ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

儀仗隊と消防車~教育航空隊基地記念式典

2015-09-29 | 自衛隊

教育航空隊の記念式典の1日の様子をお伝えしています。
式典が無事終了し、整列していた部隊は会場から退出したあとには
こんなに広かったのかと驚くほどのエプロンのスペースが残されました。



そこに入場してきたのは、防衛大学儀仗隊。
なんと、ファンシードリルが行われるのです。
防大の儀仗演技が行われることはプログラムでちらっと見たのですが、
どこかのコーナーでイベント的に行われるのだと思っていました。

こんな大々的に式典の一環として目の前でやってくれるとは感激です。



防大儀仗隊の制服は冬制服の上着に夏制服のズボン、夏用のカバーをかけた正帽、
という組み合わせによって独特なスタイルとなっています。



先頭で指揮刀を持ちホイッスルを加えているのが儀仗隊隊長。
HPによると、第60期隊長の近藤稔将学生です。

(註:その後この日の指揮官は近藤学生ではなく、儀仗隊員の川本学生であり、
隊長が指揮を執るのは音楽まつりと開校祭のグランドフィナーレだけ、
あとは儀仗隊員が交代で務めるということを教えていただきました。多謝。)



この部分は賓客に対する敬礼の意味があると思われます。



そして演技開始。
一糸乱れぬ統制で次々と動きを決めていきます。



前の人が立てた銃を次の人が倒れる前に受け取る演技。
銃の台座を地面と平行に置けば、結構長い間立っていそう。



十字になってぐるぐる回るフォーメーション。
いかに一線を保つかがこの演技のポイントだと思うのですが、
このアングルから見ても全く狂いがありません。



Nikon1の望遠レンズは遠くの隊員たちの表情をちゃんと捉えています。
曇天だったので画像処理で画面を明るくしたのですが、隊員の顔色は全く変わらず。
いかに彼らが日焼けをしているかがよくわかりました(笑)



どれだけ望遠レンズが優れているかの証明。
これが広角レンズで撮った写真。



それをここまで引き寄せることのできる望遠レンズ。
何故か銃に巻きつけられた透明のセロテープまで見えてしまうという。




ファンシードリルの時にはドラムとシンバルから成るリズム隊だけが
付随する音楽となります。



端から順番に銃を回してひざまづくようにポーズを決めます。


 

順番に銃を投げ上げる技。
ちなみにこのM1ガーランド小銃は4.3キロも重さがあります。
1941年に作られたこの銃を未だに使っているのは、
ひとえにその美しいことからだそうです。

第二次世界大戦はもちろん、朝鮮戦争、ベトナム戦争でも使われていました。




帽子は顎紐を顎の先にかけるのが決まりのようです。
喉の下にかけてしまうと小学生みたいに見えるからですねきっと。


今気づいたのですが、帽子には白と黒、どちらの顎紐かけもついており、
白いのは装飾として残してあるように見えます。
隅々まで効果が考慮された制服です。

わたしがこれまで目撃した防大儀仗隊ファンシードリルでの唯一の失敗は
銃投げ上げのあとひざまづくフォーメーションで銃を落としたというものですが、
この日は一つのミスもなく、完璧に演技を終了させました。

 

フィールドのはるか反対側の隊員を写しても、後ろの観客の顔も
鮮明に個人特定できてしまうという望遠レンズ。

全員が銃を縦回ししていって、最後に左端に立っている隊員が一人だけ
敬礼しながら左手だけでバトントワリングのように何回も銃を回転させ続け、
観客の拍手が巻き起こります。



掌を中心に上手く慣性を利用して回しているのがわかりますね。



そしてクライマックス。
高々と銃を投げ上げて・・・、



空砲一発。
隣に座っていた女性が予想もしていなかったらしく無茶苦茶驚いていました。

M1ガーランド小銃には6発の銃弾が装填できます。
儀仗隊のHPには、

ファンシードリルにおいては、弾は各隊員一発のみ込め、
必要に応じて発射する人員を変えることで1回以上の空包射撃を可能としています。

この日の空砲射撃は確か二回行われたので、半数ずつが射撃したのでしょう。
あの銃声が半数の隊員のものだとすると、もし全員で撃ったら
どれほどの破裂音になることか・・・。

音楽まつりなど、屋内でのドリル演技の空砲発射は、特に数を減らしたりするんでしょうか。



続いて、いつ見てもかっこよくてワクワクする、銃のアーチくぐり。
このフォーメイションが出たらそろそろおしまいです。
向かい合った隊員が銃を相手に投げ渡していく中、隊長が
端から端まで悠々とといった感じで抜刀して進みます。



隊長の歩みのタイミングに合わせ、通過する直前と直後に、銃口を下に、
ほとんど銃が垂直に立つように投げ上げて受け渡しをするのです。



隊列の先頭に隊長が出て、最後のフォーメイションで号令。



そして退場。
防大儀仗隊はもともと栄誉例などを行うために設置された部隊ですが、
技量の維持のためにこういったファンシードリルの訓練を行っています。

ファンシードリルは、本来の儀仗隊の存在意義からいうと、いわば二次的なものなのです。




続いて、当基地に所属する消火部隊の実演が行われました。

この消防車の座席に座って実際に放水したことあるもんねー。(自慢)



車両が停止すると同時に、三人の防火服を着た隊員が飛び出してきました。
隊長らしき前方の隊員以外はフルアーマーだ!
これ、夏の訓練はもう地獄だね。

全員靴まで耐火仕様のシルバーで決めています。



指差し確認中?
隊長のポーズ(特に脚の開き方)には何か特別な意味があるのでしょうか。



放水についてのタイミングは全て隊長が指揮を行います。



そして車両と共に二人の隊員が放水!
おそらくこういう脚の構え方をしていないと、放水の衝撃で
立っていられないのかと思われます。
隊長が脚を開いているのも放水隊員と一体化しているという姿勢なのでしょう。



観客の向こう側ではもう一台の放水車が最大仰角で放水を行います。

ところで、前回の「赤とんぼの生態」についての記事において、勘違いがありました。
写真の順番を取り違え、式典中のことのように書いてしまったのですが、実は
トンボが産卵していた水たまりは、この放水によってできたものであることを
今この写真を見て思い出したのです。

それならばこの水は今日中に消えてしまうのはさらに確実。
トンボさん・・・・(´;ω;`)ブワッ



実演終了し、隊長以下全員が紹介されました。
彼らは航空基地隊の基地運行隊に所属します。


フルアーマーの二人の防火ヘルメットはフードのように後ろに外されていますが、
彼らが走って退出するのを見るとものすごく重たそうでした。



そして消防車に全員が乗り込んで拍手の中退場です。
消防署員ではない彼らが、実際に現場に投入されることは滅多にないわけですが、
しかし自衛隊という組織がそうであるように、いざという場合に備え、
休むことなく厳しい訓練を行うことによってその練度を磨いているのです。





続く。

 

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航空基地開設56周年記念式典~「君が代」と赤とんぼ

2015-09-28 | 自衛隊

つい昨日のエントリで前回の航空基地訪問記がようやく終了したのですが、
まさにその基地にまた行ってきました。
基地開設の記念式典にご招待をいただいたのです。 

P3-Cの教育隊として現在パイロットを育成しているこの基地は、
もともと終戦直前に陸軍がゴルフ場に作った飛行基地で、終戦後は
GHQが接収していましたが、米軍撤退後、日本に返還された基地を
自衛隊が運用することになったのが今から56年前というわけです。

開設記念行事は、大きなイベントをあまり行わない教育隊基地にとって、
こう言ってはなんですが、数少ない「ハレ」の場なのです。



しかし、この基地は車で行くのが一苦労なんだな。
なにしろ、高速を降りたら幹線道路は激混み。
近道をするにもこのあたりはほとんどが二車線道路で、週末は車が動きません。



ようやく基地の近くのコンビニにたどり着いたら、
基地に入る前に休憩をしているらしき人ばかり。
お店の前のお店の前のスーツの紳士は、どこかで見覚えがあると思ったら、
海自のイベントでよくお見かけする、元自衛官(偉かった人)。

シルバーの車の左には、陸軍軍人が5人 で談笑していましたが、
すぐに小さな車でぎゅう詰めになって出て行きました。
われわれもそれに続いて基地に向かいます。



基地の中に入る為には、前もって送られてきた駐車券をダッシュボードに乗せ、
ゲートを通過して係の指示に従います。
駐車場は幾つかあるようで、最初いただいた券は黄色でしたが、
直前になってなぜか赤いのが送られてきました。



式典開始までの1時間、この部屋で待機している間
同室の方々の全員と挨拶をしました。

地球防衛協会、国某協会、水交会等、山ほどの肩書きのついた(いつの間に・・・)
「防衛名刺」を配るチャンスです(笑)




前回この部屋で海将とお話したときには気づかなかった橋本龍太郎元総理の揮毫。
先日安倍首相の書と習近平の丸文字を比べて中国人が嘆いていましたが、
(時々見る習近平の毛筆書は本人のものではないという噂あり)
橋本総理は達筆だったんですね。

日本国の総理ともなれば達筆で当たり前と思ってしまうわけですが、
民主党の歴代首相、岡田代表、福島瑞穂、志位和夫の字は皆酷いものです。
書は人なり・・・?



その点、自民の政治家は、この点昔から与党体質なので、
トップに行くほどある時期から手ほどきを受けたりするのかもしれません。



時間になったので全員でバス移動することになりました。
なぜかファクシミリの上に佐官用の正帽が・・・。



来客があるとき、壁の帽子掛けでは足りないので、わざわざこのように
帽子置きのための台を(しかも白いクロス掛け)作るのが自衛隊。
中では式典に出席する陸自の佐官クラスがご歓談中。
もしかしたらさっきコンビニで見た人たちかな?



エントランスにはおそらく来客に見せるために、
相撲大会に(ここ伏線)この夏優勝したというカップと賞状が飾ってありました。
大会の名前が「笹川相撲大会」というのですが、どうやらこれらしい。

笹川相撲祭り



教育集団司令、基地司令がいる建物からまっすぐ正面玄関を歩いて行くと、そこには
訓示台があるというわけです。



真正面に横付けされたマイクロバスに乗って、式典会場のある
飛行場エプロンまで移動します。

今日は「基地祭」でもあるので、一般の見学者がすでに構内に入ってきています。
自衛官のパパに運搬されている赤ちゃんもあり。



会場が見えてきました。
防衛大臣やもちろん総理大臣が来るような規模の式典ではありませんが、
防衛政務官クラスは来るはずなので、バスの通り道には警衛が立ちます。



白いのは全体を監視するためのやぐらでしょうか。



割り当てられた席に着くと、柵で仕切られた一般見学者に囲まれる形になります。
C-1やCH-47Jなど、展示機もありますが、人出はこんな基地祭にしては異様なくらい少ない。
入間や総火演のように、スペクタクルな「見もの」があるような基地祭ではないので、
近隣の住人をお招きした感が漂うアットホームな雰囲気です。

昔はどこの基地祭もこんなものだったんでしょうけどね・・。



格納庫の上部に書かれた「ELV98FT」は空港コードというやつでしょうか。



なんと式典参加部隊は全員整列して列席者が全員席に着くまで直立不動。
いつもいつも思いますが、いかに鍛えているとはいえ、微動だにせずに
姿勢を伸ばして立っているのはそれだけで体力が要りそうです。

「防大生のときに観閲式に参加したけど鼻とか痒くなっても掻けないから大変辛かった」

と中の人の赤裸々な告白をお聞きしたことがありますが、
鍛錬によってそんなことも感じないようになってくる・・・のかもしれません。



左から、二佐二佐二佐三佐一尉。



海曹の前に立っている三尉はウィングマークを胸につけています。



やっぱり海自のセーラー服はかっこいいなあ。
なんと!真ん中の海士長は体力・水泳両方の徽章持ちだ!



さて、いよいよ式典の開始です。
国旗と自衛艦旗を先頭に、儀仗隊が入場してきました。
それにしても、紅白の二色である日の丸と自衛艦旗が、目にも眩しい
白の制服をまとった男たちの隊列によって運ばれてくるこの光景の美しさよ。



国旗・自衛艦旗が通り過ぎるにしたがって、隊員たちは順に敬礼をしていきます。



挙手をするタイミングは最前列の隊員が決め、後列はそれに従います。
遠くから見ているとちょっとウェーブを見ているようでです。



旗が隊員たちの手によって壇上に掲げられ(冒頭)、
全員が起立する中、国歌演奏が行われました。

「君が代」を歌ったのは、中川麻里子1等海士。
声を聞く限りクラシックの声楽を専門的に学んだ方に思われました。
調べたところ、愛知県芸の大学院を出ているそうです。



せっかくなので歌っている顔をアップ。
彼女の歌声はこんなです。



続いて祝賀飛行が行われるというアナウンスがありました。


基地に到着したときに祝賀飛行とあるパンフレットをいただいたので、
案内の方に「祝賀飛行って何が来るんですか」と聞いたのですが、
「わたしは知らないんです」と悲しそうに言われました。

何が来るのかな?空自からはF-2もきたりする?
とワクワクして待っていたところ、

「右手をご覧ください。我が基地の教育隊のP-3C対潜哨戒機が2機参ります」



おおう、キタキタ。
オライオンはスピードがそんな速くなくて体が大きいから写真がとりやすくて好き。
まあ、そんな写真ですら画面が暗く写ってしまう今日の曇天なんですが。
そして、二機目のP-3Cが続いて通り過ぎました。




「これで祝賀飛行を終わります」

( ゜д゜)「・・・・・・・・・・」


終わりかいっ!

この二機のオライオンは、式典の間どこか時間を潰すために飛んでいて、

次のアナウンスの時にはきっちりと帰って来て着陸しました。
こういうタイムスケジュールを淡々とこなすのが、凄いってことなんでしょうな。



この後基地に離陸したP-3C。

ちなみにこの2機は、本年度観艦式に受閲される機体だそうです。




というわけで、まずは主催者である教育航空群司令の挨拶。
ここが先日の水害での自衛隊派遣の要地となったという話をされていました。



続いて地元市長のご挨拶。随分と若い市長さんです。
民主政権時代無所属で民主党の推薦を受けて選挙戦に出て当選したようです。
なお、あの事業仕分けのときには市でもいろいろとやった模様。



壇上の来賓は一人ずつ名前を呼ばれて立ち上がっていましたが、
ついでに?大声で「おめでとうございます!」という人多数。
佐藤正久・宇都隆史の「元自コンビ」始め、国会議員は全員代理の出席でした。



式典の終了に際し、国旗・自衛艦旗が退場します。
今度は逆から「敬礼のウェーブ」が起こります。

こんな写真も晴れて青空がみえていればもっと美しかったのにな。

昼食会での挨拶によると、基地司令は、天気予報が思わしくなかったので
今日雨が降るかどうかが気になって、4時に起きてしまったとのこと。

確かに1日すっきりしないお天気で、見ての通りどんよりと雲が厚かったのですが、

雨は「微か」程度の霧雨がほんの時々感じられた程度で、
無事に全ての行事が行われることになりました。

ただ残念だったのが、P-3Cの体験搭乗の航路が短縮されてしまったことです。
どうして天気が悪いとコースが短くなるのかわかりませんでしたが・・。



ところで、そんな天気でエプロンに水溜りの出来ていた部分があるのですが、
その辺を飛び回っていたツガイのトンボが、繁く地面に降下して、
後ろのトンボが尾の先を地面に何回も叩きつけていました。
あまりにも不思議な動きだったので、挨拶を聞きながら望遠レンズで追いかけてみました。

・・・・って何やってんだ。




こんな感じ。
オスの尻尾の先とメスの首の付け根には、連結器と呼ばれる
接合するための突起があるのでつながることができるそうで、

メスの尻尾とオスの首では接合できませんし、同性同士も不可能だそうです。



これ、オスが自分の女(笑)を他のオスに取られないように確保してるんですってね。
で、メスは水に尻尾を何度も叩きつけるようにして・・。
もしかしたら産卵してますか?

うーん、せっかくだけど、ここはすぐに乾いて水なくなっちゃうよ?



と、わたしがとんでもない観察をしている間に、滞りなく式典は終了し、
式典参加部隊は、横須賀音楽隊の奏でる「軍艦」の調べに乗って退場していきました。



続く。





 

 

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航空教育隊訪問記~海将との昼食(おまけ:掃海艇の話)

2015-09-27 | 自衛隊

 

いろんなシリーズの途中ですが(笑)航空教育隊訪問記、最終回です。
管制塔の見学を終え、最初の隊舎に帰ってきたわたしたちを、
もう一度海将がお迎え下さいました。

そう、今回の工程の中でわたしが二番目に楽しみにしていた

昼食タ~~イム!

