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アメリカ海軍の巡洋艦と模型を見ることの意味〜模型展「世界の巡洋艦」

2018-02-20 | 軍艦

模型展「世界の巡洋艦」のご紹介もついに最終日になりました。

英、独、露、ソ連、スペイン、そしてアルゼンチン海軍の
歴史的な巡洋艦をご紹介してきましたが、この国がまだ残っていました。

オランダ海軍 軽巡「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」 

「 デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」
というのは「7つの州」を意味し、オランダの美称です。
日本のことを「秋津洲」とか「大八洲国」というようなものですね。

「敷島」「秋津洲」「大和」「扶桑」

これらの美称を軍艦の名前にする慣習のある日本国民としては
このオランダのネーミングに親しみを持つところです。
オランダ海軍は、1600年代から近代に至るまでに、
戦列艦、海防戦艦、巡洋艦、フリゲート艦と、合計8隻の
「 デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」を持っています。
 
軽巡の「デ・ゼーヴェン」は「デ・ロイテル」級の2番艦で、
当時の植民地保護のために建造される予定でした。
ところが建造中に世界大戦が始まってオランダはドイツに侵攻されてしまい、
ドックごと接収されて、2隻ともドイツ海軍の練習艦にされることになってしまいます。
 
オランダにとって幸い、占領下で建造のスペースが遅かったのもあって、
連合軍による解放と同時にまた元のオランダに所有が移り、
じっくりペースで結局1953年に完成に至ったという経緯があります。
 
その後「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」はヘリコプター巡洋艦に改装され、
ペルー海軍に譲渡されて、1999年まで現役で活動していました。
 
 
同じくオランダ海軍の、左から
 
軽巡洋艦「デ・ロイテル」
 
軽巡洋艦「ジャワ」
 
軽巡洋艦「トロンプ」
 
「デ・ロイテル」は1939年に就役し、植民地保護のために東南アジアに投入されましたが、
まず1942年2月4日、アメリカの重巡洋艦「ヒューストン」軽巡洋艦「マーブルヘッド」
ここにある軽巡洋艦「トロンプ」駆逐艦7隻と共にスラバヤから日本艦隊攻撃に向かう途中、
マカッサル海峡で日本軍機の攻撃を受け、至近弾により小破(ジャワ沖海戦)。

1942年2月27・28日、軽巡洋艦「ジャワ」アメリカの重巡洋艦「ヒューストン」
英国の重巡洋艦「エクセター」、オーストラリアの軽巡洋艦「パース」
駆逐艦9隻と共に日本軍と交戦(スラバヤ沖海戦)し、日本の重巡洋艦
「那智」「羽黒」の発射した酸素魚雷2本が命中し、撃沈されました。

「ジャワ」もスラバヤ沖海戦で「那智」の雷撃に撃沈され、翌日哨戒中の第五戦隊
「那智」「足柄」および駆逐艦「山風」「江風」は漂流するジャワの生存者を発見、
「江風」は37名の「ジャワ」乗組員を救助しています。

小破した「トロンプ」はその後も船団護衛などに従事し、何度か被弾もしましたが、
結局生き残って1968年に除籍処分となりました。


さて、いよいよアメリカ海軍の巡洋艦です。

アメリカ海軍のフリゲートといえば、何と言ってもこれ、
「ナショナル・シップ」であり、現在でも現役艦であるフリゲート、
「コンスティチューション」(USS Constitution)を置いてありません。
 
「コンスティチューション」については、当ブログで実際に見学し、
歴史についてもかなり掘り下げてここでお話ししてきたので、
もし興味がある方は「軍艦」カテゴリで検索してみてください。
 
 
まさに帆に風をはらんで帆走している「コンスティチューション」の姿。
模型の帆船は布をプラスチックに貼り付けて帆を制作するそうですが、
ちょっと調べたところ、わざわざ紅茶で布を染めて「汚す」そうですね。
 
「コンスティチューション」に限らず、帆船をいくつかアメリカで見ましたが、
帆はむしろ真っ白なものだという印象があるので、この模型を始め、
まるで羊皮紙のような色をしているのはちょっと不思議でなりません。
 
 
この辺りの船も「巡洋艦」にしてしまうの?という気もしますが。
いわゆる「黒船」のコーナーです。
 
蒸気フリゲート「サスケハナ」「ミシシッピ」
 
帆走スループ「プリマス」「サラトガ」
 
は、1853年7月8日、東京湾行口の浦賀沖に姿を現した
4隻のアメリカ軍艦で、そのうち2隻は日本人が初めて見る蒸気船でした。
 
「たつた四杯で夜も眠れず」
 
と当時の狂歌に詠まれた「上喜撰(じょうきせん)」は
蒸気船と掛けた素晴らしく気の利いたシャレだったわけです。

そもそも幕府は、アメリカ軍艦が開国を求めて日本に来航するつもりである、
ということをオランダからの情報ですでに知っていました。
ただし、蒸気を動力とし、煙突から黒煙と火の粉を撒き散らし、
風の力を借りず自在に動くことのできる「黒船」はそれこそ
「夜も寝られない」ほどのカルチャーショックを与えたのです。

模型制作者によると、この展示を3m離れて見ると、

「浦賀沖約2キロに投錨した4隻の黒船を、海岸から
人々が眺めていたのと同じ光景を体験することができる」
 
ということです。


そしてアメリカの巡洋艦群。

手前、軽巡洋艦「マーブルヘッド」
 
冒頭にお話ししたオランダ巡洋艦の「デ・ロイテル」と共に、
ジャワ沖海戦に参加した巡洋艦です。
 
マーブルヘッドというのは、ボストンから海岸沿いに上がっていった
突き出した半島を持つ街で、住んでいた時に遊びに行ったことがありますが、
一軒一軒がとんでもない豪邸ばかりで、しかもその数の多さに思わず
日本人としては落ち込むくらいのショックを受けたものです。
 
ローガン空港から飛び立ってすぐ、マーブルヘッドの沿岸に
ヨットが数え切れないほど係留されているのを写真に撮って、
ここでお見せしたこともありますが、歴史あるヨットクラブを擁し、
とにかくアメリカでも大金持ちが住んでいることで有名な街です。
 
ジャワ海戦で「マーブルヘッド」は一式陸攻の攻撃によって
艦首と艦橋、艦尾を損傷しましたが、応急処置でなんとか離脱しました。
その間「高雄」と「愛宕」が駆逐艦「ピルスバリー」を撃沈しましたが、
日本側は自分たちが撃沈したのは「マーブルヘッド」だと思っていたということです。

同じ4本煙突だったというのが間違えた理由だそうですが、
「マーブルヘッド」は「ピルスバリー」の1.5倍は艦体が大きいですし、
いくらなんでも駆逐艦と巡洋艦を間違えるだろうか、という気もします。
きっとわたしみたいな人が勘違いしたんだろうな。
 

画面左上は軽巡「サバンナ」(Savannah)
 
練習艦隊とは少し違う、士官候補生訓練艦隊の旗艦として、
アナポリスから候補生を400人乗せて出航し訓練を行っていました。
 
当時のアメリカ海軍の士官教育はこのように行なっていたんですね。
 
画面右、重巡洋艦「ルイヴィル」(Louisville)
 
「ノーザンプトン」級重巡の3番艦で、最初は軽巡でしたが、
ロンドン軍縮会議の結果重巡に艦首変更した船でした。
 
真珠湾に向かう途中で真珠湾攻撃を知り、そのまま西海岸に向かっています。
「キスカ」「アッツ」への砲撃に参加し、クェゼリンの戦いでは僚艦である
「インディアナポリス」にフレンドリーファイアーを受け損傷するも、
トラック、マリアナ、パラオ、テニアン、グアム、パラオ(ペリリュー)
そしてレイテ沖海戦、ルソン島の戦いと、激戦コース一択でした。
 
ルソンでも沖縄でも次から次へと日本軍の特攻機に突入され、
大きな損害を受けたという点でも、当時のアメリカ海軍の船として
フルコースの洗礼を受けたといってもいいでしょう。
 
彼女は第二次世界大戦の間だけで13個の従軍星章を受けています。
 
画面右上、重巡洋艦「ポートランド」
 
「ルイヴィル」と同じく激戦コース組で、レイテ沖海戦、スリガオ沖海戦に参加、
スリガオ沖では日本艦隊に丁字戦法を用いて打撃を与える側でした。
 
沖縄戦の支援も行い、24回特攻の攻撃を受けていますが損傷はなかったようです。
 
 
大型巡洋艦「アラスカ」
 
模型も立派ですが、重巡でも軽巡でもなく「大型巡洋艦」とは?
巡洋戦艦と呼んでも差し支えなさそうな巡洋艦です。
 
アメリカがこの大きな巡洋艦を作った背景には、まずドイツが
「砲力重巡以上、速力は戦艦以上」(逆じゃないのこれ)と宣伝していた
ドイッチュラント級装甲艦の存在と、同じ頃、アメリカ情報部が
どこで仕入れてきたのか、日本海軍が

基準排水量15000t、12インチ砲6門搭載を搭載した「秩父型大型巡洋艦」
もしくは「カデクル型大型巡洋艦」

なる艦を秘かに建造しているという誤情報を掴んだことにありました。
 
そこでアメリカ海軍はこれらの艦に対抗するため、
ドイツの装甲艦や日本の大型巡洋艦を火力・防御・速度で上回り、
通商保護が行える長大な航続力を持った艦を検討し始めたのです。
 
これがアラスカ級大型巡洋艦でした。(以下略)
 
しかし「かでくる」って・・・。
日本人ならこの時点ででもう大嘘だってわかるんですが(笑)
 
 
 
重巡洋艦「ミネアポリス」
 
真珠湾攻撃の時、たまたま砲撃訓練に出ていたという「ミネアポリス」。
日本側が「鼠輸送」と呼ぶ「トーキョーエクスプレス」を阻止するため、
ガダルカナルに進出してすぐ、ルンガ沖海戦を経験します。
 
ルンガ沖では「ミネアポリス」は「高波」を攻撃し、爆発炎上させますが、
その間に向かってきた二水戦の酸素魚雷が命中、艦橋から先がもぎ取られました。
 
 
あかん、これは酷すぎる。
 
「ミネアポリス」が凄かったのはここからで、応急措置で沈没を防ぎ、
さらにこの船を操艦してツラギ島に後退したということでしょう。
 
ただこの時のアメリカの巡洋艦隊はこの他にも「ノーザンプトン」沈没、
「ニューオーリンズ」大破という大敗を、駆逐艦隊相手に喫しました。

 
重巡洋艦「タスカルーサ」(Tuscaloosa)
 
アラバマ州にはこういう街があるそうです。(駄洒落禁止)
「ニューオーリンズ」級の4番艦で、主にヨーロッパ戦線で戦いました。
 
 
あまりにもたくさんありすぎて、全部ご紹介できないアメリカの巡洋艦ですが、
これだけはしっかり上げておきます。
 
重巡洋艦「ニューポートニューズ」(左)
 
重巡洋艦「セーラム」(中央)
 
その理由は、このブログの読者の皆様ならご存知かと思いますが、わたしが
フォールリバーに展示されている「セーラム」を実際に見学し、
ここで詳しくお話ししたからです。
 
もしご興味がありましたら、「軍艦」カテゴリで検索してみてください。
 
左は重巡洋艦「キャンベラ」
 
「ボルチモア」級の3番艦です。
アメリカの船なのにどうしてこの名前?と思った方、あなたは鋭い。
当初3番艦は「ピッツバーグ」になる予定だったのですが、
1942年8月8日、9日の第一次ソロモン海戦で日本軍の攻撃により喪われた
オーストラリアの重巡洋艦「キャンベラ 」(HMAS Canberra, D33) 
に因んでこのような命名を受けました。
 
「キャンベラ」も「セーラム」と同じフォールリバーで建造されています。
 
 
「セーラム」と「フォールリバー」部分。
 
「セーラム」はここで紹介されていた「ラ・プラタ沖海戦」を描いた
「戦艦シュペーの最後」で、「アドミラル・グラーフ・シュペー」を演じました。
一切改装なしで、しかも艦番号すら「セーラム」のままドイツ軍艦を演じるのは
かなり無理があったと思うのですが、それについては劇中、
 
「アメリカ軍の艦に偽装するため塗装を変更した」

と登場人物に説明させているそうです。

そんなわけあるかーい(笑)
 
 
 
 
重巡洋艦「メイコン」
 
重巡洋艦「フォールリバー」
 
「フォールリバー」はその名のフォールリバーにあるバトルシップコーブで
艦首の先だけ実際に見たことがあります。
これについても説明しておりますのでご興味があれば(以下略)
 
 
というわけで、やっとの事で「世界の巡洋艦」をテーマにした模型展、
ご紹介し終わりました。
 

テーマに沿ってこの模型製作会の皆さんが精魂込めて作った作品を
一堂に見る機会を得て思うことは、

「模型から見えてくるものはあまりにも多い」

ということです。

サイズを小さくして視覚化することで「神の視線」を得ることすら
場合によっては可能なのですから、特にわたしのように一つの船を
そのもののみならず、その歴史的意味や時にはまつわる物語まで、
多角的に知りたいと思う者にとっては、模型展の行われている小さな部屋は
まるで宇宙のごとき無限の広がりを持っているとも言えるのです。

「制作には全く興味はない模型ファン」として、これからも
機会があればまた模型展に訪れてみたいと思っております。

 

終わり

 
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シャルンホルストとヘネラル・ベルグラノの戦没〜模型展「世界の巡洋艦」

2018-02-18 | 軍艦

 

模型展「世界の巡洋艦」、続きです。
今日はその他の国々の海軍と巡洋艦についてお話ししたいと思います。

今まで考えてもみなかった海軍とその巡洋艦について多くを知るところになりました。
この模型展を開催してくれた「ミンダナオ会」の皆様には本当に感謝に堪えません。

その前に、イギリスの巡洋艦で主にドイツと海戦を行なったもの以外に
一つ載せ忘れた「大物」艦がありました。

 

イギリス海軍 軽巡洋艦「ベルファスト」

ロンドンのテムズ川には、今でもこの軽巡が

大英帝国戦争記念博物館

の一つとして係留されています。
「ベルファスト」は「タウン」級軽巡洋艦で、ロンドン軍縮条約の結果
「名ばかりの軽」になったというのは日米仏伊いずれの国とも同じです。

コメントでも出ていましたが、軽巡洋艦とはロンドン条約で規定された
「排水量節約型」の巡洋艦のことです。

もう一度おさらいしておくと、ロンドンより先に行われた
ワシントン軍縮条約の目的は、「戦艦」と「巡洋戦艦」の保持制限で、
巡洋艦についてはこれを規定するものではなく、つまり

巡洋艦なら制限なしに持つことができる

という解釈が成り立ちました。

というわけで当然ですが、各国が競って巡洋艦を造りはじめました。
結果として、制限ギリギリの巡洋艦の「建艦競争」となってしまったので、
全然軍縮になってないじゃん、ということになり、改めて
巡洋艦の制限を定める目的で行われたのがロンドン会議です。

 

この条約では巡洋艦を砲の口径だけで「カテゴリA」(重巡)、
「カテゴリB」(軽巡)に分け、各国で所有できる艦船の上限を

合計排水量で

決定しました。
するとどうなるかというと、制限排水量をギリギリまで大きくし、
砲だけ小口のものを積んだ「重巡より大きな軽巡」が生まれてくるわけです。

 

特に日米英では、排水量の上限である1万トン級の軽巡が生まれました。

「ベルファスト」の「タウン級」(町の名前だからタウン)も

サウサンプトン級 11,540 トン
グロスター級 11,930 トン
エディンバラ級 13,175 トン

と、例えば日本の重巡「青葉型」9,000トンよりはるかに大きく、
重巡「利根型」11,213トンと同等の艦体を持ちます。

ちなみに「利根」型は、軍縮条約に批准しつつ大型の艦体を備え、
晴れて?日本が国連を脱退してからは砲を大口に換装し、
重巡として生まれ変わっています。

「ベルファスト」は1939年に就役し、第二次世界大戦では
「北岬沖海戦」という

ドイツ戦艦「シャルンホルスト」

戦艦「デューク・オブ・ヨーク」軽巡洋艦「ジャマイカ

重巡洋艦「ノーフォーク

軽巡洋艦「ベルファスト」「シェフィールド

駆逐艦4隻

という、とっても不公平な海戦に(当然とは思いますが)勝利しています。
しかし、9対1で戦って負けたとはいえ、「シャルンホルスト」は相手に

重巡1・駆逐艦1中破
戦艦1・軽巡1小破
戦死11
負傷11

という打撃を与えたわけで・・・・これってすごくないですか?

wikiによるとイギリス海軍の勝因は「レーダーを保持していたこと」らしいですが、
レーダーを持っていてこれってことは、もしなかったら
一隻の戦艦相手にもっと被害が大きかったってことなんでは・・・。

そう思ったのはわたしだけではなく、海戦後、イギリス艦隊の指揮を執った
ブルース・フレーザー司令は、将校たちに次のように訓示しています。

「紳士諸君、シャルンホルストとの戦いは我々の勝利に終わった。
私は君たちの誰かが、戦力が倍以上違う相手と戦うことを要求された時、
艦をシャルンホルストと同じぐらい立派に指揮することを望む。」

 


手前、スペイン海軍の重巡洋艦「カナリアス」

同級の1番艦で、2番艦は「バレアレス」
軍縮条約とは全く関係なく生きてきたスペイン海軍にとって、
これが最初で最後の重巡洋艦となりました。
批准していないわりに、同級は軍縮条約の基準に沿って造られているそうです。
(基準排水量10,670トン、砲口203センチ)

それはいいのですが、スペイン人らしいというのか、でれでれと建造しているうちに
スペイン内戦が起こってしまい、彼女らは反乱海軍に乗っ取られて、
スペイン政府軍と戦うという数奇な運命を辿り、妹艦の「バレアレス」は
政府軍にされてその命を閉じています。

「カナリアス」は数々の武功を立て、傷一つ負わずに戦乱を生き抜いて、
1975年まで悠々自適の老後を過ごしたようです。

アルゼンチン海軍軽巡「へネラル・ベルグラノ」

スペイン語なのでGをハ行で発音するのはわかりますが、
「ジェネラル」でも「ゲネラル」でもなく「ヘネラル」。
やっぱり軍事用語にラテン系言語はあんまり、と思ってしまいました。

元々は真珠湾攻撃の時に生き残った軽巡「フェニックス」
ファン・ペロン(奥さんがあのエビータ)大統領が貰い受け、
戦功のある軍人の名前をつけたものです。

「フェニックス」として就役したのは1939年、その後は
アルゼンチン海軍の象徴のような存在として長生きしてきた「ヘネラル」、
なんと、

1982年の5月2日、フォークランド戦争で戦没

していたことがわかりました。

イギリス海軍のチャーチル級原子力潜水艦「コンカラー」に、
魚雷を2発撃ち込まれて轟沈したというのですが、いやー・・・
これ、すごく不思議じゃありません?

