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レーダーピケット艦第一号〜潜水艦「レクィン」

2024-02-29 | 軍艦

潜水艦「レクィン」の見学途中ですが、ここであらためて
「レクィン」の艦歴についてみてみましょう。

■ 就役〜終戦〜”退屈な任務”

1945年4月28日就役した潜水艦「レクィン」(SS 481)の海軍キャリアは、
スレイド・D・カッター大尉が指揮官に就任し、
米海軍が潜水艦を正式に受け入れたその日の朝1130に始まりました。

80隻の「テンチ」級潜水艦は80隻受注されましたが、
そのうち建造されたのは25隻だけでした。
「レクィン」はそのうちの1隻であり、さらに同級で現存しているのは
「レクィン」と「トースク」 (USS Torsk, SS-423)2隻だけです。


USS「トースク」

「トースク」は就役が1944年12月だったので、戦線に赴き、
2回の哨戒で日本の艦船を4隻撃沈しています。

「トースク」は8月14日に2隻海防艦を撃沈していますが、それらは
第二次世界大戦において魚雷によって沈められた最後の軍艦となりました。

「トースク」が展示されているのはメリーランド州ボルチモアの博物館です。



就役後、「レクィン」はパナマ運河地帯で習熟訓練を行い、
いよいよ実戦に向かうために1945年7月末にハワイに到着します。

そのときの「レクィン」が搭載していた武装は、

5インチ/ 25口径湿式マウント砲 2基
40ミリメートル速射砲を前部と後部に1基ずつ
魚雷発射管 10基
5インチロケットランチャー 2基

1945年8月15日。
戦争が終結したとき、彼女は最初の哨戒にまさに出撃するところでした。
知らせは「レクィン」総員を騒然とさせます。

戦闘ピンをもらえなかったことに動揺する乗組員。
生きて終戦を迎えたことを喜ぶべきだという士官。

さまざまな思いを乗せて「レクィン」は数週間後祖国に戻り、
到着後、大西洋艦隊に編入されました。

その後の数ヶ月間は、ソナー学校の艦船に標的を提供することが主な任務で、
艦長のスレード・カッター曰く「退屈で退屈な任務」でした。

哨戒に出て功を上げたい血気盛んな乗組員たちにとっては特にそうでしょう。

1946年夏、1年間この任務をこなした「レクィン」は、
新しい指揮官と新しい任務を与えられることになります。

■レーダー・ピケットとしての「レクィン」

「レーダーピケット艦」という戦術思想が、

どうやって生まれたかご存知でしょうか。

それは、ほかでもない第二次世界大戦の後期、日本が選択した
特攻という前代未聞の戦術への対抗策としてでした。

レーダーピケット艦は多くの場合駆逐艦が務め、
レーダーによる索敵を主目的に、主力と離れて概ね単独で行動します。

しかし、特攻が激化してレーダーピケット艦が攻撃を受けるようになると、
米海軍は潜水艦を使用するアイデアを熟考し始めました。

つまり、十分なレーダーを搭載し、迎撃戦闘機を制御し、出撃機を誘導し、
艦隊に警告を与えることができるようにするという役目を、
航空攻撃を受けにくい潜水艦に担わせるということです。

そして、1945年の夏、他ならぬ「レクィン」が太平洋艦隊の一員として
日本沖に配備され、そこで行うはずの任務が、
史上初の潜水艦によるレーダーピケットでした。

レーダー・ピケット潜水艦としての「レクィン」が配備される前に
戦争は終結しましたが、その必要性は戦後も海軍に認識されました。

そして世界は冷戦に突入します。

アメリカは、敵となったソ連の航空戦力による対艦攻撃への備えとして、
1950年代初頭よりレーダーピケット任務の増大を始めました。
それを受けて整備されたのが、

レーダー駆逐艦(DDR)
レーダー哨戒駆逐艦(DER)
レーダー哨戒潜水艦(SSR)

「レクィン」はその役目を担う最初の潜水艦として指名されました。

この改造の対象となった最初の2隻の潜水艦は、「レクィン」、
そしてちょうど建造中だった、


USS「スピナックス」Spinax(SS489)

でした。

しかしながら、この改造にはかなりの問題がありました。

使用された装備は、水上艦部隊から急遽転用されたため、問題噴出。

中でも水上艦用だったレーダー機器を狭い潜水艦に詰め込んだことで、
ただでさえ狭い後部のスペースが、さらに狭くなったりしました。

また、潜水することで水上艦用アンテナのシステムがショートするという、
どうして前もってわからなかったの的なトラブルが発生していました。

■ 「ミグレーン(頭痛)」プログラム

さあみなさん、こういう事態になるとアメリカ海軍は何をしますか?
そう、「なんちゃら作戦」発動です。

1948年、アメリカ海軍はその名も

Migraine(頭痛)Program

作戦を発動し、「レクィン」と「スピナックス」に搭載された
初期のレーダー装備の改善プロセスを開始します。

ミグレーン作戦によって最初に改造された潜水艦は、

「ティグローン」(SS 419)TIGRONE

でした。
この名前が「ミグレーン」と韻を踏んでいるのは偶然ではないでしょう。

そのせいなのかどうかはわかりませんが、「ティグローン」はその後
「バーフィッシュ」(BURRFISH)と名前を変えています。


「ティグローン」の改造は、乗組員の食堂が航空管制センターに改造され、
接舷がステムルーム(チューブが取り外された)に移動し、
砲台はより小型で強力なものに交換され、
2つの前部魚雷発射管は取り外されました。

シュノーケルを装備し、

航空捜索レーダーアンテナは後部喫煙デッキの台座に、
水上捜索レーダー・アンテナは司令塔とステムのほぼ中間の台座に、
戦闘機管制レーダーは潜水艦の艦尾付近に設置されることになります。


■ミグレーンIIで改造された「レクィン」

「レクィン」と「スピナックス」はミグレーンIIプログラムで
さらに広範囲の改造を受けることになります。

艦尾チューブが完全に撤去された
ステムルームの前部は航空管制センターに改造
寝台スペースは後部に移動


ミグレーンII改装後の「レクィン」上部構造

さらに、前部魚雷室の下部2基の魚雷発射管は不活性化・密閉されて
収納スペースに改造され(もう必要ないということですね)
蓄電池も容量の大きい改良型サルゴ・バッテリーに交換されます。



レーダーアンテナの配置もミグレインIとIIでは異なり、
SR-2航空捜索レーダー・アンテナは後部喫煙デッキの台座に置かれ、
水上捜索レーダー甲板上、航空管制センターの上に置かれました。

戦闘機コントローラビーコン(YE-3)も甲板エンジンルームの後に移動です。



これらの改造に伴い、「レクィン」は1948年、
レーダーピケットを意味する新しい呼称、SSRを受けたのでした。

■ クルーズ・ベーシング(乗組員寝室)


SSRとしての「レクィン」については後で触れるとして、
今日は艦内ツァー、前回のクルーズメスの続きを見ていきます。


この番号の3番、Berthingです。
ここには36台のバンク(乗組員寝台)があります。


寝台の間にミルクなどの缶詰が積まれていますが、
もちろんこんなふうに缶詰を貯蔵していたわけではありません。
おそらくここにはもともと四人分のバンクがあったはずです。



バンクのマットレスの下は持ち物の収納場所になっています。



近くに立ち寄ることは物理的にも時間的にも不可能でした。
セーラー服とポール・Lの名前入りアルバム?
左の『RAT』はなんだかわかりません。意味はわかりますが。

あだ名かな?

右側の本の題名は「ホーム・イズ・ザ・セイラー」
上半身裸の水兵さんがセクシーなお姉さんを抱き寄せている扉絵です。



冬用セーラー服、写真にグリーティングカード、
タスクグループ・アルファのペナント。



冒頭のこの写真は1959年USS「フォージ」を旗艦とするTGアルファです。
「アルファ」の潜水艦は2隻、そのうち1隻が「レクィン」でした。



野球のグローブが見えます。
グローブの隣は水兵さんが荷物を一切合切入れて運ぶ布袋で、
「シーマンだれそれ」と名前を書くようになっています。



いきなり現れる壁とドア。


建造時の「レクィン」にはなかったのですが、終戦後、彼女が
訓練潜水艦となった1958年に増設されたそうです。

壁ができる前はここは広々と(当社比)した空間で、寝台がありました。

現在はカーネギーサイエンスセンターの職員オフィスとなっています。



バンクの隣は洗面所です。
洗面ボウルは4台、左はシャワー室。
中は見えませんでしたが、二つしかなかったのではないでしょうか。



洗面台の奥に詰め込まれているのはジャガイモの袋。
天井にはレバーで操作する機構があります。



トイレは・・・ひとつだけ。
これは厳しい。色々と。

ちなみに、艦内図を見ていただくとお分かりのように、
乗組員居住区の下は、後部バッテリーとなっています。
ここには総計126個の鉛蓄電池が設置されていました。

前部バッテリーは士官居住区、後部は乗組員居住区の下というわけです。



右が洗面所、その先が次の区画です。

■ 前後部エンジンルーム



次のコンパートメントはエンジンルームです。
まずは前部エンジンルームから。



ここにあるのは「エンジン1」。



フェアバンクス=モースの38D 8 1/8ディーゼルエンジン
4基搭載されています。



前後二つのエンジンルームハウスは、4基の1,600馬力ディーゼルエンジンと
4 台の1,100キロワット発電機があります。


こちらは前部エンジンルームの2基目、「エンジン2」です。
エンジンは発電機を作動させ、艦に電力を供給する直流電力を生成します。


そこで次のコンパートメント、後部エンジンルームです。
前の人からこんなにも遠く離れてしまいました。


続く。



潜水艦「レクィン」〜”パンプキンパイコースに針路を取れ”

2024-02-26 | 軍艦

カーネギーサイエンスセンターで展示公開されている、
第二次世界大戦終戦直前に就役した潜水艦「レクィン」内部ツァーです。


前回はこの艦内区画の9番にあるコントロールルームと、
その出口にあるレイディオ・シャック(通信室)を見ました。



ここで次のコンパートメントに移動します。
今日は2番であるメスデッキ、乗員食堂をご案内します。

この楕円形のコンパートメント間のハッチですが、
もちろん水密ドアが設置され、いざとなるとそれは閉じられました。



左に見えているのがコンパートメントドアです。
次の区画に入るとすぐに右手(左舷側)にゴミ捨て用のハッチがあります。

これは直接外と繋がっているため、開閉には細心の注意が必要でした。
ハッチの蓋には、

「開ける前に必ず説明書を読むこと」

と書いてあります。



ここは乗組員全員の胃袋を満たすための調理を行うギャレーです。
ここにくるととたんに展示にやる気というか、工夫が見られます。



ミートミンスミキサー(肉をミンチにする機械)と、手前には
アメリカのキッチンでは欠かせないブレンダーがあります。

ブレンダーはキッチンエイド製品だとターゲットなどで2〜30ドルで買えます。
単純な機構なので、値段もトースター並みに安いのかと。

棚の上にはハインツの「スィートレリッシュ」の缶詰が見えます。

レリッシュというのは薬味というか、日本だと漬物的位置の添え物で、
みじん切りにしたきゅうりのピクルスのことを指し、
アメリカ人はこれをホットドッグなどに付けて食します。

ピッツバーグはハインツの発祥の地であり、現在も
最初のハインツの工場が残っていますが(現在はアパートになっている)
ここでハインツ製品が強調されている理由はそれだけでなく、
ここピッツバーグに「レクィン」を運んでこられたのも、
ハインツ創業者ヘンリー・ハインツの孫である上院議員、

ジョン・ハインツ3世 Henry John Heinz III 1938-1991

の尽力があったからです。


コーンスターチはとろみをつけたりお菓子の材料にしたりします。
その向こうの「ポッパーズ・チョイス」というのを調べると、

コーン油(弾力性と低飽和度)とココナッツ油(味とサクサク感)
を独自にブレンドした非分離、非水素添加のポッピングオイル
ココナッツ・オイル(味とサクサク感)が独自にブレンドされている

ポッパーズ・チョイスは、コレステロールを含まず、
ココナッツ・オイルよりも飽和脂肪酸が55%低い

原材料 大豆油、ココナッツオイル、ベータカロチン(着色料)、
ナチュラル&ノンオイル

ということらしいのですが、これを調理に使っていたんでしょうか。



それにしても手前のチョコレートメレンゲパイ美味しそう・・・。
左の茶色い袋は海軍でローストしたオリジナルコーヒー入り。

「ネイビークロージング」がコーヒー?と不思議ですが、
ブルックリンには昔からブルックリンネイビーヤードというのがあり、
現在もここでは海軍公式グッズを販売しています。

