ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海上自衛隊フリートウィークが始まりました

2022-10-31 | 自衛隊

わたしが入院したり退院したりしている間に、
自衛隊のフリートウィークが始まっています。


自衛隊観艦式は、通常3年に1回行われる海上自衛隊の一大イベントで
自衛隊の最高指揮官(内閣総理大臣)が艦隊を観閲することにより、
部隊(隊員等)の士気を高め、
国内外に自衛隊の精強さをアピールするイベントです。

当ブログでお馴染み、Kさんが今年も元気いっぱい
イベントに突撃されておりました。
送っていただいた写真をイベント宣伝がてらお借りすることにしました。

まず、土曜日の横須賀編。

今となっては懐かしい景色

「ひゅうが」かな

通常よりやはり人少なめ?


艦内は単なる通路のようです

今も昔も基本的には変わらない横須賀ならではの艨艟


この日公開されていたのは「いずも」「ひゅうが」「あさひ」とか。


そして日曜日、木更津に突撃されたKさんの
秋の蒼天に映える護衛艦の写真を楽しみましょう。

最新鋭艦「もがみ」、姉妹艦の「くまの」に乗艦されたそうです。



確かにこの形はまごうことなき新鋭艦・・・。
特に最近は実際の自衛艦にご無沙汰していたので、余計に新鮮。


1番艦と2番艦が綺麗に並んでいます。
シンプルすぎて不安になるほどの上部構造物の形状です。
これ一本で足りるんか?



Kさん、「もがみ」に乗艦。
あまりにもステルスすぎて壁に何もありません(小並感)



かつての最新鋭艦も、今は昔。
この日の木更津には「あたご」も来ていた模様。
昔観艦式で「あたご」乗ったなあ。


満艦飾が秋の雲に映えていかにもめでたいフリートウィーク。

と言うわけで、人の撮った写真を紹介するシリーズでしたが、
フィリートウィークの催しは来週が本番です。

最初に貼った通知にスケジュールが書かれていますので、
お天気が良ければ、皆様是非足を向けてみられてはいかがでしょうか。




タスキギー・エアメンの父 ノエル・パリッシュ准将〜スミソニアン航空博物館

2022-10-29 | 飛行家列伝

今まで何度か黒人ばかりの航空部隊、タスキギー・エアメンについて
彼らを描いた映画を取り上げつつお話ししてきましたが、
今回はスミソニアン航空博物館展示からになります。

ちなみに、日本語では「タスキーギ」と書かれることが多く、
わたしも今まで「タスキーギ」と書いてきたのですが、
アメリカ人の発音とスペルを見て、「タスキギー」が正確かなと思い、
今後はそのように表記することをお断りして始めたいと思います。



航空の黎明期に人種偏見を跳ね返し、空を飛ぶ夢を叶えてきた
アフリカ系飛行家の先駆となった人々を紹介する
「ブラック・ウィングス」のコーナーの最後は、なんと言っても
タスキギー・エアメンを持ってこなくてはいけません。

このパネルには、タスキギー出身でのちに将軍にまでなったデイビスと、
タスキギー創設の立役者となったパリッシュをバックに、
モニターではタスキギー航空隊の動画がエンドレスで流れています。

「多くの若いアフリカ系アメリカ人が軍航空に参入することを熱望しましたが
ことごとく人種的な理由で拒否されることになりました。

アメリカ陸軍航空隊はついに1941年、アラバマ州タスキギーで
黒人のための訓練プログラムを開始し、
その中でずば抜けて才能のあった
ノエル・F・パリッシュ
基地司令になりました。
戦争中、パリッシュは訓練課程に対し、
創造的なリーダーシップを提供することになります。

ベンジャミン・O・デイビスJr.は、陸軍士官学校卒。
黒人ばかりの第99戦闘飛行隊の指揮官となります。
デイビスはその後ヨーロッパの戦場でタスキギーエアメンを率いました」

■ 国土防衛〜ノエル・F・パリッシュ



ノエル・フランシス・パリッシュ
Noel Francis Parrish 1909-1987


なぜこの白人さんがアフリカ系パイロットの指揮官に?
と誰しも思うわけですが、当時の飛行隊は黒人の部隊でも
指揮官まで黒人が務めるわけではなかったということです。

パリッシュはタスキギー航空隊の白人指揮官として、
プログラムをうまく運営し、成功させたという功績を持ちます。

映画「レッドテイルズ」の白人指揮官は、記憶に残る限り
それほど黒人たちの側に立っていなかったような印象ですが、
おそらく映画より実物の方が、黒人航空隊の司令官として
彼らにシンパシーを持っていたのではないかという気がします。

というのは、彼は以前紹介した黒人パイロット&教官、
コーネリアス・コフィーと個人的に親しく、
シカゴで開催されたチャレンジャーズ・エアパイロット協会のプログラムを
非常に評価していた人物の一人と言われているからです。

【なぜ”タスキギー”だったのか】

陸軍に生活のために入隊後は騎兵隊から出発して
下士官として航空パイロットの資格を取ったパリッシュは、
飛行教官、飛行学校監査官、訓練部長と順調に飛行畑で出世しました。

そして、1941年、アラバマ州のタスキギー基地に黒人だけの飛行部隊、
タスキギー陸軍飛行学校のが爆誕したとき、
大尉であったパリッシュは、指揮官に就任することが決まりました。

黒人部隊創設を後押ししたのは、公民権団体や黒人記者たちの圧力であり、
ここが「タスキギー実験」の実験場として軍に選ばれたのは、
タスキギー研究所が元々航空訓練に力を入れていたためでした。

施設、技術者、教官、そして年間を通じて飛行できる気候、と、
実験を行うための好条件が揃っていたこともあります。


スミソニアンに残された1941年の陸軍航空隊のプレスリリースですが、
こちらを全文翻訳しておきます。

「ニグロからアメリカ航空隊へ」

歴史上初めて、来週空軍は飛行士官候補生として黒人を募集します。
(最終的な計画はまだ未定、正確な日付は月曜に確認)

有色隊員は白人と全く同じ条件で採用されます。
身体テスト、適正テストも同じに実施されます。
黒人隊員の選択は空軍が現在白人に使用しているシステムと同じ条件で行われ
募集は軍団管区、特にその管区の飛行場で行われます(場所は未定)

優先される入隊者は
CAAトレーニングを受けたことのある者です。
これまでのCAAは
Komingニグロパイロットを訓練してきました。

彼らはタスキギー研究所近くの飛行場で訓練を受けます。

陸軍省はフィールドの建設をまだ開始していないので、
おそらく来年の秋まで実施はできないでしょう。

入隊者は現場で基本から高度なトレーニングを受けます。

予備訓練は承認された契約校で行われ、
地上要員はシャヌート飛行場で訓練を受ける予定です。
パイロットの最初の受け入れ人数は33名。
訓練を行うのは白人教官です。

卒業した者は少尉に任官することになります。

カラード・トレーニングプログラムを継続する場合は、
有色人種の士官としてインストラクターを務めることになります。

黒人の士官候補生は、毎年40人から50人になる予定で、
彼らの先頭中隊は、白人部隊から分離されます。

航空隊の関係者はその考えにうんざりしているようで、
皆あまり良い感触を持っていないようです。
なぜなら彼らは
ニグロの飛行能力に疑問を持っているからで、
特に軍の航空は民間とは違う、という指摘もあるようです。

黒人たちはもちろんこれを歓迎しています。

最後に何やら不穏な報告がされています。
後述しますが、黒人飛行隊については、各方面から
反対意見があらゆる時点で巻き起こることになります。



1941年、エレノア・ルーズベルトがタスキギーの視察中、思いつきで
チャールズ・"チーフ"・アンダーソンが操縦する飛行機に乗り、
基地周辺を40分間遊覧飛行したときの写真です。

ルーズベルト夫人がこの「古代から飛行機に乗っていた人」
とあだ名される超ベテランチーフの飛行機に乗ったことは、
後世の人が思うように偶然や気まぐれの産物ではなかった、と、
わたしは今回確信しましたので、その理由を説明します。

まず、戦争の激化に伴い、飛行要員に有色人種を採用するという案は、
おそらく国家単位の組織から生まれてきたものだと思うのです。

飛行要員の訓練は、長期間を要し、人員の確保が難しく、
しかも本格的に戦争に投入されるとなると、当然予想される、
激しい消耗をどう補うかという問題が起きてきます。

「ブラック・ライブズ・マター」は黒人の人権問題ですが、
本音で言うと、当時二流市民であった黒人の命ならば、
多少の権利を付与したとしても、戦争に投入させるのは
十分見返りがあると考えた結果ではないでしょうか。

しかし、その「多少の権利」というのが問題でした。

それまでの彼らに対する社会的な扱いの低さが酷すぎたため、
この計画は、まず入り口に立ちはだかる人種差別の印象を
なんとか跳ね除ける必要があったわけです。

そこで、大統領夫人が突如気まぐれを起こし、
黒人パイロットの操縦する飛行機にのってフライトを行い、
大統領夫人は大変ご満悦であった、というカバーストーリーを
誰かが描いたのではないか、というのがわたしの想像です。

この事件が、世間の印象を変え(たように報じられ)、
その後、タスキギーのプログラムは拡大され、
第二次世界大戦中のアフリカ系アメリカ人の航空の中心となり、
部隊のメンバーはタスキギー・エアメンとして知られるようになりました。

黒人部隊を創設したい上層部にとっては、
その道筋をつけたこの事件は(もし仕組んだものであったら)成功でした。

だからこそわたしはエレノアの事件が「やらせ」だと信じるわけです。
おそらくこの事件がなければ、創設に漕ぎ着けるのは不可能だったでしょう。

しかしながら、創設の道筋がついた後も、
黒人ばかりの飛行隊に対する反発は凄まじく、
我々が思う以上に問題が山積していました。
まず、当初から起こってきた問題を見ていきましょう。

【初期の問題】

タスキギーに黒人航空要員養成学校ができるというニュースが広がると、
案の定、この地域の白人たちは、猛烈な反対を唱えました。

黒人の憲兵が白人を取り締まったり、軍用武器を振りかざして(と見える)
町をパトロールしていたことも、彼らの「癪の種」だったようです。

これに対し、初代指揮官ジェームス・エリソン少佐は(勿論白人)、
黒人憲兵を保護する立場でしたが、そのせいですぐに指揮を解かれます。

その後に来た大佐は完璧な分離主義者で、早速分離政策を取りました。

黒人系のメディアがこれに抗議すると、上層部は大佐を昇進・異動させ、
ノエル・パリッシュが「訓練部長」として指揮を執ることになったのでした。

タスキギー基地はこの間のゴタゴタで配属が滞り、そのせいで、
任務を持たない黒人士官が過剰になる事態となっていました。

着任したパリッシュは、結果として大規模な人種差別撤廃を断行します。
しかしそれは「逆差別」的な甘やかしではありませんでした。

人事はプロ意識と個人の能力、技術、判断力を基準としたもので、
黒人の訓練生に白人と全く同じように高い水準のパフォーマンスを求め、
その基準に達しない者は遠慮なくプログラムから外されるというものでした。

また、これまでレクリエーションが顧みられない状態だったので
パリッシュは有名人の訪問や公演を手配するなどということもしています。


ジャズシンガー・レナ・ホーンとパリッシュ(右)
左も多分有名な人

タスキギーに慰安のため招聘されたアーティストは、アフリカ系が中心で、

レナ・ホーン、ジョー・ルイス、エラ・フィッツジェラルド、
レイ・ロビンソン、ルイ・アームストロング、ラングストン・ヒューズ


などジャズに詳しい人が見たらレジェンド級の眩い顔ぶれでした。


【タスキギー陸軍飛行場司令官 パリッシュ】

左から2番目:パリッシュ
右へ:飛行教官ルーク・ウェザーズ大尉、
ベンジャミン・O・デービスJr.少佐
タスキギーインスティチュートプレジデント フレデリック・パターソン博士


陸軍航空隊は、1941年、アラバマ州タスキーギ研究所近くに
ついにタスキーギ陸軍飛行場を設立しました。

タスキギー陸軍飛行場(TAAF)の開発と建設などにも
黒人系の建設・施工・土木業者が選ばれたということです。
(これはもしかしたら白人系が引き受けなかった可能性もありますが)

1941年1月にはついに黒人航空部隊の編成が発表され、
すぐに部隊は活動を開始しました。

1942年末にタスキーギ陸軍飛行場司令官に昇進したパリッシュは、
プログラムの成功に重要な役割を果たすことになります。

まず、最初のクラスから5人の生徒が1942年3月に卒業しました。
彼らのうち最初に将校飛行士候補者となった12人は、黒人記者によって

「この国の有色人種の若者の頂点」

と称されるなど、このプログラム自体が黒人の身分にとって画期的でした。


おいっちにーさーんしー

ほとんどの訓練は白人教官が指導することになりましたが、
この体育の授業らしきものは、黒人教官がおこなっているようです。

250名を越える入営者は、訓練を受ける最初の黒人のグループとなり、
2年後には地中海作戦地域に戦闘配置されることになりました。

「タスキギーエアメン実験」を構成したのは黒人パイロット、教官、
整備・支援スタッフ、そしてそれを統率する指揮官でした。


【タスキギー飛行士実験の成果】

「タスキギー飛行士実験」は、黒人が、指導者としても戦闘員としても、
優れた能力を発揮できることが最終的に証明されることになりましたが、
この成果を得ることができたのは、パリッシュの功績でもあります。

この計画が軌道に乗るまで、黒人飛行士官の育成には
人種偏見からくる大きな抵抗があったことは先ほど書きましたが、
司令官として、パリッシュがこれに苦しまなかったわけがありません。

人は人種ではなく、能力によって判断されるべきだと考えていた彼は、
しばしばワシントンDCから落ち込んで帰ってくることがありました。

彼がタスキギーエアメンの直接の指揮を執ったのは、
実は1945年の第二次世界大戦の終わりから1946年8月まで、
わずか1年間にすぎません。

この間、戦争は終わり、その代わり、今度は
アメリカ軍の人種統合の闘いが加熱していました。

そして、事実上すべてのアメリカ軍の部隊司令官が、

「黒人は白人に比べて訓練に時間がかかり、成績が悪い」

とする報告書を提出していたことはあまり知られていません。

これは公民権運動が勃興する何年も前でもあり、白人ばかりの軍上層部は
相変わらず拭いがたい分離の壁をほとんどが築いていました。

しかし、ノエル・パリッシュはそうではありませんでした。

彼は、繰り返しますが、黒人の能力を黒人というだけで切り捨てず、
公平な報告書を提出した数少ない司令官のうちの一人でした。

例えば、パリッシュの報告書には、次のように記されています。

「ヨーロッパで爆撃機のパイロットが不足したとき、
戦闘機の操縦には、爆撃機の操縦とは全く違う技術が必要なのに、
十分に訓練された黒人の爆撃機のパイロットがいるにもかかわらず、
代わりに白人の戦闘機のパイロットが送り込まれた
ことがあった」

「陸軍航空隊の将校は、その科学的な解決力も卓越しているとされる。
工学的人事問題についての知見はなんら問題はないとされるのに、
彼らは得てして
人種や少数派の問題に対して、最も非科学的な独断と
偏見を持った態度でアプローチする
のにはがっかりさせられる事実だ」

「我々が黒人を好きであろうと嫌いであろうと、
彼らは他の市民と同じ権利と特権を持つアメリカ合衆国の市民である」



戦争が終わり、公民権運動の嵐も過ぎ去った数十年後のある日のことです。
タスキギーでタスキギー飛行隊の同窓会が行われました。

会場でノエル・パリッシュ准将の名前が呼ばれると、
そこにいた全員がスタンディングオベーションで彼を迎えました。

黒人である彼ら自身が、この司令官の公平性をよく知っていたのです。


戦後、第二次世界大戦中はあくまでも実験的だった
AAF(アフリカ系航空隊、アフリカンエアフォース)
ですが、軍はその経験から、運用方針を見直す必要があると考えました。

AAFの指導者たちは、黒人と白人の両方のグループを共存させ、
討論し調整することで、積極的な取り組み、リーダーシップ、機会の平等、
より費用対効果の高い軍隊を生み出すという結論に至ったのです。

つまり、タスキギー飛行隊実験は成功しました。

それを受けて、1948年、ハリー・トルーマン大統領は、
軍隊における待遇と機会の平等に関する大統領令に署名します。



【ノエル・パリッシュ准将】

The Rice University alum who became part of history with the Tuskegee Airmen 

パリッシュが卒業し、PhDを取ったライス大学が製作した
「パリッシュなくしてタスキギーエアメンなし」のビデオです。
ちなみにこのビデオでは「タスキーギ」と発音されていました。

だからどっちやねん。


パリッシュは2度結婚しており、2度目の妻は
フローレンス・タッカー・パリッシュ=セント・ジョン博士。
詳しいことは分かりませんが、どうも医師だったようです。

パリッシュはペンネームで雑誌記事を書き、音楽と絵にも関心を持ち、
40歳にして大学で博士号を取るなど向学心にもあふれた知的な人物でした。
外見も魅力的で機知に富み、好感の持てる男性で、
年齢よりも若く見え、女性に大いにモテてもいたようです。


彼はタスキギーに赴任するまでは、黒人の運動などに関わっていません。
が、彼の生まれは全くその問題とは無縁な土地ではなく、少年時代、
3マイル歩いて黒人がリンチされた場所を見に行ったりしています。

後年、黒人のパイロットや整備士を訓練するプロジェクトについて
彼が関わることになった時、その話を聞いた白人たちが、
しばしば「奇妙で心配そうなある種の笑い」を浮かべるのを目にしたり、
ヨーロッパでは、イギリスの飛行エースが、

"Messerschmitt on his tail than to try to teach a Negro to fly".
「黒人に飛行を教えるくらいならメッサーシュミットに追われる方がマシだ」


とまで言い放ったのを実際に耳にしたと告白しています。


ノエル・パリッシュは1964年10月1日に空軍を退役し、准将となりました。

博士号を取得した母校ライス大学の歴史学教授として教壇に立っていましたが
1987年4月7日、心停止によりメリーランド州で死去しています。

彼の葬儀で、黒人将官、デイヴィス・ジュニア中将はこう述べました。

「パリッシュ准将は、黒人が飛行機の操縦を学べると信じていた
当時唯一の白人だったかもしれない」




1948年、ハリー・トルーマン大統領政権下、
アメリカ軍の差別撤廃が決定しました。



タスキギー・エアメンの最高賞は、その名を冠して、
「ノエル・F・パリッシュ准将賞」と名付けられています。


ノエル・パリッシュが、その賢明なリーダーシップと、
黒人士官候補生に対する厳正で公平な扱いによって変えたものは、
軍隊における人種的分離状態だけではありませんでした。

それは、黒人飛行士たちの士気、彼らの生活条件、軍内の黒人と白人の関係、
および黒人と軍隊との関係全てにとどまらず、
タスキギーの町における黒人と白人の関係さえも改善したといわれます。



続く。



魚雷発射の仕組み〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-10-27 | 軍艦

さて、潜水艦「シルバーサイズ」の魚雷についてお話ししています。

■2種類の魚雷

「シルバーサイズ」は蒸気式と電動式、2種類の魚雷を搭載していました。
Mk.14が蒸気式、Mk.18が電動式とご理解ください。

「シルバーサイズ」がMk.14をどれくらい搭載していたのかわかりませんが、
少なくとも、潜水艦「ティノサ」のように、
撃っても撃っても艦体に突き刺さるだけで全く爆発せず、
おかげで相手はまるで花魁のかんざしのように魚雷を突き刺して帰還した、
というような特殊な例には遭遇しなかったのは確かです。

これは、魚雷の当たる角度に助けられて、
信管の故障を疑うほどの失敗に至らなかったせいかもしれません。

残念兵器とまで言われているMk.14ですが、「ティノサ」の例は特別で、
少なくとも「シルバーサイズ」では普通に搭載していたようです。

そして、この後魚雷を装填してから何が行われるかの説明となりますが、
「蒸気式」とあることから、Mk.14についてのものだと思われます。

長さ22フィート、重量3,000ポンドのスチーム「フィッシュ」は、
時速45マイル、有効射程は2,000ヤードを超える
350馬力のアルコール・タービンエンジンを搭載しています。

魚雷は装填されてから、発射管の外側にある各種レバーによって、

●深度(逆回転プロペラの横にあるベーンによって制御)
●速度(高速か低速か)
●ステアリング ジャイロ(ラダーを制御する)


の設定を行います。


トーペックス(torpex、torpedo Explosive)爆薬
は艦首の近くにあり、その後ろには大きな圧縮空気ボトルがあります。
この圧縮空気で、高圧を発射管に送り込むのです。


これが発射バルブとなるのですが、発射バルブを開くのは、手動か、
ソレノイド(導線を巻いたコイル)と呼ばれるレバーを使います


魚雷プロペラは指示方向と逆に回転します。

ちなみに電気魚雷と蒸気魚雷の違いは、速度です。
電気魚雷は遅いのですが、蒸気の跡が残らず、
音響ホーミングヘッドを取り付けることによってステルス性は高くなります。

コンパーメント内に、親切なことに魚雷発射についてわかりやすく、
何が起こっているか書いたパネルがありましたので、それを書いておきます。

フロアデッキの下にはメイン バラスト タンク(MBT)#1、
ウォーター ラウンド タンク(WRT)
さらに
フォワード トリム タンク
があります。

MBTは潜水・浮上装置の一部、WRTは魚雷発射管への注水用水、
前部トリムタンクは魚雷発射後の重量減少を調整するためのものです。

では、魚雷はどのように発射されるのでしょうか?



