ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

小池百合子劇場

2017-09-30 | 日本のこと

山尾志桜里議員の不倫騒動をきっかけに、森友、加計問題で
マスゴミと一緒になって政府を半年以上責め立てていた民進党が
あっさりと政府より先に瓦解してしまいました。

まさに事実は小説よりも奇なり。

新代表になった前原誠司議員が

「自分は無所属で出る、民進党は役割を終えた」

とか言ったという今朝のニュースを見たとき、わたしはおもわず
声をあげて笑ってしまったもんですよ。

さらに、一足先に離党して希望の党に拾ってもらった細野豪志議員が
なぜか偉そうに民進党は選別してとか全員入れないとか言っているのを見て
つい蜘蛛の糸のカンダタを想像したので辛抱たまらなくなり(笑)
今日は久しぶりに政治ネタで絵を描いてみました。

しかもかわいそうなことに、9月29日現在で、公認候補の調整も、政党公約も、
希望の党側は全て若狭氏が行うということで、細野さんはつまり
自分で思っているほど希望の党では偉くないらしいことが判明。

まあ、まだ蜘蛛の糸は切られてないみたいですけど。

 

しかし今回民進党ってのは政治信念なんて何もない連中の吹き溜まりだったんだ、
とつくづく認識させられました。

昨日まで「戦争法」「共謀罪」反対、ってポスター持ってやってた連中が、
希望の党に拾ってもらうために(というか議員バッジを外したくないために)

「実はぼくちん改憲派で〜〜す」

って、恥ずかしくないんですか。
ほらそこの柚木、お前のことだ。

 

選挙のために赤い小池の共産党とも手を組もうとしていたくらいだから、
緑の小池と組むのなんてなんとも思っとらんのでしょうが、
しかも、「トロイの木馬」なんぞと嘯き、選挙に通った暁には
希望の党を第二民進党
にするつもりだと公言している輩もいるらしい。

ほらそこの有田、お前のことだ。

 

かつてメディアに騙されて鳩山民主党に政権を取らせたという
黒歴史が日本国民にはありました。
しかしその民主政権の、特に震災対応におけるあまりの酷さに目が覚め、
さらに今回の森友加計問題で倒閣を目論むメディアの異様さに気づき、

「メディアの推す逆を選択すれば正解

ということを今や多くが学んでしまったように思えます。

今後小池希望党が頭数のために政治理念の異なる民進党議員を受け入れれば、
きっとメディアは偽装民進党主体の希望の党で「政権交代」を夢見て、
2009年よもう一度、とばかりさらに偏向報道に舵を切ってくるでしょう。

問題はそれに騙される国民が前と同じくらいいるかどうかですが、
こんなことをレクチャーしてくれる人も今はいますしね。

マスコミが疑惑だけで罪人を作る三つの方法

民主党政権が生まれた日、わたしは日本国民ってもしかして
バカばかりなんじゃないのか、と絶望的になったものですが、
さすがにマスコミのやりすぎは一般人にも気づくところとなり、
多くが学んだことであろうと今ではなんとか思っています。

しかし、万が一、希望の党が第1党になったとしても、
改憲は規定事項となるわけだけど、マスコミさん的にはどうなんだろう。

とにかく

「アベでなければいい!(潰すのが簡単だから)」

ってことなのかな(笑)

 

 

 

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特攻の賛美と顕彰の違い〜靖国神社 遊就館展示

2017-01-31 | 日本のこと

遊就館の唯一写真撮影可である大展示場の展示物について
お話ししております。 

大展示場には飛行機、潜水艦、戦車、艦砲などの大型展示と、
ガラスケースの中にぎっしりと収められた遺品の展示があります。 


これは全て南方や沖縄で収集された遺品の数々です。


遠目に茶色い「塊」のような遺品の一つ一つを仔細に眺めると、そこには
かつてこの塊が生きていた誰かの持ち物であった痕跡が残され、
その持ち主の運命について考えずにはいられません。

鉄かぶと、認識票(120211070の番号入り)、鍋釜。
ガスマスクはウェーク島で収集されたものです。 

朽ちて底だけになってしまった靴。万年筆。ホーローのカップ。
これらは沖縄で収集されたものです。 

薬瓶、注射器、そして大量の丸メガネ。
もしかしたら軍医やあるいは民間人のものかもしれません。 

97式中戦車(チハ車)

サイパンで米軍の上陸部隊を阻止するため戦った
戦車第9連隊第5中隊の戦車です。

その後ご存知のようにサイパンの部隊は玉砕してしまい、
この戦車はサイパンの海岸に埋没したままになっていたのですが、
同連帯の生存者が働きかけてサイパン島民の協力を得、
昭和50年8月12日、日本に帰ってきました。

詳細な構造図がアルミのパネルで展示されています。
戦車は4人乗りだったようですね。 

ここ一帯は「戦艦大和・武蔵」のコーナー。
武蔵の主砲弾、徹甲弾などが並べて展示してあります。
 

ブロンズで作られた「武蔵」のウォーターライン模型。
昭和44年と言いますから、まだ武蔵の生存者が多く健在であった頃、
「軍艦武蔵会」の名前で製作されたものです。

戦艦「陸奥」の副砲
「陸奥」は柱島沖で謎の爆発を起こし沈没した悲劇の戦艦です。
この副砲は昭和48年に遺骨を収集するという目的でサルベージが行われた際
緒に引き揚げられました。 

「陸奥」副砲後ろから。
爆沈は昭和18年6月、艦とともに殉職したのは1122名。
その中には艦長の三好輝彦大佐(殉職後少将)もいましたが、
三好艦長はその直前まで同期の「扶桑」艦長の鶴岡大佐を訪ねており、
帰還した直後に爆発に巻き込まれています。

「扶桑」は「陸奥」が爆沈する様子を目撃していたということですが、
「扶桑」艦長は、後から三好艦長を引き止めていれば、
という後悔に苛まれたりしなかったでしょうか。 

「陸奥」の小錨。主錨ではありません。

ここには実物大の「震洋」の模型もあります。(これは小さいもの)

軍令部は昭和19年から劣勢を挽回するため9つの特殊兵器を計画しました。
それらにはからまでの番号が振られ、
「マルイチカナモノ」「マルキュウカナモノ」などと呼ばれていました。

特殊奇襲兵器

㊀金物 潜航艇 
㊁金物 対空攻撃用兵器 
㊂金物 可潜魚雷艇 小型特殊潜水艇「海龍」
㊃金物 船外機付き衝撃艇  水上特攻艇「震洋」
㊄金物 自走爆雷 
㊅金物 人間魚雷 「回天」
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止 
㊈金物 特攻部隊用兵器

が「回天」、が一人のりのボートの艦首に
250キロ爆弾を搭載し
敵に体当たりしていくという「震洋」でした。

海軍兵学校卒や予備士官が艇長となり、乗員はこれもまた
空に憧れてやってきた予科練の出身者が充てられました。

「震洋」のスクリュー。

空母「翔鶴」の特大模型。
艦載機まで全て搭載した力作です。

艦尾には「くか うやし」という艦名が見られます。 

旧東洋紡渕崎工場の女子寮から見つかった「血書の壁」。

香川県・小豆島に設けられていた陸軍の水上特攻艇「まるれ」の
訓練施設の壁一面に、終戦直後、少年兵が書き付けた「血書」です。

「本土決戦 一億特攻!されど大詔一度下りて、大東亜聖戦終る」

 

戦争末期、小豆島には旧日本陸軍が極秘裏に組織した「陸軍船舶特別幹部候補生隊」
の拠点が置かれ、当時、同町にあった東洋紡績渕崎工場が宿舎となっていましたが、
血書はその押し入れ奥の壁に貼られた新聞紙の下から見つかりました。

「断じて日本は負けたるにあらず」

大きく忠義を尽くすという意味の「盡忠(じんちゅう)」という題で、
「全員特攻の命を拝し」「其の心の成らんとして果たさず」
「断じて日本は負けたるにあらず」と結んだこの文章は、つまり
敗戦の悔しさと自分がその役に立つことがなかった無念を表したものです。 

陸軍船舶特別幹部候補生隊、「若潮部隊」は15〜19歳の少年兵計約8千人で編成され、
ベニヤ板製、全長5・6メートルのモーターボートに爆雷を積み、
敵艦に体当たりする自爆攻撃の訓練を受けていました。

小型艇や輸送船が此のモーターボート型特攻で損傷を負ったそうですが、
しかし、戦果はアメリカ側の資料からの判断なので
海軍の「震洋」のものかこのマルレのものかは判別できません。 

ある資料では約1400人が実戦で戦死したとされていますが、
そのほとんどが輸送途中に輸送船ごと沈没したためであるという説もあります。 

ただ、本当に戦争末期には特攻しようにもその船がなくなっていたらしく、
こんな話も・・・・

岡部さんの戦争

 

艦船の模型でもう一つ目を引くのが駆逐艦「秋月」

乗員による戦闘用意の様子が再現されている渾身の作です。 

空に向かって大きく手を振る士官始め4人の姿もあり。

甲板作業をしている一団と、敬礼を交わす二人。
こういった軍艦での動きが至る所で再現されており、時間があればいつまでも
見ていたいくらいでした。

皆様も遊就館にいったらこれを必ずご覧になることをお薦めしておきます。 

 

ところで、前半に少し述べた「日本人に戦争は向いてない」の人もそうですが、
よく「特攻を賛美するな」と言う人がいます。

特攻は戦法の外道であり、非人道的であり、非科学的な愚の骨頂である、
と言う観点からのことですが、それでは遊就館が
「特攻を賛美しているのか」と言うとそれも違う気がします。

わたしもこの点については

「軍による組織的な特攻を行ったことははっきりと日本の汚点である」

と思っているくらいですが、例えばこの大展示場にある、
本土迎撃のために体当たりを敢行した陸軍曹長のような「自発的な特攻」に対しても
それはただ同調圧力による強制された死であり無駄死にだったといい捨てることは
英霊に対してその魂を二度死なせるようなものではないかという気がします。

それでなくともただ不幸な時代に生まれてしまったというだけで、
死なねばならなかった戦死者をその死に方によって区別することはあってはならない、
という考えが基本にあるからです。

特攻で自分の愛するものたちがいる世界を守ることができると信じて
死んでいった人たちに対し、感謝とその魂の安寧を祈ることは決して
手段に対する「賛美」と同義ではない、とわたしは思うのですが。

 

 

 

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彗星、桜花そして回天〜靖国神社遊就館展示

2017-01-30 | 日本のこと

防衛団体で靖国神社の昇殿参拝をした後、遊就館を見学しました。
いつも昇殿参拝にはセットとして遊就館見学がついてくるのですが、
崇敬奉賛会の会員の特典としていつでも無料で入れるということもあり、
団体の皆さまとご一緒させていただいたのは初めてです。

何度も来ているので、わたしはいつも遊就館見学では
前回の見学から今回までの間にこのブログ製作を通じて深まった知識を
ここで改めて確認するというような見方をします。
展示を通り過ぎながら見ていき、ピンと来たところで立ち止まり
そこだけじっくり資料を眺める、という感じ。

でないと、あまりに展示が膨大すぎて、最初しか見ることはできなくなります。

 

さて、遊就館内部は基本撮影禁止となっていますが、最後の展示だけは
写真が許可されていたので、今日はそれをご紹介します。

遊就館の回廊展示を全部見終わって人々が最後に足を踏み入れるのは
高い天井には明かりとりの窓を設けた大展示室です。


まず入ってすぐ鎮座するのは

艦上爆撃機「彗星」

中部太平洋西カロリン諸島ヤップ島のジャングルで発見され、
昭和56年にここに展示されてからもはや35年が経過しているので、
経年劣化が激しく、今年は修復作業に入るそうです。

6月の19日から25日まで、現場で機体を動かさず作業するそうですが、
平常の営業日にもかかるので、マニアな人はこの時に行くかも(笑) 

戦後何十年もジャングルの中に放置してあった3機の彗星の部品を継ぎ合せ、
1機にして不足部分は手作りで補っているということが他サイトでわかりました。
錆を落とし歪みのその上からペンキを塗っているので機体表面はボコボコしています。



アツタ(熱田)21型発動機

ドイツのダイムラー・ベンツで開発・製造されたDB 600とDB 601エンジンを、
大日本帝国海軍の指示で愛知航空機がライセンス生産した航空機用エンジン。

ボコボコの彗星とこのエンジンを見て、

「作りが雑だ!∴ 武器も満足に作れない日本人は戦争に向いていない」

とそれなんて三段論法?みたいな結論を出しているサイトを検索の段階で発見しましたが、
どちらについてもその来歴を調べてから言って欲しかったかな。 

昭和20年1月、Bー29爆撃機とP-51護衛戦闘機の編隊が本土を空襲しました。

常陸教導飛行団の小林雄一軍曹及び鯉淵夏夫兵長は、「屠龍」でこれを迎撃、
体当たり攻撃を敢行して散華しました。

本土防空

機体の部分は、51年経った平成20年に千葉県八千代から発掘されたものです。 
小林少尉(戦死後)のご遺骨もそのとき初めて見つかりました。 

これも本土決戦における邀撃で戦死した命の愛機だったものです。

昭和20年4月、米軍爆撃機の編隊に五式戦で邀撃に上がった陸軍曹長平馬康雄は、
撃墜された乗機が埼玉県新方村の水田の泥中深く埋没して戦死。
その機体は長年放置されて来ましたが、27年後の昭和47年2月、
この場から機体の一部とご遺骨がご遺骨が発掘され機体の部品はここに展示されています。

機体の搭乗者が明らかになったのは、遺品にはっきりと
名前が残っていたからであろうと思われます。

ご遺骨が身につけていた右側の姓名入り被服は、27年の長きにわたり
水田の底10メートル地点に眠っていたにもかかわらず、
不思議なくらい鮮やかにその主の名前を留めています。

左は、縛帯(ばくたい)つまりシートベルトの一部。 

平馬機のプロペラ。
先が折れ曲り、衝撃のすごさを物語ります。 

平馬曹長についての詳細はこちら

 

ロケット式推進機「桜花」模型

専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在と言われ、
開発者の三木忠直氏は戦後

「日本の技術者全体の名誉の為にも、
桜花は我が技術史から抹殺されるべきである」

として桜花について語ることを拒んだこともありました。
ただ、実際にこの飛行機に乗ることになった要員や開発者本人はじめ、
我々日本人が自虐的にこの兵器の性能をただ貶める傾向にあるのに対し、
米軍が一定の脅威を感じていたことは間違いありません。

ちなみに「桜花」の戦果は、真っ二つになり轟沈した
駆逐艦「マナート・エーベル」 DD-733
を含む軍艦7隻(1隻撃沈 2隻大破除籍 1隻大破 3隻損傷)、
戦死者149名、負傷者197名 というものでした。

この数字以外にも米側の記録に残らない民間船を撃沈したという日本側の記録もあります。

これに対し、日本側の10回にわたる桜花出撃の結果、
桜花パイロット55名が特攻で戦死、その母機の搭乗員は365名が戦死しました。

ところで、世界で最初に音速を突破した航空機となったベル X-1
母機B-29から発射されるそのシステムの着想を「桜花」から得たらしい、
という説があります。

X‐1号の開発が始まったのは終戦直後の1946年であったこと。

そしてもう一つはベル X-1が音速を超えた飛行時のパイロット、
チャック・イェーガーが三木氏との会談において、

「桜花も銀河も、当時、世界の最高技術でした。
アメリカ軍が、三木さんの技術を参考にした可能性があります」

と述べたことからも、かなり信憑性が高いと言われているようです。


三木氏はこのことを知った時、その技術が未知の音速突破に挑む
機体のシステムの一部となったことに救われた気持ちになった、
と語ったそうです。

 

回天4型の輪切りが展示してありました。

回天はご存知の通り搭乗員が爆弾を頭部に搭載して敵艦に突入するために
特殊潜航艇から発展して作られていますが、4型は、
戦時中に開発された「1型」の改良版で、6隻建造され、
まだ使用されないうちに終戦を迎えたので海中投棄されたものです。 

この4型は建造途中で放置されていたものだそうです。

内部の艤装などには全く至っていなかったものですが、
わかりやすいように潜望鏡だけを後付けしたようです。 

潜水艦搭載用の気蓄器
浮上するときには、このタンクからメインタンクに空気を送り込み、
海水を放出して浮き上がります。

「メインタンク・ブロー」というやつですね。

中には圧縮された空気が入っていて、非常用も加えて数個、
搭載されていました。 

大展示室の様子です。

平日にもかかわらず、見学者はかなりいました。
(他の軍事博物館と比較して)
若い人たちや白人の男性が目立ったのですが、最近の傾向でしょうか。
中韓からの観光客は境内では時々見ますが、今まで一度も
遊就館の中で騒いでいたのを見たことがありません。 
(外の売店では一度あり)

もし入館料が無料なら、この傾向も変わってくるのかもしれませんが。

回天1型改1を後ろから。
終戦後ハワイの米陸軍博物館で展示されていたものが、
1979年遊就館に「永久貸与」されて今日に至ります。 

わたしはいつも遊就館に来ると、大展示室を出たところで命の顔写真を
できるだけ多く目に留め、あるいは知っている名を求めてそこで
しばらく過ごすことを決めています。

この見学の後、その写真の中に、今まで見たことがなかった
回天の開発者、黒木博司大尉の見覚えのある姿を見つけ、思わず

「ああ、ここに・・」

と口に出して呟き手をさしのべました。 
気がつけば同じ区画のすぐ下にシドニー湾に突入して散華した
松尾敬宇大尉の写真もあります。
そのときわたしはニューロンドンで見た特殊潜航艇について
エントリを製作するために調べた直後でした。

以前黒木大尉について書いたとき、それが偶然にも大尉が回天の事故で
殉職したのと同じ日だったことに続き、少し不思議な因縁を感じたものです。 

大型潜水艦の艦上に搭載された「回天」4隻。
「特攻の島」でも出撃シーンに搭乗員が4名描かれていましたが、
このような状態から発進したということがわかります。

回天艦内には内部から続くハッチをくぐって搭乗しました。 

 

遊就館の展示、後半に続きます。

 

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防衛団体総会と靖国神社参拝

2017-01-29 | 日本のこと

いくつも防衛団体に名前を連ねているわたしに、今年もまた
新年の賀詞交換会出席の機会が来ましたので、参加して来ました。

いきなり関係ない写真ですが、皆さん、お堀前のパレスホテル、行ったことあります?
年明けてすぐ、近くで用事があったのでここのカフェに行って見ました。


なんと、お堀端にウォーターフロントの(笑)カフェがありまして、
こんな風景を見ながら外でお茶ができるようになっておりました。

その昔「宮様も外人様もお越しになるホテル」がキャッチフレーズだった
パレスホテル、改装してかつてのオーセンティックな雰囲気はそのままに、
洗練されたインテリアと地の利を生かしてすっかりオッシャレーになっております。 

蒸し野菜も、ストウブの鍋で直出しすることでボリュームたっぷりに(見えます)。

そういえば今年は酉年でしたね。

お堀端の松の木からしょっちゅうスズメがやってくるカフェ。
可愛いけど落し物をしていくので、カフェのテーブルには

「僕たちに餌をやらないでください」

と鳥が言っている絵が置いてありました。
でもパンくずとか落とすと来ちゃうんだよ・・。

わたしは別にわざとやってませんよ?

