ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

プリズナーズ・オブ・ウォー(戦争捕虜)〜シカゴ科学産業博物館U-505展示

2023-04-30 | 歴史

冒頭写真のパネルにある一列に並べられた半裸の男たちは、
捕虜になった直後のU-505の乗員たちです。

わたしはこの写真を見た途端、映画「Uボート最後の決断」で
アメリカ海軍潜水艦の乗員が、全員Uボートの捕虜になり、
Uボート乗員の視線の中を全裸で歩かされるシーンを思い出しました。




捕虜になるだけでもアレなのに、
全裸で行進させられるというのは恥辱以外の何でもありません。

そういう辱めを与えるのが目的なのか、それとも
そのことによって抵抗力を削ぐのが目的かはわかりませんが、
いずれにしても捕虜を「押さえつける」手っ取り早い方法かと思われます。



さて、ボートを捨てて救命いかだで海に逃れたUボート乗員たちは、
Uボートもろともアメリカ軍に捕獲されることになりました。

しかしアフリカ沖を救命いかだで漂流し、味方に拾われる確率は
非常に低かったことを考えると、命拾いだったと考えていいでしょう。



ともあれ彼らはアメリカ艦船に救助された瞬間、
戦争捕虜(プリズナーズ・オブ・ウォー)となったのです。



ホースで水をかけられていますが、これはボートにいるドイツ兵たち
(汗まみれで色々と臭い)を乗艦させる前に洗浄しているのかと。
アフリカ沖で暑いので彼らにはありがたかったかもしれません。



というわけで、今日は博物館の展示からこちらを哨戒、
じゃなくて紹介します。



潜望鏡をのぞく艦長らしき姿。



■ 囚われの身

U-505の拿捕の際死亡したドイツ側の乗組員は、
「ゴギー」ことゴットフリート・フィッシャーただ一人でした。

彼は、最初のアメリカ軍による航空攻撃の際
甲板で銃弾を受けて死亡したとされます。

タスク・グループは残りの58人の乗組員を海から救出しました。
繰り返しますが、ほとんどのUボート乗組員が経験するよりも、
これは結果としてはるかに好ましい運命といえます。

USS「ガダルカナル」に乗せられた彼らはバミューダに輸送され、
ルイジアナ州ラストンでの捕虜収容所の準備を待つために
そこで数週間収容生活を送りました。


バミューダでのUボート乗員たち


ハンス・ゴーベラー二等機関士の捕虜調書。

怪我の状態を書く欄に「左手と人差し指に怪我」、
調書が取られたのは1944年6月13日と捕虜になってすぐです。

一番下にはドイツでの住所も書かれています。



こちらも両手の指紋を念入りに取ってあります。
ヨーゼフ・ハウザー中尉の調書。


捕虜になった時にアメリカ軍に接収されたハウザー中尉の鉄十字章

「勇敢かつ英雄的な戦闘指揮に対して与えられる」
この鉄十字章、アイアンクロスについては、ドイツ軍人の憧れとして
いくつかの映画に登場してきましたが、
ハウザー中尉、何とこれを授与されていたようです。



こちらもヨーゼフ・ハウザー中尉のヒトラー・ユーゲントバッジ。
最後の方はヒトラー・ユーゲントは全員参加となっていました。


「行方不明」扱いされたU-505の乗組員

U-505の捕虜のキャンプ・ラストンでの扱いは「非常に良いものだった」
と、当時のアメリカ側からはそういうことになっていました。

しかし、彼らには特別の事情がありました。

U-505の乗員だけが他の捕虜から隔離され、アメリカ海軍は
彼らの手紙を検閲以前にすべて没収するという扱いをうけたのです。

つまり彼らはいなかったことにされたのでした。

なぜかというと、アメリカ海軍は、U-505を捕獲したことを
ドイツはもちろん国内でも、同盟国に対しても秘匿したかったからです。

海軍作戦部長兼アメリカ艦隊司令長官、
アーネスト・J・キング提督からトップダウンで
これらの特別条件は決定され、通達されました。

しかも、いなかったことにされたどころか、
アメリカは、1944年8月までにドイツ海軍に対し、

「U-505の乗組員親族に、
彼らは既にに死んでいると通知すべきである」

と通達をしているのです。

これ、わたしがドイツ軍関係者だったら、怪しさMAXで疑うな。
なんだってわざわざこんな持って回った言い方してくるんだろう?
「撃沈した」と言わないのは、何かの事情があるんじゃないかって。

しかも、この捕虜の扱いは、1929年に締結された
ジュネーブ第三条約の捕虜の待遇に対する規約、

第 69 条〔措置の通知〕
抑留国は、捕虜がその権力内に陥ったときは、直ちに、捕虜及び、
利益保護国を通じ、
捕虜が属する国に対し、
この部の規定を実施するために執る措置を通知しなければならない。


第 70 条〔捕虜通知票〕
各捕虜に対しては、その者が、捕虜となった時直ちに、
又は収容所(通過収容所を含む。)に到着した後 1 週間以内に、また、
病気になった場合又は病院若しくは他の収容所に移動された場合にも
その後 1 週間以内に、
その家族及び中央捕虜情報局に対し、
捕虜となった事実、あて名及び健康状態を通知する通知票を
直接に送付することができるようにしなければならない。


に明確に違反していました。
どうすんだよアメリカ海軍。

とにかく、死んだことにされていたU-505の乗員は、
故郷に手紙を送ることも、生死を知らせることもままなりませんでした。

そして、これもジュネーブ条約によると、

第 71 条〔通信〕
1.捕虜に対しては、手紙及び葉書を送付し、
及び受領することを許さなければならない。
抑留国が各捕虜の発送する手紙及び葉書の数を
制限することを必要と認めた場合には、その数は、
毎月、手紙二通及び葉書四通より少いものであってはならない。

2.長期にわたり家族から消息を得ない捕虜又は家族との間で
通常の郵便路線により相互に消息を伝えることができない捕虜
及び家族から著しく遠い場所にいる捕虜に対しては、
電報を発信することを許さなければならない。

その料金は、抑留国における捕虜の勘定に借記し、
又は捕虜が処分することができる通貨で支払うものとする。
捕虜は、緊急の場合にも、この措置による利益を受けるものとする。



そこでU-505捕虜は、自分たちが捕まったことをなんとか知らせようと、
何度も無駄な試みを繰り返しました。

あるときの彼らの作戦は、セロファンの袋で風船を作り、
掃除用の化学薬品を混ぜて作った水素ガスを充満させた風船を作り、
「U-505生存!」と書かれた鉄十字の紙を貼り、
外に向けて飛ばし、誰かが拾ってくれるのを待つというものでした。

風船は収容所の境界フェンスの上に飛ばすところを目撃されましたが、
街中ならまだしも、ルイジアナの、「鉄道がある」というだけで選ばれた
なーんもない土地に飛ばしても、人が拾う可能性は微量子レベルでした。

こんなところですから

■ 捕虜たちの生活

一般的な捕虜にとって、ラストン捕虜収容所の生活は穏やかなもので、
バンドや合唱団から流れる音楽が常に空気を満たしていました。

芸術家は絵を描き、大工は家具を作り、
故郷の建物や記念碑のミニチュアを作る者もいて、彼らの作品は
現在でもラストンのいくつかの家に残されたりしています。

運動も奨励され、ドイツの囚人たちはアメリカに来て初めて、
野球やバスケットボールを習いました。

高学歴の囚人たちは、近くのルイジアナ工科大学から取り寄せた本を使って、
さまざまなテーマの授業を他の囚人向けに行いました。

収容所の運営に携わらない囚人たちは、地元の農家で働き、
木材を伐採し、公共施設を建設しました。
給料は「スクリップ」と呼ばれる収容所通貨で支払われ、食堂で使ったり、
洗面用具や雑誌、ビールなどを購入することができました。

多くの「囚人」は、一緒に働く地元の人たちと親しくなり、
「敵」とも一生付き合える関係を築いていったということです。


木材の伐採を行う収容所の作業隊
アメリカ人看守が枢軸国の囚人たちと気軽にポーズをとっている



収容所の囚人には、創造性を発揮するための材料すら与えられました。

この写真の、ナポレオンがライプツィヒで敗れたことを記念して作られた
「国戦記念碑」をはじめ、ドイツの有名な建造物のミニチュアを作ることが
囚人の「流行り」として盛んに行われていました。

しかしU-505の元乗組員たちは、一般の捕虜とも交流を遮断されていました。
他の捕虜からドイツ国内に情報が漏れるのを防ぐためです。


■ 捕虜の解放と帰還

U-505の捕虜は、終戦までキャンプ・ラストンに留まり、
終戦が決まってからドイツへの送還作業が開始されました。

ドイツの家族は、死んだと聞かされていた息子や夫が
生きていたことにさぞ驚き喜んだことでしょう。


先ほどのヨーゼフ・ハウザー中尉が、捕虜解放前に
フランスの収容所から母親に宛てたメッセージが残されています。

ドイツ人捕虜
住所:バイエルン ツヴァイブリュッケン・ルンダーシュトラーセ18

メッセージ:

2年が経ち、僕は再び西ヨーロッパの海岸にいます。
僕は健康で、すぐに戻れるでしょう。
前回からお母さんからも婚約者からも便りがありませんでしたが、
願わくばみなさんが今も元気で健在でありますように。

戦争で財産を失ったとしても、それに対して泣いたりしないで。

昨日僕は解放の通知を受けました。
「アメリカンゾーン2、移住地ミュンヘン」
これは解放されてからの目的地で、すぐにそうなると思います。

早くまたお会いできますように。
あれからのことを全てお話ししたい!

愛する母!僕の素敵な花嫁、兄弟、
ミュンヘンにいる全ての親戚。
彼らがいるところに残らず僕の挨拶を送ってください。
これは息子のセップからのお願いです。

ヨーゼフ・ハウザー中尉
LANT 50 GNA
C.C.P.WE.#23 c.o. P.W. I.B
フランス パリ

最後の捕虜は、1947年に帰国しましたが、博物館の資料として
1991年に行われたかつての捕虜へのインタビューが掲載されています。

■ ヴォルフガング・シラー元水兵へのインタビュー



Q.魚雷室での生活はどのようなものだったのか

もちろん、とても狭かったです。

魚雷の上には私たちの・・私たちのテーブルがありました。
魚雷に木の板をのせるんですが、私たちは寝台に座り、
魚雷の上に置かれたこの木の板で食事をしました。

寝床は、見張りのローテーションごとに交代して使いましたので
「ホットバンク」といっていつも暖かかった。
4時間ごとに誰か起きればすぐに次の人が寝るのです。
その度ベッドを交代しました。

最初に乗艦した人たちはとにかく
ザックの上やハンモックの上を取ってここで寝ていました。
Smutje(コック)なんかは、ほとんどここ。
魚雷の上の真ん中のところでしたね。
彼らは自分のベッドを持っていなかったのです。

「フリーウォッチマン」「フリーランナー」と呼ばれる連中は寝床がない。
しかし、私は自分の特別な寝台を確保していました。

リラックスすることなんてできません。
パイプのせいで仰向けにしか寝られないし寝返りも打てないんですから。
でもそれも当然、とにかく眠る場所さえあれば、って感じです。

海が荒れた時にはパイプの上ですから、滑り落ちないように
頑張って自分の体を支えなければいけなかったのですが、
ある日、あまりにも海が荒れていて、ベッドから振り落とされて
隣の人の背中に「落ちた」ことがありました。


Q.非番の時は何をしていたのですか?
読書?音楽?カードゲーム?


私は本の虫で・・今日もそうです。今日も英語の本を読んでいます。
当時は、できるだけ多くの本を読む努力もしました。
そのやり方で自分を楽にすることに大成功したのです。
自分の神経を保つために。

カードゲームですが、あれはワッチのシフトで
できない方がもしかしたらラッキーだったかもしれません。
(その心は、負けたらお金が減るから)

音楽や娯楽について補足すると、艦内にレコードプレーヤーがあり、
ドイツのレコードや歌を再生することができました。
だから、少しは音楽も聴きました。

アンテナでラジオを受信できたかどうかは、もう思い出せません。
もしそうなら、せいぜいアメリカかスペインのラジオが、
私たちがいたその辺りで受信できたはずです。
でも、今はもうどうだったかわかりません。

Q.読書は、楽しみのためだけだったのでしょうか、
それとも技術的なこと、つまり勉強のためだったのでしょうか?


覚えている限りでは、「宿題」もありました。
魚雷学校で学んだことを「知識を新たにする」という意味で。

潜水艦の中で、生活の中で、学んだことを活かして
実践的に仕事をこなしていくことが必要だと思いました。

各個人が自分のポジションを守り任務をするだけでなく、
他の人のポジションも満たすことが重要だったんです。

困ったときに助けてくれるように お互いに皆の分担を受け持ちました。
それは必要なことでした。

例えば何かの交戦中に誰かが倒れてしまったとしたら、
彼の持ち場をを引き継ぐことができなければなりませんでした。

その点で、私たちはとても充実していましたし、
そのことに興味を持ちましたし、目的を正しく理解して、
それぞれのやり方で行動できるようにしていました。

Q.音楽はオペラとかですか?

『リリ・マルレーン』とか、そういうのしか思い出せないんですけど、
軽音楽がが圧倒的に多かったかな。

若い頃、自分がオペラやオペレッタに関心があったとは到底思えません。
強いて言えば、ドイツ語で
 "am Hut haben"(「帽子の上に持っている」)
という表現があるんですが、それでいうと、
私たちはもっと軽い音楽を聴いていたと思いますよ。

その頃、ポップスはすでにすごく人気が出てきていましたし。
たまにアメリカやイギリスのレコードを聴く機会もありました。

『リリ・マルレーン』なんかは今の人でも知ってると思いますが、
それが自然と私たちの緊張をほぐしてくれていたというか。

Q.初めて潜航をしたときのことを教えてください。

ある潜水の場面で、私はたまたま中央司令室に立っていたのですが、
潜水艦がかなり鋭角に沈むと、中央司令室から艦首魚雷室が見えたんです。
まるでワインボトルを貯蔵したセラーを覗き込んでいるような感じでした(笑)

Q.どんな感じだったのでしょうか?
何を考えていましたか?

潜水艦がどれくらい傾斜を保てるか分からないので、
少し不安な気持ちになりました。
私たちはエンジンの力で潜水していたので、つまり、振動していたのです。

そして、「ダイブ!」の号令で、最初の潜水タンクが浸水し、
あっという間にこの角度になりました。
ジェットコースターみたいな感じで、とても不安な気持ちになりました。

Q.デプス・チャージ(深度爆雷)を落とされた時
の感覚はどんなものでしたか?


深海棲艦での体験はいろいろな種類のものがありました。

爆雷はあるときは近くに、あるときは遠くに落ちてきました。
私たちが捕虜になったとき、爆雷が私たちに当たったり、
近くに沈んだりして、艦のガラスが粉々になったことは実際に知っています。

他の深度爆雷はもっと遠くに落ちていました。
一つ覚えているのは水深40~60メートルの地点にいたときのことです。
攻撃されたとき、司令官から

「駆逐艦が向きを変えて、またこちらに向かっている」

と言われました。

その後、爆雷が落ちることはありませんでしたが、
ある安全地帯では常に深度計を増設していました。

当時はまだ、私たちが潜れる深さまで爆雷はセットできなかったんです。

Q. U-505が「不運艦」だったという話がありますが、
あなた自身そのような感覚をお持ちでしたか?


それについては、次のようなことしか言えません。

私はこの爆弾まみれの航海から生きて帰ってきましたが、はっきり言って
あの頃、我が国の潜水艦にできることはもうなかったんじゃないでしょうか。

U-505は、出撃準備が整っても、出発前にすぐにドック入りしました。

いざ出発というときになると、どういうわけか
オイルやその他のダメージが見つかり、また帰ってこざるを得ない。
4、5回、そんなことを繰り返して出撃したのです。
(不具合はフランス人潜水艦基地労働者の工作の結果だったとされている)

そんなだったので、U-505は不運艦だという噂が自然に生まれました。

でも、私たちは結局ラッキーでした。
だって、みなさんご存知のように、私たちは皆生き残りましたから。


Q. 総員退艦になってから、あなたは
ハンス・ゲーベラーと一緒に海に入ったそうですね。

はい。

一人で泳ぎながらどうするか考えていると、駆逐艦がやってきて、
米水兵が糸(釣り糸だったらしい)を我々に投げ始めたのですが、
私はその糸に引っかかりませんでした。

そこで、私はさらに泳いで、大きなボートに向かいました。
ボートにはすでに多くの人が座っていましたが、その中から

「まだ元気で助けを求めて泣いている奴のところまで泳いでいけるか」

と聞かれたので、こう答えました。

「誰か一緒に泳いでくれれば」

そのとき声を上げてくれたハンス・ゲーベラーとは、
いつも和気あいあいとした関係で、いい仲間だったんです。

そこで、一緒に泳ぎだしたんですが、慌てていたせいで
救命胴衣の紐を締めておらず、しかも短パンしか履いていなくて
剥き出しのふくらはぎに紐が擦れてしまい、それが痛くて・・。

でも最初何でなのかかわかりませんでした。
そこでハンス・ゲーベラーを振り返って、

「サメ?俺の後ろにサメがいるの?」

と聞くと、彼は答えました。

「Nein. Nein.」(いねーよ)

海中に太陽の光を通して、灰色の影のようなものが見えた気がして、
てっきりサメが私を狙っているのだと思ったのです。

彼が、

「大丈夫だから!」

と言ってくれましたが、念の為彼を後ろを泳がせました。
(サメがいた時のために 笑)


Q.ドイツの「スポンサーの街」について。

海軍の「スポンサーの町」はバート・ヴァイセ(ドイツ)でした。

今日、スキーヤーや人々がリラックスするために行くような、
湖の辺りに美しいホテルがあるとても素敵な町で、そこに招待されました。
「爆撃の航海」のすぐ後にね。

バイエルンでは初めて"スキーの海軍 "を見ましたよ。
海軍がスキーやるんだ、って驚きました。

もちろん、若かったので、歓待され、いろいろ体験させてもらい、
人々が私たちをいつも楽しませてくれたのが嬉しかったです。

その地域の別の町からパーティーに招待され、
そこで潜水艦の乗組員は党の大物たちと一緒に写真を撮ったんです。

Q. お偉いさんというのはどういう人かご存知ですか?
(インタビュー終わり)


インタビュアーは、ここで歴史に残っているような
ナチスの大物の名前がでてくることを期待したのだと思いますが、残念ながら
オーラルヒストリーはここまでしか掲載されていませんでした。


しかし、ドイツ軍捕虜というのは、思い過ごしかもしれませんが、
アメリカでは全く問題なく暮らしていたようです。



捕虜といえば、最後に私見的余談です。


アメリカ人がドイツと戦争しても、国内のドイツ人を
日系人のように強制収容所に閉じ込めることをしなかったのは、
ドイツ系がWASP、アメリカの支配層である

ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント
 (White Anglo-Saxon Protestants)


の一つの流れであり、イングランド、スコッチ系を含むイギリス、
オランダと同じ移民時のエリートだったからと言われていますね。

(ルーズベルトはオランダ系。JFKはアイリッシュ系で
プロテスタントではないカトリック系の初めての大統領であり、
選挙の際、ハンディを覆すためにケネディ家は
マフィアの力を利用して大々的に選挙不正をしたと言われている)

原子爆弾をドイツに落とす計画は最初から最後まで議論すらなかったのも、
結局はそういうことだったんだろうなあ・・・(とわたしは思います)。




続く。



レコードと煙草、U-505の「戦利品」〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-28 | 博物館・資料館・テーマパーク
MSIのU-505関連展示より、前回に続き、
艦内から見つかったいわゆる「戦利品」についてです。

■ 徽章など


階級章

無線室や管制室で働く下士官が付けていた記章です。
錨のマークに「無線」を表す矢印があしらわれたデザイン。



16)名誉の負傷バッジ


Verwundeten -Abzeichen

アメリカ軍の「パープルハート」に相当する名誉バッジです。
ドイツ軍では傷の重症度に応じて、黒、銀、金がありました。
このバッジは赤ですが、黒を上から塗ってあります。
本人が塗ったのか、渡す側が物資不足のおり、急拵えしたのかは謎です。

また、これを持っているということは、海軍に入る前、
持ち主がヒットラーユーゲントにいた、ということを意味しているそうです。

17)無線オペレーターのパッチ

二つ重ねたVと「電気」を表す雷状矢印。

これはU-505の乗員が着用していたものですが、
彼はアメリカ軍のA.スピロフに、
タバコ一箱と引き換えにこれを渡したということです。

捕虜と接触したアメリカ人が戦利品を本人にねだる、という図は
相手が日本軍であった場合にも多々見られました。

18)認識票


小さな楕円形のIDディスク(認識票)は、大きなドッグタグ状。

給料明細書の裏表紙に取り付けられていたそうです。
給与を管理するために会計の方で預かっていたのでしょうか。

このタグの持ち主は、Ewald Thorwestenという人で、
タグそのものは半分で二つに折れる仕様であることがわかります。


19)ベルトバックル(左下)


裏側のフックを艦上で修理した跡があるそうです。
なぜ艦上でやったかわかるのかは謎ですが。

ドイツ第三帝国のワシのマークの周りに書かれている文字とその意味は、

「GOTT MIT UNS」=神は我々と共におられる

20)肩章


ナビゲーターのアルフレート・ライニッヒが着用していた肩章。

21)階級章

U-505コントロールルーム勤務の下士官が付けていた階級章。

■ バッジ



22, 23, 24)  銅製Uボートバッジ

Uボート乗員は、戦闘哨戒を一回完了すると、この

U-Bootskriegsabzeichen

Uボート哨戒バッジを受け取ることができました。


22と23のバッジは、銅でできており、
初期の高品質バージョンだということですが、
同じようにみえる24番の方は、板金から打ち抜かれたもので
鋳造されたものではありません。

戦争終盤にはドイツも物資不足に陥っていましたから、
特定の金属の希少性と、資源を節約していた懐事情が反映されています。

25)ドイツ軍掃海メダル

Kriegsabzeichen Fur Minesuch-
U-Bootsjagd und Sicherungsverbande

=掃海艇、対潜&補助護衛章



これらの護衛艦に乗務経験のあるものは、
Uボートに配置されるということになっていました。

26,27)Uボート乗員章(ブロンズ)

階級の上から順にゴールド、シルバー、ブロンズがありました。

モンブラン製万年筆


技術工業国ドイツは、万年筆のブランドを多く生み出しています。

このモンブランを筆頭に、ペリカン、ステッドラー、ファーバーカステル、
ロットリング、シュナイダー、ポルシェデザイン

これらすべてがドイツのブランドです。
(わたしはモンブランはスイスのメーカーだと思っていました)

この万年筆は、U-505の艦長だった、
ハラルト・ランゲ大佐のデスクから直々に略奪?されたということです。


【レコード】


映画「Uボート」でも、その他のアメリカ映画におけるUボートでも、
Uボート乗員というのは、レコードを聴いていたイメージがあります。

なぜなら実際潜水艦における大切なエンターテイメントは音楽でしたし、
アメリカ海軍でも、ある潜水艦87枚にはレコードが搭載されていた、
なんて話もあります(よっぽど音楽好きな艦長だったんでしょうか)

U-505で見つかったレコードのうち6枚が行進曲で、
残りはポピュラー音楽と軽クラシックでした。

上から:

A面)Schön ist die Nacht(美しきは夜)

Schön ist die Nacht - Rupert Glawitsch mit Schuricke Terzett - 1938

B面)Ganz leise die Nacht(静かに夜が近づく)

A面)Spanisher March(スペイン行進曲)

B面)Der Student geht vorbei(学生が通る)

A面)Tapfere,Kleine Soldatenfrau(勇敢な小さい兵士の妻)
Wilhelm Strienz - Tapfere, kleine Soldatenfrau

B面)Wenn im Tal ale Rosen Bluhn(谷間のバラ)

しかし、戦争中にUボートの乗員が聞いていた音楽を、
日本で、家にいながらクリック一つですぐに聞ける今の状況って。

あらためてすごい時代に生きてるなあと感じる今日この頃です。

■煙草

U-505からは大量のタバコが発見されました。

潜水艦でタバコを吸うときは、必ずブリッジで火をつける前に
上に許可を求めなくてはならない決まりがありました。

そのとき誰がブリッジでタバコを吸っているかは、
かならずチョークで黒板に名前を書いておくことになっていました。



33)ゴールドダラー煙草


ゴールドダラー。英語です。


タバコのパッケージには「最高のアメリカンスタイル」とあります。
アメリカのタバコは戦時中のドイツでさえ人気があったようですね。

アメリカスタイルを謳ったこの製品は、ハンブルグのタバコ会社、
アゼット・シガレット製造会社の商品です。

34)ヤン・マート煙草

「最高のオリエンタル風とヨーロピアンバージニアをブレンドした
最高のバージニア風味」


とありますがバージニアってもしかしてこれもアメリカの?