まず、魚雷発射口を閉じた状態で、魚雷をローラーに載せて
ブロックとタックル(ロープ的な)で魚雷管内に引き込む。

その後、ブリーチドア(後部ハッチ)が閉じられるとチューブベントが開き、
チューブとWRTの間のドレインバルブが開き、
WRTが加圧されて水が引き込まれ、魚雷発射管内は浸水する。


コニングタワーの魚雷データコンピュータで決定された速度、深度、
ジャイロ角度を、チューブ側面の格納式ピンで設定する。

魚雷発射は、コニングタワーから電子制御で行われ、
発射ドアが開き、魚雷が発射される。
魚雷はプロペラに引き継がれる前に、圧縮空気を吹き付けて発進させる。

発射管から出ると、魚雷は正しい深度と速度を想定し、
正しい方位に旋回し、そこからはひたすら直進する。

管内に別の魚を再装填するには、外扉を閉め、ドレーンバルブを開き、
管内を加圧して管内の水をWRTに押し流し、ブリーチドアを開ける。



他のコンパートメントと同様、前部魚雷室は窓もなく、
窮屈で混雑した暑い作業空間でした。
この部屋を見ていると、ここで勤務していた乗組員の勇気、技術、
献身にただ驚かされるばかりです。

文章で理解するのが面倒!という方にはこれを。
最初はマーク14型の残念ぶりを説明していますが、
7:00~からは構造と発射の仕組みが
【ゆっくり解説】欠陥魚雷Mk14・構造としくみ



ところで、前方魚雷室は、圧力船体の前方40フィートを占め、
ボートが水面にあるときもほとんどは水中にある部分です。

ほとんどの潜水艦のコンパートメント同様、
このコンパートメントにも特に重要な部位がぎっしりと詰め込まれています。

先ほど、「前方にチューブは6つある」と書きましたが、


「ガトー」級潜水艦の、前部コンパートメントの断面図をご覧ください。

6つのチューブの後部3分の1だけが見えており、
残りは前方のトリムバラストタンクに埋まっています。(黒部分)


また、潜舵、バウ・プレーン・ティルトシャフトは、
ティルトの機構とともにチューブの上にあります。

これが正直どこを指すかよくわからんのですが、おそらくチューブの上の、
白くて大きな管の内部にシャフトがあるのではないでしょうか。
(ちょっと適当)


また、魚雷チューブの上部をご覧ください。



クロム製のベントブロー・マニフォールドというものがあり、
これで魚雷発射前に管から空気を排出して、管の内部を水で満たします。

魚雷の間にはグリーンの小さなスツールがありますが、
レバーの管理をする乗員の定位置です。



また、高圧空気弁は、発射後に管から水をブローつまり吹き飛ばします。

一発撃つごとにこれだけの準備と、撃ってからも一定時間を必要とするので、
一方の魚雷発射室には6基ものチューブが必要になってきます。


チューブの後ろには、長さ22フィート(約670cm)の魚雷ラックがあります。

ご覧の通り、魚雷発射室は乗員の寝室を兼ねていて、
魚雷の上下にバンクと呼ばれる兵員用ベッドが配置されています。



ウォー・パトロール、戦時哨戒に出発するときには、
合計18基の魚雷を満載していくのが通常だったので、
乗員は別のところ(どこだろ?)で寝なくてはなりませんでした。


部屋の中央頭上に配置されているのは、
油圧モーターを駆動するための電気モーターです、
これらの油圧モーターは、前方の潜水面を傾けたり、
あるいはリグを出し入れしたり、錨を上げ下げするのに使われます。

そして、その後方に、写真には写っていませんが、ここにも
エスケープ・トランクがあります。(図の甲板に続く部分)

沈没した潜水艦から脱出できる耐圧コンパートメントで、
「シルバーサイズ」には二箇所これがあります。


また、この後方には、魚雷を甲板から前部コンパートメントに積み込むための
装填ハッチ(トルピード ローディング ハッチ)があります。



装填ハッチの下が、これ。

そう、ヘッドとシャワー室です。
その他、二つのクロム超音波ソナーシャフト、
多数の電子制御および機械制御がぎっしりと詰まっています。




続く。

前部魚雷発射室 2種類の魚雷〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-10-25 | 軍艦

さて、というわけでいよいよ「シルバーサイズ」に乗艦です。

■入艦



階段を数段降りたところにエスケープ・チャンバーがあり、
ドアを開けて中が見える状態になっていますが、中には入れません。

急いでいたこともあって、この中の写真(特に天井とか)
を撮らなかったことは痛恨の極みです。
(痛恨の極み多すぎ)



「シルバーサイズ」のパンフレットでは、その名も
「BELOW」
としてこのような構造図を紹介しています。

この「ビロウ」はあの「ビロウ」とは別だと思うのですが、
映画にかけた可能性も微レ存。

ここで水密コンパートメントの解説があります。

「シルバーサイズ」には、9つの水密コンパートメントがあります。

各コンパートメントは、防水ハッチによって
隣のコンパートメントから隔離されています。
以下の図はこの区分を図に表しています。


そして、下の潜水艦図に示されている区画のほとんどを
あなたはこれから歩いて通過していくことになります。

1. フォワード・トルピード(前方魚雷室)

2.オフィサーズ・ワード(士官居室)

3. コントロール・ルーム(制御室)
コニング・タワー(司令塔)

4. クルー・クォーターズ(乗員食堂)

5. フォワード&アフトエンジン(前後方エンジン室)

6. マニューバリングルーム(操作室)

7. アフター・トルピードルーム(後方魚雷発射室)

「シルバーサイズ」のスペックも一応書いておきます。

全長 95.02 m
全幅 8.31 m
排水量 1,526トン(水上)
    2,426トン(水中)

乗員:士官8名 兵員72名
(平時)士官、兵員70名
(戦時)士官、兵員80-85名

起工(keel laid)1940年11月4日
就役(Commissioned)1941年12月15日
退役(Decommissioned) 1946年4月17日

除籍(Stricken from Naval Resister)1969年6月30日
国定記念物指定(Declared a National Landmark)1986年
マスキーゴン係留(Relocated to Muskegon)1987年

「シルバーサイズ」鑑賞のポイント:

USS「シルバーサイド」SS-236は、

第二次世界大戦で生き残った最も有名な潜水艦です。
彼女は非常に多くの船を撃沈しました(30隻沈没、14隻撃破)。

また、2名のアメリカ軍パイロットを救出し、
個々のパトロールでは16基もの機雷を敷設しています。

「シルバーサイズ」は盲腸の切除手術をその管内で、
しかもファーマシストメイト(薬剤科員)の手によって行った
史上唯一の潜水艦として有名であり、このエピソードは
ケーリー・グラント主演の映画、


「デスティネーション・トーキョー」

の中でも描かれています。

また、映画「ビロウ」の撮影にも使われました。

そういえば「デスティネーション・トーキョー」、
まだ取り上げたことがなかったですね。

検索してみたら、ちょうど盲腸患者が出るシーンが見つかりました。

Destination Tokio (1943) - Cary Grant

ファーマシストが俺が手術してやる、というと、
盲腸患者の水兵は痛み以上にドン引きしています。(4:08~)

実際の彼も、このときもう俺オワタ\(^o^)/と思ったに違いありません。




階段を降りながら写真を撮りました。

前方魚雷室(Forward Torpedo Room)です。


最初の区画ということで、注意書きがあります。
内容は、上にあったのとほぼ同じで、


USS「シルバーサイズ」(SS-236)へようこそ!

注意

「あなたとわたしたちの安全のために、
バルブ、レバースイッチなど、機器を操作したり、
ハッチやキャビネットを開けたりしないでください。

この潜水艦に搭載されているすべての機器はまだ稼働しています。
メインエンジンやその他の機器も定期的に作動させています。
作動イベントのスケジュールはギフトショップでお求めください。

保護者と成人の方はお子様から目を離さないようお願いします。


皆様のご協力により、この歴史ある潜水艦を
後世に残すことができるのです」


■前方魚雷室



私がここに降りたとき、ちょうどここには
「CREW」と背中に書かれたボランティアらしい若い人(高校生?)
が魚雷チューブの前に佇んで何かをしていました。

そのせいで、近くに行って中を覗き込んだり、
その天井部分の写真を撮ることができませんでしたが、
これはもう致し方ないでしょう。


最初のコンパートメントである前方魚雷室には、
前方の先に6つの磨かれた真鍮の魚雷発射管があります。



魚雷の後ろにあるのが長さ22フィートの
Mark XIV(14)魚雷のラックで、これが魚雷の乗った状態でです。



Mk.14は大戦始まりからずっと使われていた魚雷ですが、
何かと問題が多く、ある日撃っても当たってもさっぱり不発の魚雷に、
こんな魚雷で戦えるかあ!と、業を煮やした
ガトー級潜水艦「ティノサ」のローレンス・ダスピット艦長
ニミッツ提督に直訴して、改良されたものが普及するようになりました。


意外と温厚そうなダスピット少将(最終)

ちなみにこの第三図南丸を攻撃した時の、
絶望を感じさせずにはいられない不毛な魚雷攻撃は、
ダスピット艦長によって次のように報告されました。

「ティノサ」が5本の魚雷を命中させているのに、
全く沈む気配のない船に全員が『?』となってからの記録です。

10時11分:8本目の魚雷を発射。命中。何ら影響は見られない。
10時14分:9本目の魚雷を発射。
命中。何ら影響は見られない。
目標は潜望鏡の視界内にあり、魚雷は正しく航跡を描いている。
ネットの有無を観測したが見当たらない。
10時39分:10本目の魚雷を発射。
命中。何ら影響は見られない。
10時48分:11本目の魚雷を発射。
命中。何ら影響は見られない。
この魚雷は船尾側によく当たり、そのたびに水柱を作っている。
そのあと、タンカーの船尾方向に右へと曲がり、
100フィートほど水面上に出る様子を観測した。
私はこの様子を見ているが、
納得することは難しい。
10時50分:12本目の魚雷を発射。
命中。何ら影響は見られない。
11時00分:13本目の魚雷を発射。
命中。何ら影響は見られない。
反対側で射撃を行っているようだ。
11時22分:高速のスクリュー音を探知。
11時25分:艦首正面方向に、接近しつつある駆逐艦のマストを発見した。
11時31分:14本目の魚雷を発射。
命中。何ら影響は見られない。
11時32分30秒:15本目の魚雷を発射。
命中。何ら影響は見られない。
駆逐艦が1000ヤード以内に入ってきたため、深深度潜航に移る。
魚雷は確かにタンカーに命中し、航行する音も止まったことを確認した。
潜望鏡も下げたが、まったく爆発しなかった。
基地で検査を行うため、最後に残った魚雷を保持することとした。


これはどんな温厚な人物でも激怒しますわ。

写真の印象のみならず、ダスピット艦長は実際にも冷静で、
日頃動揺のかけらも見せないタイプと思われていたのですが、
その彼に直接キレちらかされた太平洋艦隊潜水部隊司令官、
チャールズ・A・ロックウッド中将
も、

「ダンの怒りは相当なものだったように思う」

と(控えめに)述べています。

結論としては、Mk.14型魚雷の磁気信管と爆発尖の不良が原因で、
ターゲットに直角かそれに近い角度で命中すると、
雷管につながるピンが折れて爆発しなくなることがわかりました。

これを受けてアメリカ海軍では早速改良を行うわけですが、
そういえば、この魚雷改良についてのエピソードも、
過去当ブログで取り扱った潜水艦映画で取り上げられていましたよね。

ジョン・ウェインの「太平洋機動作戦」”Operation Pacific”

アメリカの戦争映画のエピソードは、戦中戦後問わず、実際の
世間の耳目を集めた軍事ストーリーを取り入れがちなんですね。



ただし、この改良は最後までうまくいかず、結局「シルバーサイズ」も
おそらくMk.18という電気魚雷を採用していたと考えられます。


後半では魚雷発射のメカニズムについて概要をお話しします。


続く。

スーパー・ストラクチャー(上部構造物)〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-10-23 | 軍艦

潜水艦「シルバーサイズ」の艦内ツァーにやっとこぎつけたと思ったら、
エスケープチェンバーことエスケープ・トランクのことを話し出してしまい、
またもや上甲板から降りていく前に、1項を費やしてしまいました。

しかも今日は上甲板全体についてお話しします。
なかなか中に入っていきませんが、我慢してお付き合いください。



艦内のパネルによれば、甲板全般にあるもののことは
「スーパーストラクチャー」と言えばいいことがわかりました。

さて、ここで「ガトー」級潜水艦のシルエットが出たので、
現代の潜水艦と第二次世界大戦中の潜水艦について一言。

それらは時代の違いが一眼でわかるため、
大きく形も違っていると我々は思いがちですが、
「ガトー」級潜水艦の艦体形状は、実は(あるものを取り除けば)
現代の核攻撃型潜水艦と非常によく似ているのです。


我々が両者を「大きく違う」と判断するその大きな理由、
それこそが「スーパーストラクチャー」です。
「The stuff on top」を意味し、日本語では上部構造物と言います。



これは近代の原子力潜水艦ですが、さっくり言って、
「ガトー」級の潜水艦との違いはスーパーストラクチャーの有無です。

ここでいきなりですが、エスケープハッチを利用して作られた
見学者用の階段を降りていくと、あなたはこんな景色を目にします。


階段の左側の景色です。
まず、写真右側に見えるのがエスケープ・チューブの外側となります。

いかがでしょうか。
実にクラシックな葉巻形状の船殻外側が下部にご覧いただけます。


この頃の潜水艦が、ほぼ薄っぺらなオーク材の甲板によって
艦体をカモフラージュされたものであること、
しかるのちに、圧力球の上に色々な構築物を
「乗せた」にすぎないものであることが一眼でわかります。

実際、水密圧力艦体のほとんどは、艦内では喫水線より下にあります。

そしてボートの最大外幅は27フィートですが、
水密部分の乗員の居住区の内幅はわずか16フィートしかありません。


そして階段を降りながら右側を撮影したのがこれ。
水密区画の外側に色々と構造物があるわけですね。

写真左上部分には魚雷のローディング・スキッドが見えます。

そして、注意深く見ていただければ、スキッドの下側に
前方潜水機構のギア機構らしきもの、圧縮空気タンク、
そしてバラストタンクのエアベントなどもここにあるのがわかります。

これらは全て艦体の中に収める必要のない、
「水没可」のものであるということです。


ところで「シルバーサイズ」を使って撮影された、ホラー映画「ビロウ」で、
不可思議な現象を解明するために、何人かが海中で
ハッチから艦の外に出て、こんな空間に入っていくシーンがあります。


そこは海中でありながらこのような海水の溜まった空間で、
ここで霊の存在によって一人が命を失うことになります。

こんな部分が実際の潜水艦に存在するのかが気になっていましたが、
少なくとも実際の甲板下を見る限り、どこにもなさそうですね。

ハッチを出てしまったら、そこは全て水没しているはず。
なぜってそれがこの時代の潜水艦だから。

万万が一、本当に映画の「ビロウ」のような空間があるなら、
それはもちろん水密区画の外側となるわけですが、
そこは当然「ガトー」級独特の、船殻に穿たれた穴によって、水没します。



そして甲板。
潜水艦が水面にある間、そこは足場であり作業場であり、
銃撃戦の戦場となりました。


デッキの武装は、

4インチ.50 キャリバー・デッキガン
ボフォース40ミリ機関砲、


エリコン20ミリ対空機銃

が装備されています。



現代の潜水艦には存在しなくなった甲板銃は、当時のボートに
「弱い敵」に対する水上戦闘能力を与え、
魚雷を使うよりある意味ではこちらが好まれました。

その理由は砲弾は魚雷より格段に安価だったからで、
「弱い」の基準は「潜水艦を沈めるほどの力を持たない」という意味です。

しかし、この最初の哨戒において、「シルバーサイズ」は
この「弱い敵」(実は武装漁船)に機銃攻撃を仕掛け、
苦戦した上、乗員を失うという手痛い教訓を得たのでした。


「トルピード・ローディング・スキッド」

魚雷装填のためのスキッドは滑り台のようなレールです。
先ほど甲板下の階段から見えていたその入り口です。



クレーンで岸壁から持ち上げた魚雷を、この上まで運び、
スキッドという滑り台から内部に下ろしていくわけですが、
ほぼ手作業でこれらの積み込みを行うのは結構な重労働ですね。

哨戒に出るとき、「シルバーサイズ」は18本もの魚雷を搭載しましたので、
その作業に丸々1日はかかったに違いありません

潜水艦が魚雷攻撃を受けるのはえてして夜間浮上しているときでした。

バッテリーをチャージするためのディーゼルエンジン、
そして乗組員たちには大量に新鮮な空気が必要不可欠だからです。

こんな当時の潜水艦を、「Submarines」(潜水艇)ではなく、
「Submersibles」(潜水することができる艇)だろ、
というツッコミも当時からあったそうです。

まあ、そういう当時の問題を一気に解決したのが
水没したまま永遠に潜航(これが本当のスティル・イン・パトロールってか)
できる原子力エンジンだったわけですが、ディーゼル艦との大きな違いは
エンジンが空気を必要としないこと、これに尽きます。

しかも原潜は、二酸化炭素スクラバーの存在によって、
艦内で生活する人間に必要な空気も常に新鮮に保つことができます。

その結果、艦体がどうなるかというと、
カサ張る上部構造を必要としなくなります。
当然、艦体の合理化が進み、現在の潜水艦の形となるわけですね。

おまけに上部構造物がなくなるということは、水の抵抗はなくなり、
それだけで水上航走時速21ノット、水中9ノットだった頃より
格段の速さが約束されることになりました。



今更ですが、デッキの上のこの構造物を「セイル」と呼びます。
司令塔を多い、水上航行中には士官が立つ「ブリッジ」を形成します。

ブリッジの床にあるハッチは、水面からかなり高い位置にあるため、
航行中、唯一、慣習的に常時開けてあります。


実際にはどこにあるのかわかりませんでしたが、
ブリッジの上には回転トランスデューサーに取り付けられた
二つのターゲット方位トランスミッタ双眼鏡があり、
これで司令塔にある魚雷データコンピュータに視覚的方位を送信します。


ブリッジの上に突き出た垂直のシャフトの配列、
これは英語で「shears」(シアーズ?)と呼ばれます。

二つの潜望鏡、複数の種類のレーダーアンテナ、
そしてラジオマストを支えています。


見張りが立っていたのは、このマストに備え付けられたリングの中でした。
映画「ビロウ」では、海中にアクラングなしで出ていった副長?が
なぜかここに引っかかっていましたっけ。

そして哨戒を成功させて帰還してきたとき、「クリーン・スウィープ」として
慣習的にほうき🧹をシアーズに立てました。




セイルの周りから突き出すようにしてある、これ、

Ammo Scuttle(弾薬台)

だということですが、この名称を主張しているのは、今のところ
検索して見つかった一人のアメリカ人だけだったので、
これが正確な情報かどうかはわかりません。



Ammo Cylinders Protrude(弾薬貯蔵シリンダー)

です。

甲板の兵器に補充する弾薬は、この下に保管されていて、
上部で弾薬が必要になった時には、この下にあるシュートに装填され、
それが手でメインデッキに押し上げられます。



「シルバーサイズ」最初の哨戒での戦闘シーンです。

マイク・ハービン(装填している人)水兵が、武装漁船銃弾に倒れる直前、
どこから弾薬を持ってきていたかというと、
それは間違いなく、この弾薬庫からだったはずです。

そして、今まで気づきませんでしたが、写真左の乗員がいるのは、
このアーモ・スカットルあるいはシリンダーのある場所で間違いありません。

つまり、ハービンと、この人が、交代で弾薬から、
押し上げられてくる弾薬を受け取り、砲に装填していたことになります。
(もしかしたら右側端の乗員も同じことをしていたかもしれません)

この時はたまたまハービン一人が犠牲になって死亡しましたが、
同じ任務について弾薬を運んでいた水兵は、おそらく彼の死後、
ちょっとのタイミングの差で、彼は死に、自分が死ななかったことを、
不思議な気持ちで考えずにはいられなかったでしょう。




司令塔の後方にはオープン・ストレージ・エリアがあり、
掃除用具、ペンキの空き缶、バケツ、ヘルメット、
そして大型の・・・通風装置?
とにかくいろんなものが雑多に置かれているわけですが、
実はここのことを、

「ボースンズ・ロッカー(boson's locker)」

といい、当時から物置として使われていました。

現在でもボランティアの道具置き場となっています。





「ガトー」級の艦尾にしばしば見られるこの構築物、
これはおそらく艦体を衝撃の破壊から守るためのものだと思いますが、
正式な名称は分かりませんでした。

なんだろう・・・「艦体ガード?」

これもまた現代の潜水艦には片鱗さえもないものです。

しかし、ディーゼルエンジン潜水艦の「スーパーストラクチャー」は、
古い帆船の時代と、現代の高速攻撃型原子力潜水艦の間の、
進化を如実に表すものであるということがお分かりいただけるでしょう。


続く。




エスケープ・トランク・ハッチ〜潜水艦「シルバーサイズ」SS-236

2022-10-21 | 軍艦

さて、開始以来、その哨戒活動を順を追ってお話ししてきた、
ミシガンミシガン湖マスキーゴンに渓流展示されている
第二次世界大戦時の潜水艦「シルバーサイズ」。

今日からは、いよいよ実際の艦体を見学して、
その外部内部をご紹介していこうと思います。

まずは乗艦したデッキから始めたいと思いますが、
「シルバーサイズ」の哨戒について調べ終わった今、
最初に挙げた画像の意味がわかったので説明しておきます。

冒頭写真は敵撃沈数マークなどがペイントされたセイルタワー部分。

ペイントされているマークの数は、あくまでも、「シルバーサイズ」が
現役当時撃沈撃破したと信じるところの数に準拠していますが、
この撃沈数も、同じ情報を彼我の資料でざっとくらべただけで、
かなり違っていることがわかってしまったわけです。

ただし、国のために命をかけて戦ってきたベテランに対し、
多少の瑣末な結果の違いより、彼らの認識を尊重すべし、
ということになりがちなのがアメリカの戦争遺跡のリアルですので、
この辺はめくじら立てず、暖かい目で見守ろうと思います。


さて、そしてこれなのですが、今やその意味もわかりました。

まず左の機雷マークの中に書かれた16は、「シルバーサイズ」が
戦争中、各所に敷設した機雷の数となります。

この付近に「シルバーサイズ」が機雷によって
触雷沈没した日本船も確か何隻かあったはず。

そして右の落下傘に書かれた数字、

これは、ニコルズ艦長になってから、通商破壊作戦がなくなり、
その任務をパイロットの救出に切り替えて以降の哨戒で、
彼女が実際に海上から救い上げたパイロットの数です。

一人は陸軍航空隊のパイロット、そしてほぼ同時に
「インディペンデンス」の艦載機パイロットを助けたことも、
当ブログではすでにご紹介済みです。



とスッキリしたところで、乗艦するところから始めます。

「シルバーサイズ」の見学には、岸壁からかけられたラッタル、
ほぼ岸壁と同じ高さとなっている甲板に上がっていきます。



甲板に上がると、対岸まではすぐそこです。

「シルバーサイズ」は、ミシガン湖と、ミシガン湖から流れ込む
マスキーゴン湖をつなぐ運河沿いに係留されています。

運河にはタンカーや貨物船、民間船やヨットなども頻繁に行き来します。
運河の向こう側は緑地帯(キャンプ場が広がっている)、
さらにその向こうは広大なミシガン湖となっています。


「シルバーサイズ」に乗艦する見学者に真っ先に与えられる注意は、
以下の通りとなります。

「『シルバーサイズ』艦上の多くのシステムは、可動します。
ノブやスイッチ、ダイアル、レバー、ホイールなどを
決して触らないでください


ディーゼルエンジン式の潜水艦の艦底にあるバッテリーは、
展示艦となったとき、「シルバーサイズ」から外されました。

大量のバッテリーを除去した前後の艦底部分には、
バランスを取るためコンクリートブロック代わりに設置されています。

このことからも「シルバーサイズ」には、往年と同じような、
潜ったり浮かんだりの動作は無理であることは明らかなのですが、
注意書きによると、電気関係と主機能のエンジンはほとんど生きています。

特にエンジンに関しては、ボランティアの奮闘努力により、
現役時代と同様稼働することができるようになり、
年に一度、戦没将兵へのメモリアルデーに、退役軍人によって
エンジン始動するイベントが博物館の目玉になっています。

ちなみに(興行成績としては大失敗だった)映画「ビロウ」に出演したとき、
USS「タイガーシャーク」こと「シルバーサイズ」
海上を航走しているシーンは、艦体を曳航して撮影されました。

しかし「システムの多くが生きている」というのは本当です。



上部甲板の中央に立って見る艦首部分です。


舫の置き方は・・・・まあ普通。
乱雑ということはありませんが、海上自衛隊のほど芸術的でもありません。


過去の「シルバーサイズ」見学者が挙げた写真ではこんな置き方です。
こんな時代もあったようですが、人が変わったか、面倒になったのかしら。

■ エスケープ・トランク


「シルバーサイズ」内部にはここから入っていきます。

ボランティアによって修復されたデッキには、
見学者のための入り口がまず設置されました。



サンフランシスコに係留してある「ガトー」級潜水艦の
「パンパニート」が、「ダウン・ザ・ペリスコープ」という
潜水艦映画に出演したことがあり、当ブログでも紹介しました。

原子力潜水艦に乗せてもらえず、ディーゼル艦に罰ゲーム的に乗せられた
「落ちこぼれ軍団」が、原潜と対戦するという痛快ドラマ?ですが、
このとき、乗員が最後に「パンパニート」の甲板の
観客用の手すり付き階段からゾロゾロ出てきたシーンがありました。

もちろん、映画評価サイトではあり得ないそのシーンが
「goofs」(間抜けともいう)として指摘されていましたが、
常識的に考えて、現役の戦闘艦が、
一般人の乗降に親切な設計なはずがありませんから、
見る人が見ればすぐにわかってしまうのです。

当然「シルバーサイズ」も、その現役中は、
手すり付きの階段などというものは設置されていませんでした。

それでは乗員はどこから出入りしていたかというと、
上の写真の手すりの向こうに見えているハッチからです。


この写真の位置関係でお分かりだと思いますが、見学者用の出入り口は、
ハッチチューブの横から階段で入っていけるようにしたものです。



この部分の正式な名称は現地の説明によると、

「Escape trunk hatch」
(脱出用トランクハッチ)

となっています。

エスケープトランク、脱出トランクとは、潜水艦が沈没して水中にあるとき、
乗組員が脱出するための潜水艦の小さなコンパートメントです。

今日はこの装備について説明します。

「エスケープ・トランク」とは、エアロックと同様の原理で動作し、
圧力の異なる 2 つの領域間で人や物を移動させるというものなのですが、
とりあえず次の図をご覧ください。
               
映画「ビロウ」でも、海中の艦内から外に出ていくシーンがあり、
また、最後には霊の存在によって精神に異常をきたした副長が、
アクアラングなしでここから海中に出ちゃってましたよね。

で、この図を見て気が付きませんか?
見学者の出入り口って、位置的に「エスケープハッチ」なんじゃないの?