さて、というわけで本題、市ヶ谷の某ホテルで行われた賀詞交換会、
例によって政治家の先生方が壇上に上がって1分以内の挨拶中。

こういう会合には、とりあえず国会議員は手当たり次第に呼ぶらしく、
出席名簿を見る限り28名が招待されていましたが、本人の出席はいつも
だいたいこんなものです。

佐藤正久議員は皆勤なのですが、この日は姿は見ませんでした、
 

今年は民進党の最後の良心(笑)とも世間では言われているかもしれない、
長島昭久先生が出席です。
この団体の総会には必ず民進党からあのクイズ王小西が招待されるのですが、
なぜかご本人がご来臨されたことはありません。

衆参議員28名のうち民進党の招待者は5名。
(青柳陽一郎、大野元裕、中西哲、長島、小西)

ほとんどが自民で、安全保障法案成立前は、こういった会合でもその経過が
議員の口から語られ、

「必ず成立を!」

などと皆に約束するような場所ですから、招待されたからといって、
白い目で見られかねないこの場におめおめと出てくることは、
長島議員のように改憲についてもその点意見をしっかりと持ち、
(会報誌で長島議員の改憲についての論文を読んだことがある)
自分は保守であると冗談抜きで(笑)言えるような信念がない限り 
メンタル的にも無理ではないかという気がします。

 

まあ、もっとも、去年、小川とかいう民進党のブーメラン議員が

「民主党(当時)だからといって国を思う気持ちに変わりはありません」

と自虐ギャグをかまして笑われていましたし、田中真紀夫も
落選前の最後の姿を見せてくれていましたから、
(わたしはこの人、いい人なんだろうなーと思いました。
政治家には向いていないけど) 
あまりこだわらずに出てくる議員もいないわけではないようですが。 

 

この日は欠席でしたが、ヒゲの隊長佐藤議員や、宇土議員と並んで、
クイズ王が談笑しているところなどを一度見てみたいものです。

自民の山田宏議員。

後ろ、宇都隆史議員。
珍しく奥様とお二人での出席でした。

貼りついたような笑顔がトレードマーク、公明党の防衛大臣政務官、
石川博崇先生。(つい先生付け)
 

寺田稔先生。
両手で相手の握手に答えに行くのは政治家の基本スタイル。 

今回初めてご挨拶させていただいた岡部俊彦陸幕長
今wikiで見たら、ヘアスタイルが今と違っていました。

空挺レンジャー出身で初級幹部の時に日航機墜落事故の災害派遣で
現場を指揮したという経歴をお持ちです。 

「わたし、帽子をかぶると10歳若返るんです」

 註:「これは岡部陸将ではなく第一師団長の西陸将である」というご指摘を
西陸将のお知り合いの方からいただきました。
「降下初めで空挺降下なさったんですか」と聞いたらしていないとおっしゃったので、
その時点でついうっかり岡部陸幕長だと思い込んでしまっていました。
ヘアスタイルを変えたんじゃなくてそもそも別人でしたorz 
お二方には失礼ひらにお詫び申し上げる次第です。 

 

今回、新しく海幕長になられた村川豊氏にご挨拶したかったのですが、
お忙しかったようで乾杯の後すぐに退席してしまわれました。

その時に、わたしは去年の総会ですでに村川さんにご挨拶していたのみならず、
一緒に写真まで撮っていただいていたことに気がついたのでした。
村川海幕長は経理補給出身で、海幕長に後方支援の職種出身者が就任するのは
海自の創設以来初めて・・・というか、帝国海軍が始まって以来ですよね。 

この人事について、海自内部でも色々とあったらしい、ということを
わたしは風の噂に聞きましたが、まあ前例のないことであれば
保守と革新の意見が同時に湧き上がるのは当然のこと。

それより、わたしが少し気になったのは、いつもは自衛隊の将人事など
取り上げない毎日新聞などが、「後方支援出身が海幕長」という言葉を
大きく見出しに持ってきていたことです。

防衛省ではアメリカとの二国間における後方支援の協定を公開していて、
そのガイドラインは誰でも目を通すことができるのですが、
まず支援物資には武器弾薬は含まれない、とされています。

そこで共産党始め野党は自衛のために武装することも、
兵站もまた戦闘である、という解釈から後方支援そのものが違憲である、
としてこれを否定するわけです。

そこでメディアとしては、この否定派に向かって、

「自衛隊は後方支援から始める戦争の準備のために村川海将をトップにした」

とミスリードしてその意見を後押ししているように思いました。
 

 

 

会合のあとは、団体で靖国神社での昇殿参拝を行いました。
毎年昇殿参拝の時には待合室の段階から宮司が出てこられ、
お話を伺うことに決まっています。

今回の昇殿参拝はもう一つ別の団体と一緒に行われましたが、
伺ったところ金沢にある神社の権禰宜を筆頭に職員が全員、
研修のような形で参拝に来られたということでした。
さすが全員が神職というだけあって、昇殿した後の立ち居振る舞いが
一般人とはまるで違っていました。

二礼二拍手一礼は正座のままで行うのが本職のやり方のようです。

参拝が終わると渡り廊下で神殿を臨みつつお神酒をいただくのですが、
今回はその時にも宮司のお話がうかがえました。

その時に、手前にある拝殿はずっと後にできたけれど、本殿の創建は
明治5年に遡り、それからずっとここにある、と聞いて、
わたしは古い歴史のある建物を前にするといつも覚える、
それから今日までの時の流れを瞬時に見る感覚がまた訪れるのを感じました。

 

この時宮司はこのようなことをおっしゃいました。

「このようなことを言うのは贅沢というものかもしれませんが、
初詣にあまりにたくさんの方々が参拝に来られるのを見ると、
私どもとしては実に複雑な気持ちになるのです」 

靖国の御祭神は国のために命を捧げた方々である。
ここに来ればその方々たちの尊い御霊に思いを馳せ、
その安寧と彼らが命をかけて守ろうとした国体というものを
これからもそのご遺志の元に護持していくことをお誓いするのが
参拝の本領というものであり、新年の初詣で商売繁盛や
子孫繁栄など個人的なお願いをするのは少し違うのではないか、
ということは、わたしも常々考えてはおりました。

だから、我が家の新年の初詣はいつも「二段構え」で、
金王神社や金刀比羅神社と靖国を「掛け持ち」します。

 

以前ここのコメント欄で話題になった御霊祭りでのトラブルについて、
わたしはこの機会に宮司に伺って見ました。

「御霊祭りというのは東京の夏のお祭りでは最大級と言えるものなんですよ。
参加者も多いわけですが、今の若い人は携帯で連絡を取り合って
境内に駆けつけ、そして・・・・ナンパをするんです」

(宮司ははっきり”ナンパ”といった)

「それで露店を中止にされたんですか」

「それもありますが、今参道を皆が集えるような広場に作り変えているので、
その部分に仮設の塀を作ってしまっているのです」

 

なるほど・・・。
いろんな点で世界中からの注目を受けるという意味では日本一有名な神社には
こんな「悩み」があったのですね。

わたしは崇敬会で行われた識者の講話を何度か聞き、
その過程で靖国神社の成り立ちからその歴史、存在意義に至るまで
一通りは勉強してきたつもりですが、そういう基本を抑えることなく、
一般の神社と同じようなお願い事をするつもりでやってくる善男善女を
靖国神社としてはありがたいことだと思いつつ複雑な思いで受け止めていると・・・。


この「内側からの告白」の意外さにわたしは思わずたじろぎました。

祈りの場であることはもちろん、英霊に感謝を捧げる場所であることが
蔑ろにされていると神社側では捉えられているということでしょうか。


伊勢神宮の神々は決して私利私欲を叶えるための祈りを聞き届けることはない、
というのは案外知られていない事実です。
伊勢神宮の「達人」に聞いたところ、そのような祈りを捧げる者には
逆に神罰が与えられることもあるというくらい厳格なものだということです。

靖国の祭神がそのような手厳しい罰を参拝者に与えるとは思えないのですが・・。

 

しかし、実際に新年に詣でる人びとの波の中に身を置いたわたしは
いかに晴れ着に身を包んでいようと、華やかな新春の空気の中であろうと、
本殿の鏡の前に身を置き瞑目した者の英霊への畏れと崇敬、感謝の気持ちは、
決して損なわれることがないものであるとどこかで感じています。

我々が享受しているのはこの社におわす神々の思いを礎に成り立った平和と繁栄。

日々の暮らしの中でもそのことに思いを致す瞬間があるからこそ、
我々はここにやってきて御霊に手を合わせるのであって、日本人であれば
その祈りの本質を
時と場合によって曲げることは決してしない筈だと信じるからです。 

たとえその感謝のついでにちょこっと虫のいい「お願い」をするとしても(笑) 


 

 

 

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江ノ島 児玉神社(おまけ:アメリカでのたま駅長死去報道)

2016-12-08 | 日本のこと

わたしが防衛部長を務める防衛団体で、

厚木米軍基地見学→江ノ島児玉神社参拝→横浜中華街で懇親会

という、その移動範囲ひとつとっても関東圏の人間には思いもつかない
大胆な計画の会が催され、それに参加してこの神社に初めて行ってきました。

児玉神社とはあの児玉源太郎を祭神とする神社で、
江ノ島の海を望む高台にあります。

当ブログで「児玉源太郎」というワードを検索すると、それだけで
たちどころにいくつものエントリが上がってくるというくらい、
今までこの慧眼の偉人についてはその功績について述べてきましたが、
迂闊なことにわたしはこのお知らせをいただくまで、江ノ島に
児玉源太郎の神社があるという認識を持ちませんでした。

明治以降の人物が祭神になっている神社、というのが
東郷神社以外にもあるということを知らなかったのです。 




原宿の東郷神社はご存知のように聖将とまでいわれた東郷平八郎元帥が
祭神として祀られています。

昭和9年に東郷元帥が亡くなると、国民の間に神社創建を望む声が高まり、
6年後の昭和15年海軍記念日に御鎮座祭が行われることになりました。

日本は八百万の神がおわすとはいいますが、東郷神社の境内に翻る
たくさんのZ旗を見るにつけ、日本では人が崇めたいものが
即ち神となるのだなあとわたしは実感するのです。


そこで思い出すのが、今年の5月に亡くなった貴志駅の猫駅長「たま」です。
人々に愛され、「ネコノミクス」という経済効果すらもたらした、この
スーパーキャットは、死後神様として祀られることになったようですね。

そこでついでに超寄り道ですが、アメリカにいたときに見た

「日本の猫駅長が死去」 

というニュースの話をしておきます。 

いきなりこのニュースが始まってわたしは「たま」げました。

テレビ局はFOX、レポートするのがデニス・ミラーという「コメディアン」。
もうこれだけで、お前ら真面目に報道する気ないだろ、って感じです。

わたしは「たま」の仕掛け人にお会いしたことがあり、生存中に
たまを見ておこうと夫婦で話していたのですが、アメリカにいながら
彼女の死を知ることになってしまったのでした。

しかもこのニュースによると、たま駅長のご遺体は
字幕に「Pneumatic」とある(Pは無音でニューマチックとよむ)
圧搾空気入りのチューブに入れられて日本海に水葬されたというのです。

ほんまかいな。

「たま」のwikiを見ましたが、埋葬法については触れていません。
だいたい、和歌山なのになぜ日本海に流されたという話になっているのやら・・。

で、このコメディアンが言うには、

「猫の体(彼はたまがオスだとして"He"といっている)は
圧搾空気のチューブに入っているので新鮮さが保たれます。
これがもし日本海で韓国人に拾われたとしたら」

「彼はヒーローからジャイロサンドウィッチ(ピタサンド。
写真はピタサンドではなくただのサンドイッチ)に

変身してしまうかもしれませんね!」

ってあほか。

説明するまでもないですが、

たまの遺体を日本海に流す→隣は韓国→韓国人は猫を食うので以下略

ヒーローとジャイロ(ギリシャ風)が韻を踏んでいる、
というだけで、この笑えないジョークを思いついたと見えます。
日本だったらどこぞの団体が大騒ぎすること間違いなし。

さらには日本海をSEA OF JAPANといっているし、
さあ怒れ在米韓国人(笑)


おっと、そんな話はどうでもいいんだった。
おヒマな方はwikiの「たま駅長」を読んでいただければ詳しいですが、
たまは死して皮じゃなくて名を残し、神様になってしまいました。
駅舎の横に創建された「たま神社」に祀られたのです。

まあ、日本という国は猫が神様になっても全く不思議はありません。
身近な例ではTOのご先祖も神様になっているわけでして(笑)
実在の人物が死して神として祀られるということも普通にあるのです。 

況や明治の偉人をおいてをや。

江ノ島はもちろん初めてではありません。
が、もういつだったか覚えていないくらい昔行ったきりです。 

ですから、駅舎がまるでこんな竜宮城みたいだったかとか、
全く記憶に残っていません。
昭和33年の白黒写真を検索していて見つけましたが、
形はやはりこの竜宮城なので、割と最近、赤く塗ったのではないか?
と思われます。

しかしなんというか・・・・すごいセンスですね。

まあ、誰も江ノ島にセンスの良さなんか求めてはいない(断言)
駅前のコンビニも海を見ながらバーガーを食べるカフェも昔はなかったな。

あーなんか記憶にあるなあ。
昔来た時には寒くて、ところどころに出没する猫が風に吹かれて毛をなびかせていたっけ。

「猫はいなくなりましたよ」

と同行の会員でわたし以外のもう一人の女性、広報部長のMさん。
ある有名な作家の娘さんだったりします。
彼女によると、昔は「猫島」といわれるくらいいたのが、
最近は駆逐されて滅多に見なくなったそうです。

猫は江ノ島では神様にならなかったようです。

歩いて行くと、なにやらこれも前にはなかった
欧風を装ったおされなホテルみたいなのが見えてきました。

「ホテルでもできたんですか」

「スパらしいですね。
あれができたとき、江ノ島リピーターからこんなの江ノ島じゃない!
と大変な反発だったとか」

江ノ島リピーターというのは、どうやら昭和の香りのする、
どこまでもダサい江ノ島を
愛している人たちのことらしいです。

こういう雰囲気はあまり変わっていない気がします。
前と違うことがあるとしたら、中国人が溢れかえっていること。
確かに現地の人たちにすれば、寂れた観光地だった江ノ島に
大挙して押し寄せてくれる中国人観光客はありがたいかもしれません。

おしゃれなようで全くおしゃれでないこの微妙な街並み。
スパには大江戸温泉物語のような大きな浴場があるとか。

昔の旅館っぽい建物もまだまだそこここに残されています。


最近これにそっくりな場所に行ったなあと思ったら金比羅山でした。
石段を、鳥居をくぐりながら登りつめると神社があります。



もちろん階段登るのがしんどい人のためにはあのエスカーもありまっせ。
江ノ島ファンの間で名高いエスカーとはなにか。

その昔、江の島の頂上に行くには
数百段の階段を上り下りしなければなりませんでした。
そこで、昭和34年に国内初の屋外エスカレーターとして、
高低差46メートルを4連で結ぶ全長106メートル の
「江の島エスカー」が登場しました。
頂上まで石段を上っていくと20分かかるところ、
江の島エスカーだとわずか4分でアクセス。
江島神社参拝に訪れるご高齢のお客様をはじめとし、
観光に来られる家族連れ・カップルのお客様にご利用頂き、
喜ばれております。(HPより)

なぜこれを普通にエスカレーターと称しないのかは昔から謎です。
Mさんの知り合いは、エスカーを降りてから、

「どこからエスカーに乗るの?」

と真面目に聞いたそうです。

さて、それはともかく、兒玉神社にたどり着きました。


続く。

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日本は ”自衛官の「戦死」を受け入れる覚悟があるか”

2016-09-30 | 日本のこと

先日、映画「シン・ゴジラ」を観て、わたしはあることを考えました。

主人公の官房副長官が、今から「ヤシオリ作戦」という名の
ゴジラ殲滅作戦に向かう陸自の部隊を前に、言葉を述べるシーンです。

「この中の何人かは生きて帰れないかもしれませんが・・」

正確なセリフではありませんが、つまり昔の司令官のように
出撃する隊員たちに、激励を行いました。

これは、言葉を換えれば自衛隊員たちに

「たとえ死ぬことがあっても戦ってほしい」=「死んでこい」

とあらためて念を押したということです。

わたしがこのとき感じたのは、巨大生物襲来という国難が起きるという設定の
この劇中の日本においても、ゴジラと戦って殉職するであろう隊員の
「弔われ方」というものは、おそらく今と寸分変わりないにちがいない、
という歯痒さと割り切れない思いとでもいうべきものでした。

この場合の「今」というのは、要するに、自衛隊員の殉職への慰霊が
防衛省と自衛隊が内々で行う年次行事にとどまっていて、国民には
それがいつどこでどのように行われたか全く告知されない、という状態です。

その慰霊碑も、一般国民の目の届かないところに、旧軍関係の慰霊碑と
まとめて(例 市ヶ谷防衛省敷地内)「隔離」されているという実情。
殉職隊員の慰霊には、例年自衛隊最高指揮官である総理大臣が出席しますが、

「日本列島は日本人だけのものじゃない」

とかつて言い放った某党首は、式典に外遊を当ててそれを理由に出席せず。
(こいつはその年の自衛隊の観閲式にも出席を拒否した)
左派、というより非日本人に政権を執られていたあの3年間は当然だったとしても、
その訓示において必ず自衛官の殉職に対する慰霊を盛り込む安倍首相の政権下でも、
自衛官の殉職に対する扱いは決して十分なものとは思えません。

そも、自衛官が殉職することの「意味」すら、全くあやふやなままなのです。

「自衛隊が憲法上違憲のまま」、つまり自衛隊の存在意義を曖昧にしたままでは、
彼らが何のために存在しているのかに始まって、彼らは何のために命を賭けるのか、
何のために危険を冒すのか、という問いにすら、明確な答えがでないのです。

彼らは自ら国民の負託に応えることを宣誓します。
それはすなわち「国」のために奉仕することでもある「はず」です。


しかし、その公務において、万が一尊い命が奪われたとき、
国のために犠牲になったはずの命なのに、その国から顕彰されず、
慰霊行事も日本国の名前で行われない、というのが現実です。

「シン・ゴジラ」で犠牲になった自衛官は、
果たして国を守るために殉職したとして特別に慰霊されるのか。
それともやっぱりこれまでのような国民不在の慰霊のままで済まされるのか。


ゴジラではなく、法案の改正によって自衛隊員の活動範囲が拡大したとき、
可能性として「殉職」という名の戦死が起こりうる可能性があります。
こういったことについて、新潮45の「死ぬための生き方」という特集に
海上自衛隊の福本出元海将が寄稿しておられます。

今日はこれをご紹介をさせていただこうと思います。




自衛官の「戦死」を受け入れる覚悟があるか


「湾岸戦争症候群」という言葉がある。

1991年1月、クウェートに侵攻したイラクに対し、
米国を中心とする多国籍軍が空爆を開始、のちに
「砂漠の嵐」作戦と呼ばれた戦車戦など激しい戦闘を展開した。
終結後、帰国した米兵達には、精神に異常を来すものや自殺を図る者が続出したという。
「湾岸戦争症候群」、いわゆる戦争ノイローゼである。

いずれ、日本もこうした症状に対処しなくてはならない日が来るだろう。

こう書くと、多くの人ばギョッとするかもしれない。
それほどまでに今の日本は平和で、戦争ノイローゼとはどこか遠い国の出来事だ。
自衛隊とて例外ではない。
目下、海外派遣はPKO(国連平和維持活動)がほとんど、
大規模な災害派遣の時もメンタルダウンする隊員がいないわけではなかったが
少数派で、世間の耳目を集めるほどではなかった。
しかし今後はどうだろうか。


平和安全法制が成立した今、前線か後方かはともかく、
自衛隊が「戦う舞台」として海外に派遣される可能性は飛躍的に高まった。
PKOや災害派遣とは異なる過酷な現場に向かうことになるかもしれない。
この時求められるのは、何より「死」を受け入れる覚悟ではないかと私は思っている。

かつての自衛隊は、存在するだけで意味があった。
しかし東西冷戦終結後は実際に運用できる組織や編成が求められ、
現在では「真に戦える自衛隊」としての訓練をおこない、
多国籍軍とともに任務に就いている部隊もある。

