士に現れたとき、原因は、
爆音を伴う塹壕に対する砲撃であると考えられていたため、
こう名付けられたのですが、後年になって、砲撃とは関係ない戦場でも
同じような反応が見られることがわかってきて、呼称は

戦争神経症 (war neurosis) 

と変わることになります。

「シェルショック=第一次世界大戦」

というイメージはこの最初に生まれた呼称が一時的だったことから生まれたのです。


■ コロンビアが彼の息子に爵位を授ける

ファイル:Columbia gives.jpg - Wikipedia

南北戦争はもちろん、第一次世界大戦においても、戦傷したものは
非常に高い確率で死亡し、戦死した者は国家から家族にこのような
死亡証明書が送られました。

その後ろに見えている版画については前に一度紹介しました。
戦死者の家族に対して贈られる名誉賞です。

Colombia gives to her son the accolade
of the New Chivalry of Humanity.

コロンビアが新たな人類の騎士となった
彼女の息子に”アッコラード”を与える

アメリカを象徴する女神「コロンビア」が、彼女の前に跪く兵士の肩に
剣を置く仕草をしつつ、「騎士」(ナイトフッド)の証明書を授けています。

「アッコラード」という言葉は翻訳しようがなかったのでそのまま書きましたが、
ナイト(爵位)授与式において剣で爵位を受ける者の肩に触れる動作のことを言います。

そして、戦死した者の名前の後に、

「第一次世界大戦で名誉を与えられ、彼の国のために亡くなりました
ウッドロー・ウィルソン」

という当時のアメリカ合衆国大統領の名前で発せられたことばが続くのです。

兵士と水兵の記念博物館に展示してあるこの死亡証明書には、
「ジョン・W・セラウィップ中尉」の名前が記されています。

 

 

続く。

 

 


医療隊の女性士官とWAC〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-15 | 歴史

ピッツバーグの「兵士と水兵のための記念博物館」の展示は、
ブースごとにはっきりとテーマが決められています。

「軍と動物たち」とか、「軍の女性たち」などのテーマになると、
時代は昔から現代までを網羅するものとなります。

■ 歯科医官 エレイン・バーコヴィッツ中佐

第二次世界大戦時の看護部隊の制服があるかと思えば、このように
イラク戦争に参加した女性軍人の制服があったりします。

この制服は1974年から2012年までのあいだ陸軍予備部隊に務めた、
エレイン・バーコヴィッツ中佐の着用していたものです。

彼女はピッツバーグ大学の歯学部に入学し、その後4回に渡って
軍歯科医として海外派遣に参加し、将兵や派遣先の人々の治療を行いました。

現在、彼女は76歳。
歯科医は引退し、当博物館のボードメンバーを務めているそうです。

こちらは第二次世界大戦中の海軍の女性軍人募集ポスター。

「誇りと愛国心を胸に・・」

みたいな感じでしょうか。

■ マーガレット・クレイグヒル軍医中佐

男性と同じスーツに同系色のシャツ、ネクタイです。
襟につけられたマークから、この制服の主が

United  States Army Medical Corps
(アメリカ陸軍医療隊)

の軍人であることがわかります。

US Army Medical Corps Branch Plaque.gif

1908年に設立された医療隊は、メディカルあるいはオステオパシー・ドクター
(オステオパシーは日本では認められていないがアメリカではMDと同等に扱われる)
の免許を持つ委託医官による非戦闘専門部隊です。

医療隊のシンボルにあしらわれた、ヘルメスの杖を2匹の蛇が取り巻いている
この意匠は、「カドゥケウス」といい、医療隊が採用して以降、
各方面で特に医学やヘルスケア関係を表すモチーフに使われるようになりました。

似た目的で使われるモチーフとして

「アスクレピオスの杖」

というのがありますが、こちらはカドゥケウスと違い、蛇は1匹です。

つまりここにある制服の主は、女医であることになるのですが、
先ほどの歯科医であったバーコヴィッツ少佐ではありません。

医療隊には41部門の識別コードがありますが、そこに歯科は含まれないのです。

ちなみに、医療隊で初めて女性士官になったのは、

マーガレット・ドロテア・クレイグヒル軍医中佐
Margaret Dorothea Craighill 1898〜1977

で、1943年のことになります。

彼女はウィスコンシン大学を卒業し、ジョンズ・ホプキンス大学
(今回のコロナ肺炎で日本でもここの医学部がすっかり有名になった)で

博士号を取得していた医師でしたが、代々陸軍士官の家であったことから
1943年に陸海軍の医療隊に女性の参加を認める法案が成立したので、
立候補して陸軍医師会の承認を受け、入隊しました。

 

クレイグヒル中佐は、就任してすぐに、軍隊に所属する女性が
女性として適切な治療を受けているかを、世界中の医療機関を視察して
その実態を把握することから改革を進めていきました。

また、当時の軍隊では女性に対して男性に対するのと同じ検査しか行われず、
女性特有の問題については見過ごされがちだったのに注目した少佐は、
婦人科と産科の専門医を少なくとも一人、医局に置くことを要求しましたが、
この提案は無視され、それまで通り外科が全てを包括して診察する、
という体制が変革されることはしばらくはありませんでした。

当時はメンタルヘルスに対する意識もアメリカでは低く、たとえば
軍隊の任務に支障を起こしかねない精神障害の可能性のある女性を
入隊者の中からどのように審査の段階でスクリーニングするかなどという
分析の研究も全く行われていなかったため、中佐は上層部に対し、

この改善と、検査官を訓練するためのユニットを設置するよう要請しています。


彼女は陸軍医療隊任務期間に、WAC(女性陸軍軍人)の妊娠率、
及びすでに終了した妊娠率についてもデータを取って記録しました。

当時、中絶した女性は軍人は不名誉除隊という処分を受けていましたが、
これについて、クレイグヒル中佐は変革を行いました。

たとえ中絶をするようなことがあった女性兵士でも、再訓練して
軍隊にとどまるべきであること、そもそも中絶はそれをした女性が
社会にとって「望ましからぬ」(undesirable)存在であることを
示唆するものではないこと、そのことによって彼女が
陸軍に悪影響を与えることを意味するものではない、という主張を行ったのです。

彼女がそれを主張したのが1940年台であったことを考えると
これは非常に「進歩的な」意見に思われます。

ただ、この中絶問題は宗教とか保守リベラルによって意見が違い、
キリスト教国では国論を二分する問題となっています。

 

中絶ではありませんが、女性兵士の妊娠については、
アメリカ陸軍がイラクに駐留していた時期、ある海外駐留部隊の司令官が
男女双方の兵士を対象とし、

「女性兵士が妊娠した場合や男性兵士が女性兵士を妊娠させた場合は、
軍法会議にかけて刑事責任を問う可能性もある」

つまり事実上の「妊娠禁止令」を発令したことがあります。

しかしそれは結婚している男女に対しても同じ対応をするという
理不尽な内容であったため、隊内外からの
反発が大きくなり、
結局撤回せざるをえなくなった、という事例もありました。


「女性がいるから起きてくる問題」がイコール「軍に悪影響を与える問題」
であると捉える傾向は、クレイグヒル中佐のころから半世紀以上経ってからも
あまり変わっていないということを表す一例であると言えましょう。

 

■ 女性軍人と近代戦争

1944年に陸軍で行われた

「良い姿勢(Good Posture)コンテスト」

の勝者の皆さんです。

なんだ?陸軍はWACのビューティーページェント(ミスコン)でもしてたんか?

と思ったのですが、さにあらず。

当時のアメリカでは良い姿勢が健康、
あるいは軍隊であれば
正確な射撃などに役に立つという考えが提唱され、一種の流行りとなっていたので、

やたらとこのようなコンテストが行われていたらしいのです。

頭の上に本を載せて落とさずに歩く、などという「訓練」が生まれたのも
実はこのムーブメントを受けてだったんですね。

ここからは各時代における女性軍人たちのスナップです。

これは北アフリカでズアーブ兵部隊に表敬行進を行うWAC部隊。
ズアーブ兵というのは、南北戦争の展示の際にお話ししたことがありますが、
当時フランスの植民地だった北アフリカのチュニジアやアルジェリア人の軍隊です。

これは第二次世界大戦の頃ということですが、戦後
アフリカがフランスから独立するのに伴い廃止されました。

 

ここからは、同じブース内に展示されていた女性兵士たちのスナップです。

Quatermaster corps、軍需品科で働く女性(左)の姿。
1983年のグレナダ侵攻のときの一コマです。

軍需品部隊

輸送部隊 

兵器部隊

と並ぶ後方支援の三つの兵站部門のうちの一つです。

弾薬と衣料品を除く石油、水、一般的な物資の輸送と供給を行うほか、
アメリカ軍の需品課は、死亡した軍人の遺体回収、身元確認、輸送、
そして埋葬を任務とする

軍没者処理業務

も需品課の業務の一環です。

"Taking Chance" Trailer (HD)

以前話題になったこの映画は海兵隊ですが、つまりこれらの業務ですね。

ちなみに「チャンス」は亡くなった軍人の名前と「機会」を掛けています。

 

WAFC(World Area Forecast Centre)世界空域予想中区

世界各国の航空管制機関向けに航空気象情報を提供するために、
リアルタイムで気象情報の作成と放送を行っている気象機関で、
2012年1月現在、ロンドンとワシントンD.C.の2ヶ所のみ設置されています。

これは1967年、ベトナム戦争の際にサイゴンにあったWAFCの訓練センターで、
アメリカ軍人がベトナムの女性軍人に情報の解析の方法を指導しています。

同じころ、南ベトナムにて。
職業訓練を行っている様子です。

その南ベトナムでWACの「compounds」特別居留地がオープンしたとき。
テープカットしているのはなぜか男性のお偉いさん。

後ろにいるおじさんたちは満面の笑顔ですが、なんだろう。

巷ではディオールのニュールック「Aライン」が流行っていた
1950年台のアメリカ陸軍では、制服もほんのり砂時計シルエット。

特に綺麗どころを集めたのだと思いますが、それにしても全員モデル並ですね。

写真が撮られたのはアラバマ州のフォート・マクレランなので、
彼女たちを南部美人、サザン・ベルの末裔といっても差支えなさそうです。

そのフォートマクレランの基礎訓練施設の内部だそうです。
ロッカーとベッドの数から見て、四人一部屋だったようですね。

第二次世界大戦の頃、テキサスのキャンプ・フッドでの光景だそうです。

運転席に座っているWACが記入しているのを男性軍人が
手取り足取りご指導ご鞭撻を行っているところに見えます。

フォート・フッド(Hood)は現在では第3装甲団の本拠地ですが、
当時から駆逐戦車の試験及び訓練のためのフィールドを持つ駐屯地でした。

これはどう見ても装甲車には見えないので、普通に車の免許を取っているのかと。
ところで陸自でも車の免許を取る訓練(これも訓練らしい)は
男女隊員が一緒に行うので、付き合いだすきっかけになったりするそうですね。

 

ところで、このフォートのフッドは、

ジョン・ベル・フッド Jhon Belle Hood 1831-1879

という南北戦争時代の南軍の将軍の名前から取られています。
コンフェデレートは敗北したので、そういう例はなんとなくないのでは、
と勝手に思い込んでいたのですが、南部ではこういうこともあるようです。

フッドは陸軍士官学校を成績不良で追放されていますが、
クラスメートには北軍のマクファーソンがいて、さらに砲術の先生は
これも北軍の将軍としてフッドと戦うことになったジョージ・トーマスがいました。

そうではないかと思っていたのですが、やはり南北戦争というのは
昨日のクラスメートと今日はマジでどんぱちやらざるを得ない、
アメリカ人にとってのトラウマだったんだなあ・・。

 

ところで実はこのフォート・フッド、あの
ジョージ・フロイドの殺害事件の後、

黒人奴隷を主張した南軍の将軍の名前はいかがなものか

という話が案の定起こり、名前を変更するとかしないとかの話し合いが
あったとかなかったとか・・・。(どうなっているか知りません)

もう本当にこの話、いい加減にしてほしいのよね(うんざり)