Brooklyn Navy Yard

床に転がっている白い袋はブラウンシュガー入り。
海軍でも健康志向で精白砂糖は避ける傾向にあるのでしょうか。



日本の鉄板焼きレストランなら、この一切れが四人分になって出てきそう。
手前の「モートンソルト」ですが、現在でもアメリカで食用を始め、

工業、農業用から道路用の塩を販売しているシカゴ本社の会社です。



アメリカで最もよく知られた10代広告のうちの一つ、
モートン・ソルトのロゴ「モートンガール」。

ところで、このステーキを焼いている鉄板なのですが、



これは本稿を作成しているとき住んでいたAirbnbのキッチンコンロで、

真ん中の鉄板部分を

プランチャPlancha

というらしいです。


真ん中の部分を火を下ろした鍋類を置くためのものだと思っていましたが、
MKに言われてこの下にバーナーがあるのを知りました。


一般家庭にも時々あるこのシステム、一度にたくさんステーキを焼く
潜水艦のギャレーなら常備しておくべきかもしれません。



床のグレーチングごしに階下の様子が見えます。



ここはコールド・ストレージ / パントリー、冷蔵庫と食品庫です。
ここには哨戒中に必要な食料品が4.5トンの量貯蔵されていました。



■「針路を”デザートコース”に取れ」

パイが登場したところで、余談です。

「 荒れた海を通過することは、
レーダーピケット潜水艦の操舵を容易にするだけでなく、
潜水艦のパン焼き係の寿命が延びる

何その風が吹けば桶屋が儲かる的な?逸話。
この話は艦内の掲示板に書かれていました。

この好例は我が「レクィン」で起こりました。

ある晩「マンブレース作戦」に参加中のピケット潜水艦「レクィン」、
嵐の中、大西洋で海上を任務哨戒していたときのことです。

パン焼きのチャールズ・ベドウェルは、そのとき潜水艦の小さな調理室で
パンプキンパイを焼こうとしていたのですが、
パイをオーブンに入れるのと同じ速さで潜水艦が荒れた海の中を転がるので、
中身が詰まったパイの中身は全て床にぶちまけられてしまいました。

彼がパイ焼きを諦めかけたとき、艦長がコーヒーを飲みにやって来ました。
そしてパン焼き係の窮状を見て、ブリッジの当直士官に、
ただちに潜水艦の針路を変更するよう指示を出したのでした。

って作戦はもうええんかい。

変更されたあとの針路は「パンプキンパイコース」

または「デザートコース」と呼ばれることになり、
ベドウェルはもちろん、乗組員全員が幸せになりましたとさ。

どっとはらい。


■ クルーズ・メス



クルーズメスのテーブルはこの4つだけです。
一度に座って食事ができるのは24名、ということですから、
一つの椅子に男三人が腰掛けるということですか。

まあ、潜水艦勤務の男たちは基本スマートなので座れるでしょうけど。

テーブルにはバックギャモンなどゲームの面がプリントされていて、
彼らはここで食事、休憩、映画鑑賞の時間を過ごしました。


メスとギャレーの間にはここにも受け渡し窓があります。
棚の上にはスポンサーのハインツ缶詰がずらり。
アップルソース、トマトケチャップ、アプリコット、ビーツの缶が
まるで商品見本のように並んでいます。


カウンターにはトースターと並んで映写機がセッティングされています。
今日はムービーナイトですか。


ところでまじまじと見ても何かわからなかったのがカウンター横のこれ。
アルファベットと数字の組み合わせでウィンドウの中の何かを選ぶようです。
もしかしたらジュークボックス的な?



その下にはかつての「レクィン」で乗組員が休憩時間を過ごしている写真が。


こちらの二人はトランプ、向こうの二人はゲーム盤で対戦しています。
右側に積み上げられたパンとコーヒー豆がリアル。



壁には自衛隊でも見られる艦マークの盾、
ブルティン(コルクですが)ボードには今は写真しか貼ってありません。



通信が来た時のためのヘッドフォン、そして据え付けられた時計は
通常のものとちがい、24時間時計となっています。
窓のない潜水艦は昼と夜を太陽で確認することができないので、
灯りの色でそれを表しますが、さらにこれがあるとわかりやすいですね。



盾は基本的に交換することによってコレクションされます。

上左から:
SS257/ SS568「ハーダー」
SS481「レクィン」
SS555「ドルフィン」

下左から;
SSBN64「ベンジャミン・フランクリン」
SSN615「ガトー」
SS34「クラマゴア」(Clamagore)

このほかにも、カウンターの横には

SSN720「ピッツバーグ」
SS41「バップ・ドス・デ・マヨ」(BAP Dos de Mayo)

の盾があります。
バップ「ドス・デ・マヨ」は聞いたことがありませんでしたが、
ペルー海軍がエレクトリック・ボート社に発注した潜水艦です。

ドス・デ・マヨという名前は、スペイン・南米戦争中の1866年に
カヤオで戦われた同名の戦いの勝利に敬意を表して命名されました。



ボードに貼られた写真も見ていきましょう。

「レクィン」甲板での乗員記念写真は、士官以外全員が砲の上。
下の写真は艦長の離任式でしょうか。
絵葉書にはフロリダのどこかの港が描かれています。


右:サインがあるのでおそらく女優のプロマイド
左:甲板での一シーン。カラーなので1960年以降でしょうか。


右はこれも女優かな。
左はファミリーデイか何かで、かーちゃんと嫁(妹かも)
が潜水艦見学をしにきた時の記念写真でしょう。

こういうときに、潜水艦乗員は彼女らのことを

スナッチ・イン・ザ・ハウス(Snatch in the house)
=潜水艦に乗船している女性


と呼ぶということは先日スラング集で書きましたが、当時の女性は
こんなときにもスカートを履いていたので、ハッチから降りてくる時、
ハッチ下に「走り出す」輩が「レクィン」にいなかったことを願うばかりです。





甲板にやってきたお客様。



溺者救助の方法は誰にでもわかるところに常備です。


続く。



高度25000フィートの戦い〜B-17酸素供給システム 国立アメリカ空軍博物館

2024-02-23 | 航空機

「メンフィス・ベル」の搭乗員を紹介し終わったところから、
博物館の展示はB-17爆撃機についての説明が始まります。



冒頭のB-17ガンナー(おそらく胴部砲撃手)の上にあったこのパネル、
華氏マイナス50度は-45°C、高度25,000フィートは7620mです。

一応自分で単純計算したら、高度が7500mで気圧は400hPa超え、
気温は-20℃となるはずですが、どこかで計算間違ってますかねわたし。

ヨーロッパにおける米陸軍航空隊の重爆撃機は、
対空砲火に対する脆弱性を軽減するため、
通常2万フィートから3万フィートで飛行していた。
しかし、与圧されていない機体で高高度を何時間も飛行することは、
乗組員にとって別の危険をもたらすことになった。

冒頭の写真の胴部砲塔のガンナーは、クルーの中でも最も過酷な状態で
その高度と温度の外気にさらされていたことになります。



最低気温は華氏零下50度(摂氏マイナス45度)。
高高度では、厳しい寒さによる凍傷が常に危険であった。
B-17の暖房システムはコックピットこそ暖かく保ったが、

他の乗組員配置では、全く効果がなかった。
B-24の暖房システムも同様だった。


というわけで、このコーナーは搭乗員の防寒装備各種です。
三体のスーツが紹介されていますが、


初期の爆撃機搭乗員用



アメリカ陸軍の爆撃機乗り、というと思い浮かぶのがこのスタイル。
分厚い羊の皮(ムートン)でできています。


ブーツの中も毛皮付き

メンフィス・ベル搭乗員、ターレットガンナー、セシル・スコット着用


中:「ブルーバニー」電熱スーツ

電気式温暖装置搭載のスーツや手袋もありました。
内部に電気コードを通して温めるパッドが仕込んであります。


袖にもソケット差し込み口が

この初期タイプ「F-1スーツ」の愛称は「ブルーバニー」。
深い意味はなく、青いから、誰ともなくそう呼ばれるようになりました。

「青いうさぎ」って・・なんかそんな感じの歌が昔あったな。

現代でこそダウンに温め装置がついている服が誰でも安く買えますが、
この頃は何しろ原始的な仕組み(単一回路)だったので、
電線が使用中に断線するのはしょっちゅうだったということです。

熱が切れるだけならまだしも、その際着用者に衝撃を与え、
しばしば発火することもあったため、乗組員はこれを嫌がって、
わざわざ装置を外して着用するにようになりました。

横腹部分に昔々のこたつについてたみたいな布巻きのコードが見えますが、
この先が何につながっているかというと・・・、

エレクトリックスーツ用手袋とコントロールボックス

上の小さな機械が各ステーションに置いてあり、これにつながっていました。

これってさ・・・ボックスが固定されていてもいなくても、
体からワイヤが直接どこかにつながっていたらそりゃ切れますがな。


エレクトリック・ブーツ

しかも、ブーツにも右左一本ずつワイヤが仕込んであるという・・・。
こんなの小さなボックスに繋いでたら歩けないよね多分。

機内持ち込みなので、小さく軽いものを、と思ったんでしょうが、
さすがのアメリカの技術でも当時は意余って力足りずだったわけだ。

そういえば、メンフィス・ベルの上部砲手が窓の外に手を出して、
砲身に被せてあったカバーを外したわずか2分間で凍傷にかかり、
あやうく右手切断になりそうになったという話がありましたが、
彼はヒート式といかずとも、普通の手袋すらしてなかったんですかね。

左:対戦後期の爆撃機搭乗員用フライトスーツ

しかし、そんな不具合のあるものをいつまでも陸軍が放置するわけもなく、
爆撃機乗組員の服装は戦時中に劇的に改善されることになりました。
より軽量でアルパカの裏地が付いたもの、
改良された電気ヒーター付きの下着により、
より快適でより機動性の高いものへと進化を遂げていきます。


大戦後期のB-17搭乗員

後期には機内の暖房システムも向上します。
B-17の左舷内エンジンから発生する熱を
機体中央と前方の乗員ステーションに送ることでスーツも薄くなりました。

この頃は、スーツにではなく、内部に電熱式下着を着るまでになりました。

■ 酸素(オキシジェン)



高度25,000フィートでは、人は補助酸素を用いなければ、
3~5分で気を失い、その後すぐに死亡に至ります。

実際にも、ホースの詰まりや酸素マスクの凍結などの不具合で
何人かの飛行士が死亡しています。


オキシジェンマスクとレギュレータ



展示されている酸素マスクは1944年に使用された典型的なタイプで、
当時はマイクも内蔵されていました。

一緒に展示されているのはオキシジェン・レギュレーターで、
各乗員ステーションに設置されており、
マスクを航空機の酸素システムに接続するためのものです。


ウォークアラウンド・ボトル(Walkaround bottle)


ウォークアラウンド=歩き回るという意味そのままで、
乗組員は酸素マスクをこの「ウォークアラウンドボトル」に差し込んで、
酸素を必要な時にはこれを携帯して移動していました。

基本いざというときのためのものなので、
ボトルに入っている酸素はわずか12分間分だけです。


ポータブルシリンダー、通称「ウォークアラウンド」

ポータブル・ユニットは、1回の充電で
6~12分の酸素供給が可能な小型シリンダーで構成されています。
デマンドレギュレーターが装備され、サスペンションクランプ、
リチャージバルブ、圧力ゲージ、
マスクホースのカップリングが取り付けられています。

左には「再装填口に油を近づけないこと」とあります。

装着方法

遅れるな
圧力計の指針が赤い部分に達したら、シリンダーを再充填せよ
このシリンダーを再充填するには、エアプレーンにある供給ホースの

フィラーバルブに再充填口を接続する


ポータブルユニットを使用するには
第1に、ポータブル・ユニットの圧力計をチェックする;
第2に、息を深く吸い込んだ後、
レギュレータホースからマスクを外し、

素早くレギュレータ接続のネジカバーを外し、
マスクホースの端の雄金具をはめ込み、
携帯用クランプユニットを衣服に固定する

5分ごとに、波形のチューブを絞って息を吸い込み、
マスクに漏れがないかを確認すること

ベイルアウトボトル(Bailout Bottle)
ベイルアウトの際使用するもので、
パラシュートのハーネスに取り付けるか、足に括り付ける
安全な高度まで達するまで十分な酸素を供給する

 ■ 航空機用酸素タンク



航空機用酸素タンク

重爆撃機には、機体システムに酸素を供給するため、

複数の酸素タンクが搭載されていました。



ボンベの配置図です。

ちょっと見えにくいですが、黄色が酸素ボンベ、
緑色がウォークアラウンドボンベです。

各配置に置かれているわけですが、上の図を見ると、
コクピット両側に5個ずつ、中央にまとめて置かれたボンベは
後方の砲手たちに供給できるようになっています。

供給口は各ポジションにひとつずつあるほか、
通信室に予備が2口、ボムベイ近くに1口置かれています。

一つの酸素ボンベは一人が使用して4時間分ですが、
ボール・ターレットの酸素タンクだけは小さく、2時間分しかありません。

タンクはボールの床上(つまりボールの外)に設置されているのですが、
なぜ狭くもないのに半分の大きさなのかわかりません。

高高度を飛行する爆撃機には必須の酸素ボンベですが、
破損した場合、放出される加圧酸素は深刻な火災を引き起こしました。

メンフィス・ベルの実際のミッションでもこんなことがありました。

テール・ガンナーがボンベ被弾による火災発生を知らせました。
機内に走る極度の緊張。
しかししばらくしてインターコムが「消えた」と伝えてきました。
モーガン機長は、その時の気持ちを、