「ヤン・マートJan Maat」はドイツにおける船乗りを表す言葉です。

下)カモメ印煙草

Möveとは「カモメ」を意味します。
Uボート乗員の間で一般的だった銘柄です。
ドイツ占領下であったポーランドのクラクフで製造されています。



リームツマ(Reemtsma)R-6煙草

R-6というこのタバコは、大変「強い」ことで知られていました。

湿気の多いUボート艦内では、煙草を乾いた状態で保つのが困難だったため、
乗員たちはバラバラにしたタバコをブリキ缶に詰めて、
ハンダ付けして封をし、吸う直前に缶を切る努力を惜しみませんでした。



ニル煙草

ミュンヘンにあった「オーストリアタバコ工場」の製品です。
他のパッケージよりちょっと高級な感じがします。


オーバル4 ペンニッヒ煙草

パッケージにある「Pst!Feind hort mit」という警告は、
吸いすぎはあなたの健康を害する・・・ではなくて、

「静かにしてください。敵は常に聞いています」

防諜メッセージでした。



マッチ

左)セキュリティストームマッチ
風が強いなどの困難な状況でもつけられます、というのがまんま商品名。



右側の「モーレンルシファース」マッチは、
捕獲後のU-505の中で発見されたものです。

■ お金とお菓子



このフランス、ドイツコインは、
ダニエル・ギャラリー大佐が記念品として持ち帰ったものだそうです。
ドイツ統治下のフランス、ロリエントにはUボートの基地がありました。

紙幣は、所属パッチと引き換えにタバコをもらった通信士が、
やはりタバコ一箱と引き換えにスピロフに渡したものです。

よっぽどタバコが欲しかったんだねえ・・。

「グリコレード」チョコレート

グリコって、あのグリコと同じ意味ですかね。

チョコレートバーには0.2%のカフェインが含まれており、
長時間の見張り中のエネルギー補充にたいへん重宝されました。

ベルリン・テンペルホーフのサロッティ社製。


■ 救命艇の一部



このイラストに見覚えがあるでしょう?
Uボート乗員が脱出した一人用救命ボートの部分です。

なぜこんな状態で残っているかというと、
大物をゲットできなかったタスクグループのメンバーたちが
自分達もちょっとでも何か「お土産」が欲しいので、皆で話し合って、
救命艇を小さく小さく切り刻んで、そのパーツを持ち帰ったのです。

アメリカ兵の戦場での「記念品好き」は有名ですが、ここまでするか・・・。

しかしここでつい考えずにいられないのは、
切り刻まれた布切れのほんの一部は、たまたま持ち主が名乗りを上げて
ここに展示され、人々の目に留まることになったわけですが、
ほとんどの「切れ端」(特になんのマークもないような部分)は
おじいちゃんが大切に保管していなければ、どこかに紛れ込み、
本人が亡くなったあとは散逸してしまったに違いないということです。



続く。

戦利品人気ナンバーワン、ツァイス双眼鏡〜シカゴ技術産業博物館U-505展示

2023-04-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

捕獲したU-505からアメリカ軍の軍人たちが
無差別に「スーべニール」としてゲットした品シリーズ、続きです。

ここに展示されているのは、ケースの背景になっている写真のように、
U-505にあっためずらしい「ドイツ軍グッズ」を、
その場に居合わせたタスクグループのメンバーが、
ワイワイと楽しげに分け合った結果、個々に持ち帰られて、
大概はその家の倉庫とかに放置されていたものなのですが、
シカゴ科学産業博物館がU-505を展示することになったとき、
本人や家族が申し出て、博物館に寄付したものです。

■ 双眼鏡

浮上した時、U-505は常時5名の水兵が水平線と空を見張り、
敵の存在を探知していました。

第二次世界大戦中、ドイツの双眼鏡は、「任務グラス」を意味する、
『Dienstglas』ディエンストグラス
と言い表されていました。

彼らはこの重要な任務のために、ドイツ製の
高品質双眼鏡を使用していました。
ドイツの双眼鏡の高性能高品質は内外にも評価されており、
なかでもカール・ツァイス製は日本海軍でも垂涎の的でしたね。

日本海海戦で、自腹を切ってツァイスの双眼鏡を買っていた中尉が
一番先にロシア艦隊を見つけた、なんて話もありましたっけ。

ドイツ軍の使用グラスもそのほとんどはツァイス製でしたが、
さすがはドイツ、そのほかにも多くの製造業者があり、
エルンスト・ライツ、ヴォイトランダーなどが特に有名でした。

今ではクリスタルグラスで有名なスワロフスキーも、戦時中は

「cag」=Swarovski, Tyrol

というコードをつけた双眼鏡を製造していたこともあるそうです。

連合軍兵士たちが戦利品で双眼鏡を見つけると色めき立った理由は、
まず実際に性能が良かったこと、アクセサリーとしてカッコよかったこと、
戦後になると、ツァイス製の双眼鏡は高く売れたからです。

たとえば1946年に、ニューヨークのカメラストアで、
10×50が97ドル、6×30が38ドルで売られたという記録があります。

当時の100ドルは現在の日本円で大体40万円くらいなので、
双眼鏡が90万円とか40万円とかのお金になったというわけですね。

現代日本におけるカメラ愛好家、特に「レンズ沼どっぷり」の人たちにとっては
これくらいなら法外な値段ではありませんが、
そのころのアメリカ人にとっては信じられない価格だったでしょう。

単なる双眼鏡としては、破格の値段がついていたことになります。

ドイツの双眼鏡は、倍率とフロントレンズの大きさによって
番号がつけられており、最初の数字は画像の倍率を、
そして2番目の数字はレンズの直径(ミリ)を表しました。

軍が支給していた双眼鏡は、6×30、7×50、10×50の3種類ですが、
これだと、6倍×30ミリ、7倍×50ミリ、10倍×50ミリとなります。

レンズの数値が大きいほど光を捉えやすく画像がよくなるのですが、
実際は一番小さな6×30が下士官・将校に支給されることが多かったようです。


左:ツァイス双眼鏡 7×50

ハンターキラータスクグループの司令官、ダニエル・ギャラリー大佐
Uボートの浸水を食い止める功績をあげた
アール・トロシーノ中佐に「記念品」(ご褒美的な)として贈ったもの。

右:レイツ双眼鏡 7×50

エルンスト・レイツ Ernst Leitz、Watzlar コードbeh
も、数あるドイツ軍御用達双眼鏡製造業者の一つです。

USS「ピルズベリー」から乗り込み隊を率いたアルバート・デイビッド大尉
U-505で取得した戦利品が、これでした。
おそらくU-505の乗員がブリッジで使用していたものと思われます。

ちなみにこの双眼鏡は、デイビッド氏の姪によって寄付されました。
おそらくこの時、ご本人はもう他界されていたと思われます。



双眼鏡(ノーブランド?)7×50

捕獲したU-505のハッチを、デイビッド中尉に続いて降りた、
スタンリー・W・ウドウィアク三等通信兵が拾ったもの。

早く行動したものはいいものを手に入れることができるってことです。

これもウドウィアク氏の妻による寄贈品です。



カール・ツァイス双眼鏡と革製アイピースキャップ 7×50

型番の左には、ナチスドイツのワシのマークが刻まれています。
カール・ツァイスの記名の下にJENAという文字が見えますが、
Jenaイエーナチューリンゲンにあるツァイス所在地です。

革製のアイピースキャップ、左には

Benuyzer「ユーザー」

右には

Okulare festgestelit 「接眼レンズ」
Nicht verdrehen「ねじらないでください」

とあります。

ユーザーは真ん中の皮の部分に名前を書くようになっていて、
持ち主のCAJというイニシャルが残されています。

この双眼鏡を取得したのは「ピルズベリー」から乗り込み隊として派遣された
ジョージ・ジェイコブセン機関兵曹でした。

もともとはU−505の第一当直士官であった「Leutnant zur see」少尉
クルト・ブレイKurt Breyの所有物だったものです。
(刻まれたイニシャルではない)



カール・ツァイス双眼鏡 6×30


カール・ツァイス 6×30革製ケース

ドイツ製のすごいところは、革製のケースも堅牢なことです。
このケース、磨けば今でも普通に使えそうじゃないですか。

この双眼鏡モデルは左レンズに測距マークが付いていて、
直接「射撃」するのに大変有効な仕組みとなっているそうです。

6×30倍率の双眼鏡は、航空機上や砲座などからの射撃時、
移動するターゲットを追跡するのに理想的なバージョンでした。


アタック・ペリスコープ・レンズ

レンズはレンズでもこれは潜望鏡のレンズです。

U-505に搭載されていたもので、この潜水艦が「戦争の記憶」として
展示されることが決まった時、
海洋サルベージ会社メリット・チャップマン&スコットから
1954年9月25日、博物館に寄贈されました。

■ 信号銃と鍵



シグナルピストル、フレアピストルともいいます。

信号銃は撃つと色付きのフレアを空中に発して他のボートや
航空機とコミニュケーションするためのものです。

7と番号が打たれた5つの鍵の束は、正確にはわかっていませんが、
スペアパーツや機密書類、あるいは私物の箱のものだった可能性があります。

5本全部同じ形をしているように見えますよね。
機密書類とかではなかったんじゃないかなあ。

8のアルミの鍵は、乗員の個人用ロッカーのものであろうと言われています。

・・・って、捕虜に実際に聞いて確かめたら?
と思うんですが、そんな瑣末なことは聞く状況になかったのかな。

■ ステーショナリー


インクスタンプ

左)Uボートから発信されたすべてのメールには、
U-505のFeldpost(郵送コード)である、
M 46074
をこのスタンプで押すことになっていました。

右)Bootsmannsmaat u.(ボーツマンスマート)
=Boatswain's Mate and Master at Arms

は下士官であり、二等兵曹のランク、航海士です。

このスタンプは、このランクの下士官が日報などの文書に使用し、
命令が通達され実行されたことを確認していました。



研石とケース

U-505のワークショップ(機械などで部品を作ったりするコーナー)
で発見されたケース入りの砥石。
ナイフや切削工具を研ぐための道具です。

これらの道具はどれもアメリカ軍のベテランから寄贈されたものです。

最初の方に突入したクルーは、危険とはいえ、
ツァイスの双眼鏡など「上物」をゲットできるわけですが、
その他のメンバーは、このようなものまで分け合って
「記念品」として持ち帰ったということですね。

■ プレート



上)サインタグ

司令塔にかかっていたのを取り外したようです。

「潜望鏡用グリースフィッティング#5」

と書かれていますが、誰も意味はわからないようです。

下)メインエンジンデータプレート



MANというのは
「Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg AG」

という会社のロゴで、U-505右舷手ディーゼルエンジンの
データが記されています。

同社は現在でもヨーロッパ最大級の車両・機械エンジニアリング会社で、
第一次世界大戦中から砲弾、信管、戦車砲、対空砲、
航空機エンジン、潜水艦ディーゼルエンジンを製造し始めました。

戦時中は捕虜を強制労働していたということはありましたが、戦後
連合国軍による戦犯指定のアンバンドリング(会社の解体)は行われず、
合併をしながらも現在に至っています。


【缶入りパンとドライイースト缶】



どこの国でも潜水艦乗員はその国の海軍の中で最高の食事を楽しんでいました。

Uボートの乗員もしかり。

哨戒に出る時には、豊富な生鮮食品をたっぷり満載しましたが、
それがなくなったりダメになったりすると、
乗員は缶詰を食べることになりました。

パンも缶詰になっていたようですね。

下の缶は、U505が捕獲された時に艦内でたくさん見つかったものの一つで、
潜水艦の料理人はこの酵母を使ってパンを作っていました。

【スープ皿】


Uボートでは水兵も陶器の皿でスープなどを食べていました。


■祈りの本



「健康と病気のための小さな祈り」

という本は、USS「ガダルカナル」の乗員が艦内で取得しました。
月ごとの宗教的な祈りと、病気など、特定の状況の時の祈り、
その方法と唱える言葉などが書かれています。


こういう本まで「戦利品」として持って帰ったとしても、
おそらく人にちょっとみせたら、あとは物置にしまいこんで、
本人も死ぬまで忘れていたりしたんだろうなあ。

「おじいちゃんの遺品」の中に何やら意味ありそうなものがあったけど、
捨てるのもなんだし、と寄付されたものがほとんどではないでしょうか。


続く。


「総員退艦!」U-505を捨てた乗組員〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-24 | 博物館・資料館・テーマパーク

南アフリカ沖でアメリカ海軍のハンターキラータスクグループにマークされ、
最初から潜水艦の捕獲を目的に攻撃されたU-505の乗員は、
こう言ってはなんですが、アメリカ海軍と戦った他のUボート乗員より
生命の危険という点から遥かに幸運だったかもしれません。

艦体をできるだけ完全な状態で持ち帰るため、
その攻撃は相手を沈めるほどのダメージを与えませんでしたし、
なんならこちらには空母を含めた艦艇が束になって控えており、
総員退艦をして海に漂流していたドイツ軍乗員たちを
一人残らず捕虜として確保するだけの余裕があったからです。

艦体の確保は第一目的でしたが、アメリカ海軍にとっては
情報の裏付けと証言をさせるために、乗員はそっくりそのまま
無事に捕らえてアメリカに連れて帰るのがベストでした。

■6月4日、早朝6時の攻撃

まずは、Uボート側の証言からです。
Uボート乗員の一人、ヴォルフガング・ゲルハルト・シラーは、
攻撃が始まった瞬間のことをこう述べています。

早朝六時に「魚雷員は戦闘配置に!」と命令が飛びました。
艦長が潜水艦を浮上させ、潜望鏡を上げようとした瞬間、
航空機の射撃を受けたので、彼はすぐ潜望鏡を下ろし、

進路を反転させ、

「駆逐艦!」「潜航!」

と何度も叫びました。
5、6m潜航したところで爆雷がきました。
その後、艦尾から

「舵が取れた!浸水!」

と連絡が来たのを受けて、艦長は浮上と総員退艦を命じたのです。



次に、U−505艦長だったヘラルト・ランゲ(Herald Lange)大尉の証言を。

6月4日12時ごろ、通常コースで潜航中、ノイズが報告されたので、
潜望鏡で様子を見るために海面に浮上しようとした。
海はやや荒れていて潜望鏡深度を保つのは難しかった。

1隻の駆逐艦が西に、もう1隻が南西に、3隻目が160度に、
140度方向の遠方に空母のものと思われるかたまりが見えた。

駆逐艦#1は約2分の1マイルで我々に最も近く、
さらに遠くには航空機が見えたが、潜望鏡を見られたくなかったので、
これ以降海面を見る機会はなかった。

ボートを潜望鏡深度に安全に保つことができなかったので、
私は音を立てたが再び素早く潜航した。
大きなボートが水面下を進むとどうしても航跡ができるので、
おそらく航空機には見られたに違いないと思った。

まだ安全深度に到達していないときに
離れた場所に爆弾を2発落とされ、
続いて
重い爆発音が2回、おそらく深度爆雷のものだろう。

水が侵入し、ライトと全ての電源が喪失し、舵が動かなくなった。

被害の全体像も、爆撃が続けられている理由もわからないまま、
私は圧縮空気でボートを浮上させるように命じた。

ボートが浮上した時、ブリッジから今や4隻の駆逐艦が
我々を取り囲み、.50口径と対空砲で攻撃してきているのを見た。
最も近い駆逐艦は110度方向から司令塔に向けて榴散弾を発射していた。

私は数発の銃弾と榴散弾で両膝と足を負傷して転倒し、
私の後を追ってブリッジに出た一等航海士は、
右舷に横たわり、顔に血が流れているのが見えた。

私はすぐに
総員退艦と、ボートを爆破することを命じた。

駆逐艦からの攻撃を避けて司令塔の後部から脱出するよう指示したが、
ここで意識を失い、次に目を覚ますと、まだ甲板には多くの部下がいた。

私は体を起こしてなんとか艦尾に体を運んだが、
そのとき砲弾が爆発し、最初にいた対空甲板から主甲板に吹き飛ばされた。
爆発は右舷機関銃の近くで起こった。

このとき多くの乗員がメインデッキを走り回り、
個人用の展開筏を海に落とそうとしているのを見た。
意識のある間に、私はチーフにメインデッキに残ることを告げた。

どのようになっていたか正確な記憶はないが、また爆発が起こり、
私は怪我をしていて、グループのメンバーがパイプボートを持ってきて
それに引き上げてくれて、どうにか生き延びることができたのである。

私の救命胴衣は受けた破片で破けていて、役に立たなかったし、
戦闘が起きて最初の数秒の攻撃で、甲板から吹き飛ばされた
木片が
顔と目を直撃(右まぶたに棘が刺さっていた)
したため、
この一部始終を、私はほとんど見ることもできなかった。

パイプボートに引き揚げられて座った時、
最後に私はUボートを何とか見ることができた。
部下の何人かはまだ艦上にいて、仲間のために筏を水に投げ入れていた。

私は周りの男たちに、沈みゆく我がU-505にむかって
3度声を上げるよう命令した。



この後、私は駆逐艦に揚収されて応急処置を受け、
空母に乗り換えてから病院に移送されることになった。

病院で、私は(ギャラリー)大佐から、
彼らが私のボートを捕獲し、沈没を防いだことを知らされたのである。



冒頭写真は、U-505の乗員59名で、出撃前に撮られたものです。
Uボート捕獲後、タスクグループが海上から救出した乗員は58名でした。

ところで、これを読んでくださっている方は、
USS「ピルズベリー」から派出された乗り込み隊が、
ボロボロになったUボート艦上で、ドイツ兵一人の遺体を発見した、
と書いたのを覚えておられるでしょうか。

これが戦闘で死亡した唯一の乗組員、ゴッドフリート・フィッシャーでした。
U-505の他の乗員の証言です。

「僕は勤務を終えたばかりで、司令官室の隣にある
バッテリーのメインスイッチがあるバトルステーションにいましたが、
そのとき司令官が叫ぶのが聞こえました。

『総員退艦!!』

次の瞬間、ファンに何かがヒットしました。

司令塔ハッチのすぐ近くにいたので、かなり早くに外に出ました。
艦長が最初に、それから二等通信士が続きましたが、
パイプがほとんど破壊されていたので、すごいプレッシャーを感じました。

司令塔ハッチから外に出たら「ゴギー」が甲板に倒れていました。
僕はゴギーことゴットフリートに声をかけました。

『ゴギー、行くぞ!』

しかし次の瞬間、彼が撃たれて死んでいるのに気がつきました。
僕は甲板に降りて大きな展開式筏が収納されている司令塔の前に出て、
いかだに乗ろうとしたとき、敵は射撃を中止しました。

ああ、助かった!

そして僕らは筏を展開し、海上に逃れたのです。」


この時彼らが展開し脱出した筏がこれです。

さすがはドイツ製というのか、今現在でもこれを浮かべたら
十分救命ボートとして役にたちそうなくらいちゃんとしています。



ボートの縁には、図で緊急信号の送り方が描いてあります。

「両手を何度かあげる
”負傷者あり 救助緊急要請”」

「腕を頭上で旋回する
”食料と水を要求”」

Einmannschlauchboot(一人乗り救命ボート)

素直に「アインマン シュラーフ ブート」でいいんですかね読み方は。

とにかくこのラフトは主に海に墜落する危険のある
ドイツ空軍のパイロット向けに設計されています。
(それで説明のイラストがパイロット風味なんですね)

航空機のコクピットに収めるためにサイズを極限まで小さくしてあるので、
潜水艦に搭載するのも最適だったというわけです。

一人乗りのインフレータブル救命艇は、緊急脱出時に使用するため、
Uボートの各メンバーに一つづつ支給されていました。

救命艇内部には、シーアンカーやロープなど、
サバイバルに必要な極小サイズのコレクションが装備されていました。

救命ボートは圧縮空気ボトルで膨らませるものですが、
乗員は黒いゴムチューブのところから口で息を吹き込むこともできます。


このときのU-505乗員による実際の筏使用例。

自分のラフトを展開できてちゃんと収まっている人と、
それどころではなかったので、縁に掴まらせてもらっている人、
そして展開したものの、乗ることができなくて
掴まった状態のままアメリカ軍に発見された人(右上)。

彼らの、アメリカ兵を見る表情には、不安と恐怖が隠せません。


■ 押収されたUボート乗員の私物



Uボート展示の手前には、U-505を捕獲したアメリカ軍が、
艦内から戦利品として引き上げられたグッズが展示されています。

戦時中のアメリカ軍における一般的な慣行として、
このような戦利品はすべて個人の記念品としてお土産に持ち出されました。

Uボートの捕獲は極秘事項で、たとえ親兄弟や軍人であっても、
そのことは決して話題にしてはならない、もしそれを破ったら
死刑もあるぞと厳しく戒められていたのに、これは・・・・。

自分で密かに持っていても、誰にも由来を喋らなければいいですが、
これ、なんの問題視もされなかったんでしょうか。

ともかく、ここにあるUボートグッズは、
タスクグループ22.3の退役軍人、あるいはその家族が、
博物館オープンの際に寄付したものであり、
あるいはボートの修復中に博物館のスタッフが艦内から集めたものです。

【ドイツ海軍Uボート専用レザーユニフォーム】



寒い天候や悪天候下、潜水艦の甲板で作業をする時に、
Uボート乗員は上下皮でできたこのユニフォームを着用しました。



色褪せてしまっていますが、本来の色はブルーです。



これは第一次世界大戦中、U39の甲板にいるカール・デーニッツ中尉ですが、
この写真で見る限り、比較的濃いめの色であることがわかります。


カフ-ストラップというのは特にこんな皮素材の場合、
実用的な意味は全くないのですが、飾りのついたボタンといい、
このカフ-ストラップといい、細部にこだわりあり。

【レンチとディーゼルエンジンスペアパーツの箱】



どんだけ大きなレンチだよ!と驚くわけですが、
このレンチはおそらくディーゼルエンジンに使われたものです。

アメリカ海軍が沈みかけているUボートをなんとか立て直していた時、
少しでもボートを軽くして浮力を維持するために
ボートからはめぼしいアイテムが取り除かれましたが、
このレンチだけは重すぎて動かせなかったということです。

ますますUボートではどうやって使われていたのか謎・・・。

その下の箱には、ディーゼルエンジンのための工具、スペアパーツ、
機器の修理キットが収められていました。

もちろんこれも重いのですが、このような箱は、Uボートでは
重量に応じて艦内の保管場所が割り当てられました。
これにより、ボートのバランスを適切に保っていたのです。