■ 病院船 フランシス・Y・スレンジャー

子供が学校の共同制作で作ったレベルのプリミティブというか素朴な模型は、

United StatesArmy  Hospital Ship USAHS
Francis Y. Slenger

という病院船を表しています。
材料はサルベージされた木材だそうですが、これを制作したのは
ドイツ軍の捕虜で、

ベロニカ・カプカー Veronica Kapcar

というアメリカ陸軍のナースのために作ったというのです。

スレンジャーについては前にも一度お話ししていますが、
もう一度(わたしも忘れていたので)挙げておきます。

 

フランシス・スレンジャー Frances Slanger(1913-1944)

彼女はヨーロッパ戦線で最初に亡くなったアメリカの看護師でした。

彼女はポーランド生まれのユダヤ人として生まれましたが、
迫害を逃れ、家族とともにマサチューセッツ州ボストンに移住していました。

その後ボストン市立病院の看護学校に通い、1943年には陸軍看護師団に入隊。
ヨーロッパに派遣され、D-Day侵攻後、ノルマンディーフランスで医療活動にあたりました。

そして任務の済んだある夜、宿舎となったテントでこんな文を含む一通の手紙を書きました。

「銃の背後にいる人、タンクを運転する人、飛行機を操縦する人、
船を動かす人、橋を建てる人 ・・・・・。
アメリカ軍の制服を着ているすべてのGIに、私たちは最高の賞賛と敬意を払います」

これを書き終わって一時間後、彼女はドイツ軍の狙撃兵に撃たれ、戦死。
わずか33年の生涯でした。

その後、彼女の名前は、陸軍の病院船” Lt Frances Y. Slanger "に遺されました。

 

 

続く。

 


「ヒトラーの秘密兵器」ナショナル・ローフと国民戦時体制〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-13 | 歴史

ピッツバーグの「兵士と水兵の記念博物館」の回廊を進むと、
殺伐とした展示にいきなりアメリカンアットホームな色彩が!

 

■ 戦時民間防衛

その印象の一員は、この女性のマネキンだと思うんですがね。
しかし、彼女は戦時中の女子勤労動員の労働スタイルで、

「ウィ・キャン・ドゥー・イット!」

ポスターの女性と似たポーズを取っています。

ところで、このポスターについては過去何度か語ってきましたが、
今回初めて、この制作をピッツバーグ在住のアーティスト、ハワード・ミラーに
依頼したのがウェスティングハウス・エレクトリック、
あのジョージ・ウェスティングハウスの興した電気部門であったことを知りました。

しかも、これはウェスティングハウス・エレクトリック社内部のための
まあ言うならば「みんなで頑張りましょうね」程度のポスターでしかなく、
Weとはウェスティングハウスの社員一同のことであり、もちろんのこと、
よく勘違いされるように、男性のいない職場に女性を駆り立てると言うような
プロパガンダの意味合いは全くなかったのです。

しかもウェスティングハウスでこのポスターが公開されていたのは
わずか1ヶ月の間で、もちろんのこと社外にはほとんど知られていません。

有名になったのは1980年台以降で、しかも本来の意味とは無関係の
フェミニズム系の発言に多用されていたようです。

まあただ、ここでは戦争に行った男性の代わりにそれまでの男性の職場で
働くようになった女性の象徴のように扱っている節はあります。

ポスターの横には工場で働く女性工員の様子を視察するお偉いさんという写真が。

女性は白黒写真でもはっきりわかるほど当時流行の真っ赤な口紅をつけており、
おそらく彼女はインタビュー用に用意された「ミス職場」だったのではと思われます。

女性、しかもアフリカ系が白人男性の職場だったところで
このように作業するという姿も当時であれば宣伝になりました。

どこかで見たマークだと思ったら、民間防衛組織です。
自分の過去ブログによると、このマークは航空監視員の徽章です。

真珠湾攻撃以降、空爆または砲撃の可能性が存在するとして、
アメリカでは民間防衛部隊が編成されることになりました。

1000万人ものボランティアが民間航空パトロール隊や、市民防衛隊を組織していました。

右側は民間防衛組織のボランティアを募集するパンフレット。
左は民間人配布されたガスマスクです。

映画「1941」で、子供がガスマスクをかぶってスープを飲んでいましたが、
真珠湾攻撃後、アメリカ民間人が東からの攻撃に怯え、子供や赤ちゃんにも
ガスマスクをつけさせている笑えない写真は動画は数多く残されています。

終末感漂う、戦時中の子供向けガスマスクとそれを付けた子供たちの古写真 : カラパイア

右側の看護師さん、マスクごと赤さんをぶら下げてないか?

■ ウォータイム・レーション(戦時配給)

トマトジュース10セント、ドーナツ5セント、ミートローフ30セント、
シタビラメのフィレフライ35セント・・・・・。

後ろのメニューは何かというと、「レーション」つまり配給の値段です。
アメリカでも食料が配給制だったってことですか。

アメリカのレーションブックとチケットです。

調べてみると、アメリカでもイギリスでも、第二次世界大戦中は
配給が一般的になった時期だそうです。

 イギリスでの配給ノート。
アメリカで配給ノートが配られ始めたのは1942年5月といいますから、
日本との戦争が正式に始まって半年後には配給制が始まっていたということになります。

最初に配給制になった食品は、砂糖だったそうです。

続いてコーヒー。
5週間ごとに1ポンド(450g)という割当てでした。
砂糖にコーヒーというと、まさにアメリカ人が死んでもやめられないものですよね。

そのあと配給制になった物品は以下の通りです。

ラード、ショートニング、オイル、チーズ、バター、マーガリン、加工食品、
ドライフルーツ、缶詰の牛乳、ジャム、ゼリー、フルーツバター

これらはつまりどれも戦地に送ることができるものばかりです。
また、食べ物以外でも

タイプライター、ガソリン、自転車、履き物、シルク、ナイロン、
燃料油、ストーブ、薪、石炭

などは1943年11月まで配給されていました。
ちなみに上の民間防衛のヘルメットと一緒に写っているのは配給のストッキングです。

■ 国民のパン(ナショナルローフ)

この配給については、まずイギリスが率先して始め、アメリカにこれを勧告し、
アメリカが追随したという背景があります。

 

イギリスは1939年9月の戦争の勃発までに、穀物の70%を輸入に頼っており、
その大部分は、現在のように、カナダから北大西洋を越えて輸送されていました。

輸送は船護送船団で行われましたが、Uボートによる攻撃に対して脆弱でした。

イギリスの計画担当省は、国民1日あたりに必要な最小限のパンのために
年間25万トンの小麦を30隻の船で輸入する必要があると計算しました。
パンに使う小麦だけでその量です。

この輸送費は、戦争遂行のためのその他の資材と割合を食い合うため、
英国政府としても小麦を減らして戦争資材を輸入したいのは山々でしたが、
パンの問題は直接士気に関わるため、なかなか配給に踏み切れませんでした。

食品省は、小麦の輸入量を減らし、到着したものを最大限に活用すると同時に、
人々が食品から最適な栄養価を確実に受け取れるにはどうするか考え始めました。

そこで、

「もしUボートによって全ての輸入が不可能になった時、
英国は国内の食糧生産だけでやっていくことができるか」

というシミュレーションを行い、また、このときに
ビタミンとミネラルを含む食べ物を摂取する必要などを模索し始めたのです。

ちなみにこれは現代の栄養学的思考の基礎となりました。

先般日本学術会議が日本の科学者に軍事研究につながる基礎研究を
行わせないという声明のもとに、実際に防衛省依頼の研究を潰していたことがわかり、

「およそ世の近代科学というものは全てもとを辿れば軍事研究なのを知らないのか」

と馬鹿にされていましたが、これなど瓢箪から駒的成果とはいえ、
戦争をシミュレーションした結果生み出されたわけですから、
軍事研究から生まれたといっても全く差し支えないかと思います。

 

さて、話を元に戻して、彼らが到達した解決策は、1942年の春に
「全粒小麦粉」または「全粒粉」を作成することにより、
輸入した小麦をさらに進化させることでした。

栄養学の研究により、パンは精白したものより全粒粉の方が栄養価が高い、
などという今日では周知のことも初めて理論的に裏付けされたため、

「国民のパン」(National Loaf)

というカルシウムとビタミンを加えた全粒粉のパンを「パン職人連盟」という
国民のパンを作るために設立された組織によって作らせたのです。

ナショナルローフはなぜか灰色をしており、おまけにドロドロで、
なかなか食欲をそそる代物とはいえず、どうやって調べたのか知りませんが、
なんでもこれを好んだのはイギリス国民の七人に一人という割合だったようです。

イギリス人でもこうですから、こんなものを政府から押し付けられた日には
フランスだったらもう一度革命が起きていたかもしれません。

 

イギリス政府はUボートの件もあって、食料輸送の割合を節約し、
かつ小麦の在庫をできるだけ有効活用するために、国民の不評も物ともせず、

「白パンがなければ国民のパンを食べればいいじゃない」

とばかりにこれをバッキンガム宮殿でも出していました。
1942年に訪英したエレノア・ルーズベルトは、

「金と銀の食器で提供された食事にこの”戦争パン”が出てきた」

と証言しています。

「ナショナル・フラワー(国民の小麦粉)」は、殻付き小麦粒から抽出された
無漂白小麦粉でした。
胚乳、小麦胚芽、およびふすまふすまも残してあるため、もとの小麦の
85%の内容が残されることになりました。

一般的に白い小麦粉は70%が残りますから、たとえば100kgの小麦粒なら
いままで70キロだったのが、これだとから85kg残ることを意味します。


そうやって多くの成分を残して製粉した小麦粉は、なぜか灰色をしていました。
最近は日本でも全粒粉のパンが普通に市場に出回わっているので
ご存知の方も多いと思いますが、全粒粉のパンは普通灰色をしていません。

わたしなどアメリカに行くとかならずイングリッシュマフィンも全粒粉を選ぶのですが、
(これは「白物好き」のMKにはめっぽう評判が悪く、わたし専用になっています)
それだって決して灰色ではありません。

これはふすまの一部分が残っているせいの色だそうです。

確かにビタミンBの含有量は格段に上がるでしょうが、問題は
それに比例して食感も悪くなっていくことです。(つまりまずい)

しかも、政府は抽出量をあるとき90%に引き上げました。
これはもうほとんど小麦の外側しか取っていない状態です。
さすがに不評だったらしく、再び85%にまで引き下げられました。

不人気の原因には良かれと思って入れられたカルシウムなどの添加物もありました。

このの目的は、カルシウムの吸収を妨げ、子供にくる病を引き起こす可能性のある、
より高い抽出粉中のより高いフィチン酸の割合を相殺することでした。

1942年4月6日、イギリス政府は白パンの商業的流通を禁止する法律を発効しました。
この禁止破りを防ぐため、パンは包装せず、スライスもせずに販売しなければならず、
製造された翌日のみ販売でき、当日は販売できませんでした。

せめて焼きたてならちょっとはましだったのかもしれませんが・・。

 

そのうち、小麦粉をオートミールまたはジャガイモ粉で希釈したり、
大麦粉、オート麦粉、馬鈴薯粉を混ぜることも始まりました。
長持ちさせるためにかなりの量の塩を入れることも定められました。

これらの小うるさい規定に従わなければならない当時のパン職人は、
ほとほと嫌気が指していたでしょう。

そしてこの国民のパンを、皮肉屋のイギリス人は、

「ヒトラーの秘密兵器」

と呼んで蛇蝎のように嫌いました。

見た目だけでなく、食感はまさにおがくずそのもの。
焼いてから1日置かないと販売が許可されないというのに、
購入したときにはすでに乾いて硬くなって噛み切るのに顎が痛くなる代物です。

唯一、食品省の上層部から意図的にリークされたと思しき、
「ビタミンEを多く含むので生殖能力を高める」という噂があるにはあったそうです。

 

戦時下の国民に不自由を強いることはどこの国でもあることですが、
そうなると国民の側に「自警団」が生まれ、国民を国民が摘発するのが
あの時代の日本だったのに引き換え、イギリス人は国民のパンに対して
声を大にして公に不平を言い続けました。

しかも不思議なことに、パンの消費量は国民の不平の声の大きさと比例して?
戦前より増えていきました。

むしろこれはパンというものに対する執着を煽られたための補填行為かもしれません。
って逆効果じゃん。

 

