ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

WIFE SWAP~妻交換番組

2012-09-30 | アメリカ

いきなりお見苦しい写真をお出ししてしまい、申し訳ありません。
なんだこの目のイッてるおばちゃんは?
その疑問には後でお答えするとして。

なんどかアメリカ滞在中に観た「テレビ番組」をご紹介してきました。
アメリカの「視聴者参加番組」は、日本のような国民性からは信じられない「露出番組」、
たとえば「モーリー」や「ジェリー・スプリンガー・ショー」など、
浮気したかどうか嘘発見器にかけたり、子供のDNAを調べてその結果父親を特定するなとという、
出演者総出で恥さらしをする形態のもの、或いは、
身の回りの変な人を周りの通報によって曝すものなどに人気があります。

何人もの男性をずらっとスタジオに呼んで(わたしの観た最高数は七人!)
「この中の誰かが赤ん坊の父親だから、DNAテストで調べて!」と女性が訴え、男性は
「You are not the Father!」といわれるとみな歓喜してダンスを始める。
こんな「世も末」な番組は、アメリカ以外のどの国にも存在しないし、これからもしないでしょう。

こういうことを「ネイション・ワイド」に放映されてしまって、世間とかご近所に対して恥ずかしいとか、
みっともないとかいう感覚はアメリカ人にないんだろうか。ないんだろうなあ。

そういう、「恥知らずなアメリカ人」の作るテレビ番組で、長い間人気を得ている企画ものがあります。

「妻交換番組」。Wife Swapです。
この番組はオリジナルではなく、Trading SpouseというFoxの番組が元祖だそうです。
内容は、なんと
二つの家庭の主婦を、主婦だけ期間限定で取り換える

というもの。

どういう基準でどこから参加者を探してくるのか知りませんが、

「リッチな生活をしている妻がハーレムの家庭へ」
「貧乏妻が超豪邸に」
「潔癖症の妻と片づけられない主婦を交換」
「浪費家としまり屋の交換」

およそ考え付く限りの対照的な家庭が選ばれます。
妻交換といっても、たいていのうちには子供もいるわけですから、彼らにとっては
その期間別の女性をお母さんにすることになります。


冒頭写真は、わたしが滞在中に観たこの番組の参加者。
仮にAさんとしておきましょう。
Aさんの家庭はいわゆる小金持ちです。
家は結構な豪邸で、旦那さんは何をしているかは知りませんが、稼ぎはかなりある模様。
ただし、言ってはなんですが、このご主人にも家庭そのものにもアカデミックな雰囲気はゼロです。



Aさんはご覧のように、着飾ってお出かけするのが大好き。
なんでも月に2000ドル(17~8万円)は自分のファッションのためにお金をつかう剛の者です。

 靴専用のクローゼットはアメリカ人女性の憧れ。

 同じような小金持ち主婦同士でしょっちゅう集まっています。

 こうやって、家で一人のファッションショーも。
踊りだしちゃってノリノリです。

それにしても、こういう格好をする前におなかを何とかしたほうがいいと思うのはわたしだけでしょうか。
ちなみに肥満への道まっしぐらな三人の息子は、ほとんど料理らしい料理などしてもらっていません。
勉強しろとも言わない母親なので、毎日ゲームとテレビとスナックフードで生きています。

 かたやこちら。名前が出ているのでキャシーさんと呼びます。

 

キャシーはつつましい家庭の良き妻、良き母。
彼女の関心事は家族のこと。子供の教育。自分のおしゃれなど二の次三の次です。

 

こんな奥さんの旦那だからこうなのか。この旦那の妻だからこうなのか。
いかにもしまり屋で小市民よき市民、良き父良き夫のようなキャシーの夫。
浮気の心配だけはなさそうです。
まあ、世の中何が起こるかわかりませんので、断言はしませんが。
テーブルにお金を並べているのは、それぞれが「家族のお小遣い」。
ひとりあて1ドル50でいったい何を買えというのか。

