ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

空挺館~義烈空挺隊と奥山道郎大尉

2014-05-24 | 陸軍

練習艦隊出航行事の続きを見るために来られた方、すみません。
今日は5月24日、義烈空挺隊が作戦決行した日からちょうど69年目にあたります。

ですので空挺館で見た義烈の資料についてのお話をさせてください。



陸上自衛隊の習志野駐屯地にある空挺館は年に何度か公開されます。

わたしは今年1月の降下始めを観に行ったときにここを見学したのですが、
4月6日の桜祭りにも行って、写真を取り直したいと考えていました。

ところが当日は天候が不順で雨が時々降ったりいきなり晴れたり。
わたしの住んでいるところと千葉県習志野市の天気は違うかもしれませんが、
何しろ手首の怪我もまだ完治していないので家族に反対されあきらめたのです。

今HPを見に行ったら、3500人の観客が訪れたということで、この数字が
例年と比べて多いのか少ないのかわかりませんが、降下始めの4分の1の数字。
おそらくお天気のせいで出足が悪かったのでしょう。 


さて、わたしは2年前、
義烈空挺隊強行着陸せ、そして彼らが迎えたその日
というエントリで、帝国日本軍で成功した空挺強襲作戦である義烈空挺隊について書きました。
わたしが義烈という名前を初めて知ったのは、その少し前に訪れた知覧にある特攻資料館です。

航空機特攻や特殊潜航艇による特攻はある程度の人が知っていても、義烈空挺隊や、
あるいは薫空挺隊などの空挺特攻についてあまり知る人はいません。
しかもここでの写真によるパネルだけの説明では、資料館に訪れる人の関心を引くことに
成功しているとはとても見えませんでした。

そのときのわたしには、義烈空挺隊の数少ない資料のすべてがここ、
第一空挺団が所属する習志野駐屯地の空挺館にあるとはつゆ知らなかったのです。





出撃前各々自分の故郷の方角に黙祷する写真から製作されたものです。

エントリでも書いたように、彼らは特攻隊として組織され(志願では有りません)
そのための訓練を受け、何度も実際に突入の命令が下されながら、
その都度中止になるということが何回も繰り返されていました。

こうなったら一思いにさっさと往かせてくれ、というのがおそらく
全ての隊員の悲願でもあっただろう、とわたしは半ば想像でこのように書いたのですが、
やはり生存者の証言によるとその焦燥感はともすれば自らを

「愚劣食う放題」

と自嘲するような風潮にまでなったということです。



 義烈空挺隊の装備。

彼らは自分たちの任務のために制服のポケットを増やし、
このような装備を体につけた状態で突入することを考え、用具入れを考案しました。

ここにあるいずれの写真も鮮明でないのでわかりませんが、
ネットで時々見る比較的はっきりした彼らの軍副姿を見ると、
ところどころにシミのような汚れのような部分があります。
これは彼らが自分たちなりに迷彩柄を墨や草木の汁で施したものだそうです。

全部写っていないのですが、まるでプランジャーのような棒は、
使い方も本来のプランジャーのようなもので、先に炸薬を付けており、
突入後、敵機の翼の根元にこの棒を押し付けると、先の吸盤で吸着する、
吸着したら点火装置を作動させ柄を抜いて避退する、というものでした。

何にでも工夫をこらすのが日本人ですが、こういう武器も日本人ならではで、
アメリカ人なら考えもつかなかい次元の話だったのではないでしょうか。

 

空挺館にはこのようなモニターから、多くの義烈空挺隊員の遺墨が
次々に写し出されていました。
このような個人名の遺墨の現本は元々遺族が所持しているのでしょうが、

 

このような寄せ書きになると、生き残った戦友が保存し、
その方が亡くなれば遺族が寄贈するのかもしれません。



ここに寄贈された遺書もあります。
この頃の軍人ですから筆は使い慣れていますし、実際
いろんな遺書を見ても皆達筆なのに驚きますが、勿論「そうでもない」
字も、失礼ながらあります。

つまり、今と同じで上手な人もいるけどそうでもない人がいるということで
逆にこういうのを見るとリアリティが有るというか、現代の
我々の隣にいるような若い男の子がこうやって覚悟をしたため、
そして死んでいったのだという現実を見る気がします。

まるで小学校の書道の課題のように二文字ずつ並べられた

「正直 元気」

衒いのないあまりに素直すぎる言葉からは、おそらくその言葉の表すように
元気で素直な、明るい笑顔が浮かんできそうです。

「先輩に続く」

というのも、たとえば「我は往く」などという決意の書に比べると
皆で揃って往くなら心強い、というような仲間意識が感じられます。
一緒に死のうと誓って過ごして来た仲間と一緒なら怖くない、
という風にも取れるのですが、これを弱さと言い切るには
あまりにも彼らの最後は壮絶なものでした。

先ほどの書もそうですが、「普通の男の子」が、その時代に生まれ
そうして国を護るという決意の元に死んでいったということです。

「必仇討」

彼には敵を討たねばならない誰か身近な戦死者がいたのでしょうか。
それとも、ここ沖縄で連日連夜アメリカ軍の攻撃によって死んでいく
民間人の敵でしょうか。
いや、彼らを守るために出撃していく特攻隊の仇でしょうか。




出撃に際し私物の整理をする義烈空挺隊員。
寝転んで遺書をしたためているように見えます。
几帳面な性格なのか、きっちりと並べられたものの上に、
一つ一つ封筒が付けられています。

その遺品を託す人にあてて一人一人に手紙を書いているのでしょう。



義烈空挺隊の隊長、奥山道郎大尉の遺墨です。

挺進殉國

読んで字のごとく挺進によって国に殉じた奥山大尉。
わたしは見なかったのですが、知覧には奥山大尉の数学のノートが展示してあるそうです。
なぜ数学のノートが展示してあるのか分かりませんが、おそらくそれが
奥山道郎の学生時代の怜悧さや性格を表しているものだからでしょう。



陸士に入った時点で秀才であることは疑うべくもないことですが、
この人物を見て感じるのは、その造作から導きだされるような
「明朗」とか「温厚な」という雰囲気に加え、そのロイド眼鏡の奥は
実に聡明かつ怜悧な光をもつまなざしをしているということです。

もし同じ人物が平和な時代に生まれていたら、この写真に漂う
一種悲壮なまでの緊張はその表情から失せ、明朗なこの若者はあるいは学者となって
研究をしていたかもしれない、というようにも見えます。

実際の奥山大尉は典型的な「空挺タイプ」で豪放磊落、
明るく剛直な隊長だったということです。


遺書は作戦実行日の2日前に書かれました。
第一挺進団の押印がなされたその巻き紙には、こう書かれています。

遺書

 「昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります」




只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 道郎
御母上様」


この遺書を見て思うのは、義烈空挺隊の出撃が何度も中止になり、
その都度かれらが自分の遺品をまとめては預けることを繰り返したことで、
つまりそれは彼らがその都度遺書を書き換えて来たということです。

奥山大尉のこの遺書が、最初から最後まで同じ文言だったのか、それとも
出撃のたびにその心境から少し変化していったのか、今となっては
知るすべも有りません。

ただ、この5月22日に書かれた遺書の中の言葉、

「道郎は喜び勇んで往きます」

と同じ言葉を、奥山隊長は出撃の際

「全員が喜び勇んで往きます」

と言い換えて使用しました。
これはわたしが前エントリでも書いたように、何度もその出撃を阻まれ、
忸怩たる思いで待機し訓練を続けて来た彼らの偽らざる心境で、
この言葉こそ、最終的な出撃に際しての彼らの万感の思いを語るものだったでしょう。




隊容検査前の義烈空挺隊員たちの様子です。

襟元を直しているとも、襟の階級章を外しているとも言われている写真です。
左の、襟を直されている隊員は柄付き吸着機雷を持っています。
手を伸ばしている隊員の背嚢には、予備の吸着機雷が括り付けられています。



奥山大尉も最後の瞬間、襟の階級章を外していきました。
これには、第一挺進団の隊長である中村大佐が、奥山大尉の襟章を見て

「その階級章はもう要るまい」

と言ったところ奥山大尉はそれを笑いながら外し、大佐に渡したという話が残っています。

「要るまい」つまり階級章が不要になるとはどういうことかと云うと、
この作戦によって戦死、すなわちもう大尉ではなくなるという意味です。

奥山大尉は戦死後、全軍でも異例の三階級特進をして大佐になっています。

厳密にはまず、 作戦成功の功に対し少佐に昇進、その後戦死が判明し、
それに対して二階級特進となったので、一度に三階級昇進したということです。
 

階級章の横に印鑑がありますが、これは中村大佐が最後に

「お母さんに何かないか」

と言いかけたところ(奥山大尉は父親がおらず母一人)、奥山大尉は
胸ポケットからこの印鑑を出して大佐に渡したということです。




奥山大尉が書いた母親への遺書の表封筒。
郵送するものではないのにちゃんと住所をかいています。


義烈空挺隊の宿舎の近くに「極楽湯」という銭湯が有りました。
空挺隊の弊社の風呂が手狭だったため、陸軍は近くの銭湯を彼らのために
借り上げていて、 訓練が終わると隊員たちはそこでいつも風呂を使っていました。
その銭湯の経営者である堤はつさんを、隊員は親しげに「小母さん」「小母さん」と呼び、
はつさんもお茶を出してやったり、縫い物を引き受けてやったりして、
その最後のわずかな時間だけでも家に帰ったように世話を焼いてやったのだそうです。

出撃の早朝、常連の隊員たちが別れの挨拶に来ました。
彼らが出撃することを告げ、有り金を全部彼女に差し出したとき、はつさんは
畳の上に泣き伏したと言います。

彼らのひとりがはつさんに宛てた遺書が残されています。

「おばさん 毎度御無理申し上げ誠に有難く厚く御礼申し上げます。
待機中の私達も、愈々最後の任務に向い突進致します。

私達にいつも御親切に慰めて下さったおばさんの気持ちには感謝の他ありません。

私達も笑って嵐に向い、笑って元気一杯に戦い、笑って国に殉じ、
笑って皆様の御期待に報ゆる覚悟です。


どうぞ元気に皇国護持のため、東亜防衛のため頑張ってください。

最後に御親切に対し感謝と御礼を申し上げ、御一同様の健康を祈り上げます。

愛機南へ飛ぶ。


乱筆にてさようなら」 


「愛機南へ飛ぶ」というのは1943年に公開された佐分利信主演の映画です。
映画の題名にちょっと引っ掛けて、洒落てみたのかもしれません。

その後、義烈空挺隊が玉砕したと聞いたはつさんは

「なんとかあの兵隊さんたちの霊を慰めてあげよう」

と、彼らが置いていった金75円(今の10万少しくらい)を基金に、
自宅横の道に面したところに普賢菩薩像を建て彼らの霊を祀り、
その後も毎日の参拝を決して欠かさなかったということです。



ところで、このブログのある読者に奥山大尉の縁戚に当たる方がおられます。
勿論その方も防衛や軍事に興味を持っておられるのですが、お話によると、
奥山大尉の親族には昔は軍人が、そして戦後は自衛官もおられるとのこと。

「防人の家系」なのですね。






 

 

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かしま艦上レセプション~国防男子

2014-05-22 | 自衛隊

皆さん、もうご覧になりました?
宮嶋茂樹写真集「国防男子」。
わたしはたった今届いたこの写真集を見たばかり。


いやー眼福です。
この写真集、同じ著者の「国防女子」よりも売れているそうですが、
わかる!そのわけがわたしにはわかるぞ。

写真集「国防男子」これ実は「海上自衛隊限定」です。
「きりしま」「ひゅうが」「しらね」などの護衛艦、
その他飛行隊、捜査隊などからよりすぐった39人。

いずれも2等海曹から上は2等海尉までのぴちぴちの生きのいいクラスで、
旗を振っていたりコクピットに座っていたりという任務中のショットは勿論、
宮嶋カメラマンの趣味らしく護衛艦の甲板でジャンプしているところ、
鍛え上げられた筋肉を誇示するかのような水着でのショット、シャワーシーンや、
私服でのひとときなどの「サービスショット」も満載。

なかでもわたしが驚喜したのは、去年の音楽まつりでヴォーカルを務め、
このブログでも勝手に「海自王子」とあだ名を奉った、
呉音楽隊の道本和生2等海曹がなんと5ページにわたって登場していることです。

いやさすがは不肖宮嶋カメラマン、お目が高い。

わたしはこの人生で誰かの熱烈なファンになったということがありませんし、
また誰かの写真集を買うことなど一生無いと思っていましたが、
この写真集だけは正直、買って良かったと心の底から思いました。

迷っている方、損はしません。すぐAmazonにGO!
あ、これを読み終わってからね。




ところで、おそらく宮嶋カメラマンが「かしま」から選んだとしたら
きっとお眼鏡にかなって写真集を飾ったと思われる冒頭写真の国防男子ですが、
かしま艦上レセプションで

「何か(取って来るものでも)ありましたら」
と声をかけてくれた実習幹部です。
ポーズを取る瞬間にも拳をグーにしているところを見ると、
無意識にそれをやってしまうことがすでに習性となっている防大卒ですか?

「何もお願いすることはありませんので写真撮らせて下さい」

と頼んでモデルになってもらいました。
うむ。激しく爽やかな好青年である。大変よろしい。
もしわたしに娘がいて、彼女がこんなお婿さん候補を連れてきたら、

「でかした娘!」

って日の丸の扇子をうち振ってしまいそう。ってどんな母親だよそれ。



さて、この艦上レセプションでは、何度かお伝えしている通り、
受付をすませた直後から来客をまず艦内までエスコートし、
パーティ会場までアテンドして来てのちまずは飲み物を運び、

「なんでも分からないことがあったらお聴き下さい」

と宣言する、ということまでが決められているようでした。
パーティですからしかしある程度お話ししたら折りをみて前を辞し、
長時間話し込まないようにというのも指導されている様子。



さて、わたしたちはこの日、4人の実習幹部とご縁がありました。
冒頭の国防男子はレセプション終わり頃写真を撮っただけでしたが、
後三人はこちらからも積極的にお話を聞かせて頂きました。
(わたし的には『取材』ですね)

最初にエスコートしてくれた実習幹部アルファーくん。

「何かお手伝いできることはありますか」と声をかけてきたブラボーくん。

女子の話も聴いておこうとこちらから声掛けした国防女子ズールーさん。

・・・・・女子にズールーはないかな。
だいたいなんでいきなりZに飛ぶんだよ。
んじゃ自衛隊のJでジュリエットさんにしますか。

別に選んだわけではないですが、この三人は奇しくも

アルファ=防大卒3尉

ブラボー=一般大卒2尉

ジュリエット=一般大卒3尉、女子

という、願ってもないサンプルとなりました。


●アルファ3尉の場合


「何か質問がありましたら何でも聴いて下さい!」

レセプション会場でわたしたちのためにウーロン茶を取ってきてくれ、
わたしながら彼は爽やかにこういいました。
何でも、と来たか。
それでは遠慮なく聞いてしまいましょう。

「どうして海上自衛隊を選んだんですか」
「私は(自衛官は主語をはっきり言う人が多い)元々陸自志望でした」

なにっ!陸自ってもしかして・・・。

A「第一空挺団です
E「おお!わたしは降下始めの常連なんですよ!」(2回行っただけだけど)
T「この間も空挺団のDVD見てましたよ」
A「え・・・そうなんですか」(ちょっと引いてる様子)

E「・・・ということは・・・体力運動能力に自信があるんですね」
A「はい。(あっさりと)交友会活動ではテニスをやっていまして」
E「ああ、そういう(スマートな)イメージありますね!」(はしゃぐな)
A「そうですか? (〃'∇'〃)ゝ実は全国大会でもいいところまで・・・」
E「すごーい!」(はしゃぐな)

A「防大では全ての生徒に運動部の加入が義務づけられているんです」

E「文化部をしたかったら掛け持ちしないといけないんですってね」

A「ええ・・・・それで第一空挺団に憧れていたんですが、
 進路を決めるときになってある日、ふと思ったんです。
 第一空挺団に入ってもいったい
 どこに降りるの?って。
 今の日本に訓練以外で降りる場所はないと思ったんです」

 
第一空挺団は陸自の花形だし、ただでさえ体力に自信がある「エリート」が
さらに苦難の果てに勝ち取る「レンジャー」という栄光を目指す、という
自衛官としての生き方も勿論あります。
(空挺レンジャーについてエントリ書いたのでちょっと予告編)

しかし彼の場合「自衛官としてのレーゾンデートル」は 
そういったある意味「精神主義的或いは観念としての防衛」にではなく、
もっとプラクティカルな、端的に言うと

「明日、中国の侵略から尖閣を護る」 

といった即応性のうえに、より求められたのではないかと思われます。
空挺部隊がプラクティカルでない、というのは日本が
「専守防衛」を旗印にしている限り、現実には投入される場所がない、
という考え方もあるでしょうしね。

自衛隊では旧軍歌の「外国に行く」=「派兵する」と感じる歌詞すら御法度です。
つまり自衛隊が「この国でしか戦わない」と言明している限り、彼の言うように

「落下傘で空挺をすることなど万が一にも起こり得ない」

という考え方もあります。

勿論空挺はそれ自体が陸自的精神の象徴のような部分がありますし、
この特殊な訓練をこなす集団は、あらゆる想定外の状況にも耐える
屈強な兵力を維持するという意味での存在意義もあります。

そして自衛官としてそこに自分の目標を求める者もいるわけです。
しかしアルファー3尉の場合、彼は海自に入隊することによって
あくまでも「防衛の第一線」に立とうと思ったのです。

「日本の防衛はまず海なんですよ。だって海に囲まれているんですから」


●ブラボー2尉の場合

彼が話しかけてきてくれたとき、実はわたしとTOの間では
こんな会話がしきりに交わされていました。

T「うーん・・・いいねえ、『国防男子』。
 どこにいるのかと思ったらここにいい男がたくさんいたかって感じ」

その気(け)もないのになにを盛り上がっているのだTO。

T「よく婚活本人や周りの人から『いい人があったら紹介して下さい』
 って頼まれたり聞かれたりするんだけど、彼らなら身元も確かだし
 訓練されているし職業選択の理由だってお婿さん候補としては申し分ないよね」

あ、そっちの話でしたか。

特にそれまで話していたアルファー3尉を彼はすっかり気に入ったようです。
(預かり婚活のお婿さん候補としてです)

そのとき飛んで火に入る夏の虫、声をかけてきたブラボー2尉に、我々は

「婚活対象としての自衛官」

として次々と質問をしまくりました。
ブラボー2尉、きっと困惑したと思います(笑)

T「結婚相手は皆さんどうやって見つけているんですか」
B「出会いが少ないですから、学生時代の相手と結婚する人が多いです」
T「独身の自衛官はどうやっているの?」
B「やっぱり知人の紹介が多いですね」
T「もし自衛官と合コンをしたかったら、誰に言えばいいの?」
B「?????????」



T「もし自衛官限定で合コン企画したら来てくれるのかな」
B「そういうのに出てる人もいますね」
E「最近自衛官限定の合コンは大人気らしいですね。
 特に先日テレビ番組で放映されてからは・・」
B「ああ!ナインティナインのですね!」
E「えー・・(見てないので知らない)そうだったですかね。 
 ああいう合コンに行かれたことってありますか」
B「私はないです」

ブラボー2尉は24歳、まだ若いせいか、結婚については
全く、とは言いませんがあまり現実味を持っていない様子です。

それに彼は防大ではなく一般大卒なのでその辺りも
どちらかというとイージーモードで考えているようにも見えました。

「どうして自衛官になろうと思ったんですか」

お約束の質問。

「一般大卒ですので普通に就職活動をした結果です」

ほお。

「3菱商事と●紅も受けたけど、官公庁に受かったので公務員になりました」

というのと同じ感覚ですかね。
で、ブラボー2尉は何の役職なの?