「その報告はどんな音楽よりも美しく聞こえた」

と後に語っています。


続く。




映画「フライングフォートレスの物語」〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2024-02-20 | 映画
The Memphis Belle: A Story of a Flying Fortress

メンフィス・ベルのシリーズを始めてから何度も触れたように、
この爆撃機は「官製の英雄」として、有名になりました。

有名になる前からそのように仕立てようというプロジェクトありきで、
とにかく25回の任務を最初に終えそうな爆撃機に目星をつけ、
その直前から、任務達成に向けた記録作りが始まっていました。

その手段として選ばれたのが、ドキュメンタリー映画の制作です。
映画の制作にあたっては、陸軍所属だった映画監督、
ウィリアム・ワイラーがヨーロッパに派遣されました。

■ ウィリアム・ワイラー中佐


Lt. Col William Wyler軍服

アメリカという国がいかに映画を情報伝達と、
プロパガンダに有用なものと認めていたかは、
この映画監督を映像での宣伝を指揮する「司令官」として
中佐の階級まで与えていたことからもわかります。


イギリスの陸軍航空隊基地にて

ワイラーは1943年末に中佐に昇進した。

1943年末に中佐に昇進したワイラーは、この軍服を着て
イタリアで次のドキュメンタリー映画、 "サンダーボルト!" 制作をした。

このカラー映画は、戦争末期の戦闘爆撃機作戦を描いたものである。

1945年に戦争が終わると、ワイラー中佐は軍役を退いた。

その後もハリウッド映画の監督として、
『わが生涯の最良の年』

『ローマの休日』
『ベン・ハー』
などを監督し、12部門にノミネートされ、
3度のアカデミー監督賞を受賞するなど、数々の栄誉に輝いた。

陸軍の協力を行ったのは第二次世界大戦のときでしたし、
むしろ、その後に輩出した作品群が凄過ぎて、
陸軍中佐としての経歴を知らない人の方が多いかもしれません。

「嵐が丘」「黄昏」「大いなる西部」
「ファニー・ガール」「おしゃれ泥棒」

これらの有名作品もワイラー監督作品です。


ちなみにワイラーはドキュメンタリー「サンダーボルト」撮影時に
風圧と爆音で聴覚神経を傷めてしまい、右耳の聴力を失っています。

Thunderbolt (1947 film)

1947年にワイラーとジョン・スタージェスが監督した「サンダーボルト」は
第二次世界大戦中、コルシカ島を拠点とした第12空軍の飛行隊による
「ストラングル作戦」を描いたものです。

アンツィオのビーチヘッドへの枢軸国軍の補給線を妨害するという作戦で、
最初にプロローグを読み上げるのはジェームズ・ステュワート

ちなみにジェームズ・ステュワートは志願入隊して
ヨーロッパ戦線に爆撃機パイロット&指揮官として参加しており、
最終的には准将にまで昇進したガチの高位軍人ですが、
俳優として宣伝映画にも出演しており、この作品もその一つです。

ナレーションでは陸軍航空隊司令官のカール・スパッズ将軍の言葉、
「1944年は古代の歴史になってしまった」を引用しています。

この時の撮影では、リパブリックP-47サンダーボルト
パイロットの背後、主翼の下、ランディングギアのホイールウェル、
計器パネル、銃が発射されたときに同期して撮影する銃の中に、
ワイラー監督はカメラを搭載して撮影
しています。

爆撃機と違い、戦闘機に同乗するわけにいきませんからね。

映画の30分すぎから、隊員たちの余暇の様子が描かれますが、
子犬にミルクを与えたり、犬をボートに乗せたり、
カラスをペットにしている人なんかが出てきます。


撮影のためB-17に乗り込むワイラーとクルー。

右:ウィリアム・クローシエ(Clothier)カメラマン
窓の中:ウィリアム・スカール(Skall)カメラマン
左:キャヴォ・チン(Cavo Chin)イギリス戦時特派員

ワイラーとカメラマン二人の名前が全員ウィリアム。

ワイラー、名前でスタッフを選んだのか?

ところでお断りしておきますが、この人たちの全員、
軍事教練など軍組織での訓練を受けたことは一度もありません。

ワイラーが陸軍に関わるようになったきっかけは、彼が戦前に
「ミニヴァー夫人」というプロパガンダ映画を監督してからのことです。

映画の内容は、アメリカの「不干渉主義」への批判であり、
積極的な戦争への参加を推進するものだったので物議を醸しましたが、
この映画はイギリス国民の共感を強く得ることになります。

そんなことから、ワイラーは自ら志願して航空隊に報道枠で参加し、
何の軍事的下地もないまま、少佐の肩書きで映画を撮ることになります。

陸軍がワイラーに少佐の階級を与えたのは、年齢もあったでしょうが、
(当時40歳)実際戦地で危険を犯して映画の撮影をしたことに対する
「功労賞」の意味合いが大きかったと思われます。

「毎日全体の80%の搭乗員が失われていた」


と言われる当時の戦況で、実際にB-17に乗り込んで、
爆撃任務の全行程を撮影するには、死の覚悟が必要でした。

実際にワイラーは、一度爆撃機の中で酸素不足により失神していますし、
彼のチームとして撮影に当たっていた撮影監督の、


ハロルド・J・タンネンバウム中尉

は、「メンフィス・ベル」の撮影中、1944年4月16日、
乗っていたB-17が撃墜されて戦死しています。

このとき、爆撃機クルーの数人はパラシュートで脱出し、
タンネンバウム中尉もベイルアウトしたのですが、不慣れだったため、
パラシュートが外れたのではないかと言われています。

彼はもともとRKOの音響マンでしたが、ワイラーに誘われて
監督としてヨーロッパに一緒に乗り込んできていました。

年齢は47歳とワイラーより上でしたが、
監督になれるチャンスと考えて、ワイラーの誘いに乗り、
危険な職場と知りつつ、転職してきたのだと思われます。



■ 映画「メンフィス・ベル
:フライングフォートレスの物語」


さて、それでは映画「メンフィス・ベル」についてです。

冒頭の映画は、ワイラー監督がドキュメンタリーに徹し、
故郷の家族談とかいらんサイドストーリーを一切省いたシンプルな作りで、
劇場映画でありながら40分という短い尺に収まっています。

~1:05 オープニングタイトル


~4:05 出撃前に整備&武器搭載が行われるB-17
爆薬の上にまたがってハモニカ吹きつつ一緒に移動する整備員たち

~5:28スタンリー・レイ司令によるブリーフィング
本日の爆撃目標はドイツのエムデン


最後にチャプレン(従軍牧師)によるお祈りあり


ジープでクルー到着、乗り込み


乗り込み前に機長からの短い指示あり
士官は全員最後になるかもしれない喫煙をしながら


ボールターレットに乗り込むクィンラン
(まさかとは思っていたけど、離陸時から乗り込んでいる)

7:06 離陸
ボールターレットの中に仕込んだカメラからの映像あり

11:20~クルー紹介
経歴と出身地は必ず

爆撃目標はエムデンのウィルエルムズシャーベン。

ウィルヘルムズシャーベンは戦争中、連合軍の爆撃により
町の建物の3分の2が破壊されましたが、
主要な標的であった海軍造船所は深刻な被害を受けながら操業していました。

 19:53〜ドイツからの迎撃開始、対空砲

21:29〜目的地上空 敵戦闘機と交戦
爆弾投下、帰投

24:20〜敵戦闘機と抗戦

25:30〜僚機が被弾、撃墜されて落ちていく

「カモン、お前ら脱出しろ!」
「テイルガンナーが脱出したようだ。戦闘機に気をつけろよ」

「クィンラン(ボール砲手)どうなったか見ておけ」
「9時方向でパラシュート二つ確認」

と意外と冷静な感じで淡々と言っています。
僚機は機内には8名が取り残された状態で墜落し、まさに
「10人のうち8人が帰らなかった」という統計通りになりました。

26:21ごろ、戦闘機がパラシュートを引っかけたらしく、

「あいつが捕まりました、チーフ(機長)!ベイルアウトしたのに!」

「インターコムで叫ぶな」(冷静)


というやりとりもあります。

27:07〜傷ついて弱ったB-17に群がってくる敵戦闘機

みすみす仲間がやられていくのを見ているしかありません。
フォーメーションを崩すわけにはいかないからです。


27:28〜帰投してくる機を待つ基地の人々

搭乗員たちはゲームをしながら

負傷者がいる機は優先的に着陸できるきまりです。

29:25〜負傷者ファースト

対空砲の破片が身体にめり込んだ人など。


「彼らはパープルハート徽章を授与されるだろう。この男も」

しかし、遺体が帰ってこられただけ良かったとも言えます。
男が受けている輸血について・・・

「彼が体内に入れている血は、デモインの女性高校生のかもしれないし、
ハリウッドの女優のかもしれない。
いずれにしても彼に感謝している人たちのものだ」

30:35〜次々と着陸してくる機体

全くの無傷は1機だけ。
29機目はパイロットが怪我をしているので着陸が粗い、と。


テイルガンナーは死亡したとのこと


爆撃手を失った機(下部の赤はおそらく血の色)

中には、ノーズのエポキシグラスごと破壊され、
ナビゲーターが機外に失われた機もあったようです。

この日出撃したのは36機、帰投したのは32機でした。
メンフィス・ベルは3機で一番最後に帰投してきます。

35:27〜メンフィス・ベル タッチダウン
25回目のミッションを完了


手を振るモーガン機長とハロルド・ロッホ上部砲手


タキシングの時にすでに上にまたがっている人


ノーズから手を振る爆撃士エバンスとナビゲーター


胴部ガンナー二人


地上に降りるなり地面にキスするクルー



映画ではこれを尾部砲手の役をしたハリー・コニックJr.が再現しています。

クルーに持ち上げられて「ベル」のヒップにタッチするモーガン

37:01〜イギリス国王夫妻謁見



エンディングでは、ミッションの後の穴だらけの地面に
the endのタイトルが重なります。
どれだけ落としてるんだよ。


映画の広告はかず多く作られましたが、
このバージョンは犬のスコッティも含め、まるで全員俳優のようです。


おまけ:このシーンは不採用


続く。


潜水艦「レクィン」〜コードネームは”ロケットウルフ”

2024-02-18 | 軍艦

ピッツバーグのカーネギーサイエンスセンターに展示されている
潜水艦「レクィン」の艦内ツァーシリーズ続きです。
前回、士官区画までをご紹介してきました。



「シルバーサイズ」のときも言及しましたが、「レクィン」のバッテリーも
この士官居住区画、オフィサーカントリーの床下に設置されています。
士官居住区は12番、バッテリー室は10番。
バッテリー室には126個の鉛蓄電池が保管されていました。



さて、オフィサーズ・カントリーから次のコンパートメントに移ります。
区画間のハッチは、Uボートもそうだったように分厚い円筒形の者が多く、
通過するには身を屈めてくぐっていくわけですが、「レクィン」は
ご覧のように縦長の楕円で一般見学客にも「優しい」作りとなっています。

■ コントロールルーム


このコンパートメントは潜望鏡が通るセイルの下部分です。


この図の9番に当たります。
コントロールルームを一言で言うと、

「メイン・ジャイロコンパスとその周りに
潜水と浮上コントロール装置がある場所」

ということになろうかと思います。

■ ハル・オープニングとベント・フラッド警告灯


先ほどの部分とその天井部分です。



SALT WATER DEPTH TO KEEL
SP. GR. OF SEA WATER
1.025

とあります。
まず、Depth to Keel(キール深度)とは、
水面から船舶のキール(最も深い部分)までの水深(または喫水)のこと。
キールは、一般的に定義された測定基準点です。

しかし、潜水艦であるこの艦の場合、その数字が意味を持つのは
海上航走している時だけと言うことになるのですが・・・。

それからSP.GRというのは、Specific Gravityを意味すると推察します。
物体の比重を水の密度で割ったもので、水の密度は1mあたり1,000kg。

というわけで、海水の比重は1.025ということが表記されています。



上の段のランプは、外に向かって開かれるハッチやドアが
潜航の際水密されているかを確認するためのランプで、

HULL OPENINGS

と言う文字が刻まれています。
この確認ランプは現在も生きていて、ブリッジのハッチ、
メインハッチがオープンであとはクローズされていると表示されています。

下の

VENTS(ベント)

は当たり前ですが全てシャットされています。
今更言うまでもないですが、潜水艦は潜航する際ベント弁を開きます。
ベントはメインタンク内部空気排出を行い、
メインタンク下部の海水注入用の穴(フラッドホール)から海水が入り、
船体浮力が低下して艦が沈下を開始するので、今開いていると困ります。

フラッドホールが閉じているかを示すため、右側に

FLOOD(フラッド)

