ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「NAPOLA ヒトラーのエリートたち」

2012-01-31 | 映画

先日画像メイキングを公開した映画「ナポラ」です。
はて、こんなタイトルだったっけ、と首を傾げた方、あなたは正しい。
邦題は「エリート養成機関 ナポラ」です。
ナチス軍医の戦犯だったメンゲレを描いた映画、「わが父 アルゲム通り5555番地」が、
邦題「死の天使」アウシュビッツ収容所人体実験医師
になってしまった、という話を以前当ブログでしましたが、まさにこのノリ。

ナポラが
 Nationalpolitische Lehranstalt(国際政治教育学校)から取られたもので、
ナチス政権下、社会のエリートを作るためのギムナジウムであった、ということを、
ほとんどの日本人が知らない、という前提のもとに
一言でわかりやすく映画を説明しようとするとこういう題になってしまいました。

でも、なんだか文学的じゃないでしょう?
そこでエリス中尉が勝手にこの邦題を、このように変えてみました。
こっちの方が内容が一目瞭然で、観たいと思わせません?
・・・と、威張ってみましたが、種明かしをすればこのタイトルは原題の

Elite für den Führer 
(総統のエリート)の曲訳。
そう、エリート、ってドイツ語なんですよ。発音も「エリート」。
それにしても、日本の映画配給会社のタイトルを付ける係に、もう少しセンスのある方希望。
ていうか「総統のエリート」で何が悪かったのか?

昔は、「卒業」(原題Risky business
)「殺人狂時代」Monsieur Verdoux=ベルドー氏)
映画ではありませんが「鏡の国のアリス」(Through the Looking Glass)
など、もしかしたら原題を越えた?みたいな邦題があったもんですがねえ・・・。



さて、前置きが長くなりましたが、この「ナポラ」。
ヒトラー・ユーゲントが(強制的に入隊させられる)ボーイスカウトのようなものだとしたら、
こちらはナチス・エリート養成高校。
卒業後は大学の入学資格が与えられ、その進路は軍人、政治家、財界、どこでもOK.
基本的に「国家のエリート」ですから、それがこの主人公フリードリヒのように
「世界的ボクシング選手」(目標オリンピックで金メダル)でもいいわけです。

フリードリヒは石炭拾いをしながらボクシングをしていたある日、
このナポラの生徒と試合をしてその才能が学校のコーチの目に留まったことから、
入学試験を受けるチャンスを与えられます。
親の反対を押し切り、家出してまでエリートになるチャンスを掴もうとするフリードリッヒ。


入学初日、かれは用意された制服を身につけ、鏡に向かってハイルします。
「我々の旗は死より尊い」という勇ましい歌を歌う彼の顔は誇らしさで緩み、
昂揚がその頬を染めます。

入学のための試験で特に調べられるのが「骨格」、容貌。
世界の優性人種であるアーリア系らしい青年が厳しくふるい分けられます。
学校では、一見思春期の青少年に起こりうる葛藤や事件を中心にストーリーは進みます。
上級生の苛め、生徒の父親の戦死、仲間でウェイトレスを張りあったり、その着替えを覗きに行ったり、初めて操縦する飛行機(ナチス旗のついたグライダー)に歓声を上げたり。

学校には普通の学校と同じく、いろんな生徒がいます。
サディスティックに笑いながら下級生をいじめ、カツアゲする上級生。
(こいつがまたもの凄いハンサム)

容姿にいまいち自信の持てないおデブ少年。それをからかって喜ぶイケメン優等生。
(この生徒が、川真田勝敏中尉に見えて仕方がなかった罪深い私をお許しください)
精神的に弱く、オネショが直らず、教官や上級生から酷い目にあう者。
教官のしごきに深い恨みを持ち、自爆覚悟で手榴弾を足元に落とし、仕返ししようとする者。

そして、知事でナチス高官の父親から、繊細で虚弱ゆえ愛されないアルブレヒト(画像)。
その知事の命令である日生徒たちは逃亡したロシア人捕虜を殺害させられます。
彼らがかっこいい制服や勇ましい歌だけでない戦時下の現実に暗然とする瞬間です。
日頃調子のいい生徒も、陽気な生徒も、動揺を押し隠すことができません。

父親に、そして自分に殺人を犯させる学校やナチスそのものに反逆を試みるも、
それが全く意味のないことであることに打ちひしがれるアルブレヒトとハインリヒ(画像)。

ここで、冒頭の「ギムナジウム」という響きと、この二人の抱擁するシーンから、
何やら萩尾望都とか竹宮恵子の描きそうなある世界を想像された方。
あなたは実は間違ってはいません。
こういう世界を描けば、当然そこにこういう事柄も想起されましょう。
覗きやいじめがあるなら、これも当然あるだろう、という少年同士の愛。
しかし、日本公開版では、この少年同士の疑似恋愛を暗示するシーンが、
かなりの部分カットされていたというのです。
そう言えば、イケメンカツアゲ上級生が、フリードリヒをにらむシーンは、
何となく「下級生苛め」だけでは説明できない妙な余韻を残していましたし。

これはなぜでしょうか。

おそらく(ですが)、
「センセーショナルな興味を惹かせてでも映画を売りたい配給側」の手にかかって、
「禁じられたエリート青年同士の秘められた愛!」みたいな予告編を作られたり、
「ボーイズラブ」を売り物に宣伝されないようにシーンがカットされたのではないでしょうか。

冒頭述べた「売るための邦題」における「ちょっとした冒涜」のような所業が、
宣伝の上で行われないように、製作側が先手を打ったとは考えられないでしょうか。

そう勘ぐるには理由があります。
ウィキによると、原題は「NAPOLA Before The Fall」(ナポラ 晩夏)
これは、おそらく「英語タイトル」の間違いで、ドイツ語で検索したところのタイトルは
上記の「NAPOLA 総統のエリート」。
「カットされたシーンがかなりある」という発言は英語圏の人物で、彼はこの、
いかにも萩尾望都的英語タイトルの、そう言うシーン満載の映画を観たということのようです。
英語圏では「そう言う売り方をしていたのでカットされなかった」と考えられないでしょうか。
もっとも、Fallには「失墜」の意味もあり、現に彼らがラストで失墜していく、
というストーリーとかけていることは間違いないと思います。
「総統のエリート」よりも、より内省的な視点を持つタイトルと言えましょう。
それにしても色々ある中で最低なのが「エリート養成機関」ですね。

さて、日頃寝小便を罵られていた生徒は、手榴弾に覆いかぶさって自爆し、
死しては一転し、「ドイツの英雄」と学校に称えられました。
フリードリヒとアルブレヒト、この二人にも悲しい結末が訪れます。
ここに生きて行く場所は無いと悟ったアルブレヒトの決意。
そして、その彼を守ろうとして最後の抵抗をし、排斥されるフリードリッヒ。


映画を全部観終わってから細部を点検する為に最初のシーンに戻りました。
ナチスの軍歌を歌いながらも、身体の奥底から喜びが次々あふれだしてきて、
にこにこと笑わずにはいられないフリードリヒ。
空を滑空する友に「フリードリヒ!」と力いっぱい手を振るアルブレヒト・・。

この、自分のいる場所の正義を微塵も疑わず、
エリートとして自分の進む道が洋洋と未来につながっていることの誇らしさで、
まるで内側から光り輝くような青年たち。
彼らの最後を知っている目には、その姿が抱きしめてやりたいほど、
切なく、また愛しく映りました。

 

 


がんばれ、ディズニー・シー

2012-01-30 | つれづれなるままに


一年で一番寒いこの時期に、しかも土曜日にディズニー・シーに行ってきました。
息子は帰国して以来ディズニー・シーが大好きで、もっと小さい頃は連れていくと
「なんだか今、夢の中にいるみたいなんだよー」と、
ディズニー関係者が聴いたら泣いて喜びそうなことを呟いていたくらいのリピーターです。

なぜか本家のディズニーランドには、学校の遠足で行って楽しかったくらいの感慨しかなく、
相変わらず「ムードがあって食べ物がおいしい」シ―のファン。

冒頭画像ですが、一年前、TOが知り合いの株主の方から優待チケットを貰って来ました。
喜んでいつ行こうかしら、などと言っていたら、東日本大震災発生。
はっきりいってディズニーどころではない期間がずっと続いていたし、そもそもご承知のように
ディズニーリゾート自体が営業をしていない時期がしばらくあったわけで、
デスクの片隅にあるこのチケットを眺めては
「これを使う日は、いつか来るのだろうか・・・・・・」
と思わずため息をつくような毎日でした。

シーにいくとき、うちはわたしと息子の二人、学校が休みの平日の比較的悪天候の日を選んで、
少しでも混雑を避けます。
秋頃、ようやくディズニーに楽しみにいけるような日々が帰って来たように思われても、
その機会をいろいろな事情で逸してしまい、いよいよ年が明けてあせり出しました。
使用期限は1月31日。

もしかしたら、震災で閉鎖していた間の期間を考慮した延長がないか、とHPを調べると、
そういう問い合わせは非常に多いものらしく
「震災もありましたが、それに関してはチケットの期間延長は行いません」
としっかりお断りがされているではありませんか。
息子の学校に平日休みの日はもうありません。
「土日に行くしかないのか・・・・・・」 

あまりの寒さに先々週は行くのをあきらめ、これが最後の週末という先週土曜日、
死んだ気になって出かけました。

どれくらい死んだ気かというと、ロングのダウンコートにダウンブーツ、
上下薄物三枚ずつの重ね着。
表裏、脚の裏、いたるところ、まるで魔よけのお札のように貼られた使い捨てカイロ。

念のために追加のカイロを数枚持参し、さらにマスク、サングラス着用。
こんなとんでもない恰好で、いざ出陣。


ところが、身支度に時間がかかりすぎて、到着したのが11時。
うちからディズニーリゾートまでは渋滞しなければ3~40分くらいなんですが・・・。
そのせいで、近い駐車場はもう満車。
第二駐車場に停めたので、こんな遠くに火山が・・・orz

まるで千葉とは思えない駐車場からの眺め。
リゾート感を出すために、いたるところこのソテツ?が椰子の木のふりをして植わっています。

震災後、訪れる人が減って、おまけにこんなに寒いんだから、
きっと土曜日でも空いているだろう、そう考えたのですが、甘かった。


駐車場に置かれたお報せによると、当日チケットを買うのに、60分待ち。
すでに入場券を持っていなければ、ここで挫折するに違いないと確信するとともに、
長い一日になるであろうと覚悟を決めました。



今年はディズニー・シーが開園して10年。
もし何ごともなければ、さぞかし派手にイベントが行われていたのでしょう。
しかし、この日土曜日、やはり大勢の客が訪れ、「Be magical!」というテーマに合わせた
このようなモニュメントの前で長蛇の列を作っていました。


そう、日本にしか見られないこの行列。何かというと、ただ
前に立って写真を撮るために順番を待っている人々。
日本的な、実に日本的な現象であるとどれくらいの人が意識しているかはわかりません。
が、これ、少なくとも外国のテーマパークでは一度も見たことがない光景なんですよ。

こういうのとか、ミッキーやミニーと一緒に写真を撮るために何十分も並ぶとか、
そういうディズニーファンではないわたしと息子にとって、全く信じられないのですが、
震災で人出が落ちたと言われるこの日のディズニーシーでも、こういう人は一杯いました。


そして、どこに行ってももの凄い行列。
例えば、インディアナ・ジョーンズ「クリスタルスカルの魔宮」は、最大で2時間10分待ち。
ファストパス・チケットを取るのに数十分待ちという地獄のような状態で、
もう数十回は訪れているのに、祝日、ディズニーに行ったことのない我々は、驚くばかり。

うろうろしながら買い物したり、おやつを食べたり、ミスティック・リズムなどを観たり、
何もアトラクションに乗らずにお昼になってしまいました。
「中華でも食べますか」
いつもガラガラなはずのこのレストランも、表まで人がはみ出し、このような状態に。



いつも前を通るたびに、ディズニーのセールスマンの口先に乗せられ
この超不人気アトラクションのスポンサーになってしまったがゆえに、
その後それが原因で左遷されたに違いない日本通運の担当者の運命を心配していた、
「シンバッドの冒険」
どんな激込みの日にも待たずに乗れるアトラクションとしての地位を確立していましたが、
改装後の評判も全く回復せず、ここ一年、閉鎖されています。

震災で、さらに一層今後再開の可能性は遠のいた・・・・のかもしれません。

ロスト・リバー・デルタには、ユカタン・ベースキャンプというレストランがあるのですが、
ここはインディアナ・ジョーンズ博士が発掘調査をしている、という設定のため、


このような発掘された骸骨さんが何体か転がっています。
皆、宝のツボを大事そうに抱えているのが泣けます。
写真を撮るのに列を作るのが日本人なら、こういうものにお金を投げるのも日本人。

最もお布施?の集まっていた人気骸骨。
二つのツボの中にたくさんのお金が入っています。
みんなここを狙って投げたわけですね。


どなたか、口の中にコイン投入することに成功した人がいました。

寒さにもかかわらず外で一時間もアトラクションを待つ人がたくさんいたこの日のシ―。
放射能の心配をして客が減っているかも、などという心配が馬鹿馬鹿しくなるほど、
いつも通りで、本当に嬉しくなったのですが、少し気になることもいくつかありました。

ミスティック・リズムの出演者、外国人の顔ぶれがガラッと変わっていたこと。
そして、昼、水上ステージで行われたショーです。

ミッキーがこの船で現れ、その他のメンバーも各ポイントに集合して、
みんなの前でダンスをする、というものなのですが、

他のメンバーが載ってくるのが、この、普段クルーズ用の船。
ポイントでは一生懸命キャラクターの皆さんがパフォーマンスをして、
盛り上がっているようでしたが、それを対岸から見ると、これ。

ただでさえ寒いのに、この寒々とした光景・・・・。
「ミシカの伝説」その前の「ポルト・パラディーソ」で、これでもかと水上スク―ターや凧、
花火を駆使し、あるいはデコラティブな船をいくつも繰り出して目を引いた昼間のショ―が、
いくら「バレンタイン用のテンポラリーなショウ」だからといって、
こんな寂しい演出になってしまって・・・・・・。

音楽はいわばディズニー色あふれる、やたら感動的なイモーショナルなもので、
さらに


これもディズニー特有のハイテンションで頑張る出演キャラクターたち。
この、遠くから見て分かる
「ディズニーと言えども苦しい台所事情と、それにも負けないスタッフ」
という図が、妙な感興を呼び起こし、しばらく眺めていたら
鼻の奥がつーんとなってきてしまいました。