そして1950年、ついにスライスし、包装された白いパンが解禁になりましたが、
慣れとは恐ろしいもので、あんなに文句を言っていたのにもかかわらず、
健康上の理由から、国民のパンを維持すべきだという声があったそうです。

1956年、ナショナルローフはついに廃止されました。


ちなみに、ナショナルローフを開発した研究者の一人、
ハリエット・チックは、英国で最初に有給で雇われた女性科学者となり、
戦後、この貢献により1949年に大英帝国勲章を授与されました。

【ナショナルローフのレシピ】

出典:帝国戦争博物館

10斤の場合(1斤の場合、10で割る)
全粒粉 5220 g
馬鈴薯粉 1740 g
水 4740 ml
ビタミンC 6 g
酵母 210g

1. ミキサーですべての材料を3〜5分間混合します
2. 生地を軽く油を塗った容器に入れ、45分間休ませます
3.   さらに45分間休ませます
4.    1kgでスケーリングし、10〜15分間休ませます
5.   油を塗ったベーキング缶にパンを入れ、28-32 度で45-60分置く
6.   上部204度下部208度で焼きます
7.    25分後にベントを開き、さらに25分間焼きます
8.   すぐに缶から取り出し、ラックで冷やします

 

■ VICTORYガーデン

アメリカの配給メニューの前においてあるこの缶は、
Vメールの送信用コンテナです。

Vメールとは、1942年6月から1945年11月まで運用された軍事郵便の一種で、
本国と海外の戦地間で輸送される郵便物の量を減らし、サービスを迅速化するため
専用の用紙に書かれた手紙マイクロフィルムに転写し、フィルムの状態で輸送して
到着地で印刷されてから配達されていました。

つまりこの缶の中にはフィルムが入っているのですが、こんなかさばる状態でも
手紙よりは輸送の量が減らせるということだったようです。

右上のVを形作っているタバコのラベルが表すのは、
この中身が外国の戦地にタバコを送る郵便であるということです。
おそらく無料で郵送ができたのだと思われます。

戦争遂行に利するものにはなんでも『V』をつけていた当時のアメリカには
「ビクトリーガーデン」と名付けられる畑がありました。

商業的農業に対する軍の要求を優先させる目的から、民間人は
戦争遂行を助けるために彼ら自身の食糧を育てることを奨励されました。
庭に畑を作って自給自足し、商品は戦地に回しましょうというわけです。

ラッキーストライクとは「大当たり」の意味です。
発売された頃のアメリカはゴールドラッシュで湧いていました。
左の緑色の背景に赤い丸がオリジナルです。

1942年、デザインが右の白地に赤に変更されました。
緑系インクには金属を必要とするのですが、戦争中だったため、
金属を節約する意味で緑は廃止されました。

「ラッキーグリーンは戦場に行った」

というコピーは、戦意高揚と宣伝を兼ねているのです。

窓辺のサービスバナー(任務旗)は、南北戦争の時代からアメリカ人の家庭が
戦争協力を世間にアピールする目的で掲揚してきたもので、
星が青である旗はその家の誰かが出征中であることを表し、この旗のように
黄色い星の旗は、家族が戦死したという印でした。

 

これは何か意味があるのかと思ったのですが、説明がありませんでした。
ただの装飾かな?

 

続く。


「コーヒーポット・ジョー二世」の除隊・第二次世界大戦海軍資料〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-11 | 歴史

ピッツバーグの「ソルジャーズ&セイラーズ・メモリアル&ミュージアム」
の回廊はいよいよ近代海軍の展示が始まり、思わず盛り上がるわたしです。

■ 航法のための設備いろいろ

「ジャイロスコープ・コンパス」と説明があります。
つまり略してジャイロコンパスですね。

転輪羅針儀という言葉もありますが、日本語でもジャイロスコープです。

一応説明しておくと、高速回転するコマが回転軸の方向を保とうとする性質と、
自転する地球のの表面において回転軸を水平に保った場合に、
ジャイロ効果のジャイロモーメントにより
ジャイロスコープの回転軸が一定の方向に向く作用(プリセッション)を利用し、
方位を知ることができるのです。

見るからに旧式のジャイロとお見受けしますが、説明によると
やはりこのタイプが商標を取ったのは1919年のことでした。

このモデルはニューヨークのスペリー・ジャイロスコープカンパニーによる製造で、
第二次世界大戦に参加したアメリカ海軍の艦船のほとんどが使用していました。

この自転車の空気入れみたいなものは、フォグホーン、つまり
霧笛ということになります。
USS「ホーネット」に搭載されていたものだとか。

こんな小さな機械で無敵の役割を果たすのかと思いますが、
当時の霧笛音発生器は「ダイヤフォン(Diaphone)」方式と言って、
遠くまで届く深い、大きな音を発生させることができました。

Vintage 1940s Gamewell Diaphone Fire Alarm Horn w/ Switch Valve RARE! |  #407931543

典型的なダイヤフォン、小型の「ゲームウェル・ダイヤフォン」
こんな形をしているわけですが、・・・あれ?

これと同じ形のものが江田島の旧海軍兵学校校舎についていたような記憶が。
あれはもしかしたら霧笛だったのでしょうか。
そもそも瀬戸内海に霧は発生するのかって話ですが。

それはともかく、音を増幅させるのに必要だったのが
ダイヤフォンの場合は圧縮空気であるわけです。

艦上でこの音を発生させる時、空気を圧縮するのに
この自転車の空気入れみたいなのを使ったわけですね。

どうして圧縮空気があのボーーーーという音になるのか、
どうしても知りたい方はこちらをご覧ください。

こちら

 

このブログでも何度も紹介しているエンジンテレグラフです。

船がスピードを変更する時、操縦者は艦橋(船橋)から機関室に
「エンジンオーダーテレグラフ」の表示を手動で動かし、
コニュニケーションをとります。

ブリッジにあるテレグラフが操作される時、ベルがなって
機関手にデバイスを同じ位置に変更して指令を確認することを警告します。

ここにあるテレグレフステーションは19世期から1950年台までの
スタンダードになっていた型式のものです。

右上はUSS「ニミッツ」にあった「バトルランタン」
Battle Lantern とは、非常用の灯りと考えていただいていいかと思います。

戦闘による損傷、機器の故障、節電、およびその他の突然の出来事により、
艦内の一部に電力、そして光ががなくなるような事態に陥った時、
この電池式ランプは、エリアへの主電源が遮断されると自動的に点灯し、
長時間にわたって主電源から絶えず再充電され消えることはありません。

しかし艦のすべてのエリアにバトルランタンが装備されているわけではなく、
艦橋など最も重要なエリアのみで、ヘッド(トイレ)にはこんなものありません。

ですから、経験豊富な乗員は常に小さな懐中電灯を携帯して非常時に備えており、
停電が発生した時に消灯しているコンパートメントにいても、
活動を継続したりそこを離れることができるようにしていました。

というか軍艦で停電って、そんなにちょくちょく起こることだったんですかね。

その下にある鐘は時鐘ではなくランチング・ベル(Launching  Bell)といい、
進水式のセレモニーのために使われてそれっきりという鐘です。

道理できれいなわけですが、それではこのランチングベル、
どの艦の進水式に使われたかというと、

USS「ピッツバーグ」SSN-720

つまり1984年12月8日に一度鳴らされただけのものなんですね。

この「ピッツバーグ」は艦種記号をごらんになっておわかりのように、
原子力潜水艦、「ロサンゼルス」級となります。

720insig.png

ところで艦体よりもこちらのマークを見ていただきたい。
「ピッツバーグ」を表す象徴的なものが、実はこの
黄色い鉄橋だけしかないということがこれでおわかりですね。

USS Pittsburgh (SSN-720) participates in a dockside ceremony. Note the former USN jack waving from the front of the sub.

こちらが引き渡し式(commissioned)での「ピッツバーグ」。
艦首に立てられた旗の種類にご注目ください。

これは「ユニオンジャック」(イギリスのじゃないよ)というアメリカ海軍の
現在の国籍旗で、州の数が50になった1960年からこれを使用しています。

911の後しばらく、「わたしを踏みつけるな」の蛇さんでおなじみ、
ガズデン旗が使用されていましたが、2019年にまた元に戻りました。

 

原子力潜水艦「ピッツバーグ」は、湾岸戦争の「砂漠の嵐」作戦と
イラク侵攻に対する「イラクの自由作戦」で、いずれもイラクに軍に対し
トマホークミサイルを実射しています。

そして対テロ戦争が終結したとされた2019年に退役を行い、2020年4月という、
今にして思えば
コロナ騒ぎ真っ最中の時期に除籍となっています。

ちなみに、奇しくも最後の艦長はピッツバーグ近郊の町カーネギー出身だったそうです。

■ 海軍のショア・リーブ(上陸)犯罪防止対策

この水兵服の人は、

2nd Class Electrician Mate

なので、海上自衛隊でいうところの電子整備かと思ったら、
左腕に「SP(Shore  Patorol)」の腕章をつけています。

つまりこのPetty Officer=下士官、二等兵曹はショア・パトロール
つまりアメリカ海軍の憲兵ということになります。

海軍の場合、憲兵はMPではなくSPなんですね_φ(・_・

憲兵にSPの呼称を使用するのは米国海軍、海兵隊、沿岸警備隊、
そしてイギリスの王立海軍だけです。(海上自衛隊は知りません)

彼らSPは「リバティポート」における何百人もの乗員たちの
秩序を維持するという誰からも羨ましがられない任務を担っていました。

ところでリバティポートとはなんぞや、ということですが、これは
要するに軍艦が停泊し、乗員たちが「上陸」する港付近のことです。

ちなみに日本海軍並びに自衛隊でいうところの「上陸」のことは
英語では「Shore Leave」(海岸を離れること)といいます。

巷に「港港に女あり」という言葉が存在するほどに、何ヶ月かぶりに上陸する海の男は
一般的に、昔から悪い方向にハメを外すことが多く、要するにこのSPさんたちは、
そういった場合に起こりがちな事件や犯罪などを取締るために配置されていたのです。

この職種は若い彼ら自身にとってもなかなか辛いものに違いありません。
せっかくの上陸なのに、ハメを外すどころか
人の素行を見張らなければならないという・・・。

船で抑圧された男性の集団が、港で解き放たれたときに起こってくる様々な問題。
これはある意味、およそ船というものができたころから存在する根深いものです。

というわけで、アメリカ海軍は最近になって、現役の軍人とその18歳以上のゲストを対象に、

「プログラム・21世紀の自由」

「プログラム・独身水兵」

なるものを定めました。

このプログラムは、すべての軍種の同伴者のいない軍人に、非番の際の
社会的、文化的活動、レクリエーション、運動、フィットネスなど、
安全でかつ健全な環境を提供することにより、軍人たちの個人の生活の質を高める、
ということを目的としています。

もちろん今時ですから海軍基地の施設ではインターネット、コンピュータを
だれでも無料で無制限に利用で
き、ほとんどの場所には劇場があり、
テレビを備えたラウンジエリアには卓球台、ビリヤード台はもちろんのこと、
プレイステーション3やXbox360など最新のビデオゲームなども楽しめます。

スナックバーでは無料で様々なアイテムを楽しむことができ、時には
軍の企画したパッケージツァーにサインアップすると、
ちょっとした見学や遠足、観光なども楽しめるというわけです。
この勢いだとマッチングやブラインドデートなども・・それはないのか。

これらのプログラムの目標はひとえに潜在的な犯罪防止にあります。
SPの出番を招くという事態を防ぐため、至れり尽くせりにしているわけですね。

こちらは1944年から46年まで入隊していたシーマン、
ルース・ルドイ(女性です)の制服です。
WAVEも水兵は「シーマン」と呼ぶんですね。

写真はセーラー服の横のアフリカ系シーマン二人。

横に展示されているのは1944年から46年まで海軍に入隊していた
アルモ・J・マッコイJr.(右側)の制服です。

彼はグレイト・レイクスにある海軍訓練所のあと、
USS「J・フランクリン・ベル」USS「ジーン・ラフィット」(いずれも駆逐艦)
を経て、第34海軍建設大隊「シービーズ」に所属していました。