「幕僚です」

幕僚というのは指揮官を補佐する、昔で言う参謀のような役職です。
その任務によって

監理・情報・保全・作戦・運用・訓練・砲術・対潜・潜水艦
船務・掃海・武器体系・航空・後方・機関・整備・補給・技術
通信(電子)・気象・研究(開発)・企画・計画・安全・当直

などの各幕僚があります。

いまだに略語はカタカナの「サ」で部内の通信を行いますが、
これは旧陸海軍で参謀の「サ」が略語だったことの名残なのだそうです。

ブラボー2尉が職業選択の結果自衛官になった動機というのはやはり

「国を護る仕事をしたい」

と思ったことが直接の原因だそうです。
そして海自を選んだ理由はやはりアルファ−3尉と全く同じ、

「日本は海に囲まれているから」

というものでした。
一般大から自衛幹部になる自衛官の数は最近激増しているようです。
就職戦線が厳しいことも勿論あるでしょうが、やはり

「国防も職業の一つの選択」

という風に考える若者がそれだけ増えたということでもあります。
昔は兵学校卒と学徒士官の間には歴然と身分の違いがあっただけでなく
主に兵学校側からの「いじめ」などもあったと聞きますが、
現代の海軍である海上自衛隊にはそのようなことは起こり得ません。

一般大卒も防大卒も、幹部候補生学校では同じ訓練をします。

B「防大では出来て当たり前のことでも、私たちには初めてのことも多く、
 最初はついて行くのが大変でした。
 そのうちできるようになりますが、できないことがかえって私の場合は
 負けないぞというモチベーションもなりましたし」 


 
”海上自衛隊幹部候補生学校 海の最前線 
将来の指揮官たちの スパルタ教育”

 

これを見て頂くと分かりますが、最初は行進すら合わないみたいです。
しかし「必死でしがみついて来る彼ら」を防大卒は

「彼らの吸収力は半端ないので、共に戦う戦友としては頼もしい限り」

などと評しているんですね。

美しい・・・・(T_T)

ところで、実際の自衛官の婚活状況ですが、一般企業などと違って
独身では出世できないなどということがないため、
「何が何でも結婚」という風には思わないせいで独身のまま
結構な年齢になってしまう自衛官も結構あるようです。

どんな相手が多いかというと、当事者の発言によると

部内か看護士や飲み屋のお姐さんが殆ど、残りは保険屋

看護士が多いというのは聞いていたけど本当みたいですね。
しかしこのメンバーを見ると

「自衛官が普段の生活で接触する可能性のある職業」

ばかりであることが分かります。

「飲み屋のお姐さん」が悪いとは言いませんが、問題はそういう自衛官を狙って
立ち寄る飲み屋にわざわざ送り込まれているらしいスパイ、あるいは
スパイ予備軍の中国人女性もいるらしいことです。

少し前に問題になっていましたが、中国人や韓国人と結婚している自衛官が多い、
というのは

「いかがなものか」

と思いますし、危機感すら覚えます。

ですから昨今の「自衛官との婚活ブーム」はその点からも歓迎されるべき事象ですし、
しかもわたしの考えでは決してブームではなく、一つの確定した流れだと思います。
一般大から自衛官を「選択」するように、自衛官も

「身元が確かで将来の安定した職業」

として世間に認知されつつあるということなので、これから自衛官になる方、
嫁探しに関しては安心してもいいんじゃないでしょうか。

ブラボー2尉によると、海自の場合「2年おきに転勤」は確実で、一般的には
それを嫌がる女性は多く、それが今までは自衛官が敬遠される理由でもあったのですが、
現にTOの「預かり物件」であるお嬢さん(銀行員)などは

「どこの転勤でも大丈夫です!喜んでついて行きます!」

というくらい熱心でいらっしゃいます。
まあなんだ、時代は変わったってことなんでしょうね。
 

●ジュリエット3尉の場合

食べ物を取っている彼女にテーブル越しに話しかけ、
テーブルを挟んだまま(笑)お話しさせて頂きました。

E「防大卒ですか」
J「一般大です」
E「なぜ自衛隊に?」


この質問はいわば「お約束」なのですが、答えは皆同じ

「国防の仕事に就きたかったからです」

でした。
たしかに自衛隊は公務員で将来が安定していますが、
それが一番の動機ということはあまりないと思われます。
他にも公務員の仕事はいろいろあるわけですし、それが動機なら
何も「生命の危険を顧みず」と宣誓させられるような職場を
選ぶこともないわけですから。

そして彼女の場合はこんな明確な目標がありました。

J「パイロットになりたいと思ったんです」
E「固定翼ですか、回転翼ですか」

この2行、どちらも女性の会話ですので念のため。

J「固定翼です。
 本当は救命飛行艇(US−2)に行きたかったのですが、
 あれは男性ですら過酷で、女性はなれないことがわかりました」

E「じゃ戦闘機」
J「海上自衛隊は戦闘機を所有していません」

はい、そうですね(笑)
そもそも海自には空母がないわけですしね。
わかっていたけどちょっと聞いてみたの。

女は乗せない戦闘機というのは自衛隊でも生きていて、
もちろんこれはパイロットにはさせないという規則なんだけど、
これは職業差別でも性差別でもなく「子供を産む」という機能を持つ
女性の体に配慮した「区別」なんですよね。


E「やっぱり結婚の時期のことなど考えますか」
J「考えますね。女性の場合やはり子供を産む時期がありますから」


男子も結婚相手を見つける場所がないため合コンなどが行われるわけですが、
女子はもし同僚のお相手を見つけられなければもっと大変かもしれません。

ただ、「国防男子」「国防女子」の好調な売れ行き等を見ても、今まで
「自衛隊嫌い」のノイジーマイノリティに不当に貶められてきた自衛官たちが
「普通の職場の優良な婚活対象」であるという認識が一般的になってきた気がします。

婚活市場での評価が上がる→より一層優秀な人材が集まる
→組織が精強になる
→日本が安心して住める国になる→
より国防男子(女子も)が評価される


といいスパイラルになっていきそうではないですか。
ゆえにこの傾向をわたしは国民の一人としてたいへん歓迎しています。




続く・・・・と思う。












 

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かしま艦上レセプション~「プレミアム幹部を作るマナー教室」

2014-05-21 | 自衛隊

この練習艦隊の航路をこの項で説明しようとしていたら、
一足早く読者の方がコメント欄にそれを挙げて下さいました。
再掲になりますがあらためてここに記します。


アメリカ合衆国(パールハーバー、サンディエゴ)、
パナマ共和国(パナマシティ)、キューバ共和国(ハバナ)、
トリニダード・トバゴ共和国(ポートオブスペイン)、
ジャマイカ(キングストン)、メキシコ合衆国(アカプルコ)、
仏領ポリネシア(パペーテ)、ニュージーランド(オークランド)、
オーストラリア連邦(シドニー)、ソロモン諸島(ホニアラ)、
パプアニューギニア独立国(ポートモレスビー)、
インドネシア共和国(スラバヤ、ビトゥン)、
フィリピン共和国(マニラ)


コメント欄そのままコピペしてしまいました。
雷蔵さん、助かりました( ̄∇ ̄*)ゞ


ところで・・・・あれ?
エスコートしてくれた(アテンドと今まで書いていたのですが、
自衛隊的にはこちらの用語の方が適切だとご指摘を頂きました)
実習幹部がたしか「タイに行く」って言ってたような気がするんだけど。
舞い上がっていたので聴き間違えたかな。

それにしても、ヘンダーソン基地、ポートモレスビー・・・。

わたしには大変なじみの深い地名であり、戦史を知るものには感慨深い響きです。
これまで民間の
慰霊団が何度も慰霊祭を行ってきたわけですが、
今まで日本国自衛隊の練習艦隊という名前では洋上慰霊祭は
行われたことがなかったということなのでしょうか。


だとすればソロモンの海に将兵たちの霊はどれほどまでに慰められるか。


さて、練習艦「かしま」を旗艦とする練習艦隊はここ晴海への寄港の前に
全国各地の寄港地に錨を降ろしてきているわけですが、その目的は
「お披露目・ご挨拶」といったことのほかに

日本の歴史や文化を再確認する

という意味があるのだそうです。
そして最後の寄港地東京では

皇居特別拝観、靖国神社、東郷神社参拝、
大臣主催壮行会、水交会主催壮行会等、

目白押しのスケジュールをこなすことになります。
実はわたくし、以前に取り上げさせて頂いたことのある
海軍兵学校67期の越山清澄大尉のご親族から、

67期の遠洋航海のアルバム

データで頂いて持っております。
越山少尉候補生は(昔の実習幹部ですね)この遠洋航海に
高級品であるカメラを携えて行き、なかなか達者な腕で写真を多数残しています。
それを見ると東京に寄港中のショットには国会議事堂前で撮ったもの、
皇居遥拝のために隊列を組んでいる様子、勿論靖国神社参拝の写真もありました。

これを見る限り、自衛隊の練習航海はほとんど旧軍の兵学校のそのままで、
東京での行事にもほとんど変わりはないのではないかと思われます。

越山大尉のアルバムについては、ご親族の方のご了解が得られたら
エントリで紹介し、解説させて頂きたいと思っております。

さて、実習幹部たちのスケジュールの中には、あまり知られてはいませんが
「テーブルマナー講習」というものがあります。
巷にあふれる

「完全オーダーメイドで学ぶ『プレミアム女性を作るマナー教室』!
Allプライベートレッスンでグングン上達!」

(プレミアム女性って・・・・・何?)とか

「お受験用に親子で学ぶマナー教室!」

とか

グローバル化が進む現代の日本人にとっては
知っておくとより効果的に自分をアピールできるようになります!」

とかいう宣伝文句に


「マナーを教える側のこういう品性はいかがなものか」

とつい思わずにはいられないマナー教室で教えるそれとは、
実習幹部のマナー教習は全くその品格を異にするものです。


その昔、といっても現在の海将クラスが実習幹部であった頃、

(といいますと30年くらい前でしょうか)
テーブルマナー講習は

高輪の御殿に総員をご招待賜り

高松宮殿下おん自らご壮行を賜った


ものだそうです。
ご存知のように高松宮殿下は兵学校卒の海軍士官であられたお方。
畏れ多くももったいなくもその殿下から、殿下が薨去なさる1987年以前に
練習艦隊に行った海上自衛隊の幹部は直々にマナーを学んでいるのです。


うーん。これは・・・・・。

以前も陸自と海自は同じ高級将校でも佇まいが違うわね、と、
実際にこの目で実例を確かめて、それでもおずおずと言ってみましたが、
こういうのを聴くとやはり、いや決して陸自幹部をどうこういう気はありませんが、
少なくとも海自幹部にはマナー教室のいうところの「プレミア」が(笑)
もれなく付加されている印象、さくっというと全体的に「上品な感じ」
いや、陸自がそうでないとは口が裂けても言いませんが、
この傾向はあながち思い込みだけではないんじゃないか。


だって宮様から直接マナーをご教授いただいているんですよ?

まず直接宮様のお住まいに招かれてそこに立ち入り、というあたりで
もう普通の「新入社員の研修」とは別次元なわけ。



たとえば、この右側の顔半分の男性は現海幕長ですが、この方も、
わたしが先日舷門での敬礼を写真に撮って、どアップした海将も、
若き日には高輪にある高松宮邸で「プレミアム士官」となるべく()
殿下からのマナー親授(っていうのかな)をされているわけです。

なんというか、立ち姿からして「仕込まれ方」が違う、そんな感じなのです。

勿論戦前は皇室の方々に直接マナーを教わるなどということはありませんでしたが、
その分実際に天皇陛下に拝謁しているわけですからね。
やっぱり海自の伝統継承力って凄いなあと思いませんか。

戦後、軍靴の足音がフンダララなどと騒ぐ下品(げぼん)の民などが元より知りもせず、
それゆえ文句の付けようのなかった、こうした旧軍からの伝統を、ほとんど全て
自衛隊になってから、いつのまにかしれっと復活させて今日に至っているってことです。

ブラボー海上自衛隊。



さて、先ほども言ったように高松宮殿下は1987年にご薨去されました。


その後、実習幹部のマナー教室はなんと

寛仁親王殿下

(ああよかった、ともひとしんのうでんかで変換できた)
に引き継がれました。
非常に庶民的で「ヒゲの殿下」と親しまれた皇族です。

が、赤坂御料地内の寛仁親王殿下邸はそれほど広くはないこともあり、
殿下自らテーブルマナー講習をしていただくことになったそうです。

高松宮殿下のときは御殿に上がってマナー講座をどこかで受けてから、
いざ高松宮殿下と同席を賜る、ということだったのでしょうか。

ただ、戦後すぐにこのようなことになったわけではありません。

1981年のこと、寛仁親王殿下は信子親王妃とともに

自衛隊音楽まつりに出席したい

とご希望されたことがあるそうです。
しかしながら、戦後皇室は自衛隊と距離を取り続けており、

このときのご発言は大きな波紋を呼んだ、ということです。

その後時代は少しずつ変わり、現在のようになっていますが、
こういう流れを見ても、寛仁親王は個人的に自衛隊に対して

大変ご関心をお持ちであったがゆえに、積極的に皇室と自衛隊の接点に
おなりになろうとなさったのではないでしょうか。


さて、寛仁殿下は、そのマナー講座の際、実習幹部に向かって

わたしの伝授するマナーが最高のマナーであり
諸君は世界中どのような席に招かれても自信を持って臨んでよろしい」

とおっしゃったそうです。

寛仁親王殿下といえば、わたしには2011年の大震災の後、
救助、復旧活動を行っている自衛隊を、災害現場に直接赴かれ慰問された
あのお姿が印象に残っています。

相変わらずのヒゲにハンチング、民主党が大枚をはたいてお揃いで作った
作業服(蓮舫が襟立ててたあれ)のような無粋なものをわざわざ調達させたり
ということはせず、ニッカーボッカーの「作業服」で陸自隊員の前を歩く
石巻市訪問の際の殿下の姿です。
殿下は自衛隊員に向かってこのとき

「陛下がいの一番に自衛隊の名前を挙げて、
救援活動にあたる人々の苦労をねぎらわれたことは、
陛下がいかに皆さまの活躍ぶりに期待され心配されているかということが、
お言葉の中に込められていると思う」

とお言葉をおかけになりました。

不眠不休で命を削るようにしながら作業に当たる自衛隊員たちにとって
この言葉は
彼らを何よりも力づけるものだったに違いありません。


話はどんどん「かしま」から離れていってしまって申し訳ありませんが、

皆さんは「国民の自衛官」という式典をご存知ですか。

「国民の自衛官」とは、自衛官として、日本の国土防衛に取り組むとともに、
災害時の緊急派遣や緊急搬送に活躍し、自衛官の任務の枠にとらわれず、
「自己犠牲の精神で、人命救助や人助けを行った」自衛官や、日々の行動を通して
「社会との絆を強めた自衛官」に対して、陸海空自衛隊で業績のあった自衛官を
それぞれの自衛隊から推薦を行い、審査・表彰する(wiki)

という顕彰で、産經新聞とフジサンケイグループが2002年から行っています。

2012年の第10回では、若狭湾で沈没した釣り船の救助を行った護衛艦あけぼのや
アテネパラリンピックの金メダリスト、高橋勇市の伴走ランナーなどを務めた自衛官
2013年の第11回では、尖閣諸島への領空侵犯に対する任務に従事している
第83航空隊や砕氷艦しらせの艦長などを務めた自衛官らが表彰されました。


寛仁親王にはこの式典に毎年のようにご臨席を賜っており、晩年には
喉頭がんで声帯を失われたため人工喉頭をご使用になりながらお話をされています。

第7回の式典ではこのようなお話でした。

「全国26万人の自衛官が、もっともっと国民の中で表彰されるべきで、
もっと多くの国民に自衛官の素晴らしい活躍、真摯な姿勢を伝えて行くべきだ」



その寛仁親王がお書きになった本があります。


「今ベールを脱ぐジェントルマンの極意」(小学館)

この著書の中で殿下は自衛隊の実習幹部に行われていた
マナー教室についてこのように述べられています。

「その中の一人は間違いなく将来幕僚長になるわけで、
国賓、公賓と席を共にすることもある。
そしてまた全員がこれからの日本を背負って立つわけで、
外国でみっともない態度をしてもらっては困る、
という願いをこめてこの研修を引き受けている」 

自衛隊にことのほか理解をお寄せになっていた寛仁親王殿下は、
自衛隊の幹部を「日本の代表」「我が国の顔」として世界に通用する
「プレミアム士官」に育てようとしてくださっていたということです。

寛仁親王殿下は震災の翌年、2012年の6月6日に薨去されました。


海自幹部は、皇室のとの接点でもあった寛仁親王殿下を失い、
この後実習幹部のマナー教室はどうなってしまうのか、
それこそ「プレミアム士官への近道!個人指導でグングン上達!」
みたいなののちょっと上等な、しかし知ったかぶり講師を、
しかも高い金を払って招聘することになるのかと一時は心配したそうです。

しかし、その憂いもつかの間、寛仁親王殿下の第一女子、
Her Imperial Highness
 彬子女王が後任を快くお引き受けくださいました。

因みに、この彬子女王殿下は、先日「サビハ・ギョクチェン」でお話しした
トルコと日本の親善団体である「日本・トルコ協会」の総裁をなさっています。



つまり、「かしま」乗り組みの実習幹部たちは(やっと話題が帰ってきた) 
この彬子女王殿下にマナーのご親授を賜っているのです。
つまりもう世界中どのような席に招かれても自信を持って臨めるってことですね。


なぜなら彼らのマナーは皇室直伝というこの日本でも特別な「プレミア」付きなんですから。








 

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かしま艦上レセプション~「祈り」とブログ開設4周年+1ヶ月の辞

2014-05-20 | 自衛隊

自衛隊イベントも資料見学も、ただ行って見て来るだけでは
後に残るものはなにもありませんが(わたしの場合です)、後から
写真を点検し、そこに写っているものについて具に 調べることで
初めて観て来たものの多面的な、あるいは俯瞰からの実像、
今まで見てきたものとの接点や関連性に思い当たることもあります。

さらにブログは出版物と違い、即座に反応が返ってきて、
たとえこちらの発信した情報に誤りがあっても(これが結構多いんですけど)
訂正していただけることもあり、さらに追加情報を得ることもできます。


ちょうど4年と1ヶ月前の2010年4月20日。
海軍は勿論自衛隊についての知識ゼロであったわたくしことエリス中尉が

「最近海軍が好きになったのでこれからいろいろ調べていくことにしました。
日記代わりに毎日書きますが別に誰にも読んでもらわなくてもいいです」

という態度で人もすなるブログというものを始めたのがきっかけです。
あれから4年(と1ヶ月)。

4年と云うと、オリンピックの周期ですが、生まれた子供が自分で歩いて
幼稚園に行って走ったり歌ったりできるようになる年月です。
当ブログは震災の後に長期に休載しただけで
あとはほぼ定期的に連載を続けて参りました。

この間ちょっとした事件がなかったわけではありませんが()まあ
全体から見ると大きな事故もなく、無事続いたと言っていいと思います。
読者数も当初からは考えられないくらい増え(当社比)、時折、

「こんなものをこんな大勢の人が毎日わざわざ読んでいるとは・・」

と不思議な気持ちになることもあるくらいです。


「人の悪口や感情的な非難はしない」

「誰も検証できないからといって嘘を書かない」
「コメントに対しては常に誠実に対応する」
「来るものは拒まず去る者は追わない」

こういった運営ポリシーの元に、まあ後は努力目標として掲げるのが

資料を見る手間を惜しまず極力事実を書くことを心がけること」

ですが、結果的にそうなってしまわないことも多いのは皆様ご承知の通り。
しかし、このあたりは「所詮ブログ」なので、間違いご指摘とのやりとりも
エンターテインメントの一環としてお楽しみいただけたらなと思っております。


それからこれは事務連絡です。

コメントはご本人のご希望がない限り必ず掲載させていただいておりますが、
承認制のため、IDのないコメントは掲載を控えさせていただいています。

さらに過去「コメントが届かない」という事故も何度か起こっておりますので、
もし

「コメント送ったのに無視された!」

と思っていらっしゃる方がございましたら、
そのどちらかのケースだったと思ってあきらめて(←)いただければ幸いです。

(つい先日、スルーされたことを責めているように取れるコメントがございましたので、
その方へのメッセージに代えさせて頂きたいと思います。
心当たりのある方、もしよろしかったらコメント再送をお願いいたします)

 


さて、というところで「かしま」艦上レセプションに戻ります。

前ログで写真に写っていた駐在武官たちについての説明を頂きました。



まず、この写真ですが、こちらを向いている米軍軍人さんは、

「米国国防武官兼海軍武官」

日本ではこれを兼任することになっているということでしょうか。
駐在武官というのはその昔は広瀬武夫(ロシア)や秋山真之(アメリカ)が
務めたこともあり

「身分としては軍人、公務は外交官的側面を持つ」


という任務です。

「軍人外交官」などとも俗には言われることもあります。

主な任務は在外公館に駐在して軍事に関する情報を収集することです。

軍人として実力があると共に外交官の資質も問われる、
非常に難しい配置だと思われますが、米軍の代表として日本と云う
アメリカに取っては非常に重要な国の駐在武官になっておられるわけですから、
おそらくこの方は大変優秀なのに違いありません。

ちなみに、我が日本国自衛隊では「武官」という言葉が使えないので(笑)
正式には「防衛駐在官」と称します。

でも、当の職務経験者が自分で自分のことを

「駐在武官」

とおっしゃっているので、たぶんこっちもありなんだと思います。

そして画面真ん中の白黒花柄スカートのアメリカ女性の平均的体型の方は、
駐在武官の奥方だそうです。
自衛隊の駐在武官もそうですが、国際的な社交への参加が夫婦単位になっているので、
駐在武官の奥様は外交官の妻のような社交を要求されます。

日米の士官奥様方の間での集まりがあり、その世界も中では大変、
みたいなコメントを雷蔵さんから頂きましたっけね(笑)

防衛大学校の卒業式の後に恒例としてダンスパーティが行われますが、
この慣習も

「海上自衛官幹部は夫婦単位での社交が必要となるのだから
伴侶にもそれ相応の資質と覚悟が必要」

という傾向と無関係ではないような気がします。



左の方を「キューバ大使」と見た目の
イメージだけで憶測をしてしまったのですが、実は

「パプアニューギニア大使館の公使」

だそうです。
この方はかなり流暢な日本語を話されていたそうなので、万が一、
前回のログを読んでおられたらブッチャー呼ばわりしてしまってすみません。



しかし、ということは、実習航海で練習艦隊はPNG(パプアニューギニア独立国)
にも
寄航するということのようですね。

ご存知のようにPNGはラバウルのあるニューブリテン島、ラエ、ポートモレスビー、
こういった戦史ファンにはおなじみの地名を持つソロモン海に面した国です。

練習艦隊はこのようなかつての旧陸海軍激戦地、激戦海域を通過するとき
洋上で慰霊祭を行うそうです。 

2007年、2008年度の練習艦隊はどちらも真珠湾に寄港しており、
おそらくはこのときに洋上慰霊祭を行っているはず。
この練習艦隊も、PNG寄航の際にはおそらくそこで慰霊祭を行うのでしょう。

実習幹部によると、今年はタイ王国にも初めて寄港するそうです。


 

さらに、乗り組みの音楽隊員についていくつかの疑問をあげたところ、
それに対してもお答えを頂いております。

まず、練習艦隊音楽隊は毎年臨時編成されます。
海自は全国6カ所に音楽隊を持ちますが、各隊からの選抜メンバーで
この臨時編成を行うのだそうです。

構成メンバーは各音楽隊から3名ずつ、合計18名。
これに、2尉または1尉の練習艦隊音楽隊長、2尉または3尉の音楽隊士(副隊長)
が加わります。



「かしま」の音楽隊長は本田航司2尉、
副隊長は岡崎恵一3尉であります。

この隊長副隊長を加えた20名が「かしま」音楽隊を構成します。
20名と少数なので隊長も副隊長も指揮者と演奏者を兼任します。
このレセプションバンドにもどちらかが加わっていたと思うのですが、
上の写真で立ってこちらを見ている3尉が副隊長かな?