のランプがあります。


その隣の壁面の機器も見ていきましょう。



下はアンプで上には
DELAY
COARSE-OUT
FINE-IN
と操作するダイヤルがある機器です。
製造番号が写っていないので判明しませんが、

ナビゲーター、有資格の修理技術者、または上記のいずれかによって
認可された者以外は、この機器を取り扱わないでください。


と緑のテプラで警告がされているので、
かなり専門的な知識が必要な操作を要するものかもしれません。

それらの乗っているシルバーのロッカーの中には、
小さな武器(小銃など)が収納されているようです。



エンジンテレグラフです。
これはメインのものではなく、艦内各所にあるものの一つで、
この区域の左舷に設置されています。


操舵のアングルをモニターする機器です。

この針が触れている方向に舵が切られているということになり、
現在の「レクィン」はほんのわずか左に舵を切っています。
35以上の数字がないのにちょっと驚きました。

モニターの上の二つの機器はそれぞれ左と右を示しますが、
0から3000までの数字の意味はわかりませんでした。



左は速度計、右はどの方向に進んでいるかを示す磁石、
下の赤いランプはそのままステアリングギアのオンを表します。


潜望鏡が貫通している中心部。
垂直のラッタルは上階のコニングタワーに行くためのものです。



写真を撮っているときは気づかなかったのですが、
ここで初めて艦内の説明版らしきものが出てきました。

ここはコントロールルームで、潜航と浮上に関する装置があり、
この上には司令塔、コニングタワーがあると書かれています。


ラッタルの向こうがステアリングです。

当たり前のことを今更と言う感じですが、水中で舵を切るには、
潜水艦の尾部舵を使って左舷(右)または右舷(左)に旋回します。

操舵手のことを英語でプレーンズマンといいます。
操舵は二人のプレーンズマンがここプレーンズステーションに常駐し、
上下左右の動きを指示するプレーンと舵を速度に合わせて調整します。


ラッタルの横の部分は天井からいろいろと
ものものしいものが迫り出しています。


丁寧に写真を撮っていたら前の人との間がずんずん開いていくのだった。


この階の下の灯りがついていました。



そうなると何があるか見たいのが人情というもの。
潜水艦の井戸がある部分ですから、何かあるはずですが・・・。



前の人を追いかけながら適当に壁を撮るとこんな写真になります。

何が撮りたかったんだって感じですね。


高圧電気の機器(アンプなど)が収納されている部分。
剥き出しになっていると危険なので、まるで金庫のような表面です。



唯一扉のあるコンパートメント、それがレイディオシャックです。
通信室はボートにとって最も重要な情報をもたらすため、
どんな潜水艦でも必ずコントロールルームの近くにあります。

このガラス戸にはここに「レクィン」のコードネームが

ROCKET WOLF(ロケットウルフ)

であることがかかれています。
ロケットウルフか・・・当時はかっこいい響きだったんだろうな。

この無線室は現在でも稼働しています。


コードネームロケットウルフで通信しているのかな。


現在でも現役で稼働中のレイディオ・シャック。
ということは、通信機器は完璧にインストールされているということです。

どんな人がここで通信を行なっているのでしょうか。

検索していたら、昔「レクィン」の通信士だった人が、
大型掲示板のようなところでこんな書き込みをしていました。

The Requin's call sign during my time aboard was ROCKET WOLF....
(We operated with Cutlass whose call sign was CABBAGE...
"Cabbage, Cabbage this is Rocket Wolf, Rocket Wolf...
How do you read me? OVER."


カットラス(戦闘機)のコールサインが「キャベツ」だったので、

「キャベツキャベツ、こちらロケットウルフロケットウルフ、
聞こえますか?オーバー」


とかやりとりをしていたという、まあそれだけの話ですが。



さすがに現役の無線室なので、機器は海軍工廠製ではなく、
普通に民間のトランスミッターなどが装備されています。



NY3ECという番号がわかっていたら通信できる、ってことですか?
アマチュア無線をされる方がおられたらぜひ(って何話すんだ)

https://www.facebook.com/radiocronache/posts/the-ny3ec-station-on-the-uss-requin-ss481-submarine-1945-1968-in-csc-pittsburgh-/1429822994020800/

どうもこの人↑はアマチュア無線愛好家らしい

また、別の書き込みによると、

「NAQCCは水曜日にRequinをアクティベートします。
7.041、10.117、14.061 +/- qrmで彼らを探して下さい。
午前10時頃開始予定。」

ということでした。


続く。






USS「レクィン」〜初代艦長カッター中佐とオリンピック作戦

2024-02-16 | 軍艦

カーネギーサイエンスセンターで公開されている潜水艦、
USS「レクィン」の内部に潜入しております。

前回まで入艦したところにあった前部魚雷発射室と、
それから士官食堂などをご紹介してきたわけですが、
ここであらためて「レクィン」という艦名について説明をします。



USS「Requin」(SS/SSR/AGSS/IXSS-481)

■ Requinの発音

実はこのrequinはどう発音するのが正確なのか当初悩んだのですが、
ˈreɪkwɪn
とわざわざwikiに記してありました。
できるだけ正確なのは ɪ を「フェイス」のように発音するため
「レィクィン」となり、日本語の「レクィン」とちょっと違います。

それにしても、この響き、英語っぽくないというか、もしかして?
と思ったら、やはりフランス語の「サメ」を表す単語でした。

これはアメリカ海軍の艦船名で唯一フランス語が採用された例だそうです。

なぜアメリカ海軍がフランス語の「サメ」を使ったのか?
その理由はちょっと検索したくらいではでてきませんでしたが、
フランスには1794年から同名の軍艦が何隻か存在します。

最新のものは「Narval」級潜水艦の4番艦である、
S634「Requin」で、1958年から1985年まで現役でした。
ちなみにこの「ナヴァル」はイッカクで、S633「Dauphin」イルカ、
S637「Espadon」メカジキなど、同級は海洋生物の名前が命名基準です。

しかし、フランス語だとRが喉の奥から出す特殊な音なので
「requin」の発音は「ホキン」「ホイキン」に聞こえます。

日本語のウィキだと「レクィン」になっているので、
今後も当ブログではこれでいくことにします。

■ 建造と初代艦長カッター中佐

「レクィン」のキールは1944年8月24日、
メイン州キッタリーのポーツマス海軍工廠で打ち下ろされました。

進水は1945年1月1日スレード・D・カッター夫人のスポンサーにより行われ、
1945年4月28日にスレード・D・カッター中佐の指揮のもと就役。

これとても珍しいパターンですね。

スポンサーというのはつまり進水式の時にシャンパンの瓶を割る女性で、
大抵が地元政治家の妻とか、関係した財界の大物の妻が務めるのですが、
同姓同名の別人でなければ、艤装艦長夫人がスポンサーになったのです。

発注が1943年6月、起工(キールレイド)がわずかその2ヶ月後で、
進水式は起工後わずか4ヶ月後という「戦時生産モード」だったので、
こう言っては何ですが、適当な人材が見つからなかったのかもしれません。

もっとも「レクィン」の艤装・初代艦長に任命されたカッター中佐は、
ただの?艦長ではなく、おそらく最も勲章を受けた、
潜水艦指揮官の一人であったことから夫人が選ばれた可能性もあります。


スレイド・デヴィル・カッター(アナポリス時代)1911-2005
デヴィルはdevilではなくDevilleなので念のため

は、4つの海軍十字章を授与されたアメリカ海軍将校です。
第二次世界大戦における日本軍艦船撃沈数では第2位タイでした。

海軍兵学校ではアメリカンフットボールのオールアメリカン選手で、
かつ大学ボクシングのチャンピオンだったということです。


因縁のネイビーアーミーゲームでゴールを決めた瞬間のカッター

■最初の哨戒で味方からの攻撃を受ける

卒業後潜水艦士官としてのキャリアを始めたカッターは、
1941年12月18日、USS「ポンパノ」(SS-181)の副長として
最初の戦時哨戒に出るため真珠湾を出港しました。

この11日前、真珠湾攻撃があり、日米は開戦していたこともあって、
米軍の警戒体制はマックスだったわけですが、隠密行動が基本の潜水艦は
ピリついた米軍の哨戒機に敵と認識され、攻撃されただけでなく、
USS「エンタープライズ」(CV-6)から急降下爆撃機を呼び寄せられ、
「ポンパノ」は燃料タンクが破裂するまで攻撃されることに・・・。

こういう事態になったらこの頃の潜水艦はもうお手上げです。
自分が味方であることを哨戒機に伝える手立てがありませんから。
それではどうしたかというと、逃げました。

とにかく逃げ切って運良く味方に沈められることも、自軍の潜水艦を
撃沈してしまった哨戒機のパイロットが軍事法廷に立つ事態も防ぎました。

そしてそのままマーシャル諸島まで怒りに任せて爆進し、
その怒りを思いっきり敵である日本軍にぶつけました。

その結果、16,000トンの日本輸送船が4本の魚雷で攻撃され、
帝国海軍の駆逐艦が魚雷攻撃を受けましたが、何しろ「ポンパノ」は
急爆に壊されたオイルタンクから燃料が容赦なく排出されていたこともあり、
有効な戦果には結び付かなかったというのが戦後わかっています。

副長時代、「ポンパノ」は日本海域での哨戒で爆雷を受け、
一旦沈没するも何とか生還するという経験もしています。

■「シーホース」での活躍と海軍十字賞

次にカッターはUSS「シーホース」の副長に任命されますが、
艦長のマクレガーが積極性を欠く指揮だったとして
ロックウッド潜水艦司令に解任されたため、急遽艦長に昇任しました。

「シーホース」での哨戒でカッターは通算3回の海軍十字賞を受け、
潜水艦指揮官としての名声を得ることになります。

また、「シーホース」は5回目の哨戒で1944年6月13日に
戦艦「大和」と「武蔵」を中心とする日本の戦闘群を発見しています。
これは、遠くから発見したため接触はしていないが、
定期的な報告を本隊に送り続けたということのようです。

このときのレイテ沖海戦では「武蔵」「扶桑」「山城」の戦艦と
「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」の航空母艦、
「愛宕」「摩耶」「鳥海」「最上」等巡洋艦、駆逐艦、潜水艦が沈みました。

■ 艦長室と士官寝室


さて、ここでカッター中佐も居住した、オフィサーズアイランドの艦長室、
士官寝室などの写真を見ていきましょう。

ただし、何度も言うようですがカーネギーサイエンスセンターは
コンパートメントの解説板などを全く設置していないので、
必ずしも正確であるとは限りませんので一応念のため。

このハンガーにも士官のジャケットやコートがかかっていますが、
パッと見ただけでも少佐のと大尉のが混在しており、
割と適当に雰囲気で並べただけのものであることがわかります。



士官寝室なので、少佐と大尉が同居していたという可能性もありますが、
それにしても同じクローゼットに他人の服を混在させないだろうっていう。



このコンパートメントはベッドが3段。


洗面用ボウルは収納式ですが、ここでは開けて見せてくれています。


金色の物々しいプレートには「ベッドに上がらないでください」と注意書き。
かつてベッドの占有者の名前入りのプレートが貼られていた可能性も微レ存。


そしてこれが艦長室です。

初代艦長カッター中佐以降、27年間の就役期間に、
ここは18名の指揮官の住処となりました。



これは、シナボン
アメリカではモールや空港に必ず出店して、周りに独特の香りを撒き散らす
お馴染みのシナモンロールのチェーン店ですが、わたしはいまだに

日本では横須賀米軍基地の中でしか見たことがありません。



多くの指揮官がいても、「レクィン」にとっては
初代艦長カッター中佐の存在はとても大きなものらしく・・・。


ベッドの枕元に挟まれたさりげない写真も、いかにもカッター中佐の
アナポリス時代を思わせるものになっています。

■カッター中佐「レクィン」艦長に就任


就役当日の「レクィン」甲板にいる艦長(左から二人目)以下士官たち
艦長でかすぎ(さすが元アメフト選手)

「シーホース」の4回目の哨戒と休養休暇の後、
カッターは新造USS「レクィン」(SS-481)の指揮官に任命されました。
前述のように同艦のスポンサーとなったのが妻のフランでした。

どうして新造艦の艦長にカッターが選ばれたかについては後述しますが、
結論からいうと、「レクィン」が就役後、最初の哨戒に出発し、
帰ってきた(1945年7月)直後に戦争は終わってしまいました。

カッターの現役潜水艦指揮キャリアはここでストップすることになります。


◼︎オリンピック作戦とコロネット作戦

なぜ潜水艦隊はこの時期の新造艦「レクィン」の指揮官に
スレード・カッターを選んだのか。

それは、アメリカが九州侵攻作戦「オペレーション・オリンピック」
本州侵攻作戦「オペレーション・コロネット」を想定していたからでした。

当ブログでも過去この本土侵攻作戦について触れたことがありますが、
これは言い換えればアメリカが日本という国との戦争でいかに手こずり、
戦争を終わらす為に手段を選ばないところまで追い詰められたかの証左です。