「シービーズ」Seabeesは文字通り「海の働き蜂」という名称ですが、
実は、

Construction Battalion(建設大隊)

のCとBで「CBs」からきています。

USN-Seabees-Insignia.svg

しかし工兵隊は「働き蜂」そのままのイメージだったので、こうなりました。
脚にいろんな工具を持って飛んでいる蜂・・脚ごとに階級が違います(笑)

この蜂のデザインは部隊によって少しずつアレンジされ様々なバージョンがあります

■ コーヒーポット「ジョー」二世

見かけは変哲もない昔のコーヒーポットです。
んが、このポットには何やら色々と文字が刻まれており、
しかも

「コーヒーポット ジョーCOFFEE POT JOE II」

なる名前が付いているようなのです。
しかも、後ろの写真には、テーブルの上の男性にこのポットでコーヒーを注ぎながら

「コーヒーポットジョー2が帰ってきた」

などと言っているようではないですか。
説明にはこうあります。

「第二次世界大戦に従事した水兵たちは、その海軍生活を
毎日のコーヒーなしに思い出すことはできません。

そのなかでもUSS『エルバン』(Erban DD631)に装備されていたこの
コーヒーポット『ジョー2』は乗員の仲間とされていました。

無線室勤務の乗員たちは、その長い勤務時間にちょっとした刺激を与えるために、
コーヒーポットをジョーと呼んでいました。
そんなある日、ジョーは修理不可能なくらい損傷してしまったので、
乗員のひとりが実家に手紙を書いて、新しいポットが調達できるか尋ねました。

そのリクエストをピッツバーグの新聞社が聞きつけ、報じたところ、
すぐさまペンシルバニア州ペン・ヒルズに住むアンナ・バレンシャガ夫人が
それに声を上げました。

「コーヒポットジョー二世」は1944年の7月から1945年の12月まで
「エルバン」で皆に愛用され、その間4度の戦闘と一度の台風を経験しています。

そして戦争は終わりました。

「エルバン」の乗員はそれぞれ艦を降りて故郷に戻っていきましたが、
そのうち三人の地元出身のもと乗員、H・C・キルドォー、ディック・ステファンズ、
そしてビル・ザビック(ジョンズタウン)は、ジョー二世に彼の「軍歴」と
送り主のバレンシアガ夫妻、そしてその家族への感謝の言葉を刻み、
ジョー二世を艦から降ろして彼を「民間人の生活」に戻すことにしました」

そしてポットに刻まれた言葉は次のようなものです。

USS「エルバン」DD631

★ グアム 1944年7月

★ フィリピン島 1944年10月

★ 沖縄 1945年3月 

★ 日本 1945年8〜9月

コーヒーポット ジョー II

1944年7月から1945年12月まで約2万回もの回数、
「エルビン」の男たちに
コーヒーを提供してくれた

バレンシアガ夫妻とその家族には、祖国のために任務を行う
我々のためにコーヒーポットジョーを派遣してくれたことに
こころからお礼を申し上げるものである

我々は、自分たちの道を再び歩き始めるにあたって
ジョー ポット2を名誉のうちに除隊するものとする

ポットの反対側にはジョー2世にお世話になった
36名の当時の乗員の名前が刻まれているそうです。

( ;∀;)イイハナシカモ

 

このブースの下には航空機カタパルトが装備された軍艦の模型があります。
規模から言って巡洋艦のような気もするのですが、
案の定わたしには見当すらつきません。

どなたか心ある方の特定をお待ちしております<(_ _)>

 

続く。

 

 


米国商船部隊と「メレディス・ヴィクトリー」号の難民救出〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

去年の夏はこれまで何年間も連続して必ず一年に一度は滞在していた
サンフランシスコなど西海岸に初めて行けずじまいでした。

そして何の因果か、いまだにこの博物館のあるピッツバーグにいて、
毎日前を車で通っていますが、最後に見学したのは2019年の夏です。

まだピッツバーグにいるうちにシリーズを終わらせてしまいましょう。

 

■ アメリカ合衆国商船部隊

例年ベイエリアに滞在することがあれば、必ず一度は歩きに行っていた
サンフランシスコ空港近くのコヨーテポイントレクリエーションエリア、
そののトレイルが繋がる緩やかな丘の斜面には、
かつてマーチャント・マリーンのアカデミーがありました。


その跡地を表す石碑を見つけたことから、ここでも一度
その教育組織についてお話ししたことがあります。

ここピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館には、
あまり他の軍事博物館には見られないマーチャント・マリーン、
アメリカ合衆国商船にかかわる展示がありましたので、
日本人があまり知らないこの組織についてもう一度お話ししておきます。

アメリカ合衆国商船(マーチャント・マリーン)とは、
アメリカの民間の船員、そして民間あるいは連邦が所有する商船の総称です。

民間の船員と商船は、いずれも政府と民間部門の組み合わせによって管理されており、
アメリカ合衆国が航行を可能とする海域を出入りする商品や
サービスなどの商取引、あるいは輸送を行っています。

商船は平時、物資や貨物と輸送を担うというのは当たり前のことですが、
アメリカの場合、国家が戦争に入った時には、商船が軍の補助任務、
軍事物資や兵力の輸送を行うことが法律で取り決められているのです。

このことは、

「商船隊は有事には第四の防衛軍となる」

という言い方で規定されているわけです。

日本の商船組織と大きく違うのは、指揮官に将校のランクが与えられていることで、
この将校はしばしば国防総省から軍の将校に任命されることもあります。

以前ここで取り上げたドイツ潜水艦対アメリカ駆逐艦映画、
「眼下の敵」(The Enemy Below)で、主人公の駆逐艦の艦長
(ロバート・ミッチャム)が
民間のキャプテン出身だったという設定を覚えておられるでしょうか。

あれもこのシステムをわかっていない人が見ると、なぜいきなり民間人が
駆逐艦の艦長に任命されるのかと不思議に思うでしょう。

実はマーチャント・マリーンの将校であった主人公(ミッチャム)が
そのまま駆逐艦長にスライドしてくるという設定はあり得ないことではないのです。

映画ではそのことが当初部下の漠然とした艦長への不信感につながっていたわけですが、
それが払拭されたのは戦争が始まったからでした。

開戦当初は誰しもが実戦など経験したことはないので、いざそのときになって
この艦長が「できるやつ」であるのを目の当たりにした、というわけです。


おそらくあの主人公が非常時に駆逐艦の配置に回されたということイコール、
それだけ民間船での実力が評価されていたという設定であったのでしょう。

ただし、やはりそれはあくまでも映画としての創作で、実際は商船将校が
戦闘艦中の戦闘艦である駆逐艦長になることはありえません。

民間商船将校が軍艦艦長に任命されることがあったとしても、その任務は主に
戦略的運輸であり、将校の資格は無制限のトン数の船の船長でなくてはならなかったのです。

 

アメリカ合衆国マーチャント・マリーンが最初に戦闘に参加した最初の記録は
1775年、イギリスのスクーナーを相手に行った戦いとされています。

南北戦争でも民間船による通商破壊行動が戦略的に行われましたし、
第二次世界大戦では各種作戦行動中に310万トンの商船が失われ、民間船員は
26名に一人の割合で戦死しており、これは他の民間人の組織と比べて
最も高い死傷者率ということになっています。

これは我が国で徴用船の船員が多数失われたのと全く同じ構図です。

アメリカでは733隻の貨物船そして21万5千隻のうち8,651隻の民間船が失われましたが、
日本ではもっと多数にのぼります。

汽船主体;第二次世界大戦で喪失した日本の民間船

 

■「メレディス・ヴィクトリー」とラ・ルー大尉

SSMeredithVictory.jpg

これはアメリカの商船隊の貨物船、SS「メレディス・ヴィクトリー」です。

第二次世界大戦に投入するために建造されましたが、完成したのが
1945年7月24日であったこともあって、実際に配備されたのは
朝鮮戦争でした。

「メレディス・ヴィクトリー(Meredith Victory)」

はなぜかノースカロライナにある小さな女子大学、メレディスカレッジに因んでいます。

1950年、朝鮮戦争が始まったため、彼女はまず、
国防予備船隊としてワシントン州への配備を経て戦地に配備されました。

国防予備船隊(NDRF・National Dfence Reserve Fleet)

は、有事の際、軍事非軍事の如何を問わずアメリカ合衆国の求める
任務に就くために20〜120日以内に起動することができる商船で構成され、
軍艦ばかりから成る「米国海軍予備艦隊」とは全く別物です。

現在国内に三箇所(バージニア、テキサス、カリフォルニア)
非活性化された補助艦船ばかりを停泊する予備船隊の港が存在します。

こんな感じで浮かんでいます。
この予備船隊港のあるのはジェームズ川なので、水の色がこんななんですね。

さて、「メレディス・ヴィクトリー」が朝鮮戦争に投入されたとき、
艦長だったのは

レオナルド・ラ・ルー大尉(Cauptain Leonard LaRue )1914 – 2001

というペンシルバニア海事学校出身の士官でした。

アメリカでは軍人でなくても軍的階級を特例として与えられる場合が多々あります。
カーネル・サンダースはケンタッキー州から送られた称号のみの「名誉大佐」でしたし、
なんならうちのMKも州の資格試験を受けて救急隊員の資格を持っており、
もう少しやればルテナントの階級がもらえると言っていたような気がします。

余談ですが、ピッツバーグ近辺の大学は2月1日に学期が開始されました。
春休みは1日だけ(週末か月曜日にくっつけて三連休にはなる)になるそうです。

学期明けと同時に大学の組織である救急隊の待機任務も始まるようで、
2月第一週の1日はスタンバイルームに泊まり込みだということでした。

ほとんどがオンラインなので、先生の都合なのか、
夜の7時半から始まる授業もあるそうです。

 

ラ・ルー大尉の話に戻ります。

海の男のキャリアを商船から始めたラ・ルーですが、

第二次世界大戦が始まった時、「ムルマン・スクラン」という
連合軍の護送船団に乗って、ノルウェーとソ連のムルマンスクを往復していました。

危険な北極海、頻繁な悪天候、そして通商破壊活動を行うドイツ潜水艦。
これらはすべての航海を神経と忍耐力を要する恐ろしい試練に変えました。

1950年、朝鮮戦争が始まると、ラルー大尉は再び危険な海域で奉仕することになります。

戦略物資を供給するために何百もの商船が動員され、
食料や弾丸からバズーカやブルドーザー、地球半周離れた場所に必要なものを届けるため、
商船の乗組員は24時間体制のサポートを行いました。

 

朝鮮戦争中の韓国の港(パブリックドメイン)で軍隊への郵便物を持った商船。 朝鮮戦争中、韓国の港での商船

仁川上陸作戦始め朝鮮半島東海岸における多数の任務に参加した後、
ラルー大尉は北朝鮮の興南での勤務を命じられました。

この任務で彼の船「ヴィクトリー」級の貨物船、SS「メレディス・ヴィクトリー」は、
歴史の流れを変える軍事的および人道的作戦に参加することになります。

当時興南港では、朝鮮戦争の最大の水陸両用撤退およ米国史上最大級の戦闘条件下で
民間人の軍事的避難が行われていました。

これを受けて12月9日から24日までの5日間で、100隻近くの船に、
10万5千人以上の軍隊と装備、車両、物資を釜山に向けて輸送する任務が始まりました。

さらに、港に閉じ込められ、迫りくる中国軍の殺害の危険にさらされていた
10万人の北朝鮮の民間人も救助されることになりました。

■ 神の手

当時国連は朝鮮半島を放棄しようとしていました。
(まあ今も国連なんてなんの役にも立っていませんが、その話はともかく)

このとき、ラルー大尉は興南で、人員を載せることを全く想定せずに造られた
「メレディス・ヴィクトリー」に、船長判断で1万4千人の難民を積み込みました。

メレディスビクトリー1950に乗った難民

「メレディス・ヴィクトリー」外甲板上の難民、1950年12月。

このときの興南から釜山の南の島、巨済島への「メレディス・ヴィクトリー」航海は、
「人類史上最大(人数)の救助活動」として記憶する関係者もいます。

このとき「メレディス」に乗り込んだ難民は3日間腰を下ろすこともできず、
食料はもちろんのこと水、トイレもないという状態でしたが、
12月25日のクリスマスにラルー船長が巨済に船を着岸させ投錨を命じたとき、
1万4千人全員が全員が生きていただけでなく、船上で5件の出産があり、
しかも赤子は全員無事で生まれたのでした。