この選抜をどこで行うかというと、海自の中央音楽隊である東京音楽隊。
楽器の構成やその年に乗艦できる女性隊員の人数などを勘案して起案し、
各音楽隊長の同意を得て選抜されるそうです。

この起案の段階でたとえば

「舞鶴音楽隊のトロンボーンは巧いと評判だから」

とか、

「呉音楽隊に確か女性のドラムがいたと思うが、どうだろうか」

とか言う風に、ある程度個人まで特定して決めるのかどうかまでは
この文章からは分かりかねますが、東京音楽隊は全国の音楽隊の
そういった情報が集まってきているはずですから、もしかしたら

「いきなりご指名」

で練習艦隊に抜擢されるという仕組みなのかもしれません。
そして、やはり「日本国自衛隊音楽隊の代表」として世界を回るので
当然ながら「選り抜き」の、特に優秀な隊員が集まって来るようです。

たとえばある年の遠洋航海で南米のグアテマラに寄航した際には、
グアテマラ・シティの国内最大のホールで演奏会を開きました。
この演奏会には大統領、国会議長、最高裁判所長官(三権の長ですね)の
臨席を賜ったほか、各大臣、国会議員、警察庁長官、士官学校の全生徒が
自衛隊音楽隊の演奏を聴くために一堂に会したということです。

これ、凄いですね。

グアテマラという国が日本に対してどういう扱いをしてくれているのかが、
この扱いからも窺い知れます。
もしこの夜演奏会場に何か起こったら国の機能が停止してしまいそうな顔ぶれ。
しかし演奏するのが日本のネイビーなので向こうにとっては心強かったと思いますが。

この同じ航海ではアメリカ・ニューオーリンズのフレンチクォーター広場でジャズを披露し、
ケーブルTVでも放映されたそうです。

ニューオーリンズというのはジャズ発祥の地で、黒人とクレオール
(フランス系が入植した地なのでフランス系と黒人のハーフ)によって
1900年頃に始まったジャズの元祖というべきスタイルです。
そのうち主流はシカゴに移り、ジャズのスタイルそのものが変遷しますが、
今でもニューオーリンズジャズはそのスタイルを残しています。

「日本人で言うところの民謡とかいう感じなのかねえ」

音楽仲間で時々こんな会話をしたことがあります。
アメリカにおける音楽は決してスタイルは一つではなく、一旦生まれた音楽は
2014年の現代でも生まれたままの形で継承されており、
当時のままのスタイルで演奏するミュージシャンが一定数いるというのが実感です。

いまだにカントリーミュージックというのが音楽シーンに現役で生きているのを始め、
その後生まれた、たとえばビバップや、モダン、そしてフュージョンなんてスタイルも、
最初から変わらない形で演奏され、それを好んで聴く層も必ず一定数います。

たとえばこのニューオーリンズでは、やっぱり今日も100年前と同じジャズが、まるで
伝統芸能のように演奏されているわけですが、わたしの興味は、このとき自衛隊音楽隊が
演奏したジャズが「どのスタイルで曲は何だったのか」に非常に興味があります。

やはり「ご当地ジャズ」であるニューオーリンズ風なものをやったのか。
それともあまり関係なく、「日本の自衛隊としての普通のジャズ」で攻めたのか。 

ニューオーリンズの人々が日本から来たネイビーバンドの奏でるジャズを
どのように聴き、評価したのかも気になるところです。 


音楽隊の実力について書いてきたついでに、世界の軍楽隊が結集する音楽祭、
"TATOO"というものがあります。

わたしも恥ずかしながら今まで知らなかったのですが、世界の三大TATTOOのひとつに
スコットランドで毎年7月行われる

「ロイヤル・ノバスコシア・インターナショナル・タトゥー」

があり、我が日本国自衛隊音楽隊は、過去、このタトゥーへの参加をしてきました。
日本の吹奏楽は小学生のバンドですら完成度の高い演奏をすると言われるほど
世界的に見てもレベルが高いのですが、こういった音楽祭で海自音楽隊は
日本の「軍楽隊」としてその優秀さ、ひいては日本の文化レベルそのものの高さを
披瀝する役割を担っているのです。

ちなみに今年は東京音楽隊単独でノルウェイで開かれるタトゥーに参加する予定で、
そこでも三宅由佳莉三等海曹が大変注目されています。

GET TO KNOW SINGER YUKARI MIYAKE

このページでは三宅三曹がインタビューされています。

英語を読むのが面倒な人のためにざっと概要を示しておくと、


歌手三宅由佳莉さんについて知る


日本から

海上自衛隊東京音楽隊と歌手三宅由佳莉さんにとって
これが最初のヨーロッパ公演となる。
我々はオスロスペクトラムでリハーサル中の三宅さんに少しの間
お話をしてもらった。

Q、日本海軍の←所属としてどんな毎日ですか?

A、「5年前までは自衛隊に雇用された歌手はいませんでした。
わたしが最初の歌手で、現在も唯一の歌手です。

プロの歌手である一面わたしは三等海曹の階級も保持します。
わたしは歌手と海軍将校のどちらもであることを誇りに思います。」

Q、ノルウェイのミリタリータトゥーにどんな期待を持っていますか?

A、「他の参加チームのパフォーマンスを楽しみにしています。
我々の演奏ではノルウェーの人々に日本文化を伝えられればいいなと思います。
わたしにとって海外のバンドとの初競演ということになり、
大変エキサイティングなものになると思います。」

Q、「祈り」という曲は2011年の日本の津波に関連して書かれました。
日本の内外であなたはこのため注目されていますね。
どうしてこの曲が多くの人々の心をとらえるのでしょうか?

A、
「『祈り』は河邊一彦大佐(まあまあw)によって2011年の東日本大震災の

犠牲者のために書かれました。

(河邊がなぜか原文ではWatanabeになっている)

大変困難なときにこの歌は皆に希望を与えたと思います。
夢や未来への希望を持ち続けることの大切さ、
たくさんの思いのこもった歌でもあります。

「Mirai e no Utagoe」というCD発売後、この歌は
日本以外でも良く知られるようになりました。
そのことをとても感謝しています。

つまりこの歌の意味は、それを必要とすれば
希望、エナジー、そして明日への信頼は必ずやってくるということです。 」


 

 【音楽】 「祈り」~海上自衛隊音楽隊




「かしま」とはちょっと関係ない話になってしまいましたが、
このまとまりのなさもまたこのブログということで。
ということを説明しようとしたわけではないですが(笑)
というわけでおかげさまで4周年を1ヶ月前にいつの間にか迎えておりました。
これも皆様方のおかげです。

ありがとうございます。


 



 



 

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練習艦かしま艦上レセプション~自衛艦旗降下

2014-05-18 | 自衛隊

練習艦「かしま」の練習艦隊出航前艦上レセプションに
お招きいただいた日のことをお話ししています。

何度も書いているようにこのレセプションは、練習艦隊出航前の
実習候補生への「激励」の意味があるわけですが、 別の言い方をすれば
彼ら新人が自衛隊に理解のある関係企業、政治家といった

「これから長い自衛官生活でお付き合いして行く社会」

へのお披露目、というかデビューでもあるわけです。
パーティといっても次々にお偉方が面白くもない訓示をしたり、
政治家が交互にここぞと演説をぶったり、という日本的野暮なパーティではなく、
挨拶も防衛大臣一人だけ、乾杯の御発声とやらもなし、ましてや
変なアトラクションやイベントも一切ない、欧米式パーティ。

何でもないことのようですが、こういう「社交中心」のパーティは、
世界中でこういった外交を仕付けているスマートな海自らしいなあ、
と思ってみていました。

そしてその小野寺防衛大臣の挨拶ですが、帰ってきたばかりのジブチで
海自の派遣部隊、護衛艦「いなづま」を視察したことなど触れながら
しかし時事問題に付いてはそこそこに

「半年後には見違えるほど逞しくなって帰って来られることを期待します」

と激励の言葉を簡単に述べるというものでした。

個人的意見ですが、小野寺大臣の声はまるで青年みたいなので、いつも
「大臣らしくないなあ」と思います。

もっとも、尖閣問題でも中国に対して言うことは言っているし、
例の特定秘密保護法案のときには民主党の福山議員の

「機密文書が34000件も無断で破棄されてるんですよ」 

という鬼の首を取ったかのような居丈高な質疑に対し、

「34000件のうち30000件は民主党政権で無断で破棄されてました」

とソフトな応対が却って皮肉に見えるという効果になっていました。
この日の祝辞は非常に簡潔でわかりやすく、小野寺大臣支持のわたしは勿論、
実習艦隊の皆さんも

「もしもしの人とか、不適切発言連発の人とかでなくてよかった」

と思うこともあるのだろうか、などと考えておりました。



女性自衛官(白シャツの向こう)が小野寺大臣(グラスを持っている人物)
に向けるこの好意的なまなざしをご覧下さい。



そういえばね。

わたし、このレセプション会場であの議員を見てしまったんですよ。
朝鮮日報で働いていところをよりによってあの菅直人に見出され、
議員になった後も「外国人参政権の成立」を民団からの後押しで通すことを使命としている
あの民主党の帰化議員を。

新大久保の韓国人会の集まりで「みなさんのために外国人参政権を実現する」
と朝鮮語で挨拶したと云う、あの人物を。

たしかこの人物は民主崩壊ぎりぎりの土壇場で、内閣府副大臣になり、
それが間違いなく人生最後の大臣経験になるはずですが、腐っても「元大臣」
という肩書きはいろいろと「使える」ようで、ここでも列席者と
「わっはっはー」な態度で偉そうにしていました。(←私情挟んでます)

それにしても履歴を見る限り政権与党時代にも防衛省と何の関係もなさそうだったし、

一体なんだってこの人がここにいるの?(♯)

わたしはこの人物をつい不審者を見る目でまず見とがめ、続いて
そのうち二人の人物と話している彼の「ウェーッハッハッハ」な態度に
「非常な嫌悪を感じ」、今度はあたかも

ゴミを見るような目

で見てしまいました。
そして、ちょうどそのとき二人が議員からそそくさと?離れて行ったので、
わたしはゴミを見るままの目で
こちらを見たこの人物とバッチリ視線を合わすことになってしまいました(笑)


実はですね。

先日佐世保のセイルタワーを見学したとき、その館内で、わたしが参加した
平成24年度観艦式の映像がで放映されていたのす。

それを見て初めて観艦式のドキュメントDVDが出ていたことを知り、帰宅後
早速注文して観たわけですが、旗艦「くらま」で、当時の内閣総理大臣である
野田佳彦がもっともらしい訓示をしているとき、後ろになぜかいるんですよ。

この人物が。


しかも観艦式当時は彼は副大臣でもなく、単なるヒラ議員だったはず。

何なの?
もしかして自衛隊好き、とか?

巷間伝わるこの人物の悪行、わたしは決して許すものではないけれど、
もしそうなら、その好感度を表す針を少しだけプラスにしてやってもよい。

ただし少しだけな。

しかしまあレセプションに来ていたと言うことは自衛隊が
招待をしていたということでもあるんですよね。

どなたか、自衛隊とこの議員の関係で何かご存知の方はおられませんか?
北澤俊美の例もあることだし、この人物が何か自衛隊から受け入れられるような
功績を残している、というのならぜひそれを知りたいと思います。




レセプション会場はテントで囲まれているだけなので、
屋根のないところでは煙草を吸うことが出来ます。

この手前の人物が何を携帯写真に撮っているかというと、



ちょうどこのときに自衛艦旗降下が始まるところだったからです。

世界共通の海軍の規則として、停泊中は午前8時から日没までの時間、
航海中は常時、艦尾の旗竿ないし斜桁(がふ)に軍艦旗を掲揚します。

朝は8時と決まっていますが、問題はこの「日没」。
気象庁発表の「午後6時38分」、これがこの日の「日没」でした。

ということは毎日降下の時間は変わり、それは「日が落ちた瞬間」なのです。

「自衛艦旗降下」で画像を検索していただくと、夕映えに照らされながら
旗を畳んでいる自衛官たちのシルエットを写した、実に絵になる写真が
たちどころにいくつか出て来ると思いますが、この軍艦旗降下もまた、
旧軍時代から連綿と変わらず行なわれてきた毎夕の行事なのです。


ところで、もし「ネイビーブルーに恋をして」などというブログをするほどに
「海軍ファンである理由」、つまり「海軍の何に惹かれるのか」をもし
聞かれたのなら、わたしは迷うことなく「礼式の美しさ」であると答えるでしょう。

サイドパイプによる乗艦、舷門で立ち止まり軍艦旗に向かって行う敬礼、
(先日の舷門での海将の敬礼は旗に向かって行なわれたものです)
登舷礼式、そして軍艦旗の掲揚降下。
日常のいたる場面において当たり前のように古くから受け継がれた儀式が行われる・・。

旧軍の伝統を変わらず護り続ける海上自衛隊は特殊な世界であり、
だからこそ一般人に取っては憧れの対象であり続けているのです。

いま目の前で今行なわれようとしている降下の儀式も、
おそらく明治の年間から日本という国の海軍が存在するかぎりはずっと、
そしてそのフネがあるところではいかなるときでも同じように
・・・・・平和なときも、そうでないときも、そこが日本であっても、
遠い外国の港であっても、全く同じやり方でなされてきたものなのです。

「本日の日没は午後6時38分です」

そのようにアナウンスがあり、皆がカメラを構えて見守る中、
自衛艦旗の下には海士と海曹が二人立ち、
後ろに回した掌を外側に向ける独特の起立姿勢のまま、
じっと立って待ち続けます。

このような態勢になって放送があったのは日没の3分前でした。
3分間、降下係は微動だにせずその瞬間をこうやって待つのです。

彼らには毎日のことなのでしょうが、カメラを構えて待つ側にとって
この3分はとても長く感じられました。



号令をかける士官(だったと思います)。
腕章を巻いているのでこれが当直士官?

向こうに立っている無帽の一佐は「かしま」艦長でしょうか。



そして、6時38分になりました。
海曹がゆっくりと旗を降ろし始めます。
糸をたぐるたびにクロールのように腕を曲げないでまわし、
持ち替えるという、独特の降ろし方をしていました。

今気づいたのですが、この降下係は全員が腕章を巻いています。
つまり当直当番(海士)と当直海曹、つまり当日の当直が
護衛艦旗の掲揚降下をすることが決められているんですね。



喇叭手は海曹海士各一人ずつ。
手前は海士長で、外国の軍隊の階級で言うと上等兵(プライヴェート)です。

そして4年前までは全く知らなかった、(しかし今やおなじみの)
喇叭譜「君が代」が吹鳴されました。

この喇叭は観て頂くと分かりますが、ピストンがついていません。
これもサイドパイプと同じく「口先三寸」で、

「どーそーどーどーみー、どーそーどーどーみー、
みーみーそー、みーみーそー、みーどみそーそーみーどどどー、

そーそそそーそーみーどーみーど、そーそそそーそーみーどーみーど、
どーそーどーどーみー、どーそーどーどーみー、
みーみーそー、みーみーそー、みーどみそーそーみーどどどー」

という1オクターブ半のド、ミ、ソを吹き分けるわけです。
なぜか口で吹き分けると喇叭の音もその高さが鳴る仕組みです。



自衛艦旗はもうとっくに下に降りているのに、海曹は上を見ていますが、
視線もかならずポール頂上と決められているのかもしれません。

ちなみに先日佐世保で買って帰った自衛隊礼式辞典によると、

定時に自衛艦旗を掲揚降下する場合の敬礼

自衛艦において定時に自衛艦旗を掲揚し、又降下するときは、
定時10秒前にらっぱをもって「気を付け」を令して定時に
国歌1回を奏するものとし、この間次の各号に定めるところにより
敬礼を行なう。

ア 当直士官は、艦橋または後甲板付近に位置し、
 自衛艦旗に対し挙手の敬礼を行う。

イ 艦橋および露天甲板にある者は、自衛艦旗に対し挙手の敬礼を行い、
 その他の場所にある者は、姿勢を正す敬礼を行う。

つまりこの間当直士官たちは敬礼をしていたはずなのですが、
旗を降ろしている写真ばかり撮っていたので、それを見損ないました(笑)



さて、降ろして今掲揚綱から外しています。
この辺の一連の動作もちゃんと決まっています。
連続写真を撮ってみました。



まず縦半分にたたみます。
このとき、ちょうど旗の中央部に当直士官が立つようになっているようです。

それはともかく・・・・何なの?

こういう儀式の最中に、外したばかりのポールの下に出張って行って、
わざわざ皆が観ている中写真を(しかも携帯で)撮ってるおっさんは。

そうそう、この写真で思い出したんですが、ここ晴海のレセプションでも
いたんでした、「マナーの悪い人」が。
それがこのおじさん。

しかもこの方、皆が降下の写真を撮るために人垣を作っているうしろから
ずいずいと分け入ってきて、連れの女性に

「んなもんいいんだよ前に出て写真撮ったら!」

と大きな声でいいながら皆の前に出て行き、まだこうやって自衛官が
自衛艦旗をたたんでいる、つまり儀式の最中だというのに、
後ろの「あさぎり」「せとゆき」の写真をせかせかと撮りに行っているわけ。

後ろの護衛艦は最初からずっとそこにあるんですけど?

今そうやってわざわざ皆の前で写真を撮らなきゃいけない理由って、何?




それはいいとして(良くないけど)自衛艦旗は縦にもう一度たたみます。
最初に細長く折ってしまうんですね。



ほらおじさん、喇叭手の立つ場所をふさぐんじゃない!

とそちらにイライラしつつも旗の方に注目。
一旦たたんだ旗を裏向けました。
旭日の太陽の方が折りの山側に出るようにしたようです。
海士長は膝を使って丁寧に端を合わせています。

しかし、いつでも撮れる護衛艦より、滅多に見られないこちらを
今は写真に撮っておくべきではないかと思うのはわたしだけだろうか。

何なんでしょうねー、こういう人って。



二人が歩み寄って端と端を合わせます。
ちょうどこうすると太陽が真ん中に出るんですね。



さらにそれを半分に。
これは二人でないとたためませんね。
そして、当直士官は滞りなくそれが行われるかどうかチェックする役目。



もう1回半分に。




自衛艦旗授与式で副長が授与された自衛艦旗を持っていましたが、
それとは少し違う(授与式のときはさらにこれを半分に折って三角にしていた)
ような気もしました。

しかし、この後どんな状態で誰が持って行ったのかまでは確認できませんでした。



降下を終えた隊員は一列になって引き揚げて行きます。
そのことはアナウンスされ、皆は隊列に対し拍手で見送り・・・・はありませんでした。

というわけで降下終了。

自衛艦では、毎日このような儀式が朝に夕に行われているのです。
またもやいいもの見せて戴きました。わたしは満足です。



続く。

 

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練習艦かしま艦上レセプション~「かしま」カレー

2014-05-17 | 自衛隊

さて、この艦上では知り合いの方、知り合いの紹介で初めてお会いする方、
元からこちらが存じ上げていたけど初めてご挨拶した方、そして
アテンドしてくれた「かしま」の実習幹部など、多くの出会いがありました。

が、(笑)今日はとりあえずレセプションで出された御馳走のことからです。

なぜなら、まずどんな一流ホテルの宴会にも引けを取らないような、
いや、わたしの見た限り大抵の立食宴会よりもよほど豪華なこれらの料理は、
これ全て練習艦「かしま」のキッチンで作られ、そこから運ばれてくるわけで、
これについて語ることはすなわち「かしま」全乗組員の胃袋を支える調理人、
「給養員」の技量を語ることになるからです。


「カレーグランプリ」のイベントが、実は自衛隊的には

「給養員の存在並びにその技量を知って頂くためのもの」

であった、ということはこのブログでもお話ししたわけですが、
そういった時流に乗った自衛隊のあの手この手の広報が功を奏してか、
最近では、給養員を目指すために自衛隊を志願する者もいるようです。
(全くデータはありませんが、ヤフー知恵袋の質問の多さで独自に判断)


ところで、この項を書くために調べていて初めて知ったのですが、
陸自には「給養員」はおらず、交代で給養を行なうのですってね。

そういえば「野外烹炊」1号だか2号だかでカレーを作っていた隊員は、
調理をするにしては妙に体格がムキムキで、鍋を混ぜているというよりも
コンクリでも練っているようなワイルドさがありましたが、
あの違和感は専門の調理係ではなかったからなのか。

「汗の隠し味を加えながらガテンな作り方をして」

などとそれを評したのはあながち思い込みでもなかったってことなのね。

話がそれました。
陸自のガテンカレーも時と場所によっては最高の御馳走ですが、それはそれとして、
やはり「海軍の台所」つまり海自のキッチンはは三隊の中でも特別だと思われます。


昔から「外国航路の船で料理を作っていたコック」というと、それは
「一流の腕」を保証されていたように、船舶上の料理は、そこが閉ざされた海の上で
食事が最大の楽しみであることから、非常に重視されてきました。

「海の上で戦う軍隊」である海軍もまた、その慣習を踏襲し、
さらにその上にイギリス海軍から手本を得たマナーを加味して、あの、
一種独特な海軍の食文化を作り上げてきたのです。

帝国海軍の直系であるところの海上自衛隊がその伝統を受け継いでいるのは
当然のことと思われるわけですが、さらにこの「かしま」はそれに加え

「初任幹部の練習航海という目的とともに、訪問国との親善という任務があるため
寄港地では数々の公式行事を行ない」

「大統領や国王、首相など、訪問国の元首クラスの賓客を迎えるための特別公室を持ち、
また、このようなレセプション会場として使用される」

といういわば「外交艦」の役割を担っています。

つまり、国際外交の場にも供される料理を一手に賄うこの「かしま」のキッチンは、
単なる推測ですが、全海自艦艇のなかでももしかしたら

特に優秀な給養員が配置されているのではないだろうか

と思われるのですが、果たして実際はどうなのでしょうか。




さて、「かしま」レセプション会場は豪華な刺身の盛り合わせ、
あるいはローストビーフや華麗な飾り付けで仕上げたオードブルも勿論ありましたが、
パーティ会場には付きものの屋台が三つ出されていました。

 その一つ目、やきとりコーナー。



TOは護衛艦の上に屋台が出ているのにまず驚いていました。
時間が経つと不味いもの、特に焼き鳥などは屋台で出来立てを食べるに限ります。

出来て間髪入れずに食べないと秒速で不味くなるものの代表に天ぷらがありますが、
わたしは天ぷらの屋台でキスの天ぷらを一つだけ抹茶塩で食べてみました。
(種類がありすぎて迷って選べないほどたくさんの種類の塩があった)

さっくりしてふわっとした歯触りは天ぷら屋さんの揚げたてとまるで同じでした。




おでん屋台。

こういう屋台も護衛艦の「備品」で、この法被やかぶり物も全て
艦内のどこかに日頃は収納されていると考えるとなんだか微笑ましいですね。

屋台の後ろにはなんと三人もの給養員が待機していて、
品薄にならないように補充する係をしています。
TOがよそっておいてある皿を手に取ると、女性の方が

「新しくおつぎします」

といってよそってくれました。
彼は卵以外(彼はなぜかおでんの卵が大の苦手)を全部頼み、

「大根以外は皆美味しい」

大根はさすがに煮込み出してあまり時間が経っていないので
「味が沁み込んでいなかった」とのこと。

そしておでんの向こう側はカレーの鍋が!