ところで、ここのところディズニーに新しいウェーブが起こっているのをご存知でしょうか。
新キャラクターのダッフィーの台頭です。

ダッフィーってなんですか?という方、これですよこれ。
まあ要するにテディベアみたいなもんなんですが、これが何故か女子供に超人気。
キャラクターとしてではなくぬいぐるみとして人気に火が付き、これをパークで買い、
まるで赤ちゃんを抱くように愛おしげに抱いて歩く女子、それを目を細くして眺める彼氏、
という、ぬいぐるみが昔から大っきらいであったエリス中尉が、
「こんなことを男性に期待されても、困る」
と若い時ならキレそうな光景がパークのそちこちに展開しているわけですが、
これを売っているショップというのがどこも大変なことになっていて、

何とこの列、ダッフィーを売っているショップに入る順番を待っている人たち。
一組出ていけば、出口にいる係員が合図してもうひと組が入れるという仕組み。

この売店、その昔は自由に出入りできて、息子がアメリカから帰ってすぐ、
「たった一人で買い物をする、という経験をした」記念すべきお店だったのです。
お金を持たせ、値段を見ることを教え、
「ママは外で待っているから、お買い物してごらん」
と注意事項を言い聞かせ、店に送り込んだあの日。
息子は目をキラキラさせて「初めてのお買いもの」を楽しみ、
わたしは外でドキドキしながら待ったものです。

それが、こんな「ダッフィー専門店」になり下がってしまっていたとは・・・・・。
いや、別にいいんですが、少なくとも子供一人で入れるような状態ではなく、
みんな何となく殺気立ってすらいる様子なのが、何とも言えません。

そして、ダッフィーを購入するのも、数に制限があるようで(一人二匹までとか)、
買ったばかりのダッフィーをとなりのレストランに祀ってある上写真のダッフィーと並べて
 

写真を撮るのが、スタンダードでした。
決められたわけでもないのに、みんなやっているんですよ。
こんなところでも並んで写真を撮るのも皆一緒。

ダッフィー人気にあやかってこのキャラをフューチャーしたショウもできたようですが、
わたしと息子はこんなことを言い合っておりました。

「ダッフィーってさ・・・・悪いけどなんか胡散臭いよね」
「なんか、可愛いふりして実はすごい悪いこと企んでそうな」
「腹に一物持ってそうな」
「そうそう、みんな可愛いから騙されてるけど、実は悪の組織のボスだった、とか」

「あれ?こんな話、どこかで聴いたような・・・・・」
(二人同時に)
「トイ・ストーリー!」


ダッフィーとその関係者とファンの方、お気を悪くしたらすみませんでした<(_ _)>



夜のショウ、大好きだった「ブラヴィッシーモ」が終わったと聞いて愕然としたわたしたちでしたが、
震災の後から始まった新しいショウは、音楽、映像ともになかなかのものでした。
映像の使い方とストーリーが、アメリカ・アナハイムのディズニーのショウとほとんど一緒で、
ある意味ブラヴィッシーモの方がオリジナリティという点で優れているという気がしましたが、
それを抜きにしても、「腐ってもディズニー」の底力を感じる充実の出来栄えでありました。

元来、わたしはぬいぐるみや着ぐるみに全く感情移入できないたちの人間です。
これを「実在する」というのが前提の「ディズニー的なもの」に対し、
うっすらとした鬱陶しさすら感じて今日まで来ました。

全てが造り物の夢の国。そこに生きる「非実在のキャラクター」が理想の世界を構成する。
偽善的ですらあるこの「子供だまし」に、子供どころか大の大人たちすら夢中になり、
遠くから現れた着ぐるみのミッキーに向かって本気で手を振り、並んで写真を撮り、抱きつく。

こういう人間が実に多くいることを、信仰にのめり込む人たちを対岸から見るような、
一種理解しがたいものとして、ディズニーに行くたびに醒めた目で見てきたのです。

ところが。

国難とも言える震災を経て、まだ一年も経たないここ関東地方において、この日、
ディズニーシーには、それらを愛する人々と、夢を提供しようとする人々がいました。
以前と変わりなく、喜びに満ち、熱狂すらして。

変わりなく以前と同じことを続けられる力、ファンタジーという名の虚構に喝采できる心の余裕。
それは「頑張ろう」とか「絆」とかいう言葉以上に、日本人一人一人が、
どんな困難もそれを凌駕する「萌えという平常心」で乗り越えて行けそうな頼もしささえ感じさせ、
「ミッキーマウスに本気で手を振る人がこれだけいる限り、この国はまだまだ大丈夫」
と、妙に安心してしまったから、不思議です。

がんばれ、ディズニー・シー。







「空の神兵」~メイキング・オブ・空の神兵

2012-01-29 | 陸軍

 

軍歌「空の神兵」について書いたときに、同時にこの映画を観ました。
陸軍の落下傘兵教育をドキュメンタリーで映画にしたものです。
何の演出も(一部やらせ除き)無く、ナレーションも控えめ。
これこそドキュメンタリー。
ちゃんと過程を踏んで分かりやすく落下傘兵の訓練を説明しています。
購入で手に入れるのも、レンタルするのも、少し難しいお宝映画なので、全編写真を撮りまくり、
その内容を皆さんに説明したいと思います。

上画像のバックになっているのは、ひっくり返った十字架のようですが、落下傘。
部隊のマークで、軍旗にも入っています。
彼らの軍服の襟章、輸送飛行機の垂直尾翼にもこのマークがあったそうです。

先日南方で隊長をしていたある海軍軍人の回想録を読みました。
その経歴の途中、
「落下傘部隊に誘ってもらったが丁重にお断りする」
というようなことがあったそうです。
この方は、陸戦隊や潜水艦、法務部など、いろんなところを転々とした軍歴をお持ちですが、
そう言う方でも落下傘だけははお断りだった・・・ということのようです。
命を国に預けるべく軍人になり、死を覚悟した人にとっても、
高高度から生身で落下していくのは怖かったのでしょうか。

勿論いきなり落下傘を背負って何の経験もないのに
上空何千メートルの機上からつき落とされるわけではないのですが、
当時の若者にとっては、飛行機が新幹線レベルに簡単に乗れる現代人などより
はるかに遠い世界のできごとに思われたのに違いありません。

志願したのかそれとも強制的に配置されたのかはわかりませんが、
落下傘兵として集まってきた青年たち。
まずはエライ人の訓示から。

基礎訓練は写真の棒剣術のような武道に始まり、器械体操がその中心になります。
落下時の受け身から、というわけですね。
 
最初は「でんぐり返り」から始まるマット運動も、進むにつれハードルが上がって行きます。
数人の上を跳躍してマットで一回転できるまでになります。


次の段階は高いところから飛び降りてそのあと一回転。
このあともっと高いところから砂の上に飛び降りる訓練があります。

 

同時に落下傘の構造について事細かに学びます。
手入れの不備は死に直結します。
特にたたみ方が悪いと傘が開かないことにもつながるので細心の注意が必要です。

 

傘のヘリは定規できっちり揃え、ロープはからまないように図のようにたたみます。
傘が開くときはこのロープが解かれていくわけです。

 

物理学などの座学も命に直結するものともなれば皆真剣そのものです。
兵学校の授業のように居眠りをするひとなどここではまずいないと思われます。

さて、いよいよ落下傘降下のための第一歩訓練。
降下シミュレーターを使っての体感訓練から始まります。



最初は機械で釣り上げて、実際の降下速度と同じ速さで機械を降ろします。
地面に落ちた時の衝撃をシミュレーションするわけです。

 

それが終わると、傘を付けた機械で上りは機械、下りはフリーフォール。
傘の周りにはみんなが待機して次の練習者のために手早く傘を整えます。

お次は最初から開いた傘を背負って、塔の上から降下。
これまでは体育館での訓練ですが、いよいよ外での訓練です。

 

ここで訓練生は初めて落下傘での本当の降下を体験します。
「うをを~!気持ちええ~!」と内心叫んでいるのかもしれません。

 

この訓練でも、一人終わるとすぐさまこうやって骨に傘を貼り、引き上げます。
降下と同時に傘が骨から外れ、開いたままの傘で降下するのです。

練習生の憩いのひととき。

ヘアカットしてもらっている人がいますね。
ここの雑談は、何を言っているのかあまり聞きとれませんでした。
そこに上官がやってきて降下服の支給をします。皆大喜び。
やっぱりこういうことが嬉しいんですね。

 

散髪してもらっていた兵隊さん、さっそく帽子をかぶって
「おお、よく映るぞ」と言われてご満悦です。
靴は衝撃吸収のためでしょうか、普通の靴より底が厚いように見えます。
それにしても、かっこいいブーツですね。今日でも履けそう。

 

ワクワクしながら着替えして、初めて一人前の落下傘兵の姿で次の段階の訓練です。



飛行機と同じ大きさの出口から降下の態勢で飛び出す訓練。
どんな態勢で落ちても一緒なのではないか?
とつい思ってしまいがちですが、姿勢が悪いと傘が開くときに手がひっかかったりするので、
少しでも危険な因子をできるだけ少なくするために、この訓練はしつこいほど繰り返されるのだそうです。

右下にいるのは教官ですが、姿勢が悪いものにはいちいち呼びとめて
「貴様の姿勢はこうだが、もしこうだと、傘に引っ掛かるから気をつけよ」などと注意し、
言われた方は真剣に「はいっ」とこちらもいちいち敬礼します。
ここまで進んだら次は降下予行訓練。



この時代の普通の青年で飛行機に乗ったことのある者は皆無であろうと予想されます。
高層ビルもありませんから、飛行機に乗ることそのものが衝撃体験。
皆の気持ちをよくわかっているらしい上官が
「飛行機は絶対に安全であーる!」と訓示していました。

 

緊張の面持ちで乗り込みます。
上空から下界を眺め、まずは地形を覚え、高さに慣れます。
そして、降下口から顔を出して風圧を体験します。

 

少しわかりにくいですが、顔の肉がぶるぶる震えて、瞼が五重くらいになっています。
「どう思ったかっ?」と上官に感想を聞かれて
「はいっ、もの凄い風圧でありましたっ」
なんて大真面目に答えていましたが、
風圧を体験することが生まれて初めてなら、そうとしか言いようがないでしょうね。
さて、ここまで来たら、残る訓練は・・・・。

そう、降下訓練です。

その前夜。
TOと一緒に観ていて「まさか遺書書くとか?」「いや、遺品の整理だろ」と笑っていたら

本当に荷物整理してるし。
一応遺書も書いてるし。
もう寝てる人もいますが。
 自分に言い聞かせるように日記を書く兵。

ここはやらせっぽいけど、絶対に「盛って」はいない、不安に苛まれるかれの心情がよく現れています。
「だが若し傘が開かなかったら」
ここで彼は手を止めしばし瞑目、自分に言い聞かせるようにこう続けるのです。
「その時は潔く散るまでだ。
そうだ。傘はさっき自分で十分注意してたたんだ。
絶対大丈夫、傘はきっと開く。
確実な、立派な姿勢で飛び降りよう」


いよいよ当日。

 

事故を防ぐために慎重に風速風力の測定、そして降下地点の整備が始まります。

 

全く演出なしの降下兵の表情。動悸が聞こえてきそうです。
この部分のナレーション。

いよいよ降下となると極度の緊張で顔がひくひくとひきつってくる。
唇が乾いてくる。のどが渇く。顔がむずがゆい。
ついに唇が白く粉をふいたようにカラカラになる。
顔がどす黒く青味がかる・・・・。


 

最も緊張する第一降下者。
上官が肩を叩く合図をすれば空中に飛び出すのです。
心臓が張り裂けそうな一瞬でありましょう。そして・・・

 
飛び出す瞬間。傘が開く瞬間。
両手を精いっぱい上にあげて「立派な姿勢」を保とうとしているのが覗えて泣けます。

開いた・・・・。
 全員が降下した後、士官がドアを閉めました。

バーにロープがかかっていますが、これは降下前に落下傘の紐を開くロープ。
自分で紐を引くのではなく、Dカンのようなものをここに留めて、
飛び降りると同時に落下傘紐が自動的に引かれるようになっているようです。
本人がパニクって紐が引けない、というような事故の防止なのでしょう。
着地寸前に予備の傘の入った小さいパラシュートを落とします。



着地したらすぐさま風上に向かって走り、傘や紐が身体にからまないようにします。

大抵着地後一回転するのですが、

この兵隊さんは二本脚で着地し、そのまま走り出しました。
どこに着地できるかなんて自分でコントロールできないのでは?と思ったのですが、
どうやら両手に握ったロープを引いたり緩めたりすることで着地地点を変えられるようですね。



この士官さんは下から降下する兵に向かって態勢や姿勢について指示するため、
ずっと声を張り上げっぱなし。
指導する方も真剣です。でも、空中ではたしてこの声が聞きとれるんだろうか・・・。

さて、全員無事に初降下成功。
上官に訓練終了の報告です。
こんなときでもちゃんと行進をする日本陸軍。



なんだか歩き方が面白いんですけど・・・。
そして、解散になってから、後続部隊の降下を眺めつつ一服のひととき。
いやー、この時の皆さんの気持ち、わかります。



このときに聞きとれた会話。

「飛行機に乗ってるときの気持ちなあー・・。
何とも言えんわー・・ほんまに」

関西出身の兵隊さんのようです。
そこに「敬礼は省略!」といいつつやって来た上官どの。

 

どうだ一本。と、自分の煙草を勧めます。
うわー。男同士ならではの、この愛情表現。
「太陽にほえろ」のラストシーンみたい。
ボスがよく最後に煙草の火を付けてやっていましたよね。
そして、上官どのは(おそらく映画監督から注文を受けてのカットと思われますが)
「どうだった、初めて降下した気分は」と尋ね、かれは
「は、無我夢中でありましたっ」と答えます。
まあそうでしょうな。
「何度も繰り返しているとだんだん冷静になるから、まあ、頑張れ」と激励するのですが、
上官どの、他にも兵隊いっぱいいるんだからみんなにも煙草勧めなきゃ。
えこひいきはいかんよ。



上官が去った後実にうまそうに紫煙をくゆらす兵。
こういうときの煙草は、本当に美味しいんでしょうねえ・・・。

 
はい。

 