【観察ノートと鉛筆、エアキャニスター】



左側の日誌は未使用だったそうです。
潜水艦での日常の活動を記すために技術クルーが使用するもののようです。

この赤い缶が、前半で散々出てきた「個人支給の筏」を展開し、
膨らませるための空気ボトルだそうです。

Uボート乗員が総員退艦した直後の甲板には、
この赤いキャニスターがいくつも転がっていたに違いありません。


続く。


「腸は空けても口閉じよ」守秘義務の宣誓〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-04-22 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、アメリカ軍の攻撃によって総員退艦を余儀なくされたU-505。

自爆スイッチがオンにされ、沈む寸前のボートに乗り込んだ
ハンターキラー22.3のボーディング隊が、爆破装置を解除し、
誰も乗っていない潜水艦を狙い通り捕獲することに成功しました。



アメリカ軍が爆破を食いとめたとき、Uボートは
甲板の高さまで浸水しており、艦橋だけが見えている状態でした。

艦内に突入したボーティング隊は、ハッチを降り、
すでに海水が侵入していた艦内からの排水作業に全力を上げます。

■ 1944年6月4−19日 サルベージ隊の死闘



この写真で艦橋の上に見えている人影は、
9名のボーティング隊のものであり、
甲板の先に乗り込んでいるのは、排水を食い止めるために
右側のボートから乗り込んだ別働隊です。



沈みかけのUボートはこのような態勢で浮いていました。
艦橋にいたボーティング隊は艦内に降りたらしく、一人しか見えません。

艦首先でカメラに向かって両手を振っているように人がいますが、
これはおそらく手旗信号で通信をする信号員だと思われます。

それにしても、こんな状態でいつ爆発するかわからない敵潜水艦に、
任務とはいえよく乗り込んで行ったものだと、
あらためてボーティング隊の勇気に感嘆します。

甲板にいる20名ほどのメンバーも、この不安定な状態で
よくぞ任務を完遂できたものです。


U-505を捕獲することに成功したとはいえ、それは
戦いのほんの一部が始まったに過ぎなかったのです。

このとき、ダニエル・ギャラリー大佐には、
Uボートの軍事機密を研究するための資料として、
なんとしてでも捕獲したボートをバミューダまで曳航してくるように、
というアメリカ海軍トップからの命令が下されていました。

しかし、ギャラリー大佐の直面した課題は、この困難で長大な航海以前に
潜水艦が沈没の危機に瀕していたことでした。


まず、写真を見てもわかるように、海水が流入したため
コニングタワーが水面からほとんど顔を出していない状態です。

後から乗り組んだ20名は、「サルベージ・パーティ」、
つまり「Uボートの沈没食いとめ隊」でした。

さらに点検の結果、潜水艦の操舵が右に動かなくなっており、
牽引中にまっすぐ進まない状態であったため、
この状態で曳航は不可能であることが判明したのです。

しかもこの段階で艦内にはかなりの海水が浸水しており、
舵が壊れていたことと相まって、牽引のための引き綱に
多大な負荷がかかり続け、数時間後には綱は切れてしまいました。

ここで日が暮れてしまい、時間切れとなったので、
U-505は一晩を海中に沈んだまま過ごしました。

朝になってメンバーは、より強いラインを接続し、
サルベージクルーが舵を修理してまっすぐ進むようにし、
さらに海水を取り除く作業を再開しました。


舵が右に向いていた理由は、アメリカの航空機&駆逐艦からの攻撃のうち、
爆雷が舵の電気制御をまず破壊したことに起因します。

そして、これ以上の操舵が不可能と判断したUボート艦長は、
緊急手動制御を大きく右に切った状態で退艦しました。

ダニエル・ギャラリー大佐とアール・トロシーノ司令は、
手動制御にアクセスするために、潜水艦の後部魚雷室への潜入をを決定。

その後、メンバーは区画のハッチを開け、コントロールを使用して
なんとか舵をまっすぐするのに成功しました。

これは言うなれば「危険すぎるブービートラップ」でしたが、
彼らは勇敢にも立ち向かい、任務を果たしたのです。

”何トンもの海水を汲み出す”


甲板乗り込み組の足元に、艦内から海水を出すためのホースなど、
さまざまな道具があるのが確認できます。

乗り込み隊の努力で、舵はなんとか真っ直ぐになりましたが、
ここからU-505の艦内から海水を除去する困難な仕事が待っていました。

まず電源が切れていたため、艦内の排水ポンプを操作することはできません。

通常、潜水艦というものは、ディーゼルエンジンで作動させることによって
同時にバッテリーを充電する仕組みになっているのですが、
ギャラリー大佐はエンジンは動かさずに対処する選択をしました。

それによって潜水艦が沈没する可能性もあったからです。

潜水艦がそもそも浮くか沈むか、全く予想もつかないこの間、
アール・トロシーノ中佐は何時間もビルジに潜り、
エンジンの下の油まみれの水の中を這い回り、パイプラインをたどり、
バルブを閉めてボートを水密状態に持っていくことに時間を費やしました。

万一その瞬間沈没したら何があっても逃げられないような
床板の下の、手の届かない隅までもぐりこんで、
司令官自ら命懸けの作業を続けたのです。


参考までに:アール・トロシーノ司令

トロシーノ中佐の驚異的な直感と、自らの安全を省みない勇気と使命感は、
彼に正しいバルブを見つけ出させ、U-505を沈没から救うことになります。

彼のその後の作戦は、実に独創的な解決案に基づくものでした。

まず、潜水艦のディーゼルを完全にオフににして、
牽引されている間、スクリューがモーターシャフトを回せるようにします。

それから、フリートタグのUSS「アブナキ」Abnaki(ATF-96)
(軽空母であるUSS『ガダルカナル』を牽引するためのタグ)
に、高速で潜水艦の艦体を引っ張らせました。


赤い矢印がUー505黒がタスクグループ22.3
そして、ちょっと見にくいですが、カナリー諸島から牽引に駆けつけた、
USS「アブナキ」の導線が、グレーで表されています。



トロシーノ中佐の読み通り、プロペラが素早く回転することで、
電気モーターが回転し、バッテリーがリチャージされました。

そうしてのち、サルベージクルーは、
潜水艦搭載のポンプを用いて、艦内の海水を排出することができたのでした。



ここから展示を最下層階に移します。

捕らえたU-505が、なんとか沈まないように排水を行いました。
さて、そのあと、バミューダまで曳航していったわけですが、
そのくだりがこの階の展示で説明されているのです。



エンドレスで上映される、Uボート乗り込みの際の映像を
接収時の艦内の写真をパネルにした前で見ている人。

ちょうどハッチを乗り込みパーティのクルーが入っていくところです。

■ 1944年6月4-19日
サルベージ隊 任務完遂



一口でUボートを捕獲したアフリカ沖からバミューダまでといっても、
それはほとんど大西洋を横断する距離であるのがこれでわかりますね。

U-505を牽引していたUSS「アブナキ」ATF-96は、三日経過したとき、
彼女の「荷」を、旗艦「ガダルカナル」に積み替えました。

彼女はそれから駆逐艦「デュリック」Durik(DE-666)と、
タンカー、USS「ケネベック」Kennebec(AO-36)に付き添われて、
タスクグループの大西洋横断に必要な燃料を補給しに戻りました。

そうやって、1944年6月19日、捕獲されて15日目に、
U-505はバミューダのポートロイヤルベイに到着したのでした。


バミューダでは、待ち構えていた米海軍のアナリストが、
早速U-505に乗り込んで、大西洋のグリッドマップ、
T-5音響誘導魚雷のマニュアル、レーダー、レーダー探知機、
コードブック、および二つのエニグマ暗号機を含む、
1,200を超えるドイツ海軍の機密アイテムをカタログ化しました。

このときU-505から収集された情報により、連合軍は、
対Uボートマニュアルを開発および改善することに成功しました。

これが対ドイツ戦勝利への大きな貢献となったのは間違いありません。


■ 守秘義務 Secrecy A  Must

アメリカ合衆国にとって、アメリカ海軍がUボートを無傷で拿捕したことは
絶対にドイツ側に知られてはならないことでした。

万が一ドイツ軍がこのことを知ったら、すぐさま
対潜傍聴活動と暗号解読阻止のためにシステムを変えるでしょう。


(それでここに来るまでの通路に、防諜ポスターが
嫌というほど展示されていたのか・・納得)


そのため、ダニエル・ギャラリー艦長は、海軍から
タスクグループの内部からUボート捕獲の噂が広まることのないよう、
それはそれは厳しい命令を受けることになりました。



これが海軍上層部からギャラリー大佐に送られてきた命令です。

敵にU-505の捕獲を知られないようにするため

(A)もしU-505の状態が変化した場合、
タスクグループ22.3の護衛の下バミューダに向かうこと

(B)捕獲については絶対的な秘密厳守が必要であることを
全ての関係者に強調すること


ギャラリーはメンバー全員に秘密保持声明に署名させました。
守秘義務違反の罰は「アンダーペナルティ・オブ・デス」=死刑


ギャラリー艦長は、このメモをタスクグループ全員に渡し、
Uボート捕獲が極秘事項であることを強調しました。

「オース・オブ・シークレシー」(秘密の宣誓)

という真面目で公式的な口調のタイトルで発されたこの文書からは、
ダニエル・ギャラリーという海軍司令のリーダーシップ、
歴史的瞬間の証人としてこの状況に立ち会っていることの高揚感、
そして、なぜかユーモアのセンスに対する才能が遺憾無く発揮されています。

この厳密な箝口令が敷かれた結果、この秘密は戦後まで漏れることなく、
ドイツ側がUボートを捕獲されていたことを知ったのは
戦後連合国に降伏した後のことだったといいます。

OVE                           USS「ガダルカナル」    1944年6月14日

極秘
From: タスクグループ22.3司令
To:タスクグループ22.3

全ての者に公開する

6月4日1100以来、我々が行ってきた業務は最高機密に分類された。

U-505の捕獲は、我々がそれについて口を閉ざすことで
第二次世界大戦における大きなターニングポイントの一つとなりうる。

敵がこの捕獲を知ることがあってはならない。

今回のことについて、我々の友人にこれをしゃべりたくなる気持ちは
本官も十分理解するものであるが、これから印刷される歴史の本で、
彼らもいずれはそのことを全て読むことになるであろう。

そしてそうなるかどうかは諸君次第なのである。

次の命令に従えば、あなた自身の健康も、
国防に不可欠な情報も守られることを肝に銘じてほしい。

「腸は空けても 口閉じよ」
’ KEEP YOUR BOWELS OPEN AND 
YOUR MOUTH SHUT’

「あなた自身の健康」って、ソフトに脅迫してないかこれ。
それから、最後の「腸」ですが、語呂だけであまり意味はありません。

「さんま焼いても家焼くな」的な?

なので、ギャラリー司令の命令にも「肝に銘じる」と
誰うま的な意訳をしておきました。

上司にしたい男:ギャラリー司令


こちらは真面目な?方の、というか公式の守秘義務宣誓書です。


U-505が拿捕されてから数時間以内に、連合軍の諜報機関上層部は
ボートと乗組員について計画を立てなければなりませんでした。

アメリカ海軍大将アーネスト・キング
イギリス海軍第一海軍卿アンドリュー・カニンガムは、
捕獲を秘匿しておく必要性について、無線でメッセージを交換していました。

発見した情報についてドイツに知られないことを第一義としたのです。

捕獲に関与した全ての関係者は「守秘義務の宣誓」に署名させられました。
沈黙を守ることについて、厳しい罰則が設けられており、
万が一これを破った場合には、死刑に処せられる可能性がありました。

この宣言は1944年6月8日に署名されました。

ドイツが降伏してから初めて海軍はU-505の鹵獲を発表し、
乗員の宣誓を解除するプレスリリースを発行しました。
宣誓書の内容は以下の通り。

トップシークレット

USS「フラハティ」
C/O フリートポストオフィス ニューヨーク NY

わたし、ロジャー・W・コーゼンス(サイン)は、
ドイツの潜水艦U-505の捕獲に関して絶対的な秘密を維持するための
十分な説明を受けたので、戦争が終了するまで、
少なくとも海軍省が早急に一般に公開しない限り、
何人にもこの情報を漏らさないことを、ここに誓います。

(この『誰にも』no oneには、わたしの最も近い親戚、
友人、軍人、または海軍軍人も含まれています。
わたしの司令官からそのように指示された場合を除き、
たとえ相手が提督であっても、それは例外ではありません)

ドイツが、U-505の拿捕の何らかの情報源から何かを察知した場合、
その捕獲によって得た多大なこちらの利益が即座に無効になり、
結果としてそれがアメリカ合衆国に多大な損失をもたらすことを
わたしは知る必要があり、またそれを十分に認識しています。

わたしはまた、もしわたしがこの誓いを破った場合、
わたしは重大な軍事犯罪を犯し、それによって
わたし自身を軍法会議にかけられることになるのを認識しています。

ロジャー・W・コーゼンス(サイン)

8日、わたしの前で朗読し誓約しました

M.L.ローリー LT (JG)USNR(サイン)



続く。




ハンターキラー、U-505捕獲に成功す〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-20 | 博物館・資料館・テーマパーク

はっきりと目標をUボートの捕獲と定め、情報機関を駆使して
南アフリカに乗り込んだギャラリー大佐のハンターキラー22.3。

捜索を続けるも諦めて引き上げようとした途端、
駆逐艦「シャトレーン」のソナーマンがUボートの存在を突き止めた、
というところまでお話ししてきました。

ここまで歩いてくると、ようやく実物のU-505を
甲板の高さから見ることができる展示室にたどり着きます。



アメリカ海軍が知力の限りを尽くして捕獲したU-505。
ここに展示されるまでにはそれこそ本になるほどのストーリーがあり、
この展示では、それが熱く語られます。



潜水艦のフロア全部を使って、資料が展示されています。
皆様には、このわたしが順にこれをお見せしていくつもりです。



潜水艦は内部を何回かに分けてツァーで紹介しています。
1階フロアに見える人々は、ツァーを予約し、時間が来るのを待っています。


そこにたどり着くまでに、パネル展示が続くわけですが、
まずはU-505を捕獲した時のシーンが現れました。

潜水艦の右舷に横付けされたボート、見覚えがありますね。



やはりこれは、Uボート乗員を確保しにいくボートだったんですね。



パネルの前に並んだ九人の海軍軍人たち。
彼らが直接Uボートに向かったボートのクルーなのかな?



やはりそのようです。
一人一人の顔写真がボートに乗って登場しました。

彼らはUSS「ピルズベリー」から派出された
「ボーディング・パーティ」=乗り込みチームです。

航空機からのマーキングの後、駆逐艦から発射された魚雷で
U-505は損傷し、総員退艦を始めました。

彼らがボートを放棄することが明らかになった時、
タスクグループ22.3は、ホエールボート(っていうんですね)を投下し、
ボーディング(敵船乗組)と救助の訓練を受けたクルーを派遣しました。

そして、USS「シャトレーン」とU「ジェンクス」が生存者を拾い上げる間、
USS「ピルズベリー」はホエールボートをU-505に送り、
アルバート・L・デビッド中尉が9人の搭乗隊を率いて乗り込みました。

その、USS「ピルズベリー」のホエールボートが、
損傷した潜水艦の横に停泊した瞬間が絵になっているわけです。

彼らのここでの任務はUボートを強襲し、
残存しているドイツ海軍の乗組員を圧して潜水艦を制御することです。

このクルー全員が大々的に顔写真と共に紹介されていますが、
この任務は誰にでもできることではなくとてつもなく危険でした。

まず、このときU−505の状態は海上で沈没寸前となり、
渦に巻き込まれるように自転していました。

当然ですが、鹵獲されることを防ぐため、
艦隊には爆薬が装備されていた可能性は大でした。


このとき乗り込みメンバーとなった九人の名前が
「極秘」として記された文書。

■ U-505に搭乗





”シーストレーナー・カバー”

Uボートにはドイツが連合軍の手に渡ることを望まない
最高機密の情報と技術が満載されていました。

だからこそ今回ギャラリー大佐とアメリカ海軍は
総力を挙げてUボートの捕獲作戦に乗り出したわけですが、
Uボートの艦長は、万が一自艦が捕獲の危険に晒された場合、
自沈または沈没させよという厳格な命令を受けていました。

タスクグループの攻撃が艦体を損傷させたとき、
U-505の乗員はボートを浸水させ自沈させようとしました。

その時彼らが開けたのはこのシーストレーナーというパイプです。

次の瞬間水はボートに流れ込みました。
「ピルズベリー」の乗り込みチームがU-505に到着するまでに、
潜水艦の艦尾はすでに水没しており、
海水麺は司令塔の最上部分にほぼ到達していました。

モーターマシニストのゼノン・ルコシウス一等水兵が乗艦し、
このストレーナーから海水が流れ込んでいるのを発見し、
すぐさまストレーナーのカバーを探して再び固定しました。

それが冒頭写真の”ストレーナーカバー”です。

”スカットル・チャージ”

U-505を総員退艦する前に、ドイツ軍乗員は、
潜水艦全体に装備された多数のスカットル・チャージ、
=時限爆弾のタイマーをセットするように訓練されていました。

アメリカ軍の乗り込み隊と救助隊は、
起爆スイッチとなっている針金のワイヤーをすぐさま引っ張り、
時限爆弾のスイッチを解除することに成功しました。


左上、艦橋だけ海上に出た状態
下、アメリカの旗をUボートの司令塔に立てる


もちろん一つでも爆発していたら、Uボートはもちろん、
乗り込んだアメリカ海軍のクルーが海底に沈むことになったでしょう。

■USS「ピルズベリー」の乗り込み隊9名

潜水艦はいつ沈没するか爆発するかわからないし、
どんな抵抗を受けるかもわかりませんでしたが、乗り込み隊である
デイビッド中尉たちはハッチから内部に降りていったのです。

急いで調べたところ、甲板に横たわっていたドイツ人水兵の死体以外は、
U-505は無人であることが確認されました。

これが今回の拿捕を決めた決定的な瞬間となったのです。

そしてその後、まずスカットルチャージの取り外しが行われ、
ついで沈没を防ぐためにバルブの閉鎖を済ませてから、
海図や暗号帳、書類の整理に取りかかりました。


危険を承知でUボートに乗り込んで行った9名については、
一人一人紹介されていましたので、ここに挙げておきます。


アルバート・L・デイヴィッド 米海軍中尉
(左はギャラリー中佐、『ガダルカナル』艦上にて)


チェスター・A・モカースキー 一等砲手兵曹 U.S.N.


ウェイン・M・ピケルス 二等航海士 U.S.N.所属

アーサー・W・ニスペル 魚雷手 三等兵 U.S.N.R.
写真なし


ジョージ・ジェイコブソン U.S.N.チーフ・モーター・マシニスト・メイト


ゼノン B. ルコシウス U.S.N.一等機関士補
起爆スイッチを最初に切った殊勲者。


ウィリアム・R・リアンドゥ U.S.N.三等電気技師補


スタンリー E. ウドウィアック U.S.N.R.三等兵曹(ラジオマン)


ゴードン・F・ホーネ 米海軍三等軍曹

「ピルズベリー」の信号員でU-505に乗艦した後は
タスクグループと通信業務を行う。
シグナルマンはタスクグループから見分けやすいように
一人白いユニフォームを着せられていた。
シルバースターメダル受賞



フィリップ・トゥルシェイム操舵手

操舵手として「ピルズベリー」から出されたホエールボートを操縦した。
乗り込みパーティには加わっていないが、
Uボートとボートを並べ位置を維持する重要な役目を果たした。



アール・トロシーノ(引揚隊司令官)

トロシーノは-505の沈没を阻止する救助隊を指揮した。
彼が考案した巧妙な計画に従って、引揚隊は、
牽引中に潜水艦のバッテリーを再充電することに成功。

これにより、クルーは潜水艦の搭載ポンプを使用して
攻撃中に浸水した海水を排水することができた。

1954年、U-505がシカゴに牽引されることになった時、
トロシーノはその指揮も勤めることになった。

海軍は彼にコンバット「V」メダルを授与した。



D.E.ハンプトン大尉

ハンプトンはUSS「ガダルカナル」からの2次サルベージ隊を率いた。
彼は、捕獲後、U-505を奪取する命令を与えられていた。
潜水艦の状態により、救助と牽引も任されていた。

ハンプトンはボートからの排水作業を組織し、
トロシーノ中佐の引揚作業を援助した。

海軍からは厚労勲章メダルが与えられている。


さて、ミッションの最初の部分が完了しました。

アメリカ海軍ハンターキラータスクグループ22.3は、
ダニエル・V・ギャラリー大佐の指揮下においてU-505を捕獲したのです。

これは、1815年(1812年の戦争の最終年)以来、
アメリカ海軍にとって敵船を戦時に捕獲した最初の例となりました。


拿捕後、タスクグループはU-505をバミューダに曳し、
Uボートの解析を行うことにしました。

バミューダに到着する前夜、ギャラリー大佐は
お手柄だった乗り込みメンバー9名を
USS「ガダルカナル」に招待しています。

ギャラリー大佐は翌朝、捕獲した潜水艦にアメリカ軍人を乗せて
港に入るという演出のために、彼らをU-505に移そうと考えたのです。

■ 余談:乗り込みメンバーの間違いを加工?
アメリカ海軍の写真加工技術

ここでちょっとしたミスが起こりました。

USS「ガダルカナル」に乗艦したグループの最先任、
デビッド中尉は、まずギャラリー大佐に面会に行きました。

このとき、カメラマンはデビッド中尉のいないパーティを撮影し、
これをプレスリリース用の写真にしてしまったのです。



九人いたのでこれが乗り込みクルー全員だろうと思ったんですね。

実際は、そこにいなかったデビッド中尉の代わりに、
物資の手配を担当するために「ピルズベリー」から乗り込んでいた
チーフのコミサリー・リスクが一緒に写っていたのです。

写真を撮られた人たちはプレスリリースとか全く考えていないので、
誰一人このことを疑問に思わず、リスク曹長も一緒に写真に収まりましたが、
公式の写真に作戦と関係ない人がうつっているのはいかがなものか、
となったので、直前で海軍は写真を加工しました。



これがもう全く苦し紛れで、今なら雑コラ認定間違いなし。

リスク曹長を消して右側の三人を中央に寄せ、
肩にかけた手を加工していますが、このコラ、どうやら文字通り
写真を切り貼りしたらしく、アスペクト比まで弄っていないので、
右から3番目の人の右腕の長さがとんでもないことになってます。

どうも加工チームは、移動させた三人の写真を
リスク曹長の身長に合わせて床から「持ち上げた」らしいのです。

そして右側の三人が実物より大きくなってしまいました。




そこでもう一度博物館で大パネルにされた写真をご覧ください。

当時の海軍写真班は、さすがにいない人物を継ぎ合わせて
そこにいるように加工することができなかったため
プレスリリースの写真にデビッド中尉はいないままでしたが、
当博物館では、ちゃんとこの写真にデビッド中尉を参加させています。

しかも、アス比もちゃんと加工しているので、
本来あまり背の高さが違わない水兵さんたちが元の身長差に戻りました。

ただ、この加工にも決定的におかしな点があります。

確かにパネルはぱっと見不自然というわけではありませんが、
海軍という組織に絶対にあり得ない写真であることは
おそらくこのブログ読者ならどなたもご存知ですね。

そう、デビッド中尉の立ち位置です。

もし本当に中尉がいたら、海軍の慣習としてかならず士官は中央前列に立ち、
こんな風に水兵の後ろから顔を出すことなどありえません。

パネルの加工がいつ行われたかは不明ですが、
おそらく少なくともここ数年ではなかったとわたしは断言します。

もし現在のフォトショップを使えば、誰でも
デビッド中尉の全身像を真ん中に配置した、
自然な写真をいくらでも合成できるからです。



さて、こうやってU-505を捕獲するという、
最初の目的を果たしたハンターキラータスクグループ22.3。

次にギャラリー大佐に与えられたミッションは、
潜水艦を沈まないように曳航するということでした。

続く。




「Uボートを求めて」ハンターキラー機動隊22.3〜シカゴ科学産業博物館U-505 

2023-04-18 | 博物館・資料館・テーマパーク

シカゴの科学産業博物館に展示されているドイツ海軍のU-505。
それは色々なストーリーを経て現在ここにあるわけですが、
その本体の設置されたところにたどり着くまでに、
博物館では開戦にはじまり、Uボートの脅威、
それに対抗すべく編み出されたハンターキラータスクグループ、
そしてUボート捕獲のために後方で活躍した暗号解読艦隊、
そこで男性軍人の代わりに任務を務めたWAVESについて、
順を追って理解を深めていくことができる仕組みとなっています。

さて、次なる展示は??

