ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

USS「エドソン」〜Mk46魚雷と艦橋

2023-10-30 | 軍艦
 
ミシガン湖から流れ込む川のほとりに係留されているUSS「エドソン」。
後甲板から入艦して火器管制室までをご紹介しました。
今日はその続きとなります。



火器管制室のあった上部塔から降りてきました。



階段の下にはかつて使用されていたらしいフリートマークが放置。
ここからは上甲板の舷側を左回りに進んでいきます。

■ Mk 46 短魚雷



Mk-46短魚雷

魚雷とは、水中で作動する自走式の誘導発射体であり、
目標に接触または近接すると爆発するように設計されています。

潜水艦、水上艦、ヘリコプター、固定翼機から発射されたり、
他の武器の部品としても使用されます。

マーク46魚雷は
 ASROC (対潜ロケット) の弾頭セクションとなり、
キャプター(CAPTOR)機雷は、敵との接触が検出されたときに
魚雷を放出する水中センサー プラットフォームを使用します。

CAPTOR機雷について説明しておきますと、
これは正式には
Mk60CAPTORという名称で、
それそのものは魚雷を射出するための機雷です。

名称はEnCAPsulated TORpedo(魚雷収納カプセル)からきています。


Mk60 CAPTOR


「エドソン」甲板にあったこれもたぶんCAPTOR

Mk.46 Mod4短魚雷がこの缶体内発射管に収められており、
目標の捜索はパッシブ・ソナーにて行われ、
発射諸元はアクティブ捜索により調整されます。

発射後の魚雷は通常のMk46短魚雷として行動します。



後ろから見たところ 魚雷マークが描かれている



紙が劣化して見にくくなっておりますが「現在のアメリカ海軍の魚雷」。
「現在」というのはこの資料が作られた2015年現在のことだと思われます。

この時点におけるアメリカ海軍の3 つの主要魚雷は、


Mark 41 重量魚雷
Mark 46 軽量魚雷
Mark 50 対潜短魚雷


MK-46 魚雷は高性能潜水艦対戦用を想定して設計されており、
水上戦闘魚雷発射管、ASROCミサイル、
固定翼および回転翼航空機から発射が可能。

現在 NATO の標準として認識されています。

1989年に、浅海における MK-46 Mod 5 の性能を向上させるための
大規模なアップグレードプログラムが開始されました。
これらの改良を加えた武器は、Mod 5A ・Mod 5A(S) として識別されます。

MK-46 Mod 5 魚雷は、海軍の軽量対潜魚雷のバックボーンであり、
2015 年まで運用される予定です。

MK46は、カリフォルニアのパサデナにある米国海軍海面下センター(NUC)
によって実施された「RETORC I (魚雷研究構成) プログラム」に準拠します。


こちらはMk323連装ランチャーから射出されるMk 46。
写真は三等写真兵曹(フォトグラファーズ メイト)が撮ったものです。


水上艦艇から射出されているMk 46

■ プロジェクト「ノブスカ



構造物沿いに左回りして右舷側に出てきました。
ここにもMk46魚雷。

現地にあった説明より。
一部繰り返しになりますが翻訳しておきます。


Mk46魚雷は、米海軍の対潜用軽量魚雷の基幹であり、NATO規格です。
航空(エアリアル)魚雷は、高性能潜水艦攻撃を念頭に設計されました。

Mod 5 から Mod 5A および Mod 5A(S) への改良を
1989年に実施したことにより、浅海における性能が向上しました。

潜水艦戦に関する 1956年夏に行われた研究、「ノブスカ計画」によって
いくつかの兵器の実装が推奨されたのですが、Mk46 は当初、
そのうちひとつの研究魚雷コンセプト I (RETORC I) として開発されました。

ちなみに「ノブスカ計画」Project Nobska は、
1956年夏、
海軍作戦部長アーレイ・バーク提督が命じた
アメリカ海軍の対潜水艦戦(ASW)に関する研究のことです。


近くにマサチューセッツ州ケープコッドのノブスカ岬があったことから、
この名前がつけられました。

この研究の焦点は、原子力潜水艦のASWへの影響、
特に原子力潜水艦を防御するための新技術でした。

研究結果はその後の米海軍の潜水艦設計に影響を与えました。
ポラリス潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)が承認されたのもこの成果です。


Mk 46 Mod 5 詳細

■ 主な機能: 航空および艦艇から発射される軽量魚雷

■ 設計 請負業者: アライアント テックシステムズ

■ 発電: 2 速レシプロ外部燃焼 単元推進剤 (オットー燃料 II)

■ 長さ: 8 フィート 6 インチ (2.59 m) のチューブ発射構成 (船から)
ASROC ロケットブースターを使用した場合は 14 フィート 9 インチ (4.50 m)

■ 重量: 508 ポンド (230 kg)(ウォーショット構成)

■ 直径: 12.75 インチ (323.8 mm) 


■ 射程:12,000ヤード(10,973メートル)

■ 深度:1,200フィート(366メートル)

■ 速度: > 40 kn (46 mph; 74 km/h)


■ 誘導システム: ホーミングモード: アクティブまたはパッシブ音響ホーミング

■起動/検索モード: スネークまたはサークル検索


USS「マスティン」から射出されるMk 46 魚雷



ここで「エドソン」右舷舷側に立ち河岸を見てみます。

ベージュの木の建物がチケット売り場券お土産ショップ、
もちろんトイレなどもここにあります。

左のオープンエアのバラックが、ボランティアなど関係者の待機所で、
メンテナンスに使うカートが止まっており、
その向こうに和気藹々と過ごしているボランティアがいます。
おそらくバーベキューグリルなどもあると思われます。



右舷のボートとデリック。
ここで右舷は行き止まりとなります。



もう一度左舷に戻り、艦首に向かって歩いていきます。
画面右側に冷凍庫みたいなものが見えますが、何かわかりません。



マシンガンのシールドです。
「エドソン」が搭載していた重機関銃はブラウニングのM2、50口径。



諸元が貼ってあったので、その通りに書いておきます。
ところどころ翻訳できなかった部品の名称がありますが、
そこのところは想像力で補っていただけると幸いです。

受信機グループ 重量・・・60ポンド
バレル重量 ・・・24ポンド (およそ)
三脚座 M3 の重量 (横行昇降機構付) ボルト付きピントル・・・44LB
総重量 完成時三脚座M3に装着中・・約128 ポンド
最大射程 (M2 弾) ・・・約6,800 メートル
最大有効射程 ・・・1,830 メートル
発射速度: ・・40ロード( 1分以下 持続)
初速 (M2 弾) ・・・毎秒 3,050 フィート (時速 2,080 マイル)
銃の長さ 全体 ・・・およそ65インチ


最大射程が7キロ弱!



左舷側のシートは接舷の際、艦長が座る席でしょうか。



何十年も風雨に曝され、しかもここミシガンは、
冬になると氷点下20度も珍しくない極寒で雪も積もるのに、
不思議なくらいシートが劣化していません。

オフシーズンはカバーをかけているのかな。

■艦橋



ブリッジまでやってきました。
駆逐艦に共通する、コンパクトな司令塔です。

手前の椅子は司令官用だと思われます。
米海軍は自衛隊のようにシートの色で階級を表現する文化はないようです。



座高の低いわたしには座って水平線を見ることもできない椅子。



レーダーディスプレイ装置

レーダーが初めて軍で使用されたころ、レーダーが提供する情報は
単体のユニットコンソールに表示されており、コンソールには、
スコープとその関連制御装置、受信機と送信機の制御装置を搭載していました。

しかしレーダーの開発が進むにつれて、艦船には複数の種類のレーダー
(航空捜索、水上捜索など)が装備されるようになってきます。

複数の異なるレーダーからの情報を、物理的に分離されたコンソールで
利用できるようにしなければならないことが、明らかになったからです。

レーダー情報を表示する装置はレーダー・インジケータと呼ばれ、
他のレーダー機器から離れた場所に設置できるため、
リモート・インジケータ=レピーターと呼ばれます。

AN/SPA-25G

「エドソン」が搭載しているAN/SPA-25Gは、
高度航法、航空捜索、戦術状況レーダー表示装置であり、
サーチ、戦術状況ソリッドステート・レーダー・インジケータです。

この時代の「ソリッドステート」とは、今とは違い、
「可動部品ゼロ」という意味だと私は理解しました。(違ったらすみません)

同装備はCICとブリッジの両方で使用するために設計されており、
航法、到着予想点(EPA)、航空管制に関連する距離、
方位、プロットの問題をすべて解決することによって、
オペレーターの作業負担を軽減しながら能力を向上させることができます。

しかしまた、手動で測距、方位計算を行うことも可能で、
ボタンを押したり、スティックを動かしたり、解答を表示したりすることで
インジケーター・スクリーンに結果が表示されます。



エンジンテレグラフはハンドルのお触り禁止。
何かの弾みでポロッと取れちゃったりしたんでしょうか。



手前にはビナクル。航法計器で、普通舵輪の前方にあります。



近くにビナクルの使用説明書(水浸しになったらしい)がありました。


こちらが舵輪。

今までの艦艇見学ではお目にかかったことのないタイプです。
やはり第二次世界大戦時のものと、戦後のものでは
この辺が大きく違ってくるのかもしれません。

「エドソン」現役時、舵輪の金属部分は鏡のように磨かれていたことでしょう。

インターコム



艦隊の現在状況を書き込むボード。

「ヒューイット」DD966
「トラックスタン」CGN35(原子力ミサイル巡洋艦)
「ビュルカン」AR5(工作艦)
「ニミッツ」
CVAN68
「トーマス・C・ハート」FF1092
「ジョン・ロジャース」DD983
「エンタープライズ」CVN65
「ロングビーチ」CGN9


陣容から見て、1975年以降の艦隊であると推測されます。

「ニミッツ」はCVAN(原子力攻撃空母)とありますが、彼女の就役1ヶ月後、
米海軍は大々的な艦種変更を行ってCVNに変更されていますから、
おそらくこれを書いた人が間違えていると思われます。




海軍軍人でも艦影を見ただけで艦種をすぐに認識できるとは限りません。
というわけで、ここには同胞の艦影早見表があったりします。
シロートにはこの艦影だけで見分けるのも難しそうですが。

開いたページには「シムズ」「フレッチャー」など駆逐艦の艦影が。






ナビゲーションデスクには紙の地図。
「エドソン」現役時にはすでにデジタル化されていたはずですが、
どんな最新機能の軍艦にもアナログ地図は不可欠です(たぶん)。



ブリッジ右舷側にあるのが艦長席かもしれません。



そしてこちらが右舷側のデッキにある司令官用シート。
自衛隊の駆逐艦にはこういう装備はなかった記憶なのですが、
やはり海軍の歴史の長い国だけに、どちらもそれぞれ
設計に思想があるのだということがこんなことからも感じられます。


続く。





火器統制システムルーム〜USS「エドソン」

2023-10-27 | 軍艦

ヒューロン湖に流れるサギノー川沿いに係留されている、
ベトナム戦争のベテラン駆逐艦USS 「エドソン」。



前回はその艦歴についてお話ししました。



サギノー川には艦艇を係留するような施設がないので、
「エドソン」は喫水の関係で河岸から少し離れたところに浮かび、
乗艦のためには長い桟橋を渡っていかなくてはなりません。



Googleマップで上空から見るとこのようになっています。


後甲板から見学することになります。



博物艦の場合、たいてい艦尾には普通に国籍旗が掲揚されています。



それでは艦首旗は?とあらためて見たところ、
一見アメリカ海軍の正式な国籍旗に見えますが、
よくよく見るとブルーに星が円形にあしらわれているものでした。

わかりませんが、正規の海軍籍にはない艦船は、
国籍旗を揚げてはいけないという規則があるのかもしれません。


艦尾にある装備の説明を見てちょっと驚きました。
説明の書かれたボードがとにかく立派です。

この展示には気合が入っている・・・わたしはここで確信しました。


「ファンファーレ」トルピードデコイ
T-Mk 6 Fanfare

「ファンファーレ」は初期のパッシブ音響ホーミング魚雷を混乱させるため
騒音を発生させる装置です(なるほどそれでファンファーレ・・)。
一応日本語では「ファンフェア」と英語的名称が正式のようです。

1950年代から60年代にかけてこれが標準的な対魚雷デコイとなりました。

アメリカではこの形式のデコイのことを「ノイズメーカー」といいますが、
その通り、船の後ろに長く曳航して通電させると、
魚雷はターゲットを見誤り、デコイに向かうという仕組みです。

同じシステムのデコイとしては、先代に「フォクサー」がありましたが、
同型はそれよりも効果的で、広域のノイズではなく、
船のスクリューに似た音を発生させるものでした。

ここにはデコイ2本に、それを曳航する索具2セットが装備されています。


後甲板に装備された艦砲は、

Mk.42 5インチ単装速射砲
5"/54 caliber Mark 42 gun

直径5インチ(127.0mm)の弾丸を発射する砲であり、
砲身は54口径(砲身長は5インチ×54=270インチ、6.9メートル)。

艦砲についても、第二次世界大戦時の反省に鑑み、
5インチ/38口径砲よりも射程が長く、発射速度もある砲を求めた結果、
航空・水上両用であるものタイプが開発されました。



かつて敵地に向かってネジが擦り切れるほどに火を噴いた主砲も、
今や永遠に沈黙して、その砲身の軌道には看板が固定されています。



さて、次は・・・あの階段を上っていくべきでしょうか?



なぜか大型冷蔵庫と・・何だろう。バーベキューグリル?
艦上を貸し切って行うパーティのための装備かな。


上の階の艦砲はサビが目立ちます。


上に上がってみた。



AFT FUELING TRUNKS
後部給油トランク


ここは艦が必要な燃料をすべて受け取ることができる場所です。


説明の置いてある場所が微妙なせいでわかりにくいですが、
これが給油口だと思います。(違っていたらすまん)


右側の器具に相当する形のものがこれしか見当たらないという理由。
 
USS「エドソン」は は蒸気動力で推進しますが、
タービン・エンジンを動かすの蒸気を生成するために、
ディーゼル燃料を燃焼させてボイラー内で熱を発生させていました。

そして「エドソン」はSTREAM(標準張力同時補充方式)
を採用することで、大量の燃料を迅速に移送することが可能でした。

通常のCONREP (Connected Replenishment、補給) 速度は、
距離140~ 180フィートで 12 ~ 14ノットです。

燃料バンカーは 227,000 ガロンまたは 750 トンを収容できます。

同時代の給油、「インディペンデンス」から「イングリッシュ」へ



モーターホエールボート26フィート
Motor Whale Boat


モーターホエールボートは、搭載されている船がゆっくりと前進しているとき、

あるいは停止しているときも、即座に発進することが可能です。

「エドソン」搭載ボートの重要な用途のひとつは、
墜落した飛行士や船外に流された人員を救助することと、
そして艦が停泊しているときに乗組員を陸上に輸送することでした。

今見えているのはボートの船尾です。



たぶんこれとおなじ26フィートのホエールボート。


「エドソン」のホエールボート、前から

■火器統制システム室


上部構造物の内部に入ってみます。



手前のパイプチェアの足は溝にいれて固定しています。
床の凸は、いざという時に椅子が滑らないためのものかと。


現地に貼られていたのと同じシステム図です。







これらがガン・ディレクターという部分。



右側のロッカーみたいなのが、



それぞれの機器のコントロールパネルとなります。




Mk4コンソールと下部にはプライマリーコンピュータが位置しています。

Mark 56 Gun Fire Control System (Mk.56 GFCS) 
は、
AN/SPG-35レーダー・トラッカーとMark 42弾道コンピューター
からなる砲火管制システムです。

方向板は機動性があり、XバンドレーダーMk.35と光学照準器を装備し、
2名のオペレーターが搭乗して操作を行います。

オペレーターによる光学照準器による目標追尾も可能ですが、
完全自動追尾が基本動作であり、米海軍の導入したシリーズで
初めてブラインドファイアも可能となったという優れもの。