だが、強靭な刃を持つだけでは、本当の意味で強い武人にはなり得ない。
実力を培うことは言うまでもないが、同時に、
生と死について真剣に考える必要があるだろう。
海外派遣のたびに多くの隊員が「湾岸戦争症候群」のような症状に悩まされていては、
「真に戦える自衛隊」などとは言えないからだ。


人は「死」に向き合うと強くなる。
東日本大震災の災害派遣で、私は部下の姿にそれを痛感した。
当時、私は海上自衛隊の掃海隊群司令だった。

掃海隊群は三陸の沿岸部で行方不明者の捜索にあたっていた。
多くのご遺体を発見・収容した軍司令部の水中処分班に、ある一人の海士長がいた。
仮にA士長と呼ぶ。ついこの間まで高校生だった若者である。

彼は出勤する一ヶ月ほど前に、江田島にある第一術科学校の水中処分過程を修業していた。
彼が着任した水中処分班とは、海に潜って機雷の識別や処分を行う
特殊技能を持った隊員たちで構成されている。
A士長は、先輩たちと共に三陸の海に潜った。
しかし一週間後、潜水指揮官から船上作業員に指定された。
潜ることを禁止されたのだ。

彼はボートの上で、先輩たちに指示されながら、
発見されたご遺体をボディバッグに収容していた。

それまで彼が死んだ人に接した経験は、幼い頃に葬式で見た祖父の姿だけだった。
それも眠っているかのような、穏やかな姿だったそうだ。
だが水死体で発見されるご遺体は、それとは全く違っていた。

A士長が捜索現場で初めてご遺体を発見したとき───。
人間ではなく、布団が海に浮かんでいるのだと思ったという。
着衣も毛髪もなかった。
肌色は失われ、まるで漂白したかのように真っ白である。
体内に発生したガスで、異常に膨張していた。
眼窩はえぐられ、よく見ればところどころ白骨化している。
ボートに引き上げた途端に崩れ、腐敗した肉片や内臓が飛び散った。
A士長は思わず嘔吐してしまった。
異臭が鼻にこびりつき、船に戻ってシャワーを浴びても取れた気がしない。
ベッドに入って目を閉じても、昼間の水死体が瞼に浮かんだ。
眠れない日々。

夜が明ければ、再び捜索現場に出る。
沖合から沿岸部に近づいていくには、漂流するパドル(櫂)で
かきわけていかなければならない。
倒壊した家屋や漁船、筏などが水面を漂う中、先輩たちは
湾の奥へと処分艇(ゴムボート)を進めていく。
全く怯む様子はなかった。

A士長は、行かなければならないことは頭ではわかっていても、
怖くて足がすくむばかりだった。

水中の視界はほぼゼロ。
汚濁した海中に潜っても、バディと呼ばれる相方の先輩はおろか、
自分の手先すら見えない。

そんな中での捜索は、まさに手探りだった。
何かが指先にあたるたび、どきりとして呼吸が荒くなる。
ボートに揚がると、ボンベの残空気が先輩よりずっと少なかった。
潜水指揮官は、これ以上A士長が潜ることに危険を感じたのだ。

強さと優しさと

そのA士長が変わったのは、ある夜、
先輩のマスターダイバーから話を聞いたときだった。

「俺たちは、これまでも不時着水した機体の捜索、『なだしお』事故や
奥尻島の津波被災者の捜索に行くたびに、何人ものご遺体に接してきた。


俺も最初は怖いと思ったよ。
目の前に突然ご遺体が現れたときは、その瞬間、
海中でパニックになりそうになったこともある。
でも、ある日、気が付いたんだ。
どんなに変わり果てようが、この仏さんは誰かの親父やおふくろ、息子や娘なのだと。
家族が探したくても、それは俺らにしかできないんだと。


それ以来、おれはご遺体を見つけたら、
触れる前にまず手をあわせることにしている。

そして
『お待たせしました。寒かったでしょう。怖かったでしょう。もうすぐ帰れますよ』
と、心の中で唱えるようになった・・・・・」

A士長は、先輩の言葉で、ご遺体を怖いと思った自分が情けなくなった。
そして冷たくなった祖父に涙した自分を思い出した。
夜が明けたら、一刻も早く現場に向かおう。


先輩たちも、A士長の顔つきが変わったことに気付いていた。
彼は再び水中に潜り、捜索の任務に当たったのである。
津波によって破壊し尽くされた捜索現場は、大けがや感染症の罹患など
多くのリスクが伴う。
しかし隊員たちは疲れも見せず、危険をものともせず、
黙々と現場に立ち向かった。

一方で、船に戻り、機材の整備をしながら涙を浮かべていた隊員の姿も私は知っている。
それは何より、犠牲者とその家族を思っていたからにほかならない。
同時に「死」と真正面から向き合っていたからにほかならない。

A士長もまた、死者と向き合う先輩の姿を知り、残された家族に思いを馳せ、
恐怖を克服した。そして真の勇気を持ったのである。

私が海上自衛隊幹部学校長の職にあるとき、
菅野覚明先生(東京大学教授・当時)の講義を拝聴する機会があった。
菅野先生には長年、幹部学校で武士道についての講義をお願いしている。
先生は

「武士道の真髄は強さと優しさが表裏一体になっている姿である」

と説かれた。

守るべきものがある者は強い。

たとえば自分の家族や恋人、あるいは彼らが住む故郷、
これを守りたいと言う気持ちは、損得勘定抜きの愛情である。
我が身を顧みず困難に立ち向かおうとする勇気は、他者への優しさがあるからこそだ。

掃海隊群の中でも、当初、行方不明者の捜索に怯む隊員はいた。
A士長ばかりではなかった。
しかし被災地の人々から「ありがとう」という言葉を聞くたび、
彼らは強くなっていった。
この人たちのためにがんばろうと奮起したのだ。
私は未曾有の災害に立ち向かった隊員たちに、
真の強さを秘めた「武士道精神」を見たように思っている。
自衛官の勇気は、まさに国民の負託によって支えられているのだ。



今後、「真に戦える自衛隊」として、
日本も国際社会のなかで役割を果たしていかなければならない。
またそれを求められるようになっていくだろう。

自衛隊OBとして、後輩についてはあまり心配していないが、
一方で政府は、国民はどうだろうか。

これまでも自衛隊には職務中の事故で亡くなる者がいたが、
彼らは「殉職」であり「戦死」ではない。
しかし今後、自衛官の戦死者が出ることを想定しておく必要がある。
これを私達は真剣に考えなくてはならない。

自衛隊を戦場に送り出す政府は、国民は、
果たして「戦死」を受け入れる覚悟が本当にできているだろうか。
もし戦死者が出たことで時の政府がひっくり返るようなことにでもなれば、
自衛隊は戦うことなどできないのだ。

最悪の事態を想定することを、「言霊」を理由に忌み嫌い、その結果、
原子力災害を拡大させてしまったような愚を繰り返してはならない。

40年ほど前、「人の命は地球より重い」と言った首相がいた。
命の尊さという意味では、これは正しいのかもしれない。
しかしそれは、「事に臨んでは危険を顧みず」と服務の宣誓をした
自衛官の任務遂行を否定するものではないはずだ。

世界のどの国も、国家のためにその尊い命を捧げた者は永遠に顕彰され、
そのための施設が整っている。そこには他国の元首も訪れる。

翻って日本はどうか。

国民は死ぬことを従容として受け入れた自衛官を忘れずにいるだろうか。
また彼らを弔うに相応しい場所があるだろうか。

防衛省(市ヶ谷)には殉職者慰霊碑が建立されているが、
一般の人が気軽に訪れるような場所にはない。
国家元首が訪れる場所として想定されているわけでもない。
さりとて靖国神社は政争の具になってしまって久しい。

自衛官が戦死する。
そのときどう弔うのか。

「死」を意識しない国家の基盤は脆弱であると言わざるを得ない。 



著者  福本出 ふくもといずる

(株)石川製作所東京研究所長
元海上自衛隊幹部学校長(海将)

79年防衛大学校卒(23期)
在トルコ防衛駐在官、呉地方総監部幕僚長を経て、
2010年12月に掃海隊群司令。
14年8月退官。

 

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駆逐艦「長波」慰霊碑〜京都霊山護国神社

2016-09-19 | 日本のこと

夏前に京都護国神社に参拝した時のご報告です。
この広い境内に建立されている顕彰・慰霊碑を紹介していきましょう。



馬に乗った兵士の帽子から、明治時代のものだとわかります。

騎兵第20聯隊
騎兵第120大隊
捜索第16聯隊
捜索第53聯隊

の慰霊碑。

騎兵第20連隊は姫路で結成されましたが、錬成の地が京都の深草だったことから
京都の護国神社に慰霊碑が建てられることになりました。

車での移動中偶然見つけた「陸軍用地」の石柱をきっかけに
伏見が「陸軍の街」であることを知ったのですが、そのせいか、
この護国神社にも陸軍の部隊の顕彰碑が多くあります。

捜索第16連隊は大東亜戦争においてはすでに騎兵ではなく、
軽装甲車2中隊、自動車2中隊としてルソンで方面本部と共に戦い、
そこで終戦を迎えています。

ブロンズ像は結成時の、まだ騎兵だった頃の兵士の姿です。



馬と言えば、ここには愛馬の碑という、軍馬慰霊碑がありました。
「めんこい仔馬」という歌を思い出しますね。



野砲兵第122聯隊の顕彰碑。 

連隊は昭和13年伏見で編成され、直ちに大陸に渡り終戦をそこで迎え、
昭和21年復員してきました。
顕彰碑は生きて帰還を果たした元将兵たちの手によって建立されました。



ひときわ大きく人目を引いた「陸軍特別操縦見習士官之碑」。
揮毫したのは佐藤栄作首相(当時)です。(達筆!)
特別操縦見習士官とは大東亜戦争終盤、高等教育機関の卒業生・在学生中の志願者を
予備役将校操縦者として登用した制度あるいは登用された者を指していいます。
特操と略し、学鷲(がくわし)と呼ばれることもあったようです。

4期生までが養成されましたが、そのうち特攻に動員されたのは1期生と2期生です。
あとは末期になって飛行機と燃料がなくなったため、大部分が生き残りました。

慰霊碑の横にある碑文には、

「二千五百余の若人は学業をなげうち陸軍特別操縦見習士官として
祖国の危機に立ち上った。二期、三期、四期と続く。
ペンを操縦桿にかえた学鷲は懐疑思索を超え、肉親、友への愛情を断ち、
ひたすら民族の栄光と世界の平和をめざして、死中に生を求めようとした。


悪条件のもと夜を日についだ猛訓練を行ない学鷲は
遠く大陸、赤道をこえて雄飛し、あまたの戦友は空中戦に斃れ、
また特攻の主力となって自爆、沖縄、本土の護りに殉じたのであった。」

とあります。
これも建立は「特操会」となっており、生存者らしいとわかります。 

慰霊碑には「隼」「飛燕」など陸軍の飛行機が描かれ、軍刀を手に
立つ彼の座っていた椅子には、書が開かれたたまま伏せて置かれており、
学業半ばにして彼らが戦いに身を投じたことを表しています。




さらに、碑文の脇にはラバウルから採取してきた石が展示されています。



こちらは海軍飛行予備士官の霊を祀る「白鴎顕彰之碑」
上の区域にありました。


舞鶴に海軍基地はありましたが、京都で編成された部隊がなかったらしく、
海軍学徒士官の慰霊碑は密やかなものでした。




後ろの階段から先は一人300円の拝観料を自動改札機に入れて入場します。
理由はわかりませんが、国からの補助がなくなったことと、上には特に
坂本龍馬の墓(慰霊碑ではなく本当の墓所)があるので、誰でも入れるようにすると
何かと面倒なことが起こるからに違いありません。

ゲート手前の境内には並べられたいくつもの慰霊碑が。
左から

歩兵第百二十八聯隊顕彰之碑
  
   ビルマ方面軍の指揮下で戦い当地で終戦を迎える



第128連隊が転戦した戦地が地図で示されています。




その戦地をめぐり集めてきた現地の石と共に、現地に遺されていたらしい
鉄兜と銃が据えてあります。

息子がこれを見て、継ぎ目などが消滅し銃口も塞がっているため

「これ、本物じゃないよね」

と勘違いしたくらい、経年の錆びと腐食が層になって銃身を覆っていました。



◯御宸筆 歩兵第百九聯隊軍旗 奉納の地

◯歩兵第百九聯隊顕彰之碑 
   
   日中戦争から大陸にあり、最終地は湖南省



神社を抱く山の斜面には境内に慰霊碑のある部隊についての
編成から終戦に至るまでの戦歴を記したものがあり、



全員の名前が記されている巨大な石碑がありました。
戦死した者だけでなく、戦後亡くなった人も名を刻むことができるようです。

◯石部隊独立歩兵第十一大隊 北支沖縄戦歿勇士慰霊碑

   天津で編成され、北支から最終的には沖縄戦に参加
   昭和十九年沖縄に転戦米軍上陸と共にこれを迎え撃ち激戦の末
   部隊は突撃を敢行全員玉砕す、と碑文にある

◯第二十三野戦防疫給水部 戦歿者慰霊碑

   ニューギニアで戦死 野上軍医少佐以下138名
   パラオで戦死 河原軍医中尉以下26名
   内地帰還後戦没 高渕軍医少尉以下26名

防疫給水部とは陸軍にあった、疫病対策を目的とした医務、ならびに
浄水を代表するライフライン確保を目的とした部隊を指します。
軍医が隊長を務めていたことから、衛生部隊をも兼ねていたようです。



右から、

鎮魂  前述・歩兵128連隊の慰霊碑


         
ビルマ方面派遣安 工兵第五十三聯隊顕彰碑

足元にはビルマの石で作った狛犬のような像あり

    
   「ビルマの各地に勇戦奮闘 工兵の本領を発揮して輝しい戦歴を残した

    然しながら 雨季の泥濘と乾季の灼熱に加え悪疫瘴癘の戦場に於て 
    長期激戦の為620余名の戦友が護國の神と化した」とある

    補給線を軽視した作戦のため多くの犠牲を出したインパール作戦に参加

◯嵐第六二二七部隊 輜重兵第百十六聯隊顕彰之碑
 
日中戦争後京都で編成された第116師団の輸送・需品科。
慰霊碑には
    
   「もの言わぬ軍馬の献身に支えられて七年間の悲惨な戦いに耐えた 

    長江の流れ アラカンの山 はるか遠い異境の地で 
    血と泥の戦場に散ったわが友よ 再び帰らぬ愛馬よ」
    
とあります。



第百十六師団衛生隊顕彰碑

     病兵の救出収容、警備、医療を任務とする衛生隊
     終戦を迎えた中国・安慶の石とともに



第116師団衛生隊の生存者によって書かれた大陸での戦歴。
5年の間に収容した患者数は13,000以上であることや、戦後生存者が
編成地の滋賀県と安慶市の間に友好を結ぶべく、桜を寄贈するなど
活動と努力を続けてきたことが記されています。



ほとんどがで編成された師団・部隊の慰霊碑となりますが、滋賀も含まれるようです。



ここで有料ゲートから奥の墓所・慰霊碑のある区域に入ってみました。
周りも荘重に設えられたこの一角はおそらく昭和14年からあるものでしょう。



碑の正面、裏面、どこを見ても全く文字が解読できないわけですがorz
これは、墓所の頂上に木戸孝允の墓があることと関係していると見え、

「木戸公神道碑」

と名付けられています。



碑の両脇に左右対称に植えられた樹木には

「明治維新百年記念植樹」

とあります。
明治維新元年がいつかという定義は難しいと思うのですが、仮にこれを
大政奉還の行われた慶応3年(1867年)だとすると、この植樹が行われたのは
1967年(昭和42年)ということになります。



水が淀んでしまっていますが、できた当時は人工滝となる予定だった池。
ここは「昭和の杜」という広場で、大東亜戦争参加者の慰霊のために整備されました。



乃木大将の母の慰霊顕彰碑がありました。

明治29年、乃木将軍は台湾総督となり、母親の壽子と夫人静子を伴いました。
赴任地の台湾で母親は亡くなってしまったのですが、遺言によって亡骸は
台北の共同墓地に葬られ、最初に台湾の土となった日本人移住者となります。

明治天皇大葬の日、乃木将軍夫妻が殉死したのち、
夫妻の遺髪だけが台北に送られ、母堂の墓側に葬られることになりました。

昭和35年中華民国政府は、北投にある中和禅寺に日本人無縁公墓を創建し、
それ以来乃木家の遺骨遺髪を、霊位とともに祀ってくれていましたが、
昭和43年、明治百年記念事業として日本の団体が、乃木家遺骨遺髪及び霊位を
故国に奉還し、ここに合祀して碑を建てたという経緯です。




京都という地勢上、当護国神社には海軍、ことに軍艦の碑は
ないものと思っていたのですが、たった一つあったのが駆逐艦「長波」の碑

昭和十九年十一月十二日
レイテ島オルモック湾に於いて
戦没乗組員二百四十七柱

最近供えられたらしいかすみ草の花束がありました。

長波は1942年6月30日、大阪藤永田造船所で竣工
同年8月北方キスカ島へ船団護衛 
九月南方トラック島へ向う第二水雷戦隊の一艦としてショートランド基地として、
ガナルカナル島の陸軍部隊を支援10数回にわたる輸送を遂行
同年10月南太平洋海戦、11月にはルンガ沖夜戦にニ水戦旗艦として参加、
1943年再度北方艦隊に編入アッツ島支援及びキスカ島の撤収作戦に従事す

この作戦で船体を損傷し、修理のため母港舞鶴に帰港
修理後九月に南下ラバウルを基地として、ブーゲンビル島沖海戦その他の各海戦に参加

11月11日ラバウル港における対空戦闘で被弾し航行不能となり、
巡洋艦「夕張」及び「長良」の両艦に延々5,000海里を曳航され、呉軍港に入港修理後、
翌年七月連合艦隊と共にシンガポール港に入港
10月ブルネイ港を経由レイテ島沖海戦に参加
11月マニラとレイテ島間の物資輸送護「エ」作戦行動中、オルモック湾において
米空母艦載桟350余機と交戦 激烈な対空戦闘の末ついにオルモック湾に戦没する


戦没者 247柱
時刻12時45分
東経124度31分
北緯10度50分



長波の名とともに何人かの記名がありましたが、人数の少なさからみて
これは碑の創建に携わった生存者ではないかと推察されます。



どこかで見た名前だなあと思ったら、このかた自民党の議員ですよね。
林田悠紀夫氏は舞鶴出身で、京都府知事を務めたこともありました。


林田氏は東京帝國大学法学部卒業後、海軍短期現役士官となり、

第三一航空隊主計長としてマニラ、ジョグジャカルタで勤務
1945年4月、ボルネオ海軍民政部経済課長を命ぜられパンジェルマシンに転属
7月連合軍のバリクパパン上陸によりボルネオのジャングルで戦闘に当たった
敗戦後1年間の捕虜生活を送り復員

とWikipediaの経歴にはありますが、「大鯨」勤務だったという記録はどこにもありません。
可能性としては「大鯨」で南方に向かった経歴があるといったところでしょうか。







 

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二人のベルギー大使と日白友好(おまけ:オリンピックロゴ問題)

2016-08-25 | 日本のこと

日白友好、とはあまり聞いたことがない言葉ですが、
日本と白耳義の友好、つまりベルギーとの友好を指します。

いきなり余談ですが、各国を漢字で表し「日●」とすると、妙なことになる国があります。

「日氷友好」ー日本アイスランド友好

「日乳友好」ー日本ニュージーランド友好

「日裸友好」ー日本ラオス友好

「日Q友好」ー日本イラク友好

「日豚友好」ー日本ブータン友好


ブータンは漢字表記では不丹なのに、なぜ一字だと「豚」なのか。

「ぶーた・・・ん???」



さて、もうはるか昔のことのような気がしますが、東京五輪のロゴ問題で
応募から選ばれた(ということになっていた)デザイナー、佐野研二郎氏の
デザインが、ベルギーの王立劇場のロゴにそっくりだったといわれたとき、
佐野氏を擁護一色だったマスコミが、テレビのコメンテーターに