たとえば硫黄島では、アメリカ軍は日本軍を倒すのに4週間かかり、
予想を遥かに上回る3万人近くの死傷者を出し、
沖縄戦は太平洋における戦争の中で最も激しい戦いの一つになりました。

そこで米軍は官民一体となった日本の抵抗と特攻隊に苦しめられ、
約12週間にわたる戦闘のあげく、5万人近い死傷者を出しました。

これに対し、日本軍の死傷者は約9万人、民間人の犠牲は
少なくとも10万人を超えるとされています。

そしてアメリカは沖縄を日本本土侵攻の「予行演習」と考えていました。



本番の第 1 フェーズ、「オリンピック」は1945年10月下旬に予定され、
作戦規模はノルマンディー上陸作戦と同等となる予定でした。


このとき見積もられていたアメリカ軍負傷者は13万2,000人、死者は4万人。

第 2フェーズ、「コロネット」作戦では、1946年春に東京近くに上陸し、
年末までに日本軍を降伏させることを構想しており、
この作戦の予測死傷者数は 9万人とされていました。

アメリカがそれほどの犠牲を覚悟してでも作戦を遂行させたかった理由は、
もちろん、何としても早く戦争を終わらせたかったからですが、
しかしながら、ワシントンが入手したいかなる証拠をもってしても、
日本が最後の一人まで戦うつもりであることを示していたので
本土上陸はほとんど「最終作戦」として起案されたのでした。

ただし、

「日本は決して降伏しない」

と考えられていた、と書きましたが、実際は、ソ連の侵攻を受けて
ご存知のように日本政府は交渉の開始を模索し始めています。

その情報を受けてアメリカは、本土上陸をせずに戦争が終わることを察知し、
かわりに?終戦に向けて(人体実験としての)原子爆弾投下に踏み切った、
というのが現在のところ通説となっていますね。





ともあれ、この作戦に潜水艦隊も、優秀な司令官の率いる潜水艦を
参加させるという流れとなり、その上で「レクィン」艦長に選ばれたのが
3回の海軍十字賞を受けたカッター中佐だったというわけです。

就役当初から「レクィン」は5インチ(127ミリ)/25口径甲板砲を1門、
24連装5インチ(127ミリ)ロケットランチャーを2基搭載しており、
これは艦隊潜水艦としては通常より重い兵装とされました。

それも、彼女が最初からオリンピック作戦とコロネット作戦で
日本本土を砲撃することを想定していたから、とされます。


■ スレイド・カッター艦長について

最後に、カッター艦長個人の指揮官としての戦績を記します。

他のトップスキッパー(艦長)との比較 /ランキング2位
哨戒回数 4回
撃沈成績 21隻/142,300トン
JANAC(戦後の日本側の喪失と照らし合わせた撃沈)
19隻 / 71,729トン

ちなみにカッターは上官にも反抗的な態度を取る人物で、
上から可愛がられるようなタイプではなかったため、
そのことが後方提督への昇進を妨げたと言う話があります。

特に物議を醸したのは、最初の原子力潜水艦、
USS「ノーチラス」(SSN-571)「厳密には実験船だ」とディスり、
ハイマン・リッコーヴァー提督を激怒させた件だったとか。

カッター・・・・無茶しやがって・・・(AA略)


戦後、カッターは潜水艦第32師団を指揮し、
その後、潜水艦第6戦隊、油井船USS「ネオショー」(AO-143)
重巡洋艦USS「ノーサンプトン」(CLC-1)を指揮。

そのあとは何と、海軍兵学校のフットボールコーチになりました。

かつて彼がフットボールとボクシングの名選手であったことと、
戦時中の英雄として有名であったことが、この任務の多くを助けました。

海軍での現役最後の任務は、ワシントンの海軍歴史展示センター長でした。

1965年に現役を引退し、最初の妻と死に別れてから
1982年、70歳にして再婚しています。

2005年アナポリスのリタイアメント・コミュニティで死去、享年93歳。
米国海軍兵学校墓地に葬られました。


続く。





別れの戦費国債ツァー〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍航空博物館

2024-02-13 | 飛行家列伝

国立アメリカ空軍航空博物館の展示より、
再びB−17メンフィス・ベルについてお話ししていますが、
一応主要クルーについての紹介を終わったところで、
正直わたし自身あまり興味がないのですが、
博物館にあった爆撃群司令官について触れておきます。




■ 爆撃隊司令官、スタンリー・レイ大佐



スタンリー・T・レイ少将
Stanley Wray

陸軍士官学校を2位で卒業したレイ少将は、少尉時代に建設に関わり、
コーネル大学で土木工学の修士をとったり、バスケと野球の指導で
体育将校としても勤務していたり、工兵学校終了後、
マサチューセッツ工科大学で軍事科学・戦術の助教授に任命されるなど、
何かと多才な軍人として、飛行訓練も受け、爆撃群の指揮官になります。

1942年、マクディルの第91爆撃群司令官に任命され、
パイロットと地上要員の組織編成を行った後、
グループの第一部隊を率いてイギリスに渡り、この間に銀星章、
オークリーフ・クラスター付き航空勲章、パープルハート、数々の表彰を受け、
B-17による有名なサン・ナゼール上空での低空飛行のリーダーとして、
英国空軍の殊勲十字章を授与されました。



1958年初めに少将に昇進。
指揮官パイロットおよび技術オブザーバーとして活躍。



■ 任務達成ウォーボンドツァー

25回任務を達成した機体は国内に呼び戻し、
メンバーに国債を売るための全国巡業をさせる、というのが
アメリカ陸軍の一石三鳥作戦でした。

まず、目標をクリアすれば生きて帰れる、という希望をクルーに与えること。
彼らをヒーローとして称賛し、航空志願者を増やすこと。
そして、彼らを客寄せにして戦費を集めること、の三つです。

いかに金持ちの国であっても、
国民からお金が集まってこないと戦争は継続できません。

そんな思惑の元に、25回ルールを設定し、
たまたまそのころリーチがかかっていたベルが対象に指定されました。

博物館の一角にある

メンフィス・ベル 25回任務達成国債ツァー

の展示には、こうあります。

USAAF (アメリカ陸軍航空隊)は、
メンフィス・ベルとその乗組員を戦略爆撃の代表として選び、
戦意高揚と士気高揚のため、全国30ヵ所以上を巡って
戦費購入を促進するための宣伝ツアーを大々的に行いました。

メンフィス・ベルとその乗組員は 新聞で賞賛され、
大勢の観衆から英雄として迎えられて国民的有名人となり、
戦争継続努力に対する国民の決意を高めました。


パターソン空軍基地(現在のライト-パターソン空軍基地)
に着陸したメンフィス・ベル
木材のゴミに乗ってちょっとでも高いところから見ようとする人たちも



ボンドツァーで最初に立ち寄ったワシントンDCでの記念写真。
1943年6月16日。

後列左から:

セシル・スコット軍曹(ボール・ターレット)
ジェームズ・ヴェリニス副機長
ロバート・パターソン陸軍次官
チャック・レイトン航法士官

ロバート・モーガン機長
ヴィンス・エヴァンス爆撃士
USAAF司令官 ヘンリー ’ハップ’ アーノルド将軍
ボブ・ハンソン(通信士)

前列左から:


トニー・ナスタル(胴部砲手)
ビル・ウィンチェル(胴部砲手)
ハロルド・ロッホ(上部砲手)
シュトゥーカ(マスコット犬)
ジョン・クィンラン(尾部砲手)


ちなみに、ナスタルはレギュラーメンバーではなく、

ベルでの任務は一回だけでしたが、25回任務は達成していたので
ボンドツァーに参加することになりました。

ベルのメンバーにはあまり馴染みのない戦友だったかもしれません。 



副機長ヴェリニス大尉の犬、シュトゥーカは11番目のメンバーでした。
写真で彼らが乗っているのはベルではなく、ヴェリニス大尉の別の機です。

ちなみによく見ると、ドイツ機撃墜マークの横にあるのは
トニー(本名はキャシミールなのでCA)ナスタルの名前。

ナスタル軍曹が25回のミッションを遂行したうちの一つ、
「バージニア」に、ヴェリニス大尉も乗っていたことがわかります。

前にも触れましたが、ボンドツァーでのシュトゥーカの人気は絶大でした。
カメラマンは皆犬を撮りたがって、後を追いかけ回していたそうです。


ハッチに「シュトゥーカ」の名前
身動きできない状態で繋がれていてちょっとかわいそう

映画「メンフィス・ベル」では、尾部砲手のところにこっそり行って、
銃を撃たせてくれと副機長(テイト・ドノバン)が頼むのですが、そのとき

「ただし犬はやらんぞ」

と先手を打ち、砲手のハリー・コニックJr.が、

「あんなノミだらけのいりませんよ」

と軽く受け流すシーンがあります。
お風呂に入れていたかどうかはわかりませんが、少なくとも
ペットショップで購入した犬なのでノミはいなかったかと。



この博物館のあるオハイオ州デイトンにも訪れました。

モーガン機長、ヴェリニス副機長、
オーヴィル・ライト
エドワード・ディーズ。


彼らがいるのはここはNCR、ナショナル・キャッシュ・レジスター社
当時は名前の通りお店にあるレジスターを製造する会社でしたが、
現在は、それから進化したATMやバーコードシステムを扱う情報会社です。

それにしても、レジの発明者はともかく、
人類初の飛行機を創造した偉人を目の前にしているというのに、
この二人の人事感、さらに全員のよそよそしさはいったいどういうことなのか。

機長と副機長腰に手を当ててるし。
どちらもよっぽど話がかみあわなかったのかな。

■ ウォーボンドツァーと共に終わったロマンス

さて、明日はバレンタインデー。

ということで、しつこいですが我らがメンフィスベルの女好き機長、
ロバート・モーガンとマーガレットの恋が
実際どのように終わったかについて、検証します。(意味不明)

The Memphis Belle, Cleveland, Ohio, & The Romance That Ended On The War Bond Tour 1943.

このビデオでは、なぜマーガレットとモーガンが結婚せず、
しかも国債ツァーの終了と同時に別れたかを説明しています。

0:00~:38 タイトル
0:38~うp主の自慢
1:30~メンフィス・ベルの名前の由来、元になった映画のこと、
ノーズアート、マーガレット・ポークのこと
3:00~戦費国債ツァーについて
4:00~クリーブランド
5:49~マスコット犬シュトゥーカについて
7:29~モーガン機長、マーガレットとの再会の瞬間


ここの部分では、お別れの理由をこのように説明しています。

「モーガンはマーガレットにウェディングドレスを贈りたがったが、
マーガレットはこんなに慌ただしい時ではなく、
もう少し落ち着いてから挙式をしたいと考えていた」




それに、彼女はモーガンに会うためにクリーブランドに向かったものの、
毎日のように目に飛び込んでくる新聞記事を気にせずにいられなかった」




「そこにはモーガンから写真やサインをもらおうと、
彼の周りにひしめき合う女性たちの写真が掲載されていた」

再会した後も、彼女は、モーガンの異様なモテっぷり、
公認の婚約者を物ともせずお構いなしに群がる女性たちに、
嫌な思いをさせることになります。

「彼女はモーガン大尉とツァーで同行していたため、
彼を探す女性たちからじゃんじゃんかかってくる電話を
ホテルの部屋で取り次ぐ羽目になった」


しかもこの男、やっぱり自分が結婚歴があることを言ってませんでした。

「ロバートが以前に少なくとも2〜3回結婚していたのを知ったのも、
この頃だった」

というか、相手のことを何も知らなかったのね。
知る暇もなかったとはいえ、そんな大事な情報を、本人からでなく、

新聞や雑誌のゴシップ記事で知る婚約者の気持ちやいかに。

彼女も大統領の血筋を引く良家の令嬢という育ちのよさゆえ、
こういう恋愛に戸惑い、疲弊して、すぐに気持ちが醒めたってことですね。



当ブログでは二人の「お別れの理由」は周りに騒がれすぎたのが原因では、

と最初予想しましたが、それはほんの一部分に過ぎなかったようです。

要するにモーガン本人がとんでもないクズ男だったことはもちろん、
よく知りもしないのに周りに騒がれて婚約までしてしまったと。

もっとも、そういう男だと知って近付く女性も一定数いますが、
賢明な彼女は、ある出来事をきっかけに、すっぱり彼に見切りをつけます。

9:10~破局の原因になった出来事

次のツァー先、デンバーにマーガレットは同行しなかったので、
彼が宿泊しているブラウンパレスホテルのスウィートルームに電話すると、
なんと電話に出たのは女でした。
(モーガン、なぜ自分で電話を取らないのか)

怒り狂ったマーガレットはその場で婚約を破棄し、
婚約指輪をボブの父親(なぜ父親)に手紙で送りつけ、
この「戦時に咲いたパイロットとノーズアートガールの恋」は、

あっけなく終わりました。

マーガレットは、すぐさま陸軍関係者に電話をして、

婚約破棄のことを伝えています。

彼らの結婚を宣伝してイベントを盛り上げたかった陸軍関係者は慌て、
彼女になんと思いとどまるように懇願しますが、時すでに遅し。

彼女の気持ちが変わらないと知った関係者は往生際悪く、

別れるならそれでいいが、せめて内密にしてもらえないかと頼みますが、
どこから漏れたのか、8月3日に新聞にすっぱ抜かれてしまい、
彼らのウェディングベルは永遠に鳴らないことが世間に知れ渡りました。