マーク42弾道(バリスティック)コンピュータ



中が見えるようにパネルを外して展示しているこれは、



Mk 42弾道コンピュータです。

まず、「スパイラルスキャン」と呼ばれる方法
(ビームを6度の角度で振って空間をゆっくりスキャンする)
で目標を捉え、次に「コニカルスキャン」
(ビームの振り角を0.5度に狭めて素早く距離を測定する)
を行い、これで目標を追尾するシステムです。

追尾目標の速度と方向は、方向ボードのジャイロスコープと、
距離追尾サーボシステムのタコジェネレータによって求められます。


ステーブルエレメント・ジャイロユニット

ユニット内の 2 つのジャイロが船のロールとピッチを補正します。
このユニットは5インチ砲の方向を変えるために使用されます。

弾道計算はこのMk.42弾道計算機によって行われ、
増設することで同一目標に2種類の砲を照準することも可能となりました。

戦時中は高速で突進してくる攻撃機をレーダー追尾できないケースが多く、
海軍作戦部長アーネスト・キング提督は光学機器を追加装備しています。

AN/SPG-35レーダートラッカー


USS「ホーネット」のAN/SPG-35

初号機完成は、なんと日米戦終戦の1945年8月だったそうですが、
運用されるようになったのは1950年代からです。

戦後も性能向上は続き、亜音速機に対して、
追尾開始から2秒で射撃開始が可能となりました。

ちなみに我が海上自衛隊は、戦後初の国産護衛艦となった
「はるかぜ」型護衛艦で本機を装備することをアメリカに要求したのですが、
承認は得られず、実際の装備は第二次防衛力整備計画に持ち越され、
結論として、「やまぐも」型護衛艦以降、「みねぐも」型
そして「たかつき」型に搭載されることになりました。

続く。


合言葉は”CAN DO" USS「エドソン」〜サギノーヴァレー海軍艦艇博物館

2023-10-24 | 軍艦

ミシガン湖の東側を北上してマスキーゴンで
潜水艦「シルバーサイズ」に続き戦車揚陸艦LST 393を見学した翌日、
ミシガン湖から離れ、ヒューロン湖方面に車を向けました。


次のターゲットは地図の錨マークの場所。
そこに駆逐艦「エドソン」があります。


もう少し拡大しますと、一応それはヒューロン湖沿いにあるように見えます。


さらに拡大。
実はそれはヒューロン湖沿いではなく、サギノー川の河畔に
その名も
「サギノーバレー・ナーバルシップ ミュージアム」
として展示されているのでした。


ここはベイシティと称しますが、その理由は
ヒューロン湖が深く切れ込んだ入江沿いにある街だからです。

ちなみにベイシティ出身の最も有名な人物はマドンナだったりします。
人口の91%が白人で、東洋系は0.5%という希少人種。
日本人だけに限るとさらに数は少なくと0.1%にも満たないかもしれません。

実はこの博物館のボランティア活動をしているベテランの白人男性が

日本人女性と結婚していて、わたしたちが日本から来たと知ると
奥さんを呼んできたので、彼女と少し話をしましたが、彼女の知る限り、

近所に住んでいる日本人は彼女以外では一人だけということでした。

シカゴ大学などの留学生の多い大学はかなり離れているし、
かといって特にインターナショナルな大企業もないし、
彼女もたまたまここ出身の人と結婚しなければ住むこともなかったでしょう。


こんな船ですが、よくよく見ると「USネイビー」と書かれています。
さらに見れば、車輪もついていて、いわゆるランディングクラフトかな?
と画像検索までして探してみたのですが、ヒットなし。


子供用の遊具にしては形がどうもPTボートっぽいし・・・謎です。

ところでわざわざここまで歩いて来たのはこの船のためではなく、
艦体全部を真横から撮影しようとしたからですが、
ここまで来なくてはわたしのカメラのフレームには収まりませんでした。


親子三人で訪れたアメリカ人家族。

■USS「フランク・E・エバンス」慰霊碑


展示艦の前の広大な広場兼駐車場には、屋根付きの集会所と、
お土産も買える事務所兼入場売り場があって、この日、
その日本人妻を持つ男性(ベトナム戦争のベテランらしい)だけでなく、
地域のボランティアが皆で集まって和気藹々とやっていました。

建物内はオープンエアで、ちょっとしたパーティもできそうな感じです。

そして、その横には、同じ駆逐艦である、

USS「フランク・E・エバンス」
Frank E.Evans DD-754

の水兵になって写真が撮れる(子供用、後ろに階段付き)コーナーがあり、
隣のショップでは「エバンス」のしおりももらえました。

これはどうやらこの駆逐艦の慰霊碑のようです。



現役時代「グレイゴースト」とあだ名されていたこの駆逐艦は、
1945年2月に就役し、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と
三つの戦争を戦い、その結果数多くの賞を受賞した殊勲艦でした。

しかし、1969年6月3日0300頃、南シナ海で、イギリス海軍、

オーストラリア海軍、ニュージーランド海軍の艦船と艦隊を編成し、
暗闇の中を航行中、無灯火だったせいで、オーストラリア海軍の空母
「メルボルン」の艦首を横切って衝突し、5分以内に沈没しました。

衝突直後の「フランク・E・エバンス」

事故の原因は、「フランク・E・エヴァンス」の航海士が、
「メルボルン」の左舷にいたにもかかわらず、自艦が右舷にいると勘違いして
右舷に旋回し、「メルボルン」の鑑首を2度横切ったことによるものです。

この沈没によって、73名の乗員が犠牲となりました。
艦尾は浮いたままで、約60〜100人が水中から救助されています。



ここに写真が挙げられた3名、ダグラス・ロイ・マイスター、
ティモシー・リン・ミラー、ハリス・メルヴィン・ブラウンは
このとき殉職した乗組員で、近隣の出身者です。


Remembering the USS Frank E. Evans disaster

この記念碑は、かつてここで慰霊式が行われた記念だそうです。


「エドソン」艦内には「フランク・E・エバンス」事故犠牲者の写真が。
これだけ多くの若者が一瞬にして命を失ったと思うと胸がいたみます。



グレゴリー・コウイチ・オガワという名前の日系アメリカ人士官の写真が

日本人の私の目を引きました。
この頃はアジア系の海軍士官はまだまだ珍しかったのではないでしょうか。


■ USS「エドソン」


木の船のところからは結局逆光のせいもあって撮影できなかったので、
桟橋を渡りながらここなら、とトライしましたが、
やっぱり艦尾まで画面に納まりませんでした。
(スマホの広角で撮れば1発なんですけどね)

USS「エドソン」は、その全盛期、強大なアメリカ海軍の一員として
太平洋を広く航海した駆逐艦です。

第二次世界大戦から1990年代までの間に就役した駆逐艦でも
トップクラスと称えられた駆逐艦の1つで、現在は、
過去の戦争から遠く離れた、ここサギノー川で休んでいます。

「エドソン」の物語は建造された1958年に始まります。
彼女はベトナム戦争において重要な役割を果たしました。

第二次世界大戦後に建造された軍艦の中には、
陸上部隊を水上から支援するために重砲を搭載し、
海軍が陸上戦に参加する
という思想を持つタイプがありましたが、
「エドソン」はその一つでした。

また、ベトナム戦争末期に大々的な退避作戦が行われたときも、
「エドソン」はこれに従事し、戦闘と避難活動の両方で表彰されました。

「エドソン」はベトナム戦争の直前に就役し、その後
ベトナム戦争で最高の軍艦の1つであったのです。

この「フォレスト・シャーマン」級駆逐艦は、
戦死した若い水兵の名前を戴いたものが多いこのクラスの中で、
数少ない元海兵隊将軍の名を冠した数少ない海軍の船のひとつでした。


メリット・オースティン・エドソン・シニア(1897-1955)

彼がよく知られるようになった戦いは、
1942年9月のガダルカナルのルンガ・リッジの防衛戦でした。

彼と彼の率いる約800名の海兵隊員は、のちに
「ブラッディー(血みどろ)・リッジ」と呼ばれるようになったこの地で、
3,000名を超える日本軍からのの度重なる攻撃を受けます。

その戦場で、エドソンは絶えず敵の砲火に身をさらしながら、
あちこちを回り、兵たちを励まし、慰め、助言を与えました。
それ以降、彼は「レッド・マイク」と呼ばれるようになります。

かつてエドソンの大隊は、ドクロのパッチと規律正しさで有名でした。
「エドソン」はそれに敬意を表して艦の前面には同じドクロが描かれました。



髑髏のマークは、彼女の敵に対する、

「エドソンは殺すか殺されるかのために来たのだ」

という警告を意味していました。

■「フォレスト・シャーマン」級駆逐艦

「エドソン」は、第二次世界大戦と朝鮮戦争での失敗を教訓に、
新しく改良された「フォレスト・シャーマン」級駆逐艦のうちの一つです。

「エドソン」はその13番艦でした。

これらは、戦後初のアメリカ海軍駆逐艦クラスで、
第二次世界大戦後に波を支配するために作られたと言っても過言ではなく、
海軍の中でも最高峰のものと自他共に称していました。

戦後初の駆逐艦となったこのクラスは、
第二次世界大戦と朝鮮戦争の失敗の反省の上に立ち、それを活かして
世界で最も効率的な軍艦を作るというコンセプトでしたから、
彼女らは最高の大砲を装備し、驚くべき高速で海を移動し、
陸と海の戦いどちらにも投入できる、という高スペックぞろいでした。

■ベトナム戦争

ベトナム戦争は、アメリカの軍事史の中で、
ある意味、最も物議を醸したと言ってもいいでしょう。

当時の(あるいは今も)ほとんどのアメリカ人が、この戦争について
我々は行くべきでなかった、我々にとって何の意味もない紛争で
単に国力を誇示しようとしていただけのものだと考えていました。

当時アメリカ政府が言うところのベトナム戦争の意義とは、
「共産主義の蔓延を阻止するための戦い」

ということになっていましたが、そうはいっても、
それが米国に直接的な影響を与えると考える人は多くなく、
米国はベトナムに行く必要がなかったという意見は今も多くあります。

ジョン・ウェインが考えていたように早期で決着が着くならともかく、
泥沼化して人命が徒に奪われ、徴兵を巡って社会騒動になった現実は
その意義に対し、動かし難い不信感をアメリカ人に植え付けたのも事実です。

ともあれ、アメリカ政府の意図である、地勢的に要となる国を占領し、
脅威とならない政府を置いて脅威の防波堤にするという、
新時代の軍事観に基づくものであったことは公平に評価すべきかと思います。


さて、戦争の意義についてはともかく、この新時代の考え方の一環として、
他国に対して「アメリカのルールを強制するため」に、
次々と新しい武器が開発され、導入されて実戦で使用されていきました。

当時は冷戦時代でもあり、アメリカはロシアと技術において鎬を削っており、
あらゆることでロシアより優れていなければならないという立場でした。

海軍におけるその時代の艦艇も、競争の中から生まれてきました。
その一つが、「エドソン」をはじめとする新型駆逐艦群です。

USS「エドソン」が最初に投入されたのは、
ベトナムでの陸上部隊の砲撃支援でした。

「フォレスト・シャーマン」型駆逐艦は、もともと

潜水艦と戦うために設計されたものです。

第二次世界大戦時、連合軍の船舶がドイツのUボートの脅威にさらされ、
多くの損害を受けたことの反省に立ち、新型駆逐艦には、

潜水艦のサーチ&デストロイのを能力を大きく向上させることにしました。

そしてその思想は「駆逐艦」=デストロイヤーという名称を生みました。
これがアメリカ太平洋艦隊のトップガンとしてのニックネームです。

「エドソン」はこのニックネームにふさわしく、
現役時代には海上から陸上に向けて砲撃を行いましたが、
その射撃は非常に強力かつ正確で、すべてのミッションを成功させ、
これにより、彼らは功労部隊表彰を受けることになりました。

また、1967年2月から7月にかけて行われた海上からの陸地攻撃作戦、

「オペレーション・シードラゴン」

では、「エドソン」は北ベトナムに入り、通信線を含む軍事基地の破壊、
敵艦への砲撃など、複数の攻撃を行い、また、4つの作戦を支援しました。

このときに与えられた表彰状によると、「エドソン」は
293もの目標を攻撃し、攻撃を受けたのは1回という最小限のダメージで、
これは、この艦がいかに優れたパフォーマンスを発揮し、
卓越した功績を残したかを示すものとなっています。

「エドソン」は3回表彰され、史上最高の海軍艦艇のひとつとされています。

彼らがこのときいかに桁外れの砲撃を行ったかを表す証拠として、
あまりにも大砲を撃ちすぎて、砲身が摩耗し、
部品を交換しなければならないほどだった、という逸話
が残っています。

そんな「エドソン」乗組員のモットーは、

"CAN  DO "

兵士たちはこの言葉の通り、決してあきらめない、を信条にしていました。
また、当ブログでも一度詳しく言及したサイゴンからの脱出作戦、

「オペレーション・フリークェント・ウィンド」

でも重要な役割を勤めています。

■ベトナム戦争後

ベトナム戦争後、「エドソン」や他の駆逐艦は、
日進月歩のアメリカの技術革新の波の中で次第に陳腐化していきました。

「エドソン」以外の「フォレスト・シャーマン」級駆逐艦は
時代に沿った何らかの改造が行われたのですが、彼女だけは
同型駆逐艦の中で唯一、未改造のまま残されました。

そして、他の改造された「シャーマン」型は全て廃棄され、
現在その形をとどめているのは彼女を含む2隻だけとなっています。


実は、USS「エドソン」に関するデータは、
1990年代まで機密扱いになっていました。

彼女についての記事の多くは、かなり後になってから書かれたもので、
他国が設計を真似できないように、ほとんどの情報は公開されませんでした。

そのため、駆逐艦が活躍した当時の情報は、現在においても
乗組員が亡くなったという曖昧な記事以外にはなかなか出てきません。

その任務に関するほとんどの情報は、退役数年後まで公開されませんでした。

たとえば、1分間に6千発から1万発を発射できる「バルカン砲」。

「エドソン」がデストロイヤーとして活躍できた理由は、
こういったより多くの艦砲を搭載していたからです。

「エドソン」はミサイルの代わりに実銃を搭載した最後の海軍艦艇でした。

砲、そのデータは、戦後民間企業が取得し、
他の艦船や航空機に利用されて今日に至ります。


■退役後の「エドソン」

戦闘任務や訓練を含む30年の任務を経て1988年にその役目を終えた後、
「エドソン」は海軍の現役艦艇リストから外されました。

ベトナム戦争後、彼女は将来の乗組員の訓練場として活用されました。
戦中戦後を通して損傷や被害を受けずに来たこの艦ですが、
記録された唯一の事故は、この訓練艦時代に、
火災訓練中、オイルチューブが破裂し、発火するというものでした。

幸いにも、この事故による負傷者はなく、大きな被害には至っていません。

訓練艦時代、彼女は、主に東海岸のアナポリスに近い場所に配備されて、
戦闘任務や、攻撃されたときの対処法などを学ぶ場となり、また、
訓練生が窮屈な「宿舎」に慣れるための仮のホテルとなりました。

一般に、海軍艦艇の中を見学すると、どの艦も等しく、
このような狭い生活環境の中で人がどうやって生きているか驚くばかり。

ベッドは普通の体格の人がようやく入れるくらいの大きさで、
部屋は後ろを振り向くことができるくらいの広さです。

しかし、それが艦隊生活というものです。
多くの人が適応しているこのような環境に慣れるには、

ただ、訓練あるのみです。

■ 博物艦として


1988年、海軍はついにこの艦を艦隊から除名しました。
「エドソン」は現在、ここサギノー川で博物館として展示されています。

海軍から放出された当初、ニューヨークのイントレピッド海空宇宙博物館が
所有権を認められたため、1990年から2004年まで、
彼女はニューヨーク港に展示され、内部を公開していました。