通常、陸上水上での乗員の乗り降りはアッパーハッチを使い、
艦体が水中にあるときのみ、エスケープハッチを使うことになります。



そういえば、この「マンセン・ラング」を着用した水兵さんが
体を乗り出しているのが、ズバリ、エスケープ・ハッチです。

マンセンラングを着用して海中に脱出するところを再現していたんですね。

これをみていただくと、艦によって多少の違いはあれ、
エスケープハッチがこの位置関係に存在したことがわかります。


■ エスケープ・チャンバー(脱出室)のメカニズム

ここでエスケープ・チャンバーのメカニズムについて説明しておきます。

潜水艦が水中にあるとき、外側のハッチの水圧は、
常に潜水艦内の気圧よりも大きく、従って、
ハッチは決して開かないようになっています。

ハッチを開くことができるのは、
エスケープ・チャンバー内の圧力が海圧と等しい場合のみです。

コンパートメントは潜水艦の内部から密閉されており、
水中に出る人は、まずエスケープチャンバー内に入ります。

この後、チャンバー内の圧力を海圧まで上げてから、
エスケープ用のハッチ(斜めに出ている部分)から外に出るのですが、
そのオペレーションについて、順を追って説明します。

1.排水バルブを開く

2.コンパートメントから残留水が確実に排出される

3.
潜水艦の内部と脱出トランクの間の圧力が均等になる

4.排出弁を閉じる

5.水中に出る者がスタンキーフードなど、
水中での呼吸装置をつけてチャンバー内に入る

スタンキーフード

6.海水バルブを開いて、チャンバー内に水を入れる

7.チャンバー内の空気が圧縮され、海圧と等しくなると、
チャンバーの浸水が止まる
水位は、図の水色の破線より高くなるようにする。

8.追加の空気が高圧空気供給からチャンバー内に排出される


9.空気圧が上昇

10.チャンバーの上部にある空気の泡は、外に出る順番を待っている間、
内部の人が呼吸するために残されたままにする

11. スタンキーフード内の圧力は、周囲の空気/水圧と同じにする

12.最初の脱出者は脱出チューブを登り、ハッチを押し開ける。
チャンバー内の圧力が海圧と等しくなるまで、ハッチを開かない

13.チャンバーの外に出ると、スタンキーフードの空気の浮力により、
脱出者はすばやく水面に運ばれる


14.浮上すると、周囲の水圧が低下し、

肺とフード内の空気が膨張するため、
脱出者は、肺から膨張する空気を放出するために、
水面までずっと息を吐き続けなければならない。

15.最後に出る人は、外側のハッチを押して閉める。

16. 脱出が終わると、内部ではドレーンバルブが開かれ、
チャンバーから水が排出され、潜水艦内の圧力と等しくなる

17.チャンバー内は、圧力により、

水が排水バルブから急速に押し出される

18.チャンバー内の圧力を下げると、潜水艦の外の海圧が高くなるため、
外側のハッチも強制的に閉じられる

19.まだ全員の脱出が終わっていなければ、
その後、全員が潜水艦を離れるまで、この手順を繰り返す。

昔は海の中に脱出した乗員が助かる率は大変低かったのですが、
その生存率を引き上げたのがDSRV

Deep Submergence Rescue Vehicle
(深海救難艇)


です。

それまでは、レスキューチェンバーによる救助が主流でしたが、
1963年に起きた原子力潜水艦「スレッシャー」の沈没事故では、
沈没した深度がレスキューチェンバーの限界を超えたところだったため、
全ての救助手段は失われ、乗員は結果的に全員死亡しています。

それが本格的なDSRVの開発が始まったきっかけでした。



続く。





ブラック・ウィングス フライング・イン・シカゴ〜スミソニアン航空博物館

2022-10-19 | 飛行家列伝

アメリカに大恐慌が起こったのは1929年から1933年です。
この間、航空界はリンドバーグの大西洋横断の余波もあって
この恐慌とは関係なく安定して盛り上がっていました。

特にシカゴは、アフリカ系アメリカ人の航空の本拠のようになり、
それは西のロスアンジェルスの隆盛に匹敵しました。

そのシカゴでのブラックウィングスを中心となって率いたのは、

コーネリアス・コフィー
(Cornelius Coffey)1902−1994

とう伝説の黒人アビエイターでした。

■コーネリアス・コフィーのパイロット養成学校



コーネリアス・コフィーは元々熟練の自動車整備士でした。
航空の時代がまさに訪れているのを目の当たりにした彼が
パイロットを夢見たのも当然の成り行きだったといえましょう。

1931年、彼は同じ航空を目指すアフリカ系の同士を集め、
カーチス・ライト航空学校で航空を学ぶために始動を行います。

そして自身が航空技術を身につけた後は、地元シカゴで
アフリカ系が飛行する機会をさらに拡大するため、
「チャレンジャーズ・航空パイロット協会」を組織しましたが、
地元ではなかなかうまくいかず、結局彼らはイリノイ州に出て

「コフィー・スクール・オブ・エアロノーティクス」

という航空養成学校を開設します。

そこが軌道に乗ると、シカゴでも訓練クラスを設立し、
民間パイロット訓練プログラムからフランチャイズを得ました。

彼とその仲間のこの働きによって、黒人飛行家が排出されます。
その中には、後述するショーンシー・スペンサーとデールホワイト、
そしてタスキーギ・エアメンとなる多くのアフリカ系パイロットがいました。

彼の飛行スクールは黒人のみならず白人も排出しており、
航空における人種分離政策の終焉を目指す目的を持っていました。
  
コーネリウスと女性パイロット訓練生。

連邦政府が資金提供し、コーネリウスがフランチャイズ契約した
シビリアン(民間)パイロット・トレーニングプログラム(CPTP)は、
基本セグレゲートつまり人種分離されたものではありましたが、
それでも黒人に前例のない飛行訓練の機会を提供しました。

コフィーがシカゴのCPTPのフランチャイズを取得したのは
第二次大戦の前夜となる1939年のことです。

政府が、当時の世界情勢から「いざ鎌倉」(って言っていいのかな)のために
航空分野の裾野を広げようとしていたらしいことが窺い知れます。

■ ウィラ・B・ブラウン


ウィラ・ベアトリス・ブラウン(Willa Beatrice Brown 1906 - 1992)

は、 パイロット免許を取得した最初のアフリカ系アメリカ人女性です。

彼女の先駆だったベッシー・コールマンは、人種差別の壁ゆえ、
免許をフランスまで行って取らざるを得ませんでしたが、彼女は
アメリカで免許を取得し、これが黒人女性初となったのです。

のちに彼女はアフリカ系アメリカ人女性として初めて連邦議会に立候補し、
民間航空パトロール隊の最初のアフリカ人幹部となり、
パイロット免許と航空機整備士免許を同時に持った最初の女性となります。

ウィラ・ベアトリス・ブラウンはケンタッキー生まれ。
インディアナ州立教員学校を卒業しました。
10年後、名門ノースウェスタン大学からMBAを取得しています。

卒業後、秘書、ソーシャルワーク、教師など様々な仕事をするうち
コーネリウスが創設したアフリカ系アメリカ人のパイロットグループ、
「チャレンジャーズ航空パイロット会」に入会することになりました。

【航空界でのキャリア】

1934年、ブラウンはコーネリアス・コフィーのもとで学び始めました。
1938年に自家用操縦士免許[10]、1939年に事業用操縦士免許を取得し、
米国で両免許も取得した最初のアフリカ系アメリカ人女性となりました。

ウィラ・ブラウンはコーネリアス・コフィーらと共同で
のちに全米飛行士協会となる全米黒人飛行士協会を設立します。

彼らの主な使命は、航空への関心を高め、航空分野への理解を深め、
両分野へのアフリカ系アメリカ人の参加を増やすことでした。

ブラウンは同協会のシカゴ支部長兼全国幹事を務め、広報を担当し、
アフリカ系アメリカ人に飛行機に興味を持ってもらうために、
大学を訪問したり、ラジオに出演して語ったりしました。



彼女は、当時隔離されていた陸軍航空隊と民間パイロット養成プログラム
(CPTP)に黒人パイロットを統合するため政府に働きかけました。

1925年、アメリカ陸軍士官学校の研究はこう結論づけました。

「アフリカ系アメリカ人は飛行に適さない」

どういう研究の結果こう結論が出されたのかはわかりませんが、
彼女らはこの結果に反証せんと務め、そして
アフリカ系アメリカ人のパイロットを養成する
CPTPの契約を結ぶよう連邦政府に働きかけました。

その努力が実り、1940年、彼女はまずCPTPのシカゴユニットの
コーディネーターに任命されます。

彼女が知的で優秀だったことはもちろんですが、この結果には
その美貌も手伝ったのではと思うのはわたしだけでしょうか。

穿ったようなことを言いますが、彼女の顔貌は黒人といっても、
鼻筋が通り、唇が薄く、いわゆる現代のハリウッド映画に
ポリコレ配慮で出てくる主役級黒人女性と同系統のものに見えます。

彼女が自分の美貌を十分に認識し、それを十二分に活用していたのだろう、
と思われるこんな記述があります。

「スタイル抜群の若くて褐色の肌をしたウィラ・ブラウン
(Willa Brown)、白い手袋、体にぴったりした白い上着を着て、
白いブーツを履いた、そんな彼女が1936年、
私たちのニュースルームに足を踏み入れたとき、全員が息を呑み、
すべてのタイプライターが突然静かになったほどだった。

他の訪問者とは違い、彼女にまったく怖気付く様子がなかった。
自信に満ちた態度で、そのハスキーな声には決意が感じられ・・・」


彼女がこれほどの、つまり白人にも通用する基準の美人でなければ、
ウェストポイントの研究結果を一夜にしてひっくり返したり、
ここまで話をうまく運べただろうか、とふと考えてしまいます。

まあ、いつの時代も圧倒的な美は時として歴史を変えるってことでしょうか。
当時の黒人航空界が彼女を得たことは、一つのチャンスでもあったのです。

この記述をしたのは、シカゴ・ディフェンダー紙の編集者かもしれません。

彼女は宣伝のため、アフリカ系アメリカ人パイロットの航空ショーに
編集者を招待し、実際に彼をフライトに乗せたことがあるからです。

この時のフライトと彼女の魅力が、この編集者によって忘れ難いもので、
その筆によって大いに宣伝されたのはいうまでもありません。


さて、彼女のおかげかどうかはわかりませんが、その後
コフィー・スクールはアメリカ陸軍航空隊のパイロット養成プログラムに
黒人学生を提供するための供給校として選ばれました。

この結果、同校から約200人の学生がタスキーギ飛行隊に送り込まれ、
「レッドテイルズ」として活躍し、黒人の将官を生むまでになります。

彼女自身ももちろんその後、黒人女性として栄光を手にします。


コカコーラを飲むブラウン中尉(マニキュアもしてます)

1942年、彼女は民間航空パトロール隊613-6で中尉の階級に達し、
民間航空パトロール隊で最初のアフリカ系アメリカ人将校となり、
その後、民間航空局の戦争訓練任務コーディネーターに任命されました。


彼女は生涯、航空分野と軍における男女平等と人種平等の擁護者でした。

1945年にコフィー・スクールが閉鎖された後も、
ブラウンはシカゴで政治的、社会的な活動を続けました。

1946年と1950年には連邦議会予備選挙に出馬し、
2回とも白人男性に敗れましたが、出馬自体がアフリカ系女性初となります。

その後は1971年に65歳で引退するまでシカゴ公立学校で教鞭をと理、
退職後、1974年まで連邦航空局の女性諮問委員会の委員を務めました。


上から;

航空での彼女の多くの業績は認められ、
ケンタッキー州ルイビルにゲストとして招待されました

注意、市民航空パトロール副官、全国空軍協会事務局長、
市民航空管理のための戦争任務コーディネーター。
ブラウンはまるで今でも飛行機に乗り空中回転をしているようです

彼女の飛行学校は空軍への黒人の試験的受け入れを実地するため、
陸軍と市民航空局によって選定されました



このムーブメントに、多くの黒人パイロットが参集してきましたが、
その中には女性もいました。

ジャネット・W・ブラッグ(Janet Bragg)1907-1991

は、シカゴで看護士をしていたとき、航空に魅せられ、
コフィーの航空プロモートに加わりました。

彼女の財政的支援は、シカゴの飛行クラブが
最初の飛行機を購入することができるほどでした。

彼女が資金提供できたのは、看護師として働きながらさらに大学院に進み、
キャリアアップしていくつかの病院で正看護師として働き、
十分なお金を貯めていたからでした。

苦労して商業免許を取得し女性航空隊WASPsに入隊しようとするも、
肌の色を理由にあっさり断られています。

戦後も彼女は飛ぶことを諦めず、自費で飛行機を購入し、
クロスカントリー飛行で多くの記録を打ち立てました。



ここに、「チャレンジャーズエアパイロット協会」の集合写真があります。
ここに写っているのが当時のシカゴ黒人航空界の主流メンバーです。

右上の写真はおそらくベッシー・コールマンでしょう。
真ん中にいるのがブラッグ、その左か右がブラウンでしょうか。

黒人によるエアショーの開催


「エア&グラウンドショー」

第二回有色人種空中&地上ショー
9月24日日曜日午後2時より

出演 ドロシー・ダービー嬢(クリーブランド)
アメリカ唯一の女性パラシュートジャンパー

ジョージ・フィッシャー少佐
シカゴ、デアデビルのベテラン
1万フィート上空巨大飛行機からのセンセーショナルなパラシュート降下
アクロバット飛行

ピーター・コンスドルフ
燃えるような木製の火の壁をオートバイで通り抜ける決死の挑戦

レイ・ブリッチャーズ(チャタヌガ)
トンプソンブラザーズ・バルーンアンドパラシュートカンパニー

場所:(省略)
ご来場はお早めに 軽食付き

演奏:キャプテンカリーズ・コンサートバンド
入場料:大人35セント 小人10セント




「マンモス・エアショー」

特別出演;ウィリー’自殺’ジョーンズ
世界記録に挑む 飛行機からのパラシュート降下


どちらも、バイクによるスタントを加えて飽きさせないよう
イベントを色々見せようとしている感じです。

最初にも書いたようにこの頃アメリカは大恐慌に見舞われていましたが、
ロスアンジェルスとシカゴの黒人飛行クラブは
観客を動員するエアショーを後援し開催させることができていたのです。

シカゴの名パラシューター、
ショーンシー・スペンサー


シカゴの黒人エアショーでパラシュートジャンプを決めた
ショーンシー・スペンサー(Shauncey Spencer)の勇姿。

スペンサーはシカゴで最も有名なバーンストーミングパイロットでした。



1939年、フロイド・ベネットフィールドで
シカゴからニューヨーク、ワシントンD.C.と飛ぶデモ飛行中のスペンサー。

スペンサーはこの時ワシントンD.C.で、当時
ミズーリ州の上院議員だったハリー・S・トルーマンや、
その他の政治指導者と会っています。

このことも、航空における人種差別に終止符を打つためでした。


スミソニアンにはスペンサーの飛行スーツとメガネ、
航空帽が展示されて今でも見ることができます。

これらの装備は、当時オープンコックピットの飛行機で飛行するために
必要不可欠なものでした。

ショーンシー・スペンサー(1906-2002)
バージニア州リンチバーグに生まれたアフリカ系アメリカ人の飛行家です。

母親はハーレムルネッサンスの詩人アン・スペンサーでした。

スペンサーは11歳の時に初めて飛行機の飛行を見ました。

家族の友人で、再建後初の黒人下院議員であるオスカー・デ・プリーストは、
スペンサーにシカゴの彼の選挙区に移動して飛行訓練を受けることを提案し、
彼はアフリカ系の飛行士たちと全米飛行士協会(NAAA)を組織しました。

彼はシカゴのレストランの厨房で働きながら、
週給のほとんどを飛行訓練に充てていました。

その後、数人の仲間とともに旧式の飛行機を購入し、フライトを行います。

スペンサーとホワイトの飛行が黒人新聞に掲載されたことは、
第二次世界大戦前の民間人パイロット養成プログラムに
黒人を加えるよう議会を説得するための布石となったのです。


1939年、スペンサーが行った飛行は
民間と軍の航空界における人種平等を推進する一つのきっかけでした。



スミソニアンはなぜかデール・ホワイトとスペンサーが
鳥になって木に止まっているクリスマスカードを保存しています。

枝に止まっている本物の小鳥が『?』となっているのが可愛い。



そしてそのカードの中身です。
シカゴ-ワシントンD.C.フライトが書かれています。

1939
シカゴーオハイオークリーブランドーピッツバーグーニューヨーク
フィラデルフィアーボルチモアーワシントンD.C.ーバーモント
コロンバスーフォルテウェインーシカゴ


「つがいの『鳥』が飛び回っています・・
地上で多くの時間を過ごしていますが、
風が変わり、陽気な季節がやってくると、私たちは囀ります

『メリークリスマス、そしてハッピーニューイヤー』

スペンサー ホワイト

・・・・・1940?

1940年にはまた別のフライトを予定していたのでしょうか。
詩的な言葉が、やはりなんというか、詩人を母に持つ息子っぽいですね。


続く。




大統領夫人を乗せて飛んだ黒人パイロット〜スミソニアン航空博物館

2022-10-17 | 飛行家列伝

飛行の黎明期、アメリカ大陸を航空機で横断することは、
航空の世界の一つの金字塔となりました。

初めて飛行機による大陸横断を成功させたのは、1911年、

カルブレイス・ロジャースCalbraith Perry Rodgers、
1879-1912

ライトフライヤーEX型を使用し、
ニューヨークからカリフォルニアまで総所要時間84日間、
実際の飛行時間は3日と10時間14分でした。

カルブレイス。この直後エアショーでバードストライクによる墜落死

アメリア・イヤハートは無着陸でアメリカ大陸を横断した最初の女性となり、
ジョン・グレンは初めて超音速機で大陸を横断したパイロットとなりました。

しかし、なぜかジェイムズ・ハーマン・バニングの名前は、
大陸横断を成し遂げた飛行士として大きく記されることはありません。

それはなぜか。

彼の記録が、「アフリカ系アメリカ人として初めて」
という特殊な注釈なしでは語れないからです。

■ ジェイムズ・H・バニング



1932年、黒人飛行士による初の大陸横断飛行を成功させたのは、
優秀なバーンストーマー(アクロバットパイロット)であった
ジェイムズ・ハーマン・バニングと、彼のメカニック、
トーマス・アレンで、飛行時間は41時間27分でした。

ロサンゼルスからニューヨークまで飛行したバニングは、
黒人パイロットとして初めての記録を樹立し、
後に続く他の黒人航空記録達成者への道を開いた飛行家と称されています。


バニングとメカニックのアレン

バニングは1932年、アレクサンダー・イーグルロック複葉機で、
メカニックのトーマス・C・アレンと最初の大陸横断飛行を行いました。

この歴史的な挑戦は、黒人飛行士によって行われる
一連の長距離飛行につながっていくことになります。

長距離飛行は、アフリカ系アメリカ人パイロットが
その飛行技術を披露するための劇的な方法となりました。

当時何人かのアフリカ系パイロットが長距離飛行を行いました。
バニングらはその飛行実績をもとに、アフリカ系アメリカ人の社会において
航空への進出を盛り上げるための道作りをしたといえるかもしれません。

彼ら黒人パイロットがこうやって飛行に成功するたびに、
その技量が白人に全く引けを取らないことが証明されることになります。

そして、航空は人種に関係なく、すべての人に対して
平等に開かれたものであるべきだという考えが広まっていきました。


飛行機はアレンと共に余剰部品(スクラップ)を集めて作ったものです。

横断飛行の時に財政的支援を募らなくてはいけなかったので、
彼らは「フライング・ホーボーズ」(空飛ぶ浮浪者)
と屈辱的なあだ名で呼ばれていました。

ものもらい、という意味だったのでしょうか。
彼ら的にはオッケー・・・じゃなかっただろうなきっと。

実際、彼らは一つのフライトが終わって、次のフライトを計画しても、
その度に資金の調達に走り回らなければならなかったため、
フライトとフライトの間には最低でも21日間が必要だったといいます。


バニングは、いわゆる「航空の黄金時代」に多感な時期を過ごし、
空に憧れた「フライボーイ」の一人でした。

■バニングはなぜ墜落死したのか



「ミス・エイムズ」というのがバニングの愛機の名前です。
機体には「バニングと共に飛ぶ」と、飛行機が擬人化された文句が。
この写真は1929年、アイオワで撮られたものです。

バニングは史上最初の黒人飛行士としてライセンスを取ったうちの一人でした。

アイオワ州立大学でエンジニアリングを学んだ後、
「ベッシー・コールマン・フライングクラブ」創設者の
(前項でお話しした)ウィリアム・パウエルとロスアンジェルスで会い、
一緒に活動を始めました。