となったのです。
先ほどの応接室の奥にある司令室に通されたわたしたち。
海将とテーブルを挟んで座り、しばらくすると、校内放送で信号ラッパが鳴り響きます。

♪ドッドドドミ ドソドミ ドーソドミ ソッソソソー
ドッドドドミ ドソドミ ソーソーソ ドー♪ 

ふむ、これは「午前課業終了」のあとの「昼食」という合図ですか。 
「課業終了」のは聞かなかった気がするな。 
いいねいいね~。このいかにもいかにもネイビーな雰囲気。
そういえば、ラッパの展示以外で、リアルタイムに信号ラッパを聞くのは、
護衛艦の自衛艦旗掲揚・降下以外では初めてです。

しかしこの時に思ったのだけど、自衛隊は海軍の昔からこうやって
信号ラッパとともに(正確にはラストサウンド発動ね)全員が同じ行動をとるわけで、
巨大な基地の隊員がいちどきにご飯を食べに行くのは、まず作る側が大変なのでは、
と心配になってしまいますね。
他の企業みたいにシフト制で代わる代わる休憩に行く、ということは絶対にないというわけ。



さて、海将からこの日の行程をうかがった時、

「昼食をいただいてそれで解散」

ということだったので、海将とご一緒の食事を大変楽しみにしていましたが、
士官食堂でカレーなどいただけるのかと思っていたら、



隣の部屋からWAVEさんが二人で運んできてくれたのは仕出しのお弁当。
どうも来客のある時にはお弁当を出すことが決まっている模様。

隊員食堂でカレーが良かったのになー、と未練がましいエリス中尉(笑)

ただ、他の隊員がいたら海将もお話しにくい部分があるかもしれないので、 
こういう形もある意味配慮の結果なのかもしれません。


お弁当をいただきながらの海将とのお話は大変興味深く面白いものでした。
先日ここで書いた「防衛省設置法案改正」についての解説に始まり、
基地で行われている教育についての説明などはもちろんのこと、
なかでもわたしたちにとって印象深かったのは、掃海艇の任務についてのお話です。

どんな話から掃海艇の話になったのかは忘れましたが、海将は

「わたしが実際に乗ってこれはわたしにはできないと思ったのが掃海艇任務でしたね」

といって、その苛酷な任務の実態の一端をこう語りました。

「掃海艇というのはとても小さな船なんですが、その小さな甲板での作業は
大変危険なものなんですよ。
少しでも気をぬくと、狭い甲板でロープに足を刎ねられてしまいそうになります」

ペルシャ湾の掃海の時には、太平洋の赤道直下の海上で、防弾チョッキを身につけ、
しかも出港前には掃海隊司令が海幕長の問いに答えて

「触雷は2回、被害は10~40人は覚悟しています」

と答えるほど、危険な任務と認識されていたのだそうです。
万が一の場合は被害者の「どんな小片でも現地に残すことなく家族の元に持って帰る」
と心に決め、触雷すれば皆一緒だと覚悟して皆任務に赴いたそうですが、
戦場での恐怖心に加え、小さな掃海艇で1日のほとんどを過ごすという肉体的苦痛は
全く計り知れないものであるというのがその内容でした。

掃海については少し補足しておきたいのですが、自衛隊の参加は
政治的な障害(牛歩戦術の反対とかね)を乗り越えなくてはいけなかったので、
現場への到着が一番最後になってしまい、そのせいで、本来なら環境に慣れるために
十分な作戦環境調査、ソナーコンディションチェックなどを行うこともできず、
ついた次の日の朝から、機雷排除に取り掛かることを余儀なくされました。

派出が遅れた分、日本が掃海を始めたことを一刻でも早く国際社会に宣言するために
このような無茶なことになった、と現場の人間は思ったそうです。
国内のごたごたのしわ寄せが、全て隊員に行ったということですね。

なにしろ、国際的な常識では、国際貢献を行う際のモットーというのは


「First Come! First Out! 」

であるのに、肝心の到着が遅れたため、一番危険な海域しかもう残っていなかったのです。
しかも、最初の海域を成功させた後、「次はあそこ」「それが終わったらあそこ」
と働かされ(最初の海域を済ませてさっさと帰ってしまった国もあったというのに)、
いつまでやればいいの?どこをやれば終わるの?というストレスはたまる一方。
やっと終わったときには、「あと1ヶ月で人間より先に機関が限界に来ていた」
というくらい、
人船ともにギリギリの段階だったと言われています。


この掃海任務の全期間を通じて、日本を影で支えてくれたのがアメリカ海軍でした。
掃海艇がドバイに到着したとき、アメリカ海軍は

「よくこんな小船ではるばるやってきたな!」

と驚き、その後も自衛隊の行動をフォローして、無線でしょっちゅう
低気圧が近づいているから速力をあげろ、などと指示を送ってきたり、
あるいはGPSの誤差を修正してくれたり、協力を惜しまなかったそうです。

アメリカ海軍と海自の友情について先日書いたのは、この会話がきっかけでした。



さて、この後海将との話は潜水艦に飛びました。

海将の本職とは関係のないこれらの職種の話で盛り上がることになったのは、
とにかくこの二つの任務が飛び抜けて過酷である、という話になったからです。

それによると、潜水艦には特に適性が厳選されるので優秀な人間が多い、
かつ運命共同体なので、特に協調性のある人間が求められるということですが、
それでは掃海は、というと、上記のような過酷な勤務を常とすることから
気性が荒い人が多いかもしれない、
というのが海将のご意見でもありました。

わたしは知っている掃海出身の自衛官を何人か思い浮かべたのですが、
いずれの方々も、気性が荒いと表現されるより、むしろその反対に思えたので、
皆さん、実は内に激しい部分を持っておられたのか
などと考えました。



さて、冒頭写真は食事の後、遠慮する海将に司令の椅子に座っていただき、

一緒に写真を撮っていただいたときのもの。
まず注目すべきはデスクの真上に神棚が鎮座していることですね。

この基地は海軍基地であったことがなく、戦後から飛行場として稼働しているので、
神棚は旧軍からの伝承というものではなく、戦後祀られたものです。

「わたしがお札を頂いてきました」

聞き違いでなければ海将はこうおっしゃっていたと記憶します。
写真をアップしてみても、神殿の中の三つのお札がどこのものかわかりませんが、
一番右のものは香取神宮(千葉県下にある)のお札であることが確認できました。



デスクの右上の書は、右から三番目の字がよくわかりませんが(笑)

百術不如一誠 (百のテクニックも一つの誠に如かず)

ということだと思います。
海上自衛隊のためにこの書を揮毫したのは、全く読めない漢字の人で(おい)、
三文字名前の衆議院議長というと真ん中の「田」から見て船田中しかいないので、
おそらくこの人だと思われます。

この言葉自体は政治家がよく座右の銘としてあげるもののようですが、
調べていて一番驚いたのが、小沢一郎さんもこの言葉を銘にしているらしいことでした。

座右の銘といえば、左に見えるこの書ですが、



わたしがこの書に話を振ると、海将は、

「これはわたしが書きました」

と、はっきりとした口調でおっしゃいました。
これは海将の座右の銘であり、同時に航空教育集団司令としての指導方針だそうです。

「愚直たれ」

「愚直」を辞書で引くと、正直すぎて気が利かない人(さま)、馬鹿正直となっています。

気が利かない、というのは決して褒め言葉ではありませんが、「気がきく」ということが
「小利口」とつながることもままありうるということでしょうか。
家に帰ってHPを確認したら、海将自身の言葉で次のように説明されていました。


「愚直さ」とは、心の強さを表すバロメーターであり精強性を示す指標に相当します。
危機に直面した時でも粛々と任務を遂行できる真に戦える「愚直たる搭乗員の育成」を教育目標とし、
「最後まであきらめない」、「物事をあなどらない」、「人をあざむかない」の3つの実践に務め、
海上自衛隊搭乗員教育に必要な「愚直さ」を追求していく所存です。



愚直という言葉は日常生活では滅多に言ったり聞いたりしませんが、
わたしがこの言葉を最後に聞いたのは、
ある大東亜戦争戦死者の慰霊・顕彰団体の主催者の口からだったと記憶します。

「我々はいろいろ考えず、愚直に慰霊を行っていけばいいんだよ」

両者の「愚直さ」に通じるのは「至誠」がその根底にあることです。

偶然そこで「百術不如一誠」という右側の揮毫と重なるものを感じるわけですが・・。


さて、話が弾んでいるうちに、課業初めのラッパが鳴りました。
しまった、もしかしたらこれはもしかして時間オーバー?
しかし、こういうときに自衛隊の人というのは「それじゃこの辺で」と自分から言わないのですね。
そこでわたしは、

「実は昨日陸自の方とお会いしたのですが、先日の地震の時、
この方はお休みで、その日行われた子供さんの運動会のビデオをみんなで観ていたんだそうです。
ビール飲みながら・・・。
しかし、地震がけっこう大きかったのですぐに駐屯地に戻り、点検のためにヘリを飛ばして
異常が見られないことを確認して任務を終えたのが夜中の1時だったとか・・。

この基地でもやはり地震に対応した動きをなさったんですか」

「わたしどもも近隣に哨戒機を飛ばして異常がないことをまず点検しました」

「そうですか・・・何か起こったらすぐに出動という体制がすっかりできているんですね。
国民の一人として、本当に心強いです」

そう、この最後の一言を言うために話を振ったんですね。

そこでわたしの意図を汲んだTOが婦唱夫随で、

「いつも国民の安全を守ってくださって、ありがとうございます」

そこで三人がほとんど同時に「それではそういうことで・・・」
となり、会見を美しく終えることができたわたしは内心ガッツポーズしながら、

「ふっ、決まったぜ・・」



海将とはその階でお別れし、駐車場までは副官の1尉が送ってくれました。
一回のエントランスホールにはなぜか戦艦大和の模型が。

車まで1尉と雑談しながら歩いたのですが、海自の副官業務が「個人ではなく配置に就く」
ということを、ご自分が実際に副官になるまでご存知なかったそうです。
ですから彼は、前任の航空教育集団司令の時から副官業務をしているのだそうです。

「今度の司令にお仕えになって、どうですか」

「ハ、素晴らしい司令でわたし自身大変勉強をさせていただいております」

ここで上司をくさす人など世の中には、ましてや自衛隊にはまずいないわけですが(笑)
海将とみっちり1時間お話させていただいたわたしたちにとって、その言葉は深く頷けるものでありました。



そうして基地を辞し、そのあとは東京まで、まずTOを職場に送りましたが、
いきなり高速に乗り損ねて長い間地道を走るはめになり、疲労困憊しました。
やっと高速に乗れてスカイツリーが見えた時にはほっとしたものです。

しかし、二人の興奮と感激はしばらくの間覚めやらず、またこんな機会があったら
ぜひ自衛隊潜入させていただきたいものだね、と言い合ったのでした。
(この部分伏線)


航空教育集団の関係者の皆様、本当にありがとうございました。


シリーズ終わり。


 



 

 

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「あたご」が”バトルシップ”に出演したわけ〜軍港の街舞鶴を訪ねて

2015-09-26 | 自衛隊

艦長自らの説明による「あたご」の艦内ツァー、操舵室の続きです。

「あたご」の事故について触れましたが、少し補足しておくと。

最高裁では、護衛艦側の見張りが漁船を見逃したのを、全面的な過失とする 

検察側の勇み足とも言える主張をことごとく覆す判決がでました。
しかしこの無罪判決を受けて、防衛省がこの件で全員をお咎めなしにすることはなく、
関係者の処分を軽くしたにすぎませんでした。

無罪として結審したあとも、マスコミの自衛隊に対する姿勢は変わりませんでした。

「一方で地裁判決は、無罪となった2人について漁船の動静判断を誤り、
十分注視していなかった点は認めた。
審判裁決は、それを事故の主因と認定した点が違うだけだ。
海自の組織責任
は免れぬ。」(愛媛新聞社説)

『地裁では有罪だったのだからそれが覆されても罪を負うべき』ってことですよね?

こんな、一見矛盾はないようで、実は法治国家の言論の府にはあるまじき
感情的な意見を投げつけ、相変わらず世論を煽り続けていたわけですから、
自衛隊としては、これが精一杯の処分見直しだったのではないでしょうか。



そんな事故の起こったことを、わたしは不思議と艦橋にいるとき
全く思い出すことはありませんでした。

単にすっかり忘れていただけという説もありますが、(; ̄ー ̄A  

目につくものについて思いつくままに質問したり返事を聞いたり写真を撮ったり、
そんなことを思い出す余裕はこれっぽっちもなかったのです。

何しろ、三人の見学者のうち、口を開くのはわたしだけという状態で、
TOはただときおりお礼を言うために口を開くという具合だったので・・。



さて、ここには青ストラップ(士官)の双眼鏡がちゃんと名前のついた棚に収納されています。

右側の二つの棚にあるのが士官以外が使用するものである模様。

「幹部は各自自分の双眼鏡があるんですね」

「各自の視力に合わせて調整がされているので、自分のを決めておくんです」

なるほど。大した手間ではないとはいえ、毎日のことですからね。
ちなみに双眼鏡のメーカーはカメラのアクセサリーでよく名前を見る
「ケンコー・トキナー」でした。

緑色のストラップは幕僚用だそうです。



双眼鏡の真ん中には桜に錨のマーク入り。
砲術士アルファの双眼鏡のマークは取れてしまっています。

「結構よく取れるんですよ」

だそうです。



「あたご」艦長は1佐なので、椅子は赤。
艦長用の赤いストラップのついた双眼鏡は、ちゃとテーブル下の物入れ(右)に
きっちりと収納されています。

筆記具などが取り出しやすいペン差しも、艦長用は赤です。
足元のはヒーターかな?



仕方なくトリミングしなかったけど、ケラレがあってごめんなさい。


艦長の椅子と反対側にある黄色い椅子が艦隊司令、軍司令の椅子。
ここにもちゃんと黄色いストラップが収納されています。

ちなみに操舵室の窓には桜のマークが2つ貼られていますが、これは

「群司令たる将官(二つは海将補)が乗る旗艦」

を表します。
「あたご」は第3護衛隊群の第3護衛隊に所属し、群司令は
眞鍋浩司海将補です。
 

このマークを「海将補が乗艦中」と説明しているサイトを散見しますが、
乗ったり降りたりするたびに、窓から紙を貼ったり外したりするのは無理です(笑)

隊司令乗艦時、白地に一つ桜の縁取り旗を揚げ、不在時には黒い旗が揚がります。
この日は黒い旗が揚がっておりました。

「連休ですからお休みなんですね」



操舵室から艦橋の外に出るところの壁一面になにやらスイッチが。
ほとんどのスイッチは停泊灯で、「日出時:切 日没時:入」といちいちシールが貼ってあります。

日没時に全部スイッチが入る一つのスイッチを作るという案はなかったの?



艦橋のデッキに出ました。
出航の時に艦長が立つところです。
向こうでは「みょうこう」が大々的な補修中。
「みょうこう」もきっと観艦式に出るためにお化粧直ししてるんでしょう。

そういえば映画「バトルシップ」では「みょうこう」の名前が出演しましたね。
(この部分伏線) 





で、その手前が、これ(笑)、こんなところに満艦飾が。

「何してるんですか」

「干してます」

いや、干してるのは見ればわかります。

「濡れたんですか」

「そういうわけではないですけど」

お天気のいい日には太陽に当てて殺菌するんですね。



広角レンズだとマストもこんな風に映るのでいいですねえ。
レーダーらしきものはTAKANしか見えませんが。

これも広角レンズ買ってよかったー!と思った写真。
こんな画角の写真、初めて撮ったよ。
広角なので、端の部分をアップにしたら、微妙に歪んでいるのが難ですが。

「あたご」が艦首を向けている方向には「赤煉瓦パーク」や港めぐりの船が出る岸壁があります。



内部も少しだけですが見学させてもらいました。
偉い人たちが集まった時にはここで会議を行ったり会食したり?
奥にはカーテンの引かれた小窓がありますが、ここから
料理のお皿が出てくるのだと思われ。

棚の上に立派な壺が飾られていますが、木の台座に乗っているだけ。
時化たら転がり落ちたりしないのかしらと心配です。



トイレまで撮影してしまうのだった。

アメリカで見た空母や、特に潜水艦は皆そうでしたが、個室には
たいてい難本もパイプが巡らされていて、スペースを狭くしています。

流す水は当然塩水。
黄色いテープには「塩水を流しながら使用してください」という注意書きあり。

ちなみに先ほどの会議室のような部屋の奥に扉があったのですが、
それは艦長用の居室とつながっているそうです。
艦長の部屋には、「いせ」でも見ましたが専用のお風呂があり、
士官用はもう少し大きなものを何人かで使い、海曹・海士は
広い浴槽の共同風呂を時間内に使うそうです。

「宗谷」のときに話題になりましたが、風呂水は海水を浄化したものです。



艦橋から降りてきたところには「ペンキ生乾きのため踏むな」の印。



そして甲板に降りてきました。
広角レンズで撮ると上部構造はこのようになります。



あら不思議、もう一度同じ位置からズームで撮ったコンデジの写真。



「あたご」のVLSは90セル、とwikiのページには書いてあります。
・・・というからには、このチョコバーみたいな発射筒が90あるのだろうと思うでしょ?

でもこれ、4つのセルがひと塊りになっていて、それが16、つまり64しかありません。
セルは8個で1セット(モジュール)なので、常に8の倍数しかないはずなのです。
そこで確認のため、Mk41ミサイル発射機のページを見たところ、「あたご」型のVLSは

セル数92(32+64)

とあります。
つまり「あたご」のページの数字が間違っているってことでOK? 

しかしこの数字は、ここにあるのがセル数64だとして、32、つまり4モジュールのものが

どこか別のところにあるってことなんでしょうか。



(画像が)苦しい。苦しすぎる。
広角レンズでもフレームに収まらなかった艦載砲、 Mk 45 5インチ砲( Mod4)

ぎりぎりなので、これもビネット除去できませんでした。

なぜこんな写真しか撮れなかったかと言いますと、当艦、
ただいま全面塗装中でございまして、それは甲板とても同じこと。
で、甲板のペンキ塗りをどうするかというと、端っこから自分の周りを塗って行き、
甲板には最後に一筋の道(幅80cmくらい)を残し、他が乾いてからその「道」を塗るのです。

艦長がその細い道を先導し、わたしたちは一列になって後をついていったのですが、
この主砲の横が道のつきあたりで、ここからは一歩も動けない状態。
フレームに収まらないからといって道を踏み外すわけにもいかず(笑)
従って先だけが切れた絵になってしまったというわけ。


ところで、先ほどちらっと「バトルシップ」の話をしましたが、あの映画で
エイリアンに沈められるのが「みょうこう」ではなく、「あたご型」だって知ってました?

わたしは今回(というか今)、Mk45の説明を観て初めて知ったのですが、
映画では「サンプソン」「ジョン・ポール・ジョーンズ」、そして「みょうこう」が
出演したという設定で、さらには戦闘シーンにこの艦載砲が登場しました。


しかしこれ、劇中「みょうこう」として登場している護衛艦、
ないしCGモデル、「みょうこう」じゃなくて、「あたご」型だったんですねー。

でも、なぜ?
ここで、どうでもいいことにこだわるわたしがその理由を考えてみました。

「みょうこう」はまず、名前の響きがよかったので選ばれたのでしょう。
アメリカ人の感覚では、きっとカッコよく聞こえたのに違いありません。
まあ確かに「ATAGO」も「ASHIGARA」も英語的には響きが今ひとつな気がします。
「K(C)ONGO」はアフリカの国だし、「CHOKAI」は、「チョーク・アイ」、すなわち
「首をしめる」みたいに聞こえるし、「KIRISHIMA」を間違えずに言える俳優はいないでしょう。

というわけで「MYOKO」に名前が決まりましたが、モンダイは主砲です。
「みょうこう」に搭載されているのはイタリア製の「オトーメララ 」。
(一応おことわりしておくと、自衛隊の中の人が”オート”ではなくこう書いていた) 
 

せっかく主砲をぶっ放すシーンがあるというのに、アメリカ製でない武器は困る、
ということで、「あたご」型が撮影には使われたのではないでしょうか。

と、当てずっぽうに予想してみましたが、おそらくこれ、当たってると思う(笑)



格納庫の中は火気厳禁です。って当たり前だ。



わたしたちが見学している間、セーラー服の海士くんが立って、
なぜか入り口にロープを張って何人たりともそこから入ってこられないようにしていました。
ん〜、なぜ?