「(そのベルギーの劇場って)有名なの?」「これで有名になったね」

などと劇場の売名行為であるかのような発言をさせ、劇場側が

「この抗議で私達にどんなメリットがあるのか説明してほしい」

と激怒したということがありました。



ベルギーは親日国であり、両国は大変友好な関係を築いています。
かつて日本が関東大震災に見舞われた時、アメリカ、イギリスに続いて
小国のベルギーが世界で三番目に多い義援金を送ってきたということがありました。

東日本大震災で、台湾がアメリカとほぼ同じ義援金を送ってきたようなもので、
このことは日本人を感激させ、かの国への親近感はぐっと深まったのです。
そんな両国間の友好にヒビを入れかねないこの無神経で相手をバカにした発言が
いかに大手広告会社の意を受けた浅はかな電波芸者によるものでも、
その無礼さに呆れた日本人はわたしだけではありますまい。

 

一人の人物や団体が2カ国間の固い信頼関係のきっかけとなることがあります。
日台における八田與一、日印におけるラダ・ビノッド・パル博士。
日本とトルコの間には難破したエルトゥールル号の乗員を助けた日本人たちと、
数十年経ってその恩を返してくれたトルコ政府。

日本とベルギーには、二人の外交官がいました。

アルベール・ダネタン(Albert D'anethan)は1893年(明治26年)に
特命全権公使として来日着任して以来16年の長きにわたってその職にあり、
その間、一国の代表としての任務にとどまらず、日本を理解し、
世界に向けてそれを発信してくれた「日本の恩人」でした。

自分の着任国が受ける誤解までを自分の足を使って解き、それを
世界に発信してくれた大使は、おそらくダネタン伯爵をおいてなかったでしょう。
その話をする前に、もう一人のベルギー大使をご紹介します。


日本とベルギーの間に国交が成立したのは1866年(慶応元年)。
ダネタン男爵は国交成立前の「特別全権公使」であり、正式な大使ではありません。
ダネタンの後任という形でベルギーが送ってきた正式な大使が、1920年に来日した


アルベール・バッソンピエール男爵

です。
この人物こそは当時のベルギーを東日本大震災における台湾のような
「小さい最大災害支援国」と知らしめた第一の恩人でした。

A.バッソンピエール

バッソンピエール大使は震災発生を受け、すぐに本国にそれを通知し、
「日本人救済ベルギー国内委員会」を結成してその推進役を務めました。
wikiに掲載されている大震災を描いた有馬生馬の絵には、白い第二種軍装をまとった
海軍軍人の横に、麻のスーツで立つバッソンピエール大使とその姪の姿が見られます。

犬養首相の孫娘、犬養道子氏の著書「花々と星々と」には、彼女の母親が
政府の親善パーティで「バッソンピエールさん」の席の隣に座り、

「気のいい話好きのおじさんで助かっちゃった」

と言っていたことがを書きのこされています。

このときのベルギーは、チャリティを目的の音楽会、講演会、バザー、さらに
『日本の日』が各地で催され、国を挙げてキャンぺーンに積極的に取り組みました。

しかし、この善意がバッソンピエール大使一人の掛け声で湧きあがったのかというと
それだけではなく、これはいわばイラク戦争におけるトルコ政府のように

「日本に恩返しをせねば」

という国民の声に後押しされたというべきものでした。
関東大震災(1923年)の9年前に起こった第一次世界大戦。

このとき、ドイツはべルギー領内を通過してフランスに攻め込もうとしました。
ベルギー王国は当時永世中立を標榜しており、国王のアルベール1世(イケメン)は

「ベルギーは道ではない。国だ」

「結果はどうであろうと、拒絶する。
我々(王族と軍人)の義務は国土を守りぬくことだ。この点で間違えてはいけない」

としてドイツ軍の侵攻に根気強く反抗しました。

アルベール1世

武力において圧倒的に劣るベルギー国防軍は、緒戦では敗退を余儀なくされましたが、

国境の一角を終戦まで死守しました。
連合国からは何度も援軍の要請がなされましたが、これをほとんどを拒絶し、
最後まで自国の防衛軍中心に戦い抜いたのです。


「自国を守れというけど血を流すということがどういうことかわかっているのか」

などと宣う落合恵子さんに、アルベール1世の気概をどう思うか聞いてみたいですね。


さて、そんな小国ベルギーの姿に、当時の日本人は感激し、熱狂しました。
戦闘が続いている間、日本人は勇敢なベルギーを応援するために
連日義援金キャンペーンを行い、支援活動を行いました。

なかでも、朝日新聞の創刊メンバーであり社長である村山龍平

「中立を蹂躙せられ国歩艱難を極めつも親しく陣中に在はして
将卒と共に惨苦を嘗め給へる白耳義皇帝アルバート陛下の勇武を欣仰」
(大正3年11月7日付大阪朝日新聞)

として、備前長船の名刀一振りを献上しています。
これらの激励と支援を、ベルギーの人々は感謝しつつ受け止め、
その記憶が終戦4年後の未曾有の震災における国を挙げての支援活動につながりました。

このときにベルギー国内で配布された「元兵士へ」(1923年)と題する文書には
ドイツ軍の侵略と戦うべルギー軍兵士に対して、支援と声援を寄せてくれた日本に
このときの恩義を今こそ返そうではないかということが書かれていたそうです。

ただ、その後、ドイツを相手に三国同盟を結んだ日本に対して、
当然のことですが、ベルギーは猛烈に抗議を行っています。
そして、抗議の印として日本大使引き上げという措置を取り、
日本を愛していたバッソンピエールは失意のうちに帰国したと言われます。 


さて、時間は巻き戻ります。
バッソンピエールの前任であったダネタン伯爵が
特命大使として着任した翌年、日清戦争が起こりました。

このことを、ダネタン大使は

「アジア人の間の戦争においてはおそらく初めてだと思われるが、
日本は傷病者に配慮し、赤十字は皇后陛下の後援のもとで
完璧なまでに仕事を遂行し、ジュネーブ協定は遵守されている」 

と書いています。

ところが、 旅順港の敗残兵掃討の際、日本軍が旅順市民を殺戮したということが
米紙などによって告発されました。

犠牲者数も当時ですら500人から1500人まで諸説あり、例によって
現在中国政府の見解は2万名弱と膨れ上がっているのが南京と同じ構図です。

日本軍が進撃する前に旅順に駐屯した支那兵は、恣いままに民家に乱入し、
家具を破壊し、略奪を始めたと現地の中国人が証言しており、
故に日本軍が来た時には時は旅順市街はすでに空っぽに近かったといいます。

しかも実際のところ、当初日本軍は

「被害者の死体を集めて焼き、骨を棺に入れて埋め、
「清国将兵の墓」と書いた木の札をたて」

つまり、敵兵の死骸を切り刻んだどころか、
彼らを火葬にして葬ってやっていたことになります。 

しかし現在、「旅順大虐殺」のWikipedia記述は「数はともかく虐殺はあった」
ということを前提にこの戦闘が論じられており、ダネタンの報告も、否定的だった
当時の世界の新聞の意見すら、全く顧みられていないのが異様な感じです。

戦死者に非戦闘員はいなかった、と証明することができないがため、
それが虐殺として定義されてしまっているというように思われました。 


そしてその曖昧さこそが、当時の米のマスコミと中国政府によって
この掃討戦が虐殺としてプロパガンダに利用されるきっかけとなったといえましょう。


その急先鋒であったのがアメリカの新聞ワールド紙で、この大虐殺について

「帝國陸軍が清帝國の非戦闘員・婦女子・幼児ら6万人を虐殺した。
逃げられたのはわずか36人だけだった」

とまるで見てきたかのような記事を書いて日本を非難しました。

「無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は
言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」

という記事には、それが便衣兵か民間人かの論拠はなく、当初日本人の遺体が
切り刻まれ(体の部分を持って行ったら賞金が出たため)それに怒ったなどという
日本側の報復感情については全く考慮しない一方的な論調でした。

このときの他の新聞の論調は概ね「日本軍の行為は報復であった」というものでした。
ニューヨークヘラルドなどは虐殺があったとしながらも、
土城子戦への報復として正当化する形で日本を擁護していますし、
英紙「セントラル・ニュース」は

「公正な戦闘以外では一人の中国人も殺されていない」

またフランスは

「日本軍は味方の捕虜が支那兵に四股を斬り分けられるなどして
虐殺されたのを見たために支那兵を皆殺しにしたのだ」

と書き、残虐行為は日清双方にあったとし、オーストリアの各紙も
残虐行為は日清共にあり、ただし日本のそれは報復だったと書き、
ドイツの新聞は日本軍にやりすぎはあったが、正当な理由によるものとしました。


ダネタン大使はこれに対し、調査を行い、

旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行為は、

新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によって
多分に誇張されたものであった。

その場に居合わせたフランス武官ラブリ子爵より直接聞いたところ、
殺されたのは軍服を脱いだ兵士で、婦女子が殺されたのは真実ではない。
住民は占領前に避難、残っていたのは兵士と工廠の職工だけ。
日本兵は無残に扱われた戦友の死骸を見ながら、
何とか敵を捕虜にするだけにとどめた。」

と日本の立場を擁護する報告をあげて本国に送信しました。

日本が本当に民間人を虐殺したのかどうか、それが
全て残虐な支那兵への報復であったのか、それは今はさておき、
心証だけから書かれた、事実とは全く異なる数字をあげ、
それをもって一国を非難することを目的に書かれた記事は訂正されるべきであり、
ダネタン大使はそれに断固声をあげてくれたのでした。




日露戦争においても同じようなことがありました。
戦争前夜、欧州の各紙が口を揃えて

「日本人の外国人への憎悪が増し、日露が戦うと在日外国人が虐殺される」


といいだしたことがありましたが、ダネタン大使は

「外国人への憎悪や敵意は日本に存在しない。
単身、あるいはメイドを連れただけで、外国人の婦人が日本各地を旅行している。
在日外国人は仮に戦時下になっても日清戦争同様、全く安全である」

と自分の体験に基づいてその意見に反論してくれています。
また開戦後も、ロシア兵捕虜が日本で虐待されているとする報道が流れたことがありました。

これもとんでもないデマで、実際は「敵兵を救助せよ!」の明治版である
上村将軍のリューリック救助で
多くのロシア兵の命が助けられたばかりでなく、
(もちろんロシア側が撃沈した船の日本兵の命を救ったことなど一度もない)
彼らは日本の捕虜生活で
大いに優遇され、虐待どころか読み書きの出来ない捕虜に
日本側は語学教室を開いてやっていたくらいでした。
(在日外国人キリスト教団の主導によるものだったといわれている)

さらに日本軍がジュネーブ条約に則り、直ちに艦の従軍司祭を自由にして
海戦で死亡したロシア兵をロシア正教の司式で葬ることを許したことも、
ダネタン大使は丁寧に説明を尽くし、世界に向けて誤解を解いてくれたのです。


よく、日本の戦争責任が日本にあるとしたら、それは外交で国際問題を解決せず
戦争という安易な道を選んでしまったことだ、という人がいます。

そんな人にわたしは聞いてみたいのですが、それではあの時日本が
外交でうまくやりさえすれば、日本は戦争をせずに済んだのでしょうか。
それ以前に、外交で戦争を避けるということを欧米の大国が許したでしょうか。

大陸に進出したのが日本の罪だという論説もあります。
しかし、それを非難していた当時の大国は全て例外なく植民地をもち
「お前が言うな」状態でした。
要は、既存の大国が、新興発展国の日本に
自分たちの地位を脅かすことを許さなかったということなのです。

盧溝橋事件以降の日中戦争は
中共の挑発による疑いが濃厚であったにもかかわらず、
世界のメディアは、アメリカと中国の主張だけを聞いて全く日本の味方をしてくれませんでした。
その欧米メディアは、国民党中央宣伝部の手先になって、南京事件を
大虐殺事件に仕立て上げるに至ったわけですが、これも全て日本のせい、
すなわち日本の支那政策が失敗で、
情報戦に勝てなかったことは日本の罪でしょうか。



後からならなんとでも言えますが、たとえば旅順事件のとき、日本政府は

政治的配慮から伊藤博文が我が国の立場を公式に表明すべく、

● 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった

● 住民は交戦前に逃亡していた。
逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。

● 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。

● 日本側は軍紀を守っていた。

● (ワールド紙の)クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。

● 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、
二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。

 
とし、ちゃんと釈明を行っているのです。

それはアメリカの新聞に取り上げられて一応世界にも好意的に迎えられ、
(もともと虐殺を非難したのはアメリカだけだったのですから)
虐殺への非難は当時は収束を見たということになっています。

しかしアメリカは日本の大陸進出そのものを非難する立場であり、

虐殺を捏造したのもおそらく政府の意を受けてのことだったわけですから、
日本政府が懸命に潔白を証明しても、大局的にはあまり意味がなかったと言えます。

戦争という手段を選ばされた日本が、世界デビューしたばかりで外交の歩を
読み切れず、失敗したというのは大陸における日本の悔やむべき失敗とはいえ、
決して「安易に戦争の道を選んだ」と自分の国を責める問題ではない気がします。

あのとき欧米メディアを味方につけておけば、と後からいうのは簡単ですが、
こちらがどんなに理解を訴えても向こうには全く理解する気がなかったのですから
そもそもうまくいくわけがないのです。

その後中国は、蒋介石政府が稀代の毒婦宋美齢のお色気&お涙頂戴作戦まで投入し、
「かわいそうな中国」を演じてアメリカに取り入っていったわけですし、
ただでさえ馬鹿正直な日本人が、権謀術数に太刀打ちできたとは思えません。



さて、それはともかく、日白の関係に話を戻すと、歴史的に痛恨事といえるのは、
二人の偉大なベルギーの大使への大恩を返さないうちに、日本が三国同盟で
ドイツと手を組んでしまい、それがベルギーを失望させたことかもしれません。


現在では皇室外交でやはり王国でもある日白の関係は大変良好だそうですが、
いわば日本はまだその負債をベルギーに返済していない状態なのです。

日本人も今のベルギー人ももはやそんなことは誰も気にしていないでしょうけど。

それはさておき、今回のロゴ問題で、さらに日本とベルギーの間に
動かしがたい蟠りができた、とまでは思いたくはないですが、少なくとも、
なにか国際問題が起きたとき、世界に向けて第三者の目で公平に
日本の言い分を広報してくれるような国同士の儀礼を超えた友情があるかというと、
胸を張ってそうだ、とはいえなくなったような気がしないでもありません。





 

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遥かに祖国を語る〜小野田・酒巻会談より

2016-08-15 | 日本のこと

今日はいわゆる終戦記念日。
二人の対談に沿って話してきましたが、この項をこの日に合わせてアップします。



小野田寛郎・酒巻和男対談から、二人が帰ってきたとき、かれらが
日本に「いかに迎えられたか」についてピックアップしてみたいと思います。


対談が行われたのは昭和51年8月29日。
小野田氏がルバング島から日本に帰ってきたのは昭和49(1974)年ですから、
まだ2年しか経っていません。
1922年生まれの小野田少尉は当時54歳で、 ブラジルに農場を持っていました。

対談をまとめた本に掲載されている不鮮明な写真には、
床の間もどきに観音像が飾られた畳の部屋で鍋を囲んでいる両者が写っています。

8月に鍋物、しかも全員がスーツを着ているのですが、対談が行われたのが
ブラジルであり、現地は冬だったわけですね。
酒巻氏はちょうど本日絵の参考にした写真の頃と同じ風貌をしており、
上等のスーツに恰幅のいい体型が、いかにも社長らしい貫禄を感じさせます。
この対談時、酒巻氏は58歳でした。

体型的に酒巻氏の3分の2位にしか見えない痩せた小野田氏は、
白の麻のジャケットの下におそらく赤い花柄のシャツ。
日本でこの格好をして白い靴を履いていたら、完全に
あちらの世界の人ですが、ブラジルで牛500頭飼っている農場主、
と言われれば合点の行くファッションではあります。

両者はこの対談以前にもブラジルで何度か会っており、初対面ではありません。


●日本の敗戦を知って

30年間潜伏したルバング島から羽田に帰国したとき、小野田少尉が
報道陣に聞かれた質問の中に

「戦争に負けたと聞いてどうお感じなりましたか」

というものがありました。

「30年遅れただけで、皆さんが30年前にお感じになったことと同じでしょう」

と小野田少尉が返すと、それ以上聞かれなかったそうです。
30年間、戦後日本の発展とは別の世界で生きてきた軍人に対し、
当然マスコミは、現代の文明や思想から取り残されているはず、
という先入観を持ち、
それを裏付ける言葉を引き出そうとしました。


帰国してきたときに「天皇陛下万歳」と叫んだこと、天皇陛下が自分に対し
謝罪されるということを防ぐために謁見を拒否したこと、
30年間の間に現地の警察や軍人、米軍軍人を戦闘活動によって殺傷していたこと、
これらのことからその存在を「軍国主義の亡霊」とレッテルを貼ったうえで
血相変えて非難をする日本人が数多くいたのです。


しかし小野田氏はガチガチの軍国少年であったというわけではありません。
それどころか、予備将校になったきっかけも兄の「ならないならここで死ね」
という言葉ですし、中学校では運動部のことで学校と喧嘩して
ストライキを起こしたり、自由を求めて支那にわたったりという

「当時としては箸にも棒にもかからん野郎」

であったと述懐しています。

酒巻少尉は帰国してすぐ収監された収容所と、また帰郷する途上で、
朝鮮人の横暴を嫌というくらい体験したことから、敗戦の惨めさを
改めて味わったということでしたが、その点小野田少尉は

「戦争で負けて悔しくないのかと聞かれるから、
(日本は)もともと食えないから戦争したんであって、
食う道をひらくために、民族のために戦争をしたんだ、と。
負けて嬉しくはないけれども、みんながこうして復興して
ちゃんと食べられるようになりゃ、目的は達しているんじゃないか。
いまさら負けたものをとやかくいってみたってしょうがない」

ルバング島では負けているとは思っていなかったけれど、後から抜けていた情報が
パズルのピースのように埋まれば、たちどころに「つじつまが合い」、
合点がいったため、そのことにあまりショックは受けなかった、と話しています。

●帰国

酒巻少尉が戦後帰国したときには「捕虜になってきたこと」に対する
反感をぶつけられることは「いくぶんかあった」そうです。
「けしからん、腹切って死ね」はどちらかというと少数で、
マスコミの論調や、酒巻氏宛に送られてくる手紙の7〜8割は
「ごくろうさんでした」「お元気で」という激励でした。

しかし小野田少尉の場合は世論を二分するくらい極端で、中には

「国の予算を捜査と説得に一億円も使わせた」
「戦争はとっくに終わっているのにわざわざそんなところで暴れたりして、
(終戦が)わかっているのに自分勝手にやっていたんだろう」

というものもかなりあったようです。

この二人の違いについて、小野田さんが面白い分析をしています。

「酒巻さんを攻撃した人が(投降しなかった)ぼくのほうを褒めたわけ。
酒巻さんご苦労さんでした、お気の毒でした、という人はぼくが・・
(投降せずに戦っていたことを非難したということ)」