■ ハンターキラー・タスクグループ 22.3



ダン・ギャラリー米海軍大佐率いる対潜機動隊、22.3
Uボートの捕獲を目的にいよいよ始動した、という話を
これまでの流れでご理解いただいていたかと思います。

ここからは、そのハンターキラー22.3に焦点を当てます。


”激化するUボートハンティング〜西アフリカ沖”

1944年5月15日、第22.3任務群は、
カーボベルデ諸島付近の対潜哨戒のために
バージニア州ノーフォークを出港しました。

ダン・ギャラリー艦長とタスクグループの6隻の艦艇は
ワシントンDCのF-21潜水艦追跡室から毎日送信される位置情報をもとに、
数週間にわたってUボートの捜索を行いました。

タスク・グループは、あらゆる技術駆使し、
Uボートを探し出すという決意をもって、目標の位置を捜索。



USS「ガダルカナル」艦載のワイルドキャット戦闘機が上空から、
海中をソナーやハイドロフォンのオペレーターが捜索するも、
このときまでUボートを見つけることはできませんでした。



このコーナーは、USS「ガダルカナル」艦橋を再現しています。
大きなスクリーンには、その時の映像が上映されています。

この実物大の「ガダルカナル」ジオラマの指揮官席に座っているのは、
もちろんのことダン・ギャラリー大佐その人です。

彼の人形は、写真を使ってこれでもかと本物そっくりに作られました。



Uボート捕獲作戦はこの人のアイデアだったわけですからね。

さて、いつまでたっても見つからないUボート。
業を煮やしたギャラリーは捜索を中止し、
燃料を補給するためにカサブランカへ向かうことに決めました。



すると数分後、タスクグループUSS「シャトレーン」から報告が入りました。
ソナーオペレーターが、Uボートを「探知した」可能性があると。



ボートが出されていますが、これはもしかしたら
ソノブイの回収・・いや、もしかしたら、Uボート攻撃の後か?

そう、これはまさにこれから、
Uボートに乗り込んで捕獲するために結成された「決死隊」を
ボートに横付けするために出発するホエールボートの姿なのです。


■ ボーダーズ・アウェイ
アメリカ海軍搭乗員装備



さて、ここで一旦関連展示をご覧ください。
第二次世界大戦時のアメリカ海軍パイロット用、夏季フライトスーツです。

海軍パイロットはこのワンピース型のフライトスーツを常用しました。
スリムなフィット感により、狭いコクピットの中でも
パイロットの衣服がコントローラーなどに引っかかることがありません。

スーツの胸、腕、ズボンにも複数のポケットがあり、
鉛筆や小さなギアなどの重要なツールを簡単に取り出せます。


U-505を攻撃した時、「ガダルカナル」乗り組みの
ワイルド・キャット戦闘機パイロット、ウォルフ・ロバーツ中尉
まさにこのフライトスーツを着用していました。

彼は水没したUボートの場所を特定するのに助力し、
その功績により、殊勲飛行十字賞を授与されています。

「特定する」というのは一般に言われるのと少し違っていて、
沈んだUボートの位置をタスクグループの駆逐艦に知らせるため、
「ピン留め」の意味で目印を投下するということを指す業界用語です。

ここにあるフライトスーツ一式は本人の寄贈によるものです。


ウォルフ・ロバーツ中尉はU-505に空爆したとき、
着用していたのと同じタイプのゴーグルとフライトヘルメット

ヘルメットは母艦や他の航空機と無線で通信するための
ヘッドフォンが装着されています。

ヘッドフォンは水中のUボートの音を聞くために、
水中に投下したソノブイが生成した音もキャプチャできました。



”米海軍B-4タイプ救命胴衣”

B-4救命胴衣は、浮揚装置およびサバイバルキットとして機能しました。
小さな空気キャニスターでベストを膨らませるもので、
ゴムチューブから口で空気を追加することもできました。

ベストには、航空機に信号を送るための鏡、
そして救難信号を送るための二つの発煙弾、サメの忌避剤、
染料マーカーのパケットが入ったショルダーポーチが付いていました。

パラシュート タイプAN-6510

背中に背負っているのは米海軍の標準的なシートパラシュートで、
U-505の捕獲の時にもパイロットが装着していたものです。

パラシュートコンテナはパイロットがコックピットにすわるとき、
シートクッションとして役に立っていました。

通常ナイロン製のこんにちのパラシュートとは異なり、
ほとんどの第二次世界大戦時のパラシュートは絹でできていました。

「hitting the silk」
そのままの意味だとシルクを打つ、ですが、実は

パラシュートで飛び降りる”
”ぶっ飛ばす”

主にパラシュートでジャンプを行うことを表すスラングになりました。



”アメリカ海軍 サバイバル・フラッシュライト”

防水ライトはサバイバル・ライフジャケットに固定されていました。
これで夜間に救助航空機に信号を送るための微弱なビーコンを発します。

バッテリーは数時間持続しました。



”アメリカ海軍レザー製パイロット用手袋”

ウォルフ・ロバーツ中尉が実際にU-505攻撃時に着用していたもの。



”ニーボード(膝板)”

これもロバーツ中尉が攻撃時使用していたニーボードです。
ニーボードとはストラップでパイロットの腿に留め、
コクピットで座ったままメモをとるときライティングデスクとなるものです。

フリップオープン式のトップには小さな地図と、
飛行中にメモを取るための紙が挟まれていました。

パイロットは後でコンパイルで使用するために、
コースの変更について大まかなメモを取りました。



”WWII アメリカ海軍フライトシューズ”

空母から飛行するアメリカ海軍のパイロットは、
通常海兵隊の「ラフアウト・レザーブーツ」というのを履いていました。

見たところ普通の黒皮のビジネスシューズなのですが、さにあらず、
見た目よりも重い皮で作られており、毎日の過酷な飛行に耐えられるだけの
耐久性を備えたやたら丈夫な靴だったそうです。

■ 激化するハンティング〜U-505を攻撃



先ほどのゲートに大きく記されていた「1944年6月10日」とは
機動部隊がUボート確保に向けて行動を開始したその日付です。

この日、午前11時10分、USS「シャトレーン」はソナーコンタクトを報告し、機動部隊は一斉に次の行動に移りました。

旗艦、USS「ガダルカナル」は、軽空母であることもあって、
自らを全く傷つけることなく攻撃することができないため、
ギャラリー艦長は、艦を迅速に危険な場所から移動させました。

「シャトレーン」は僚艦「ピルズベリー」と「ジェンクス」の支援を受け、
迅速に駆逐艦による攻撃を開始しました。

潜航中のU-505を、ソナーで確認しながら、
USS「シャトレーン」はまずヘッジホッグで攻撃。



しかし、これはターゲットから外れました。

「シャトレーン」が回頭して再攻撃するために射程距離を開けている間、
「ガダルカナル」艦載の戦闘機2機が水中に機銃を発射して、
潜航中のU-505の位置を明らかにします。(先ほどの”ピン留め”です)


連合国が水中に潜むUボートを攻撃するために使用した重要な兵器が、
デプスチャージ・深度爆薬と、このヘッジホッグでした。

左がヘッジホッグの「針」、右がデプスチャージ投下装置

先日「シルバーサイズ」博物館シリーズの展示でも説明しましたが、
ヘッジホッグは、狙った潜水艦に直接接触したとき、
もし外れた場合には、海底に落ちたときにのみ起爆します。



このとき「シャトレーン」が搭載していたヘッジホッグはマーク4で、
35ポンドのトーペックスで満たされており、
ハリネズミのような外観のスパイク付き発射装置から、一度に24個、
一斉発射されましたが、Uボート艦体には接触しなかったということです。

「シャトレーン」はその後、戦闘機のマーキングに向けて
深度爆雷を発射し、U-505を水面に浮上させることに成功しました。


深度爆薬(デプスチャージ)は、あらかじめ設定された深度で
爆発するように水中に投下される強力な爆薬です。

艦長が深度を決定し、号令を出すシーンは
潜水艦が出てくる戦争映画ではおなじみですね。

こちらの爆雷は潜水艦に当たらなくても、近くで爆発させることで
敵艦内の機器を破壊し、艦体を損傷させることができました。

1943年、米海軍は深度爆薬とヘッジホッグに、
それまで使われていたトリニトロトルエン(TNT)より50%強力な
「トーペックス」という新しい爆薬を詰めるようになりました。

ここに展示されているのは、マーク9のMods3という深度爆雷です。

U-505 に対する攻撃で使われたのと同じタイプで、
マーク9は圧力で作動する信管を持ち、200ポンドのトーペックスを
地表から30~600フィートの所定の深さで爆発させるものでした。



深度爆雷の搭載、そして投下した瞬間です。
猛烈な煙が立ち昇る中に、宙を飛んでいく金槌状の爆雷が見えます。

さて、ここまで進んできた観覧者は、パネル展示より
否が応でも、そこに見えるU-505実物に目を見張ることになります。



やっとここまできて艦体の上のデッキにたどり着いたことになりますが、
これからデッキ最上段から降りていきながらU-505のあらゆる部分を見つつ、
捕獲したときの情報などを展示で得ることができる、というわけです。


さて、それでは通路に沿って歩いていくことにしましょう。

続く。



F-21 第10艦隊対潜追跡室@ワシントンD.C.〜U505 産業技術博物館

2023-04-16 | 歴史

U-505の展示されているところにたどり着くまでに
見学者は知識を積み重ねるための展示を見ながら進んでいきますが、
前回のハンターキラーの結成とその成果についての展示がすむと、
そこから一階地下に移動することになります。



さすがのアメリカ人もほとんどが階段を使って降ります。



通路にはこの部分を利用した展示WAVESに関するポスターが。

この海軍に女性兵士を募集するリクルートポスターには、

「これは女性の戦争でもある!」
”It's a woman's war too!”

と書かれ、通信任務に就くWAVESが描かれています。



「何の気なしの不注意な会話が
敵のピースを完成させる」
(意訳)

ナチスの指輪をはめた手がはめたピースで、

「護送船団の 英国への出航は
今夜である」


という情報(パズル)が完成しております。

防諜、当ブログでも日本の戦時中の防諜啓蒙映画、
「間諜未だ死せず」をご紹介したことがありますが、
どこの国にとってもこれは国民にあまねく注意喚起すべき重大事でした。



このポスターは以前も紹介したことがあります。

「不注意な言葉が・・・
・・・不必要な沈没に」



荷物を担いだ水兵さんが爽やかに笑っていますが、
これも防諜ポスターです。

「もし彼がどこに行くのかしゃべったら・・・
彼はそこに着くことはないかもしれません!」




これは、WAVESリクルート目的のポスターで、

「彼をできるだけ早く故郷に帰すために
WAVESに入隊しましょう」


映画「陸軍の美人トリオ」では、三人の美女のうちひとりが
出征した夫をすこしでも支援できればと思って入隊したという設定でした。

陸軍の場合は女性隊および女性兵士をWACと言いますが、海軍は

 the Women Accepted for Volunteer Emergency Service

の頭をとってWAVESであるということは何度か説明しています。
第二次世界大戦時に設立した海軍予備役の女性部門で、設立するとき、
徴兵制ではなく自発的な奉仕活動であることを明確にするため
「アクセプテッド」「ボランティア」
という文字を海の波を表すことばに組み立てて名付けられました。

「エマージェンシー」が入っているのは、戦争中ということで
一時的な危機のための結成ということにしておけば、
女性の採用に眉を顰めがちな年配の提督たちを
納得させやすいかも?と考えたからだそうです。


ジョゼフィン・ストーヴァル・オグドン・フォレスタル

そして、ニューヨークのファッションブランドが、
海軍次官補ジェームズ・フォレスタルの妻でありながら
「ヴォーグ」のエディターだったジョー・フォレスタル
(あれ?この名前・・)の協力を仰ぎ、それはそれはオシャレな制服を作り、
素敵なポスターでWAVESを大々的に勧誘した結果、
1942年末の時点で、WAVESには770人の将校と3,109人の下士官がおり、
終戦の頃にはその数は86,291人に増え、その内訳は将校8,475人、
下士官73,816人、訓練生約4,000人になっていました。

面白いのが、WAVESの出身地で特に数が多かったのが、
ニューヨーク、カリフォルニア、ペンシルバニア、イリノイ、
マサチューセッツ、オハイオという、大都市を有する州だったことです。

訓練をする場所も、ハーバード大学、コロラド大学、MIT、
カリフォルニア大学、シカゴ大学などのキャンパスで行われました。

共学が基本だったそうですから、応募が増えたのも当然かもしれません。

将校の訓練カリキュラムには、通信、補給、気象学、工学はもちろん、
日本語のコースもありました。

戦争になったら敵の言葉を禁じていたどこかの国とは
戦略的なものの考え方が根本で違っていると感じさせますね。

そして、WAVESという「時代遅れの」頭字語ですが、
WAVESが存在しなくなっても1970年代までは使用されていました。

現在はそもそも、女性兵士を括る部隊が存在しないので、
その名称も公式には存在していません。
女性軍人を「WAVES」と呼ぶこともなくなりました。

ところが、我が海上自衛隊では女性自衛官のことを
なぜかS抜きで「WAVE」とよんでいる(いた?)模様。

今でもそうなのか、それとも今では用いられないのかわかりませんが、
これが一体何の略なのかご存知の方おられますか?

ただなんとなくアメリカ海軍の用語を輸入したのかな。



こちらも超有名なWAVESリクルートポスター。

「男性を海で戦わせるために解き放ちましょう」

つまり、WAVESの存在意義とは、後方支援に就いて
陸上基地の男性人員を海上勤務に置き換えることでした。

しかしこのことは「解き放たれたいと思っていない」すなわち
海上勤務に就きたくないと思っている男性からは
敵意を持たれる
という一面もあったということになります。

あるWAVESは、上司になる男性士官に挨拶をしたところ、
あからさまに必要とされていないと思い知らされ、さらに、下士官たちは

「送られてきた女性が仕事ができなければ、
男がその仕事を続けて海に送られるのを避けられる」


といって、女性には無理そうなタイヤの運搬を命じたそうです。
(しかし彼女らは体力ではなく”頭”を使って滑車で全ての運搬を完了したとのこと)



パラシュートの糸の管理をしているWAVES。

「このような重要な仕事をするために必要な資質を持っていますか?」

これは、あれだね。
こんな仕事なら男性より女性が向いているでしょ、と言いたげ。



「あなたの海軍には、あなたのために
『男性サイズ』の仕事があります」


どれもこれも、後方で行う男性の仕事を置き換える気満々です。

まあ、後方支援のままいけるなら、できれば戦地に送られたくない、
と内心思っている男性軍人なら、WAVESに八つ当たりしたくなっても
仕方がなかった?かもしれません。しらんけど。


さて、ここまでは「防諜」と「WAVES募集」できたわけですが、
女性軍人がその力を真に発揮し、実際に戦果に寄与したとすれば、
それはインテリジェンスの分野だったかもしれません。

Uボートの捕獲がタスクグループに命じられた、
というところまで、前回の展示は説明してきたのですが、
ここにあるということは、おそらくインテリジェンスが
そのミッションに大きな力を貸したというところかもしれません。

ということで、このゲートの上には

F-21  SUBMARINE TRACKING ROOM
WASHINGTON, D.C.

とあります。

■ F-21潜水艦追跡室 ワシントンD.C.


インテリジェンスのパワー
”トップシークレット 第10艦隊"

米海軍はUボートの捕獲には火力以上の力が必要だと知っていました。
そのミッションはインテリジェンスによって支えられなければならないと。

タスクグループ21.12が1944年4月、
二度目の対潜哨戒から戻った時、あのギャラリー大佐は
第10艦隊への入隊許可を得ました。

ここでギャラリーはドイツのUボートの内部構造に関する極秘情報を
彼に与えた司令官、ケネス・ノウルズに会いました。

ノウルズと彼の第10艦隊チームは、
1944年3月以来、ある一隻のUボートを追跡していました。

その潜水艦がフランスのブレストから出航し、
アフリカに向けて南に舵を切ったときです。

Uボートの正確な身元までは不明でしたが、
ノウルズはそれが海上で三か月の期間を過ごした
古い潜水艦である可能性が高いと判断しました。

タスクグループ22.3は5月末、つまり
Uボートが母港に帰る前に捕獲する必要がありました。

■インテリジェンス
”それは女の戦いでもあった”


1942年の夏、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトは
ついに正式にWAVESを設立しました。

そして、ドイツ海軍のエニグマコードを解読するため、
600名のWAVESに、121台の

”Bombe”暗号解読コンピュータ

を構築するという極秘任務が与えられます。



ミルドレッド・マカフィー
は1942年8月に海軍予備役中佐に就任し、
WAVESの局長に任命されたとき、
アメリカ海軍初の女性将校となりました。

彼女はのちに大佐に昇進しました。
マカフィーはシカゴ大学で修士号を取得し、
ウェルズリーカレッジの学長を務めました。

彼女のWAVES におけるリーダーシップにより、
彼女は米国海軍功労賞を女性として初めて授与されました。



Bombeは、連合国がドイツのエニグマを解読するために開発した
暗号解読機につけられた名称です。

初期の近代的なコンピューティングデバイスの一つと考えられ、
動作中に発生する大きなカチカチという音からその名が付きました。



ドイツはエニグマと呼ばれる精巧なコードを考案し、
暗号で情報を送信することができました。
エニグマはコード化されたメッセージを読み取って送信するために
マシンとセットアップ情報の両方が必要だったため、
コードを破るのが手強いシステムでした。

1943年の夏、アメリカの暗号解読者が
Bombeマシンを使用し、ドイツ海軍の
4ローター(M4)エニグマシステムをついに解読しました。

これにより、アメリカ海軍は海上でドイツ海軍司令部と
Uボート間の通信を読み取ることができるようになりました。

■ 第10艦隊潜水艦追跡室 ワシントンD.C.


第10艦隊、といっても実際の「艦隊」ではありません。

これは、知る人ぞ知る、ワシントンD.C.にある
最高機密の米国海軍対潜情報司令部のコードネームでした。

写真はF-21潜水艦追跡室でのWAVESが作業をしているところ。

Uボートや枢軸国の艦艇を探知し、
連合国の船舶を守るために必要な任務を遂行した女性たちです。

1942年1月、ワシントンDCのショッピングモールからすぐのところにある
海軍省ビル(通称「メインネイビー」)

1942年以降、第10艦隊は、第二次世界大戦中に
Uボートの脅威を破壊するためのアメリカの作戦の中心となりました。

そして「F-21」ですが、その第10艦隊の内部にある
米海軍潜水艦追跡室のコードネームでした。

そこではアメリカとイギリスの諜報機関が協力してUボートを追跡し、
連合軍の護送船団の経路を情報に応じて変更したり、
あるいはハンターキラータスクグループを攻撃に誘導したりしました。

対潜水艦情報司令部F-21の秘密対潜追跡室司令官
ケネス・ノウルズ中佐

「ハフダフ(Huff-Doff)座標」とBombe解読法を駆使して、
ノウルズはUボートの位置情報を、
ギャラリー大佐率いるタスクグループに毎日送信し続けていました。

そして、ギャラリー大佐はこの情報を使用して、
西アフリカ沖にいると思われたUボートを探索したのです。
  


「ハフダフ(Huff-Doff)」
とは、高周波方向探知機を意味するHF/DFを音読みしたものです。

連合国がこのレーダー技術を使用し始めたそのとき、
Uボートとの戦いにおける大きなブレークスルーがもたらされました。



大西洋のハフダフ聴取局により、連合国は
無線信号の強度を測定することで、
水面に浮上したUボートの大まかな位置を特定することができました。



ところで、この付近にあった、この日付です。
1944年6月1日。

この日が何を意味するのかは、この先の展示でわかるでしょう。
続いて先に進んでいくことにします。


続く。






「黒い5月」 Uボートvsハンターキラー任務群〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

シカゴの科学産業博物館に展示されている
U-505の展示を紹介するシリーズですが、
まだここまでは潜水艦のあるところにすらたどりついていません。

前説というか、Uボートについての歴史的な説明、
アメリカに与えた脅威、ひいてはその性能について、
見学者に基礎知識を与えるための展示を見ながら進みます。

■ Uボートの脅威(Menace)
”ウルフパックによる連合国船団への攻撃”



何百もの無防備な連合国の商船が、Uボートの攻撃で無慈悲に沈みました。

これに対して連合国は最大200隻の商船からなる護送船団を編成し、
護衛空母と駆逐艦によって大西洋全域を護衛しようとしました。

Uボートが護送船団を攻撃すると、これに対し駆逐艦は
爆雷(デプスチャージ)やヘッジホッグで対抗しました。



ヒットラーは(というかデーニッツなんですがこう書いてあるので一応)
ウルフパックと呼ばれるUボートのグループを編成し、
船団に大混乱をもたらす攻撃法を取りました。

1943年3月には、この戦争で最大級のウルフパック(Uボート40隻以上)が
100隻の連合軍艦艇から成る二つの護送船団に対する攻撃を行い、
この結果うち21隻が沈没させられるということが起こっています。

”連合軍の典型的な船団編成”



まず、黄色で記されたのが船団護衛駆逐艦です。
四角く並んだ船団の四隅を縁を描くように4隻、そして
そのさらに両外側を行きつ戻りつしてガードしています。

左上の旗🚩を立てた駆逐艦が護衛隊司令官の船です。

船団の外側を取り囲む灰色の船は資源を積む貨物船
その内側の紺色が石油タンカー
タンカーに挟まれているオレンジの船が戦車や航空機などの貨物
赤は弾薬輸送船です。

白い二隻の船はトループシップ、兵員輸送船です。

船団の最前列真ん中に🚩コンボイ、船団旗艦が位置します。

1942年までに、典型的な誤送船団は長方形のパターンで編成され、
その周りを護衛艦が囲むという形になっており、弾薬船、石油タンカー、
兵員輸送船は比較的安全な編隊内部に配置されました。

しかし、このフォーメーションはあくまでも「理想」「平穏時」であり、
荒天時、ましてやUボートが攻撃してきた時に
正確な間隔を維持することはほとんど不可能でした。

■ 1942−43 Uボートの脅威
”商船攻撃”



