ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

秋水くんとコメートくん

2012-03-31 | 海軍








「秋水」と「Me163(コメート)」への愛が高じて、マンガにしてしまいました。
調べてもあまり分からなかったのですが、秋水とコメートの技術開発って、その後継承され、
今日なにかの形に受け継がれている、っていうようなことはないんですか?
まさか、ドイツも日本も、これっきりで終わってしまった「無駄な研究」なの?

もしこれをお読みの方で、「秋水(コメート)の研究技術は、こんなことに生きている!」
という話をご存じの方がいたら、ぜひ教えていただきたく存じます。

だって、あれっきり無駄花のように散ってしまったのだとしたら、
この超絶可愛らしい機体のかれらが浮かばれないじゃないですか・・・。







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砂むし温泉とイタリアン

2012-03-30 | つれづれなるままに

     

引き続き鹿児島訪問記です。
勿論メインは知覧の特攻平和会館ですが、ことのほか楽しみにしていたのが、砂むし温泉。
地熱を含む砂に首まで埋まって蒸され、体の芯まで温まる「蒸しサウナ」。
なんでも、全国ではここ指宿温泉のオリジナルらしい。

この白水館のお風呂は体育館くらいの大きさのフロアにさらに上階には露天風呂コーナーと、
広大なものですが、お風呂と中でつながっている廊下を進んでいくと、そこは砂むしコーナー。
砂むしを申し込むと、(1000円)入り口で砂むし専用の浴衣を渡されます。
下に何もつけずに着て、のれんをくぐると、そこは男女兼用のウェイティングコーナー。

長いベンチが数脚並べてあり、四人ずつ座り、前が空くと詰めて移動していきます。
我々が行った時は日曜の夕方で、いわばピーク。
ベンチに座りきれず、脇の部屋も待つ人用に使用されていました。

八人が横たわることのできる砂場が全部で七面。
この日は全面フル稼働でした。

二人三人組で来る人が多いので、時々余った場所のために
「一人だけのご利用の方はいませんか」
と呼んでくれるのですが、このおかげでわたしは二〇人くらいごぼう抜きしました。

木の高いマクラの上にタオルを乗せて、平らにされた砂の上に横たわると、
砂かけ係が浴衣の裾をぴんと下に引っ張って、合わせ目から砂が入らないようにしてくれます。
この砂かけ係は「この道数十年、半生を砂をかけることに賭けた男」みたいな年配の人は
一人しかおらず、あとはアルバイトのような若い青年ばかりでした。
危険なスコップ状のものではなく、毛のないデッキブラシのようなもので砂をかけていきます。
これ、結構な重労働だと見た。

あとで家族と語り合ったのですが、全員感想はただ一つ。

砂が重い。

皆さん。
土砂崩れの事故で埋まったとかいう事例や、昨夏起こった
「仲間が砂浜に掘った落とし穴に落ちて砂に埋もれて亡くなった」という事故、
なぜ砂くらいかき分けて逃れられなかったのか、と思っていませんか?

体の上に10センチかけられた砂ですら、重くて深呼吸もできないんですよ。
そう言った事故もむべなるかなと納得しつつ、重さに驚きながら10数分。
係の人は
「10分から15分が目安です」
というのですが、しばらく埋まっていると、じんわりと温まっていく砂は気持ちよく、
その重さも慣れればなかなかおつなもので、あっという間に時間が来てしまいました。
苦しくなければ何時間でも埋まっていることは可能なのですが、
この日は前述のように待っている人が多く、それでなくても
たくさんの人たちに埋まっているところをガン見されている状態なので、15分で出ました。

砂にまみれて立ち上がり、のれんをくぐってすぐにあるシャワーのところに全てを脱ぎ捨て、
シャワーで砂を落として、あとはお風呂を楽しみます。

埋まっている間に、カメラマンがやってきて写真を撮ってくれます。
申し込むと、赤い傘と日付の札を砂に立てて、(確かに何もなければ殺風景かも)
チェックアウトの時にわたしてくれるのです。
息子とToが撮った写真が、これ。



まあ、息子は反抗期ですから・・・。

この後岩盤浴をしたり露天風呂でボーっとしたりして、あっという間に夕食の時間。
今日は、ホテル内のイタリアンレストランに行きました。



広尾にアクア・パッツァというイタリアンレストランがあるのですが、そこのシェフのお店。

 

新鮮な生野菜をたくさん使うのがアクア・パッツァ風。
支配人は「葉っぱばっかりでなんだか馬になった様な気がしますが」
とおっしゃっていましたが、都会人はこういうの好きなんですよ、と。

メインの黒毛和牛のステーキは美味しかったですが、量が多くて食べられませんでした。
白身魚は案の定素材が今一つ。
イタリアンやフレンチで白身魚を美味しいと思うことってあまりないんですよね。
あえて言えば、呉の大和ミュージアムの近くの小さなカフェが今までで一番でした。

 

パスタは、ニョッキ。
餃子のように中に具が入っていました。
そう言えば歯触りも餃子っぽかったな。

デザートは紅茶ゼリーと桜のアイスクリーム。
全コース通じて、私が一番評価したのがこのアイスクリーム、Toはパンでした。

・・・・・・・。

しかし、温泉旅館ですから、宿泊費には朝食、夕食代が含まれています。
和食の懐石がでてきたら当たり前のように思うのですが、イタリアンのコースが出てくると
「なんだかタダで食べているみたい・・・お得かも」
とつい錯覚してしまいます。錯覚ですが。

この日は観光しまくって疲れ切ってしまったのと、次の日の朝、朝日を観ながら砂むしをしたい!
と思ったので早々に就寝することにしました。

昨日はたたみに一人、ベッドに二人が寝たのですが、今日はお願いして、
和室に川の字にお布団を敷いてもらいました。

電灯を消して豆球にすると、なんと。
天井にこのような光が浮き上がっています。




このお部屋は「萩の間」だからなのです。
粋ですね。





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旅しながら淡々と写真を貼る~鹿児島

2012-03-29 | つれづれなるままに


鹿児島なう。
などと、自分の所在をツィッターで呟くような趣味はないので、全て事後報告になりますが、
またまた旅してきました。
旅と言いながら我が家の場合用事を兼ねていることが多いのですが、
これまで用事ついでに北は北海道から南は沖縄まで、結構いろんなところに行ってきました。
しかし、鹿児島は初めてです。

鹿児島と言えば西郷隆盛、芋焼酎に桜島。
そして、温泉!いやっほー!今回は砂蒸しだ!

夜鹿児島空港に到着。
宿泊するのは指宿の白水館という老舗旅館です。
訳あってToとは別便なので、空港には息子と二人で降り立ちましたが、バスに乗るのが面倒で
レンタカーを借りてしまいました。

それからToのいるところにナビで向かったのですが、それを聞いたToの周りの方から
「ええっ!鹿児島が初めてで夜、しかも雨が降っているのに車を?
スカイウェイといっても、山道で大変ですよ!分かりにくいですよ!」
と豪快&無謀奥の烙印を押されてしまっていたそうです。

ボストンから国境超えして、モントリオールまでの雪道を、スノータイヤなしのぼろいカムリで、
しかもナビ無しで往復したこともあるエリス中尉をナメていただいては困る。

というわけで難なく旅館に到着。

いきなりロビーのポスターでびっくり。
何となれば、この桑名正博さんですが、(ご存じ?)わたくし実はこの方の亡くなられた
お父様を存じ上げておりまして、なぜかカニ缶をもらったことのある仲。
お宅の庭には離れがあり、「あそこで娘が○○○を・・・」というバイヤなナシハを聞いたことも。
そういったことなどを、この旅行の前日に思い出すともなく思い出していたからです。

そのときついでに「そう言えば桑名さんって、今仕事どうしてるのかしら」などと考えたのですが、
なぜか次の日、ホテルのロビーでその答えがわかったという・・・・・。

この地方ではお雛様はひな祭りを過ぎても飾るようです。



旅館の最新館に泊めていただきました。
普通の旅館のようですが、客室がなんと自動ドア。
消火器は和紙状のものでくるんで、和の雰囲気を壊さないようにしてあるのですが、
「これ・・・・火事になってからこれを破いたり剥いたりしてる間に延焼するのでは・・・」
などと真剣に心配してしまいました。


部屋は半分が洋室、半分が和室。
息子は着くなりテレビにipod touchが繋げないかをチェックしています。
建物は近代的ですが、wi-fiはさすがにありませんでした。
辛うじてテレビの横に有線ラン用のジャックを発見。
でも、ゲームをやりたい息子と違ってわたしは温泉ではむしろネット無しで過ごしたいので
全く問題はありません。

この旅館はひとことで旅館と言っても広大な敷地内に薩摩陶器を展示する美術館もある、
文化の担い手をも自負する地元の超有名どころです。
ブッシュ元大統領も小泉会談のときには宿泊したそうです。

次の日朝食を食べていると、支配人のH氏が来られ、挨拶を交わしたのですが、
なんと、ご厚意でこの日観光案内にH氏の運転で連れて行っていただくことになりました。



どこかお分かりですか?

そう、知覧特攻平和祈念館です。
ここで観たこと、考えたこと、書きたいことが山ほどあるので、稿を別にします。
H氏はここを「皆が行く観光コースとして取りあえずお連れする」というつもりだったようで、
まさか最初のコースで我々がたっぷり2時間見学に没頭するとは思わなかったでしょう。

この記念館に続く灯篭の道脇には桜がちらほらと咲いていました。
知覧から4月6日に出撃した隊員が、遺書に
「桜の季節に往くことができるのが嬉しい」
というようなことを書いていたのを思い出し、胸に迫るものがありました。

昼食を食べに行く途中に、富屋食堂がありました。



映画でも有名になった「特攻の母」鳥濱トメさんの食堂が復元されています。
写真パネルと特攻隊員たちの遺して行ったもの、映像で往時を偲ぶ資料館です。
 

ここにトメさんを慕って足を運んだ特攻隊員たちのことは蛍になった宮川少尉を始め、
有名になった話はそちこちで目にしますが、こんな話をここで知りました。

「ある隊員は猫が怖くて、トメさんの娘が飼っている猫を抱いていると遠くに逃げてしまう。
『飛行機に乗っているくせに猫が怖いの?』
娘さんは面白がって猫を抱いたまま近づくと、「ひえええ」と後ずさった折りに
彼は階段から落ちて怪我をし、娘さんは『特攻隊員に怪我をさせた」とえらく叱られた。
その隊員はその次の日出撃していった」

悲しいのだけど、なんだか可笑しい話です。

お昼を食べたのは、ここ。



ケースの中に飾ってあるのは、映画「君のためにこそ死にに行く」の小道具のようです。
おそらくこの食堂が飾るために買い取ったのでしょう。
知覧特攻平和祈念館の敷地内にありましたが、富屋食堂の雰囲気を出しています。

しかし、この「特攻おばさん」という言い方。どう思います?
「特攻の母」じゃなくて。
細かいことですが、こういうネーミングはご本人にとってどうなんでしょう。
特攻記念館という本来慰霊のための施設を「観光の目玉」にすることの問題が
こういうところに現れてはいませんでしょうか。
これが「特攻まんじゅう」「特攻せんべい」、特攻と書いたTシャツの一歩手前、って気が
するのはわたしだけでしょうか。




でも、ご飯は美味しかったです。
これは息子の頼んだ「炊き立てご飯&ラーメン&とんかつセット」。
鹿児島はそれにしても何を食べても美味しゅうございました。

 

ほとんどが茶畑のこのあたりですが、ここに昔飛行場があって、ここから飛行機は
最後の離陸後、まず海聞岳を目指して進路を取り、沖縄への特攻に飛び立っていきました。

左右対称の美しい山で、薩摩富士という別称があるそうです。
彼らはこの威容を湛える山に向かって日本への、そして愛する人々への
最後の別れを告げたと言われています。




カルデラ湖である池田湖は、たった一度の恐竜の目撃情報以来、それを
「イッシー」と名付けてこれも一時は「観光の目玉」になっていたようです。
本場のネッシーもどうやら存在しないことが明らかになったようですが、
こちらイッシーくんも見間違いだったようだ、とトーンダウンしており、当然ながら
観光客もほとんどいませんでした。



さて、ここでいきなり国立公園に突入。
なんと、「日本一小さな国立公園」です。


つまり、この井戸だけが国立公園。
神代の昔、豊玉姫が毎日使っていたもので、日本最古の井戸だと言われています。




お次の観光地はJR西大山駅。
単線で無人の小さな駅ですが、日本で最南端に位置する駅とされています。



電車の来るのは一時間に一本弱。
最南端と黄色の関係が判らないのですが、
「幸せの黄色いポスト」があります。
ここから手紙を出せば幸せがくるようです。
実は返却するDVDをここで投函したのですが、いつもより到着に時間がかかりました。
DVDの返却には使用しない方がいいかもしれません。



この小さな部落の人々は、苗字を皆「鰻」というそうです。
街には地下から温泉がわき、そちこちに井戸のようなものがあります。
卵を左端に見えている麻袋に入れて湯気の出るところに置いておくと、温泉玉子ができます。
これも小さな公衆浴場があり、部落の収入になっているようでした。



支配人とご一緒したので、車の中でホテルの歴史や経営のこと、いろいろと
面白い話を教えていただきましたが、かつてこのあたりが新婚旅行のメッカであった頃、
この山を「ダイヤモンド・ヘッド」として、「東洋のハワイ」を謳っていたそうです。
確かに少し似ている・・・かもしれない。
宿泊客には浴衣ならぬムームーやアロハを着せていたこともあったそうですが、
ハワイが「憧れの航路」で無くなり、安いものになって「かっこわるい」とやめてしまったとか。



明るいうちに帰ってきたのは、この指宿温泉の名物「砂蒸し温泉」に入るためです。
さて、日頃たまった毒気をさっぱりと抜きますか。

・・・・・・抜けるかな?








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「TPPはビートルズのようなもの」

2012-03-28 | 日本のこと


もう、やだわ野田総理大臣たら。
こういう絵を描かずにはいられない美味しいネタをまたもや提供してくれるなんて。

民主党には一日も早く下野していただきたいと毎日神仏に祈るエリス中尉ですが、
そうなったらこんな素敵なネタが無くなってしまうのかしら。
それは少し残念・・・・・・・・なわけないだろっっ!

「TPPはビートルズだ。
日本はポール・マッカートニーだ。ポールのいないビートルズはありえない」
「米国はジョン・レノンだ。この二人がきちっとハーモニーしなければならない」


なんですかこの例えは?