しかしながら、歴史的な飛行からわずか4か月後の1933年2月5日、
サンディエゴのキャンプ・カーニー軍事基地で行われた航空ショー中、
ジェイムズ・バニングは飛行機事故で死亡しました。

その事故には、微妙に人種問題がまつわっていて、
実に後味の悪いものになっています。


バニングは、そのショーで、二人乗りの複葉機を使用する予定でしたが、
エアテック飛行学校の教官が、彼の飛行機の使用を拒否したため、
仕方なく、バニングは海軍機械工兵二等航海士、
アルバート・バーガート(もちろん白人)
が操縦を行い、
自分は横に乗ることしか許されませんでした。

この「拒否」の理由は少なくとも見当たりませんでしたが、
どこにも説明がないということは、白人の教官の拒否の理由はただ一つ、
彼がアフリカ系であったことしかないでしょう。

当時はそれが許されるというか、もしそうしたとしても
何ら咎め立てされるような社会ではなかったのです。

彼が操縦しないなら、何のための航空ショーかという気がするのですが、
操縦席に座れないのならば、助手席に乗って飛ぶしかありません。

おそらく航空ショーには金銭がからむので、
そんなら俺は飛ばねえ!と拒否することもできなかったのかもしれません。

おそらく、彼は助手席から主操縦席のバーガード二等兵に
自分がやっているマニューバに従い飛行指示を出したのでしょう。

ショーが始まり、飛行機は離陸して400フィート上昇した後、
失速して回復不可能なテールスピンを起こし、墜落していきました。

この惨劇を目の当たりにした何百人もの観客が
恐怖のどん底に陥ったことは言うまでもありません。
バニングは残骸から回収され、1時間後に地元の病院で死亡しました。

人種偏見から、黒人が操縦することを禁止した教官によって、
無理やり操縦桿を握らせられた(であろう)バーガードも亡くなりました。

この人にとってもとんだとばっちりですが、
この事故の責任は果たして誰が取ったのでしょうか。
誰もとらなかったんだろうな。

直接事故を起こしたのも白人だし、
事故の原因を作ったのも白人でしたから。



■ アルフレッド・アンダーソン


ローレンス・フィッシュバーンが主人公を演じた、
黒人ばかりの戦闘機部隊「タスキーギ・エアメン」を描いた映画、
「レッドテイルズ」で、フィッシュバーンの飛行機に
視察にきたルーズベルト大統領夫人エレノアが無理やり乗り込んで
操縦させてご満悦、と言うシーンがあったのを覚えていますか。

その実際の逸話で飛行機を操縦したのが、
タスキーギ・エアメンのC・アルフレッド・アンダーソンでした。


アンダーソン(左)とフォーサイス

フィラデルフィア出身のC・アルフレッド・アンダーソンは、
1930年代でおそらくは最も才能のある黒人飛行士の一人でした。

彼は、ニュージャージー州アトランティックシティの医師であった
アルバート・E・フォーサイスとチームを組みました。

パイロットとしての技術はアンダーソン、財政的支援はフォーサイスの担当。

このタッグによって、彼らはバニング-アダムスのように
「フライング・ホーボー」とならずに済んだと言うわけです。

そして彼らは長距離飛行記録の樹立によって名前を上げました。

この頃の黒人飛行士たちは、先駆者として
アフリカ系アメリカ人コミュニティで航空の関心と、
裾野を広げるなどの動きを促進するために意識して
こういった「派手な」フライトにあえて挑戦していました。

■ ザ・グッドウィル・フライト

「飛行の黄金時代」であった1920年代、30年代のキーワードの一つは
「ロング・ディスタンス・フライト」でした。

そして、大陸や海を横断する長距離飛行など、多くの挑戦が生まれます。



たとえばこの航路ですが、フロリダのマイアミからカリブの島伝いに
キューバ、ジャマイカ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、
そしてスペイン領トリニダードからブラジルへと飛ぶコース。

誰も行ったことがないコースを飛び、成功させ、名を挙げることが
当時の飛行家たちの夢となったのです。

アンダーソンとフォーサイスは、1933年、まず大陸横断飛行を成功させ、
次いで、1934年に、上のカリブ海航路を飛ぶことに挑戦しました。


バハマ到着後、現地知事の歓迎を受ける二人

このときの飛行は「The Goodwill Flight」と呼ばれました。


ここにすでに「南アメリカグッドウィルフライト」の文字が見えますが、
グッドウィルの意味を図りかねていたわたしも、これを見て気づきました。

「グッドウィル」は、フライトのスポンサーとなった

「インターレイシャル・グッドウィル航空」

のことだったんですね。納得。

さて、グッドウィル・フライトの目標は、
黒人飛行士のスキルを世界に示すこと。
そして人種への理解を深めることでした。

グッドウィル・フライトは最初ということもあってスリル満ちていました。
その頃バハマには陸上飛行機用の空港がなく、夜間到着した彼らは
自動車のヘッドライトに照らされた未舗装の道路に着陸を行いました。

しかし、彼らは冷静かつ大胆な操縦でそれを成功させたため、
地元にはセンセーションを巻き起こし、大きく報道されました。

彼らの目的は十二分に達成されたと言っていいでしょう。


黒人として初めて民間航空局で航空運送事業の免許を取得した彼は、
その後結婚して家庭を築きながら飛行の仕事をしていましたが、
黒人医師であるパイロットのアルバート・フォーサイス博士と出会い、
一緒に黒人による航空の世界への進出を切り拓く夢を共有します。

この免許は、彼がタスキーギ・エアメンに入隊する前、
ハワード大学の民間操縦プログラムで飛行教官をしていた時のものです。


大陸横断飛行に挑戦中、カンサス州ウィチタで飛行機を降り、
地図を見ているフォーサイス医師とアンダーソン。

遠くから見ても、どちらがフォーサイスかよくわかりますね。
というか、飛行機に乗るのにスーツにネクタイって。

右下の封筒は、彼らのクロスカントリー飛行の記念です。
ニューアークから故郷に宛てて出したもののようです。


ロスアンジェルスに到着し、アトランティックシティに戻るため
飛行機に乗り込むスーツ姿のアンダーソンとフォーサイス。

飛行機の状態は、白黒写真でも大変手入れが行き届いていており、
彼らの飛行が資金の調達を潤滑に行っていたことが見て取れます。

彼らの使用したランバート・モノクープは、洗練された、
かつ信頼性の大変高い民間航空機で、彼らはさらにそれを証明しました。

アンダーソンとフォーサイスは、ナッソーに飛んで、そこで
先ほどのような空港のない島に着陸することに成功しています。

■アンダーソンとフォーサイスのその後

アンダーソンはその後黒人ばかりを集めた陸軍の航空プログラムに採用され、
飛行教官のチーフを担当することになります。
彼のニックネーム「チーフ」はこの頃の呼び名が定着したものです。


大統領夫人エレノア・ルーズベルトを乗せたのもこの頃です。
せっかくですので、繰り返しになりますが、経緯を書いておきます。

1941年4月11日、その日エレノア・ルーズベルト大統領夫人は
アラバマ州のタスキーギ研究所にあった小児科病院を視察していました。

何気なく窓の外を見た彼女はそこに飛行機が飛んでいるのに気づき、
チーフ・インストラクターに会いたいといきなり言い出しました。

そのインストラクターこそがアンダーソンだったわけですが、おばちゃん、
失礼にもアンダーソンに向かって、

「有色人種は飛行機の操縦なんてできないと聞いていたけれど、
この人は飛べそうじゃないの」

と言い出し、慌てる周囲を尻目に

「あなたと一緒に飛んでみたいわ 」

とさらにとんでもないことを言い出すではありませんか。

アテンドの陸軍軍人たちも警護も畏れながらと異議を申し立てましたが、
言い出したおばちゃんはもちろんのこと、
アンダーソンもファーストレディの申し出を断ろうとはしませんでした。

40分後、空から戻ってきた乗客は、

「Well I see you can fly, all right!」
(なんだ、飛べるじゃないのあんた)

と軽〜く言い放ったと伝えられます。

この時の事件は「歴史を変えたフライト」として知られています。

なぜなら、黒人はまだその時点で陸軍航空隊で飛行したことがありません。
ルーズベルト政権は、黒人のパイロットを養成できるかどうかを
タスキーギ飛行士を使っていわば実験を始めたばかりだったからです。

この時の彼女のおばちゃん的行動とその結果が、たまたまだったのか、
それとも実は仕組まれたもので、彼女は最初からそうするつもりだったのか。

もっと深読みすれば、もしかしたらアンダーソンもその整備士も、
薄々それを何処かから聞かされていたという可能性もありますが、
まあ、今はそこまで勘繰るのはよしにしましょう。

いずれにせよ、タスキーギ・エアメンの実戦投入への過程において、
大統領夫人の気まぐれ体験が追い風になったのは間違いありません。

アンダーソンはその後、教官として、のちに黒人で将軍にまでなる
ベンジャミン・O・デイビスJr.ダニエル・"チャッピー"・ジェームズsr.
といった有名な軍用航空のパイオニアたちを訓練することになります。

アンダーソンは戦後もタスキギーで教官を行い、
多くの黒人のみならず白人の航空要員を育て上げました。

1967年には、世界で最も古いアフリカ系パイロット組織である非営利団体
「Negro Airmen International(NAI)」を共同設立し、
後進の育成に尽力しています。

アンダーソンは1996年タスキギーで静かに息を引き取りました。

生前、自分の業績に対して何の名声、評価、富をも求めず、
民間・軍人を問わず何千人ものパイロットの人生に影響を与え続けました。

フォーサイス博士はアンダーソンとのグッドウィルフライトの後、
本業に専念したのか、航空業界の一線からは姿を消しましたが、
妻となった看護師のフランシス・T・チュウは、彼の歴史的偉業を
後世に残すべく、1989年の彼の死後も尽力しました。



セントルイスのランバート国際空港には、歴代の黒人飛行家を描いた
「Black Americans in Flight」があります。



この一番左端には、バニングとベッシー・コールマン、
そして肩を組むアンダーソンとフォーサイス博士の姿が描かれています。



続く。


ブラック・ウィングス「パス・ファインダー」〜スミソニアン航空博物館

2022-10-15 | 飛行家列伝

スミソニアンの「ミリタリー・ウィングス」のコーナーにある
とても印象的な版画です。



「ラウンデル」と呼ばれる、イギリス空軍のマークを翼にあしらった
航空機のパイロットが愛機のプロペラの向こうに見る美しい女性。

彼女は果たして彼の空戦を勝利に導く女神なのか、それとも
彼の運命そのものを見守る死の天使なのか・・・。



と言うわけで、今回取り上げるのは、まだ人種差別が行われていたアメリカで
パイロットとなったアフリカ系アメリカ人の記録です。

「ブラック・ウィングス」と言う言葉はこれまでにも何度か
アメリカの航空博物館の展示をご紹介する過程でこのブログでも使いました。

内容も、取り上げる人物も重複することは避けられないのですが、
そこは「スミソニアンでの展示」という違う視点をお楽しみください。




飛行機の発明は、現代の技術に革命を引き起こしました。
大衆の心の中で、新しい航空時代は冒険とヒロイズムに結びついていきます。

アフリカ系アメリカ人は飛行に対する熱意を幅広く共有しましたが、
当時のアメリカではパイロットや整備士としての訓練を行うにも
その導入の段階で拒否されると言うのが通常でした。

1920年代以降、少数の固い決意を持った空を愛する黒人たちが
人種差別に異議を唱えました。

白人でも簡単なことではなかった当時の航空界。

その並ならぬ困難と障害にもかかわらず、彼らは空を飛ぶと言う夢を
決して諦めず、それを実現させていったのです。


モニターにちょうど映し出されている航空機は、
イタリア戦線に出撃した第332戦闘機群のP-51マスタング。
当時最新鋭とされた戦闘機です。

第332戦闘機群は、通称「タスキーギ・エアメン」と呼ばれた
黒人パイロットで構成されていました。

このパネルでは、ここからブラックウィングスの展示が始まることを
予告しており、6名の名前が記されています。

ベッシー・コールマン

ウィリアム・J・パウエルJr.

ジェイムズ・ハーマン・バニング

コルネリウス・コフェイ

ノエル・F・パリッシュ

ベンジャミン・O・デイビスJr.



ここの説明によると、「初期のパイオニア」は
アフリカ系女性として初めてパイロットになったベッシー・コールマン

彼女以降、同族の航空愛好家が増えていくことになります。
ウィリアム・パウエルJr.は「ブラック・ウィングス」の著者です。

彼は飛行家としてロスアンゼルスで飛行クラブを組織しました。

またジェームズ・ハーマン・バンニング
C・アルフレッド・アンダーソンとアルバート・E・フォーサイス
長距離飛行で記録を樹立する飛行家になりました。

コルネリウス・コフェイは、シカゴに黒人飛行士のための
新しいセンターを設立するという働きをしています。

それでは最初に、このパネルの横に立っている
革コート、革ブーツに皮のヘルメットといういでたちの女性、
ベッシー・コールマンからでご紹介しましょう。

■ベッシー・コールマン
「初のアフリカ系女性パイロット」


「The Pathfinder」パスファインダーは「道を切り拓く人」、
または開拓者という意味があります。
彼女のタイトルには敬意を込めてこの言葉が掲げられています。

コールマンは1920年代の航空ショーで、
バーンストーミング(barnstorming)パイロットとして活躍し、
人種偏見の逆風に逆らって飛び続けました。

バーンストーミングとは、チャールズ・リンドバーグの時に説明しましたが、
つまりエアショーなどで技を披露するアクロバット飛行パイロットです。

1920年代という、彼女の人種と性別に最も不利だった時代に、
彼女は誰よりも早く地位をベンチマークすることに成功しました。

バーンストーマーとして認められた彼女は国内をツァーで周り、
全米の航空ショーで曲技飛行を行いました。

しかし、彼女の飛行キャリアは短命でした。

1926年、彼女は飛行機事故によって34歳で亡くなりましたが、
その事故の様子は次のとおりです。

「1926年4月30日、フロリダ州ジャクソンビル。
彼女はカーチスJN-4(ジェニー)をダラスで購入したばかりで、
彼女の整備士ウィルズはダラスから飛行機を飛ばしたが、
整備不良のため、途中で3回強制着陸をしなければならなかった。

関係者は彼女にこの飛行機に乗ることを危険だと忠告したが、
彼女は拒否し、整備士の操縦する機のコクピットに乗り、離陸した。

彼女は翌日にパラシュートジャンプを計画しており、
コックピットから見える地形を調べようと思っていたのである。

離陸から約10分後、飛行機は地上1000mで不意に急降下し、その後スピン。
コールマンは610mの高さで機体から投げ出され、地面に激突して即死。

ウィルズは機体の制御を取り戻すことができず、地面に落下し死亡。
飛行機は爆発し、炎に包まれた。

後にエンジンの整備に使ったレンチが操縦桿を詰まらせたことが判明した。
葬儀はフロリダで行われた後、彼女の遺体はシカゴに送られた。」

彼女が死亡したのは、チャールズ・リンドバーグ
「スピリット・オブ・セントルイス」で歴史的な大西洋横断を行う
わずか一年前のことでした。

活動期間はわずか5年だけだったにもかかわらず、
彼女は最初のアフリカ系アメリカ人女性の才能ある飛行家として、
同じアフリカ系のコミュニティにとっては、航空界でのキャリアを模索する
ロールモデルとなり、永続的な一つのシンボルとなったのです。


フランスで取得したベッシーコールマンの航空ライセンス

彼女がフランスのコードロン・ブラザーズ航空スクール
国際的に認可されたパイロット免許を取得したのは1921年6月15日です。

免許には航空帽に航空眼鏡をつけ、パイロット姿の彼女の写真の下に
彼女自身のサインがされています。

彼女がフランスにわざわざ行かねばならなかった意味がお分かりでしょうか。

それはもちろん、彼女の人種と性別にその理由がありました。
当時のアメリカではアフリカ系の女性を受け入れる
航空の訓練施設はまずあり得なかったのです。

そこで彼女はまずフランス語の読み書きを勉強することから始め、
フランスに渡ってパイロットの国際免許を取得して、
それでアメリカ国内を飛行する手段を得ることを選んだのです。


説明はありませんが、おそらくこれは
フランスの航空学校の学生証というものではないかと思われます。
まだ学校に入る前なので、航空とは無縁の服装で写っていますが、
その表情も気のせいかかなり不安そうで自信なげに見えます。

学校に入って翌年、彼女は見事ライセンスを取得しました。
結果、彼女は男女問わず、史上初めて認可された
アフリカ系アメリカ人パイロット
になりました。



しかしいくら彼女自身にガッツがあっても、フランスへの旅費や
学校の授業代、生活費など、アフリカ系の若い女性が
どうやって用意することができたのでしょうか。

ネイリストだった彼女は、第一次世界大戦から帰還した航空兵から
戦時中の飛行の話を聞き、すっかり空に魅惑されました。
そこでパイロットになることを決意した彼女は、レストランで働き、
マネージャーにまでなって必死でお金を貯めたのです。

彼女を支援したのは、まずアフリカ系の弁護士で、
「シカゴ・ディフェンダー」紙(現在もオンライン配信で継続中)の創立者、
ロバート・S・アボットで、彼女に留学を勧めたのもこの人です。

そしてやはりアフリカ系の銀行家、ジェシー・ビンガ(多分写真の人)
とディフェンダー紙などが金銭的な支援を行いました。

いわば彼女はアフリカ系の希望の星として、フランスに発ったのです。
自分を応援するコミュニティのためにも、猛烈に勉強したのでしょう。


1922年9月4日、ロングアイランドのカ=ティス・フィールドで、
エアショー終了後、彼女にブーケを渡すのは、
エディソン・C・マクヴェイ(Edison C. McVey)
というアフリカ系のスタントパイロットだった人です。



シカゴに当時あった「エリートサークル」(なんて名前だ)と、
「ガールズ・デルーズ・クラブ」が、コールマンに敬意を表して
「エアリアル・フロリック」(空中散歩)の出資を行いました。

彼女はこんな風に航空を目指したその動機を語っています。

「空は偏見のない唯一の場所です。

アフリカ系の男性にも女性にも飛行士がいないのを知っていたので
この最も重要な分野で人種を代表する必要があると思いました。

だから、命をかけて航空を学ぶことが、私の義務だと考えました」


■「ザ・ビジョナリー」〜ウィリアム・J・パウエルJr.



The visionaryとは、「先見の明」とでも言いましょうか。
先を見通す目、またそれを持つ人という感じです。

ウィリアム・J・パウエルJr.(William J. Powell Jr.)

は、初めて「ブラック・ウィングス」という言葉を世に生んだ人です。
彼はアフリカ系がパイロットや整備士としてこの航空の時代に
あるべき場所を見つけることができる世界を夢見ていました。

それこそが、彼のブラック・ウィングスというビジョンそのものでした。



これはいわゆる販促用リーフレットとでもいうもので、
「Black Wings」の発行を宣伝しています。

パウエルJr.は黒人が飛行を行う能力を欠いているという決めつけを
永遠に終わらせるため、若いアフリカ系アメリカ人の若者を
航空業界に採用させることを目標にしました。

「黒人のための100万の仕事」

ブラックウィングスを読む

黒人は南部で分離されて鉄道やバスに乗ることを止めるつもりか?

ブラックウィングスを読む

黒人は飛ぶことを恐れているか?

ブラックウィングスを読む

なぜごく少数の黒人しか産業やビジネス界に携われないのか?

ブラックウィングスを読む

こんな感じの宣伝です。



これがその「ブラックウィングス」実物。
扉裏にはベッシー・コールマンの写真が。


パウエルJr.は、1920年代、ロスアンゼルスにおいて
黒人ばかりの航空愛好家の小さなコミュニティを設立し、
「ベッシー・コールマン・フライングクラブ」
と名付けます。

そして最初の黒人によるエアショーを後援しました。

彼はアフリカ系がパイロット、メカニック、あるいはビジネスリーダーとして
航空の世界に参加していくことを目標に、運動を行います。

その一つが、「ブラック・ウィングス」と題された本を出版することであり、
ドキュメンタリー映画を制作するなどの広報活動を通じて
アフリカ系アメリカ人の若者を航空の世界で羽ばたかせるために
弛まぬ努力を続けました。

当時は大恐慌で経済的に困難な時期だったのにもかかわらず、
パウエルは航空を志す者のための奨学金の基金を作り上げました。



パウエルがアフリカ系コミュニティ内の航空への進出を促進するために
1930年代後半に発行した「クラフツメン・エアロニュース」

この雑誌では、黒人航空愛好家を対象に、パイロットや整備士を育成する
訓練の機会についての最新のニュース、メカニックに関する記事、
そしてさまざまな通知や情報などを提供しました。



空の世界を夢見る黒人少年の図。

多くのアフリカ系アメリカ人の若者はパイロットや整備士を志し、
航空に対して憧れと熱意を持っていました。

これはクラフツマン・エアロニュースに掲載された挿絵です。

■ 黒人ばかりの航空映画「フライングエース」


1927年には大変希少な、全てアフリカ系キャストによる航空映画、

「The Flying Ace」

は、陸軍航空部隊を背景にしたメロドラマです。
ポスターには「オールカラードキャスト」
(全て有色人種による出演)
となっているのが異様な感じです。



本作は、リチャード・E・ノーマン監督がアフリカ系キャストだけで製作した
1926年の白黒サイレントドラマです。

本作のように、アフリカ系観客のために黒人キャストだけで撮った映画を
「人種映画」(race films)と呼びます。
ノーマン・スタジオはこの時代多数の人種映画を制作しています。

黒人映画の市場は未開拓な上、本流で仕事がもらえない
才能ある黒人パフォーマーが多数いたことで需要と供給が成り立ちました。

ストーリーは、第一次世界大戦の戦闘機パイロット、
主人公のストークス大尉(ローレンス・クライナー)が帰国し、
故郷で鉄道警察という戦前の仕事に戻って、活躍する中で、
駅長の娘ルース(キャサリン・ボイド)が飛行機で攫われたり、
ストークスがそれを助けたりして、最後は恋を打ち明けるというものです。

ちなみにヒロインのルースという役柄は、女性パイロットで、
ベッシー・コールマンをゆるーくモデルにしています。

自分をモデルにした映画が撮られることを知っていたコールマンは、
ぜひ映画に出演したいと制作元に希望を表明していたのですが、前述の通り、
1926年4月30日に航空機から落ちて命を落としてしまいました。

この頃の「レース・フィルム」で現存するのは本作ただ一つであるため、
現在でも無声映画祭や映画館でも上映が繰り返されており、
さらについ最近となる2021年には、

「文化的、歴史的、また美学的に価値がある」

として、アメリカ議会図書館によって国立映画レジストリに保存されるよう
選定されたばかりだそうです。

The Flying Ace (Norman, 1926) — High Quality 1080p


高画質の本作フィルムがYouTubeで見られることがわかりました。
全部は無理でも、一部雰囲気だけでもぜひご覧になってください。

攫われたルースの救出方法が、別の飛行機から縄梯をおろし、
それを登らせて脱出させるというのも非現実的ですが、
これは実際に飛行機を飛ばして撮影していないのでできることです。