なんだって1982年の戦争に、真珠湾の生き残りを投入するのか。
アルゼンチン海軍にとっていくら象徴的な存在だったとしても、これって
湾岸戦争に
アメリカが「ミズーリ」を出してくるようなもんじゃないですか。

別にアルゼンチン海軍、船に困っていたというわけでもなく、
イギリス海軍との間で行われた海戦で喪失した艦船の数だけでいうと、
イギリス海軍の方がはるかに上回っていたというのにですよ?

しかも、この「海軍の象徴」であった「ヘネラル」を失ってから、
アルゼンチン軍の士気はガクッと落ち、1ヶ月後には戦闘停止を決めているのです。

アルゼンチン海軍軍人にとって、彼女は永遠に海軍そのものであり、
神聖化された最後の砦のようなものだったのでしょうか。


我が戦艦「大和」、「シャルンホルスト」、そして「ヘネラル・ベルグラノ」。
これらの軍艦たちの戦没を敢えて言葉で表すなら、それは

「誇り高き勇者の最後」

永遠に彼女らの名と孤高の戦いは名誉と共に語り継がれるべきでしょう。

 

下・アルゼンチン海軍「ヴェンティシンコ・デ・マヨ」

「ヴェンティシンコ」とはスペイン語で25。「マヨ」は5月。
5月25日はアルゼンチンの革命記念日に当たり、
「ジュライフォース」のように、それ自体が革命記念日の意味を持ちます。

本艦は、イタリアに発注された重巡で、1931年から就役しました。

南米においても「近隣国との間の諍い」というのは普通にあって、
アルゼンチンの場合、第一次世界大戦後の仮想敵は、隣国チリとブラジルでした。

アルゼンチンが海軍力で優位に立つために持つことにしたのが
本艦をはじめとする重巡と軽巡です。

軽巡は一隻でイギリス製、その名も「ラ・アルヘンティーナ」と言いました。

スウェーデン海軍 巡洋艦「トレ・クロノール」


「トレ・クロノール」とは「三つの王冠」を意味し、国産です。
高角砲を持たず、対空対策としてはボフォース砲を搭載していました。

スウェーデンという国はそれこそ戦争してなかったのに、なぜ巡洋艦を?

と思ったのですが、これは19世紀以後、スウェーデンが国策として
武装中立を決めたため、海軍もそれに伴い重武装化していたのです。

冷戦時代にもスェーデン海軍はソ連海軍との戦いに備えて対潜能力の強化を行なっていますが、
ご存知のように実際にスウェーデンが、近代以降、他国と交戦した事は一度ありません。

スイスもそうですが、中立であるということは武装を固めるということでもあり、
武器を持てば戦争が起こるという理論で非武装都市などとたわけた寝言をいう人に、
この武装中立の国々の姿勢をどう思うかちょっと聞いてみたい気がしますね。


というわけで今日で終わるつもりが、アメリカ海軍まで行き着きませんでした。
今度こそ最終回に続く。

 
 
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「済遠」と東郷大佐の「高陞号事件」〜模型展「世界の巡洋艦」

2018-02-17 | 軍艦

 

模型展「世界の巡洋艦」についてお話ししております。

展示は各テーマに沿ってテーブルの上に模型が置かれ、このように
帝国海軍の巡洋艦コーナーはちゃんと旭日旗が敷かれていました。

「球磨」「多摩」「木曽」「北上」

100分の1の「北上」には度肝を抜かれましたが、会場には
普通に1/700の「北上」はじめ、軽巡群もちゃんといます。

一番左は見切れていますが、20年就役ということは・・・・
やっぱりやめとこう。また外れそうだから(笑)

 

軽巡「球磨」ですが、わたしの知り合いの父上が艦長をしていた頃、
中国のどこか(多分警戒していた青島)から神社の小さな社を積んで帰り、
その社を庭に飾って?いたという話を聞いたことがあります。

いかに昔の海軍では艦長職が「やりたい放題」だったかということですね。

ちなみに、その「球磨」、沈没の場所が特定されてからしばらくして、
マレーシアの業者が違法に引き揚げ作業をして、鉄くずとして

1トン当たりわずか2万円

で売り払ってしまったということです。
もう日本には所有権がないとはいえ、なんとかならなかったんでしょうか。


さて、「世界の巡洋艦」と言うことで、いわゆる大国の艦船を紹介してきましたが、
今日は大小取り混ぜてお送りしたいと思います。

まずは清国海軍。

19世紀末期に清国に存在した海軍で、日本とは日清戦争で戦い、
壊滅した北洋艦隊が知られています。

黄海海戦で日本と戦った北洋艦隊の有名な「定遠」「鎮遠」は
いずれも戦艦なので本日の展示には見ることはできません。

 

中国の船なので、全て漢字二文字なのはいいとして、

超勇(Chao Yung) 
揚威(Yang Wei) 
済遠(Sai En)
致遠(Chih Yuan)
靖遠(Ching Yuan)

とかいわれても、英語の人には全く覚えられなさそうです。

左にある「済遠」が黄海海戦のほか、

豊島沖(ほうとうおき)海戦

に参加したとありますが、これは1894年、清国と戦争をすることを
決定した日本側が相手に最後通牒を送り、その返事を待っている間、
接近した日清の海軍部隊の間で起きたフライングの海戦のことです。

日本側の「吉野」「難波」「秋津洲」は、北洋艦隊の「済遠」「広乙」
とすれ違った際、「どちらともなく」撃ち合って戦闘が始まってしまいました。

日本側の報告には

「吉野」が国際海洋法に則って’’礼砲’’を放つも「済遠」は返礼せず
戦闘準備をし、又はやがて実弾を発射して来た」

となっており、清国側はもちろん「日本が撃ってきた」と言っています。

日本の「つもり」はともかく、日本が先に撃ったことは間違いありません。
問題は本当に礼砲だったのか、それとも礼砲を撃つことで日本は
清国側が勘違いして攻撃してくればラッキー、と思っていたのか・・。

それは今でもわかりません。

 

この海戦の結果、「広乙」は「秋津洲」に追い込まれて座礁し、
総員退艦ののち自沈。
「済遠」は白旗を上げながらも逃走し、結局逃げ切っています。

この時、途中で遭遇した「高陞号」と「浪速」の間には、
有名な高陞号事件」が起こりました。

当時「浪速」の艦長は大佐時代の東郷平八郎でした。

日本側の艦隊の司令官は坪井航三(本名?)少将です。

坪井司令が白旗を揚げながら停止せず逃げていく「済遠」を追っていると、
そこにたまたま通りかかったたのが輸送船高陞号」「操江」でした。
わかりやすくするために会話形式でやります。

坪井少将「高陞号には清国の兵隊が乗ってるじゃないか!止まれ!」

済遠「しめたある、奴らが気を取られている今のうちに逃げるあるよ!」

坪井「東郷大佐、高陞号を頼む!わしらは済遠を追う」

東郷「わかりました!」

「浪速」、「高陞号」に近づき、停船させる。

東郷「高陞号止まれ!浪速の砲はそちらに向けているぞ」

人見善五郎大尉「ハロー、臨検に来ました。あなたはどこの船ですか?」

ウォルズウェー船長「ワタシタチー、イギリスノフネデース。
 シンコクセイフニチャーターサレテ、ヘイタイサンハコンデマース」

人見大尉「と言ってますがどうしますか」

東郷「うーん・・・我が艦に続けと船長に伝えてくれ。
 そして、イギリス人の船長は『浪速』に移るようにと」

清国兵「それはダメある!許さないあるね!
 もしイギリス人が船を降りるなら殺してやるあるよ」

東郷「こいつら、脅迫するつもりか・・・。
 Captain, leave your ship!」

船長「It's impossible.」

東郷「うーむ、これは高陞号が清国兵に乗っ取られた、
 つまり叛乱状態(mutiny)にあるということだな。
 よろしい、ならば攻撃警告だ」

「浪速」のマストに攻撃警告の赤旗が揚げられた。
「高陞号」船上は清国兵が右往左往するばかり。

東郷「4時間経った。魚雷発射!」

清国兵「う、撃って来やがったある!」

イギリス人船員「今のうちだ、海に飛び込んで日本の船に移れ!」

東郷「カッターを出せ!イギリス人を救助せよ」

しかし魚雷は届かず不発。

清国兵「向こうに行かせないあるよ!イギリス人を撃てある!」

何人かがそれで殺害されたが、日本側はウォルズウェー船長を含む
イギリス人船員3名の救出に成功。

東郷「船長を確保したか。では遠慮なく撃て!」

「浪速」は右舷砲2門の砲撃で「高陞号」を撃沈。
結果、900名近くの清国兵がが死亡した。

 

NHKの「坂の上の雲」でもこの事件が扱われていましたが、描き方としては
海戦後、「高陞号」が沈んでいった海に漂っていたという設定の(笑)
爽やかにに笑っている清国兵乗組員の記念写真が映し出されるなど、

「罪もないのに殺された清国の若い人たち」

というイメージを強調した、あからさまな日本非難にうんざりしたものです。

連合艦隊の出港シーンに国旗が一本もないとか、義和団の乱を
大国の横暴への反乱にすり替えるとか、本当にこのころのNHKの
中国への忖度ぶりは
眼に余るものがありましたね。

あ、今現在もそうか(笑)

NHKはこの事件を日本に非があるように描きましたが、その後行われた裁判で、
ウォルズウェー「高陞号」船長にも、日本軍艦の行為にも、国際法に照らし
違法はないとの判決が下されることになりました。

まあただ、当時のイギリス世論が日本擁護に動いたのは、情勢が後押ししたにすぎず、
この時のイギリスの”都合”によっては、この行為が「違法」となっていた、
という可能性は十分にありました。

何しろ日本は言い訳はともかく開戦前に攻撃を始めてしまったのは確かなのですから、
これを問題視されなかったというのには何らかの意思が働いていたに違いありません。

「歴史に正しいも間違っているもない」

とわたしが常日頃主張しているその典型的な一例がここにあります。

中華民国海軍の巡洋艦「海圻」(Hai-chi)

中華民国海軍というのはいつからあるのか、ということを
わたしは今まで考えたこともなかったわけですが、それは1913年です。

これもあらためて知ったのですが、中華民国は
第一次世界大戦で戦勝国側にいた関係で、戦利艦を獲得し、
これらを近代中華民国海軍建軍の基礎にしています。

巡洋艦「海圻」は「海天」級防護巡洋艦で、清国海軍の軍艦です。
つまり中華民国海軍って清国海軍と同一とされているってことですか?


「海圻」は1898年竣工し、1899年5月10日に就役しました。

1911年にはジョージ五世戴冠記念観艦式にも参列していますが、
1937年9月15日に、日本海軍の爆撃により沈没しました。

「浪速」の右側はチリ海軍「エスメラルダ」

ノートルダムの傴僂男?と思ったのですが、そもそも「エスメラルダ」とは
「エメラルド」という意味で、チリ海軍でこの名前を受け継ぐ船としては
これが6隻目、つまり大変由緒ある名前だそうです。


こんなところにあるので古い船かと思ったら、1954年就役、現在も現役の
練習帆船で、世界で2番目の檣長を誇るバーケンティンという帆船です。

これだけ檣長があると、帆を張るのも大変そう・・・。
訓練を行うチリ海軍の軍人さんもさぞ鍛えられることでしょう。

ギリシャ海軍 装甲巡洋艦「イェロギオフ・アベロフ

アベロフという名前はロシア人みたいですが、実は

「イェオールイオス・アヴェローフ」

が正しいんだそうです。
普通に日本でもそう呼べばいいんじゃ?って思いますが。

とにかくこのアヴェローフさんは、ギリシャ海軍がイタリアから
この艦を購入した時に購入代金の3分の1を出資した海商王だそうです。
オナシスみたいな感じでしょうか。

ギリシャ海軍なんて、別に戦争してないんだからそりゃ大事にしていれば
軍艦の一つくらい残ってるでしょうよ、と思ってしまってすみません。

ギリシャって連合国側で戦ってドイツに結構やられてるんですってね。
「アベロフ」が就役した頃、天敵オスマン帝国海軍とバルカン戦争もしてますし。

「アベロフ」は現在記念艦として公開されています。

第二次大戦でドイツ侵攻を受け、ギリシャ海軍が自沈させようとしたところ
「アベロフ」乗組員は命令に背いて出航し、アレキサンドリアで
連合国に組み込まれるというドラマチックな戦後を迎えたためです。

命令に忠実な軍人ばかりなら、彼女の今はなかったことになります。

現存する世界でただ一つの装甲巡洋艦でもある彼女を、
ギリシャでは敬意を評して「戦艦」(θωρηκτό)と呼んでいます。

ギリシャ海軍が「アベロフ」を調達しなければならなかった原因は
何と言っても隣国オスマン帝国との間の軋轢でした。

隣り合った国で仲がいいなんてケースは世界には稀で、(日本と台湾除く)
地図を見ていただければ、どうしてこの両者がいがみ合うのか一目瞭然です。



バルカン戦争、希土戦争と、両者はやり合ってきたわけですが、これは
そのために生まれたオスマン帝国海軍の巡洋艦「メジディイエ」です。

沿岸部の防備のためにオスマン帝国がウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社という
アメリカの会社に注文し1903年に就役しました。

バルカン戦争ではブルガリアの戦隊と海戦を行なっています。


「メジディイエ」は第一次世界大戦時、黒海を遊弋中触雷し、
着底してしまったところをのちにロシア軍に鹵獲されてしまい、

着底&鹵獲なう

巡洋艦「プルート」

という名前に変わり、黒海艦隊の一艦として古巣のオスマン帝国を相手に、
トラブゾン侵攻作戦 (Trebizond Campaign)などで戦う運命になったということです。

 

さて、模型展「世界の巡洋艦」最終回は、いよいよアメリカの巡洋艦です。

 

続く。

 

 

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人民海軍&王立海軍 甲板の「視認性」〜模型展「世界の巡洋艦」

2018-02-16 | 軍艦

この模型店は今年で23年目ということです。
伺ったところによると、ここ何年かの発表会テーマは

『巡洋艦』→『欧州艦艇史』→『海上自衛隊観艦式』→
『空母』→
『駆逐艦』→『戦艦』→『英国艦』→
『日本海軍』→『第一次大戦』
→『冷戦期の艦船』

→今年の『巡洋艦』

というものだったそうです。
10年経って一巡してきてまた巡洋艦になったというわけですね。
この勢いで行くと来年2019年は『ヨーロッパ大陸の海軍』になる予定?

会場で会の方と少しだけお話ししたのですが、

「去年はレイセンだったので・・・」

とおっしゃるので、冷戦を零戦だと勘違いして

「飛行機の時もあるんですか!」

と聞いて恥をかいてしまいました。
普通零戦のことは皆「ゼロ戦」っていうよね(笑)

それにしても「海上自衛隊観艦式」の模型って見てみたいですね。
自衛隊に限らず、海軍時代の観艦式のシリーズもやってくれないかしら。

さて、今年のテーマ「世界の巡洋艦」、続きと参ります。

巡洋艦は水上艦だけではありません。
というわけで、巡洋潜水艦のコーナー。

書いて字の通り、「潜水もできる巡洋艦」という位置付けです。

「インディアナポリス」を「ボカチンさせてやりました」ところの
伊58もそうですし、海戦当初、アメリカ西海岸に接近して
搭載している水上機で攻撃していたのも巡洋潜水艦です。

そういえば、スピルバーグの「1941」というおバカ映画では、
サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ付近に三船敏郎が艦長を務める(!)

巡洋潜水艦伊19が浮上するシーンから始まるんですよね。

伊19は実際にも西海岸の通商破壊作戦に従事していますが、
魚雷を一回撃ったらそれが「ワスプ」「ノースカロライナ」「オブライエン」
にいっぺんに当たってしまったというレジェンドが有名です。

スピルバーグとゼメキスがこの潜水艦を伊19にしたのも、
そのレジェンドに敬意を評してのことだと思います(多分ね)

写真の真ん中に、フランス海軍の巡洋戦艦「スルクフ」が見えます。

アメリカの「潜水艦のふるさと」グロトンの潜水艦博物館で、
ここに寄港した「スルクフ」の姿を描いた絵をご紹介したことがあります。

模型にも確認できる大きな連装砲がこの絵ではとても目立っています。
「スルクフ」はこの寄港の1年後である1942年、米商船と衝突し、
今でも事故現場のカリブ海で眠っているはずです。

その右側の「ナーワル」(Narwhal)は「ナーワル」級潜水艦の
ネームシップで、名前はツノの生えたイルカ類の「イッカク」を意味し、
実際にもこの模型のように「白い潜水艦」だったようです。

これがナーワル=イッカク。うーんきもい。

こうして見ると全く潜水艦に見えないんですがこれは。

真珠湾にいながらドック入りしていたため損害を免れた同艦は、
通商破壊作戦で日本の商船やタンカー、定期船などを多数撃沈しています。


さて、日露戦争の日本海海戦に絡めてロシア海軍の船を紹介しましたが、
それ以降のソビエト海軍の艦船のコーナーと参ります。

ちゃんと旧ソビエト国旗の上に展示して敬意を評しています。
ちなみに、会の方に

「展示会の内容が決まったらそのテーマに沿ったものを作るんですか?」

と尋ねてみたところ、ほとんどは昔に作っておいたものなのだとか。

手前の3隻はミサイル巡洋艦で、

「マーシャル・ウスチノフ」

「アドミラル・フロタ・ロボフ」

「スラヴァ」級ミサイル巡洋艦で、いずれもまだ現役艦です。

向こうの大型の巡洋艦はこちらもミサイル巡洋艦、

「キーロフ」

「アドミラル・ナヒーモフ」

「ピョートル・ヴェーリキー」

といういずれも「キーロフ」級です。

「ピョートル・ヴェーリキー」は、建造時は「ユーリ・アンドロポフ」
だったそうですが、ソ連が崩壊したので「ピョートル大帝」を意味する
現在の名前に変えられてしまいました。
「アドミラル・ナヒーモフ」もソ連時代には「カリーニン」(ミハイル)
を1800年代の海軍軍人の名前に変えたものです。

クーデターや政権交代が起こる可能性のある国で、政治家の名前を
船につけるのはやめといた方がいいってことですかね。

戦術航空巡洋艦「モスクワ」

一口で巡洋艦といってもいろんな種類があることを、この展覧会に行って
改めて知ったような気がしますが、特にこの「戦術航空巡洋艦」、
「対潜巡洋艦」「ヘリコプター巡洋艦」は初めて見聞きする言葉です。

どれもこの「モスクワ」を意味するのですが、ヘリ着艦のための
後甲板の仕様も初めて見るもので、興味を引きました。

「モスクワ」はソ連海軍初のヘリ搭載対潜巡洋艦です。

冷戦時代の対潜巡洋艦、というと、これは間違いなく米原潜対策でしょう。

当時アメリカ海軍は潜水艦発射弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)
を地中海で戦略パトロールに投入しており、これは、ソ連にとっては
いつ核攻撃されてもおかしくないという意味でもありました。

そこでソ連海軍は、1958年より対潜ヘリコプターを艦隊配備し、これを
多数ヘリ母艦に搭載することでこの脅威に対処しようとしたのです。

ヘリをこのように後甲板に搭載するタイプの対戦哨戒艦は当時
英仏伊などでも導入されており、いわば時代の流行りだったようです。


この模型を見て、ヘリを置くスペースのために甲板が大きすぎないか?
と素人なりに思うわけですが、案の定実際もこれでスペースを取りすぎて
しわ寄せは乗員の居住区の劣悪な環境に現れたということで、
艦要員700名、航空要員の100人余は、極限の狭さを耐え忍んだはずです。


事故も多く、当直将校がソナーのフェアリングの引き揚げを忘れ、
暗礁と衝突したり、発電機室から出火しているのに皆お昼を食べに行っていて
気がつかなかったとか、近代化改修工事に時間がかかりすぎて、(7年)
完成した時には元の乗組員が残っておらずに苦労したとか・・・。

きわめつけはソ連が崩壊した後、ロシア共和国とウクライナとの間で
海軍艦隊の帰属問題が生じて、艦隊全体が混乱に陥ったことでしょう。

特に「モスクワ」は補給品の不足と給料不払いで、乗員の士気が急速に低下し、
混乱の中で予備役に編入、その後除籍となっています。

わたしたちは想像したこともありませんが、あのソ連崩壊によって、軍組織、
特に艦隊、艦艇レベルが巻き込まれた困難はかなりのものだったはずです。

ソ連海軍の艦船モデルを見ていて、甲板の色が独特だなあと思ったのですが、
どうもこの写真を見る限り、本当にこんな土色をしていたようですね。

上空からはさぞ目立ったと思うのですが、どんな理由があるのでしょうか。

ちょっと調べたところ、

「洋上にあっても母なる大地を思い出すため」

という意見が見つかりましたが、違うだろ?
つい先日中国の潜水艦が海自の潜水艦に捕捉された時、

「お昼ご飯のために中華鍋でチャーハン作ってた音で見つかった」

とか言われていたのをなぜか思い出してしまいましたよ。

この茶色は、リノリウムの色である、という説が多いのですが、
ひと昔とはいえ戦後の軍艦の外甲板、しかもヘリが着艦する甲板にリノリウム?
と真っ当な疑問が湧き上がってくるわけです。

これは想像ですが、特にヘリ搭載艦の場合、ステルス性よりも
着艦のしやすい、つまり視認性の高い塗装がされるはずですよね?