なぜTPPがビートルズなの?
TPP参加国って、わたしの記憶に間違いが無ければ4か国以上あった様な気がするんですが。
そして、なぜ日本がポールでアメリカがジョン?

ジョンが殺されたとき
「犯人はポール?」
とボケるのが流行ったことを野田総理は知っているのかしら。
元々ポールがジョンと仲悪くて「俺がやめる」と言いだしたのが解散の原因だとか。

もしかしたら、野田総理にとってTPPって、アメリカにほめてもらうための手段なんですか?
だから、協議のうえ決めるようなことを言っていながら最初から結論ありきで
デメリット無視して突っ走ろうとしているの?

もしかしたら、このビートルズはジョンがピストルをポールに突き付けて
「コラ歌わんかい!おらおら」
って脅しているビートルズ?


「バスに乗り遅れるな!」などとマスコミに煽らせ、TPPへの
Ticket To Rideをアメリカから
押し売りされ、あわてて参加しても、交渉で国益を得る道はまるで
The Long And Winding Road

例えば日本の米農家が
Don't Let Me Down とかHelp!と叫ぶことになっても
Let It Be(なるがままに)で看過するのかしら。
やっぱりだめだということになってもそう簡単にGet Back(帰る)わけにいかんのよ?


「トラストミー」
「僕は原子力にとても詳しいんだ」

前首相、前々首相の世紀の迷言に続く野田首相の

「TPPはビートルズ」

この発言、全く誰か止めなかったのか。
アメリカ大統領のように、日本の首相にはスピーチのライターやブレーンはいないのか。
三代にわたってThe Fool On The Hill(丘の上の愚か者)を担いできた現政権、
もういよいよ国民はREVOLUTIONを求めだしてますぜ。



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岡部さんの戦争

2012-03-27 | 陸軍

          


小さいときこの本を読んだことのある方はおられますか?
ヘレン・バーナマン作「ちびくろサンボ」の第一巻です。
大阪の偏執的な差別運動団体(というか一家族)の訴えにより、絶版された、あのシリーズ。

わたしも小さい頃これを読んで育ちました。
トラがぐるぐる回って溶けてバターに、という発想を、子供心に実に楽しく受け止め、
そのバターで作ったホットケーキを食べてみたい・・、と、心から思ったものですが、
それにしても、今考えてもこの話がなぜ「黒人差別」なのか、わかりません。

黒人を黒人のように描いてあるから?
黒人を白人のように描くことの方が問題ではないですか。
肌を黒く描くのが「差別」?
それなら黒人を主人公にした本の挿絵は一切描けなくなります。
つまり「黒人を主人公にするな」ってことなんでしょうか。
それこそが差別なんでは?

差別の意図を持って製作された諸々のものでなく、どう考えても「それは目的ではない」
という表現のものに、この団体(というか一家族)は次々と噛みつき、
悉く出版止め処分を勝ち取り、得意になっていたようです。

手塚治虫全集を、何コマかあったこの表現のために全巻差し止めにした、
という話を聞いた時には、わたくし怒り狂ったものですが・・・。
そういえばサイボーグ009にもこういう肌合いのメンバー、いませんでしたっけ。
俎上に乗せなかったんでしょうかね。アフリカ出身。
「風と共に去りぬ」は?黒人奴隷が出てきますよ。
ドストエフスキーの「白痴」、ゴダールの「気狂いピエロ」、
そうそう、ロビンソンクルーソーの挿絵もまずいぞ!
谷川俊太郎の「人喰い土人のサムサム」っていう唄、わたしはシュールで好きなんですが、
これなんか一発アウトですね。

超余談ですが、こういう歌です。ご存知ですか?

人喰い土人のサムサム おなかが空いてお家へ帰る 甕の中の亀の子を食べる
七口食べたらもうおしまい 人喰い土人のサムサム とてもさむい

人喰い土人のサムサム おなかがすいて隣に行く 友だちのカムカムを食べる
二口食べたらもうおしまい 人喰い土人のサムサム 一人ぼっち

人喰い土人のサムサム おなかがすいて死にそうだ やせっぽちの自分を食べる
一口食べたらもうおしまい 人喰い土人のサムサム いなくなった

(コメントなし)

さて、この「ちびくろサンボ」が今は復刻版で買えるようになっているそうですね。
このたびわかりました。
よかったよかった&ざま―見やがれ。

ここまでが前置きです。


で、この挿絵なのですが、本日画像にしたのは原作のフランク・ドビアスのもの。(模写よ)
このシリーズの第二巻、ドビアスのサンボ(この名前も侮辱的なんですと)くんを真似して?
そのままのイメージで描いたのが、漫画家、岡部冬彦です。
そのほかにも岡部氏は「きかんしゃ やえもん」などと言う作品で有名です。
今日はこの漫画家岡部冬彦の戦争についてお話します。


この岡部さん、東京芸術大学の美術学部図案科を卒業してすぐ学徒出陣で召集され、
陸軍の見習士官として昭和18年12月、フィリピンのセブ島に駐留しました。
図案科、というのは今のデザイン科と言うことでしょうか。

所属は暁6142部隊。暁部隊は通称で、陸軍船舶兵です。
陸軍もフネを持っていて、ダイハツと言われる上陸用舟艇はじめ、揚陸艦、駆逐艇、
一隻だけでしたが護衛空母もありました。

船舶兵器を効率的に運用するために存在した兵種で、
先日お話した「まるゆ」はこの部門の潜水艦です。
ちょうどまるゆの運用の頃に誕生しており、
海軍的仕事を海軍の手を借りずにやったる!という意図で作られた、
ある意味陸海軍間の祖語の賜物でした。

まるゆのように、連絡艇の「れ」から名付けられた「まるれ」というフネもあり、
これは正式名称が「四式肉薄攻撃艇」といいます。
文字通り後期には特攻艇として基地まで持っていたものですが、
それにしても、陸軍のフネは、ネーミングがいまいちな気が・・・。

船舶兵は非常に目立つ「ネイビーブルーの台に錨と鎖」のマークのついた
「船舶胸章」を胸につけていました。

岡部氏の所属したこの暁部隊は、任務はレイテ島への補給が中心。
戦闘には一切加わらない任務でした。
部隊の隊員はほとんどが学徒動員、しかもほとんどが東京出身の大学生。

こういう娑婆っ気の(おっと、陸軍では『地方ッ気』でしたか)ただでさえ抜けない学生連中が、
戦闘もないのんびりした島ですることと言えば。

「ほんと南の島に学童疎開したみたいな感じしかありませんでしたね。
なにしろ朝から晩までキャーキャーはしゃぎまわっていただけでしたからね」
(本人談)

・・・・なにやってんですか。

しかも、補給が任務なので、食べ物はふんだんにあり、『メシは食い放題』。
補給船がセブの浅瀬に乗り上げてしまったときは(これは・・・・事故ですよね?)
積んであったビール(サン・ミゲールビール)を皆で飲んで、朝っぱらから酔っ払っていたそうで。

学生って、今も昔も平和であればこんなものなんですよね。
いや、わたしは、お行儀の良い学校におりましたので、あくまでも近隣で付き合いのあった
某国立大学の学生のことを言っているのですが。

軍律厳しい中なれど、これが見捨てておかりょうか。
しっかりせよと抱き起こしたら、戦友は朝っぱらから二日酔いで酒臭かった、などと、
他の英霊に少しは申し訳ないとは思わなんだのか。
しかし、自戒と自省を平和時の学生に求める方が、無理。

しかもその学生が隊長だったりするので、彼らの学生気分は留まるところを知らず。
夜になるとムード満点椰子の木陰、みんなこぞってハワイアン・ソング大合唱。
ギターを奏でるのは灰田勝彦も在籍した、名門立教大学ハワイアン・クラブ出身の学生。
歌ったり、敵国アメリカの映画について熱く語りあったり、いやまったく、

「じっさい、国費で修学旅行に行かせてもらったようなものでした」

このような戦争の現場もあった、ということなのですが、驚くのはまだ早い。
岡部氏、このあと、内地帰還。
こたびは特幹隊の区隊長要員という立場で、小豆島に赴任します。

この特幹隊についても少し説明すると、正式には
「船舶特別幹部候補生隊」と言います。
さきほどの「まるレ」の要員、しかも一四歳の少年ばかり2千名が、この「肉薄艇」で、
文字通り特攻兵器となって戦うために訓練されていたというのですが、
どうも岡部氏の話を聞くと、様子が変です。

「フネがないからあそんでばかりいた」(本人談)

またですかい。
ここでも小豆島の自然の中で、魚を釣ったり、水泳をしたり。
ここには空襲も来なかったそうです。
実に不思議なのですが、こういう戦場を渡り、戦争の戦争らしさを全く知らず、
戦争に行きながら楽しい思いばかりして帰って来た人、というのもどうやらいるようなのです。

小林よしのり氏の親せきで、中国大陸に行って美味しいものを食べ、戦闘もせず、
まるまる太って帰ってきた人がいる、という話を読んだことがありますが、
岡部氏もそういう幸運な戦争従事者の一人だったということでしょう。

昭和二十年八月。
遊んでばかりの日々が続いていた岡部さんの部隊が、何故か各中隊ごとに野営に行かされます。
「奇妙なことをするな」
と思ったのですが、それが8月11日ごろのこと。
つまり、終戦の勅が渙発される直前で、上層部はすでにそれを受けた動きをしていたのです。

中隊が部隊を留守にしている間に何かあったということなのかもしれませんが、
それについては岡部氏は詳しく語ってはいません。
この時点で日本が負けていたなどとは予備士官候補生ごときに知る術もありませんでした。

俳優の池部良氏は終戦をニューギニアのそばのハルマヘラという島で迎えています。
放送の前日には噂は入ってきていて、厭戦気分に閉ざされていた兵たちが
「バンザイ」「よく負けてくれた」
などと言うのを池部氏は複雑な気持ちで聞きつつも、解放された喜びを感じたと言います。

ところがラバウルにいた将兵たちは士気旺盛で、降伏など考えもしなかったということです。
糧食武器、弾丸も手榴弾も皆手作り。
現地で何でも調達できる状態で、工場すらあり、陸海合わせて十万の将兵が
何十年でも生活できるだけのものは自分で作っていたのだそうです。
ですから、ハルマヘラのような「負けてくれてありがとう」と言ったようなことを言う者はおらず、
敗戦のショックもその分、彼らにとって大きかったということかもしれません。


さて、岡部氏のいた小豆島はどうだったでしょうか。
岡部氏、ラジオを聞いたのだけど、感度が悪く、何を言っているのかさっぱりわからない。
上層部はともかく、岡部氏クラスは敗戦の噂など夢にも知りませんから、

「はあ、これはソ連と戦え、というのだな」

などと解釈していたら、土地の人が

「負けたんだよ」

どうして軍関係者より「地方の人」の情報が確かだったのでしょうか。
とにかく、そうなると、以前にもましてすることが無くなってしまいました。
それで、少年たちと一緒に魚を釣ったり、水泳をしたり、小豆を持ってきて汁粉を作ったり・・・
小豆島だから?)

・・・・つまり、前と全く同じ生活をしていたそうです。






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嗚呼陸軍潜水艦~戦艦大和の登舷礼

2012-03-25 | 海軍


喩えは悪いですが、まるゆ、陸軍輸送潜水艦は、まるで女性(陸軍)が男性(海軍)に
内緒で産んでしまった私生児のようなものでした。

「海軍に言うと反対されるから、海軍には極秘で作れ」
「海軍の助けは借りずに、陸軍だけで作れ」(BY東条陸将)

これをこのような場合の女性のセリフに当てはめると

「言うとやめろと言われるから、黙って産んだの」
「あなたの助けは借りない。一人で立派に育てていくわ」

ね?

ある日男は、見たことのない、何だか妙な女の子が近所をうろうろしているのに気付きます。
「なんじゃあれは」
女の子は、似ていると言えば自分に似ているのですが、全てが変わっています。
女性が自分に内緒で産んだ子供だと知りましたが、男の娘たちは、まさかこの
「醜いあひるの子」が、自分の妹だとは思わず、
「みっともないコねえ」「ちょっとあんた、このへんうろうろしないでよ」
と喧嘩を吹っ掛けることもありました。

・・・・・なーんちゃって。

極秘で計画され、あっという間に製造された輸送潜水艦が、
その秘匿性ゆえに
「海軍家の庭」で馬鹿にされたり攻撃されたり、
大変な辛酸を嘗めたことはお話しました。


そこまで行かずとも、一般の漁船にとっても

「いきなり出没した見たことない奇妙な潜水艦」

です。


「現在地点がわからなくなったのでついていけば戻れるだろうと漁船を追いかけたら、

漁船の方は気持ち悪がって全速力で逃げてしまった」

という漫画のネタみたいな話は枚挙にいとまがありません。


そもそも外敵を相手に戦争しているのに、内輪でいがみ合って、
それゆえまるゆのような
歪な私生児が生まれてしまったとも言えます。
効率的な方法を全軍で模索できず、確保できたはずの物的資源や貴重な人命が
このような
無駄な作戦により潰えてしまったのは、第二次大戦における
「反省点」の最たるものではないかと
思うわけですが、
今度同じようなことがあったら、過ちは繰り返しませぬから



ともかくここで同情すべきは、この私生児的断末魔的な乗り物に
ひとつしかない命をかけなければいけなかった、陸軍まるゆ部隊の将兵の皆さんです。
「潜水輸送教育隊」という名称の部隊に赴任してきたその数、約3千名。

まるゆ部隊の基幹将校に抜擢され、船舶司令部への転属を命じられたある陸軍中佐は、

「貴官は潜るんだぞ」

といわれ、ははあ、軍服を脱いで地下に潜る、つまり特務機関のスパイだな
と思っていたそうです。

よもや陸軍士官の自分が文字通り海に潜ることになるとは夢にも思わなかったのでしょう。

彼らの過酷な訓練についてはまた別の日に語ります。

全て不慣れな海の生活、海軍艦や漁船との「軋轢」、
急造されたがゆえに不具合だらけで、
故障や水漏れ、安定しないまるゆを、
ろくに航法も知らないまま操舵する苦労・・。


潮気も何も、海の上にいるとお尻がスースーして落ち着かない、
といったレベルの「陸の人」です。


しかしながら、そんな彼らが、海で戦う者としての誇りに身を震わせた瞬間がありました。


東京芸術大学
を経て陸軍予備士官学校を卒業、

「極秘部隊で潜水艦に乗るらしい」


と聞き「もう命はねえな」と覚悟を決めた、岡田守巨(もりお)陸軍少尉の回想―。


岡田少尉が訓練艇で教育終了後、三島基地に帰投する途中のことです。

この訓練中、岡田少尉の艇はグラマンの機銃掃射を受け、
「やったことのない急速潜航命令を初めて発し」ています。
潜航の勢いが強すぎて惰性で海底に衝突、「全員が覚悟を決め」たものの、
ともかくも艦体に異常はなく、
辛くも助かったという冷や汗体験でした。