白黒だと顕微鏡写真のウィルスみたいですが、一つ一つが落下傘。
こんなにたくさんの落下傘兵が同時に降下しているのです。
慣れてきたら楽しかったりするのでしょうか。

そして降下後、やはり投下された武器の梱包を解き、手にとってただちに陸戦に入るわけです。
その訓練も行われるようになります。
というか、こちらが目的なわけですから・・・・。

 



陸軍落下傘部隊は通称で、正確には挺進連隊といいます。
落下傘を使った戦隊の研究は1940年に始まり、翌41年にはもう設立されていました。
この映画はその一年後、42年の製作です。
43年の蘭印侵攻におけるパレンバン空挺作戦での大戦果をあげる前、
まさに部隊錬成期まっただ中の撮影だったのです。
映画には冒頭と最後に高木東六作曲、梅木三郎作詞の名曲「空の神兵」が挿入されました。


このとき初降下を果たし、喜びに顔を輝かせた兵たちが、その後過酷な訓練に耐え、
1943年2月15日のパレンバンの空を「純白の花負いて」舞い降りたのでしょうか。














空の神兵

2012-01-27 | 音楽

    

自宅に有線放送を引いています。
朝起きるとまずバロック音楽か、朝のクラシックBGM、OTTAVAというクラシック音楽番組。
めったにありませんが、家にいる午前中は作曲家別チャンネルなどを流しています。

夕刻から夜間にかけては気分によってコンテンポラリーなボーカル、
息子が好きなマイケルジャクソンや海外ラジオ(KOITが無くなって悲しい・・・)を。

ご存じのように「ゆうせん」は多様なジャンルに世界各国の音楽、あるいは
「羊の数」「般若心経」「アリバイ(街の雑音)」「軍艦マーチ」「心音」「ロッキーのテーマ」
など、まるでネタのようなチャンネルがあって、プログラムをザッピングしているだけで楽しめます。
ラジオ体操もわりと真剣にやってみたり。(結構な運動になりますよ)

ある日「おとぎの国の音楽」というタイトル発見。何かしら?と聴いてみると・・・・

「ネズミの国の音楽」でした。

「どんぐりの森のメロディ」
?何だろうと聴いてみると・・・・

「どんぐりを食べる森の中にいるお化けか妖怪のようなものが出てくるアニメを作っている
スタジオの作った一連の映画音楽を作曲している作曲家の曲」
でした。

・・・・セーフ?

前置きが長すぎるっ。
そして、当然のようにあるのが「軍歌、戦時歌謡」のチャンネル。
一度流しっぱなしにしていたのですが、いやー、いろいろあるものですね。
聴いたことのある軍歌なんてめったに出て来ない、というくらいの膨大な曲数です。
この曲数の多さ。
そりゃそーだ。
戦後封印されていたものの、国民一丸となって進め一億火の玉だをやっていたわけで、
当然のことながら音楽産業も戦意高揚にまた邁進していたわけですから。

数が多いだけあって玉石混交。
いかにもな「お上の意向にへつらい風」もあれば、音楽的なレベルの高さに思わず題を確認してしまう曲もあります。
(法人契約しているので、タイトルがウィンドウに表示されるのです)

一度、子供たちのかわいらしい声がピアノの伴奏で

「真珠湾の軍神がどうたらこうたら、敵艦に機体が突っ込み云々、仰げ特別攻撃隊~♪」


という歌詞を歌っているのでさすがにぎょっとして確認したら
「特別攻撃隊」という歌でした。
調べてみましたが、全く今日資料の残っていない曲のようです。

軍歌はもちろん、クラシック風、童謡風(大抵歌っているのは子供)、民謡、小唄風。
実にいろんなジャンルでこぞって日本バンザイ戦争ガンバレと歌っているわけで、これだけ膨大な
「戦意高揚、聖戦完遂、兵隊さんのおかげです」的戦争讃歌が残されているのを知るにつけ、
いくら負けたからって、戦後『騙されていた』なんて軍の所為にして、
「自分だけは戦争反対していた」風にしれっと振舞える日本人の掌の返し方、
あまりにも都合の良い変わり身の早さに鼻白む思いすらします。

それはともかく。
このように継続して軍歌ばかり聴いていると、必ずその異色さで音楽に耳を傾けてしまう曲があります。
それが、今日タイトルの
「空の神兵」です。

本日画像はアメリカ版「ライフ」に掲載された藤田哲描くメナド侵攻中の空挺部隊。
密やかに、息を殺して降下してくる白い落下傘が夢の中の景色のように幻想的に描かれています。

「藍より蒼き 大空に大空に たちまち開く百千の 真白き薔薇の花模様

見よ落下傘 空に降り 見よ落下傘空を征く  見よ落下傘空を征く」



「笹井中尉がMMだった話」
という稿で、セレベス島メナドに海軍横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(海軍空挺部隊)
が奇襲落下傘降下を敢行し、その「白いものをかぶった天使」がオランダ軍を駆逐したため、
その御威光のおかげで笹井中尉が現地民に熱烈歓迎された、という話をしましたが、
1943年、スマトラのパレンバンにやはり降下して敵地制圧に成功した
陸軍第一挺進団挺進第二連隊とともに、この通称落下傘部隊は、その戦果からヒーローとなっていました。

梅木三郎の歌詞高木東六の作曲によるこの軍歌らしくない軍歌は、
同名の映画の主題歌にも採用され、そのモダンな曲調と
「藍より蒼き」「真白き薔薇の花模様」「純白の花背負いて」
蒼い空に開く落下傘を白い花に准えたそのビジュアル的な歌詞の斬新さでヒットしました。

「外国人の耳にも音楽的に最も優れた軍歌であると認識されているらしい」
という話を(出どころ不明ですが)聞いたことがあります。
アレンジもまた斬新で、間奏部分にグロッケンシュピールと、チューブラーベルズを効果的に使い、
これがいかにも空から降下してくる落下傘に相応しい響きに聴こえるのです。

ここで専門的なことを書きますが、


まし  ろ  き   ば    ―         ら     -   の 

     C   C/B♭  F/A  Fm/A♭ C/G  D/F#   G  


は   な   -  も   よ    う

G7/F    C/E    G7/D   C     D7      G7

 

というコード進行。(わかりやすいようにCメジャーで書きました)
と言われましても何が何だか、と言う方は
「一語につきコードがひとつずつ変化していっている」ことだけご注意ください。
音楽に詳しい方は、このベース部分が順次進行していることにお気づきでしょうか。

凡庸なアレンジャーならIとV和音の二回繰り返しで終わってしまうであろうこの部分のコード進行だけで、
「やるな」と同業者なら思うでしょう。
音楽的に高度なのはもちろん、曲に躍動感を与えているアレンジと言えます。
さすがにフランスで作曲を学び、オペラや協奏曲も作曲している純音楽の作曲家の手によるものです。

余談ですが、この曲以外に音楽的に優れていて汎世界的魅力があると思われるのは
「愛国行進曲」です。個人的意見ですがいかがでしょうか。


この曲を作曲した高木東六氏は、戦後もテレビでおなじみ、タレント的知名度がありましたが、
この「名戦歌」を作曲したことについてあるときは
「後からあんな歌詞を付けられて迷惑した」
しかしあるときは
「梅木さんの美しい歌詞を見たとたんさわやかなイメージが広がり、15分で書いてしまった」
と、全く矛盾することを語ってもいます。

おそらく、この二つの発言の間には時間の隔たりがあり、前者は戦後の国民の多くがそうであったように
「戦時のアリバイ」を主張したもので、真実は後者にあると思われます。
詩のリズムにあまりにも無理なく添ったメロディは、音楽的に見ても前者のように
全くゼロから歌詞より先に作曲されたとは到底思えません。

102歳まで生きた高木氏ですが、その長い人生の中で、自らの戦時中の所信所在について
何らかの「弁明」をしなくては社会的に気まずい、と思われる時代もあったのでしょう。

稿末に全歌詞を掲載しました。
この歌は陸上自衛隊第一空挺団の事実上の隊歌として、
何年か前までは富士総合火力演習などの降下展示の際、演奏されていたそうです。
しかし、先日購入した2009年度の総火練ではすでに別の曲になっていました。

残念です。


空の神兵      梅木三郎作詞 高木東六作曲

藍より蒼き 大空に大空に たちまち開く 百千の  真白き薔薇の花模様

見よ落下傘 空に降り 見よ落下傘 空を征く   見よ落下傘 空を征く



世紀の華よ 落下傘 落下傘  その純白に紅き血を 捧げて悔いぬ 奇襲隊

この青空も 敵の空 この山河も 敵の陣   この山河も敵の陣



敵撃砕と 舞い降(くだ)る 舞い降る  まなじり高きつわものの いずくか見ゆる幼な顔

ああ純白の花負いて  ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて


讃えよ空の神兵を 神兵を 肉弾粉と砕くとも 撃ちてしやまぬ 大和魂(やまとだま)

わが丈夫(ますらお)は 天降(くだ)る   わが皇軍は天降る 我が皇軍は天降る






親馬鹿ビジネス

2012-01-25 | つれづれなるままに

親にとっては子は宝。我が子はこの世で一番可愛いもの。
欲目も手伝って、実力以上に美少女、天才、芸達者であると思いたい、それが親の習性です。

冒頭の写真は、そういったある「親馬鹿親」が、
自分の娘を「美少女コンテスト」で優勝させるために製作した「プロモーション写真」。
宣材です。
これ・・・・・・どう思われます?
アメリカ人なので、本人や家族が見ることはまずないと思いますから言いますが、
一見可愛いけど、よく見ると全く普通の子じゃないですか?


アメリカのテレビ番組は、素人さんの実態を面白おかしく紹介し、
「こんな(面白い、馬鹿な、酷い、くだらない、可哀そうな)人が世の中にはいるんですよ~」
と、大衆の覗き見趣味をあおる作りのものが多い、と一度お話ししたかと思いますが、
「Toddlers & Tiaras」(幼児とティアラ)という、賛否渦巻くこの番組は、
ページェントと言われるコンテストに、親子鷹さながらの涙ぐましい情熱をかける人々を追った、
TLC(だいたいそうい番組はこの局)の人気?番組。

家族総出で、たかが業者主催のコンテストの勝利に邁進する馬鹿馬鹿しい努力と、無益な情熱。
「あー、こんな馬鹿な親にこんなことさせられて子供が可哀そう」
こんな馬鹿な人たちがいる、ということに、しかし視聴者はある優越感も感じつつ、
眉をひそめながらも、実はそのショウを楽しむという趣向です。

勿論アメリカでも、このようなコンテストそのものに「すぐやめろ」「即刻やめろ」と息巻く人々がいます。
子供の人権を無視していることと、このコンテスト常連の美少女が何者かによって殺害された
「ジョンベネ・ラムジー殺人事件」のようなケースにつながる「黒い部分」を懸念する人々です。

しかし、ジョンベネの事件以降も、なんら変わりなく、今日もこのコンテストは継続しています。




この番組について、そのうちまた書くつもりですが、
まあ、とりあえずこのお子たちを観てやってください。



どう思います?
金髪の西洋人、というフィルターを抜きにしても、繰り返しますが大したことないでしょう?
馬子にも衣装のもの凄い化粧と衣装で、まあ何とか見られる、というレベル。
いやむしろ、不自然なけばけばしい化粧、ただの「大人のミニチュア」の気持ち悪さ。
むしろ眉をしかめてしまう人の方が多いかもしれません。

しかーし。

「うちのケイティは、この世で一番可愛いの!
こうやってコンテストに出ることで、そのうちハリウッドの目にとまるかもしれないし」
このショウが、コンテストが今日も継続しているように、このようにまずあり得ない夢を見つつ、
せっせとこういうページェントにお金を貢ぎ続ける親がいるのです。
そして、そういう親馬鹿を食いものにするページェント、さらにそれを面白おかしくショウにして番組を作るテレビ局。

こういったビジネスをここでは「親馬鹿ビジネス」と称することにします。

親がこのような馬鹿げたことにお金を費やし続けるのは(人にもよるでしょうが)そのどこかに
「そのうちうちの子が認められたら、もしかしたらその投資を取り戻せるかもしれない」
というステージママの打算もあるのかもしれません。

マコーレ・カルキンの両親のように、あまりにも非常識な大金を息子が稼いだため、
人生を狂わせた人もいますが、この「左うちわ願望」が、彼ら「馬鹿親」をして、
これだけの情熱を傾ける原動力になっていることも否定できないのではないでしょうか。

「それはアメリカみたいな物質至上主義が大手を振っている国だからだろう、
さすがに、日本ではそんな一攫千金を夢見るような親はいるまい」
そう思ったあなた、甘い。
規模こそ違え、日本にも「親馬鹿ビジネス」は存在します。

アメリカから帰国してきたとき、息子は2歳でした。
アメリカ人やヨーロッパ人にとって東洋人の小さな子やあかちゃんは無条件で可愛いくみえるらしく、
どこにいっても可愛いと声をかけられたものですが、
「まあ、外国人から見るとそんなもんかもしれないわねえ」
くらいに思っていました。
男子ですし、人より多少可愛いといわれたからってそれが何、と思っていた(今も)のも事実。

帰国してすぐのこと、息子を連れて繁華街に出かけたTO、帰ってきてから
「タレント事務所の人に声掛けられた」
と名刺を見せます。
「お子さん、かわいいからタレントかモデルに登録しませんか、だって」
「ほー」
「話には聞いてたけど、本当にスカウトっているんだなあ」
(息子に)「ちょっと働いて、パパとママに楽させてくれる?」
「?」

その日はそれで話題として楽しんで終わり、また別の日。
「また声掛けられた」とお出かけから帰ってきて報告が。
「同じ人?」
「違う」
スカウトとうちの息子のバッティング率の高さ、そしてこんな世界があったのかということに軽く驚きつつ、
「銀座和光前で待ち合わせている間ににクラブのスカウトの名刺が山盛りになるお嬢さんの話」
が思い出されました。
そう言えば、昔大阪梅田キタを歩いているとき、何度かそういうこともあったなあ・・・(遠い目)

スカウトは声をかけるのが仕事。
そこで適性とか、本当に売れるかとか、そういった「事後」のことまで深く考えず、
ただひたすら数撃って当たるのを待っているわけですから、声をかけられたからと言って
「やっぱりうちの醇ちゃん(仮名)はかわいいんだわ!もしかしたらモデルになれるかもだわ」
とのぼせ上るほどおめでたくはないつもりでしたが、まあ、なんとしましょう。

「悪い気はしない」のですこれが。

この「悪い気はしない」程度の親馬鹿具合をも、日本の業者はうまく突いてくるものだと知ったのは、
この後、実際に今度はわたしと5歳になった息子がスカウトに遭遇したときのことです。