Uボートはほとんどの時間を水上で過ごすように設計されており、
基本的に見張りが水平線を偵察して
商船の煙突から立ち昇る煙を探していました。

船が発見されると、その時に初めて艦長はUボートを潜水させ、
潜望鏡を使って波の上を監視しながら獲物を追跡します。

次に艦長が

「フォイアー・アイン!(ファイアー・ワン)」

と叫ぶとき、それがUボートの乗組員が
運命の船に向かって魚雷を発射する瞬間でした。



数秒後、魚雷は商船に向かい、ヒットして激しい爆発を起こし、
船体にギザギザの形の穴を開けます。



そうすると火災が起き、船を揺るがす二次爆発が始まると、
海水が容赦なく船に浸水し雪崩れ込んできます。

乗組員は船体と共に大西洋の氷の海の底に引き摺り込まれる前に、
船を放棄しようとして、命懸けで脱出を図りますが、
そのほとんどは生き残ることはできず、共に海中に沈んでいきました。

■ハンターキラー・タスクグループ

戦争が進行するにつれて、連合軍の補給線は
ハンターキラー・タスクグループが開発されるその時まで
常に攻撃を受け続けることになりました。

しかし、一度これが投入されるようになると、
これらの任務群の有能さは目を見張るばかりで、
そのノウハウを全力投入し、威嚇するUボートを追い詰めると、
逆にそれがUボートにとっての大変な脅威となって立場が逆転し、
目に見えて護送船団の被害は激減していきました。

戦争の終わりまでに、ハンターキラー・タスクグループの投入の結果、
連合国の商船隊は、脅威に脅かされることもなく
大西洋を航行することができるようになっていきます。

その目覚ましい結果は数字に現れています。

下のグラフは、大西洋で沈没した連合国の船の数と、
撃沈されたUボートの数を年代ごとに示したものですが、これをご覧下さい。



いかがでしょうか。

最盛期の1942年まで圧倒的(1150隻)だった連合国側の船舶被害数が、
1943年に377隻とほぼ三分の一に激減し、1944年には、
民間船被害とタスクグループの撃沈したUボートの数が逆転、
終戦の頃には、完全にUボートの被害が優っています。

ハンターキラーグループは、「コンボイ・サポートグループ」とも呼ばれ、
第二次世界大戦中に積極的に投入された対潜水艦の集団です。

高周波方向探知などの信号情報、「ウルトラ」などの暗号情報、
レーダーやソナー・ASDICなどの探知技術を進歩させていった結果、
連合国海軍は敵潜水艦を積極的に追い詰め、
撃沈するための任務群を編成することが可能となりました。

こういう時の英米の科学技術に注入する民間の力は凄まじく、
短期間にこの逆転を可能にしたのは、科学・産業界の底力に他なりません。

ハンターキラー群は通常、航空偵察と航空援護を行う護衛空母を中心に、
コルベット、駆逐艦、護衛駆逐艦、フリゲート、
アメリカ合衆国沿岸警備隊カッターなどで構成され、
駆逐艦群は深爆雷とヘッジホッグ対潜迫撃砲で武装されていました。


ハンターキラーの構想が提案されたのは1942年、発祥はイギリスです。

Uボートの脅威にさらされていた大西洋横断輸送船団の護衛のため
強化された軍艦群を組織する構想が、まずイギリス海軍から生まれました。

1943年初頭に行われた連合国大西洋輸送船団会議では、
それぞれ護衛空母1隻を含む対潜戦艦10群を編成することが決定し、
そのうち5つの英・カナダグループが北大西洋の輸送船団ルートを、
5つの米グループが大西洋中部の輸送船団をカバーすることになりました。


そして1943年の5月、
大西洋でUボートの死傷率が初めて連合国軍のそれを上回りました。

これがハンターキラー導入後のエポックメイキングな出来事として
「ブラックメイ」(黒い5月)と名付けられました。

Uボートの立場に立ったネーミングですがそれはいいのか。

実はその直前の3月まで、Uボートの攻勢はピークに達しており、
大規模な輸送船団船でドイツは勝利を続けていたのです。

前の月の4月にもU-515による輸送船団TS37への衝撃的な攻撃で、
連合国は3分間に4隻、ついで3隻のタンカーを失ってもいます。

しかし、歴史を後から振り返ったとき、1943年5月、
それはUボートの戦力はピークに達し、後は落ちる運命でした。

240隻のUボートのうち118隻が出動している状態でしたが、
そこから連合軍艦船の撃沈は減少し続けたのです。

それでは「ブラック・メイ」といわれたこの5月、
何があったかというと、それまでで最もUボートの損失が大きく、
41隻(稼働中のUボートの25%)が破壊されていました。

この月は双方で大きな損失を出した激戦があったものの、
護衛艦の戦術的な改良が効果を発揮し始め、
次に攻撃された3つの輸送船団は、わずか7隻の沈没に対し、
撃沈したUボートはついに同数となっていました。

そこにいる人々には誰にも見えていなかったかもしれませんが、
明らかに後から考えれば、分水嶺というべき瞬間だったことがわかります、

この月に撃沈されたU-954には、
デーニッツ提督の息子ペーター・デーニッツも搭乗していました。

つまりデーニッツは自らの作戦で息子をなくす結果になったわけです。
翌年5月に、もう一人の息子、Sボート乗員だったクラウスも失っています。


クラウス・デーニッツ

デーニッツにとってもこの月は文字通りの「黒い5月」となったわけです。


この5月、大西洋で失われた連合軍の船はわずか34隻に止まりました。

5月24日、Uボートの敗北にショックを受けたデーニッツは、
Uボート作戦の一時停止を命じ、大半を作戦行動から撤退させています。

そしてその後、Uボートが優位を取り戻すことはありませんでした。

さて、ここからは、タスクグループ結成までの流れを、もう一度、
この博物館のパネルをもとに順番に説明していくことにします。


■ 米海軍”ハンターキラーを解き放つ”


1943年までに、連合国の対戦情報、電子追跡、攻撃機の進歩により、
流れはドイツ海軍のUボートにとって不利になりつつありました。

米海軍はUボートを1隻ずつ追い詰める時期がきたと判断しました。

しかし、Uボートは依然捉えどころのないものであり、
単一の船でその仕事をすることはできません。

そのため、米海軍は特別な対潜護衛艦を編成し、
ハンターキラー・タスクグループと呼ばれる部隊を作ったのです。


1944年5月、ハンターキラー・タスクグループ22.3が結成されました。
その機動部隊は、USS「ガダルカナル」と名付けられた小型空母護衛艦と
5隻の軽護衛駆逐艦で構成されていました。

22.3のようなタスクグループは、技術をプールして攻撃を続けることで
Uボート戦における形勢をじわじわと逆転させていきました。

いまやかつてのハンターは、「狩られる」側になろうとしていました。


ハンターキラータスクグループ旗艦「ガダルカナル」艦上の壮行式

■ タスクグループ始動



タスクグループ22.3の旗艦
対潜護衛空母USS「ガダルカナル」CVE-60



写真右下のグラフは、士官、下士官兵、パイロットの搭乗員の数を表します。
パイロットの割合の多さが注目すべき点です。

艦載された戦闘機と雷撃機は、連合軍の陸上機の射程外に扇状に展開し、
Uボートを捜索する役割を果たしていました。

当然のことですが、速度と高度により、戦闘機群は、
艦船が単独で行うより遥かに多くの海域を探索できます。

パイロットは日中は肉眼で海上のUボートを探し、
夜間は艦載レーダーによって捜索が行われました。
また、水中のUボートの音を聞くためにソノブイが投下されました。

航空機に発見されると、Uボートは本能的にそれを察知して潜航しますが、
パイロットはその位置をマークするために、水上に発砲を行います。

するとそののち駆けつけてきたタスクグループの駆逐艦は、
マーキングされた付近に爆雷を雨霰と投下するのです。
  
■ 1944年アメリカ海軍
”ダン・ギャラリー大佐”


ハンターキラータスクグループの、23.3の指揮官に選出されたのは
ダニエル・V・ギャラリーJr.大佐でした。

シカゴ出身のギャラリーは、海軍兵学校卒業後パイロットとなり、
飛行教官としても腕を振るいました。
彼の飛行技術は独創的で、インスピレーションに富み、
そして何より勇敢で優れた戦闘機乗りでした。

戦争の前半、彼はスコットランドとアイスランドの水上機基地を指揮し、
北大西洋の船団レーンのパトロールを担当していました。
彼の船団グループは合計6隻のUボートを撃沈しています。

1943年9月、ギャラリーはアメリカに戻り、
USS「ガダルカナル」の艦長に任命され、その後、タスクグループ21.12で
U-544、U-515、U-68、3隻のUボートを撃沈しました。


■ ”我々にUボート捕獲の勝算あり”



機動部隊31.1aでの最後の対潜哨戒中、
ギャラリー大佐はUボートの捕獲が可能かもしれないと考えました。

もし捕獲できれば、Uボートの持つ魚雷誘導システム、通信コード、
Uボートが使用する攻撃戦術に至るまで、
ドイツの秘匿された軍事技術を連合国で共有することが可能となり、
戦況に大いに有益となるばかりか、その後の展開によっては
歴史的にも記念碑的な偉業になるに違いありません。

1944年4月に、ギャラリーはアメリカ本国に戻ると、
タスクグループの全ての艦船に、Uボートの捕獲、その後の接収、
そして牽引の計画を作成するように命じました。

部隊はすぐにそのための訓練を開始しましたが、
これまでになかったことの準備ゆえ、多くの未知数があったのも確かです。

しかし、1944年5月、ギャラリーが指揮するハンターキラー機動隊22.3は
可能であればUボートを捕獲すべしという命を受けて大西洋に出撃しました。


ハンターキラータスクグループ21.12がU-515を捕獲した地点
「沈没」と書いてあるが、結局沈没はアメリカの手で食い止めた


■ 護衛駆逐艦



ハンターキラータスクグループ22.3で
ギャラリー艦長率いるUSS「ガダルカナル」を支援したのは、
以下5隻の護衛駆逐艦でした。

USS「シャトレイン」Chatelain DE-149

USS「フラハティ」Flaherty DE-135

USS「ジェンクス」Jenks DE-665

USS「ピルズベリー」Pillsbury DE-133

USS「ポープ」Pope DE-134

護衛駆逐艦は、通常の重装甲の駆逐艦よりも軽量、小型、高速で
機動性に優れていたため、とらえどころのないUボートを追跡、
そして攻撃するのに最適だったと言えます。

アメリカ海軍の水兵たちが親しみをこめて呼んだところの
「ブリキ缶(ティン・カン)」には、
浮上したUボートの位置を特定するためのレーダーが装備されていました。

加えて、水没したUボートを検出するソナーと水中聴音機で、
命中すると爆発する小さなヘッジホッグ、
そして特定の深度で爆発するよう設定できる強力な爆雷を持っていました。

Uボートの艦長たちは、護衛駆逐艦を避けるために全力を尽くしました。
見つかったが最後、自ら終焉を覚悟するほどの打撃は免れなかったからです。




続く。



U-505 大西洋の脅威となったUボート〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-12 | 軍艦

さて、今日から新しく、シカゴ科学産業博物館の展示である
ドイツ潜水艦のU-505シリーズを始めたいと思います。



去年の夏の渡米で、ピッツバーグへ直行便が取れなかったのを幸い、
シカゴのオヘア空港で降りて車で五大湖沿いの海事博物館巡りをしました。

先日終了した「シルバーサイズ」もその一環でしたが、
元々はミシガン湖沿いにあるというU-505がこのドライブの第一目的でした。

空港近くのホテルで一泊を過ごし次の朝に早速出発です。

オヘア空港からまっすぐ90号線を南下し、
55号線をミシガン湖方面に向かいます。



Museum of Science and Industry(以下MSI=科学産業博物館)
西半球で最大の科学館です。

「1893年の万国博覧会で唯一残った建物の中にあるMSIは、
シカゴの必見スポットです。

14エーカーの体験型展示を体験し、40フィートの竜巻の前に立ち、
第二次世界大戦のドイツの潜水艦に乗り込み、
人間サイズのハムスターの車輪で走り、イリノイの炭鉱に降り立ち、
エコフレンドリー住宅を見学し、天井からぶら下がっている727に乗り、
13フィートの3D心臓に自分の脈を伝え、さらに多くのことを体験できます。

MCIは静かに歩いて見学するところではありません。
そうではありません。
楽しみながら学ぶことができるのです」

巨大なだけでなく、そこにはありとあらゆる科学博物館の
最先端の体験型展示が一堂に集まっているのです。


MSIのトレードマークは、立方体にデザインされたMSIの文字。

先程のチケット売り場からもおわかりのように、
まだこの頃はCOVID-19の規制があり、平常よりは訪問者も少なめでした。



ここには、U-505の実物がドームの中に収められ、
完全な姿でその全てを観覧することができるのです。

1944年6月4日、一隻のドイツの潜水艦が、
西アフリカ沿岸の海域で、アメリカや連合国の艦船を狙って徘徊していた。
大西洋を恐怖に陥れたUボート艦隊の一員であるこの潜水艦は、
U-505として知られていた。

ホームページはこんな言葉から始まります。

そのU-505を、米海軍の機動部隊が何週間にもわたって追跡していた。
優秀なチームと最新技術にもかかわらず、
機動部隊は捕らえどころのない獲物を突き止めることができなかった。

燃料が少なくなり、苛立った司令官が捜索を中止しようとしたその時、
ソナーに何かが映し出されたもの。

それがドイツ海軍のU-505だったのである。

そして、その艦体は米軍に捕獲され、ここにあるわけですが、
その詳細について語る前に、オープニングの展示を見ていきます。

ちょっと寄り道になりますがお付き合いください。



まず、年代別にドイツとの戦争に関連する新聞記事と
象徴的な写真を見ながら進んでいきます。

●1939年

そこには「開戦」というボストン・グローブのヘッドライン、
その下には、

「ポーランド侵攻」


という文字が見えます。

”戦争への序曲”

第一次世界大戦の終結からわずか20年後、
世界では再び緊張が高まっていました。

ドイツでは、独裁者アドルフ・ヒトラーが権力を握り、
第一次世界大戦敗戦後の制裁を無視して、
オーストリアやチェコスロバキアの一部を大胆に占領していました。

一方、イタリアでは、同じくファシストのムッソリーニが権力を握り、
極東では、日本が中国に攻勢をかけていました。

「ドイツ航空艦隊がポーランドに爆弾を投下:
シレジアで大砲が使用される」

”ポーランドへの攻撃”

1939年9月1日、ドイツはポーランドに壊滅的な奇襲攻撃を開始。
シュトゥーカ(急降下爆撃機)部隊が空から、
パンツァー(戦車)部隊が地上からワルシャワなどに侵攻しました。

フランスとイギリスは、ポーランドを守るため、2日後にドイツに宣戦布告。しかし、ドイツの進撃を止めることはできず、
ポーランドは攻撃開始からわずか2週間余りで陥落しました。

「英国 戦争を宣言」


●1940年

「ナチス陸軍デンマークとノルウェイに侵攻」

”粉々になったヨーロッパ”

1940年、ドイツはブリッツクリーク(電撃戦)と呼ばれる
衝撃的かつ新しい戦術を使ってヨーロッパを引き裂きました。

ドイツ軍の行った「電撃戦」とは、大規模な航空戦力と、
高速移動する地上部隊を組み合わせ、壊滅的な効果を持つ奇襲攻撃です。

戦術は功を奏し、真夏までにデンマーク、ノルウェー、
フランス、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダが降伏しました。

”バトル・オブ・ブリテン”

1940年7月、ドイツは英国に「怒りの矛先」を向けました。
最初にドイツのルフトバッフェ(空軍)が英国王立空軍の飛行基地を攻撃。

翌月、ヒットラーは、物資が英国に行き渡らぬよう、
完全なる封鎖作戦を宣言しました。
そしてその後、ロンドンに対する全面爆撃作戦を命じたのです。

1940年9月27日、ドイツ、イタリア、日本が三国同盟を結び、
枢軸国と名を変えた時、ヨーロッパの未来は暗黒と化したのです。

そして、Uボート。

「Uボートが1400名の乗員を乗せた英国船を撃沈!」


「ヒットラーまたしても攻撃す」

「フランスの運命はヒットラーの手中に」

「ナチス、イタリア、日本が新しい戦争協定に参加!」

「ナチス、英国の完全な封鎖を宣言:中立の警告受ける」


「ナチス、ギリシャにブリッツ 市街地に爆撃」


「最寄りの非常口まで歩いてください。決して走ってはいけません」

劇場の中に舞台から煙が立ち込めつつある、つまり戦争が迫っています。
左上の「ウォー・スタンピーダー」という人が、

「急いで!急いで!急いで! 皆早く出て!出て!」

とさけんで「アメリカの安全」と書かれた出口に人を押しやっていますが、
そこには非常口なのに爆弾が見えています。

「スタンピード」とは、「群集心理でドッと逃げ出す」という意味なので、
人々が煽られて逃げ出した先には新たな爆弾がある、つまり
戦争を避けると見せかけて、実はアメリカは戦争に向かわされているのでは?
という当時のジャーナリズムは予想していたわけですね。


「パイロットを引き受ける」

これもアメリカの参戦に向かう姿を皮肉っているのでしょうか。

イギリスの旗をつけた船が沈みそうなので、
指揮官がアメリカの船に移乗し、上から船長が手を差し伸べていますが、
イギリスの見えないところで、船上には煙が上がっています。

「ヒットラー、 バルカン半島を攻撃!
ギリシャとセルビアに侵攻」

「ヒットラーがロシアに宣戦布告」

「三国同盟はアメリカを戦争に近づける
数十億の武器の無駄遣い」

これらのアメリカ国内のジャーナリズムの論調から推察するに、
アメリカ人のほとんどは、アメリカの参戦に不寛容だったことがわかります。

第一次世界大戦で、遠いヨーロッパの戦線に参加して
被害を出したという記憶がまだ生々しく新しいときだったからでしょう。

現に、有名な話ですが、ルーズベルトは、
「皆さんの息子を戦地に送らない」
と選挙で公約して当選したに等しかったのです。

そして、巷間伝わるように、実は戦争を望んでいたルーズベルトが
自縄自縛に陥っていたこの公約を、堂々と破ってもいい
「お題目」「錦の御旗」「大義名分」となったのが、
そう、真珠湾攻撃でした。


●1941年



「戦争!オアフ日本軍機に爆撃さる」

「日本 真珠湾を攻撃 アメリカに宣戦布告
日本の米国に対する返答はホノルル爆撃の12分前に送られた
アンクル・サム(USの擬人化)の舞台は陸海空で戦い、
日本人による基地への侵略を阻止している」

「米国は現在ドイツ・イタリアと戦争中;
日本は全ての地域で戦闘が確認される;
3隻の艦船が沈没、2D戦艦に命中」

「アメリカ 日本に宣戦布告」

「ドイツ、イタリアもアメリカに宣戦布告」



すべては真珠湾をきっかけに、あたかも堰を切ったように始まりました。

それまではあちこちで戦火が上がった状況にもかかわらず、
アメリカは最初の1年半は中立の立場に留まっていました。

しかし、ジャーナリズムが懸念していたように、それは
いつ実戦に移行しても不思議ではない動きを孕んでいたのも事実です。

”レンドリース法とアメリカの中立”

1941年、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトが
レンドリース法(武器貸与法)にサインし、イギリス、ソ連、
中華民国(中国)、フランスやその他の連合国に対して、
基地提供などと引き換えに軍需物資を供給することにしました。

しかし、ヒットラーにとってアメリカの参戦は好ましい事態ではないので、
アメリカ船への攻撃を明確に禁止して暴発を防いでいたのです。

それなのに日本が暴発してアメリカに参戦理由を与えてしまったと。


”真珠湾攻撃に次ぐ開戦”

というわけで、この年の12月7日、日本の航空機と潜水艦が
ハワイの真珠湾にある米海軍基地に壊滅的な奇襲攻撃を行い、
アメリカは翌日、日本に宣戦布告することになります。

そうして、大西洋はもはやアメリカの艦船にとって
安全な場所ではなくなっていくのです。


そして次の展示はその「安全でなくなった大西洋」です。



「大西洋の戦い」として、乗っていた船が沈没し、
波間にただようアメリカ人水夫が現れるのでした。

彼らをこんな目に合わせたのは・・・
そう、Uボートです。

ここからはUボートによる被害が語られます。


というわけで1939年から1942年までの間に、Uボートによって沈没した
アメリカの商船の数が赤い船で表されているコーナーです。

1939年 114隻
1940年 471隻
1941年 432隻
1942年 1,150隻

日本と開戦して以降、ドイツにはアメリカに配慮する必要はなくなったので、
一気に撃沈数が3倍弱にまで増えてしまいまいました。



ヒットラーは英国が切実に欲していた補給船を沈めることで
補給線を断ち飢えさせるという作戦を好み、
これを行うための完璧な武器である、
Unterseeboot(ウンターゼーブート)
通称Uボートを所持していました。

Uボートは海中深くに滑り込み、何の疑いも持っていない商船に忍び寄り、
爆発性の魚雷で彼女らを破壊することができました。

第一次世界大戦においてドイツをほとんど勝利に導く原動力だったものの、
国としては結局勝てなかったその雪辱を、Uボートは
第二次世界大戦序盤で晴らしたと言っても過言ではありません。

”アメリカ艦船がターゲットに”



アメリカに宣戦布告した後、ヒットラーはすぐにUボートに
ターゲットをアメリカの船に変えることを命令しました。

1942年1月、

「パウケンシュラーク作戦」(”ドラムビート作戦”)

を開始したのです。

これは、アメリカ東海岸から100マイル以内まで入り込んだUボートが
民間船に奇襲攻撃をおこなうもので、
最初の二週間で25隻、合計20トンの船が海底に沈みました。

さらに、1942年1月から7月の間に、200万トンを超える連合軍の輸送船が
セントローレンス海路からメキシコ湾に展開された
ドイツのUボートの攻撃を受けて沈没しています。


1942年6月19日、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル将軍
次のように書いています。

1942年の夏の終わりまでに、ドイツのUボート攻撃は、
護衛された船団の数がより多くなり、
連合軍の対潜哨戒隊がより多く動員されると、
それに従って少しずつ衰退し始めた。

しかしながら、それでもUボートは、連合国の商船に
大きな脅威を与え続けていたのである。


イギリスのウィンストン・チャーチル首相は、
アメリカ海域でのUボートの成功が商船の深刻な不足につながり、
アメリカイギリス間の重要な供給ラインを遮断することを恐れていました。

チャーチルはのちに次のように記録しています。

「大西洋の戦いの結果は、戦争中ずっと支配的な要因だった。
陸、海、空の他の場所で起こっているすべてのことが、
最終的にはここでの戦いの結果に左右されるということを、
わたしたちは片時も忘れることができなかった。」


そしてそこで大きな脅威となったのが、Uボートだったのです。



続く。



マクリーディ&ケリー陸軍中尉の北米大陸初横断飛行〜スミソニアン航空博物館

2023-04-10 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の「ミリタリー・エア」のコーナーには、
古色騒然とした単葉機が展示されています。

胴体に

「ARMY SERVICE NON STOP
COAST TO COAST」

と書かれた飛行機は、実はオランダのフォッカー社製です。
フォッカーT-2は、北米大陸を初めて無着陸で横断した飛行機になりました。



フォッカーT-2の下には大陸横断を成し遂げた
二人のパイロットの姿がパネルとなって立っていて、
その前で写真を撮っている少年と老年がいました。

ちなみにこの二人は全く無関係の間柄です。

うっかりパネルの文字を写真に撮ることを忘れたのですが、この二人が

ジョン・マクリーディ大尉 Lt. John MacReady
オークリー・ケリー大尉 Lt.Oakley Kelly


であり、大陸横断を成し遂げたパイロットであることはわかります。


このパネルの中段左から三番目にケリー、
上段右端がマクリーディとなります。

これで下段の海兵隊パイロット、クリスチャン・シルト将軍(最終)
以外は全員紹介しましたが、シルトについては以前取り上げたので、
今回は書くことがなくなったらにします。