衝撃で全員が茫然自失であったに違いないその帰途、
彼らの「まるゆ」は来島海峡にさしかかりました。

そのとき前方から「山のような」ものがやってくるのにまさに仰天します。

戦艦「大和」でした。

陸軍軍人であってもこの巨大艦のことは聞き知っていたため、
岡田少尉は総員に
「登舷礼用意」の号令をかけました。

「海の男同志の美しい儀式」である登舷礼に、
言わば末席にあたる「まるゆ」乗員といえども、その一員として憧れないはずがありません。
一度はやってみたかった登舷礼、その記念すべき最初の相手は他ならぬ戦艦大和です。
これが昂揚せずにいられるでしょうか。

甲板整列し、公排水量6万9千100トンの大和に、総排水量430トンの陸軍潜水艦乗員は
一世一代の礼を送りました。
と、そのとき。

「あっ」

岡田少尉は心の中で叫びました。

黒々とした、まるで山のような大和。

その甲板に、すでに真っ白な千人単位の乗員整列ができているではありませんか。
さすが海軍、豆粒のようなこの陸軍潜水艦を認めるや、
間髪いれず相手に向かって登舷礼を送ってきたのです。


「軍艦が相遇う時、将旗あるいは代将旗を掲げた軍艦または短艇に遇う時」(wiki)


とされる喇叭演奏も、風に乗って聞こえてきました。


大和がどのような使命を担い、この航行の果てにどのような運命が待っていたか
彼らには勿論知るべくもありません。


岡田少尉は、後からそれが戦艦大和の見せた最後の勇姿であることを知ります。



おそらく、これが大和が陸軍に送った最初で最後の登舷礼であったことでしょう。
その陸軍代表は、まるでおもちゃのような練習潜水艦でありましたが、それでも大和は

「礼を尽くして、去って行った」(岡田少尉回想)

のでした。


「そのときほど潜水艦って良いものだな、と誇らしい気持ちになったことはない」


この岡田少尉ですが、大和との遭遇以降、すっかり「海軍びいき」になってしまいました。

本日画像に描いたのは「陸軍式敬礼」ですが、岡田少尉は敬礼も海軍式を真似して、
それを後日陸軍の高官の前でやったからさあ大変、

「その敬礼のざまは何だ、貴官、それでも帝国陸軍将校か」


と散々罵倒叱責され、左遷の憂き目にあったということですが、これはまた別の話。



大和の乗組員は、前方にちょこんと浮かんだ小さな小さな潜水艦に礼を送りながら、
どのような感慨を持ったのでしょうか。

他の艦船が不審がったり、馬鹿にしたり、攻撃さえ加えた無名の陸軍艇をも、
即座に認識するほど、大和には情報に精通した見張員がいたということなのでしょう。

しかしたとえどんな相手であっても、同じ日本を守ろうとする海の防人同志、

「後を頼む」

という決意をを伝えたいというのは、大和乗組員の総意であったでしょう。


そして、自分たちがが往くその姿をしっかり見届けてほしいという、最後の願い。


最後まで仲の悪かった陸軍と海軍の摩擦から生まれた潜水艦まるゆの隊員は、

このときの戦艦大和の姿を、戦後もずっと心に留め続けました。
戦後画家になった岡田氏はそのときの感動をこう語っています。

「あまりの感動に思わず目頭が熱くなってきましてねえ・・・・・・」

直後、大和の航跡が起こす大波で、感激に涙ぐむ彼等はずぶ濡れになってしまったそうですが。







参考:決戦兵器まるゆ陸軍潜水艦 土井全二郎 光人社
    陸軍潜水艦隊 中島篤巳 新人物往来社
    潜水艦隊 井浦祥二郎 朝日ソノラマ
    ウィキペディア フリー辞書

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嗚呼陸軍潜水艦~マル秘のまるゆ

2012-03-23 | 陸軍






その計画を当初から海軍に秘匿して、まったく陸軍だけの手で作り上げ(ようとし)た、
陸軍潜水艦、まるゆ

まるゆというそのかわいい響きにより一層涙をそそられるのですが、
正式?には、本日画像のように丸の中に「ゆ」の字が入るのです。
マル秘記号と同じですね。
(ユニコードの出し方がわかりませんでした)orz

一部海軍の高官に対して公開実験という形でお披露目をしたものの、
世間的には全てが
鉄のカーテンの中。
というか、あまりにごく一部の部門を動員して作られたので、その存在を知る者は
一般は勿論、
海軍にも皆無と言っていいほどいませんでした。

苦難の末計画立ち上げからあっという間に完成、
いつの間にかその姿を現した陸軍潜水艦。

その後も徹底した防諜網を張ったため、その航行中、
その存在を知らない各方面から、
様々な扱いをされることになりました。


まるゆは昭和19年7月、マニラ方面に

23日の予定のところ51日かかって

到着しました。

冒頭漫画は、やっとこ着いたと思ったら、当地にいた軽巡洋艦木曽から
このような失礼な誰何されたという、実話です。
ちなみに2コマ目の木曽ですが、スケッチをして10分の1に縮尺した自信作です。
(艦だけ描き込み過ぎて他のコマとのバランスが取れていない・・・)

この航行のとき、台湾海域で、哨戒中の米潜水艦が、次のように打電しています。


「我船籍不明の潜水艦発見、南下中」
「船尾に日の丸。しかも浮上航行中」
「日本海軍に非ず。当分監視を続行する」

アメリカ軍もびっくり。軍艦旗でなく、日章旗をつけた潜水艦。
しかも、潜水艦なのに敵であるこちらに気づかず、白昼堂々と海上を浮上航行しています。
これは、まるゆの乗組員に言わせると

「潜水すると航行速度が落ちるから」


ということだったようですが、それなら潜水艦である意味が全く無いのではないかと(略)


海軍の潜水学校の関係者は

「当時笑ったのだが、航行中に木やその他でで偽装していたことである。
空襲を受けた時は海軍なら当然潜航するか、あるいは鎮座するわけであるが、
やはり陸式だなと思った」

と、呆れておられます。


このときも、もしかしたら葉っぱを乗せて海のど真ん中を
堂々と航行していたのかもしれません。

しかし、米潜水艦はこの「ヘンな潜水艦」を攻撃しませんでした。
あまりにも突飛過ぎて、どうしていいかわからなかったとも言えますし、
オトリ作戦ではないかと勘ぐって様子を観ていたのかもしれないという説もあります。

かくのごとく秘が裏目に出て、まるゆが受けた苦難は枚挙にいとまがありませんでした。
画像のようにあからさまに馬鹿にされるくらいならともかく、
まるゆの存在を知らない味方の
海軍艦艇から、何度となく砲撃を受けた、
といいますから穏やかではありません。


一度は、攻撃に対し、手旗信号、帽子や日章旗を振ったり、
司令塔の脇にペイントされた
日章旗を見せたり、陸海軍共通の暗号書をめくって

「我味方なり」

と信号しても、
つまり、何をしても海軍艦艇に信用してもらえなかったそうです。

ほうほうの体で避退して、横須賀鎮守府に厳重抗議しにいったら、

「少しでも怪しい行動がある艦艇は容赦なく撃沈せよと命じている」


・・・・まあ、日章旗は、余計に怪しまれる原因になったかもしれませんね。
まるゆは一度、攻撃してきた海軍艦艇から、
「なにゆえに軍艦旗を揚げざるや」とその点を怪しまれています。

横鎮からは

「今後とも我が艦隊の行動海面には出没せぬことですな」

と、つれなく釘を刺されたまるゆですが、訓練中適当なところで浮上したら、
行動海面どころか、
軍秘で地図にも書けない呉軍港のど真ん中に
ぽっかりと出現してしまったことがあります。

セクスタント(六分儀)の扱いが起用だったというだけで、
教官にされてしまった陸軍少尉の、
「初歩的ミス」でした。

驚く間もなく監視艇が飛んできて引っ張られ、尋問を受ける羽目になったそうです。
このとき尋問した伊潜艦長である海軍中佐はどう思ったかその後まるゆ乗員を励まし、
自分の伊潜に豪華なフルコースを用意させ、彼らを招待しました。
まるゆ御一行様は、まず伊号潜水艦のその広さ、豪華さに驚き、
西洋料理を供する海軍式に感激するとともに、
我がまるゆをかえりみて
トホホな気分になったということです。


食事の話の後になんですが、なにしろ、まるゆときたら、トイレもありませんでした。
海軍潜水艦の射出式トイレなど、作っている場合ではなかったので、

「汲み置き式」。


それ
はドラム缶や桶に溜めており、ただでさえ狭い艦内は
凄まじい悪臭だったそうです。

まるゆは前述のマニラへの航行中、人が丸太のように転がるほどのシケに遭った、
というのですが、それは、一体どうなったのか・・・。

阿鼻叫喚の艦内を想像しただけで身の毛がよだちます。



海軍の艦艇のみならず、まるゆは民間船からの攻撃にもあっています。
朝鮮半島沖を航行していた日本郵船の貨物船「伊豆丸」は、
潜航せずにただじっと浮いている見たこともない潜水艦を発見しました。

軍艦識別のためのシルエットは識別表のどこを探しても無し。
海軍からの無線情報にも該当艦はありません。

「もう逃げられない。戦うべし」


総員が配置につき、ある者はスパナやハンマーを手に、
伊豆丸は船ごとこの潜水艦に突っ込んでいきました。

おりから錨を降ろして休憩を取っていたまるゆ乗員の驚いたの何の。
一旦通過したと思ったら伊豆丸はくるりと船首を返し、
反転して再び全速力で突っ込んできたではありませんか。
衝撃と轟音のショックで寝ていたまるゆの乗員は跳ね飛ばされました。

衝突後、ここにいたってこの潜水艇が
我が国のものであることに
さすがの伊豆丸もようやく気づき、船長は青ざめて謝りに行ったそうです。


船長、機関長共に憲兵隊にさんざん油をしぼられたのですが、

今度はさらに海軍武官府から呼び出しがかかりました。
二人は重罪覚悟で蒼白になって出頭したところ、


「貴官らの敢闘精神は見上げたものだ。
止むを得ざる処置であると同時に寧ろ勇敢な行為である」

と激賞されてしまったというのです。


これはいかなることだったのでしょうか。


海軍軍人で、およそこのまるゆに接触した者は大なり小なり

「素人が無茶しやがって・・・・」
というような感慨を持ったもののようです。

ある海軍輸送船の先任将校は、ある日浮上しながら進む不審な潜水艦を発見しました。
ただちに「総員配置」を命じ、高角砲は水上弾を装填。
全ての対空機銃は仰角を合わせ、一発必中の照準を開始、爆雷は全て安全装置を脱し、
艦全ての鉄砲はこの潜水艦をターゲットに定め、総員の緊張はマックス。

と こ ろ が 。

件の潜水艦、浮上しているのに戦闘態勢を取るでもなく、そのまま通り過ぎていきます。

「あれーっ?」


とか言っていると、なんと、もう一隻があらわれ
同じようにのうのうと前を通過していくではありませんか。

はやる部下たちが「撃ち方始め」を催促してくる中、
「まあ待て、まあ待て」と首をかしげながら見ていると、

そのまま遠ざかって行きました。

息つまるような数十分でした。(笑)
あとからそれが陸軍の潜水艦でることを聞いた先任将校は、


「なんじゃあありゃあ」


とばかりにあきれるとともに、このように書きのこしています。


「それにしても、陸さんにあんな間抜けな行動を取られては、
我々は至極迷惑である!」


驚くことにまるゆは航法など全く無視し、ジャイロコンパスもまともな海図も持ち込まず、

「前の艦を抜かさぬように着いていきさえすればよい」

というような態度で操艦していたそうです。


それでも、予定の倍の日数かかったとはいえ、なんとか目的地に着いたのですから、
「怖いもの知らずというか、素人は凄いと思った」というある海軍軍人の感想が、
この全てを語っているように思います。

まるゆに体当たりした伊豆丸の艦長と機関長をわざわざ呼びつけ、
ほめたたえたこの海軍少佐は、
実は大きな声では言えないものの、

「あんなもんじゃ誤認されて体当たりを食ったとしても当然だ。

あんなヘンなものをうろうろさせている陸軍の方が悪い!」

という陸軍に対する意思表明として、あえてこちらをこうやって庇った、
ってことはないでしょうか。






参考*決戦兵器 陸軍潜水艦 土井全次郎
     陸軍潜水部隊 中島篤巳
     潜水艦気質 よもやま物語 槇幸












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嗚呼!陸軍潜水艦「まるゆ」

2012-03-21 | 陸軍

今日の画像が何のパロディだか全く分からない、
という方もおられるかもしれませんので、
野暮を承知で説明すると、
昔小澤さとる先生の「青の6号」という漫画がございましてな。

戦闘機パイロットものが全盛だった1967年作品で、異色の未来潜水艦ものです。

この時代、国と国の争いはなく、国際テロ組織マックスに世界連合軍が、

ユニバーサル・ブラザーフッドつまり八紘一宇の共同戦線であたるという設定。

上に固まっているのはオリジナルでは「青の6号」つまり日本潜水艦の面々。
下のアイパッチ男は、本来「青の1号」アメリカ派遣艦のギルフォード少佐。
それにしても、艦長って、パイプを吸わなくてはいけないきまりでもあるのかしら。

このマンガ、わたくし、実は読んだことがありません。
で、これを描くために調べたときに、この設定を見てつらつら考えたのですが、

もし、地球外生物の襲撃襲来があれば、世界は共同で外敵と戦い、
(そうなれば、一番先に「やってくれるのは」大阪だと思う。 ソースは「宇宙戦争」)
地球人同士で争うことをやめ、結果的に戦争は無くならないだろうか。


それはともかく、潜水艦もののパロディなら下の海軍第一種軍装はともかく、
何故上の連中がカーキ色の陸軍軍服姿なんだろう、と不審に思われた方。
それは、彼らが、今日お話しする

「陸軍潜水艦 三式潜航輸送艇 通称まるゆ」

の乗員である(という設定である)からです。

「空軍って、旧日本軍に無かったっけ?」

と真顔で聞いて、思わず開いた口がふさがらず膝に付くくらい驚かせてくれた、

うちの所帯主のような人間もいることはいますが(興味のない人間ってこんなものよ、皆さん)
空軍を持たない旧帝国日本軍が、陸海ともに飛行機を保持していたのは世間の常識。