ところで、何人いるのこの家族。

なんか7人くらいいるんですけど、子供・・・。

これはまた典型的な貧乏人の、いや正直者の子だくさん。
とにかく彼らは、大きな子供が小さい子の面倒を見、けなげに助け合っています。

キャシーさんが訪れたAさん宅。

必ずたった一人で交換先に行き、家をくまなくチェックしてあれこれ(悪口を)いう、というのがお約束。
片方が豪邸の場合、広さに感心して、「メイドに掃除させているのね」などといいます。

 

Aさんが訪れた「交換先」にはなんとびっくり、ニワトリがお出迎え。
キャシーさんの家はファームなんですね。典型的なカントリーワイフです。
まずクローゼットに突入し、キャシーさんのワードローブを出して馬鹿にするAさん。

「ちょっとー、何この、ゴムスカートは!だっさー!キャハハハ」


 豪邸のAさん家族にあいさつするキャシーさん。

お金持ちのほうの家庭はたいていスノッブで、貧乏人妻をあからさまに馬鹿にしたりするのですが、
彼ら、特にこの旦那さんは気のいい人らしく、なかなか好意的。
子供たちも、お化粧もおしゃれも、ギラギラもしてない女性が珍しそうにしています。

 「このママは、なんだかよさそうだなあ」

と思ったのもつかの間、キャシーママは、さっそく子供たちのゲームを制限し、取り上げ、
「さあ、みんなでできる遊びをしましょ。まずはダイヤモンドゲームよ」
などとやりだし、子供たちは「シマッタ」。

さて、交換されたからには、彼女らはオリジナル妻と同じことをする必要もあります。
ニワトリを見ながら田舎で暮らしていたキャシーさんに、次に下ったミッションは、
Aさんの常連の小金もちマダムの集まりにおしゃれしていくこと。どっひゃー。

 

まずは行きつけのブティックであれこれ買い物することから。
しぶしぶ出かけたキャシーさんですが、そこはやはり女性の性。
気が付いたらいろいろ試着してお洋服を選ぶのにどっぷりのめりこんでおります。

 

おしゃれしたからには、と慣れないお化粧にもチャレンジ。
いくらし慣れないからって、化粧するときにこんな顔をする人がいるだろうか・・・。
でも、この人顔立ちがなかなかいいので、お化粧がちょっとさまになってますね。
本人も、まんざらでもなさそうです。

 かたやAさん。
子供がだくさんいて、朝も早くからやること満載なのに、みんなが出て行ったから悠々起床。
家のことは一向にしないけど、お化粧にキラキラの服で朝から出てくるお母さんに、子供たちは目を丸くします。
とくに、この家の年頃の女の子は、彼女のファッションに興味津々。

しかしAさん、慣れない手つきで皆のために健気にも卵を焼いたり、勉強を見(るふりをし)たり、大活躍。
すぐに根を上げてしまうのですが。

 やっぱりこんなことしているほうが楽しいの~。

小金持ちマダムのパーティに出てみたものの、皆から浮きまくっていごこちの悪い思いをしたキャシーさんも、
二週間目が近づくと、「やっぱりうちがいいわ」などと思い出します。

というところでスワップ期間終了。

 

最後に、両夫婦が一堂に集まり「反省会」。
この場では何とも言わなくても、後でカメラに向かって相手の家庭や妻の悪口を言いだす人もいます。
この二人は、まったく自分とは別方向の暮らしを体験したわけですが、お互い「自分の家がベスト」であることを確認しました。

 でも、その後、ちょっとした変化が二人の妻にありました。

これまでこどもたちを放任して、自分のことばかりしていたAさん、
「キャシーママがいたとき、皆でゲームしたら楽しかったよ」
と子供に誘われ、トランプなどを彼らとするように。
そして、たくさんの子供たちのために、おやつを作って喜ばれたので、
Aさん、自宅でもちょっとクッキーなど焼いてみる気にもなったようです。

そして、キャシーさんは、少しお化粧をして人前に出るのもいいわね、という気になったようですね。
二人で並んでいるキャシーさんの顔、ちゃんとお化粧しているでしょ?