酒巻氏が捕虜になったことを責める人は、小野田氏が戦ったことを褒め、
酒巻氏が捕虜になったことをいたわる人は、小野田氏に

なぜ投降しなかった、なぜ戦い続けた、と非難したというのですが、
これはある意味真理を突いていると思われました。




酒巻氏には手紙での非難以外には直接の被害はなかったということですが、

小野田氏の場合、投書されたりマスコミに言われたりしたことの中には
なぜここまでと心外でならなかった例もかなりあったそうです。
帰ってきてまず病院に検査入院したのですが、もうその翌日には

「おまえは自分の部下を二人も殺してのこのこと日本に戻ってきたか」

「そんなものを匿っている病院は爆破してやる」

などという恫喝や脅迫がありました。
周囲は本人には知らせないほうがいい、と気を遣ったのですが、
当の本人が、そういうのも自分の身のためになり、
これから何かするにあたって注意にもなる、なにも知らずに事が大きくなるのは
困るから投書は隠さないで見せて欲しいと頼んだため、どんなひどい言葉も
全て本人には伝わっていました。




酒巻少尉が帰国したのは敗戦と同時でした。

小野田少尉の帰国の時ほど国民の「自虐症状」は深化していなかったものの、
そのかわりもっと直接的な、「昨日の軍神は今日の戦犯」といった悪意が
日本中に渦巻いていた頃でもありました。

詳しくは語っていませんが、酒巻少尉は極東軍事裁判にも出廷しています。
あの爆笑歴史創作ドラマ、NHKの「真珠湾からの帰還」では、
酒巻少尉が軍事裁判法廷で連合国にむちゃくちゃ糾弾されていましたが、
実際は戦犯どころか、

「ぼくら(捕虜)は極東軍事裁判では弁護団のほうにいたんです」

このことはどの資料にも全く書かれておらず、この対談での
酒巻氏自身の一言だけしかいまだに手がかりがありません。
「捕虜第1号」が、誰の弁護のために出廷していたのか。
そしてもし酒巻少尉がなにか証言したのだったら、何を言ったのか・・・。



●戦後日本の価値観

戦争に負けるとその国はそれまでの価値観が覆され、自虐的になります。
これは日本に限ったことではないのですが、日本の場合それを
連合国によって最初に東京裁判というショーでがつんとやられて、
あとはGHQの統治下で徹底的に刷り込まれたというのが大きかったでしょう。

過去のことは全部悪かった、過去の英雄も全部いけない、というわけで、
戦争に行っただけで「戦犯」と呼ばれ石を投げられたりするわけです。
国家指導者も、戦争にならないように奔走したりした者も指導した者も、
一緒くたに「軍国主義者」
陸軍などは「陸軍の暴走」の一言でとくに満州での責任のすべてを片付けられる始末です。

そういう、戦後の日本人の手のひら返しのさまも、この二人の旧軍人は
実に冷静な(というか醒めた)目で見ているようでした。

ともあれ小野田少尉は、ルバング島からただ日本だけを見ていたときからは
考えられないくらい、帰国してから不思議な立場に置かれてしまいます。
つまり、

「現在日本で一番悪とされている軍国主義の権化」。


前回も書いたように、小野田少尉はなりたくて軍人になったわけではないし、
兄に言われて予備将校の試験を受けて受かっただけ、つまり
当時の祖国が直面していた国難がゆえに仕方なく軍人になっただけの人です。

帰ってきたときマスコミなどに「プロだから島で生きていられたのだ」
と言われるのには、小野田氏自身大変不満であったそうです。

「プロフェッショナル」というのは本人に言わせると、

「自分の選んだ道を自分の信用を確保するために、そして
明日のパンを確保するためにつらぬくこと」

であり、自分のはそれとはまったく違う、と。

自分は命令が到達しなかったという誤りのために島にいただけであって、
その間不本意ながらそこにおらざるを得なかったにすぎない。
ところが一方的に「小野田さん」にやんやと手を叩き喝采した人は、
その世間の思うところの姿でこれからもずっといろと要求してきます。

あるときは、自衛官上がりのタクシーの運転手と世相について話していて、
今の若い世代はだらしない、もっとスパルタ式にバンバンやればいいのに、
そして戦争前に戻すべきだ、というので

「それは違うよ、昔がよければ戦争に勝ってたでしょう」

というと、怒った運転手に

「あんたそんなことじゃダメだ、小野田さんを見習いなさい」

と叱責されたということもあるそうです(笑)

国家のためにも、何のためにもなっていない島での30年間を過ごし、
あらためて日本社会に戻ってきただけなのに、
なぜ「小野田さん」は特殊な身の持ち方をしなきゃいけないのか、
きれいな、出来た人間のような真似をして生活を誰が保証してくれるのか。

小野田氏の日本に対する不満はそんなところから来ていました。


●自虐する世代

酒巻少尉は、元海軍軍人らしく、自衛隊の呼称についてこういっています。

「先日ブラジルに日本から練習艦隊がきて日本および日系人が歓待して
いろんな行事をしたんですが、”自衛隊・自衛官”をポルトガル語で
何て表現したらいいか困りましてね。
直訳したらブラジル人にはなにかヘンで理解しにくいんです。
結局ブラジル語のナヴィーを使ったのですが」

ちなみに、この時の練習艦隊の自衛官を見て、現地の人が

だらしない、とブウブウ言っていたのだとか。

「制服着てブラジル人の女の子を抱えて歩いていた」

このころの練習艦隊ということは1950年生まれ前後でしょうかね。

むしろ、そんな豪快さんが自衛隊にいたなんて、今の自衛隊の
大人しさを見ているとまったく信じられないのですが。
続けて酒巻氏は戦後レジームの問題についてもこう言っています。

「戦争が終わって

30年も経っておりますのに、日本ではまだ占領下に与えられた
民主主義や憲法の問題もそのままになっております。

こちらのブラジルの日系の方が、日本の学校で君が代を歌うのが問題とか、
日の丸の掲揚がどうとか、えらい問題になっていると新聞で見まして、
多くの人がこちらでは不思議がっておるんですね」

なんということでしょう。
この対談の行われたのは1976年(昭和51)です。
巷に「およげ!たいやきくん」と「ビューティフル・サンデー」が流れ、
ロッキード事件が世間を騒がせていた頃から、40年経っても、
この問題においては日本は一ミリも変わっていないということではないですか。

まあもっとも、占領軍に与えられた憲法を物持ちよく半世紀以上護持し、
いまだに手をつけたら戦争が始まると騒ぐ連中がいるからには
当時もまったく同じだったのには間違いないですが、
わたし自身が全くそんな問題のない学校生活を送ったこともあって、

君が代日の丸問題についてはまだマシだったとなんとなく思い込んでいました。

酒巻少尉は続けて、

「独立国家として国家独自の骨格を作っていただきたいのです。
国家の目標、道標を、お茶を濁した格好で、30年も続いているのです。
これをできるだけ早くやらなくてはいけないというのに、
若い世代の一部の人が、過去の事柄について、
『たとえ一部分のことでも悪ければ全体がダメだ」と否定してしまう、
という問題があります」
 
と言っています。
この時の「若い人たち」というのは、つまり団塊の世代に相当します。
団塊の自虐が日本をダメにした、とはよく聞くことですが、
酒巻氏も同じようなことをこの時感じていたということでもあります。

 ●殺していいんですからね

帰ってきて一躍有名人になった小野田氏が悩まされたのは、
どこにいっても日本人が取り囲んでくることでした。

慰霊祭などに行かなければ「あいつは・・・」と言われるから
仕方なく行くけれど、新幹線ではくちゃくちゃにされてしまうので、
専用の車でいって、逃げるように帰ってくる。
地方に行くと色紙を頼まれて明け方までかかって書かなくてはいけない。
出版の見本市のためにパリに行った時も、観光に行くと
そこの日本人が集まってきて次から次へと写真を頼まれて、
誰か一人が「サインしてください」というと、サイン会が始まり、
パリにいるのに観光なんてできないという状態。

ここで小野田さん、今ならたちまちネットに上げられて炎上し、
四方八方から責められていたであろうひとことを口にしています。


(ならルバング島にいたほうがはるかに幸せだった?と水を向けられ)

「第一日本では嫌なことがあってもしゃくにさわるから報復なんて

そんな無茶なことできませんし。
ルバング島ではそれが良かったんですよね。
自分はたしかに殺されるかもしれないけど、しゃくに触ったら
殺していいんですからね。
そういうところに鬱憤のはけ口があったわけです。
日本ではそれができません」

いや、日本でなくても大抵の世界ではそれだめだから(笑)
この対談が、帰国からわずか2年後であったというところに

こういう言葉がまだひょいっとでてくる小野田氏の油断があります。
おそらくですが、程なく氏はこの言葉を永遠に「封印」することになったでしょう。

小野田氏のゴーストライターであった人物がのちに暴露したところによると


●島民を30人以上殺害したと証言していた
●その中には正当化出来ない殺人があったと思われる
●戦争の終結を承知しており残置任務など存在せず、
1974年に至るまで密林を出なかったのは「片意地な性格」に加え
「島民の復讐」をおそれたことが原因である

だそうですが、この殺害された30人の中には小野田氏の言うところの
「癪に触ったための鬱憤ばらし」の被害者、という人もいたのかなあ、と・・。
(; ̄ー ̄A ・・・・・。

それにしてもこのゴーストライター氏、小野田さんとなにがあったんだろう。



●「我、ことに於いて後悔せず 」

酒巻少尉は戦後も、敗戦までの日本にはいま(当時)にはない、
美しさがあったと信じていました。
日本人が素晴らしいと世界に認められる実績の一つとして、
例えば日露戦争における東郷元帥の采配などは、

「歴史の中で二つとない絶対的なものであった」

といいきっています。
素晴らしいもの、素晴らしい人物をたくさん擁する日本を、
戦争に負けたということから全て否定するのは当たらないと。

かたや小野田少尉は帰国時の空港でのインタビューで

「青春を無駄にして悔いはないか」

と聞かれました。
自身は自然の中で自分が「強くなった」ことを感じており、
何の制限も受けずに、肉体的には自然に、頭脳的には
命の取り合いという極限の状況で色々考えながら生きてきたことを
まったく悔いていない、と答えたそうです。


これを負け惜しみと言う人もいますし、先ほどのゴーストライターのように
島民を殺しておいてなんだ、と言う人もいるわけです。
ただ、本人は運命によって与えられたその環境の中で、
「命の取り合い」(殺すか殺されるか)と「命を繋ぐこと」によって法悦を感じ、
またそれゆえに生きてくることができたのだとはっきり言い切っています。 

平和な世に生まれていれば選択せずに済んでいた道を、
小野田氏と酒巻氏は歩み、その結果一人は残留兵士に、ひとりは捕虜となり、
残りの人生を「元残留兵士」「元捕虜」として生き、この世を去りました。

どちらも自分の人生には悔いはないと明言しているとはいえ、
この二人がたとえもう一度生まれ変わってきたとしても、
二度と同じ人生を送らず
にいられる国であれと祈らずにはいられません。

 

 

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原爆追悼碑文とパル博士、そしてオバマ大統領演説

2016-08-06 | 日本のこと

今日のテーマは原子爆弾投下ですので、投稿時間を
8月6日の8時15分にしました。



夏前に訪れた京都護国神社の入り口には「パル博士の碑」が
ここにあると書かれた
案内板があり、それに「社務所にお尋ねください」とあったので、
なにか特別な場所にあるのかと境内にいた権宮司らしき人に聞くと
心持ち申し訳なさそうに、

「そのまま入っていただければ見れますが・・」

じゃあ社務所にお尋ねくださいなんて書かなくてもいいのに、
と思いながら駅の改札のようなゲートに300円投入し、
わたしたちは中に入って行ったわけです。



明治時代からすでにここは全国の招魂社の中核とでもいうべき場所となり、
全国各地の、当時は「鳥取藩」「水戸藩」など藩による招魂社、招魂場が
聖山東山の麓に建立されたので、こういう石段の参道が整備されたのもそのころです。



「昭和の杜」は、澱んだ水と金輪際水を出しそうにない噴水が寂れた雰囲気満点です。 
もう少しデザインをなんとかして欲しかったと思うのはわたしだけ?

国のため いのち捧げし ますらおの いさを忘るな時うつれども



二匹の龍の龍は海軍と陸軍を意味するのかもしれません。
どうやら双龍の口からは噴水稼働時水が出る仕組みだったようです。

今となってはコイン投げの的となり、びっしりと硬貨が乗っています。
おそらくこの5倍くらいの硬貨がこのプールの底には沈んでいるのでしょうが、
底を浚ってそれらが回収されることは今後もないように見えます。





さて、矢印に従って歩いて行くと、パル博士の碑が現れました。

通路に沿った場所で決して大きなスペースではないのですが、
中央にパル博士の写真を嵌め込んだ碑が立ち、それを取り囲む半円形の
壁からなる顕彰碑は、不思議と空間の広がりを感じさせるデザインで、
協賛者の名前、パル博士の来歴とその言葉が刻まれています。



協賛はそうそうたる大企業がずらりと名前を連ねています。

碑はインド独立50周年に際し、日印両国の友好発展を祈念して、
パル博士の法の正義を守った勇気と世界の平和を願った徳を顕彰するため、
博士の愛した京都の地に設立したものである、という説明もあります。

碑の建立は1997年であり、「昭和の参謀」とあだなされた伊藤忠の
瀬島龍三(元陸軍中佐)が発起人の最初に名前を連ねています。



通称東京裁判、極東国際軍事裁判で、インド代表判事として裁判に臨み、
一貫して日本人被告の全員無罪を主張したのがパル判事です。
無罪の根拠はこの裁判の正当性にありました。

裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」

という考えを固持し、判決が下ったあとも、


裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、
罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しない

という考えから、意見書なるものを提出しています。
ここに書かれた文章はその中の一文です。

時が熱狂と偏見をやわらげた暁には
また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には
その時こそ正義の女神はその秤の平衡を保ちながら
過去の賞罰の多くにそのところを変えることを
要求するであろう


これはとりもなおさず、 東京裁判がいずれ時によってその過ちを是正され、
今日の必罰は明日の無罪ともなりうると言っているに他なりません。

パル判事の全員無罪論は、敗戦に打ちひしがれ、さらには
「わたしたちは間違っていた」と連合国からの刷り込みによって信じかけていた
日本人にとって、光明ともなったと言われます。

しかし、パル博士はこれらの意見を親日家の立場から発したのではなく、
あくまでも国際法の専門家として、その信念から述べたに過ぎないのです。
(ちなみに東京裁判の判事で国際法の専門家であったのはパル判事一人だった)

たとえばいわゆるバターン死の行進は明確な残虐行為であったとし、
南京事件も「この物語のすべてを受け入れる事は困難である」としながらも
弁護側が明確に否定しなかったことから、犯罪行為は存在したという考えでした。

パル博士がことにはっきりと断罪したのは、日本の戦争犯罪ではなく原爆投下でした。
ニュールンベルグ裁判と東京裁判を同質のものとしたい連合国に対し、

 「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」

とし、

米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊として
ナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとしたのです。


さて、今年、アメリカ合衆国大統領、バラク・フセイン・オバマ2世が、
アメリカの首長として初めて広島を訪れ、言葉を述べました。
次の日には、思わず(きっとあれは筋書きにはなかったと思う)
被爆者の男性を抱き寄せるオバマ大統領の姿が各紙一面を飾りました。

その男性が40年以上を費やし、原子爆弾によって亡くなった12人の米兵捕虜の
名前を探し当てたアマチュア歴史家、森氏であったことものちに話題になり、
日本での世論のほとんどが、この訪問に肯定的であったという結果になっています。


この時のオバマ大統領のスピーチは感動的でありながら戦略的でもありました。


 Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning,
death fell from the sky and the world was changed.
(71年前、雲一つない明るい朝、死が空から降って来て、世界が変わってしまった)

A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated
that mankind possessed the means to destroy itself.
(閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を
手にしたことがはっきりと示されたのだった)

いや、それを落としたのはどこの国の飛行機なのよ、とこの瞬間突っ込む人も

世の中には、特に日本にはたくさんいるでしょう。
もしパル博士が生きてこのスピーチを聞いたら、やはりそう言ったに違いありません。

オバマ大統領に広島訪問については、アメリカ大統領として謝罪をするのではないか、
と、特に

「原爆は戦争を終わらすために必要だった。さもなければもっと多くの人が死んでいた」 

と未だに教えられ信じている多くのアメリカ人をやきもきさせたと思われます。
オバマはなんといっても大統領になった途端、核廃絶を訴え、そのことによって
ノーベル平和賞をもらってしまった人ですから、
あいつならやりかねん、
と心配する?意見も噴出しました。


ところが、オバマ大統領とそのブレーンは、原爆を、

「人類の災厄であった」

と位置づけ、国の枠組みなしで”我々はともに被害者である”としたことで、
すべての問題をクリアしたのではないかとわたしは思いました。
わたしがこのスピーチの内容を知って、まず思ったのは、

「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」

という原爆慰霊碑の言葉でした。
かつてパル博士はこの碑の前に立ち、言葉を訳させたのち、こう言っています。

 「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。
もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。
それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。
ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、
その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。
落した者が責任の所在を明らかにして
《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。 


この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。
その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。
さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、
石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。
アメリカこそ開戦の責任者である。」 (田中正文氏)



パル博士はアメリカが原爆投下=人類最大の罪を犯したことについて
なんら反省も謝罪もないどころか、戦争の罪を日本にのみ負わせようとしていることを
激しく糾弾する考えを終始持ち続けていました。


ところで、オバマ大統領の訪広が決まった時から、

「オバマ大統領はアメリカが原爆を落としたことを謝るべきか」

については、ほとんどの日本人が”その必要はない”といっていた気がします。
日頃自分たちがやったわけでもない歴史的問題で謝れ謝れといわれて
これに閉口しているということも(笑)大いに預かっていたかもしれませんが、
戦後押し付けられた自虐史観抜きにしても、日本人には

「正当化されると不快だが、だからといって別に謝ってもらってもねえ・・・」

と考える傾向が終戦当時からすでにあったようなのです。
パル博士は広島で行われたアジア会議で、並み居る白人代表を前に
こんなことを言っています。

「人種問題、民族問題が未解決である間は、世界連邦は空念仏である。

広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。日本は投下される何の理由があったか。
当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。
それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。
同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。そこに人種的偏見はなかったか。
しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。
彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」


この峻烈な言葉と裏腹に、会議にはケロイドの痕も痛々しい、いわゆる
「原爆乙女」が登壇し、


 「わたしたちは、過去7年の間原爆症のために苦しんできましたが、
おそらくこの十字架はなほ長く続くと思われます。
しかし、わたしたちは誰をも恨み、憎んではいません。
ただ、わたしたちの率直な願いは、
再びこんな悲劇が
世界の何処にも起こらないようにということです・・・。」 


と述べたとき、初めて会場は感激の坩堝と化した、と伝えられます。


「過ちは繰り返しませぬから」という文言を厳しく糾弾したパル博士に対し、

「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」

とし、この碑文を考案した被爆者でもある雑賀忠義広島大学教授は、

「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。
これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。
『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。
そんなせせこましい立場に立つ時は、過ちを繰返さぬことは不可能になり、
霊前でものをいう資格はない。 」

という趣旨の抗議文を送っています。

今回のオバマ大統領の演説は主語を「我々人類」とすることで
誰も責めず、誰も裁かず、もちろん誰も謝罪せずに、人類の受けた悲劇と
それを繰り返さぬ意志を語り、結果的にすべての人を納得させました。

そもそも原爆を落とすことを決めたわけでもない戦後生まれの大統領に
「悪かった」と言わせることには意味がないし、
こういう場合、謝った相手に「どうぞお手をお上げください」というのが
日本人としてよくあるメンタルではないかという気がします。