空から舞い降りる「空の神兵」挺進部隊、つまり落下傘部隊も、
陸海両軍がほとんど同時期に大戦果を挙げたのもご存じのとおり。

餅は餅屋と言いますが、陸軍の専門「陸戦」において、陸軍が手をこまねいていた戦局を
「陸戦の神様、中村虎彦」率いる海軍陸戦隊が打開し攻略してしまったこともあります。
(当ブログ参照)


しかし、陸軍には決して超えられない壁。
海の上で戦えるのは海軍だけであった・・・・・・・はず。

なのですが、人、耳目を驚かすか、言ふに足らず。(by 藤原宗忠)
何と、陸軍には潜水艦がありました。

それが今日の「まるゆ」で、名称からもお分かりのように輸送専門の潜水艦です。

全長49,5m
水上排気量273トン
水中排気量346トン
最大速力 水上9,6ノット 水中4,4ノット
水中航続時間4ノットで1時間、2ノットで6時間
最大潜水深度100メートル

海軍の最大級、伊号四〇〇型潜水艦で水中排水量6560トン、最大水中速力6,5ノット、
海軍で最も小型であった波二〇一型でも、水中排水量は440トンあった、ということからも、
まるゆの可愛らしかったのは名前だけではない、ということがお分かりいただけるかと思います。
因みに波号は本土決戦に備えて作られましたが、終戦によって実戦デビューはしませんでした。

まるゆは輸送専門なので、海軍の潜水艦には当たり前の「魚雷」が付いておりません。
攻撃できないのですから、勿論反撃もできません。
ただひたすら見つからないように海中をのろのろと進むのみ。
とてもじゃないけど、冒頭画像の煽り文句「決戦兵器」と呼ばれるべきものとは言えません。

しかしなんだって陸軍は輸送潜水艦を独自に作ることを思いついたのでしょうか。

ウィキペディアによると、ガダルカナル島の戦いに於いて陸軍が補給に苦しんだことが、
「独自の補給艦」開発のきっかけになった、ということになっています。

土井全二郎著「決戦兵器 陸軍潜水艦」(←う~ん・・・・)によると、
ラバウルにあった南東方面作戦の陸軍最高責任者である今村均中将は、
ガ島撤退作戦終了直前、軍部に対して
「陸軍で駆逐艦や潜水艦をもって直接補給に使用したい」
と、陸軍がフネを持つことを意見具申しています。

そして、作戦失敗後、トラック島での山本連合艦隊司令長官との会談で
「ガ島の失敗は補給の失敗である。
海軍の輸送力をもって補給を確かにすることで以降の失敗は避けられる」
と熱心に主張し、協力を仰ぎましたが、海軍側には
「作戦失敗の原因を全て海軍に帰せんとする魂胆であろう」
なんてことを言われて、はかばかしい返事がもらえませんでした。


もともと海軍潜水艦、駆逐艦の乗組員、ことに士官たちの間には
「何が悲しくて海軍兵学校を出てマル通などせにゃならんのだ」
という風潮がありました。
マル通とは、こんにちもある日本通運のマークからきた「運送屋」という意味で、
現在も自衛隊で輸送任務に使われている隠語です。

戦闘で死ぬのならともかく、いくら任務とはいえ米を運んでいて戦死など不本意も甚だしい、
陸軍にしてみれば、こんな風潮の海軍にいちいち頭を下げて輸送を「お願い」するのは
手間もかかるし、第一それ以上に面白くない。

そして、こんな話もあります。
ある船舶関係者が

「陸海共同で建造し、共同で運用すれば良かったではないですか」


と尋ねると、陸軍省の人間は真顔で?こう言いました。


「そうなると、舵を取るのは海軍だ。

別々の場所で陸海軍が同時に助けを求めていたら、
きっと海軍軍人は海軍のいる方に舵を切るに違いない」

つまり、陸軍側にすれば、我が作戦遂行のために「敵国海軍」の裁可を仰がずとも、
自由に使用できる補給艦を持ちたいという、自然な欲求の流れの結果であったのです。


そんなこんなで、陸軍は意地になって「陸軍潜水艦」の着手に乗り出しました。
そのとき事にあたった塩見陸軍技術少佐が参謀本部から言い渡されたのは、以下の通り。

  1. 陸軍部隊が陸軍自体の輸送潜水艦を作りだすこと。
  2. 海軍には内密に建造すること
  3. 造船所を使用せずして作ること
  4. 建造数は取りあえず20隻。最終的には400隻。
  5. 陸軍部隊のどこで作っても良い

1はいいとして、2と3、これは一体いかなることでしょうか。
当時世界最高レベルと言われた帝国海軍の潜水艦。
艦艇専門の海軍が、日露戦争直後から何十年もかかって技術を積み重ねてできた
言わば「海軍魂の結晶」です。
それを、ずぶの素人の陸軍が、しかも海軍に内緒で、ということは技術協力を全く仰がず、
ゼロから作ろうと言うのです。

ある陸軍省の人物は、

「東条さんから『海軍に相談すると、きっと反対されるから黙って極秘でやれ』
と言われたから」


と、2の理由を説明しています。


そして造船所という造船所で、海軍の息のかかっていないところは一つもない。
もちろん潜水艦のノウハウに詳しい人物も一人としていない。

誰が作る?どこで作る?どうやって作る?

もう出だしから暗澹たるこの状況。

しかし不思議なことに、この後1年で陸軍の栄えある潜水艦まるゆは、
できてしまうのです。

まるで漫画の4コマ目のようなこの進捗状況。

早稲田の理工学部を出ているというだけですべて任された
ある意味犠牲者とも言える塩見少佐は、
嘘か真か当初

「こうなったら木造でもいいんだ」

などというシュールなことを言われたそうですが、

この人の並々ならぬ頑張りが、無茶もいいところの計画を形にしたと言えます。
取りあえず。

製作に当たっては造船所が使えないので、

「潜るだけでいいんだから、水圧に強い円形にすればよい。

丸いものを作るのが得意な工場といえば、缶詰工場だ」

などという妙案も採用され、結果的にボイラー工場、機関車製造製造工場、
そして
鉱山機械の製作所などといった工場が選ばれました。

しかし、潜望鏡の製作は陸軍には勿論、民間会社にもお手上げです。
仕方なく、海軍にもらいに行きました。
内密であったとはいえ、事が動かしがたくなってから、
正式に陸軍は海軍のお偉方に説明し、要所要所での援助を仰ぎました。

「陸軍なんかに潜水艦はできん」と鼻で哂う海軍軍人も勿論いましたが、
見るに見かねたのか、同情したのか、陸軍が輸送を一端でも受け持ってくれれば、
我が方の負担も軽減するという考えか、海軍も次第に協力を惜しまないようになっていました。

しかし、中途半端に助けを求めるので、例えば
「設計図を見るとあまり役に立ちそうにないので、海軍の技官が

『こちらで設計し直した方がいいのではないか』
と提案すると


『もう材料を設計図に合わせて切ってしまったからどうしようもできない』


と陸軍は答えたため、それを使って何とかせざるをえなかった、
というようなこともあったそうです。


そして、完成。

またまたウィキペディアからの引用ですが


海軍関係者も招待して潜行試験が行われたが、(中略)試行錯誤を繰り返し、
やがて艦体はなんとか水面下に完全に没したが、今度は単に沈没しただけだった。
その様子を見て「落ちた(沈没した)」と見 学していた海軍が騒然となる横で、
陸軍一同は潜水成功と勘違いし、満面の笑みで万歳三唱する有様だった。

と、まるで陸軍側がお馬鹿さんであるかのように描かれています。
どうやら、これは少し「印象操作を誘う、厳密ではない表現」であるようです。

陸軍は、ゼロからの開発にあたって「西村式潜水艦」という、
民間の一水産業者の発明した、豆潜水艦を手本にしています。
西村一松という、学歴もないのに独学で船舶を建造してしまうほどの「才人」が
1929年、すでに自走性と作業性を持った世界初の潜水作業艇を自費制作していたのです。

この民間人は陸軍の嘱託として、この潜水艦建造に知恵を貸しており、
それゆえ試作品「まるゆ第一号」は西村式潜水艦と同じ、

「停止の姿勢でそのまま沈む沈降型」

で、浮いた姿勢からいきなり「すぽ~~ん」と潜って行きました。
陸軍側はもともとそのつもりですから「潜った、潜った」「大成功」と大はしゃぎ。

ところが、海軍の潜水艦は水上航走の姿勢から潜航に移るものなので、

「落ちた」「落ちた」
(沈没のこと)


と、見ていた海軍軍人たちは騒然となった、ということのようです。


もともと戦闘を目的としていないまるゆは一刻でも早く沈んで隠れられれば良かったのです。
早い話、「敵が来たときだけ水中に隠れることができる機能を持ったフネ」
を陸軍は作りたかったのですから。

海軍的には「常識では考えられない、危ない」というシロモノであっても、そして
その通り、その後技術的に問題百出であっても、
取りあえず、陸軍潜水艦「まるゆ」は船出をしてしまいました。

一体、これ、どうなるんでしょう。
当事者には申し訳ないのだけど、その無謀さに思わず涙ぐんでしまう、
この奇々怪々な陸軍潜水艦・・・・・。

当然予測される、まるゆに乗り込んだ人々の苦労について(そりゃ苦労も多かろう)、
また別の日にお話ししたいと思います。


それにしても、冒頭「青の6号」ですが・・・・・。

世界の国が一致団結して悪の組織に立ち向かっていく、というこの世界の構図の中で、
まずこの後予想されるのは、間違いなく大国同士の主導権争いでしょう。
そして補給や武器輸出、戦略や戦闘法で意見がまとまらず、
政治家や企業が絡み、次第に味方同士対立が深まっていくことは必至。


我が日本の帝国陸海軍が、互いを「敵国海軍」「敵国陸軍」と呼んだように、
きっとこの漫画の同盟国の間でも

「敵国日本」「敵国アメリカ」と相手を呼び合って・・・・・・・・あれ?






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腹話術で歌え君が代

2012-03-20 | 日本のこと

     

公立学校教師の卒業式における君が代不起立不斉唱問題。

学校の先生、という職業がいかに特殊であるかがわかる事例です。
彼らは国の組織である公立学校の教師でありながら、組合活動を学校に持ち込み、ビラを配り、
特定政党への支持活動を行い、国歌国旗を拒否する。
隙あらば思想信条を教育という形で生徒たちに刷り込み、誰からも糾弾されず
「それおかしい」と言われないのをいいことに、
自分たち以外の如何なる意見にも決して耳を傾けない。

学校を卒業して学校に就職し、学校しか知らない先生たち。
世間とは全く切りはなされ閉ざされた空間の中で、教条主義たる組織の思想にどっぷりつかり、
しかし「お山の大将」として生きていくうちにエゴが肥大して、そういう己の姿を全く客観的に、
あるいは別の視点で顧みることもない・・・・。


「学校の先生が日本を滅ぼす」という本を書いた、元校長先生がいます。
5年間にわたって「君が代」問題で組合の教職員と戦い続け、全く筋の通らない「お子様理論」
を振りかざし、ひたすら君が代日の丸に対するルサンチマンとも思える反発を繰り返す彼らに、
見事なくらいの冷静さと論理的な説得をもって「わかってほしい」と訴え続けた人です。

このブログで折に触れて言っているように、戦後の自虐史観は、全て戦勝国によって日本の
「牙を抜く」ためにプログラムされた「規定事項」です。
二度と大国アメリカに逆らえないように、物質的享楽の飴と共に日本人に加えられたのが、
この「ウォー・ギルト・プログラム」と呼ばれる洗脳システムだったのです。

連合国の占領政策のもとで、戦後の教育は「昨日までの日本」を否定することから始まりました。
「戦争を始めたのは日本だ。戦地で残虐に人を殺したのも日本人だけだ。日本は悪だ」
こういう教育を受けた人たちが大人になり、教師になって、愛国心を恥じなければならないような、
そして国を愛することが悪いことであるかのような教育を連鎖的に繰り返してきたのです。

たとえ学校でどっぷりとそういう教育を受けたとしても、社会に出て、世界を見れば、
そう言った考え方こそが異常であることに、大抵の心ある日本人なら気づきます。
しかし、先生たちは、学校という「お山」の「大将」で、現実の社会を知らないわけですから、
終戦後から連綿と繋がる戦後レジームを抽出したような空間に、むしろ安住しつつ、
「より濃縮された反日」のお先棒を担ぎ続けているわけです。

先の「学校の先生が日本を滅ぼす」の著者、一止羊大氏(もちろん仮名)は、組合の教師に
集団的な圧迫を受けた結果自殺したり、ストレスのため亡くなったりした校長たちのように、
自身もノイローゼから体を壊し、自殺も考えるような過酷な教師生活を送りました。
印象的なエピソードを一つご紹介します。

(国旗、国歌は戦争につながると主張する女教師に)
「戦争が嫌だという気持ちは私も人一倍持っています。
私の兄は海軍の予科練に入りわずか17歳で戦死しましたから」
そう言って、いつも肌身離さず持っている軍服姿の亡兄の写真を出して見せると、
彼女は信じられないことを言ったのでした。

「先生のお兄さんも侵略者だった・・・・・」
あまりにも貧しい知識に、わたしは愕然としました。

こんな話を読むと、現場での校長たちの苦難が心から思いやられるとともに、また、今回、
国歌斉唱のときには起立して歌うように、と、当たり前のことをお達しを出さねばならなかった
橋下徹市長の勇気と決断には、感嘆するしかありません。

ご存じのように、日教組は現政権である民主党の支持団体です。
「日教組に政治的中立はない」と言明した輿石氏が日教組出身であることは周知の事実。
「国旗国歌に背を向け、愛国心を持たせない教育」が日教組の目的であることは明白ですから、
政府民主党もまた、反国旗国歌、ひいては「反日」が党是になっていると判じるのが自然です。

そして、その現政権からの機密費と、これも反日国韓国の国家ブランド委員会からの
(韓流ごり押しに対する)キックバックでいまや糊口をしのぐ感のあるマスメディアもまた、
スポーツ大会の表彰式をカットするなどのあの手この手で「反国旗国歌」に貢献してきました。

あるいは、戦争ものを製作すれば何かと盛り込んでくる「日本が悪かった」的な自虐。
(先日などは全く戦争と関係のなさそうな『カーネーション』でさえ、息子が戦死した登場人物に
『テレビでいうてたけど、息子も(戦地で)酷いことしてたんやなあ』
なんて言わせているのには、呆れて口がふさがりませんでした。
息子を亡くした母が、いくら自虐洗脳テレビを見たとしても、こんなことを言うでしょうか)

そして、案の定というか、やっぱりというか、この「不起立先生」を報じるメディアの論調も
中立ぶってはいるけど、あきらかに彼ら寄りで、しかも庇っている風なのですね。

まず、反日反国旗国歌の雄、朝日新聞。
「国歌斉唱時に起立を強制したとしても、個人の歴史感や世界観を否定するものではなく、
特定の思想の強制や禁止、告白の強要とは言えない」
という、1月に出された不起立問題における最高裁判決を、
「個人の歴史観で見解が分かれる君が代をめぐり、最高裁は、職務命令で起立斉唱を
強制することに慎重な考慮を求めた」
と報じました。

ちょっとちょっと、どうしてこんなことになるの?
全く意味が裏返ってしまってるんですけど。
国語の読解力テストに出された答えだったら、ペケですよ。
読解力テストは朝日新聞の社説からよく出されるって威張ってるくせに、これ、まずくない?