 

さて、この日のもう一組の「交換妻」たち。
まずはこちらの夫婦から・・・・・・って、なにこれ!
ムキムキ筋肉男と腹筋妻。
ビリーズ・ブートキャンプか?と思ったら

 

そのものでした・・・・・。
こういうフィットネスチームを主催しているのがこの家の主人。

 夕食ができるのを待つ間に腕立て伏せ。

もうこうなったら運動ジャンキーです。
アメリカ人は極端で、太っている人は野放図に太っていますが、このように鍛える人は半端でなく鍛えます。
そして、もうこのあたりで予想がついた方もおられるかと思いますが、本日ここに交換妻としてやってくるのはこの人。

 

やせたら結構な別嬪さんであると思われるのですが、とにかく太っています。
そして、これもアメリカ人にありがちなのですが、妻がデブなら夫もデブ。(右)
この旦那さんも、痩せればティム・ロビンスなのに、ご覧の通りの超重量級。
食べるものが同じなのでこうなってしまうカップルが多いようです。

 

うちの妻になったからには、運動してもらわにゃ!という厳しい夫の命令で、いきなりトレーニングに参加させられるBさん。
日頃何もしていない人に、これはないでしょう。
心臓発作起こして死んじゃうよ~。

 かたや鍛え系妻。
カロリーの高いスナックフードをむさぼり食う旦那にうんざり。
「ちょっとは運動したら?」
「うちにはうちの考えがあるんですよ」
反発するデブ夫。
それでもやたらアクティブな鍛え系にハッパをかけられ、趣味のDJなどにチャレンジする気にはなったようです。
・・・・でも、やっぱりオレ楽な方がいいし、と、楽な方へ楽な方へと流れるデブ夫。

こちらではデブ妻ついにぶち切れ。

「こんなもの、こうしてやる!」
と、自分を苦しめる運動の象徴としてバランスボールにナイフをグサリ。
おいおい、何八つ当たりしてるんだよ。

「毎日毎日運動なんてもううんざりよ!」

デブ夫もぶち切れ。

「オレにこれ以上運動を強要するなあああ~!」ってなわけで、連れて行かれたジムでパンチングボールに八つ当たり。

こういう人たちって、なんかすごくこらえ性がないのね。
まあ、いきなりハードなブートキャンプを強要する方もする方だけど、どうもデブチームのキレ具合が半端じゃない気がします。
太っているから性格もおっとりしてる、ってことは全くないものなんですね。
むしろ砂糖の取りすぎでキレやすい傾向にあるような。

というわけで残念ながらこのチームの「反省会」は写真に撮れなかったわけですが、
何しろデブ夫とブートキャンプがどっちも怒っちゃって大荒れになってしまいました。

「Bさんはなにしろレイジーで食べてばっかりで・・・」とわーわー叫ぶブートキャンプ。
「あいつは馬鹿じゃないのか」とマジで嫌悪感をあらわにするデブ。

たいていの交換妻は、「うちにもいろいろ不満はあるけど、やっぱりあんなところから帰ってみるとうちの方がずっといいわ」
という結論に達するのが、この番組の「お約束的終わり方」。

それにしても、こうやって並べていくと、どうしても感じませんか。

強烈な「ヤラセ」臭を

バランスボールをナイフで引き裂いたり、ブートキャンプが激高して怒鳴ったり、
まあ多少の「地」ではあるにせよ、これはディレクターにあれこれ指示されているニオイが。
番組をおもしろくするために、あざとい演出は当然である、アメリカのこの手の「視聴者参加型番組」。
やらせは当然のこととして行われているものと思われます。

一昔前、日本でも「ジェリースプリンガー」を真似したと思われる暴露番組が放映されたことがあるそうです。
浮気したとか裏切られたとかのカップルが出てきて、悪い方(たいてい男)が責められるのですが、
その際、自分を非難したコメンテーターに向かって、参加者が「うるせえばばあ!」などと口汚く罵り、
さらに見ているものの嫌悪感を煽るというあざとい演出で、一時は「子供には見せたくない番組」の地位を獲得していたそうです。
実はそれに出演して暴言を吐いていた男性はヤラセもヤラセ、劇団員だったことがわかり、おそらくそのせいで番組は終了しました。