すれ違った女性が、息子に鋭い目を注いだかと思うと
「すみません、お急ぎですか?」
と声をかけて来ました。
わ、来た来た、と思っていると、案の定それは子供タレント事務所のスカウト。

たとえうちの子が、親の欲目抜きで、末は阿部寛か加藤雅也かというレベルだったとしても、
わたしは「そういう世界」だけには親としてかかわってほしくない、と望んでいます。
「もし興味がおありでしたら、事務所でお話を」の誘いにそのときうなずいたのは、好奇心から。
この世界がどういうものなのか垣間見られるかも、という興味です。
今にして思えば暇だなあと思いますが、時間もそのときはありましたしね。

  

そのときもらったパンフレットの表紙をご覧ください。
お子さんをモデルやタレント事務所に登録するのは、
決してあなたの見栄や親馬鹿ではないんです。
お子さんにはあなたも知らない才能が隠されているかもしれない。
当事務所はその才能を発見するお手伝いをしたいのです。
そしてその体験が、ひいてはお子さんの後の人生に大きく役に立ってくるのです。
そして、運が良ければ、テレビに出たり映画に出るといった貴重な体験もできます。
それはお子さんの人格を、大きく育てることになるのです。

とは、決して書いているわけではないのですが、つまりは、
親がこういうことに乗り気になるときにつきものの「やましさ」を、まず軽減するために、
上記のような美辞麗句的「大義名分」を用意してくれているわけですね。

「それでは、もし登録したいということになれば、どうなるわけですか?」
エージェントの女性、にこやかに
「まず、醇ちゃん(仮名)のアルバムを作ります。
たとえばCM製作者や番組の担当者に見せ、オーディションに参加するための宣材ですね」
はいはい。
「つきましては、撮影代と、アルバムの制作料、そして登録料が必要となります」
そうでしょうね。ではしめておいくら?
「6万円必要になります」
・・・・・・・。
やっぱりね。

たとえタレントやモデルとして売れても売れなくても、登録したいといってくる親はウェルカム。
オーディションに合格してもしなくてもエージェントは全く困りません。
画像右下の「レッスン」とやらで、未来のスターを目指してお金を落としてくれるんですから。

内心「やっぱりね」と思わずニヤニヤしてしまったのですが、
それですぐじゃまた、と引き上げないのがエリス中尉。さらに話を聞いたところ、
「がんばった思い出は、決して無駄にはならない」という例として、
何かの撮影に参加したある男の子、A君の話をしてくれました。

A君は、撮影当日高熱を出してしまいました。
しかしながらお父様はお医者さんなので解熱の注射を打ち、現地まで車でA君を搬送、
みごとその甲斐あって責任を果たし、
親は勿論A君自身もいまやその貴重な体験に感謝しています。

A君の親には悪いけど、たとえA君が駄目でも、いくらでも代りの子は用意できたと思うなあ。
ジェンナーじゃあるまいし、幼児である息子に解熱の注射をする父親っていうのも、
医者としてはともかく、親としてどうか?と思わずにはいられません。
息子が現場で昏倒でもしたら、親も周りもどうするつもりだったんでしょう。

そして次に、「私の子は特にかわいい」と思っている親ばかりが、
このエージェントに登録しているわけではありません、という例として、B君の話を。

B君は、いわゆる「いまどきの都会的な男の子」ではありません。
終戦直後、洟たらしてそのへんにいたような、もっさりした風体の子供。
当然、スカウトに誘われた親は
「何でうちのBみたいな子が?」と訝しく思いました。
しかし「元気な小学生、でも、洗練されていない、田舎っぽい雰囲気の子供が欲しい」
というある企画にうまくはまったため、B君は全国版の何かの広告に採用され、
その雄姿が一時あちらこちらの駅を飾りました。

親は勿論B君自身もいまやその貴重な体験に感謝しています。


「ですから、必ずしもかわいいとされるお子さんだけが必要とされているわけでもないんです」

なるほど。
確かに、映画でも何でも、美男美女だけでは成り立たない世界ですからね。
夜の世界のスカウトも「世の紳士が全て美女が好きなわけではない」という観点で、
声をかけるって言いますから。

親馬鹿ビジネスは、日頃「うちの子なんてとてもとても」と思っている親馬鹿でない親の、
潜在的親馬鹿心でさえも、こうしてくすぐり、お客として取りこんでいくもののようです。

散々他の子供の写真を見せられ、「考えてみます―」と、事務所を出てから、息子に一応、
「あんな写真撮ってほしい?」と聞いてみると、

「ぜ っ た い に い や だ !」


まあ、そう言うと思ったよ。

 

 

 


映画「二世部隊~GO FOR BROKE!」

2012-01-23 | 映画



 






アメリカ陸軍442部隊を描いた映画は、わたしの知るかぎり3本あります。

ドキュメンタリー風の展開で、生存者の証言や、救出されたテキサス部隊やフランスの村、
強制収容所のユダヤ人などのインタビューが中心の「442日系部隊」
442部隊の生存者、レーン・ナカノが製作と主演をした「ブレイブ・ウォー」
そして、ハリウッドが1951年、MGM日本支社再開記念作品として作った、この
「二世部隊(原題GO FOR BROKE!)」

ほとんど無名の映画ですので、ご存じない方も多いと思いますが、
エリス中尉がこの映画をネタに漫画を二遍も製作してしまう、というあたりから、
個人的な気に入り具合をお察しいただけるかと思います。

冒頭取りあげた映画が、おのおの「ドキュメンタリー」と「シリアスな戦争ドラマ(トラウマ付き)」
であるとすれば、この映画は
「ディスカバー・ジャパニーズ・アメリカン」「日系人とはこんな人種!」
という(勿論好意的な)ディスカバリーチャンネルの民族発見モノのような作りと言えましょう。

アメリカ人にとって「アメリカ国民なのに日本人」という人種はこう見える、という可笑しみが満載。
彼らの受けるカルチャーショックと、後の「見くびっていてすまなんだ」的な価値観の逆転が、
日本人である我々にはなんとなく「そら見たことか」というような、いや、「ざまあみろ」でもなくて、
・・・・とにかく、胸がすかっとする痛快さを味あわせてくれます。


二世部隊の隊長に配属された、テキサス出身のグレイソン中尉。
チビのトミー、ウクレレばっかり弾いているカズ、寝室で賭けをする日系人の部隊にうんざり。
上官に配置換えを頼むも、すげなく断られます。

「先任伍長を紹介しよう。オハラ軍曹だ」
「オハラ!」

目を輝かせるグレイソン中尉。
「イエス、タカシ・オハラ」

orz ←グレイソン

日本語訳では「アイルランド系じゃないぞ」になっていました。
O’Haraだと思って喜んじゃったんですね、中尉・・・。


このグレイソン中尉を演じるのはヴァン・ジョンソン。
「東京上空30秒前」で、片足を失うローソン中尉を演じた、男前俳優です。
この、失礼ながら、ハンサムなのに妙に間の抜けたその雰囲気が、グレイソン中尉にピッタリ。
うんざりしながら訓練をするのですが、ところがなかなか彼らもしたたか。

適当にズルしたり、ジュードーで中尉を投げ飛ばしたりしながらも、真面目に訓練に耐えます。
そして、ヨーロッパ戦線へと送られるのですが、輸送船乗り込みの際の名簿の読み上げ、
これが、アメリカ人には一苦労。

「ナカシュ・・ナカスギ・・・・・ニシオカ」
「ウチガ・・ウチ」

オハラ軍曹「内垣内」
「ウチガキウチ」
「イキガーミ(池上)・・・・・・・カマクラ・・・・シマ・・・シマ」
オハラ軍曹「島袋天秀儀」「?」「シマブクロテンシュウギ」

「・・・・・・・・」(オハラ軍曹を見つめる)

そんな名前本当にあるか?
という突っ込みはさておき。
戦闘での働きにより、上層部の評価ウナギ登りの日系部隊に反して、
イタリア女の誘惑に負け、置いてけぼりになり叱られたりする愉快なグレイソン中尉。
しかし、彼らの勇気と実力を認め出すのに時間はかかりませんでした。

酒場で出会ったテキサス部隊の友人が「ジャップ」と言うと、血相変えて殴りつけます。
かつて自分が上官から言われた
「仏頭(Budda Head)でもなんでもいいが、ジャップと呼ぶな!
彼らはジャパニーズ・アメリカンだ!」

そのままのセリフでタンカを切りながら。

本当にあったことかどうかは知りませんが、ドイツ軍の諜報部が、
「こちら100大隊のリチャードソン大尉」と偽通信で位置を探ろうとしてくると、日本語で

「オイ、ナマエトカイキュウヲ イエ。 ニセイナラ、ニホンゴヲシャベレ」


まるで紫電改のタカのジョージ・モスキトンのような(ちょっと違うか)しゃべり方で撃退します。

厳しい訓練で部下をしごいていたグレイソン中尉がしょっちゅう耳にする言葉がありました。
「バカタレ」

何か注意すると「バカタレ」
文句を言うと「バカタレ」
が返ってくるのです。

士官に昇進した男前の日系人少尉、オハラに聴いても
「感謝しますという意味です」
いまいち納得いかないグレイソン中尉。

その後、グレイソン中尉は部隊と別れ、テキサス大隊に転属に。
そう、このブログでもお話しした失われた大隊(ロスト・バタリオン)
日系部隊の救出によって生還したテキサス大隊です。
山中で442らしき部隊に包囲された中尉、咄嗟に合言葉が出てきません。
「パスワードは?・・・ワン・ツー・スリー・・・・」万事休す。
咄嗟に口をついて出てきた言葉は

「バカターレ!」
「なーんだ中尉じゃないですかー!」

心から彼らを誇りに思うグレイソン中尉。
しかし、バカタレって、なーに?
「スチューピッドでフールってことですよ」
「俺には随分控えめな表現だな」


実は、この映画に出ている日系人たちは、一人の俳優(主役級のトミー)をのぞいて、
全員が第442部隊の生存者です。
冒頭紹介した「ブレイブ・ウォー」を製作したレーン・ナカノは、この映画で大学出のインテリ、
サムを演じています。

戦闘シーンも、仲間が戦死するシーンも(オハラ少尉は戦死する)あることはありますが、
全体的にコミカルなシーンが多く、戦争の悲惨さにあまり表現の中心を置いていないので、
どちらかというと「面白く」観られる映画であると思います。

レーン・ナカノが、後年「ブレイブ・ウォー」で、
戦闘で心に負った深い傷から立ち直れない442部隊の元兵士を描いたのは、
もしかしたらこの映画「二世部隊」にたいして、
「俺たちの戦いはこんなものじゃなかった」というアンチテーゼでもあるのかもしれません。

今どうなっているかはわかりませんが、ケン・ワタナベが、第442部隊をテーマにして、
アメリカで映画を作る計画がある、という噂を耳にしました。
これまでの、どの映画にも属さない、新しい切り口の映画になることを期待したいと思います。


 

二世部隊 - goo 映画




江田島健児の歌

2012-01-21 | 海軍



楽譜作成の無料ソフトをダウンロードしたので、それで作成してみました。
それにしても、良い時代になったものだ・・・。
楽譜を書くのが仕事だったころ、清書はインクで書き、さらにパート譜を作り、間違えたときは
修正インクや切ったり貼ったり、もう大変だったものですよ。
コピーではダメなことも多かったものですから。

そんなことに費やされた貴重な青春を返して!と胸ぐらをつかんで(誰の)やりたいくらい、
今回このソフトを使ってみてその便利さに驚きました。
メロディはゆうせんで聴いた、戦中にレコーディングされたものの採譜です。



陸軍士官学校は校歌がありますが、海軍兵学校に「校歌」はありません。
校歌に相当するのが、この江田島健児の歌
兵学校創立50周年の記念として生徒から募集した歌詞に軍楽少尉が作曲をしました。


この曲についてお話しする前に、少し軍歌の種別について説明します。

第一種、第二種、第三種と別れているのは軍服だけではありません。
軍歌もまたこのように種類を分けられていました。

第一種軍歌が最もフォーマルなもので、軍や政府が制作に携わったもの。
「海ゆかば」「陸軍士官学校校歌」「艦隊勤務」「如何に強風」など。

第二種軍歌は、レコード会社や放送局などの民間団体の手によるもの。
一般の公募による作詞作曲が採用されたりしたものと思われます。
「ああ紅の血は燃ゆる」「麦と兵隊」「轟沈」など。

第三種軍歌。
これは正式に「これが第三種」と決められたものではありません。
第一種にも第二種にも属さない、例えば慰問歌手が戦地で歌ったりする、
あるいは兵士たちが故郷を思って、あるいは酒の席でにぎやかに歌う、
つまり戦時愛唱歌のことです。

「誰か故郷を思わざる」「支那の夜」「湖畔の宿」
悪戯に厭戦気分を煽るということで公には許されなかったこう言った歌謡曲。
しかし、日本から遠く離れた戦地で兵士たちが口ずさみ、涙を流すのはこういう曲でした。

慰問歌手は軍上層部に何を歌うのか聞かれたとき「第三種軍歌です」と答え、
いつの時代も建前を重んじる上層部はそれがどのような曲が知りつつも、
「第三種『軍歌』ならばよし」とOKを出したのでした。


その種類分けで言うと、この「江田島健児の歌」は勿論第一種軍歌に相当します。
そこでふと気づけば、海軍の軍歌は
「軍艦」「海ゆかば」「太平洋行進曲」「愛国行進曲」「艦隊勤務」「ラバウル小唄」
思いつく限りでもざっとこれ全部、共通点がありますね。
(愛国行進曲は『軍艦』の作曲者瀬戸口藤吉の作曲)

そう、全てが長調(Dur、major)でできているのです。

海軍、海のイメージはすべからく明るい曲調で行くべし、と誰が決めたかは知りませんが、
少なくとも第一種軍歌は例外なく長調なのだそうです。

映画「海兵四号生徒」では、生徒たちが棒倒しをしたりカッターを漕いだりするシーンで、
この曲が流れていました。
若い彼らの躍動感にピッタリな長調のその明るい曲調が耳に残っていたのですが、
これが「江田島健児の歌」と知ったのは後のことになります。

この「江田島健児の歌」は先ほども述べたとおり大正8年、在校生に応募を募り、
当時(悪い意味で)「モッブ・クラス」と言われた大所帯約800名の生徒から、
100ほどの詩が寄せられました。
その中から選ばれたのは神代猛男(こうじろ・たけお)生徒の詩。