これは、あれですか?朝日新聞の社是、ってやつがあって、それを強く信じ込んでいるもので、
どんな判決も自分たちの都合のいい主張に聞こえてしまって、間違えたってやつですか?
それとも、単なるミス・リードかな~?

お次は、これも安定の反日報道バラエティ、報道ステーション。
例の「歌っているかどうか口許チェック」を、規定のものになったような印象操作をしたうえで
お飾りの女子アナ(笑)が、小賢しくも
「私がこの日の卒業生だったらいやな気分になっただろうなと思うんですよね。(略)
高校生活を締めくくる人生の門出の日を抜き打ちチェックの日にしてほしくないし、
口許のほかに見るものがあるんじゃないかと思いますけれどもね」

口許チェックのため目をギョロギョロさせているような映像を流され、
言わば橋下独裁の印象操作に使われた校長は、この発言に強い不快感を表しています。

わたしがこの日の卒業生だったら、いやな気分になっただろうなと思うんですよね。(怒)
高校生活を締めくくる人生の門出の日を、先生の思想信条発露の日にしてほしくないし、
君が代を歌わないことで思想開陳なんてことよりまずやることがあると思いますけれどもね。


そして、〆は本日画像。

「ルールを守らせるということはこういうことですよ」

橋下市長は監視を絶賛した。
弁護士の資格を持つ校長は学生時代からの友人だそうだ。
もし「口が動いていなかった」と校長室に呼ばれた人が「腹話術だった」と主張したら認められるか。
弁護士さんに相談したい。
(北海道新聞)

・・・・・・・・・。


これ、新聞の社説ですよ。ブログとか学級新聞じゃないのよ?
どうやら、不起立そのものに対して庇う要素があまりなく、世間の風も
「いやなら公立の教員やめろ」「卒業式を思想信条の闘争の場にするな」
などと、不起立先生に厳しいので、「口許チェック」という、格好の「重箱の隅」を見つけて、
舞い上がってしまったようですね。


記者氏には、弁護士ではありませんが、それほどの問題でもないんで、わたしが相談に乗りましょう。

仮定1
「ああ、慈安奴先生、国歌斉唱のとき、歌いました?」
「歌っていました。腹話術で歌っていました」
「まだあなたうまくなくて聞こえません。口をあけて歌ってください」
「はい」→解決

仮定2
「ああ、樽久先生、国歌斉唱のとき口空いていませんでしたが」
「歌っていました。腹話術で歌っていました。聞こえなかったんですか」
「聞こえていましたが、不思議なので尋ねただけです。そうでしたか」→解決

仮定3
「ああ、佐沃先生、国歌歌ってませんでしたね」
「歌っていました。腹話術で。隣にいたのは実はわたしの人形です」
「卒業式は隠し芸の発表の場ではない」→解決

仮定4
「ああ、赤井先生、国歌斉唱のとき、歌ってませんでしたね」
「歌っていました。実はわたし副業で腹話術師もしてるんです」
「先生の副業禁止」→解決



このいずれかのパターンで終わると思います。
メディアがどんなにこの件で「不起立のジャンヌダルク」なんていう不気味なアイドルを
捏造してイメージアップを図ってみたところで、世間一般の彼等に対する意見の大半は、
橋下市長がツィッターで言ったという

「バカ教員の思想良心の自由よりも、子供たちの祝福が重要だろ!」

この一言で終わっていると思いますよ。ええ。

教育は国家百年の事業。
こんな教育者がいる国が、独立国としてこれから先も存続していくとはとても思えません。
民主党は公務員の新規採用7割カットするらしいし、なりたい人はいくらでもいると思うから、
不起立不斉唱先生は、全員クビでいいよね。
国歌を一生歌わなくてもいい職場はいくらでもあるから、転職すれば八方丸く納まるし。

まあ、こういう先生たちが有能だとはとても思えないし、
企業が雇ってくれる可能性は、いろんな意味で限りなく低いでしょうけど。


 

 

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「桜花」と新幹線

2012-03-19 | 海軍



東京―大阪間の所要時間を短縮し、国民の脚となって20年。
のぞみ300系が引退するというニュースが先日報道されました。
開業以来大事故ゼロ、日本の技術力の誇りの象徴ともなった新幹線ですが、
この技術には海軍の航空技術が大きくかかわって生まれたということをご存知でしょうか。

第一次世界大戦以降、旧海軍は航空技術を発展させるべく航空技術廠に優秀な技術者を集め、
さらにその向上を図って世界中からトップクラスの学者や技術者を招聘して教えを受けました。
航空試験用の大風洞の建設に携わったドイツのウィーゼルベルガー博士、そして
飛行艇の開発用の試験水槽を作るために呼ばれたやはりドイツのケンプ博士などです。
航空機の速度が向上するに従い、超音速現象に対処する研究が求められるようになると、
フランスからマルグリス博士を招聘してその指導を受けています。
マルグリス博士は、その他にも大砲の弾道研究で有名になった学者でした。

このように海軍が航空技術開発のために多大の努力を払った結果が、名機と言われた多くの
航空機の誕生につながるわけですが、それも教えを乞う側の水準の高さあってのことでした。
しかし、海軍という組織だけでは到底航空機の研究を全て把握しきれるものではありません。
山本元帥が海軍次官時代に、航空機の各部門にわたって深く基礎研究をするための機関、
中央航空研究所が、山本次官の尽力もあって誕生しました。

しかし、中航研が建設と技術者の教育を経て研究に入り、
その緒につき始めたところで終戦となります。
日本の技術力を恐れるGHQが、当然のようにここにも圧迫を加えてきたうえ、
終戦後の政治的混乱のために研究所はあらゆる困難に遭遇することになるのですが、
初代所長、花島孝一の決死的な努力が政府を動かし、
運輸省の技術研究所として残ることが決まり、空技廠の技術者たちは、
陸軍航空研究所の技術者とともに、新たに設立された鉄道技術研究所に迎え入れられます。

当時の鉄技研の所長の
「優秀な技術者は10年、20年たたないと育たない。
軍の無くなった今、この人たちを散逸させてはならない」
という卓見も、これらを後押ししました。

GHQの命により、中央研の技術者にも航空に関する研究は禁止されました。
研究員はもっぱら運輸技術の向上のために黙々と地味な研究を続けざるを得なかったのです。

米軍から当初戦闘機と誤認され「Francis」という男性名のコードネームを付けられて
その後、爆撃機と判明した後に女性名である「Frances」になった、
長距離爆撃機「銀河」の設計に携わった三木忠直という海軍技術少佐がいます。

銀河設計を終えた後、ロケット機、ジェット機の研究に進んだところで終戦を迎えました。
海技廠にいた三木も鉄技研に迎えられ、そこで電車の研究に方向を転換します。
飛行機設計技術者として、ここでまず何をなすべきか?

三木はまず車両の軽量化に取り組みました。
その頃、日本の鉄道網は荒廃し、それを復興することで精いっぱいといった状況でしたが、
昭和25年ごろ、復興も進み、そういったことにも目が向くようになってくると、
飛行機の設計、研究、試験の手法を用いた具体的な研究がより後押しされました。
三木は、昭和30年に、世界でも最も軽い部類に入る軽量客車を完成させます。

飛行機に使われていた応力外皮張殻構造の様式を導入した、その丈夫な構造は、
一般電車にも広く用いられるようになり、私鉄電車、国鉄(当時)の特急「こだま」、そして、
この後開発の始まる新幹線は全てこの構造様式が採用されることになりました。

飛行機屋の三木が、軽量化に並行して探求したのが鉄道車両の速度の限界でした。
この頃には日本も独立を認められ、経済力も回復に向かい始めていました。

当時、国鉄の特急「つばめ」は東京―大阪間を8時間、最高速度95キロでした。
欧米の輸送交通体系は飛行機、そして車となり、日本もこのあたりから鉄道斜陽論、
そして開発に対する消極論が国鉄内部からさえ出てきます。

現在アメリカが長距離移動を飛行機に依存しているように、このとき三木がいなければ、
新幹線は生まれず、日本も国内の移動は全て飛行機、という国になっていた可能性もあります。

昭和28年9月。
三木は、狭軌でも車両を軽量化し、重心を重くした流線型にすれば、
東京―大阪間を4時間半で走ることは十分可能であるという研究結果を発表しました。
空港を使わねばならない飛行機に、都心から都心まで直結すれば十分に時間でも対抗できる、
ということであり、これは国鉄の朗報として大きく報道されます。
一方この発表はある意味当時の常識を破るものでもあることから、種々の非難も出ました。

鉄道ファンである作家の阿川弘之は、
「こんな時期に超特急など、第二の戦艦大和となって世界の物笑いの種になる」
とまで言ってしまい、後に自分の不明を悔やむ発言をしています。

しかし、この発表は運輸省から研究課題として採択され、補助金が出ることになります。
そして上記の記事に注目した人物がいました。
実業家の五島慶太です。
さっそく、小田急電鉄のロマンスカーの設計を三木に依頼し、その試運転では、
狭軌としては世界新記録となる最高時速145キロメートルを記録しました。

この実験は、小田急という私鉄の電車車両を国鉄の線路上で走らせるという
前代未聞の、今なら到底実現不可能と思われる計画でした。
しかし、国鉄の首脳部、特に当時の十川国鉄総裁は、
鉄道技術の発展のためという大局的観点から、これを快諾したと言われています。
この実験の成功は、一気に長距離特急列車の実現性に推進を与えることになりました。

昭和32年、、三木は
「超特急東京―大阪間三時間の可能性」
という演題で鉄研の他の3人の技術者と共に講演を行いました。
これこそが「夢の超特急新幹線」の真の基(もとい)をなすものでした。

当時の国鉄技術首脳部には消極論や反対論すらありましたが、国鉄の、つまり日本の
近代化技術革新に非常な熱意を持つ十川総裁の鶴の一声により、計画は進められます。

昭和32年、8月。
運輸省に日本国有鉄道幹線調査会設置。
昭和33年7月、東海道新幹線を五カ年計画で建設し、その車両性能は
「東京―大阪間三時間」を目標とすることも正式に決定しました。

ところで、終戦直後の日本のGDPをご存知でしょうか。
アメリカのわずか数パーセント、戦前の技術国も尾羽うち枯らせて今や発展途上国並みです。
この状態の日本が新幹線を造るためには、他のインフラ整備に充てる資金と同じく、
世界銀行からその費用が融資されねばなりませんでした。

余談ですが、日本がこの低金利とはいえ巨額の借金を返し終わり、
名実ともに被援助国から卒業したのはなんと1990年。
世間がバブル経済に突入する頃、ようやく日本は「途上国」ではなくなったと言うことです。
「優等生で誠実な」日本が、世銀に着実に返済を続けたにもかかわらず、
これほどの時間がかかったのは、戦後日本が負った負債の大きさを物語っています。


三木は、終戦直前に実戦投入されたロケットエンジン機「桜花」の開発者でもありました。
自分の開発した特攻兵器で多くの若者たちが戦場に散って行ったことに対し、
悔悟の念を持っていた三木は、戦後すぐ洗礼を受け、クリスチャンになっています。

ウィキペディアには、「プロジェクトX」で語った、

「とにかく戦争はもう、こりごりだった。だけど自動車関係に行けば戦車になる。

船舶関係に行けば軍艦になる。
それで色々考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ」

という言葉が挙げられ、戦後の鉄道界への転身を「軍事嫌い」ゆえと判じています。

勿論その真意を否定するものではありませんが、水交会に寄せられた三木自身の随筆に
「翼をもがれた私は」
という文言が見えることや、海技廠の面々が、悉く航空機研究を禁じられた実情から鑑みて、
三木忠直が飛行機に決別をしたのは、己の意志によるものだけではなく、眼に見えない流れが、
彼をして、新幹線を造らせるために、そこに連れていったようにも思えるのです。

科学者たちが真理を探求する情熱は、その成果が軍事利用され得ることが少なくありません。
オッペンハイマー博士の例をひも解くまでもなく、それが、
国や勝利のためというより、「純粋に科学を極めたい」という本能から研究に打ち込む彼らを、
結果として道義上の葛藤に陥れることが歴史上繰り返されてきました。

三木忠直もその一人であったわけですが、不可能だとさえ言われた夢の超特急を
戦後わずか19年後、日本の国土に走らせることに成功し、
それから半世紀、日本の技術力の誇りとまで称された新幹線の生みの親として、
三木は十分に償いをしたものと、わたしは考えます。

そして、新幹線の造設にあたり、中技研、陸技研、海技廠のもと技術官を積極的に集めたことで、
国鉄は旧軍の技術力を究極の平和利用に昇華させる一助を果たしたとは言えないでしょうか。

日本の存続とその発展をせめて願いつつ往った幾多の英霊たちも、
自分たちの乗った飛行機の技術が、戦後平和な時代にこのように形を変えて発展したこと、
そしてその運用技術が「安全神話」とまで言われるほど、恒常的に維持し続けられていることを、
冥界でおそらく眼を細めて見ているのではないかと信じます。







三木は昭和39年の手記で
「(新幹線の速度は)記録としては300キロも超せようが、
実用的には250キロが現在の形態の鉄道としては
おそらく限度であろう」
と述べています。