つまり、凍結した海の上で着艦する可能性の多いソ連海軍の搭載艦は、
グレーより氷上で見分けやすい色にする必要があったので、
それでわざわざ「大地の色」にしたのではないでしょうか。

目立てば彼らの好きな赤でもなんでもよかったけど、
流石に冷戦時代だったので、茶色というのが妥協カラーだったのでは?

と思うのですが、実際はわかりません。

さて、続いてはイタリア海軍です。

イタリアもヘリ巡洋艦を建造した、と先ほど書きましたが、
その一つである「ヴィットリオ・ヴェネト」(右)
「アンドレア・ドーレア」があります。

「ヴィットリオ・ヴェネト」はオーストリア軍にイタリア含む連合国が
ぼろ勝ちした第一次世界大戦の戦いで、この体験が忘れられないのか?
イタリア海軍は同名の戦艦も第二次世界大戦中には持っていました。

やはり先ほどのソ連の「モスクワ」に次いで作られたもので、
2003年に引退した時にはヨーロッパでは「最後の巡洋艦」となっていました。

そして軽巡「サン・マルコ」、「アンコーナ」

軽巡の命名基準は都市名のようです。
イタリアにはサン・マルコという命名が非常に多く、軍艦だけで4隻、
部隊名が一つ(サン・マルコ海兵旅団)、最近は人工衛星にもあります。

言っちゃなんだけど、あまり強そうに思えないのよね。サン・マルコ。
ていうか、イタリアの軍艦の名前って、どれもイタリアンレストランか、
バッグか靴のデザイナーの名前にしか思えないので困ったもんです。

「アルベルト・ディ・ジェッサーノ」

同級の軽巡で、1941年、イギリス、オランダ海軍の船に撃沈されました。

「ジョバンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」

同級3番艦。
名前のバンデ・ネーレは15世紀のメディチ家の軍人で、

"理(ことわり)なくして剣を抜かず、徳なくして剣を握らず"

という格言を残した人です。
日本の武士道を思わせますね。

目立つといえばこの甲板の赤と白のストライプは斬新です。

重巡洋艦「ボルツァーノ」

重巡洋艦「トレント」

「ボルツァーノ」は共同交戦側イタリア軍(自由フランスみたいなの?)の
人間魚雷「リムペットマイン」にやられて1941年沈没しました。

人間魚雷の起源は実はイタリアだったりするわけですが。
もちろん日本の「回天」のように人間が自爆するという意味ではありません。

「トレント」はマルタ行きの船団攻撃を行なっていて、
イギリス軍の軍機による爆撃と潜水艦によって1942年戦没しています。

 

先入観で見るせいかもしれないけど、イタリアの戦艦ってデザインが
やっぱりスマートというか、洗練されている気がします。

赤白ストライプはここにも健在ですが、その昔、「大鳳」なんかでも
着艦標識のために赤白に塗っていたそうですね。

「ザラ」など普通の巡洋艦にもストライプがあるというのは、
やはり

「これはイタリア軍の船であるから攻撃しないように」

と味方にわかりやすく伝えてフレンドリーファイアーを防ぐため?

さすがデザイン王国、こんなことにもデザイン魂を発揮せずにはいられない。

というか、イタリア軍のパイロットというのはここまでしなきゃ
自軍と他軍の艦船の見分けもつけられないのかい。

 

続く。

 

 

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イギリス海軍対ドイツ海軍〜模型展「世界の巡洋艦」

2018-02-15 | 軍艦

 

1日で終わるかと思っていた模型展「世界の巡洋艦」のご紹介ですが、
いざ始めてみると案の定色々とお話ししたいことが出てきてしまい、
何日かに分けることになりました。

というわけで今日は展覧会のタイトルと同じ「世界の巡洋艦」です。

さて、それでは世界の巡洋艦、まずは御大キングダムから参りましょう。

イギリス海軍の
蒸気フリゲート艦「ユーライアラス」(Euryalus)

日本に縁のある船で、あの「生麦事件」が起きてから横浜に来て、
薩英戦争(1863)と馬関戦争(1864)に参加しています。

余談ですが、この長州藩と英米蘭仏の連合国との間に起きた馬関戦争で、
17歳の「ユーライアラス」乗組の水兵、ダンカン・ボイズが戦功を挙げ
ビクトリア勲章を授与されました。

しかしダンカン君、戦後になって海軍基地の門限に遅れて戻り、
基地内に塀を乗り越えて侵入し海軍を懲戒除隊されてしまいました。

ダンカン・ボイズ

彼はその後重度のアルコール依存症とそれに伴う精神衰弱に陥り、
静養先のニュージーランドで家屋の2階窓から飛び降り、
22歳という若さで死んでしまったということです。合掌。

「帝国海軍がボカチンしてやりました巡洋艦」が・・・。

巡洋戦艦「レパルス」(左二つ)。

巡洋戦艦というのは、イギリスが生んだ「さらに攻撃力を増した巡洋艦」で、
巡洋艦の拘束性と戦艦と同等の大口径砲を併せ持った強力な軍艦という位置付けです。

だからこそ、民族的に見下していた日本人にこの「レパルス」と戦艦
「プリンス・オブ・ウェールズ」をボカチンされたチャーチルは
ショックであうあうあー状態になってしまったわけですね。

巡洋戦艦という概念は英国とそれから日本海軍だけが採用したもので、
両国合わせて7隻しかこの世に生まれていません。

この写真で「レパルス」の右側にある2隻、「レナウン」もその一つ。
イギリス海軍はこれに「フッド」を加えた3隻で、日本側はおなじみ

「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」

の計4隻が巡洋戦艦となります。
「フッド」はドイツ海軍の「ビスマルク」に撃沈されたので、
この中で生き残ったのは「レナウン」(有名という意味)だけでした。

こちらもヒズマジェスティーズシップの

航空巡洋艦「フューリアス」

wikiには「世界初の空母」ってあるんですが、これほんと?

もちろん、この模型の頃は改装前の航空巡洋艦時代ですが。
甲板にはその頃搭載していたソッピース・キャメルらしい姿が見えます。

スキージャンプ台みたいになっている後甲板から離艦するのだと思いますが、
それでは着艦はどうしていたんだろう、と気になりませんか?

はい、こうしておりました。

流石に艦橋に突っ込む恐れがある後甲板へのアプローチをするのではなく、
なんと、艦首側前甲板に海に向かって降りていたようです。
このころの飛行機が二枚羽で推力がそんなになかったことと、
着艦の際には船を航行させてスピードを相殺していたのかもしれません。

しかし見る限りアレスティング・フックやワイヤーはまだなく、
乗員が総出で駆け寄っているところを見ると、飛行機を

手でつかんで止めたのではないか

という疑いが・・・・・・。
というか、実際に手で機体を捕まえている人がいますね。

いやー、これ、海に落ちる飛行機は後を立たなかったと思う。

イギリス海軍にとっては「悪者退治」みたいな位置付け?

海戦シリーズ展示としてイギリス隊ドイツ海軍の「ラ・プラタ沖海戦」がありました。

ドイツ海軍の装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」と同型艦
「ドイッチュランド」は、神出鬼没、通商破壊をしまくっていましたが、
イギリス海軍はこれを叩くため、捜索部隊を結成。

「アキリーズ」「エイジャックス」「カンバーランド」「エクゼター」

からなる「G部隊」はAGSをラ・プラタ沖で捕捉し、挟撃による壊滅を図りました。

 

「アドミラル・グラーフ・シュペー」は英国海軍の「エグゼター」に砲撃、
「エグゼター」は大きな損害を負いましたが、G部隊のハーウッド准将は
駆逐艦上がりだったシュペーのハンス・ラングスドルフ大佐より一枚上手でした。

海戦の結果、「アドミラル・グラーフ・シュペー」は大きな損害を負い、
ウルグアイに逃走しますが、イギリスから手が回っていて修理ができず、
結局自沈されることになりました。

ラングスドルフ大佐は、その後アルゼンチンで拳銃による自殺を行いました。

「このような状況におかれた時、名誉を重んじる指揮官なら
艦と運命を共にする。それが当然の決断だ。

私は、部下の身の安全を確保することに奔走していたために、
決断を先延ばしにしていた」

という遺書が夫人に残されていたそうです。合掌。

海軍力でイギリスに劣るドイツ海軍の船には

「イギリス海軍の船と交戦しないように」

という指令が出ていたにも関わらず、戦闘を行なったとして、
ヒトラーはラングスドルフを非難しましたが、おそらく
親衛隊ではなかったラングスドルフが死の際、ナチス旗ではなく
ドイツ海軍旗を体に巻いていたことが気に入らなかったのかもしれません。


なお、「アドミラル・グラーフ・シュペー」に傷を負わされた
「エクゼター」は、のちに我が帝国海軍にスラバヤ沖海戦で撃沈されています。

この時に大本営は、

「『アドミラル・グラーフ・シュペー』の仇を取った」

と発表したということです。

HMS「アレトゥーサ」

アレトゥーサはギリシャ神話のニンフの名前で、ストーカーから逃げるため
アルテミスの力で水に変えられたという「アレトゥーサ湖」伝説を持ちます。

「アレトゥーサ」級巡洋艦は、

「ガラテア」「ペネロペ」(海の女神)「アウロラ」(暁の女神)

のギリシャ神話シリーズ四姉妹で構成されます。

飛行機を搭載している部分を拡大してみました。

下から見た本級のタイプシップ「パース」級の水上機施設。
「アレトゥーサ」搭載のものは旋回式のカタパルトだそうです。

イギリスといえば無敵艦隊を倒した、無敵艦隊というと「インビンシブル」。
というわけで、ある意味もっともイギリスらしい?名前である
巡洋戦艦「インビンシブル」(Invincible)(右から2番め)と
その改良型巡洋戦艦「インディファティガブル」(Indefatigable/不屈)

「インヴィンシブル」級はネームシップの「無敵」に対して2番艦、

HMS「インドミタブル」(Indomitable/不屈)

3番艦、

HMS 「インフレキシブル」 (Inflexible/融通がきかない)

全て「不屈」を表す、「IN-不」で始まるシリーズです。
「インヴィンシブル」は

世界初の巡洋戦艦(戦闘巡洋艦)

として鳴り物入りで誕生し、「巡洋艦より早く、戦艦のように強い」を
謳ってこの象徴的な名前を与えられたのですが、色々と残念な設計ミスがあり、
爆風を避けるために砲を撃つたびに艦内に入らなければならなかったり、
巡洋艦同士で撃ち合った場合、艦尾が丸裸同然で脆弱だったり、
中でも一番の問題は、

主機関が弾薬庫に挟まれていた

ということで、この結果、ユトランド沖海戦で、「インヴィンシブル」は
主砲弾が砲塔を貫通した瞬間、誘爆のため艦隊が真っ二つに割れ、
ぽっきりと折れて轟沈してしまっています。

乗組員1032名のうち、生存者はわずか6名でした。

ちょうどワシントン軍縮条約が締結され、「インドミダブル」
「インディファティガブル」はそれで廃艦になり、
「インフレキシブル」も陳腐化して同時期にスクラップになっています。

こういうのをなんていうんだっけ・・・名前負け?

 

それでは「ラ・プラタ」でイギリスと戦ったドイツの巡洋艦と参りましょう。

手前、重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」

ドイツの軍艦というのは名前がたまらなくかっこいいので、きっと
その界隈では、萌え化されているだろうなと思ったらやっぱり
「艦これ」にいましたよ。

プリンツ・オイゲン(ちゃん)

「プリンツ」というからには王子のことなんだろうなとは前から思っていましたが、
今回初めて調べてみたところ、

オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン

というオーストリアの軍人さんでした。

「プリンツ」は日本で言うところの「ハンカチ〜」とか「はにかみ〜」とか
「海の〜」(笑)のような、
アイドルやミスコンの男版のような意味は全くなく、
単純に「公子」という位を表す言葉です。

オイゲン公

「プリンツ・オイゲン」のイメージが変わった!どうしてくれる!
という方、オイゲン公の独創的なカツラに免じてお許しください。

「プリンツ・オイゲン」の水上機搭載部分もアップにしておきます。

彼女は我が帝国海軍の「雪風」と同じく、「幸運艦」と呼ばれています。
イギリス軍とのバトルで一度は操縦不能になるも、あとは航空攻撃でも
命中弾を受けず、僚艦とぶつかっても相手ほど被害も受けず、きわめつけは
アメリカ軍に戦後摂取されて、名前を

「プリンツ・ユージーン」(笑)

と英語読みされ、ビキニ島の原爆標的艦となったのですが、結局
二回の実験にも沈まず、曳航される途中でマーシャル諸島のクェゼリン環礁に座礁し、
今でもそこに放置されています。

念のためグーグルマップで調べてみたら、観光地?になっていました(笑)

装甲巡洋艦「シャルンホルスト」

なんて名前も実に厨二心をくすぐりますよね。
少なくとも

装甲巡洋艦「マンマス」

なんて言うのよりもかっこいいのは確か。

装甲巡洋艦というのは「装甲を施した巡洋艦」のことです。
ただ、「インヴィンシブル」がそうだったように、攻撃力を上げても
巡洋艦というスピードを重視した艦体において防御力は致命的に弱く、
どうなるかというと、同級で撃ち合った時に当たった方が負ける、
という素人にもわかる結果となったのでした。

ところで、このテーブルは、ドイツとイギリス海軍の間で行われた

「フォークランド沖海戦」

の参加艦艇が展示されています。

第一次世界大戦中に英領フォークランド沖に攻め入った

マキシミリアン・フォン・シュペー中将

率いるドイツ東洋艦隊が、イギリス軍の迎撃を受けて敗北した海戦で、

旗艦「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」「ライプツィヒ」
「ニュルンベルグ」は撃沈、唯一残った「ドレスデン」も自沈

とドイツ側の完敗に終わっています。

イギリス海軍「カーマニア」(Carmania )

ドイツ帝国海軍「カップ・トラファルガー」(Cup Trafalgar)

どちらも戦時に武装していた「武装商船」「仮装巡洋艦」です。
客船だった「カップ・トラファルガー」は砲艦から10.5cm砲2門と
3.7cm砲6門が移され、仮装巡洋艦B (Hilfskreuzer B) となって
通商破壊作戦に従事していました。

ドイツの船なのに英語で、しかも「トラファルガー」が使われているのは、
これがハンブルグー南アメリカ航路の客船だったからです。

「カーマニア」も4.7インチの砲 8門を搭載しており、2隻は
武装商船同士としてたまたま遭遇したものです。

戦闘に際し「カーマニア」が警告弾を発射、それに対し、
「カップ・トラファルガー」はドイツ軍艦旗を掲揚して戦闘が始まりました。

相手の喫水線付近に砲撃を集中した「カーマニア」と、船橋を集中攻撃した
「カップ・トラファルガー」の戦いは、「カーマニア」に軍配が上がり、
「カップ・トラファルガー」は転覆し、沈没しました。

 

というわけで今日ご紹介してきた英独海戦は、ことごとく
イギリス海軍の勝利に終わったことになります。

やっぱりイギリス海軍、腐っても「無敵艦隊の敵」の末裔ってことかもしれません。

 

続く。

 

 

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「北上」と第一次ソロモン海戦〜模型展「世界の巡洋艦」byミンダナオ会

2018-02-14 | 軍艦

 昨日に続き、模型愛好会「ミンダナオ会」の展示会、
「世界の巡洋艦」をご紹介させていただきます。

冒頭写真は作品展中最も大型の作品、軽巡洋艦「北上」。
1/100の大作で、それこそ製作期間は想像もつきません。

模型素人のわたしは海の色と白波の再現だけでも感動モノです。

右舷側から観た本作品。
こりゃーよっぽどの速度で航行していますね。(小並感)

反対側。とにかく波しぶきの表現がすごい。
いや、そっちじゃなくて模型についてもう少し語ろうよ。

というわけで、四連装魚雷発射管細部。

この企画を教えてくださった元モデラーの方に大量に写真をいただいたので、
ありがたく掲載させていただくことにしました。
いただいた写真には●印をつけています。

これが両舷に10基あるので、この「北上」の姿は竣工時ではなく、
その後重雷装艦に改装された時の姿であることがわかります。

重雷装艦への改装を施された巡洋艦は本艦と姉妹艦の「大井」2隻だけです。

見よ、これが重雷装艦の四連装魚雷である(笑)
まるで親の仇みたいに魚雷砲を積んでおります。

実際空母による航空戦が主流となり、艦隊決戦の時代が終わっていた頃に
遅れてきた大艦巨砲主義の遺物のようなこの改装。
はっきり言って「無用の長物」の感はぬぐえません。

これが全部対空砲なら使いようがあったのかもしれないけど・・(小並感その2)

実際にも、この後高速輸送艦に転用された「北上」からは、
最終的に4基を残して全て魚雷発射管は外されることになります。

50口径14cm単装砲に波除のカバー?がかかっています。

この砲は見ただけでもなんとなく予想がつきますが平射しかできなかったので、
重武装の時代が終わり、その後回天を搭載して南方に進出した時には
当然のように高角砲に換装されることになりました。

それにしても甲板のと継ぎ目の真鍮の質感がやばい。

アンカーチェーンのフェアリーダー?が甲板に直接あるタイプ。

艦橋だけでも何ヶ月もかかっているように見えます。

後甲板が一段低い形状、自衛艦にもこんなのありましたよね?
それにしても甲板の上に錨がゴロンと寝ているというのはすごい。
ウィンチを巻き上げたら海に降ろせるようになっていたのでしょうか。

本当に旭日旗が風になびいているように見える!