何より、原爆乙女たちが「私たちに恨みはないし憎んでもいない」といったからこそ、
感極まったアメリカ代表の一人が彼女らに

「わたしはアメリカ人としてこの原爆に責任を感じています」

とおもわず謝罪するなどということも起こりえたのでしょう。
相手に謝れと拳をあげて泣き叫ぶ、というのは本来日本人のDNAにはないのです。

わたしはよく歴史に善悪はない、ゆえに何に対しても謝罪すべきでない、
といいますが、それはアメリカに対しても変わることはありません。
アメリカが自国の立場として原爆の投下をいかに正当化しようとも、
アメリカ人ならばそれは当たり前かもしれない、と思うのみです



その意味ではオバマ大統領の今回の演説は、まことに日本人の心情に添う、

かつ誠実なオバマ自身の美点を表して余りあるものだったと評価します。

オバマ大統領は原爆のキノコ雲を「人類の矛盾」の象徴としました。
暴力を正当化するのはときとして高い信念であり、先端科学は効率的な殺人を生む。
広島はそれを象徴するものである。
道徳の変革なしには科学の変革もおこなわれるべきではなく、
広島はそのためにも象徴として忘れられるべきではない、と。


パル博士が峻烈に糾弾した「人種差別ゆえの日本への原爆投下」についても
オバマ大統領はこのような形で遠回しにですが言及しています。

「アメリカと日本は同盟関係だけでなく、友好関係を構築しました。
それは私たち人間が戦争を通じて獲得しうるものよりも、
はるかに多くのものを勝ち取ったのです。」

これがアメリカで人種的に虐げられてきたアフリカ系の大統領の口から
述べられたことにこそ、わたしは意味を見い出します。



さて、それではパル博士の碑文に対する非難は日本にとって
「余計なお世話」とでもいうべきものだったでしょうか。

わたしはそうは思いません。


日本人がただ恨みにとどまらず、終戦の早い段階から原子爆弾を
「人類の過ち」としてこれを永遠に絶滅すべきであるという域に達したことを、
わたしは日本人としてむしろ誇りに思うものですが、それも
やはりあの時のアメリカの行為についてこのように言ってくれる、
日本人以外の第三者の言葉があってこそという思いは避けられません。

逆に言うと、これをいうのは日本人であってはいけなかったのです。

だからわたしたち日本人は、

「日本があのとき被支配のアジアの盟主となり

立ち上がったからこそ、アジアは解放されたのだ」

といってくれる
多くの東南アジアの独立国リーダーたちに感謝すべきであり、
その中でも

「日本が戦った『大義』を決して見失うな』

と戦後GHQの支配下で、
我々日本人の心を鼓舞してくれた
ラダビノッド・パル博士への恩義を忘れてはいけないと思うのです。







 

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龍馬の墓と殉職自衛隊員慰霊碑〜京都霊山護国神社

2016-06-21 | 日本のこと

もともとここ京都霊山護国神社は、明治天皇の御言葉によって
勤皇の志士たちの魂を慰めその働きを顕彰するために創建されました。

坂本龍馬というと高知、高知というと坂本龍馬とカツオしかないのでは?
というくらい、高知では龍馬を県のアイデンティティにしているわけですが、
実は龍馬は17歳で江戸遊学して以来、活動の中心は関東でした。

京都には深い縁があった、というほどではないのですが、なんといっても
ここで亡くなって荼毘に付されたため、葬られてお墓があるので、いわゆる
熱心な龍馬ファンの方々の巡礼の地ともなっているようです。

ただ、彼らが龍馬殉難の11月15日に墓参りに来ると、
龍馬がタバコ好きだったということから、火をつけたタバコを多数霊前に備えるので
一本二本ならともかく、消防法の観点からも神社の方が大変迷惑している、
という記事を読んだことがあります。 

そういえば太宰治が自殺した「桜桃忌」には、太宰の墓に太宰ファンが詰めかけ、
季節物でもある(笑)さくらんぼを墓前に供えるのですが、これが困ったことに、
相変わらずさくらんぼを墓石の字の窪みにぎゅうぎゅう嵌め込んでいるようですね。
それも、桜桃がお高いせいかアメリカンチェリーを。

馬鹿かしら。

と偉そうに言ってしまうわけですが、自分の墓石に不気味にはめ込まれた桜桃、
いやアメリカンチェリー、あの自意識過剰のナルシスト太宰が生きてこの光景を見たら、
あまりの屈辱にもう一度今度は
憤死するのではないかとわたしなど思います。

これ、絶対本人喜んでないから(断言)

とまあ、ファン心理というのはあくまでも自己満足がベースとなっているので、
このような愚行をも熱に浮かされてやっちまって、何年かしてから思い出しては

「あのときのわたし、なぜあんなことを・・」

と頭を抱えるものではないかと他人事ながら推察するわけですが、
(もしこれをココ何年も毎年必ずやっているという人がいたならお目にかかりたい)
龍馬の煙草も、これと同工異曲のファンの自己満足というかエゴというべきでしょう。

だいたい、隣の中岡慎太郎が嫌煙家だったらどうするんだ。ってそういう問題じゃない?



普段の両雄の墓はひっそりと静まり返っています。
京都護国神社が明治天皇の詔によって創建されたのは1968(慶応4)年。
龍馬殉難はその約半年前の慶応3年ですから、もしかしたら
この二人のためにこのお沙汰が出された面もあるのでしょうか。

ちなみにこの山道を登って行った頂上には木戸孝允の墓がありますが、
木戸の死は明治10年(1877年)とずいぶん後のことになります。
木戸は西南戦争の際明治天皇と連れ立って「出張」していますし、
死の間際には明治天皇のお見舞いも受けるという関係であったので、
この神社に祀られる霊のなかでも「最高位」扱いなのです。

おそらく慶応4年から変わっていない墓所には、
ここで手を洗っていいのか戸惑うような手水があり、
つい最近のものらしい花が手向けられています。

墓所に設えられた「坂本龍馬 中岡慎太郎の最後」という説明には
抜粋するとこんなことが書かれていました。

大政奉還の大作者でもある坂本龍馬は、遭難した10日前、
醤油商の近江屋に移転していた。
当時最も幕府側から命を狙われていたので仲間が気遣ったのが
仇となったのである。
事件当日の午後6時、中岡慎太郎が龍馬宅を訪問、その2時間後、
彼らは刺客の襲撃に遭い、龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は
右の肩から背骨にかけて、三の太刀で前額部を裂かれて即死。

中岡慎太郎も全身に刀傷を受けて二日後に亡くなった。

葬儀は18日、近江屋にて行われ、遺体は京都護国神社に葬られた。

昭憲皇太后の夢枕に立ち現れた侍が

「微臣坂本にございます。
この度の海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。
不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえ、
ご安心願い申し上げます」

といって消えたという。


ずいぶん省略されているのですが、この「海戦」とは他でもない
日本海海戦のことで、葉山御用邸でお休みになる昭憲皇太后が
侍の夢をご覧になったのは1904年2月、日露戦争前夜だったということです。

ただ、皇太后陛下がその侍のことを田中光顕にご下問されたということは、
陛下は坂本龍馬のことをご存知ではなかったということになり、

つまり「不肖坂本」などは後で付け加えられた話ではないかとも云われます。

のみならず話そのものも戦意昂揚のための創作だとする説もあるそうですが、

さすがに皇太后陛下を相手にそれはありますまい。


さて、この看板で知ったことがもう一つあります。
最後に書かれた

墓所 右 中岡慎太郎 左 坂本龍馬
   左奥 下僕 藤吉

という説明。
帰ってきて初めて知ったので、藤吉の墓がどこなのか
この写真からは全くわかりません。
画像検索すると出てくるので興味のある方はどうぞ。

この藤吉という人は、龍馬が雇った用心棒兼世話役、今でいうSPだったようです。
シークレットサービスにはレスラーや武道家出身が多いといいますが、
この山田藤吉も醜名を「雲井龍」という元相撲取りでした。

事件現場で倒れていた藤吉は、階段にうつ伏せになり、
手には十津川郷士の名の名刺を持ったままだったそうです。
名刺ってこの時代からあったのか!とついそんなことに驚いてしまうわけですが、

それはともかく、刺客たちは普通の来客を装って藤吉を安心させ、
名刺を持って龍馬たちのいる二階に向かう藤吉を背後から斬ったのでした。

藤吉は倒れるときの大音響とともに「ぎゃあ!!」と大声を上げ、
彼が相撲ごっこでもしていると思ったらしい坂本は、

「ほたえな!」

と叫んだため、刺客に居所を教えることになったということです。
「ほたえな!」とは土佐弁で「騒ぐな!」という意味で、子供がうるさいとき
使われるのだそうですが、確かに藤吉はこのときまだ19歳でした。


藤吉は刀傷を負って翌日亡くなり、気の毒に思った龍馬の同僚たちが
龍馬と同じ墓所に彼を葬ってやったということです。

ちなみに三人の遺体ですが、 当時の日本は、特に神道では土葬が一般的で、
明治政府が1873年(明治6年)火葬禁止令を出したくらいでしたから、
近江屋での葬儀の後ここに運ばれて土葬されたものと思われます。



坂本龍馬の墓石越しに上を見上げると、そこには龍馬の後ろに控えるように
長州藩の志士たちの墓がならんでいます。
左奥には山口招魂社があります。

「幾助」「市蔵」「吉太郎」

など、苗字を持たぬ者の墓がときおり見られます。
平民も須らく名字を持つべし、とした「平民苗字必称義務令」
が明治政府により発令されたのは明治8年(1875年)のことです。




坂本・中岡の墓から下を見下ろしていたところ、TOがあっと声をあげ、
あれ、と指差したところに

「殉職自衛隊員之碑参道」

いう碑がありました。
上までいって木戸公の墓参りをしている時間がなかったので、
最後にここをお参りして帰ろうということになりました。



山道を入っていくように整備された小道が続いています。



「慰霊」とだけ記された慰霊碑には、国旗が二振掲げられていました。
碑の扉の中には殉職者の名簿が奉納されているのでしょう。

京都府内の陸海空自衛隊に所属し、殉職された自衛官の慰霊のために、
平成20年、京都隊友会と府下の自衛隊組織により建立され、
毎年11月3日には、参議院議員・西田昌司氏はじめ、現職の陸海空幹部自衛官を迎え、
慰霊祭が行われ、これには誰でも参列できるとのことです。



現在、52柱の殉職自衛隊員の御霊が合祀されています。

わたしは殉職自衛隊員は本来靖国神社始め護国神社に祀られるべきと思っていますが、
いろいろあって()慰霊碑は市ケ谷の防衛省内と、自衛隊駐屯地内、という
一般の人がお参りできない(というか目にも触れない)場所にあるのが現状です。

京都府下の殉職自衛隊員の御霊が霊山護国神社の一隅に祀られていることが、
少しでも彼らとそのご遺族の慰めになればと願ってやみません。



この慰霊碑の前に立ち、山腹を眺めると、だれも立ち寄ることのできない
草木の茂みを通して三体の仏像が立っていました。



階段を下りていきながら見る本殿。



二年坂を下りたところまで戻ってきてさっぱりと冷たいお抹茶をいただきました。
これは「夏茶碗」だそうです。



さて、この後、父の墓所参りをしようとして、大谷本廟と間違えて
大谷祖廟にきてしまいました。
親の墓所を間違えるなって話ですが。




この時に大谷祖廟の境内にいた写真の外人さん、くぐる時に頭を下げ、
真剣に本堂の前に佇んでました。

「きょうび下手な日本人よりずっと彼らの方が弁えてたりするからねえ」



大谷本廟はこっちでした。
お父さんごめんなさい。



晩は鳥料理専門で有名な「八起庵(はちきあん)」で。
基本飛び込みお断りなのですが、直前に電話して予約が取れました。



鳥尽くしコースの一番小さいのを頼むと最初にスープと酢の物。
スープの最初の一口ですでにここはただものではない!と思いました。



つづいて「鳥刺し」、このあとはワサビ和えなど。
鶏ばかりなのに手を替え品を替えで飽きません。



唐揚げもここのはただものではないオーラ。
外はあくまでもカリッと、中はふわっと、肉は滋味があります。



お腹がはちきれそうになった頃、〆の鶏南蛮。
卵ご飯もつけるかと聞かれて、つい誘惑に逆らえず少なめで、とお願いしました。
食べ終わったあと、それは苦しかったです・・・。



来店した有名人はサイン色紙ではなく、写真をずらりと並べて。
店主は一見にこにことしたおじさんですが、目の光がただものではありませんでした。



さて、この日タクシーで移動していて道の脇に偶然見つけた標柱。

「陸軍用地」

調べてみると、伏見には昔陸軍第16師団があったので、今でも地名に

第一軍道」「師団街道」

などという痕跡が残っているそうです。
聖母学園の現在の校舎は、昔の陸軍第16師団司令部で、これがあったため
昔の伏見は「陸軍の街」だったということでした。


今回の京都滞在で、また日本の歴史をわずかながら深く知ることになったわたしです。






 

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特攻勇士の像〜京都護国神社を訪ねて

2016-06-14 | 日本のこと


前回の滞在から2週間しか経っていないというのに、
またまた京都に行ってきました。
定期的に仕事関係で京都に用事があるTOがこちらで着々と
ご縁を結んできた結果、顔なじみの料亭旅館がふえて、その関係で
一見さんお断り的なお店にも顔が効くようになってきたのですが、
今回泊まった町屋はそんな伝で紹介してもらったところです。



前に見えているのは産寧坂(三年坂ともいう)。
小路を入ったところにあって、元々はオーナー一家がこの二階に住み、
一階はうどん屋さんに貸していたのだそうです。



町屋ホテルを営業し始めてまだ間も無いということで、施設も前回に続き
ほぼ新築の状態。



若いオーナーなのでとてもおしゃれな感覚で設備が整っていました。
部屋にはiPhoneが供えてあり、フリーWiFiとともに持ち出し可能です。
最低宿泊単位が2日ということにしてあるので、これが奇しくも
「中国人よけ」になっているということでした。

やはり現地の観光業の人たちは彼らの恩恵を受ける受けないが二分され、
どちらかというと否定的・迷惑とする派が多いようでした。
彼らのマナーが悪く雰囲気を壊すので、それで欧米系観光客が減っているそうです。



町屋の一階はカフェ&レストランになっていて、朝7時半から4時までの営業。
早速お昼ご飯をいただきました。
ハンバーグがついて860円、ハンバーグなしだと600円台で食べられます。
オーナーはお料理上手で、これもすべて自分で作って供しています。



荷物を降ろして少し休憩してから外に出てみました。
景観条例で電柱の建て方にはやたら厳しい京都ですが、
こういう光景が見られることもあります。



前にも遠目に写真を撮って紹介したことがある油そば「ねこまた」。
今回こそはと思いましたがまたもや食べ損ないました。

よく見たら猫の尻尾が割れてますね。



これが現在の京都産寧坂の現状でございます。
アジア系の観光客と修学旅行の学生で芋洗い状態。
こんな京都、京都じゃないやい!ということで欧米系が減っているのかと。



着物を着ている人がやたら多いですが、このうちの8割が
実は日本人ではないということをわたしは現地で確信しました。
本来の商売でやっていけなくなった京都の着物屋が、軒並みレンタル着物の店に
鞍替えし、安物の着物を着付け・ヘアセット付きで提供しているのです。

それはいいのですが、町屋オーナーによると、競争によって価格破壊が起こり、
最初は5000円だったのがじわじわ下がって今や4千から3千円台になり、
必然的に着物の安物度がアップしていっているそうで、夏場は浴衣でまだましなものの、
冬になるともう眼を覆うような安物の着物をセーターやズボンの上に巻きつけて、
足元は運動靴やブーツという魑魅魍魎の手合いが徘徊しているのだとか。

そして自撮り好きの彼らは人のうちの玄関でもどこでも、植木や玄関戸に
持たれたり座ったりしてポーズをキメて写真を撮るので、民家の人は大迷惑。
ひどいのになると民家の玄関をガラッと開けて入って来るので、驚いて
出て行ってくれ、と追い出したりするのですが、彼らは全く悪びれず、

「見てみたかったから」「中の写真を撮らせろ」

などといった調子で、ほとほと観光地の住民は困り果てているのです。
清水坂近辺には、大きく「写真撮影禁止」と中国語で張り紙をしている家が
結構あるのにわたしは気がついていましたが、これは、そういう中国人に

「写真を撮られるのが嫌なら張り紙をしておけ」

などと実際に言い返された末の対策だということがわかりました。



人が通らない小路はまだ往年の京都の静けさを保っています。



なんとこの界隈にジブリショップが二つもありました。
そのうち一つは巨大トトロと写真を撮れるコーナーあり。
カップルで来ていたドイツ人がメイちゃんのぬいぐるみと写真に納まっています。



この後、二年坂を下って歩いていると、人力車のお兄さんに声をかけられ、
ふと出来心で乗ってみました。
大谷祖廟の前に来たとき、ふと、父が大谷本廟に分骨していたのを思い出し、
(ふと思い出すことではないですが)お参りに行っておこうと思いつきました。
(思いつくことでもないけど)



観光の人力車に乗ったのは初めてです。
車夫のお兄さんは、本業太秦の役者だけど売れないのでこのバイトしてるのでは、
というくらい整った顔立ちのイケメンくんでした。

人を乗っけてよくあんなに走り回れるなあといつも感心していたのですが、
さすがに長い坂道ではこうやって後ろを向いて解説を(するふりを)しつつ、
そうとわからないように休憩を取りながらやっていることがわかりました。



さすがに重労働をこなしているだけあって細身でもすごい筋肉です。
きっと腹筋なんかも板チョコみたいに割れてるに違いない。




人力車は長楽館の前まで来ました。
この時の車夫くんの説明で初めて知ったのですが、長楽館は明治時代
「煙草王」と呼ばれた実業家、村井吉兵衛の京都別邸だったそうです。

煙草の行商から財閥を築き上げ、煙草販売が専売公社になったことで
さらに巨万の富を得たそうですが、村井が死ぬと財閥は解体しました。
よほど傑出した人物だったようですが、一代限りの栄達だったんですね。



何度かお茶を飲んだこともあったのですが、今回裏手を回って、
初めてここがホテルになっていることを知りました。
よし、次の目標は長楽館宿泊だ!