そのために「エドソン」は国定歴史建造物に指定され、公開されたので、
観光客はかつての駆逐艦に乗り、水兵たちの暮らしぶりに思いを馳せました。

その後、2004年、ニューヨークの博物館はエドソン号を海軍に返還し、
(博物館がコンコルドの機体の展示をすることになったため)
しばらくフィラデルフィアの造船所で寝かせていましたが、
その後、ベイシティが、再び博物館として活用するために入札を行いました。

その結果、2012年、「エドソン」は五大湖に新しい住処を得ました。

現在は博物館としてオープンし、艦内を見学できるほか、
かつてこの船に住んでいた乗組員の寝室に泊まる企画もあります。

アメリカでも一般的にこのような軍の遺物はジャンク品として扱われ、
あまり評価されないまま、関心が持たれず放置されることが多いですが、
「エドソン」はなぜか時が経つにつれてその価値が高まっていくようです。


「エドソン」が最もその輝きを放ったのは、
アメリカがベトナムに侵攻し、戦闘を行った時期でした。

誕生に至るまで連綿と連なってきたアメリカ海軍艦艇の遺産を引き継ぎ、
「エドソン」は海軍が持つ最も偉大な艦のひとつとなりました。

当時一般には情報が秘匿されていたのにもかかわらず、
U.S.S.「エドソン」の存在のインパクトは絶大で、
遺された数少ない文献の中で、まるで伝説のように語られています。

その存在は第二次世界大戦後、太平洋における米海軍の支配の象徴であり、
30年間、この艦の多用途性はあらゆる場面で役立つ万能の道具並みでした。

アメリカ海軍は、最初の200年で学んだことを生かして、
世界一強力な海軍技術を作り上げてきましたが、
過去、海で繰り広げられた多くの戦争から学んだ教訓を生かし、
より優れた、より汎用性の高い艦としての「エドソン」を産んだのです。



さあ、それではそんなUSS「エドソン」に乗艦してみましょう。


続く。

メンフィス・ベルになれなかった重爆撃機たち〜 国立アメリカ空軍博物館

2023-10-21 | 航空機

第二次世界大戦中の爆撃機のアイコンだったB-17、「メンフィス・ベル」。
このスーパーフォートレスにまつわるいろんなことを、
国立アメリカ空軍博物館の展示からご紹介するシリーズです。

■ 引退から空軍博物館展示までの道のり



25回の爆撃ミッションを終え、アメリカに帰ってきてから
全米津々浦々を公債ツァーで引き回しされていたメンフィス・ベルですが、
ツァー終了後、訓練機として使用するために、
フロリダのマクディル陸軍飛行場へ向かいました。

人のみならず引退した飛行機にも悠々自適の退役生活が待っているとは、
さすがアメリカという感じです。

戦争末期、飛行機がなくて2枚羽の練習機で特攻させたり、
航空燃料がなくて、代替の松根油を取るため、
予科練の訓練生に松の根っこを掘らせたりという話もある我が国とは
そもそも国力からして雲泥の差であることを思い知らされますね。

マクディル基地で訓練用のプラスティック爆弾を搭載中のベル


戦争が終わると、メンフィス・ベルはは他の余剰爆撃機とともに
オクラホマ州の陸軍飛行場に保管され、1946年に破棄される予定でしたが、
テネシー州メンフィス市が「名前のよしみで」この機体を入手し、
その後、ナショナルガードの兵器庫で雨ざらしのまま展示されていました。

1977 年、数十年にわたる天候や外部衝撃による経年劣化後、
メンフィス・ベルは修復され、米空軍から、新しくできた
メンフィス ベル・メモリアルアソシエーション(MBMA)に貸与されました。

 
MBMAの絵葉書、搭乗員のサイン入り

これを見る限り、天蓋といってもほとんどは外に置かれているようです。

1987年から2002年まで、MBMA は、メンフィス・ベルを
メンフィス市マッド島に天蓋をしつらえて展示していました。

しかし、MBMAはメンテのためのリソースに不足してきたこともあり、
2005年に機体をアメリカ空軍国立博物館USAFに貸与することを決定します。

2005年から13年の年月を費やし、博物館の修復スタッフは、腐食処理、
欠落した機器の交換、正確な化粧直しなど機体の修復を完成させました。

博物館で修復を受けているメンフィス・ベル

2018年5月17日、メンフィス・ベルが25回目の爆撃任務を成功させて
ちょうど75年目にあたるこの日、その機体は
国立アメリカ空軍博物館の公式展示品となりました。

■実は25回任務を終えていた爆撃機たち



メンフィス・ベルは 25回の任務を完了した
最初の USAAF 重爆撃機ではありませんでした。

アメリカ軍が宣伝のために選んだのが、たまたまこの機体だったというだけで、
少数の重爆撃機がこれ以前に25回目の任務を完了していたのです。

ここでは、25回任務を達成していながらも、タイミングのせいで
「メンフィス・ベルになれなかった」重爆撃機たちに光を当てています。

【スージーQ / Suzy-Q B-17E】 



 フライング・フォートレスB-17E、愛称Suzy-Q 。

25回の任務を完了して米国に帰還した最初のUSAAF重爆撃機です。
1942 年 2月から 10 月まで太平洋戦争初期に戦闘任務を遂行し、
戦時公債ツアーのため米国に帰国しました。 

ちなみにこのスージーQという名前ですが、オリジナルは
歌手のスージー・クワトロではなく、(そう思っていた人多いと思う)
「デスパレートな妻たち」のスーザン・メイヤーの元旦那が
彼女を呼ぶときに使う名前でもありません。

「スージーQ」は一般的に「ケイクウォーク」「チャールストン」

「ツイスト」「ロコモーション」のような流行したダンスの一つです。

それは1936年と限定的な短期間の流行でしたが、語呂がいいので
スージー・クアトロが自分の愛称にしたり、ドラマに使われるわけです。

B-17の名前の由来はわかりませんが、おそらく
乗組員の誰かの恋人の名前が「スージー」だったんじゃないでしょうか。

【ヘルズ・エンジェルス/HELL'S ANGELS B-17F】


1943 年 5 月 13 日、第 303爆撃群の B-17F ヘルズ・エンジェルスは、
メンフィス ベルの乗組員より 4 日前に、
ヨーロッパ上空で 25 回の戦闘任務を完了した重爆撃機となりました。

しかし、25回を大きく超える48 回の戦闘任務を飛行した後、
戦時公債ツアーのため米国に戻ったのは 1944 年になってからでした。

名実ともに25回任務を果たした最初の爆撃機だったのに、
途中で第303から第358爆撃飛行隊への転勤があり、
結局長い間任務を重ねることになったわけです。

25回目の任務を終えた後、「ヘルズ・エンジェルズ」は
1944年まで戦地に留まり、合計48回の任務の間、
搭乗員の負傷や事故もなく飛行していました。

 1944年1月にようやく米国に戻ることができ、彼らも
「ベル」のようにさまざまな戦争工場を視察しましたが、
当然のことながらそれほど騒がれることもありませんでした。

戦争が終わるとすぐ、1945年8月に「地獄の天使」は
(どうにも厨二病な名前ですね)スクラップとして売却されました。

4日も早く任務を達成していたヘルズ・エンジェルスの搭乗員たちは、
ヨーロッパで粛々と出撃を重ねながら、ベルの国内における
熱狂的な歓迎報道をどのように見聞きしていたのでしょうか。

【ホット・スタッフ/ HOT STUFF B-24
アイスランドに消えた悲劇の爆撃機】


第 93 爆撃群のB-24 「ホット・スタッフ」は、1943年2月7日、
第二次世界大戦のヨーロッパで多くの飛行機が撃墜される不利な状況の中、
25回目のミッションを終了した第8空軍初の重爆撃機と搭乗員、
そして初めての任務達成B-24となりました。

この達成日も、メンフィス・ベルより3ヶ月も前でした。


そして25回を終えてもしばらく出撃を続け、
結局約30回の戦闘任務のうち約半分はヨーロッパ上空を飛行し、
半分はアフリカでの攻撃と地中海での哨戒任務をこなしました。

陸軍は、ホット・スタッフを31回目の任務を完了させ次第帰国させ、
戦時国債の宣伝ツァーを大々的に行う予定をしていました。


つまり最初の「爆撃機のアイコン候補」だったわけです。

ところがここで、彼らをさっさと帰国させておけばよかった、
と陸軍関係者が歯噛みするような事故が起こってしまうのです。

アイスランドでの墜落

ホット・スタッフの帰国が具体的になったころ、
ヨーロッパ作戦地域の司令官であり、空軍の父として知られていた
フランク・M・アンドリュース中将はワシントンD.C.に戻るため、
かねてより知己であったパイロット、シャノン大尉の爆撃機、
ホットスタッフに同乗し、一緒にアメリカへ戻りたいと考えました。


チャーチルと握手するアンドリュース元帥

この元帥の思いつきは、ホットスタッフのクルーにとっては
ある意味「いい迷惑」だった可能性があります。

実はホットスタッフは、何もなければあと一回、潮流作戦、
=プロスティ襲撃に参加するために南に行くはずだったとも言われています。

しかし、ペンタゴンで4つ星大将に昇進をするため、
急ぎで帰国したかったアンドリュースにゴリ押しされたようで、
アイスランドを経由して帰国することが決まりました。

しかし、給油のためアイスランドを経由したホットスタッフは、
1943年5月3日、悪天候の中、ファグラダルスフィヤル山に墜落し、
アンドリュース元帥を含む乗員14名が死亡してしまいます。




墜落した機体から乗員の遺体を回収する

このとき、尾部砲手のジョージ・アイゼルだけが生き残りました。



博物館にはホットスタッフの機体の一部が展示されています。


アンドリュース元帥の事故死は、その後の歴史を変えたかもしれません。


7ヵ月後の1943年12月に連合国最高司令官に指名されたのは
あのドワイト・アイゼンハワー元帥、つまり、もしこの事故がなければ
彼が戦後大統領になる未来もなかった可能性は高いからです。

運命が変えられたのはアイゼンハワーだけではありませんでした。

「ホットスタッフ」を事故で失った陸軍は、士気の低下を懸念し、
25回帰国をこの際大々的に宣伝することを決めた(にちがいない)のです。

任務達成後速やかに帰国させて戦債ツァーを回らせる役目は
こうしてメンフィス・ベルに回ってくることになり、
25回ミッションに到達した最初の爆撃機として、
彼らを事故や被撃墜で失う前になんとか無事に帰還させ、
英雄として讃え、大いにこれを祝うことにしたのです。



陸軍省が急遽ヨーロッパにウィリアム・ワイラーを派遣し、
ドキュメンタリー映画『メンフィス・ベル:空飛ぶ要塞の物語
(Memphis Belle: A Story of a Flying Fortress)』
が彼らの宣伝のために撮影されたのは前述のとおりです。


■ なぜ「ベル」だったのか


さて、ご紹介してきた3機の爆撃機は、それぞれ「ベル」よりも先に
25回任務を終え、帰国の権利を持っていたにもかかわらず、
結局主役になることはありませんでした。

その理由は単純に「タイミングが合わなかった」というものです。

このほかにも、25回任務達成の一番乗りは、4機のどれでもなく、
「デルタ・レベル2」だったという話もありますが、
とりあえず墜落してしまった「ホットスタッフ」を除く2機についていうと、
まず、「スージーQ」は、

任務達成がメンフィス・ベルより半年早かった

ので、陸軍省が宣伝目的でこれを持ち上げようとした頃には
すでに帰国して国内の戦債ツァーを終えていました。

事故で墜落したホットスタッフはいうまでもありませんが、
ある意味最も気の毒だったのは「ヘルズ・エンジェルス」かもしれません。
なんと、

ワイラーら映画スタッフが撮影準備している間に
25回任務を達成してしまった

という理由でベルにお株を奪われて主役になり損ねたばかりか、
彼らは25回で帰国というルールすら執行を先延ばしされてしまったのです。

メンフィスベルを一目見るために集まった人々

完全に陸軍の宣伝の都合ありきで、それにちょうどタイミングが合ったのが
たまたまメンフィス・ベルだった、ということになりますが、
いかに戦争中のこととはいえ、当事者同士にとっては
この苦々しい真実はかなり戦後も尾を引いたのではないかと思われます。

ことに、英雄は一機だけでいいと言わんばかりに、25回任務を終えても
いつまでも帰国させてもらえなかった「ヘルズ・エンジェルス」の
搭乗員たちの心中は、果たしていかなるものだったでしょうか。



続く。




モーガン大尉とマーガレットの物語〜「メンフィス・ベル」アメリカ国立空軍博物館

2023-10-18 | 航空機

第二次世界大戦中、最初に25回の空爆ミッションを成功させ、
帰国の権利を得ることで国民のアイドルになった爆撃機、
「メンフィス・ベル」の物語、二日目です。

今日ももう少し、パネルの新聞記事から拾い読みしていきます。



帰国してきた「英雄」たち、ことに士官たちは
好むと好混ざるに関係なく、偉い人たちの出席するところに引っ張り回され、
そこで面白くもなんとないおじさんの話を拝聴するのが使命です。

というわけで、どこのかは分かりませんが、
市長という人のともすれば時事放談のような演説を聞くモーガン機長は、
新聞記事の写真でもわかるくらい退屈そうな顔をしています。

「フライング・フォートレスを街に持ち帰った後、
昼餐会の席で搭乗員たちはタイムズ誌に表彰される」

また、10人の搭乗員はそれぞれスターのように注目され、
そのインタビューが事細かく報道されました。

「ベル」には4名の士官が指揮官として搭乗していました。
爆撃機の命令系統としてこれがスタンダードなのか、
4名の階級は全てキャプテン、大尉で、機長と副機長、
そしてナヴィゲーターと爆撃です。

あなたは戦争の英雄というものの構成要件はなんだと思うだろうか?
あるいは、敵国の上空に差し掛かった爆撃手どんなことを考えるものだろう?