また女性のヘアスタイルが、当時最新流行の「フラッパーヘア」なのに注目。
黒人女性もフラッパーにしてたんですね。




映画といえば、パウエルJr.は1935年、ドキュメンタリーフィルム
「ベッシ・コールマン・フライングクラブ」の制作もおこなっています。

映像には、フライングクラブに所属した黒人フライヤーたちが総出演。


アメリカ人であればおそらく誰でも知っている(と思う)、
「褐色の爆撃機」(The Brown Bomber)こと、
史上二人目の黒人ヘビー級ボクシングチャンピオン、
ジョー・ルイス(左)夫妻が、
1938年パウエルJr.の航空教室を訪れた時の写真です。

パウェルJr.は大変宣伝上手で、飛行クラブを有名にするために
こうやって他にもデューク・エリントンなどを招待し、宣伝を行いました。

■ パウェルJr.という人

アフリカ系アメリカ人のパイロット、エンジニア、企業家である
ウィリアム・パウエルが若かった1934年当時、米国では
パイロット18,041人のうちアフリカ系アメリカ人はわずか12人、
整備士8,651人のうちアフリカ系アメリカ人はわずか2人だったそうです。

しかも航空会社はアフリカ系を乗客として認めませんでした。

パウエルはこの状況を変えようと、飛行の黄金時代(1920年代と1930年代)
高い意志を抱いて活動しましたが、早世し、
航空業界のパイオニアとしてのキャリアを閉じることになります。

パウエルは1897年シカゴの中流アフリカ系アメリカ人居住区で育ち、
イリノイ大学で電気工学の学位取得を目指す優秀な学生でしたが、
第一次世界大戦が勃発します。
彼はアメリカ陸軍に入隊し、人種隔離された第317工兵連隊、
そして第365歩兵連隊に中尉として従軍しました。

戦地で毒ガスを浴び帰国し、工学の学位を取得しています。

第一次世界大戦中、アメリカ陸軍の軍服とロングコートを着用した
ウィリアム・J・パウエル。

卒業後、彼はシカゴでガソリンスタンドや自動車部品店を持ち、
成功する傍ら、やはりリンドバーグに夢中になり、
空を飛ぶことを夢見てパイロットになることを目指します。

しかし、それは簡単なことではありませんでした。

飛行学校では、人種を理由に断られ、陸軍航空隊にも断られ、
ようやくロサンゼルスの多国籍学生のための飛行学校で
パイロット免許を取得することに成功します。

しかし彼の夢はパイロットになることだけではなく、
アフリカ系アメリカ人のために航空業界の機会を作ること。

彼は飛行機事故で亡くなったベッシー・コールマンに敬意を表して、
「ベッシー・コールマン・エアロクラブ」を創設し、1931年に初めて
アフリカ系パイロットによる初航空ショーを開催し成功させました。


パウエルの『ブラック・ウィングス』は、パウエル自身が、
また他のアフリカ系アメリカ人がパイロットになるまでの苦闘を、
ビル・ブラウンという架空の人物の目を通して描いた自伝です。

彼は、アフリカ系アメリカ人の若者たちに、

「空中を黒い翼で埋め尽くそう」

と呼びかけ、パイロットだけでなく、飛行機の整備士、航空技術者、
航空機設計者、そして産業界のビジネスマンになるよう奨励しました。

パウエルは、空はアフリカ系アメリカ人の若者にとって
新しいチャンスに満ちていると確信していたのです。

その理由は、航空はちょうど成長期を迎えており、
まだあまり人がいない今のうちに参入すれば、航空の成長とともに
黒人たちも成長することができるからというものでした。

しかし、彼は1942年、わずか45歳で早世しました。
第一次世界大戦で毒ガスを浴びた後遺症
のためとも言われています。

しかし彼は、何百人ものアフリカ系アメリカ人が
航空界に参入する道を最初に切り開いたのです。

彼の死後も黒人差別は全くなくなりはしませんでしたが、
タスキーギ・エアメンと呼ばれる黒人飛行士が
第二次世界大戦で活躍するのを、彼は死ぬ前に目撃したことでしょう。

続く。




映画「金語楼の海軍大将」後編

2022-10-13 | 映画

さて、おそらくこれを読んでいる方々の9割以上が観たことがなく、
これを読んでもそのさらに9割9分が観ようとは思わないであろう戦争喜劇、
「金語楼の海軍大将」後半です。



さて、クラブで水原海軍大将に異常接近してきたのは美形未亡人明蘭。

本来ならば、自分のような男にこんな美人が近づいてくるかどうか疑ったり、
自分の立場を鑑みて、多少なりとも相手の下心に用心するものなのですが、
とにかく水原大将、世の中の女は全て自分に好意を持つものと信じています。

なので、ちょっと色目を使われたら、ホイホイと官舎にご招待。
水原大将の官舎に呼ばれてやってきた明蘭は、
中国4000年の珍しい精力薬と偽って、睡眠薬を飲ませ、



あっさり大将を熟睡させてしまいました。

そして待ち構えていた仲間を呼び入れ、トランクに大将を詰め込んで
拉致しようとしていたら、誰かやってきました。



当番兵の山下三水です。



こいつも「精力薬」の偽パッケージに騙されて、ついつい
眠り薬を飲んでしまい、その場で昏睡。
てか精力剤飲んでどうするつもりだったんだ。

おかげで悪者たちはノーガードで大将の誘拐に成功してしまったのでした。


次の日です。

山下水兵は陸戦隊の分隊士、葛城中尉に呼ばれました。
(この名は当時オリオンズにいた葛城隆雄から)

葛城中尉を演じているのは、新東宝の「ハンサムタワーズ」
(なぜ"タワーズ"かというとご想像通り皆背が高かった《172-182cm》から)
として、菅原文太らと同時に売り出された、吉田輝雄という役者です。

この人もほんの一瞬の出演ですが、この士官たちを含め、
この映画は、脇役に無駄にイケメンを多用しています。

最初の山下水兵の夢にだけ登場する参謀役が丹波哲郎で驚きましたが、
これは、お正月映画と言いながら、主役が金語楼と坊屋三郎では
あまりにも茶渋のようなツヤのない画面になってしまうことから、
脇役にいい男を配して若い女性客に媚びているのでしょう。



さて、なぜ山下が呼ばれたかというと、彼が大将の当番兵だからでした。
葛城中尉は、司令長官が行方不明になった事情を山下に尋ねました。

拉致されたことを知らない山下は、てっきり水原大将、
雲隠れして未亡人の明蘭といいことしていると思い込んでいて、

「こればかりは事が事だけに、ここでは言えない!」

となぜか庇いだてを試みますが、葛城大尉は全くそれを相手にせず、
とにかく長官を連れ戻すよう頭ごなしに命令しました。

「それがどこかは知らんが、とにかく水原閣下を連れて帰れ」

「復唱!」

「復唱はいい!」



一国の軍隊の地方部隊司令官を拉致する。

これだけで、もうこいつらは日本軍の殲滅対象決定ですが、
逆にこんな簡単に拉致される海軍大将ってどうなのよ。

という感想はともかく、一体何のために彼らは大将を誘拐したのでしょうか。
明蘭は、縛られている大将に、

「陸戦隊本部にある機密書類をよこしなさい!」

と言い出します。
はて、確か彼らの当初の目的は陸戦隊を爆破することじゃなかったっけ。
機密書類どこから出てきた。



まあいいや。そんなことは突き詰めてはいけません。

こちら大将の捜索命令を受けた山下、
早速大将が(明蘭と)『シケこんで』いそうなところを探すことにしました。
とはいえ、思い当たるのは二人が出会った先日のキャバレーしかありません。

しかしキャバレーの門番がペーペーの水兵を入れてくれないので、
自分とそっくりの中華芸人、白飯のふりをして、堂々と正面突破。


入り込んだはいいものの、何をどうしていいかわからず
ウロウロしていた山下を、いきなり物陰に引き込んだ男がいます。

それは特務機関「光」の杉浦大尉でした。
脊髄反射で敬礼してしまう山下。(まあ一応帽子は被ってるし)

そして大将が誘拐されたらしいと杉浦大尉から聞かされ、
てっきり明蘭と遊んでいると思っていた彼は仰天します。



その拉致された海軍大将水原ですが、

「一つ、至誠(すせい)に悖るなかりしか。
一つ、気力に欠くるなかりしか。
一つ、無精にわたるなかりしか。」

平静を保つため五省を唱えておりますと、明蘭がやってきて、

「情報を渡す決心はついた?」

だから何の情報なんだよう!
しかし腐っても海軍大将、自分の命と引き換えに陸戦隊を売るわけもなく。

わすは日本人だ!
水原権五郎海軍大将、死して(すすて)護国の鬼(おぬ)となる・・っ」



彼らが去った後、監禁現場に山下が忍び込んできました。
どうでもいいけど見張りくらい置いておけよ。

二人の着ているものを交換し、自分が身代わりになってここにいるから、
脱出したら救援を寄越してください、と必死で頼む山下を尻目に、

「サイナラ〜〜!」

と軽やかに去っていく水原大将でした。


しかし水原大将、案の定、ナイトクラブの門を出たところで、
美女にウィンクされてしまったものだから、


せっかく出てきたキャバレーに戻って、飲み始めてしまいました。

アホなのかこの海軍大将は。



客を遠目に見てヒソヒソ言い合う悪者たち。

「あの男・・大将に似てね?」


大将の監禁現場を見に行くと、それらしい人影が。

「ちゃんといるじゃないか」



遠目には・・・いや、全く似てねーし。


そして悪人たち、海軍大将の有効活用法について会議しています。

日本語による会議の結果、大将のポケットに水素爆弾(!)を入れて
陸戦隊に返し、基地ごと爆破するということに決まりました。

そもそも最初から何のために大将を拉致したのか、
目的が全く定まっていなかったということですねわかります。


爆弾は金庫の中に「時限爆弾」と貼り紙されて格納されています。
はて、時限式爆発を起こす水素爆弾(金庫収納式)とは。

ところで水素爆弾って、アメリカの機密事項で、
いまだにどうやって作るのか正確にはわかっていないんですってね。(雑談)



爆弾を仕掛けられる運命となった、偽海軍大将の山下水兵、
水原大将が早く帰隊して救出してくれることを祈っています。



が、同じ頃、大将は同じナイトクラブの席で居眠り中。
さっきの女にサイフをスられていました。

山下水兵の財布ですから、お金が入っているわけもなく。



女はふん、とばかりに席を立ってしまいますが、
大将、今度は別のホステスにデレデレ。



悪者一味は、ここでまたしても催眠術師の四暗刻(スーアンコー)を使って
大将の格好をした山下に、陸戦隊を爆破する暗示をかけさせました。

四暗刻は大将を拉致するメンバーではなかったので、
いつの間にか大将が山下と入れ替わっていることに気が付きません。

明日の朝7時にセットした爆弾をポケットに入れられ、
すっかり自分を見失った山下、彼らの車で基地に送られて行きます。



そして車は陸戦隊基地の前に停められました。

ところで、この後ろの白いビルですが、



前にもお見せした、今ガンダムになっている場所です。

このGoogleマップの写真は少し前のもので、その後ビルは取り壊され、
ガンダムの隣はバス駐車場になっているということが判明しました。

それはともかく、この撮影は現在の山下公園付近、
マリンタワーの近くで行われたことがわかります。

舗装されていない道と草の生えた空き地。
当時の横浜ってこんなところだったんだ・・・。



車から下され、頭を覆っていた布を取られて、
ほれ、あっち、と指さされたところにふらふら歩いていく山下。



そこは上海陸戦隊でした。



警衛の水兵は、元帥の制服を着た山下を見てハッとして背筋を正し、
捧げ銃を行い、



喇叭手は将官に対し用いられる喇叭譜「海行かば」を吹鳴し始めました。

後年、映画「トラ!トラ!トラ!」では、三船敏郎演じる山本長官が
乗艦の際、楽団が楽曲の方の「海行かば」を演奏して、
心ある人々の失笑を買ったそうですが、さすがはこの頃の映画界。
腐っても軍隊経験者が社会に現役だったことから、
こんな無茶苦茶な喜劇でさえも、抑えるところは抑えています。

まあ、海軍大将が門を一人で入っていく状況が実際にあったのかとか、
その時にも喇叭譜は演奏されたのかとか、色々不思議な点はありますが。


喇叭譜が響く上海陸戦隊・・・・。
と言いたいところですが、どう見ても上海の建物じゃないよね。



皆が立ち止まって敬礼する中、腰のポケットをチクタク言わせながら、
ただ歩いていく山下三等水兵。



真っ先に気がついたのは山下の親友、桑田三等水兵でした。

「班長殿、あの大将は山下であります!」

「あれ・・このやろー!」




「こら山下!ふざけやがって!」

鬼の軍曹は山下を怒鳴りつけますが、その時、



新任の隊長中川大佐が飛んできて軍曹を逆に叱りつけました。
二日前転勤してきたばかりの大佐は、水原大将の顔を知らないのです。

叱責された千葉軍曹は慌てて大佐に、

「この男は山下三等水兵であります!」

と言いますが、中川大佐、聞く耳持たず。

「無礼者!閣下の軍服が目に入らぬか!」

「えっ・・・」

中川大佐は水原大将だと思い込んでいる水兵に向かって、

「閣下、御無礼を申し上げました。
してご用件は何でありますか」

「ソウイン、シュウゴウセヨ」

「はっ!」




♩ソドドミド〜〜〜ソドドドミドドドソドドドミド〜



爆発予定時刻まであと3分。



山下の同僚の水兵たちは皆ざわつきます。

「あの大将山下じゃないのか」

「山下だよ」

「じゃなんで敬礼しなくちゃいけないんだ」


そこで桑田水兵が一言。

「それは大将の軍服を着てるからだよ」

それはある意味至言・・・なのかな。



「大将閣下に奉り、かしら〜なか!」



「んぐ・・あ。」

挙動不審すぎる海軍大将。
何を思ったかその場を立ち去って行きます。



「?」


悪党の本部では爆破のカウントダウンが始まっていました。
爆発まであと1分。

水爆が爆発したら君らも確実に死にますけどね。



そこに、いきなり陸戦隊から姿を消した山下が
ばーん!と戸を開けて、

「陸戦隊は全員集合したんですが、後がわからないから帰ってきました」


「ひいいいいい〜!」



山下の上着を奪い取り、窓から下に投げたら、
そこはキャバレーの客席で、まだ水原大将が気持ちよく寝ていました。
上着は持ち主の元に帰ったというわけです。

それで目が覚めた水原大将、我に帰って、

「しまった!山下を助けなければ!」

ここで上着を持った大将と悪者一味のドタバタ追いかけっこが始まり、



このどさくさで壁で頭を打って正気に戻った山下でした。



それにしてもなぜ爆発しないのか。爆弾。



山下に向かって、

「ちょと上着見ちてくれまちぇんか?」

「どうぞどうぞ」




1時間、セッティングを間違えてたことがわかりました。



その時です。

中華街に・・・じゃなくてナイトクラブ前に、
上海陸戦隊の一個小隊がトラックで乗り付けました。



葛城中尉率いる上海陸戦隊が救出にやってきたのでした。
水原大将、何とか連絡をとったものとみえます。



杉浦大尉、葛城大尉、巴静子、そして桑田三水も駆けつけて、
救出作戦はあっさりと終了し、一味は一網打尽となりました。





そして年が明けました。



水原大将が訓示を行なっております。

そしてなぜか死んでもいない山下三水に、
二階級特進の栄誉が与えられる運びになりました。

海軍大将が訓示の時に腰に手を当てるのはいかがなものか。



新隊長はじめ杉浦大尉、葛城大尉、巴静子も顔をそろえています。
訓示が行われているのはどこかのビルの屋上で、
後ろに見えている風景はどう見ても戦後日本。



一筒、二萬、三竹、水原大将の3人の妾さんまで勢揃い。


今回の活躍のご褒美に、山下は、二階級特進だけでなく、
今日「一日大将」となることを許されました。

「海軍大将山下敬太郎閣下の号令のもとに、
祖国日本の方角に向かって新年の敬礼を行う!」

「日本全国の国民諸君に対し、ささげー」




「つつ!」



この年のお正月、この映画を見た人は、
さぞかしこの馬鹿馬鹿しいお笑いを楽しんだことでしょう。

そして、この種のパロディが許される世の中になったことを以て、
戦後を肌で感じ取ったのではないでしょうか。

終わり。



映画「金語楼の海軍大将」前編

2022-10-11 | 映画

観終わってからとんでもない作品を選んでしまったと後悔しました。

果たしてこのような馬鹿馬鹿しい作品をあらためて紹介する意味があるのか、
とすら考えずにいられなかったのですが、基本当ブログでは
そういう誰も取り上げないキワモノにこそ光を当てる、ということに、
一種の使命を勝手に感じておりますので、やっぱり取り上げることにします。

あらすじは冒頭のイラストを見ていただければ、
柳家金語楼扮する三等水兵が、なんの因果か海軍大将の格好をして
本物と入れ替わり、怪しげな中国人の悪漢と絡む、
というものであることはお分かりになろうかと思います。

本作品は、あの大倉貢制作による新東宝らしさ満点の喜劇で、
終戦後、雨後の筍のように製作された軍隊ものです。

終戦によって日本人の権威に対する価値観が全く変わり、
軍を批判、あるいはパロディにしても叱られなくなった創作界では、
反戦ものや、この作品のような軍隊喜劇が作られ、人々は
記憶にまだ新しい戦争と軍隊を笑い飛ばすのを大いに楽しみました。

本作は、既に落語界の重鎮となっていた柳家金語楼演じる三等水兵が、
海軍大将に入れ替わってしまうという「入れ替わりもの」です。

1901年生まれの金語楼は映画製作時、既に58歳。
海軍大将役はともかく流石に三等水兵は無理すぎ、と思うのですが、
そこはそれ。

思い切ってこの不条理を楽しんでしまいましょう。


タイトルは、水兵風味のコスプレをしたお姉さん方が、
軽やかなルンバのリズムの「軍艦行進曲」をバックに、
それらしいポーズを決めて「静止」しているというものです。

スチル写真を使えばいいのに、なぜか静止画像風にじっとしているので、
時々片足上げたお姉さんがフラついているのがわかります。


けしからんことに、映画は実写の艦隊航行シーンから始まります。



艦橋に立つ海軍大将、その姿は紛れもなく柳家金語楼。

「皇国の荒廃この一戦にあり!各員一層粉糖努力せよ!終わり」



Z旗が翩翻と翻り、今度は普通に「軍艦」が鳴り響きます。



尾翼越しに見えているこの空母、なんだかお分かりですか?



「参謀!空母信濃より通信が入りました」

「長官!第一次攻撃隊は敵地爆撃に成功し、損害を与えました」

「長官!第二次爆撃隊により全市火の海であります!」

この参謀、丹波哲郎じゃないですかー。
相変わらずいいところだけちょっと出てくるいいとこ取りの丹波である。

それにしても、なぜ軍艦の上なのに、全員陸戦隊の兜着用なのか。
その理由はこれが夢だからですが、それはともかく。

「長官!第三次攻撃隊の原子爆弾により敵軍事施設は全滅!」

おいおい、原子爆弾落とすなよ。

「長官!第四次攻撃隊により敵戦艦50隻轟沈!」

「ちょーおかん!敵国は早くも降伏を申し出たようであります」


「いや、しかし無条件降伏以外は」

「絶対にダメでありますか!」

「そうだ・・イエスかノーか!」

もうわたしはここで爆笑だったのですが、普通は笑うところじゃないかも。


そして場面はいきなり戦勝凱旋祝賀会に。
会場にはアメリカ合衆国を含む万国旗が飾られています。


記者会見もそこそこに綺麗どころに囲まれる海軍大将。


山下元帥のお目当ては「ミチコ」こと「みち奴」ですが、
髭の千葉という男もちょっかいをかけてきます。


ダンスをするうちに積極的に次の間に強引に連れ込まれ、
強引に押し倒されたと思ったら、



それは上海陸戦隊三等水兵山下源太郎の夢でした。


夢で邪魔だった髭の千葉三等軍曹に叱られながら釣り床収めです。



上海陸戦隊がいるくらいなのでここは上海。
なのですが、ロケを横浜中華街で行った可能性が微レ存。



ここで真昼間から銃撃事件が起こりました。



さて、ここは上海方面指令長官水原権五郎海軍大将の官舎。



ここに、先ほどの銃撃事件の報告をしてきた人物、それは
光機関の(なんかわかりませんが諜報機関的な?)杉浦大尉
殺されたのは重慶に暗躍するテロ団の情報を持っている人物でした。

(さすこの頃の映画、ちゃんと『だいい』と発音してます)



電話を受けているのはやはり光機関の杉浦大尉の部下、巴静香

どこかでお見受けした女優だと思ったら、万里昌代
確か「スパイと貞操」で水責めされていた女スパイの役の人じゃないですか。



この大将、どうも女に見境がなく、つい手を出さずにいられない体質らしい。



特務機関に務める巴御前相手についやっちまって、投げ飛ばされる始末。
かくすればかくなることと知りながら已むに止まれぬ助平魂。

そしてこの困った性癖が水原大将の危機を招くのです。

海軍大将になろうかという軍人であれば、いかに好きであっても、

「ホワイト(素人)に手は出すな、ブラック(玄人)とさっぱり遊べ」

という海軍の掟を若い頃から叩き込まれている上での出世でしょうから、
こんな醜態を世間に曝すこと自体あり得ないのですが、
そこはそれ、映画はこうでなくては話が進みませんからね。

ところで、杉浦、水原といえば、この頃の野球に詳しい方なら
ピンとくる名前ではないでしょうか。
杉浦清、水原茂。いずれもプロ野球選手です。
この映画の登場人物の多くは野球選手から名前を取っています。



そこに大将官舎の雑用をする当番兵が連れて来られました。
山下敬太郎と桑田三等水兵の二人です。


最初の仕事はお洗濯。
大将の3人の妾、一筒(イーピン)二萬(リャンワン)三竹(サンソウ)
の下着です。



大将の現地妻一筒(小桜京子)は餃子屋。
他の男の面倒を見ながら電話で砂糖の横流しを頼んでます。


酒保から砂糖を持って来るのも登板兵の役目。


次に電話した美容師の二萬(リャンワン)も怪しげなマッサージ中。



女優の三竹(サンソウ)は歌手で女優です。
若い男とイチャイチャしながら、電話では

「ワタシパパが恋しくて恋しくて死にそう・・・」



なんだよこの助平親父(死語)とうんざりする山下水兵。


さて、ここは横浜埠頭・・・じゃなくて上海の港のどこか。


特務機関の杉浦大尉と巴の元に、中国人の垂れ込み屋、
清一色が情報を持ってきました。
今日、重慶の秘密工作員がテロ団の仲間と会うというのです。

杉浦大尉のグループはテロ工作を追って活動していました。



清が外に出た途端、



車から銃撃されました。



ちょっとお待ちください。

ここに見えているの、横浜税関本間庁舎(通称クィーンの塔)ですよね?
位置関係から見て、現在の象の鼻パークから見ている感じかな。



その夜、横浜中華街の?ナイトクラブに出演する
歌手の三竹のステージを、山下三水をお供に見にきた水原大将です。



このナイトクラブで剣舞を行う芸人の白飯(パイパン)は、
どういうわけだか山下三水に瓜二つの男でした。



ショーを観ている大将に、清は妖艶な女性を引き合わせました。
有名な伯爵の未亡人、紅明蘭というその女は、
美人に目のない大将にあからさまなアプローチをかけて・・。



カルメンをステージで踊っている愛人の三竹がそれを見て怒り心頭。
おいおい、あんた大将のこと嫉妬するほど好きだったのかい。



三竹、舞台裏でアイロンがけさせられていた山下に八つ当たり。
とばっちりもいいところです。



その頃、山下公園埠頭(でロケしたところの上海港という設定)では、
情報を元にデート中の恋人同士を装った杉浦と巴が張っていました。


ターゲットに男が近づいてきます。


こちらを見られたので慌てて抱き合う二人(笑)