内火艇は4隻、後部甲板の一段高いデッキに搭載されています。
手前左側はもしかしたら手漕ぎボートだったりする?

この模型製作者の父上は「北上」に実際に乗っておられたそうです。
なるほど、この心血を注いだ作品の出来栄えにも納得ですね。
そして甲板の隅に立っている白い作業着の乗員がその父上だそうです。

スケールは1/100、とにかく圧巻の大作でした。

と思えばいきなり時代が江戸時代へと(笑)
右、幕府海軍の「開陽丸」

幕末期に幕府海軍が所有していたオランダ製のコルベットでした。

フリゲート(帆走の小型軍艦)がその後巡洋艦になったという歴史はありますが、
コルベットはそれより小さく、巡洋艦とは全くといっていいほど関係ありません。

 

さて、「ペリー・ショック」で幕府は海防の必要性を思い知り、早速
駐日大使タウンゼント・ハリスを通じてオランダから船を買い付けました。
それがこの「開陽丸」です。

この引き受けかたがた日本は15名の留学生をオランダに送りましたが、
その中にはのちの

榎本武揚(政治家)

西周(にしあまね 哲学者 教育家)

伊藤玄白(医師)

などが含まれていました。

「開陽丸」は蒸気機関410馬力、当時の最新鋭であった
クルップ砲を26門搭載した立派な軍艦で、勝海舟はこの船で
最初の海軍としての訓練を行い、乗員にはオランダ海軍に倣って
階級によって服装を分けた海軍の軍服を制定し、支給しています。

つまり「開陽丸」は日本海軍が近代海軍軍人として軍服を来て
乗組むことになった最初の軍艦だったということです。

さらに巡洋艦からは遠ざかっていくわけですが(笑)

 幕末まで徳川水軍が使用した御座船「天地丸」
一応水軍の船なので軍艦と言えないこともありません。

徳川時代は平和で海戦が起こらなかったので、軍船といっても
実質大名のクルーザーのような役割を果たしていました。
黒船来航後は近代海軍の誕生とともに廃止されました、

しかもこの模型、船というより江戸城がメインなのではという気がしますが、
まあ見る方には色々あったほうが楽しいからいいか。

 

ここからは本当の巡洋艦をご紹介していきます。


ジャングル迷彩(?)の重巡洋艦「高雄」
こんな緑色でしかも迷彩を施された時期があったんでしょうか。
それとも模型の世界ではこういうのもありということなんでしょうか。

その「高雄」型2番艦「愛宕」
搭載砲が白とブルーの二色塗装なのですが、これもオリジナル?

この模型の会、「ミンダナオ会」の会員は20名くらいで、
女性(会員の奥さんらしい)もおられるようですが、その「カミさん」の作品。

こちらも重巡「高雄」で1/3000という可愛らしいもの。

額に入れて、海は製作者がお描きになったものとか。

「1/700への道はまだ遠いのだった・・・」

とコメントがありますが、やはり模型は大きくなるほど制作も難しいってことでOK?

その1/700モデルの重巡たち。

「金剛」の砲が4基全く同時に発砲しているッ!

ちなみにその左側も同じ「金剛」ですが、ずいぶん違う印象ですね。
発砲「金剛」はハセガワ製で向こうは別の会社(写ってなくてわからず)ですが、
模型会社によって同じ艦でも全くイメージは違ってくるものだそうです。

形ですらそうですから、特に艦体や機体の色など、白黒写真時代のものは
再現するにも「こうだろう」と想像するしかないんですよね。
零戦も「21型は飴色」とか言われても、そもそも「飴って何?」な世界ですよね。

飴の味によって色も違うだろうし・・・ってそういう話じゃない?

第一次ソロモン海戦の参加艦艇を集めたテーブルがありました。
さっくりいうとガダルカナルの泥沼への第一歩となった海戦です。
(さっくり言い過ぎ?)

三川軍一中将が座乗した第八艦隊旗艦の

重巡洋艦「鳥海」。

そしてこちら、第六戦隊旗艦だった

重巡洋艦「青葉」

水上艦を搭載しています。

「青葉」といえばですね。
会場の壁に、初めて見る「この世界の片隅に」のポスターがありまして。

呉軍港内を航行している軍艦の姿が描かれているのですが、
これがどうも「青葉」みたいなんですよ。

それにしてもこのポスターいいなあ(欲しい・・・)

会場には備え付けのピアノがあったのですが、わたしがいる間、
会員らしい女性が演奏しておられたのが、この映画のテーマソング

「悲しくてやりきれない」

とソ連国歌

「祖国は我らのために」

の二曲でした。
展示にまつわる曲をセレクトして演奏しておられたようです。

こちら連合軍側の北部部隊、

「ニューオーリンズ」級重巡洋艦「アストリア」

この時「アストリア」は三川艦隊からの攻撃を受けて戦没しました。
当ブログでは戦前の日本大使斎藤博の遺骨を日本に運んだことなどを、

重巡洋艦アストリアの運んだもの

というページにまとめたことがあります。
この項を書いた時にはなかった斎藤大使遺骨礼送についての説明が
今回wikiの「アストリア」のページに追加されているのを見て、
大変嬉しく思った次第です。

「アストリア」艦体中央部分。
両舷に筒のような柱が立っていてその上に通路?が・・・。

上二つはオーストラリア海軍の

重巡洋艦「キャンベラ」「オーストラリア」

下が

重巡洋艦「シカゴ」駆逐艦「バグレイ」

「キャンベラ」は「鳥海」が発射した魚雷2本が命中、
さらに20発以上の砲弾を受け大破炎上し、193名の死傷者を出しています。

「キャンベラ」が一気に破壊された後、「シカゴ」は魚雷の回避運動を行いますが、
一本が命中し大破する運命です。

この時艦長のハワード・ボーデ大佐は被雷直前まで寝ていたそうですが、
被弾沈没の責任を問う査問会議で事情徴収された後、思うところあったのか
海軍宿舎のバスルームで拳銃による自殺をしてしまったということです。

 

というわけで、

「海戦には勝ったが作戦で負けた」

(つまりたくさん敵艦を沈めたが、結局敵の揚陸を許し、逆に
日本軍輸送船団は米潜水艦の攻撃で撃退され、早期奪還作戦は頓挫)

と評価される第一次ソロモン海戦をご紹介してまいりましたが、その横に、
なんだかこのソロモン海戦の後の神参謀が言っていそうなことが
書いてあって、ある意味とてもウケたのでこれもあげておきます。

向こうから、

ヒューストン(42.3.1 バタビア沖海戦)

ビンセンス(42.8.9 第一次ソロモン海戦)

ノーザンプトン(42.11.30 ルンガ沖夜戦)

クインシー(42.8.9 第一次ソロモン海戦)

アストリア(42.8.9 第一次ソロモン海戦)

シカゴ(43.1.30 レンネル沖海戦)

インディアナポリス(45.7.30 伊58の雷撃による)

つまりこのコーナーのテーマは

「帝国海軍がボカチンさせてやりました重巡」

というものなのです。
しかし逆にいうと、日本軍がボカチンした重巡って
たった7隻だったってことなんですよね・・。

そしてそのうち3隻が第一次ソロモン海戦だったってことですわ。

この海戦の結果、神参謀が図に乗るようになって、どんどん海軍の作戦が
ドツボにはまっていった(一部の意見です)という意味では、
もしかしたら「最悪の勝利」だったんじゃ・・。

まあ後からならなんとでも言えますけどね(笑)

 

続く。



 

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「八雲」と日本海海戦の立役者たち〜模型展「世界の巡洋艦」

2018-02-12 | 軍艦

週末、月島のコミュニティセンターで行われた模型展を観てきました。

「元モデラー(しかし現在はROGANのため制作休止中)」

の知人の方がお付き合いしているという模型の会の作品展で、
毎年この時期に定期的に行われていて今年で23回目の開催だそうです。

毎年テーマを変えて作品が集められるのだそうですが、今年は
巡洋艦を中心とした展示ということで楽しみにしてまいりました。

 

いきなり模型ではなく絵をご紹介してすみません。

「日本海海戦 佐藤鉄太郎の決断」

というタイトルの絵画です。
佐藤鉄太郎(1866−1942)は日本海海戦時、第二艦隊、旗艦「出雲」の副長です。

 戦闘中、舵が故障した戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」(国オヤジ座ろう)を見て、
バルチック艦隊が北へ向かうと誤認した旗艦「三笠」は、これの追撃を指示しましたが、
上村彦之丞中将と副官の佐藤中佐は舵の故障と即座に判断、「三笠」の命令を無視して
「我に続け」の信号旗を掲げながらバルチック艦隊に突撃していきました。

この絵はその後の「出雲」を描いたものだと思われますが、状況はよくわかりません。

この決断の結果、巡洋艦中心の第2戦隊が、戦艦中心のバルチック艦隊に突撃するという
前代未聞の作戦が実施されることになり、敵を挟撃することに成功しています。

というわけでその巡洋艦「出雲」。

先日来お話ししている大正13年の遠洋航海練習艦隊に参加していますね。

こちら装甲巡洋艦「八雲」


「八雲」は、ここに見えている紹介にもありますが、ドイツ生まれで、
シュテッテン・ヴュルカン造船所で誕生した装甲巡洋艦です。

練習艦隊の江田島の出航の写真を掲載した時にも書きましたが、
終戦後進駐軍はこの船体にラム(RAM)が付いていることに興味を持ったそうです。

ラムとは日本語の「衝角」のことで、喫水線下の艦体につけられた
尖ったツノの用途は、「体当たり用武器」です。

軍船同士が接近戦を行う際、敵船の側面に突撃し、船腹を突き破ったり、
舵手がいる船であれば操舵を不可能にするために突き出しています。

フルハル模型だとその尖ったツノの形状がよくわかりますね。

大艦巨砲主義どころか、帆船の時代のような接近戦を想定した武器なので、
装備していた当の帝国海軍もこの機能をあてにはしていなかったでしょう。

ところでたった今気がついたのですが、高橋留美子作「うる星やつら」の
ツノの生えた鬼娘「ラムちゃん」という名前って、もしかして・・・?

手前、「八雲」、向こう側は「浅間」
これに「出雲」を加えた三艦が、大正13年度の遠洋航海練習艦隊です。

「八雲」は日露戦争後練習艦として、ほぼ毎年のように、少尉候補生を乗せた
遠洋航海に活躍し、戦後は復員の輸送にも従事しました。

「浅間」は遠洋艦隊の項でもお話ししましたが、何度もお召艦になっているため、
もしこの年度に高松宮殿下が遠洋航海に参加することになっていれば、
この船をお召しになる予定でした。

航海記念アルバムの艦別名簿の「浅間」の欄には、一番最初に
病気で参加を断念された高松宮殿下の御名前が消されずに残っています。

日露戦争、「出雲」、上村彦之丞といえばこの巡洋艦です。

装甲巡洋艦「リューリック」(中央、黒艦体)

日露戦争時の「敵兵を救助せよ」で有名になったロシアの軍艦で、
「出雲」を旗艦とする第二艦隊、第四艦隊に蔚山沖で撃沈されました。

この形を見ればよくわかりますが、水面からの乾舷(水面から原則までの高さ)
が艦首から艦尾まで高く、これを「平甲板型船体」と言います。

ウォーターラインなのでこのモデルではわかりませんが、
「リューリック」も艦首水面下に衝角をもっていたということです。
この時代の流行りだったのかも。

艦体は分厚い鉄板が使われ、特に防御に重点を置いた作りだったそうですが、
上村中将の「国民に露探と罵られた恨み」を思いっきり晴らされて、
下瀬火薬の餌食となって蔚山沖の藻屑と消えていきました。

その際「出雲」が「リューリック」の乗員を救助したことで、
上村中将は一転して「上村将軍」という歌までできるなど、国民から
手のひら高速返しで英雄扱いされることになります。

海戦後、凱旋行進で熱狂的に自分を讃える群衆を見ながら

「少し前にはわしを無能とか露探とか罵った奴もいるじゃろうのう」

と上村中将は内心慨嘆したことでしょう。

一番左から「出雲」「吾妻」「常盤」「磐手」

これが日本海海戦で、

「三笠の命令を無視して突進していった巡洋艦部隊」

つまり上村艦隊、第二艦隊第二戦隊のメンバーです。

模型の展示とはいえ、こういう風に「わかる人にはわかる」
並べ方をしてくれていると、本当に嬉しくなってしまいますね。

旗艦の「出雲」に対して当時最新鋭艦だった「磐手」は、
艦隊で狙われやすい殿(しんがり)艦を務め、そのため被害を受けましたが、
上村中将が命じた「敵兵を救助せよ」の命令を受け、海上に漂う
「リューリック」の生存者の救助に当たっています。

ちなみに「出雲」はドイツ製、「磐手」「常盤」は英国のアームストロング社製、
吾妻」はフランスのロワール社製と、この中に国産艦は一つもありません。

「常盤」はその後昭和2年に謎の大爆発事故を起こし、二度も触雷している上、
終戦直前の8月9日、大湊にいたところをジョン・マケイン・シニア中将率いる
任務隊の攻撃によって擱座しましたが、結局終戦までしぶとく生きぬいています。

殿艦として損害を受けながらも生き残ったタフさは最後の最後まで健在で、
1899年に就役して終戦まで現役だった巡洋艦(途中で敷設艦に転換)は
海軍の歴史の中で「磐手」ただ一隻だったということです。

 

ロシア海軍の左から

「アドミラル・ナヒモフ」「ドミトリー・ドンスコイ」
「ウラジミール・モノマフ」「アルマース」。

「ナヒモフ」は日本の装甲巡洋艦に30発の砲弾を受けて自沈処分、
「ドミトリー・ドンスコイ」「モノマフ」も同じく自沈。

生き残ったのはウラジオストック入港に成功した「アルマース」だけです。

別の方の作品で、これも「アドミラル・ナヒモフ」

「ナヒモフ」巡洋艦ではなく装甲フリゲートとして生まれましたが、
フリゲートといってもよくよく見たら帆走フリゲートではないの。

就役は1888年で、ご覧のようにマストと一本煙突の船だったのですが、
10年後の1898年、近代化改装を施されて生まれ変わりました。
改装後は、機関を強化して帆走設備を全て撤去し、帆走用だったマストは
ミリタリー・マスト(見張り台や機関砲を乗せるためのマスト)に交換されました。

見張り所には速射砲を配置し船体中央部にあった操舵艦橋は
前部マストの背後に移動されるなどの大改装でした。

日本側からは覚えにくいので「ごみ取り権助」と一方的に呼ばれていた
「ドミトリー・ドンスコイ」をアップにしてみました。

実はごみ取り権助も巡洋艦ではなく、「装甲艦」という種別になります。

同じく同時期のロシア海軍巡洋艦、左から

防護巡洋艦「ノヴィーク」、二等巡洋艦「イズムルード」「ゼムチューグ」

「イズムルード」も「水漏るど」なんて言われてたようですね。
「ゼムチューグ」は日本海海戦で生き残りましたが、負けたせいなのか、
戦後に下士官兵の反乱が起こってしまったとかなんとか。

これも巡洋艦ではないですが、戦艦「オスリャービア」
日本側には「押すとピシャ」とか言われてました。

日本海海戦の2年前に稼働できるようになったばかりの新鋭艦でしたが、
第2装甲艦隊の旗艦として三列縦隊のうちの左翼先頭にいたため、
海戦が始まるなり、日本側の戦艦と装甲巡洋艦計12隻のうち、
7隻から、

「目標ー!押すとピシャー!テー!」

と一斉に集中砲火を一身に浴びせられ、最初に戦没することになってしまいました。

日本が丁字戦法によって戦隊の先頭艦を集中攻撃したこと、そしてその際
「オスリャービャ」が三本煙突で識別しやすかったことが原因だそうです。


515名近くが戦死し、その中には軍医、従軍司祭、そして
総員退艦を命じながら自らは
艦橋を退くことを拒み艦と運命を共にした
ウラジーミル・ベール艦長なども含まれます。

ベール艦長


 

「香取」と「鹿島」
「鹿島立ち」という言葉の由来について練習艦隊の項でお話ししましたが、
「鹿島」「香取」共に、最初から練習艦として設計されました。

それまで練習艦として遠洋航海に使われていた「出雲」が
石炭艦であったことと、老朽化してきたことから後継のため建造したもので、
艦名には、士官候補生の「旅立ち」の艦であることから
「鹿島立ち」という言葉に由来するこの名前を採用したのです。

Wikipediaには「艦名は鹿島神宮に由来する」とあるのですが、
神宮はむしろ後付けで、

「人生の門出、出発」

を意味する古語から引用したと考えた方がいいかもしれません。

 

最後に。
練習艦だった「八雲」は戦後、復員船として改装を加えられました。


戦後復員輸送船となった時代の「八雲」の模型までありました。

武器も何も積んでいない丸裸の元巡洋艦がこうやって模型で表現されているんですね。

「艦橋天蓋は固定化。艦橋後部に構造物」

「後部艦橋はエンクローズドされてる。
訓練用操舵室が残されている」

「スタンウォークは撤去」

全盛期?と復員時の「八雲」の模型を並べてみました。
どこがどう変わっているのか一目瞭然なのも模型ならではです。


続く。

 

 

 

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バンクーバーに眠る士官候補生〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊 遠洋航海