背が高くスリムなテキサス生まれのヴィンセント・B・エヴァンス大尉、
帰還した「メンフィス・ベル」の爆撃手である彼は、
B-17爆撃機によるヨーロッパと北アフリカの枢軸側に対する
25回の爆撃任務を成功させ、質問に答えた。(以下欠落)


土曜日、ハートフォード・タイムズ紙がベルの勇敢な飛行士10名を招待した
ハートフォード・クラブの昼食会の席で、若々しい笑顔の機長は、
昼食会の同席者の質問に答えて非公式にこのテーマについて語った。

「面白いですね」と彼は引き気味に言った。

(記事欠落)

20回目の爆撃任務の頃には、もしかしたら生きて帰れるかも、
というような感覚になってきますが、そんな時にはバイオリンの弦を
引き締めるように、気持ちも引き締めるようにしました。

「ああ、もし25回任務を達成したら、任務を離れて休めるんだ・・
いやまてよ、後5回、後5回の任務だ、これが大変なんだぞ」と。

そして彼らとその愛機は最初に退役することになった。

(略)


「25回爆撃のフォートレス帰国する」

フライングフォートレス「メンフィス・ベル」のベテランクルーは、
アメリカで最初にヨーロッパにおける完璧な25回の任務を終え、
昨日、ワシントンにおいて、ハップ・アーノルド空軍司令、
陸軍長官であるロバート・パターソン両者と愛機の前で面会した。



「ベル」搭乗員、ハミルトンを訪問、
「我々はベルの品質を高く評価している」

爆撃機ベテラン、プロペラ会社の労働者に謝意を表す

ハミルトンは航空機プロペラの製造会社ですが、
ここで彼らを迎えて行われた例のドキュメンタリー上映と、
セレモニーなどが行われ、その際、搭乗員たちは
工場の労働者にその性能の良さを褒め、お礼を述べたという記事です。

■メンフィス・ベルのアートワーク



今日は前回触れたこのノーズアートについて掘り下げてみます。
同じデザインの「電話中のメンフィスベル」が、機首の右と左で
衣装の色を赤と青と違えてペイントされていますが、
右舷側の女子は赤い服(下着かも)に合わせて赤毛、そして
左舷ひ側はブロンドと髪の色も変えています。


オリジナル原画はこちら。
赤い下着に金髪ですから、「ベル」のアレンジは現場の判断と思われます。

それにしても原画と比べるとノーズアートの画力が・・・
まあそれはいうまい。

特にノーズアートの珍妙なヘアスタイル。
多分ミリタリー男子にはペティ・ガールのヘアースタイルの
構造的仕組みが理解できなかったのだと考えられます。

これはメンフィス・ベルのために描かれたオリジナルではなく、
機長のモーガン大尉はアーティストのジョージ・ペティに
「ペティガール」の使用許可をもらい、一連の画集の中から
これぞというイラストを選んだという経緯があります。



当時発行されていた雑誌「エスクヮイヤ」。
1941年の4月号に掲載された「ペティ・ガール」が、
のちの「メンフィス・ベル」のノーズアートに選ばれました。

それにしても、アメリカでは当時こんなイラストを表紙にしてたんですね。
「エスクヮイヤ」誌は男性向けマガジンだったので、イラストも
ノーズアートになりうるようなセクシーな半裸の女性が多めです。

この表紙は、爺ちゃんとミニスカートのお嬢さんが、どんな経緯なのか
フェンシングの突きを解説書を見ながら型の練習をしているのですが、
爺ちゃんの飛び出した眼球はポイントよりちょっと下に釘付け。

今なら漫画にもならないくらい危ないネタが時代を感じさせますが、
イラストのタッチは現代でも十分通用しますね。



元々「メンフィス・べル」という名前は、機長モーガン大尉の恋人、
マーガレット・ポーク嬢にインスパイアされたものでした。

映画「メンフィス・ベル」で彼を演じたマシュー・モディーンは
実にハマり役だったと思わせる写真ですね。
このときモーガン大尉は若干24歳だったそうです。

■コクピットに貼られた「写真」



このマーガレット・ポークの写真は、モーガン大尉がコクピットに持ち込んで
操縦席の前に貼っていたのと同じものになります。

写真使用例:
本来は写真入れではないはずですが、モーガン大尉(左)は
写真を少し折り曲げてここに無理に入れていました。


ところでどの作品だったか、アメリカの戦争映画で
日本軍機の操縦席に貼られた恋人の写真が映るシーンがありましたが、
この慣習はすくなくとも日本にはなかったように思います。

恋人なり妻なりの写真を見ながら「仕事」をする文化ではありませんし、
持っていたとしても懐中の写真入れなどにひっそりと納め、
誰も見ていない時に眺めるという感じだったのではないでしょうか。

ただし、同僚のいない戦闘機とか、なかでも特攻機、
特殊潜航艇の乗員がどうしていたかは本当にわかりません。



いかにもヤラセっぽい写真・・・なんて言っちゃいけないか。

撃墜マークをポーク嬢に指し示すモーガン機長。

この下の記述によると、彼女はメンフィスに住む前にはイギリス在住で、
(イギリス人ではない)二人が出会う前にはアメリカに移り住んでいました。



左:
25 回目の任務から数週間後、機首の爆弾の列の下に
 8 つの鉤十字を含むマーキングがメンフィス・ベルに追加されました。

右:
メンフィス・ベルのノーズ アートは、第 25 回ミッションから約 1 週間後、
後に多数の宣伝マークが追加される前のものです。
こちらが現存するメンフィス・ベルと同じペイントになります。





「メンフィス・ベル」のノーズアートを描いた、
トニー・スターサー(Starcer)の他の作品群です。
いずれも第91爆撃隊のスコードロンパッチで、

第91爆撃隊はそれそのものが爆弾のワシ、
第322=爆弾を落とすアンクルサム
第323=爆弾の上で腕組みするガゼル
第324=爆弾とニンジンを持つバックスバニー
第401=爆弾の上で攻防を振り回すビッグフットとインディアンボーイ

というデザインです。
バックスバニーにはやっぱり使用許可をとったんでしょうか。

■ 機長と「メンフィス・ベル」の恋の行方

ところで、ここでとても悲しい報告をせねばなりません。
これだけ写真に撮られ、その恋の経緯があらゆる媒体にさらされ、
すっかり注目のカップルとなったモーガン機長とポーク嬢。

その後結婚してハッピリー・エバー・アフターとなれば、
アメリカ軍としても大変喜ばしいことだったのですが、
やはり男女の仲というのはそう簡単にいかなかったのです。



結論から言うと、このビッグカップルの恋は実りませんでした。


ここで二人が付き合うまでの経緯をお話しします。

メンフィス在住のオスカー・ボイル・ポーク夫人には二人の娘がいました。
長女のエリザベス、そして妹のマーガレット。
(実はもう一人男の兄弟もいますが今関係ないのでその話はなしで)

姉エリザベスは、マッカーシー大尉という軍医と結婚していましたが、
彼がフロリダのマクディル飛行場にある第91爆撃グループに入隊し、
ワラワラへの移動命令を受けたので、彼女も付いていくことになりました。

夫の軍医は移動に列車を使えましたが、妻はたった一人でフォードを
南東部から北西部まで運転していかなければなりません。
家族に会うために途中立ち寄ったメンフィスで、エリザベスは

「一人で長距離ドライブするのは寂しいし心配」

と泣き言をいい、一緒に来てくれと妹に頼みました。
最初、妹は断りましたが、長女を心配した母が、

「わたしも一緒に行くから!
なんだったらサンバレーとイエローストーンも行きましょ!

きっと楽しいわよ。ね、ね?」

と妹を説得し、愛犬のスコッチテリアを加えて旅行することになったのです。

そしてマーガレットは、ワラワラで、
ロバート・K・モーガンという若い少尉と出会うことになったのです。



マーガレット・ポークは1922年12月15日、テネシー州ナッシュビルの
第11代大統領ジェームズ・ノックス・ポークの子孫として生まれました。
(サンフランシスコには彼の名前をとったポークストリートというのがある)

名家のお嬢さんだったわけです。
彼女の父親は弁護士であり、木こりであり、南部の伝統的なプランター、
オスカー・ボイル・ポーク、母はベッシー・ロブ。

マーガレットは私立の女子校に通っていたにもかかわらず、
おてんばな女の子に育ちました。
スカートをたくし上げて、走って、どんな遊びでもするような。

しかし、「運命の」といわれるわりには、二人とも
最初の出会いをはっきりと覚えておらず、たくさんいる誰かの一人、
という認識だったようです。

事態を「特別なもの」に変えたのは、ある口論でした。
彼女はそのころボブ(モーガン)の誕生パーティに呼ばれたのですが、
他の若い男性とデートの約束をしていました。

このとき彼女が気まぐれと好奇心からモーガンの誕生日を優先して
デートをキャンセルしようとしたら、
なぜか姉と義理の兄から猛烈に叱られてしまいます。

「もう大学生じゃないんだから。今は男の世界なんだから」
(意味不明。今軍人相手に勝手なことをして彼らを振り回すな、的な?)

しかし、なんと女心とは不思議なものでしょう。

ボブ・モーガンの誕生日パーティに行きたいとゴネたことが、
今まで彼のことをなんとも思っていなかったはずの
マーガレットの関心を彼に向けてしまったのです。

そうなるとボブの方も彼女が気になり出し、
若い二人はあっさりとつきあいはじめることになったのでした。

そうなると、モーガンはとにかく一途でした。
彼女にアピールするために、爆撃機に乗って近所を徘徊?し、
朝の5時からモーニングコールよろしく爆音を撒き散らす。
低空で彼女の家を目掛けて飛ぶものだから、
家にいると建物全体が揺れて飛行機が窓から入ってきそうでした。

まあ、血気盛んな男子の示威行為というのは加減を知りませんからね。
このときのことはマーガレット自身がこう述べています。

「ボブは悪魔かというくらいパイロットとしては最高でした。
彼はあの飛行機を本当に飛ばすことができた。すごく興奮したわ」


今の日本でこんなアピールを彼女にできる飛行職種なんて、
ブルーインパルスの隊員くらいしか思いつかないなあ。


1942年9月12日、B-17F 41-24485は初めてメンフィスに着陸しました。
ボブ・モーガンは、マーガレット・ポークに "彼の "飛行機を見せるために
軍に特別な許可を願い得たそうです。

そして彼女の宝箱に終生残されたその日の思い出の品は、以下の通り。

メンフィスのピーボディ・ホテルでのダンスのチケット
;半券番号782「Us, September 12 1942」記載

蘭のコサージュのドライフラワー

スイートハート・リング
ゴールドの結び目にダイヤモンド

そしてほどなくして、イギリスへ出発するモーガンから小包が届きます。
中にはダイヤモンドの婚約指輪が入っていました。


■マーガレット・ポークへのインタビュー

「ベル」が無事に25回のミッションを終えて帰国してきたあと、
マーガレットはマスコミのインタビューを受けています。

インタビュアー: ”メンフィス・ベル "を見たとき、さぞ興奮したでしょう。
「メンフィス・ベル」が第4フェリー・グループ・フィールドの
格納庫の手前で停車し、モーガン大尉が降りてきたときには。


フライング・フォートレスがほぼ垂直にバンクしながら
飛行場を旋回するのを見ながら、あなたがこう言っていましたね。

『垂直のバンク!!あれが彼の飛行機よ!』と。


これが皆の待ち望んでいたフライング・フォートレスだと、
あなたはどうしてそう確信できたのですか?

マーガレット: ボブのフォートレスの扱い方はとてもスムーズでしたから。

インタビュアー :キャプテン・モーガンを見るのは何カ月ぶりですか?

マーガレット: ええ、正確には9ヶ月ぶりです。

インタビュアー キャプテン・モーガンに初めて会ったのはどこですか?
ワシントンでしたよね?


マーガレット: 去年の7月にワシントンのワラワラで。

インタビュアー :どのようにして知り合ったのですか?


マーガレット: 姉と義理の弟のところに滞在していたのですが、
その頃ボブが家に来て、そこで会いました。


インタビュアー:キャプテン・モーガンはアッシュビルの出身ですよね?
アッシュビルの予備校に通っていたのですか?

マーガレット:いいえ、バージニア州のエピスコパル高校です。

インタビュアー:彼はどこの大学を "母校 "と呼んでいますか?

マーガレット:ペンシルバニア大学です。

インタビュアー:モーガン大尉はいつから空軍にいるのですか?

マーガレット:2年半です。

インタビュアー: 飛行訓練はどこで受けましたか?

マーガレット: ルジアナ州のバークスデール飛行場です。

インタビュアー: あなたとモーガン大尉が婚約したのはいつですか?

マーガレット: 去年の9月です。

インタビュアー :結婚式の日取りについて教えていただけますか?

マーガレット: まだ決まっていません。

インタビュアー :モーガン大尉は、現在の全国的な戦時国債ツアー、
メンフィス・ベル "のツアーが終わったら、国内に滞在するのですか?

マーガレット: はい、少なくとも半年は。

インタビュアー :今回の戦時国債ツアーで何都市を訪問されますか?

マーガレット:21かそれ以上です。

インタビュアー: その都市のいくつかを教えていただけますか、
マーガレット?

マーガレット :ナッシュビル、ニューヘイブン、デトロイト、
クリーブランド、サンアントニオなどです。

インタビュアー:彼らはいつメンフィスを離れましたか?

マーガレット: 昨日の午後です。

インタビュアー:モーガン大尉がメンフィスを訪れている間、
あなたは彼の公の場に何度も同行しましたね。

マーガレット: ええ、ほとんどです。

インタビュアー :土曜日にコート・スクエアで開かれた会合で、
群衆があなたを呼び続けたときはスリリングだったでしょうね。
スリル満点だったでしょうね。

マーガレット:とてもスリリングで光栄なことでした。


いやー・・・・なんというか・・。

二人が破局した理由というのをわたしはこの時点で何も知りませんが、
こんな扱いをあっちこっちでされたら、本人同士がどうでも
ずっとこんな騒ぎに巻き込まれるのかと思って嫌にならないかな。

なんでそんなことを聞く?
予備校とか大学とか、インタビュアーなら前もって調べるか本人に聞けよ、
と言いたくなるようなことまで婚約者に聞いていますよね。

二人の「お別れの原因」については、そのうち
何か調べていてわかったらここでご報告するかもしれません。

わたしとしては「世間に騒がれすぎでどちらかが嫌になった」に10モーガン。


ただ、二人は結婚することはありませんでしたが、
マーガレット・ポークは1990年に亡くなるまで、
メンフィス・ベル・メモリアル協会の資金集めに協力していたそうです。


続く。

「メンフィス・ベル」アメリカン・アイコン〜 国立アメリカ空軍博物館

2023-10-14 | 航空機

ピッツバーグに滞在していた2020年の夏、一人で車を駆って
オハイオ州デイトンにあるアメリカ空軍の公式航空博物館、

国立アメリカ空軍博物館
National Museum of the United States Air Force


に一泊二日の見学旅行に行きました。

アメリカでもコロナ禍真っ最中の頃で、ホテルは安く取れましたが
肝心のわたし自身が体調を崩してしまい、見学出撃以外は
ホテルでほとんど寝て過ごし、朝早くから近隣のドラッグストアに
市販の薬を買いに行くなどして乗り切ったことは忘れられません。

といいながら、他に紹介したい物件を優先していたら、
ここの展示について紹介するのを忘れていたことに気がつきまして、
久しぶりにテーマを決めて取りあげることにしました。

あまりにも膨大な航空機の展示であるため、
写真を観ていても、いつも圧倒されてテーマが絞れないくらいでしたが、

今回のシリーズでご紹介するのは映画でも取り上げられたB-17爆撃機、
「メンフィス・ベル」と戦略爆撃機についてです。



第二次世界大戦中世界的に有名だった爆撃機は、B-24リベレーターと、
やはりボーイングのB-17フライングフォートレスが双璧でしょう。

もちろん爆撃機としてはB-25ミッチェル、我々日本人にとって
DNAレベルでその名前が真っ先に出てくるB-29もありますが。

そして、B-17が登場する戦争映画で有名なのが、当ブログで扱ったこともある
グレゴリー・ペックの「頭上の敵機(Twelve O'clock High)」
そしてこの度の「メンフィス・ベル(Memphis Belle)」です。

また、まだ観ていませんが、スティーブ・マックィーン主演の
「戦う翼(The War Over)」でもB-17が登場するそうです。

B-29は日本の本土攻撃でその名前を知られていましたが、
B-17は主にヨーロッパ上空でその活動を行いました。

B-24とともにアメリカの戦略爆撃の屋台骨を形成し、
主にドイツの軍需産業の機能を麻痺させることを目的にして
連合国側のその地域における勝利に大きく寄与した爆撃機です。

ここ国立博物館には、「メンフィス・ベル」のノーズアートを持つ
B-17爆撃機の本物が展示されていて、これを実際に見ることができます。

少し特殊というか他の展示機と違うのは、このコーナー全てが
この「メンフィス・ベル」とその搭乗員たちがアメリカに与えた
社会現象ともいうべき影響についての詳細な説明となっていることです。

■ 作られた「アメリカのアイコン」



「アメリカン・アイコン」というサブタイトルの通り、
爆撃機「メンフィス・ベル」は当時の爆撃機の象徴的存在でした。

1990年にイギリス映画が制作されましたが、実はこれは初めてではなく、
先日、ジョン・フォードの「海の底」という映画ログで言及した、
フォード=海軍、キャプラ=陸軍、でいうところの
陸軍航空隊のお抱え監督?ウィリアム・ワイラーをヨーロッパに派遣して
「メンフィス・ベル」のドキュメンタリーが撮影されています。

わたしにとって映画「メンフィス・ベル」は、戦争というジャンルを超えて
全く軍事に詳しくなかった当時でも好きだった作品の一つでした。


出演者の一人、ジャズピアニストで歌手、俳優の

ハリー・コニックJr.のファンだったという理由で観たらこれが良くて、
何度も観るくらいすっかりハマってしまいました。
(特に彼が劇中歌う「ダニーボーイ」のシーン)

Harry Connick Jr sings Danny Boy in "Memphis Belle"