大谷祖廟でのんびりしていた、気品を感じさせる猫さん。



猫といえば、二年坂で猫を散歩させていた人(というか散歩させられていた猫)
を見ました。
猫がおとなしく散歩の縄(ハーネスだった)に甘んじているのを見たのは
わたしは生まれて初めてかもしれません。

彼女?は観光客の注目の的となり、「キュート!」「アドアブル!」と
盛んに写真に撮られていました。



五重塔の正式名は法観寺・八坂の塔というのだそうです。
592年建立と言いますから、もう1500年近くもの間、
京都のランドマークタワーであり続けていたというのがすごい。



晩御飯は、二年坂を下りきったところの「おめん」でいただきました。



観光地だからとあまり期待せずに入ったのですが、京都の料理屋侮るべからず。
息子が単品で選んだこのローストビーフなど、絶品と言って良いかと。
ローストビーフの上にはベリー系のジャムが乗っています。



わたしの選んだセットの初鰹のたたきも薬味たっぷりで文句なし。
メインは冷たいつけうどんで、きんぴらとともに食するものでした。



どこから見ても良く見える上、いまは夜になるとライトアップまで・・。
ライトアップがこのたびLEDライトに変えられ、それによって

消費電力は約51%削減となったそうです。めでたい(適当)



さて、わたしは前日人力車に乗る前に、ここに護国神社があるのを
きっちり確認していたので、家族を誘って参拝することにしました。

石碑に書かれた正式名は「京都霊山(りょうぜん)護国神社」です。 

靖国神社の講座では靖国神社の創建にいたる歴史を学ぶのですが、それによると
靖国神社に先立ち、たとえばここ京都に、明治維新の志士たちの御霊を慰めるために
創建されたのが「招魂社」「護国神社」です。

元々は1868年6月29日(慶応4年5月10日)、明治天皇によって

維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、
京都・東山の霊山の佳域社を創建せよ

との詔・御沙汰が発せられたのが始まりです。
それに感激した京都の公家はじめ、山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が
相計らってここ京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが
神社創建のはじまりであり、招魂社(国家のために殉難した英霊を奉祀した神社)
であるということです。



参道沿いにはかつて国家的賓客を何人も迎えたことのある有名な

「京大和」 

がございました。
日曜なのに人のいる気配がないので廃業したのか、と思いましたが、季節限定、
何日かだけ完全予約制で営業しているそうです。

それよりとなりの翠紅館という、志士たちの溜まり場であったところが
廃墟のようになっていたのが気がかりでした。



護国神社に登っていく参道には「京都国防婦人会」が奉納したという証が。
これらにはほとんど昭和14年の年号が記載されていました。

当神社の歴史によると、支那事変をきっかけに、祀る魂を「志士たち」
から広く解釈し

「国難に殉じた京都府出身者の英霊」

としようという運動が起きたのだそうです。
このため霊山官祭招魂社造営委員会が組織され、境内を拡大して新たに社殿を造営し、
昭和14年4月1日、内務大臣布告によって

京都霊山護国神社

と社号が改称され、今日に至ります。



戦後、ここには京都府出身の大東亜戦争の英霊が祀られるようになりました。
GHQの占領下においては、わざわざ「京都神社」と名乗って、
アメリカの干渉を避けていましたが、独立と同時に名称を元に戻しています。



昭和14年に建立されたという神殿。
靖国神社と同じく、護国神社の御祭神は「国の英霊」です。

坂本龍馬を始め、中岡慎太郎、頼三樹三郎、高杉晋作ら幕末勤王の志士1,356柱、
明治以降の日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦死者を合わせ約73,000柱の
命(みこと)が、即ち神様としてここに祀られているのです。

靖国神社は戦後の自衛隊の殉職者を受け入れませんが、ここには京都府出身の
自衛隊の殉職者碑もあって、彼らの御霊もまた御祭神となっていました。



京都霊山護国神社の神紋は「桜に菊」。
菊の紋をいただいていること即ち、明治天皇のお計らいによって建立され、
戦前は社格にはとくに「官祭社」に列し国費で営繕されてきたという名残でもあります。



冒頭の「特攻勇士の像」は、平成24年と比較的最近のもので、
靖国神社の遊就館内に事務局を置く

公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会

によって制作されました。
彼の姿は陸海軍どちらでもなくどちらでもある軍服を身にまとい、
後ろは「零式艦上戦闘機の翼と翼に記された日の丸」だそうです。
(いでたちは飛行帽と飛行服の襟元などが陸軍のものです)

全国の護国神社に同じ像を建立していこうとの計画があり、現在は
16箇所ですが、将来的には全国52の護国神社全てに像を建立するのが
最終目的であるということです。


後半では、ここにどんな戦いの御霊が御祭神として祀られているのかを
見ていくことにしたいと思います。



 

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日系アメリカ人二世~「メリルの匪賊」と「アーロン収容所」

2016-06-05 | 日本のこと


 


日系二世部隊であるMIS(Military Intelligence Service) 、
14人の諜報部は、そのうち一人だけが白人の部隊で、
ビルマ戦線では「マローダーズ」のために任務についていました。

この写真はMISのヘンリー・ゴウショ軍曹と、「マローダーズ」のウェストン中尉。
ゴウショ軍曹も日系人収容所からMISに参加した組で、戦線で娘の誕生を知りました。
戦後は、1977年に「レンジャー・ホールオブフェーム」にその名を加えられています。





日系米人シリーズを書くために、山崎豊子の「二つの祖国」をもう一度読みましたが、

改めて思うのは、我々が想像するよりずっと、彼ら二世は「日本」に対して複雑な、
むしろ愛憎で言えば「憎」の側が勝った感情を持っていたのではないかということです。

日本人の両親から生まれても日本を見たことがなく、日本人というだけで
酷い差別を受けてきた上、アメリカ的には「スニーキーアタック」である
真珠湾攻撃によって一層自分たちの立場を悪くした日本。


アメリカが自分たちを非人道的に扱うのは「日本のせい」だと、むしろ

自分たちの不幸の責任を「日本」にすり替えて憎悪するものすらいたのではないかと。

日系人の中には、日本がミッドウェーで負けたというニュースを知らず、
快進撃を続け、そのうち勝つに違いないと期待を続けた者もいる、
と小説ではかかれていましたが、それは少数派ではなかったのか、と、
たとえば占領後の日本で、占領軍の先に立ち、

日本人に侮蔑的に振る舞う二世などの話を聞いて思わずにはいられません。

特に戦後の日本側の媒体で、この日系二世が良く描かれることは稀ですが、
特にアメリカ政府が日系人に対する迫害などを謝罪してからというもの、

アメリカ側からこの視点で日系アメリカ人を描くことはタブーでもあるようです。

前述の傲慢で無礼な日本人に対する態度、そして東京裁判における稚拙な日本語が
裁判の進行を甚だしく妨げた、などということはあくまでも日本側からの視点で、
現在のアメリカでは日系二世たちはアメリカのために日本やドイツと戦った
アメリカ合衆国のヒーローということになっています。



どうもわたしは日本人のせいか、442部隊は素直に賞賛できても、MIS、

特に沖縄で宣撫工作を行った日系二世兵士たちに対しては、感情的な部分で
「よくそんな立場に立てたなあ」というか、虎の威を借る狐を見るような、

わずかな嫌悪を交えずには見ることができないのですが、この複雑さもまた、
当事者である彼らが一番苦しめられたジレンマそのものでもあるのでしょう。





ところでみなさんは「メリルの匪賊」という言葉を聞いたことがありますか?

ない?それでは「メリルのマローダー」は?

「マローダーなら知ってるよ、飛行機の名前になっているし」

と思った方はわたしと全く同じです。


「メリルの匪賊」、というキャッチフレーズが日本では全く知られていないのも、

このビルマ戦線で苦労した、フランク・メリル隊長以下第5307編成部隊についての逸話が
日本では有名に成るべくもない(どうでもいい?)ものであったからに他なりませんが、
アメリカでは「Merrill's Marauder's」という映画にまでなっています。

Merrill Marauders (Original Trailer)

ビルマ戦線では、アメリカも結構大変だったんですねよくわかります。(適当)
映画では状況が悪くなって、隊の中で仲間割れして殴り合いなんかになってますね。

戦況を簡単に説明しておくと、もともとイギリス領だったビルマに日本が侵攻し、
イギリスを追い出して全土を制圧していたのですが、これを取り戻すために連合軍が、
終戦までに多大な犠牲を払ったというのがビルマの戦いの全容です。



「メリルの匪賊」というのは、1943年に日本の補給線を断つための戦闘に、
ブーマに投入された第5307隊のニックネームですが、
これは戦後になって、隊長だったメリル准将自身がつけたものです。

自分の名前をちゃっかり入れたあだ名を後からつけていることにご注目ください。

それはともかく、ジャングルに展開した「マローダーズ」は、重機も戦車もなく、
1000マイル以上を歩いて進軍し、日本の陸軍第18部隊と戦い、
これを倒してシンガポールとマラヤを散々苦労して制圧しました。


この戦いにおいては日系アメリカ人二世が多大な功績を上げたわけですが、
その働きはメリル将軍(最終)の言葉に要約されています。

「君たちがいなかったらどうなっていたかわからない」

はあそうだったんですか。

諜報部隊の二世たちには、その勇気と武功を評価され、
全員にブロンズスターメダルが与えられています。



真ん中、フランク・メリル将軍。
なんだかフライングタイガースのシェンノートみたいな人ですね。




このときのMISの隊長は、ウィリアム・ラフィン大尉といい、日本語学者でした。
父親がアメリカ人、母親が日本人で、1902年、日本生まれです。
日米が開戦となった時に彼らは日本にいましたが、収監を経て国外追放となります。
アメリカに帰国することを余儀なくされた彼は、ニューヨークに着いたその足で
MISへの入隊を決めています。

彼の場合は母の国から拒絶された思いが、日本と戦うことになることも承知で
軍へとその身を駆り立てたのでしょう。

隊長としてメリルの「マローダー」に配属された彼ですが、 乗機が零戦に撃墜され、
1944年5月にビルマのブーマで戦死しました。



ところで、日本はビルマ方面作戦に参加した303,501名の日本軍将兵のうち、
6割以上にあたる185,149名が戦没し、帰還者は118,352名だけでした。

この地で捕虜になった日本軍の将兵には、連合軍による非人道的な報復が行われました。
 敗戦により捕虜になった日本兵が大多数だったため、連合軍は、勝手に

「降伏日本軍人」(JSP) という枠を設け、(捕虜とすると扱いが国際法に準じるから)
国際法に抵触しないギリギリで、現場ではリンチまがいのことも行われ、
この結果、半数が収容所の労務で死亡しました。



終戦になっていため、本来は条約により、多くの日本兵を一年以内に帰国(帰還)

させることが決まっていたにもかかわらず、英国軍主体の東南アジア連合国軍 (SEAC)
日本兵から「作業隊」を選び、意図的に帰国を遅らせました。

兵士の労役の賃金は、連合国(英国)からは支払われず、日本政府が負担しています。


それだけではありません。


連合国軍は秩序の維持の為と称して、暴力・体罰を用いたり、銃殺を行いました。

窃盗などの軽い犯罪であっても処刑されたり、泥棒は即時射殺されたりしました。

連合国軍兵士は、日本兵に四つん這いになることを命じ、一時間も足かけ台にしたり、
トイレで四つん這いにさせてその顔めがけて小便をしたり、
タバコの火を日本兵の顔で消したり、顔を蹴ることも楽しんで行いました。

また、『戦場にかける橋』などで知られる泰緬鉄道を敷設した
「鉄道隊」に対する英国軍の報復について、
「アーロン収容所」の著者会田雄次はこんな話を聞いたそうです。


「イラワジ川の中洲には毛ガニがいるが、カニを生で食べるとアメーバ赤痢にかかる。
その中洲に鉄道隊の関係者百何十人かが置き去りにされた。
英国軍は、降伏した日本兵に満足な食事を与えず、飢えに苦しませた上で、
予め川のカニには病原菌がいるため生食不可の命令を出しておいた。

英国人の説明では、あの戦犯らは裁判を待っており、狂暴で逃走や反乱の危険があるため、
(逃げられない)中洲に収容したと言う。
その日本兵らの容疑は、泰緬国境で英国人捕虜を虐待して大勢を殺したというものだが、
本当なのかはわからない。
その中洲は潮が満ちれば水没する場所で、マキは手に入らず、飢えたらカニを食べるしかない。
やがて彼らは赤痢になり、血便を出し血へどを吐いて死んでいった。

英国軍は、毎日、日本兵が死に絶えるまで、岸から双眼鏡で観測した。
全部死んだのを見届けると、

「日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、
生ガニを捕食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である」

と上司に報告した。


会田にこのことを伝えた人物は、

「何もかも英軍の計画どおりにいったというわけですね」

と話を締めくくったそうです。


この収容所の地獄から生きて帰ってきた会田雄次は、「アーロン収容所」という著書で
日本が手本とした英国のヒューマニズムは英国には無かったとする主旨を著し、

「少なくとも私は、英軍さらには英国というものに対する
燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきた」


「イギリス人を全部この地上から消してしまったら、世界中がどんなにすっきりするだろう」

「(もう一度戦争した場合、相手がイギリス人なら)女でも子どもでも、
赤ん坊でも、
哀願しようが、泣こうが、一寸きざみ五分きざみ切りきざんでやる」


と怨嗟の思いを書き残しています。



さて、終戦後日本からビルマを取り戻し、そこで散々日本人捕虜に虐待しておいて、
東京裁判では人道に対する罪と称して日本を「有罪」にしたイギリスはじめ連合国は、

最終的にはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失いました。


ビルマは1948年に独立を達成しましたが、戦後、同国と最も良い関係を築いたのは、
アメリカでももちろんイギリスでもなく、戦後補償をきちんと行い、
合弁事業によって国家の振興に協力し、
戦争により破壊された鉄道通信網の建設、
内陸水路の復旧や、沈船の引き上げなど、
2億ドル(720億円)の戦争賠償と
5,000万ドル(180億円)の経済協力を行った日本でした。


ネ・ウィンをはじめとするBIA出身のビルマ要人は日本への親しみを持ち続け、
大統領となった後も訪日のたびに南機関の元関係者と旧交を温めたと言われます。
1981年4月には、ミャンマー政府が独立に貢献した南機関の鈴木敬司
旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉である、

「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」

を授与しています。



日系二世たちは国家から忠誠の踏み絵を踏まされ、その結果、
選びとった祖国アメリカのために命を捨てて戦いました。

なんどもわたしが言うように、戦争に「どちらが正しい」はありません。

しかし、彼らが忠誠を誓ったアメリカはじめ連合国の大義は、少なくとも
ビルマやインドネシアなどアジア諸国において戦後否定されるという結果となったのです。




自分たち日系人が結果として、日本を叩き潰す、すなわち

大国側に立って植民地支配と人種差別を維持するための戦いを幇助していたこと

を、大抵の二世兵士たちは、おそらく考えてみることもなかったでしょう。



彼らのなかには、米国における日系人の立場を悪くした真珠湾攻撃を起こした国として
日本を純粋に憎み戦った者がいたかもしれないし、ラフィン大尉のように
「日本から裏切られた」という苦衷の思いで戦った者もいたでしょう。



日系アメリカ人たちは、激しい人種差別の中、よきアメリカ国民になるため、
祖国のために血を流し、遅かったとはいえ戦後それが国家から認められるに至りました。
しかしその祖国は、皮肉なことに、戦後、1966年に人種差別撤廃条約が締結されるまで、
日本がかつて国連で提唱した「人種差別撤廃提案」を拒否したこともある差別大国だったのです。



どれくらいの日系アメリカ人たちが、アメリカという大国の二面性を表す

この痛烈な皮肉に気づきながら、その旗のもとに戦っていたのでしょうか。





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デッカー司令官の「黒船再来航」〜横須賀歴史ウォーク

2016-05-10 | 日本のこと

さて、ボランティアガイドに案内されてみる横須賀の街。
そこここにある歴史のよすがを見て歩くツァーですが、
ある意味このレベル?の「遺跡」であれば、都心のように
作りかえられてしまったようなところでなければ、どんな県のどんな地方にも
残っているものではないかと思われました。

横須賀市のえらいところは、そういう、地元の人なら見慣れて
何の関心も持たないであろう歴史的遺跡を、あらためてこのように取り上げ、
ツァーを企画するというところです。

このように紹介されなければ一生知ることのない「小さな歴史」を、
砂浜でガラスのかけらを拾うように拾い上げるという試みは、
たとえ重大なことでなくても少なくとも忘れないで未来に残すことになります。

そしてこの試みのために、横須賀観光局はガイドのボランティアを
常に募集しております。
この日のツァー説明の紙とともに「ガイド応募用紙」が挟まれており、
担当のガイドさんが「この程度ならわたしでもできそう、と思ったらぜひ」
と募集していることをアナウンスしていたので知ったのですが。

坂道を登りながらガイドさんの近くを歩いていて聞いたのですが、
ボランティアのガイドは、1年間の研修を受けないといけないそうです。
何時に講習会が行われるのかは知りませんが、少なくとも仕事があるとダメでしょう。

というわけで、勢いガイドはリタイアした人ばかりになってしまうのですが、
そうなると今度は高齢化で人がどんどん辞めていき、
慢性的に足りない状態なんだそうです。

参加費は300円なので、ガイドにも交通費くらいは出るのでしょうが、
いっそもう少し集めてギャラを出せればもう少し人が来るような気もします。

さて、日蓮上人が3週間座っていた「お穴様」から、次は中央公園へ。



中央公園、別名「砲台山」というそうです。
というのも、ここには昔旧陸軍の米が浜演習砲台があったからで。
今では小綺麗に白いフェンスなど立ててしまっていますが、
この向こうには土塁が広がり、掩蔽壕が二つ並んでいます。

ガイドさんが子供の頃は、何もしていなかったので穴に入って遊んでいたとか。

去年の観艦式の帰りに見た海堡をテーマに、東京湾防衛について書きましたが、
ここもまた東京湾要塞の一つとして、明治24(1891)年に砲台演習場となりました。

ここに据えられていた砲台は以下のとおり。 

28センチ榴弾砲台 6門 明治24年据付完成
24センチ加農砲台 2門 明治24年据付完成

旅順要塞攻撃にはここから運ばれた28センチ榴弾砲が使われました。
昭和2年、田戸にあった演習砲台が関東大震災で破損したため、
その代わりに 二十八センチ榴弾砲4門の演習砲台として改築されています。



未だに石積みの残る砲台跡。
土塁の上に上がってみたところです。
かつてはもっと高いレンガの壁に囲まれていたそうです。

演習場として使われていたものの、戦争になったときにも
ここは演習砲台だったので、結局ここからは一発の実弾を
発車することもなく、昭和20年に取り払われました。

このときにガイドさんが

「空襲のときには実弾を撃っていない」

というと、参加者の一人がなぜかバカにしたように

「どうせ一発も当たらなかったんだろう」

みたいなことを言うので、わたしが内心ムッとしていると、

「ここではないけどB29が来たときには結構な数高角砲で落としてます」

と言ってくれたのでほっとしました。
この年代(団塊の世代)には、何も知らず調べず、戦後の「日本はダメだった」
論調に簡単に賛同して意味もなく昔の日本人を見下したような発言をする人がいます。
判で押したように彼らは日本が一方的に侵略戦争をしたなどと信じていて、
ついでに戦後日本に戦争がなかったのは9条のおかげ、などと思っているのも
この世代に多いことが「シールズ」のデモの年齢層をみてもおわかりでしょう。

ところでこの画面の右側に立っているさびた鉄の柱、
これも昔からあるのでしょうか。
時間があればそこここを細かに見学して歩きたいと思いました。



そして、そんな団塊の世代が元気だった頃、
(ガイドさん曰く、横須賀にお金があった頃)作られた
得体の知れないオブジェ。
人をイラッとさせる不安定なシェイプは、いかにもアーティストの
意味ありげで実は自己満足なだけの”創造の残渣”そのものと言った態です。
(言いすぎてごめんなさいなんていうもんか)

わたしがこれを気に入らないのは不格好なシェイプだけでなく、
全体に配された四角の升目いたるところにプリントされている文字。

核兵器廃絶、平和都市宣言」

これが、耳なし芳一のお経の文句みたいにいくつもいくつも。



核兵器廃絶も平和都市もそうあるべきだとは思うけど、一言。
まず、そういうことは核を持っている国に向かって言ってくれるかな。

無慈悲な国の核は神奈川に落とされるとイルミナティカードも予言しているし(笑)
いくら平和都市宣言したって、核を持ってる国は照準外してくれないと思うな。
耳なし芳一みたいに核兵器廃絶とそこらに書けば核弾頭は外れてくれるとか?

あ、今思いついた!