2018-02-10 | 軍艦


南米から西海岸側を北上し、桑港に停泊した練習艦隊。
7日間の帰港中、ロスやサクラメントまで足を伸ばし、
西海岸を満喫しました。

現地の日系同胞たちの歓待ぶりは大変厚いものであったようです。

その後艦隊はさらに北上し、カナダはブリティッシュコロンビアを目指しました。

当時のブリティッシュコロンビア州総督、州大統領、そしてビクトリア市長の写真。

BC州バンクーバーにはエスカイモルト軍港があります。

■ エスカイモルト

(桑港よりエスカイモルトまで
航程 784哩  航走 三日1時間)

(自 2月2日 至 2月6日 4日間)

濃霧に悩まされ激浪に弄ばれつつ北航せし艦隊は2月2日払暁
威風堂々ジャン・デ・フカ海峡にその雄姿を現せり。
一日我等は百武司令官の同窓草野候補生の墓前に花輪を捧げて英霊を葬いぬ。

皆様、お待たせしました。

わたしが当シリーズ最初に、

「当初予定されていた練習艦隊司令官を、翌年の別コース予定だったはずの
百武中将が直前になって古川中将と交代したのはこのためではないか」

と推察した、例の「同級生の墓参り」の写真です。

キャプションによると、練習艦隊乗員たちは丸一日を費やし
この墓参りを行なったとのこと。

もう古くなった墓石には大きな花束が二つ。
おそらく一つは現地に案内したカナダ海軍からの弔意を表すものでしょう。
ここはカナダ海軍墓地でもあるのです。

百武司令は右から6番目におり、その右側にはカナダ海軍軍人、そして
練習艦隊各艦の艦長が三人並んでいます。

この墓石の下に「百武司令の同級生草野候補生」が眠っているのです。


海軍兵学校名簿によると百武三郎が50名中一位のクラスヘッドとして
卒業した兵学校第19期のクラスに、「草野春馬」という生徒がいました。

彼ら兵学校19期は1892年(明治25年)海軍兵学校を卒業し、少尉候補生となり、
当時の遠洋航海に出航しました。

兵学校の練習艦隊が正式に海軍の行事となったのは明治36年、11年も後のことですが、
記録にはないものの、当時の兵学校学生も練習艦隊による遠洋航海を行なっていたのです。

当時はまだパナマ海峡は影も形もありませんので南米に立ち寄ったかどうかはわかりませんが、
ハワイとバンクーバーを含む北アメリカを就航したと思われます。


その航海中、百武中将のクラスメートだった草野春馬(しゅんま)候補生は、
航海中に肺炎に罹り、
急死してしまったのでした。

ちなみに当時は「ビタミンの父」(又の名を海軍カレーの父)と言われた
軍医総監の高木兼寛がタンパク質と麦飯の導入で航海中の脚気を激減させたばかり。
これによって遠洋航海が可能になったということではあったものの、
当時の医療技術では若い候補生の命を救うこともできなかったのです。

今ならもし長期航海中に死者が出たら、冷蔵庫で遺体を保存して連れて帰ることができます。
大正13年のこの遠洋航海においても、どうやら航路途中に事故があって、
11名もの乗員が死亡した「らしい」のですが、彼らの遺体はホノルルまで運ばれ、
そこで荼毘に付されたのではないかと思われます。

しかし当時はそれすらもできず、寄港していたビクトリアの当時の管轄省の許可を得て、
特別に同地にあるエスクワイモルトの海軍墓地に遺体を葬ったのでした。

この写真を見ると、練習艦隊司令官百武三郎中将は、『どんな無理をしてでも』
彼の人生で最初で最後となるであろう同級生の墓参りをしたかったのだろうなと思います。

 

現在、かつての海軍候補生草野春馬の墓は、同じ場所でこの写真と同じ姿のまま、
現地の人々によって管理されているということです。


そしてこの草野候補生には、百武司令と海軍兵学校の同級生がおそらく
夢にも知らなかったであろう出生にまつわるこんな噂があるのです。

坂本龍馬の隠し子か?! カナダに眠る カナダ龍馬会、バンクーバー島へ墓参

「カナダ龍馬会」なる団体が存在するというのも驚きますがそれはともかく。

草野という男が貰い受けた元遊女が、当時2歳の男の子を連れており、
彼女がその男の子の父は坂本龍馬だと言っていた、というのだけが証拠だそうです。

確かに歴史的には全く証拠のない話で、現在顧みられていないのも当然かもしれません。

しかし男と違って女性は子供の父が誰かは一番よく知っているでしょう。

だからもし本人が意識的に嘘をついていなければ、という条件で
それは本当のことである可能性がないわけではない、と控えめに肯定したいところです。

遊女の産んだ子供が長じて海軍兵学校に入学できるほどの俊才となったのも、
龍馬の血を引いていたから、と考えれば説得力が増しますしね。

何が何でもその真偽を知りたければ、現在ならお墓を掘り起こして
現在も続いていると言われる龍馬の血筋を持つ子孫との間で
DNA照合をすることもできるでしょうが、今のところそこまでの話はなさそうです。


いずれにせよ坂本龍馬の隠し子が海軍軍人を目指して兵学校に進み、
異国の地で客死した、というのは何か秘められたロマンを感じさせますね。 


■ ビクトリア市

エスカイモルトの南3マイル、電車にして10分にして、
ビクトリア市に達す。
ビクトリア市人口7万、閑静にして且つ壮麗

一度春風駘蕩の季に会せんか緑樹鮮明にして百花爛漫、
市は忽ちにして一大公園に化すと。

右は議事堂、真ん中が歓迎会の行われた「エンプレスホテル」。

今はフェアモント資本によって経営されている5つ星ホテルで、
ブリティッシュコロンビアのシンボルのようになっている建物です。

1908年開業という同州でもっとも古いホテルとして有名ですが、
彼らが訪れた頃にもすでに開業して20年近く経ち風格が出ていたことでしょう。

市の東方サーニッチ小丘上に72寸の望遠鏡を有する
世界第二の天文台あり。

「ビクトリア天文台」とキャプションがあるので、これを頼りにすると
探すのに苦労しましたが、
これは写真にも

Dominion Astrophysical Observeatory

と書いてあり、またロイヤルBC天文台とも呼ばれるようです。
1918年に開設されたので、この頃はまだ数年しか経っていません。

真ん中が百武司令、右端八雲艦長、左端浅間艦長、後列左出雲艦長。
百武司令左がバンクーバー市長であろうと思われます。

写真が撮られたのは裁判所前の階段ということです。

カナダのボーイスカウトの海軍版、シースカウトの少年が歓迎してくれました。
セーラー服を着ていますが、カヤック、カヌー、帆船、
その他の手漕ぎ舟などをスカウト活動で行います。

今の日系カナダ人は中国系の圧倒的多数に隠れて全く存在を見聞きしませんが、
第一次世界大戦の時には、カナダに忠誠を誓うため、日系男性が数多く
志願してヨーロッパで戦闘に加わり、52名もの戦死者も出ています。

バンクーバー市はこの時第一次世界大戦に出征した日本人兵士達を讃え、
このようなモニュメントを建てて顕彰しました。

このモニュメントは現在も残っています。
それどころか、

T. IWAMOTO MM   I. KUMAGAWA LCPL

など、戦死した52名の名前が刻まれたプラークの下には

第二次世界大戦 C.W. MAWATARI    M.TANAKA

朝鮮戦争 T. TAKEUCHI

アフガン戦争 M. HAYAKAZE

と最近までの日系人戦死者の名前が記されているのです。

 

その後、日米開戦に伴い、カナダ国内でも日系人は国民の激しい敵意にさらされ、
強制的に移動させられ、労働キャンプに言ったり、収容所に入れられたり、
中には日本に強制送還になった者もいました。

この慰霊碑も、その間はいつも燃えている火が消されていたといいます。



ところで、平成29年度の自衛隊練習艦隊も、同じバンクーバーに寄港しています。
日系移民150周年、日系人強制収容75周年に当たるということで、
練習艦隊はまさにこの慰霊碑に献花を行なっています。(9月19日)
写真には、この慰霊碑を取り囲み、全員で敬礼をしている様子が残されています。

また、来年は日加修好90周年に当たるということで、その歴史についても
現地の友好行事でアピールしあったということです。

 

 

歓迎会の催されたのはバンクーバーホテル。
これも現在はフェアモント系になっています。

バンクーバー、グランビルストリートの当時の眺め。

現在の同じ場所と思われるところをストリートマップで。
はっきり言って見る影なし。

C.P.Rホテルから見たバンクーバーの街。

こんな豪壮なホテルで歓迎会が行われたようです。
しかしホテルバンクーバーに似てますね。

候補生の皆さん、ノースバンクーバーのキャピラノ吊り橋に行ったようです。
キャピラノ吊り橋はキャピラノ川に架か理、現在の橋は長さ140m、
川からの高さは70mであるということです。

赤道直下でお正月を迎えたかと思えば、このような極寒のカナダへ。
マントを着ていますが、それでも寒かったでしょうね。

スタンレーパークで撮られた写真ですが、乗っているのは候補生ではありません。
現在写真を検索してもこのようなものはなく、おそらくは
現在ではこれほど大きな木は無くなったか、保護されているのでしょう。

ほとんどの巨木は、過去三回(一番最近は2006年)の暴風雨で倒れたそうです。

英語版のwikiを読んでいただくとわかりますが、
ここがスタンレー卿によって公園になることが決められた時、
まだ内部にはたくさんの人が住んでいたのだそうですが、彼らは
かなり強硬に(中国人移民は家に火をつけられている)追い出されたようです。

カナダ人も大概ひどいことしますね。


続く。



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サンフランシスコ「在留同胞よ健在なれ」〜大正13年 帝国海軍練習艦隊

2018-02-08 | 軍艦

さて、練習艦隊がサンフランシスコに寄港したのは一週間という期間でした。
その間、彼らはわたしにとって非常に馴染みのあるあの街を探訪したようです。

冒頭の写真は、サンフランシスコの現在のベイブリッジ側ですが、
まだ橋など影も形もなかった頃で交通の全ては船に頼っていました。

今、市のモニュメントとなっているクロックタワーはフェリーの発着所でした。

■ 市中及び近郊見学

黄金花咲く金門公園内に燦然たる日本の茶亭を見出すのも懐かしい。
加州大学、スタンフォード大学、オークランド、アラメダ等と
候補生の見学は中々忙しかった。
亦ロスアンゼルスの日本人会の招待で乗員の一部は此の短い滞在の
二日を割いて遠くロスアンゼルス市の油田及び市中見学に赴いた。

クロックタワーがこの右手突き当たりにある当時のマーケットストリートの様子です。
マーケットストリートはサンフランシスコのダウンタウンのメインストリートで、
企業や銀行、デパートなどがあり、今でも同じ線路の上を路面電車が走っています。

サンフランシスコ在住時、TOの勤め先はちょうどこの右側にあり、
市のはずれの我が家からは路面電車で乗り換えなしで来ることができました。

どこでも車で行くことが出来るアメリカも、ダウンタウンは駐車場が高く、
路上のコインパーキングも少しでも時間をオーバーすると、
鵜の目鷹の目で狙っている駐車違反切符係が飛んできて、それこそ
目玉が飛び出る程の罰金を払う羽目になるので、この辺りのオフィスワーカーは
オーナーや重役もない限り公共機関で通勤しています。

この写真の説明には、

「金門公園の海岸に建てられたる家」

とありますが、このブログを読んでくださっている皆さんのなかには、
もしかしたらこれが「クリフハウス」という
温水プールのあるスパハウスの
付属レストランであることを
覚えている方もおられるかもしれませんね。

これを「家」と一言で言い切ってしまっているのは、もしかしたら彼らは
実際にここに行き写真を撮ったわけではなく、絵葉書か写真を買ってきて
アルバムに掲載したからではないかという疑いが持たれます。

ここはわたしが毎年のように訪れているサンフランシスコ西北端の「クリフサイド」です。
昨年の夏もここでクジラを見たことなどをご報告させていただきました。

これも繰り返しになりますが、ここにはスートロ・バスズという
温水プールと、当時の併設されたレストラン施設「クリフハウス」があり、
この写真に見える建物は、焼失した初代に代わって建てられた2代目です。

しかもこの2代目クリフハウスは

1907年に台所からの火事で消失している

はずなのです。
せっかくサンフランシスコ大地震で持ちこたえたのに、よりによって
その翌年、わずか11年で姿を消してしまいました。

1907

で、なぜ1924年の練習艦隊のアルバムに写真があるのかなー?(棒)

当時の日本とアメリカの距離はあまりに遠く、事実を確かめることなどできないと
甘く見て、アルバム製作者は
買ってきた写真でお茶を濁したのでしょう。
実は焼失してもう存在していなかったため、行っていないことがバレてしまったと。

まあ、バレたと言っても指摘しているのはわたしだけですが(笑)
当時の貨幣価値とスケジュールの多忙さを考えると無理からぬことという気はします。

ちなみにクリフハウスは建て替えられた後にも続けて4回火事で焼けています。

この、ゴールデンゲートパークにある「ジャパニーズティーガーデン」の写真も
どう見ても買ってきたハガキではないかと疑われます。

まあ、行ったかどうか怪しいクリフハウスと違って、ここは実際にも見学しております。
と言いながら、わたしは住んでいたくせに今まで一度も行ったことがありません。


ゴールデンゲートパークの日本庭園は、1894年に開かれた国際博覧会の際に造園され、
公共の日本庭園としては
米国で最も長い歴史を持っているということです。

博覧会が終了した後、ここで茶店を経営していた日本人の萩原真という事業家は、
この訪問時点ではまだギリギリ生存していたということですが、翌年、
1925年に萩原は死去し、萩原の遺族が管理を続けていました。

その後1942年になってルーズベルトの出した日系人排斥令にしたがって
萩原の家族はこの家を追われて強制収用所に収監されることになります。

排斥令に伴い「ジャパニーズ・ディーガーデン」は「オリエンタル・ティー・ガーデン」
に改名され、園内のティーハウスの運営も萩原家から中国人の手に渡りました。

戦後、元の「ジャパニーズ」に名称も中身も戻されたのはいいのですが、
2007年時点では、どういうわけか経営はやっぱり中国人だったそうなので、
多分今でもそうなんだろうと思われます。(投げやり)

「加州大学」で軍事教練を見学中、とあります。

加州大学とはカリフォルニア大学のことですが、ご存知のようにカリフォルニア大学には
「バークレー」「ロスアンゼルス」「デイビス」「サンディエゴ」など、全部で
10大学を含むシステムで、ここに写っているのはおそらくサンフランシスコ校、
UCSFということになります。

昔から医学で有名な大学なので、軍事教練をしていたというのが不思議な気がしますが、
普通大学でも教練が行われていた時代がアメリカにもあったということでしょうか。

写真は現在のUCSFのある地帯で、朝らしく、霧が濃いのがわかります。

練習艦隊御一行様、この7日間の間にスタンフォード大学まで行っています。
サンフランシスコからスタンフォードまでは今でも車で1時間、
当時の道路事情と車の性能ではもっと時間がかかったと思うのですが、
それでも西海岸の有名大学をこの機会に一眼見るべきと判断したのでしょう。

写真に写っているのは今でももちろんキャンパスにある

スタンフォード・メモリアルチャーチ

です。
1903年に建造され、大地震では大きな被害を受けて再建されています。

今のスタンフォードは観光地化していて
いつ行ってもどこに行っても人が溢れています。

このメモリアルチャーチは、大学創業者である

リーランド・スタンフォード(1824−1893)

の死後、夫人が彼を慰霊する意味で建てたものです。
実はスタンフォード大学は正式名称を

「リーランド・スタンフォード・ジュニア大学」
 Leland Stanford Junior University

と言います。(今も)
かれの15歳で腸チフスのため亡くなった息子の名前で、
父親であるスタンフォードが永久にその名を残すために作ったのです。

カリフォルニアの州庁舎所在地がサンフランシスコではない、ということを
実はわたしはこの写真によって初めて知りました。

サンフランシスコを内陸に車で1時間半くらい行ったところにある
サクラメント市というのがカリフォルニアの州都だったのです。

ちょっと不思議な気もしますが、この理由は州都制定当時(1854年)、
ゴールドラッシュの影響で人口が多かったということからです。
ゴールドラッシュはサクラメント近郊で1847年金が発見されたことに端を発します。

ちなみに米墨戦争以降、州都は

サンノゼ→バレーホ→ベニシア→サクラメント

と変遷してきています。

サクラメント市はカリフォルニア州議会を持ち、
今でも写真の議事堂で上・下院議会を行っています。

1890年以降、ロサンゼルスに油田が発見されました。

以後、ロサンゼルス、オレンジ・カウンティー各地で油田の発見が相次ぎ、
ゴールドラッシュでサクラメント近辺に集まっていた人口は
今度は「オイル・ラッシュ」でこちらに民族大移動してきます。

金鉱を掘り当て一攫千金のチャンスをものにした人などごく一握りで、
食い詰めていた人たちが多かったということなんですね。
ちなみにリーランド・スタンフォードはその「ごく一握り」の成功者です。

一大石油産地となったロスアンゼルスは、その後テキサスで油田が発見されるまで
アメリカの石油消費の大部分を支え続けて成長しました。


さて、我が帝国海軍練習艦隊の乗員の一部は在米7日の間に、
2日を割いてロスアンゼルスまで行ったとあります。

当時、これもスタンフォードが作った鉄道会社によってサンフランシスコから
ロスまで汽車で行くことができたので、それを使ったのだと思いますが、

サンフランシスコーロス間は今でも汽車で8時間はかかります。

たった二日の行程で、これは体力的にもかなりきつかったと思われますが、
ロスの日本人会のたっての希望でどうしても断れなかったのかもしれません。

現地の日系が、練習艦隊の寄港をいかに楽しみにしていたかがわかります。

 

説明にもあるように、候補生たちは此の短い日程でオークランド、
そして当時は海軍の軍港があったアラメダにも行っています。

前回ご紹介した「ワイレー中将の艦隊訪問」はここで行われたものと思われます。

 

駆け足だったに違いないロスアンゼルス市内観光では、なんと
ワニ園を見学しているという相撲部員の写真が・・・。

なぜ相撲部?なぜワニ園?色々と謎です。

今現在ではロスにワニ園と関係する施設は存在しません。

 

勇ましき出航用意の喇叭は響きぬ。
早くも数台の飛行機に爆音勇ましく濃霧尚晴れやらぬ中
空に雁行をなして我を見送り、日章旗揚げし「ボート」は
数多艦隊近く続りて別離を惜しむ。

さらば 桑港よ 金門港よ

  在留同胞よ 健在なれ

 

艦隊が訪れる直前の1924年7月、アメリカでは移民排斥法が成立しました。
これにより日本人を含む「白人以外の移民」はこれを禁止されることになり、
移民先を失った日本は満州にこれを求めたという説があります。

何かと非難される日本の大陸進出の遠因は、実はアメリカが作ったという考え方です。
もちろんそれは単なるこじつけだという説もありますが、実際満州に
新天地を求めて行った人の多さを考えると、それもそう大間違いではないような。

少数とはいえども移民する権利が存在する状態と、完全に移民する権利が奪われて
1人も移民できなくなることの間には、超えられない差が存在する(wiki)のです。

いずれにせよ、排日移民法が当時の国内外日本人の反米感情を産んだのは間違いなく、
当のアメリカにこれだけ追い込まれては、戦争は単にきっかけ次第だったという気もします。

日本からの練習艦隊がサンフランシスコを離れる日、アメリカ海軍は
当時主流だった複葉機の編隊飛行を行い、艦隊を見送りました。

詳細は記されていませんが、練習艦隊が出航したのを見計らって
飛行機が上空を追い抜いていくように飛び去ったのだと思われます。

これもアメリカの日本海軍に対しての国力と戦力誇示であったというのは
少々穿ちすぎる考え方かもしれませんが・・。

 

 

続く。

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殊勲艦〜実験開発潜水艦「ドルフィン」AGSS-555

2018-01-31 | 軍艦

さて、前回この実験潜水艦「ドルフィン」が遭遇した事故と、
最悪の状態から死傷者をゼロにし艦体を失わずに済んだのは
一人でポンプ室で排水を行った機関士の働きのおかげ、ということを
お話ししたわけですが、その原因は魚雷発射管の扉の故障でした。

艦内から魚雷を外に撃つ仕組みというのは、魚雷発射管に魚雷を装填した後に
扉を閉め、管内に水を注入してから前扉を開けるというものです。

魚雷発射管から海水が逆流してきたという状況には間違いがないと思うのですが、
英語での解説によると

when a torpedo tube door gasket failed, and the boat began to flood.