■ 北米大陸横断飛行

1923年5月2日。

オークリー・G・ケリー中尉とジョン・A・マクリーディ中尉は
ニューヨーク州ロングアイランドを離陸し、
26時間50分余り後の5月3日、カリフォルニア州サンディエゴの
ロックウェル・フィールドに着陸するという快挙を達成しました。

Lieutenants Oakley G. Kelley and John A. Macready land in San Diego, California (1923)


ガソリンを入れるところから始まって、二人が飛行服を着て乗り込み、
ニューヨークの上空を飛び、航路が示されたビデオです。

T-2の前に立つマクリーディとケリー

ケリーが離陸、マクリーディが着陸を担当し、
飛行中に5回ほど操縦を交代しています。

ケリーとマクリーディが操縦した初の大陸横断無着陸飛行のルート

■ フォッカーT-2



大陸横断飛行の成功は、航空局の準備と技術だけでなく、
機体の設計にも大いに関係がありました。

1922年、オランダのフォッカー社とその主任設計者、
ラインホルト・プラッツの手によって、オランダの現地で
大陸横断用の飛行機が製造されました。

この飛行機は、フォッカー社の商業輸送機シリーズの第4弾で、

「エア・サービス・トランスポート2」(T-2)

と名付けられ、簡単にT-2というのが名称となります。
生産されたT-2、2機は1922年6月にアメリカ陸軍航空局に売却され、
当初はF-IVと呼ばれていました。

それまでのフォッカー機の中で最大の機体であるT-2は、
全長25m近い片持ち式の木製単葉主翼と、15m弱の胴体が特徴です。

アメリカ製の420馬力のリバティV型12気筒エンジンを搭載し、
標準仕様はエンジンの左側にある前方開放型のコックピットに
パイロット一人が乗るようになっており、
機内には8~10人の乗客と手荷物を乗せることができました。

陸軍航空局によって早速初期の受け入れテストが始まり、
T-2は重量を搭載することができ、彼らの目標である、
東海岸から西海岸までの長距離飛行に適応できることがわかりました。

しかし、そのためには改造する必要がありました。

航続距離を伸ばすために搭載燃料タンクを大きくすると、
重量に耐えられるように主翼の中央部分を補強する必要があります。

主翼前縁にある標準的な492リットルの燃料タンクに加え、
主翼中央部に1552リットルのタンク、さらに胴体キャビン部には
700リットルのタンクがこれでもかと搭載されることになりました。

また、機内には、2人のクルーが操縦を交代する際、
機体を安定し易くするための第2コントロール・セットも設置されました。

1924年、陸軍航空局はT-2をスミソニアン博物館に寄贈し、
1962年から1964年にかけて完全修復が行われ、現在の姿は
1973年に改装をおこなった時のものとなります。


【2回の挑戦失敗】

最初の2回の出発地にサンディエゴが選ばれたのは、二つ理由があって、
一つは偏西風を利用するため、そして、西海岸からなら、
カリフォルニア産のオクタン価が高い精製燃料が使えるから
というものでした。


1回目の飛行では、サンディエゴの東80kmの峠に霧が発生し、
ケリーとマクリーディは引き返さざるを得なくなりました。

しかし、この時、彼らは可能な限りの時間上空に止まって、
機体の性能をあれこれと試すことで、次に備えました。

2度目もサンディエゴから出発しましたが、インディアナポリス近郊で、
冷却水タンクのひび割れが原因でエンジンが焼き付いたため、
この挑戦も失敗に終わりました。

この西東横断の準備と2回の失敗の間に、新しいエンジンが数台搭載され、
T-2にさらに多くの小さな改造が繰り返されることになります。

これらのこの作業はすべて、オハイオ州デイトンの
マクックフィールドにある陸軍航空局の施設で行われました。

【三度目の正直】

3度目の挑戦は、東から西への飛行と決まりました。

大陸横断飛行は、5月2日午後2時36分、
T-2がルーズベルト・フィールドを離陸した時に始まりました。

離陸時の機体総重量は4,932kgで、T-2の限界である4,990kgより
わずか68kg少ないだけ、つまり限界まで燃料を積んでいました。

飛行機が高度を上げるまで20分かかったくらいでした。

ケリー中尉が最初に操縦し、インディアナ州リッチモンドまで飛行。
その後ケリー中尉はマクリーディ中尉と交代し、深夜まで飛行。

パイロットは基本的に6時間交代です。
コックピットはオープンで、うるさいリバティエンジンのすぐ後ろ。
上空で二人はおそらく互いの声が聞こえなかったに違いありません。

夜間飛行では激しい嵐や雨に見舞われ、コクピットはほぼ吹き曝し。
アーカンソー川に差し掛かったところで飛行を終了しました。

「横断飛行」の定義としては、乗員が二人いても寝る時間は別で、
一応は着陸してもいいというルールになっていたようですね。
おそらく陸軍の「俺ルール」だったんだと思いますが。

(だからこそ、大西洋をたった一人で無着陸横断飛行したリンドバーグは
世紀の英雄とされたのだと思います。
ちなみにリンドバーグの大西洋無着陸横断はこの5年後でした。)

翌朝6時、ニューメキシコ州サンタローザで再び操縦を交代し、
さらに高度3,110kmで再び交代。

この結果、T-2は現地時間5月3日午後12時26分にサンディエゴに着陸し、
26時間50分38秒5という公式タイムで
(寝ている時間以外)ノンストップの大陸横断飛行を完了しました。

この時のT-2は3,950kmを平均地上速度147kphで飛行しています。



この時の飛行のことをマクリーディは、

「大陸無着陸断では、暗闇の中を13Vk時間飛行し、
非常に悪い天候を経験し、
一睡もせずに飛行した」


と述べています。

「限られた燃料の中で、コースを外れると西海岸にたどり着けなくなる。
鉄道はもちろん、航空路も郵便路も確立されていない。
嵐と暗闇から抜け出したとき、コンパスだけでコースを確認し、
サンディエゴに到着するのに十分な燃料があることを知った。
私たちは、この航法に大きな誇りを感じています」

と。


サンディエゴのロックウェルフィールドに着陸するT-2

T-2がサンディエゴ上空に到着すると、多くの航空機が
マクリーディとケリーという2人の勇敢な飛行士を出迎えるために
空へ飛び立ちました。(危なくないのかと思ったのはわたしだけ?)

5月3日12時26分、T-2がカリフォルニア州コロナドの
ロックウェル・フィールドに着陸すると、大勢の人が詰めかけました。

このフライトは、全米、全世界の注目を集め、
ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ、一面の見出しを飾りました。




■ ジョン・マクリーディ中尉

マクリーディらはこの挑戦のために、何度かテスト的に
条件を加えた飛行を行なって機体を試しています。


1921年9月28日の高高度飛行に先立ち、ルペール複葉機の右翼の前で
ヘルメット、マスク、ゴーグル、パラシュートとフル装備の
高高度飛行服を着て立っているジョン・A・マクリーディ中尉。

当時の飛行機はオープンコクピットですから、
全身をこうやって皮で包み、さらには顔周り、
風を受ける手首周りに毛皮があしらわれています。



ジョン・アーサー・マクリーディ中尉
John Arthur Macready 1887-1979


は、第一次世界大戦後の数年間、陸軍最高のパイロットの一人であり、
マッケイ・トロフィーを3度受賞した唯一のパイロットです。

カリフォルニア州サンディエゴ生まれで、
スタンフォード大学を1912年(25歳で?)卒業しています。

1918年にアメリカ空軍に入隊し、サンディエゴの
ロックウェル・フィールドでパイロットのウィングマークを取得しました。

テキサス州ブルックス飛行場の陸軍飛行学校で教官をしていた時に書いた本は
米軍航空初期の飛行学生の基本マニュアルになりました。

戦後は、オハイオ州マクック飛行場の航空局実験試験センターに配属され、
チーフテストパイロットとして活躍しています。

大陸横断飛行の前年である1922年、マクリーディ中尉は
のちに横断飛行のパートナーになる同僚のオークリー・ケリー中尉とともに、
サンディエゴ上空で35時間18分半という世界飛行耐久記録を樹立。

この耐久飛行をきっかけに、初の空中給油装置の実験が行われました。

そして1923年5月、マクレーディ中尉とケリー中尉は
フォッカーT-2で米国初の無着陸大陸横断飛行を達成するのですが、
マクリーディは、高高度飛行でも、ルペールLUSAC-11複葉機
(オープン・コックピット)で40,800フィートの高度記録を達成しています。

そのほかにも、

初の夜間パラシュートジャンプ
初の飛行士用メガネの発明
世界初のクロップダスター(農薬散布機)実験
初の日食写真撮影
アメリカ初の航空写真測量
初の与圧式コックピット試験


などの実験的飛行を成功させており、
優れた航空功績に与えられるマッケイ・トロフィーを
最初で唯一3度も獲得したなどの偉業を成し遂げました。

これが世界初の農薬散布機だ




試験飛行で使用した高所作業用機器と共に

彼は、オハイオ州デイトンの航空殿堂と、
サンディエゴの国際航空宇宙殿堂にその名前が刻まれています。

■ オークリー・ケリー中尉


マクリーディ中尉があまりにも凄すぎるパイロットだったせいで、
一緒に記録達成をしたにもかかわらず、ほとんどその資料がない
ちょっと気の毒な同僚のケリー中尉です。

オークリー・ジョージ・ケリー中尉
Oakley George Kelly(1891-1966)


彼が凡庸というより、たまたまレジェンドと一緒に記録を立てたので
それで歴史に名前が残されることになったというべきかもしれません。

オークリー・ケリー中尉は、ペンシルベニア州で生まれ、
1916年から1919年まで、カリフォルニア州の
陸軍ロックウェル・フィールドで教官を務めていました。

この時同僚にいたのがマクリーディ中尉です。
そして二人は横断記録を打ち立てるわけですが、その後の彼の人生は、
記録を打ち立てたのと同じ飛行機(フォッカーT-2)を使って、
歴史的山林ルートの保全と保存のための支援を呼びかけをした他は、
観測飛行隊の飛行隊長を務めていたくらいしか記述がありません。

■ のちの評価

時の大統領、ウォーレン・ハーディング

「あなたたちのの記録破りのノンストップ飛行、
海岸から海岸への飛行の成功に心からの祝意を表します。
あなたがたはアメリカ航空界の勝利の新しい章を書きました。」


そしてアーノルド "ハップ "将軍は、

「不可能が可能になった」

フォッカー航空社長でT-2型機の開発者、アンソニー・フォッカーは、

「あなたの偉業に心からの祝福を。
あなたの飛行は、民間航空の発展における画期的な出来事です。
10年後には、あなたが征服し飛行したルートを
多くの旅客と貨物便がたどることでしょう」

そして飛行家マクリーディ自身は、

「栄誉はそれ自体で報われる。
この飛行には多くの栄光が約束されていた。
兵士としての義務を果たし、
多くの人が不可能と考える偉業を成し遂げることに大きな満足がある」

とそれぞれ語っています。

■ マクリーディとケリーの晩年

ケリーは1948年大佐として軍務を退き、
1966年にカリフォルニア州サンディエゴで74歳で死去しました。

マクリーディは第二次世界大戦で現役に戻り、
大佐として陸軍航空隊のグループを指揮したほか、
監察官として北アフリカに派遣されました。

1948年に現役を退いてからは活動の記録はなく、
1968年に全米航空殿堂、そして1976年には国債航空宇宙殿堂入りしました。

1979年、91歳で亡くなっています。


オーヴィル・ライト(中央)と歩くマクリーディ(左)とケリー
今では考えられない歩きタバコに注目

続く。


来日していた米陸軍航空・世界一周飛行隊〜スミソニアン航空博物館

2023-04-08 | 飛行家列伝

2回続けてスミソニアン博物館から、1920年〜30年代の
海軍航空の歩みに関する展示を中心に紹介してきました。

というところで、今日は陸軍航空の挑戦についてです。




「ミリタリー・エア」のコーナーには、ダグラスの航空機の下に
二人の陸軍パイロットのパネルがあり、このように書かれています。

ローウェル・スミス大尉とレスリー・アーノルド大尉と
ダグラス ワールド・クルーザー「シカゴ」

1924年、スミスとアーノルドの操縦する
アメリカ陸軍航空サービスの1機である「シカゴ」号は
世界初の「完全な世界一飛行」を175日で終えました。

スミスとアーノルドってどんな人?

●世界一周するために出発したアーミー・ワールド・クルーザー、
4機のうちの一つの乗組員

●スミスは37時間の耐久飛行記録を打ち立てました

●アーノルドは陸軍の追跡パイロットであり、
バーンストーマー(アクロバット飛行などもするパイロット)でした

●彼らは世界飛行という脅威的な偉業を達成するために、
広大なグローバルネットワークによるサポートに支えられました

ダグラス・ワールド・クルーザー「シカゴ」
The Douglas World Cruiser Chicago

「シカゴ」とその仲間である「ワールドクルーザー」は、
世界一周の挑戦の過酷で変化に富んだ状況に耐えるのに
十分なくらい頑丈で、かつ信頼できるものではなければなりませんでした。

彼らは航続距離を確保するために追加の燃料タンクを採用し、
ホイールとフロート、どちらも選択することができました。


胴体に書かれた地球に二羽の鷲のイラストは、
世界を巡る陸軍パイロット二人を象徴しています(たぶん)


1924年、アメリカ空軍の前身であるアメリカ陸軍航空局所属の飛行士が、
「世界初」=(着水なし)の空中周航を達成しました。

全行程175日間の旅は、航行距離42,398km以上。
その航路は、環太平洋を東から西に回り、
南アジア、ヨーロッパを経て米国に戻るというものでした。

冒頭で紹介されているのは、そのメンバー4人、

ローウェル・H・スミス  Lowell H. Smith

レスリー・P・アーノルド  Leslie P. Arnold

エリック・H・ネルソン Erik H. Nelson

ジョン・ハーディング・ジュニア John Harding Jr.

のうちの上二人です。

彼らは単発オープンコックピットで水上機仕様の
ダグラス・ワールドクルーザー(DWC)2機を挑戦に用いました。

実はこの2機の他にDWC2機、乗員合計4人が同じルートに挑み、
いずれも途中で脱落しましたが、飛行士は全員無事でした。

■ 世界一周への挑戦


1920年代初頭、当時の世界の航空界におけるトレンドは、
「飛行機による世界一周一番乗り」
だったかもしれません。

イギリスは1922年、真っ先に世界一周飛行にチャレンジし、失敗しました。

1923年春、アメリカ陸軍航空局は

「軍用機飛行隊による初の世界一周飛行」

を試みました。

この陸軍のハイレベルな試みは、最終的にパトリック将軍の指揮の下、
海軍、外交団、漁業局、沿岸警備隊の支援も受けることになります。

【使用機の選定】

まずは使用する飛行機の選定です。

陸軍省は、フォッカーT-2輸送機とデイヴィス・ダグラス・クラウドスター
どちらが適しているかを検討し、試験用の実機を入手するよう
航空省に指示しするところから始めました。

陸軍省はこのどちらにもそこそこ満足しましたが、
計画グループは、車輪と着水用のフロートを交換できる専用設計にしたい、
と考え、現役および生産中の他のアメリカ航空局軍用機を、
全て検討するように要請しました。

デイビス・ダグラス社が、デイビス・ダグラス・クラウドスターについて
ふたたび打診された時、創始者のドナルド・ダグラス
1921年と1922年にアメリカ海軍のために製造した
魚雷爆撃機DT-2の改造機のデータを代わりに提出しました。

DT-2は車輪式とポンツーン式の着陸装置を交換可能であり、
さらに頑丈な機体であることが証明されていたからです。

ダグラスは、この既存機をもとにして、
ダグラス・ワールドクルーザー(DWC)に改造し、
契約後45日以内に納入することになりました。

ダグラスはジャック・ノースロップの協力を得て、
DT-2を世界一周挑戦用に改造する作業に取り掛かりました。

主な改造部分は航続距離を確保するための容量を増やした燃料タンクでした。
内部の爆弾搭載構造をすべて取り除き、主翼に燃料タンクを追加。
機体の燃料タンクも拡大された結果、総燃料容量は
435リットルから2,438リットルへととんでもなく増えました。

ダグラス案はワシントンに持ち込まれ、航空局長、
メイソン・M・パトリック少将がこれを承認し、本格的に動き出します。

まず試作機が発注され、試験の結果さらに4機が納入されました。
予備部品には15基のリバティエンジン、14セットのポンツーン、
さらに2機分の機体交換部品が含まれていたました。

これらの予備部品は、航空機が辿る予定となっていた
世界一周ルート上の場所に先に送られました。

航空機は無線機もアビオニクスも一切備えておらず、
乗組員は冒険の間中、完全に推測航法技術に頼ることになりました。

大丈夫なのか。

そこで重要となってくるのが参加する乗員の人選です。

【選ばれたパイロット】



スミソニアンに展示してある飛行機は「シカゴ」ですが、
実は他の3機も、アメリカの都市名が付けられていました。

写真は、この世界一周に挑戦したエリートパイロットたちで、
各飛行機のメンバーは次の通りです。

シアトル(No.1)失敗

フレデリック・L・マーティン少佐(1882-1956) 機長兼飛行指揮官
アルヴァ・L・ハーヴェイ軍曹(1900-1992) 飛行整備士

シカゴ(No.2)


ローエル・H・スミス中尉(1892〜1945)機長、飛行隊長
レスリー・P・アーノルド少尉(1893〜1961)副操縦士

ボストン(No.3)/ボストンII(試作機)
失敗

リー・P・ウェイド少尉(1897~1991)機長
ヘンリー・H・オグデン2等軍曹(1900~1986)整備士

ニューオーリンズ(No.4)

エリック・H・ネルソン中尉(1888-1970)機長
ジョン・ハーディング・ジュニア中尉(1896-1968)副操縦士


写真には7人写っていますが、おそらくこれは、
士官パイロットだけで撮ったもので、真ん中の一人が
この作戦の総指揮を執った偉い人なのだと思われます。

参加パイロットは全軍から集められた腕利きの飛行家ばかりでした。
世界一周飛行を成功させた後、有名になった二人の経歴を記します。

【ローウェル・スミス中尉】




スミスは、大学在学中に、モハーヴェ砂漠のポンプ工場で働き、
その後自動車修理工場で整備士、 ネバダの鉱山で飛行機の操縦を習った、
という変わった経歴の持ち主です。

メキシコのパンチョ・ビラの革命軍に参加して、
飛行担当として偵察操縦をしていたこともあります。

第一次世界大戦をきっかけに陸軍航空隊に入隊したスミスは、
出征はしませんでしたが、飛行教官、技術官を務めた後、
太平洋岸で火災哨戒を行う飛行隊の指揮官を務めていました。

操縦の腕を買われ、彼は1919年、陸軍代表として、大陸横断速度、
耐久性コンテストに参加することになります。

ところが、コンテスト直前に整備士の灯火が翼に引火し、機体は焼失
スミスは現地を訪れていたあの『陸軍航空の父』の一人、
カール・スパッツ少佐の乗っていた飛行機を直々に譲り受け、
コンテストで史上初めてサンフランシスコからシカゴまで飛行を成功させ、
さらに往復によって記録を作ることになります。

その後、1923年、スミスはポール・リヒター中尉とともに、
デ・ハビランド・エアコDH.4Bのペアで史上初の空中給油を成功させます。

この飛行でスミスは飛行距離、速度、飛行時間の16の世界記録を更新し、
37時間15分の滞空記録と次々に挑戦を成功させてきました。

その時すでにスミスの飛行時間は2000時間以上。
世界一周飛行に挑戦するのに選ばれて当然のキャリアと実力でした。

ただし、中尉だった彼は最初から隊長に選ばれていたわけではなく、
当初予定されていたフレデリック・マーチン少佐の飛行機が
アラスカで墜落してしまったため、急遽指揮官を任されたのです。

【レスリー・アーノルド少尉】


イケメソ

「シカゴ」の副操縦士を務めたレスリー・P・アーノルド少尉は、
追跡パイロットとして訓練を受けた飛行士です。

第一次世界大戦の戦闘には間に合わず、軍のバーンストーマーとして
アメリカの田舎を旅し、人々に感銘を与えたパイロットの一人となりました。

アーノルドは、ウィリアム・"ビリー"・ミッチェル准将が率いる
陸軍の特別臨時航空旅団の一員となり、ここでもお話ししたことのある、
1921年のミッチェルの戦艦爆破実験に参加しています。

もともと世界一周飛行の企画段階では予備パイロットでしたが、
出発のわずか4日前にアーサー・ターナー軍曹が病気になったため、
「シカゴ」でスミスに合流しました。

追跡パイロット出身、さらに陸軍のバーンストーマーと、
こちらもその操縦技術と経験は十分だったといえるでしょう。

■ 世界一周

パイロットたちはバージニア州のラングレー飛行場で
気象学と航法の訓練を受け、試作機での練習、ついで
ダグラス社とサンディエゴで量産機での練習も行っています。


アメリカ・ワシントン州シアトル

「シアトル」「シカゴ」「ボストン」「ニューオーリンズ」の4機は、
1924年3月17日にカリフォルニア州サンタモニカを出発、
ワシントン州シアトルを発ってこの日が正式の出発日となりました。

各機はシアトル出発前に、それぞれの名前の由来となった都市から
わざわざ持ってきた水をボトルに入れて機体で割る儀式を経て
正式に命名され、車輪はポンツーンフロートに交換されました。

1924年4月6日、彼らはアラスカに向け出発しますが、
9日後に早速トラブルが見舞います。


カナダ・プリンスルバート

4月15日にプリンスルパート島を出発した直後、先頭機「シアトル」は
クランクケースに穴が空いて着水せざるを得なくなったため、
エンジンを交換して3機を追いかけますが、

アラスカ準州・シトカ、スワード、チグニク・ポートモラー
で濃霧の中、アラスカ半島の山腹に墜落して「シアトル」は損壊します。

しかし乗員二人は山腹を歩いて6日間を過酷な環境の中で生き延び、
缶詰工場にたどり着いて助かりました。



1番機が脱落したので、スミスとアーノルドの「シカゴ」が
1番機を務めながら北太平洋を横断しました。


ソ連・ニコルスコエ
ソ連とは国交がなかったので上空の航行は認められていませんでしたが、
「シカゴ」はなんとなくソ連領土にも着陸してしまっています。

この頃はのんびりしていたのね。

日本
そして5月25日、この時チームは東京にたどり着いています。


霞ヶ浦到着 旗を振る人々



一行は日本では千島列島はじめ6カ所に着陸しました。
6月2日には鹿児島に到着したとあります。

説明によると、陸軍航空隊の皆様は、特に日本の滞在には興奮したとのこと。


「日本で皇室の歓迎を受ける」

と見出しに書かれていますね。
日本は官民あげての大歓迎をしたようで、特に帝國陸海軍は
総出で彼らのアシストをおこなったと新聞記事にも書かれています。

「バンザイ!」

霞ヶ浦に到着した時には海軍士官が特に出迎え、
海軍施設で心温まる歓迎をしてくれたとか、
集まった人々は皆手に日米の国旗を打ち振っていたとか、
子供たちが400人も集まって歓迎してくれたとか、
到着した時人々の間から「バンザイ!」という声が上がったとか、
日本の航空機が歓迎のための航空デモをしてくれたとか、
最終日には上野公園で「帝国航空協会」?から花束をもらったとか、
陸軍高官に茶を振る舞われ、政府主催の公式晩餐会があったとか、
「ガールズ」が花束贈呈をしたとか(それがどうした)
乾燥した栗とsake、日本の酒が出され、これが美味かったとか。