それにしても自衛官の立ち姿は遠目にも姿勢がいいですね。



というわけで、「あたご」の見学は終了。
艦長は「しらね」を通って岸壁まで見送ってくださいました。

「観艦式で乗る船はもう決まってるんですか?」

とお聞きになるので、当然まだ決まっていないと言いますと、

「ご縁がありましたら(観艦式で)お会いしましょう」

とおっしゃいました。
本当に・・・ご縁さえあれば・・・!(力いっぱい)



地上に降りて、もう一度、「しらね」を眺めました。
すべての武器類を降ろされた船は生気無く、ただ浮かんでいます。
いつの間についたのか、大きな傷まで艦体にできているのがまた侘しげでした。



さようなら、「しらね」。
しっかりお役に立つんだよ。

と内心声をかけ、わたしにとって最後の姿をカメラに収めました。
「しらね」を標的にした最新鋭ミサイルの実験は2016年に行われるそうですから、
もう少しの間彼女の姿はここで見られるはずです。

お別れを言いたい人は急いで舞鶴へ!



続く。 



 

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「しらね」の花道〜軍港の街舞鶴を訪ねて

2015-09-24 | 自衛隊

舞鶴地方隊の広報の方が指定してきた基地訪問時間は9時。
基地は泊まっていたホテルからは車で5分のところにあります。

海軍5分前に地方総監部の警衛門に車を向けると、まずそこにいた隊員が

 \(・∀・)カエレ!!

というふうに手を振りました。

一般公開の見学者が間違えて車で突入してきたのだと思われたようです。
あれ?段取りのいい自衛隊にしてはおかしいな?と思いつつ名前を告げると、
そこの責任者のような隊員が中に入るように指示をしてくれました。



海軍記念館の前で広報の方の携帯に電話をしたら、まさかの間違い電話。
なんと副官と広報の方の電話を取り違えて登録していたのでした。
あたふたしながら謝り倒して、当確日付のそれらしい番号に電話したら、
こんど掛かったのは空港パーキングサービスの配車係。

何をやっている。わたし。(汗)

しかも今にして思えば、広報の方は、一般の見学が始まる前に艦艇見学をするつもりで、
先に「岩壁に来るように」と言ってくださっていたような気がするのですが、
そのことをすっかり忘れてしまって地方総監部に先に来てしまったのでした。
どうりで帰れ言われるわけだ。


それからなんとか連絡がついて岩壁に向かったときには、海軍5分前の筈が5分遅刻。

岩壁の警衛門前には1時間前にもかかわらず、一般公開の開門を待つ人たちが集まっていました。


今度は帰れを言われることもなく警衛門を通って中に車を停め、エスコートの方と改めてご挨拶。

今日ご案内いただく護衛艦は「あたご」DDG177です。

「あたご」はその名前を持つ4番目の艦で、初代は旅順港作戦で沈没、
二代目はワシントン軍縮条約のため建造中止となり、三代目は「あの」愛宕(さん)。



「痛コブラと痛ニンジャ」のときにこのようなYouTubeを教えていただきましたが、
これが この日見学した「あたご」です。
この日は艦艇見学のために公開していた護衛艦が幾つかありましたが、
「あたご」 は補修作業中だったので、このあとも公開されていないはずです。



とりあえずラッタルを登りきったところで一枚。
これは「あたご」の岸壁側に繫留してある「しらね」。
そう、「しらね」は除籍されたばかりなんですね。

ところで、この画角を見て写真に詳しい方は何か気づきませんか?
そう、今回初めて、超広角レンズを投入してみたのです。

誕生日に望遠レンズをゲットしたわたしですが、やはりこのような場合

広角レンズが欲しいなあと思って探してみたら、なんとNikon1には専用の、
しかもAmazonだと大変お手頃なお値段のレンズがあったので、
観艦式に備えて購入しました。

ちなみに、これが、



SONYのコンデジRX100の画像。
冒頭写真は広角レンズによるものですが、比較してみても(撮影位置が違うとはいえ)、
広角レンズは護衛艦の撮影にはもってこいという気がしました。



しかし、ほとんど予行演習なしで当日に臨んだため、こんなこともおこります。
前回お見せしたお風呂の写真。

この右上左下の黒いのはなんですか?
これが噂の「ケラレちゃったのよ」というやつですか?

同じような画像を探したところ、レンズフードが曲がっているせいとのことですが、
同じときに撮影しているのに、これがあったりなかったりなんですよ。
レンズフードだってレンズ純正のものだし、おかしいなー。



という話はそこそこにして、いまや単なる「通路」としてのみ機能している

「しらね」の甲板を歩いて「あたご」に移ります。

「しらね」の除籍は今年の3月25日。
その日、わたしがどこで何をしていたかご存知ですか?
そう、横浜は磯子のJMUで、「いずも」の就航を見届けた日です。

つまり「しらね」の後継艦が「いずも」であり、「いずも」就役と同時に
「しらね」は除籍されるということになったということなんですね。

というわけで同日、「しらね」の後釜として「ひゅうが」が横須賀から舞鶴に転籍してきました。



「しらね」は、その最後の任務も決まっていて、XASM-3、今防衛省が開発中の
空対艦ミサイルの実爆試験用実艦標的となる予定なのだそうです。

XASM-3はF-2戦闘機で運用することを目的に開発されたミサイルで、

従前のものよりも防空能力の向上した艦艇を確実に撃破することができます。
1992年からといいますから、もう23年の間開発が続けられてきたのですが、
いよいよ2016年に完成するにあたり、仕上げとして「しらね」を標的に最終実験をするのです。

XZXM-3のウィキペディアのページにも、

2016年度(平成28年度)
退役した海上自衛隊護衛艦「しらね」を標的艦とし、実射試験が行われる予定


と書かれています。
「しらね」が、三年前の観艦式では「はたかぜ」と共に祝砲を撃ったのをわたしは見ました。



この観艦式が「しらね」の最後の花道となったわけです。
最新鋭ミサイルの標的となって海の藻屑になることも、
国防の艦たる「しらね」にとって以て冥すべしという最後かもしれません。

艦内を案内してくださった「あたご」艦長のお話によると、当確海域までは

燃料を空っぽにされ動力もオフになった目標艦は曳行されるそうです。

ついでにこんなのも見つけました。
誘導弾推進装置と合わせて開発費は40億円也。


平成14年度 政策評価書(事前の事業評価) 新空対艦誘導弾(XASM-3)



人気のない(当たり前か)「しらね」を通り抜け、「あたご」に到着。

乗組員が脇目も振らずかがみこんで床のメンテナンスをしています。

「観艦式に出る予定なので化粧直しをしているんです」

ほー、観艦式のために日本の護衛艦はそんなことをするんですか。

「あたご」は10月5日には舞鶴を出港し、横須賀を目指します。
早めに行くのは、観艦式を盛り上げるための「フリートウィーク」イベントに参加するからで、
10月10日から、艦艇公開、カレーフェスティバル、公開シンポジウム、
そして満艦飾・電燈艦飾や音楽隊による各種コンサートなどが行われるのですって。

なので観艦式にあぶれた人も、イベントに参加して楽しみましょう!

え?まだあぶれたと決まったわけでもないのに縁起でもないこと言うなって?



さて、「あたご」艦上でお迎えくださったのは艦長。
なんと艦長自らの解説による艦艇見学です〜。

さっそうと前に立って格納庫の中を突っ切っていきます。
「あたご」はヘリを搭載することはできますが、連絡など、
必要な場合に降着するだけなので、基本常時搭載はしません。

というわけで、この格納庫には拘束装置は備えていないそうです。
調べたところ、航空用員も配備されていないため、
もし必要とならばベッドを2段から3段に変更して(そんなことができるのか)
対処しなくてはいけないのだとか。



向こうに見えているのは「きり」型のようなので「あさぎり」かな?
甲板では、人がたくさん立ち働いていますが、こちらはどうやら
一般見学のための準備(立ち入り禁止札を立てたり、説明の札を立てたり、
危ないところに赤いリボンを結ぶなどの)をしているようでした。



短魚雷発射管等、武器の説明は基本スキップです(時間がないので)
正式には68式3連装短魚雷発射管HOS-302



というわけであっという間に艦橋へ(ぜいぜい)
あいかわらずとんでもなく狭い階段をすいすいと登る艦長。
これでは艦艇勤務に太った人がいるわけないですよね。

わたしは一度、階段の上部で頭を打ちましたorz



エスコートしてくださった広報の隊員さんは、カメラマンでもあります。
海自のカメラについてお聞きしてみたら、「やはりニコンが多い」とのこと。

「海のニッコー、陸のトーコー」

は海自にはまだ健在ということなんでしょうか。



この前に立って「いただきます」をするわけ。
ストップウォッチみたいなのが方位環に結びつけてあります。

正面にはいろいろと航海に必要な表などが貼ってありますが、そのうちの一つに

「傘型危険界」の図

がありました。
船は停船のためスクリューを逆回転をして急制動をかけても、慣性で前進するので、
大型船舶や軍艦は、航行中一定の範囲以内には、
漁船やフェリーを絶対に入れない、
という規則があります。

その危険範囲がちょうど傘のような形をしているのでこう呼びます。

このわかりきったことをこうやってわざわざ操舵室に貼っているように、
安全第一で規則をきっちりと厳守しているのが海上自衛隊なんですね。


そういえば、「あたご」はまだ最新鋭艦だった頃、漁船との衝突事故を起こしています。
「イージス艦衝突事故」として記録されているものです。

一貫して「あたご」側は過失がなく、漁船(乗員2名とも死亡)が右回頭を行ったことが
原因であると裁判でも主張し続けていましたが、最高裁はそれを支持し、
回避義務は漁船側にあり、あたご側に回避義務はなかったとする判決がでました。


しかし、マスコミのこの事件の報道姿勢は今考えてもひどいものでした。
今ほど自衛隊に理解と関心のなかった当時ですら訝られるほどだったのを覚えています。

事件発生時「ネイ恋」はまだ始まっていなかったので(笑)
マスコミの一方的な報道を検証し、突っ込むということができなかったのは残念です。


wikiには、

マスコミは事故発生当初から、あたご側にすべての過失があると断定する報道を繰り返した。

例えば朝日新聞は海難審判前の平成20年6月26日の社説で
「そもそも双方の位置関係から、衝突回避の一義的な義務はイージス艦側にあった」と断定している。
また、地裁判決後、信濃毎日は社説でイージス艦が漁船より巨大であることを理由に
「危険回避の責任はまず、海自にあると考えるのが自然だろう」とした
(現実にはそのようなルールは存在しない)

また、あたご側に回避義務があることを前提に、見張りが不十分であった・回避が遅れた・
乗組員に気の弛み・驕りがあった等との批判が繰り返された。
この他、しばしば感情論が先行し、死亡漁師の一部の遺族や漁協関係者の発言も多く紹介された。

このように自衛隊への非難ありきで恣意的な報道をしていたマスコミの有様が書かれています。


どんなに時代が進んで最新鋭のイージス艦になろうと、旧式の護衛艦であろうと、
近距離では基本目視で危険を回避するのが操艦というものです。

そういう意味で、自衛隊側が航行の基礎の基礎である傘型危険界内の目視を
怠っていたとは考えにくく、つまり民間船の急回頭が原因であることは
海事を知る人にとっては明々白々のことであったと思われますし、実際
マスコミが自衛隊を悪者にして騒いでいるときには、匿名で
「中の人」の立場から漁船の過失を指摘した自衛隊OBもいたということです。 


自衛隊にもし反省すべき点があったとすれば、それは予算と人員の削減が進行していて、
艦橋システムや護衛艦と海上幕僚監部との組織内の情報交換システムの近代化が
大幅に遅れていたということ(wiki)だったでしょうか。



ところで、この窓越しに見える山ですが、なんだと思います?
信じられないでしょうが、これ「愛宕山」って言うんですよ。

なるほど、舞鶴の「愛宕山」からあの「愛宕」はその名を取ったのか!

と一瞬考えたあなた、違います。
「愛宕」は愛宕でも、京都市右京区の愛宕山が初代「愛宕」の所以なので、
「あたご」から見る「愛宕山」は偶然としかいいようがないわけですが、定繋港を決める時、

「舞鶴にも愛宕山があるから『あたご』はここに定繋しよう」

という話でもあったんじゃないでしょうか。

ちなみに「あたご」が就役したのは2007年のこと。
名前はなんと部内応募だったため「ゆきかぜ」「ながと」なども候補に上がったのだそうです。
結局「ながと」は時期尚早ということで「あたご」に決まったのですが、
さっきも言ったように、「愛宕」は1代目触雷、2代目中止、3代目はレイテ海海戦で戦没、
といずれも不運だったので、その名前には
懸念を表明する向きもあったようです。

でもそんなこと言ってたら、旧軍の軍艦の名前なんて「ゆきかぜ」以外アウトだから(震え声)


続く。


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軍港の街舞鶴を訪ねて~東郷さんの肉じゃが

2015-09-23 | 海軍

今年、シルバーウィークという大型連休があることをわたしが知ったのは、
京都府の海上自衛隊地方隊に訪問することが決まってからでした。 

夏の渡米前に教育航空隊基地への表敬訪問&基地見学を果たし、
その最終報告を済ませたばかりなのですが、その訪問のときにふと、
兼ねてから舞鶴に行ってみたいと思っていたわたしは、
畏れながら基地司令に舞鶴へのご紹介をお願いしていたのです。

アメリカから帰ってきたらすぐに連絡して訪問日を決めようと思っていましたが、
何かと雑事が多く、はっと気づいたときには9月の声を聞くことに。
夫婦で訪問を申し込んだからには一緒に行かねばならないのに、TOは
仕事が忙しく平日はすでに予定満杯。

そこで気づいたのが9月のカレンダーの真っ赤な部分です。
もしかしたらここは全部連休なの?(そのとき気づいた)

連休の間、紹介していただいた舞鶴の偉い人が休みなのかどうか、
シフトがどうなっているかわからないままに、
わたしはご紹介いただいた方の副官という方と連絡を取り、
訪問日を決めてから、慌てて舞鶴への旅行の予定を立て始めたのでした。

新幹線はTOが前日に取りました。(前日でもなんとかなりました)
舞鶴では車のほうが便利かと思い、京都まで新幹線、
京都からレンタカーを借りて京都縦貫道を行くことにしました。


昔は京都というのは名神高速以外高速道路の連結のない、車にとっては
陸の「半島」みたいなところだったのですが、1988年に沓掛ー亀岡間が開通し、

それから27年経った今年の7月、ついに最後の部分、京丹波わちー丹波間がつながり、
沓掛から舞鶴まで高速一本で行けるようになったのです。
(というのも車を借りてから気づいたわたしたちでした)

おかげで京都洛西から高速に乗って順調に1時間半で舞鶴に到着。



これもカード会社に依頼してギリギリに取ってもらったのは
マーレという名前の、ビジネスとリゾートホテルの間くらいのホテル。
京都はもちろん、舞鶴までの経路にあるホテルが満室で、唯一取れたのが
このホテルの喫煙可ルームでした。

しかし、この、正直全く期待していなかったホテルは、マーレ(海)
という名前通り、前面に若狭湾からさらに入り組み、まるで
鏡のように波のない舞鶴湾を望む、絶景のオーシャンビューだったのです。 



海に面しているため、お風呂には大きく海の見える窓があり、しかもバスタブは
特大で、ボタン式のジェットバスという豪華?さ。

まだ明るいうちにわたしたちは代わる代わるお風呂に入り、ジェット水流を楽しみました。



晩御飯は選択の余地もなくホテルのレストラン。
ホテルにレストランが付いていることすら期待していなかったのに(笑)
ビュッフェの嫌いな我々はメニューから単品も選べるのがありがたかったです。
そこで当然のように(TOが)頼んだ、肉じゃが。(となぜか麻婆豆腐)



ところで舞鶴、とくれば海軍。海軍といえば東郷平八郎ですね。


舞鶴鎮守府の初代長官であった東郷さんが、
イギリスで食べたビーフシチューが忘れられず、

「牛肉とジャガイモと玉ねぎと人参の入った汁っぽい煮物作って。
あれ、うまかったから。艦上で食べるものにもなるし」

「といわれましても、それだけでは作りようがないのですが。
せめてお味はどんなだったとか、何かヒントは」

「甘かった」

「はい。(甘・・・・ってことは砂糖かな。砂糖を入れるのかな)」

「色は茶色っぽかった」

「はい。(・・・・醤油かな?)」

てな具合に海軍主計が悩みながら考案してできたのが、肉じゃが。
ここでも「舞鶴名物」としてメニューにありました。




ところで、今回舞鶴で買ってきた明治27年海軍が発行したこの料理本、

「海軍割烹術参考書」舞鶴海兵団長 西山保吉著

には、肉じゃがはなぜか登場しないのです。
冒頭写真はその見開きのページですが、そこには

命令 五等主計は本書に依り割烹術を習得すること

とあり、右ページの「序」には、

本書は、もっぱら海軍五等主厨教授用として編纂したもので、
他科兵種のための教科書はすでにあり、使用されているものの、
割烹の教科書だけがなかったので教育上方針の一貫を欠いていた。
本書は大体の要領を記しているだけで、もっと詳しいのは巷にもある。
本書は、准士官以上の料理を作る五等主厨のためには十分であろう。

というようなことが書かれています。
つまり、「准士官以上」用の料理本に今さら書くほど、
この時代肉じゃがは特別なレシピではなかったということでしょうか。

ちなみに、東郷さんが食べたかった「シチュードビーフ」は、
この時代にはすでに調理法が「輸入」されており、そのレシピはこう載っています。


材料は、牛肉、人参、玉葱、馬鈴薯、塩胡椒、トマトソース、麦粉である。
フライパンにヘットを少し溶かし麦粉に焦げ色がつくまで煎り、
スープで伸ばし、トマトソースを入れる。
牛肉は3センチ立法の大きさに切りフライパンで焼色をつけソースで煮込む。
人参、玉葱を適当に切って入れ、煮えたら弱火にして馬鈴薯を切って入れ、
煮えたら弱火にして馬鈴薯を切って入れ煮込み塩胡椒をして味をつけ供卓する。
トマトソースがないときは、用いなくても構わない。





夜が明けました。
ホテルから見る眼前の港は朝日に照らされて素晴らしい景色です。

「このホテルにして本当によかったね」

「こんどまた舞鶴に来ることがあったらここにしよう」

などと、ホテルに到着するまではビジネスに毛が生えた程度のホテル、
と勝手に思い込んで見くびりまくっていたのに手のひらを返すわたくしたち。



朝ごはんは外のテラスでいただきました。
全く期待していなかったリゾート気分はお得感倍増。

車が停まっていますが、ここにはカヌーのクラブがあるようです。




ホテルの売店にある舞鶴土産も、海軍色の強いものが多く、
「海軍さんのカレー」はもちろん、「舞鶴連合艦隊カレー」などが。
東郷元帥の肖像にはまるで後光のように旭日旗があしらわれています。