しかし、「メンフィス・ベル」がアイコンとまで言われ、
国民に絶大な人気があったことは、随分後になるまで知りませんでした。



まず、なぜメンフィス・ベルとその搭乗員がそれほど有名になったかですが、

それはなんと言ってもワイラーのドキュメンタリーが宣伝となったからです。

そして、なぜアメリカ陸軍がワイラー(当時陸軍少佐)を派遣して、
一爆撃機のドキュメンタリーを制作させようとしたかですが、これには
当時のアメリカ陸軍航空隊第8空軍のローカルルール、

「25回爆撃任務を達成した爆撃機の搭乗員は帰国して良い」

の初めての達成にメンフィス・ベルがリーチをかけていたためでした。
陸軍は、これを大々的な広報に繋げる計画を立てたのです。

危険なミッションを無事に成功させ全員が生きて帰れば、
彼らとその爆撃機は、ナチス・ドイツの打倒への貢献をもって、
存在そのものが奉仕と犠牲の永遠のシンボルと讃えられ英雄となれる。


これを大きく宣伝すれば、国民の関心を引くと同時に、
何よりも陸軍航空隊への入隊希望者の増加が見込めるだろう、というわけです。


メンフィス・ベルは、アメリカ空軍の戦略爆撃作戦が開始されてすぐ、
イギリスの第91爆撃群第324爆撃飛行隊に配属されました。

1942年11月から1943年5月までの間(つまり6ヶ月ということになります)
メンフィス・ベルとその乗員はドイツ、フランス、
ベルギーの目標に対する攻撃を含む25の爆撃任務を行いました。

爆撃機を前にした搭乗員のパネルでは、当時の新聞記事が読めます。



ダグラス飛行場に帰ってきたメンフィスベルの機体に群がる民衆。
「メンフィスベルが沿岸にやってきた!」という見出しです。

「メンフィス・ベルの乗組員がブリッジポートで歓声を受ける

勇敢なチームと闘いの傷を残したフライングフォートレス、
明日ハートフォードに到着の予定

轟音を立てて降下した爆撃機B-17 フライング フォートレス
メンフィス ベルの 10 人の控えめな乗組員は、
そのすべてに少し圧倒されているかのように見えた」

「これまでの4回の出撃で、有名なフライングフォートレス、
メンフィス・ベルの隊員たちは、爆撃機がドイツのブレーメンにある
フォッケウルフ航空機工場の日中爆撃をどのように完了したかを語った」


で、機体に群がっているのが全員若い女の子であるのに注意。
彼女らは、憧れのメンバーに一目会うため、そして
爆撃機を実際に触って自分の痕跡を残そうとしているのです。

まるで彼らの娘がエルビス・プレスリーに、あるいは
ビートルズに熱狂するように、彼女らは10人の搭乗員に夢中になりました。


もうこういうのももはや報道写真ではなくプロマイド。
さぞ女の子は胸をときめかしたに違いありません。


この黒いスコッチテリアの名前は「シュトゥーカ」。
知ってる人は知ってるあのシュトゥーカです。

マスコットを抱いているのはコネチカット州ニューヘブン出身、
副操縦士ジェームズ・ヴェリニス大尉で、彼はこれからアメリカに
ウォーボンド(戦争債券)販促ツァーのために出発するのですが、
窓から顔を出して自分と愛犬に「イギリスの見納め」をしています。


 
「メンフィス・ベル」のマスコットは生後5か月のスコッチテリア。

スコッチテリアのことを「スコッティ」といいますが、
「シュトゥーカ」は語感が似ているってことでつけられたみたいですね。

副機長とスコッティの取り合わせは、カメラマンのお気に入りの構図となり、
いろんな写真が撮られて残されています。

背景のベルの機首には、撃墜したドイツ機数を表す8つのの鉤十字と、
乗組員が参加した空襲の数を表す25個の爆弾マークが刻まれています。

さらにいくつかの記事を後ろから拾い読みしてみます。


モーガン大尉(メンフィス・ベル機長)の言葉だ。

”爆撃任務に就いているときは、終わるまで怖がっている暇はない。
それが、乗組員たちに共通の感情だった。
しかし、一度帰投すると、いろんな気分が押し寄せてくる。

上空で待機しているときの緊張感、
天候がうまくいくかどうかについてもいつもピリピリしていた。”

別の搭乗員は語る: 


”最初の5回はかなりビクビクした。
そのうちに慣れてきて、次の15回は行けるかどうかが気になりだす。
20回目には、どうにか乗り切れるような気がしてくる。
そして25回を成功させる。
そして25回を無事に終えた時、何かを成し遂げたと感じた。

もう家に帰れるんだと。"



この写真には、彼らの爆撃機の名前の由来の意味が込められています。
新聞の見出しは、

「メンフィスベルとスキッパー」

右は爆撃機機長、ロバート・K・モーガン大尉、そして左は
彼の恋人、テネシー州メンフィス在住のマーガレット・ポーク嬢です。

お気づきのように、「メンフィス・ベル(メンフィス美人)」は、
彼女にちなんで命名されました。

当時、爆撃機の愛称は搭乗員が自分たちでつけており、
特に機長はその命名権を持っていたようですね。

というわけでモーガン大尉は当初、爆撃機の愛称を
マーガレットの愛称である「リトル・ワン」にするつもりでしたが、
副操縦士のジム・ヴェリニス大尉が待ったをかけ、
「メンフィス・ベル」っていうのはどうか、と提案したのでした。

ヴェリニス大尉は、ちょうどそのときジョン・ウェイン主演の
長編映画『 レディ・フォー・ア・ナイト』を鑑賞した後でした。



映画の主人公が所有するリバーボートの名前、「メンフィス・ベル」が
爆撃機の愛称としてぴったりくる、と思ったのかもしれません。

もっとも、この映画そのものは決してハッピーなものではなく、
「メンフィス・ベル」はカジノ蒸気船で、しかも劇中火事になっており、
験(げん)を担ぐ日本人なら絶対に選ばなさそうです。

モーガン大尉はこれを受け入れ、ノーズアートのために
『エスクァイア』誌専属画家だったジョージ・ペティに連絡を取り、
名前に合わせた「ペティ・ガール」の絵を依頼しました。


「ペティ・ガール」とは、エスクァイア誌の1933年の創刊号から
1956年までの間掲載された女性のピンナップ画シリーズのことです。

Crew of the Memphis Belle with the Petty Girl nose art

左から4人目の黄色いセーフティベスト着用の士官が、

「本当の名付け親」副機長ヴェリニス大尉、そしてその右が
「オリジナルの名付け親」機長モーガン大尉です。

後のメンバーについてものちのちくわしく語っていくことにします。


続く。

 

海兵隊 K-9 セナの物語〜戦車揚陸艦USS「LST-393」

2023-10-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

マスキーゴンに係留されている戦車揚陸艦、
USS「LST-393」シリーズ、最終回です。

前回に引き続き、タンクデッキを利用した展示を紹介していきます。


周辺在住のベテランから寄贈された「かぶりもの」コーナー。



第一次世界大戦のガスマスクから潜水ヘルメット、
アフガン時代のサファリハットなど、アメリカの戦争を網羅しています。


■ベテラン顕彰のための展示



ジョージ・W・「ビル」・クレメンツ
George W. "Bill" Clements

アメリカ海軍 第二次世界大戦 1943 ~ 1945
朝鮮戦争 1950 ~ 1953


長年グランドヘブン地域に住んでいたビル・クレメンツは
パイロットになるために海軍に志願しましたが、
代わりに海軍の大学コースに送られ、4か月で少尉に任命されました。

彼の写真にほとんど同時期のセーラー服と士官姿があるのはそのせいです。

第二次世界大戦中は駆逐艦と掃海艇に乗務し、
戦後はに占領任務に就きました。
 1950年に海上勤務復帰し、


USS「 オーレック」DD886、
USS 「ローワン」DD-782、
USS 「タッカー」DD(R)375


の 3 隻の駆逐艦に乗艦しました。
写真の右側には彼の勤務した艦の写真があります。

おりしも朝鮮戦争で、彼の乗った駆逐艦は三艦すべてが
水陸両用作戦中に北朝鮮砲兵との銃撃戦に巻き込まれました。

なかでもUSS「ローワン」勤務時には3度も砲撃に遭い、
そのうち2度は重症者も出すほどの損傷を受けています。

彼は「ローワン」に乗艦中にその勇敢さにより海軍表彰を受賞しています。

この人物が水兵からわずか4ヶ月で士官任官できたのは、
おそらく大変優秀だったからでしょう。

別媒体で調べたところ(それは訃報でしたが)、彼は退役後
ミシガン大学で土木工学の学位を取って自分の会社を立ち上げ、
93歳まで充実した人生を楽しんでいたことがわかりました。



隣のブースも海軍コーナーです。


艦内のところどころでこの同じ器具を見かけました。
これなんだかわかる方おられますか。


ブルーエンジェルスだった方のサイン入り写真、
右はUSS「ノースキャロライナ」のちょっと変わった模型と、
おそらくこれに乗っていたベテラン。



F6Fヘルキャット模型。


スコット(Scott) SLRM

第二次世界大戦時の海軍士気高揚受信機です。
AC-DC、12本の真空管。
540KHzから18.6MHzの4バンドを一般にカバー。

スコットは、低放射線規格で作られたラジオの好例でした。

第二次世界大戦中、受信機の局部発振器やI.F.から発せられる無線信号が
潜水艦にキャッチされることのを防ぐために、そして
発振器やミキサーをアンテナからさらに分離させることを目的に、
RFアンプを備えたシールドのしっかりした受信機が作られました。

RFアンプ管は、別個にシールドされたコンパートメントに収められています。

SLRMは海軍の受信機として開発されたものでしたが、
後に民間の船舶にも搭載されるようになりました。



1938年製、プロッティングボード。


海軍用ターゲットカイト、Mk1


対空銃撃種の訓練のためのターゲットカイトMark1(Mk2はない)
を開発した対空砲手、ポール・ガーバー。
彼はその後スミソニアン博物館の創立に大きく関わった人です。

■オキナワ・キャンペーン



USS「スウェラー」Swearer DE186

が1945年4月1日〜6月30日の沖縄侵攻のときに掲げていた艦首旗です。

これは当博物館のコレクションの 2 番目の軍旗です。
艦内に掲示してあるもう 1 つの軍旗 (艦首入口にあった) は、
Dデイにオマハ・ビーチで「USS LST-393」が実際に掲揚していたものです。

第二次世界大戦に実際使われた軍旗は時々アメリカの博物館で見ますが、
二旒も所蔵している博物館はまれであると彼らは大変誇りにしているようです。

駆逐艦「スウェラー」は沖縄で零式艦上戦闘機の特攻を受けましたが、
これは砲手が衝突前に撃墜しました。

4月16日にはヴァル(九九式艦上爆撃機)をこちらも砲手が撃墜しています。


当ブログ調べによると、4月16日は菊水三号作戦が行われた日で、
戦闘機のみならず艦攻、艦爆が多数上陸阻止のため特攻出撃しました。

資料によると、この作戦では第三八幡護皇隊艦爆隊という99式艦爆の部隊が
22機編隊による嘉手納沖での特攻に出撃しています。

おそらく「スウェラー」を攻撃したのはこの一機だったと思われます。

同艦爆部隊は、指揮官の松葉進少尉(早稲田大)はじめ、
出撃した士官の全員が一流大学出身の学徒からなる特攻隊でした。



サンタクルーズの戦いにおける
USS「エンタープライズ」

1942 年 10 月 26 日、
 VF-10のスタンリー・W・“スウェード”・ヴェイタサ中尉

(Swede Vejtasa=VEY tuh suh)は、
USS「エンタープライズ」上空をF4Fワイルドキャット戦闘機で旋回中、
ナキジマ(ママ)“ケイト”雷撃機がアメリカ軍の防空堡に対して
致命的な攻撃を起こす前にこれを炎上させた。

この日、 「スウェード」ヴェイタサは、単一ミッション中に
7 回の勝利を挙げワイルドキャット・パイロットの記録を打ち立てた。

ヴェイタサ中尉は5機の「ヴァル」と2機の「ケイト」を撃墜し、
「エンタープライズ」を損傷から救ったとされ、

サンタクルスの戦いでの戦いに対し海軍十字章を授与された

この通称”スウェード”(スェーデン人)という搭乗員の物語によると、
この「殊勲」の前日、スウェードに率いられた攻撃隊は
キンケイド提督の無能な指揮のおかげでえらい目に遭っていたのです。

このとき初めて機動部隊の指揮官として「エンタープライズ」に乗り込んだ
トーマス・キンケイド提督は、”ブル”・ハルゼー提督から
「ストライク - リピート - ストライク」という指令を受けていました。

このときの「エンタープライズ」の行動は、捜索隊を派遣し、
戦闘航空哨戒を行うだけと制限をされていたため、キンケイドは、
「ホーネット」が索敵して発見した日本艦隊に対し、
経験の浅い搭乗員で構成した攻撃隊を編成させ、スウェードに指揮させて
360マイルも離れた地点への攻撃をさせようとしました。

提督の話を聞き、日本艦隊の位置まで遠すぎると思ったスウェードは、
図面板を投げ捨て、提督の部下たちの耳元で
「提督はバカ野郎(Stupid Ass)」

と大声で宣言しました。

しかし命令は命令。
スウェードの反発も虚しく部隊は出撃することになります。

出撃から1時間後、キンケイドは、哨戒機に気づいた日本軍が北に向かい、
接触する可能性のないところに行ってしまったことを知りました。

しかしそのときには攻撃隊は呼び戻すことのできないところにいました。
そしてスェードの予想通り空振りの索敵を行い、
ただ無闇に海上を飛び続けていたのです。

そんな中、攻撃隊の一人、ドン・ミラー中尉は、薄明かりの中、
不可解にもワイルドキャットから飛び降りて行方不明になっています。

(精神に破綻をきたしたのかもしれません)

スェード隊は低い雲の下、暗闇の中、ポイント・オプションに帰着しましたが、
そこにいるはずの「エンタープライズ」はどこにも見当たりませんでした。

YE-ZBのホーミングセットは何の反応も示しません。
キンケイドは彼の攻撃部隊を見捨てたのでした。

その後もスェード攻撃隊の混乱は続きました。

ドーントレスの一機が、航続距離の延長のため重量を軽くしようと
爆弾を投下したところ、2発が空中爆発してSBDの二人が巻き込まれてしまい、
部隊は彼らの機が墜落していくのをただ見ているしかありませんでした。

ようやく夜が明けたとき、スウェードは海面に油膜を発見し、
空母のものと判断してこれを追跡し、ようやく母艦を発見しました。

ところが狭い空母の甲板に別の部隊が同時に着艦を行ったため、
接触事故で機体は大きく破損し、スウェードは瀕死の状態に陥ります。

そしてその数分後、ドーントレスのパイロットがウェーブオフを無視し、
自分の機体と別の機体を大破させるという大惨事が起こりました。

破片が散乱する甲板では、燃料を使い果たした3機のアベンジャーを
海中に投棄せざるを得ず、この無用の災害により、2人の搭乗員、
4機のSBD、3機のTBF、1機のワイルドキャットが犠牲となりました。

スウェードにとって、キンケイドの判断は犯罪的な過失でした。


片付けを行う「エンタープライズ」艦上


このときかろうじて無事に帰還した飛行機とパイロットが
翌日の戦闘で大きな役割を果たすことになりました。


人生糾える縄の如し。
スェードがその後キンケイドをどう糾弾したかはわかりません。



■グレート・ホワイト・フリート


グレート・ホワイト・フリートについては、以前このブログでも
「対日本示威行為艦隊」と決めつけてお話ししたことがあります。

この博物館の説明を見てみましょう。

テディ(セオドア)ルーズベルト大統領の時代、
大統領の命令により、1907年12月16日から1911年2月22日まで
地球を一周した米国戦闘艦隊の俗称、それがグレートホワイト艦隊です。