新幹線、のみならず世界中の高速列車の生みの父とも言える三木忠直は、
2005年、九十六歳の長寿を得て亡くなりました。
新幹線が開業して半世紀。
N700系の導入で300キロまでの最高時速が可能になり、
さらにリニアモーターカーが、2003年には世界最高時速を記録しました。
その実験速度、時速581キロメートル。
東京―大阪間を一時間台で走る速さです。

その「夢のような」スピードは、晩年の三木の目にどのように映っていたのでしょうか。



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国会劇場「田中くんと山本くん」

2012-03-18 | 日本のこと



平成24年3月12日参議院予算委員会における、自由民主党立ちあがれ日本の
山本一太議員の、田中直紀防衛大臣に対する簡単な質疑を、淡々と書いてみました。
あのー、とか、えー、とかは省き、ポイントだけをセリフにしました。
この日の質疑をご覧になっていない方、マスコミがひた隠しにする野田内閣の
「適材適所」「最強の布陣」ぶりをご堪能下さい。

「田中くんと山本くん」(全二幕)

出演:

防衛大臣(もどき) 田中直紀
    
質問者 山本一太

副音声 西田昌司

議事進行阻止係 磯崎陽輔(常時出演)

日本語通訳 石井一

内閣総理大臣 野田佳彦

眠る閣僚1 小宮山洋子

眠る閣僚2 自見庄三郎


第一幕Q「F35Aが調達できなかったら日本の防衛体制にどんな影響があるのか?」

   A「困る」



山本「来年度の防衛予算について、次期戦闘機F35A調達予定となっていますが、現状はどうなっていますか」

田中「秋までには契約する予定で600億の予算を組んでいます」

山本「何機調達予定ですか?」

田中「42機です」

山本「いつまでに、どんなスケジュールで購入するのですか」

田中「4機は本年の予算で、12機は平成27年までに、残りは10数年以内に調達予定です」

山「引き続き10年のうち?何年までという目標というものはないのか」

田「我が国の企業も参加していただきながら、ということなので決めていない」

山「日本の安全保障の空の中核となるのに、まだ決まっていないのか」

田「12機は27年度に、それ以降は決めていない。アメリカの生産状況もありますから」

山「防衛大臣が主力戦闘機の配備計画の詳細も説明できないのか」

田「これから契約をするわけで、機種も変更することもありうる。
   真剣に注視して契約に取り組んでいる」

山「アメリカと交渉して、その約束した時期までに決まらないと契約を取りやめか機種変更か」

田「契約を厳守してもらわなくてはならないが、これからの契約なので中止もありうる」

山「中止もありうるというが、スケジュールが何故変わったのか」

田「アメリカの国防政策が発表され、、アメリカはF35を減らす方向に戦闘機の生産予定が変わった。
しかし契約は順守していただくべく努力する」

山「F35は機体の高騰、中止も最初から懸念されていたのに、読みが甘かったということか」

田「アメリカは製造して納入すると言っている。現場の契約を守るという返事も聴いている」

山「確実だと言うなら、中止するかもしれないなどと何故言ったのか?」

田「契約までには数カ月あるから、最終的にできないという可能性もあるということを言った。
 何ごとも守れるか守れないかは努力次第だ。
(何故そんな質問をするのか全く分からないといった調子で)
 なんらおかしいことはないんだと思いますよ?ええ」

山「もし調達が取りやめになったら、日本の防空体制にどんな影響があるか?

田「F4が老朽化したので、新しい機種を購入するということになった。
  アジアの安全保障は不安定なので、我が国の専守防衛のためにも機種購入をしたい。
  購入できないことによって防衛力が低下してはいけないので、進めている」

山「質問に答えていない。
  F35Aを購入できなければ、日本の防空体制にはどのような影響があるか、具体的に」

田「我が国の防衛体制においても最新鋭の機種を購入することによって防衛力を強化するのは
  時代のながれであるからさらなる防衛の強化を図っていくということで購入するということで・・
  それでは先生もですね、防衛力の強化を図っていこうということでお話されておるんだと
  思いますが、私はそのために、防衛力の強化のために、これは、採用するということで、
  しておるわけでございます」

(議会内は『答えてない』『質問の意味分かってるのか』などのヤジが飛ぶ。
自民党はじめ野党議員が委員長席に進む)

―中断―

田「あの、簡単に申し上げます・・購入できなくなると、現機を有効に活用することになるわけですが、
  やはり最新鋭のF15を購入することによってわが国の防衛力はさらなる強化を図れる、
  ということでやっているわけで(自分で強くうなずく)

(山本議員、自席から『だから買わないと具体的にどんな影響があるのですか』)

 田「・・・・ 防衛力の強化に支障をきたすと認識して居ります」

―中断―

田「購入できないと、老朽化した機種を有効に活用することになるが、
  やはり最新鋭の機を使うことで我が国のさらなる防衛力の強化になるということです」

―中断―

山「分からないなら分からないと言ってください」

―中断―

議長、民主党石井一「機種を変更する場合、或いはその可能性についてあなたが触れたので、
   その場合は日本の防衛がどう変わるのかが質問ですから、
   それに答えていただきたいと思います」

田「現在の周辺国の状態からしても、我が国の防衛力を強化していく必要があるわけでございますし、今保有する機種は相当老朽化しているので、最新鋭のF15を購入すると。
 これができない場合には、やはりそれは周辺国との関係で、我が国の防衛力がおとる、という状況になるわけでございますが、で、新たな機種を購入して、我が国の防衛力が他の国より劣らないように、従いまして購入できない場合にはわが国の防衛力が、それは、他国に比べてですね、あの、劣ると!!劣って行くということを危惧して居るわけでございます」

山「どう劣るのか、具体的な事実で教えていただきたい

田「世界はステルス製の状態もあるわけですから、F35Aは最新鋭の機種でありますので、
専守防衛に取ってですね、やはりその、非常に必要な状況にあるということでございますので、
私は、この、機種を偏向していくのは、世界の安全保障の中で、時代に遅れないように、
わが国の防衛力を整備していくということで、非常に大事な機種選定であると認識し
努力していくと・・。仮に購入できないというようなことは考えていないので、
全力を挙げていると御理解いただきたい」

―中断―

石井委員長「適切にお答えください」

(議場より『深刻な事態が起きてるんだぞ、あんたの答弁で!』)

田「防衛大綱で購入することがすでに決まっているわけです。
  その中で このほかにF15の老朽化したものを、できるだけ早く新しい、
 世界で使っているような機種に変えていくと、こういうことで進めている。
 購入ができないと防衛力に空白が生じる。いま、この機種を購入する努力をしている」

田「申訳ございません、契約に至るまで全力を挙げるので・・・
  中止になると言ったのは、言葉が不足したかもしれないが、
  いま日米で努力しているので誤解を与えたら申訳ない」

―中断―

議長「質問者は、F35Aを購入できない場合の我が国への防空体制への影響を、
    具体的に挙げろという質問をしています」

田「契約に向かって努力している。万が一は考えないできているが、質問があったので、
  そういう場合があったらどうするのかという質問があったので、万が一のこともあったので、
  もし契約できなければ困る、ということで」

―中断―

田「購入できなかった場合どういう影響力があるかというご質問ですが、残念ながら、
  現在の機種は老朽化しているので、全力を挙げて購入する努力をしたいと
  思っているところでございます」

―中断―

議長が、閣僚は席に着いたまま10分間の休憩を命じる。
この間、音声はストップ。
田中大臣は、質問の答えを官僚に書いてもらい、その紙を丸読みする。

田(得意そうに)「あえて言えば、パワーバランスに変更をきたすということでございます。
  日米協力で防衛に支障が起こらないようにしたいと思っています」

山「これ以上どうフォローしていいのかわからないので次の質問に行きます。
購入できなかった場合、何を購入予定ですか

田「きまっておりません。その事態を想定していません。これから考えていければと思っている」

山「F35Aが買えない場合の代理の機種も考えていない。
 野田総理、これでも田中防衛大臣は適材適所ですか。最強の布陣ですか」

野田「適材適所です」

(第1幕終わり)


第二幕Q「購入を取りやめることもあるのか」A「4機で600億の予算を組んでいます」

山「田中大臣、F35Aが一機99億以上になったら購入を取りやめるのか

田「4機で600億の予算で検討しています」

山「99億以上になったら調達をやめるのか

田「4機で400億ですが、運用費があるので全部で600億で」

―中断―

議長(イライラして声を荒げながら)
  「質問者は簡潔に答弁を求めています。
  購入をやめないならやめない、やめるならやめるとはっきり言ったらいいじゃないですか!」

田「はい、はい、(ぺこぺこする)ありがとうございます。(議長に向かって)
これは交渉事でありますから99億になっても4機600置くと言う中でやって行くということですが、
これは、わかりません!ただ、(なぜか笑いだす)努力を!
努力をしていくということでご理解を頂きたいと思います」


―中断―

田「前提は交渉事でございますから」

(以下延々とループ。怒号が乱れ飛ぶ)

山「あなたのお人柄はよくわかっている。一生懸命やっていることも分かるが、
 国益を考えた場合、あなたには一刻も早くやめていただきたい。
 ここでやめると言っていたげませんか」

田「私は業務に真摯に取り組んでいく覚悟でございます」

山「あなたは自分でこの国難のときにある日本の防衛大臣としての自信があるのか」

田「先生のご指摘をうけて粉骨砕身努めてまいるつもりです。
  全力を挙げて努力をしていくことをお約束を申し上げます」

山「自信があると言えないんですね。
  おやめになるとおっしゃらないのなら、参議院のどこかで失格の通知を突き付けるしかない」


(怒号のうちに幕下りる)


周辺国の皆さんへ。
日本に攻め込みたかったら、この防衛大臣の任期中がチャンスかも





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Hoading~汚部屋克服物語

2012-03-17 | アメリカ

          

アメリカの「視聴者参加型覗き見趣味的優越感煽りタイプ」のあざといテレビ番組には、
先日少しご紹介した「Toddlers and Tiaras(幼児とティアラ)」のようなものもあれば、
今日ご紹介する「Hoading」という「ビフォーアフター系」のものがあります。

このHoadingとは、もともと「貯蔵する」「秘蔵する」「買いだめる」などという意味なのですが、
この番組はありていに言うと「ゴミ屋敷の住人を改心させる」という番組。
日本語に訳すなら「ため込み屋さん」というタイトルと思っていただければいいでしょう。

実際は、もう手のつけられなくなった本人はもとより、回りが見るに見かねて「通報」してくるケースが
多く、「ため込み屋さん」なんてかわいいもんじゃないレベルが殆ど。
アメリカ人はほとんどがこの番組をよく知っていて、おそらく近くのゴミ屋敷を見て
「誰かHoadingに連絡したらいいのに」とか、片付けられない子供に向かって
「Hoadingに電話するわよ」
なんて叱り文句にその名を入れるであろうくらい、有名な番組です。

Hoadingという言葉自体が、その実態よりかなりマイルドな表現と思えるくらい、
大抵の、この「汚部屋」のレベルはすさまじく、一度など、ガラクタの下の方から
干からびてペチャンコになった猫の死骸が出てきた回には、さすがのアメリカ人たちもびっくり。

しかし、これを見て、つい『テレビ局のスタッフがこっそり仕込んだやらせではないか』と
思ってしまったわたしは、部屋ではなく心が汚れているでしょうか。
だって、住人は全く気付かず、せんべい状の猫をぺラッと見せられ『全然気が付かなかった』
なんて驚くんですよ。
いくらなんでも臭いで気づかないかなあ・・・。

この番組は視聴者参加型ですが、当の本人が参加したいと表明してくることはめったになく、
(そのくらいの人であれば自分で掃除もするでしょうし)
たいていは娘や孫、周りの人々が「見るに見かねて」番組に申し込んできます。


くたびれ果てた風の汚部屋住人と違い、こちらは血縁でありながら大抵「まとも」。
今回の依頼者は、住人の娘。


今回の汚部屋住人Aさんと、その夫。
娘さんの言っている「ロス」とは、彼女が母親を死去で失った後、
喪失感で何もする気が起きなくなったことを指しています。
住人のAさんが言っているのもまさにそれで
「母にできるものなら電話して『わたしを忘れて』と頼みたい」と言っています。

こういう精神状態の人は「自分で何とかしよう」という方向に向かないのかもしれません。
あくまでも他力本願です。
しかし、相手は死んでしまっているわけで・・・・。

右の夫は、もう妻に愛相をつかして、離婚を考えだしているという段階。
娘さんが依頼に踏み切ったのもこういう切羽詰まった状況になったからでした。



このAさんの場合、まだしも一片の心は残っていて、積み重ねた服にこうやって一応布をかけ、
通路を確保しています。
猫のミイラが出てきたり、テレビで映せないほどトイレが汚かったり、というような、
「生理的に堕ちるところまで堕ちた」というタイプではないのが、救いと言えば救いでしょうか。

アメリカでは何かとモノが安く、このAさんもいろんなものを出かけるたびに買いこんで、
それを値札も付いたまま放置しています。
それにしても、この番組を見て思うのですが、汚部屋住人の圧倒的な特徴として、
特に女性は、でっぷりと太っている人がほとんど。
「片付けられない女は太る」
という本が昔あったようですが、やはり、因果関係があるのかもしれませんね。



もうやる気のないのと、どうしようもない状態に茫然としている態のAさん。
スタッフに説明しながら、泣いてしまいます。

この番組の進め方として、「いかに部屋が乱雑かいやというほど紹介し、
回りと本人の「何とかしたい」という切なる訴えを取り上げた後、いざ!という感じでプロ登場。


まずは、正式にはどういう立場でどういう仕事なのかは知りませんが、
心理カウンセラーの診察を受けます。
彼女の苦しい気持ちや置かれた苦境などに耳を傾けたうえで、ため込むことに意味があるのか、
本人に考えさせ、そののち初めて「捨てていく」ということを納得させていきます。
このあたりはさすがに専門家。

一つのバッグを手に取り「これ、いつ買いましたか?」「気にいってる?」「使ってないけどなぜ?」
などと質問していくと、Aさんは
「よく考えてみると、もういらないわ」(画像)などと言いだすのですね。
もともと「これが欲しい」と思って買ったものではなく、
何となく買い込んでしまったものなので、思い入れも何もないわけです。



次に登場していくのが「片付けのプロ」、オーガナイザー。
住人がためらうのを叱咤し、命令口調で全てをバンバン捨てていきます。
この際、Aさんの泣きごとには一切耳をかさず、非情の片付けマシーンとなって、
部屋のものをどんどん捨てていきます。

ところで、どちらかというとわたしは何でも捨ててしまいます。
何もない空間に限りなく落ち着きを感じる「持たない派」でもあり、
捨てることで限りない「爽快感」と高揚を感じるタイプです。
つい『この仕事やってみたい』と思ってしまったくらいです。