神代生徒は、応募した歌詞を家族に送る際
「これが当選すれば校歌となりますが、たぶんダメでしょう」
と、謙虚なというか自信なさげな一文を書き添えています。

この時に家族に送った歌詞と実際に江田島健児の歌として残っている歌詞は、
かなり違っているのだそうですが、もしかしたら作曲の段階で推敲されたものかもしれません。


ともあれ見事このこ神代生徒の作詞したものが末代まで残ることになったのですが、
神代学生自身は中尉任官まで逡巡しつつも、自分の進むべき道はそこに無いことを悟り、
後に海軍を辞めてしまいます。

時折しも軍縮時代。
「海軍の未来は必ずしも明るくない。
将来については家族とよく相談の上辞めるものは申し出よ」

などと肩たたきのようなことを生徒が教官から言われるような時勢でした。

神代中尉が辞める決意に及んだ原因のもう一つに、海軍において一生ついて回る成績順、
ハンモックナンバーが下位だったこともあるようです。
(272人中172番)
この成績では今後海軍での出世など望めない、それより自分のやりたいこと、
文章を書くことで自分を試してみたい。かれはこのように考えたのでしょう。

これに遡ること何年か、神代猛男は故郷の三重県津市では「地元の神童」でした。
進学した東京、芝中学でやはり秀才であった同級生の福林正之とともに
憧れの海軍を目指して猛勉強の末、海軍兵学校入学を果たします。
この時不合格だった福林はそののち東京大学に進学しますが、
夏季休暇に純白の第二種軍装に短剣を吊って母校に颯爽と現れた神代の姿に
羨望と、自らが絶たれた道への絶望を感じたといいます。


しかしその十余年後、如何なる運命の悪戯でしょうか。
海軍を辞めた神代は、その福林に紹介の労を頼んで新聞記者に転身することになります。
そして張り切っていた矢先に急性中耳炎が元であっけなく他界してしまうのです。
わずか三十三歳でした。


ところで、皆さんはこの福林正之という名前に聞き覚えはありませんか?
そう、戦後、一人の元零戦搭乗員であった坂井三郎

「戦争そのものの是非善悪の論は別として、
ともかくも我々日本人は世界の列強を相手に5年間も戦い、
その結果我々の国家と民族と運命にこんなにも大きな変革を与えたのだから、
歴史的な事実は事実としてあくまでもその正確な記録を後世に残すのが
われわれ現代人の義務だ」


という言葉で熱心に口説き落とし「坂井三郎空戦記録」、
後の「大空のサムライ」に続く大ヒット本を生んだ出版共同者の社長、
福林正之
その人です。

かつて自分が果たせなかった夢を実現した友に敗北を感じたこと。
その友もまた夢破れ海軍を去り、自分と道を同じくするも間もなく冥界に発ったこと。
福林が坂井三郎の姿を通して海軍搭乗員の世界を日本人に膾炙することに傾けた、
その情熱の源には、もしかしたらこの友への想いがあったのかもしれません。

その福林が兵学校で歌い継がれた友の手による「江田島健児の歌」を聴くとき、
脳裏に過(よぎ)るのはいかなる感慨だったでしょうか。

 
江田島健児の歌   神代猛男作詞  海軍軍楽少尉 斎藤 清吉 作曲

一、澎湃寄する海原の 大濤砕け散るところ
  常盤の松の翠濃き 秀麗の国秋津洲
  有史悠々数千載 皇謨仰げば弥高し
二、玲瓏聳ゆる東海の 芙容の峰を仰ぎては
  神州男子の熱血に わが胸さらに躍るかな
  あゝ光栄の国柱 護らで止まじ身を捨てゝ
三、古鷹山下水清く 松籟の音冴ゆる時
  明け放れ行く能美島の 影紫にかすむ時
  進取尚武の旗挙げて 送り迎へん四つの年
四、短艇海に浮かべては 鉄腕櫂も撓むかな
  銃剣とりて下り立てば 軍容粛々声もなし
  いざ蓋世の気を負ひて 不抜の意気を鍛はばや
五、見よ西欧に咲き誇る 文華の蔭に憂いあり
  太平洋を顧みよ 東亜の空に雲暗し
  今にして我勉めずば 護国の任を誰か負う
六、嗚呼江田島の健男子 機到りなば雲喚びて
  天翔け行かん蚊竜の 池に潜むにも似てたるかな
  斃れて後に止まんとは 我真心の叫びなれ


参考: 戦争歌が映し出す近代  堀雅昭  葦書房




アメリカの動物たち

2012-01-19 | アメリカ

    

この、単なるカレンダーから取ったイラストはちょっと置いておいて、
アメリカで撮ったこの写真を見てください。



対象になるものが映っていないので大きさが分かりにくいのですが、この野ウサギくん、
大きさは手のひらサイズ。
ボストンの州立公園にウォーキングにいったときのものです。
車の前の道を横切るリス状の小動物。でも、動きが何だか変・・・・。
なんと、ここでもあまり見ないウサギだったんです。
そっと車を停めて、カメラを取り出しガラス窓ごしに極限までズーム。
このときほどエンジン音の無いプリウスに乗っていてよかったと思ったことはありません。
なぜか息まで止めて、気分はまるでナショナル・ジオグラフィック専属カメラマン


撮られていることに気付かない様子でしたが、欲を出して窓を開けたとたん、
その音に驚いて(プリウスがいかに静かだったかわかります?)脱兎のごとく、
って、文字通り脱兎となって逃げてしまいました。

ここは動物の保護区域でもありますから、毎日歩いているといろんな動物に遭遇するのですが、

岩の上のリス。
ボストンではリスは日本の野良猫よりなじみが深いのですが、
じっと一ところで甲羅干し?しているリスは初めて観ました。
何かリスにしては壮大なことを考えていそうな面持ち・・・。

アメリカには野良猫はいません。
いるのかもしれませんが、少なくとも見たことはありません。
ボストンのように冬は雪の降る地域では外でネコが生きて行くことはできないのです。
このネコは、サンフランシスコのアパートの、斜め一階下の部屋のお姉さんのネコ。
毎日こうやって窓辺にいるところを観察していました。
こっちが見ていると、必ずこうやって見つめ返してくれました。

 
巨大オットセイ。
これは勿論本物ではなく、どこかの水族館か何かに展示するものを、一時的にここ、
(ゴールデンブリッジの下のクリッシーフィールド)に安置していたようです。
この公園については、このブログでも時々ご紹介してきましたが、ここのお巡りさんは、
車でなく4WDのこのような乗り物でパトロールします。


比較的平和な時間なので、左のパトカーのような警備係のおじさんと立ち話。
この場合、立っているのは馬ですが。
この後「写真撮らせて下さい」と頼んだので、
ポーズを取ってくれました。



この日はお天気がよく、気持ち良さそう。

ところで、冒頭の絵に戻ります。
アメリカで、特に郊外を運転したことのある人は、一度や二度は画像で言うところの
「パンケーキ状の動物」
を見たことがあるでしょう。
リス、タヌキ、オポサム、そして、スカンク。
スカンクが轢かれているとそれはそれはすさまじい匂いで、
高速で100キロくらい出して走っていてもその道路を通過してしばらくは車内から匂いが抜けない、
という社会問題レベル。
日本にスカンクはいませんから、あまりご存じないかもしれませんが、この匂いたるや、
「動物園のサイかゾウの檻の前に立つと臭う、あの匂いを100倍抽出したもの」
と思っていただければいいかと思います。

TOが昔留学の準備でボストンの郊外にある語学学校に夏期講習を受けに行っていたとき、
ある宿舎(といっても民間の建物なので、平屋で、映画によく出てくるポーチのあるあれ)に、
窓からスカンクが、何を思ったか入ってきて、みんながパニクったので、
それ以上にパニクったスカンクが思いっきり・・・・・・・。

しばらくの間その建物は使用できなかったそうです。

という習性のスカンクが、事故で死ぬとき、断末魔のガスを思いっきり噴出
(というか踏まれて押し出されるのかも)するので、
事故現場の周囲数キロは、清掃局がやってきて片付けてくれるまで、
付近住民は大変辛い思いをするのです。

この道で轢かれてしまう動物たち、というのも、日本にはない一種の社会問題ではないかと思うのですが、だからといって
こんな看板を立てたって、車は急には止まれないわけで。

そもそもこの看板は、息子のサマースクールであるボーディングスクールの学校内の、
ドライブウェイにおける注意看板。
この学校はムースをアイコンとしており、生徒のことを「ムース」と称しているので、
「生徒が歩くことがあるから車は気を付けてね」と言っているのです。
まあシャレですね。

この夏、冒頭漫画にもあるI-90(この作者はボストン在住らしい)で、ぎょっとする光景を観ました。
道路がバケツで撒いたかのように真っ赤に血の色で染められており、
その先に転がっているのは、大きな鹿の死骸。

リスやタヌキはしょっちゅう見るのですが、とはいえそれでも
「ああー、嫌なもの見ちゃった」とブルーになるのに、この事故現場はショッキングでした。
身体の大きな動物の血は、まるで人間のもののようで、それなのに轢いた車は当然のように
そのまま行ってしまってお咎めなし、というのが実に不思議に思えるほどの凄惨な現場でした。
次に通りかかったときには死骸は片付けれらていましたが、血糊は次に雨が降るまでそのままで、
そこを通る度に(それも宿泊しているところからすぐ近く)何とも言えない思いをしました。


インターネットで拾ったこれが合成なのか、本当にレコーダーのものなのかは分かりませんが
まさにこの日付と同じころ(7月5日)、同じような事故がボストンでも起こっていたということです。

冒頭の漫画ですが、旦那さんが広げている「小動物ミラー」(ボストン・ミラーという新聞がある)には、
「オポサム、潰される~仮死ではなかった」
「地元のリス、半分平らになる 禿鷹がすぐ来て、残りを餌にした模様」
「ウサギ、I-90でパンケーキ状に」
「スカンク、すりつぶされる」

という記事の乗った「道路事故死」のコーナー。

奥さんはこういう事故の記事から目が離せない旦那さんに文句を言っています。
「ジョナサン、あなた不健康よ。
新聞が来ると最初のページにずっと向かいっぱなしで」


人間社会の前には徹頭徹尾弱者であり、
人間のせいでこうやって命を落としてしまうアメリカの野生動物たちに対し、
たとえば、「海犬」や「緑豆」は、どういう見解を持っているのかしら。
もしかしたら、
「牛や馬は人間が食べるために神様がお造りになった。
人間はそれだけ頭がよく偉いので当然である。
またクジラは賢いので食べてはいけないが、それを殺す日本人は死ぬがよい。
そして、賢い人間がクルマという便利な文明を享受する為には、
看板の字も読めない愚かな小動物が犠牲になるのはいたしかたないことなのである」

って言うのかな。









軍人俳優としての丹波哲郎

2012-01-17 | 映画

丹波哲郎シリーズ第二弾です。
「何だって丹波哲郎のことばかり書くんだ?」
と思われた方、自分でも同じように思っておりますとも。
何故丹波哲郎のことばかり書きたいのか。


撮影現場には遅れてくるのが当たり前、皆が困り果てているところに悪びれず登場し、
「わたしが来たからにはもう大丈夫!」
と言ったとか、台本を自分の部分だけ破いて持ってくるとか、
俳優の丹波哲郎にさして興味を持っていない程度の人間でも知っている大物伝説の数々。
戦争映画を集中して観るようになってからは、
その演じる軍人姿の有無を言わせぬ説得力に、無理やり?納得させられてきた大俳優。

とりよせた本、ダーティ工藤著、「大俳優 丹波哲郎」によると、思っていた以上の「傑物」。
このたびの集中記事となった次第です。

前回、丹波が演じた主な軍人役を冒頭にあげましたが、
いまのところわたしが個人的に一番好きなのが、本日画像、
映画「連合艦隊」における小沢冶三郎役
沈む瑞鶴に胸も張り裂けんばかりの威儀をこめ、敬礼するその姿に
「連合艦隊10の泣き所」で言及しました。

「大空のサムライ」では、台南空の隊員に「おやじ」と呼ばれた好々爺の斎藤正久大佐を、
実際の斎藤司令のイメージとは全く別の、しかし包容力のある司令官として演じ、
「二百三高地」では、怒りを抑えるために「歯が痛い」とうそをつく児玉源太郎元帥
「零戦燃ゆ」では、山本五十六に大出世。
この丹波五十六は、実に丹波らしいというか、ラバウルで隊員とウミガメに舌鼓を打ちます。


丹波本人は、自分が軍人を演じるということについてどういう風に思っていたのでしょうか。
陸幼を受けて落ちてからは、学徒で動員されてもまったくやる気を見せず、
立川の「落ちこぼれの吹き溜まり」で毎日何となく終戦まで過ごし、終戦に際しては
「何となく終わって良かったと思った。争いは嫌いなんだ」
と述懐する、最も軍人とは対極に位置する実像を持つこの俳優は、
役者として軍服を着ることを、またどう思っていたのか。

気になりました。

ところで、映画「連合艦隊」では丹波哲郎、義隆が「親子共演」していることをご存じですか?
永島敏行演じる本郷大尉の友人、茂木大尉役です。
本郷大尉を機銃から庇って身を伏せた後、空襲を迎撃するために単機飛び立って死んでいく、
という役だったのですが、この役が来たとき義隆氏は最初
「五分刈りにするのが嫌で断った」といいます。

ところが、そこで何故か父親である丹波哲郎がでてきて言うには
「お前の七つボタン姿が見たい」

父親にそこまで言われてはもう出演するしかないと、オファーを受けたのですが、なぜかこの映画、
「そんな大した役でもないのに」
義隆氏だけ、短刀をさした七つボタンの全身写真が残されているのだそうです。
(ということは第二種軍装ですね)
これは・・・、大物出演者でもある父丹波が、映画の写真部か宣伝部かなにかに、
「(あいつの軍服姿)撮ってやってくれ」とわざわざ頼んだのでしょうか。

丹波哲郎本人は長いインタビュー上で軍人を演じることについて一言も言及していません。
しかし、息子によると、
戦争ものに出るのが好きで、軍服が似合うことをいつも自慢していた、そして
「この帽子(軍帽)は俺が一番似合う」
などと言っていた
というのです。

息子にお見合い写真のような軍服姿の写真を撮らせたのも、軍服姿を自慢していたのも、
「憧れたものの魅力を知っていて、それを演じていた」(義隆氏)ということなのでしょう。
そして、映画を観る観客が自分に求めているものを誰よりも知っていたと。