その目的は、アメリカが世界の海軍大国であることを世界に示すこと。

しかし表向きは報道陣に対し、その目的は
多くの港を訪問してアメリカと各国の親善を深めることとされました。

マスキーゴンはこの「グレートホワイトフリート」(以下GWF)の巡航と
深い関連を持っています。

ここにある海軍文書のコレクションは、GWFの駆逐艦
USS「シャーマン」乗組だった、マスキーゴン在住の
チャールズ・エドワード・バーウェルの遺品です。


この中の誰かがバーウェル氏

入隊記録書類



アメリカ海軍名誉除隊証明書

名誉除隊といってもそう特別なことではなく、
アメリカ海軍では、軍人としての勤務成績が概ね良好で、
軍法会議または民事訴訟などの対象にならなければ、
退役時に名誉除隊証書が交付されます。

しかし名誉除隊になると、除隊後の福利厚生・社会保障・年金をカバーする
GI法において普通除隊よりも上乗せがあり、また、
職業訓練や大学進学などの援助などの保障制度も手厚くなります。

さらに、現在では、民間でもローンの金利優遇、手数料無しで
ワンランク上のクレジットカードへ変更などの優待プログラムがあるとか。



名誉除隊書類の続きで、この人の艦歴が記されています。



以前にも書きましたが、GWFはその名の通り、
艦隊の艦体がホワイトに塗装されていました。
これはGWF参加中のUSS「サリバン」の白塗装姿です。

バーウェル氏の艦ではないので、彼が撮った艦隊航行中の写真かもしれません。


上の絵葉書の説明は字が潰れて読めませんが日本語です。
GWFは1910年に日本を訪問しました。

真ん中右に見切れているのは日本女性ですね。
テーブルの死角になった場所には日本で撮った写真があったそうです。
残念。


ここで改めてGWFの旗をみてみましょう。
中央のリボン上にアレンジされた星条旗と錨のマークの外には、
GWFが訪問した国の軍艦の艦尾旗があしらわれています。

フランス、イギリス、中国、日本と、はっきりわかるものもありますが、
訪問国はこれ以外にフィリピン、ニュージーランド、
オーストラリア、コロンボの四カ国、全八カ国となります。



ところでこのバナーを見る限り、アメリカの目的は
各国との親善などではないことがまるわかりではないですか。

🐉=彼らにとっての東洋、を🦅(アメリカ)が鷲掴み。

■ 軍用犬(War Dog)コーナー


艦内に入ってすぐのところに軍用犬トリビュートコーナーがありました。


左上は南北戦争時代の軍用犬の顕彰碑。
(三つの黒い丸はなぜこうなっているかわからず)

右側の写真は、1944年、軍用犬が周囲を警戒する中、
しばしの休息を退避穴に手足を縮めて貪る兵士。



この写真をもとに、本日冒頭の再現模型が作られました。
彼らの後ろにあるのは、グアムで殉職した海兵隊所属の軍用犬、

カート、ヨニー、ココ、ブリンキー、スキッパー、デューク、ルードヴィッヒ。

そんな名前の犬たち24頭の尊い犠牲を顕彰しています。



朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争・・。
どの戦争にもそのために訓練を受け、出征し、命を失う犬がいました。

ここではK-9(警察犬)の犠牲についても取り上げています。


モデルが制作されているのはいずれも実在の犬で、
彼らの首には彼らが授与されたメダルが掛けられています。


沖縄戦で海兵隊のK-9だったスパークは軍曹の位を与えられています。

■海兵隊の爆博物探知犬セナ



セナという名の爆弾探知犬が彼の最初のハンドラーと再会してから
3年1カ月と3週間が経ちました。

マスキーゴンのジェフリー・デヤング伍長とセナは、米海兵隊で

2009〜2010年の約半年間、一緒にアフガニスタンに従軍しました。

その間、デヤングがセナを担いで川を渡るような場面もあれば、
砂漠ではセナがデヤングを温めてくれる寒い夜もありました。


タリバンの激しい銃撃を受けたとき、デヤングは
自分の体をセナの上に投げ出して彼をかばったことすらあります。

デヤングが3週間の間に7人の友人を失ったときには、
彼にとってセナの存在はどんなにか慰めとなったことでしょう。

しかし、その後彼らは別れをいうまもなく離れ離れになり、
いつの間にか4年が過ぎ去りました。

その後、引退したセナはデヤングと再会し、彼と一緒に
幸せな余生を送るはずでした。

しかしある日、セナが左前足に体重がかけられないことに気づいたデヤングが、
病院に連れて行ったところ、進行性の骨がんと診断されました。

末期がんはあまりに激しい痛みをセナにもたらし続けたため、
デヤングはセナの安楽死を選択しました。

そして、2017年の7月26日を最後の日と定め、
彼を名誉ある海兵隊員として見送ることにしました。
以下、デヤングのツィッター投稿です。

"セナとの最後の夜 "

"言葉では伝えられない、私が感じていること、考えていること。
やらなければならないことに向き合わず、逃げ出したい。
でも、彼は私が強くなって、自分を解き放してくれることを望んでいる。

彼は私の人生を愛と賞賛で祝福してくれた。
彼のおかげで、私は家族を持つことができた。
彼のおかげで、私は生きることができたのです。

明日の私の行いを許してくださいますように。
そして、主が両手を広げて素敵な耳を掻く動作で彼を迎えてくれますように。

おやすみなさい 、友よ。さようなら 、弟よ。

君が今夜自分がどれほど愛されていて、
君がいなくなることがどれほど惜しまれるかを知りながら眠れますように。

最後にセナはバケットリストの一つを叶えました。
オープンのジープ・ラングラーに乗ることです。

そのことを知った各地のジープオーナーが、セナのために
ジープ隊を結成し、各地から駆けつけることになりました。

また、州内各地からパトリオット・ガード・ライダーが集結し、
セナの功績を称え、静かに旗を並べました。

そしてすべての隊列はマスキーゴンのUSS LST 393前に集合し、
そこでセナの功績を称え、米国海兵兵隊連盟の主催により、
「タップス」の演奏を含む軍歌のセレモニーが行われました。

セナは、自作の海兵隊のドレスブルーで式典に出席し、
セレモニー終了後、警察の護衛付きで護送車に乗って
ジェフ・デヤングとともにUSS LST 393に乗り込み、
そこで彼は安楽死させられ、「Taps」が演奏されされました。

アフガニスタンでの6カ月間、2人はほぼ毎秒一緒に過ごしただけでなく、
アフガニスタンでの最大規模の合同軍事作戦「モシュタラク作戦」に向けて、
お互いの命と健康に責任を持つという緊密な関係でした。

デヤングとセナは、タリバンを拠点から追い出す作戦で、
マルジャに足を踏み入れた最初の海兵隊員でした。

デヤングも再会してから一緒にいる間、決して平穏だったわけではなく、
デヤング自身の離婚、失業、ホームレス(!)、PTSD、
バスタブで泣きながら目を覚ますなどの日々がありましたが、
いつもセナはそこにいてくれた、と語りました。

Watch A Marine Give His Beloved Dying Dog A Touching Final Ride | TODAY

Celebration of life for military service dog Cena

Family says goodbye to Marine war dog



LST-393シリーズ終わり

女性軍人とミッシングマン・テーブル〜LST-393博物艦

2023-10-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

マスキーゴンに係留展示されている戦車揚陸艦、
USS「LST-393」シリーズももう少しでおしまいです。

艦内を甲板まで見学し終わったので、あとは
広いタンクデッキに展示されているミリタリーグッズ、
テーマごとに集めた展示品を紹介するのみになりました。



甲板階から右の階段で降りてきて、タンクデッキに帰ってきました。

タンクデッキA-1 フレーム1-41

という説明がありますが、何を指すのかさっぱりわかりませんでした。
そもそもフレームという言葉も正確に把握しているのかわたし?

というわけで調べてみたところ、フレームは、大型船の場合
日本語では「肋骨」といい、船体を構成する構造材です。
構造材にはこのほか梁(ビーム)ビルジ、竜骨(キール)などがあります。

タンクデッキA-1のAは「船の前部」1は「前方」。

そしてフレームは第3デッキの船の中心線を通っています。

タンクデッキは、タンク、トラック、または陸で必要なその他の貨物を含む、
あらゆる種類の貨物を運ぶために使用されました。


つまり、この紙がある部分の「艦内のアドレス」を表しています。



タンクデッキは船体構造の強化のため、
デッキ周りにこのような区切りのないコンパートメントが
ぎっしりと設けられています。


タンクデッキの構造をご覧ください。
このコンパートメントが展示室として利用されているというわけです。


第一次世界大戦に関する展示品。



クロワ・ド・ゲール(Croix de guerre)

はフランス政府から授与される軍事勲章で、
第一次世界大戦で初めて創設されました。

他国の軍人に対しても授与され、第一次世界大戦のアメリカ陸軍では
歩兵師団「インディアンヘッド」「マルヌ師団」「カンティニーのライオン」
騎兵連隊「レイダーズ」、海兵隊の「ザ・ファイティング5th」

そして黒人ばかりの分離連隊、「レッドハンド師団」
「ハーレム・ヘルファイターズ」「バッファローソルジャーズ」

がこの賞を授与されています。

また、マッカーサー、マーシャル、パットン、アイゼンハワー、ルメイ、
ルーズベルト大統領の息子セオドアJr.
も受賞者です。

変わったところで、アメリカ生まれのアフリカ系フランス人ダンサー、
ジョセフィン・ベイカー、作家のアンドレ・マルローなどがいます。

■ミリタリーウーマン・イン・サービス


続いて女性軍サービス従事者のコーナーです。
左から海軍看護部隊、海軍WAVES、空軍(戦後)陸軍WACの制服。
いずれもマスキーゴン中心に近隣のベテランからの寄贈です。

WAVES =Woman Accepted for Volunteer Emergency Service
(女性志願非常時部隊)

ボランティア緊急サービスに受け入れられた女性 - 1942年7月30日結成
戦闘艦や戦闘機での勤務は許可されていません。

WAAC・WAC=Woman auxiliary Army Corp
(女性補助陸軍軍団)

1942年5 月15日設立
150,000 人以上の WAC が第二次世界大戦に従軍しました。
マッカーサー将軍は彼女らを
最良の、最も不満の少ない兵士と呼びました。

WAAC'S は第二次世界大戦中に WAC'S になりました。

ANC=Army Nurse Corps
陸軍看護師団

「陸軍看護師団」は 1942年2月2日正式な軍事部隊として結成されましたが、
それ以前の南北戦争と米西戦争からすでに従軍していました。

1917年(第一次世界大戦) には403名でしたが、
1945 年には 21,000名が参加していました。

SPARS←Senper Paratus(常に備えあり)

沿岸警備隊の女性軍人サービスは1942年11月23日に結成されました。
第二次世界大戦中に 11,000 人の女性が SPARS として勤務しました。
「センパー・パラタス」は沿岸警備隊のモットーです。

Woman Marines
女性海兵隊 

1943 年2月13日に結成。
第二次世界大戦が終わるまでに、州側の司令部に配属された
米海兵隊員全体の 85% が女性だったということです。

 ATS=Auxiliary Territorial Service
補助領土サービス

米国のWACに相当する英国の女性部隊です。
1938年9月9日に結成され、65,000人のイギリス人女性が勤務しました。



夫婦でベテラン下士官だったダイアンとスティーブ・シェラー夫妻の
それぞれ12年、24年の勤務歴を右袖に刻んだ制服。



夫のスティーブは操舵の下士官最高位である、
Master Chief Petty Officer of the Navy (MCPON)
(海軍付最上級上等兵曹)
であり、ダイアンは
Hospital corpsman First class
医療技術を持つ下士官のランクで、レーティングはE-6となります。

NNC=Navy Nurse corps
海軍看護師団

女性看護師は南北戦争から海軍の艦船に勤務していましたが、
正式に認可されたのは1902 年のことです。

第二次世界大戦の終わりには、11,021名の海軍看護師がいました。
第二次世界大戦中、NNCの2つのグループが日本軍の捕虜となっています。


左から海兵隊、陸軍、海軍の看護部隊サービスドレス。
右はパーティ用のフルドレスですが、戦後のものかもしれません。



各ユニフォームには、着用していたベテランの写真が添えられています。



ご本人の経歴も記されていますが、残念ながら読めません。



一番右のドレスを着ていた方は、任官されたようです。


ナースコーアの制服、ポスター、写真など。
一番左の制服は赤十字のナース用です。


彼女らの着用していた帽子コーナー。
ギャリソンキャップ、ナースキャップ、ベースボールキャップなど。


続いて女性飛行部隊です。

WASP=Women Air Service Pilots
「女性空軍パイロット」

1,074人のWASPは、第二次世界大戦中、
航空機を戦闘空軍基地に輸送するためのパイロットでした。

これにより、1,074 人の男性パイロットが戦闘任務に就くことができました。
そのうち38人がこの任務で死亡ました。

しかし残念なことに、米国がWASPを軍の一員として正式に認めたのは
70 年代後半になってからでした。
そのとき初めて彼らは退役軍人としての恩恵を受けることができました。



写真の左上は、当ブログでも紹介済み。

ナンシー・ハークネス・ラブ(Nancy Harkness Love)

わずか28歳にして彼女はWASP(Woman's Airforce Service Pilots)
の共同設立者となり、輸送部隊のディレクターになりました。


女流パイロット列伝〜ナンシー・ハークネス・ラブ「クィーン・ビー」



WASPのドーラ・ストロサー、デデ・ムーアマンと一緒に写るのは
ポール・ティベッツ大佐とB-29の搭乗員。

ドーラとデデはB-29の最初のパイロットであり、
墜落による死傷者が出て、爆撃機の性能に搭乗員が懐疑的になったとき、
自らの操縦で安全性を証明し、彼らを安心させることを目的に投入されました。



冒頭の「第二次世界大戦最後の行方不明WASP」とされているのは、
現地には説明がありませんが、アメリカではきっと有名な方なのでしょう。

ガートルード・トンプキンス・シルバー

生年月日 1911年10月16日
出生地 米国ニュージャージー州ジャージーシティ
1944年10月26日(33歳)失踪
米国カリフォルニア州ロサンゼルス
状況 78年7カ月と16日間行方不明
国籍 アメリカ
職業 パイロット
時代 第二次世界大戦
所属団体 Women Airforce Service Pilots
配偶者 ヘンリー・シルバー

WASPクラス43-W-7を卒業した。


ガートルード・"トミー"・トンプキンス・シルバー
(1911年10月16日 - 1944年10月26日失踪)は、
第二次世界大戦中に行方不明になった唯一の女性空軍パイロットです。


ニュージャージー州の化学品製造会社スムースオン社(現在もある)
の創業者の娘として何不自由なく生まれ育った彼女は、
園芸学校を卒業後ニューヨークに行きましたが、
その後すぐWASPプログラムに応募入隊します。

彼女を最初に飛行機に乗せてくれたボーイフレンドが、
英国空軍の飛行中事故死したことが志望の動機でした。

WASPで任務中の1944年10月26日、彼女は
ノースアメリカンP-51Dマスタングでロサンゼルス空港を出発し、
ニュージャージーにむかうことになっていましたが、
途中経過地のフロリダパームスプリングスに到着しませんでした。

報告ミスのため捜索が開始されたのは3日後で、
地上と水上での広範囲な捜索にもかかわらず、
シルバーと航空機の痕跡はついに発見されないまま今日に至ります。

近年、2010年になって、サンタモニカ湾で捜索が行われ、また、
2019年にはディスカバリーチャンネルが、ロサンゼルスの東にある
サンジャシントの山麓を捜査しましたが、結果は得られないままでした。



マスキーゴン出身軍人の「ミッシングマン」コーナーです。

画面右側は、朝鮮戦争時F-86Fセイバーのパイロットで、
MiG-15との交戦によって損傷した機体からベイルアウトしてから
行方がわからなくなったドナルド・ライツマ(Reitsma)大尉の遺品。