そこでわたしはカレーをよそっている自衛官に、

「これは『かしま』のカレーですか」

と訪ねました。
この質問の「かしまのカレー」という言葉には

「このカレーは、海上自衛隊がカレーグランプリなるものまで
催すほどに有名になった護衛艦オリジナルレシピ、たとえば

たまねぎにんじんじゃがいもにんにくしょうがは水洗いして汚れを落とし

皮を剥いてニンニクショウガをみじん切りにしタマネギ3分の2をさいの目切り
牛豚鶏肉さいの目切りジャガイモさいの目切りし人参はいちょう切りし
りんごは皮ごとおろし金で刷りそれらを鍋に入れ菜種油で
焦がさないように1時間炒め
カレー粉ガラムマサラブラックペッパーを入れ
香りを引き出しタマネギ人参バナナ
トマトホールに水を加えて
ミキサーで細かくみじんにしたものと野菜や肉と湯を会わせ

湯とローリエを入れあくを取りながら各素材を柔らかく煮込み火を止め
固形カレーを入れ
中濃ソースウスターソース焼き肉のたれ蜂蜜白ワイン
プレーンヨーグルトなどで味を整え
それらを再び鍋に入れて火にかけ
攪拌しながら加熱しバター牛乳を入れさらに攪拌しながら
味を調整する


というような手間と家庭で作ったら家計を(略)というようなものを
さらに「かしま」のキッチンの威信をかけて作ったオリジナルカレーなのですか」

という意味を全て込めたつもりです。

対してはっぴにかぶり物、同じ格好をしていても新宿の炉端焼きで働いている
バイト青年の10倍くらい立ち居振る舞いにこころなしか緊張感の感じられる
「カレー配膳係」はおそらくわたしの質問の意味を直ちに理解したのでしょう。
たった一言、

「そうです」

と答えました。
わたしはその答えのなかにに上記15行への力強い肯定を読み取って
ありがたく一皿よそって頂くことにしたのでした。大げさだな。



いざ勝負。

わたしが食べる前にすでに一皿手にしていたTOがまず、

「何これ!うますぎる!」

と目を丸くして感嘆しました。

横須賀を本店に持つ多くのカレー本舗とやらが「海軍カレー」と銘打って
あの手この手でレトルトカレーを販売しているわけですが、
本物の海軍カレーはそれらとははっきりいって全く別物。格が違います。

一口含んだとたん、まず感じるのはまろやかさ。
とにかくそこに加えられた食材の数の多さと、それを調和させるための
気の遠くなるような工程がたゆまぬ研究と工夫を経て凝縮されている
というに相応しい複雑な味でありながら、
こっくりと煮込まれたルーの舌触りの滑らかさ、絶妙の粘り気。

それは辛すぎもせず甘くもなく抑制され、しかし旨味を感じずにいられません。
そしてカレーを受け止める白いご飯は一粒一粒がぴかっと光っており、
これも柔らかさと粘りはカレーとの間に妙なるハーモニーを生み出しています。
まさに名人芸のような至高の一品がそこにはありました。

しかも(まだ言うか)これだけ煮込まれて滑らかな口溶けでありながら、
その中にしっかりと存在感を主張する具の数々。
ビーフ、タマネギ、人参、それらの味わいも残しつつ調和しています。

一言で言うと、美味しかったです(笑)


実はこれを食べたとき、わたしは今更ながらにあのカレーグランプリで、
多少無理をしてでも、護衛艦見学に不便を来したとしても、
各艦自慢のカレーを食べておくべきだったとあらためて思いました。

「かしま」はそのときのグランプリにはエントリしていません。

わたしは食べた瞬間、

「もしかしまが出品していたら間違いなく一位だったに違いない」

と思ったくらい、つまりこのカレーは衝撃的に美味しかったのですが、
それが最初に推理したように「かしま」がその艦の性質から特別に
選抜されたような給養員を集めているからなのか、それとも海自は
ごく普通のレベルとしてこれだけのカレーをどこの艦でも作れるのか、
もしあのときカレーを少しでも食べていたら判断できたと思うからです。





こういう舟盛りの台も備えているってことなんですねこのフネは・・。
そして今気づいたのですが、この舟盛り始め刺身の乗っているトレイ!


これは・・・・・・海を表しているのではないだろうか。

アルミホイルをくしゃくしゃにしたものを広げて敷き詰め、
上からブルーの透明のシートを張ったもので、



これを見たところ、専用の「刺身用ステージ」だと思います。

さすがは海上自衛隊。
「海」へのこだわりは三隊一だ。



こちらからハムとソーセージ、寿司桶、海老フライ。
残念ながらいかに意気込んでもカレーの小皿を食べてしまった後には
寿司桶からサーモンの握りを一つつまんだだけに終わりました。

無念じゃ・・・・。



ちょうどお開きの頃にはわたしたちは「別腹部隊」となって
口直しのフルーツなど賞味していました。

デザートのスイーツはヨーグルトにフルーツを混ぜ込んだものとかで、
さすがの自衛隊も専門のパティシエはいないらしく、ケーキは見ませんでした。
このプチフールを一つ取ってみたのですが、どちらかというと、
「彩り」「装飾」の意味合いが大きいのではないかと思われました。

どういう意味かというと、深い意味はなく、このタルトは一口いただいて
後は速やかにTOに処理を押し付けた、というお味だったという意味です。



会場にはこのように、幹部候補生が江田島を卒業したとき、
兵学校の卒業生のように「表門」である港から旅立ち、
練習艦隊に乗り込む様子、(おそらく)ロングサインに送られて
見送りの人々に「帽ふれ」をする様子が写真で展示されていました。



かっこいい米海軍軍人発見。
招待客は米海軍からは勿論のこと、この練習艦隊が寄港する国の大使館員、駐在武官。

アテンドしてくれた実習幹部によると、

「今年実習航海としては自衛隊が初めて寄港する土地もある」

ということで、キューバを代表して大使が来ているとのことでした。



この左のアブドラ・ザ・ブッチャーな人(ご本人は見てないと思うけどすみません)
がそのキューバ関係の方ではないかと思うのですが、自信ありません。



大阪で参加された読者の方のコメントによると、

いろんな人がいて気おくれする必要はなかったのですが、逆に、
ん~・・・マナーがちょっと、な人がわりと見受けられたのが残念でした。

ということですが、やはり晴海はマナーは全く皆さん問題ありませんでした。
場所柄多くのVIPが出席していましたし。

そしてそのVIPの最高峰発見。

ブッチャーと右手の海将の間に見える後ろ姿の男性、
名刺を出そうとしているのは、小野寺防衛大臣です。

小野寺大臣はジブチから帰国したばかり。
アフリカでは、南スーダンでのPKO活動に参加している自衛隊や、
ジブチにあるソマリア沖の
海賊対策に当たる自衛隊の活動拠点を視察しました。

イタリアも訪問し、国防相との会談で東シナ海や南シナ海での中国の動向や、
緊迫の度合いを深める
ウクライナ情勢を巡って意見を交わし、
力による現状変更は容認しない立場を確認したそうです。

(イタリア国防相って、女性なんですね。防衛省の報告に写真が出てますが)

南スーダンやジブチで活動する自衛隊を防衛大臣が視察するのは初めてなのだとか。

NHKのニュースによると、安倍政権が掲げる積極的平和主義の下に
海外での自衛隊の
活動を重視する姿勢を強調する、という狙いがあったようです。


小野寺大臣は個人的に大変好感を持っているのですが、さすがに
これほどの大物ともなると周りが放っておくわけもなく、次々と
大臣の前には名刺交換のために人が訪れ、一緒に写真を撮ったりして
一瞬たりとも話しかけるチャンスはありませんでした。

まあ、話しかけるつもりも予定もなかったんですけどね。




そしてわたしが職業柄耳をそばだてて注意していた「艦上バンド」。
勿論音楽隊の選抜メンバーです。

音楽隊の稼働に付いてはいくら音楽関係者でも外部からは全く
その実体は窺い知れません。

たとえばこのメンバー、キーボード、ドラムス、ブラス、木管、
(あれ、ドラムスは女性だ)彼らはこの「かしま」に乗り組みで
最初から最後までずっとここで演奏するのか?

あるいは東京音楽隊から派遣されてこのレセプションのために
臨時編成されたバンドなのか?

他の音楽隊員より拘束時間が長かったりする場合、
手当は出るのか?(これはたぶん出ないと思いますが)

キーボードを弾いている人は、おそらくキーボードではなく
別の楽器で入隊しているはずだけど、ピアノが弾けるから
こういう場合にはキーボード奏者になっているのか?

ジャズナンバーもやっていたけど、アドリブソロは
コピーではなく本当に「アドリブ」なのか?

彼らにもし質問する機会があったら、これらの疑問、
特に最後についてを聞いてみたかったです。

ちなみに、演奏していたのは軽めのジャズやラテン、
映画音楽といったところ。

「黒いオルフェ」「The shadow of your smile」

などが耳に残りましたが、後は社交と食べるのに集中していて(笑)
曲名で覚えているのはこの2曲だけです。なかなか情けないですね。

しかし、耳はしっかり音楽をいつも捉えていて、
そのときそのときで内容をチェック(どうしてもね)してしまうのが
腐っても音楽関係者の習性というもの。

いわゆるジャズ奏者の「バイショー」的仕事のように曲名とコードだけで
「ぶっつけ本番」しているようなアレンジには聴こえなかったのですが、
(ちゃんと皆楽譜を見ていたし)こういうパーティー用の曲はやはり日頃から
ちゃんとアレンジした楽譜がストックしてあるのでしょうか。


本来ミュージシャンに取っては「アルバイト」的感覚で受けるこうした仕事も
彼らにとっては「自衛官としての任務」であるというのが不思議な感じがします。
超一流ホテルの宴会にも負けない味を、決して広くない自衛艦のキッチンから
魔法のように作り出す給養員たち、なんていうのもそうですが、
あらためて自衛隊という組織の職種とそれにかかわる人材の多様さを認識します。


続く。









 


 

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練習艦かしま艦上レセプション~女王陛下のキス

2014-05-16 | 自衛隊

「かしま」JS Kashima, TV-3508

は、練習艦として日本の艦艇としては3代目にあたります。

ところで当ブログでほぼ毎日閲覧数のトップに上がって来るのが


「女王陛下のキス」

というエントリなのですが、これは「かしま」第6代目艦長の上田勝恵1等海佐の
洒脱なユーモアが日本のナーヴァルオフィサー、ひいては
日本国自衛隊に対する評価を多いに高めた、
という逸話について書いたものです。

たとえばこの件のような衝突事故が起こり、起こした側に対し起こされた側が
「何でもありませんよ」と慰める意味でいうのはいわば普通ですが、それを

「女王陛下にキスされて光栄に思っております」

ということによって相手のフネが「HMS」つまり「Her Majesty's Ship」
であるということを
尊重し、それを讃えているという意味も加わったわけです。
言われた当のイギリス海軍はほっとすると同時に

「やられた!」

と舌を巻いたのではなかったでしょうか。
人の失敗を責めず、相手の気持ちを汲んで思いやるための一言。
ユーモアというものは本来かくあるべきだと思うのですが、
こういう上質なものは「知性」と「情」なしに生まれるものではありません。


勿論これは上田1佐個人の優れた資質から生まれた逸話ですが、
元来我が日本国自衛隊には海軍時代から継承された
「ユーモアの土壌」
がありますから、自衛隊には、いざというとき
上田1佐のようなスマートさを発揮できるオフィサーが
結構な数潜在
しているに違いないとわたしは思っています。

さて、その「女王陛下の接吻を受けたこともある」「かしま」に
いよいよ乗艦するというところまでお話ししました。

その前に。



雷蔵さん、おっしゃっていたものはこれですね?

こんなこともあろうかと(嘘ですけど)佐世保の倉島岸壁で立ち寄った売店で
購入しておいた「海上自衛隊 礼式参考書」
ここは自衛官用のこういった小冊子が売られていて、部外者でも
買えることがわかり、手に入れたものです。
ちょっと事情があって汚れてしまいましたが、新品です。

「わたしが招待されたのに封筒の宛名がTOだった」

と(別に不満ではありませんがこういうものだったということで)
前項に書いたところ、海自のこういったレセプションは世界共通マナーに準じるので
夫婦単位で招待される場合は招待者であるわたしも「令夫人」となる、
というコメントをいただいたのですが、
この本はレセプション招待の際の礼式までには言及しておりませんでした。

目次を列記すると、

敬礼、答礼、儀式、栄誉礼、と列、儀仗、礼砲、海外派遣の礼式

が述べられています。
自衛官が個人で確認する「ハンドブック」だからでしょう。
おそらくこういう行事のためにはもっと詳細な礼式本が備えられているに違いありません。



わたしたちはまず受付のテントに立ち寄りました。
すると、ここで貰えるはずの名札ができていないことが判明。

それもそのはず、わたしたちの出席が決まったのは連休明け、
当日まで1週間を切っており、さらにはがきが届いたのは3日前。
出欠の返事も日にちがなく出していませんから、
出席者名簿にも載っていなかったのでしょう。

しかも女性自衛官に

「すみませんが、招待状をお見せいただけますか」

と言われて車に置いてきたのに気づき、慌てて取りに帰ったという段取りの悪さ。

企業のパーティならなあなあで入れてくれるかもしれませんが、
何しろ会場は自衛艦、列席者は自衛隊高級幹部は勿論のこと防衛大臣始め政治家多数。
警備の面からもそういうアヤシイ身分の者を自衛官の判断で入れるわけにいきません。

招待状を見せ、名札を作ってもらって(TOは名刺を名札にした)
ようやく乗艦することができるようになりました。



ラッタルを上がる前にラッタル下で待機している実習幹部が
影のように(笑)寄り添ってきて、

「艦内までご案内いたします」

といいつつ先導をしてくれます。
ラッタルの前にはセーラー服の海士くんたちが並び、
その間を通過していくという、晴れがましいと云うか気恥ずかしい状況。

彼らを「舷門堵列員」といいます。

艦長や司令官の交代行事、艦の所属する指揮系統上の上司による巡視、
検閲、高官の公式訪問等、当該艦に迎える対象者のランクによって
人数が決められている礼式のひとつです。

上の「礼式参考書」によると(早速役立ってます)

と列部隊は、受礼者が通る道路などの一側または両側に整列し、
受礼者の送迎に際し敬礼を行なうものとする。

とあります。

こういう些細なことも、伝統墨守の海上自衛隊にはちゃんとした決まりがあり、
おそらく海軍時代からの規則に則って行なわれているんですね。

「今日も残る海軍の歴史的伝統」をまさに目の当たりにすることができる、
海上自衛隊の行事に触れることの大きな意味はこんなところにもあります。


「ここで会合やミーティングが行なわれます」

案内の先導に立ちながら若き士官さんはちょっとした説明をします。
相手が一般人の場合、このような自衛艦についての説明をする、

という風に決まっているようですね。

わたしたちは初めてのことで、当初はこのアテンドが
「ただ中まで連れて行ってくれるだけの人」
だと思っていたのですが、このあたりから前にも言ったように
「接待係」でもあることに気がつきました。



乗組員の名札。

赤は不在かな?

上は幹部と先任海曹、下は海曹海士。
「音楽隊長」(2尉)「音楽隊士」(3尉)も名前があります。
艦隊乗り組みの音楽隊も勿論あるわけですが、それが「常設」なのか、
遠洋航海のときだけ組織されるのかはわかりませんでした。



溺者救助のための浮き輪を指差し、

「浮き輪が海に浮かぶとこの旗が目印になります」

と(わたしにとっては)周知のことを説明してくれる3尉。
しかし横にいる「本日の招待者ご本人」は何も知りませんから、
横の発煙筒を指差し、

「このオレンジ色のものは何ですか」

などと質問したりしておりました。
向こう側に今回練習艦隊に「かしま」とともに出航する

「あさぎり」「せとゆき」

が見えています。
「せとゆき」の艦長は先日「占守」のことを書いた日に

「初めての女性艦長が誕生し、初のお召し艦にもなった」

とご紹介したのですが、その「せとゆき」艦長東良子1佐は、
この日受付のところにおられました。



その練習艦隊司令官が、この方、

湯浅秀樹海将補。

向こうに立っているのが副官です。
実は今ちょっとこのエントリのために中断している有田訪問記ですが、
深川製磁の資料室でこの2日前にわたしは 



このようなものをちゃんと見つけていたんですね~。
第二護衛隊群、というのはつまり佐世保に拠点を置きますから、
ここの司令になると同時に深川製磁で壷を作る、というのが
慣例として決まっているというわけです。

この壷についてはまた後日他の写真も挙げてお話ししますが、
湯浅海将補はこうやってレセプションの客を一人一人迎え、
さらにお開きのときには同じようにお見送りするのです。

実はわたし、お見送りのときに湯浅海将補に

「二日前深川製磁で海将補の作られた壷を見たのですが」

と言ってみました。
だからどうした、って感じですが(笑)他に話もないもので。
すると海将補、

「ああ、あれですか!」

と言って、ニコニコしながら同時に両手で壷の形をお描きになりました。

海将補かわいいよ海将補。

なんか、ナーヴァルオフィサーのユーモアの片鱗を見た気がします。
・・・・単にこの方のノリというか性格かもしれませんが。



さて、会場は既に人がいっぱい。

「かしま」は練習艦隊の旗艦として、毎年遠洋航海で諸外国を訪問しますが、
初任幹部の練習航海という第一の目的とともに、訪問国との親善という任務を持ち、
寄港地では数々の公式行事があります。

そのため他の護衛艦にはない練習艦特有の装備を備えています。

まず「礼砲」を2門装備していること。
礼砲は訪問国の港に入る前、相手国の国旗に対し21発の礼砲を互いに交換し、
続けてその港
が軍港である場合、その基地の指揮官の階級に応じた数の礼砲を交換します。
このとき乗組員は昇舷礼式を行います。

艦内にも「日本国の顔」として公式儀礼を行うのにふさわしい配慮、たとえば
大統領や国王、首相など、訪問国の元首クラスの賓客を迎えるための特別公室を持ち、

また、このようなレセプション会場として使用するため、
上の写真上部に見える引き込み格納式の天幕が備えられています。



この天幕小さなランプがたくさん付いてるけど引き込むときどうなるんだろう。

と、相変わらずつまらないことが気になるわたしですが、ついでにこの
写真でカメラ目線の蝶ネクタイ白服の「ボーイさん」は、
ホテルからの出張サービスではありません。

自衛官です。

この日、ラッタルの下以外に海士のセーラー服をほとんど見なかったのですが、
実は彼らは殆どがこのような姿に身をやつしているようでした。
ちなみに、この蝶ネク白服の一人に聞いてみたところ、

「ちゃんと艦内の倉庫に日頃収納してある」

のをこういうときに出して来るそうです。
そしてその左側の少尉さんですが、これが実習候補生。
何をしているかと云うと、アテンド客のために食べ物を取っています。



お、陸軍軍人がいる(笑)
陸自幹部は何人か見ましたが、空自の幹部は見なかった気がします。

右側の女性幹部も勿論実習生。
この日女性の実習生が結構目に着きましたが「かしま」は設計段階より
女性実習幹部の乗艦が考慮されており、専用の居住区が設けられています。



それにしてもこの豪華さ・・。
アワビやサザエまでありますね。
練習艦隊でさすがに活け造りはしないと思いますが・・。
(オーストラリアではクレームで活け造り禁止)

それにしても、「ふゆづき」祝賀会とそう間も分たず、
再び美味しくて豪華と評判の「海軍のめし」を頂くことになろうとは、
実に感無量です。

「ふゆづき」パーティのときは緊張して一所にじっとしていたため
お寿司しか食べなかったけど、今日はできるだけいろんなものを味わってみたい。
皆さまにここでご報告するためにも(笑い)
そう心に決め、「かしま」レセプション会場に立ったエリス中尉であります。


というところで続く。



 

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練習艦かしま艦上レセプション~サイドパイプ再び

2014-05-15 | 自衛隊

みなさま。
行って参りました。

練習艦隊の出航に向けての練習艦「かしま」艦上レセプションに。

はっきりいって4年前は国民の一人としてその活動に感謝こそすれ
その存在は常にニュースで見るだけの遠い世界であった自衛隊。

気がつけば観艦式や観閲式、航空祭にはフル出動するわ、階級について
無駄に詳しくなるわと何の因果かどっぷりとはまっておりましたが、
さらにさらに、先日はなんと、練習艦隊が海外出航前に行なう
艦上レセプションに参加する光栄を得ることになったのです。



金の桜に錨のマークの付いた招待状。
ああ、わたしもついにここまで来たか・・・・・・・。

と、感慨に耽るには少し今回のご招待は「チート」だったんですけどね。

政治家や関係企業の関係者など、防衛省が正式に名簿を作成した
招待客とは全く別のルートからのご招待によるもので、

つまり、わたし自身の「肩書き」に対して頂いたものではないのです。

いずれにしてもこのようなブログをやっていなければ一生なかった機会であり、
つまり自分に都合良く言えばこれをすなわち


「わたし自身の業績」

と言ってもいいのかな・・・・と(照れ)



しかしながら常識的に考えて「海軍海自を趣味にしているブロガー」
なんていうのが防衛省主宰行事招待への正式な肩書きになるはずはありません。


というわけで、練習艦隊司令部から練習艦隊司令官の名前で送られてきた招待状は

宛名がわたしではなくTOになっておりました。orz


わたしと違ってTOには自衛隊行事に招待されても不思議ではないような

世間的に見てまともな肩書きがあるからなんですね。

つまり、上の返信用はがきの「ご本人」とは、
数ヶ月前までスコードロンという英単語も知らず

4年前までは「旧日本軍に空軍ってなかったっけ」と真顔でいうような、
そういう「軍事音痴」のTOのことなのです。


つまり、ご本人のみ出席、に丸を付けた場合 わたしではなくTOだけが
このパーティーに参加することになるという・・・・
・・・・

田嶋陽子が自衛隊に噛み付くのはつまりこういう部分?