見ていると、ターゲットは埠頭で大勢の怪しい人たちに囲まれていました。



ところで、ここに写っている建物はついこの前までありました。
今ガンダムがあるのと同じ埠頭です。


実は、清のナイトクラブの裏では悪巧みが進行していました。

彼は親日家のふりをして、嘘の情報を流し、最終的には
上海陸戦隊に食い込んでこれを壊滅させるのを目的としていたのです。

そこで集めた仲間ですが、まず明蘭は女好きの大将を色仕掛けで落とす役目。
今入ってきたリーチ(李痴)という男は、さっき埠頭で
清を襲うふりをして杉浦大尉らを欺く手助けをしていました。

要するに日本軍を追い出す組織の手先というわけです。


次の日、門限を過ぎて帰隊した山下水兵を、
鬼軍曹の千葉(巨人軍の千葉茂より)が叱責していました。



千葉軍曹も山下も酒保の「おばさん」みち子が大好きです。

「あたし、一眼でいいから山下さんが海軍大将の軍服着たとこ見たいわ」

つい雑談からそんな伏線を敷くみち子。

「夢じゃいつも海軍大将なんだけど・・」

それはいいのですが、せいぜい18歳くらいしか見えないこの女優に、

「いつも山下さんと夫婦になっている夢見るのよ」

「あたし夫婦になったら毎日甘いもの作ったげるわ」

なんて言わせるのは、あまりに無理がありすぎです。
何度も言いますが、金語楼、この時58歳ですよ?
下手したら孫ってくらいの娘相手に何やってんだ。

しかし、お汁粉を作ってもらったという設定で、
お椀の餅を伸ばして食べる所作は、さすが落語家の風格(笑)


・・・という風に、この映画は、筋書きをこのように述べても
そのおかしさというのは微塵も伝わってきません。

落語家金語楼のちょっとした所作や表情、
おそらく当時は流行語であったらしい言葉の端々から、
当時の空気を思い、今も残る昔の横浜の映像を楽しみながら観る、
これが正しい鑑賞の仕方だと思う次第です。

紹介しておいてなんですが、実際見ないと何も伝わらない映画ですので、
ぜひ機会があったら一度死んだ気でご覧になることをお勧めします。


本作における悪者中国人一味は、重慶からの指令で帝国海軍陸戦隊を
一刻も早く爆破するというフェーズに入っていました。

そして、上海全体を混乱に陥れるという作戦です。

全員中国人なのに、なぜか皆片言の日本語で会議しています。

同じ大倉貢の作品でも「北支那海の女傑」(だっけ)では、
主人公の女性が中国人という設定もあって、何人もの日本人役者が
頑張って中国語で会話していたものですが、ずいぶん手抜きです。



彼らは一味の清が経営するナイトクラブに、
特務機関の巴静子が潜入しているのを発見しました。

この頃の上海は文字通り「魔都」であり、
若い頃、父上(政治家犬養健)の秘書役として大陸におられた
犬養道子氏によると、ダンスパーティで、
ダンサーの手のひらに仕込まれた小さなピストルが
音もなくターゲットの胸に撃ち込まれるなどということが
ほぼ日常的に起こって問題にもされないというような物騒な都市でした

犬養氏の父上犬養健氏は、当時大陸で政府の命を受け、
秘密裏に和平工作を行なっていた時期がありましたが、
有名な美貌のスパイ、鄭蘋茹(ティンピンルー)丁黙邨の暗殺に失敗し、
処刑された事件にも関わったことが、氏の著書に書かれています。

この頃の新東宝系の映画には、やたら上海を舞台に、
中国人の怪しいグループが登場しますが、その頃の混沌の中に、
大衆が嗅ぎ取っていた一種の浪漫みたいなものを映像で表すのが、
創作の世界では流行っていたということなのかもしれません。

それはともかく、中国人グループは、特務機関の巴を
とりあえず始末する計画を立てました。



その方法というのが斬新です。

一味の催眠術師、四(スー)アンコー(平凡太郎)が、
その辺の男に催眠術をかけると、あら不思議、
男はインプットされたターゲットを殺したいほど憎み初め、
さらに自分は不死身であると錯覚し始め、結果、
「不死身の殺人マシーン」となって、殺人の任務を遂行するというもの。

どうでもいいけど、もう少し簡単な方法はなかったんかい。



ここは現在横浜の観光スポットと成り果てたところの赤レンガ倉庫です。
当時は本当の倉庫だったので、全く人気はありません。
撮影のために人払いしたのかもしれませんが。



ここに巴静子が一人で歩いてきました。
何者かに追われる気配を感じ、足早です。

そしてその後を思い詰めた風の男が追ってきます。



大変お節介ながら、同じ場所の写真を撮っておきました。
右側のビル一階はパンケーキカフェ「ビルズ」(美味しい)があります。



赤煉瓦の前に大きなキャプスタンのようなものが並んでいます。



催眠術をかけられた男に襲われる巴。
マシーンとなっているので、ピストルの弾が当たっても、
しばらく気づきません。

ってそんなわけあるかーい。


不死身のように見えましたが、巴に投げ飛ばされ、
銃弾を2発くらって初めて昏倒。(ってか死んだんだよね)

さて、というわけで一味は巴暗殺に失敗したことになるのですが、
この後どんな手を使ってくるのでしょうか。

というか、この連中の悪巧みって、全く方向性がなく、
行き当たりばったりで計画性もないんだよな。

こいつら一体何がしたいのか(笑)


続く!




「シルバーサイズ」のタブーとその戦後

2022-10-09 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに係留展示されている「シルバーサイズ」。

その精強さは第二次世界大戦中の米潜水艦トップレベルだっただけあって、
数多くの伝説が残っている上、
調べればいくらでも後世作成された映像資料などが出てきます。

今日はまず、スミソニアン歴史センターが作成した、
「シルバーサイズ」最初の哨戒における漁船との戦いをご覧ください。
ちゃんと漁船の名前「恵比寿丸」も明らかにしています。

A Surprisingly Tense Battle Between a U.S. Sub and a Fishing Boat

東洋系の役者の数が揃わなかったのか、銃手ともう一人しか
「恵比寿丸」の乗員が登場しませんが、この銃手がイケメンなので許す。

問題があるとすれば、「恵比寿丸」は民間漁船なのに、
なぜか乗員が海軍の略帽を被っていることですが、
「シルバーサイズ」が最初に犠牲者を出した戦闘の迫力は伝わります。

ちょっと注目していただきたいのは、1:30〜から、
元海上自衛隊海将の香田洋二氏が登場して英語でコメントしていること。

「彼らが基本的に武装していたのは、
主に機関銃と、2~3個の深海爆雷ですね。
そしてもちろん、無線機も。
『シルバーサイズ』は、この船(漁船)のミッションを

正しく理解していなかったんじゃないでしょうか」

第一次哨戒について取り上げたときにも書きましたが、
「シルバーサイズ」はこの漁船と遭遇したとき、
まさか相手がこれほど重武装しているとは想像していませんでした。

このブログ読者の方を驚かせるほど、莫大な無駄弾を放ち、反撃し、
ようやく相手を倒したときには、貴重な砲手を一人失っていたのですが、
番組制作(スミソニアン)は、その痛い失点を、
「シルバーサイズ」が初めての哨戒で相手を単なる漁船だと思い込み、
侮っていたせいだった、ということを結論づけようとして、
わざわざ香田氏にこのようなコメントを求めた気がします。



■潜水艦の「Superstition 迷信」


当ブログではすでに何度も?取り上げている気がする、
「シルバーサイズ」のお守り、金色の布袋さんことラッキーブッダについて、
博物館の別のコーナーで「迷信」として取り上げていたので、
繰り返しになりますが書いておきます。

【仏像】

「シルバーサイズ」で最もよく知られていた幸運のお守り、
それは金色の小さな仏像です。

Robert Trumbull の著書「シルバーサイズ」によると、
仏像を持ち込んだ人物については二つの説があり、
一人はあの水兵、
マイク・ハービンだったというものです。


彼が最初の哨戒で武装漁船の銃撃の弾を受け亡くなったのは、
わずかその10日後のことでした。

そしてもう一人はというと、艦長の
クリード・バーリンゲームだった説。

ハービン、バーリンゲーム、どちらの人物も仏教徒ではなかったので、
彼らのどちらが持ち込んだかについても謎のままかもしれませんが、
ただ一つわかっているのは、この仏像が「シルバーサイズ」の現役中、
常に後部魚雷室に搭載されており、乗員は魚雷を発射する前に、
願を懸ける意味を込めて、お腹をこすっていたということです。



その「迷信」は戦時中製作された国策潜水艦映画でも再現されました。
実際の仏像を参考にしたのか、大きさも形も全く同じです。

最初の哨戒が成功した直後、魚雷室勤務の乗員たちは
オリジナルと同じ仏像を木彫りで作ってもらい、
それをバーリンゲーム艦長にプレゼントしました。

バーリンゲーム艦長は、それを元にして、オリジナルと全く同じ仏像を
キャストで二体制作させ、一体を司令塔に、そして
前後の魚雷発射室に1体ずつ「装備」するように命じました。


こういう場合に取り上げるにふさわしい言葉かどうかわかりませんが、
「鰯の頭も信心から」といわれるように、森羅万象に神を見る我が日本では、
なんでもない路傍の石や木でも、ある日誰かがそれらしいしつらえをすると、
そこはあっという間に信仰の対象となり、人々が立ち止まって頭を下げ、
拝み、賽銭を投げるようになって、そのうち社殿が建つそうです。

アメリカ人にそんな「慣習」はありませんが、「シルバーサイズ」では、
戦争という状況の中で「具体的な祈りの対象」が必要とされたのでしょう。

そして「シルバーサイズ」が、その哨戒で幾度となく危機を脱し、
もう最後という状況から生還するというような「奇跡」が重なると、
男たちの仏像に対する「信仰心」はいや増していきました。

哨戒の数が重なってくると、乗員は、この布袋さんのために神棚を作り、
のみならずそこにペニーのお賽銭を入れるブリキ缶まであったそうです。

三体の仏像は、14回の哨戒全てに「同行」しました。

乗員の中には、「シルバーサイズ」が終戦まで生き残り、
素晴らしい成績を上げたのは仏像のおかげと思っていた人もいたでしょう。

彼らはおそらくが全員キリスト教徒だったはずですが、主への祈りより、
この仏像の「ご利益」をあてにしていたかと思うと、不思議な気がします。

いずれにしてもこの類のことは、戦時中ならではで、
平常時では決して起こらなかったに違いありません。

【哨戒中の”ジンクス”】


「シルバーサイズ」初代副長ダヴェンポートは、
当時の若者にありがちな「カメラが趣味」の人でした。

普通では後世に残ることがない、哨戒中の無資格手術のシーンも、
その後無事に盲腸を切ってもらった人と切った人の記念写真も、
全てダヴェンポート副長が熱心にシャッターを切ったものです。



これはどこかはわかりませんが、USS「ポラック」Pollack SS-180
が潜望鏡越しに撮影した、日本の本土の写真です。



USS「プランジャー」が潜望鏡越しに撮った船が沈む光景。
検索すると、潜望鏡越しに撮った、船が沈む写真がいくつか見つかります。
ダヴェンポートはこんな風に記録を残したかったのでしょう。

しかし、この写真撮影については、ある時からタブーとなりました。
船団攻撃の後は決して潜望鏡越しに写真を撮ってはいけないという
「ジンクス」が、「シルバーサイズ」に生まれたのです。


ある哨戒で、「シルバーサイズ」が船団攻撃を行なった後、
ダヴェンポート副長は、バーリンゲーム艦長に、
潜望鏡を通して海面の写真を撮らせてほしいと頼みました。

攻撃後の船がどうやって沈んでいくか記録に残し、
その戦果を確実なものにしようと考えたのです。

しかし、ダヴェンポートが写真を撮るために潜望鏡を上げた瞬間、
船団を援護していた護衛艦がその潜望鏡を発見し、
爆弾を降らせ、危うく「シルバーサイズ」は粉々になるところでした。

しかも、ダヴェンポート副長は急いでいたせいか、
その時フィルムを表裏逆に装填していたため、
高価なフィルムを全てダメにしてしまったというおまけ付きです。

バーリンゲーム艦長はこの後、誰に対しても
潜望鏡越しの撮影を許可しなくなりました。

ただし、コイ艦長、ニコルズ艦長の時代には、ジンクスはなくなり、
事実、潜望鏡越し撮影をしても特に悪いことは起こらなかったそうです。

わたしが気になるのは、この潜望鏡事件でトラウマを持ったはずの
ダヴェンポート副長が、後に艦長となったとき、
部下に潜望鏡撮影を許したかどうかですが・・・。


■ 戦後の活躍:1945年~1969年

グアムで終戦を知った「シルバーサイズ」は1945年9月15日、
パナマ運河を通過し、9月21日にニューヨーク市に到着しました。

コネチカット州ニューロンドンに転属後、1946年4月17日に退役し、
1947年10月15日まで予備艦としてイリノイ州シカゴで
海軍予備役訓練艦として使用されていました。


シカゴ到着時の「シルバーサイズ」
艦体の凹みが目立つ

1949年に乾ドックで最後にオーバーホールを受け、残りの期間、
定置訓練船としてシカゴで海軍予備役訓練の支援にあたりました。

その後予備役艦隊に入り、真鍮製の固体プロペラが取り外されました。


1962年11月6日、「シルバーサイズ」は、係留中のまま
船体分類記号AGSS-236、補助潜水艦に再分類され、
1969年6月30日に海軍船舶登録簿からその名前が抹消されます。

シカゴではしばらく道路に放置されていた模様

本来ならここでスクラップになるところですが、
彼女の戦争中の功績が大きい「殊勲艦」だったため、
シカゴの商工会議所が中心となって、
「シルバーサイズ」をシカゴで保存するよう海軍に要請し
1980年代半ばにシカゴの海軍区画で保存し、商工会議所は、
速やかにアメリカ海軍省に「シルバーサイズ」の保存を申請しました。

■1973年-現在

「シルバーサイズ」は 1973 年 5 月 24 日にイリノイ州シカゴの
五大湖海軍連合協会の一部となりました。

そして、その輝かしい歴史と技術的な驚異に惹かれた
献身的なボランティアの小さなクルーによって、
何年にもわたって管理されてきたのです。

彼らは、何万時間もの修復作業を行い、自費でメンテナンスを行い、
説明員や付き添い役も務めました。

しかし、保存が正式決定されるまでの「シルバーサイズ」の状態は
最善のものどころか、お世辞にも良いとはいえませんでした。

1973年5月24日、当時五大湖海軍協会の所有物だった
「シルバーサイズ」の艦内に入ったボランティアが見たものは、
長年放置されたおかげで船体内部の至る所がかび臭く、
腐食した箇所から浸水した艦内の惨状で、
塗装がはげ落ちた艦内外には、ガラクタが散乱していました。


冷凍室は長い年月を経て、ミリ単位ではなく、
数インチ単位で測れるほど厚く成長していましたし、
前部のコンパートメントには水害の跡が残っていました。
かろうじて後部のコンパートメントはそれなりに良い状態だったとはいえ、
後はデッキも上部構造も相当傷んでいました。

上面では、デッキは風化し、部分的に摩耗しており、
上部構造のいくつかの部分は錆びていて交換が必要と思われました。

ボランティアは総力を挙げて、「シルバーサイズ」の腐食した箇所を
徹底的に修理し、腐ったロープが交換され、船は桟橋に再び固定され、
ビルジはポンプで乾燥され、電力と熱が船内に供給され、
3番魚雷発射管の漏れが塞がれました。

最初に行われた大改装は、水線までの船体の剥離、下塗り、再塗装です。

この作業はミシガン州の厳しい冬の間は中断され、数カ月を要したものの、
完成すると艦体はほぼ新品同様の姿に生まれ変わりました。

デッキの下は、艦体の洗浄と一般的な修復が行われました。

艦内のあらゆる場所に光が届くように配線が大幅に変更され、
配管はかつて凍結したパイプからの漏れを調査し、修復しました。

1975年には主機関の
フェアバンクス・モース38D-1/8 10気筒ディーゼルエンジン
を再稼動させることに成功しています。

1979年7月、1946年以来初めて主機である3号エンジンが、
4号は1984年の米国潜水艦退役軍人大会に間に合うように修復されます。

1979年には海軍区画にとりあえず移動させたのですが、
この間、非営利団体と行政側に収入に関するトラブルが発生し、
司法が介入してゴタゴタが起こってしまいます。

このため「シルバーサイズ」の復活に貢献したボランティアは
最終的に行政側と決別する1985年まで、
行政側からのひどい侮辱?を受ける事態になりました。


1987年、この潜水艦は現在のミシガン州マスキーゴンに移され、
五大湖海軍記念&博物館の目玉として展示されることになりました。

シカゴ・トリビューン紙(Silversides gets Hero's Welcome)によると、
マスキーゴンに到着したとき、この有名な軍艦を新しい居住地に迎えるために
大勢の人が集まり、歓迎の大きな旗が掲げられたと言うことです。

しかしながらここに艦体を移動した際、「シルバーサイズ」内部の備品等
(つまり盗品)が行政側によって売りさばかれるという醜聞がありました。

当時シカゴでは新しい海軍博物館が1億5千万ドルで計画されていましたが、
(多分わたしが最初に見たU-505の展示してある博物館のこと)
「シルバーサイズ」の保存はいずれにせよ行政の眼中にはなかったようです。

その後「シルバーサイズ」の所有権は移り、新たな所有者のもとで
1991年に再改修を施されましたが、吃水線下はひどい状態のままでした。

■ 保存活動

シルバーサイズは以上の経緯で、記念艦として
マスケゴンの潜水艦記念館で保存されています。

通常、アメリカ海軍の潜水艦は現役の間は5年ごとに乾ドックに入ります。
「シルバーサイズ」の保存維持間隔は25年ごととなっていますが、
「シルバーサイズ」が最後に乾ドックで修復されてから55年後の2004年、
記念館と元潜水艦乗組員による退役軍人協会が保存のため、
「シルバーサイドを救う」という名称の基金を設立し、
退役軍人グループと軍事出版物を通じて、寄付を募り始めました。

この先例としては、ウィスコンシン州マニトワックに係留保存されている
「コビア」 (USS Cobia, SS-245) の基金集めがあります。
 
■ 映画「ビロウ」出演

また、当ブログでも紹介しましたが、「シルバーサイズ」は
2002年映画『ビロウ』に出演しています。

わたしがシカゴからわざわざ車でこれを見にきたのも、
そもそも「ビロウ」で取り上げたことがきっかけだったわけですが、
実際に内部を見て、その艦内のあまりの狭さに、
映画で撮影された艦内のシーンは、ほとんどがセットだと確信しました。
(機関類とかの前の撮影はもしかしたら本物かもですが)

当初一体どこの部分で彼女が出演していたのか不思議でもあったのですが、
実は結構大掛かりな話で、「シルバーサイズ」は、
劇中、架空の潜水艦「タイガーシャーク 」(USS Tiger Shark) として
わざわざマスキーゴンからミシガン湖まで曳航され、
海上を航走するシーンを撮影しているのだそうです。

この時「シルバーサイズ」を実際に使ったと思われるシーンをあげてみます。








しかし、
この映画は興行的に全くヒットせず、
収入はわずか58万9000ドルと芳しくない結果でした。

ついでに専門家からの評価もかなり辛辣だったということですが、
その理由は、当ブログの紹介欄を読んでいただければ、
どなたでも「あ、・・・・察し」となるのではないでしょうか。

これだけ大々的に潜水艦を稼働させる話なんて滅多にありませんから、
潜水艦保存協会としては思わず飛びついてしまったのかもしれませんが、
それにしても契約する前に、もう少し映画の脚本を読もうよ・・・。

他でもない、「呪われた潜水艦」の話に出演させたとわかったら、
かつての乗組員たちだっていい気はしないと思うぞ。


■ 週末のキャンプ



実はわたくし、「シルバーサイズ」シリーズを始めてから、
博物館のライブカメラのサイトをしょっちゅう覗いています。

大抵は時差の関係で真っ暗な中、光が揺れていたりして、
そんな時も艦内には明かりが灯っているらしいのが見え、
週末の昼には見学者の姿があるのを確認してはちょっと安心したり。

ある週末、何気なく早朝のライブカメラを覗いてみたら、
艦内から毛布を持った子供が出てきたので驚きました

そういえば、「シルバーサイズ」では、週末に
潜水艦の中で一泊というお泊まり体験ができるんだった。


『USSシルバーサイズ潜水艦に一晩滞在する』

シルバーサイズ・ミュージアムでの宿泊

USSシルバーサイズ・サブマリン・ミュージアムの歴史的な艦船に
一晩乗り込み、歴史を再現するツアーです。
甲板を歩き、潜水艦とカッターを探検し、
かつて勇敢な男たちが国に奉仕した寝台で眠ります。

どんなグループにとっても忘れられない体験となるこの宿泊プログラムは、
スカウトや青少年のグループ、家族や大人だけの
チームビルディングのイベントにも適しています。

宿泊のご予約は、1グループ20名様以上からとなります
宿泊キャンプは5歳以上であれば誰でも参加できます。
USSシルバーサイズは、最大72名の宿泊参加者を収容可能です。
USCGC McLaneはさらに38名まで収容可能です。

ご予約後10日以内に$200.00のデポジット
(返金・譲渡不可)をお支払いください。

宿泊のための最終デポジットは、実際の宿泊日の60日前
(60日以内に予約された場合は30日前)までにお支払いください。
最終手付金は、参加者数×宿泊料金から
200ドルの手付金を差し引いた金額となります。
ノーショーの場合、払い戻しや交換はできません。

価格と登録
金曜日~日曜日: $40.00
月曜日~木曜日: $35.00
20名様以上のご予約が必要です。

価格は1人1泊の料金で、食事は含まれません。


年に一度、70年以上前に任務を終えた後も、
この潜水艦が動くことを証明するために
モーターを始動する特別イベントも開催されています。



どうやら朝起きて解散らしく、甲板に子供と親がいたのは7時ごろ。
見ていたら、通りかかった貨物船に皆で手を振っていました。

こんな体験が実際の軍艦でできるなんて。
アメリカの子供が羨ましくなるのはこんな時です。


続く。



アメリア・イアハート(と上顎洞炎)〜スミソニアン航空博物館

2022-10-07 | 飛行家列伝

今日は久しぶりにスミソニアン航空宇宙博物館の展示をご紹介します。


国立航空宇宙博物館、通称スミソニアン博物館の航空界のレジェンド、
ミリタリーに対して一般の部の代表は以下の人々です。



リンドバーグ夫妻(夫婦でレジェンドってすごくない?)
ドーリトル、そしてアメリア・イアハート。

ちなみに、ここに挙げられているのは上段から下の通り。

アメリア・イアハート

ウィリアム・パイパー
(航空機メーカー、パイパーエアクラフト創業者)

ロバート・ゴダード
「ロケットの父」

ジミー・ドーリトル

ヘルマン・オーベルト(ドイツ)
ロケット工学者

チャールズ・リンドバーグ

コンスタンチン・ツィオルコフスキー(ロシア)

ロケット工学者「宇宙旅行の父」

クラレンス・ギルバート・テイラー
(初期の航空起業家 航空事故死)

アン・モロー・リンドバーグ

この中で、航空に詳しくなくとも写真だけで誰かわかるのは、
リンドバーグとアメリア・イアハートの二人でしょう。

今回は、スミソニアンの展示から、アメリア・イアハートを取り上げます。


■ アメリア・イアハートとロッキード・ヴェガ

スミソニアンには、彼女のトレードマークとなった真っ赤なヴェガが
そのまま展示されて実物を見ることができます。



「この飛行機で、アメリア・イアハートは二つの偉大な
航空記録を打ち立てました。
1932年の大西洋横断飛行とアメリカ大陸無着陸横断飛行で、
そのどちらもが女流飛行家としては初めての記録でした」

アメリア・イアハートってどんな人?