海軍の施設でメインテナンスされている「シカゴ」を見る二人。
メダルは串本町?町長から贈呈されたものです。

ただし、

スミソニアンの説明は、

「日本は航空機の到着そのものには大歓迎をしていたが、
操縦者が軍人であることから軍の関与を疑っており、
軍事機密を保護するため、国内の移動には曲がりくねった航路を指示した」

と、まあ近代国家なら普通にするであろうことを
なんとなく意味ありげに書いています。

その後航空機は比較的順調に朝鮮半島(これも日本)を経由し、


中華民国 上海


中国沿岸を下って・・・・、


フランス領インドシナ(現ベトナム)
へと。

【『シカゴ』のトラブル】

トンキン湾を出発した後、「シカゴ」のエンジンの一部が破損し、
フエ近くのラグーンに着陸したところ、飛行機を珍しがった現地の人が
わらわらと飛行機に近づいてきて乗ろうとするので困ったそうです。

他の三機の救助ボートが、「シカゴ」の翼の上に座っている二人を見つけ
3台のパドル式サンパンで10時間、かけてフエまで牽引し、
そこでサイゴンから緊急輸送されたスペアエンジンと交換さました。

怪我の功名とでもいうのか、この時交換したエンジンは性能が良く、
もしかしたら「シカゴ」が成功したのはこのおかげだったかもしれません。

しかしながら、「シカゴ」のトラブルはまだ続きました。


タイ・バンコク


イギリス領インド・カルカッタ、カラチなど

6月29日の夜、カルカッタで足回りの整備を済ませた日、
夕食を食べ終わったスミスが暗闇で滑って肋骨を折ってしまいました。
しかしそれでも彼は作戦を遅らせることなく続行することを主張。

「ニューオリンズ」壊滅的なエンジン故障に見舞われ、
足を引きずるようにカラチにたどり着き、全機がエンジン交換を行いました。

その後、中東、そしてヨーロッパへと向かいました。

シリア・アレッポ

トルコ・コンスタンチノープル

ルーマニア王国・ブカレスト

ハンガリー王国・ブダペスト

オーストリア・ウィーン

フランス・パリ・ストラスブール
7月14日のバスティーユ・デイにパリに到着。


イギリス・ロンドン、ブラフ、スカパ・フロー
ロンドン、イギリス北部へと飛行し、
ポンツーンの再設置やエンジンの交換など、
大西洋横断の準備を行います。

【『ボストン』号脱落】


アイスランド・レイキャビク

1924年8月3日、アイスランドに向かう途中、「ボストン」は
オイルポンプの故障により、で無人の海に墜落しました。

「シカゴ」はフェロー諸島まで飛行し、支援のため待機していた
アメリカ海軍軽巡洋艦USS「リッチモンド」にメモを投函し、
乗員は無事救助されたのですが、曳航されていた「ボストン」は
フェロー諸島到着直前に転覆して海の藻屑と消えてしまいました。

残った「シカゴ」と「ニューオリンズ」は
アイスランドのレイキャビクに長期滞在し、そこで偶然にも
同じ周航を試みていたイタリアのアントニオ・ロカテッリ
その乗組員に出会っています。

その時世界一周に航空機で挑戦していたのは、
何カ国もありました。(ブームだったんですね)


グリーンランド・タラーシクなど
「シカゴ」と「ニューオーリンズ」は、今や
5隻の海軍艦艇とその船員2500人を伴って、
グリーンランドのフレドリクスダルに向け前進を続けていました。

これは、その5隻の船がルート上に連なる、
全旅程の中で最も長い行程となりました。
グリーンランドで2機はまたエンジンを取り替えています。


カナダ・ラブラドール
に到着。

最初に脱落していた「ボストン」の乗員二人ですが、
彼らはなんと、「ボストンII」というオリジナルの試作機に乗り換えて
ここからちゃっかりまた合流しています。


アメリカ・メイン州カスコ湾、マサチューセッツボストン
ニューヨークミッチェル空港、ワシントンD.C.など


首都での英雄的歓迎の後、3機のダグラス・ワールド・クルーザーは
西海岸へ飛び、複数の都市を巡り歓迎されました。

全行程363時間7分、175日以上、42,398 km。

同時期に挑戦したイギリス、ポルトガル、フランス、イタリア、
アルゼンチンは全チーム失敗しましたが、彼らだけが成功させています。

それもそのはず、全チームでアメリカだけが、

●複数の航空機を使用した

●燃料や予備部品などの支援機器を
ルート上に大量に事前配置していた

●海軍の駆逐艦数隻を応援に配備していた

●事前に手配された中継地点で
5回のエンジン交換、2回の翼の交換をした

のですから。
まーこれはチートってやつですよね。他の国から見たら。

その後ダグラス・エアクラフト社は、

「ファースト・アラウンド・ザ・ワールド
 - First the World Around」

というモットーを採用するようになりました。
めでたしめでたし。

続く。





アメリカ海軍の航空パイオニア〜スミソニアン航空博物館

2023-04-06 | 飛行家列伝

前回は、実は史上初の大西洋横断を成し遂げていたのが
アメリカ海軍だったという衝撃の史実についてお話ししました。

行く先々に海軍艦艇を首飾り状に配置したり、もしもに備えて
3機のチームで臨んだり、さらには途中の島で修理やら何やらで23日費やし、
というのが「横断」というにはチートすぎて記録として残されていない、
ということも、ついでにご理解いただけたかと思います。

今日は、その頃の海軍航空のパイオニアを何名かご紹介しますが、
まずその前に、前回ご紹介するのを忘れていたスミソニアンの展示、
海軍大西洋横断チームの私物を挙げておきます。

■海軍大西洋横断チームの私物


●メダル・オブ・コングレス



ウッドロウ・ウィルソン大統領が議会を代表して、
大西洋横断初飛行のNC-4の乗組員と計画者に贈ったメダルです。

●コース&ポジションプロッター



直径7.3/8インチ、1/4インチセルロイド製グラフ、2本の目盛付きアーム。

「このコース&方位インディケーターは、最初に大西洋横断の際
通信オペレーターのロッド少尉がNC-4で使ったものである」

とこの裏には鉛筆の手書きで書き込まれています。


「TEC.」「Made in Germany」と書かれたステンレス製のプロッター。
1919年5月、A.C.リード中佐がNC-4の大西洋横断飛行で使用したもの。

司令官だったリード中佐から、NC-4の整備士であった
チャールズ・J・ボイドに作戦終了後プレゼントされたそうです。

●スイス製8日時計



「8日時計」とは日本の「8日巻き時計」のことだと思われます。

大西洋横断を水上機で行うというこのチャレンジにおいて、
正確な時間を知るための時計はナビゲーションのためにも必須でした。

やはりスイス製の時計はブランドとして信頼されていたんですね。

●『ウォブル』Wobble



「ウォブル」が何かはわかりませんでしたが、(ぐらつきとか揺らぎの意味)
わかっていることは、これは船のポンプとハンドルであり、
横断に失敗したNC-3が搭載していたものだということです。

NC-3のクルーは機関が不調になったとき、水分を排出するために
このポンプを使用しました。

●航空用眼鏡



グラス部分の劣化が凄まじいですが、本当にガラスなんでしょうか。
NC-4の司令官、アルフレッド・リード中佐が着用していたゴーグルです。

アルミフレーム、綿のアイカップ、フリースパッド、ガラスレンズ、
変色したキシロナイト飛散防止コーティング、ゴム紐も破損。

● 海上用フレア


八角形、蝋のようなもので満たされ、端に重りが付いています。
灰色で、上部に溝があるこの物体は、
海上に不時着を余儀なくされたNC-3の乗員が、
救助者に自分の位置を知らせるために焚いたものです。

●ケネス・ホワイティング提督の士官用儀礼刀


このコーナーには、NC-4とは関係ない海軍グッズも展示してあります。
この士官用儀礼刀は、ケネス・ホワイティングが所有していたもので、
真鍮製ハンドガード、キヨン(鍔の片側)にドルフィンが描かれ、
革製ハンドル、真鍮製ポメル(柄頭)には
星に囲まれた鷲のレリーフが施されています。

ケネス・ホワイティング中佐は海軍兵学校卒業時にこの剣を受け取り、
1922年3月の空母ラングレー(CV-1)の就役式で使用しました。



ホワイティングは1914年にオーヴィル・ライトに操縦を習い、
第一次世界大戦では初の海軍航空隊を率いました。

米海軍の初代空母「ラングレー」の建造にも携わったほか、
甲板からのカタパルト発進を初めて成功させたパイロットでもあります。

その後、空母「サラトガ」を指揮し、1940年に退役するまで
海軍航空部門の指揮官や指導的立場にありました。


再掲ですが

当ブログでも何度か「空母の父」としてご紹介してきましたが、
ゲイリー・クーパーが演じた映画「機動部隊」の主人公は
この人をモデルにしています。(確かにちょっとクーパーに似てますよね)

● 航空ヘルメット


頭のてっぺんの二重丸は何の意味が?
という不思議なデザインの航空ヘルメット。
こんなものをつけたところで事故にはあまり効果はなさそうですが。

茶色の革製飛行用ヘルメット、フットボールスタイル、耳あて付き、
裏地は茶色のフリース、上部に白い雄牛の目(bull eye)が描かれています。

このヘルメットは、やはり「ラングレー」のパイロットだった
アルフレッド.M.プライド提督が着用していたものです。

なんかこんな人自衛隊にいそう

アルフレッド・プライドについては、以前も当ブログで取り上げました。
海軍兵学校を出ずに提督になった人でもあります。

この人ですね

■ 「空母の父」ジョセフ”ブル”リーブス提督



「軍人飛行家」ばかり(コールマン以外)集めたこのパネルのうち、
海軍軍人は中段のリーブスとその右側のロジャースだけです。

ジョセフ・メイソン『ブル』リーブス提督
Joseph Mason ”Bull” Reeves(1872−1948)


もまた、初期の航空母艦の発展に寄与した海軍軍人の一人です。
前にも書いたことがありますが、彼の実体験から得た教訓は、
1930年代を通して海軍のドクトリンに大いに影響を与えました。

彼が艦長を務めたこともある海軍初の電気推進船であるコリアー船、
USS「ジュピター」(AC-3)が、1922年に
航空母艦USS「ラングレー」(CV-1)として再就役したことから
彼のキャリアは大きく変わることになります。

「ラングレー」はご存知のようにアメリカ海軍はつの航空母艦ですが、
既存の甲板の上に二階建てのように設置されており、
海軍軍人たちはこれを「幌馬車」と呼んでいました。

第一次世界大戦が済んでから海軍航空隊で教育を受け、大尉の時に
戦艦航空隊司令に就任し、「ラングレー」を旗艦として乗り組んだ彼は、
司令部在任中、空母航空戦術の発展に努め、
出撃率の向上と急降下爆撃の利用を模索し続けました。

彼はこれらのコンセプトを、海軍の年次艦隊演習(通称「艦隊問題」)
でのパイロットと航空機乗組員の成功によって証明することになります。

ちなみに「空母の父」多すぎかよ、と思われるかもしれませんが、
空母発展期に司令官だったのがこの人だったので、
この人が「空母の父の父」みたいな位置づけとされているようです。

雄牛というより山羊系男子だよね

あだ名の「ブル」に違和感を感じた人はわたしだけではないと思いますが、
こう見えて兵学校時代からフットボールで鳴らしており、
コーチとしてもアーミーネイビーゲームで6勝している凄腕なので、
それで付いたあだ名だったんじゃないかと思います。想像ですが。

■ ハワイ「無着陸」到達飛行?
ジョン・ロジャース中佐


リーブス提督の右側の写真の海軍軍人は、

ジョン・ロジャース中佐
 Commander John Rodgers (1881 – 1926) 

時代が遡りますが、最後にご紹介しておきます。
有名なジョン・ロジャース提督と黒船来航のマシュー・ペリー提督の曾孫で、
つまり「海軍一家の海軍軍人」ですが、ならばなぜ航空に?

それは中尉であった1911年、発足したばかりのアメリカ海軍航空計画で
たまたま人力凧を使った実験に参加させられたのがきっかけでした。

上官の命令でUSS「ペンシルバニア」(ACR-4)の甲板から
凧で400フィートの高さまで釣り上げられ、ケーブルに吊られた状態で
航行する船に引っ張られ、15分間、観測と写真撮影を行うという実験です。

「仮面の忍者赤影」状態と考えればいいのか。


参考画像

そしてなし崩し的にその後ライト兄弟から航空訓練を受け、
(ちなみにライト兄弟が訓練をした最初の人物となる)
海軍飛行士第2号となりました。

この頃彼は、ライト兄弟飛行場にあったライトフライヤー号を無断で借りて
こっそり飛んでいたところ、着陸の際に翼を壊してしまい、
ライト兄弟にめちゃくちゃ怒られたという逸話が残されています。

しかしその後、海軍が受け入れたライトフライヤーを、
アナポリスからワシントンD.C.のホワイトハウスまで飛ばし、
海軍としては最も長時間飛行をおこなったパイロットの称号を得ました。

ロジャースはこの成功に気を良くして、飛行機で両親を訪ねることを思い付き
連絡せずにいきなり自宅近くの野原に着陸して、

「アメリカで初めて飛行機で両親を訪ねた男」🎉

というタイトルも手に入れました。

でっていう。

第一次世界大戦が始まると、飛行機で遊んでいるわけにもいかないので、
潜水艦部隊の指揮官となり、コネチカットの潜水基地から出撃し、
北海での掃海作戦で功績を挙げて勲章を授与されました。

【ハワイへの初の無着陸飛行挑戦】

「ラングレー」で戦闘艦隊の航空機飛行隊を指揮していた1925年、
彼はカリフォルニアからハワイへの無着陸飛行の挑戦を指揮しました。

当時の技術を考えると、これは航空機の航続距離と航空航法の精度、
両方の限界を試すものでした。

海軍は同じ理由で大西洋横断飛行の挑戦もしていますが、
この遠征でもその時と同じ3機の航空機が参加することになっていました。

結局1基が間に合わず、2機での挑戦となり、
ロジャースは飛行艇PN-9 1号機を指揮することになりました。

そしてまたしても海軍は、(NC-4大西洋無着陸飛行編参照)
カリフォルニアとハワイの間に200マイル間隔で10隻の護衛艦を配置し、
給油や回収などを行う過保護体制でこれを支援しました。


2機のPN-9はサンフランシスコ近郊からを出港しましたが、
2号機は早々にエンジントラブルとなり、脱落。

ロジャースの1号機は機嫌よく飛行していましたが、予想以上の燃料消費、
予想以上の追い風のため、洋上給油が必要となります。

しかし、航法技術の限界と船員の誤った航法情報により、
給油船と会うことができず、飛行船は海で浮いているしかなくなります。

空中にいる間は機体の位置が分からず、
水上に浮いているときは機体の無線が送信できない。

こんな状態なので、海軍が総力を上げて数日間大規模な捜索を行うも、
ロジャース機は発見されず時間だけが過ぎていきました。
海は広いな大きいな。月が上るし日が沈む。

そしてロジャース一行は夜が明けると生還のために行動開始。
翼の布を使って帆を作り、数百マイル離れたハワイに向けて漕ぎ出しました。

うーんさすが船乗り。って感心してる場合じゃないか。

さらに彼らは、金属製の床材を使ってリーボード
(揚力翼、船が風下に向かないようにする装備)を作り、
航行中の飛行艇の操縦能力を向上させたりしています。

いや、冗談抜きでさすがは船乗りである。

そして9日後。

カウアイ島まで後15マイルというところで、ロジャースの1号飛行艇は
潜水艦 USS R-4に発見され、曳航されて島まで無事辿り着きました。


潜水艦に発見されるまでに、ロジャースと彼の乗組員は、
9日もの間、食料もなく、限られた水で生き延びていました。


でも、あれ・・皆なんかツヤツヤしてないか?

ロジャースは、9日間の漂流生活を経ても乗員の健康には問題がなく、
しかも『完全に自分たちの面倒を見ることができた』と言っていますが、
飛行艇が海軍組織で、命令系統が日頃の訓練から非常に潤滑だったこと、
おそらく指揮官の采配が良かったのと、全員が若い軍人で鍛えており、
また海軍だったので海に強く、体力があったことが功を奏したのでしょう。

これがもし民間あるいは陸軍の飛行機だったら、
おそらく飛行艇の操舵を改造するなどということも不可能だったし、
生きて帰ることはできなかったかもしれません。

帰還後、ロジャースと彼の乗組員はちょっとした英雄となりました。


全米が泣いたため映画化決定・・・映画「ハワイ・コールズ」

そして、ここからはちょっと、と思うのですが、
彼らのこの度の飛行は、空路でハワイに到着しなかったにもかかわらず、

「3206km水上飛行機の無着陸飛行距離新記録」

として正式にカウントされることになりました。

いやいやいや、それはない。
これ、飛行・・・してませんよね?
確かに着「陸」はしてない=無着陸だけど。


その後ロジャース中佐は、航空局の次長として勤務していましたが、
1926年、任務中の飛行機がデラウェア川に墜落して死亡しました。

享年45でした。

飛行機が不調に見舞われたとき、彼はもしかしたら一か八か、
かつて水上機でやった方法で、川への着水を試みたのかもしれません。

そして、やっぱりうまくいかなかったと・・・(-人-)



続く。


映画「陸軍の美人トリオ」Keep Your Powder Dry(常に備えあり)下

2023-04-04 | 映画

1945年、日米戦争の最中に製作されたいわゆるプロパガンダ映画です。

日米彼我の国策映画を続けてご紹介していると、
国民を戦争遂行のため士気鼓舞させる、あるいは思想統制する、
軍への協力を求めるなどという目的が同じでも、文化慣習の違いは
その表現をあまりに違ったものにしているのに気づきます、

今のところ最も大きな違いは、なんといっても女性の描き方でしょう、

それをいうなら現在に至るまで日本とその他の国で
カルチャーギャップがない映画というのはひとつもないわけですが、
社会における女性の地位や扱いというのが違えば、
当然ながら映画で表現されるその理想型も変わってくるわけです。

軍のために働く女性の国策映画といえば、日本だと有名なのは
飛行機整備する女学生を描いた「乙女のゐる基地」ですね。

つまり全くなかったわけではないのですが、現実問題として
日本では女性の軍参加がありえなかったので、本作のように
異なったタイプの三人の美人が陸軍に入隊し、というような
映画的に「美味しい」シチュエーションは生まれようもありませんでした。



ラッパと号砲が鳴り、WAC駐屯地の長かった一週間が終了しました。
戦時中といえども、週末にはちゃんと休みがもらえます。



一人でホテルに部屋をとり、夜更かしして昼まで寝るの、とリー。
アンはいつも通り、愛する夫に手紙を書いて過ごすつもりです。



ヴァレリー・パークスも偶然リーの予約したホテルにいました。
彼女が財産相続の件を任せている弁護士から面会の連絡が入ったのです。

彼女がフロントにいると、ニューヨークのかつての遊び仲間、
ヴァン・デ・ヒューゼン・ジュニア(いかにもな名前)が現れました。



実は彼がそこにいたのは偶然でも何でもなく、
彼女の受け取る財産のおこぼれに預ろうとする親戚のハリエットが、
仲間(ジュニアとマルコとかいう太ったおっさん)を集めて
弁護士の名前を騙って電報を打ち、彼女を呼び出していたのでした。

ハリエットには何か目的があるようです。


とりあえず彼らはスィートルームで大騒ぎを始めました。
シャンパンとダンス音楽のパーリーナイの始まりです。

しかし、ヴァレリーはそんな騒ぎが楽しいどころか、
彼らの馬鹿馬鹿しい軽薄さがどうにも我慢できなくなっていました。
少し前まで自分もそんな彼らと同類だったはずなのに。

そんな彼女を、パリピたちはノリ悪くなったよねー、と揶揄います。
ジュニアが彼女のギャリソンキャップをかぶってふざけ、
軍隊を馬鹿にしたのに彼女が盛大にキレかけたときでした。



うるさいから静かにしろと直接苦情を言いに来た向かいの部屋の客は、
なんと、リー・ランド候補生ではありませんか。



こんな連中と一緒にいる自分を、よりによってリーに見られてしまった。
動揺するヴァレリーに、リーは心底蔑むような眼差しを投げるのでした。



さて、このハリエットという女、ヴァレリーの財産をあてにして
ちゃっかりフロリダのパームビーチに別荘の購入を決めてしまい、
名義人ヴァレリーのサインをもらうために彼女を呼び出したのでした。

「早くサインしないと他所に売れてしまうわ。
契約書にすぐにサインして頂戴」



彼女の持って来た契約書に全く目を通さずサッとサインだけして、
ヴァレリーは怒りに満ちた目で言い放ちました。

「勝手に住めばいいわ。わたしは行かない。軍に残る」

そして、気でも違ったのかという三人に向かって、

「わたしも数ヶ月前まではそっち側だったからこそ気分が悪いの。
あなた(ハリエット)は職を探せと言ったら真っ青になってたし。
あんた(ジュニア)は26歳の若さで酒浸り。
あなた(マルコ)は見栄ばかりね」


逆ギレしたマルコ(セリフはほとんどこれだけ)は

「悪いか?」

と開き直りますが、彼女はめげずに、

「あんたたち、今世界がどうなっているか、新聞とか見たことないの?」

そう、よく考えれば(よく考えなくても)今戦争中なんですよ。
この映画を作っているその時もね。

アメリカは広いし、本土に攻撃があったわけでもないから、
もしかしたらちょっとはこういう人たちもいたのかもしれませんが。

吐き捨てるようにこんな国民ばかりでなくてよかった、という彼女。
今度は酒浸りと言われたジュニアがキレました。



彼女をソファに突き飛ばし、帽子をむしり取って窓の外にポイっと投棄。

「何するのよ!」

彼女はすぐに階下に降りて帽子を探しますが、見つかりません。



しかもこのときの大立ち回りで彼女の制服にお酒がかかり、
肩は破けてみるも無惨な様子になってしまいました。
まさかこのままの格好で帰隊するわけにはいきません。

困り果てた彼女は、背に腹は変えられないとリーの部屋をノックします。
彼女は、自分の代わりにに帰隊して、
自分のベッドで寝てチェックを受けてほしいと懇願しました。

「WACでいることは今のわたしにとって何より大事なことなの。
自分に非がないのに辞めたくない」



最初は相手にしなかったリーですが、この言葉に心を動かされます。

もしかしたらあなたを誤解していたかもしれないわ、と言い残し、
ホテルを後にして隊に戻りパークスのベッドに潜り込みました。

深夜、WACでは見回りがやってきて、ベッドにちゃんと人がいるか、
(もちろん外泊許可のあるものは除外)チェックするのです。

毛布で顔を隠して無事に夜のチェックをパスした彼女は、
次の朝ホテルに戻ることにしました。



リーがホテルのエレベーターに乗ると、後から乗ってきた見覚えのある男。
彼女を待ち構えていたジュニアでした。

無駄に金持ちでプライドだけは高いジュニアは、ヴァレリーに引っ叩かれ、
酒浸り(Pickled in Alcohol)と罵られたことがどうしても許せません。

そこで彼はヴァレリーが財産欲しさにWACになったこと、
お金を手に入れたらやめるつもりの「偽軍人」だと吹き込んで、
彼女の軍での立場を滅茶苦茶にしてやろうと考えたのでした。



ジュニアから財産相続と入隊の関係を聞かされたリーは、
やっぱりあの女とんでもないやつだったわと鼻息も荒く、
自分の帰りを待っていたヴァレリーを激しく詰りました。

「何が”WACのプライド”よ!
使命感のない見下げ果てた俗物(スノッブ)よあなたは!
お金のために愛国心を騙るなんて!」


ところが、ヴァレリーは言葉少なに、ほとんど反論もしません。

「(教官に)言いつけるの?」

リーは追い詰めたネズミをいたぶる猫のように落ち着いて、
むしろ楽しむようにこんなことを言いました。

「あなたは軍隊を知らないわね。これは名誉の問題よ。
わたしは注進なんてしない。
けど名誉に賭けてあなたの卒業は許せない。さあ、どうする?」

いいつけるのではなく、全力で阻止すると。
実力行使でやめさせてやるっていうことでよろしいか。
どうする?といわれてヴァレリーは、

「こうよ!」

言うなりリーを平手打ちしちまいます。(冒頭左上コマ)
しかし、リーは仕返しするでもなく、

「あなたのその性格はそのうちトラブルになりそうね」

とだけ言ってそのまま部屋から出て行ってしまいます。

彼女がここで何も反応しないワケはお分かりでしょうか。
おそらく、ここがホテルの一室で公務中ではないからです。
もし、任務中、軍隊の皆の前で同じことを彼女がしてしまったら。

そのときこそリー・ランドの計画通りパークスは退校処分となります。


さて、次の日、パークスは兵舎の床掃除をしていました。
ランド候補生が中隊長役となってから、彼女は他の誰より
明らかに多くの雑用を言いつけられていたのです。

そのことは他の候補生も薄々気がついていました。



そこに中隊長役のランドがやってきて、パークスを見るなり
さっそく小姑のようなイチャモンをつけ出すのでした。

しかし、女同士の対立ってどうしてすぐこうなってしまうん?