9条で日本が核の攻撃を受けないと思っている人って、9条を
芳一の体に書かれた魔除けの経文みたいに思っているのでは・・・。



ツァーガイドは全くスルーして通り過ぎたのですが、
この中央公園のガイド案内にはこの戦没者慰霊塔が載っています。

船の形のようだなあと思ったらやっぱり船の舳先を象っていて、
中には横須賀市内の日清、日露、第一次、第二次世界大戦での
戦病死者の遺影約3600枚が納められているのだそうです。

塔の内側に金属の銘板が埋め込まれていて、その銘文は

「日本が 世界の夜明けに目覚めてから 今日の栄光をかちえるまで 
多くの戦争において 国のため尊い命を捧げられた 
諸霊よ 横須賀市民は 諸霊の遺族とともに この地を定め塔をたて 
熱いまごころをもって み霊を慰めたてまつる 
昭和四十四年三月誌す 横須賀市長 長野 正義」

平和都市宣言・核廃絶より、ずっと意味があると思うのはわたしだけでしょうか。





海上にぼんやりとかかっているのは黄砂ってやつなんでしょうか。
かつては海だったところに林立するビル越しに猿島が見えます。



アップしてみました。
砂浜に建物があるのが見えます。




ベントン・W・デッカーは、最初の横須賀アメリカ海軍基地司令官でした。
つまり最初の横須賀鎮守府庁舎のアメリカ人住人ということになります。
最初に日本に着任したときには少佐だったそうですが、
英語のデータによると最終的にはリア・アドミラルまでいったようです。

なぜデッカー少将の像があるかというと、横須賀市にとっては
戦後横須賀の復興の
恩人であるとされている人物だからだそうです。
この碑にはこのような碑文があります。

頌徳
ベントン・W・デッカー司令官は、横須賀米国海軍基地司令官として、
大戦後混沌たる昭和二十一年四月着任せられ、爾来四ヶ年に亘り本市経済の復興に
絶大な同情と好意とを以て吾々市民を指導された偉大なる恩人である。

軍港を失った本市を民主的な経済都市として更生させるために
新しい商工会議所、婦人会、赤十字会、福祉委員会等の設立を促され、
更に本市の文化、教育、救済等凡ゆる社会的事業にも適格な指導精神を指示せられ、
殊に新規転換工業の育成に対しては最大の援助を与へられ、本市諸産業が
今日の復興を見るに至ったことは偏えに同司令官の有難き徳政の賜であって
吾々は哀心深い感銘と敬意とを表するものである。
玆に同司令官の頌徳を永く偲びつつ今後不断の努力を続けるため
玆に巨匠川村吾蔵氏畢生の力作になる記念胸像を建立した次第である。

昭和二十四年十一月

社団法人横須賀商工会議所


昭和24年というとデッカーが任務を終えて帰国したときでしょう。

穿った見方をするわけではありませんが、アメリカが日本をどのように占領するか、
横須賀にどのような占領政策を布くかは一海軍少佐の胸先三寸で決まることでは全くなく、
デッカー少将は司令官としてGHQの意向に添って任務を行っていたにすぎません。

アメリカ海軍軍人として星条旗に忠節を誓ったからには
戦争で手に入った日本の一地方の統治にアメリカ全権として邁進するのは
いわば当然の義務だったといえます。

もちろん、デッカー司令官本人の人徳というものが当時の日本人を感服せしめ、
このような碑を退任早々(昭和24年)わざわざ建てるに至ったの事実でしょうけど。

ここでわたしは「マッカーサー神社」のことを思い浮かべずに入られません。


日本が戦争に負け、昨日までの敵であるアメリカに占領されるとなったとき、
日本人のほとんどは絶望に打ちひしがれ、

「男は苦役、女は皆手篭めにされるそうだ」

という流言飛語が飛び交いました。
ところが、横田基地にマッカーサーが降り立ち、アメリカ軍が進駐してきても
少なくともおおむね彼らは友好的で、聞いていたような乱暴狼藉もなく、
それどころか子供にチョコレートを投げたりする陽気で明るいその気質が
人々をまず安心させただけでなく、本国からは日本にふんだんに物資が投入され、
経済の復興も彼らの援助によって目に見える形で推進されます。

かてて加えて、東京裁判でアメリカは日本国民に「悪いのは軍部」
「あなたたちは騙されていた」と刷り込みショーをおこない、ラジオ番組
「真実はかうだ」などで戦時中の内情の暴露をして、
敗戦に遣る瀬無い思いをしていた日本人の怒りを「日本の軍国主義」に向けました。


敗戦国の貧しい日本人にふんだんに物資を与えてくれるアメリカ人。
「昨日の敵は今日の友」という言葉を日露戦争以来尊ぶ日本人にとって
占領軍が自分たちの救世主のように映ってもそれは当然だったでしょう。

このデッカー司令官も職務に忠実に、誠意を持って当たったがため、
横須賀の日本人に救世主のように慕われたようです。
何しろ当時の日本にはマッカーサーの熱烈な信奉者があふれ、
「マッカーサー神社」
を作ろうという話がでるくらいだったのです。

デッカー司令官は確かに横須賀の経済復興に多大な力を発揮したのでしょう。
たった3年の任期のあと離任するにあたって日本人が像まで作るからには、
時々は本国とぶつかってまで横須賀のために尽くしてくれた、というのも
あながち過大評価でもなかったのだろうとは思います。


しかし、それなら現在、このアメリカ軍人の名前が少なくともあの

アーレイ・バーク提督ほど人々の記憶にも、横須賀市の歴史にも残っていないのは
いったいなぜなのでしょうか。

ベントン・W・デッカーは帰国後本を出版しています。


「RETURN OF THE BLACK SHIPS」(黒船再来航) 

読んだわけではないのでなんとも評価できないのですが、
この日本語訳を出版したらしい団体の紹介によると 

ペリーの黒船から日本人は、民主主義を受取らなかったために無益な戦争に走ったが、
今度こそ、日本が民主主義になってもらうため、われわれは再びやってきたのだという
タイトルなのです。 民主主義については、未知であり、無知の日本人に、さまざまな
指導と努力で、短期間に見本を示していった実践の記なのです。

・・・おいおいおいおい(脱力)

そもそも黒船って日本に民主主義をもたらしに来たのかい?
あれは当時の世界の植民地獲得競争に乗り遅れていた米国が、
アジアでの覇権を握るため日本を無理やり開国させて市場を獲得することと、
捕鯨船の太平洋航路の拠点を獲得するためだったというのが定説なんですが。


そもそもこの紹介、この短い文章の中に三回も民主主義を繰り返しておりますが、

これを書いた人も、そしてデッカー少将も、

「日本が黒船から民主主義を学ばなかったから戦争になった」

と心から信じているとしたら、真実の歴史に対して

「未知であり無知」であるのはそちらだと言わざるを得ません。

そもそも民主主義とはなんだ!

とまるでどこぞの偏差値28集団のようなことを
言わないといけないのですが(笑)
その基本が議会制民主主義であり、
その根拠が選挙制度のあるなしだと仮定すると、
日本は遥か昔、
西暦700年頃から選挙制度を取っていますし、
近代の選挙制度は1878年ペリー来航から25年後、明治政府の発足後11年で
制限選挙ではありましたが、政治に取り入れられています。

この人たちのいう「戦前の日本が民主主義でなかった」というのは
いかなる根拠によるものなのでしょうか。


前にも言いましたが日本は天皇という存在があったため独裁政治になったことがなく、

さらに制限選挙がどうこうというのなら、アメリカはデッカーが日本にいた当時ですら、
黒人に公民権はなく、参政権は与えられていませんでした。 

お前らごときが日本に上から目線で「民主主義を与える」などとは
ちゃんちゃらおかしくておへそがお茶を沸かすわ!(独り言です)
 

概して当時の進駐軍はほとんどが

「日本を民主化する」

という態度で占領政策を行っていたのも確かです。

大方が日本人を対等な人間としてみていなかった当時の戦勝国の人間の中では
デッカー少将は甚だ高潔でフェアな人物であったようで、
わずか3年の司令官の任期で戦後日本人の心を鷲掴みにし、
おそらく離任するときには最大の敬意を払われ日本を後にしたのでしょう。

横須賀の司令官を以って軍を退役したデッカー少将は、アメリカで本を出し、
アジアでの珍しい体験をあちこちで講演して回っていたようです。


演題「アジアにおける我々の未来 わたしが日本で学んだこと」
ベントン・デッカー少将講演会



ところで、マッカーサーが「死なず消えゆくのみ」という言葉を残して帰国後、
彼が日本を「わたしの国」と呼んでいたり、例の「日本は12歳」発言によって、
日本人のマッカーサー崇拝はあっさり冷めました。


実はマッカーサーはこのとき、「日本の戦争は自衛だった」というあの発言を始め、


「勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方が良い結果を生むことはない」

「交戦終了後は懲罰的意味合いや、特定の人物に恨みを持ち込むべきでない」

「広島・長崎の原爆は虐殺は残酷極まるものだった」

と語った聴聞会での一説に「欧米が45歳なら日本は12歳」と述べたのです。
実はマッカーサーはそのあと、

「学びの段階に新しい思考形式を取り入れるのも柔軟だ。
日本人は新しい思考に対して弾力に富み、受容力がある」

と続けているので、これは日本のこれからの将来性を期待し、
硬直性のある欧米と比べて褒める意味で使ったとも考えられます。
しかし、多くの日本人は例によって「12歳」だけの部分を切り取った
報道しか耳にせず、非難に便乗してマッカーサーを嫌悪しました。




同じく、現在の横須賀の街で、この銅像以外に当時の熱い
「デッカー崇拝」を思わせるものはすでにどこにも残っていません。

聞けばこの胸像も、かつては横須賀のメインストリートにあったそうですが、
いつの間にかここに移されて今日に至るのだそうです。



日本人は大国アメリカを震撼させるほど勇敢に、自分の命すら捨てて
国のために戦ったのに、一旦敗戦後となるとこんどはそのアメリカ人が驚くくらい
従順で、
マッカーサーとGHQの治世を賞賛し、熱狂すらしました。

この変わり身の早さは「逆もまた真なり」であったことを、この、
恩人であったはずの
デッカー司令官の扱いにも見るような気がします。

さすがにデッカー少将が民主主義を日本に教えたとはわたしは全く思いませんけど。



続く。





 

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極東国際軍事裁判の址と「山河燃ゆ」~防衛省見学

2016-04-25 | 日本のこと



タイトルはここ市谷法廷で行われた

極東国際軍事裁判、通称東京裁判の様子。

先日市谷でこの法廷跡を見学した時に、同じ位置から撮った写真と並べてみました。
大きな違いは天井に埋め込まれている従来の照明以外に、

吊り下げ式の灯りが裁判のために(裁判長の意向だったらしい)つけられていることです。

ご覧のように、右側に裁判団の席、左が被告席。
二階バルコニーには傍聴人(おもに被告家族)が座り、
そのバルコニーの下が報道陣の席です。
報道陣席は右側が海外プレス、左側が日本人報道記者と分けられていました。



この玉座は当然のことながら、ここが士官学校であった時代には
天皇陛下および皇族方のご臨席を賜るときに使用されました。

この部分に貼られている壁布は、当時のもので手織りです。



菊の御紋が入り、さらに意匠は菊(と藤?)の精緻な刺繍ががあしらわれています。


この組木の床ですが、「からくり箱」で有名な箱根細工の職人の手によるものです。

うちは箱根旅行のときこのからくり箱を一つ買い求め、
たしか「37ステップ」を経て開けるという行程に挑戦しましたが、
行き詰ったときに

そこで放置したまま置いておく人がいて、

いったいどこまで進んだかわからないままになってしまい、
そこから押しても引いてもびくとも動かなくなり、
そのうち部屋の隅でホコリを被りだしたので、泣く泣く処分しました。

玉座につく天皇陛下のためにわざわざ一般用の隣に作られた

天皇陛下専用階段

年に何回ご光臨賜るかわからないその機会のために、
わざわざ専用階段を設けているのです。

江田島の海軍兵学校にもやはり玉座がありますが、
確かここに上るための専用階段まではなかったような。



その階段画像もう一度。
といっても、こうやって二つの階段を比べてもその違いはわかりません。
が、実は陛下がそのおみ足を乗せた途端、

膝を動かすだけで勝手にすいすいとその御体を押し上げてくれる

ような仕掛け、つまり、階段の踏み板のの中央にわずかな凹みがあり、
さらにほんの少し手前に傾斜をつけてあるのだということです。



さて、極東軍事裁判のとき玉座は取り壊され、同時通訳席が作られました。


このときに通訳モニターとして働いた日系アメリカ人、アキラ・イタミと
太平洋戦線で宣撫工作を行っていたハリー・フクハラについて先日書きましたが、
つまりここに設えられたガラスのブースから、イタミは裁判を見守ったのです。
そのときにもお話ししたようにイタミはその後拳銃自殺をしますが、
そのガラスブースから、彼は東京裁判の通訳を通して何を見ていたのでしょうか。


児島襄の「東京裁判」では、いよいよ刑言い渡しのとき、
当初、東条英機の判決通訳をアナウンスすることになっていた二世が
文官で死刑はありえないと言われていた広田弘毅の担当通訳に、

「死刑の言い渡しを通訳するのは嫌だから、代わってくれ」

と頼み込み、頼まれた方は快く

「俺はビッグネームをやりたいから歓迎だ」

と引き受けたので通訳を交代したところ、
その広田が誰もが驚く「デス・バイ・ハンギング」の判決だったので、
わざわざ広田に変えてもらった通訳は真っ青になった、
というエピソードがありましたが、日系アメリカ人の悲劇を描いた
山崎豊子の小説「二つの祖国」でもこのシーンがありました。


「二つの祖国」はいまでは信じられないことですが、NHK大河ドラマ化されました。
「山河燃ゆ」、この配役、今見るとすごいです。

天羽賢治(松本幸四郎)天羽の父(三船敏郎)母(津島恵子)
天羽の弟1(西田敏行)戦死する弟(堤大二郎)
梛子(島田陽子)チャーリー(沢田研二)天羽の妻エミー(多岐川裕美)
天羽の妹(榊原郁恵)天羽の日本の恋人(大原麗子)


東郷茂徳(鶴田浩二)昭和天皇(高橋昌也)

弟の恋人マリアン(ヒロコグレース)米人記者(ケントギルバート)

中華料理屋の娘(アグネスチャン)


日系1世のクリーニング屋のオヤジに、三船敏郎って・・。

最後の三人は原作には全くでてこないキャラクターで、単なる顔見せですが、
このケントギルバートの記者の設定がすごい。

戦艦大和の建造を探る中で右翼の青年に暗殺される。
彼の暗殺後、賢治も日本から追放されて入国できなくなる。

まあ、当時戦艦大和の建造をアメリカ人が調べちゃまずいかもしれんね。

しかし皆さん、これはこれで(笑)観たくありませんか?


なんでも当時「山河燃ゆ」は「史上最低の大河視聴率」と言われたそうですが、
それでも平均視聴率21.1%、最高視聴率30%。

同じ燃ゆでも「花燃ゆ」がこの度歴代最低視聴率を更新したため、今となっては
この「山河燃ゆ」など、歴代ワースト20位以内にも入ってきません。


映画でもいいから是非一度、変な改変なしで「二つの祖国」を
映像化してくれないかなあとわたしはずっと思っています。



冒頭の裁判中の写真と実際の写真をもう一度見比べてください。
裁判中の写真には天井から「吊り照明」がたくさん見えますね。

これは進駐軍、軍事裁判法廷の意向で

「昼のように明るく法廷を照らすこと」

とされたので、そのために急設した灯です。
画面の右側が裁判官席で、その後ろのカーテンを閉めていたため、
そして主にアメリカからは映画の撮影班も来ていましたから、
まるでハリウッドの映画撮影のように過度な照明がされました。



こんな明かり取りじゃまったく足りない!というわけです。



しかしこの過度な照明、夏は大変でした。
何しろ当時、

クーラーがここには備わっていなかった

のですから。
暑さの上に過剰な照明で報道陣は勿論のこと裁く方も裁かれる方も、
だれてしまった時期があった、と児島襄の「東京裁判」には描かれています。



これは前回の見学の時の写真ですが、この前から2番目の長椅子の角の部分。
ここに証言台がありました。


各被告が個人反証のときに座った、あの証言台です。

ここに・・・。

さて、ここには写真でもお分かりのようにガラスケースがあり、
そこに実際の資料や写真が展示されています。



極東国際軍事裁判は、東條英機らA級戦犯7人の絞首刑という
驚愕すべき厳しい判決が下されました。
この写真は最終判決を聞いたのち正面から出てきた被告たちです。



今市ヶ谷記念館となっている建物の正面5段の石段の上でこの写真は撮られました。

南次郎大将(前列左端)のお髭が立派です。
それにしてもさすがは一国の政治指導者だった人々。
カメラの放列の前に立つ様子は悄然とした様子はなく皆堂々として見えます。

東条英機の左斜め下が木戸幸一、壁際で一人だけ左を見ているのが荒木貞夫。
海軍大臣だったことで訴追された嶋田繁太郎大将は南大将の右上の粋なコート姿。
この被告のグループの中で英語が堪能であったこともあり、米軍との折衝を行うなど、
リーダーシップを発揮していました。


左に立っているMPは、


オープレー・S・ケンワージー中佐。

市谷法廷における被告たちの世話と監視にあたった
この下士官出身の憲兵隊長は、東京に赴任する前にマニラにいて、
あの山下泰文、本間正晴の処刑を見届けています。

「山下は軍人として立派に死んでいった。
わたしも軍人としてあのように死んでいきたい」

二人を畏敬していたケンワージー憲兵隊長の気持ちは
そのまま市谷のA級戦犯たちの扱いに表れました。
彼らを尊敬し、手厚く儀礼を以て接し、時には接見のときに
家族と少しでも長い時間会えるように計らいました。

それを日本人である被告たちがありがたく思わないわけがありません。

判決が下り、ケンワージーと別れることが決まったとき
被告たちは相談して、彼に全員の揮毫を贈呈しています。



ここには「東京裁判は無効であり被告は全員無罪である」
と独自の判決書を出したラダビノッド・パル博士についての
少しの資料も見られました。



わたしたち日本人との関わり合いで、
パル判事は偉大な知識の光明をこの世に遺してくれた。

決してわたしのこの評価は大げさなものだとは思いません。


パル博士がいなかったら、東京裁判の欺瞞性が戦後の日本に膾炙し、
同時に自虐史観から抜け出そうとする動きは

今よりさらに遅れたであろうことは、火を見るより明らかだからです。

しかし、そのパル博士がインド代表判事に選出されたのは
ちょっとしたアクシデントによるものでした。

2009年と言いますからごく最近分かったことですが、パル博士は
休暇中の裁判官の穴を埋めるために、短期間裁判官代行を務めただけで、

インド総督府の認める正式な判事ではなかったと言うのです。

全体的にこの裁判は事務手続きにいい加減なところがけっこうあり、
一番ひどい例は用意された被告席に全員が座れないことが分かった時、
二人(陸軍大将だった阿部信行と226で青年将校たちに担がれた真崎甚三郎)
を訴追しないことにして帰らせたりしています。

パル判事の人事も国内手続きのミスと言うべきだったのですが、

ともあれこの偶然が日本にパル博士を与えることになったのです。


このミスに「神の配慮」を感じるのはわたしだけでしょうか。




この写真は珍しくカラーですが、誰かの(処刑された7人のうちの)
遺族が、GHQにもし見つかったら叱責没収になることを覚悟で
こっそり写したものなのだそうです。

証言台にいるのは広田弘毅元外相のように見えますが・・・・・・。




写真自体は特に変わったものではありませんが、
この提供者の名前を見てください。

森山真弓元法務大臣。

森山元法相は当時津田塾女子大を出て通訳のアルバイトで
極東国際軍事法廷の現場にいました。



翻訳業務中の森山真弓(たん)。
彼女はこの後東京大学に入学し、官僚をへて政治家となり、
自民党から法務大臣、文部大臣、内閣官房長官などを歴任します。

どうでもいいことですが、彼女と結婚することになった男性は
「君は飯は炊けるのか」と聞いたとか。

「相撲の土俵に女性を上がらせろ!」とか夫婦別姓推奨とか、
なんだかフェミ臭い政治家でしたが、ご飯くらいは炊けたんじゃないかな(適当)





前回の防衛省見学ツァーの記事からも抜粋再掲してお送りしました。

続く。



 

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