ここで、写真に取り損ねましたが、「GOT-JUNK」と大書きしたゴミ回収会社のトラックが、
全てを運んでいきます。電話番号も勿論トラックに書いてあります。
これ、スポンサーでもあるんですね。なるほど。

すっかり床が見えるようになったAさんの部屋と、何と「やる気になって」
クッキーを作るまでに立ち直ったAさん。
どうでもいいけど、このクッキーは甘そうだなあ・・・・。

成功にはこの「オーガナイザー」というところの「必殺片付け人」の功績も大ですが、
中にはオーガナイザーもたじたじの手ごわい人もいます。

若い時はけっこうイケていたのではないかと想像されるこのおばちゃんですが、


お洋服積み重ねのAさんと違い、こちらはもう、部屋がカオス。
何でもかんでも積み重ねてしまっています。


こんな部屋の中で生活しながら、やたらメイクが丹念なおばちゃん。
やっぱり、若い時はちやほやされてたんでしょうね・・。



娘さんが見るに見かねて、フィアンセと共にマスク着用の上ゴミの山に挑みますが、
あまりの長年のごみの体積ぶりに、挫折。
素人では手に負えないと、ごみの山に腰掛けて、つい泣きだしてしまいます。

・・・・が、ここのところもやらせであると勘ぐったわたしは部屋ではなく心が(略)


いつも通り、オーガナイザーが登場、ゴミをどんどん捨てている最中、
説得されたはずのBさん、怒りだしました。
「わたしの大事なものばかりなのに、皆で寄ってたかって捨てる気?」
もの凄い剣幕でみんなに食ってかかります。
呆然とするスタッフと家族。

このBさんをなんとか説得し、取りあえず部屋は片付いたのですが、


しばらくして汚部屋を訪ねると、(これも番組のパターン。だいたい半年後)
先ほどのAさんはクッキーを焼いていたわけですが、
このBさんの部屋は・・・・



あらら、またもとに戻りつつあります。
まるで形状記憶合金のように、直しても直しても元に戻ってしまう。
Bさんの場合、部屋よりBさんの心の中をなんとかしなくては、
おそらくBさんが死ぬまでにこのループは繰り返されるのかもしれません。



このCさんは今回一番「うまくいった」例。
もともと崩壊レベルまでの「ため込み屋さん」ではなく、親子の関係も上手くいっていた、
というのが成功の原因だったかもしれません。



とはいえこの惨状。
この人もかなり太っていますね。
AさんやBさんほどではないにしろ、どこに何があるか分からなくなっている、立派な
「汚部屋」です。

親子そろってカウンセリングを受けています。
この家族はヒスパニック系ですね。
そして「何とかしなきゃ」と思いつつもこのようになってしまって、心を痛めていたCさん本人も、
一生懸命な娘のためにも、と心機一転、がんばった結果・・・。


片付けられてあらびっくり、なんと部屋にはグランドピアノがあったんですね・・・・・。

しばらく(半年後くらい)に再びテレビカメラが入ったときにも、Cさんのお部屋はきれいなまま。
なんと、ピアノの上に花を飾るほど余裕もあります。
訪れた娘一家、みな驚き、感激します。


新しい人生を祝して。(というテロップ)
Cさんはテレビに依頼して片付けてもらったのがきっかけとなり、全てが変わったようです。
このように、この番組が「綺麗を保つためのエンジンスタート」のキイになる例は多いのかもしれません。

因みに、わたしは家を定期的にプロの手で掃除をしてもらっていますが、
これは「自分がやらないからやってもらう」のではなく、
「その状態をずっと保つためのやる気を高める」ため、
と考えています。

澱がたまって行くように、毎日の掃除では気づかない汚れがどうしても蓄積していくものですが、
たまにプロの手ですっきりさせてもらい、気分を良くしてさらにそれを維持するわけです。
こういう「キレイの連鎖」は、はまると病みつきになる傾向にあります。
Hoadingでプロの手にかかるのと、ある意味同じような効果があると言えましょう。

レールを「キレイを保つ」方向に向けるきっかけとして、一旦生活をリセットする試み。
ヘタな心理カウンセラーより、ずっと人生そのものを改善する効果があるかもしれません。











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WAR HORSE 「戦火の馬」

2012-03-15 | 映画

         

絵を描いていて泣いたのは初めてです。
映画「戦火の馬」のこのモブ・シーン、実はこれは左端の一部分。
元々はこの4倍、右側に馬と兵士が連なっていました。
9分仕上げて、あと一息、と思ったその時。
国会中継を同じパソコンで聴きながらやっていたせいでしょうか。

いきなり、画面がブルーになって、それまで仕上げた部分が
全て消えてしまいました。     orz ←リアルこれ

よりにもよって、なんだってこんな大作を描いているときに、天は我を見放したもうか。
いつもの数倍時間をかけた、労作が、まさに一瞬で・・・。
「ひえええ」と絶叫後、しばし呆然としてから、しみじみと落涙したエリス中尉でありました。

しかし、不幸中の幸い、虫の知らせというのでしょうか、
いつもはあまりしないのですが、約2割できたところでセーブしていたんですね。
左から順番に描いていったので、本日画像部分だけはわりと仕上がっていたのです。
しかしもう一度同じことを一日かけてする気には到底なれなかったので、
できている一部分だけカットしてアップしたのが本日画像。

なぜ、こんな苦労をして画像を描きたかったかというと、このシーン、
第一次世界大戦における騎馬隊の戦闘シーンにいたく感動したからで。

先日、息子とこのスピルバーグ作品「戦火の馬」WAR HORSEを観ました。
乗馬をやっている知り合いの熱いおすすめによるものです。

1910年、イギリスの片田舎。
ある日、頑固な父親テッドが、地主と張り合って農耕馬ではなくサラブレッドを買ってくる。
ジョーイと名付け、愛をそそぐアルバート。
しかし、豪雨のため作付ができなかったテッドはジョーイを軍馬として売ってしまう。
ジョーイは第一次世界大戦中の戦場へ。
戦地で生きる様々な人々とかかわっていくジョーイ、そして出征したアルバートとの再会。


という話なのですが、ジョーイをナラコット家から買った英軍中尉の騎兵隊が、
朝一番の奇襲をドイツ軍の駐屯地にかける、これが本日画像のシーン。
これ、凄いですよ。

このころの騎馬隊の訓練が、映画には描かれています。
サーベルを正面に構え一列に並んだ隊が一斉スタート、
ゴールには人間の首の高さにブルーの輪がかけてあります。
一番早く到達した騎士はその輪をサーベルの先に掛け、名乗りを上げる。
まだまだ一次大戦初期は騎士道的戦いをしていたということが描かれています。

突撃ー!となったら、これもやはりサーベルをまっすぐ構え、
馬が隠れ人しか見えないような高く茂った草むらの中を大隊ごと全力疾走。
仲間同士で事故は起こらなかったのだろうか?
前にいる人をサーベルでつついてしまったりしなかったのだろうか?

しかし、そんな心配をしている場合ではなかった。
朝駆け早討ちに驚くものの、さすがは技術国ドイツ、
陣地後方にはちゃんとマシンガンを設置して敵襲来に備えているものだから、
騎馬隊はバタバタと倒されてしまいます。
つまり、画像の人も馬も、この直後に草原を血に染めて死んでゆく運命なのです。

第一次世界大戦は、初期の頃はまだ白兵戦が多々行われたのですが、この映画で
騎馬隊が全滅させられるように、普及しだした機関銃によって一個大隊が瞬時に全滅、
というようなことが起こりだしてからは、レマルクの「西部戦線異状なし」にも描かれた
「遠戦」そして「塹壕戦」が主流になるわけです。

この映画では、馬のジョーイが戦地に赴いた大戦当初の頃と、
のちに主人公アルバートが徴兵される頃の戦況の変化にそれがあらわれています。

アルバートが赴いた戦線では、塹壕にアルバート一人が残され、
「命を惜しんで逃げて塹壕に戻ってきた兵士を撃ち殺す係」を命じられます。

主人公が塹壕で戦死した日、隊長の日誌に書かれた一言、「戦線異状なし」。
これがレマルクの小説のラストシーンですが、
この頃から人間一人の命がより軽く扱われる、
より非人間的な戦争をする時代に突入していったわけです。

因みに主人公役のジェレミー・アーバインは、第一次世界大戦中多くの兵士が患った
「塹壕足炎」(長い間泥につかることでなる凍傷のような炎症)にかかってしまったそうです。



それにしても、この映画、馬好きならずとも動物好きには是非観ていただきたい。
馬がね・・・・演技するんですよ。まじで。

冒頭画像のいちばん右にいるのがジョーイなのですが(冒頭の事情により前半身だけ)
その左側を走っている黒い馬が、ジョーイの「戦友」。
突撃の後捕獲され、ドイツ軍の手にわたってしまったジョーイと黒馬は、
丘の頂上まで大砲を運ぶ過酷な労働に使われます。
潰れた馬はその場で射殺。情け無用で馬を使い捨てする非情のドイツ軍。
(スピルバーグって本当にドイツ嫌いなのね)

驚異的な体力を持つジョーイと違って、疲労で死にそうな黒馬を兵士が駆り立てようとすると、

「おれがやる!そいつをはなしてやってくれ!」

とジョーイが労働を買って出るんですよ。(涙)
これ、本当に演技してるの。見ていただければわかります。
このシーンを見て「まるでディズニー映画・・・」と思った次の瞬間、
これがディズニー映画であることに気がついて苦笑してしまいました。

それはともかく、遂に疲れて動けなくなった黒馬が、ジョーイを見て言うんですよ。

「ありがとよ、ジョーイ・・・またお前と競争したかったぜ」

どちらも名演技すぎて中にショーン・ペンとケビン・スペイシーでも入ってるのかと疑うレベル。

あるシネマサイトによると、スピルバーグは終始馬が演技してくれないので不満だった、
なんて書いてあるんですが、映画パンフレットには
「わたしはただそこに座って、あの馬たちが自分が演者であることを理解し、
瞬間瞬間に力を尽くしてくれる幸運に感謝するだけでした」

どっちが本当だ?

この映画のために100頭からなる大規模の馬専門の部署が設けられましたが、
ジョーイを演じたのは全部で14頭だそうです。
馬たちはジョーイのトレードマーク(額と四本ソックスの白)のメイクを施されました。


ところで、このストーリーの原作はマイケル・モバーゴという絵本作家の作品です。
かれがこの話の着想をどこで得たのかはわかりませんが、日本にはこんな話があります。


日中戦争の頃、馬も戦地に徴用されました。
徴用された農家はそれを名誉なこととし、馬を神社に連れて行って「武運長久」の祝詞を受け、
餅や赤飯を与えてから騎兵隊に引き渡したそうです。

大陸に渡った馬たちは、それっきり、一頭として再び日本の地を踏むことはなかったのですが、
ある農家出身の兵士が、戦地でかつての愛馬に再会したというのです。
飼い主を覚えていたのはなんと馬の方でした。
懐いてきた馬に飼い主が驚き、そしてかつての愛馬を抱きしめ涙したそうです。



映画を観て帰ってきてから、息子が「原作は絵本らしいよ」と映画評を見て教えてくれました。
「ふーん、じゃお芝居でもやってたかもしれないね」と何も考えずにいうと、
「ちょっと、ママ、あの映画どうやって舞台でやるのw 絶対無理」
瞬時に下のような状況を思い浮かべて二人で笑い転げたのですが、



なんと、
舞台版の作り物の馬が完ぺきに演技をするのに対し、
本物の馬は監督の言うことを聞いてくれないのでスピルバーグは不満だったようだ」
と書いてあるサイトを見つけてしまいました。


どうやって演技させるのか、作り物の馬。
もしかしたら、中にアル・パチーノとロバート・デ二―ロでも入っているのか?




戦火の馬 - goo 映画


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「秋水」と美人すぎる科学者

2012-03-13 | 海軍

           


一度「美人すぎる仲人」という題で、美人すぎると困る職業についてお話したことがあります。
先日、某慶応病院で定期チェックをしたときに、余診を取った医学生のおぜうさんが、
あまりにもかわいくてアイドルのようなのに軽く感動しました。
その項で「最近の女医はレベルが高い」と書いたように、昨今は医者だろうが弁護士だろうが、
高学歴=不美人
などという価値観は過去のものになっているのに気付きます。
女子の絶対数が増えているだけに、普通の割合で美人も出現してきているということでしょう。

本日画像は、北海道の帝国大学に入学した女子学生第一号、
日本初の理化学研究所主任研究員、そして日本で三番目の理化学博士となった、
加藤セチ。(1893~1989)

北大の佐藤昌介総長が女子学生の入学を認める発表をし、
東京女子師範を抜群の成績で卒業したセチがそれに応募してきたとき、
彼女の入校は教授会によって審査され、その際、

「美人過ぎるので科学者としてきっと大成しないだろう」

という反対意見もあったそうです。

これは当時の世間とほとんどの男性の、
容姿に問題があって、恋愛沙汰に縁のない女性にしか学問はできない
という、よく考えればとんでもない偏見で、今なら立派なセクハラ発言です。

しかしながら、彼女は「女子師範の名誉にかけて」勉学に邁進し、3年間で帝大を卒業、
理化学研究所の在任中に結婚し、さらには子供を二人もうけて、さらには研究テーマであった
吸収スペクトラムで分析した「アセチレンの重合」という論文で、京都帝大から学位を得るなど、
学者として大成しつつも家庭との両立を可能とし、日本の女子科学界の先鞭となりました。

今日は、この美人すぎる科学者と、日本初のロケット戦闘機、秋水の関係についてです。


先日、同盟国ドイツから技術供与されたメッサ―シュミットMe163コメートの資料を元に
ロケット推進型戦闘機「秋水」が日本で開発された、というお話をしました。

その際、三菱の航空資料室に展示されているのが「秋水」のではなく、
コメートの設計図であることが、リュウTさんのコメントによって判明(わたし的に)しました。
その時、その設計図が「供与されたにしては簡単すぎないか」という感想を持ったわけですが、
これはわたし個人だけの感想に非ず。

実際には受け取った日本側も
「こんな簡単なもので何をどないせいっちゅうねん」
と、頭を抱えたらしいのです。

実は撃沈されてしまった伊29潜には、設計図どころかMe163Bの機体が積まれていた
と言われています。
極秘に行われたことゆえ証拠は残っていないのですが、当時空技廠では
「(伊29が)帰ってこないから困った」と皆が言っていた、という証言があるのだそうで、
このあたりの話は、また日をあらためて書きたいと思います。