いやわたしは別にこれが不満などとは全くおりませんし、とにもかくにも
初めて自衛隊から招待を頂いた嬉しさが何よりも勝っていたため、
その日を指折り数えて待ち、ついにその日がやってきました。 



それはうちにやってくる「外猫」(ちなみにどちらも雄)が、
卍になって熟睡している午後のことでした。(この部分捨てゴマ)

パーティ開始は6時。

TOを職場の近くで1時間前に拾う予定になっていましたが、
車を洗うために早く家を出ます。

うちは3月に車を買ったのですが、ディーゼルエンジンで給油の機会が
今までの4分の1(現在まで給油回数まだ3回)に減ったため、
その分スタンドにいかなくなり、今まで一度も洗車していなかったのです。

ところが都内のGSというのは本当に洗車待ちが多く、どこにいっても
「40分待ちです」「1時間なら」という返事。
3軒目にようやく30分で手洗いしてくれるところを見つけました。

「こんなに時間かかるのなら別に洗車しなくてもよかったかな」

後からそれは大間違いだと知るのですが、こんな考えも頭をよぎりました。
しかも晴海埠頭までは道が工事中、ナビの案内で行くと行き止まりになってたりして、
その辺をぐるぐる回ることになってしまい、おおいにあせりました。



しかし、何事も早めに行動を起こすが吉ですね。

道路から目標の練習艦「かしま」が見えてきたときには開始時間の30分前。

ほっとしながら誘導されるままに車を駐車場に向けたのですが、
次の瞬間我々はあっと(比喩ではなく)叫んだのです。
なぜなら、 




侵入していったところ、この車のようにどこに停めるか指示を受け、



このようなテントと隊列の前を通り抜けていくことになったからです。
しかもこのときにはまだ車はあまりいませんでしたから、
そこに起立している全自衛官が皆で見つめる前をしずしずと車は進むことになります。

「洗車しておいて良かった・・・・・・」

実につまらないと言われそうですが、これが心の底からの声でした。

しかも、来る車来る車が黒塗りのクラウン、レクサス、フーガにメルセデス、
車内に運転手を待たせている車も多数。

深川製磁の社長がプリウスに乗っているのを「かっこいい」と思いましたが、

あれほどの立場の方であると知っているからそう見えるのであって、
凡人はこういうときプリウスだったら引け目を感じてしまうかもしれません。

余談ですが、つまり本人の「実力」のない凡人(しかも俗人)ほど、

せめて車や持ち物で「格上げ」を図ろうとするものなのかもしれないですね。


ともかくこの埠頭に設けられたスペースは「そういう車」だらけでした。

「格上げ組」かどうかまでは勿論わかりませんが(笑)


さて、車を停めたもののそのときTOに仕事の電話がかかってきて、

わたしはカメラを手にしたまま「かしま」に乗艦する人々の様子を
何となく眺めていたのですが、ふとそのときに気づきました。

何分かに一度、サイドパイプの音色が聴こえるではないですか!

1佐たる艦長、指揮系統上の1佐以上の司令
(隊司令、群司令、艦隊司令官)の他、将官の場合は
指揮系統上になくても吹鳴され、陸自、空自に対しては
たとえ幕僚長であっても吹鳴されない

とされるサイドパイプ。

最近すっかりサイドパイプに詳しくなったわたしとしては、
先日、有田の次の日に立ち寄った倉島岸壁の海自売店で
自衛官が購入するものと全く同じ(そりゃそうだ)サイドパイプを
購入した直後だったんですねー。



それがこれ。


実はちょっとだけこれをペンダントにして、この日胸に下げて行き、
自衛官にだけわかるウケを狙ってみようかとも思ったのですが、
(行ってみてやらなくてよかったと思いました)
それはともかく、これ、買って帰ってすぐちょっと吹いてみました。

難しいです(笑)

なぜなら、護衛艦の乗り込みの際に吹鳴され、しかも遠くまで
音が聞こえると言うことはこれかなり音が大きいんですよ。
つまりまともに鳴っている状態のサイドパイプは、近くにいると
実は耳がつんざけそうなくらいなんですね。
ちゃんと鳴らそうと思ったらかなり強く鳴らさないとそもそも音が出ません。


余りの音の大きさに近所迷惑を恐れ早々に諦めたわけですが、そのとき
mizukiさんの父上が書斎から人を呼ぶときに使っていた、という話を思い出して

「どんだけmizukiさんの家は広いんだ・・・・」

とあらためて考えた次第です。
(mizukiさん家族もかなり迷惑だったというお話ではありましたが)

とにかくこのサイドパイプが聴こえてからと云うもの、
目の色変えたわたしが(笑)車を停めた場所からしばらく
その対象が乗艦するチャンスを窺っておりますと、




該当者、キタ━(゜∀゜)━!
艦上のサイドパイパーがもうこのときには吹き始めているのがおわかりでしょうか。

ちなみにラッタルの下に整列している乗組員は客のアテンドが任務。
右のテントで受付を住ませた客は必ずこの前を通りますから、
各グループに一人が付随して艦内に案内し、飲み物を取ってきたり
質問に答えたりして、来たばかりで所在のない客の面倒を見てくれるのです。

これ、素晴らしいシステムですよね。

人見知りでついつい知人や同じ人とばかり話し込んでしまう傾向のある
パーティ苦手な日本人には、こういうアテンドがいてくれると
非常にスムースな出だしで場にとけ込むことができます。

元々この練習艦隊の艦上レセプションというのは、実習幹部が
初めて洋上にでて約5ヶ月の長期航海に出るまえの「出陣式」の意味合いがあり、
その実習幹部と関係者が一夕の機会を共にし、彼らを励まし、また彼らの立場からは
自衛隊協力者とふれあい懇親を深める、というのが最大の目標であるわけです。


ですから、便利なシステムとかなんとかより、これがメインイベントなんですね。
上の写真では階段の先頭に立っているのが実習幹部で、
そのとき来た客に並んでいる順番でアテンド役が決まるようでした。



さて、サイドパイプです。
吹いている隊員を見ると、どうも口の正面ではなく、
右寄りに咥えるのがお作法みたいですね。

女性の実習幹部が案内しているのは背広姿の人。
にもかかわらず吹鳴されているということは、
この人にではなく、後ろに該当者が来ていたのかもしれません。


また、この日わたしは艦上で元海幕長の赤☆氏にまたまた遭遇し、
ご挨拶したのですが、たとえば赤☆氏のような退官した一般人は
もうサイドパイプが吹かれることはないわけですよね?

これ、ご本人には寂しいことに思われたりしないのでしょうか。



また該当者キタ━━━━━━━━m9( ゜∀゜)━━━━━━━━!!

因みに一番後ろを歩いているのが副官です。



こんな大アップにしてしまった・・・・。

「かしま」乗組員のこの様子をご覧下さいませ。
勿論誰が乗艦してきてもそれなりの緊張を持ってお迎えするとは思いますが、
なんかもう、この瞬間全員の注意は乗艦者に激しく集中してます。
気のせいかアテンドしている実習幹部も緊張しているような・・。

それもそのはず、乗艦者の右袖をご覧下さい。
この方は海将です。
階級社会の自衛隊でトップである将官がどのように遇されるか、
この一瞬に見事に捉えられている気がしますね。

実習候補生も、来た順番でアテンドが決まるわけですが、

海幕長や海将に当たったら、内心ドキドキするのかもしれません。



そして海将の敬礼。

・・・はあ、大変いいものを見せて頂きました。わたしは満足です。
それでは・・・・

・・ってこれで帰っちゃだめだろ(笑)
わたしはまだ受付もすませておらんのだ。



おりしも空を報道ヘリが・・・。
「かしま」を空から撮っている、というのではないと思いますが、
空を飛ぶ回転翼を見ると反射的に写真を撮ってしまうエリス中尉。


というところでTOがようやく仕事の電話を終えました。
練習艦「かしま」にいよいよ乗り込みます。


・・・・やっぱりサイドパイプ持ってくればよかったかな(心の声)



(続く)
 

 



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三井造船資料室~護衛艦「いなづま」に巡る因果

2014-05-11 | 自衛隊

まずは先日4月25日のニュースからです。

ソマリア沖 海自の護衛艦75人を救助 

海賊対策のため、アフリカ・ソマリア沖で活動する海自の護衛艦が 
エンジントラブルのため漂流していた小舟を発見し、
乗っていたソマリア人など75人を救助しました。 


23日午前、海賊対策のためソマリア沖に派遣されている 
広島県の海上自衛隊呉基地所属の護衛艦「いなづま」が 
多くの人を乗せて漂流している小舟を発見しました。 
護衛艦の乗組員が乗っていた人に話を聞いたところ、 
ソマリアを出港し、対岸のイエメンに向け航行中にエンジンが故障し、 
およそ5日間、漂流していたことが分かりました。 

全長10メートルの舟にはソマリア人やエチオピア人など75人が乗っていて、 
「いなづま」は、飲み水や食べ物などを提供したうえで、 
全員を護衛艦に収容して目的地のイエメン沖に運び、
地元の海軍に引き渡しました。 


「いなづま」は、ことし3月、護衛艦「うみぎり」と共に呉基地を出港し、 
今月中旬から海賊対策に当たっていました。 
(NHKニュース)


先日カレーグランプリのお土産に「うみぎり」の第9次派遣パッチを
何の気なしに買ってきて、そのエントリを制作中に聞いたニュースです。

ひとつのことを集中してやっていると、時折このような・・・・、
たとえばちょうどエントリ作成している日が書いている内容と一致したり、
その人について書いているときに訃報を目にしたりといった偶然が
起こるものですが、今回このパッチについてお話ししたときに

「うみぎりといなづまが今ソマリア沖に派遣されている」

という一文を書いたばかりだったのでそのちょっとした偶然に驚きました。
そういうとき、わたしはちょっとした「因縁」を感じずにいられません。
実はわたしは「いなづま」にはかつて呉で遭遇しております。



どうですかこのかっこよさ。
これを撮ったのはニコンでもカールツァイスレンズのRX−100でもなく、
3万円くらいのフツーのデジカメですが、構図とか悪くないですよね?
(これが本当の自画自賛)

2012年の6月に艦番号106の「さみだれ」に乗せてもらい、
艦長自らの案内で艦内を見学したという、今にしてみればぜいたくな経験でしたが、
そのとき「さみだれ」に乗るために甲板を通り抜けた、
という浅からぬ縁がわたしと「いなづま」にはあったのでした。

え?中を通り抜けるくらい大した縁じゃなかろう、って?

本稿の伏線なんですからいいんです。こじつけですけど。



左に見えているのが「いなづま」。

うーん、これが今ソマリア沖にいて、国際活動をしているのか。
通り抜けるときにいた人にサイン貰っておけば良かった(笑)

余談ですが、このときの「さみだれ」がわたしにとって記念すべき

「初めて乗った自衛艦」

となったわけで、見るもの聞くもの全てが珍しく、主砲の説明中に

「これは1分間に最大100発を撃つことができ・・」

と聞くなり、自制心を働かせる間もなく口が先に動いてしまい

「さみだれ撃ちですね」

と言わなくてもいいことを言って艦長に無視された、という
恥ずかしくも甘酸っぱい思い出があるのでございます。

さて、冒頭のニュースですが、珍しく日本のメディアがちゃんとこれを報じたらしく、
(とはいえ質量ともに韓国のフェリー事故の100分の1ってとこですが)
画像も伝わってきているのですが、まずこのニュースの突っ込みどころは

「10mの船に75人が乗って5日間漂流していた」

ということではないかと思います。
確かに小舟にはぎっちりと人間が詰め込まれ、何人かは船の縁に乗ったりして
ただでさえ悲惨な状態のうえ、船のエンジンが壊れて動かなくなったとあれば、
絶望に打ち拉がれていたソマリア人たちが、自分たちを発見したのが他でもない、
日本の護衛艦であったことでどんなに驚喜したでしょうか。

たとえばロシア軍などに発見されても、救い上げてくれるとは限らず、
せいぜい水と食べ物を与えるだけで軍艦には乗せないという話もありますし。

ニュースでは詳細はわかっていないらしく、助けたのがどういう人たちなのか
記述はありませんが、写真を見る限り女子供、赤ちゃんもいるという具合で
どうやら難民ではないかと思われます。

「いなづま」はボートの乗員に水と食物を与え、艦に引き上げて
事情を聞いたそうですが、ここでわたしが気になったのが、
「いなづま」乗員の英語による質問を、ボート難民(かどうかは知りませんが)
の少なくとも一人は理解し、自分たちの状況を説明することができたということです。

ソマリア人はアラビア語とソマリ語を使っているそうですが、
やっぱり英語だけはしゃべれた方がいざというとき命を救うことにもなるんですね。

日本人が英語をしゃべれないのは日常で必要がなく、このソマリア人たちのように
それで命がどうにかなるような非常時が全くないことでしょう。

日本人の外国語音痴はある意味、日本が平和で恵まれているという証拠でもあります。


「いなづま」は他の護衛艦と同じく、インド洋への派遣に当初から参加しており、
今回の派遣で4回目に当たるということです。

この「いなづま」は護衛艦になってからの二代目で三菱造船所の生まれですが、
冒頭に写真を挙げた初代「いなづま」は、この日見学した三井造船で建造されました。

昭和28年度計画「乙型警備艦1203号艦として1954年12月25日着工、1955年進水
1956年に就役ののち、呉地方隊に配属されたフネです。

自衛隊法によって警察予備隊が海上自衛隊となったのは昭和29年のことですから、
この「いなづま」はまだ警察予備隊であった時代に計画されています。

「乙型警備艦」

となっているのは、まずこのころ「護衛艦」という言葉はなく、昭和36年に
この言葉が制式になるまでは「警備艦」とよばれていたからです。
この1953年、昭和28年の計画は、日本が独立し、戦後初めて国産艦艇新造が
立案されたときのもので、

甲型警備艦(後のはるかぜ型護衛艦)2隻
乙型警備艦(あけぼの・いかづち型護衛艦)3隻

の計5隻でした。

この甲乙の分類は、何を意味するかと云うと、

甲型=汎用護衛艦=DD
乙型=小型護衛艦(通称)=DE

で、ちょっと面白いのは、このときに使われた甲乙分類は現在でも生きており、
(この部分の訂正を行わずにきてしまったせいでしょうか)予算編成などでは
汎用護衛艦のことを「甲型警備艦」、小型護衛艦は「乙型警備艦」
といまだに称しているということです。


ちなみに

「はるかぜ」は共に三菱重工業、「ゆきかぜ」は新三菱重工業、
「あけぼの」は石川島播磨重工業、
「いかづち型」の「いかづち」は川崎重工業、
「いなづま」が三井造船、

と、戦後になって艦船作りの解禁を待ちかねていた日本の造船会社に
実に公平に、建造を同時に依頼しています。

その中でもこの「いなづま」は1956年の3月と、(いかづちは5月)
最も早く竣工が完成したため第二次世界大戦後の国産護衛艦(警備艦)では
最初の就役となり、
ある意味日本の独立の象徴的な護衛艦ともなったのでした。

そして、このときに「はるかぜ」型といういかにも戦後のネーミングセンス
命名された警備艦の2番艦が、「ゆきかぜ」でした。

ゆきかぜ

想像するに、自衛隊は、というか戦後警備隊の多くを占めていた旧軍軍人は、
戦後初の国産艦には何をおいてもこの「奇跡の駆逐艦」と呼ばれた幸運艦、
「雪風」の名を持つフネを持ちたいと願ったのに違いありません。

それで「かぜ」の名が使える警備艦型、「はるかぜ」型を決めたのでしょう。

はるかぜ

全く同じフネに見えるのだけど、って当たり前か。

さて、稀代の幸運艦であった「雪風」にその名をあやかった「ゆきかぜ」は、
旧軍軍人の期待通り大きな事故もなく無事退役しましたが、
これに対し「いなづま」は、大きな事故に見舞われています。

就役6年目の1960年、津軽海峡で行われた夜間対潜訓練中に、僚艦の「あけぼの」が
操作を誤ったため艦橋に衝突し、この事故で2名の自衛官が殉職したのです。

さらに、その修理のためにその日のうちに入渠したドックで、翌日の作業中、
ガソリンに引火したため大爆発を起こし、3名が巻き込まれて死亡、さらに
従業員4名、ドック作業員3名が重軽傷を負う大惨事となってしまいました。

詳細がわからなかったので断言はしませんが、この事故は自衛隊開隊後、
自衛艦に起こったものとしては初めての大事故ではなかったでしょうか。


しかし「いなづま」は決定的な損壊にいたらなかったのか、
修理後は任務に戻り、1983年に引退するまで勤め上げました。
合計9名の死者重軽傷者が出たフネもそのまま修理して使う、というのは
海軍の直系の組織である自衛隊ならではのドライさのような気がしますが、
それより、当時の日本が貧乏だったことを考えれば、致命傷でない限り
自衛艦は使い続けるのが当たり前ということになっていたのかもしれません。


電(いなづま)

「電」と書いて「いなづま」。
「雷」と書いて「いかづち」。

どちらも「吹雪型」の駆逐艦ですが、わたしはこの「雷」の航海長だった
谷川清澄氏(海兵66)の話を聞いたとき、この

「敵兵を救助せよ」

で有名になった工藤俊作艦長の軍艦だけでなく、日本海軍は明治以来
普通にそのような状況にあれば人命を救助していた、とおっしゃったのが
非常に印象的でした。

サミュエル・フォール卿の来日で美談として急にクローズアップされたが、
決して「雷」だけがそうだったのではない、と。

そういえば、去年日本海大戦シリーズで取り上げた上村彦之丞大将

船乗り将軍の汚名返上

というエントリで、上村艦長が敵艦であるリューリックの乗員を救助した、
という話をしたのですが、あれもまた日本軍には当時当たり前の
「武士道」の現れであったということなのです。


ちなみに日露戦争で捕虜になったロシア人は収容所でお客様待遇で、
語学教室まで開いてやり現地の娘と問題を起こすものもいるくらい
その収容所生活はフリーダムだったという話もあります。


「敵兵を救助せよ」では「雷」だけが有名になりましたが、スラバヤ沖海戦の際、
「電」は「雷」とともに撃沈した「エンカウンター」「ポープ」の乗員を
376名、海から救い上げています。

このときの救助を決定したのは「雷」の工藤艦長でしたが、
近くにいた「電」は「雷」とともに「雷電コンビ」で救助作業に協力しました。
このときに救い上げられたイギリス兵は全部で422名でしたから、
「電」の方が大勢のイギリス兵を救助したということです。


冒頭にも書きましたが、こういう軍艦と護衛艦の話を見たり聞いたりしていると、
ときどきこの話のように「因果は巡る」ということの好例を見出すことがあります。

以前にも書いた「いせ」がレイテ湾に救出に向かった話もそうですし、
「ゆきかぜ」という名を持つフネが護衛艦となっても無事故だったのもそうです。
今回、「いなづま」がインド洋で75名もの人命を海から救い上げたのも、
かつての「因果が巡った」と考えてしまうのです。


ここで、最後に「いなづま」と先代、先々代の「電」の同名の因縁を
もうひとつお話ししてこの項をおしまいにしましょう。


敵兵を救助した「電」はその名の艦としては二代目です。
一代目は、大日本帝国海軍が運用した駆逐艦では最初の艦級であった 

「雷型」 (雷、電、曙、漣、朧、霓《にじ》)

の2番艦として1899年に竣工されました。
驚くことに竣工完成の次の日にはもう出航しているのですが、
このころは軍艦の就役の儀式の形がまだ決まっていなかったのかもしれません。

そしてまずこの初代「電」ですが10年後の1909年、

 汽帆船と衝突し、沈没しています。

そしてこの二代目「電」。

一代目の沈没から21年後にやはり「雷」型の2番艦として就役し、
メナド攻略戦、先ほど書いたスラバヤ沖海戦、キスカ救出作戦、
第三次ソロモン海戦と生き抜いたつわもので、
1944年、マニラからダバオまでの船団護衛任務中に、米潜水艦
「ボーンフィッシュ」 の雷撃により戦没を遂げた駆逐艦ですが、
その艦歴で、2度の大きな衝突事故を起こしているのです。


まず、一代目「電」と同じ、民間船との衝突事故。

●1944年1月20日、ダバオ湾口付近で「仙台丸」と衝突 

その前には、一代目「いかづち」と全く同じ、訓練中における
僚艦との衝突事故。

●1934年6月29日、済州島沖の演習中に「深雪」に衝突
「深雪」は艦首を喪失し、沈没した

 


うーん・・・・。

あまりにも酷似した「一代目電」「二代目電」「一代目いなづま」の事故。
代を追うごとに事故の被害がひどくなっているのもなんとも・・・。

「因果は巡る」とわたしが言ったわけ、お分かりいただけました?