10:30~すぐさま別の女性と結婚するボブ・モーガン
B-29「ドーントレス・ドッティ」とモーガン

あー、またモーガンネタで終わってしまった。


続く。



トーキョータンクと上部砲手の関係〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍航空博物館

2024-02-10 | 飛行家列伝

オハイオにある国立空軍博物館の展示より、
B-十七爆撃機メンフィス・ベルにまつわることをご紹介するシリーズ、
メンフィス・ベルに関わった人々を紹介してきましたが、
いきなり興味深い単語を見つけたので余談に突入します。

■余談・トーキョータンク

上部砲塔砲手は技術軍曹が兼ねる、と言う話をしたことがありますが、
飛行中の燃料のマネージメントも技術軍曹が責任者となります。



これはB-17の燃料タンクの配置図となります。
翼の片側にエンジンが2基ある訳ですが、それぞれがタンクを持ちます。
(212と213のグレーとブルーのタンク)

そのタンクに充填するには翼端のトーキョータンクからフィーダータンクへ、
そしてエンジンタンクに送られるのですが、まあそういう操作をするのも
技術軍曹の責任という訳です。

この「トーキョータンク」が日本人としては気になってしまうでしょ?
というわけで、余談としてこれを説明します。

Tokyo Tanks、それは、ボーイングB-17スーパーフォートレスと、
コンソリデーテッドB-24リベレーター爆撃機が搭載していた
自己密閉式の燃料タンクの名称です。

なぜ東京なのかですが、要はB-17の航続距離(戦闘錘で約40%増)が
東京まで飛べるほど長い、ということをいいたかったのだと思われます。

実際は第二次世界大戦中、日本を爆撃できる航続距離を持つB-17は
(少なくとも米軍の基地からは)存在しなかったという点では誇張でした。



トーキョータンクは、セルと呼ばれるゴム状の化合物でできた
18個の取り外し可能な容器で構成されており、
飛行機の翼の内側に片側9個ずつ設置されていました。
(図のオレンジ5と黄色4のセル)

タンクは、2つの翼の接合部(荷重を支える部分)の両側に設置されており、
合計容量270USガロン(1,000L)の5つのセルは、翼に並んで置かれ、
エンジンに燃料を供給するメインタンクと燃料ラインでつながっています。

トーキョータンクは、すでに6つの通常翼タンクに搭載された
1,700米ガロン(6,400 L)と、爆弾倉に搭載可能な補助タンクに搭載可能な
820米ガロン(3,100 L)に加え、1,080米ガロン(4,100 L)の燃料を追加し、
合計で3,600米ガロン(14,000 L)の搭載を可能にしました。

タンクは取り外し可能でしたが、主翼パネルを取り外さなければならないので
日頃は取り外したり点検することはありませんでした。

燃料をセルからエンジンタンクに移すには、爆弾倉内の制御弁を開き、
燃料が重力で排出されるようにしますが、これが技術軍曹の仕事です。

タンクの欠点は、セル内の燃料残量を測定する手段がなかったことです。
「だいたいどれくらい残っているか」を把握するのも、
おそらくは技術軍曹のカンに頼っていたかもしれません。


さて、というわけで、皆が専門性のある配置で課せられた任務に邁進する中、
技術軍曹はその全てを把握して全体の調整ができる能力が問われます。

オールラウンドな調整役、トラブルシューターといったところでしょうか。



以前、上部銃手兼フライトエンジニアとして乗り組んだ二人に触れました。

実は上部銃手として一定期間乗り込んだのは3人いて、
前回の二人は「すぐに(怪我で)リタイアした人」と、
帰国後の国債ツァーに参加した人、ということになります。

もう一人の上部銃手は、メンフィス・ベルの最初のメンバーです。

■ 最初の上部銃手、レヴィ・ディロン


例によって少し老け気味の写真しかこの人には残っていません。

レヴィティカス・ディロンLeviticus 'Levi' Dillon は1919年7月15日、
ヴァージニア州フランクリン郡ギルズ・クリークで生まれました。

「レヴィクティカス」という本名は通名「レヴィ」となり、
これからお気づきのようにディロン家はユダヤ系だったことがわかります。

日本語では「レビ記」といったりするヘブライ聖書の言語が
まさにこの「レヴィティカス」なのです。

彼の両親、ギリアムとジュディには、レヴィの他に
アヴィ、アイダ、ジョン、ルビーの兄妹がいました。
高校を卒業後、陸軍航空隊に入隊したディロンは、
一等兵としてマクディルの第91爆撃グループでB-17の訓練を受け、
1942年航空機関士兼航空砲手として戦闘任務に就くことを許可され、
同時に二等軍曹に昇進し、メンフィス・ベルに乗り組みました。

つまり彼はベルの最初の上部砲手として、
最初の5回の戦闘任務のうち4回を飛行したということになります。

一回抜けているのは、彼がサン・ナゼールを爆撃する
3回目のミッションで負傷したからで、
それは公式記録には残りませんでしたが、
彼はこのことでメンフィス・ベルで最初に負傷した乗組員となります。

■ベル初の負傷者

それではその怪我について、ご本人に語っていただきましょう。

「敵機の機関銃の弾丸が私のいた砲塔上部を貫通し、右大腿部に命中した。
熱い火かき棒のような感触で、私の飛行服に火がついた。

ヴェリニス大尉(副機長)がやってきて、火を消してくれた。
それから救急箱を持ってきて、私のスーツを切り開き、
傷口に包帯を巻いて止血してくれた。
深い傷ではないように見えたし、ちょっとした怪我だと思っていた。

基地に着陸したとき、病院に行って手当てをするように言われたけど、
リバティバス(乗員のシャトルバス)に乗り込んでいるのが見えたから、
リバティに乗り遅れたくなくて何も考えずに飛び乗ったんだ。」

上部砲塔はエポキシガラスなので、狙われた場合、
最も簡単に銃弾を通してしまいます。

弾丸が命中して火がついたのがわかっていて、病院に行かないっていうのは
ちょっと感覚が麻痺しすぎていないかと思うのですが・・。

続きです。

「その日の夜、バーでビールを飲んでいたら」

弾が当たったのにビール飲むな。

「誰かが私の足を見て『おい、血が出てるぞ!』と言った。
見ると、案の定、血が足を伝っていた

さすがの彼もケンブリッジにある赤十字の救護所に行きました。
そこで彼は忘れられない体験をします。

救護所で彼の傷の手当てをしてくれたのは、フレッド・アステア
(ハリウッドの映画スター)の姉のアデル・アステアだったのです。

■ アデル・アステア


アデル・アステア

フレッド・アステアについては説明するまでもないでしょう。(ないよね?)
人類史上で最も燕尾服の似合うラッキョウ系ダンサー&俳優&歌手です。

彼女は9歳でダンサー、ボードビル芸人としてデビューし、
3歳下の弟のフレッド・アステアとともに舞台で成功を収めていました。


ブロードウェイ時代、弟とのペア、アデル21歳、フレッド18歳

ブロードウェイや映画で27年活動をした後、彼女は
芸能活動を通して知り合ったイギリスの貴族
チャールズ・アーサー・フランシス・キャベンディッシュ卿と結婚し、
芸能活動から惜しまれながらもあっさりと引退してしまいました。

キャベンディッシュ卿がニューヨークのJ.P.モルガン社に就職した時
再会したのが縁だったそうです。


外交的で美しく、機知に富みエレガントな立ち居振る舞いの彼女は、
イギリス紳士に大人気で、プリンス・オブ・ウェールズや
ウィンストン・チャーチルとも交友を持っていました。

結婚後はチャールズがアルコール依存症となり、
アデルはその介護のため自分も鬱を発症したりしています。

1942年、戦争が始まって、アデルがノブレスオブリージュとして
国に貢献する方法を探していたとき、ロンドンに駐在していた
アメリカ空軍情報部長のキングマン・ダグラス大佐に出会いました。


ダグラス大佐(ちなイエール大学卒)

ダグラス大佐は、はアデルに、ピカデリー・サーカス近くにある
アメリカ赤十字の「レインボー・コーナー」食堂で働くことを提案します。

彼女はそこで兵士のために、1週間に130通もの手紙の代筆をしてやったり、
兵士たちのコンシェルジュのような係を務めたり、時には彼らとダンスを踊り、
ロンドン滞在中は兵士たちの必需品の買い物を手伝ったりしました。

ブリッツ(ロンドン電撃戦)が始まると、彼女は勤務時間を増やし、
週7日レインボー・コーナーで奉仕をしました。

レヴィ・ディロンの傷の手当てを行ったのも、この頃のことだと思われます。

救護所にいたというのはディロンの勘違いで、
医師免許がなくてもできる程度の傷の手当ては
レインボー・コーナーでも行われていたのではないでしょうか。

彼女は多くの兵士たちから感謝されましたが、そのことは
彼女自身に新たな目的と充実感を与えるものとなり、
個人的な困難に対処する助けとなったのは間違いありません。

1944年3月、チャールズは長期にわたるアルコール中毒の結果、
わずか38歳で亡くなり、アデルは3年後、ダグラスと再婚します。

ダグラスは最終的には少佐で退役しますが、
陸軍の情報将校だったことから戦後の新しいCIA創設に尽力しました。


1950年からはCIA次長を務めたほどの「大物」です。


■濡れ衣で降格処分

ベル5回目、ディロンにとって4回目のミッションの後、
彼の名前はクルーリストから消えることになります。

何が起こったのでしょうか。

大勢が自由行動に出ていて、基地に戻る途中のこと、
ゲートでちょっとした騒ぎがありました。

一人の中尉が下士官の腕を掴んで、こいつに上着を破かれたと言いましてね。


彼らが我々のうち何人かを身元確認のため呼び戻した時、
中尉はなんでか僕を指差して、
「こいつがやった」
と言ったので驚きました。

そもそも僕は彼とは知り合いでもなんでもなかったし。
後から犯人は判明したのですが、僕は黙っていました。」

ディロンは降格させられ、第306爆撃グループに移動しました。

その後の彼の軍歴などはわかりません。


■ 最初の上部砲塔砲手 ユージーン・アドキンス


老けてないか?と思ったけど実は少佐の時

ユージーン・アドキンスは基礎訓練の後マクディルに配属され、
学生士官候補生の訓練プログラムに参加して、その後幹部候補生になりました。

そこではベルの機長ボブ・モーガンと何度も一緒に飛行しています。

その後彼はドナルド・W・ガラット中尉の操縦する
「パンドラの箱 Pandra's Box」に配属されてイギリスに渡りますが、
たまたま彼が搭乗しなかった日、パンドラは撃墜されます。

その日B-17にはハロルド・スメルザー少佐が機長として乗っていましたが、
墜落しながら少佐は他の機に手を振っていたそうです。

パンドラの箱の10名の搭乗員は全員が戦死しました。


その後配属が決まらず「浮遊搭乗員」状態だったアドキンスですが、
メンフィス・ベルに乗り組むことが決まります。

しかし、彼の任務は長く続きませんでした。

2月4日のミッションで、銃からカバーを外すために、2分、
たった2分、手袋を外して窓の外に出しただけで、
彼は
凍傷にかかってしまったのです。

apple TVの「マスター・オブ・ザ・エアー」でも、最初の方に
機内で手袋を外してあっというまに凍傷になったというシーンがあります。

ましてや機外。
彼は機外が
零下50度であることを知りませんでした。
知っていたら、離陸前にカバーを外していたことでしょう。
これまでの任務ではそこまで高高度ではなかったのでしょうか。

しかもそれはこれから敵と戦わなくてはならなくなってからのことだったので、
彼は持ち場を動くことができず、凍傷にかかった手で7時間そこに立って
次々とやってくるドイツ軍機相手に弾丸を撃ち続けました。

攻撃の切れ間には、少しでも暖かい(と思われた)無線室に潜り込んで
ジンジンと痛む手を温めようと、両足の間に手を挟んでいました。

それでも、彼は自分がどれだけ酷い状態かわかっていませんでした。
着陸するなりすぐさま彼はオックスフォードの病院に運ばれましたが、
入院を要する重症で、切断するかどうかという瀬戸際だったそうです。

しかし医師たちの懸命な治療により、なんとか手を失わずにすみました。

メンフィス・ベルにはそれ以来、次の搭乗員が乗ることになります。

アドキンスはその後B-29、B-50、B-36、B-52に搭乗し、
最終的には1961年に少佐の階級で退役しました。

ところで上部砲塔砲手の任務は、士官と下士官どちらでもOKだったんですね。


続く。



「幸運の蹄鉄」という名の尾翼銃手〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍航空博物館

2024-02-07 | 航空機

第二次世界大戦中、ヨーロッパで爆撃任務を行ったB-17で
戦後最も有名になったメンフィス・ベルのコーナーから、
戦債ツァーに参加したメンバーを順番に紹介してきました。

今日は戦闘配置の一番最後の後部砲塔砲手についてです。



まず後部銃手の戦闘態勢。


後部銃手シート。
ニーパッドに膝を乗せ、前部に防護板のついたシートに座ります。


座ったところ。
あまり大きな人は配置に就けないかもしれません。

What was it like being a Tail Gunner on B17 Flying Fortress?