陸幼を受けたことからも、少年期には軍人のあこがれがあったのは確かですが、
丹波家には色弱があって、パイロットには絶対になれないことや、
実際に学徒動員で軍隊生活を経験したがゆえに、自分の生きていける世界では決してないことを、
かれはおそらく誰よりも知っていたでしょう。

しかし、なおかつその世界の中の「映画的な虚像」の部分を自分に引き寄せ、
「軍服が誰よりも似合う役者」として、軍人を演じることでその憧れを叶えていたのに違いありません。

瑞鶴に敬礼する丹波、若い将校に対して悠揚迫らざる戦術家の貫録で一席ぶつ丹波、
どれも、頭の中では演じる人物の経歴すら、想像で全て経験できているのではないかとも思える演技です。

義隆氏によると、映画「連合艦隊」で、最後に飛行機に茂木大尉が乗り込む、そのとき、
「じゃあな」と本郷大尉に向かって言う、そのセリフが、義隆氏は非常に気にいっていたそうです。
ところが、本番になったら松林宗恵監督に「そのセリフはいらない」と言われてしまいました。
共演していて近くにいた父親にその話をすると、
「本番はおまえのものだ。お前がどうしても言いたければ言えばいい。
どうせ、火薬の仕掛けの関係でドンパチやるから撮り直しは利かない」
というやってしまった者勝ちの確信犯的アドバイス。
さすが長年現場で丁々発止を繰り返してきた役者です。

それを受けて義隆氏は本番で「じゃあな」と言ってみたものの、
やはりラッシュでは切られていたようですが・・・(笑)
それが、息子が俳優である父から貰った最初で最後の役者としてのアドバイスだったそうです。


誰かを演じるときに、それが例えば山本五十六であっても、それについて詳しく調べたり、
資料を読みこむことなど、丹波は決してしなかったようです。
ただ天性のカンで自分の感じるところを追体験するかのようにその人物になりきるだけ。
それがどうやらこの「大俳優」の役作りの方法だったのかもしれません。












軍人としての丹波哲郎

2012-01-15 | 映画

戦艦大和(1953) 尾形少尉
モンテンルパ 望郷の歌 鴨下少尉
潜水艦ろ号いまだ浮上せず(1954) 堀田先任将校
人間魚雷回天(1955) 主計大尉
明治天皇と日露大戦争(1957) 島村少将
銃殺~2・26の反乱(1964) 香田大尉
激動の昭和史 沖縄決戦(1971) 長参謀長
氷雪の門(1974) 鈴本参謀長
大空のサムライ(1976) 斎藤正久大佐 
八甲田山(1977) 連隊長児島大佐
二百三高地(1980)  児玉源太郎
連合艦隊(1981) 小沢冶三郎
大日本帝国(1982) 東条英機
日本海大海戦 海ゆかば(1983) 山本権兵衛
零戦燃ゆ(1984) 山本五十六司令長官

俳優、丹波哲郎が生涯に軍人を演じた映画の一部です。
年齢とともに階級も昇進していっています。
丹波は1922年生まれですから、だいたい年齢に応じた階級役と言っていいでしょうか。
34歳で連合艦隊参謀長島村速雄少将は少し早い気もしますが。

それまでわき役だったのに226の映画でいきなり中心人物役を演じていますね。(香田大尉
このとき、最初軍曹の役を割り当てられて丹波は「その場でお断り」。
その態度がでかいので「来年はもう契約しない」という会社側に
「ああ、結構だよ。俺が入ろうと思って入ったんじゃないから」
と言い放ったら、次に来たのが香田大尉役だったということです。

新人俳優丹波哲郎の態度がでかいのは有名で、
「今度入ってきた変なのだけは、使うのやめようぜ」
と監督同士で申し合わせがあった、というくらいだったそうです。
後に高島忠夫氏が態度のデカさは)「今とそんなに変わりない」と評したといいますから、
丹波さんは最初からあの丹波哲郎だったと(笑)


さて、わたしがものごころついたときにはすでにおじさん俳優であった丹波哲郎ですが、
写真で見る若き日の姿は、どの写真も水も滴るいい男。
完璧なフォルムにバランスのいい長身、力強い、しかし色気のあるまなざし。
外国映画に何本も出演し「東洋のプリンス」とあだ名された俳優だけのことはあります。


丹波家は代々薬師で、坂上田村麻呂を祖先に持つという名家の出。
東大名誉教授であり東京薬大の創立者を祖父に持ちます。
上の兄二人が東大に進む秀才でしたが、丹波少年は旧制中学受験に失敗、中央大学に進学。

在学中に学徒出陣で召集されます。
あの有名な雨の出陣式の映像のどこかには丹波正三郎(せいざぶろう)がいるわけです。
後から観る我々は、悲壮に見えますが、当事者である学生だった丹波によると、
「戦死する可能性はそんなに感じなかった。
戦局が悪くなったから学徒動員までしたんだろうけど、
まだ俺たちは勝ち戦と思ってたから」

・・・・そうだったんだ・・・・。

学徒兵の扱いは、大学生であれば一週間で星二つ。一カ月で上等兵、そして三カ月で兵長です。
一年間でようやく星ひとつの一般の兵隊の進級の速さを考えると、異例の昇進の早さです。
よくいわれるように、一般古残兵のこの学徒に対する僻みの凄まじさは、
「自分より昇進して手の届かないところに行ってしまう前に、今のうちとばかりに殴りまくる」
という苛めになって現れました。

そして、生まれたときから「丹波哲郎レベルに態度のデカい」この学徒兵。
普通の学徒兵の十倍殴られます。
一般に、学徒は兵長になり予備士官学校に行くと同時に伍長、五カ月伍長を務めれば軍曹。
明日卒業、という日になって見習士官となります。
丹波は軍曹になり、やっと「仕返しができる」と思ったのもつかの間、立川基地に配属になりました。
これは言わば「左遷」だったそうで、ここにいた人たちには申し訳ないのですが、
「全国から集められたクズばかり360人」の中の、丹波はさらに落ちこぼれ。

この立川基地は、今横田基地として米軍キャンプがあるのですが、
当時から米軍は終戦後はここを使うつもりでしたから、江田島の海軍兵学校と同じく、
銃撃だけで爆撃は決してされませんでした。
彼らが爆撃するのは、軍事施設ではなくそれはいつも民間の施設で、その理由が
「早く降参さえさせればいいんだから」

・・・・・・・何が日本の戦争犯罪だふざけんなよ鬼畜米。

と、アメリカに怒るのはまた別の機会にして、横田基地でもその「お約束攻撃」に対して、
一応応戦はしていたそうです。
それがキ64という機種の「前のものしか攻撃できない戦闘機」なのだそうですが、
(調べてみましたが資料なし)
一万メートル以上上昇できず「300メートル撃ったら弾が分散してしまう」ものだった模様。
そして整備士官を目指していた丹波が、曳航弾、炸裂弾、鉄鋼弾の三種を調整していたのですが、
「機関砲を300メートル行ったら一変調整するなんて、オレにできるわけないんだ」

・・・・なるほど。


整備兵は基本的に飛行機には乗らないのですが、
特攻を立洗で最終的に武装して送り出すまで、
立川~伊丹間を掩護の形で一緒に飛ぶようなことはあったそうです。

その特攻隊ですが、一般学徒の給料が一日35銭だとすると、90銭から1円貰っていました。
つまり3倍だったわけで、おまけに甘味品も配給ではなく、自由に与えられていました。
丹波から観る特攻隊の人々は
「だから陽気にいつも騒いでいましたよ。でも一人になると分からない」


ところで丹波正三郎の軍隊生活、何も楽しいこと、いいことはなかったのでしょうか。

「ないないない。いや、ないとはいえないね。女性関係は自由」

そうでしょうとも。
冒頭画像を見ても、こんな男前の士官候補生がいたら、そしてその軍人が
ちょっと配給の甘いものなどお土産にくれるのなら、
それを歓迎しない若い女性が果たしてこの世にいるだろうか。

「重いだけなんだけども、長剣なんか提げてカッコいいんだよ。モテないわけがない。
なおかつ砂糖を持ってるんだから」


男前の(一見)士官が背中に砂糖しょってると。で、どちらもを目当てに面会人は連日鈴なり。
「面会だ!コトは早く済ませ!」と人事課には言われていたそうで・・・・・・。



丹波は、成城中学から陸軍幼年学校も受験しているそうです。
勿論不合格だったそうで、これは不合格でよかったといえるのでしょう。
「陸軍士官になっていたらおそらく20代で死んでいたし、
二人の兄に続いて東大に入っていたら、おそらくは俳優になどなっていない」


丹波哲郎が俳優になり、銀幕の上で海軍大将、陸軍大将どちらにもなるにまで「出世」する運命は、
このときすでに決まっていたのでしょう。




(「大俳優丹波哲郎」より、ダーティ工藤氏のインタビューをもとに再構成しました)








 


大空のサムライ 再考

2012-01-13 | 海軍



  (巻末に続く)

菅野直伝説で、さんざん菅野大尉をネタにしてきましたが、今日は思いきって?
「大空のサムライ」より、台南空の皆さんを取り上げてみました。
好評ならまたシリーズ化します。

「大空のサムライ」を最初に読んだとき、たまたま同世代の男性と同席し、
「今こんなの読んでるんだけど」と本を見せたら
「ああ、これね。僕は中学生の時に読んだ」と言うので、
「へー、男の子って、やっぱりこういうのをその頃読むんだ」
と、今更のように感心したものです。

坂井三郎氏がアメリカで著者として認識されているところのSAMURAI!の改訂版が、
去年発売されました。

そのときアメリカにいたわたしは、大型書店「バーンズ&ノーブルス」の店頭にある
書籍検索をしていて、ついでにその再版された本についての評価を検索してみました。

本に寄せられた感想の中で特に心に残ったのが
「日本と戦っていた我々は、日本人は己を殺しロボットのように戦っていたと思いがちだが、
この本に見られるたくさんのエピソードのほとんどが我々にとって共感できる人間らしい者ばかりだった。
やはり彼らも同じ人間であるとの思いを強くした」
といった意味の投稿でした。

マーティン・ケイディンによるSAMURAI!のエピソードの数々は、何度かご紹介してきたので覚えておられると思いますが、
坂井氏の記憶と、初版の「坂井三郎空戦記録」における逸話に、さらにケイディンなりの捏造、じゃなくて創作をふんだんに加えたことにより、より一層汎世界的な共感を呼び起こすに至りました。

もし、なんの加工もなく、何の創作もなく、事実を事実のままで本にしていたら、
現代にいたるまで再版を繰り返すに至るほどのロングセラーになっていたかどうか。
それは日本国内ですら同じ問いに同じ答えが出せるものと思われます。

戦後、史実の記録を目的に、元軍人が大戦を振り返り本を記しています。
しかし、戦況や作戦のそれぞれを振り返るものがほとんどで、
登場人物のエピソードに、笑い、泣き、手に汗握る「面白い読み物」はありませんでした。

大空のサムライは「コロンブスの卵」だったのです。
そこに生き、死んでいった戦士たちがまた血の通った一人ひとりの人間であることを、
心から感情移入できる「戦史」は、これが初めてだったのだと思われます。

それに続く「零戦ブーム」は、明らかにこの「戦記エンターテイメント」を皆が、
日本人のみならず世界の人々が歓迎したということであり、
そう言った意味でこの本の果たした役割は大きかったと言えるのではないでしょうか。


しかし、有名になり熱狂する者がいれば、必ずそれに疑問を投げかける者も出てきます。
「物語」として人口に膾炙したエピソードを
「本当にあったのか、だとしたらそれはいつのことか」
と検証する人たちです。

坂井氏は著名人となってからというもの、この「検証マニア」と言うべき人々にかなり悩まされたようです。
碇義武氏著の「大空のサムライ 研究読本」によると
「いままでも部分的にマチガイを指摘してくる人もいましたが、
鬼の首でも取ったような態度が煩わしく、すべて無視していました」

とのこと。

・・・・・お察しいたします。
いますよね。鬼の首を取ったように人のあれこれを書く人。

そして、信憑性の問題から、本そのものの価値に至るまで難癖をつけ、
さらには戦後の坂井氏の生きざまや海軍内の噂から徹底的に本人を貶めようとするに至っては、
有名になったから引きずりおろす、という程度の低いバッシングにしか思えません。

どんな人間も白か黒かの二元でその本質を論じることはできるものではありませんし、
何らかの形で有名になってしまった人間については特にそうでしょう。
しかし、己を振り返るだけでも、人間とは矛盾に満ちたものであることは明白でしょうに、
「大空」で有名になったというだけで、坂井氏を善か悪かで論じる人々は、少し胸に手を当てて
自分自身が「善か悪か」で評価でき得るものかどうか試してみてはいかがでしょうか。


台南空の行動調書と「サムライ」は一致しないのがほとんどで、わたくしも以前
「敵基地上宙返りは本当だったのか」
という疑問を呈してみましたが、その理由が行動調書に該当する日がない、というものでした。
(その後、坂井氏の言う5月15日ではなく、
5月26日、5月27日、5月29日、6月16日のどれかに可能性があることも分かってきたのですが)
まあ、何が言いたいかと言うと、大空のサムライとはあくまでエンターテイメント戦記であり、
歴史的資料ではないということです。

最初に読んだときにはその虚構性に全く気付きませんでした。
そこで終わってしまっていたとしても、別に何の問題もなかったのでしょうが、
何の因果かその後、本や資料、現物や展示、あらゆる海軍的なものに触れる中で、
わたしは何度も折にふれては「大空のサムライ」に帰って行きました。

帰って行くたび、その意味やその価値が私にとって変遷していくのを感じます。
読み手の立っている位置がどこであっても、その位置なりの価値を見出すことができるのです。
虚構性に十分気づいたうえで読んだとしても、なおかつそこには、アメリカ人が見出し得るような、
生き生きとしたドラマがあり、若者の青春があり、
生と死の交錯する戦場を生き抜いた坂井氏の証言には、
生きることの意味を考えさせられずにはいられない(あえて言うと)真実があるからこそ、
この本はこれだけ愛されてきたのでしょう。

いかなる検証も、たとえ坂井三郎という人物がどんな人間性であったとしても、
この本の汎世界的な娯楽性には何の影響もないであろうし、これからも「大空のサムライ」
は名著であり続けるだろうということです。