ただ、安心したのは、現在の護衛艦「いなづま」が先輩の「電」から
受け継いだらしい「因果」は、今のところ

海面に浮かぶ人々を救助した

という誇れる実績だけのようで、何よりです。




 

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女性パイロット列伝~サビハ・ギョクチェン「大統領令嬢は戦闘機パイロット」

2014-05-10 | 飛行家列伝

この「女性パイロット列伝」は、いわばわたしの「趣味」の範疇であり、
冒頭の肖像を含めて内容も非常に楽しんで制作しているため、
実はストックが今年の夏掲載分まであります。


しかし今日はその掲載予定を変更し、急遽制作した内容を挟むことにしました。

というのは、トルコの駐在武官を務めたことのある或る海自幹部の方から

「わたしが赴任していたトルコの女性パイロット、

サビハ・ギョクチェン SABIHA
 GÖKÇEN

について書いてほしい」

というリクエストを頂いたからです。

基本的にブログへのリクエストと自衛隊関係のお誘いは断ったことがないわたし、
そのどちらの条件もある意味満たす御依頼に喜んで応えさせていただいた次第です。

特別仕立てらしい白の飛行帽、ブルーの飛行服の彼女の肖像のバックには
「新月旗」「月星章旗」と呼ばれるトルコ国旗をあしらいました。
この旗は、トルコ革命において革命派の重要なシンボルとなりました。




トルコという国について、わたしたち日本人はあまり知識がありません。


有名なトルコの偉人の名前を言えるか?
宗教は何で、通貨は何が流通しているか?
そもそも地図ですぐにその場所を示せるか?

少し前、来日しているメキシコ人が日本人に

「メキシコというと何を思い浮かべるか?」

と聞いて、それをYouTubeにアップしていましたが、その答えが

「暑い」「タコス」「ソンブレロ」「サボテン」

などというものだったため、メキシコ人はそのステロタイプな答えに
大いに失望して(特に、別に暑くないんだけどという声多数)いたものです。

しかしたとえばこれを「トルコ」でやった場合、おそらくはメキシコ以上に

日本人にはその明確なイメージは湧かず、せいぜいが

「ベリーダンス」「ケバブ」

という単語が出るくらいで、トルコ人はメキシコ人以上に失望するでしょう。

とはいえ、日本をお題にこれをやってみたところで、どこの国も
日本人が満足するような答えを出してくれるとも思えませんが。


しかしもしこういう質問をされたとき、あなたが海軍のことや
外交史に詳しければ、きっと


「エルトゥールル号」

というトルコのフリゲート艦が和歌山沖で遭難し、日本人が被災者を介護し、
遺体を回収し、 生き残った乗員を軍艦「比叡」「金剛」がトルコまで送っていった、
という話を挙げるかもしれません。

さらにあなたが「坂の上の雲」のファンならば、このときに2隻の軍艦に乗っていた
海軍兵学校17期の少尉候補生の中に、秋山真之がいたということもご存知でしょうか。

この事件以来日土関係は大変良くなり、一時トルコでは子供の名前に
「トーゴー」と付けるのが流行ったほどだといいますが、トルコがこの件で
日本という国をいかに評価してくれていたかを日本人が知ることになったのは
何と事件から95年後のイラン・イラク戦争のときでした。

このブログに来られるような方であれば、きっとご存知の逸話だと思うのですが、
いつかは書いておきたかったので、概要をここで述べておきます。


イラク・イラン戦争が始まって5年目の1985年、サダム・フセインは突如


今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす

と宣告しました。

企業から派遣されていた在土日本人とその家族はそれまでに脱出するべく
テヘラン空港から飛行機に乗ろうとしましたが、すでに普通便は満席。
世界各国は自国民を救うべく、専用機を向かわせ、国外に出し始めていました。

しかし、日本政府は何もできませんでした。


本来ならば、政府は軍用機を向かわせるのが最も確実な方法ですが、

我が国の場合、世界に誇る平和憲法のおかげで()それは不可能でした。
当時は自衛隊の海外派遣が禁じられていたからです。

後から野党に責任を追及されるとかそんなことばかり心配する
日本政府は、超法規措置を取ることも全く検討しませんでした。

当初政府は某JALに救出を要請しました。
しかし、JALは「機材と乗員の安全が確保できない」という
ごもっともな(笑)理由できっぱりとこの申し出を拒否。

他国への救援要請もうまく行かず、邦人たちに絶望の色が濃くなってきたとき、 
彼らの元に二機の飛行機が到着したのです。 

トルコ航空の飛行機でした。

オルハン・スヨルジュ機長らの操縦するトルコ航空機が日本人215名全員を乗せ、
成田に向けて空港を飛び立ったときには、タイムリミットの1時間15分前でした。

日本人は当初トルコ政府の異例の計らいに首を傾げたそうです。
トルコ航空の二機が邦人のために使われたので、トルコ人の多くは
陸路で脱出することになったのですが、国民より日本を優先したこの処置に対し、
なぜそうまでして、と訝しむ日本人たちに当時の駐日トルコ大使は


「トルコ人はエルトゥールル号の恩義を忘れていない」

と誇らしげに説明しました。

日本では遭難現場の串本町民以外には知る人ぞ知る歴史となっていたこの事件は、
トルコでは代々語り継がれ、教科書に載っているくらい有名な話なのです。


日本への親近感を幼い頃からこの逸話によって抱き続けてきた国家指導者たちは、
非常時であるからこそその話を思い出し、

「今こそ日本に恩返しをする時である」

と誰言うともなく措置をを決定したのでしょう。


さて、前置きがあまりにも長くなって申し訳ないのですが、本日の主人公、
サビハ・ギョクチェンにたどり着くのに、ぜひこれだけは話しておかねばなりません。

もう少し御辛抱下さい。

サビハ・ギョクチェンと検索すると、まずその名の空港が出てきます。
つまりこの女性は、空港に名を残すほどの偉人だったということになります。
当ブログ「女流パイロット列伝」シリーズでいうと、彼女は

「世界最初の戦闘機パイロット」

というタイトルを持つ飛行家です。

しかし、彼女がトルコの偉人という扱いを受けているのは
世界最初の女性戦闘機操縦者という理由だけ
ではないのです。


エルトゥールル事故のあと、遺族のために寄付を募り、それを持ってトルコに渡り、

現地の熱烈な歓迎を受けているうちに、勧められるまま
トルコに永住してしまった日本人がいました。

実業家で茶人の山田寅次郎(宗有)がという人物です。
彼はトルコで士官学校の日本語と日本の教授をしていたのですが、
その生徒に

ムスタファ・ケマル・アタルチュク

という士官候補生がいました。

後のオスマントルコの将軍、トルコ共和国の元帥、初代トルコ大統領

そして、サビハ・ギョクチェンの父親です。




もっとも、サビハは本当の娘ではありません。

アタルチュクに実子はなく、彼は

死亡した戦友の子を養子として十数人を家族とした

と言われており、彼女はそのうちの一人でした。
12歳のときに「哀れな暮らし」をしていたところを見出され、
大統領の養女となったサビハは、
そのときに「空」を意味する「ギョクチェン」姓を名乗るようになります。

トルコ最初の航空協会、そして航空学校を設立したのは、勿論のこと
パパであるアタルチュクだったわけですが、彼女はその開校式についていき、
そこで見たグライダーやパラシュートに強く惹かれ、
飛行士になることをその場で決意した、ということになっています。

そしてその場で大統領が関係者に言った

「うちの娘がやりたいといっておるのでよろしく頼む」

と鶴の一声で、彼女は航空学校に入学することが決まり、
22歳にしてパイロットへの道を歩き始めたのでした。

そしてすぐさまソ連に留学し、7名の男子留学生と共に訓練を受け、
翌年に飛行機の免許を取っています。



このように飛行家になることは彼女の希望であったということに
「公式には」なっているのですが、それだけでもなかったようです。

12歳のサビハは最初に大統領の目に留まったとき


「勉強させてほしい」

と直々に頼んで、その後アメリカンスクールに入学したのですが、
その後健康上の理由で中途退学していました。

父親であるアタルチュクが、彼女の学問での自立はもう不可能と考え、
新たな可能性を与えるために道をお膳立てしたとも考えられます。


しかし教育課程では大統領の娘であるからといって、特に彼女が

別の扱いを受けていたということはなかったようです。

もしかしたら大統領には非常にたくさんの養子がいたこと、
そして彼らの学校の成績を気にする厳格な保護者だったことも
彼女のこの扱いに影響していたかもしれません。


そしてソ連から帰国した彼女にアタルチュクは彼女に

「戦闘機パイロットになるように強く」

奨めました。

日本語wikiだとここは「迫った」になっていますが、英語では urged her。
いずれにしても「しきりに奨めた」「急がせた」のニュアンスです。

なぜアタルチュクが彼女を戦闘機パイロットにすることに
こんなに熱心だったのかはどこにも書かれていないのでわかりませんが、
独立戦争と革命の指導者で、自分の信念で一国のトップとなった彼にとって、
その娘にも「世界一」のタイトルを持つ英雄が相応しい、と考えたのでしょうか。

自分の部下や有望な士官を婿にして自分の娘に人並みの女としての幸せを、
とは決してならないのが、
いかにも非凡な人間らしい考えであり、
何度も言いますが
彼女が実子でなかったからということでもあろうと思われます。

こうして父親であり大統領である絶対的な影響者の命を受け、

彼女は戦闘機パイロットを目指し、空軍士官学校の飛行過程に入校します。
飛行学校では、爆撃機と戦闘機を平行して学び、スキルを磨きました。

彼女の生涯における飛行時間は8000時間を超えますが、その間、
彼女が操縦した飛行機の種類は実に22種類を数えます。

空軍のパイロットとしてのデビューは、1937年の「デルシムの乱」でした。
これは少数民族の起こした蜂起でしたが、彼女は自ら名乗りを上げて爆撃機で参戦。
参謀部の報告によると、逃亡する50人の山賊に50kg爆弾を投下し
重大な損害を与えたとされています。

さらに翌年の1938年には5日間で5日間でバルカン諸国を単独で周遊飛行し、
各地で大歓迎を受けました。


この飛行に、当初彼女は整備士を同行させることを希望していたのですが、
普通であれば娘の身を心配するはずの父親はそれに猛反対しました。

「女が一人でやるから意味があるのだ。
男がいれば実績はすべてその男のものと報道される」

というのが理由で、サビハはそれに説得され従ったそうです。

どうも、アタルチュクにとってサビハはいわゆる「肉親」としての娘というより、
なんというか・・・

「チーム・アタルチュク大統領」

の構成メンバーのように考えていたのではないかという節すらあります。


「大統領の娘としての特別扱いはその教育課程では受けなかった」


と先ほど書きましたが、そもそも彼女は士官学校を出ておらず、
つまり身分としては軍人ではない、一般人です。

そういえばこの国民的英雄にしてトルコ人の「永遠のヒーロー」
(英語では女性でもこのようなときにはヒーローという)には
士官学校の飛行過程で学んだにもかかわらず、階級がありません。

つまり軍人ではない、一般人の身分で戦闘行動にも参加していたわけで、
実際にも軍側では実は彼女の扱いに「戸惑っていた」という噂もあります。


つまりこれが大統領の娘であらばこその「特別扱い」だったということです。


彼女が名乗っていた「ギョクチェン」ですが、これは本人ではなく
周りの誰かによって与えられたものだそうです。
もしこの「空」を意味する名前がアタルチュクの命名によるものであれば、
彼はかなり早くからサビハに「空を飛ばせる」ことを考えていたことになります。

「世界初の女性戦闘機パイロット」

は、もしかしたら英雄アタルチュクの伝説の一環として
その父親によって考案され、創造された存在だったのかもしれません。


彼女は現役引退後、自分がかつて学んだ「ティルクシュ(トルコの鳥)」飛行学校
教官を務め、航空協会の理事としてトルコ航空界の発展に努めました。

晩年には自伝も書いていますが、そのタイトルは

「A life Along the Path of Ataturk」(アタルチュクの道を歩んだ人生)

といいました。
彼女がその偉大な父親無しには自分もなかったと思っていることが
何よりもよくわかるタイトルであり、もしこの庇護者に拾われなければ
戦闘機などに乗ることなどまずなかったであろうと
誰よりも本人が痛切に感じていたらしいことを窺わせます。


彼女は死の直前、あるインタビューで
涙ながらにアタルチュクのことを語り、さらには

「トルコ共和国を設立した人物に対して名誉を毀損しようとする」

最近の世情について、強く不満を訴えました。

彼女に取ってアタルチュクは義父というより偉大な指導者であり、
カリスマであり、無謬の、絶対神のような存在だったのでしょう。


2001年3月22日、サビハ・ギョクチェンは入院していた軍医学アカデミーで、
88歳の生涯を閉じました。

彼女の名を取って付けられていた「サビハ・ギョクチェン空港」は半旗を揚げ、
時の大統領は

「アタルチュクの養女であるという名誉に加え、彼女は現代トルコの女性の
象徴としてトルコの人々によってこれからも記憶されるであろう」

という声明を出しました。

1996年にアメリカ空軍の発行した

「20人の歴史的飛行家」

には、男性飛行家と共にサビハ・ギョクチェンの名が挙げられているそうです。









 
 
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自衛隊階級内階級(+連休最後の日のこと)

2014-05-09 | 自衛隊

連休といっても息子の学校で行事があったりして、
一向にまとまったお休みにならない我が家の連休ですが、
公園を散歩したり買い物に行ったりと、それなりに
ゴールデンウィークらしい気分を楽しみ、最後の日に、
頂き物の無料宿泊券を消化すべく、都心のホテルに一泊してきました。
 
チェックインのとき、フロントに

「レイトチェックアウトで2時まで御滞在いただけます」

とせっかく言っていただいたというのに、次の日から息子は平常営業で
朝7時にはチェックアウトしなくてはなりません。
もったいないのですが、双方の宿泊可能な日がこの日しかなかったので
しかたありません。

せめて早くチェックインしてランチを楽しむことにしました。


レストランのメニューは連休中であることもあって、
「ゴールデンウィークスペシャルブランチ」というもののみ。
メインの料理だけが選べるタイプでデザートも付いてきます。

前菜その1、ツナとアボカドのタルタル。
カリカリに焼いたトーストに乗っけて頂きます。



前菜その2。

左側の物体はキャラメリゼしたフォアグラです。
実はわたしはフォアグラ、あまり好きではないのですが、
まるでクリームブリュレのようなキャラメルがかけてあり、
しかもソースは甘酸っぱいイチゴとゆずなので、実にさっぱり。
フォアグラ独特のどよーんとした味(ってどんなだ)が、
サッパリ系ソースで中和されて、実に面白い味わいでした。

こんな料理法でフォアグラを食べたのは初めてですが、感心し、
そのことを言うと、

「シェフの得意の一品です」

とのこと。



息子の頼んだ大山鶏。
シイタケはわたしが食べました。
ちゃんと柄も食べられるシイタケです。



わたしはサーモン。
ほろ苦いゼンマイをトッピングに、黒米と野菜のリゾットに乗せてあります。
ソースはおそらくオリーブオイル主体だと思います。



そしてデザートはポテト・・・・・・
ではなく、シュークリームでした。
丸く焼いたシューを半分にし、中にバナナとかいろいろ
複雑な味のするカスタードクリームを詰め、これにも
キャラメリゼしてあります。



食事が済んで、チェックインしました。



ウェルカムフルーツ、クッキー、そしていつもある駄菓子。
息子のために用意してくれるのだと思いますが、麦チョコとか、
麩菓子とか、一袋10円、って感じのお菓子です。



洗面所もいつも通り。
ここは前までロクシタンのシャンプー類だったのですが、
少し前から「エトロ」のシリーズに変わりました。
従業員の制服もエトロだったりするのでその関係みたいです。



部屋からの眺め。
ちょうどJRの線路を挟んだ向こうに「KITTE」があります。
昔郵便局だった部分(白いビル)はそのまま残し、後ろに巨大な
高層ビルをくっつけてかつての建築物を残すという流行の建築法で、
今東京駅界隈では最もにぎわっているビルかもしれません。
ここから見て初めて知ったのですが、白いビルの屋上には出られるようです。



KITTEの隣のTOKIAというビルの途中階に、不思議な切れ込み発見。
手すりがありますが、これ外に出られるんでしょうか。



右手東京駅と東京ステーションホテルを裏側から。
東京駅の改装は今にして思えばオリンピック誘致のためだったのかなと。

というわけで、ホテルの部屋でインターネットしたり(わたしはエントリ作成)
大画面でDVDを観たり(わたしの持っていった『空挺レンジャー』)、
・・・・まあ、いつも休日にやることをホテルでやっていただけでした。

お掃除洗濯、何と言っても食事の支度をしなくていいのが
わたしにとっての「お休み」です。

さて、話は取ってつけたようにかわりますが、こちらが本題です。

先日横須賀で行われた護衛艦カレーNo.1グランプリ、
ご存知のように当ブログでは数日に亘って参加記をお送りしたわけですが、

その後エントリで呈したいくつかの疑問点に関係者からお答えを頂いたので、
追加情報として少しお話ししておきます。



まずカレーグランプリ会場手荷物検査場を出たところにいたこの1等海佐ですが、
「陽焼けしているから大きな艦の艦長ではないか」という当方の予想に反し、

総監部防衛部長

である可能性が非常に高し、というご意見です。
ここからは頂いたコメントそのままになるのですが、まず

1佐職はその職責に応じて俸給表で1~3に分かれており、
別名「階級内階級」とも言われます

1佐であっても皆給料は同じ、というわけではないってことですね。
責任の重さで頂く給料も三段階に分かれているとは驚きだ。

横須賀地方総監部の防衛部長は一番重責である1佐の1職です


なるほど、この1佐は1佐の中でも最も給料の高い=責任の重い=
将来海将補に近い人物であるらしい、ということですが、
それにしてもなぜこの1佐が1職であることがわかったのでしょうか。

ここが不思議なところなんですが、頂いたコメントによると、


その容貌輪郭から推定して、おそらく総監部防衛部長だと思われます


容貌輪郭から推定して・・・・

容貌輪郭・・・・・

う~~~~~~~~ん(困惑)

これを書いてきて下さったのはわたしなんぞと違い、推定でテキトーなことを書いて
後は野となれ大和なれ、いやいやいくらプロフ写真が「ちび大和」だからと云って
わたしのような子持ちが艦娘になっちゃいけませんが、じゃもっと若ければいいのか?
・・・・という問題でもないと思うんだけど、とにかく、この方は
そんな無責任なことを言うような立場でもなければましてや部外者でもありません。

しかも今現在自衛隊という組織に身を置いている人物であり、
おそらくこの推測は確固たる自衛官人生に培われた知見に基づいて
なされたものに違いないと考えられるのですが・・・。

先日、「陸自と海自では明らかに将官の雰囲気が違う」と、
これまでの自衛隊ウォッチャーの立場から私見を恐る恐る述べてみましたが、
やはり「役職が造る容貌」というものが歴然としているというのは
この自衛官のご意見にも明らかだってことみたいですね。


さて、それでは気になる1佐の階級内階級、つまり「給料の違い」、
どういったカテゴライズがなされているのか。
その配置をまとめたものがこれです。 

3:護衛艦艦長、航空隊司令、幕の班長等

2:護衛隊司令、航空群首席幕僚、幕の室長、
  地方協力本部長(一部を除く)等

1:1佐たる群司令(海洋群司令、潜水隊群司令など)、
  一部の隊司令(輸送隊司令など)、
  1佐の幕僚長(掃海隊群、教育航空集団)、
  幕の課長、大都市の地方協力
  本部長(札幌、愛知、福岡など)等

同じ1佐でも、中にはこのようなヒエラルヒーに基づいた
「賃金格差」があるというのですね。

読者の雷蔵さんがコメント欄で

将官になる一選抜の人達は出世の階段を一番駆け足で上って行くので、
すべての仕事(配置)を普通より若いうちに終えてしまいます。
そのため、若くで艦長になります。


艦長は2佐及び1佐の配置です。
こういう人は早く2佐になりますが、若く、船の経験が少ないので、
大きな船の艦長は任せられません。小さな船を任せられます。
しかも、その後もポンポン階級が上がってしまうので、
若くで人より早く艦長を経験した後、二度目の艦長の椅子はありません。
艦長よりもっと重責の仕事に就きます。 


 
と教えて下さったことがありますが、これを先ほどの階級差に照らすと、
1佐で艦長をしているより、2佐で小さな船(掃海艇とか)の艦長になる
自衛官が実は「出世コース」である場合もある、ということなんですかね?