旭日旗でなぜか思い出したのですが、このホテルにも舞鶴の街中にも、
中国語や、ましてや韓国語の表示など全くありませんでした。
レンタカーを借りる為に京都駅に降りたとき、日本語よりも目立つ両国語に、
かなりうんざりした気分だったので、清々しい思いがしました。

旭日旗に文句をつけるような人種は、そもそも舞鶴に観光に来ることもないでしょうけど。

ところで、舞鶴の港は、終戦後、引き揚げ船が到着したことでも有名で、

今回わたしたちは「引き揚げ記念館」(仮設展示)の見学にも行ってきました。

その話はまたいずれするとして、ここには写真に写っていませんが、

「引き揚げタルト」

というお菓子があったのには少し引きました。
広島でも知覧でも「原爆おかき」「特攻饅頭」などがないように、
戦争の記憶の一環である引き揚げは、たとえば「岩壁の母」のような
悲劇も生んでいるわけですから、お菓子の名前にするのは如何なものかという気がします。



自衛隊関係のお土産も扱っていました。
ちゃんと「いずも」を一番上に全自衛艦の描かれた手ぬぐい。
「ひゅうが」「あたご」など、舞鶴所属の自衛艦のグッズ。
そして、連合艦隊の全艦艇名が書かれた手ぬぐいと・・・・

湯のみ。

お土産にこの湯のみを買って帰りました。
あらためて「大和」から始まる軍艦の名前を見てみると、
後ろの方には

「神川丸」「山陽丸」「相良丸」「讃岐丸」「天祥丸」「聖川丸」「君川丸」

などの水上機母艦、

「粟田丸 」「浅香丸」

の特設巡洋艦、

「靖国丸」(特設潜水母艦)、

「報国丸」 「愛国丸」「清澄丸」(徴用船。特設巡洋艦)

「さんとす丸」(徴用船。潜水母艦)

などまでが書かれています。

なぜか「大鷹」(空母)の名前はなく、その代わり徴用された
「大鷹」改装前の「春日丸」の名前が後ろの方にありました。



いきなりおみやげの解説から始まってしまいましたが、

このあと地方総監部を訪問し、広報自衛官や艦長、基地の「偉い人」の案内付きで、
まず自衛艦、
そして海軍記念館と東郷邸を見学する運びとなりました。


というわけで、「軍港舞鶴を訪ねて」シリーズ、始まりです。




続く。

 



 

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チカソーとヒューイ・ファミリー~イントレピッド航空宇宙博物館

2015-09-22 | 航空機

空母「イントレピッド」航空宇宙博物館の展示機、回転翼と参ります。

Sikorsky (HRS-1) H-19 Chickasaw 1950

最初に「イントレピッド博物館」について書いた時に、このシルエットを
艦外から見て、

「あのおにぎりシルエットはシコルスキー”チョクトー”」

と断言してしまったのですが、とんだ大間違いでした。
「チョクトー」ではなくて「チカソー」だったんですね。

なんだチカソーって。


S-58の「チョクトー」がインディアンの部族名なので、当然ながら
このチカソーもそうであろうと思い調べてみたら、チョクトー族とは
大変似た言語形態を持っているけど全く別の部族であるということでした。

アメリカという国におけるネイティブインディアン出身の人たちが
どういう位置付けでどうみなされているのかということについて
わたしたちはあまり考えることもないわけですが、wikiなどを調べてみると
部族ごとに彼らはコミュニティなどを持っており、部族出身の有名人なども
わかるようになっています。

たいていの場合ネイティブアメリカンは侵略「された方」で、たとえば
このチカソー族なども、住んでいた領地を巡ってフランスからの入植者と
イギリスからの入植者が戦闘を繰り広げた、などという過去を持っています。


回転翼というのは第二次世界大戦中から研究は続けられていましたが、
実際に運用が本格的に始まったのは戦後です。

アメリカ軍は兵員の輸送を目的にヘリコプターの開発を進めていました。
シコルスキー社に対して出された要求はつぎのようなものです。

乗員2名・兵員10名あるいは担架8台を搭載して、
340kmの距離を飛行できる機体

この要求に応えてその前のS-51(定員2名)を発展させた形で作られたのが

このS-55シコルスキー「チカソー」でした。



「きかんしゃトーマス」のハロルド。
ハロルドの登場はいつからかはわかりませんが、「きかんしゃトーマス」は
1945年から原作が連載されていたというので、ヘリコプターのキャラクターを
登場させる時に「チカソー」がモデルになったというのは時期的に納得できます。

ところで今ハロルドの画像を検索していて、”きかんしゃトーマス”を
イケメン軍団にしてしまった萌えを発見してしまいました。
ハロルドさんは全身白のスーツに身を固め、ヘリだけに”上から目線”のお兄さんに・・orz

話が盛大にそれてしまいましたが、なにしろ子供に絶大な人気のある
アニメキャラのモデルになるくらいですから、チカソーというのは
ヘリコプターの中でもパイオニア的存在であったということでもあるのです。

何が偉大だったといって、ヘリコプターが輸送にどれだけ役に立つかということが
初めてこの機体で証明できたということでしょう。
飛行時間も、床の下に設置された巨大な燃料タンクのおかげで飛躍的に伸びました。


わたしが間違えた「チョクトー」は、「チカソー」の機体を大きくして、
エンジン出力も大きくしたというだけの違いなのです。
間違えてもこれは当たり前ですね!(大威張り)

「チカソー」が製造されたのが1,828機、「チョクトー」はさらに2,261機と、
いわばヘリコプターという航空機の成功を物語る数字です。
「チカソー」の100機以上が軍用され、海軍、海兵隊、沿岸警備隊仕様となりました。
商業用としては一時期ヨーロッパで使われていたこともあります。

ここにある機体は、海軍のレークハースト(ニュージャージー)にあった
ヘリコプター部隊「Two "HU-2"」、通称「フリート・エンジェルス」の仕様機です。

日本では海保が2機を所有したのを始め、三菱がノックダウン生産をして
民間仕様だけでなく全自衛隊が運用していました。

1959(昭和34)年の伊勢湾台風の際に、陸自のヘリが取り残された人々を救い出しました。
この時にヘリコプターの救助能力の高さが世界に知られることになったいう話もあります。






こちら、


Bell AH-1J Sea Cobra 1971

向こうは

Bell UH-1A Iroquois “Huey” 1959

コブラはコブラでも「シーコブラ」、スーパーコブラでもあります。
シーとついているからにはやはりこれは海兵隊仕様ですね。

チカソーやチョクトーが輸送という点で安定したころ、やはりというか軍関係者から、
ヘリコプターで攻撃もやればいいんでね?という話が出てきました。
(かどうかはわかりませんが状況判断でそうだろうと思います)

そこで「攻撃型ヘリ」というジャンルを、1960年初頭から陸軍が開発しようとしました。
しかし、なぜか空軍は「攻撃ヘリ」という概念に否定的でした。


こういうのの裏にも、「空を飛びなから攻撃をするのは固定翼でないと」、
つまりそれは空軍の仕事だ!みたいなセクショナリズムがあったのかもしれませんが、
それより何より、攻撃ヘリの開発に消極的になる理由というのはただひとつ。

ヘリコプター自体戦場からの離脱が固定翼より容易でなかったからです。

輸送ヘリにさらに銃器類を搭載して「ガンシップ」としたのですから、当然機体は重くなり、
逃げ足が遅くなったことで、ベトナム戦争での当初の損失率は大変高いものでした。



それでもなんとかベトナム戦争中に損害を受けにくい仕様の攻撃ヘリを投入したい、
ということで、陸軍は各ヘリコプター制作会社から候補を選出しますが、
結局その中からベル社の試作品が最終的に選ばれ、エンジンは強力だけど軽いその機体に

AH-1G ヒューイ・コブラ

と名付けられて最初の攻撃ヘリとなったのです。
エンジンはヒューイと同じもので、開発からわずか6ヶ月でベトナム戦争にデビューしました。

今回アメリカから帰る直前にテレビでメル・ギブソン主演の
「We Were The Solders」(日本題”ワンス・アンド・フォーエバー。なんで?)を観ました。
最初にアメリカ軍が北ベトナム軍との間に地上戦闘を行った一日を描いたものですが、

「これが君たちの”ニュー・ホース”(新しい馬)だ」

と、ヒューイが紹介されているシーンが最初のほうにありました。

ふと気づけば隣に置いてあるのも「ヒューイ」なわけですが、
このコブラも、

「ヒューイ・ファミリー」

と言われる一連のベル社のシリーズの一つなのです。
もちろんそれまでのヒューイ・ファミリーとは、タンデムコクピットになり
機体が薄くなったことで(攻撃がヒットする確率を減らすため)形態は一新しましたが。

ちなみに前にもお話ししましたが、「ヒューイ」は、最初に部隊に配備された型番の
「HU-1」の「1」を「I」と読んで、
 「HUI」→「ヒューイ」となったという経緯があります。



今でもヒューイと呼ばれる本家ヒューイ、イロコイ
アメリカではほとんどがブラックホークに置き換わっていっているそうですが、
自衛隊ではバリバリの現役で、総火演や訓練展示でもお馴染みです。

ヘリコプターで攻撃をすることにこだわった陸軍は当然ヒューイに
重武装を積ませてガンシップにしようとした時期があります。

ちょっと興味深いのが、ベトナム戦争のときに搭載していたドアガンの名前が

「サガミ・マウント」

といったらしいんですね。
サガミったら富士総合火力演習のあるのも相模だったりするわけですが、
この命名は、どうやらこのシステムが

相模総合補給廠

で研究開発されたためではないかということになっているようです。
ガンシップや対戦車ヘリにする試みは長らく続けられましたが、
だいたい先ほどの理由で、コブラにその役割は完全に移行しました。




日本の誇る偵察ヘリ、 OH-1は武器を搭載しないのだろうか?
という疑問が時々あるようですが(知恵袋とかで質問されているのを見たことあり)、
ヒューイを武装ヘリにするために
色々と苦労した経緯を見るに、一言で言うと

「機体が軽くて重い武器を積めないからダメ」

ということなんだろうと思います。
宙返りもできなくなってしまうしね。



甲板の回転翼、最後はこの

Sikorsky HH-52A Sea Guardian 1961

湾岸警備隊が運用しているだけあって、「シーガーディアン」(海の守護者)。
検索するとHh-52Aは「シーガーディアン」じゃなくてただの「シーガード」なんですが・・。
これ、どちらかが間違っているってことですかね?

このシーガード(どっちでもいいや)、このエントリ的にはたいへん美しく収められるので
たいへん嬉しいことに、「チョクトー」と「チカソー」を土台にして作られました。
この角度からはよくわかりませんが、機体の底が船のような形をしているので、着水もできます。

日本でも海自と空自で救難ヘリとして運用するために輸入し、三菱がノックダウン生産しました。
 



おまけ*

艦橋にさりげなーくありました。

「トンキン湾」ったら、ベトナム戦争が始まるきっかけになったあれですよね?
調べたらこのマーク、

海軍第7艦隊に1961年の作戦参加から75年の撤収まで使われたニックネーム

であることがわかりました。
「ホーネット」のアイランド・ツァーで案内してくれた元艦載機ドライバー、

「Sさん」ことウィル元中尉が日本に来たことがある、というのは
第7艦隊関係であったことからだったらしいですね。 


背景の黄色にすっかり薄くなっていますが赤線三本が引いてあるのは、

当時の南ベトナムの国旗と同じにしたからだそうです。

日本をやっつけろ!→サンダウナーズ→旭日旗使用、という例もありましたが、
こういうノリ、良くも悪くもいかにもアメリカ人だなあと思います。



続く。 






 

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NYでミュージカルを観た

2015-09-20 | アメリカ












随分と時間が経ってしまいましたが、この夏、NYでミュージカルを二本観た話をします。
当初NYまで車で1時間のノーウォークに宿泊して、ニューヨークに行く理由と言ったら
ハドソンリバーのイントレピッド博物館しか当初頭になかったわたしですが(笑)、
ふと、イントレピッドまで行くなら、マンハッタンもブロードウェイもほぼ同じ距離、
という事実に気づき(イントレピッドの場所を郊外だと勘違いしていた)
急遽TO経由で、某カード会社のデスクにマチネーで観られるものを見繕ってもらいました。

インターネットのない時代なら、自分で電話しなくてはいけないところ、
何でもかんでも代わりにやってくれるカードデスクをツァーデスク代わりに使えて、
本当に便利になったものです。

ミュージカルというのは基本夜の9時とかに始まるため、基本お子ちゃま生活シフトの我々は、
2時から始まるマチネでやっているものしか観られません。
従って、何を観ることになるかは本当に運次第だったわけですが、まず一回目は
「シカゴ」を観ることになりました。



シカゴ。そういえば映画を見たことがあるようなないような。
弁護士の役をリチャード・ギア、
女性をレネ・ゼルウィガーとキャサリン・ゼタ・ジョーンズがやってたなあ。



たまたまマチネーをやっていたので観た「シカゴ」ですが、実はNY在住の方に

「今シカゴは大変いいキャストでやっているのでオススメ」

と言われていました。
その「いいキャスト」の一人が、主人公のロキシー・ハート役のブランティ。
グラミー賞を取ったらしいですね。
原作は全員が白人という設定ですが、彼女のようにアフリカ系はブロードウェイには普通にいます。

いないのはアジア系。
そりゃそうですよね。アジア人が欧米系に混じってミュージカルなど無理ですわ。

ウィーン・フォルクスオパーなんかが絶対に白人以外は採用しないのと同じ理由。
差別ではない。これは差異化・区別というやつです。

しかし、ブロードウェイの歴史上、一度だけアジアの、しかも我が日本の女優が
ステージに、そしてこのロキシー役をしたことがあるってご存知でした?

わたしも今回ウィキを見てびっくりしてしまったのですが、2012年に5日間だけ、
米倉涼子さんがロキシー・ハート役でこの舞台に上がっているのです。
日本語版「シカゴ」を演じた際、ロキシー役に惚れ込んで、
米倉さん自身がブロードウェイに売り込んだそうですが、5日という上映日数の短さと、
あまり話題にならなかったことから、おそらく見かけはともかく、
機関銃のような台詞の多いロキシー役としては
英語がなんとかわかるレベル止まりだったのかも、という気はします。

最近では「王様と私」」に渡辺謙が出演したことで話題になりましたが、
こちらはシャムの王様という役柄上、英語の訛りはむしろ好都合だったのだと思われ。



ロキシーの敵役、ヴェルマ・ケリーを演じたベテランぽい女優。
スタイル抜群でそこは日々の鍛錬で全く衰えていませんが、首筋の皺などから見て
もう50台にはなるのではないかという気がしました。

ヴェルマはわたしが昔何かの折に名前を出した「テックス・ガイナン」、
禁酒法時代の女傑をモデルにしています。
ガイナンの決め台詞、「ハロー、サッカー!」(こんにちは、カモちゃんたち)
はミュージカルの第二幕にも登場しました。



「シカゴ」が上映されているアンバサダー劇場内部。
前から5番目くらいの席での鑑賞です。
当日の割にはいい席が取れたのもカードデスク様のおかげ。



大抵のミュージカル劇場は大変歴史を感じさせる重厚な作りです。

 

ストーリーは単純なものです。

ロキシーというコーラスガールが、浮気した恋人を射殺して刑務所に入れられ、

縛り首になることが分かって、敏腕弁護士ビリーに依頼したところ、
ビリーは死刑囚の彼女を悲劇のヒロインに持ち上げる作戦を取り、彼女は一躍大人気に。

ヴェルマは刑務所の先輩ですが、彼女もまたビリーの弁護を受け、
やはり世間の同情を買って同じような人気者となっていました。
人気を争う二人、妊娠と嘘をついてまでトップの座にいようとするロキシー。

次々と新しい「カモ」を演出して自分の名を上げることが目的の弁護士には結局見捨てられ、
出所したロキシーは、ヴェルマと二人で組んで自分たちのショーを作るという話。

裁判のシーンが多く、残念ながらネイティブ以外には周りのアメリカ人が笑っていても
笑うことができないことが多々あり、歯がゆい思いをしました。
せめてストーリーをよくわかってから行くともっと理解できたんでしょうけど。



「シカゴ」は歴史が古いのでもうピークを過ぎており、それで
チケットも安めだそうです。
「マンマミーア!」は新しいかな。



そして、もう1日、今度チケットが取れたのは「オペラ座の怪人」でした。
ロイド・ウェーバーの作品はどれも音楽が素晴らしく、耳慣れたものばかりですし、
ストーリーもどれも知っているものばかりなので、決まった時には快哉を叫びました。



マジェスティック劇場がこの「オペラ座の怪人」を最初に上演したのは
ロンドンのウェストエンドでの初演の2年後の1988年。
以来27年間もの間、1日も休まずに上演され続けています。



ブロードウェイでもっとも長い歴史を持つミュージカルで、この仮面は
ブロードウェイのシンボルにもなっているくらいですから、いかに人気があるかということです。



このミュージカルに出ようと思ったら、ほとんどの役にはオペラ的発声、つまり
クラシックの声楽の素養が求められるという意味でもキャストにとっては
大変な大役であるということになるのですが、さすがはアメリカ、
このミュージカルに出演できる人というのが掃いて捨てるほど?いるわけです。

アメリカのクラシック音楽はヨーロッパに比べて問題にならないとよく言われますが、
わたしはアメリカの「才能」はクラシックではなく、すべてブロードウェイに集中していて、
ここで分厚い層を作っているのだと聴いていて感じました。
アメリカの音楽芸術、そして舞台芸術は、間違いなくミュージカルを頂点とします。

しかもオペラと違って、出演者は人並み以上の容姿を求められます。
ワーグナー歌いのように、全員がどすこい級で、上演が終わって指揮者が上に上がったら
全く人種が別に見えるくらい痩せて見えた、などということは決してありません。
その点、オペレッタ専門のウィーン・フォルクスオパーと似ているかもしれません。

 

「オペラ座の怪人」は、オペラ座に棲む怪人(といっても顔が奇形なだけ)が、
コーラスガール、クリスティーンに恋をし、彼女に歌を教えてプリマドンナにしたてあげたところ、
劇場のパトロンである若き子爵が彼女、クリスティーンが幼馴染であることに気づき、
クリスティーンを取り合って怪人と子爵が争う、というお話(大体そんな感じ)。