ちょっと見てみたかったかな。

日本人のメンタリティとして、いかに日頃そういう言動をしている人間でも、
わざわざテレビに出てまでそういう面を晒すことはあまりないと思うのですが。
実際、出演者、つまり一般の参加者が番組を継続できるほど確保できなかったのでしょうね。

「ジェリースプリンガー」や「モーリー」は、人口が多く、愚かな人間もそれだけ多く、
さらに恥を恥と思わない人間の多いアメリカでしか成立しない番組なのです。

さて、妻交換のあと、「やっぱりうちがいい」という結論に達したとしても、
別の家庭にしばし身を置いたことで見えてくるものもあります。
というわけで、
「確かにうちはいい。そしてあちらの家庭は最悪だった。でも、いい面もあった」
という「反省」を生かしてみせる交換後の彼らの姿が映されます。


 笑ったのがこれ。

運動を強要されて反発した二人ですが、さすがに太りすぎはあまりよろしくない、ということに考えが至りました。
あそこまでハードにやるのは無理だけど、そう、まず歩くことから始めてみようか。

これは、おそらくやらせなので、もしこの瞬間、二人がその気になっていたとしても、
せいぜい3日もしたら二人そろってやめてしまうことを確信するのは、エリス中尉だけではありますまい。
そもそもこういう地道な運動が継続できるような人であれば、ここまで太りはしないのよ。
なんてったって、彼らの表情が、全てを語っています。

この、つまらなさそうな様子・・・。






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「宜候」な人たち

2012-09-29 | 海軍



元海幕長と途中で終わってしまった会話の続きをするべく、今一度個人的にお目にかかって
そのときには銀座の「宜候」にお連れする、という野望を語ってみたわけですが、
防大卒の経営者O氏との会合が決まり、もしかしたら海幕長がいらっしゃるかもしれない、
という流れになったとき、うちのTOがここを予約しました。

たびたびこのブログに行きがかり上登場しているこの、エリス中尉の連れ合いであるところの
戸籍上の夫という役割のTOですが、実は前にも言ったように、
ツマがこのような世界にのめり込んでいることは知っていても、その情報をこうやって、
ブログという形で世間様に垂れ流しているとは夢にも思っておりません。

読まれていると思えば書けることも書けなくなるので、このことは今後も言うつもりはありませんが、
もし知ったらどんな反応をするでしょうか。
とにかくそれにもかかわらずこうやってツマの喜びそうな情報をせっせと集めてきては、
実際にもそれを行動に移してくれるわけでございます。

それにしても、毎日山のような本やなんかを傍らにPCに黙々と向かっている連れ合いに、
そんなに一生懸命いったい何をしているのか一度も尋ねないというのは、
かれなりの遠慮か、無関心か、はたしてどちらなのでしょうか。

と、どうでもいい話から始まりましたが、今日はその「ヨーソロ」探検記と参ります。

知る人ぞ知るこの「ヨーソロ」、銀座の老朽化も限界と言ったビルヂングの地下、
くねくねと狭い階段をB2まで下りきったところにありました。

「今晩首都直下型地震が来ないことを祈るしかないね」

思わずそのような言葉が口をついて出ました。
冗談抜きで、もし地震が来たらまず間違いなく階段はふさがれ、
運良く生き残ったとしても、この狭い空間にいる人々は、
助けが来るまでおつまみの乾パンと水割りで生きていかなくてはならないでしょう。



店内は「フネの中」という設定のインテリア。
本当に狭く、そういう意味でも「艦隊の兄さん」気分を満喫できます。
至る所に貼られた写真は、よく見ると所属団体の名称入り。
製鉄関係の会社が多いのは「フネ」もつくっているからでしょうか。