となっているので、どうやらドアのパッキンの不具合のようです。
つまり、魚雷発射管のドアを閉めているのに水が入ってくる、どうして?
となった可能性がありますね。


機関士の献身的なダメージコントロールのおかげで沈むのを免れた「ドルフィン」は、
その後サンディエゴで3年半に及ぶ修復工事を受けました。
その後任務に復帰したのですが、一年も経たないうちに海軍は退役を決めています。

この理由はなんだったのか、なぜ50億円以上もかけて修理したのに
わずか1年で運用をやめなければならなかったのかはあまり詳しくわかりません。

修理したもののどうも調子が良くなかった(一度海水に浸かってしまった機器類に
不具合が出るのは当然)ということも考えられますが、わたしはむしろ海軍としては
一度海水が流入した潜水艦を実験艦として使うことはもうできないとしながらも、
せっかくヒーローが命をかけて沈没から救った艦体を無下にスクラップにするにしのびず、
とにかく使えるようにして再就役させることにしたのだと踏んでいます。

1年、つまり形だけ使ってもういいよね?って感じでこの金食い虫(運用費が年20億円)
を仕方なくといったていで退役させたのではないでしょうか。

さて、続きと参りましょう。

このドア(丸窓がついていたところ)はここから外に出入りできるようになっており、
全ての乗員と全ての物資はこのセンターハッチを通りました。

もし大型の機器類を搭載する場合には、分解して小さくするか、主要構造物の場合には、
艦体をカットして運び入れることもありだったそうです。

今回わたしたちが通ってきた入り口と出口はここに展示されるようになってから
見学者のためにつけられたものでもともとはありません。

「ドルフィン」には外付けの換気口があり、海上航走などの際に
エンジンルームに空気を送っていましたが、
潜航中のエンジンを動かすためのシュノーケルはありません。

開口部はブリッジ部分へと繋がっており、そこには通信機器やsound-powered phone
(外部電源を使用せずに、ハンドセットを使用して話すことができるデバイス)
などがあります。

いかにも冷戦時代の潜水艦内部ですが、1968年の就役ですから当然です。
つまり、そろそろお役御免という2002年になって事故を起こしたのですから、
やっぱり本来はそこで廃艦のはずが、命をかけて艦を救った機関士に免じて
あえて修理して1年間だけ使ったというのが正解のような気がしてきました。

だとすると、アメリカ海軍というのは情を汲む組織というか、
「ヒーロー」というキーワードにはあくまでも敬意を払うんだなと思います。

この部分はバラストコントロールやベント、
非常用のバルブ操作スイッチなどがあるパネル類です。

電源パネル。ウィットモア社製品です。

アンプなど電気関係パネル。
それにしても、この前にみたソ連の潜水艦とはほぼ同時期に建造されているのに、
この違いというのは一体なんなのでしょうか。

建造にかかった期間も4年(ドルフィン)に対して2ヶ月(ソ連潜)です。

時代を感じさせるスライド式のスイッチはエンジンの状態をチェックするもの。

個室のデスクに星条旗柄のリボンとともに置かれた白いヘルメットには

「コマンディングオフィサー USS ドルフィン」

とあります。

こちらはお手洗い。
手は?手はどこで洗ったらいいの?

アクリル板で塞がれたハッチがありました。
左に二本のレールがありますが、ここを両手で握って、ハッチ下の
梯子段に足を乗せ、上り下りするわけです。
一度実際に入ってみて知ったのですが、潜水艦の上り下りはこのように、
ハッチを密閉する必要から梯子が繋がっていないのが普通みたいですね。

一人だったらもう少し丁寧に下の階を撮ったのですが・・

しかも左側壁のバーを掴んで降りていくと、その先で梯子段が奥に変わるので、
体をねじりながら降りていかなくてはなりません。
大変難易度の高い梯子なので、寝ぼけていたり酔っていたら踏み外すのは必至。

ダイニングホール、ワークステーション、レクリエーションエリアなど、
食事全般を作るキッチンで、軍艦には珍しく階級によって分かれていません。
全体の人数がそんなに多くないせいか、大変リベラルというか民主的な作りです。

ところで、なぜか調理台の上にゆで卵の殻が落ちてるんですが・・・いつの?

ここではお泊まり企画はもちろん、貸し出しもパーティもしていないはずですが・・。

エンジンのような大きな構造物の上に建物が載っているような部分。
プロペラ(推進器)のモーターがこの下にあります。


なんとここにも洗眼器があるではないですか。
よっぽど目に埃の入りやすい状況だったのか?

DOLPHININST 5400. 2D CH-13

としてスピードの段階別の推進器の状態が書かれています。

おそらく「ドルフィン」の推進器ということで勝手に名前をつけたのではないか、
と思われるのですが、下線部の部分、スペルミスではないかという疑いが・・。


このピカピカしたテーブルはぐるぐる回すともしかしたら人力でプロペラが回るとか?

ここにあるのは推進器関係のモーターなどです。

機械関係がメインデッキ階に収まっているのが独特の構造です。

こういうのをみても何が何だかわからないのですが、一応わかる人もいるかと思いまして。
AHPって何かしらと検索してみたのですがわかりません。
別のところに ”HP AIR DISTRIBUTION”とあるので、空気を送るものだと思うのですが。

こちらはHPAC関係ときた。

Heating Piping Air Conditioning

って感じ?(適当)

さて、実験艦「ドルフィン」の見学はここで終わりです。
おそらく下の階には寝室やレクリエーションセンターなどがあったのでしょうが、
そこに行くには先ほどのラッタルを降りて行くしかないので公開していません。

さすがに一般人用の階段をもう一段設置する余力は博物館にはなかったようです。

外に出ると、後ろにもう一つ帆船が展示されていました。
スコットランドの城主のために建造されたスチーム式木造ヨット、
「メデア」号ですが、朝からずっと見学を続けたわたしたちは
さすがに疲労困憊して「メデア」を見る気は全く残っていませんでした。

「ドルフィン」の尾翼上には、これでもかと鳥避けが建てられています。
こうでもしないと、彼らの落し物で真っ白になってしまうからです。

退出するためには一人しか通れない通路をこうやって一列で進んで行くしかありません。
ちなみに前の一団は我が日本国のボーイズでした。


こうやって改めてセイルを見ると、潜望鏡は一本だけ。
あとは通信関係のアンテナらしきものがあるのみです。

もちろん実験艦ですから魚雷を撃ったりはするわけですが、ナイトビジョンなど
潜望鏡を二本つける必要はなかったせいか、大変シンプルな外観です。

ボランティアの解説員らしいおじさんがニコニコとお見送りしてくれました。
あ、よくみたらカメラ目線だ(笑)


最後に、実験艦「ドルフィン」の「戦果」をあげておきましょう。
彼女がどんな実験と記録達成を行なったかの一覧です。

●潜水艦から航空機への光通信に最初に成功

●レーザーイメージングシステム鮮明度を上げる開発

●オハイオ級潜水艦用超低周波(ELF)アンテナの開発

●様々な非音響ASW技術の評価

●アクティブソナー傍受の様々な評価

●モバイル・サブマリン・シミュレータ(MOSS)システムの初の潜水艇発射

●BQS-15ソナーシステムの潜水試験に最初に成功

●高精度(10cm)の牽引体位置監視システムの開発

●障害物除去 Sonarシステムの開発

●高精度な目標管理システムの開発

「5th・システム・オブ・ネイチャー」の評価

●潜水艦から航空機への双方向レーザー通信に最初に成功

●最深度潜行、3000フィート以上に成功

なお、一度改装された後に行われたソナーシステムの実験の結果、
現在のアメリカ海軍の潜水艦はそれを搭載しています。


これだけの実績を上げ、かつ乗員の英雄的な行動で沈没を免れたという
功績艦なのですから、こうやってその姿を後世に残すことになったのも
アメリカ海軍的には当然だったといえましょう。

 

 

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ワイズ機関士の勇気〜実験潜水艦 USS 「ドルフィン」 AGSS-555

2018-01-29 | 軍艦

 

カリフォルニア州サンディエゴのマリタイムミュージアム、海事博物館には
帆船から潜水艦まで、様々な船のコレクションが公開されています。

左の「スター・オブ・インディア」、それと直角に繋留しているのがレプリカ「サプライズ」、
その後ろがソビエトの潜水艦フォックストロット型の「B-39」。

これらを見学して来たわけですが、その真ん中にある白い客船風のが
蒸気フェリーの「バークレー」。
ここは全ての展示船のための中心的なオフィスがわりになっています。

この中に入っていくと、反対側にもう一つ潜水艦があるのに気がつきました。

深度実験潜水艦であった「ドルフィン」です。
潜水艦の実験艦というのがあるとはこれを見るまで知らなかったのですが、
例えば「ドルフィン」での実験によって、1990年末には新しいソナーが
潜水艦隊に導入されたりしています。

「ドルフィン」という名前のつけられた艦はこれで7隻目になるそうです。

建造は1960年、同じ頃に隣にある「B-39」が起工からたった2ヶ月で
就役したのに対し、こちらは4年半もが費やされています。

実験艦であると同時に彼女自身の艦体が実験的な仕様だったせいです。

もし潜水艦に詳しい方がこの写真を見ておられたら、
この潜水艦の画期的なところに気づかれるかもしれませんね。

そう、この潜水艦にはシュノーケルマストがないのです。

実験艦であり戦略のために長時間潜行する必要がないからでしょうか。
その辺の理屈はわたしにはどうもよくわからないのですが、とにかく、
ディーゼルエンジンが稼働している時には必ずハッチを一つ開けておいた、
と英語の記述にはあります。

蒸気船「バークレー」の船内からドルフィンへのエントランスがこのように繋がっています。
現地でこの

「 DEEPEST DIVING SUBMARINE」

を見た時にはアメリカ海軍のフネによくあるキャッチフレーズみたいなものだろう、
と思ったのですが、実験艦であったと知ると、別の意味が見えて来ますね。

「ドルフィン」は1964年12月19日にメイン州のポーツマス海軍造船所で起工し、
進水式は1968年6月8日、あのダニエル・イノウエ夫人によって命名されました。

ダニエル・ケン・イノウエは日系人部隊出身の上院議員で、つい最近、
出身であるハワイの空港に彼の名前がつけられたことで知る人も多いでしょう。

ついでにサンノゼ空港には「ノーマン・ヨシオ・ミネタ」という名前がついています。

右側の潜水艦の全貌をご覧ください。

「ドルフィン」の外殻は全くの直径の円筒であり、その端部が
半球形の頭部で閉じられているだけというのがよくわかるでしょう。

シンプルなのは外殻だけでなく、バルクヘッド、内部隔壁も同じく、
代わりにフレームを使うなどして単純化されていました。
構造実験や試行での使用を容易にするためです。

就役してわずか2ヶ月後の1968年、「ドルフィン」は
3000フィート(914m)の深々度に潜行することに成功し、
これは当時の世界新記録となりました。

アメリカ海軍の記録でも、これは現在も破られていません。

また、翌年の1969年、「ドルフィン」は最も深い深度からの
ミサイル発射を行なった潜水艦として世界記録を更新しました。

 

調査と研究のために作られた潜水艦だったので、乗員は
海軍軍人(士官3名、兵員18名)以外に、民間の研究者が
4名乗り込んでいました。

彼女の功績についてはおいおいお話ししていくとして、
早速中に入って見ることにしましょう。

実験艦と知って中身を見れば、兵器としてのそれとは若干佇まいが違うというか、
搭載している機器類もその目的に応じていて非常に実験室的であります。

 

説明がないのでよくわからないのですが、真ん中の7角形に

5ミクロン フィルター

とあります。
海水を採取するものらしいと想像。

わざわざ洗眼器を備えている潜水艦を初めてみました。
確か「コンスティチューション」のメインデッキにも洗眼器がありましたが、
あれは作業的に目を洗う必要があるのだろうという気がします。

潜水艦の実験等で目を洗う必要がかなりあったということですよね?


 

洗眼器がどういう際に役に立ったかを知ることは、実験艦
「ドルフィン」の活動についてより詳しく知ることになりそうです.

アンプがあることから、通信室だと思われます。

スツール式の椅子はレールの上を稼働するようになっていますが、
違いが干渉し合わないような仕組みでこれも初めて見ます。

あきしお」の中の士官用バンクにとても似ています。
整然と天井まで並んだ4段式のバンク。
機能的かもしれませんが、蚕棚みたいできつそうですね。

説明にもあるようにレイディオ・ルームです。
衛星を通じて声とデジタルデータで通信を行なっていました。

UHFのアンテナはセイルの頂上部分に設置されています。

イディオルーム、反対側。
わざわざ「フォー・ディスプレイ・オンリー」として
展示用であることを断っている機器もあります。

この一帯がコントロールルーム。

ここに勤務するのは操舵手、バラストと推進をコントロールする
「コーントロールマン」2名、ナヴィゲーター、レーダー員、
デッキオフィサー、 艦首と艦尾を担当するメッセンジャー兼パシリ、
つまりランナーとなります。

この船窓のような丸い窓は中が真っ暗でしたが何でしょうか。

ここに写っているのはレーダーというかトレーサーだと思われます。

この下がポンプルームで、この説明には「ドルフィン」が遭遇した事故と、
それを救った「英雄的な行為」(ヒロイックアクション)について説明されています。

2002年5月21日、「ドルフィン」はサンディエゴ沖合およそ100マイルの海域で
作戦行動中浮上して航行しバッテリーを充電していたところ、

魚雷発射管の密閉ドアが故障し、海水が浸水してきたのです。

 

折しもサンディエゴは強風のため10から11フィートの波が立ち、
そのせいでおよそ70から85トンの海水が艦に流入してきました。

 

そして浸水による電気パネルのショートで火災が発生します。

「ドルフィン」はその時点で14℃の海水が溢れてきていました。

主任機関士のジョン・D・ワイズ・ジュニアは、海水が増していく
ポンプ室の中にためらいなく飛び込んでいきました。 

90分後、艦長のスティーブン・ケルシー中佐は41名の乗組員、
および2名の民間人に対し総員退艦を命じます。

付近で活動中であった海洋研究船「マクゴー」(McGaw) は直ちに応答し、
乗員は小型ボートに乗って「マクゴー」に移乗。

移乗中に海に落ちた2名は沿岸警備隊のヘリによって救出されました。

その間にも乗組員は迅速にダメージコントロールを行い、
火災と浸水の危機から脱した艦はついに安定した状態になりました。

この日サンディエゴは荒天であったため、牽引することはできず、
その場に放置された「ドルフィン」ですが、翌日潜水艦支援艦の
「ケリー・チョーエスト」(
MV Kellie Chouest) によって母港に戻りました。

この時の機関士ワイズ・ジュニアの働きは壮絶とも言えました。

区画内の機器の状態が全くわかっておらず、コンパートメントの中に
酸素がある状態かどうかもはっきりしないのに、彼はたった一人で
ポンプ室の中に残り、14°Cの水に浸かったまま、まず
区画内に1フィート未満の通気性の空間を確保して、海水弁が並んでいることを
確かめた上で、ポンプによる排出を開始できるようにしました。
弁を開けた後は、ポンプが詰まるのを防ぐために90分以上留まり、
一人で奮闘を続けたのです。

この勇敢な功績により、彼は海軍と海兵隊からメダルを授与されています。

「すべてのものが自分の仕事をしていました。
私は自分のいた場所で起こったことについて自分のやるべきことをしただけです。
とにかく私は艦から海水を放出することだけを考えていました」

受賞の時、ワイズ機関士はこう語ったと言います。

「メダルは『ドルフィン』に贈られたものです。
これを身につけることを許された一人になったのは
ただラッキーだったにすぎません」

同様の事故を起こした他の潜水艦で3名の死亡者を出したことを考えると、
荒天の中でのこの事故での犠牲者がなく艦体も残ったことは
このワイズ機関士の勇気あってこそだったと思われます。

 

続く。

 

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あわや事故!〜平成30年度 陸自第一空挺団 降下始め

2018-01-21 | 軍艦

 

アメリカ陸軍のエアボーン・アカデミーの映像が見つかりました。
巨大なC-17にたくさんの空挺隊員が乗り込んでいく様子、スタティックラインに
フックをかけてとびだしていく様子が映っているので観てみてください。

 Paratroopers Static Line Jump From C-17

やはりこの中にも女性隊員の姿が見えます。
C-17のコーパイも女性だし、スタティックラインを押し出す係も女性ですね。
2年前に解禁になって、過酷な兵種にも女性が参加し、
普通に男性並みの任務をこなしているのがこの映像からもわかります。

日本でもついに潜水艦に女性士官を乗せるという話もありますね。

 

ところで冒頭写真をスクロールして途中でぎょっとされた方もおられるかもしれません。
これ、どうなっているのかすぐにお分かりでしょうか。

大量に空挺降下が行われたこの日の降下始め。
これでもかとC-1やC-130Hなどの航空機からも傘がばら撒かれました。

大型輸送機からの降下は、ハッチの両側から同時に行われます。
わたしの隣に座っていた常連の方(この方も去年は来なかったらしい)が
傘が改良されてから降下と降下の間を開けなくてもよくなったので
両側から飛び降りることができるようになったのだと教えてくれました。