オペラ座で演じられる架空のオペラはまるでモーツァルトのそれのようで、
うちのTOなどは、

「あの劇中にやってたオペラって本当にあるの?」

と惚けたことを聞いておりました。・・・なわけないじゃん。
いずれにせよ、舞台の華やかさ、音楽の良さ、ドラマチックなストーリー、
どれを取ってもどれか一つ観るならこれ、と自信を持っていえるミュージカル。



マチネーの客は観光客で他州からきた人が多いように見えました。
わたしの周りには少なくとも3組くらい日本からの観光客もいました。
中国人は2日通じて一組も観なかった気がします。



わたしの前はラッキーなことに子供が座ったのでおかげで視界抜群。
TOの前には彼の太ったお父さんが座ったため、邪魔だったそうです。
子供はおとなしく見ていましたが、途中で寝てしまいました。
劇場の冷房は強く、わたしは足が冷たくて仕方がなかったのですが、
よくこんなところで寝られるなと思いました。
アメリカ人って寒いの平気なのは知ってましたが、子供の頃からそうなのか・・。

 

オペラ座の怪人を観たことがある方はこれがなにかご存知ですね?
導入部のオークションのシーンでで大変重要な役割をしていた大きなシャンデリア。
この上から怪人が顔を出したりもします。



マジェスティック劇場ができたのは1927年。
もう100年近く経とうとしているというわけですが、これまで、
ガーシュウィンの「ポーギーとベス」、「南太平洋」「屋根の上のバイオリン弾き」
などがここで上映されてきました。

それはそうと、冒頭の漫画なんですけどね。

ミュージカルの上映が終わって余韻も醒めやらぬまま、TOと
あれこれ感想を語り合っていたところ、彼がこんなことを言いだしました。

「クリスティーンって、ファントムのこと好きなんでしょ?」

まあ、ラウル・シャニュイ子爵が幼馴染であることがわかった日、
彼女は怪人にさらわれて、なんとウィキによると「一夜を共にした」ってことになってますな。

「だったらなんで怪人の仮面いきなり外すのよ。それも二回も」

「え?」

「これって、他人のカツラをいきなり外すみたいなもんでしょ?
人としてどうなのよ。失礼じゃないのって思うんだけど」

「確かに。二回目は外しておいて顔見て悲鳴あげたりして」

「でしょ?なんで仮面の下なんて見る必要あるの」

まあ、言われてみたら、ひどい女だよな。
一度ならず二度までもいきなり仮面を外すという暴挙に及んだばかりか、
顔を見てきゃーきゃー叫ばれた日には、
そりゃ怪人だって人の一人や二人殺しても仕方が
・・・なくないか。


とにかく、怪人は大変気の毒だ、クリスティーン天然、という結論に達したのでした。

 


上映中は写真一切禁止ですが、カーテンが降りた後もオケピットは演奏を続けています。
人の流れに逆らって、オケピットまでたどり着き、演奏を聞きました。

ミュージカルのオケ指揮も大変なスキルが必要なんですよね。

少し若い頃のカラヤンに似たスマートな指揮者に、終わってから
周りにいた全員が盛大な拍手を送っていました。

ちなみに息子はこの時ニューヘイブンでキャンプに参加していたのですが、

キャンプのイベントで3回くらいはニューヨークに来て、
この「オペラ座の怪人」も観たそうです。
なんと親子で同じオペラを別の日に見ていたってことです。

というわけで、ニューヨークのミュージカル初体験は、エキサイティングでした。
一生に一度はぜひ(劇団四季のではなく)本場で観るべき芸術だと思います。





 

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「宗谷」~戦後復興の象徴

2015-09-19 | 博物館・資料館・テーマパーク

「船の科学館」横に繋留されている「宗谷」見学記、終わりに近づいてきました。 

艦内は「宗谷」が南極観測船のときの仕様が展示されていました。
観測船のあと海保の巡視船として活躍した期間も結構あるのですが、
やはり彼女は南極観測船としてこそ有名になったからです。

 

船室の一つを使って外から見られるこのコーナーは、どうやら
バンダイがスポンサーとなって「大人の超合金」というのシリーズを宣伝しています。
この「宗谷」はその商品ラインナップの一つなのですが、超合金素材で
どこが組み立てでどこが完成部分なのかさっぱりわかりません。

大人の超合金シリーズ「南極観測船宗谷」

これによると、この「宗谷」は第一次観測隊の仕様だそうで、
プレートは二種類、氷海プレートと海面プレートがあります。
隊員のフィギュアは30体、樺太犬は実際より多くて22匹分。

この模型は特別なディスプレイスタンドを使用することで ケープタウン沖の暴風圏で
最高片舷62度に及ぶ横揺れに見舞われる「宗谷」を再現することもできます。
62度。
これ実際に見てみるといかにすごかったかわかります。



さて、大人の超合金シリーズ「宗谷」、気になるお値段ですが、4万9千350円。
この大きさと超合金素材の美しさと、精巧さを考えると決して高くはありません。
じゃ買うか?と言われるとやっぱり高すぎて買えませんが(笑)


バンダイのホームページにはこのような始まりで「宗谷」の説明をしています。


「日本戦後復興の象徴となった奇跡の船」

ー日本が一つになった、あの日。

「もはや戦後ではない」とのフレーズが『経済白書』を飾ったのは昭和31年のこと。
焼け野原の戦後復興期から、科学技術の時代に入った日本が、
国際社会復帰の初舞台として
プライドを賭け挑戦したのが、
世界各国で進められた「国際地球観測年」の南極観測事業だった。



国民が「宗谷」の南極派遣に熱狂し、子供たちが競って自分のお小遣いを
「宗谷」のために寄付し、各企業が争うように自社の開発品を提供したのも、
全ては「宗谷」が戦後復興の象徴と捉えられていたからでした。

「宗谷」は敗戦から立ちあがろうとしている日本人の希望だったのです。



黒地に白の設計図。
このネガポジでわたしは「タイタニック」と「大和」の設計図を持っていますが、
あれは「装飾用に」黒地に仕上げられているのだと思っていました。
こういうバージョンの設計図もあるんですね。

この設計が、「大和」の牧野技師が行った改装かどうかはわかりませんでした。



そんな栄光の過去も今は昔。
後から出入りのために取り付けられたらしいラッタルすらこの有様。



甲板の一階下のデッキ部分には、雑然と改修用の資材などが
埃をかぶったまま置かれています。
床に置かれたロープがきっちりと船のしきたりどおりに置かれているのがせめてもでしょうか。



ダクトの工事をこれからするのか、それとも工事が滞っているのか。

パイプが乱雑に詰め込まれた「動物サブレー」の段ボールは、
かなり日にちが経っているらしく型崩れを起こしています。



メインエンジンは2サイクル8気筒、2400馬力。
かつてはこれで氷海をたくましく進んでいったのです。

2サイクルは4サイクルに比べ2倍の出力を持つというのですが、
どうして数字が増えるのに出力が減るのかいまひとつわかりません。



窓が一つしかないこの部屋は、初期の南極観測では暗室となり、
第三次観測からは「生物観測室」の仕様となっています。
説明不足でこの意味がよくわからなかったのですが、南極に接岸し、
この部屋から氷原の南極の生物(ったらペンギンとか)を観察したのでしょう。



通信室。

特に第一次南極探検の時、無線が唯一の通信手段でしたから、
通信はそのまま隊員たちの生命の維持を意味していました。

左から、短波受信機、救難信号受信機、方位測定機、FM受信機。



時計の上に書かれたJDOXは「宗谷」のコールサインです。



おそらく当時から使われていたのであろう日本地図はもうボロボロです。


 
JOF、KDDなどチョーク文字はずっと描かれていたため跡が残っています。
それにしても、この、中国人の名前は何?ムカつくんですけど。



かつてはこの一本一本全てが生きていて、船の機能を動かしていました。
めまいがしそうなくらいの数のコード。



さて、この辺で航海艦橋に登ってみたいと思います。
護衛艦などの艦橋と比べるとずいぶん低い位置にあり、気密性もほとんどありません。
写真を見ると「自領丸」のころから同じような仕様だったようですが、
こんな艦橋で敵の襲来があった時にはさぞかし恐ろしい思いをしたのに違いありません。



信号旗の格納箱がここにもありました。
「宗谷」がよく使用していた旗旒信号が三種類描かれています。
左から、「宗谷」を表すJODX、「御安航を祈る」の「WAY」、そして
「ありがとう」を意味する「OVG」。



艦橋から艦首を望む。
護衛艦を見慣れた目にはこういった民間船のデッキが珍しく見えます。
あらためての前甲板を見て、偉大な宗谷があまりに小さいことに驚きます。



艦橋に入りました。
エンジンテレグラフです。
ブリッジから機関室に指令をおくるための通信機であり、
これで何かを動かすわけではありません。
(わたしは実は割と最近までそう思っていましたが)


 
部分だけ写真を撮ったのでなんだかわからなくなってしまいました(; ̄ー ̄A
スイッチがパチパチ式で()時代を感じさせます。



昔は通信ひとつとっても大変だったなあとつくづく思うこの電話の列。
一台の電話で内線を切り替えるという技術がなかったころは、
必要な部屋への直通電話は一台ずつ備えないといけなかったのです。

コードが壁を埋め尽くすほど必要になったのもこういうことからなんでしょうね。

パネルの各スイッチの文字盤は、擦り切れてしまってもう文字の痕跡すらなくなっています。



舵輪の前にあった計器いろいろ。



真鍮はどの部分のもピカピカでした。
稼働していた時代には毎日磨き上げていたせいか、文字が薄くなっています。
取扱注意の文言はカタカナで、戦後に改装された時に付けられたものと思われます。



この長野日本無線株式会社は今でも同名で存在する通信無線の会社です。
1957年にトランジスタ型の電源装置を開発し、電源装置の分野に進出、とありますので、
その最新式の装置を「宗谷」に導入したものと思われます。



レーダー。



風向風力計。皆そのように書いてあるのでわかりました(笑)



舵角指示計。



このころになると、またしてもわたしの「招き猫体質」(一人で店などにふらりと入っていくと、

どういうわけかその直後から人がどんどん入ってくる)が発動して、
どういうわけか狭いブリッジに人多すぎの状態になってしまいました。
TOが「また発動したね」と囁いたので気付いた次第です。

自分自身には何のメリットもないどころか、行くところ行くところ混雑するので
まったく嬉しくない体質なんですが。

って全然関係なかったですね。



終わりに近づいてきたと言いながらも続く。








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映画「日本のいちばん長い日」 -八月の天皇陛下-

2015-09-17 | 映画

ただいま劇場上映中の「日本のいちばん長い日」を観てきました。
恥ずかしながらこの同名映画が又してもリメイクされていたことを
わたしは全く知らなかったのですが、TOが

「この映画だったらどんな忙しくても観るでしょう」

と、WOWOWの関係者からチケットをもらって持って帰ってきてくれたのです。

ところでこういう映画が申し訳程度にしか上映されないのはもうわかっていますが、

それにしてもいちばんよく行く映画館で朝9時からの1日一度だけの上映って・・。

会場には5分遅れくらいで予告編の時に入ったのですが、 
ほとんどが年配かそれ以上の男性ばかり、10人もいたでしょうか。
歴史に全く興味がなければ、朝9時にわざわざ映画館まで足を運ばない題材ですが、
いちばん前で若いカップルが足を伸ばしてのびのびと座って見ていたのが目を引きました。




で、いきなり結論ですが、こういう映画にはやたら点の厳しい(笑)わたしが、

あれ?この映画ちゃんとしてね?と思った(つまり良かった)ということを言わねばなりません。

巷の前評判では「観る前から分かっている、冒涜だ」と言い切るお方もおられるようで、
実際全く期待せずに行ったわたしには、その気持ちもよーくわかります。
でも、どんなに厳しい目で見ても特定の人物を現代の解釈である方向に誘導した
印象操作を行うなどの傾向はほぼ見あたらないやに見受けられました。

あくまでもわたしの観点からこの映画が成功している点を一つ挙げるとしたら、

これは「リメイク」ではなく、全く同じ題材を、アプローチを変えて語ったからでしょう。


「日本のいちばん長い日」は、もともと大宅壮一の作品として知られた

「日本の一番長い日 運命の八月十五日」

という題名で、1967年に映画化されています。
それがどういうわけか半藤一利のクレジットになったものが(この辺の事情わからず)

「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版」

として、1995年に出版されました。
大宅版の映画が岡本喜八監督で、半藤版が今回の映画ということです。

1967年の岡本喜八監督版を見たことがあるのですが、
まず、阿南惟幾陸軍大将を演ずるのが三船敏郎です。
方や、またもというかなんというか、こちらは役所広司。

「聯合艦隊司令長官山本五十六−太平洋戦争70年目の真実」(長いんだよこのタイトル)
というやはり半藤の原作の映画で、役所さんは五十六を演じているわけですが、
ということは、もしかしたら今の映画界って役所広司が三船敏郎的立ち位置なの?

三船敏郎も大物ゆえ、山本五十六を演じ、阿南を演じているのですが、

役所広司が果たして現代の三船敏郎か?といったら、それはどうかなと・・。


まあ、三船が演じるとすべての軍人が「三船敏郎風」になってしまい、
なんというか本体からはまったく一人歩きしてしまうので、
わたしはそれほど軍人俳優としての三船敏郎を評価しているわけではないですが。

ちなみに、劇中、2年前に戦死した阿南の次男の写真がなんども登場しますが、
これは三船敏郎の長男である三船力也(まだ27歳)の写真だそうです。


役所の阿南惟幾をどう評価するかはのちに譲るとして、わたしは今、
ふと検索で引っかかったやはり岡本喜八監督の、「日本敗北せず」という映画、
いわばプレ「日本の一番長い日」を取り寄せているのですが、
この映画も阿南惟幾に主眼を当てた作品のようです。

で、このバージョンでは誰が阿南を演じているかというと、早川雪洲なんですね。

早川雪洲。それはいいところに気がつきました(笑)
パッケージの写真を見て、おおこれは阿南大将そのままじゃないか、

とわたしは結構感動してしまったわけです。
残された写真から見ると阿南大将はおそらく背も低かったはず。
ハリウッドで「sessyu」という、映画の撮影の時に俳優の背を上げ底するための
足台に名前を残されてしまった早川雪洲演じる阿南惟幾、
その点はリアリズムだったのではないかと期待しつつ、観てみることにします。


ところで冒頭挿絵、主人公でありながら阿南を演じる役所広司の絵すら描きませんでした。
役所起用を評価をしていない、とまでは言いませんが、この映画はこの二人を描けば十分、
とものすごく勝手に判断したためでもあります。

まず左、鈴木貫太郎を演じたのが山崎努


映画を見る前なら、なんて無理やりなキャスティングだと思うところですが、
さすがに名優山崎、映画では鈴木首相そのもの。

とくに眉毛が(笑)

鈴木貫太郎の長~い三角眉毛を、増毛でもしたのか、アップになった時も
抜かりなく再現しているのには感心しました。ってどこに感心してるんだ。

どちらかというと成分的に脂っ気の多いように見える山崎ですが、
この映画では
すっかり枯れ果てて、

「もう高齢だから首相指名を断っていたが、昭和天皇たっての指名で、
人がいないと言われ、最後のご奉公をするつもりで内閣を率いた」

あの頃の鈴木貫太郎の、いかにも気力に体力がついていくのも大変そうな様子さえ、
よく表されていると思えました。

これが岡本版だと山村聡ですからね。
山村聡は・・・・・違うだろうと思う。
こちらのバージョンでは鈴木首相についての描写そのものが重要視されておらず、
つまり山口多門阿部寛が演じるようなノリのキャスティングだと思われます。

(と書いてしまったのですが、じつはこの部分わたしの勘違いで、
鈴木首相は笠智衆《外見的にはぴったり》米内海相が山村總《かなり違うけど、
米内海相を柄本明に演じさせた『長いんだよこのタイトル』の映画よりマシ》
であったことが判明しました<(_ _)>) 



さて、今回の「日本のいちばん長い日」と、「日本の一番長い日」大宅原作とが
まったく異質のものに仕上がっているのには、大きな原因があります。

昭和天皇を主人公にしたことです。

そこでこの映画の英語題を改めてご覧ください。

「THE EMPEROR IN AUGUST」

つまり、「八月の天皇陛下」
です。




本作品監督の原田眞人は、この作品について

これは昭和天皇と阿南惟幾陸相、そして鈴木貫太郎首相の三人を
中心とする”家族”のドラマです。

と言っています。

終戦の日の宮城事件を描いた日本映画は戦後何本かあるけれど、
どれも天皇陛下については全く描かれていないので、
いつか昭和天皇を中心としたこの映画を撮ってみたかった、というのが
監督の大きなモチベーションであったようです。


天皇陛下を俳優に演じさせることは、もちろんご存命の時には不可能で、
せいぜい後ろ姿や引きの姿しか写すことができなかったのですが、
崩御されて御代も代わり、天皇陛下が「歴史」となったことで、ようやく
そのようなことも可能になった、と監督は判断しました。

映画のテーマも、その1日に起こったこと、主に決起を中心に描いた従来版と違い、
昭和天皇の終戦のための「聖断」が重要なモチーフになっています。

戦後いかなる言論も、海外の反日本勢力ですら、戦前の日本が天皇の独裁国家だったとはしません。
この理由は、天皇が元首であり統帥権なども有する、とした大日本帝国憲法がありながら、
天皇の意思は枢密院を通して初めて布告の形を取るのが慣例でしたし、また別に、
内閣の影響を受けない発言権を持つ内大臣という言論機関が機能していたからです。

そもそも、大東亜戦争開戦時の御前会議でも、昭和天皇の御発言はありませんでした。
このとき、明治天皇御製が読まれ、間接的に日米開戦を回避するように訴えられたものの、
その御意思に背く形で開戦は遂行されたというように、
御前会議で天皇陛下が「鶴の一声」である「御聖断」をされたのは、
歴史的に見ても初めてのことだったのです。

これは映画でも描かれていますが、鈴木貫太郎首相が「超慣例的措置」?を取り、
天皇陛下の御名において、有無を言わさぬ形で終戦に持ち込むということを決定したからでした。
 


さて、「聖断を仰ぐ」という形で終戦を進める鈴木と、
徹底抗戦・本土決戦を叫ぶ陸軍の間で、不幸にしてそのとき陸相であった阿南は
立場上、陸軍の側に立つ他ありませんでした。

しかしそれは天皇のご意志に背くことにもなるのです。

ポツダム宣言受諾が決したとき、阿南惟幾が切腹による自決をしたのは、
自らが一人死ぬことによって責任を取り陸軍の造反を抑えることと、

天皇陛下に対しての謝罪の意がそこにはあったと考えられています。


ともあれ、映画の最も重要なるシーンは御前会議による御聖断であり、
天皇陛下が阿南に向かって

「心配してくれるのは嬉しいが、もうよい。
わたくしには国体護持の確証がある」

といい、阿南が言葉を失うシーンであり、さらには

「わたくしはどうなっても良いから国民の生命を助けたいと思う」

という言葉に重臣たちが嗚咽するシーンでしょう。
そこで昭和天皇を演じるのが本木雅弘。モッくんです。

まさか「シブがき隊」というアイドルグループで踊り狂っていた少年が、
日本映画史上初めて昭和天皇をガチで演じることになろうとは、
当時誰に想像できたでしょうか(笑)


で、このモッくんの天皇陛下が素晴らしい!