とにかく、機体の設計図のみならず、搭載する肝心のエンジンの資料も実に簡単なもので、
仕方なく日本は、その資料をヒントに自主開発するしかなかったそうです。
(BGM:やっぱり地上の星


というわけで、秋水に搭載するエンジンは日本開発の「特呂二号」、燃料は勿論、
そのエンジンに合わせて燃料概念図を参考にしたオリジナルとなりました。



資料室で右の写真を観ていた人が「どうして燃料をこんな甕に・・・・」とつぶやいていました。
これには訳があります。
メッサ―シュミット・Me163が戦闘においてほとんど役に立たなかった理由の一つに、
その燃料の特異性があります。

推進材として使用された高濃度の過酸化水素とヒドラジンは、爆発性と腐食性が極めて高く、
特別の保管設備を要したため、この設備を備えた飛行場でしか運用できず、
最初の頃こそ驚いた連合軍も
「コメートのある飛行場にさえ近づかなきゃいい」ということに気づいてしまいました。
しかも、この材料は人体に非常に危険な腐食性をもっていたのです。

ドイツの燃料貯蔵のシステムはどんなものだか分かりませんでしたが、
日本では、腐食のおそれのある金属ではなく、このような信楽焼の甕に貯蔵していたわけです。

陶器が影響をうけないということはよくわかるのですが、それにしても、
こんな酒甕のような牧歌的な貯蔵甕に溜めたりして、われたらどうするとか、どうやって運ぶとか、
こちらにも問題は山積、という気がするのはわたしだけではないと思います。

しかしまあせめてこのタイプなら・・・・・・。

さて、このあたりで、われらがセチ博士の研究について少し説明しておきます。

太陽の光をスリットのようなものに通し、さらにその先にプリズムを置くと、
プリズムを通った光は虹のように、帯状の光の像ができます。
これが、ニュートンが発見した連続スペクトルです。

これに対し、光を放射しない気体、流体、個体に連続スペクトルの光を透過させると、
その透過させた物質に固有の(波長の光が吸収された形の)像が投影されます。

どのような像が投影されているかを分析することで、その物質の正体を知ることができます。
このように光のスペクトルで物質の正体を調べる分野を分光学と言います。

セチ博士が学位を取った論文のテーマは、この分光学を応用してアセチレンを解析したもので、
吸収スペクトルによってアセチレンにベンゼンが含まれるということを実証したものです。

この研究はセチ博士の初期のものですが、昭和17年、これらの研究実績を評価され、
彼女は内閣戦時研究員に任命され、航空燃料の研究を行うことになりました。
簡単な設計図からでもすぐさま機体とエンジンを作ってしまった秋水チームですが、
燃料に関しては難儀をしており、そのため飛べないという状態であったのです。

燃料をも独自開発せねばならなかった当時の研究チームの悩みは、
燃料の燃焼熱のため、炉が溶融してしまうことでした。
その問題に対し、セチ博士はすぐさま
「ヒドラジンの20パーセントを水と交換すること」を提案します。

翌朝、100人近くの署員が見守る中でエンジンテストが行われ、実験は成功しました。
濃度80パーセントの水素を酸化剤に、メタノール57%、水化ヒドラジン37%、水13%、
というこの最終的な割合は、セチ博士の提案によって確定されたということになります。

簡単に説明すると、この燃料の仕組みは、前者(甲液)の供給する酸素で、後者(乙液)
を燃焼させる、というものです。
いずれにしても人体に危険であることに変わりなく、貯蔵は陶器の甕、そして、
扱いは必ず長そで長ズボンで手袋をして行いました。

実験成功に際し、加藤セチ博士は
「(部隊長は)理研の実績は大きいとほめてくださいました」
と、これはいかにも女性らしい言葉を残しています。


美人すぎて大成が危ぶまれた科学者が、戦闘機燃料の開発を成功させる・・・・。
今ならちょっとした話題になってマスコミが押しかけるのでしょうが、
当時は戦闘機の開発に女性を加えるということ自体、公にはしにくかったかもしれません。


しかし、加藤セチ博士の提案した燃料で秋水が日本の空を駆けたのは、ただ一度でした。
テストパイロットであった犬塚豊彦海軍大尉とともに、つかの間の希望を乗せたまま、
終戦直前の夏の空に消えてしまったのです。

そしてこの機体に関わった全ての人々の、情熱と夢も、終戦とともに潰えて無くなりました。



(実験機と同じオレンジの秋水)


加藤セチ博士は男女一児ずつの母親でしたが、研究に没頭し、娘でさえ
「家に帰ってくるよそのおばさん」
のように思っていた、というくらい家庭のことは何一つしなかったそうです。
しかし、彼女はやはり母親でした。

彼女が政府から任命されて航空燃料の研究を始めた昭和17年。
息子の仁一は、徴兵により硫黄島に出征し、それっきり帰ってきませんでした。
そして終戦。
彼女は戦後、何度も知り合いに、硫黄島に行きたい、と言っていたそうです。


「だって、仁がまだ生きてるかも知れないから・・・・」








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キスカ撤退作戦 アメリカ軍が戦った敵

2012-03-11 | 海軍





キスカ撤退作戦、三日目です。

日本軍が犬二匹を残してキスカ島から完全撤退をしたのは7月29日のことです。
艦隊の間で衝突が起こり、また島を敵艦と誤認して攻撃してしまうような
濃霧であったこの日、
不思議なことに艦隊がキスカ湾に到着したとたん、霧が晴れました。
強い風が一時的に霧を吹き飛ばしたのです。
これが神風と言うべき恵みの風だったのですが、恵まれたのはこれだけではありません。
何しろ徹頭徹尾この作戦には出来すぎるくらいの幸運に恵まれました。

今日はこの作戦にまつわる「不思議な現象」を中心にお話しします。


日本側が辛抱強く待つ間も、アメリカは着々とキスカ上陸の準備を進めていました。
Xデーは8月15日。
アメリカ軍はさらなるキスカ島砲撃に加え、海上閉鎖を実行しつつありました。

7月22日。
アメリカ軍の飛行艇がアッツ島南西200海里地点で七隻の艦をレーダー捕捉します。
それは第一次と第二次の撤収作戦の合間で、
そこに日本軍は影も形も存在していなかったにもかかわらず。

7月26日。
「ミシシッピー」始め各艦隊が一斉にレーダーにエコーを捕捉します。
ただちに米軍はレーダー射撃を行い、戦闘開始から40分後に反応は消えました。
しかしこれも日本軍ではありませんでした。

日本の水上部隊はそのころまだ幌延を出発して一日目です。
濃霧のため艦同志で玉突き衝突を起こし、「若葉」が帰投していた頃。
アメリカはこの幻の敵に対し戦闘を行い、盛大に無駄弾を浪費することになりました。

こんにち、これをアメリカ艦隊が一斉にレーダー誤認したということになっていますが、なぜか、
「サンフランシスコ」のレーダーにだけは、一切反応がなかったということです。

映画では、この砲撃音をキスカ島の日本軍も聞き、
「助けに来た艦隊が敵に捕捉されて戦闘になっているに違いない」
と絶望するシーンとなっていました。

これも映画で描かれていましたが、その後のレーダー解析で、日本側は、
平文でやり取りされた米軍の緊急時通信を、全てを傍受していました。
そして、「米軍はどうやら同志討ちをやっているらしい」と思っていたそうです。

しかし、米軍は同志討ちをしていたのではありませんでした。
レーダーにだけ捕捉された幻の艦隊と戦っていたのです。

そして、反応が消えたのを、日本の艦隊を全て海に沈めたためと思いこんだアメリカ軍は、
ここでとんでもない油断をします。
つまり、一日二日艦隊が留守でも大丈夫だろうと、このときバラまいた弾薬を再び補給するため、
7月28日艦隊を―哨戒用の駆逐艦も含め全て後方に送ってしまったのです。

7月28日
この日をよもやお忘れではありますまい。
濃霧をついて日本の水上部隊がキスカに突入した、まさにその日です。

7月30日。
アメリカ軍は全ての艦船の補給を終え、元通りに配置します。
しかしご存じのように、もうこの頃、キスカには、
日本軍と名のつく生き物は犬を除いて全くいなくなっていました。

撤収作戦完了後、大急ぎでキスカを離脱した艦隊は、実は一隻の米潜水艦と遭遇しています。
しかし、濃霧のせいで米艦船と間違えられたらしく、何事もなくすれ違ったのでした。

この不思議な符合を歴史はただ「誤認であった」「偶然があった」と書き残すことしかしません。
いや、できないでしょう。
しかし。
あまりにもこの話は出来過ぎを通りこして、気味が悪くありませんか?

幻の艦隊がまず「アッツ島」の近辺から現れる。
警戒している米軍は、レーダーに捕捉された艦隊を本物だと思いこむ。
そしてその幽霊艦隊相手に砲弾を浪費する。
砲弾の補給のために米艦隊がそろいもそろって前線からわずか2日消える。
そのうち一日が撤収作戦当日であった。


わたしたちが一様にここから想起することを、キスカの生存者はより強く感じていました。
つまり、米艦隊がレーダーに捕捉したのは、アッツ島で玉砕した日本軍の英霊だったのだと

そう、人によっては「あほらしい」と一蹴するオカルティックな想像です。
しかし、この作戦がもし冥界の日本軍によって実行されたものなら、
作戦立案者はまさに名参謀と称揚されるにふさわしいのではないでしょうか。



そしてその後、よもやまさか犬を残して日本兵が一人残らずいなくなっているとは思わず、
米軍は8月に入っても雨あられのようにキスカに砲撃を降らせ続けました。

航空部隊もそんな事態を全く想像していないので、キツネが移動しているのを
「小兵力の移動を認む」
空爆のため煙幕が起きたのを
「対空砲火認む」
そして何を見間違えたのか
「通信所が移転した様子を認む」
と、次々に誤った報告をあげたので、2週間の間、無人であることは全く悟られませんでした。
(この誤報告も何か不思議なんですが・・。通信所の移転?キツネってなぜわかったの?)

そしてXデー8月15日。
艦艇100隻余、兵力3万4千名の兵力をもってアメリカはキスカに上陸します。
もはやもぬけのからであることを知る由もない彼等は、極限の緊張下で味方を日本軍と誤認し、
あちらこちらで同志討ちになってしまいます。

このときの死者数100余名、負傷者54名。

ここでまた、不思議というしかないのですが、いくらなんでもこの死者数は多すぎないでしょうか。
海上と同じく、アメリカ軍は、この島でも、何を見て、誰と戦っていたのでしょうか。


アメリカ軍人にとって、きっと「キスカ」は汚点とでもいうべき名であろうと同情するのですが、
案の定戦史家には
「史上最大のもっとも実戦的な上陸演習であった」(サミュエル・E・モリソン)
なんて言われてしまっています。

そこで冒頭マンガですが、映画では残念ながら軍医長がとてもそんなことをしそうにない、
清廉潔白そうなキャラクターの平田昭彦だったせいか、このエピソードはでてきません。
しかし、ほぼ実話です。
英語ではペストはplagueと言います。

軍医が悪戯で「ペスト患者収容所」と書いた看板を兵舎前に立てておいたのでした。
おそらく歴史DNA的に、ペストを異様に怖れるアメリカ人はパニックに陥りました。
本土に大慌てでペスト用のワクチンを注文したそうですが、
・・・・・これがジョークだとわかったとき、みんなどんな顔をしたのでしょうか。



「ちょっとずつ食べるんだぞ」(いや、もう早速食べちゃってるし)
「弾が落ちてきたら逃げるんだぞ」(つないであったら逃げられないし)と、

ついつい突っ込んでしまうセリフを、撤退前の兵隊が犬にかけるシーン。
映画では「太郎」「花子」という二匹の犬になっています。
実際の犬の内訳は海軍所属が「勝号」「白号」陸軍の「正勇号」

日本軍がキスカに上陸したとき、10名ほどの米軍気象観測班と子犬がいて、
その犬の名前が「エクスプロージョン」(爆発)であったこともわかっています。
撤収後のキスカでアメリカ軍が見つけたのが数匹の犬、という記述があるのですが、
これが爆発くんをいれた四匹だったといわれています。

キスカ守備隊は何回にもわたって撤収のために浜辺に集合したのですが、
実はその何回かにわたって、犬たちはなんと繋がれていた縄を食いちぎり、
必死で皆の後を追いすがってきたのだそうです。
浜辺の集合が繰り返されるたびに犬たちが追いかけてくるので、縄はだんだん太くせざるをえませんでした。

白号は繋がれていなかったらしく、最後の大発に乗りこんで浜辺を見たら、そこには白い点が
行ったり来たりしているのが見えた、という生存者の証言があります。(キスカ戦記)

犬たちは15日間の砲撃にも怪我ひとつせず、そして餌をちゃんと節約しながら食べたらしく、
米軍が島に乗りこんできたときにはちゃんと元気でした。

米軍に捕獲された犬たちはその後アメリカ大陸に渡ったということです。



ところで、原点に立ち返るようですが、なぜ日本軍がアリューシャンの孤島を占領する必要があったのか。
それは簡単に言うと、陽動作戦でした。
海軍がミッドウェイを敵機動部隊撃滅の決戦の場と定めており、
そのためにミッドウェイ方面ではなくこの地域に目をそらせることが目的だったのです。

アメリカ側も、軍事的に意味のないこの地域を警戒することがなかったので、
日本軍が駐留しているのに気がついたのは6月10日頃のこと。
キスカ湾に着水しようとした水上飛行艇が日本軍を見て慌てて逃げるということがあったそうです。
目そらしのおとりが目的ですから、連合艦隊司令部は駐留を9月までと定めていたようです。

これもそのうち駐留部隊に越冬させ哨戒地方を北方に移動する、などと言いだす一派が出るわ、
さらに陸軍や軍令部も口を出してくるわで、帝国陸海軍お約束の
「内部で意見がまとまらず右往左往状態」に陥っていたようですが、
米軍が駐留に気付き、徹底的にここを叩きだしたことで、
話は白紙にせざるを得なくなったということになります。



しかしなんというか、こんなことで命を粗末にされる将兵にしたら、たまったものではありません。
結果良ければ、で、このときの作戦は皆に称揚され、痛快な脱出劇として映画にもなりました。
映画では「我々に手を差し伸べてくれた日本と軍に感謝しようではないか」などと言っていますが、
よく考えたら、いやよく考えずとも、撤収作戦は軍がするのが当然の義務よね。



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