ベッドのシーツの幅を測り、塗ったばかりのワックスを
すぐさま落とすように冷酷に命令します。

「役」といえども中隊長、軍隊で上官の命令は絶対なので、
パークスの返事は「イエス、マム」一択。

しかし万が一、反抗したり命令を受けなかったりしたら、
それを理由にランドはパークスを退学に追い込むでしょう。
ランドの中隊長役が終わるまでじっと我慢するしかありません。



彼女が床を拭いていると、電報が届きました。

アン・ダリソンに読んでもらったところ、ロックリッジ信託銀行から
彼女の口座に639,000ドル振り込まれるという報せでした。

「わたしは今アメリカで一番お金持ちの床磨きになったわ」

現代のお金に換算すると8,765,000ドル超、
日本円なら1,162,668,900円、さくっと11億円強となります。
確かにアメリカで一番お金持ちの床磨きに違いない。

ちなみにここの部分ですが、「床磨き」ではなくワックス拭き取り、

Yep. I am probably the wealthiest floor unwaxer in America.

と言っております。



この頃の軍隊ラッパの拡声器(笑)



今日でようやくランドの中隊長役は終わりです。

つまり今日を乗り切れば、おそらくパークスは生き残れるのですが、
最後の集合前、彼女は不運にも自動車の泥跳ねを受けてしまい、
汚れた制服を着替えていたため整列に遅れました。

ランドはその後も執拗に小隊長役の彼女に号令をかけさせ、
声が小さいと他の者に代わらせたり、



敬礼がなってないとして、何度も何度もやり直しさせます。
8回目、パークスがついにキレてランドを引っ叩くまで。(冒頭画像上右)



はっ!と息を呑む上官たち。



呆然とするパークス。

十分過ぎる退学の理由ができてしまいました。
ランドは誰にも気づかれないよう、唇の端を少し上げました。
笑っているのです。



その日、彼女の処分を決める公聴会が行われました。
実に民主的というか、非があるとされる本人に弁明の余地を与えるのです。

「規律を守らず中隊長の注意に対し相手を殴り、
そのまま現場を立ち去った」


これがランドが上官に上げた報告にですが、
パークスはそれに対して釈明しないと断言しました。

「釈明しなければ報告通りに判断しますよ?」

そういわれても、パークスは静かにそれでいい、と言い切りました。



パークスが退室した後、入れ替わりにランドが呼ばれました。
目的を達成して意気揚々というか得意げな様子です。



あなたの報告の正確さはわかっている、
あのような判断をするのは辛かったでしょう、と口で言いながら、
司令官はランドに、ふとついでにといった調子で、
パークスを個人的にどう思っているか、と聞きます。

「彼女は士官にはふさわしくありません」

何の躊躇いもなく彼女を退学に誘導するランド。

そんな彼女の様子を、もの思わしげに見つめながら、
司令官は独特の含みを持って次のことを告げます。

「もしかしたらあなたは驚くかもしれないけど、
同期の半数は、実はあなたに対して同じことを考えているようです。
あなたの軍隊指揮能力にはかなり問題があると


はっと目を見開くランド。

評価シートというのはアメリカ軍ではよくやる方法だそうですが、
各自に他の隊員を評価し合うシステムのことです。

指揮官からの評価のみならず、同期の目からどう見られているかも、
軍人としての資質を判断する大きな材料になるというわけです。

ソ連軍でもこの方法を取り入れているらしく、
ソユーズ乗組の宇宙飛行士を決定するチームでも行われ、その結果、
候補生の中でユーリ・ガガーリンが一番評価が高かったとされます。

これは、確か、自分以外に誰を最も高く評価するか、という質問で
最も多く名前があげられたのが彼だったという話でした。

評価シートによると、ほとんどがランドの指揮能力について疑問を持っている、
という結果が出たようですが、平たく言うと、
あの子パークスのこといじめてるよね?ってことですよね。

みんな見ているし、もちろん上層部の目は節穴ではありません。

「それどころかあなたは『コールドポテト』で、
指揮官として信頼に足るかとか、人間性そのものも疑問視されている。

『軍人』の資質としては問題はないようですが」

続けて、彼女が中隊長役をいいことにパークスに嫌がらせをしたこと、
そして、たとえパークスに問題があったとしても、その責任は
中隊長役だったランドが背負うべきであると言い切りました。

つまりパークスが退校ならあなたも退校よ、とこういうわけですな。



そして、この日司令室に呼ばれたのはもう一人。
アン・ダリソンに、司令官は辛い知らせを告げなくてはなりません。
彼女の夫は戦死したのでした。

「昨日手紙を書いたのに」



打ちひしがれたアン・ダリソンが兵舎に戻ると、そこには
自分こそがこの世で一番打ちひしがれている(と思っている)
ランドが待ち構えていて、彼女の助けを求めていました。

司令からダメ出しされたこと、他の候補生の厳しい目に気づいたことで、
彼女は自分がしていたことにようやく気づきました。

そして、自分がヴァレリー・パークスに嫉妬を抱いていたことを
認めざるを得なくなったのです。



最初からヴァレリー・パークスに劣等感を持たずにいられなかった。

金髪で、ハイヒールと毛皮に身を包み、女子力に満ち溢れた金持ちの娘。
タウンアンドカントリー(大手雑誌)や「ヴォーグ」に載るような容姿。

ずっと駐屯地暮らしだった自分とは別世界の住人である彼女が、
ここで軍人として自分より成功しそうになったのが許せなかった。

だから彼女の遺産と別荘の話を知ったとき、つい我を忘れ、
それを利用して邪魔な彼女を追い払おうとしたのだと。



彼女に謝りたい、とランドはダリソンについて来てもらい、
ホテルの部屋にいるパークスに面会を求めましたが、
すっかりもう嫌気が差してしまった彼女は軍を去ろうとしていました。

「明日放校になる前に自分から辞めてやるわ!」



ランドは、自分が間違っていた、といい、さらに、
おそらく自分も指揮官の資質なしとして放校されるから、
あなたはせめて自分からやめないでほしい、というのですが、



彼女のことを全く信用していない彼女は、ははーんと笑って、

「わたしが処分されたらあなたも処分になるから説得に来たの?
つまり保身のために謝ってるだけでしょう」




二人の諍いを黙って聞いていたアンですが、ここでついに
我慢できなくなって、部屋を出て行きました。

この人、はっきりいって今それどころじゃないんだよね。
旦那さん戦死したって知ったばかりなのに。



その時アンは間違えてランドのバッグを持っていってしまい、
二人は残されたバッグにあった彼女の夫の戦死通知を見てしまいます。



「こんな悲しみを抱えていたのに・・・。
百年経ってもアン・ダリソンには敵わないわ」




二人はガン首揃えて上層部にあらためての謝罪を行いました。
これから心を入れ替えてやり直したいということも。


司令官はいきなりこんなことを言い出します。

「あなたたち、士官を育てる費用がいくらかかるかご存知?」

「3000ドル以上・・・いいえ、マム」

「いいえ、マム」




「それだけの投資がされた以上、今後任務に残るかどうかを決めるのは
あなたたちではなく、軍なのです」


なるほど。一理あるね。
どれだけ金使ったと思ってんの、というわけですな。言い方悪いけど。
というわけで?

「ですから、二等兵となって下士官ランクに戻るという要求は却下します」

つまり?

「二人の士官任官を認めます」



思わずランドは

「Holy Mackerel !」
(うっそー!)


と叫んでしまって慌てています。



そして外で待っていたアン・ダリソンとビッグハグを交わすのでした。



そして勇ましい軍歌が鳴り響く中、戦地に向かう船に乗り込む
一団のWACたちの隊列が向こうからやって来ます。



WACの先頭には、陸軍の美人トリオの姿がありました。



この映画はMGMにとって興行的に成功し、スタジオの記録によると
46万4千ドル(今日の620万ドル以上)の利益を得たとされています。

ラナ・ターナーも可愛いですが、ランド役のラライン・デイ、
そして不慮の事故で若くして他界したスーザン・ピーターズ、
どの女優さんも別格の美しさで大変目の保養になる映画かと思います。

三人が三人、典型的なセクシー、理知的、清楚タイプなので、
誰がお好きかで盛り上がりながら鑑賞するのも一興かと。

そんなこんなで特にわたしが女性だからか、
特に女性におすすめしたい戦争映画だと思いました。

終わり。



映画「陸軍の美人トリオ」〜Keep Your Powder Dry(常に備えあり)上

2023-04-02 | 映画

「陸軍の美人トリオ」

いくらアメリカの戦争映画で日本非公開だったとしても、
この投げやりな邦題、余りに酷くありませんでしょうか。

陸軍に入隊した美人三人を主人公にした映画、と、
これを見ただけでわかるという利点は確かにあるのですが。

おそらく企画段階ではまだ戦争は終わっていない1945年制作で、
戦意高揚というよりはWAC(women's army corps)への
リクルートを募るための宣伝映画である当作品の原題は、

Keep Your Powder Dry

で、映画ヒットの一因にこのタイトルのキャッチーさがあったと思われます。
このタイトルの「キモ」は「パウダー」です。

海軍が女性軍人をフネに乗せ始めた頃のカリカチュアで、
先輩が後輩に向かって、

「わたしも間違えちゃったんだけど、あそこはお化粧室じゃないの」

と火薬庫(パウダールーム)を指すというものがあります。
このタイトルになっている言葉は、元々、

「銃の火薬(gunpowder)を常に乾燥させておけ」

湿った火薬ではすぐさま攻撃できないことから転じて、

「どんな場合でもすぐに行動を開始できるように準備を怠らず万一に備える」

という意味で用いられるようになりました。

パウダーを白粉とかけたこのタイトルは、
美人WACを主人公にした映画にはあまりにもピッタリすぎて、
全米が誰うまと膝を叩いてヒットにもつながったのでしょう。



勇ましい軍歌風の女性コーラスがタイトルに流れます。

戦時にもわたしたちには役目がある
わたしたちWACも兵士

軍隊式にタイプしたりファイルしたり
トラックを運転したり厨房に立ったりするの
最高の仲間と一緒に

戦場に出たあなたのたちの代わりを務めるわ
WACは兵士でもあるのだから

ハット、2、3、4、ハット、2、3、4



さて、ここはさる豪邸の寝室です。
豊かな金髪の美女が昼過ぎだというのにまだベッドの中。

同居している親戚の女性ハリエットに叩き起こされました。

主役のヴァレリー・パークスを演じるのは、
当時のナンバーワンセクシー女優、ラナ・ターナーです。

ピンナップガール出身で、8回結婚し、それ以外にも
クラーク・ゲーブル、タイロン・パワー、ハワード・ヒューズ、
シナトラ、ショーン・コネリーらと浮名を流したことで有名ですが、
彼女を女優として有名にしたのは
「郵便配達は2度ベルを鳴らす」の主演のコーラ役でした。



彼女が弁護士を呼んだのは、彼女の祖父が信託銀行に遺した遺産の件でした。

祖父は、孫娘が伝統的なアメリカ人女性として立派になれば
その遺産を託す、と実に曖昧で抽象的な遺言を遺していました。

管財人が銀行の理事会なので、彼女がどうなれば遺産を託すに相応しいか、
納得させるのが難しいのだと弁護士はヴァレリーに説明します。

「じゃ、何すれば納得してお金をくれるの?
夜明けに起きて乳搾りするとか?
ホロ付き馬車で全米を制覇するとか?
胸に国旗の刺青するとか?
ああ、WACになるっていうのもいいかも

「それだ!WACに入隊するんです!」

「え・・・」


この際背に腹は変えられず。
相続が決まったら仮病で即除隊すればいいのだわ!
とWAC入隊を決意するヴァレリー・パークスでした。



こちらは休暇中のGIジョニーとその愛妻、アンが過ごす部屋です。

「I'll See You In My Dreams」(夢で逢えたら)
というロマンチックなスタンダード(映画の主題曲)が流れています。

彼女は愛する夫のために少しでも役に立てばという思いから
WACへの入隊を決めていました。



そして彼女は陸軍のランド将軍の娘、リー・ランド。

軍人の娘として育ち、早くから父と同じ道を進むことを決めていた彼女は
内緒でWACに志願していましたが、入隊許可の辞令を受け取った今、
ランド二等兵として意気揚々と父将軍に挨拶しにきたのです。

しかし父ランド将軍はそのことをすでに知っていました。
彼女に父が渡した餞別(going-away present)の時計には、

「Good Luck, Soldier.」(武運を祈る)

とあって、娘を驚かせます。

「知らないわけがない。ずっと諜報部にいたんだからな」

そして、娘に軍人らしくこんな激励をするのでした。

「Keep your powder dry!」(ぬかりなくな!)



WACの訓練所のあるデモイン駅に着いた汽車から候補生が降りてきます。

その中で一際目を引く金髪の美女、ヴァレリー・パークス。

ハイヒールに毛皮、タイトスカートと派手ないでたちのヴァレリーを
一眼見るなり「敵認定」したリー・ランドは、整列の際、
自分が彼女を押したのが原因でパンプスの踵を折ったパークスに、しれっと

「ごめんなさいね!
でもローヒール履いてくるように言われなかったっけ?」

なんなんこいつ、とムッとするパークス。



軍人家庭に育ち、自分が周りより上と自負しているリー・ランド。

彼女にとって、派手な金髪美女のヴァレリーは、異物でしかありません。
他の候補生とヴァレリーとの会話に彼女はイライラ。

「あなたをどこかで見たことあると思ってたけど思い出したわ。
コールドクリームの広告に出てたのよね」

「ここだけの話、あれは使わない方がいいわ」

「あなたみたいな人が仕事を辞めて陸軍に来るなんて偉いわ。ね?」

と相槌を求められると、間髪入れずに白けた声で

「みんな何かをやめてここに来てるのよ?」

うーん・・・これは・・・嫉妬?

ヴァレリーの方も、陸軍のことはなんでも知ってるオーラ全開で
皆に親切を装って得意げに知識を披露するリーにカチムカ。

「あなたは隊長かなんかなの?」

「軍人の家で育ったので詳しいのよ。なんでも聞いて」

「ねえ、ナポレオンさん、あなたが戦車の中で生まれようが、
手榴弾と一緒に育とうがどうでもいいけどさ、
わたしに命令できるのはそうする権利のある人だけよ?」




険悪な二人の間に割って入ったのは一見大人しげなアン・ダリソンでした。

アンを演じたスーザン・ピータースという女優は、このとき24歳。
結婚もして順調満帆だったのですが、映画撮影終了直後の1945年1月1日、
狩猟中に背中に銃弾を受けるという事故に遭ってしまいます。

映画が公開されたのは事故で彼女が下半身不髄になって3ヶ月後でした。

彼女は車椅子のまま女優を続けていましたが、うまくいかず、結局
脊髄損傷からくる合併症のため、7年後、31歳の若さで亡くなっています。

The Tragic Death Of Susan Peters



怒り心頭のリーは配置を変えてほしいと上官に直訴するも、
軍隊でそんな理由は聞き入れられないとバッサリ。



「まあいいわ。どうせあなたは訓練についていけないから」



負けず嫌いのヴァレリー、リーの挑発を受けて立ちます。
それにしてもラナ・ターナー可愛すぎ。



しかし、まず翌朝の起床、夜遊びクィーンだったヴァレリー、起きられず。
日の出前からバキバキに早起きして体勢を整えていたリーにまず一敗。



お次の制服の採寸では、あちこちサイズ出ししなければならないリー、
モデルサイズでお直し不要のヴァレリーにニッコリされてプライドズタズタ。

制服支給のシーンでちょっとウケたのが、このシーンです。
下着はどんなのかしら、というWACに対し、アンが

「O.D .よ」

「なにそれ・・Order Drawers(お仕立て上がり)?」

「オリーブ・ドラブよ」

陸軍では下着もOD色なんだ・・・。



行進訓練では(当然ですが)回れ右もできないパークス全敗。



ところが彼女が本領発揮したのは機種特定訓練でした。

「P-63キングコブラ!」



「P-40ウォーホーク!」

「B-29スーパーフォートレス!」


もう独壇場です。
双胴の飛行機の映像には、パークス以外の誰かが答えて、と教官。



これならわかる!とばかりランドがP-38、と答えますが、
教官がノー、というが早いか、パークス、

「P-61ブラックウィドウ!」

飛行機をよく知ってるのね(You know your planes.)という教官。
彼女が去ってから、パークス、
パイロットが知り合いなの(I know my pilots.)とにっこり。

問いと答えが韻を踏んでいるのが英語的笑いどころです。
教官の「your」=我がアメリカ軍の、という意味に対して、
パークスの「my」=わたしがお付き合いした、という意味も。



次の格闘技のクラスでは腕力に勝るリー・ランド圧勝。
いまのところ女の戦いは五分五分といったところです。



お次は郊外訓練。
WACにもミリタリー・ケイデンスがあるようです。

「私たちは、フォートデモインの娘
私たちが外に出るたびに
人々は振り返って、私たちを見つめる
ハット、2、3、4!ハット、2、3、4!

あらゆる社会階層から戦争に勝つために来た
でも、ここにきたときにしたことは
洗濯、洗濯、磨き、磨き

5時に起床し、轟音とともに一日が始まる
それから何をするのかって?
ひたすら、ひたすら、ひたすら
磨く、磨く、磨く!




湖に足を浸しながらの休憩時間。
みんなはそれぞれの配置の希望を語り合います。

「わたしは放送かな」(ランド)

「あらあたしも放送よ」(パークス)



じゃ自分は行かね、とコーラを飲みながら思うランドでした。



誰かが持ってきた蓄音機で「夢で逢えたら」のレコードをかけました。
夫のジョニーとの思い出の曲にしんみりとするアン・ダリソン。



そのうち皆は戯れに湖で泳ぎ出しますが、ふとしたきっかけで
ランドとパークス、マジの競泳を始める始末。(写真判定なしの同着)



岸から上がって茂みで着替えをしようとしたら、
ジープが止まり陸軍部隊の隊長が降りてきました。

「ここで待機していた兵たちを集合させようと思ってね」



なんと彼女たちが茂みだと思っていたのは、偽装した兵士たちの群れ。



わたしたちあそこで着替えしたんですけど・・。


ハリエットがヴァレリーの様子を見にきました。
というか、お金が受け取れたかどうか聞きにきたんですけどね。

彼女の様子に、意外と軍隊に馴染んでいるのね、と驚くハリエットですが、
ヴァレリーは、こんな生活わたしは嫌いよと言い切りました。



さて、配属先の発表の日がやってきました。

互いが放送志望だと知ったパークスとランド、
一緒のところに行くのがいやで配属志望をお互い変えていました。

「車両輸送隊に変えたの」

「それってリーのせい?」

「そうよ」



パークスと入れ替わりに配置先の辞令を受けたランドが出てきて、

「志望通りよ!車両輸送隊に変えてやったわ」

「え・・・」


「あの遊び人(play girl)、むかつくんだもの」



最後はアンが志望通り、車両輸送配備の辞令を受けて出てきました。
係官が笛を吹いて、車両輸送配属者を呼び集めます。

ランド「はい!」ダリソン「はい!」パークス「はい!」

ランド「え?」パークス「え?」




ここはWAC車両輸送隊の訓練所フォート・オーグルソープ。


彼女らがここに配備されてから13週が経過しました。
相変わらずレンチを取ったとか、セコい小競り合いをしながらも、
ランドもパークスも、もちろんダリソンもそれなりに訓練を積み、
今日初めて高官の車を修理する任務を命じられます。



将軍の車は、1942年製のクライスラー・ウィンザー・コンバーチブルクーペ、当時希望小売価格は1,420ドル(現在の23,320ドル)。

第二次世界大戦の影響で1942年1月に生産が停止されるまで、
わずか574台しか製造されなかった大変レアな車なので、
もし残っていたら大変なプレミアが付くでしょう。



こんな女の子たちにできるのかと不安がる将軍をよそに、
彼女らはたちまち不具合の原因を突き止めて、
テキパキと修理をしてしまいます。



それどころか、メンテナンスをしていないことをやんわり注意まで。
美人で腕のいい三人に将軍はもうニッコニコです。



帰隊した彼女らには嬉しいニュースが待ち受けていました。
三人揃って幹部候補生試験の合格通知を受け取ったのです。

「今はあなたのことも好きよ、ランド」

するとアンが

「あなたたち、この際しばらく矛を納めない?(bury the hatchet?)」

と両者の手を繋がせたので、しばらく二人は休戦することにしました。



その晩、三人は、元ボードヴィリアンで今は給養に行った
グラディスお手製の「合格&二人の休戦祝い」ケーキを楽しんでいました。

「3パウンド増えそうだけどもういいわ」

「グラディス、もうこれ美味しすぎてやばい」

「大佐の誕生日の時より卵をたくさん使ったわ」



そのとき、アン・ダリソンには夫ジョンの上官バークレー大尉が、
彼からの伝言をもって面会に来ていました。

「君の声を吹き込んだレコードを送ってほしいそうだ。
前に送ったのは割れて届いた」




伝言を伝え終わると厚かましそうなバークレー大尉、
アンに、海外に行く最後の晩、僕に、友達を紹介してくれないかと頼み、
まずはリー・ランドに目を輝かせてアプローチ。

「まつ毛が長いね・・・男はその上で滑って転びそうだ」

なかなか斬新な口説き文句です。

「踊らない?」

「踊らないわ。WACは士官と付き合わないの」

「ここチャタヌーガでカップルを何組も見かけたけどあれは皆兄妹か?」


PXから帰ってきたヴァレリーを見るなり大尉は大喜び。
リーのことなど目に入らない様子でターゲット変更です。
ヴァレリーも久しぶりのデートの誘いに悪い気はせず。

「知人でないと外出禁止」という規則があるので、
二人は互いに叔父と姪と偽って外出しようとします。



夜遊び大好きの血が騒ぎ出してきたんですね。
パーティ用のWACのドレスにわざわざ着替えてやる気満々です。



ところが外出許可を取りに行くと、今日は夜勤なので許可は出せないと。
パークスなら今日は予定がないとランドが申告したので、
家族が面会に来た当番の代わりに当直を務めよというわけです。


「あなたのためよ。バレたら候補生は失格よ」



「ランド、覚えてらっしゃい!」

さあ、どうなる二人!

続く。