1年後の1953年12月23日に死亡したと認定されましたが、
遺体は発見されませんでした。



以前も一度「ミッシングマン・テーブル」の慣習について
当ブログでは紹介したことがありますが、つまり
ガードルード・シルバーのような戦時行方不明者のための『陰膳』です。
これには決まったやり方があります。

ラウンドテーブル
行方不明の人々に対する私たちの永遠の関心を示すものです。

白いテーブルクロス
任務への呼びかけに応える彼らの動機の純粋さを象徴しています。

花瓶に飾られた一輪の赤いバラ
は行方不明者のそれぞれの人生と、信仰を守り答えを待っている
アメリカ人それぞれの愛する人や友人の人生をあらわします。

花瓶を結ぶ赤いリボン
行方不明者への責任を負う私たちの継続的な決意の象徴です。

パン皿に置かれたレモンのスライス
異国の地で捕らえられ行方不明になった人々の苦い運命を表します。

パン皿の上のひとつまみの塩
答えを求める行方不明者とその家族が耐えた涙を象徴しています。

聖書
神のもとに一つの国として設立された我が国からこれらを守るために、
信仰によって得られる力を表しています。

逆さに伏せたグラス
今夜の乾杯を分かち合うことができないことを象徴するものです。

椅子
誰も座っていません。彼らは行方不明だからです。


続く。


映画「海の底(The Seas Beneath)〜「レッサーフォード」作品

2023-10-05 | 映画

ジョン・フォード初期の海軍映画、「海の底」後半です。

偽装船としてUボートを殲滅すべく敵地に乗り込んだ「ミステリーシップ」。
乗組員を待っていたのはドイツ軍の放った女スパイの甘いワナでした。

もっともあかんやつは、スペイン人の女スパイに籠絡されて眠らされ、
アメリカ海軍軍人であることがばれてしまったキャボット少尉です。

睡眠薬から目覚めた彼は、自分が港に置き去りにされたこと、
ロリータが最初から自分を騙すつもりで近づいたこと、そして
入港したアメリカ船が偽装であることをドイツ側に知られてしまい、
この失策によって味方が危険に曝されることに気づきます。

彼はその責任をとり、一人で後始末をつけるため、
Uボート乗員を乗せた船にひそかに忍び込みました。





U-172の艦内には、戦いの合間とはいえ、リラックスした空気の中
乗員が奏でるアコーディオンの「ローレライ」の調べが流れていました。

相変わらずドイツ人同士の会話は字幕なしですが、
全くわからずとも状況と画面でほとんど理解できるようになっており、
このときも、妹の乗った補給船が近づいた、という報告を部下から受け、
艦長シュトイベンが潜望鏡を上げよ、と命じたとわかります。

トーキー移行以後、外国人の会話をどう観客に理解させるかということも
この頃は定型がまだ生まれていませんでした。

本作では外国語は流れで理解させ、要所のみサイレント時代の字幕をつける、
という方法でその解決を図っていますが、その後、誰が発明したか
外国語っぽい英語と要所の単語で喋っている『ことにする』
というアイデアが、ある時代までの戦争映画の「お約束」になっていきます。


さて、本作品に登場するU-172の内部の撮影は、

USS「アルゴノート」SS-166

を使って行われました。
「アルゴノート」は1927年に就役した当時最大の潜水艦で、
撮影時の1930年にはまだその名ではなくV-4と呼ばれていました。



妹とその婚約者の姿を近付いてくる補給船上に認めたシュトイベン艦長、
潜望鏡を覗きながらいつまでもニヤニヤ笑っているのがちょっと不気味。

シスコン設定?





妹アナ・マリーも兄の乗る潜水艦にいつまでも手を振らされています。
やたらこのシーンが冗長で退屈なのは、潜水艦が画面の中央に来るまで
カメラが撮影を中止できなかったせいだと思われます。



「アルゴノート」の甲板に見えるのは53口径6インチ砲です。



Uボートに敬礼するシラー中尉。



士官その2。(多分補給士官)



その3。(少尉)

フォードは敵ドイツ軍人の姿を歪めて描くようなことはしておらず、
彼らの佇まいは実に明朗で爽やか、いずれもキリッとした軍人ぶりです。

尤もハリウッドがドイツ軍を「絶対悪」として描くようになったのは、
第二次世界大戦のヒトラー登場以降であったと認識します。



そして最後に久しぶりに会う妹と抱擁する艦長・・・
って、ドイツ人は兄妹同士でこんなに濃厚なキスするものなのか?



兄妹の会話でなぜかこの一言だけが英語に翻訳されます。


補給船の甲板のドラム缶からホースで直接艦内に送り込んで給油開始。
本当にこんな雑な方法で給油していたんでしょうか。


さて、海中からこっそり補給船に忍び込み、
積荷の間に姿を隠していたキャボット少尉、行動を開始しました。




何をするかというと、船内のパイプを破壊して浸水させ、
ガソリンに火をつけて給油できなくしてしまおうというのです。

なぜ彼が濡れてないマッチを持っていたのかは謎です。



ガソリン缶に火をつけたり、燃えるそれを海に蹴落として消火する動作を、
俳優が実際に船上でやっているのには驚きです。

これ結構危険な撮影だったと思うぞ。



さらにパイプを破壊しようとしたキャボット少尉ですが、
警衛に甲板からライフルで撃たれてしまいました。

Uボートの少尉が倒れた彼の止血を試みますが、もう虫の息。



「僕は・・・リチャード・キャボット少尉。
合衆国の・・・セイラーだ。
どうか伝えてほしい。艦長に・・・

痛いよ・・・

艦長に・・・僕は・・僕は・・・」

「・・亡くなりました」

ここでキャボット少尉があっさりと死んだのには驚きました。
てっきり汚名返上のヒーロー的大活躍をすると思っていたので。

トーキーの黎明期、まだこの頃は映画的「お約束」などなかったし、
これも一筋縄ではない「フォード風」だったかもしれません。



目の前で死人が出たことにショックを受け、アナ・マリーは、
兄とフランツになぜ殺す必要があったのかを問い詰めますが、
兄は悲痛な表情で「クリーク・イスト・クリーク」(戦争は戦争だ)


キャボット少尉にU172の救命胴衣を付け、海に葬ることになりました。
遺体を沈まぬようにして同胞に発見させるために。



敬礼で見送る艦長以下幹部たち。



このときのアナ・マリーは作品中最も綺麗に見えます。
字幕のないドイツ語のセリフで彼女はこの時何か言いますが、

「大した戦争ね!」

とかじゃないかと思います。



それを聞いて悲痛な表情をするシラー中尉。



アナ・マリーを補給船に戻すと、Uボートはハッチを閉めました。



この映像からは、就役してまだそんなに経たない「アルゴノート」の
艦体の新しさが伝わってきます。



彼女が見守る中、潜水艦は実際に潜航して海面から姿を消します。



しかしちょうどそのとき、キャボット少尉が死ぬ間際に行った
パイプの破壊により、補給船は沈み始めてしまいました。



その日の「ミステリーシップ」のログには、
石油缶が燃え沈没した補給船と胸を撃たれたキャボット少尉の遺体を発見し、
少尉を深夜に水葬にしたことが記されました。



翌日、偽装船は沈んだ補給船の救命ボートを発見しますが、
乗員の中から女性だけを船に助け上げ、
残りは岸までの距離を指示して追っ払います。



ところが助けた女性を見て艦長びっくり。
最近どこかでお会いしましたよね?

艦長はキャボット少尉の死と彼女に何らかの関係ありと考えました。
しかし彼女は自分はデンマーク人で全く関係ないとしらばっくれます。


ところが次の朝、彼女は隙を見て救命艇を降ろし、脱走を試みました。
やましいことがないならなぜ逃げる?


艦長が問い詰めると、アナ・マリー、短気なのかあっさり馬脚を表しました。

ヒステリックに、偽装船という卑怯な手を使うアメリカ軍を嘲り始め、
兄のU-172とあなた方が戦って勝てるわけない、とせせら笑います。

この時の女優の演技が、下手の限界突破して笑ってしまうくらい酷い。
そしてついでに、このときの彼女、ものすごく不細工に見えます。

マリオン・レッシングという女優が結局この主役の後
ほとんど端役に甘んじ、映画界に名前を残さなかったのも宜なるかなと。


口汚く罵る彼女にうんざりする様子もなく、ボブは優しく彼女の手を取り、

「いよいよ君の願い通り、兄さんと対面できるよ」

そしてそのまま部屋を出て行くのですが、
あのー、外から鍵をかけておいた方が良くない?


Uボートが近くにいることが確認できたので「パニック作戦」開始です。
艦長は潜水艦のデイ艦長に作戦の準備を連絡。



パニックを起こして逃げ惑うお芝居をする部隊に作戦確認中。
ちゃんと「バーサ」もスカートを履いてスタンバイしてます。

ここで、

・「悲鳴を忘れるな」と揶揄った男をバーサ、いきなり殴り倒す

・小道具の赤ちゃん人形を抱き上げ「不正乗艦です」という水兵


という相変わらず全く面白くないシーンが挟まれます。


Uボートの方も偽装船を見つけました。

船名は「ジュディ・アン・マッカーシー」。
下士官コステロが勝手につけた彼の元カノ(体重130キロ)と同じ名前です。



シュトイベン艦長はUボートの浮上を命じました。





そして、監督渾身の潜水艦浮上シーン。
浮上した艦首の先にミステリーシップがピッタリと収まっています。

艦体に取り付けたカメラは海中に沈み、
波でレンズが洗われる様子も克明に映し出しています。
当時このシーンを見た人々はリアルな迫力に息を呑んだことでしょう。



Uボートのハッチが内部から開けられる様子も描かれます。

この二重になっている構造ですが、海自の潜水艦に入ったとき、
「ハッチ部分の下のはしごは見えないので、
足を伸ばして梯子段を確認しながら降りてください」
と注意されたのを思い出しました。


Uボートは海上で砲撃を行うことを選択しました。

はて、なぜだろう。

相手が偽装船かもしれないと疑っているこの状態で、わたしが艦長なら
こんな戦法を取らず、海中から魚雷で攻撃するけどな。

だって、偽装船とはいえ帆船が爆雷を落としてくる心配なさそうじゃない?

・・とか言っていたら、早速Uボートから撃ってきました。

口うるさいようですが、掛け声がいちいち「ファイア」なのは残念。
せっかくドイツ語で通してるんだからここは「フォイア」と言ってほしい。



偽装船、いよいよパニック作戦発動で、船員役の何人かが
船尾の救命ボートから慌てふためいて脱出を始めました。


ところがここで事件発生。

アナ・マリーが部屋から外に出て(閉じ込めておかないから当然)
フラッグブリッジに忍び込み、信号旗を揚げてしまったのです。

国際信号旗の意味と揚げ方を熟知する女性って、何者?



それは兄の潜水艦に警告を送る妹のメッセージでした。

「我が船に近寄るなと言ってます」


艦長は慌てて旗を引き摺り下ろして、ついでに彼女も引きずり倒し、
脱出するボートに強引に押し込みました。


こちらは当然相手が偽装船であることを疑っている風ですが、
アナ・マリーのスパイ報告とか、陸で会った米海軍士官とか、
疑うも何も、アメリカ軍の偽装船であることは確定してるんじゃないの。



Uボートは砲撃を継続していました。
で、このシーンですが、本当に海軍軍人に砲撃させています。



木造船なのでまだ浮いていますが、かなり浸水が進んできました。



ポンプでの水の汲みだしも見えないように低い姿勢で座って行います。


そのとき、艦長が思い詰めた表情で乗組員に総員退艦を宣言しました。
作戦はどうなったの?と顔を見合わせる水兵たち。



次の瞬間、砲弾がヒットし負傷者2名。


それを受けて、今度は海軍水兵の制服を着た乗組員が海に飛び込みます。
実はこれはパニック作戦の「フェーズ2」でした。

偽装船を装っていた海軍船が砲撃を受けて窮地に陥り、
ついには総員退船にまで追い込まれたと思わせる作戦です。



これに騙されたUボートが射程内に入ってきました。



その瞬間、満を持してラッパが鳴り響き、合衆国国旗が揚がり、
そして隠していた銃、砲弾の囲いが一斉に取り払われました。



いよいよ反撃開始です。
砲撃シーンは、下士官の俳優はそのまま、砲兵は本物で
装填と発砲を実際に行っています。



迫力の砲撃シーン。


この水煙の上がり方を見ると、水中で何か爆発させているんでしょうか。



そして、待機していた米海軍潜水艦が攻撃の準備を始めました。
右側があまり出番のなかったデイ潜水艦長です。



魚雷の装填も実際に行っています。
ここにいる全員は現役の潜水艦乗員だと思われます。

「ナンバーワン、ファイアー!」


そして会心の一撃がUボートにヒット。



艦内に海水が傾れ込んできました。



我が艦が撃沈されたことを知り、シュトイベン艦長は、
残った乗員に号令をかけ、ドイツ海軍旗に全員で敬礼を行いました。



互いに微笑んで「アウフヴィーダーゼーエン」と言葉を交わし、
肩を叩いて握手を・・・・・。



しかし、アメリカ軍の方は今や救助に全力でした。
何がなんでも相手を助ける気満々です。




同日のログより。

1918年9月7日
沈没したU-172の生存者を救出
船は総員で排水の上同盟国港に入港させる
捕虜を借り収容所に引き渡す




そしてここからがラストシーンとなりますが、かなり微妙なので、
映画の評価としてここをマイナスポイントに上げる意見もあります。

ショボーンとしているアナ・マリーのところにやってくる艦長。
どうやら彼女は一連の工作で罪に問われることはなかったようなのです。

「さて、アナ・マリー。
我々は出発するが・・・何か言いたいことは?」

「いいえボブ、ないわ」

「違うな・・・お互い言うことがあるはずだ。
今言わなければ一生後悔することが」

「ボブ、何を言わせるの。あなたの勝ちよ」

「勝ち・・?いや、俺の負けだ。大事なものを失った」


「あなたは何も失ってないわ。これからも」

「そう思うか?」


黙ってうなずくアナ・マリー。

「だって君は行くんだろう?兄と、婚約者・・シラー中尉と」



「兄と行くのよ」

なんなんだこの流れ。
ボブ、いまだに彼女が諦められないのか?

「聞いてくれ、アナ・マリー。君は残るべきだ」

な、なんだって〜?

「あそこに小さな教会が見えるだろ。
僕らはあそこでこの世で一番幸せな二人になれる」

おいおいおいおい。甘すぎないかボブ。
この女と結婚した途端君の海軍での将来はないぞ。
というかいくらこの時代でも実際そんなことが可能か?