どういうことかというと、傘同士が絡みにくくなったということでしょう。

航空機は時速200キロで航過するので、その結果
両側から同時に飛び降りた二つの傘が固まって降りていきます。

こうやって見ると、ペアになって落下していくようです。

間を開けなくとも飛び降りられるということは、狭い範囲に
一航過で何十人もの降下兵を投入できるということでもあります。

米軍の空挺を見ていただいてもわかりますが、飛行機から出たばかりの落下傘は
ひとかたまりになって
傘同士がぶつかり合ったりしています。


自衛隊の使用落下傘もその点を考慮された設計であるはずですが、
それでも100パーセント安全ということではないのです。

それを実証するかのように、異変が起こりました。

 

 

前後して降りた二人の降下者の、一人のメインキャノピーが
少し上にいた人の索に絡まり付いてしまったようです。

「傘が絡まってるー!」

わたしの周りでこれに気づいた観客は騒然となりました。

少し上空で起こったアクシデントであったらしく、わたしが見たときには
すでにこの状態になっていました。

傘が相手の索に絡んだ瞬間、下の降下者は予備傘を迅速に作動させ開いたようです。

今や二人はメインとその約半分の傘で、繋がったまま降下していました。

メインの傘を絡ませた方も、絡みつかれた方の隊員も、お互いを見ながら
そのままの体勢で降りていきます。

絡みつかれた方はもしかしたら手で絡んだ傘を外すこともできたかもしれませんが、
そうした場合、相手が無事に降下できるかどうかはわかりませんから、
このまま降りようと二人で声を掛け合ったのかもしれません。

いざという時に開く予備傘ですが、メインの傘でも地面に降りた時の衝撃は
二階から飛び降りたくらいだといいますから、こんな小さな傘では
命の保証はあってもその衝撃はかなり激しいものだと推察されます。

空挺団ならきっと予備傘での降下訓練もしていると思うのですが・・。

しかもよりによって、この二人は傘以外に何か大きな荷物を持って降下しています。
遠目ですが、この二人の心中は手に取るようにわかりました。

こんな体勢のまま二人は運命共同体となって降下していきます。
だいぶ高度も下がり、地面が近づいてきました。

ほっ、ここまでくればおそらく事故になることは避けられるでしょう。
しかし肝を冷やしました。

当人たちにとってはこの何十秒かが長く感じられたに違いありません。

一般観衆、マスコミの報道、防衛大臣の前で、しかも降下始めという
「一年の安全を祈願する儀式」で事故が起こるという、
不吉な出来事にならずに済んだことにわたしは胸を撫で下ろしました。

傘を引っ掛けてしまった人がパニクって予備傘を開くタイミングが遅かったら
繋がったまま二人とも墜落してしまう可能性だってゼロではなかったと思います。

当事者が冷静であったことが最悪の事態を防いだと言えるでしょう。
二人とも若い隊員だと思いますが、この場合は最良の選択だったのではないでしょうか。

予備傘でまず一人が着地。
先に降りて傘を回収していた仲間が心配そうに見守っています。

絡みつかれた方も無事着地。
勢いが逆になくなって、着地そのものは二人とも楽だったかもしれません。

とにかく無事でよかったです。

「二人とも怖かったでしょうねー」

「あとで殴り合いになってたりして・・・」

「いや、それより正座で反省会じゃないでしょうか」

「でもミスとか心の緩みとか、誰が悪いという話でもないし」

「それでも教訓にするのが自衛隊というもんですよ」

「ということはやっぱり二人とも怒られちゃうのかな」

ほっとして勝手なことを言い合うわたしたちでした。

招待席で観覧していた方の話によると、周りにいた空挺のOBも

「かなりヤバイ状態だった」

と苦笑いしていたとのこと。
苦笑いですんでほんとよかったです。

もし、傘が絡むというアクシデントがなければ、この二人は抱えた荷物を
このように吊るして降下することになっていたのに違いありません。

非常事態なので二人とも荷物は体に付けたままにしていました。

なんのために荷物を吊るすのかわかりませんが、錘の代わりかな?

問題の二人のところには、どこから表れたのか青いキャップの自衛官が来て、
絡まった傘を解く前に状況を写真に撮っているようでした。

二度とこういうことが起こらないように対策をしっかりしなければ・・・、
と言っても、今回のような偶発的な事態は起こってしまったら防ぎようがないからなあ。

その間もC-1が惜しげも無く傘を撒いていきます。
一つの航空機には20人が乗っています。

次々と航空機からばら撒かれる傘に、皆圧倒されます。
200名もが降下して全ての傘が事故もなく、よそに流れることもなく、
(冗談抜きで習志野は空挺降下をするには少し狭いらしい)
無事に降りることができてよかったと思いました。

今まで見たことがないほど傘が密集しています。
ワンショットで同時にこんなたくさんの傘を画面に捉えられること自体初めての経験です。

C-130Hは愛知県の小牧基地に所属していて、第一空挺団の降下訓練を
支援するのも重要な任務の一つです。

機体は小牧からやって来ているようですが、
一体どこで空挺団を乗せて飛んでくるのでしょうか。
C-1と一緒に入間基地を使用しているのかな?

空挺団の人たちはチヌークか何かで滑走路のある基地に運ばれ、
そこで固定翼機に乗り込んで、習志野に降下するのだと思われます。

日常の訓練のたびにそんなことをしているのだとしたら、
移動手段だけ考えても
大変な手間がかかっているってことなんですね。

ところで、空挺団を支援する航空機のパイロットというのは、
空挺降下訓練に
どのような感想をお持ちなのでしょうか。

今日さるところでチヌークのパイロットから聞いて来たばかりの話を披露すると、

「あれはなんとも言えない変な感じです」

何十人も乗り込んでいたのに、ある瞬間からかき消すように皆いなくなる。
まあ飛び降りてしまうのだから当然なんですが、操縦席の人間にすると、
さっきまで後ろでひしめき合うように乗っていた人間が、次に振り向いたら、
しかも何秒間かの間に忽然といなくなっているわけですから・・・。

凍えるほど寒い一日でしたが、そのおかげで雲は低い位置にしかなく、
傘が大変綺麗に蒼天に散りばめられているような光景が見られました。

招待席の方の感想は

「まさにマーケット・ガーデン作戦、映画『遠すぎた橋』です」


ヨーロッパで第二次世界大戦中行われた有名な空挺作戦で、
「マーケット作戦」「ガーデン作戦」が行われたので「マーケット・ガーデン作戦」。

映画になってましたが、結局空挺作戦は失敗し、連合軍は敗北してるんですよね。

失敗の原因については後世の歴史家がいろんなことを言っていますが、
アメリカの歴史家は「イギリスが悪い」イギリスの歴史家はアメリカが(略)
と、互いに責任を押し付けあっているようです。


ふわふわと降りていき、地面でゆっくりと潰れていく。
まるで水に漂うクラゲを見ているような気分です。

こういう特殊な光景を目に刻む機会はそうあるものでなく、
戦車の活躍はなくとも、十分やってくる価値はあったと今は思っています。

降下する人数が多いと、こんな光景も見ることができます。
ところで彼らはどこに向かっているのでしょうか。

次々とやってくる航空機と降下を見るのに一生懸命になっているうと、
こうやってどこへともなくいなくなってしまう大量の空挺隊員たち。

空挺支援のパイロットではありませんが、これも実に不思議です。

嘆いても詮無いことではありますが、この傘の列を
ぜひ一眼レフで撮ってみたかったなあ・・・・・・・。

 


続く。



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大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜特別編:司令官交代問題結着す

2018-01-10 | 軍艦

当初から話題になっている司令官交代問題ですが、
もしかしたら、最終結論が出たかもしれません。

今北産業のかたのためにもう一度説明しておくと、

wiki、つまり海軍に残っている資料によると艦隊司令は

大正13年度 古川 鈊三郎 大正14年度 百武三郎

であるのに、実際の13年度艦隊司令は百武三郎だった(三行)

という謎です。

とりあえず、大正13年度の遠洋航海に、なぜか14年度の司令官であるはずの
百武中将が司令として参加している、ということは、はっきりしました。

海軍がその交代を書面処理しなかったらしいこともわかりました。

問題は、その変更によってあちらこちらに起きるはずの人事の混乱を捺してまで、
いくら海軍の歴史で唯一の兄弟で海軍大将になるようなエリート軍人のいうことでも
こんな無茶を海軍がホイホイと受け入れるものだろうかということです。

unknownさんがおっしゃるように、ここはのっぴきならぬ
古川中将側の事情があったのではないか、という予想はもっともです。


しかし、一枚の写真の発見が、この問題をどうやら解決させたような気がするのです。
今一度、我慢してお付き合いください。

 

大正13年度遠洋航海練習艦隊は卒業式を終え、江田島を出航しました。

現代の練習艦隊は国内巡航は基本時計回りに寄港地を巡り、
最終的に横須賀に到着することになりますが、この頃の練習艦隊は
そもそも期間が長かった(7月24日に出航して翌年4月4日に帰国)のです。

というのも、当時日本が持っていた統治地方、「外地」をまず最初に
巡ることが決まっていたからでした。

練習艦隊はまず大連、旅順、そして朝鮮半島の鎮海に帰港しました。
順番が最後からになりますが、鎮海寄港の様子をまずお話しします。


【鎮海】

立派な巴里式都市の設計まで出来乍ら、気の毒にも流産した鎮海の町
完成の暁はどんなに美麗であったろう
程遠からぬ統営の古戦場を訪ねて忠烈詞に詣で朱舜臣の健闘を偲ぶ


鎮海要港部庁舎

鎮海は大韓民国の最大の軍港です。

遠洋航海の外地巡行の最後の都市は要港部のあった鎮海を訪問することになりました。

「要港部」というのは舞鶴、大湊と同じような根拠地のことで、大陸には
他に旅順、馬公も要港部とされた港湾がありました。

1904年2月、日露戦争開戦に際して、日本海軍は鎮海湾一帯を掌握、
海軍根拠地の建設が行われ、日本海海戦ではここが連合艦隊の集結地となりました。

日露戦争後は、鎮海湾に軍港を建設する計画が進められ、1910年から
鎮海軍港と都市の建設が開始され、1916年に完成しました。

以後、鎮海は日本海軍の軍港都市として発展します。
写真は当時の要港部庁舎と説明があります。

 

紹介文の

「気の毒にも流産」

が何を意味するのかちょっとわからないのですが、日本の統治後、
「巴里風の」都市建設を計画していたのが何かの理由でダメになった、
という事情か何かがあったのでしょうか。

現在の鎮海は市の中心部にあるロータリーをはじめ、随所に
往時の日本の都市計画の姿を見ることができ、また、
地名には末尾が「町」となる、日本式の地名が付与されたということなので、
ある程度の都市開発は出来たのではなかったかと思うのですが・・・。

水運び

藁葺きの家に石を積み重ねただけの壁、
水道などもちろんないので水運びを子供も行います。

洗濯は井戸の周りで。

忠烈詞というと台湾の衛兵交代のあれしか検索しても出てきません。
統営(トンヨン)の忠烈詞李舜臣を祀っている廟です。

かつて朝鮮水軍の李舜臣がここに統制営を置いたことから、この地の名前は
統営になったという言い伝えがあります。

李舜臣は文禄、慶長の役で日本と戦って朝鮮の英雄となりましたが、
統治後の日本では、李舜臣を「水軍の名将」として敬意を表していたため、
こうやって海軍軍人が忠烈詞を参拝しているわけです。

 

ちなみに、現在でも自衛隊は外国に赴くと、その国を護って亡くなった
軍人の慰霊碑や墓に慰霊訪問を行うことが慣例となっています。

例えば2013年には韓国海軍哨戒艦「天安」沈没事件で犠牲になった46人に
幹部候補生学校の学生が黙祷を捧げるために訪問していますし、
練習艦隊ハワイ寄港時にはでアリゾナ記念館で必ず慰霊を行っています。

今年も顕忠院で「リース・レイイング」を行なったという報告がありました。

 

国際関係は、合意の履行を巡って最近さらに不穏になりつつある日韓ですが、
平成29年度の練習艦隊報告会ではそれを受け、最後の質疑応答の時に初老の男性が

「韓国に行って何か反日を感じるようなことはなかったのか」

と質問されました。
真鍋海将補のお答えは「全くそのようなことはなかった」というものでした。

HPに発表された各地における活動記録を見れば、少なくとも自衛隊と
韓国海軍の間には不穏不快な夾雑物はないものとわかります。

これはスクリーンを撮影したものですが、両手を振っている韓国海軍の軍人たちの
後ろのバナーには、「歓迎 日本練習艦隊訪問」として日韓の国旗が描かれています。



自衛隊寄港の際旭日旗が大騒ぎされたとか寄港を断わられたとか聞きますが、
少なくとも韓国海軍はそのようなことに関わっていないはずです。

 


さて、冒頭に挙げた写真ですが、もう一度ご覧ください。

キャプションには練習艦隊寄港中、「斎藤総督」が訪問した、とあります。
真ん中の海軍軍人、第3代朝鮮総督の斎藤実(まこと)大将のことです。

斎藤は兵学校での中でも「天才」と言われるほど特に優秀な生徒だったそうで、
海軍大将、のちに総理大臣にまで登りつめますが、内大臣だった時に起こった
二・二六事件で坂井直率いる蹶起将校に殺害されることになります。

天皇を誑かす者として、青年将校たちの目の敵にされていたためでした。

 

そして皆さん!お待たせしました。

わたしは皆様に謝らなければなりません。

前回「古川中将はこのアルバムに写っていない」と

きっぱりと言い切ったのですが、申し訳ありません!

斎藤総督の左側・・・古川中将が写っています!

参考画像

これは何を意味すると思いますか?

最初は斎藤大将の右側に座っている人物を百武中将だと思い込んでいましたが、
どう考えても艦隊司令が二人、大将の両脇に座るなんて変ですよね。
そもそも右に座っている人、百武中将に似ているけど少し雰囲気が違う・・・・。

もしやと思って、当時の当時鎮海要港部司令官だった犬塚太郎中将の写真を確認すると・・・、

犬塚太郎中将

ね?

何がね?だ、って話ですが、斎藤大将の右は要港部司令犬塚に間違いありません。
つまり国内巡航の司令官は最初の予定通り古川中将が務めてるってことなんです。

念のため目を皿のようにして国内巡航の写真全て確認したところ、
豆粒のようなものしかありませんが、司令官は百武ではなく
古川中将のような体型顔型をして見えるんですよね。


・・・つ  ま  り  。

練習艦隊出航直前に百武中将は

「同級生の墓参りに北米行きたいから司令官代われ」

と言ったものの、当時舞鶴要港部の司令官という仕事がまだ残っていたので、

国内巡航は古川中将が当初の予定通り行なった

11月からの遠洋航海から司令官が百武中将に交代した

という可能性が出てきました。
これなら書類を書き換える必要は・・・あるけど、まあなんとかセーフ?


ちなみに百武中将は舞鶴要港部司令を

10月3日に退職しています。

そして遠洋航海練習艦隊司令官として、

11月10日に横須賀を出港。(゚д゚)ウマー


そして、遠洋練習艦隊は翌年、大正14年4月4日に帰国
百武は帰国から11日後の

4月15日に佐世保鎮守府長官に着任。(゚д゚)ウマー


かたや古川中将はというと。
当初の辞令通りに、7月末から11月まで13年度練習艦隊国内巡航に参加。

(それでアルバムには両者の写真が掲載されているというわけです)

練習艦隊司令を百武に交代した11月から何をしていたかというと、

軍令部出仕

という謎の配置(なこたーない)で忍び難きを忍び、翌年、
身分は軍令部に置いたまま、百武の代わりに

大正14年練習艦隊司令として国内巡航(2度目)を行い(笑)

そして遠洋航海を最後まで恙無く終えて、4月帰国。

大正14年6月、舞鶴要港部司令官に着任

わずか半年後、百武の後任として(百武からの”御礼”だった可能性あり)

佐世保鎮守府長官に就任(゚д゚)ウマー


どうですか?

これで二人のこの2年の行動が矛盾なく綺麗にトレースできました。

 

つまり、百武中将がなんとしてでも級友の墓参りをするために、
遠洋航海の部分だけ
いいとこ取りした可能性が限りなく高くなったのです。


百武中将の佐世保鎮守府長官の赴任期間は大正14年4月から15年の12月。
結論をいいますと、海軍にはこの1世紀近く、百武中将の

練習艦隊司令官(大正14年〜15年)

佐世保鎮守府長官(大正14年〜15年)

という一人の人物に同時に起こりえない経歴が公式に残されてきたことになります。
どうしてこの矛盾に突っ込んだ人がこれまでいなかったのか。

歴史の些事といえばこんなどうでもいいこともありませんが、
それでもその一つがこうやって明らかになったことで、
今のわたしは、まるで金鉱でも掘り当てたようにワクワクしているのです。


というわけで、最新の結論が出ましたが、今後も
写真を解説しながらハードエビデンスを探していきたいと思います。

エビデンス?ねーよそんなもん、と思ってしまったらそこで終わりです。
(虚構じゃなくて某自称大
新聞に対する嫌味です)

 

最後におまけ。

この有名な、東郷元帥、秋山真之、加藤友三郎が写っている三笠艦上での写真の
後列右上の清河純一という士官の名前を見つけるたびに、
ここで紙面?を割いてせっせとご報告しているわけですが(笑)
今回扱った鎮海要港部大正14年度の司令長官に、この清河さんが就任しています。

若い時に連合艦隊参謀だった清河純一大尉(この頃)、
ちょうどこの練習艦隊の頃には百武、古川と同じ中将になっていたのですね。

 

ちなみに、米内光政も清河中将の二期後に鎮海要港部長官を務めました。

 

さて、大正13年度練習艦隊、順序が逆になりましたが、
もう一度江田島出港直後から外地巡航についてお話ししたいと思います。

 

続く。



 

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かつての敵に囲まれて〜ソビエト連邦海軍潜水艦 B-39

2018-01-05 | 軍艦

ところで、このお正月、「スターウォーズ」観た方おられます?