■ テール・ガンナー、 ジョン・クィンラン


(幸運の)蹄鉄を持って撃墜した敵機マークを指差すクィンラン


メンフィス・ベルの機長ボブ・モーガン大尉は、ジョン・クインランに
 "Our Lucky Horseshoe"(俺らのラッキー蹄鉄)
とあだ名をつけ、他のクルーは 彼を"The Chief "と呼んでいました。

ちなみに爆撃機では乗組員は機長のことを「チーフ」と呼びますが、
彼の場合はそれにTheがついているというわけです。

世には、その人物がいると悪いことが起こらなさそうな、
運の強そうな人物というのがいるものですが、彼の場合それに加えて
いかにもチーフ然とした貫禄があったのかもしれません。



ジョン・クインランは1919年、ニューヨーク州ヨンカーズ生まれ。
父親は衛生局に勤め、母親は養鶏場を営んでいましたが、
彼が子供の頃に父親が他界してしまいます。

公立高校を卒業し、軍隊に入隊を決めた彼が
バッファローのリクルート事務所に並んだのは、真珠湾攻撃の次の日でした。

「どんなことでも参加したかったんだ」

いくつかのテストを受けて、航空隊に入ることになった彼は、
基礎訓練のためにセントルイスに送られましたが、
次から次へとやってくる若い男たちの数に圧倒され、
自分が入隊するまでに戦争は終わってしまうのではないかと心配したそうです。

戦争は終わりませんでしたが、セントルイスのキャンプで
恐ろしい髄膜炎が流行し、新兵たちは避難することになります。

マクディル・フィールド送られた彼は爆撃機乗組員を任命されご機嫌でした。

「地獄から抜け出して天国に行ったような気分だったよ。
太陽の光、白くて美しい砂浜。
セントルイスでの寒くて雨の多い冬、病気ばかりしていたのに、
フロリダにはおいしい食事もあった」。

その後航空整備士の資格を取り、砲術の研修を受けた彼は
最終訓練のためワシントン州ワラワラへ移動しました。

指導軍曹は、嫌がらせなのかなんなのか、
どんなに短くしてもクィンランの髪が長いと口うるさくいうので、
彼は髪を全部剃ってツルツルにしてしまったこともあります。

「それから彼のところに行き、敬礼して帽子を脱いだ。
僕の頭はピカピカで、彼の目が見えなくなるほどだった」。

彼が当時乗っていたのはウィリアム・ヒル中尉の爆撃機でした。
この名前を覚えているでしょうか。
訓練で彼の機が山の斜面に墜落し、中尉含む乗員全員が死亡したことを。

1942年7月15日、ヒルはクインランに言いました。

『この飛行では砲手は必要ない。
副操縦士、ナビゲーター、爆撃手、無線手だけだ。
今日は休んでいい』。

その日の夕方、事故のことを知らなかった彼が基地を歩いていると、
別の飛行機の仲間が彼の姿を見て目を見開いて言いました。

なんてこった、おまえ死んだんじゃなかったのか」

乗機を失った彼は、ロバート・K・モーガンという
別の若いパイロットのクルーと飛行機に再指定され、尾翼砲手になります。

「尾翼からはなんでも見えるんです。

編隊から脱落した仲間が被弾する。
するとドイツ軍の戦闘機が狼の群れのように襲いかかるのを。
彼らはいつも、弱った飛行機に間違いなく群がるんだ。

爆撃機に乗っていた連中には知り合いも多かったから、
彼らを助けられないのは本当に悔しかった。

その後、彼らが襲ってくると撃ちたくなる。

仲間を殺されたから殺したくなる。
撃っても撃ってもくるのを止められないからイライラするんだ。

僕は打ち続けた。すべて正しいことをしていると信じて。
正しく誘導し、正しく銃を撃ったつもりだ。
でも、奴らは来るんだ。次から次へと来続けた。

頭を撃ち抜かれたと思ったこともあった。

銃を撃つには、前屈みになって照準器に顔を当てなければならないんだが、
ある瞬間、発砲を止め、背もたれにもたれかかった瞬間、
弾丸が僕の前の空間を通過したんだ。

次に顔に何か湿ったものが伝うのを感じた。
手を伸ばすと、血がついていた。

おかしなことなんだけど、頭の反対側に血がついてないか、
手を伸ばして触ってみた。

弾は私に当たっていなかった。
プレキシグラスの破片が当たって血がついたんだ。
かすり傷一つ負っていなかった。

もしあの瞬間まだ前傾姿勢で射撃していたら、
弾丸はまっすぐ頭を貫通していただろう』。

乗るはずだった飛行機の墜落を免れ、一瞬の動きで弾を避け、
これはかれがいかに強運だったかというエピソードです。


■ イギリスに(勝手に)宣戦布告した夜

クィンランという名前は、典型的なアイリッシュネームです。

イギリスとアイルランドは、併合以来独立をめぐって対立しており、
(我々日本人にはピンときませんが)問題はまだ解決していません。

わたしの知人の夫は、全くそっち問題とは関係ないカナダ出身なのに、
たまたまIRAの重要人物だかテロリストだかと同姓同名であるため、
(といっても、日本人名なら山田正男みたいなありがちな名前)
イギリスに入国する時には毎回えらい大変なことになるそうで、
現在進行形で大変なんだなーと思ったことがあります。

このときイギリスに駐屯していた航空部隊にもう一人アイルランド系がいて、
そのマクドナルドという男は、まさにその
アイルランド共和国軍(IRA)のシンパだったのですが、ある晩、
ロンドンで酔っ払い、路上で汚い四文字熟語を叫びまくって、
二人でイギリスと国王陛下に「宣戦布告」したのでした。

「出てきて戦え!」

気持ちよく「一人宣戦布告」していると?肩に手を置かれた気がしました。

「見上げたら、見たこともないような大きなボビー(英国警察官)だった。
たとえどんな大きな奴だったとしても、その時の僕は、
相手の出方次第では構わず殴りかかっていたと思う。

でも、その人はとても優しくて、まるで父親のようにこう言った。、
『お前たち・・・もう十分だろ?』

ぼくたちはまるで子犬のように素直に彼について行った・・・・」。


B-17「メンフィス・ベル」の尾部砲手として、
クインラン軍曹は空中戦で2機の敵機を撃墜したと記録されており、
さらに宣戦布告した当の国王陛下の謁見も受けています。

25回のミッション終了後、英国王夫妻の謁見を受けるクィンラン
(映画「メンフィス・ベル:フライングフォートレスの物語」より9


■ B-29で日本本土攻撃

その後、彼は帰国後の戦争債券ツアーを完了し、
B-29スーパーフォートレスの尾部銃手として訓練を開始します。

B-29での空中戦でさらに彼は3機の敵機を破壊し、
第二次世界大戦中に合計5機の敵機撃破に貢献しました。

そして1944年12月7日、彼のB-29は満州上空で撃墜されました。

彼はベイルアウトして一旦捕虜になりそうになったあと、脱出し、
中国ゲリラと行動を共にして日本兵と直接戦闘することになりました。

空中戦ではなく、相手の見える地上での銃撃戦です。

「ライフルを支給されたので、何度か日本兵を撃ちました。

向こうでは、思い出したくないようなことをたくさん見ましたよ。

一つ言っておくと、ゲリラたちは皆’人殺し’でした。

中にはまだ15歳の子もいたが、彼らは命をなんとも思っていなかったな。
僕はガリガリに痩せ細り、犬を食べることもありました」

行軍の途中、中国人の村に連れて行かれ、
そこで愛国的なスピーチをさせられたこともありました。

「ただただ無意味なことを適当に、汚い言葉を並べ立てて喋る。
通訳が群衆に何かを伝えると
、滑稽にもみんなが歓声を上げるんだ」

彼のスピーチ以上に、通訳もおそらくはデタラメであり、
村人たちはさらに何もわかっていなかったのでしょう。


ある日、B-25が着陸し、クインランを乗せてインドの米軍基地まで運び、
彼を基地に下ろすとまたすぐ飛び立って行きました。

彼を始めアメリカ軍兵士たちは中国人にもらったゲリラの制服を着て、
そこにぼーっと立っていたら、アメリカ人将校が近づいてきて、

「炭を買ってきてくれ」

と中国語で用事を言いつけるのです。
彼が英語で自分はアメリカ軍パイロットだというと、
将校は驚いてその時初めて彼の顔をまともに見ました。

彼はその後アメリカまで送還されることになります。

■ 戦後

1945年に名誉除隊したクインランは、故郷に帰って、
彼のことをずっと待っていた同級生の女の子ジュリアと結婚しました。

戦後彼は建設業者として働き、6人の子供と甥を育て、
1980年に引退した彼は、生涯を通じて
メンフィス・ベルのクルーの中で最も色彩豊かなメンバーと言われました。



映画「メンフィス・ベル」で後部銃手役を務めたハリー・コニックJr.
この写真では後列でサングラスをして一人で立っています。
当時クィンランは生存していましたが、撮影現場には行かなかったようです。

ジョン・クインランは2000年12月18日に亡くなり、
3年後に後を追うように亡くなった妻と一緒の墓地で眠っています。



「敵機の撃った弾丸がわたしのいた小さな区画を通過した。
もしわたしがまだ前傾姿勢だったら弾丸は頭を貫通していただろう」

ジョン・クィンラン
テイル・ガンナー


続く。



潜水艦「レクィン」に乗艦!〜前部魚雷発射室と士官食堂

2024-02-04 | 軍艦

さて、ピッツバーグのカーネギー科学博物館に展示係留されている
潜水艦「レクィン」のゲートを通り、甲板に上がります。



まずは桟橋からこれから乗り込む「レクィン」の姿を撮影だ。
甲板には見学者の通路として、細い柵が設置されています。


USS「レクィン」SS-481

ユニークな潜入体験!

私たちの潜水艦は特別な空間であり、真の歴史的遺物です。
あなたの安全とこの艦の保存のために、次のことを行ってください。

 • 慎重に歩きます。床が濡れていると滑りやすくなる場合があります。
 • 装備に注意しながらゆっくりと進みます。 
• 特に階段では足元に注意してください。
・ご搭乗前に食べ物と飲み物をすべて済ませてください。

⬅️入艦はこちらから!


艦体に到達するまでに、艦尾の写真も抜かりなく一枚。
艦首から入り、艦尾から出てくる見学通路のようです。


甲板上に設けられた通路は大変狭く、両手で手すりが掴めるかどうかくらい。


甲板デッキの木材は一度は張り替えられたように見えます。


甲板から見たサイエンスセンターの建物。


セイルに突き当たってその右側を進んでいきます。



ここですかさずセイル根本のライトに注目。



ガラス?に覆われているのは電球本体だけというのにちょっとびっくり。
干渉を受けにくい構造ではありますが、てっきり外側に
ガラスがあるものと思っていました。

ところでこの電球、もし切れたらどうやって交換するんでしょうか。


セイルの右舷側を通り過ぎます。


写真を撮っていたら、すぐ前にいた赤Tシャツ父さんがいなくなり、
その代わりに初老の夫婦がいました。
赤T父さんは子連れだったので、先に入館させてもらったのかもしれません。



セイルの前に来たので、振り返って構造物全体を撮影。
アップにしてみると塗装の択れがすごい。
下地を整えずそのまま上からペイントしているので、こうなってしまった模様。


艦首部分に、見学用の階段が設置されています。
小さな子供はこの階段は降りられないので、パパが抱っこして。


「レクィン」の艦首はピッツバーグの都心部に向けられています。
ちょうど彼女の向かう方向にある、先端にお城のような飾りのあるビルは、
他でもない、塗装を手がけたPPG本社のあるワン・PPGプレイス

艦首が大スポンサーのビルに向いていることは決して偶然ではないでしょう。

その左手の黒っぽいビルはこの一角でで一番高いビル(64階建)
その名もピッツバーグらしい、USスティールタワーです。



博物艦として保存されているすべての潜水艦は、見学者のために
手すり付きの階段を改造して設置しています。

就役中の潜水艦にはもちろんこんな悠長な出入り口はありませんが、
「ダウン・ペリスコープ」(イン・ザ・ネイビー)という映画では、
乗組員がここからゾロゾロ出てきてびっくり、ということがありました。

海軍リクルートのテーマソング(インザネイビー)を主題歌にしていましたが、
そこまで軍事考証(というほどのものなのか)はちゃんとしてません。

さて、というわけで、いつものように見学列の最後尾から入艦です。



入ったばかりはカメラの設定を変えられないので画像ボケてます。
魚雷室勤務の乗組員が寝ていたバンクが階段脇にもあります。


階段を降りるとそこはフォワード トルピードルーム、全部魚雷発射室です。
4基の魚雷発射管のうち、左上のハッチが開けられ、
これから装填される予定の魚雷が左上に用意されている状態。