「ダメよボブ」(あっさり)

まあそうなるでしょうな。
っていうか、女の方は男が思うほど自分のこと好きじゃない。
気づけ。


「祖国は今苦境に陥って人々は希望を失ってる・・。
そんな人たちを見捨てていけないわ。
今こそ民族が寄り添う時なの。
あなたが行くからって一緒に行くわけにはいかない」


そう言う理由か。
それにしても、海軍軍人より彼女の方が公を憂えているのはどういうわけだ。



「わかったよ・・。
でも僕らには二人で撮った写真がある」

そういってボブはカメラごと彼女の手に握らせ、

「持っていてほしい」

彼女はそれがカメラそのものだったことにドン引きし(多分)
それをボブに押し戻しながら、去っていきました。

「また取りに来るから・・」

という心にもない言葉を残して。



そして彼女は、今から収容所に移送される捕虜の隊列にいる
兄、フランツの傍にぴったりと寄り添いました。

シラー中尉(腕を骨折して肩から吊っている)が指揮を執り、
アメリカ軍の太鼓手のドラムに合わせて、敬礼ののち、
アメリカ兵が手を振り見送る中、捕虜の隊列は行進していきます。

この頃の敵捕虜の扱いがどうだったのかを知る貴重なシーンです。


隊列の最後に、兄艦長と妹の姿がありました。



「大事なものを失った」(つまりふられた)
艦長ボブの絶望の表情で映画は終わります。



本日タイトルの「レッサー・フォード」というのは、
映画評論ページで見つけた、あるアメリカ人のこの映画に対する評です。

まだ経験もトーキーの撮影回数も少なく、映画界での力もないがゆえ、
撮影所のゴリ押しを受け入れて「たいせつなもの」を失った若い監督が、
その中で自分のできることをやりきろうとした感のある作品。

それでも至る所に確認できる、のちの大御所の才能の萌芽が、
その「海軍愛」と相まって本作を佳作にまで押し上げました。

文字通り「フォード未満」の作品だと思います。

終わり。





映画「海の底(The Seas Beneath)」〜ジョン・フォード初期の海軍映画

2023-10-02 | 映画

名匠ジョン・フォード監督が若い時から海軍オタクだったことを証明する作品、
1930年の海軍映画「海の底」を紹介します。

本日のブログ扉絵ですが、映画で描かれた1918年ごろから映画制作時まで
欧米を席巻したアールデコ様式を取り入れてみました。


ジョン・フォードが売れない俳優から監督に転身したのが1917年のこと。
兄のフランシス・フォードの映画に俳優として出演していた彼が、
ある二日酔いで仕事ができなくなった兄の代わりに助監督を務め、
それが認められたのが後の名匠ジョン・フォードの誕生のきっかけでした。

デビューしてしばらくは流行りの西部劇を撮っていたヤング・フォードですが、
1929年、映画会社がこぞって無声映画からトーキーに移行し、
西部劇が下火になったこともあり、ドラマを手がけるようになっていきます。

「海の底」は、フォードが監督した7作目のトーキー映画です。
フォードはこの手法を取り入れたことで可能になったロケを、
念願だった?海上戦闘シーンに取り入れています。

ちなみにフォードは、オールトーキーになって2作目の「サルート」
(敬礼)という映画で海軍兵学校とネイビーアーミーゲームを取り上げ、
アナポリスでロケを行っていますし、1930年度作品の
「Men without Women」ではトーキー初の海軍映画を手がけています。

Salute (1929) 兄がウェストポイント、弟がアナポリスで恋の鞘当てフットボール対決

どちらの作品にも、無名時代のジョン・ウェインが端役で出演していますが、
自身がアイルランド系であるフォードは、俳優も同族で固める傾向があり、
ウェインが常連となったのもこのせいだったと言われています。

ただし、フォードは最後までウェインを木偶の坊呼ばわりしていたとか。

「Men without Women」(潜水艦もの)

もう一つついでに、第二次世界大戦中、フォード=海軍のように、
軍に協力した監督は、陸軍航空隊のウィリアム・ワイラー、
そして陸軍のフランク・キャプラが挙げられます。

キャプラとワイラーは陸軍の映画班に所属して、
新兵のための教育映画や戦意高揚映画を撮り、キャプラは陸軍中佐に、
そしてフォードも最終的には海軍少佐に任じられました。


ということはこれは少将のコスプレ



というところで早速始めます。

主演ジョージ・オブライエンはこの頃のフォード映画の常連俳優。
名前から彼もアイルランド系ということがわかりますね。
オブライエンは「敬礼」で陸軍士官候補生の兄役をしています。

彼はサイレント時代はフォード映画の常連でしたが、
トーキーに移行してからの演技に難があったのか、
次第に「フォード組」から姿を消すことになります。


映画は3本マストのスクーナー船が海上に浮かぶシーンから始まります。



艦長ロバート・キングスレー、アメリカ海軍大尉の名が記された
USS「ミステリーシップNo.2」の航海ログの表紙がアップになります。
これは2番目の艤装船を意味します。


1918年8月18日

1)ヨークタウン港を秘密裡に出港
2)目的地は不明
3)任務の性質上、総員機密厳守のこと

1918年8月は、第一次世界大戦終結3ヶ月前です。
フォードは終戦から12年経って、大戦中の海軍を題材にしました。





さて、そのブリッジログです。

乗組員の構成について:
a)艦上経験のない海軍予備兵
b)USS「ミズーリ」の砲兵(優秀な者)


わざわざ「未経験者」を集めたのはどういうわけでしょうか。


海上で総員に集合がかかりました。
極秘任務ゆえ、陸を離れてから任務内容が伝えられます。



キングスレー艦長は乗組員たちを見回します。
ベテラン下士官の中には、やはり軍人であった彼の父親と
フィリピンで一緒だったという者もいますが、殆どの水兵とは初顔合わせ。

艦長はこれからこの船は民間船「Qボート」として敵潜水艦活動域に潜入し、
おとりとなってUボートに攻撃させ、油断させて
あわよくば返り討ちにする、という作戦概要を告げました。


それを聞いて、皆の顔に怪訝な表情が浮かびます。
こんな民間船でどうやって?



そこで艦長が砲兵に命じると、構造物に見えていた建物の壁がパカっと倒れ、



中から最新式の艦砲が現れました。



砲兵はもちろんベテラン下士官も見るのは初めての武器に興奮しています。



砲にいきなり元カノの名、「ジュディ・アン・マッカーシー」を命名。



艦長は今回の任務が特定のUボートの殲滅であると明かします。
ターゲットはドイツ潜水艦隊のエース艦長が率いるU-172。
Uボート艦長のフルネームは、エルンスト・フォン・シュトイベン男爵です。

第一次世界大戦の撃墜王レッドバロンことリヒトホーフェン男爵のかっこよさに
欧米の民衆は敵にも関わらず大変熱狂したそうですが、
同じ属性を負わせているあたりに、この敵キャラへのこだわりが窺えます。


さて、武装しているとはいえ、こちらも偽装船1隻で戦うわけではありません。

艦長は、当時先端技術だったに違いない艦同士の直通電話で
今回同行する潜水艦を海底から呼び出しました。



この潜水艦浮上シーンは、現代の我々には見慣れたものですが、
潜水艦にカメラを取り付けて浮上させるという撮影は
当時の映画としては超超超画期的だったはずです。



浮上した潜水艦の乗員と顔合わせ。
このまま5日間別行動することを打合せしました。



潜航する潜水艦に対しラッパが吹かれ、乗組員が総員でエールを送ります。
この丁寧な海軍描写こそがフォード監督のこだわりです。

この後潜水艦が潜航していく様子もマストの高さから丹念に撮影されます。



潜水艦が去ってから、あらためて艦長は作戦の詳細を語り出しますが、
なんかこの構図・・・海軍っぽくないですよね。

このあとも乗組員のガッツを褒め、横にいた水兵が力コブを見せると、
その筋肉をさわって感心するといった馴れ合いも海軍ぽくない。

わたしが見た英語の映画感想コメントのなかに、

「艦長は乗組員の司令官というより運動部のコーチかOBのようだ」

というのがありましたが、このあたりを言っているんではないかと思います。

さて、艦長が発表した今回の作戦名は「パニック作戦」。

商船を装い敵活動海域に進入、攻撃されたら逃げ惑ってみせ、一部が総員退艦、
隠れていた砲兵と潜水艦がおびき寄せた敵艦を攻撃、というものです。

「これを上手く演じなければいかん。ちなみに演劇の経験のある者は?」

「こいつです。サーストン」

「何を演じた?」



「”お針子バーサ”っていう劇で主役でした」

「お、おう・・・じゃ君は船長の妻の役だ。真っ先に騒げ」



マストで見張りをしていたキャボット少尉が降りてきました。
このシーンはスタントマンが実際にマストから滑り降りてきます。



代わりにマストにラダーで上がっていく水兵たちを見ながら、
俺が若い頃はラダーなしでマストに上ったと自慢話をするコステロ兵曹。

よせばいいのに煽られおだてられてその気になり、
この巨体で実演を始めたところ、運悪くラダーがちぎれ(なあほな)
海に転落してしまいました。



それを見るや間髪入れず海に飛び込んだのはキャボット少尉。
マストの最上部から・・あれ?さっき降りてきてなかったっけ?
いつのまにまた上に・・・。






このスタントマンに敬意を表して、連続写真を挙げておきました。

海上で撮影できるものはすべてやってみた感があるこの映画の中でも、
このシーンは海軍的な意味で歴史に残る瞬間だったと個人的に思います。

スクーナーのマストから海面までは、多分50m弱あると思うのですが、
(ゴールデンゲートブリッジから飛び込んだ場合、海面までの高さは67m)
これを本当に飛び込ませているあたりがすごい。

スタントマン、回転して背中から海面に落ちて大丈夫だったのか。


この派手な救出で、すっかり男を上げたキャボット少尉。



逆に恥をかいたコステロ兵曹ですが、この期に及んで負け惜しみ。

「誰か飛び込んで助ける勇気があるか試したんだ!」


残念ながら乗組員がネタのユーモアは全く笑えないのがほとんどで、

「 all the cornball humor from the brainless naval crew. 」
(頭の悪い海軍クルーの面白くないユーモア)

If their collective brains could be rendered into gasoline,
there wouldn't be enough to run a termite's chainsaw.
(彼らの脳みそを集めてガソリンに入れても白蟻のチェンソーすら動くまい)


などと感想サイトでも痛烈ですが、その一例がこれ。

(兵曹のために)ブランデーをとってこいと言われたこいつは、
なぜか「兵曹が水に落ちたら僕が酒を飲めと言われた」と思い込んで、
クイっと飲み干して「訳わかんねー」。

わけわかんねーのは君の常識のほうだ。



ミステリーシップ=Qボートはカナリア諸島で補給のため寄港を行います。
上陸に関してはチーフから強くお達しがありました。

「酒と女禁止」

任務を考えると当然の注意ですが、


しかしなあ。女の方が放っといてくれないのよ。
若いキャボット少尉には上陸早々美女が思わせぶりに近づいてきますし、


下士官、兵、誰一人注意なんて守っちゃいねえ。


肝心の艦長までこのていたらく。

係留されている船の写真を撮ろうとして警官に撮影禁止を言い渡された艦長に
いきなり接近して通訳と説明を始める妙齢の美女。

「ドイツの潜水艦にやられた船よ」

艦長、一応任務は忘れず、記念写真を撮るふりして船の撮影を強行しますが、
全く相手を疑わず、自分からアプローチする始末。



場面は変わって、同じ港町の宿屋に3人のドイツ海軍士官が投宿しました。
彼らこそがアメリカ軍が探しているU-172の幹部です。

彼らのドイツ語はほとんど翻訳されず、会話は要所要所このように、


(”フロイライン・フォン・シュトイベンはどちらに?”)

サイレント映画のような英語表記(フラクトゥール)で表されます。



こちらがそのフロイライン・フォン・シュトイベン。
例のフォン・シュトイベン艦長の妹なのですが、
なんと、さっき艦長に接近してきたばかりの女性ではないですか。

そしてアナ・マリーと呼ばれた彼女は海軍士官のうち一人、
フランツ・シラー中尉と熱いキスを交わします。



アナ・マリーを演じたマリオン・レッシングという女優は、
ドイツ語が堪能というだけで選ばれた、というより、
フォード監督いわく、撮影所に「押し付けられた」大根女優でした。

その壮絶な演技下手さは日本人である我々にもはっきりとわかるくらいです。

フォードは後々まで、この映画はこの女優のせいでダメになった、とか、
この女がガムを噛みながら演技して撮り直しになったとか愚痴っていました。

シラー中尉を演じたのはジョン・ローダーという俳優ですが、
英国生まれで、父親は英国陸軍軍人、イートン校と王立陸軍士官学校で学び、
第一次世界大戦に参加中、ドイツ軍の捕虜になるという経験などを経て
戦後映画界を志し、のちにアメリカ国籍を取得しました。

ドイツ映画に出ていた関係で、ドイツ語はネイティブ並みだったことから
今回のドイツ人将校役に指名されたようです。

あの超天才科学者で女優のへディ・ラマーと結婚していたこともあります。


さて、シラーはアナ・マリーに昨夜入港した米船籍の帆船が怪しい、
我々を追っているのではと疑いを仄めかし、彼女は
何か思い当たる節があるのか、はっと顔を曇らせました。

婚約者を危ない目に遭わせそうで心配だというシラーに、彼女は

「それでは国に尽くせない。
女だから疑われないしスパイにだってなれるわ」

と太々しく微笑むのでした。



入れ替わりに宿にやってきたのは・・おや、先ほどのスペイン美人。
どうやらドイツのスパイとしてお小遣い稼ぎをしている悪い女らしい。



酒場で歌い、踊ってステージからターゲットを誘惑するのが得意技です。



狙われたのはリチャード・キャボット少尉。
うぶな若い士官を手玉に取ることなど赤子の手をひねるより簡単ってか。

このスティーブ・ペンドルトンという俳優についても書いておくと、
1970年まで多くの映画やテレビドラマに出演した脇役俳優で、
最後の映画出演は、「トラ!トラ!トラ!」の駆逐艦艦長役となっています。



そんな凄腕女スパイの活躍をじっと観察しているドイツ軍人たち。



舞台の上からアプローチされ、ふと気づけば一緒に踊っているという・・。



さらにふと気がついたら彼女の部屋で、しかもベッドに誘われているという。
ドイツ人たちはキャボット少尉が女性にふらふらついていくのを見て、

「見事な腕前だな」

みたいなことをドイツ語で言ってます。(たぶんね)


そして同じ頃、艦長もまた女に引っかかっていました。
BGMはストリングス演奏による「エストレリータ」。

この脚本の甘さ、ジョン・フォードもこの頃はこんなだったのね・・・。

以前ここでご紹介した「サブマリン爆撃隊」は1938年作品で、
彼が監督として押しも押されもせぬ名声を築いた「駅馬車」は、
この映画の9年後、1939年の作品となります。



そして、ドイツのスパイ、ロリータに籠絡されたキャボット少尉は、
あっさりと睡眠薬で眠らされてしまいました。



ロリータは、軍帽から彼がアメリカ海軍の少尉であることを突き止め、
宿の主人(ドイツ側から金をもらっている)に報告しますが、
なぜか眠っている彼を悲痛な顔で見つめ、キスします。

これ、どういう意味?
オスカー・ワイルドの「ヨカナーンの首に接吻するサロメ」的な?



酒と女禁止を乗員に言い渡しておいて酒場に脚を運ぶ艦長ボブに、
ドイツ軍団は大胆にも声をかけてきました。
艦長の海軍兵学校の指輪を褒めてきたので、艦長もそれに応え、
「再会を期して」と挨拶を交わします。



艦長も彼らがU-172の乗組員であるらしいことに気づきました。

「あいつらだな副長」「そうですね」

お互い逃げも隠れもせず陸上で対峙する海軍軍人同士。
次に海の上で会ったらそのときは、という含みを持たせあうこの会話は、
まだかすかに騎士同士の対決的要素の残っていた
第一次世界大戦の戦闘機パイロット同士のようです。

第一次世界大戦において、陸軍は言わずもがな、
海軍の艦船でも実際は「顔の見えない」敵同士で戦いましたが、
この映画では、互いの存在を明らかにし実際に遭遇させることで、
戦いをより「個人的な」ものとして描き、物語性を持たせています。



艦長はすぐさま総員に帰艦(船)を命じました。



ところが、出航時間になってもキャボット少尉が戻ってきません。



ロリータに薬を盛られてすっかり眠り込んでいたからです。



眠りが覚めた彼が飛び起きて海を見ると、
自分の戻るべき船はすでに沖に出ているではありませんか。

ギリギリまで少尉の捜索を命じ、帰還を待った艦長でしたが、
潮目が変わってしまい、苦渋の決断ながら彼を置いて出港を命じたのです。



「キャプテンキングスレ〜〜〜イ!」

(字幕の『船長』は間違い。ここは艦長と訳すべきです)
届かぬと知りながら艦長の名を叫ぶキャボット少尉・・。



そして、キャボット少尉は、自分を罠に嵌めた憎き女が、
ドイツ語を話す男たちから金銭を受け取っているのを見てしまいました。


全てを知った彼は夢中で岸壁に走ります。



そして、物陰から海に飛び込み、
男たちを乗せた船(補給船)に船尾から忍び込んだのでした。

どうなるキャボット少尉!

続く。