ラ・ルーは後にこのときのことを

「神の手がわたしの船の舵を取っていた」

と語っています。

 第二次世界大戦の海軍のベテランで「メレディス・ヴィクトリー」のオフィサーだった
ボブ・ラニーという人物はのちにこの時のことに絡めてこう言いました。

「戦争は爆弾とか悪人どもという面だけを持つのではありません。
しばしばそれは国家の完全性と国民の尊厳を維持することと同義です。
わたしたち乗組員はあのときそれをやったと思っています」

 

■ベトナム戦争から現在まで

ベトナム戦争においては、その継戦期間を通じて95%の戦争物資が
アメリカ商船部隊のサポートによって輸送されることになりました。

1966年には商船がアメリカ史上最も長距離となる
ボストンーサイゴン間、1万2千マイルの物資船団輸送を行いました。


時代は降り、湾岸戦争における「砂漠の嵐作戦」においては、
予備商船部隊の4分の3がアクティブとなりました。

戦争と戦争の間、「ビルドアップ」準備の期間には、何千もの民間船員が
かつてのノルマンジー上陸作戦のときの4倍に相当する、
歴史上最大の軍事海上輸送のひとつを達成しています。

こんにち、7,000名ものライセンスを持った米海兵隊が、
軍事海上輸送司令部(MSC)に取り組んでおり、国防予備船隊として、
防衛任務をいつでも遂行できるように次の活性化の準備を行っているのです。

ここSSMMには商船部隊のオフィサーになった人のセーラー服が寄贈されています。

 

ラ・ルー大尉のその後についてもお話ししておきましょう。

「メレディス・ヴィクトリー」の救出劇から3年後の1954年、

レオナルド・ラ・ルーはベネディクト会の僧侶に帰依し、
「ブラザー・マリヌス」という洗礼名を受け、残りの人生を聖職者として過ごしました。

米国商船アカデミーの卒業式に出席した当時の国防長官のジェームズ・マティス()は、
スピーチでラ・ルー大尉を取り上げています。

「1950年の極寒の12月。
敵の兵士が炎の中で都市に迫り、港が採掘され、何千人もの難民が
逃げようと必死になって港に群がりました。
ラ・ルー大尉は戦争の嵐の中でSSメ「レディス・ヴィクトリー」を着岸し、
乗組員とともに14,000人の難民を救出し、彼らを乗船させました。

船が安全な停泊地に入る前に、5人の赤ちゃんが生まれ、
14,000人以上の難民のうちたった1人の命も失われることはありませんでした。

彼こそは最善のために全てを賭けることを躊躇わないリーダーだったのです。

Semper fidelis!」

 

 

続く。


マットレス・ファクトリー(という名前の美術館)

2021-02-07 | アメリカ

今日は息抜きに現代アートをご紹介します。

ピッツバーグにはカーネギーサイエンスセンターという最大の自然博物館と
そこにへ移設された美術館、アンディ・ウォーホル美術館がありますが、
もう一つ挙げるならば現代美術館である、

「マットレス・ファクトリー」Mattress Factory

が有名です。

例によってMKがネットで見つけてきた情報をもとに

「マットレス・ファクトリー行ってみない?」

と言い出した時には、なんのためにマットレス工場を見学?と思ったものですが、
この奇を衒ったネーミングセンスからして現代美術っぽいミュージアム、
創立者であるアーティストのバーバラ・ルデロウスキー(2018年88歳で死去)が
マットレス工場だった6階建ての建物をそのままアートセンターにしたものです。


わたしがピッツバーグという街を「鉄鋼の街」というイメージで捉えていたように、
昔は鉄鋼業で栄えたこの街も、1970年代には人口が流出して閑散としていました。

そこにルデロウスキーは最初のインスタレーション型美術館をオープンしました。

インスタレーションアートや、ビデオやパフォーマンスアートなどを公開し、
毎年75,000人以上の訪問者が訪れます。

地域、国内、および国際的なアーティスト、 650人以上よる作品が紹介されており、
その多くは美術館のアーティストインレジデンシープログラムで制作されています。

そして、ノースサイド地域の活性化の主要な触媒となっています。

ここはもともと「スターンズ&フォスター」というマットレス会社でした。
同社は今「Sealey」と名前を変えて世界展開しており、日本と取引もあるそうです。

煉瓦造りの建物の部分がほとんど残されています。

工場の建物を撤去した跡だと思ったら、アーティストの造園によるものでした。
これを「造園」とはこれいかに、といいたくなるいい加減さに思えるのは
わたしが日本庭園というもののある国の人だからでしょうか。

これはウィニフレッド・ルッツの「永続的なコレクション」です 。

かつてはイタロ-フランス・マカロニカンパニーというのがあったそうで、
基礎のように見えるのは火事で破壊された建物の跡なのだとか。

建物は6階建てです。
わたしが今住んでいるノースショアにあり、川の向こうに
ピッツバーグ大学の「学びの塔」が見えています。

(あ、言い忘れましたが、この写真はもちろん夏です。
今のピッツバーグはマイナス9〜1という寒さで、毎日雪が降り、
車は雪を溶かすために撒く薬がこびりついて大変です)

さて、それでは見せていただきましょう、と足を踏み入れた部屋。
これは作品ではなく、これから作品を「インスタレーション」する準備だと思います。
多分ですが。

常設展示のひとつ。

RepetitiveVision 草間彌生

Repetitiveというのは「反復性」「連続性のある」ということですので、
連続性のあるビジョン、ということでいいかと思います。

草間さんは同じタイトルでいくつも作品を作っているようですね。
草間彌生といえばドット、ドットといえば草間彌生なので、
どれもトライポフォビア(集合体恐怖症)にはちょっと、みたいな傾向があります。

ドットは同じ大きさのシールを貼り付けているようですね。
天井まで鏡張りの部屋に、東洋人風風貌のマネキンが・・四体かな?

一応ここの解説を翻訳しておきます。

「草間彌生の生涯の作品は、点、網目模様、強迫的に繰り返される形、
そう言ったものを利用した絵画、彫刻、インスタレーション、出来事が特徴です。

彼女は1958年にニューヨークに移住する前に画家としてのキャリアを開始し、
日本で数多くのグループショーや個展に出品しました。
ニューヨークのアバンギャルドな活動メンバーの一人として、彼女は
数多くの有名な『ハプニング』を上演し、ドットを描きました。

70年代、彼女は精神病院に入院したため、アシスタントがスタジオを維持していました。
彼女の生涯にわたる精神病と「正常」との戦いは、その仕事に注ぎ込まれ、
全てを消費しました。

擬人化された形やパターンを繰り返すイメージは彼女だけが見ることができる
幻想的なビジョンを再現します。

彼女の芸術仲間であるヨーゼフ・ボイスやルイーズ・ブルジョワのように、
彼女は生涯追求している特異な個人的なビジョンから超越的な作品を生み出しました。

彼女の作品は全て、花の壁紙の部屋の、花模様のテーブルクロスで覆われたテーブルに座り、
そして彼女の手も鼻で覆われているというビジョンから来ています。

彼女の作品の中で、鑑賞者は鏡に映り、有機的な形に遮られ、
そしてインスタレーションは彼ら自身をも壁のなかに吸い込むのです」

というわけでせっかくなのでわたしも「インスタレーションに吸い込まれて」みました。

Greer Lankton(1958ー1996)

It's about ME, Not You, 2008

「これはわたしのこと、あなたじゃない」みたいな?
MEが大文字なのは何かを意味しているのでしょう。

ここに登場する人形は彼女のアイドルと彼女自身だそうで、
もちろんそれらは彼女自身が製作したものになります。

ランクトンは生まれた時は男だったそうですが、その後
芸術においてもその人生においてもトランスジェンダーとして生きました。

この写真に写っているポートレートは展示にもあり、
彼女自身であることがわかります。

作品は38歳で彼女が亡くなる6週間前に公開されたものですが、
彼女が生涯において製作した人形が全て住んでいるのだとか。

性別とセクシュアリティの規範、そして大衆文化と消費主義のイメージ。
彼女はこれらを雄弁に探求し、そして疑問を呈しています。

彼女は生涯を通じて薬物中毒と摂食障害に悩まされており、
死んだのはこの「最後の仕事」のあと大量に薬物を取ったのが原因だったそうです。

 

James Turrel  「Catso Red」

部屋の角に四角いランプが取り付けてある作品。
この人の名前でアヒったら、こういうものばかり製作している人のようです。

https://duckduckgo.com/?q=James+turrel+mattress+factory&t=osx&pn=1&iax=images&iar=images&ia=images

タイトルは「赤」ですが、肉眼で見ると(上)ランプが赤いのか、
それとも壁を赤く塗っているだけなのかは判別できません。

しかし、同じ写真の露光量を落とすと、このようになり、
つまり壁ではなくライトそのものが赤いということがわかりました。

でっていう話ですが。

最初はマットレス工場跡だけではじまったこの美術館ですが、
インスタレーションという「現場に作品を直接設置する」という方式は
もう少し広がりを必要としたため、別館ができました。

ここは、いかにもアメリカのありがちな古い民家を買い取ったようです。

ここにインスタレーションされている作品は、

A Second Home 2016

Dennis Maher
 
 

いかにも住人がセカンドホームで行っている作業中のようなデスクとか、
誰もが無駄に溜め込んでいる具にもつかない思い出の品とか、
まあ言ってみれば人生において必須ではない、生活の澱のような役に立たないものとか、
とにかく「誰かの生きている形跡」みたいなシーンが展開していました。

実際に民家だったところに作品を据え付けているので、
こんなこともできます。
壁に普通にある本棚の後ろの壁に穴が開いていて外界とつながっているとか。

意味や目的というものを持たせることを全く放棄したらしい模型とか。
青いガムテープは一体何なんだ。

元の民家の仕様も含めて作品にしてしまっています。

暖炉の前の椅子には・・・もう誰も座ることはできません。

トランクの中にあるのは「元椅子だったもの」のようです。

この家の住人は、かつて薪を使っていた暖炉を塗りつぶし、そこに
ガスストーブを設置するためにガスの配管を行ったらしいのがわかります。

アメリカの家は普通に100年越えが多いのですが(とくにここは地震がないから)
今でも薪の暖炉を使っているところは滅多にないと思われます。

わたしがニューヨークで借りた家も各部屋に一つづつ暖炉がありましたが、
暖房はエアコンで、今では単なる飾り棚と化していました。
薪の暖炉とエアコンの間には主流がガスストーブだったことがあるのかもしれません。

部屋というか家そのものに「インスタレーション」が施されています。
レンガの壁に丸く綺麗な穴が開けられていて、それを覗いてみると・・・

向こうに見えるのはこれ。

Rolf Julius 「Red」

あまり赤くないのですが、他の写真を検索すると赤です。
このあと赤を塗ったのかもしれません。

ただぶら下がっているのではなく、これ自体が「スピーカー」になっていて、
糸が微かに振動しているのまで含めて作品のようです。

展示には常設展示とテンポラリーがあり、これは
当時のテンポラリー展示だと思われます。

アーティストにとって、空間を与えられ、そこで
好きなようにあなたの作品を展開してください、というここの方針は
非常に想像力をかき立てられることなのだろうと思いました。

建物の外側の庭も、造園作家の「作品」ということです。
思いっきり人工的で良くも悪くも「独りよがり」なアートを散々みて
外に出たとき、このような馥郁たる香りを放つ花の咲く一角が展開されていると、
正直なところほっとするのを感じます。

それもこれも包括して人間の感性を刺激する装置を意図して
この美術館は計算されているのかなと思ったり。

庭の壁には文字を入れた陶器のパネルが並んでいるコーナーあり。

世界中で人類が使用している文字のいろいろ。

日本の平仮名ももちろんあります。

「ま」とか「ゆ」とか、やはり造形的に面白いものが選ばれているようです。

この「ローマン」って🙂にしか見えないんですがこれは。

ガラスの内側にこれがあって、どうも作品に見えないけどなんだろう、と言いながら
立ち去ったのですが、あとで(ちうか今)、この機器は、
ロルフ・ジュリウスという人の「作品」であることが判明しました。

「Music For Garden」

つまり、このときはやっていませんでしたが、庭に流れる音楽、
その空間を「作品」として創造したということらしいです。

My work is as high as the building, and fills the entire lot adjacent to it.
In this way, I have created rooms.
As the visitor moves from one room to another--either vertically or horizontally--
the experience of the work changes.