わたしがわざわざ上映中にこのエントリをあげて映画の宣伝をしているのも
すべて、この天皇陛下の演技に痺れるほどの感銘を受けたからです。

一時の戦争映画ではやたら天皇の御名を連発し、反語的に貶めて
批判をするという腹立たしい演出のものがありましたが(例:大日本帝國)、
この映画においては昭和天皇に対する深い敬愛が隅々まで感じられ、
本木雅弘の端然とした、気品のある、そして
本人の言うところの

「日本国民の平和を願う祈りの像としての天皇」

が、表現されています。
侍従との会話であの「あっそう」という返事をされるところも取り入れられており、
声の調子すら「チューニングには神経を払った」という渾身の演技で演じられた
「本木天皇」の出演シーンはそれだけで目に快でした。

役作りには本人はもちろん、全スタッフが異様なほどの神経を払ったそうで、
たとえば眼鏡なども、最終的に絞った二つの中から、多数決で決められたものだとか。

今プロフィールを見て驚いたのですが、本木雅弘、もう50歳だったんですね。
終戦のときの天皇陛下はまだ44歳であられたということですが、
年齢的にも違和感は全くありませんでした。


さて、そこで阿南惟幾を演じる役所広司です。

陸軍の決起を抑えるために、会議の席で重臣が一人一人自分の考えを述べていく。
全員がポツダム宣言を受け入れ戦争を終わらすべき、と答えるのですが、
途中で我慢できなくなって部屋を飛び出した阿南が、「徹底抗戦」を
訴えてくれと頼まれた陸軍将校たちのところに電話をするんですね。

「安心しろ。ほとんどが徹底抗戦だ」

なんでこんなすぐバレる嘘を言ったのか、果たしてこれが史実だったのかさえもわかりませんが、
これが阿南惟幾の「板挟み状態」を最も顕著に表しているシーンに見えました。


欲を言えば、これだけの葛藤を裡に秘めている陸軍軍人にしては、役所さんは
あまりにも表情がビビッドすぎて(笑)、「らしく」見えないということでしょうか。

それとヘアスタイルの思い切りが悪い。
松坂桃李くんですら潔く坊主になったというのに、
陸軍軍人なら潔く五厘刈りにせんかい。と思いました。


阿南惟幾のイメージは写真と陸軍軍人ということから強面な感じがするのですが、

実際はいわゆるエリートではなく、(陸軍大学に二度受験失敗している)
ただ人望と真面目さから出世した軍人で、家に帰れば子沢山のマイホームパパ。

6男2女の父で子煩悩、子供達をデパートや映画館に連れて行くのが何よりの楽しみ、

などということから類推される人物像から、案外、役所広司の演じる表情豊かな、
少し頬が緩みすぎなのかなと感じる阿南惟幾像もありなのかもしれませんが。

あと、岡本版では天本英世が演じた

佐々木武雄(特別出演:松山ケンイチ)

がこちらもワンシーンだけ登場していました。
宮城事件の時に出身校である横浜工業高校の生徒らを募って、首相官邸と
鈴木貫太郎の私邸などを相次いで焼き討ちにする事件を起こした人物です。

この映画で松坂桃李が演じた決起将校の畑中健二陸軍少佐と知り合いで、
陸軍全体の決起に呼応すべく立ち上がった・・・・はずだったのですが、
あちこちで動きが抑えられた結果、決起にはなりえず、結果として畑中少佐の
反乱という形に「スケールダウン」(wiki)してしまったので、この人物の
動きは、こちらも結果として全く意味をなしませんでした。

そのことを表してか、このシーンは何かとぼけた可笑しみのようなものを感じさせます。


 
というわけで、歴史に興味のある方はもちろん、無い方にとっても、
本木雅弘の昭和天皇を観るだけの価値がある映画だと言っておきます。

お恥ずかしい話ですが、「本木天皇」の御聖断のシーンでは涙がこぼれたわたしでした。
 




 

 



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「アメリカン・サムライ」~日系アメリカ人と第442部隊

2015-09-16 | 博物館・資料館・テーマパーク

空母「ホーネット」艦上博物館でみた内容をまたもやお話しします。
日系アメリカ人と442部隊については、去年の夏、サンノゼの日系日本人博物館で見た
展示とともにお話ししていますし、その前には映画「二世部隊」、さらには
「俺たちの星条旗」(アメリカン・パスタイム)を扱った時もふれました。

わたしが日本人で、日本とアメリカの戦争に興味があり、アメリカで年の6分の1を過ごす限り、
日系アメリカ人と彼らの戦闘部隊である442部隊への興味は尽きません。




というわけで、空母「ホーネット」の一室を利用した

「第二次世界大戦における日系兵士:祖国への貢献」

というコーナーをご紹介していこうと思います。



日系兵士コーナーは、「ホーネット」のハンガーデッキから左に見えている
小さな階段を登ったところの部屋にありました。
なぜかこの空間には天井から羽根つきのタンデム自転車がぶら下がっていましたが、
この自転車についての説明はどこにもありませんでした。



日系人兵士について説明しようとすればまず日系人への迫害を語らねばなりません。
以前も説明したことがありますが、アメリカ政府は対日戦争が始まった時、
以前から日系人たちのアメリカ合衆国への忠誠は深く、
反動的な分子となる危険性はないという報告を受けていたにも関わらず、
彼らを「危険」であるとして財産や土地を没収した上で収容所に送りました。

この決定に大きく関与したのが、原爆投下にも関わり、さらには投下後の

「原爆の投下によって戦争を終結させ何百万もの命が救われた」

という発言で有名なヘンリー・スチムソン陸軍長官です。



日本人が収容された後、やれやれ、せいせいしたわいとばかりに、

「ジャップは二度とここに戻ってくるな!」

というプレートをわざわざレジに置いて得意気に指差すアメリカ人。
こんな爺さんが戦争が終わるまで生きていたかどうかも疑問ですが、
当時、このような「ヘイト写真」を嬉々として残したアメリカ人たちは、その後公民権運動を経て
「人種差別は悪いこと」になったとき、この過去をどう思ったでしょうか。

「家に帰れと言われても、ほとんどの日本人家族にとってそれは難しかった」

と説明があるように、日系人たちの経済地盤はもうすでにこちらにありましたから、
日本には帰るべき場所がもうなかったのです。


ところで昨今、在日韓国・朝鮮人が現在主張する”ヘイト”の構図と、このころの
日系アメリカ人の受けた
ヘイトはこの部分においては重なりますが、当時の日系人たちは
アメリカの参政権を手に入れて政治を支配しようとしたり、反米教育をしている学校に
政府の金を出させようとしたり、
ましてや報道機関や政府に帰化人などを送り込んで、
「内部操作」することなどなく、
ひたすら米国に忠誠を誓う良民であろうとしていたことを
考慮するべきである、と私見を述べておきます。

現在、シリアの難民を受け入れろという、なぜかEUからではなく国連の要望があるそうですが、 
英語すらできないレベルの難民が、果たして日本でどうやって生きていけるのでしょうか。
一から日本政府が手取り足取り面倒を見るしかないわけですが、日本にはすでに
朝鮮戦争の難民をなし崩し的に受け入れさせられており、今それが問題になっているわけで・・。 
 



さて、かくして日系アメリカ人たちはカリフォルニア中心にあった各収容所に送られました。
まるで家畜を送るようなトラックの荷台に立ったまま乗せられて・・・。
右下はワイオミングにあったハートマウンテンの収容所を空撮したもの。



幌付きのトラックから降りてくる一団は特に疲労困憊している様子です。

「ベイエリア(サンフランシスコ周辺)からの一行だな」

夏でも寒いサンフランシスコに住んでいるので暑さにすっかり参ってしまいました。
内陸は寒暖の差が激しく、ハートマウンテンの冬は零下30度にもなりました。
これも寒暖差の少ないカリフォルニアの日系人には堪えたでしょう。




日系人が収容所に荷物を持って行った「行李」。

一人につきたった一つのトランクしか持っていくことを許されませんでした。



収容所での彼らの様子です。

右上の家庭には仏壇がありますが、飾られている写真は米軍の制服を着た男性で、
どうやらこの収容所から第442部隊に出征して戦死したようです。



私物を持ち込むことが許されなかった収容所の日系人たちは、工夫を凝らして

必要なものを自分たちで製作しました。
この木製の道具入れは、廃材を集めて作ったものです。



彼らの住環境がいかに過酷だったかは、たとえばトイレにも見ることができます。
仕切りのない、もちろん水洗式でもないこの板に穴を開けただけの貯蔵式トイレは、
ナチスのユダヤ人収容所にあったものと寸分違うことなく同じです。

戦後ユダヤ人収容所が世界に非難され、また日本軍の捕虜施設であったという
虐待行為を理由にたくさんのBC級戦犯が処刑されましたが、
戦後一般人に対するアメリカのこの非人道的行為に対し、なんの咎めもありませんでした。
さすがは戦争に勝った国だけのことはあります。(嫌味です)



アメリカで生まれた彼ら。
祖国に対する感情は複雑です。

「正しいのか、間違っているのか。我々の祖国は」

「我が国の信義、誠実、そして正義と公正」

「我々は誇りを持って祖国に仕えよう」

彼らの置かれた状況からは、まるで悪い冗談のようなこれらの言葉・・。



合衆国の歴史は好きな授業だ。

我々学生は常に教師のもっとも普通な自由、独立、平等についての意見に対し
食ってかかるだけの用意ができている。

というキャプションと共に「先生?」と「食ってかかる」生徒。
教師は、こうつぶやいています。

「自由か、さもなくば死を我に与えよなんて誰が言ったんだろう?
あ~、まあいいや、どうでも。
座りなさい、ジロー、君の答えはわかってるから」



マンザナー収容所と歩哨に立つアメリカ人兵士。
当たり前ですが、彼らは銃を持っていました。
もし脱出しようとするものがあれば、撃つためです。

収容所はたいてい人里離れた場所に建てられ、その地域には
アメリカ人が立ち入ることさえ禁じられていました。

「止まれ  制限区域

日本人を祖先にもつ住人のための収容所があります

歩哨警備中」
 



442部隊の一員であった息子のローリーのために、

母親であるミネコ・サカイが製作した大作キルト。
442部隊と、諜報部の旗の真ん中には442大隊でヨーロッパ戦線に出征中の息子の写真があります。



二世の出征は志願制でした。
敵国の血をもつ二世たちに、アメリカ政府は忠誠を誓わせ、
戦争に参加することによってアメリカ国民として認めるという
「踏み絵」を踏ませたのです。



多くの二世たちがアメリカ国家に忠誠を誓いました。

写真は、ワイオミングにあったハートマウンテン収容所から
442部隊に加わることを表明した若者たち。
全員がスーツを着ていますが、そのための儀式でも行われた後でしょうか。



そして彼らはアメリカ陸軍第442連隊となったのです。



442部隊が転戦した場所を表した地図。

サレルノ、モンテ・カッシーノ、ベルベデーレ、ピサ。
フランスではブリュイエール、どれも第442連隊の名前と共に刻まれる地名です。

そして、ブリュイエールの後、ボージュの森で孤立していたテキサス大隊を
多大な犠牲を払って救出するという大変な戦果を上げます。



「Happines is being rescued.」

とある、救出されたテキサス大隊の皆さん。
このとき、テキサス大隊の少佐が第442連隊を見て

「ジャップの部隊なのか」

と軽く言ったところ、

第442部隊の少尉が

「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」

と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話があります。

まあ、多大な犠牲を払って命を助けてくれた人に、その言い草はないわ。



栄誉勲章を受けた二世部隊のヒーローたち。

左は、イタリアでの戦闘で負傷したダニエル・イノウエ大尉
戦後政治家となり、上院議員となってアメリカ合衆国に尽くしました。
安部首相のアメリカ議会での演説の一節に

「この場にイノウエ議員にいてもらいたかった」

という言葉があったと聞きます。

真ん中が、このブログでもご紹介したことのある、スパッド・サダオ・ムネモリ1等兵
第100大隊の戦いで、至近距離に落ちた手榴弾に覆いかぶさって、戦友をかばい戦死しました。

一番右は、これもこのブログで似顔絵を描いたことのある、バーニー・ハジロ上等兵



クリントン大統領から2000年、ホワイトハウスでオナーメダルを授与しています。
ハジロ氏は2011年、94歳で亡くなっていますから、この受賞のときには83歳です。




クリントンといえば、1993年に大統領名義で、アメリカ政府は
日系アメリカ人たちに公式の謝罪を行っています。
過去の不幸な出来事への謝罪と、戦後の日系人たちの社会における活躍を賞賛し、

「これからも一緒にすべてのものに自由と正義が保証される祖国を作りましょう」

と結んでいます。




日系人によるインテリジェンス部隊が使用していた日本軍の資料。

こういう漢字もちゃんと読めたということなんでしょうか。



第442連隊を描いたアメリカンコミック。


彼ら300人のつわものは解き放たれた一つの「アメリカン・サムライ」の波となって、
恐れなど微塵もなく、最後の瞬間を突破していった。

そして咆哮の鳴り響く中、まるでツナミのように
二世たち、寸分の忌避感も持ち合わせぬ彼らは、稜線を駆け抜けていった。

"GO FOR BROKE!"





助けられた「テキサス大隊」、「ロストバタリオン」について。



横にある説明には、この「ロストバタリオン救出」が、アメリカ軍の歴史において
10大戦闘のうちの一つであるということが書かれています。



ロストバタリオンのヒギンズ大尉とレオナード少佐。




日系諜報部員と、100連隊、442連隊の兵士たちを思うポストン収容所の日系人たち。



日系収容所で「よく見られた」光景の一つ。
息子の戦死の報とオナーメダルを携えて年老いた両親の元にやって来る
陸軍の従軍牧師。



442大隊の活躍をデディケートして、サンフランシスコ出身の隊員と

その家族に贈られたオナーメダル。



先ほど、ビル・クリントンの謝罪声明文がありましたが、
こちらはジョージ・ブッシュから出された謝罪声明。
なぜ二代続けて大統領が声明を出したのかはわかりませんが、おそらくこのころ、
相前後して日系人たちに対する賠償の問題が片付き、
名誉の回復が遅まきながら公式に行われることとなったという事情によるものでしょう。



日本観光をする日系アメリカ人兵士たち。
後楽園(多分岡山の)に行ったようです。



この写真がいつ撮られたのかがわからなかったのですが、日系部隊が結成されたのは
日本との開戦以降のことですから、これは終戦後、占領軍として日本に行ったときのものでしょう。

日本の血を引く二世でありながらアメリカ合衆国の一員として日本と戦い、
降伏した日本に
足を踏み入れた時、彼らはどんな感慨を持ったでしょうか。


続く。

 

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「ペルシャ湾の帽触れ」ーペルシャ湾掃海における日米共闘

2015-09-14 | 自衛隊


安保法制反対派が断固として目を向けようとしないのが、

「国際社会の一員としての日本のありかた」

でしょう。 
今の国際社会で、自国の平和だけを唱えて世界の平和維持活動に対しても

「怖いから参加しません。お金だけ出すんであとはヨロシコ」

ってわけにはいかないということをまず議論に乗せもしないのです。

戦後半世紀以上が経ち、占領政策として付けられた憲法をいつまでも
不磨の大典のごとく奉り、自縛された状態の日本に対して、さすがに
その配給元であるアメリカすらもういい加減に変えたら?とすら言っているわけですが、
反対派には都合の悪いことは全く目にも見えず、聞こえない。

最近では拉致された日本人の命より憲法が大事だ、とか、
憲法を変えようとする者はヌッコロすなどと何の疑問もなく言い放つ始末。


ところで、今の何倍もの人数の過激な暴力デモで、犠牲者まで出したのにもかかわらず、
かつて日米安保条約は成立し、今日に至るわけですが、現在、国会前で
デモをしてそれで安保を廃案に出来ると信じている人たちにお聞きします。

日米安保成立前夜、学生を中心としたデモ隊が言っていたように、

日米安保で日本はアメリカの戦争に巻き込まれたでしょうか?