発射管室床下の機構をアクリルガラス張りにして見ることができました。

全部魚雷発射室には発射管が6基あります。
アクリル板の下に見えているのは、この床の下にある2基の発射管機構です。

時間があれば内部の写真を撮りたかったのですが、
見学の列がスタスタと先に行ってしまったのでできませんでした。

乗艦から下艦まで20分って短すぎない?
ちなみに添乗員?はほとんど何の知識もなく説明もしてくれませんでした。
もしかしたら近くにいる人には説明があったのかもしれません。

階段を降りて魚雷発射管を見たら、ツァーはUターンし、
艦尾に向かって進んでいきます。



壁際で目を引いたのがたくさんの缶詰。
ディスプレイ用ですのでラベルなどがありませんが、すべて保存食です。
実際の潜水艦が哨戒に出る時は隙間なく食料が搭載されていました。
ある程度哨戒が進んで食べ物が消費されるまでは、
乗組員はただでさえ狭い空間で不自由な生活を余儀なくされました。



唐突に洗面台(収納式)。
こんなにいきなり洗面関係の設備が出てきた潜水艦は初めてです。


年季の入った椅子。



一人用のシャワールームです。

ということはこのコンパートメントはオフィサーズカントリーですね。
「シルバーサイズ」もそういえば艦首近くに士官区画がありました。

扉はあったはずですが(そりゃそうだ)、
展示のために取り外されています。


「シルバーサイズ」もそうでしたが、士官用のシャワーは
前部魚雷発射室の後ろ寄りにあります。

「レクィン」の10人の士官と5人の上級下士官のための区間には
ステート(stater)ルーム、パントリー、ワードルーム、オフィスがあります。



まずオフィス。
壁には「誰かが迂闊に話せば船が沈む」という防諜ポスターがあります。



書類などを収納するデスクがあるので、ヨーマンズ オフィスかもしれません。
ところで奥の書類引き出しは果たして開けることができるのでしょうか。



士官用のパントリーです。
ここでは士官と上級下士官のための食事を用意していました。



パントリーにトースターやその他什器などの展示はなし。
説明のためのパネルもなし。
一般人が見学した時に、ちょっとこれは不親切かもしれません。

運営保全しているのがボランティアの団体か、そうでないかの違いでしょうか。
カーネギーサイエンスセンターはそこまで面倒みません的な。



こちらもオフィスです。
おそらく艦長の部屋ではないでしょう。



このスチール製の棚には、何か機器がインストールされていたと思われます。
復元をしようという気がまったくないので、それが何だったかもわかりません。



士官用ダイニングルームです。



ダイニングルームとパントリーの間には窓があって、
ここから食事などを提供していたようです。



窓の反対側の壁には艦内電話。



潜水艦であっても士官用に陶器の食器、シルバーが搭載されています。
空母だろうが潜水艦だろうが、士官の待遇に違いがあってはなりませんから。

その「待遇」を象徴するひとつが、おそらく食器なのでしょう。

シルバーはご存じのように、手入れが行き届いていないとすぐにくすみ、
それを磨くことがバトラーとかカリスマ主婦に必須というくらい面倒ですが、
アメリカ海軍のどの軍艦にもこのシルバー類は装備されていました。



士官食堂のテーブルをよくみると・・・これなんだろう。
こんなところにあるスイッチって、鉄板焼きの火力調整くらいだけど・・。

さらによく見ると、テーブルの両端にスリットと紙を巻き取るローラーが。
これは地図を見るためのチャートデスクだと思いませんか?

士官食堂の机はよく緊急時の手術台に使われますが、
ここには確か手術用の無影灯は設置されていなかった気がします。



シルバーの上にはお風呂用のアヒルさん(セーラー服)が待機していました。

続く。



USS「レクィン」公開再開!

2024-02-02 | 軍艦

今日から新シリーズ、USS「レクィン」を始めます。

ピッツバーグの中心を流れるオハイオ川沿いに係留され、
カーネギーサイエンスセンターの展示の一つとして公開されている潜水艦。

わたしがピッツバーグを訪れるようになってすぐその存在を知り、
コロナ流行真っ最中に外側だけを見学してきたわけですが、
ピッツバーグ最後の年にようやく内部ツァーが再開されていたので、
ここで紹介するために突撃してまいりました。



カーネギーサイエンスセンターと「レクィン」が係留されている河岸の間には
普通に川沿いの遊歩道が横たわっており、
そこを通る人は誰でも潜水艦の姿を間近に観ることができます。



遊歩道側からも博物館への入場は可能となっており、
チケットセンターにもそのままアクセスできるというおおらかさ。



潜水艦の位置からオハイオ川の向こう岸を見ると、
ピッツバーグ名物のケーブルカーがちょうど上下行き交うところでした。


前にも書きましたが、昔は斜面の下と上を繋ぐ近道として、
「ピッツバーグ・ダッチ」と呼ばれるドイツ系移民が敷設した交通機関です。
そういえばザルツブルグにも全く同じようなケーブルカーがあったなあ。

誰もが車を持っている今日では輸送手段というよりも
歴史的な構造物として後世に残されています。



今ではピッツバーグといえば橋とケーブルカー、というくらい、
はっきりいって他にはわりとなにもないところなので、
これを保存し、シンボルにしたのはある意味英断だったかもしれません。


川沿いに切り立った斜面の上は住宅街になっています。
このとんでもなく目立つところに看板を作った「アイアンシティ ビール」は、
景観を損ねているという理由で訴えられたそうですが、
結局裁判に勝って、看板を残す権利を得ました。

ただ、言わせてもらえばこの看板のデザインが悪すぎ。
もう少しいい感じだったら文句は出なかったんじゃないかという気がします。

というわけで「レクィン」のセイル部分を拡大。



ご存知のように、潜水艦の潜望鏡には、攻撃用と捜索用があります。

この写真の左側が捜索用で、先細りの方が攻撃用だと思われます。
そう思った理由は、捜索能力重視の捜索用は大きく、
いざ攻撃となった時は相手に発見されないように小さな方がいいらしいから。
(という説を見つけたのですが、違っていたらすみません)

ちなみに最新式の原潜の潜望鏡は非貫通式電子光学潜望鏡(電子光学マスト)
は、攻撃用と捜索用の機種区別はなく、同じ型のものを2本装備しています。

(同じ型ならなんで一つにしないの?という気もしますが、
分けた方が機能的である理由があるのでしょう。)

ちなみに、自衛隊の潜水艦は光学式が搭載されていますが、
「そうりゅう」はこの他に光学式の潜望鏡も搭載しているそうです。

光学式に何かあった時のバックアップなんでしょうか。



ちなみにこの捜索用ペリスコープの映像は、
博物館内部に設置されたモニターで見ることができます。

あまりに鮮明な画像なので、はめ込み画像かと思いました。


コロナ時にここに来た時には当然内部公開を中止していましたし、
これしか関係展示がなかったので、この写真を撮ってお見せしたものですが、
若干展示が変化しているようなので、もう一度アップします。

まず真ん中のダイブスーツから。



【アメリカ海軍マーク V ダイブスーツ】
1958年9月製

 1916年に発明され、1984年まで使用されていたMk V 潜水服により、
ダイバーは以前は到達できなかった深さで作業できるようになりました。

加圧スーツはゴムの上に綿のキャンバスを重ねて作られており、
真鍮のヘルメット、手袋、加重ブーツには防水シールが付いています。

ダイバーはメインリグの下に保温のためにウールのボディスーツを着用し、
浮力と再浮上を助けるために重りのあるベルトを着用しました。

Mk.Vの技術は、高高度飛行用スーツや、初期の宇宙服の開発に役立ちました。


【錨鎖 アンカーチェーン】

2.5リンク分の錨鎖
長さ: 38 インチ(96.5cm)
重量: 約 150 ポンド(68kg)

アンカーとは、海底に埋め込むフックの一種です。
本体はシャンクと呼ばれ、実際に底に食い込む「歯」をフルークといいます。

なぜアンカーには鎖が付いているのでしょうか?
アンカーチェーンは衝撃吸収材として機能します。
波や風がボートを動かすと、ラインがきつくなる前に
ボートはチェーンを底から持ち上げなければなりません。

アンカーチェーンは、海底の岩や瓦礫による
ナイロンロープの擦れを防ぐのにも役立ちます。


子供にもわかりやすい表現がされています。


【マーク9 MOD3 爆雷 デプスチャージ】
1945年2月製造

爆雷は、水上艦艇や航空機から投下される対潜兵器です。
この装置は、特定の深さで爆発するように設定でき、
ターゲットに爆発的な衝撃波を与えることができます。

マーク9は爆雷工学における大幅な進歩と言われています。

既存の砲身の形状を重みのあるティアドロップ型に変更し、フィンを追加して、
より速く、より直接的な軌道で飛行できるようにしました。

 Mod3のデザインは、第二次世界大戦末期から冷戦まで使用されました。


【魚雷】

説明はありませんでしたが、中身を抜いた魚雷が横たわっていました。
「レクィン」が搭載していたのと同じ大きさの21インチです。

というか、潜水艦魚雷のサイズは全て21インチに統一されてたんですけどね。


これは潜水艦の近くにあった謎の展示。

ある年代のアメリカ人ならおそらく皆知っている、
SFコメディ番組『ミステリー・サイエンス・シアター3000』のキャラ、
トム・サーボ(赤い方)とクロウ
撮影に使われた人形現物なのかもしれません。

トム・サーボの頭部はガムボール・マシン、胴体はおもちゃの
「マネー・ラバー・バレル」貯金箱とおもちゃの車のエンジンブロック、
脚の代わりにボウル型のホバークラフト・スカートをつけています。

このシリーズでは、こんなのもあったと驚愕。

MST3K: Gamera vs. Jiger - Saturday Night Live: Gamera! | SEASON 13

「ガメラ」が上映されているのをトム・サーボやその他が見ながら
ミッキーマウスの替え歌(ミッキーをガメラに変えて)を歌ったり、
ツッコミを入れるというタイプの番組だったようですな。

「ガメラ」はアメリカで放映されたらしく、英語に吹き替えられています。

大村崑さんがお父さん役ででてきたとき、彼らが
「コンちゃーん」と言っているような気がするのですが気のせい?




ツァー参加者は、申し込みをして時間が来たらここで待っていると、
引率の人がやってきて団体を案内してくれます。



そして、見学者一団とともに潜水艦に向かい、乗艦を待つ間、
アメリカンすずめのカップルがいたので写真を撮っていました。



潜水艦とは全く関係ないですが、どうしても見ていただきたくて・・。

すずめカポーは木に残った花殻を食べに来た模様。



上のオス?は日本のスズメに似ています。



下のメス?がまるではしゃいでいるみたい。
鳥や動物も写真に捉えた一瞬がとても表情豊かに見えることがあります。



表情といえば、潜水艦の甲板から鴨が泳いでいるのが見えたので、
なんとなく写真を撮ったのですが、アップにしてみると、
全員?がしっかりカメラ目線だったので驚きました。
特に最前列のリーダーは外部を常に哨戒する役目らしく、ガン見です。



潜水艦に渡る桟橋の手前には、参加したければチケットを買えとのお知らせ。



USS「レクィン」のスポンサーになったのは、地元の大企業である
PPG(船舶、インフラ、タンクなど大型の塗装施工会社)。

「レクィン」の展示にあたってはPPGが塗装を行ったので、
宣伝方々そのデータを公開しているのです。

カーネギー科学センターの冷戦時代の潜水艦 USS Requin は、
PPG PAINTS™ ブランドのおかげで新鮮な塗装を施されています。

SPEEDHIDE® プライマーとPPG 保護および船舶用コーティング製品である 
SIL-SHIELD™ シリコーン・アルキド・エナメル、
これら2 種類の高性能コーティング、約240ガロンを当社が寄付しました。

これらの製品は、優れた接着性、耐食性、耐久性のある仕上げを提供し、
USS「レクィン」のような鉄鋼の表面に最適です。

PPG Paintsラインは、世界有数の塗料会社である
PPG Industriesの事業部門PPG Architectural Coatings のブランドです。


また、施工にあたっては、足場の構築だけで280時間、
塗装には960時間を要したということで、その下には
「レクィン」を訪れる見学者が年間平均15万5000人だとあります。

数字の3と書いてある部分では塗装色についての説明があり、
基本的に使用されているのは「Pantone430U」(グレー系)と白、黒。

3色の配色は、USS「レクィン」のような潜水艦博物館の標準です。
黒は船殻を覆い、灰色は上部構造、帆、マスト、レールを覆います。
艦体番号はもちろん白色です。


比べてみないと断言できませんが、コロナ閉鎖のころより
エントランスが綺麗になっている気がします。

さあ、それでは長年の課題だった「レクィン」内部潜入に臨みます。

続く。