私の仕事は建物と同じくらい高く、それに隣接する区画全体を満たします。
 このようにして、私は「部屋」を作りました。
訪問者がある部屋から別の部屋に(垂直または水平に)移動すると、
それが変化するのを体験できます。

この人がこうやって機器を操作している時だけ現れる作品てことでOK?

t

美術館にはチケットなしでも外から入場できるカフェがあります。
暑かったこの日、展示場全体を歩いたあと、ここで一息つきました。

しばらく流行病関係で閉館していたマットレスファクトリーですが、
2月10日に再オープンが実現するようです。

今住んでいるところはアンディ・ウォーホル美術館のワンブロック隣ですが、
ここはカフェ以外はプロトコルを定めてすでに再開している様子。

カーネギー博物館もオープンしていますが、ここもカフェはまだ
本当に美味しくて大好きだったので残念でたまりません。

次に来る時には、平常に戻っていることを心から祈るばかりです。

 

 


大日本帝国の池と留魂碑〜江田島旧海軍兵学校

2021-02-05 | 海軍

「赤城」の慰霊碑のあと、大講堂の来客用入り口の方向に案内されました。

「足元に気をつけてください」

注意を受けるまでもなく、道でもなんでもない坂の斜面を
所々にでている岩を避けながら歩いていくのですが、
うっかりしていると砂で滑りそうです。

「ちょっと面白いものをお見せしましょう」

連れてきていただいたのは、大講堂の画面上に見えている池の前でした。

「あれ、おわかりですか。日本列島があります」

いわれてみれば日本列島に見える形が海に見立てた池に確認できます。

「四国がないような・・・・」

「四国ありますよ」

あー、あったあった。

小さくて草が生えていないので、見つけられませんでした。
いつこんなものができたのかはわかりませんが、
経年劣化でセメントの日本列島のあちこちに亀裂が入っています。

縁起を担ぐ向きには実に不穏な状態に見えてしまったりするでしょう(笑)

「日本列島の上にあるのが朝鮮半島なんですよ」

「おお、確かにあります」

「当時あそこは日本でしたから」

なるほど。

「韓国軍から見学がきてもこれは見せられません」

歴史的な事実だったとはいえ、お互い気まずいことになるのは必至(笑)

 

さらに、北海道のうえをみていただくと、1905年の
ポーツマス条約で割譲された樺太らしきものが見えます。

池の奥側にも何か陸地をかたどった造形物があります。

「あそこは何を意味しているのでしょう」

「北方領土じゃないでしょうか」

全く島に見えないんですが、この池のテーマから鑑みるに
日本の領土であることは間違い無いでしょう。

しかし、国後島などの現在ロシアとの間で問題となっている
島にしてはちょっと離れすぎてやしませんかね。

そこで考えたのですが、この池が建造された当時、
北方は北方でも、

占守島

を意味しているのではないでしょうか。
え?物理的に全く形が似ておらんぞ、って?

 

占守島は1875年(明治8年)以降、樺太と交換されたので
日本領として北洋漁業の操業が行われ、陸軍要塞もありましたが、
昭和20年8月18日、ポツダム宣言受諾の三日後に、
ソ連軍が侵攻してきて、日本軍との間に

「占守島の戦い」

といわれる激戦が繰り広げられたところです。

その後ソ連が一方的に自国領土編入を行い、
実効支配されたままになっているのはご存知の通り。

 

この池、どこから水が流れ込んでくるのかわかりませんが、
もし池の水を抜いたらいろいろと年代物のゴミが出てきそう。

夏場はこの池のせいで蚊が湧いたりしないのかな、
と余計な心配をしてしまいました。

戦後、連合国軍がここに進駐してきたときも、
当時の大日本帝国の領土を表している池だと彼らが気付いたら、
おそらく1日で壊してしまっていたと思われるのですが、
今日まで残されているそのわけは・・・・・・。

もともと素人仕事というか、地図そのものがあまり正確でないので、
地図を現したものだと
連合軍の誰も気づかなかったんじゃないか、
とわたしは思ったのですが、いかがなもんでしょう。

 

 


そのあと旧八方園神社の斜面下の道の案内がありました。

ここに「留魂碑」という石碑があることは、校内の移動の際
マイクロバスが前を通ることが何度もあり、知っていました。

歩いてその前を通るのは昨日に続き二度目で、
近くで碑を見たのは初めてです。

間近で碑文の写真を撮ることができましたので、
その文字も書き起こしておきます。

留魂碑之記

われら海軍兵学校四十一期会員は 

明治四十三年九月十二日入校

大正二年十二月十九日卒業

同三年十二月任官

第一次世界大戦勃発直後 我が国海上防衛の第一線に立てり

大正五年はじめて級友の死に際会せる時 

われわれは生まれた時と所を異にするも 

倶に志を同じくして江田島に集まり 

互いに死生を誓い 生涯同じ道を進むものなり

死後は 魂の故里江田島に集まらんとの議起り 

之を決定して大正八年十月五日古鷹山麓教法寺の境内にこの留魂碑を建立せり

題字はわれらの敬慕する校長山下源太郎大将の筆になるものなり

爾来われわれは時に留魂碑の下に相集まり 

戦没級友の霊を慰め同期の誓を固めきたれり

昭和四十七年留魂碑の永久保存のため之を母校の一隅に移して

海上自衛隊第一術科学校に寄贈し その管理を託すことになりぬ

同年十月二十五日移転移管を完了せり

先人いわく死生命あり忠魂不滅と

 

碑文中、

「大正5年の初めての級友の死」

とありますが、その少し前の第一次世界大戦で戦死者を出さなかった
海兵41期生徒たちが、初めてクラスメートの死に直面したのは
戦争ではなく、戦艦「金剛」艦内で事故が起きたときでした。

この事故が起こった当時、41期は全員が中尉になっていました。
海上自衛隊では卒業と同時に士官任官しますが、当時は卒業後
士官候補生として遠洋実習航海を行い、卒業1年後任官になりました。

この碑文によると、彼らは2年後、中尉に昇進していたことになりますが、
自衛隊でもそんなものなのでしょうか。

 

さて、「金剛」の事故で負傷したこの中尉は、事故後、
定係港である横須賀基地の海軍病院に運ばれましたが、亡くなりました。

海軍兵学校の「クラス」の繋がりはどの期も大変濃かったといいますが、
この41期は一入だったようで、その後彼らは級友の死をきっかけに、

死後は魂の郷里江田島に集まろう」

という思いを込めて、事故の三年後にあたる大正8年、
古鷹山山麓に海軍兵学校設置のために移転していた
教法寺境内にこの「留魂碑」を建立したのでした。

海軍兵学校41期には中将になった草鹿龍之介、保科善四郎
硫黄島で戦死し「ルーズベルトに与うる書」を遺した市丸利之助
沖縄決戦で「沖縄県民かく戦えり」の打電を残して自決した太田實
そしてキスカ作戦で奇跡の日本軍撤退を指揮した木村昌福がいます。

彼らのうち誰一人として、卒業時にクラスヘッドだったとか、
恩賜の短剣組だったという優等生はいないという意味では
(草鹿14位、保科28、市丸46、太田64、木村後ろから12位)
なかなか面白い?クラスでもあります。

この「留魂碑」は、碑文にもある通り、昭和47年に
永久保存のため本校に移動保存されました。
(そのため碑文は現代仮名遣いとなっています。)

その当時41期生はほとんどが80歳となっており、
上記で生存していたのは保科だけ、その保科も
平成3年に100歳の長寿で亡くなりました。

ところでこの「留魂碑」揮毫を行ったのは、彼らが在校時
校長であった山下源太郎中将です。

山下源太郎というと、戦前の人ならば誰でも知っていたという
センセーショナルな事件で、40過ぎて授かった息子を失っています。

それは、佐世保鎮守府長官のときに、当時10歳の四男が、
精神不安定のため待命になっていた海軍大尉飯島弘之に
計画的に刺殺されるという凄惨な事件でした。

この揮毫を行ったのはその4年後で、山下が佐世保の事件跡地を買い取り、
そこに愛息の慰霊碑を建てるなどしていた(今でもあるらしい)頃ですが、

察するにまだその心の傷も癒えていなかったことでしょう。

 

阿川弘之著『米内光政』の作中にはその事件が登場します。

山下の三男、佐世保市内八幡小学校の三年生だった四郎は、
二月九日の午後、授業を終ってしばらくキャッチボールをして遊んでいたあと、
級友たちといっしょに校門を出た。

そこへ、緋の着物と銘仙の羽織を着た若い男が近寄って来て、
「長官の坊ちゃんはどれか」と子供らに聞き、
「貴様が山下だな」
「うん。僕、山下だよ」
答えて八幡谷の坂を下って行こうとする四郎に、いきなりつかみかかった。

泣き叫ぶのを坂道の途中にねじ伏せ、隠していた海軍ナイフで
右の耳下から左耳下へ、頸部を掻き切った。
先生や近所の大人や巡査がかけつけた時、子供はすでに絶命していた。

市役所の方へ逃げて行く犯人が、間もなく逮捕された。

「なぜあんなことをやったか」
と聞かれて、「僕を侮辱するからだ」と男は答えた。

子供の遺体は、取り敢えず担架にのせて海兵団の医務室に運び込まれた。
急報を聞いて来た山下夫人の徳子は、ランドセルを背負ったまま
血に染まって死んでいる息子を見ると、
「四郎ちゃん」と言ったきり、気を失った。

これだけでも大事件だったが、犯人が飯島弘之という
海軍大尉だとわかって、騒ぎが大きくなる。
いろんな噂が立った。

飯島弘之は今でいう統合失調症で、自分の待命とは
何の関係もない佐世保鎮守府長官の、しかも息子を、下調べまでして
計画的に殺害したのは、全て被害妄想からきた行動だと言われているようです。

 

さてその山下の書いた「留魂碑」の文字なのですが、どういう理由なのか、
ノの字の払いがわざわざ消されています。

揮毫者の何らかの意図があっての省略だとしか思えないのですが、
山下源太郎がかつての教え子の早すぎる死と、愛息子の死を
重ね合わせた心情に意味があるのではないかというのは考え過ぎでしょうか。

一般見学のスタートとなる江田島クラブを出ると、
向かいの校舎の屋上角にこのような拡声機があるのを
ご覧になったことがあるかたも多いと思います。

わたしはこれをずっと海軍兵学校時代からある校内放送の
スピーカーだと思っていたのですが、このとき伺った説明によると、
これは戦後になって設置されたものなのだそうですが、
当時江田島には消防署がなく、火事になったときには
このサイレンで近隣に知らせるということをしていたのだそうです。

進駐軍が付けたのかどうかは聞き忘れましたが、
ここには進駐軍時代も、海上自衛隊になっても
消火用の車があったからだそうですが、道を少し行ったところに
消防署ができてからは使われなくなりました。

理化学講堂は現在武道具などを保管する物置として使われていました。

 