また自衛隊について(無駄に)詳しくなってしまったぜ。

しかし、これから自衛官の有望なお婿さんを見つけるというわけでもないのに、
こんなに隊内事情に詳しくなって、わたしはどうするつもりなのか。
 



そしてこれ。
北村海将の碑の正体がわかりました。
これも雷蔵さんから教えていただいた、碑に記された

「ここに集いて殉職隊員の在りし日の雄姿を偲び、
その英魂を仰ぎ大いに正大の気を養い諸霊照覧の下、
ますます海防に挺身せんと決意を新たにするにあり」

という文言を読んでいただいてもおわかりのように、
これは、
横須賀警備区(横須賀地方隊が受け持つ担当海域)で殉職した隊員の慰霊碑です。

毎年、自衛隊記念日(11月1日)には、この碑の前で慰霊式を行っています。
慰霊式は殉職隊員の家族をお呼びして行われます。

因みにこの自衛隊記念日というのは、「自衛隊発足の日」すなわち
自衛隊法が施行されたことを記念するための日で、1966年(昭和41年)制定されました。

法律制定になったのは1956年7月1日だったのですが、この時期は台風などの災害が多く、

自衛隊の出動を必要とする可能性が多いため、この時期を避けて比較的晴れが多く、
災害の少ない11月1日に制定されたということです。
そういえば、11月3日は過去統計でもほとんど雨が降ったことがないとされていますね。

うーん、どこまで国民目線なのか、自衛隊。




 



 


 

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三井造船資料室~「海軍のまるゆ」・占守型海防艦

2014-05-07 | 海軍

護衛艦「ふゆづき」の引渡式および自衛艦旗授与式のために行った
岡山県玉野にある三井造船本社には、いかにも戦前からあるらしい
古めかしい二階建てと、これも当時は超モダンであったに違いない
洋風建築の社屋があり、こちらでは祝賀記念パーティが行われました。



祝賀会場が行われた建物。
右手にちらっと写っている、昔の田舎の小学校みたいなのが
我々の控え室があったところです。

その様子を微に入り細に入り出された料理から出席者の経歴まで(笑)
お伝えして来たわけですが、こちらの建物の二階にある

「三井造船資料室」

を見学したことをまだお話ししていません。
ここは招待者の中でも特別とでもいうべき上客のための控え室で、
本来ならわたしごときが立ち入ることは決してなかったのですが、
いろいろあって(笑)ここで始まりを待っている間、三井造船の社員から

「我が社の資料室もどうぞご覧下さい」

という案内があり、喜び勇んで見学してきました。

資料室は二部屋続きの小さなもので、おそらく全員が行ったら
大変なことになっていたと思いますが、こういう式典に来るような人は
何度もここに着ていて一度は観ているのか、あまり人はいませんでした。



わたしの恩人である同行のI氏も見学辞退したため、一人でやってきました。



鵜飼宗平氏。

インターネットで産業新聞の記事を探していてわかったのですが、
三井物産が大正6年創立した造船部門を分離して、当初は東洋造船株式会社という
仮称であった「玉造船所」という新会社を設立した際、
三井物産の造船部長であった鵜飼氏は、新会社の常務として就任しています。

元来三井物産造船部は、船舶の建造並に修繕を専門の事業として設立されました。
その種類は貨物船に限られていたのですが、昭和になってから海軍からの注文が増え、
社外からの注文も殺到しだしました。
三井物産本来の事業である貿易業とは別個の色彩を帯びて来たことと、
将来造船所の拡充を図るためには、単独の造船会社として取扱うのが好都合だったので、
造船部独立の実現を急ぐこととなったのです。

物産の部長から役員としての新会社への引き抜き。
創業者ではなく叩き上げです。
おそらくハンパなく「デキる男」だったのに違いありません。

 

川村貞次郎氏。

三井物産の船舶部門は御用船を製造していましたが、第一次大戦の勃発とともに
船腹がいよいよ不足し、修理工事さえ船主の意に任せない状況になってきました。
そこで造船部の新設を提議したのが船舶部長川村貞次郎です。

当初の社名が「玉造船所」というのは、昔ここの地名は「玉野」ではなく
「岡山県宇野湾大字玉」つまり「玉」だったからみたいです。
「玉」が言い難く不便なので「玉野」に変わったのでしょうか。

お二人とも資料室にブロンズ像があるくらいですので、つまり新会社としての
三井造船の「創立メンバー」だったってことでよろしいでしょうか。


資料室といっても、当時の写真とパンフレット、せいぜいいくつかの模型、
という最小限の展示だったりするのですが、



わたしが個人的に盛り上がった?のがまずこの銘板。
「せとゆき」DD131の士官室にあったものです。

「せとゆき」は1986年に就役し第2護衛隊群に配属された護衛艦でしたが、
2012年に練習艦に種別変更され、練習艦としては自衛隊初となる女性が
2014年4月現在も艦長を務めているフネです。

東良子艦長は防衛大学校の40期で、つまり防大が採用した

女子学生1期

の卒業です。

このフネの「初めて」はそれだけでなく、護衛艦時代の1999年には、
「しらね」「とね」と共に東シナ海において初の

「日韓共同訓練」

を行っていますし、2010年には和歌山県串本沖での

「エルトゥールル号遭難120周年」

では洋上での追悼式を行う艦船となりました。
このときに在日本・トルコ大使、トルコ軍楽隊、寛仁親王夫妻、
県知事や串本町長などが乗艦し、戦後の自衛艦としては
皇室・対外王室の初のお召し艦となりました。

そんな功績のおかげかどうかはわかりませんが、竣工30年を経て本来なら
そろそろ引退となる老齢艦なのですが、平成23年度予算において
5年間の延命予算が要求され、現在に至ります。

この士官室銘板は、平成23年、練習艦に改修された際、防衛省から
「せとゆき」が建造された三井造船に

「里帰り寄贈」

されたものです。
練習艦となった時点で「せとゆき」は艦番号が

TVー3518

と変わりましたから、銘板も用済みとなったのです。

しかしこの「士官室」という言葉。
「士官」という言葉は直接階級を表す言葉からは消えましたが、
「当直士官」「士官室」、こんな形で現在も残っているのですね。

「士官」ファンのエリス中尉としては嬉しい限りです。



三井造船が手がけた護衛艦、海保艦のパンフレットが飾ってありました。

「おおすみ」「ぶんご」「ちはや」そして「おじか」
いずれも平成の建造艦で「おおすみ」は平成8年、「おじか」は平成3年就役です。

平成になってから制作されたにしてはパンフレットがイラストのため昭和テイストですが、
いずれも建造中に制作するため艦の姿が「想像絵図」にならざるを得ないのでしょう。



これは三井物産の船舶部門が初めて大正6年(1917)建造した
1番艦で、木造の貨物船「海正丸」

児島郡宇野村(現宇野)の仮工場で操業を開始した三井物産造船部ですが、
当時は鋼材が暴騰しており、やむなく木造船建造に着手したのでした。

写真は進水式の様子で、舳先の前にやぐらを組んで、まるで地鎮祭のように
榊を張った祝詞台をわざわざ作っているあたりに時代を感じます。

進水式の進行は、まず命名式が行われた後、支綱切断の儀式を行います。
この支綱はくす玉とシャンパンなどに繋がれているのですが、本船では
シャンパンなどと云う洒落たものが使われたかどうかはわかりません。
おそらく清酒だったのではないでしょうか。

酒瓶などが船体に叩きつけられると同時に、船名を覆っていた幕が外れ、
くす玉が割られると同時に、船は進水台を滑り(またはドックに注水し)降ります。

このとき、進水式に参加した方の話を聞いたのですが「ふゆづき」が
進水していくとき、雷鳴のような凄まじい轟音がしたそうです。

一度聞いてみたいなあ。

 

進水式で支綱切断の時に使われる斧と鎚がここに飾られていました。
これらはその艦船ごとに新しく作られます。
画像は銀の斧と鎚ですが、これは日本独自のものなのだそうです。

銀の斧は古くから悪魔を振り払うといわれている縁起物で、
斧の刃の左側は通常3本の溝が掘られ、これは三貴子
(みはしらのうずのみこ:アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)
右には四天王を表す4本の溝が掘られます。

この斧は右面を見せているので、ちゃんと溝が4本掘られているのにご注目。
これは本物ではなくレプリカだと言うことです。
何となれば、実際に使われた後は支線を切断した者(女性)が記念に貰うらしく、
同行のIさんは

「家内が何度もやったのでうちには斧がいくつもあって(困る)」

とぼやいていました。
まあ、飾っておくものでもないし、かといってヤフオクにも出せないし。
それを聞いたときに「なんてうらやましい」と一瞬思いましたが、
よく考えたら物置の肥やしにするだけですね。
進水式の支鋼カット、一生に一度くらいやってみたい気もするけど。
 
この鎚が日本で初めて使われたのは1891年、巡洋艦「橋立」の進水式のことです。



右上が「海正丸」の進水式記念絵はがき
岡山で進水式が行われること自体が初めてだったので、駅から港まで、
見物の人が詰めかける大騒ぎになったそうです。


その左は1952年に行われた「青葉山丸」(あおばさんまる)
の進水式のくす玉が割れる瞬間。

青葉山丸は、欧州航路参入への布石として行われた
東回り世界一周線に就航した三井船舶のAクラスボートのひとつです。



高速貨物船「報国丸」

戦時徴用船、という響きだけで、その壮絶な運命について調べ、
「沈み往く戦時徴用船」というエントリで戦争画の模写までしてしまった
エリス中尉としては、もう胸が苦しくなってしまうのですが、この「報国丸」は、
大阪商船が南アフリカ航路の開設に伴って就航させた貨物船で、
優秀船舶建造助成施設の適用を受けて建造されました。

建造前にすでに有事の徴用を予定された船であり、建造直後から
海軍軍に徴用され、就航していました。

この船が普通の徴用船と少し違っていたのは、三菱造船所で改装されて
特設巡洋艦として生まれ変わり、姉妹船である「愛国丸」とともに
燃料や魚雷を潜水艦へ補給するための設備を設け、その改装期間中に
主砲を3年式14cm単装砲に換装していたことです。

姉妹は連合艦隊第24戦隊(その後第6戦隊)に編入され、通商破壊活動
( 戦時に、通商物資や人を乗せた商船を攻撃することによって、
海運による物資の輸送を妨害すること)に従事しましたが、
「報国丸」の方は1942年、インド洋で敵艦の砲撃を受けて炎上、沈没しました。 

このとき「報国丸」の救助に向かった「愛国丸」は、1944年、トラックで
米軍艦載機の攻撃により戦没しています。 



 

右上は「第16号掃海艇進水記念絵はがき」

掃海艇は全て艦名が番号でさすがに「艦これ」に登場しようがないみたいですが、
同型艦を4隻持つ「第13号型掃海艇」の4番艦にあたります。

 昭和6年度のマル1計画(海軍軍備計画で、最上型、初春型、伊6など建造)
で建造された掃海艇で、第13号型の4隻はいずれも戦没。

第16号掃海艇は1943年、マカッサル沖で航空機の攻撃によって沈没しました。



左は「軍艦占守」(しむしゅ)の進水記念絵はがき。
昭和14年12月13日の日付があります。

「占守」は「占守型海防艦」の1番艦で、千島列島北東端の島、

占守島(しゅむしゅとう)

に由来します。
「しゅむしゅ」は発音し難いと思ったのか「しむしゅ」にしたようですが、
こちらも大概ですね(笑)

(占守)

昭和初期、オホーツク海など日本の北方海域においては、
ソ連と日本との間で、漁業紛争がたびたび起こっていました。

そのため、日本海軍は漁業保護用に駆逐艦を派遣していましたが、
高コストであることと耐寒装備がなかったため、
漁業保護用に運用するために新たに建造したのが「占守型海防艦」です。

ソ連の警備艦艇と交渉を行うことも考慮し、小型艦であるにもかかわらず
菊の紋章が与えられた立派な「軍艦」でした。

軍艦ではありましたが、通例艦政本部が行うはずの設計は、三菱重工が行っています。
三菱の技師たちは「軍艦建造」に(おそらく)湧き立ち、意気込んで、
「占守」型はその設計に渾身のオリジナリティを求めたために、
生産工程が非常に多く、大量生産のできない仕様となってしまいました。

技術者魂がつい炸裂したってわけですか。
わかるぞ三菱の人。


ところで、この小さな海防艦(基準排水量860t)ですが、わたくし個人的に

「海軍のまるゆ」

とこっそりあだ名をつけているのです。
なぜかって?

建造が艦政本部でなく民間で行われたため、海軍内での知名度が低く、
たとえばこの「占守」は1940年には竣工されているというのに、
大東亜戦争勃発後もその存在が全く知られていませんでした。

艦体は小さくてもちゃんと菊の御紋を頂いており、しかも艦長には
大佐か中佐が任命されていたというのに、です。
現在の自衛隊の規範に照らしてみても、中佐はともかく大佐は
大きな艦の艦長になるのが普通です。

旧海軍では巡洋艦(軽巡・重巡)以上の艦長、戦艦、空母艦長は大佐です。
戦艦「大和」と「武蔵」は少将が艦長を務めていますが、
これは大和級戦艦の規模が「超弩級」であったということでもあります。
駆逐艦の艦長なら少佐あるいは中佐が普通でした。

つまり「占守」の

「排水量に対する 軍艦としての地位の高さの費用対効果」(?)

は、おそらくコストパフォーマンスとしては海軍一、
勿論それだけは「大和」級よりも上であったことになります。


大和=64000t=少将
占守=860t=大佐(最高)


基準排水量1/74に対し、階級の違い、たった一階級。
すごい。凄いぞ海防艦占守。


ああそれなのに、知名度がないことと艦体の小ささが仇となり、
出会った駆逐艦や掃海艇や水雷艇側から欠礼されることもしばしばだったとか。

ね?まるゆでしょ?

さすがに攻撃されたり体当たりされたりはしなかったみたいですが。
さて、そこで最後にわたしの大好きな「占守型」の「まるゆ」的エピソードを
ご紹介しようと思います。


昭和17年。
占守型海防艦の2番艦である「国後」が北千島の基地に入港した際、
在泊中だった駆逐艦子日(ねのひ)から

「貴艦ハナニユエ本艦に敬礼サレザルヤ」

との信号を受けました。
水戸黄門で一般人にジジイ呼ばわりされる水戸光圀公の図ですね。
ラスト5分で繰り出されるあのドラマにおける「葵の印籠」が、
この場合は舳先の「菊の御紋」であったわけです。
「国後」艦長の北村富美雄中佐(当時)は

「控えおろう!この御紋が目に入らぬか!」

・・・・・・・じゃなくて、たった一言、

「ワレ国後ナリ」

と返信しました。
そこで艦種を調べた「子日」艦長以下幹部、

「ちょwww
『国後』って軍艦?」
「艦長中佐か大佐www草生やしていいですか」
「艦長!舳先に菊の御紋が!」
「\(^o^)/オワタ」

「子日」艦長、慌てて内火艇で謝りに向かいました。
当時、子日艦長の階級は少佐だったのです。

(もっとも「占守」の軍艦類別は17年7月に解かれましたから、
このエピソードはそれ以前の話であろうと思われます)




「占守型」の4艦のうち、やはりこの玉野で建造された「石垣」以外は
戦没を逃れ、終戦後まで生き残りました。
「占守」はソ連に賠償艦として引き渡され、「八丈」は戦後解体処分。
このエピソードの「国後」は復員船として使われましたが、
任務途中で座礁したため、戦後わずか1年で解体されました。



三井造船資料室シリーズ、続きます。

 

 


 

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朝霞訓練場装備展示~自衛隊キャラ効果

2014-05-06 | 自衛隊

観閲式のあと、装備展示をしてあるフィールドには、前回もお伝えしたように
自衛隊ゆるキャラが あちらこちらに出没して写真のモデルになり、
愛想を振りまいていました。

白いユリカモメのトウチくんと一緒に撮影会をしているのは

千葉地本の千葉衛(ちばまもる

実は自衛隊というところは国民に親しみを持ってもらうために
イメージキャラを都道府県ごとに地本が音頭を取って決めており、

東京地本のトウチくん
岐阜地本のウーピー(鵜)隊、リク・カイ・ソラ
滋賀地本の滋賀ぽん(信楽焼のたぬき)などの動物系、 

山口地本の美陸(みり)・美海(みみ)・美空(みく)の三姉妹機、
福島地本の陸花(りくか)・夏美(なつみ)・美空(みそら)の福島三姉妹
(ページ下の方にあります)そしてこの間の岡山地本の三人娘のように、萌えキャラ系、


宮城地本のまもるくんたち、この千葉衛を長男とする千葉三兄妹のような
「人間着ぐるみ系」、

静岡の「しずぽん
和歌山の「みかんの助」「かきの助」「うめの助」
岩手の南部鉄でできたいわてっき三兄弟 のような「産地名産品系」と大別されますが、


香川地本オリジナルキャラクターは、なんと実在の人物をキャラ化!

そして、熊本地本は現在キャラ募集中、さらに、

京都府は現在キャラ総選挙中だ!

京都府地本のキャラはあなたが決める!(煽り)


ちなみにこの千葉衛ですが、地本キャラとしてはもっともよくある「まもる」の名を持ち、

千葉衛 千葉未来(海自)千葉翔(かける)の千葉三兄弟

の長男として千葉地本のマスコットとなっています。
因みに千葉衛の特技は「瞬きをしないでいられること」だそうだ。それは凄い。

これらのキャラには各地本の思い入れというか、意気込みが感じられるものも多く、
例えば宮城地本はまもるくんのファンにならずにいられない活動案内ページを作っており、
こういうノリを見るにつけ、あらためて自衛隊の中の人の「普通さ」
(というか『お前ら』度の高さ)を感じます。

そういえば、ある海将の職場訪問をしたら、
ずらっと萌えフィギュア(自衛隊仕様)が並べてあったなあ・・。
副官におそるおそる

「これは・・・なぜ、ここに・・・」

と聞くと、

「はあ、全部海将の・・・・・(口ごもる)」

という答えで、漠然と不安になったそんなものかと思ったものです。



155mm榴弾砲(FH70)

第一空挺団の行動展示では120mmの迫撃砲を引っ張りますが、
これも車両に連結させて運びます。
ただ、短距離(ってどれくらいだろう)なら自走もできるのだとか。

何度もしつこいですが()防衛省的愛称は「サンダーストーム」、しかし現場では
「エフエッチナナマル」とか「エフエッチ」と呼ばれています。


日本鋼管によってライセンス生産されるようになってから、陸自の主力火砲とされ、
陸自音楽隊の序曲「1812年」で特に活躍してきました。


チャイコフスキー作曲・序曲「1812年」

音は正直なところ他の映像と比べてかなりしょぼいですが、(録音位置の問題ですよ)
音楽隊員がキューをだしてから発砲するまでの様子や、隊員の動きがよくわかります。
お時間のない方は初弾3分40秒あたりとラスト5分40秒からご覧になることをお勧めします。

ただ、FHは導入されてから30年も経ち、そろそろ次世代への転換が進められており、
現在は開発している真っ最中だと言うことです。

1812年の伴奏だけからいえば、もう少し膨らみのある音(ってどんなだ)の砲がいいかな。
ついでに、自衛隊の1812年では、最後に全砲が一斉射撃しますが、
あれはチャイコのオリジナル楽譜には有りませんので念のため。




さて、前にも一度お伝えしたことが有りますが、10式戦車の動的展示が
時間になったので始まりました。
あっというまに人だかりができます。 



全世代の男が食い入るように見つめる中(笑)、
10式は360°回転したり、主砲を上げたり下げたりという動きをしています。
戦車そのものより、戦車に夢中になる人たちの方が見ていて面白いので、
わたしが写真を撮るとこうなります。



全員が手持ちのデバイスで動画を撮っておる。
10式の動きの凄さというのは機敏さと砲撃の正確性にあるそうで、
特にスラロームしながらの動的目標への射撃は百発百中ということですが、
こういった展示でそれがわかるということはいかに戦車オタクでもないんではないか?