話の出来についてはいろんな意見があるかと思いますが、それは抜きにして、
自己犠牲により我が同胞を守る、という行為が一度ならず語られ、しかも
それが絶賛されて(というか感動的に語られて)いましたよね。

ホルド副司令の「Godspeed rebels」が出たとき、わたしなど内心
「おおっ」と色めき立ってしまったのですが(笑い)、
皆様はどうご覧になりましたでしょうか。


さて、年末に途中までお話ししたソ連潜水艦B-39の続きです。

前部魚雷発射室からハッチを抜けたところにある士官区画を抜けると、
次に来るのがメインコントロールルームです。

ここはいきなり夜用の照明、つまり真っ赤でした。

昼夜の違いがわからない潜水艦内では、自衛隊の場合昼間は白灯、
夜間は赤灯に切り替えていると以前ここにも書いたことがありますが、
このソ連海軍潜水艦B–39は夜間という設定のようでした。


照明を赤くするのは、ここメインコントロールルームだけになります。
なぜかというと、夜になると当たり前ですが海上は真っ暗です。
潜望鏡を覗くとき室内が明るいと、外の暗さに順応できず、何も見えません。

だから、潜望鏡のある発令所は暗くしておく必要があるのです。
なんでも赤いライトは白色より目に対する刺激が弱く、夜間に暗順応
(明るい所から暗い所に移った場合に目が慣れること)を乱さない、
というのが第一の効果で、昼夜を認識するというのは実は副次的な効果です。

同じ理由で夜はその他の居住区も暗くしておきます。

潜水艦のふるさとであるグロトンで潜水艦見学をしたとき、
彼らが艦内で使用していたトランプのハートとダイヤに黒の縁取りがされ、
赤色灯の下で赤のカードがが見えるようになっていたのを思い出しました。

ソーナーも暗い方がモニターを見やすいので暗くしていましたし、
電子式の潜望鏡になって全員で外の状況をモニターで見られる現代でも
暗い方が画像がわかりやすいという事情は同じでしょう。

ほとんど替え電球やコードリールなどの物置と化しているようですが、
ここがレーダー室だったのかもしれないと思ったり。

ここでまたしてもハッチをくぐります。
あれ?ところで、メインコントロールルームに入るハッチに

「音と光のショー」

って書いてあったはずなんだけど何も起こらなかったぞ?

ハッチの厚みは約40センチ。
というわけで、ここを潜るにはまず片足を向こうに踏み入れ、
一瞬40センチの部分に馬乗りになるようにして上半身を横向けにして
潜って移動することになります。

でも、実際に非常時の乗員はそんな悠長なことしてられなかっただろうな。

ハッチを出たところに謎の文字が書かれた全く何かわからない機器が。
今ロシア語アルファベット表を引いたところ、

「F M SH ー200」

英語のアルファベットに変えるとこうなりました。
余計わかんねーし。

他のハッチは蓋が外されていましたが、ここのはちゃんと元のまま残っています。
ロシアは日本と同じメートル表記なのでわかりやすくていいですね。
しかし、このハッチに書かれた数字の意味はやっぱりわかりません。

縦型テレビ?

ではなくて、こちらに向けてテレビ画面を見せるためには
立てて置くしかなかったのだと思われ。

それにしても内装がアメリカの潜水艦より木造部分が多いのに気づきます。
まるで掃海艇の中のようです。

ここも一応は一人で寝ることができるベッドが・・・。

先ほどの士官用より一回りくらい小さな食堂兼休憩室がありました。
明らかに作りは雑です。

食事はこれは世界共通だと思うのですが、一日4回、
0700の朝食に始まって、夕食、夜食、(6〜7時)、
ティー&スナック2200に提供されました。

やはり潜水艦なのでソビエト海軍の中でもっとも内容が豪華で充実しており、
栄養価も非常に考慮されたものであったということです。

誕生日には恒例としてスペシャルケーキがつきました。
(誕生日を迎えた人だけだったのか、皆で食べたのかは謎です)

こちらも一人部屋・・・・なので、もしかしたら兵用のバンクは
全く別のところにあって、これらも12名の士官用なのかもしれません。
ここなど通気用高なんだかわからない大きな機械と一緒なので
決して静かに寝られそうにはありませんが、それでも

「ホットバンク」(二人でベッドを交代で使う)

でないだけましというものですし、何より一人で寝られるのは
潜水艦勤務では何よりの贅沢というものでしょう。

ここも一人部屋のようです。
ソファは夜ベッドになるということでしょうか。

士官用に飲み物やスナックを用意するスペースまであります。

わざわざロシアの食料品店に行って買ってきた缶詰、おかし、
ビールなどが展示されていて、なかなか凝った演出です。

ソビエト海軍は潜水艦の中で酒を飲むことが許されていたんでしょうか。

なんでもロシア人は酒好きで、嫌なことがあったらウォッカで忘れる、
みたいなイメージがありますし、最近でも入浴剤や工業用アルコール、
飲んではいけないものを酒がわりに飲んでしまうという話もあるのですが、
それはまあ特殊な例としても、潜水艦の中でお酒が飲めたのか、
どなたかご存知でしたら教えてください。

こちらはキッチンです。

ロシア人もマスタードを食べたのか・・・。
それにしても、言葉がわからないというのは、こういうものも
全く読めないので本当に困りますよね。

外国人が日本に来て日本語しか書いていないとどれだけ困るか、
なんだかこれで初めてわかるような気がします。

この中で中身が想像できるのは赤のケチャップだけ。
あっ、ケチャップの横、オートミールって読める(ような気がする)!

左側に説明板があって、Tで始まる何かが書いてあるのですが、わかりません。
何かをテストする部屋のようです。

ここで何段かの階段を降りて行きます。

こちら、潜水艦の心臓部、エンジンコントロールルーム。

ここには兵用の三段バンクがあります。
アメリカの潜水艦と比べると、ちょっとしたスペースがあると
寝床にしてしまっているという感じに見えます。

エンジンコントロールルームの一部。

トイレは案外広いスペースにあります。
足元にレバーがあってそれで水を流していたようですね。

アメリカの潜水艦のトイレと違って、ちゃんと木の蓋がありました。
しかもこの蓋が装飾的で案外なレトロ風おしゃれ。

ここはもう後部魚雷発射室となります。

ベッドに登る乗組員は、靴をいつどこで脱ぐんだろう、と
しばし真面目に心配してしまいます。
まさかベッドの上まで土足ってことはないと信じたい。

しかもこの梯子段だと、寝ている人の上を歩いて
空いているスペースまで行かなきゃならんよね?

ホットバンクの意味は、例えば一つのスペースを二人で使う、といったような
計画的な?ものではなく、このベッドを見る限り、

「自分が寝る時間になった時、空いているスペースでどこでもいいから寝る」

といういいかげんシステムだったのでは・・・((((;゚Д゚)))))))

大きめの薄型モニターでは、冷戦時代のドキュメンタリーが流れていました。
これは・・・アメリカの潜水艦ですよね?

ところで、この部屋に来た途端、結構色彩が華やかというか、
その原因はあちらこちらに付箋が貼ってあるからだということに気がついたのですが、

どこかで付箋を配られて、感想を貼り付けているようです。
そのほとんどが左のようにジスイズソークール、というレベル。
右のは

「MIND BLOW! 」(びっくり、ショック、面白い)

として、絵文字風の顔が書いてあります。
ちなみにこの夏、アメリカではどこにいっても「Emoji movie」の宣伝をしていましたが、
割とみんなEmojiが日本語であることを知らないようでした(笑)

後部魚雷発射管は4基あります。

魚雷発射管の部分は立ち入り禁止のネットが貼ってあったのですが、
皆が付箋を貼るために乗り越えるので、こんな風に垂れ下がってしまって・・。

まあ、どうせ貼るならチューブに貼りたいとか思うんでしょうけど、
それにしてもアメリカ人行儀悪すぎ。

というわけで、外に出るための階段を上がっていくことにしました。
その途中にこんな棚があって・・・

なんとこんなところでも寝ていたようです。

甲板の上は直接歩くことはできず、このデッキを通って外に出ます。

上から覗き込んでみました。

どうも鳥のおうちになっているようです。

セイルの部分も、鉄板の継ぎ目がこんなに浮き上がっています。
よくこんなで潜水できたなあ・・。(木曽艦長的感想)

ここは出口だから入っちゃダメ、とシェパードを連れた
兵士が"Comrade"(同士)と呼びかけて注意しております。

「コムラード」というのは苦労を共にしてくれるような親しい僚友、
仲間、同志、組合員、共産党員という意味で、
もともとスペイン語の「同室の仲間」から来ているそうです。

これを製作したアメリカ人は、「共産党員」という意味があることから
てっきりロシア語源だと思い込んでいたか、アメリカでは
ソ連時代のロシア人がしゃべる時の一つの「パターン」としてこの
コムラードを使っているのかもしれません。

ところで、どこを探してもなぜこの潜水艦がアメリカにあるのかがわかりません。
サンディエゴ海事博物館のHPには

「冷戦終結を告げるベルリンの壁の崩壊から20年も経たないうちに、
彼女はここサンディエゴ湾、かつての敵国にその姿をつながれています」

とあるだけで、ここに来た経緯が全く説明されていないのです。

かつてのソ連海軍潜水艦として、間違いなく米船を攻撃して来た側の彼女の
甲板に立つと、確かに”かつての敵国”の船に囲まれているのを実感します。

っていうか、今でも一応敵国か。


B-39シリーズ 終わり。

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士官食堂の序列〜ソビエト連邦海軍潜水艦 B-39

2017-12-30 | 軍艦

さて、艦内に入る前、入ってからもくどくどと冷戦時代に起こった
このソ連海軍の「フォックストロット」型潜水艦B-59が遭遇した
核戦争危機の話をさせていただいたのですが、関係資料を読むほどに、
そのとき世界は戦争に限りなく近づいていたことを知り、今更ながらに
胸を撫で下ろしているわたしです。

1962年10月の13日間、米ソの間に戦争が起こらずに済んだのは
直接的な理由だけでいうと、ソ連が、というかB-59が
「最初の一発」を撃たなかったからです。

翻って、今の日本が直面している状況はなんなんだろう、と
ふと我に返って考えてしまうのですが、ここでその話題に突っ込むと
さらに潜水艦から離れていってしまうので今日は我慢して。

 

前部魚雷発射室から次の区画に行くには、この丸いハッチを潜ります。
潜水艦の場合、水密性のために区画ごとに密閉できるようになっているので、
ほとんどの潜水艦の区画ハッチは小さいのですが、小さくてもとりあえず
脚を上げて頭を下げれば通れるレベルのがほとんどです。
こんな土管サイズのハッチは初めて見ました。

外にこの円の大きさを穿ったパネルを設置し、

「ここをくぐれない方は入場を諦めてください」

と告知するだけのことはあるなあとまずここで感心させられます。
物理的に穴が体が通っても、この高さでは、足腰のおぼつかない方、
ハンディキャップのある方は、それだけで見学は不可能です。

ハッチの右上に

「サウンド・アンド・ライトショウのあるメインコントロールルームへ」

と書いてあります。
音と光のショー・・・何があるんだろう。

とりあえず最初に出てきたのは洗面所でした。
アメリカの潜水艦も同じですが、前部魚雷発射室に続いているのは
士官の居住区となります。

シンクの下には暑いお湯の出るタンクが備えられており、
司令官クラスしか使用を許されていませんでした。

それにしては・・・と言う気もしますが、潜水艦ですからこんなものです。

不思議なコンソールですが、通信機器であろうと思われます。

ちなみに例の13日間の時、B–59の通信は遮断されており、
モスクワと連絡を取ることができなかったので、アメリカ本土の
ラジオ放送を傍受して情報を得ていたそうです。

アメリカ艦隊に見つかり、威嚇のための爆雷を落とされたのを
戦争が始まったから、と勘違いして核ミサイルが発射されそうになりました。

ソ連海軍ももう少し通信関係をなんとかしておくべきだったのでは・・。

ここはレイディオ・ルームでよろしいんでしょうか。

潜水艦映画だと、エンジン音でもなんでも聞いたらわかってしまう、
ものすごく耳のいいソーナー係がこんなところに座りヘッドフォンをつけて
汗水タラタラ流しながら

「敵は今我々の上で停止しました!」(小声)

とか言ったりするわけです。(たぶん)

おそらく艦長しかもらえない一人部屋。

壁には書記長レオニード・ブレジネフの写真が飾ってありますね。

このBー39、起工が1967年の2月9日、就役がその2ヶ月後の4月15日。
冷戦只中と言うことでめっぽう急いで建造したようですが、
つまりキューバ危機の時に書記長だったフルシチョフのあと、
ブレジネフ時代に計画され、任務に就いていたのです。

ですからこの潜水艦そのものはキューバ危機とは全く関係ないのですが、
同じフォックストロット型と言うことで、ここでの展示も
その紹介に大変力を入れているわけです。


ところで豊田真由子的余談ですが、ソ連で書記長を名乗ったマレンコフから
最後のゴルビーまで、歴代書記長の頭髪の状態をご存知でしょうか。

余計なお世話すぎますが、一覧表にしてみました。

マレンコフ あり

フルシチョフ なし

ブレジネフ あり

アンドロポフ なし

チェルネンコ あり

ゴルバチョフ なし

と、見事に交互になってるんですよ!
ちなみにゴルバチョフの後成立したロシア連邦大統領も

エリツィン あり

プーチン なし

メドベージェフ あり

プーチン なし

と続いているので、現在もその神話は継続中です。
(プーチンを最初も現在もなしとすることについては
異論もあると思いますが、まあ割とそうですよね?)

以上、それがどうした話でした。

 


ベッドの上には士官の軍服が置いてあります。
共産国の軍隊はどうも帽子が大きすぎてそれはちょっと、と思うけど、
とにかく海軍はどこの国のものでも皆かっこいいや。
ソ連海軍は水兵さんの夏服が特におしゃれでよろしい。

ここは釣り床のある二人部屋なので、上級士官の部屋でしょう。
フォックストロット型潜水艦には士官12名、下士官10名、
水兵が56名、計78名が基本として乗り込んでいました。

士官の居室は個室とベッドが二つの部屋(×2)、そして四つの部屋(×2)
があったのではないかと推察されます。

政治将校や副長、司令官クラスの士官は二人部屋だったのでしょう。

士官がどこに寝るかは階級によって厳密に決められており、もちろん
兵のように「ホットバンク」(交代で一つのベッドを使う)はあり得ません。

どこかで撮ったらしい潜水艦乗組員全員での記念写真です。

B–39の構成が艦内の展示で説明されていたので書いておきますと、
まず上の三役が

艦長 captain 2nd rank (中佐)

第一士官 3rd(少佐)

政治将校 3rd (少佐)

で、その他の上級士官は

ナヴィゲーター captain Lieutenant(中尉)以下同じ

砲術士官 

電気関係(通信)士官

メカニカルエンジニア

補給士官

軍医

となります。
軍医も中尉というのが意外な感じです。

政治将校とは共産党から派遣されてきた海軍に属さない軍人です。

ザンポリット(Zampolit )ともいい、主に一党独裁国家において、
政府あるいは党が、軍隊を統制する為に各部隊に派遣した将校です。

政府に従わない軍司令官を罷免する権限を有していることもあり、
通常
軍とはまったく異なる指揮系統に属していて、プロパガンダ、
防諜、
反党思想の取り締まりを担う軍隊内の政治指導を行います。

最初にこの存在を知った時そうではないかと思ったのですが、やはり

「広義のシビリアンコントロール」

という意味合いをもつ役職だということです。


B–39における少尉クラスと士官候補生、特務士官などの配置は

● ナヴィゲーション

● 魚雷・武器

● ソナー、通信、レーダー

● メカニカル(モーター、浮上装置、メンテナンスも含む)

などで、このうちメカニックがもっとも大きな部署でした。

気になるお給料ですが、下は新兵さんの月20ドルくらいから、
艦長クラスの月250ドルまで色々でした。

どこの海軍でもそうだと思われますが、特殊な環境である潜水艦勤務には
特に厳選され、厳しいトレーニングを受けた者しか勤まりません。

潜水艦は過酷なので若年の間しか勤務できず定年は40歳ですが、
元サブマリナーであればその後海軍の中でもいいポストに就くことができ、
給与も同じ海軍の同ランクの
1.5倍もらえたということです。


しかしながら、退職金はそうよくはなかったという話もあります。
映画「Kー19」で、艦長だったハリソン・フォードが、元乗員と一緒に
事故の犠牲者の墓参りに行くため家で身支度をして出かけるシーンがありましたが、
彼の住んでいるらしいアパートがあまりにもみすぼらしいので
見ていてちょっと驚いたことを思い出しました。

 

ところで潜水艦の外側に「閉所恐怖症を感じることもあります」と
注意書きがありましたが、基本そういう傾向の人は潜水艦など
乗らないのではないかと我々は思うものです。

しかし、恐怖症というものはそんな単純なものではないし、
短時間や訓練で平気でも、実際の長期航海で深層の恐怖症が
芽生えてくるということもあるのでしょう。

ソビエト時代の海軍で艦長を務めたある人物の話によると、
潜水艦の勤務をする者には閉所恐怖症について二つのチョイスがあるそうです。

"Get over it or shut up." 

(克服するかさもなければ遮断する)

これはつまり海軍格付け評価と海軍士官として期待される振る舞いを
考慮すると、このどちらかの選択しかないということなんでしょう。

ここにあった説明によると、ここ士官用ワードルームでは、座る位置が
階級によって厳密に決まっていたということです。
もともとその階級ヒエラルキーも大変厳しかったということですが、
その序列を乱すことはほぼ反社会的行為と同等と見なされました。

テーブルに座る順番は階級と「危急を要する」配置が考慮されます。
その序列を入り口に近い順番にあげておきます。

1、メカニカルエンジニア

2、見張り士官(ナビ、魚雷、電気など見張りに立つ士官)

3、砲術士官

4、ナヴィゲーター(必ずエレクトロニクスオフィサーの隣)

5、エレクトロニクスオフィサー

6、補給士官

7、第一士官

8、政治将校

艦長はテーブルの奥

 

第一士官というのはロシア海軍独特の階級付なのだと思いますが、よくわかりません。
軍医は序列に含まれないようですが、どこに座っていたのか気になります。

 

どこの潜水艦でもそうですが、このワードルームは緊急時に手術室となり
食卓テーブルで手術が行われることになっていました。
病人が出た時も基本ここに寝かしたそうです(その時食事はどこで・・・)

B-39に乗っていた軍医は、一人で全ての症状を診なくてはなりませんから、
内科、外科はもちろん、想像しうる体の不調にはとりあえずなんでも
対応できるような訓練を受けていました。

なんと、歯科の勉強もしており、虫歯に詰め物をするくらいなら
潜水艦の中でやってしまっていたそうです。
ただし、あまりややこしい症状はお手上げなので、その時は
母港に帰還するまで患者は待たされることになりました。

軍医は時折ブリッジや潜望鏡に呼ばれることもありました。
それは大抵、外国語に長けたインテリの軍医に、外国の船に書かれた
船名を読ませるためでした。

おそらく旧ソ連の街を行進するサブマリナーたち。
右の潜水艦はもちろんフォックストロット型です。

何が書いてあるか全くわからないので想像するしかないのですが、
どうも実際にBー39に乗っていた乗員の顔写真を、適当にコラージュして
貼り付けたようでね。

右下にはドレスから脚を出している女性がいるし、
なんかお猿さんがいると思ったら
その右に

「♪えいこーらーえいこーらーもーひーとーつーえいこーらー」

「♪あいだだあいだ あいだだあいだ」

でおなじみの(おなじみかな)ヴォルガの舟歌みたいに、
みんなで船引いてるシーンがあるし・・。


参考画像

ロシア人ってあまりユーモアとかなさそうに見えるけど、
海軍軍人さんともなるとやっぱりこういう自虐ギャクをやってしまうのね・・。

 

続く。


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