旧海軍兵学校跡見学・おわり


八方園と砲艦「赤城」慰霊碑:おまけ 軍神廣瀬の兄〜江田島旧海軍兵学校跡

2021-02-03 | 海軍

もういつのことだったかというくらい昔の話になりますが、
江田島の旧海軍兵学校跡を見学した時のことをお話しします。

このときの解説とご案内は海上自衛隊幹部の方にしていただきました。

まずいきなり例の「号令を聞いて育ったのでまっすぐ育った松」について

「ここは内海なので海からの強風を受けることがなく、
そのせいで松もまっすぐ育ったといわれていますね」

と科学的な「ネタバラシ」がされるというある意味ディープな始まりとなりました。

この時の話によると、兵学校時代からの松は年々寿命でその数を減らしており、
ついこの間も一本切ったということでした。

この写真に写っている桜も昔からのもので、すでにもう寿命が来かけているため、
その後ろに代替わりの桜が植えられたそうです。

次に赤煉瓦の横に移動しました。

赤煉瓦の横にあるこの建物、実はかつては特別な・・・・
そう、宮様専用の「おとうじょ」であったとか。

写真を撮り忘れましたが、この右側にある建物がそれ以外の、
つまりシモジモの者たちが使える厠所だったそうです。

どちらも作りが堅牢なので現在危険物倉庫として使っているんだそうですが、
たかがトイレなのにどんだけ丈夫に作っていたんだよっていう。

 

 

さて、次に見学させていただいたのは「八方園」です。

以前卒業式に参列した時、赤煉瓦から出ていく時左手に小高い丘があり、
そこに上っていく階段があるのに気がついたので、近くの自衛官に

「あの上に何があるんですか」

と聞いたら誰も知らなかったということがありましたが、
実はそこがあの八方園だったのです。

 

手すりのないおそらく昔のままの階段を上っていくと、
そこには思ったよりずっと開けた平地が広がっていました。

平地は長方形に切り開かれており、その一端には
いわゆる八方園、
方位版があります。

八方園にはご覧のように、国内と海外、
いろんな土地の方位を表す黒曜石の方位盤があります。

「八方園をどうやって知ったのですか」

案内の幹部に質問されました。
とっさにわたしは何が最初だったか思いを巡らせました。

兵学校の入学生が、最初にここに連れて行かれ、方位盤で自分の故郷の報告に
頭を下げることと、何より大切な皇居への遥拝を行うことを教えられたついでに、
上級生がひょいと腕時計を外して(当時の腕時計は超高級品)方位盤の横に置き、

「見ておれ」

といってその場を去ると、時計はその日のうちに持ち主のもとに戻り、

「いいか、兵学校生徒は決して不正やごまかしはしないのだ」

と誇らしげにいったという「兵学校物語」か。

それとも、映画「あゝ海軍」で、東北出身の主人公が母危篤の報を受けるも
幹事の勧めも断って兵学校に残ることを選び、ここに駆けつけて
故郷の方向に一心に手を合わせていたあのシーンだったか。

あるいは、戦後の幹部候補生がここにやってくると、少なくない者が
押し戻されるような「拒否の気」を感じるという(それはつまり
兵学校卒の”先達の霊”が海自幹部を海軍の後継者として認めていないという話)
ことを書いたエッセイだったか。


しかし、この時受けた説明によると、八方園は戦前のものとは同じではないそうです。

そう思って見ると、土台はコンクリート製であり、
明らかにデザインも戦前のものには見えません。

長方形の広場の方位盤の反対側には、碑が立っています。

ここには兵学校時代天照御大神を祀った神社がありました。
戦後進駐軍が来てから取り壊されてしまったのですが、
その後このような石碑がその跡地に建てられました。

この長細い敷地のほとんどはかつて神社の参道となっており、
この碑の場所に御神体があり、その手前に拝殿があり、と
本格的な神社であったようです。

現在はただただ長細い空き地となっている神社跡地ですが、
当時の写真などを見ると、一番奥に御神体を納めた本殿の手前に拝殿、
さらにその20メートルくらい手前に鳥居もあったことがわかります。

兵学校 八方園神社

 


ここにいるとき、八方園全体の地形が江田島全体からみても

小山のように小高くなっていることに話が及びました。

「昔は周りが海で、ここは島だった可能性もあります」

そういえば昔、兵学校のグラウンド部分は、かつての海を
海軍によって埋め立てられたものだと聞いたことがあります。

このとき、兵学校がここに建設する前の江田島の写真と地図を見せていただいたのですが、
驚いたことに、八方園以外は湿地のようになっているではありませんか。

なんでもこのとき埋め立てられた面積は7万4千坪=約24万4千㎡、
東京ドームの敷地面積4万7千㎡の5倍余であったといいます。

 

「本当に海だったんですね・・・・」

写真をつぶさに見ていくと、そんな昔の写真に、
江田島に現在存在する建築物がすでに写っています。

「水交館はこの頃からありました」

そして、現在の岸壁のところには兵学校生徒の練習船
「東京丸」が停泊しているのが写っています。

東京丸

このリンク先にもあるように、東京丸は海軍兵学校が築地から移転後、
5年もの間、赤煉瓦の完成まで兵学校生徒の宿舎となっていました。

おそらくわたしが見せてもらった写真は、ごく初期の、
まだ整地もろくに行われていない状態で撮られたものでしょう。

「坂の上の雲ではここが撮影に使われたということですが、
実際には秋山真之も広瀬武夫も、赤煉瓦の校舎完成前に卒業したそうですね」

わたしがいうと、

「寝床はハンモックでしたから、そのときの生徒も
ずっと船の中で兵学校の生活を送るのは
大変だったと思います」


どこかにこの写真がないか検索してみたら、赤煉瓦生徒館の改修について
詳しく述べているサイトの中におなじものがありました。

海上自衛隊幹部候補生学校庁舎
(海軍兵学校第2生徒館・
東生徒館
)大改修物語

これにもいかに練習船「東京丸」での学生生活が大変だったか書かれています。

ところであれ?

海軍兵学校がここにできることを決めた時、海軍は、というか国は、
この地域から神社とか民家に住む人を立ち退かせ、そのときに立ち退いた
一般人の子孫を、先の水害の時に第一術科学校が災害出動してご恩返し云々、
という話があったと思うのですが、ほとんどが海だったというのに、
「立ち退かせた」という人たちは当初いったいどこに住んでいたんでしょうか。

 

 

続いては、上ってきたのと反対側にある階段 を降りていきます。

昔かつてのままに木々の深く緑生茂る小山の斜面を降りたところに、
こんどはこんなものが見えてきます。

「軍艦赤城戦死者之碑」

「赤城」で検索すると航空母艦の情報しかトップに出てきませんが、
この「赤城」は、

「摩耶型砲艦」

の4番艦で、1890年に竣工した「最初の赤城」です。
砲艦というのは英語でいうところのガンボートで、沿岸・河川、
内水で活動する戦闘艦艇のうち、比較的大きなものがこう呼ばれました。

「赤城」は典型的な汎用水上艦で、日清戦争で活躍したことで有名です。

その活躍とは、軍令部長樺山資紀らが座乗していた輸送船「西京丸」
(民間船だったが徴用され巡洋艦代用に改造されて戦線投入された)

とともに清国海軍の艦隊と遭遇した「赤城」は、「遼遠」「定遠」「鎮遠」など
6隻の清国艦の集中砲火から旗艦「西京丸」を守り抜いたということです。

画面右上が清国海軍と戦う「赤城」と艦長坂元八郎太大尉
このあと坂元艦長は砲弾を受けて戦死し、少佐に特進しました。

赤城の奮戦(坂少佐)【明治海軍軍歌】

当時はこんな歌もあったようです。
上の錦絵も、この歌詞も「坂元」を「坂本少佐」と間違えております。
軍神なのに・・・・。

 

「赤城」はその後日露戦争における旅順攻略作戦などにも参加し、
民間に払い下げられて「赤城丸」となりました。

現存するこの「赤城戦死者の碑」というのは、「赤城」が軍艦として
戦闘に参加した際、戦死した英霊を慰めるという意図で建立されました。

「赤城」で戦死したのはもちろん坂元少佐だけではなかったのです。

ここからはわたしの想像ですが「赤城」が民間に払い下げられ、
造船会社で武器を全て取り除いたとき、不要になった主砲を一本保存して、
慰霊碑を作ろうという話が持ち上がったのではないでしょうか。

これは、この当時、まだ坂元少佐の戦死を始め、日清日露戦争で活躍した
「赤城」の記憶が人々の中に鮮明だったということだろうと思われます。

砲身をそのまま碑にするにあたり、書を浮き彫りに溶接するなど、
日本には明治時代にすでにこんな技術があったんですね。

砲の、というか碑の裏側に回ってみると、日付はなく、

琴石齋西道仙

という人が揮毫したということしか書かれておりません。

この名前、いったいどこで切れるのかさえわかりにくいですが、
本名、

「西道仙」(にし どうせん)1836−1913

琴石齋というのは雅号というかペンネームのようです。

西道仙は明治時代のジャーナリスト・政治家・教育家・医者で、
wikiによると晩年は「あちこちで揮毫しまくっていた」そうです。

たしかにこの達筆ですから、書家という肩書きがあってもよさそうな感じです。

この碑が建立されたのは、これらの情報を総合する限り、
「赤城」が民間に払い下げられた1911年から西道仙が亡くなる1913年まで、
この2年の間のできごとであることだけは確実です。

 

ところで超余談ですが、「赤城」について調べていて、
旅順攻略作戦のときに「赤城」が衝突事件を起こしていたことを知りました。

原因は濃霧で視界が悪かったからということですが、このとき沈んでしまった
砲艦「大島」の当時の艦長は、廣瀬勝比古中佐と言います。

廣瀬中佐には海軍軍人のお兄さんがいたんですね。
廣瀬ファンで伝記も読んだという人以外知らなそうですが。

このとき「大島」艦長だったのが海軍兵学校10期の広瀬勝比古。

この「大島」沈没の事故が起こったのは、実は驚くなかれ日露戦争中の
1904(明治37)年5月18日でした。

6歳年下の弟の武夫がその2ヶ月前、同じ旅順港で閉塞作戦参加中、
沈みゆく船内に部下を探しに行って戻ってきた時爆死し、
その部下思いの指揮官ぶりから、国を挙げてその死は称賛され軍神になったばかりです。

このとき兄廣瀬は、幸い?沈没事故で命を落とすことにはなりませんでした。

わたしはここでふと考えてしまったのです。

あの軍神広瀬の海軍軍人の兄という人が無名な理由は、
この事故でうっかり?助かってしまったからではないのかと。

どんなネット媒体を当たっても一切描かれていないのですが、
このときの事故で「大島」の130名もの乗員は全員救助されたのでしょうか。

ここからはわたしの予想です。

このとき「大島」には助からなかった乗員、つまり廣瀬の部下がいたと思われます。
このことがニュースになれば、艦長だった広瀬兄がその責任上、
わずか2ヶ月前、部下の命を救うために戦死した弟と比較されることは
免れなかったでしょう。

そしてそのことは「軍神広瀬の美談」に味噌をつけるとして、
海軍内の暗黙の了解のうちに「大島」の艦長が広瀬兄だったことは
秘匿されたのではなかったでしょうか。

それどころか、海軍は衝突の末「大島」が沈没したことそのものを隠し、
事件から1年も経ってからようやく喪失を公表しています。

 

海軍軍人としての広瀬勝比古はその後も海軍に奉職し、
艦長職を歴任しながら40代で予備役に入り、最終階級は少将でした。

まあ、普通といえば普通でそこそこの経歴ですが、あの軍神の兄にしては
海軍からも世間からも無視されすぎではないでしょうか。

そしてその理由はと考えると、わたしにはやはり大島事件のせいとしか考えられないのです。




 

旧海軍兵学校跡見学、もう1日続きます。

 

 


◯将クレア・リー・シェンノート〜陸軍航空のパイオニア

2021-02-01 | 歴史

スミソニアン博物館の「陸軍航空のパイオニア」シリーズ、
最後の人物は、

クレア・リー・シェンノート
Clare Lee Chennalt 1893-1958

でした。

どうもわたしはこの人物、色々と個人的に好きになれないのですが(笑)
アメリカの航空界にとってパイオニアであることは間違いなさそうなので、
個人的な好悪はできるだけ控えつつ本稿を無事終了させようと思います。

まず、スミソニアンの紹介に描かれている絵の印象は、頑固で融通が効かず、
その分自他ともに規律に厳しそうな人物に見えます。

愛称で呼ばれるような人物ではなかったためAKAはありませんが、
ニックネームは唯一、

”Old Leatherface" オールドレザーフェイス

だったそうで、確かに細かいシワが無数に刻まれた愛想のない顔は、
使い込んだ皮っぽい、水分の全くなさそうな質感です。

 