とはいえ、オタクの眼力をなめてはいけない。
わたしには従来の戦車との違いなどさっぱり分からなかったけど、
分かる人が見たら

「うむっ!やっぱり車体の柔軟度が90式と比べ全く向上している!」

などと着眼点が全く違うのかもしれないし・・・。(適当)




展示が済んで降りて来る隊員二人。
一人は砲塔、一人は操縦席です。
10式の定員は3名。
その他特筆すべきは車内は

冷暖房完備

だということなのですが・・・・それってつまり、

これまでの戦車は冷房も暖房もなかったんですか?



91式戦車橋

戦車なのか橋なのか。
むかしは「工兵」というのがいて、土木関係を請け負ったものですが、
陸自ではこの部門を「施設科」といいます。



91戦車橋が橋を展開し、敷き 、再びたたんで帰っていくまで。
ある意味予想の斜め上をいく展開収納法で、ショックを受けました。



92式地雷原処理車

これも、富士演習場の総合火力演習の映像を見ていただくのが早いでしょう。



発射されたのは地雷原処理用ロケット弾で、地雷を爆発させ、車道を確保します。
ちなみにこの写真に写っている見張りの隊員は思いっきりカメラ目線です。



07式機動支援橋

先ほどの91式よりは小さい橋ができますが、戦車も渡れるようです。
自衛隊が30分に及ぶ展開の映像を提供していますが、
考えることは皆同じ、これをじっと見ているのはいくらなんでも、と思って
さがしたところ11分の早回しにまとめたものが見つかりました。



これ、面白いです。
つい最後までじーっと見入ってしまいました。
まず人間一人が渡れるだけの細い橋を渡してから戦車用を展開するのですが、
2分20秒頃、橋を渡ってくる隊員(顔は見えず)のマッチョ体型に思わず目が釘付け(笑)

展開した後は柵までつけますし、中央には分離線が引かれています。
そして完成後、作った当人?が渡り初めをし、後続車両が続きます。





こういう施設科の力技みたいなお仕事を見た後にこういう写真を見ると、
自衛隊とは実にいろんな職種があるものだと感心します。
およそ生活していくうえで必要なほとんどの仕事を網羅しているのではないでしょうか。

このにぎわいは、もしかしたら地本ゆるキャラ大集合?



と思って前に回ってみたら、東京地本のトウチくんと、
埼玉地本のサイポンが、なぜか陸海空と全員出動していました。

このサイポンですが、顔は「勾玉」の形をしているんだそうです。
埼玉が勾玉で有名な?さきたま古墳群があるからなんですね~。


ところで疑問なんですが、このサイポンは、中の人もやっぱり埼玉地本から
出張して来たのでしょうか。
それとも、当日会場の所属自衛官のなかから誰か見繕うんでしょうか。 




こちらでは移動して来たトウチくんが千葉衛と写真撮影会。
微笑みつつその様子を眺める責任者らしい地本のベレー自衛官、
ついでにキャラクターにしちゃえば?というくらいこの人は目立っていました。




ゆるキャラとかHPの漫画とか、そういった「いまどきのはやり」で
関心を引くのに懸命な地方協力本部。
前にも言いましたが彼らの仕事には自衛隊なのにノルマがあり、
なんと、HPの閲覧数の順位すらしのぎをげずっているのだそうです。

とても自衛官勧誘が目的に見えないシュールなマンガを掲載する
というあこぎな方法であっても、とにかく閲覧数を上げれば勝ち、
という風潮が巻末にあげた「岩手ぴこ」などにも窺い知れます。




帰りはバスに乗ることにしたので、来たときとは別の門から出ました。
門を出るときにこの日のパンフレットをたくさん持った隊員が、
「本日の記念にどうぞお持ち帰り下さい」
といいながら配っていました。

足りなくなるよりはと多めに刷ったものの、残して捨てるのは
これも国民の税金を使っている以上、大変申し訳ない、
だから一部でも減らしたいという一途な思いが感じられ、ついつい
受け取ってしまいましたが、よく考えたらわたし、もうすでに4冊持っていたのよ。
(一冊は雨に濡れてぼろぼろになったけど)

一冊受け取ったら

「もう一冊いかがですか」

って、そんなたくさんいらないってば。一冊でも捌きたい気持ちはわかるけど。 



バス乗り場は少し離れたところに有り、そこまで点々と隊員が
道しるべのように立っております。



そして、ひとりひとりに必ず「ありがとうございました」と声をかけるのですが、
あまりに丁寧すぎて
「そこまでご挨拶して下さらなくても」
と恐縮してしまいます。



出口手前に不思議なクリーク発見。
これは、なんだろう。
もしかしたら塹壕戦の実地訓練用?


実はわたくし、最近ここに知り合いができたんです。
「遊びに来て下さい」
っておっしゃってたけど、自衛隊的に言うところの「遊びに」ってどういう意味ですか?
やっぱり、見学とかさせてもらえるってことかな?
京都の人ならともかく、そう言われたらわたし本当に行っちゃうよ?


というわけで、もし基地訪問が実現したら、この塹壕の正体も聞くことにします。



駅までのシャトルバスは、自衛隊仕様ではなく民間のバスが出動していました。
しかし、輸送に当たっていたのは実は自衛官たちだったようです。

「観客輸送隊」

かあ・・・。
やっぱりこういうところが自衛隊ならではだなあと最後に細かいところに感心しつつ、
朝霞訓練場を後にしました。



おまけ*




この日帰りに「とらや」に寄ったのですが、このときとらやでは
「猫シリーズ」をしていました。

写真のくずようかんは「みけ」。
みけ、というよりこれは白黒に多い「はち割れ」っていう種類ですけどね。

老舗の和菓子屋もゆるキャラ風味でお菓子を作る時代。
若者を確保したい自衛隊においてをや、ってところでしょうか。



おまけその2*

岩手地本のページでとんでもない漫画を見つけてしまいました。

「岩手ぴこ」

もう・・・・・・・・・カオスです。
岩手地本はいったいどこに行こうとしているのか。
しかも地本、PCO(Provincial Cooparation Office)なのにいつのまにか
「ぴこ」になってるし・・・・・・。

 

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キャッスル航空博物館~女王陛下のアブロ・バルカン

2014-05-05 | 航空機

キャッスル航空博物館には全部で56以上のレストアされた展示機があります。
なにより日本人としてうらやましいのが、まずそういう広い展示をするスペースがあること。
これは、もと空軍基地だったところがまるまる博物館になっているのですから、
当たり前と言えば当たり前なのですが。

そして、 なんといっても、これだけの航空博物館を運営していくのに、
必要なだけの資金がおそらく空軍からも出ていることです。

展示航空機は空軍海軍からそのままスライドしてきたものが多そうですが、
中には展示説明版に「どこそこの誰々が寄付したもの」と書いてあり、
個人あるいは団体の所有物であったことを示している機体もいくつかありました。

つまり集まってくる経緯や入手先
はさまざまだということですが、その中で、
アメリカ軍のものではない飛行機がここには2機ありました。


一つが冒頭写真の 



AVRO VULCAN B. Mk 2 (アブロ バルカン)

ヒラメのようなうっすーい機体を見る限りそうは見えませんが、こう見えて戦略爆撃機。
イギリス軍が、冷戦時代、ソ連への侵攻を想定し、スピードと高高度、
そして爆弾搭載機能を同時に兼ね備えた機体を開発したものです。

オペレーション開始は1952年のことです。
1980年代に引退するまで、R.A.F(Royal Air Force、イギリス空軍)の所属でした。

デビューの時は、大掛かりな宣伝と発揚を狙って、なんと世界一周飛行をしたそうです。
しかし。

世界一周後凱旋してきたヒースロー空港に着陸失敗して、破損したのはここだけの話(T∀T)


戦略爆撃機としては、ヨーロッパ製のトルネードに置き換えられての引退です。



このバージョンは第二世代で、1960年にオペレーション開始となりました。

このキャッスル航空博物館にやってきたのが引退してすぐの1981年ですから、
もう30年以上ここに展示されているわけです。

この塗装の禿具合からみて、国旗とグレーの部分しか塗り替えていないのではと思われます。




当博物館の特色として、平面からしか航空機を見る術がないので、
実はこの飛行機がこんなシェイプをしていると知った時には少し驚きました。

なんか蛾みたいで、しかもまだら模様が少しキモいと思うのはわたしだけであろうか。

このタイプの水平翼のことを「デルタ・ウィング」というのですが、
これが爆撃機としてデルタウィングを採用した最初の飛行機です。

ヒラメのように薄い機体は、翼抵抗を少なくして航続距離を見込んだ設計です。

運用当初の主目的は核搭載(抑止力のためですよ、左旋回のみなさん)で、
そのため核爆発の閃光から機体を護るため、白色に塗装されていました。
(抑止力のためなら、なぜ実際に落としたときの想定をするのかって?
本当に落とすつもりがないと思われたら、抑止効果にならないでしょ?左のみなさん)

しかし、その後、これは世界的な傾向でもあるのですが、核抑止力は
航空機から戦略原子力潜水艦に求めるようになったため、バルカンの任務は
「低空侵入による戦術核攻撃」と宗旨替えをされ、そのために迷彩柄になったというわけです。

こんなおおざっぱな迷彩が、ステルス性につながるものだろうか?

とついシロートは考えますが、こう見えてバルカン、 1960年に英米連合軍()合同で
行われたスカイシールド演習では、仮想敵機(つまりソ連機)役を務め、
見事ニューヨークの上空に侵入することに成功しています。


ふと思うんですけど、この演習の時の仮想敵機パイロットのメンタルって、 

「気分もすっかり敵国機」

なんではないでしょうか。
このときのバルカンの搭乗員たちが5人が、すっかりソ連軍パイロットになりきって、
ニューヨーク上空に侵入した時には思わず

「ハラショー!」「ウラー!」

と快哉を叫んだ、に1ルーブル5カペイカ。





ここでちいとばかり注目してみた、バルカンおなかの部分。
翼幅は30メートル以上あるらしいんですが、ウィキペディアの画像と比べても
少し幅が狭い気がしますね。

調べても分からなかったのですが、このデルタウィングは可動なんでしょうか。

柵の中までは入れないようになっていたので、
核爆弾を収納する部分を写真に撮れなくて、それが残念です。
半月型のウィンドウは、B-17みたいに、爆撃手がずっとここから下をにらむため?
と現地では思ったのですが、実はバルカンの乗員は5名で、

正副操縦士、航空電子士官、レーダー航法者、進路設定者

つまり爆撃手という専門の係はいないのです。
爆弾投下もボタン一つなので、この航空電子士官という係がやってしまうんでしょうか。




バルカンのノーズを下から撮ってみました。

ところで、このイギリス空軍の飛行機がなぜここにあるかというと、
イギリスから「好意で」「無期限貸与」されているのだとか。


ふーん。さすがはもと同盟国同士。仲良しですな。


ちなみに、この説明ですが、「
イギリスから」とかではなく、


「Her Majesty's Government」(女王陛下の政府、イギリス政府のこと)

とわざわざご丁寧に書いてあります。



エアインテークの蓋にもちゃんと手書きで文字が。
ちなみに英語読みだとこれは「ヴュルカン」となります。

余談ですが、英語で話していると一番困るのが「その国で認知されているところの発音」
を知らないと話が全く通じないことですね。

トム・クルーズの映画「ワルキューレ」、ワーグナーの「ワルキューレ」もですが、
英語読みだとそもそも単語が「 Valkyrie 」で、「バルキュリー」と発音します。
ドイツ語ではWalküreとつづりますが、これも発音すると「ヴァルキューレ」。
英語だと原語に近いスペルを当てはめてしまうんですね。

かと思えばKarl Zeissを、日本人はドイツ語発音に近い「ツァイス」と読みますが、
アメリカ人は「ザイス」と読んでしまうと言うようなこともあります。

と、アメリカ人と会話していて発音を直されたエリス中尉が言ってみる。




バルカンを撮っていたら、博物館の横にある線路を貨物列車が通りました。
最初なんとなく見ていたのですが、いつまでたっても最後尾がやってこないのです。

「え。これ、いったい何両編成なの」
「さっきからずっと連なってない?」

TOとこんなことを言いながら眺めていたのですが、写真のような普通のコンテナ、
ガソリンを積んだコンテナなど、優に100両はあったでしょうか。


「こんなのが通ったら、開かずの踏切だね」
「心配しなくても一日一回しか通らないんじゃ・・・」
「日本なら夜中走らすだろうけどなあ」


もっともそんなに早いスピードではありませんでしたが、全部通り過ぎるのに、
たっぷり10分以上はかかり、わたしたちはアメリカの広さをあらためて実感したものです。






 

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靖国神社遊就館~或る海軍兵学校生徒の日記

2014-05-04 | 海軍

自慢するわけではありませんが、わたしは靖国神社に併設されている資料館の遊就館には、
いつでも無料で入館できるという「特権階級」でございます。
何のことはない、靖国神社の崇敬奉賛会の会員であるというだけのことなのですが、
これに入っていると年始の昇殿参拝をあまり待たずにすることができますし、
例大祭のご案内などもいただけます。

まあ実際は特典を最大限に利用しているかというとそうでもないのですが、
立ち寄った際、時間があれば無料ゆえの気楽さでふらりと遊就館に入って、
その日観たいところだけ観て帰る、というぜいたくな?こともできてしまったりするわけです。


あるとき、以前このブログ中でお話ししたことのある

「兵学校の入校初日にあたって、海兵生徒がその感想をしたためた日記」

というのをもう一度じっくり見てみることにしました。
ガラス越しに一通り読んだその日記が、そもそも誰のものであったのか、
そのころ(ブログ開始直後ですから4年前のことになります)には
何の蓄えた知識もなく、よって記憶に残ることにもなかったのですが、
今ならおそらく、というかほぼ確実にその名前に心当たりがあるはずだと思ったからです。


ところで、遊就館内は写真撮影が禁じられています。
そのはずなのですが、ほんの時々、人気がないのをいいことに、
こっそり撮った写真をなぜかこれは堂々とブログにアップしたりしている人がいて驚きます。

以前少し書いた、来栖駐米大使の息子である来栖良大尉の写真とか、
野中五郎少佐の茶器とかをネット上で今まで見たことがあるのですが、
写真を撮るのが禁止なら、それをネットに載せるのはもっとまずいのでは・・・・。

特に命の方々の顔写真は、秘蔵するためにこっそり撮るだけならともかく、
世界中に発信してしまうのは厳に慎むべきだと思うのですが。


さてこの「日記」です。
わたしの場合はそれをさらすのが目的ではありませんし、書き写すのが面倒なので
写真に撮りたかったのは山々でしたが(笑)そこはぐっと我慢して、
その場でメモを取ってきました。


十二月一日 金曜日

兵学校浴槽にて娑婆気を洗いさり、軍服を身につけ、
短剣を帯びて大講堂の入校式に赴く
校長閣下永野(修身)大将の訓示には感激そのものなり。
代表田結保が宣誓書を拠出
校長閣下の「生徒を命ず」の声を聞いたとき思う 
愈々海軍兵学校生徒になれたのだ

御写真奉掲
陛下に海軍軍人として責務を盡すことをお誓い申す

更に感激を増したものは
殿下が同期においでになることだ


この生徒は兵学校71期。
12月1日という異例の季節に入学式が行われました。
一期上には菅野直中佐、特攻第一号とされている関行男中佐がおり、
同期には大和特攻に乗り組んでいた臼渕巌中佐がいます。

彼はこの581名の卒業生の26番というハンモックナンバーで卒業し、
在校中は分隊の隊長を務めた秀才でした。
彼が文中で「感激」した「同期の殿下」とは久邇宮徳彦王のことです。

当時の生徒らしく「なり」という文体で書かれているものの、
どことなく幼い文章を取り繕うこともなく素直に喜びがつづられ、
読むものにもその「感激」が素直に伝わってきます。

やはり彼にとっても「軍服に短剣」は憧れであったのでしょう。


夜自習室の前に整列 上級生に挨拶し
自分等十五名の出身学校 皿に(ママ)生命申告を行う
声が腹から出ずとの理で(ママ)数回声を張り上ぐ
緊張しきっていたものの 上級生は笑いながら叱られるので
終わりになると可笑しくて思わず笑いかける
中には笑ってまた叱られる 然しやっと十五名終了し
冷や汗を流したが、又心中はなんだか芝居のごとき感がした。(終)


よく話題になり「嗚呼江田島海軍兵学校」「海兵四号生徒」という映画でも
出てきた「姓名申告」がこのように書かれています。

昔、(といっても4年前ですが)最初にこの日記を遊就館で見たときに
「地獄の姓名申告」とまで言われたこの「イニシエーション」(通過儀礼)が、
「皆が笑い虫に襲われたような状態で」しかも「芝居のごとき」となっているので、

「兵学校とはこんな感じ」

と固定したイメージを持っていたわたしは、大変驚いたものです。

もしかしたらこの大人数クラスの七十期以降、儀式は形骸化してしまっていたのでは、
とその時も書いたのですが、あれから4年経ってもう一度この文に触れ、
やはり兵学校の生徒と言っても、この学年に限らず、所詮若い男の子の集団、
ときにはこんなこともあったのだろうと微笑ましく思うようになりました。
彼らの本来の「幼さ」から見れば、決してありえない話ではなかったのだろうと。


それにしてもこの文章を書きだしてみて改めて思うのですが、
この筆者は(秀才であったわけですが)あまり「文才」はなかったようです。
きっとたまにいる「文章下手な理系の秀才タイプ」だったのですね。


十二月二日 土曜日

起床、始めての(ママ)兵学校「総員起し}を行す
朝の日課を見学す。精神教育にて、兵学校精神を叩き込まる。
短艇の各部の名称、および上げ下しを教わる。
土曜日であるので、総員運動の総短艇を実地さる。
新入生はこれを見学す。
十四分隊は惜しいところで二着となる。
伍長に引率され校内を案内さる。
自習時の後半断間に例規の説明が行わる。
以後十六日まで行われる予定。


新しい環境で、何もかも初めてのことばかり。
珍しさと緊張で少し舞い上がっている様子が垣間見えます。


十二月三日 日曜日

期訓にて古鷹登山を行わる。
天青く澄み、浩然の気を養うに好都合なりき。
遥か彼方に室積を偲ぶ。
午後入校挨拶を方々に出す。
短剣姿を写真に撮る。


室積、というのは山口県光市の室積のことだと思います。
おそらく古高山の頂上から室積の半島が見えたのでしょう。
しかし「偲ぶ」というのは何かが違うような・・・。
まあいいです。彼は理系の秀才だから。(勝手に決めている)


それに、彼がこの時にこの場所を目に留め「偲んだ」と書いていることに
わたしはちょっとした符号というか偶然を感じるのです。


まず、この文章が幼さを感じさせるのも道理。
彼は四天王中学の四年生で兵学校に、しかも上位の成績で入学しており、
これが書かれた時には彼は若干16歳の少年にすぎません。

この日からちょうど5年後の1944年11月20日、 
彼はウルシー環礁において特攻兵器「回天」に乗り、
米油槽艦「ミシシネワ」に突撃し、戦死しました。

彼がのちに回天の訓練を受けることになる徳山の基地は、
彼自身は全く意識にはなかったはずですが、
古鷹山からおそらくこのときにも見えていたはずです。
そこは「室積」からは至近距離にありました。


そう、この兵学校に入校したばかりの出来事を、喜び溢れる、
少しばかり稚拙な筆致で書き残した少年は、あの
仁科関男海軍少佐(戦死後二階級特進)だったのです。


実に迂闊ながら、わたしは最初にこの日記の部分を読んだときには
この名前を記憶していませんでした。
それから4年の間に、回天について書き、あるいは彼らの隊長であった
板倉艦長について書き、すっかりその名前は特別な意味をもって
認識されるようになっていたのでした。


12月4日 月曜日

陸戦は徒手にて行わる。
不動の姿勢、右向け左向け等、中学校の一年にて習ったところを行う。
然し中学校では今や相当困難、複雑なところを習って
基礎を反復練習しておらなかったので、正確に動作することができなかった。
何でも「基」が大切だ。
血液型検査があった。自分はAB型であった。
通信は合調音語について習う。
余程しっかり練習しなければ覚えることができないぞ。


うーん・・。可愛いですね。最後の言葉。

ここにあるのは大学ノートに万年筆で書かれたらしい文字で、
きっちりとした文字は彼の性格を表しているようでもありますが、
ところどころ誤字もあり、間違いを上から書き直しているところと言い、
まるで昨日書かれたような生々しさがあります。

この時には彼自身も夢想だにしていなかったでしょうが、
仁科関男は、潜水学校卒業後「甲標的」の講習員として着任した際、
回天の考案者である黒木博大尉と運命の出会いをします。

この二人が出会ったことで「回天」は実地に至ったともいわれ、
黒木大尉と共に仁科は回天の考案者と呼ばれています。

回天が試作を経て実戦に投入されるまでの期間に、
創案者であった黒木大尉は訓練中の事故で殉職し、
後に残った仁科は黒木大尉の意志を継ぐべく
回天隊を率い、そして自らが出撃して散ったのでした。

その最後の日々、仁科中尉の様子は鬼気迫るものだったということです。


この日記に記された兵学校のまさに最初の日の、
少年のような仁科関男の目に映った徳山の海岸は、
その時どのような色を讃えていたのでしょうか。

仁科関男は特攻戦死後二階級特進し、

わずか21歳の海軍少佐になります。

71期の生徒で、同じく大和特攻に参加し、二階級特進した臼渕巌少佐とともに
少佐に進級したのは二人だけでした。 


ところで、わたしがその後一度遊就館を訪ねたとき、
仁科生徒の日記はそのままの場所にありましたが、どうしたわけか、
ページが閉じられて表紙を見せるだけになってしまっていました。


今ではその日記の文章を読むことはできなくなっています。




 



 

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