なんといっても、パロディのできる戦記って、他にありませんよね?
(例:本日画像)




読書するということ

2012-01-12 | つれづれなるままに

いつぞや息子の宿題でジオラマ作りに奔走していると書きました。
その後どうなったか気にしている人はよもやおられますまいが、
本日の内容にアップする適当な写真が見つからなかったので完成写真をアップします。
渾身の作品、親も子も大変でしたが、実に良い想い出になりました。
ちなみに、火山から出ている噴煙の色は、わたしのアイブロウの粉を使用しました。
評価はA。
「なぜA+じゃないっ?」
と、今までなんの文句も提案も学校側の教育に関してしたことのないエリス中尉、
今回ばかりは黙っていられず(←親馬鹿)
「なぜAなのか聴いてきて!」
息子が聞いてきたところによると
「グレーシャー(氷河)だって。絶対に島にはグレーシャーって存在しないって言われた」
・・・・・よくわかりました。

でも、学校に優秀作品として飾られることになったので、まあ努力のかいあったといってもいいかと。


さて本題。読書するということ。わたしと読書。わたしの身体を通り過ぎた本たち。
まるでカルチャーセンターの「エッセイを書こう」というクラスで提出する課題のようなタイトルです。
(最後のは勿論不採用で)
以前、読者の方から「いつか、どんな本を読んできたか書いてほしい」というリクエストを頂きました。
もうかなり前のことで、その方が読んでくださっているかどうかもわからないのですが、
今日は何となく読書についてお話ししてみます。
だからといって、あれ読んだこれ読んだどう思った、のぺダンチック自慢大会ではありませんので、
どうぞご安心ください。

高校生の時。
倫理社会のトクダ先生が、ある日テストのお報せをしました。

「今配ったプリントには、古今東西、名作と言われている作品のタイトルと、作者が書いてある。
この全てを覚えてこい。試験は2週間後行う」


そのプリントには、チョーサー、シェイクスピア、ドストエフスキーはもちろんのこと、
紅楼夢やトーマス・マン、マルキ・ド・サドやナボコフの「ロリータ」にいたるまで、
「これだけ読めばあなたもいっぱしの読書家リスト」とでもいうべき本が書かれていました。
ざわめくクラスメート。
そのざわめきはほとんどが不満を訴える響きで
「何でまた」「こんなものを」「覚えなくちゃならないんだ」「この受験勉強で大変な時に」
と、中にはこのような呪詛さえ含まれているようでした。
受験校でもあったので「倫理社会の時間はノート取るふりをして英単語記憶」なんて輩が必ずいたものです。

こういうのを内職と称していたのですが、こんなことがありました。
当時から思想に興味を持っていたエリス中尉、哲学体系の授業の際、非常に熱心にノートを取り、
その甲斐あって試験は満点、
年度末になって意気揚々と成績表を開いたならば、すれすれの及第点評価。

「なんでっ」

あれほど熱心に講義を聞いたこのわたしに対し、なぜこんな低評価が。
今でこそ息子のジオラマがなぜA+でないのか聞きたださせる程度には度胸もありますが、
当時は花も恥じらう女子高校生。先生に文句などとても言えず。
全くふに落ちないまま卒業して、ある日このことを考えていて気付きました。

「あいつ(倫理社会のヤマシタ)、ノートを取っているのを内職だと決めつけたんだ」
はたとひざを打ったときにはすでに卒業後。
文句を言おうにも、もうどうしようもありません。
何か、ほぞをかむ思いで、
「もしヤマシタに道で会うようなことがあったら、絶対文句言ってやる」
と拳をにぎったのですが、以降幾星霜、ヤマシタ先生と道で逢うこともないまま、
今ではすっかり顔を忘れてしまい、たとえすれ違ったとしても気付かないでしょう。

しかしねえ。
ヤマシタ先生、あんまり生徒を見くびらない方がいいと思うよ。
自分の授業を熱心に聴いているのか、他の勉強をしているのかくらい、見分けろよ。
自分の講義が大したもんではない、ってことをそれじゃ自分が認めているようなものじゃないですか。

長すぎる閑話休題。これはドストエフスキーの長編によく見られる特徴ですね。
テストに話を戻します。

「何か質問は?」

挑戦的にクラスをねめ回すトクダ先生。
その目がわたしに留まります。
その目、お前には絶対言いたいことがあるだろ?そうだな?

では、ご期待にお応えして。
「これをただ棒暗記することにどんな意味があるのですか?
読みもしない本の題名と作者を知っていても、何の意味もないと思います」

ソウダ!という掛け声。
クラス全員が大きくうなずいたような同意に包まれました。
しかし、トクダ先生の、
ああ、この質問、待ってたぜ!ピンポイントいただきーっ!みたいな、
我が意を得たり感満載の満足げな即答に、エリス中尉は
「嵌められた・・・・」
と思わず再びほぞを噛んだのでございます。

「もっともな質問です」先生は意気揚々と続けました。

「意味があるか、というと、今の段階では、無いでしょう。
時間の無駄だ、とみんな思うかもしれません。

しかし、あなた方のこれからの長い人生には必ず役に立ちます。
丸暗記でも、こういうタイトルで、こういう作者の作品がある、と覚えていれば、
いつかそれが手にとって読もうと思うきっかけになるでしょう。
このリストは、今日明日ではない、いつか、でいいから、一生のうちどこかで読むべきリストです。
なぜなら、これは古典だからです。
古典とは、時間に磨かれて、長い間人々の鑑賞に耐えうる力を持っています。
人類の知恵とも言うべきこれらの作品のタイトルだけを知っていたとしても、
全くそれが損になることは無いとわたしは思っています」

トクダ先生は、こんなに滔々とではないにしろ、このようなことを語りました。
勿論、わたしはその言葉にひどく納得しました。
読んだことのある作品も多かったこともあって、その試験では満点をマークしたと記憶します。



そして、高校を卒業し、大学生になりました。
最も人生で時間があって、好きなことをしていればよかったあの時代、
周りにドストエフスキーやトルストイについて語れる友人が数人いたこともあり、
仲間内で競い合うようにして名作を読破していったものです。

音楽仲間ですから、ベートーベンの実存やサルトル、ニーチェの名言について、
音楽とかかわることを主なテーマに形而上的な議論を交わし、
壮大な時間のむだ遣いの中に遊ぶ毎日でした。
時間こそ無駄に遣いましたが、その間に考えたことや読んだものは、一見何の痕跡もないようで、
人生を歩むその行程において、思考や決定、そして自分が物事を述べるときの論理の組み立てや、
その導き出す結論に、少なからず影響を与えているように思うのです。

「トクダ先生の作品リスト」は、そんな読書三昧期にも、
決して捨てられることなく、なんとなくですが手許にいつもありました。
いつの間にか一つずつリストを塗りつぶして、いつか全部読むことを自分に課していたのです。


一度、テレビは見ない、と言いました。
いい作品も下らない番組も含め、テレビという媒体から「ただ受動するだけの情報」は、
畢竟「作り手の積み重ねてきたもの、この場合読んできたものの結実であり残渣である」
ということに気づいてから、その情報はあくまで自分の価値観を変えるものではなく、
自分の蓄積してきたものと並列に位置するべきだ、と結論付けたのです。
つまり、テレビによって得られるのは所詮伝言ゲームで誰かに教えてもらう「情報」にすぎないと。
(科学系の番組のことは今はさておきます)



簡単に言うとテレビの「坂の上の雲」は番組として非常に面白い。上質なドラマです。
わたしも前シリーズは全部DVDを借り、今回の放映もかなり無理をして観ました。

しかし、それは上質なエンターテイメントとしての「ファン」(楽しみ)であります。
「誰かが原作の『坂の上の雲』を読み、あのような理解で作り上げたもの」です。
楽しみとして観るのは大いに結構だが、あの番組から作者司馬遼太郎の真意を読み取ったり、
あれを見て歴史を知ったような気になるのは間違いだということです。

特に歴史に関してはNHKというテレビ局は意識的に「我が局の思うところの歴史観」を、
さりげなく、このようなエンターテイメント作品に刷り込んできます。
先日、何日間かにわたって「真珠湾からの帰還」の捏造を糾弾してきたのも、
結局は「我が局の導きたい結論」に無理やり導くNHKの態度が目に余ったからです。

そして、どことはいいませんが、この「坂の上の雲」においても、原作にない歴史的断罪や、
司馬が言及していない描写をわざわざ盛り込んでいるのがかなり目につきます。
NHKのすることを盲目的に信じてしまう「親方日の丸放送の権威」に弱い方々など、
何の疑問も無くそれを取り入れてしまうことを承知のうえでのサブリミナルだと感じました。


それはともかく、本を読むことが血や肉を作るものであるとすれば、
テレビによって得る情報や感動は、それがたとえどんな上質なものであってもおやつなのです。
人生にはおやつが必要ですが、出来た血と肉があって初めておやつも美味しくいただけるわけで。
そして、たとえ質の悪いおやつを食べてしまっても、身体には影響がない程度には、
解毒できてしまうような体力、つまり
「こういう情報によってこの媒体はこういうことを訴えたいのだな」
と裏を見ぬける程度の一般知識を持っていたいものです。

つまり、人生の限られた時間、同じだけの時間があれば、
本を手に取った方がより物事の本質に近づける、だから本を読む、
という二者択一の問題です。
(この場合の本は、古典、名作のことです。エッセイやライトノベルなどはオヤツね)
無限に時間が許されているなら、勿論どちらも楽しむのですけれどね。


ところで、どんな本を読んでいるかということを人に尋ねられるのは、非常に気恥ずかしいものです。
自分の心の求めるところ、知りたいこと、
そういった触手のような「欲望」のさまを他人に見られることにつながるからでしょうか。
高校時代、休み時間に本を読んでいると、必ず黙って横に立ち、
いきなり本を持ちあげて表紙を見る奴がいました。

その日、クラスのお調子者、アオヤマくんがやってきたとき、
読んでいたのがアルベール・カミュの「異邦人」
もし、こんな中二病な作品を読んでるのを他人に見られたら、恥ずかしくないですか?
今日ママンが死んだとかリンゴが刺さって腐り虫とか。


わたしの持っている本をぺらっとめくって、タイトルを覗きこんで、
アオヤマ「・・・・・・(・・)シーン」
エリス中尉「・・・・・・・・・・・」

アオヤマ、何も言わずにその場を去ってしまいました。

皆さん、今までこういう行為を人にしたことのある人はいませんね?
もしいたら、あなたはその相手に
「わざわざ見るなら何か一言くらいコメントせんかーい!」
って心の中でいわれてると思います。





病院船氷川丸

2012-01-10 | 海軍

思えば昭和19年1月31日、ギラギラ太陽の燃える紺碧のラバウルに入港、
官邸山の海軍病院で、マラリアの高熱のために死の苦しみを味わっている私を乗せて、
連れ帰ってくれたのが彼女であった。

白衣のまま患者バスで運ばれ、着いた桟橋は
三か月前に「夕張」からダイハツに乗り上陸した所だった。
そこで初めて沖に停泊している氷川丸を見た。

青い海に浮かぶその姿は、全身、眼に痛いくらい白く、
船腹と煙突に赤い赤十字マークを付けていた。
その姿は気高く、生きて帰れる安堵感を覚えた。

ラバウルから負傷し日本に帰ってきたある兵が見た病院船氷川丸の姿です。
「白鳥」と言われたその姿は、傷病兵の目にはあくまでも優雅で美しく、
まるで傷にしなやかな白い手で触れて癒してくれる聖母のように映ったに違いありません。


もう震災前のことになりますが、横浜の氷川丸繋留地に彼女を訪ね、見学をし、
「豪華客船氷川丸」「グルメ客船氷川丸」という記事を書きました。
しかし、肝心の「病院船としての氷川丸」について書かないまま、震災になってしまいました。
あらためてそのときに撮った写真と共に「白鳥」と呼ばれた病院船氷川丸について語ってみます。

氷川丸について書かれた本のほとんどは、病院船として使用されていたころに、
海軍軍医として、そして船長として赴任していた元軍人のものです。
遠洋航路の豪華客船として文字通り船出した氷川丸が、
その数奇な生涯ゆえ、今日も最も有名な船となっている理由の一つが、
病院船として激戦の海を生き抜いたことにあります。

国際法では病院船を攻撃することは違法です。
しかし、氷川丸が病院船として、そのペイントを白に変え、
大きな赤十字を付けたときに船長だった軍医が
「赤十字が敵から認識できるように、ライトアップもしたが、まだ心配だった」
と語る通り、赤十字を付けていても敵から狙われないというわけではありませんでした。

機雷に接触するという事故も数多くあり、海軍の牟婁丸め、
陸軍の病院船のほとんどは戦時中に没しています。
なかでも陸軍病院船らうる丸の沈没は、
明らかに敵航空機の国際法を無視した攻撃によるものだったため、
日本側はこれを戦争犯罪として提訴しています。

姉妹船で、特別潜水母艦として徴用された日枝丸平安丸
(三姉妹は皆Hの頭文字で統一されていた)も例外ではなく、相次いで戦没する中、
機雷に接触、潜水艦からの攻撃、と三度にわたる危機からも生還を果たし、
氷川丸は「奇跡の幸運艦」とまで呼ばれたのでした。

大傷は補液に苦労した。
血管がいいのが見つからなかったためである。
又神経終末が露出された形であるから、当然疼痛が強く、
リバノール肝油、硼酸ガーゼを交換するとき、乾燥したガーゼを剥がさざるを得ず、
患者さんは私の白衣の袖にすがりつき「畜生!」と叫んでいたのは、
私に対し、もっと痛くなくやれということか、敵に対する怒りなのか、
耳に残る言葉であった。

壮絶な船上における治療の様子の片りんを伝える、当時の軍医の証言です。
ラバウルなどの戦地から傷病兵を運び、治療を施しながら航行していた氷川丸ですが、
航路途中で治療及ばず死亡する将兵は多数いました。

軍艦で戦死した兵は、海軍旗に包まれた滑り台から、海中に弔砲と共に滑り落とす
「海葬」をするのが倣いですが、病院船ではそれは行いません。
遺骨を持ち帰る必要があったためで、驚くことに氷川丸のボイラーでは
死体の火葬が行われていたというのです。
  

このことに触れているのは、氷川丸について書かれたいくつかの本の一つだけで、
それが行われたのは「船尾付近」としか書かれていないのですが、
この話を読んでからたった一人で暗い機関部分を見学するのは、正直少し怖かったです。
  