●当時最も有名だった飛行家の一人

●記録を打ち立てたパイロット

●航空業界のプロモーター

●メディア界のスター、セレブリティ

●女性にインスピレーションを与えるロールモデル

●永遠の謎の中心である悲劇の伝説のヒロイン

ロッキード5B ヴェガ

ヴェガはその後の偉大な航空機会社の一つとなった
ロッキードエアクロフトによって製造された最初のモデルです。

頑丈で、広い居住性を誇り、合理化されたシステム、高速で
革新的なヴェガは、速度、距離でさまざまな記録に挑戦していた
当時のパイロットたちに熱い支持を受けるようになりました。

イアハートは、1930年から1933年まで、
この真っ赤なヴェガを所有していました。

■ アメリア・イアハートのバイオグラフィ


アメリア・メアリー・イアハートは1897年カンザス州アチソン生まれ。

父親のエドウィン・イアハートは弁護士になろうとしていましたが、
元連邦判事で、アチソン貯蓄銀行の頭取であり、町の有力者という
母親の父は、当初娘とこの男性の結婚に賛成していなかったそうです。

一族の慣習により、2人の祖母の名前をとって
アメリア・メアリーと名付けられたイアハートですが、
そんな古き良き慣習を持つ家系でありながら、
母親は子供たちを「いい子」に育てようとは考えていなかったため、
例えば女の子がスカートを履くのが当たり前だった当時、
彼女ら姉妹は自由に動けるという理由でブルマーを穿かされていました。

祖母たちはもちろん孫のブルマーにはいたく不満だったようです。

【おてんばアメリア】


イアハート家の姉妹は冒険心いっぱいの幼少期を過ごしています。
毎日近所の探索に出かけて木に登り、ライフルでネズミを狩り
そりを「腹ばいにして」滑降して長時間遊び続けました。

まあ、この頃そういう幼少期を過ごす子供は珍しくもないと思いますが、
多くの伝記作家は幼いイヤーハートをおてんば娘と評したがるようです。

姉妹は「ミミズ、ガ、キリギリス、ヒキガエル」を飼い、
外出のたびにそのコレクションは増えていきました。

ある時彼女は、セントルイス旅行で見たジェットコースターを模して作り、
道具置き場の屋根にタラップを取り付けて、実験を行いました。

この「初飛行」はソリが破壊され、劇的な幕切れとなってしまいます。

しかし、彼女は唇に怪我をし、破れた服で、
ソリ代わりの壊れた木箱から「爽快な感覚」を味わいつつ、出るなり、

「ああ、ピッジ、まるで空を飛んでいるみたいだった!」

1907年、父親はロックアイランド鉄道の保険金支払担当者に転職したため、
家族はアイオワ州デモインに転勤したのですが、
ここで彼女は初めて複葉機を見ています。

父親が飛行機に興味を持たせるために載せようとしたのですが、
彼女はメリーゴーラウンドの方がいいと冷淡でした。

後に彼女は複葉機については

「錆びた針金と木のもので、全く面白くなかった」

としか思わなかったようです。
なんか思ってたのと違った、って感じだったのでしょうか。
飛行機に対してはそう過大な期待も持っていなかったようですね。


幸せな子供時代を過ごした彼女ですが、父親はアルコール依存症で
家計は困窮し、家と家財道具を売るまでになります。
そう言った家庭環境が影響したのか、彼女の高校の卒アルには、

「A.E・・・いつも一人で歩いている『茶色ばかり着ている子」

という、彼女の隠キャぶりが窺い知れる言葉が書き込まれています。

彼女は問題の多い子供時代を過ごしながも、決して自暴自棄にならず、
将来のキャリアについてはそれなりに夢を持っていました。

映画監督や制作、法律、広告、経営、機械工学など、
主に男性向けの分野で成功した女性について
新聞の切り抜きをスクラップブックにしていたということです。

【看護助手として】


第一次世界大戦が激化した頃、イヤハートは
帰還した傷病兵を目の当たりにして、赤十字で看護助手としての訓練を受け、
陸軍病院のヴォランタリー・エイド分遣隊で働き始めました。

仕事内容は、厨房で特別食の患者のために食事を用意したり、
病院の診療所で処方された薬を配るというものでしたが、
ここで彼女は将来を決定する大きな出来事に遭遇します。

帰還してきた軍のパイロットから話を聞き、
飛行に興味を持つようになるのです。


【スペイン風邪と上顎洞炎】

1918年にスペイン風邪が大流行した際、イヤハートは
陸軍病院での夜勤を含む過酷な看護業務のせいで、肺炎になり、
続いて上顎洞炎を経験しています。

ちょっと驚いたのは、何を隠そうこのわたしも、
歯性の上顎洞炎のため、帰国後に入院手術を予定しているってことです。


というか、皆様がこれを読んでいるときには、
手術が済んでいる頃となります。

今回、たまたまお中元のお礼の電話をかけてくれた知人の医師が
ほとんど同じ症状で今から病院に行くところだと聞き、
何たる偶然の一致、と驚いていたのですが、その後、まさか、
アメリア・イアハートと自分が同じ病気だったと知ることになろうとは。

彼女がこの症状を発症した原因は 1918年11月初旬にかかった肺炎でした。

発病から2ヶ月後の12月には退院したのですが、副鼻腔炎を併発してしまい、
片目の周りの痛みと圧迫感、鼻孔と喉からの多量の粘液排出を見ています。

わたしの場合は、昔の歯医者の歯根の治療がいい加減だったため、
上の奥歯の根の先が溶けて、と薄い骨一枚で隔てられている上顎洞に
虫歯菌というか細菌が入り込んで炎症を起こしたものです。

アメリアのように痛みや圧迫感はありませんでしたが、
ヨガなどしていて長時間俯いていると、粘液がつつーっと出てきて
鼻の奥の異臭に「あれ?」と違和感を感じだしたのがきっかけです。

手術を受けるに至ったきっかけは、足首のアザでした。

ある日、両足首外くるぶしの上に、綺麗にお揃いのアザができてしまい、
すわ、急性骨髄性白血病か?夏目雅子か?と調べてみたら、
副鼻腔炎で脚にアザができることがある、と書いている医師がいたのです。

念の為検査したところ、血液の方には異常がなかったので、
この大元はもしかしたら副鼻腔炎で、咽頭を通過して体に吸収された膿は
引力の法則で体液に混じって下の方に運ばれ、
足首にアザを作っているんではないかと自分なりに診断したわたしは、
(二人の医師に持論を展開してみたところ、それは違う!と言われましたが)
これは放置してはいかんだろう、とまず大学病院に行くことにしました。

手術の前に一応抗生物質を飲んで様子見したのですが、効かなかったので、
アメリカから帰ったら手術でバッサリやってしまうことにしたのです。

アメリアの場合は抗生物質がまだ普及していない時代だったので、
彼女は根治のため患部の上顎洞を洗浄する、痛みを伴う手術を受けています。

この頃の副鼻腔炎の手術がどんなものだったのかはわかりませんが、
わたしの予定している内視鏡による手術でも、入院は一週間と
かなり大変そうな感じなので、多分彼女はもっと辛かったと思います。

しかも彼女の手術は成功せず、頭痛はさらに悪化したそうです。

こののち彼女がいわゆるセレブリティ、時代の寵児になってからも、
慢性副鼻腔炎は後年の飛行や活動に大きな影響を与え、

「小さな『ドレインチューブ』を隠すために
頬に絆創膏を貼らなければならないことがあった」


と書いてあるのを見てひえええ〜と怯えました。

電話の医師も

「昔は外から穴をあける手術しかなかったんですよ」

とおっしゃってましたが、まさかパイプを頬から外に出していたとは・・。

辛かったねアメリア・・・。



■ 飛行機との出会い

イアハートは後年、

「私がコロンビアで経験した最初の冒険は、空中を飛ぶことだった。
図書館の最上階に登り、それから入り組んだトンネルの中に降りていった」

と自分と飛行機との出会いをこう語っています。

ある日イアハートは若い女性の友人と一緒に
トロントで開催されたカナダ国立博覧会の航空フェアを訪れました。

その日のハイライトは、第一次世界大戦のエースによるデモでしたが、
上空のパイロットは、人々から少し離れたところで見ていた
イヤハートと彼女の友人二人に向かって飛んできたといいます。

誰だかわかりませんが、彼はきっと自分に言い聞かせたのでしょう。

"Watch me make them scamper "
(あの娘たちがびっくりして逃げるのを見よう)

と。

パイロットも所詮は若い男性。
クラスの気になる女の子にきゃーと言わせたい的な、
子供っぽい悪戯ごころのなせることだったのに違いありません。

しかし飛行機がが近づいてきても、イヤーハートは動きませんでした。

「聞き取れなかったけれど、あの小さな赤い飛行機は、
通り過ぎる時、わたしに何か言っていたと思う」

彼は後年、自分が目をつけて脅かした若い女の子が
歴史に残る飛行家になったと知っていたでしょうか。


彼女は1919年にはスミス大学への入学を準備していましたが、
気が変わり、コロンビア大学の医学部などに入学しています。
どちらの大学もいくら当時でもそう簡単に行けるところではありません。
(スミスはリンドバーグ夫人となったアン・モローの大学です)

ところがわずか1年後、カリフォルニアの両親のもとへ行って
一緒に暮らすために、大学をやめてしまいました。

この即決ぶりは、よっぽど学校が肌に合わなかったんだろうな。


■『わたしは空を飛ばなければならない』

1920年12月28日、イアハートは父親とともに、
ロングビーチで行われたドーハ「エアリアル・ミーティング」に参加して、
そこで父親に体験飛行と飛行訓練について質問してもらい、早速翌日、
10分間で10ドルという体験飛行を予約しています。

この時彼女を乗せたパイロット、フランク・ホークスは、
イヤーハートの人生を永遠に変えることになる乗り物を彼女に与えました。

「飛行機が地上から60-90m離れたとき、
わたしは空を飛ばなければならないと思いました」

と彼女はのちにこの時のことをこう語っています。


 ネータ・スヌークとイアハート1921年頃

翌月、イヤーハートは女流飛行家、
ネータ・スヌークに飛行のレッスンを受け始めます。

それまでに写真家、トラック運転手、地元の電話会社の速記者など、
様々な仕事をしながら、飛行訓練のための1000ドルを貯めていました。

1921年、ロングビーチのキナーフィールドで最初のレッスンを受けたとき
スヌークは訓練に、復元した墜落事故機である
カーチスJN-4「カナック」を使用しました。

エアハートは飛行場に行くために、バスで終点まで行き、
そこから6kmの道をテクテク歩いて通っていました。

彼女は飛行を始めてから、 イメージチェンジのために、
他の女性飛行士がよくやっているスタイルを真似し髪も短く刈り上げました。

わずか6か月後の1921年の夏に、イアハートは、
まだ早いのでは、というスヌークの助言にも関わらず、
明るいクロームイエローのキナーエアスターの中古複葉機を購入し、
「カナリヤ」とあだ名を付けています。


初の単独着陸に成功した後、彼女は新しい革製の飛行コートを購入し、
早速飛行に着用しますが、新品なのでからかわれてしまったので、
コートを着て寝たり、航空機用オイルで染めたりして「熟成」させました。



ここにはそんなレザーコートの一つがありますが、
これが「アメリアが一緒に寝たコート」かどうかはわかっていないそうです。

アメリアはお洒落だったので、きっと革コートも
何着も持っていたはずですから。

裏地はツィードが張ってあります。

■ アメリア・イアハートという女性


子供たちにサインするアメリア

アメリア・イアハートは、全米各地で講演やインタビュー、
展示飛行を行い、航空や女性の社会的・政治的問題の普及に努めました。


彼女は、挑戦とインスピレーションを与える遺産を残しました。

彼女は必ずしも「最高の」パイロットではありませんでしたが、
必要に応じて再飛行や自己改革を行う勇気と意欲を持ち、
夫であり実業家ジョージ・パトナムの助けを借りて、広報活動を行いました。

また、講演、執筆、事業など多方面で活躍し、
「最も賞賛される女性」と言われることもあれば
「最も着飾った女性」のリストに常に名を連ねるなど、
その複雑な人物像は、彼女に永続的な人気を与えることになります。


彼女のキャリア、フェミニズム、人生、そして謎に満ちた死は、
数え切れないほどの本、記事、演劇、映画、エッセイ、広告キャンペーン、
特集の題材となって繰り返されています。

そう、私たちは彼女に何が起こったのか知りたいのです。

なぜか?

アメリア・イアハートがあえて人と違うことをした女性だったからでしょう。


続く。(と思う)




「サイレントパトロール」で語られる潜水艦「シルバーサイズ」

2022-10-05 | 軍艦

Torpedoed By USS Silversides (SS-236), The Japanese Ship "Johore Maru," Burns, Sinks, 10/43 (full)

ミシガン湖沿いに係留展示されている潜水艦「シルバーサイズ」。
その誕生から戦時哨戒14回を修了したところまで検証してきました。

ここであらためて動画を検索したところ、
「シルバーサイズ」がその第7回目の哨戒で、
浄宝縷丸(じょほうるまる 淨寶縷丸)南洋海運
に攻撃をし、それが爆発炎上する映像が見つかりました。

これは、「シルバーサイズ」艦上から撮影されたものです。
動画を撮影できる機材を潜水艦に持ち込んでいたことに、改めて驚きます。

■炎上イコール沈没?

「シルバーサイズ」に発見された時、「浄宝縷丸」はオ006船団として
「天安丸」「華山丸」など5隻の輸送船と航行していました。

この時、ラバウルを出港してきた「浄宝縷丸」は、
ガダルカナルで戦死した兵士の遺骨三千柱を搭載していたということです。

「浄宝縷丸」が受けた魚雷は一発だけでしたが、
動画ではそれが命中した後から始まっていて、追加の攻撃はありません。

これは後述しますが、潜水艦攻撃では割とよくあることで、
大体一発魚雷が当たると民間船は火災を起こし、爆発、
それから沈没となることが多かったので、「シルバーサイズ」は
撃沈の確認をするためだけにビデオを撮っていたと思われます。

動画を見る限り、後半で派手に爆発しているので、
このまま沈むのだろうなと思っていたら、結局そこで終わります。

結局、「シルバーサイズ」が去るまで「浄宝縷丸」は沈むことなく、
生存者が退船を済ませてから駆潜艇によって砲撃処分されました。

この場合は、「シルバーサイズ」側の記録では「撃破」となり、
「撃沈」という扱いにはならなかったものと思われます。


それにしても気になるのは船内に積まれていた遺骨の行方です。

総員退船まで猶予があったとしても、物理的に船員たちが
沈む船から三千柱の遺骨を持ち出すのは不可能だったはずですから。


ところで、この動画を紹介していたサイトによると、
「シルバーサイズ」の攻撃について、このような解説がされています。

「シルバーサイズ」は非常に「効果的な」潜水艦で、
主に日本のタンカーや輸送船を餌食にしました。

「シルバーサイズ」の乗員が撮影したビデオ、


「Torpedoed by USS Silversides (SS-236) (United States Navy)」

でも見ることができるように、彼女が沈めた船の多くは
潜水艦の攻撃によって火災を発生し燃え上がるという経緯をたどりました。

前述したように、「シルバーサイズ」が撃沈した船の多くは、
一度火がつくと、ほぼ間違いなくそのまま沈んでしまいました。
海上での火災は非常に消し止めることが難しいからです。

また、かつて「シルバーサイズ」の指揮を執ったことのある人物は、

「一旦攻撃によって致命的な損傷を与えたら、船は沈むに任せて放置し、
その間、もう次の目標の砲撃にかかっていることが多かった」

と話しています。

こういった場合の撃沈認定は、船が沈むのを見届けるまでもなく、
ほとんどは燃料に火がつくと必然的に起こる爆発によって確認されました。


■ 超”優秀艦”だった「シルバーサイズ」

潜水艦「シルバーサイズ」は、第二次世界大戦中、
その戦績においてトップクラスに入る成功した潜水艦でしたが、
「深海棲艦」であったがゆえに、就役中かなりの危機を経験しました。

「シルバーサイズ」の行動記録には、自艦からそれほど遠くない場所で
他の潜水艦が爆発していたことが、複数記録されています。

「シルバーサイズ」は、幸いにも、最後までその戦闘能力に
決定的な損傷を受けることなく、終戦まで生き残ることができました。

そして、その戦果の多さによって有名になりました。
これは第二次世界大戦の海軍の公式年表で簡単に見ることができます。

その優秀さは、第二次世界大戦中、潜水艦の挙げた記録44件のうち、
28件が「シルバーサイズ」の作ったものだった、という事実にも表れます。

■日本海軍潜水艦の戦法

危険な海域で自ら生き残りながら、相当数の敵艦を沈めたことが、
「シルバーサイズ」の評価となり、その名声を高めることになりました。

一方、日本海軍の取った、対アメリカ軍の潜水艦のための多数の方法、
その強力な方法の一つは、

「浮上している潜水艦を見つけ、認識される前に航空機爆撃する」

というものでした。

潜水艦はその構造上、素早く反応し潜ることができないので、
航空機から爆弾が投下されたことが分かった時にはもう遅いのです。
(その時敵に手を振って相手の虚をつき、誤魔化して逃げた、
板倉光馬艦長という人がいましたっけ。『敵機に帽を振れ』

もう一つの日本海軍が行った潜水艦破壊の方法は、
機雷原をうまく利用することでした。

これに飛行機による爆撃を組み合わせるのは大変有効な方法で、
実際、USS「シルバーサイズ」の姉妹船、
USS「ワフー」S S 228 Wahoo
は、日本軍の用いたこの戦法によって、日本海に沈むことになりました。
ワフーの最後

一般に日本軍は対潜戦に潜水艦を使う攻撃を好みませんでした。

このことは、当ブログでも、映画の解説ついでに書いたことがあります。
大西洋でのアメリカの潜水艦とUボートの海中での一騎打ちはなかった、
という史実についての説明でしたが、日米潜水艦の間の戦闘も、
ほぼ同じような理屈であまり行われなかったと言われます。

その理由は、まず、潜水艦同士だと、
敵からの反撃がすぐさま返ってくること。
一方、その逆説のようですが、

潜水中の潜水艦を、別の深度から潜水艦が攻撃するのは難しく危険

というのが、世界の潜水艦業界の常識?だったからです。

結局、日本海軍は、敵潜水艦を排除するための第4の方法として、
最も効果的な深度爆雷(デプスチャージ)を取りました。
(もちろんこのことは日本海軍の専売特許ではありませんが)

深度爆雷とは、通常駆逐艦が投下する機雷のことで、
一定の深さに到達すると爆発するように設定されています。

爆雷の爆発による威力は水圧によって大きく倍加され、
潜水艦周囲のエアポケットに集中するため、非常に危険なものとなります。
つまり、爆雷を直接艦体に当てる必要はなく、
潜水艦の近くで爆発させるだけで沈めることができるのです。


■ アメリカ軍が恐れた人間魚雷「回天」

「シルバーサイズ」は強力な艦でしたが、日本海軍の潜水艦艦隊は、
世界で最も多様性に富み、強力と言われていました。

第二次世界大戦という戦争では、ある意味、どちらもが
最高の潜水艦を競うのにふさわしい相手であると任じていましたが、
日本海軍にはアメリカには真似のできない方法があったからです。

このサイトには、日本の潜水艦と戦った「シルバーサイズ」の
弱点がこのように明言されているのです。

率直に言って「シルバーサイズ」の弱点は
「回天」を持っていなかったことである。

以下その説明です。


日本のC1型潜水艦は、「回天」魚雷を装備していた。
「回天」は、一人の人間が自らを犠牲にして、
目標まで操縦する大型の有人魚雷である。

combinedfleet.comによると、
「回天」クラス魚雷は、セオドア・クックによって、

『艦というよりも、非常に大きな魚雷に人間を挿入したようなもの』

と評された。

これらの魚雷は通常通りに武装され、人間が魚雷をリダイレクトして、
ターゲットに当たる確率を大幅に増加させることができるものであった。

これらの魚雷は、本質的に
水中の神風パイロットであり、
命中率を高めるために自滅を余儀なくされるものであった。

回天魚雷は、複数の米艦をに沈めることにおいて
残酷なほど効果的であった。
魚雷に人を乗せるという倫理的な懸念はあったが、効果は絶大。


「シルバーサイズ」はこの自己目標魚雷を持たなかったために
不利な状況に置かれたということもできる。


弱点というか・・・・もしかしたらこれ、嫌味ですか?
と思ってみたりするのですが、決してこのサイトには揶揄の調子はなく、
むしろ、「回天」の武器としての有効性については称賛するかの勢いです。