名前の下にはこうあります。

戦闘機戦術のパイオニア

蒋介石の飛行隊のアドバイザー

後者は言わずと知れたフライングタイガースとして知られる志願飛行隊です。
前者の戦闘機戦術というのは、その指揮官として日本軍と戦うために
戦術を開発したほぼ最初の人物だったということかと思われます。

 

■ 曲技飛行チーム

以前彼の名前、「Chennault」がフランス系なので、正式な読み方は
「シェンノー」だったのではないか、と書いたことがあります。
その時にはちゃんと英語の文献をあたらなかったので想像に止まりましたが、
今回それは正しかったことがわかりました。

「クレア・リー」というファースト&ミドルネームが表す通り、
彼はフランス系アメリカ人で、名前の読み方も正しくは「シェンノー」ですが、
郷に入れば郷に従って、両親はアメリカ式に「シェンノート」と発音したそうです。

シェンノートは士官学校卒ではなく、ルイジアナ州立大学、しかも中退しています。
一応ROTCのトレーニングを受けた予備士官として第一次世界大戦に参戦しました。

そのとき正規の訓練ではなく、教官と親しくなって操縦できるようになったそうです。
その後航空部隊が発足した陸軍では初頭飛行訓練の責任者となりました。

「戦闘機戦術のパイオニア」

とされているのは、この追撃部門訓練教官の時代に

「防御的追撃の役割」

という論文をまとめたからでしょう。
これは、空戦を一対一ではなく二機1組で迎撃することを主張したものですが、
ただでさえ第一次世界大戦後の戦闘機不要論優勢の時代、この論文は
関係者からも嘲笑される結果となってしまいました。

 

1930年代には曲技飛行チームの一員として活動しました。

これまでお話ししてきたように、第一次世界大戦が終わってから
第二次世界大戦が始まるまでの20年間には、航空界では
記録挑戦、エアレース、そしてエアショーが盛んに行われました。

それにはカール・スパーツアイラ・イーカージミー・ドーリットルなど、
軍航空パイロットが航空発展のために奨励されて参加していたわけですが、
戦技を研究し磨くために軍航空部隊がアクロバットチームを結成し、
エアショーを行って一般にアピールするというシステムもこの頃生まれました。

記録挑戦もエアレースも昔のような形ではもう行われませんが、
今でも世界の空軍の多くが、広報と技術研究の精華を目的とした
アクロバット航空チームを持ち、一般にも親しまれています。

シェンノートが参加していたチームは「三銃士」”Three Musketeers”といい、
彼はチームを率いてナショナルエアレースにも参加しています。

のちに彼はメンバー替えしたチームに
「空中ブランコ3人組」”Three Men on the Flying Trapeze"
という名前をつけました。

アクロバットチームを「〇〇サーカス」という慣習は、
この頃に生まれたものと思われます。

「空飛ぶ空中ブランコ3人組」のころのシェンノート大尉。
この頃はまだ「レザーフェイス」ではありません。

 

■ 宋美齢との出会い

ところがシェンノート、1937年、40歳という中途半端な年齢で
陸軍を辞任せざるを得なくなります。

聴覚障害があり、慢性気管支炎持ちという健康上の問題に加え、
上とうまくいかずしょっちゅうぶつかっていたこと、そして
経歴も昇進に相応しいものではなかったことが全て原因となったためで、
彼は大尉の階級で軍を辞め、中国に向かいました。

そして、アクロバット飛行時代に声をかけられたという人脈を頼って、
中国空軍の飛行士を訓練するアメリカの民間人のグループに
飛行教官として採用されることになったのです。

契約は3ヶ月、月1000ドルという破格の給料が魅力だったからですが、
このことが彼の運命を大きく変えることになります。

中国軍の航空委員会を担当し、シェンノートの直属上司となったのが
あの宋美齢=マダム・チェンだったのです。

彼が中国に到着して2ヶ月後に日中戦争が勃発すると、宋美齢は
彼を蒋介石(チェン・カイシェク)に引き合わせ、主任顧問にしました。

陸軍をクビになった男が、ここでは空軍の最高責任者として
やりたいように腕を振えるようになったのですから、彼にすれば
宋美齢は幸運の女神のようなものです。

わたしがシェンノートという人物に嫌悪感を抱くのがまさにここで、
宋美齢という手練手管を生まれつき持って生まれてきたような女性に
持ち上げられて「出世」しただけの男、という印象は、
彼の後半生をいかに好意的に辿っても払拭することはできません。

中国空軍の組織と訓練を任されたシェンノートは、顧問として
アメリカを訪問する蒋介石に同行し、ボーイングB−314「カリフォルニアクリッパー」
に乗ってワシントンに「凱旋」を果たしました。

彼がそもそも中国へ行った経緯を思えば、さぞ晴れがましかったことでしょう。

 

■ フライング・タイガース

蒋介石はアメリカ商務長官との交渉で財政援助の約束を取り付け、
中国空軍のための航空機をはじめとする装備一式、
参加する志願者のために資金を引き出すことを、シェンノートらと
財務長官ヘンリー・モルゲンソーとの議論で取り決め、
中国の通貨を安させるための協定を結ぶことに成功しました。

このとき、戦争省とルーズベルト大統領本人から、P-40C戦闘機始め、
整備士航空用品を蒋介石に届ける約束を取り付けたのはシェンノートでした。

映画などでおなじみの、シャークマウスがペイントされることになる
ウォーホークが100梱包されてビルマに送られたのが1941年の春のことです。

シェンノートは300名のアメリカ人パイロットと地上員を募集し、
彼らはシェンノートの下で「フライングタイガース」として組織されました。

旅行者を装って入国してきたアメリカ人採用者たちの中には、
戦闘機経験者だった者も3分の1いましたが、ほとんどは爆撃機経験者で、
そもそも中国を救うという理想に燃えてやってきたのはごく一部でした。

 

しかし、結果的に彼らは圧倒的に優れていた日本軍に対し、
シェンノートの下でいわゆるひとつの

「クラック・ファイティングユニット」
(”クラック”は軍隊や戦隊に『イケてる』という意味で用いる言葉)

に発展し、アジアにおけるアメリカの軍事力の象徴となったのでした。

■ 日本爆撃計画

以前も書いたことがありますが、真珠湾攻撃の1年も前に、シェンノートは
日本軍基地に奇襲攻撃をかけるという計画を立てたことがあります。

今や彼のものといってもいいフライングタイガースは、パイロットもスタッフも
全てアメリカ人でしたが、中国空軍のマークを背負って飛んでいました。

彼はフライングタイガースを使えば「片手で」勝利を得られる、と主張しましたが、
アメリカ陸軍は日本に近い滑走路や基地を用意できない状態で
その攻撃を成功させるのは無理だとして反対しました。
そもそも陸軍はシェンノートという人物を戦闘指揮官として全く信用していなかったのです。

軍事のプロの助言にもかかわらず、文民指導者、モーゲンソーやルーズベルトは

「たった数人のアメリカ人男性と飛行機のおかげで中国が日本との戦争に勝つ」

という素敵な考えにすっかり魅了されてしまい、実現させようと、
その計画のための爆撃機と乗組員を送り込みますが、大変悲しいことに
その計画より先に真珠湾攻撃が起こってしまいました。

たとえ間に合っていたとしても、陸軍のいうとおり中国側の基地から
日本に到達する術がなかったので、この考えは実行不可能でした。

■ アメリカの「最初の軍事指導者」

本日の項のサブタイトルに「陸軍航空の」と付けたのは、厳密には
間違いであったことはもうおわかりいただけたでしょう。

シェンノートは陸軍の正規のコースからは脱落して、民間人とし
中国に渡り、蒋介石に雇われた傭兵として出世した人間です。

しかし、中国空軍という名の実質アメリカ人傭兵部隊を率いて
真珠湾より前に日本軍と戦い、それなりの成果を挙げたことにより、
アメリカ政府は彼を公的に

「アメリカ初の軍事指導者」

と認めることになりました。

得意の絶頂期

これはわたしの予想ですが、ルーズベルトやモーゲンソーがこれを推し、
アメリカ陸軍は面白くないと思いつつ渋々賛同したのではないでしょうか。

シェンノートは大佐でいったんいったん陸軍を退役していたので、
もう一度大佐の階級で再入隊し、のちに中将にまでなっています。

フライングタイガースは1942年、正式にアメリカ陸軍航空部隊に編入されました。

陸軍上層部は彼を嫌っていたに違いない、と思った理由の一つに、
シェンノートとジョセフ・スティルウェルの激しい確執があります。

スティルウェルも陸軍軍人として蒋介石の参謀に充てられたわけですが、
蒋介石とは援蒋ルートの考え方の違いから互いを憎み合い、
蒋介石は彼を解任しています。

スティルウェルはルーズベルトなどと違い、蒋介石と宋美齢の本質、
つまり能力のなさや金権体質、ひいては中国国民党軍の腐敗や弱小ぶり、
こののちの敗北までを見抜いていたわけですが、そこでつまり
蒋介石側だったシェンノートとぶつかり合ったのは当然でしょう。

二人が憎み合ったのはニューイングランドのピューリタンだった
誇り高きヤンキー、スティルウェルと、人間の愚かさを自然に受け入れる
南部紳士であるシェンノートという強烈なパーソナリティによるものである、
とある作家が述べたことがあります。

たとえば、シェンノートはパイロットたち=彼の「ボーイズ」のために
桂林に慰安所を開き、英語を話せる女性を雇い入れて管理することを
規則関係なしに必要不可欠であるという考え方だったのですが、
スティルウェルは「シェンノートの慰安所」のことを聞いて激怒し、
すぐにそれを辞めさせ、

「米陸軍航空隊の将校がそのような施設を開くなど恥ずべきこと」

として批難しました。

日本の地上部隊はその後シェンノートの前進基地をゆっくりと、
しかし確実に占領してゆき、1945年、第14空軍の指揮官は
シェンノートからストラテマイヤー中将に置き換えられました。

■ 結婚

わたしが個人的にシェンノートを好きになれないのは、
出世のきっかけが宋美齢という女性の引立てであったことと、
10人も子供をなした糟糠の妻を捨てて、33歳も歳下の中国人ジャーナリストと
57歳で結婚したということで、これはもうなんというか
「生理的嫌悪」とでもいうしかない感覚です。

二人の間にどんな事情があったかは他人には決してわからないとはいえ、
この写真を見て微笑ましく思う気持ちがみじんも湧かないのはどういうわけでしょう。

ちなみにシェンノートの最初の妻は彼の高校時代の同級生で、
再婚相手のチェン・シャンメイ=アンナの最初の夫は肺癌で病死しています。

ジャーナリストといいながら、彼女の本業は蒋介石のロビイストで、
一説には彼女をシェンノートに引き合わせたのはほかならない
宋美齢(つまり政略的なマッチンング)だったという話もあります。

シェンノートは彼女と結婚して10年で他界したわけですが、彼女は
夫の名前をフルに利用し、(「日本の魔の手から中国を救った恩人」として)
アメリカ国内では共産党と民主党、国際的にはアメリカと中国共産党の関係構築に
表に裏に奔走した「大物ナンバーワンロビイスト」となりました。

台湾の総統選挙で勝利した当時の馬英九を表敬訪問するアンナ・シェンノート。

このバーさん、抗日戦争記念館などの発起人に名前もあるというし、
シェンノートが好きになれないのは、どうやらわたしが日本人で
この反日をライフワークにしていた女性に対する反発が大いにありそうです。

クレア・リー・シェンノートは1958年、67歳で、アンナ・シェンノートは
94歳まで暗躍を続け、1918年に亡くなりました。

なぜか彼女は2歳サバを読んで年齢を広報していたため、
死去の際には92歳という報道がいくつかのメディアでは流れたそうです。

 

さて、タイトルの◯の中に、わたしは最初ある一字を入れていたのですが、
もしかしてこの人を高く評価する向きもあるのかと思い直してあえて空白にしました。

智、勇、愚、凡、痴、恥、狡

などの中からなんなりとお好きな字を選んでいただければと思います(投げやり)