まあ、あの暴動があっても安保法案は成立したのですから、野党の意を受けた所詮
「ファッション左翼」が騒いでも、民意により法案は近々成立すると思いますけどね。



さて、ところで今日は、日本がその憲法に今より一層がんじがらめであるときに発生した
クェート侵攻と、その後起こった自衛隊のペルシャ湾掃海についてお話ししましょう。

これは、それまで自国の平和だけを唱え、すべての平和維持活動にも顔を背けて来た国、
日本国が初めての国際貢献に派遣した海上自衛隊掃海部隊

それに友情と呼ぶべき協力を惜しまなかったアメリカ海軍の物語です。



平成2年8月2日、イラクは突如隣国クェートに侵攻し、現地在留外国人を
人質として拘束しました。
国際社会はこれを非難し、クェートからの即時撤退と人質の解放を求め、
国連はアメリカ軍を中心にした多国籍軍を編成して軍事行動を行いました。

平成3年の1月から2月いっぱいまで行われた攻撃によって、
多国籍軍は圧倒的な勝利を収めたのですが、この湾岸危機全般に対して
日本は相変わらずの「軍靴の足音が~」な声ばかりが大きな国内世論に足を引っ張られ、
多額のお金を供出したのにもかかわらず、国際社会からは

「命の危険を伴う人的貢献は他の国に任せ、金だけで済ませようとした」

「Too little, Too late」

「一国平和主義」

「経済大国にふさわしい対応を取らなかった」

といった非難が浴びせられました。
戦後、イラクが湾岸戦争に備えて敷設した機雷を除去するという必要に迫られた時、
日本には資金面のみならず人的貢献を求める国際世論が高まると共に、
国内からも経団連、石油連盟、日本船主協会、そして海員組合から

「ペルシャ湾における安全確保のための掃海艇の派遣」

を求める声が高まっていったのです。

その後、国内の鬱陶しい反対論(日本が戦争に巻き込まれるとか・・戦争終わったつの)
を説き伏せる形で日本は自衛隊創設以来、初めての海外実任務として
掃海艇を派遣することが決定されたのは周知のことです。

このとき、ペルシャ湾には数十カ国の国から艦艇が派遣されていました。
日本国自衛隊は、各国と緊密な連携を取り合いながら作業にあたったのですが、
その時の様子を、掃海から15年後に当たる平成18年、

落合 元掃海派遣部隊指揮官  幹候14期

が、在日米海軍司令官ケリー少将の求めに応じて講演の中で語った資料があります。
本日はこの講演内容から、自衛隊とアメリカ軍との協調についてお話ししたいと思います。


■ 多国籍軍との協力

当時ペルシャ湾に派遣されていた各国軍は、

● MIF (Multinational Interception Force Operation)

   イラクに対する海上封鎖作戦

●  MCM ( Mine Counter Measure Operation)

  イラクが敷設した機雷を除去する対機雷戦

に従事しました。
MCMグループ、すなわち対機雷に携わったのはアメリカを筆頭に、
英、仏、独、伊、オランダ、ベルギー、 サウジアラビアそして日本です。

イラクは感応式沈定機雷(マンタなど)、触発式係維機雷( LUGMなど)など、
約1200個の機雷を敷設して、多国籍軍艦艇の海岸線への近接を阻止していたのですが、
この機雷危険海域を5つに区分し、それぞれの担当を分担して除去は行われました。

各国がそれこそそれぞれの国のやり方で啓開を行っていったのですが、その際、
お互いの不足した機能を補完し合って協力し合いました。
各国軍が自衛隊に対してしてくれた協力をまとめてみますと、

オランダ イラクが使用している機雷の性能や今まで彼らが行った処分のノウハウを提供

ドイツ 補給艦「フライブルグ」上でブリーフィングを行って使用機雷から得たデータを提供
    ヘリでの人員や物資の輸送について日本部隊を支援

イギリス 掃海艇の磁気測定のための施設を提供
     WEU(西欧同盟)部隊と日米部隊の調整役を務める

これに対し、日本部隊はドイツに対してヘリへの洋上補給や救急患者の医療協力を行っています。
しかし、何と言ってもこの作戦で日米海軍の協同は大変緊密なものでありました。


■ スチール・ビーチ(鋼鉄の海岸)パーティ

まず調整会議において啓開海域の打ち合わせを行うとともに、相互に連絡士官の派遣を決め、
両部隊間の連絡と調整の円滑を図りました。
会議における調整項目は次の通り。

◯ 掃海作業海域の分担

◯ 米海軍部隊の進捗状況

◯ 日本掃海部隊の作業要領を説明

◯ 米掃海部隊からの機雷状況説明

◯ 米軍部隊が放置した航空掃海具の位置の説明

この会議は大変綿密に行われ、相互に理解し合意するまで喧々諤々と意見を戦わせ、
会議は往々にして夜半を過ぎて2時までかかることもあったということです。

冒頭の挿絵は、米海軍掃海部隊指揮官の(落合1佐のカウンターパート)
ヒューイット大佐が、この時の会議の様子を漫画に描いたものです。

いかにこの時の会議が熱いものであったかということなんですが、
左側の絵は、デスクの左側に「イシイ」「オチアイ」「オクダ」などの日本勢がいて、
右側に「Hewett」はじめ米海軍の名前があるのに対し、5分後という設定の右側の絵は、
なぜか左にヒューイットとオクダがならんでいて、右にオチアイがいます。


わたしたちには少しわかりにくいギャグですが、現実に会議を行った
当事者たちにとっては
、思わずニヤリと笑ってしまう的を射た漫画なのでしょう。


最初に日本部隊が掃海に当たったのは、水深が10メートル以下と非常に浅く、
川の河口なので流れ込んでくる砂漠の砂で水中視界が悪いという難所でした。
しかも海底にはオイルターミナルに油を送るパイプがあるので、探知した機雷を
一旦無能化させて、そのあとバルーンで海底から浮上させて、
安全なところまで曳航してから
爆破するという、大変な手間を強いられました。

もっとも難所であったというこのような苦労を共にした日米両掃海部隊は、
掃海作業が進むほどに、固い友情で結ばれていったのを実感したといいます。

自衛隊が米軍から受けた支援は次のようなものです。

◯ MH53ーE(ヘリ)による前駆掃海

◯ 対空警戒、対水上警戒

◯ 航空機による人員輸送

◯ 通信及び気象・海洋予報の提供

◯ 米海軍施設の便宜供与

必要に応じ、日本からも米海軍艦艇への燃料の補給(貸付)も行われました。
 
そして作戦の合間に両軍は懇親会(スチール・ビーチ・パーティ)(笑)
を持ち、お互いの健闘をたたえ、さらなる親睦を深めていきました。

共通の敵「機雷」に対し、共に肩を抱き合うようにして戦ってきた一体感から、
それらのパーティは大変な盛り上がりを見せたそうです。 


■ タスク・フォース造りの名人

これらの共同作業によって海上自衛隊は、アメリカの強さと背景にある
強力なlogisticsのちからを思い知ったといいます。 
logisticsというのは日本語で言うと「兵站」ということになりましょうか。
多国籍軍が圧倒的な勝利を収めたのはこのロジスティックスの勝利であるという説もあります。

膨大な量の航空機や戦車をはじめとする装備品を調達・確保し、世界の各地から
中東の現地に運ぶだけでなく、まさに

「必要なものを、必要な時に、必要な場所に」

補給するこの能力にかけてはアメリカはまさに偉大な軍でした。

海上自衛隊の旗艦は「はやせ」でしたが、米軍は旗艦を作戦中4回も変えています。
旗艦の業務というのは指揮通信中枢としての任務はじめ、会議の準備、
各国指令官や業務調整のために来艦するVIPの接遇、他には医療、補給、整備、
ありとあらゆる重要な役割を負っているのですが、この交代をアメリカ海軍は
実に鮮やかにやってのけるのだそうです。

掃海とは関係のない業務をしている艦艇が旗艦に指名されると、その船は
期日に掃海現地に駆けつけて、任務を解かれる旗艦の近くに投錨し、
搭載艇とヘリコプターで約150名の司令部要員、各種種類、機材を
ごくごく短時間で移送するや否や、旗艦業務を始めてしまうのです。

タスク・フォース(という映画がありましたね)、というのは
これは任務遂行のために編成された 部隊という意味ですが(機動部隊じゃないのよ)
落合司令は、旗艦交代だけでなく、隊司令や艦長の交代も洋上で淡々と行事を行
アメリカ海軍は、タスクフォース作りが実に上手な組織だと感心するとともに、
いたるところでアメリカ海軍が予備役の軍人を指揮官や幕僚として
重用しており、彼らが現場で目覚しい活躍をしていたことをもって、
これもアメリカの強さを支えている一つの要素であろうと賞賛しています。


■ 「ストウフ大尉に帽振れ」

日本の掃海部隊司令部に米海軍から派遣された連絡士官はストウフ大尉といい、
彼は「はやせ」に乗艦していました。
三ヶ月にわたってストウフ大尉は両軍の連絡調整を見事に成し遂げました。
日米掃海部隊の共同作業において一件の事故も起こらなかったのは、
彼の功績によるものであった、と落合司令は回想します。

ストウフ大尉は湾岸戦争の戦役が掃海作業中に切れることになったため、
「はやせ」を退艦することになりました。
当日、「はやせ」では幹部自衛官の離任退艦に伴う儀式と全く同様に、

「総員集合」 「感謝状贈呈」「離任披露」

が行われました。
そして、

「総員見送りの位置につけ」「帽振れ」

をもって大尉の退艦を送りました。
「はやせ」の舷門で自衛艦旗に敬礼するストウフ大尉の目には涙が溢れていました。
「帽振れ」の号令で一斉に帽子を振る「はやせ」の乗員に対し、
舷梯を離れていく内火艇の上で、
乗員たちに応えるために習ったばかりの日本式の要領で、
懸命に帽を振る彼の姿は
15年経ったあとも落合元指令の脳裏に鮮明に蘇ってくるそうです。

これには後日譚があって、ストウフ大尉はこのあと故郷に帰り、
そこで生まれた町の市民が凱旋を熱烈に迎え、その功績を讃えられました。
彼はそのことを日本の掃海部隊に向けて手紙で知らせ、そして

「我が人生で最良の日であり、海軍軍人になって本当によかったと思い、
国家に貢献できたことを、この上もなく誇りに思う」

と添えてきたのでした。
落合指令は、「アメリカ軍の精強さの根源を垣間見たような気がした」といいます。

国の防衛に携わるものは、国民の絶大な信頼と期待を受けて、国家、国民のために、
国の命令に基づき危険をも顧みず、身を以て任務を遂行します。
国と国民への奉仕を行うことを名誉とし、自分自身の誇りとすることから
強固な使命感は生まれてくるものであり、ひいては軍の精強さへもつながるのでしょう。


ペルシャ湾の自衛隊の活動の成功は、アメリカ軍の全面的、
かつ心温まる支援なしにはあり得ませんでした。

自衛隊に対し、横須賀基地にイエローハンカチーフを揚げ、

「君たちが任務を達成し、無事に帰ってくるまでこれを揚げておく」

と励ました少将。
188日間の派遣期間中、隊員の留守家族を日本で励ましてくれた少将もいました。


そして任務を終えた自衛隊が帰国してきたときには、台風が来ているというのに、
「ブルーリッジ」は
わざわざ沖縄西方海域まで来て、自衛隊部隊を出迎えてくれました。

戦後始まった海上自衛隊と米海軍との好誼は、このように深い信頼関係となり絆となって、
一貫して派遣部隊を支え続けたのです。



今年、米国で行われた日米両軍軍人による「賢人会議」では、
お互いの絆の深さを確認しあい、日米同盟の強固さを確認したと
書かれた関係者からのメールは、その最後、


「まさに恩讐を超えた絆なのでしょう」

と締めくくられていました。

最近では日米豪による太平洋の守りの強化など、ますます国際情勢には
日米、自衛隊と海軍の連携が必要とされています。

RIMPAC、MINEXなどの日米共同訓練始め、シスターシップ(姉妹艦。ひゅうがとGWとか)

交流などで、国際平和の維持、再構築のため、
より一層日米海軍は関係を緊密にしていくことと思われます。


 


 

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海軍特務艦「宗谷」、引き揚げ船「宗谷」

2015-09-13 | 博物館・資料館・テーマパーク


いろいろな時代の「宗谷」を今まで語ってきましたが、ここでもう一度
「宗谷」が海軍の特務艦「宗谷」であった時代のことをお話しします。

医大を卒業し、配属命令を受けてある海軍軍医が昭和19(1944)年に横須賀にやってきました。

乗艦する艦名は知らされていません。
埠頭には軽巡洋艦「阿武隈」が停泊していたので、これか!と喜んだのもつかの間、
命ぜられたのは、その横にいた小型でヘンテコな型の船だとわかり、

「こんな格好悪い船に乗るのか・・・・」 

軍医は心底がっかりしたといいます。

 

乗ってみてその嫌な予感は当たっていたことがさらにはっきりしてきました。
砕氷船型の丸い船底のせいでゆれが凄まじく、石炭で走るため、8ノットしか出ない船。
乗組員は「四十八ノット」ならぬ「始終八ノット」と評していたといいます。
通常の艦船の速度の半分で、目的地まで倍の日数がかかるため、常に

「我艦足遅シ、先ニ洋上ニ出ズ」

と信号を掲げて、船団より先に出発するのが常でした。

 

この軍医に限らず、初めて「宗谷」に乗り込む者は、
彼女が「軍艦」とはほど遠いのを知って
一旦はひどく落胆するのですが、
不思議なことに、その気持ちは


「この船に乗れて幸運だった」

いう感激に必ず変わるのです。
戦後の「宗谷」に乗った者も、彼女に対する評価はこの点全く同じ経過を辿りました。

 

昭和20年6月、「宗谷」は「神津丸」「永観丸」とともに横浜港で
飛行機生産用機材を積み込み、朝鮮の羅津(らしん)港に運ぶべく、
岩手県三陸海岸沖を航行していました。

このころは、すでに日本近海も制空権、制海権ともにアメリカに奪われており、
「特攻輸送」と呼ばれるほどそれは危険な任務となっていました。

 
「敵潜水艦を発見!」


「宗谷」が他艦に知らせようとした瞬間、轟音とともに大きな水柱が空中につきあがり、
同行の「神津丸」が真っ二つに割れて轟沈していました。
たちまちばらばらになった遺体や船体の一部が浮き上がってきます。
再び、轟音が轟き、誰かが悲痛な声をあげました。

「永観丸もやられた!」

 

 直ちに「宗谷」は爆雷攻撃を開始しました。
逃げ足の遅い「宗谷」は落下傘をつけた爆雷を人力で海に落とし、
投下するや否やその場から脱出しないと爆発に巻き込まれてしまいます。 

投下後、ズンという鈍い爆発音が響きました。
「宗谷」が投下した爆雷が、敵潜水艦を仕留めた音でした。


戦闘が済んだあとは、生存者救助のためにカッターが降ろされました。
波間に漂う浮遊物や死体の中から、注意深く生存者を救出していきます。
あのとき乗り組んだ軍医は、たった一人で負傷者の救命作業に当たりました。

一刻を争う、まさに修羅場というべき軍医の戦場でした。

自分は彼らの最後の望みの綱だ。
彼らの家族やまだ見ぬ子孫のためにもここで命をつなぎ留めなければならない。

その必死の思いで軍医は救命にあたったといいます。

 

このたたかいを乗り切ったことが、戦後、彼の医師としての原点となりました。
戦後、内地に戻って間もなく、山間の村に医師として赴任した彼は、
自転車一つで村を奔走し、地域の医療に後半生を捧げましたが、
その志を支えてくれたのが「宗谷」での体験であったといいます。

彼は、 医師を引退した時に、寺に頼んで

『宗谷院医王潔海居士』

と、「宗谷」の入った戒名を作ってもらっています。
黄泉(よみ)の国に行ったとき彼は「宗谷」に乗りたいと願っているのです。



 

 

「宗谷」はもともとはソ連からの注文であったことは以前もお話ししました。
砕氷型貨物船とという注文だったのですが、
進水後にもいろいろ文句をつけて引き取らないため、
海軍が目をつけて、ソ連と話をつけ、測量艦「宗谷」となったという経緯があります。

「宗谷」は千島列島や樺太周辺の測量、また開戦後はサイパンなど南洋での水路調査を行いました。
最前線の南洋で、浅瀬や防潜網、機雷などを正確に記述した海図を作る役目なので、
敵の偵察機に測量中狙われるという危険も度々でした。

 

昭和19(1944)年2月、連合艦隊司令部のあるトラック島に停泊していた際に、
「宗谷」は米軍機延べ450機もの空襲に襲われました。
魚雷攻撃や爆弾投下で、目の前の僚艦が次々に撃沈されていきます。

 

「宗谷」の砲手は敵機を迎撃しようと奮戦しましたが乗員は次々と機銃掃射で斃れ、
甲板は肉片の飛び散る血の海と化しました。

 
襲い来る敵機の前に「宗谷」は回避行動をとりましたが、その途中座礁してしまいます。
空襲後も夜を徹して離礁作業を行うも、全く動けなくなったことが明らかになったため、
銃弾を撃ち尽くした「宗谷」は「総員退避」せざるを得なくなりました。

 

翌朝、トラック島の鎮まり返った湾内は見るも無惨な光景でした。
アメリカ軍が自ら「アメリカの行った真珠湾攻撃だ」と嘯いたこの攻撃によって
沈没した艦船は50隻にも達したと言います。


しかしその湾に「宗谷」だけがポツンと浮かんでいました。
自然に離礁して、乗組員を待っていたのです。

「なんてやつなんだ・・・・
」 


乗組員たちは目に涙を浮かべて彼女の強運を讃えました。

 

しかも艦の状態を調べてみると、損傷は少なく、航行にも全く支障はなかったので、
「宗谷」はただちに負傷者たちを乗せて、内地に向かったのでした。

 
いつのまにか「宗谷」には“不沈船”神話が生まれており、それは
艦内に祀られている「宗谷神社」のお陰という噂もたちました。

 
しかし、「鬼」とあだ名された「宗谷」の砲術長は、


「そんなものをあてにするな! 信ずべきは日頃の訓練のみである!」

と朝晩、訓練に次ぐ訓練で乗員を鍛え上げたといいます。


艦隊行動中、他の間に先駆けていち早く敵潜水艦を見つけたり、
それを爆雷で仕留めたりしているのも、そうした猛訓練の成果でした。
“不沈船”神話の陰には、あくまでも厳しい訓練で鍛え上げた練度があったのです。

 

そして日本は敗戦しました。 

9月のある日、ラジオから


「宗谷乗組員は浦賀擬装事務所に集合せよ」

という放送がなされます。
終戦後も海外に残っていた邦人は、軍人・民間人あわせて7百万人に上り、
その引き揚げのために、残存していた海軍艦艇132隻が全て動員されたのですが、
「宗谷」はその中の一隻となったのです。

 

こうして「宗谷」に戻った何人かの元「宗谷」乗組員にとって、
全てが「我が家」のように懐かしいものでした。

一ヶ月の間に引き揚げのための準備を終えた「宗谷」は
日本中の留守家族の期待を背負って、10月に浦賀から出港しましたが、彼女には
占領軍の命令で、軍艦旗どころか日の丸を揚げることも禁じられました。

 

当時の日本近海に、は米軍が「飢餓作戦」で敷設した磁気機雷が無数に浮遊していました。
帰国途中に触雷して祖国を見ぬまま死んだ引揚者もいたのです。
しかし、
磁気機雷が国際条約に違反していたことから、米軍はその公表を禁じ、
その後元海軍軍人の手によって行われた機雷を取り除くための掃海活動についても
そのことが国民に公にされることは最後までありませんでした。 

 

掃海作業は、多くの殉職者をだしながら、
日本人の手によって戦後7年の間続けられています。

 

「宗谷」はフィリピンから1千2百キロほどの西方海上にあるヤップ島に向かい、
そこに駐屯していた陸軍兵士を引き揚げのために収容す任務に当たりました。
彼らのほとんどが栄養失調で、まともに歩けず戦友の肩を借りて歩いている者も多く、
る者はデッキに上がった途端に感極まって嗚咽しました。

しかし、彼らの多くは極度の栄養失調から胃が衰弱していて、
何人かは米を食べるなり亡くなってしまったりするのです。

「宗谷」ではこのとき初めて乗員の手による「水葬」が行われています。

 