というのも、当時の乗組員の間では
「海軍の病人用の患者衣を着た人影が、船尾付近の暗がりに立っていてすっと消えた」
といった幽霊話がまことしやかに語られていたそうで・・・・・・。

 
伝声管。どんな言葉がここから発せられたのでしょうか。
 


ところで、何故お互い国際法違反覚悟で、
病院船に攻撃を加えるというようなことが起こったのでしょうか。

その理由は、病院船でありながら悪質なものは偽装であったり、
病院船として機能していても、こっそり武器や燃料、
あるいは戦闘員を運搬させている可能性もあったからです。
狙われない、ということを利用してこれらを病院船で運搬するケースが、
相方にあったということです。

この点についての氷川丸に公的に残されている逸話は下のようなものです。

第24根拠地隊の参謀がやってきて、
次の寄港地、チモール島のク―パンまで高射砲を運んでくれという。
国政法によって運べないと断ると、
おまえらは国賊だと、軍刀を掴んでもの凄い剣幕。
そこで困って、連合艦隊司令部宛て電報を打ったところ、
まかりならん、と強い調子の返答が来た。
参謀はすごすご帰って行ったが、
こちらは期待通りの司令部の命令だったのでほっとした。


司令部も氷川丸も、国際法違反は一切しなかった、と、そういうことになっています。

表向きは。

実は、今回読んだ氷川丸についてのいくつかの本の中に、こんな記述がありました。
氷川丸が横浜から戦地に向かう往路、徹底した水の節制を申しつけられた
というものです。
病院船であるから勿論水はふんだんに積めるわけで、
現に可能ぎりぎりまで往路には積んでいたのですが、それにもかかわらず、
船員が異常に思うくらい水の使用を禁じられたのだそうです。

筆者も(軍医)それを訝しく思っていたのですが、
あるときその隠された意味に気付き暗然とした、とかれは書いています。
日本を出港するときから喫水線をある程度沈めて、
平常の喫水値を偽装することによって、
実は戦地から戦地へ燃料を輸送していたのではないかということに。

敵は、喫水線の上下から余計なものが積載されているかどうかを判断します。
例えば陸軍の病院船橘丸のように、
ひそかに兵員を積んでいることが喫水線から疑われ、
臨検されて拿捕された船もあります。

氷川丸は、実は水を必要以上に積載して巧妙に喫水線を偽装していたのではないか、
とその船長は理解したということなのですが、公式にその話はどこにも出てきません。

白鳥と呼ばれ、傷ついた兵士たちの目に憧れを以て迎えられた氷川丸。
実はやむなくそのような仕事を引き受けていたかもしれない、
その白い手が汚れていたかもしれないと証明することは、
この奇跡的に戦火を生き抜いた聖母の名誉を冒涜するに等しいと
後世が判断した故でしょうか。

 

冒頭写真
概要  
ja:日本海軍 特別病院船『氷川丸』
    en:Japanese auxiliary hospital ship Hikawa Maru
日付  unknow (wartime)

原典  ja:潮書房 丸スペシャル No.53『日本の小艦艇』66P
    en:The Maru special No.53 Japanese support vessels
作者  ja:日本海軍
    en:Imperial Japanese Navy




台湾のちょっとヘンな写真

2012-01-09 | つれづれなるままに

何日かにわたって10日にわたる台湾旅行のレポートをお届けしてきました。
いよいよ〆として、ちょっとヘンな写真を淡々と挙げていきます。

冒頭画像はヘンな写真ではなく、最終日の部屋のプライベートプールで泳いだときのもの。
台湾の気温は日本の10月後半~11月くらい、プールは温水で水温は20度でしたが、
この日昼間あまり陽が無かったのでかなり寒かったにもかかわらず、お風呂に長時間浸かり、
体を温める下準備をして、無理やり強行。
「せっかくプールがあるのに一度は入らないともったいない」という実に小市民的な理由です。

それではまいります。
 
女子会という言葉が日本で流行っているからというわけでもなさそうです。

なんてことないんですが「永遠犬猫美容」という響きが気にいって。

LIの店。わざわざ日本語で。ちょうどこのとき、店主がガラス磨きに出てきていましたが、
店構えからもお分かりのようにお洒落なイケメンでした。
置いている洋服も、高級品ばかりでセンスの良いディスプレイ。

スポンジボブ=海綿寶寶。かいめんぱおぱお
アメコミも人気ですが、それ以上に人気なのが日本の漫画。


日本の広告と言ってもいいこの違和感のなさ。
ゲゲゲの、という部分はさすがにGeGeGeになっていますが、鬼太郎の、というところに
何故か「の」の字が。


台湾は日本語表示が普通にどこにでも見られます。
どれも、間違ってはいないんだが、微妙、という文章が少し混じっています。
ラルーなどの一流ホテルであっても、ビュッフェなどで料理につけられたプレートに
「有機野菜を煮た」「鶏肉を炊いた」などの言文一致料理紹介があって笑わせてくれます。

そしてこういう日本語の監修をする人に、センスがあるとは限らない、という例がこの看板。
日月譚のほとりに立てられていた観光案内プレートのものですが、
「間違ってはいないし意味も分かるが、看板としては何か違う」。

「好んだです。」「奥さん宋美齢さん」
・・・・・・ちょっとかわいいですが。
それから「蒋介石様」は、なんだか北の将軍様みたいだからやめた方がいいかも。

意味は分かる。字が読めなくても絵を見ればわかる。
でも、おそらく日本の公共看板なら、もうすこし問題のものを抽象的に、
・・・いや十分抽象的なんですが、少なくともこんな三段重ねにはしないんじゃないかなあ、
とちょっと思いました。
 茶店のランプの下に立つ愚息。



日月譚のホテルの近くに喫茶店があり、何故か木に願い事を書いて吊ってあります。
中国にもこういう風習があるんでしょうか。
お寺でもなんでもないんですけどね。
葉っぱのない季節、赤い短冊が風情があって綺麗でした。
ちょっと台湾の皆さんのお願い事拝見。
この短冊は「家内安全」ってところですね。
「健康でいられますように」とかちゃっかり「ガールフレンドが欲しい」なんていうのが、
スタンダードなところ。でも、こんなのもあります。


陳さん、眉毛が薄いのを気に病んでいるんですね。
「眉毛が濃くなりますように」っておまけに要の横に小さく很(とても)という字が。
こんなところでお願いして何とかなるような問題だろうか。
ミクロゲンパスタみたいなものは台湾にはないのだろうか。
眉毛は薄いが字が黒々と濃いので、このお願い、無茶苦茶目立っていました。
なんかわからないけど、頑張れ陳さん。

動物はあまり見かけませんでしたが、このヘンな柄の服を着せられた犬は、
不動産屋さんの前の道をちょこちょこ歩き回っていました。
追いかけながら写真を撮っていたら、中から慌てた様子で人が出てきました。
鍋用に犬を誘拐、っていう話はここ台湾でもあるのかしら。
故宮博物館に行く途中のドライブウェイで見た巨大うさぎ。
下の小さいのもみんなウサギ。これは遊園地「ウサギーランド」(仮名)の表示。


いくらか値段は確認していませんが、いわゆる美術品。
ホテルのショップで売っていました。
誰かが買うんでしょうが、誰が買うんだろう。
こんな像が家に帰ったらいつでも玄関にあるというのもいかがなものか。

そして、極めつけ、この店のこんなもの誰が買うのか大賞。
これも売り物でーす。
三蔵法師(多分)が法悦の表情で空中浮遊しておる。 
お寺のご本尊にするには、このルーシーインザスカイウィズザダイアモンドな感じが、ヤバい。

それにしても激しく空気を読まず後ろでアイスクリーム食べてる子供とのコンボが、
もはやこの空間に一つの小宇宙を形成しています。


 
こんなとこで何やってんすか花田さん~!

空港にあった花瓶。
この花田勝さんが手で抱いている部分が鉢になっています。



おまけ*蒋介石の執務机を乗っ取ってほくそ笑むエリス中尉。

台湾旅行は安くて近くて便利。日本語も通じるし女の子はお洒落で可愛い。
ホテルのボーイさんもタクシーのおっちゃんも、皆感じ良く親切な人多し。
日本人は歓迎してもらえるので、絶対気持ちよく旅行できること請け合い。
年配の方には中国四千年の歴史の遺産を訪ねる楽しみもありますし、
何といっても食べ物が美味しい。

「老若男女、誰にでもお薦めできる旅行先ナンバーワン」に熱烈推薦して、
台湾旅行の報告を終わります。





中国四千年の・・・・・

2012-01-08 | つれづれなるままに

台湾で街を歩いたとき、つい立ち止まってしまったのが薬屋さん。
勿論漢方の方のくすりです。
立ち込める独特の香りに、店の棚に並んだ得体のしれない生薬の瓶。
つい「中国四千年の・・・・」という言葉が意味もなく浮かんでしまう瞬間です。

昨年暮れ、ソコツ主婦のわたしが、時間のない時に慌てて料理をしていて、
多めの油の中に野菜の塊りを落とし、はねた油で軽傷のやけどをしてしまったと思いなせえ。
いまや銀座にお洒落なサロンを持つまでに出世したホーム・ドクターならぬホーム鍼灸師の
(最近はTOもお世話に)M嬢にそれを言うと、すぐさま
「やけどに効きます」という紫雲膏という軟膏を送ってくれました。

とても効いたかというと、つけなかった場合との比較のしようがなく何とも言えなかったのですが、
その威力を今回の旅行で知る事件が。
旅先で息子が唇のまわりが荒れて、醤油が染みて痛い!と言い出しました。
みれば荒れて真っ赤でいかにも痛そうです。
「早く何か塗るものちょうだい!」と騒ぐくらい本人は辛そうだったのですが、
紫雲膏を持っていたのを思い出し塗ってやると、直後に痛みが治まり、
一晩で不思議なくらい完治してしまいました。

化粧品というものを使わず、冬場は風呂上りに植物油かワセリンを乾き止めに擦りこむくらいの
「放置スキンケア」で毎日を過ごしているわたしですが(でもというか、ゆえに美肌キープ)
唇がかさついたときに試してみると、こういうときにも非常に具合がよろしいようです。

せっかく台湾に来たんだから買っておこう、と思いつつすっかり忘れていました。



ところで、台湾で食べたトンポーロー、実に複雑な味で、ウイキョウやコリアンダー(シャンツァイ)が、
隠し味に入れられていると見ました。

わたしはこのコリアンダー、中国ではシャンツァイ(香菜)、アメリカではチアントロという香草、
メキシカンのブリトーに巻くのは勿論、サラダにだって入れてしまうくらい好きなのですが、
TOと息子は「頭が痛くなる」とか言って食べません。
でも、このトンポーロー、明らかにこのシャンツァイの匂いがしているのに、
二人とも美味しい美味しいとわたしより夢中になって食べていました。

「台湾の中国料理って、何となく日本で食べるのより漢方っぽいよね」
なんていいながら。
「いかにも体に良さそう。医食同源て言うのか」
「中国四千年の神秘っていうのか」

また出ました。中国四千年。

いよいよ帰国の途に就くことになり、空港でちょっと腹ごしらえをしたのですが、
たかが空港のお店程度の台湾料理屋で食べた鶏モモの煮込み、これがまた美味い。
「なにこれー」
「なんか複雑な味で煮込んでるね・・・あっさりしているのに中まで味が沁みてるっていうのか」
「鶏だけ煮込んだら味が出てしまうから水炊きじゃないだろうし」
「これは・・・・中国四千年(略)」

いちいち感心しながら空港のコンビニへ。ここがまた侮れなかった。
タイガーバームと並んで売っていた白花油。
何に効くのかさっぱりわからないけど何かに効きそう、なぜなら中国四千年(略)だから、
と買って帰って、切り傷やけど、頭痛やのどの痛みにまで有効であることが分かりました。
スースーするので、鼻づまりには抜群に効きそうです。
冒頭の大きな画像はこの白花油の説明書。レトロな、ていうか昔のままの絵柄がお洒落です。
どうも絵から察するに、水仙から採られた成分を使っているようですね。
このほかにも紫のバージョンもありました。

小さいし、珍しいし、これから台湾に行く方、コンビニで58元(170円くらい)からありますので、
大量にバラまかなくてはいけない女性へのお土産にはこれをお奨めします。

コンビニには他にも、「いかにも中国四千年な絵柄」の湿布が、
日本のと同じようなパッケージの湿布の横にありましたが、日本人観光客がそれを
「うわー、こういうのって、いかにも効きそうだよねー」と言いながら見ていました。

アメリカ人が
「日本人は皆困ったときにはゼンによって悟りを開き、先祖はニンジャかサムライである」
というような、いかにもな先入観ですよね。この「中国四千年」って。


 

TOはのどがすこし痛くて咳が出ていたので、のど飴を買ってあげました(左)。
しかし、本人はさらに右側ののど飴を購入。その理由。
「なんだか材料が訳わかんなくて中国四千年ぽくて効きそうだった」
またですか。
わたしもいただいてみました。
左はアニス風味でなかなかドロップとしても好(ハオ)。
右は・・・

超絶ゲロマズ(>_<)

生まれてこのかた、こんなまずいのど飴を食べたことがないというくらいのまずさ。
吐き出すのも何なので何となく舐めもしないで口の中に入れていたのですが、
飛行機の中でつい居眠りをして起きたらまだ口の中にあったという・・。
まずいならいつまでも舐めてんじゃない、って話ですが。

TOはこの飴を食べた後、飛行機の中でこの缶を落とし、中身を床にぶちまけてしまいました。
そして「ああ、食べるものを捨てるのは心が痛むけど仕方が無い」と言いつつ飴を捨てました。

もしかしたらわざとやったのかもしれません。

そして、恐るべし台湾のコンビニ。


買うの忘れてた紫雲膏見つけー!
これ、台湾ではコンビニで買えるくらいポピュラーだったんですね。
使ったことのある方はご存じ、まるでそのものか?というくらいごま油が主成分の軟膏。
紫なのは、シコンという薬草の色なんだそうです。
中国四千年かどうかを一応調べてみたら、あらびっくり。

これ、オリジナルは明時代の潤肌膏というものなのですが、紫雲膏そのものは、なんと
それをもとに、あの華岡青洲先生が作ったんだそうです。
日本で、いや公的には世界で最初に麻酔手術を成功させた、
人類の医学史にその名を残す日本人医学者の副業の産物だったとは。
というわけで

紫雲膏は、中国四千年(略)ではなくメイド・イン・ジャパンでした。