戦後、アメリカ海軍の艦艇乗組の指揮官が、
日本との戦闘で、最も警戒すべきかつ心理的恐怖を与えられたのは
「回天」だった、と語っていたことを今ふと思い出しました。

続きを見ていきましょう。

日本軍の乗組員はまた、その点非常に献身的であった。

日本社会では歴史的に名誉が非常に重要であり、
それは第二次世界大戦でも大いに発揮された。

日本人の乗組員たちは、自分たちの名誉のためであれば、
どんなことでもやるというのが一般的だった。

だから回天は強力だったのだ。

回天に乗る者は、大日本帝国のために命を捧げることこそが
大きな名誉であると信じていたのだ。


「回天」の誕生に関わる数々の逸話、そこにいた若者たち、
その生と死に直面した時の彼らの覚悟と残したもの・・。

心ある日本人であれば、彼らがただ単に自分の名誉のために
狂信的な考えに取り憑かれ喜んで死んでいったわけではないと知っています。

しかし、それはそれとして、その、私を捨て去り、
公に殉じた自爆攻撃が、相手を震え上がらせた事実は動かせません。

ここは素直に、「回天」が戦法として承認されていると考えましょう。
だからと言ってアメリカ人がこれを賞賛しているとは限りませんが。


「シルバーサイズ」のもう一つの欠点は、航続距離であった。

C1級潜水艦が14000海里というかなりの航続距離を誇っていたのに対し、
「シルバーサイズ」は補給なしでは11000海里ほどしか進めない。

一般的に潜水艦は、沿岸ならば、過ごす時間が短ければ短いほど
敵艦に潜水艦の位置を知られにくく、逆に
航続距離は、長ければ長いほど有利となります。

航続距離の短い艦は遠くまで移動できないため、
一度の索敵で位置を推測される可能性が高くなるからです。

このように、USS「シルバーサイズ」は、日本のC1級潜水艦と比較して、
明らかにいくつかの欠点もあったのです。

■ 「シルバーサイズ」の長所


シカゴに寄稿した「シルバーサイズ」

【小型が生む海中での静音性】

「シルバーサイズ」の大きな強みは、水中での移動能力でした。
海軍歴史遺産コマンドによると、この艦の水中変位は2,424トン

同規模の日本の潜水艦C1の水中排水量3,561トンよりかなり少なく、
つまり「シルバーサイズ」は、水中で占めるスペースが小さいので、
機雷や魚雷が当たりにくく、攻撃するのがより困難とされました。

日本の船、特に「C-1」級潜水艦は非常に大きいので、
発見されれば簡単に標的にされてしまいますし、
その大きな船体は、まず、音を反射しない小型の潜水艦よりも
ソナーで簡単に位置を特定されてしまいがちです。

ちなみにここでの「C-1級」とは、伊号16級と同義であり、
「伊16」「伊18」「伊20」「伊22」「伊24」等を指します。

「シルバーサイズ」の強みは、裏返すとC1級潜水艦の欠点でもあります。

C1級潜水艦の第二の欠点、それは艦体が大きいので、同じ速度を出すのにも、
小さな艦体よりはるかに多くの馬力が必要であることです。

「シルバーサイズ」もC1級も、潜航速度は8ノット程度でしたが、
「シルバーサイズ」の小型の艦体でこの速度に達するには、
より少ないトルクで事足りました。

「シルバーサイズ」が8ノットに達するためにはの11,800馬力とすれば、
日本のC1潜水艦では同じノット数に対して12,400馬力が必要です。

今更ですが、馬力を上げるためには、モーターのスピードを上げて
プロペラをより速く回転させる必要があるため、その結果、
必然的により多くの騒音が発生することになってしまいます。

この大きさの違い=静音性により、「シルバーサイズ」は
伊号より攻撃されにくく、したがって若干の優位性を持っていたのです。


【機雷の使用】

また、USS「シルバーサイズ」の日誌によると、
自前の機雷を使って敵船を沈めたという記録が散見されます。

機雷は、設置されている場所への敵のアクセスを、触雷への恐怖から
それだけで封じることができる非常に強力なツールです。

日本海軍は機雷敷設艦が別に存在していたため、
C1級潜水艦は機雷設備を備えていませんでした。

もちろん潜水艦が機雷を備えていたからといって、
一対一の戦闘で役に立つことはありませんが、重要な航行区域に、
前もって機雷を敷設する能力は、いざという時それなりに有利だったのです。


【乗員の練度(民族性含む)】

乗組員の質を考慮に入れずに両潜水艦を効果的に比較することはできません。

「シルバーサイズ」の乗組員は慎重かつ正確で、
魚雷の発射を見逃すことは滅多にありませんでした。

日本海軍の乗員がその能力を欠いていたということはありませんが、
彼らがあまねく備えていた、何があっても降伏しないという
非常に強い名誉意識は、しばしば、彼らの潜水艦を
自ら沈めてしまう傾向にあったということは否定できません。

アメリカの乗組員は「生き残ること」に常に慎重で、
そのためにリスクを極力回避することを優先する傾向にあり、
このことが結果的により多くの任務を遂行することにつながりましたが、
何かとアグレッシブな日本の乗員たちは、任務を遂行する際、
その安全度より優先度の高い目標を選択した結果、
生き残れない場面が多々あったというのです。

もう少し言うと、名誉を何より重んじるという教義に自縛されていた彼らは、
何があっても命令を遂行することを優先しすぎた結果、機会を逃したり、
危険な状況に自らを破滅させることがあった、という意味です。



まとめると。

「シルバーサイズ」はステルス性と安全性で優位に立ち、
C1型日本潜水艦は火力と潜航能力で優位に立っていました。


各艦の長所と短所を比較すると、かなり拮抗しており、もし両者が
ガチの戦闘を行ったとしたら、決定的な勝敗はつかなかったでしょう。

その勝敗を決めるのはただ、「運」の一言に尽きます。
どちらが先に魚雷を発射できるか、運だけがそれを左右するのです。



■ 映画で観る「シルバーサイズ」物語

今日の最後に、とっておきのショートムービー、
「シルバーサイズ・ストーリー」をご覧ください。

これは、戦後アメリカで放映されていた、
「サイレント・パトロール」というテレビ番組のために制作されたもので、
退役した元提督(レギュラートーマス・ダイカーズ少将)が司会を務め、
第二次世界大戦中の有名な潜水艦を取り上げて、
俳優を使った映画風ストーリー仕立てでその足跡を紹介します。
潜水艦の戦時活動と、彼らが「いかに戦ったか」を広報する目的でした。

最後には必ず当時まだ現役だった指揮官などが呼ばれ、
実際にその時のことを言葉少なに語るという視聴者サービスもあります。

この映像におけるタイムラインを書き出しておきましたので、
ぜひ我慢して?飛ばしながらでも最後までご覧になってください。

わたしがこのブログで順を追ってお話ししたことが
映像で網羅されているのでおすすめです。

出演:マイク・ハービン、レーン(語り手的な主人公)、
バーリンゲーム艦長、ダヴェンポート副長、プラター
(全員を役者が演じている)


USS Silversides 'The Silversides Story'

1:21
「シルバーサイズ」出港前、乗り込む水兵たちの会話
ハービン水兵が「ラッキーブッダ」を持ち込み、皆がバカにする

6:47〜
初戦闘、日本海軍の潜水艦(本物)内部が映る
「シルバーサイズ」に一発で撃沈される

8:23
日本貨物船を魚雷攻撃、爆発沈没
「妙義丸」の船名、海に漂う日本人船員の遺体が映る

9:32
武装漁船(さっきと同じ海軍士官が映る)との戦い
マイク・ハービン水兵銃撃によって戦死

14:30
爆雷に耐えている時、プラターが盲腸で苦しみ出す

15:38
ファーマシスト「ドク」、俺が手術するよ!と力一杯宣言

16:28
手術開始

18:57
魚雷攻撃していたら6本目が詰まって出ないのに気づく
上から爆雷がジャンジャン来てピーンチ

21:44
チーフが魚雷を排出するため発射室に残る「決死隊」を募集、
定員3人に対し全員が手を挙げる
ブッダのお腹を撫でて魚雷排出成功
一同ホッとして笑い合う

23:47
映像は終わり、ゲストのクリード・バーリンゲーム少将登場

最後の、司会とバーリンゲーム少将の会話を翻訳してみました。

「クリード、見た限り、
シルバーサイズの哨戒には一瞬の退屈もなかったようですね」

「物事を色々やらかす人が集まってたんでしょうね」

「その通りですが、色々やりすぎというか、

盛り込みすぎな場面もあったように思えます」

「と言いますと?」

「プラターの手術だけでも大変なのに、そこに爆雷が降ってきて、
魚雷が詰まって、結局どれも無事に切り抜けてしまうとは」

「そうですね。多分あなたのいう通りです。

魚雷がチューブに詰まること自体、もし他の艦長だったら
この事態を(他の方法で)クリアできたかもしれないし、
この深刻な事態に対処できたかもしれない。

ただ、我々はその時爆雷の攻撃を受けていましたからね。
その時弾頭が爆発しなかったのは幸運だったとしか言えません」

「事実、それらを実行決断するあなたの才能は、
『シルバーサイズ』の大きな遺産となり、

その成績は傑出したものになりました」

「はい、すべての潜水艦の中で、撃沈成績は3位となりました」

「本当に素晴らしい艦でした。
あなたと、あなたを補佐したジャック・コイ大佐には、
おめでとうございますと言わなければなりません」

「しかし、我々の乗員の
偉大な協力があってのことだと
忘れてはいけないと思います」

「この先ずっと、そのことに誰も異論はないでしょう。
今日はどうもありがとう、クリード」

「ありがとうございました」

司会者とものすごく近くに座っているのに、
全く目を合わさずセリフを棒読みしているバーリンゲーム少将・・。


ちなみに、繰り返しになりますが、爆雷下での盲腸手術について、
前述の潜水艦サイトではこう書かれています。

また、「シルバーサイズ」は緊急手術の場となったことで有名である。

第3次哨戒中、ジョージ・プラターは虫垂切除手術が必要となったが、
問題は医師が乗艦しておらず、当時「シルバーサイズ」は
安全に立ち寄れる港の範囲内にいなかったことだった。

結局、汚れのないスチール製の食事テーブルの上で、
本来は救急隊員が担当する手術を行うことになった。

手術がより安定した環境で行われるように、クルーは部屋を徹底的に掃除し、

「シルバーサイズ」は揺れを少なくするために水中に先行した。

麻酔に難があったものの、手術は成功し、
「シルバーサイズ」が港に到着すると、そのニュースはすぐに広まった。


手術した人(右)とされた人



当時の新聞でも大きく報じられました。


続く。


潜水艦「シルバーサイズ」最後の哨戒

2022-10-03 | 軍艦

さて、ニコルズ艦長の指揮下で、案外無事に12回目の哨戒をこなした、
第二次世界大戦中の「ガトー」級潜水艦、「シルバーサイズ」。

前回、ふとしたきっかけから、「シルバーサイズ」の、
歴代艦長と副長のその後の華々しい軍歴に話が及んでしまいました。

今日は改めて、第13次哨戒から検証します。


■ 第13次哨戒1945年3月9日〜4月29日

🇺🇸
13回目の哨戒で、「シルバーサイズ」は
「ハックルバック」(SS-295)、「スレッドフィン」(SS-410)

と共に九州沖を哨戒し、連携攻撃群の一員となった。

🇯🇵
3月9日
「シルバーサイズ」は13回目の哨戒で
「スレッドフィン」 (USS Threadfin, SS-410)
「ハックルバック 」(USS Hackleback, SS-295) と
ウルフパックを構成し日本近海に向かった。


僚艦2隻とウルフパックを組んだということになります。
「シルバーサイズ」行動調書の13回哨戒プロローグは次の通り。

「シルバーサイズ」は1945年2月12日にミッドウェイで12回目哨戒を完了。
通常の改装は、USS「エーギル」(Aegir)と潜水艦部門241が担当した。



Aegirはeagreというスペルもあり、
「潮の流れが原因で起こる高波」という意味を持ちます。
「エーギル」なのか「イージア」なのか読み方はわかりませんが、
潜水艦テンダー、つまり潜水母艦です。

潜水母艦は、前進根拠地や泊地などにおいて潜水艦を接舷させ、
食料、燃料、魚雷その他物資の補給を行う役目を持ちます。
「イージア」(エーギルかも)がそうだったように、
補給だけでなく修理・整備能力を持つものもあります。

ミッドウェイでは本格的な設備がないので、
「エーギル」(イージア)と現地の部門で改装を行いました。

改装した部分は右舷サウンドヘッドの更新

SJAレーダートランスミッターを新しいユニットに変える


耐圧外殻を通す全ての回路に、
ドレインホールを備えた追加のジャンクションボックスを設置する


燃料バラストタンクベントバルブの上に
ワイヤースクリーンケージとデッキハッチを設置


前方燃料油充填接続の取り外し

JPソナーマウントの解放の防止


ダミーログとして使用するためのピットログへの変更


チューブ・ポペットバルブのトリップ機構にローラーを取り付け
艦内の排気管機ターミナルを撤去


一応翻訳してみましたが、なんのことかさっぱりです。
なんとなく雰囲気だけでもお伝えするために、書いておきました。
改装は二週間ほどで完成しています。

改装後、士官と乗員は艦に戻り、2月27日2月2日、
全ての装置、音響設備のテストを実施し、潜水、
演習魚雷6発を発射するなどの訓練を行いました。

次の士官は修理及び訓練期間中に離職しました。

CF・リー中佐(USN) 副長兼航海長
CC・エイデル予備大尉(USNR) 機関長
WJ・ツェウィンスキー少尉(USN) 砲雷長

次の士官はこの期間の乗艦が記録されます。

 中佐 WC・ヴィックレーJr. (USN)
予備大尉 LLT・アレン(USNR)
少尉 LJR・ハモンド(USN)

面白いのは、転勤した機関長が予備大尉であり、
新しい機関長もまた同じ予備大尉であることです。

機関士官は、特により専門的な知識を必要とするため、
大学で工学などを専門に学んだ予備士官が充填されたのかもしれません。


🇯🇵
4月6日夜
潜水艦USS「スレッドフィン」が探知した、
戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊(伊藤整一中将)を、
情報に基づいて捜索したが見つけられず、都井岬方面に引き返した。


通信を受けた時には大物の捕物に関われるチャンス!と盛り上がったのに、
結局空振りとなって、さぞがっかりしたことでしょう。

この部分、「シルバーサイズ」行動日誌からです。

0525 都井岬沖で日中哨戒のため潜水
0900 数隻の漁船を南西で視認
1028 正体不明の単発エンジン偵察爆撃機北方コース上空
1125 210−245に漁船数隻
1727ー1923 いくつかのはっきりした爆発音が東方から聞こえる、明瞭
1955 海面に浮上、コース艦首方向に設定
2130 「スレッドフィン」からの内容報告を受信、
敵の位置、進路、速度を表す内容
速度を最大に上げコースを変更
(略)
SJが正常に作用していないと確信する。
サンドスウィープのために遅くなる。コンタクトなし。

現在の機機動部隊は今夜浮上した地点、
ヴァン・ディーメン海峡方面に向かっている。


現在FOXのスケジュールで多くのコンタクトを取得しているが、
全ては時間が経過した情報なので、我々の手の及ばないところにある。

一部の報告は不明瞭なため、位置が特定できなかった。


こっちは一生懸命やりましたが、「スレッドフィン」の報告が不明瞭で、
そのため、機動部隊に近づくことはできませんでしたよと。

そう言いたいわけだな?

🇯🇵
4月11日深夜
北緯30度45分 東経131度57分の種子島近海で
特設監視艇「白鳥丸」(愛知県、269トン)に魚雷を3本発射したが回避され、
さらに4本発射し1本を命中させて撃沈。


「シルバーサイズ」の方では、この相手を

「ゴールポスト2つ、煙突ひとつの2,000トン小型貨物船」
ついでに
「タイプD ・シュガー・チャーリー・ラブ」
(Type D: Sugar Charlie Love)
と識別しています。

「シュガー・チャーリー・ラブ」ってなんですか?と思って調べたら、
戦争中アメリカが、日本の民間船につけていた認識名でした。


肝心のタイプDの船体の絵がありませんご容赦ください


「シルバーサイズ」日誌によると、
このシュガーチャーリーラブに2300に魚雷発射し、失敗。

翌日0012に2本目を発射、爆発音を聞き、内部で爆発したらしく、
すぐに沈没を始めたことが確認されたようです

🇯🇵
4月19日
北緯32度57分 東経145度03分の小笠原諸島海域で
特設監視艇「海龍丸」(大澤半兵衛、180トン)を砲撃により破壊した

「海龍丸」についての撃沈記録は、
「シルバーサイズ」日誌によると以下の通り。

「艦首から4基の魚雷を発射。震度3フィート、
レーダーレンジとTBTベアリングを夜間水上攻撃にセット。
発射前のソリューションはTDCとプロットによって完全にチェックされた。

最初の魚雷、ヒット。
ターゲットは爆破されて沈没。

命中部分は船体中央部わずか後方の位置。
深度のために1.1節のスピード補正を使用した」

アメリカ側の記述によると、簡単に、

🇺🇸
この時も価値のある目標はほとんど見つからなかったが、
4月29日に真珠湾に戻る前に、大型貨物船に損傷を与え、
トロール船を沈めることに成功した。


撃沈させられた船が2隻もあるというのに、
「価値ある目標はほとんど見つからなかった」
とはご挨拶ですなあ。(嫌味)


■ 第14次哨戒 1945年5月30日〜7月30日

さて、名実ともにこれが「シルバーサイズ」最後の哨戒となりました。



ニコルズ艦長になってから、ほぼ同じ海域に3回出動し、
ほぼ同じ地域での哨戒となっていたわけですが、
第14次哨戒は、真珠湾からサイパン、紀伊水道と四国の下側を哨戒し、
そこからサイパンに戻ったところで終了しています。

その理由は、7月30日に第14次哨戒を終了し、
サイパンで次の哨戒の準備をしていたら、終戦になってしまったからです。

それでは、最後の2ヶ月、彼女はどのような活動を行ったのでしょうか。

この時期、日本はもうほぼ海運手段を破壊され尽くしており、
(そもそも聯合艦隊すら消滅していたという状態だったので)
潜水艦の哨戒任務は通商破壊ではなくなっていました。
むしろ、今後のことを考えたアメリカ首脳部によって、
民間船舶の攻撃は禁じられていた頃です。

そこで、哨戒と言いつつ、潜水艦は、本土空襲の支援で、
海上に撃墜されたパイロットの救出を行ったり、
機雷の処分といった補助作業に終始していました。

哨戒中「シルバーサイズ」が救出したパイロットは二人。
この時のことは、行動日誌に以下のように記されています。

7月22日

0430 USS「スキャバード・フィッシュ」の通信をキャッチ。
(『スキャバード・フィッシュ』はこの時7名のパイロットを救出している)

0544 ピート(ゼロ式観測機)を視認。

1030 ピート、『S(?)tono岬』近くの航空基地に着陸

1243 B-29数機、ムスタング戦闘機を視認する

1415 ボーイング戦闘機が激しく攻撃を受けているという通信を受ける

1418 パイロットが機体よりベイルアウトするのを視認。
その直後、機体は海にダイブしてクラッシュ。
パイロットの救出に落下地点に直ちに急行する。
イマージェンシー・スピード。

1434 
パイロットを救出、

ジェームズ・E・〇〇NKIE中尉
陸軍認識番号0-829861 、USAAF。

少々の外傷と打身の痕を除き、外見は問題なし。
救命ボートは壊れて沈んだとのこと。

(その後ライフガードステーションに搬送)

7月24日

1238 パイロットが沖ノ島近海で救助要請という通信を傍受
救出に向かう

1430 乗っていた飛行機はもう沈んでおり、
パイロットは海上で我々の救出を待っている状態と連絡あり

1435 V.●URTOH大尉、125053 USNRを救出
USS「インディペンデンス」艦載機乗組。
健康上の問題なし。


パイロットの名前が悉く伏字になっていますが、
別に彼らの個人情報に配慮したというわけではありません。

この頃の日誌を清書した時のタイプライターのインクカートリッジが
切れかかっていて、インクが薄くて字がかすれて読めないのです。

パイロットの名前だけでなく、至る所文字を解読するのに苦労しました。
いくら哨戒中でも、インクのカートリッジはちゃんと取り替えて欲しいです。

🇯🇵
7月14日
北緯33度57分06秒 東経136度21分02秒の地点で
450トン級トロール船に対して魚雷を2本発射したが命中せず、
この哨戒唯一の攻撃は成功しなかった。

このことは行動日誌にこう記されます。

攻撃タイプ:晴天、波穏やか、白波立たず。中位のうねり。
ターゲットは潜望鏡によって補足される。
ジグザグ航行はしていないが、前進全速で航行中。

魚雷を深度6フィートにセット。
ターゲット、魚雷発射に対して警報なし。

魚雷は普通にターゲットの下方を通過、
ターゲットは木造で選手と船尾が丸みを帯びており、
上部構造物の側面に191の文字が描かれているように見えた。

船は100度の曲線の外にあり、
ダイオウサキからミキサキ?までのコースで
高速で海岸線を下っていった。


再び接近して攻撃することは不可能であった。

トルネード管の故障は、インターロック・システムの
「発射準備」レバーを上げることができなかったために起こった。
このチューブの発射を試みた。
このため、次回の改装時に調査する予定である。


魚雷がうまく発射できなかったのは、
レバーを上げることができず、故障してしまったからです、

という言い訳でよろしいか。

ともあれ、この哨戒唯一の失敗した魚雷発射が、
第二次世界大戦の強豪艦「シルバーサイズ」の最後の攻撃となりました。

 PEACE!(終戦)



ところで冒頭のこの写真は、「シルバーサイズ」が
第14次哨戒を終えて、サイパンではなくグアムにいたとき、
日本が降伏するという知らせを受けてのち撮られた記念写真です。

終戦となって初めて撮られた写真というのに、
写っている人の誰一人、笑っていないのが不思議です。

全員で戸惑っているんでしょうか。
まだ実感がないのか、それとも気が抜けたのか。

ピース!

14回目のパトロールを終えたわたしたちは、
グアムに創設された新しい潜水艦基地でのんびりしていました。

わたしたちの任務はそれまでと変わり、人命救助になっていました。

既に壊滅状態だった補給船の攻撃はむしろ禁じられることになり
その代わりに、墜落した機体のパイロットを救出するのです。

今回の任務でも帰還までに二人を救出した「シルバーサイズ」は
15回目の紹介に向けて修理が行われていました。

乗員たちは誰もが、日本本土への上陸について話していました。

ヨーロッパで疲弊した連合軍の部隊は、
「最後の一押し」のために太平洋に送り込まれていました。

その時、広島が一発の閃光の元に消え去り、
数日後には長崎も同じ運命が訪れました。

日本はついに陥落し、わたしたちは家に帰ることになったのです。




そして、帰還の時の記念写真。

「潜水艦勤務に伴う興味深い『副作用』のひとつ、
それは『髭コンテスト実施』でした」




そして、ニコルズ中佐の件で一度アップしたこの写真ですが、
その節は失礼しました。間違いでした。
これは哨戒前の壮行会の写真ではなく、このパネルによると、

「戦争が終わり、『シルバーサイズ』が退役することになったので、
その『デコミッショニング・パーティ』をした時のもの」


あったことがわかりました。

最後の方は老体に鞭打って働いていた感のある「シルバーサイズ」ですが、
戦争も終わったことなのでもうお役目ごめんとなったのです。

本来ならばスクラップになって次の軍艦に生まれ変わるところですが、
彼女は違いました。

「彼女が残した偉大な記録は、彼女を廃棄から救い、
訓練艦としてもう一働きするためにシカゴに曳航されていきました」

さて、次回ですが、ここでまとめの一つとして、
「シルバーサイズ」の評価と日本の潜水艦との比較を行います。




続く。