フォリピンを出て何日か後、水平線上に富士山の姿が見えました。

「富士山だぞー!」

船内がどよめいたその瞬間に甲板上に倒れた兵士がいました。
「おい!しっかりしろ!」
その男は、日本の地を踏むその寸前だというのに、
抱き起こされたときにはすでにこと切れていたということです。


「宗谷」の引揚任務は、グアム、トラック、上海、台湾、ベトナム、樺太、北朝鮮などに及び、
3年間で約1万9千人の人々を祖国に連れて帰ってきたのでした。






「宗谷」が灯台補給船から国民の期待を一身に受けて南極観測船になるとき、
修理設計をおこなったのはは戦艦大和を設計した牧野茂が担当したのをご存知でしょうか。

改造修理したのは横浜の浅野ドック。造船所でなく船の修理工場でした。
横浜の造船職人が集められ、それこそ不眠不休で改造修理にあたり納期に間に合わせています。

前回のエントリで、「宗谷」を南極に送ることは当時の日本人の悲願であり、
それを叶えるために各企業が協力を惜しまなかったことを話しました。

新しい船をそのために作るお金もなかった当時の日本でしたが、企業協力だけでなく、
この計画を提唱した朝日新聞社が1億円を寄付すると共に、広く国民に募金を呼びかけ、
小中学学生までが参加して、最終的に1億4千5百万円もの募金が集まったのです。

 「宗谷」の船出を見送った鳥居辰次郎・元海上保安庁長官は、
『宗谷の思い出』でこう述べています。


「宗谷」の南極派遣は、その当時敗戦に打ちひしがれた無残な日本を甦らせ、
一般国民、殊に青少年を鼓舞し、新生日本における精神高揚に、どれだけ貢献したことか。



 「宗谷」は昭和13(1938)年2月16日に進水しました。

川南豊作という青年実業家が、長崎で閉鎖されていた造船所を買収して、初めて竣工した船で、
青雲の志にあふれた彼の口癖は

「会社の金も、自分の金も、国のものである」

というものだったそうです。

 

 彼は、買収した造船所の前社長・松尾孫八を顧問に迎え入れ、社名を
「松尾造船所」と命名して、彼を男泣きに泣かせるような人情を備えた実業家でした。

そうした彼の会社によって精魂込めて建造された「宗谷」。
それから30年後に南極観測船として改造された際の監督官・徳永陽一郎は、

 
宗谷を改造するために、ばらして中身が露わになった時、
あまりにも内部まで立派に造られていたので驚嘆することになった。

 

と、書き残しています。

戦時中、なぜ僚艦が次々と戦没する中、「宗谷」だけが生き残ったのかについては、
「宗谷」が砕氷艦仕様となっていたため、立てる波が必要以上に大きく、
それで魚雷が当たりにくかったという説があるそうです。

しかし「宗谷」が稀代の幸運艦であったのは、戦時中だけに限ったことではありません。


彼女は、彼女を生んだ人々にとって「渾身の芸術品」だったのです。
あらゆる危険を回避することができたのは、乗組員の練度、仕様の堅牢さに加え、
先人たちのあまりにも強い思いが、彼女に強運を呼び込んだという気がします。


 

続く。



前半参考* 桜林美佐著「奇跡の船宗谷」

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平成27年富士総合火力演習 痛コブラと痛ニンジャパッチ

2015-09-11 | 自衛隊

平成27年総火演観戦記、最終回です。



そして90式戦車が展示位置に侵入。



74式戦車に「ここまで」を示すストップラインを先導の隊員が左手で示してます。
車のバックのときオーライオーライとやるのとは少し違う動作です。



87式自走高射自走高射機関砲の車員が、誘導前にどこに停めるか看板を確認。

「あ、ここじゃねーわー。ここ近SAMだわー」




「俺たちはこっちー」



やっぱりタンク的なものって、ここで運転するんですね。
立ったまま目視で運転できるのか・・・。
彼の顔を出しているハッチには透明のガラスのようなものが見えるのですが、
ここから外を覗く(つまり外に出るのはヘルメットの部分)ためのもの?



10式戦車は最後に到着。



12式地対艦誘導弾は、なぜかプログラムに装備の名前が乗っていませんでした。
確か状況のときに「ヒトフタ式」と言っていたような気がするのですが。



展示用にミサイル発射装置を立てます。
発射の衝撃を受け止めるため、車は宙に浮かせて固定するんですね。




やっぱり始まった装備のお掃除。
使い込んだ専用ブラシのようなもので泥を落としています。



ヒトマルは布で丁寧にぬぐってもらっています。



こちらもボディを布で拭き終わった後、



なんとタイヤホイールまで・・・・。
わたしなんか自動洗車機で「拭きあげ推奨コース」を選んでも、
自分で車を拭いたことなど一度もなく、ましてやホイールなど放置が基本。

でも、先日思い切ってホイールコートをしたら自動戦車じゃなくて洗車だけで
OKになり大変楽です。って関係なかったですね。



87式機関高射砲からもう一人出てきました。
三人乗りなんですね。



03式中距離地対空誘導弾



89式装甲戦闘車
これも今日は大活躍でしたね。



中距離多目的誘導弾。愛称「ちゅうた」(笑)



96式多目的誘導弾システムの「発射機」。
前にも書きましたが、これはシステムなので、6台の車両でワンセットです。



これが近SAMですよね。

「近SAM」93式近距離地対空誘導弾 


SAMというのは

Close-Range Surface-To-Air Guided Missile

の略となり、他にSAMのついた名称を持つものは、


「短SAM」81式短距離地対空誘導弾、短距離防空用地対空ミサイルシステム

「携SAM」91式携帯地対空誘導弾 愛称ハンドアロー

などがあります。携帯するから携SAMって。(笑) 



87式の三人、今日のお仕事が終わって和気あいあい。
きょうび、一般公開ともなると、自衛官はうかうかしていると
どんなところを写真で撮られているかわかりませんね。




今回、この装備が隊員からはハエたたきとは呼ばれていないことがわかりホッとしました。



というわけで、しばらくして装備の置かれたグラウンドが解禁になりました。
皆なだれ込んでいきますが、なんといっても一番人気は戦車3兄弟です。



ヒトマル戦車をバックに記念撮影。



90式もこの通り。



あっという間に人が倍々で増えていきます。
わたしはあまりにも足元がぬかるんでいたこともあり、またこれだけの人混みの中で
装備を見ても今更あまり得るものはないと判断して、会場を後にしました。



しかし、これは実に中途半端で、まずい選択であったことがのちに判明します。

というのは、今回はシャトルバスに乗らなくては行けない中畑駐車場だったので、
とにかくバスに乗るまでの列に並ぶのに大変な時間がかかってしまったのです。

最初に並びだしてから駐車場に着いたときにはなんと2時間が経過していました。
もし会場が閉鎖されるぎりぎりの2時まで粘っていたら、

もう少し混雑は緩和されていたのかもしれません。



ところで、この写真を撮っていたら、レンズがものすごく曇っているので、
水でも入ったのかな、と思いながら一生懸命設定を変えていたところ、
通りすがりの男の人が

「レンズにビニール袋が詰まってますよー」

と教えてくれました。
雨よけにしていたビニール袋が鞄の中でフードに入り込んでたんですね。

どおりで超ソフトフォーカスだと思ったze。(⌒-⌒; )



会場を出たところには売店もあります。
今回わたしは全てを用意して(サンドイッチと水)いったため、
売店の必要はありませんでしたが、帰る前に少し視察のため立ち寄ってみました。


ヒトマル戦車まんじゅうにはかねてから興味を持ってはいますが、いつもこの時間、
こういうものを買おうという気力が(荷物も重たいし)全くなくなっているので
今年も結局買って帰ることはありませんでした。




痛コブラ、痛NINJYA

倒立するニンジャをかたどった萌えパッチ、確かに気になる。
しかし、もっと気になるお値段はなんと2800円。

そういえば後ろに座っていた人が、

「痛コブラのワッペン売ってたけど高かったから買えなかった」


といっていたのを思い出したのですが、確かに高い。
もしかしたらファクトリーではなく手作業で作っているせいかもしれませんね。

1000円くらいならここで見せるためだけに買ってもいいけど、
これはちょっとなあ・・・、ってことでわたしも買えませんでした。



さて、わたしが参加した総火演、天気が悪かっただけで、
あとは戦車の履帯が外れることも、砲弾のかけらが飛んでくることもなく、
先ほども縷々説明したように省かれた演習内容もいくつかあり、
ある意味一番不運な日であったというべきかもしれません。


その後、中の人に「あの事故」(破片が飛んできて怪我)のことを伺ったのですが、
被害に遭った人たち、飛んできてすぐには
どちらも自分が怪我をしていることに
気づかなかったというのです。

終わってから、あるいはしばらくしてから、

「あれ、なんか痛いなー」

と思って見てみると、体のどこかに傷があったのでこれは、と申告したらしいですね。

「前列でアドレナリン噴出させながら観てたからでしょうかねー」

などと笑いあったのですが、情報では顔とかではなかったようで
(さすがにそれならすぐ気付くだろうと思いますが)
関係者は不幸中の幸いに胸をなでおろしたということです。

「羨ましがる人たちもいたみたいですね」

と、今後の彼らの扱いについて探りを入れてみたのですが、そこのところは
さすが中の人だけあって、

「本当にこの度はご心配をおかけして申し訳ありませんでした」

とこちらに謝られてしまいました。
いやだから、じゃなくてですね(笑)


シリーズおしまい。 



 

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「宗谷」~南極料理人

2015-09-10 | 博物館・資料館・テーマパーク

今日は久しぶりに連休に見学した「宗谷」の話題をお届けします。
(実はまだ全然終わってないのよ)


「士官」に対して、海保ではその他を「科員」というそうです。
ここからは科員用の寝室となります。



科員用寝室は部屋によりますが、だいたいベッドが4つあります。

わたしは長期にわたる集団生活を経験したことがないのですが、
起きている時も寝ている時も他人と一緒というのはさぞかし精神的に来るだろうなと思います。

先日当ブログで海軍兵学校67期の練習航海の写真をあげましたが、その中に
一人になれる空間がないので、大荒れの海にもかかわらず外に出て
煙突に張り付いていた旧兵学校の練習艦隊勤務の乗員が写っていましたね。

個室がもらえる船長や機関長はともかく、その他の船員は時々そういう場所で
一人になる瞬間でもなければとても持たなかったのではないでしょうか。



この部屋の主だった科員は、昭和53年の「宗谷」解役の日、居室の壁に
こう書き残しました。

「偉大な宗谷よ さようなら いつの日か又逢いに来る」

彼はこの年の3月に、あの稚内での「宗谷」の大救出劇に携わった科員です。
2ヶ月後の観艦式の際、海保長官を乗せて、晴れがましい航海を行い、
「宗谷」が引退した後、彼は約束通りここに来ることができたでしょうか。



二人部屋はさらに狭い・・・。
プライバシーなどつまみにしたくともありません。
せめてベッドの上の段で寝たい・・・とか?



しかし狭いながらも楽しい我が家。
気の合う仲間がいれば過酷な船内生活だって苦にならないのさ!

という内容かどうかはわかりませんが、ギターを奏で歌い、くつろぐ科員たち。
ベッドの上の人はこれでくつろぐことができるのかというくらい無理な姿勢ですが、
実際にもこうやって余暇をすごしていたのでしょう。

当時は今ほど喫煙が悪ということにはなっていなかったため、船室で
普通にタバコを吸っていたようです。



あのー、隊員さん、ヅラがずれてるんですけど・・。

南極観測に赴く隊員たち、中でも越冬する隊員たちは、乗船するギリギリに
丸坊主にしてしまい、1年間だいたい散髪なしで過ごしたそうです。

ヒゲも生えま~すぶしょ~お~ひ~げ~♪ ってか?



手前のもベッドだとすればなんと5人部屋です。



軍艦民間船問わずどこの船でもそうですが、甲板に近いところから
階級的に「上」の人の居住区となっていました。
軍隊なら士官、客船なら1等先客。

科員の居住区は「宗谷」でも甲板レベルの士官専用室の階下にあり、
この階には彼らの「食」を支える施設も一緒にありました。
ここは「冷蔵小出し庫」といって、船艙の冷凍庫から出してきた
肉や野菜などの食材をキッチンで使いやすいように入れておいた冷蔵庫です。

ちなみに現在の「冷凍商品」というものはもともと南極観測隊派遣がきっかけで
本格的に実用化されたってご存知でした?




ここも冷蔵庫だと思うのですが、棚の中央に、



サンタのビーフカレー3キロ入りがポツンと置かれていました。
南極観測のために二幸食品が納入していた業務用カレーです。
これ、もちろん中に今も入ってますよね?カレー。

隊員一人の健康を保持する食糧は越冬隊員1人につき約1トンです。

肉、魚、野菜などは冷凍品が主であり、これが1年分積み込まれていました。
食品もお酒なども量はふんだんにありで不自由はありません(生まぐろはないそうです)。

 

キッチンかと思いましたが、そうではなく食器室だそうです。
少し広めの家庭のキッチンくらいの大きさです。



倒れやすいカップなどはこのホルダーにおいたものと思われます。
食器は動揺によって滑り出てこないように、戸棚の中に差し込み式で収納しました。

第一次南極観測隊のとき、「宗谷」は台風に遭遇しています。

揺れ止めであるビルジキールを砕氷の邪魔になるだろうと撤去していたため、
「宗谷」は無茶苦茶に揺れました。

ケープタウン沖で暴風圏内に突入したときには、30°~40°、最大60度まで揺れ、
甲板にいた樺太犬たちが、危うく海に落ちるところだったと言われています。



もしかしたらお皿はシンクで手洗いだったのでしょうか。
・・・・・まさか、多い時で150名分の食器を?



非常ベルみたいですが、どうも電気のスイッチのようです。



そしてこれがキッチン。
冒頭写真のように、マネキンを二人投入して力の入った展示をしております。

調理担当は、海保
や半蔵門にある某結婚式場等の民間から、プロのコックが2名隊員として参加します。
「南極調理人」の西村は海保の主計科職員という設定でした。
主計科はその階級が

主計長、首席主計士、主任主計士、主計士、主計士補

となっていて、これもだいぶ海自とは違います。



今夜の献立は鮭のムニエルのアスパラガス添え。
葉物の野菜はありませんが、冷凍野菜や常温で保存ができる野菜なら食べることができます。

昭和基地ではかいわれなどを栽培していますが、その係は「農協」と呼ばれているのだとか。

なぜかテーブルに牛丼と味噌汁がありますが、特別注文か、それとも賄い食?

最初の南極観測隊は総勢130名でしたから、それだけの食を用意するのは大変な作業だったでしょう。



加工品の持ち込みは限られていたため、作れるものは船内で作りました。
見えているパン焼き機は電気式。
電気釜はもちろんのこと、豆腐製造機まで備えていたと言います。

 

キッチン近くの機械室。
キッチンで使うほとんどの器具が電気式だったのでここにあるんですね。



航行中の水は全て汲み置きですが、南極に着けば、氷を加工して水を作ることができました。
これは、ミネラルを含んだとても美味しい水だったのではないかと思われます。
「南極料理人」でも全員がスコップで雪原を丸い形に掘り、雪を集めて水を作っていましたね。

これから観る方のためにあえて詳しくは書きませんが、

「伊勢海老が昭和基地で見つかったんですよ」

「じゃー、今夜はエビフライだな」

「ほかにもあるでしょう。刺身とか。すりつぶすとか」

「えっびふっらい! えっびふっらい!」

・・・という、あのシーンです。 



大きな”ざる”の向こうには圧力釜が見えていますね。

圧力釜がなぜ必要かというと、場所によっては直火では気圧が上がらないからです。



南極だから寒いし、調理人はその点火が使えていいだろうと思ったら大間違い。
インド洋を南下しているとき、太陽は沈まないのですから、猛烈な暑さとなります。
特に左舷側の窓からは24時間太陽が差し込む状態でしたから、
左舷に窓のあるこのキッチンでは、調理に当たる乗員は地獄の釜の中にいるようだったでしょう。

 

科員食堂。
南極観測船当時h、観測隊員用の食堂になっていました。
ゲームボードなどが見えますが、娯楽室を兼ねていました。
クーラーはあったようです。

 

冷蔵庫にステレオ。
このタイプは南極観測船当時からずっとあったものかもしれません。
どちらにも東芝のロゴが控えめに付けられています。 
当時の最新型を、各有名企業はこぞって「宗谷」に納入しました。



納入したと言えばこの色鉛筆もそうです。
この色鉛筆は、第一次越冬隊の立見辰男辰雄隊長が使用したもので、
気温の低い南極でも使用できるように特別に三菱鉛筆が製作しました。

気温が低いと色鉛筆がどうなるのかはわかりませんが、とにかく、
あらゆる有名企業がこぞって南極観測に企業協力をしたのです。
食料品、日用品、観測機器、住宅、衣類・・・・・。
およそ1,000社が南極で使用出来る商品、機器、機材を研究・開発に携わり、
このときに開発使用されたのが緒となって、現在も使われているという例がいくつもあるのです。

東京通信工業所盛田昭夫、井深大らは、マイナス50度の気温、風速100mのブリザードの中でも
使用可能なバッテリーの受信機を、トランジスタラジオを作った独自技術を生かして提供しました。

この会社は、その後SONYと社名を変えました。

本田宗一郎のHONDAは凍らないオイルを使った風力発電機を開発し、無料で南極探検隊に提供しました。

マイナス50度の世界では、住むところを作るにも鉄や釘は使えません。
日本伝統の木組みによる組み立て式住宅に、断熱効果を得るために檜の板を6枚合わせた
パネルの壁を使用した昭和基地の建物は、東京タワーを建設した竹中工務店が手がけました。
それをアレンジし商品化したものが、現在の「プレハブ住宅」です。



朝日新聞が提唱した一大イベントは、国民に希望をもたらしました。



南極観測に日本が参加することが決まって、「宗谷」が魔改造されたときの
竣工記念パンフレット。

日付は昭和31年10月17日となっています。



「宗谷」の外側につけられていてあらゆる彼女の苦難を知っている船舶番号札。



朝日新聞社が歌詞を公募してできた歌、

「南極観測隊の歌」と「南極の日の丸」


日の丸の旗なびかせて 地球の果ての南極へ 

小さな船で観測へ 行ってくださる


いさましいおじさまたちへ 

みんなして
「ご無事でネ」と祈ります


素晴らしい。素晴らしい歌詞である。さすがは国粋企業朝日新聞社!(もちろん嫌味です)



続く。


 

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