割烹着がかわいらしいこの店のママさん、ではなく「艦長」さん。
「国防婦人会」のコスプレか、それとも元々こういうファッションの方でしょうか。
どういういきさつでこのようなマニアックなお店をやっておられるのかは知りませんが、
お店のHPには山口多聞司令のご子息、という方が推薦の辞を呈しているほどなので、
やはり本物の「海軍さん」の関係者ではないかと思われます。
店中に貼られた軍艦旗、ゼット旗。
館長さんは、二つに分かれている部分の真ん中にかかった「コスプレ用軍服」を片付けてくれています。



士官用の第一種第二種第三種はもちろんのこと、セーラー服や事業服、予科練の制服も。
取りあえずなりたい位の海軍軍人にいつでも変身可能。



こういうところですから、ちゃんと襟の階級章も各種揃っております。
壁を見る限り、写真を撮るときに上から下まで着替える人も多いようです。

大日本国防婦人会の札のある棚は、ボトルケース。
ここはもし「桜に錨」さんが観ておられたら解説を願いたいのですが、おそらくこれは個人の物入れ?
スピーカーと言い、天井に掛けてある軍刀と言い、全て本物っぽいです。



これ、コピーとかじゃないんですよ。
いいのか?こんなところ(失礼)にこんな貴重な写真が。
この歴史的な会合の写真を撮った日、どうやら雨が降った後らしく、地面が濡れていますね。
それにしても海軍がこの会議の後わざわざ記念写真を撮ったのは、やはりこの会議が
「歴史を変えるもの」であるという認識の元にだったのでしょうか。

これを見ていたら、同行のO氏が
「このときの電報の一次コピーお送りしましょうか」
「ぜひぜひ!」

興味の無い人間には何の価値のないこれらのモノや写真も、
エリス中尉にとってはまるで宝の山に入ったよう。

 あれ?善行章が下に向いている?
こんな下士官のマークあったっけ、とふと考えていると、O氏が
「これは自衛隊の制服ですよ」
そうでしたね。
自衛隊はgoodマークをイギリス風の下向きに変えたんでした。
これは海士長(leading seaman)の袖章。
試験を受けてこの上の三等海曹になれば、そこからはいわば「正社員」。
一本線の「三等海士」からこの海士長までがいわゆる「水兵さん」です。



これも、線が二本あるので、旧軍のものではありませんね。
ところで、自衛官は士官であれば礼装用にサーベルを持つのだとO氏に伺いました。
やっぱり要所要所では海軍そのままなんですねえ、海上自衛隊・・・。

 なぜか船窓には潜水艦の写真が。

 複製という意味でしょうか。
水兵帽の裏に貼られていたシール。

ところで、ここに元海幕長をお連れするというその真意が
「途中になってしまった話をするため」なのであれば、
まったくここはそういう用途に向いていない、ということが入店3分後にわかりました。

原因は、これ。

 そう、カラオケです。

我々のように数人で来ている客はなく、一人、あるいは二人で来て、
勝手知ったる様子でカラオケのメニューを入れ、軍歌を歌いまくる、
どうやらここの常連客の楽しみは、ここにあるようで・・・・
この破壊的な音量のせいで通常の会話は全く不可能。
ここに来たら、マイクを持ったもの勝ち、なのでした。

暖簾のように軍服の掛かったハンガーの向こうは、どんなお客がいるのか全く見えず。
聞こえてくるのは
「太平洋行進曲」「ラバウル航空隊の歌」「若鷲の歌」などの誰でも知っている軍歌。
ここではスタンダードですが、おそらく他のスナックやバーでは、こういうものを歌えない。
デモ歌いたい!
そういう方々が集まってくるのかと思われました。
その中にめったやたらに軍歌の上手い方がいました。
3~4人でマイクを回しているのか、何回にいっぺんかその人が歌うたびに

「この人上手いですね」
「なんか歌手みたいですね」
「歌手って言っても、昔のポリドール専属みたいな雰囲気ですね」

とひそひそ言い合うほど、その方の歌には「軍歌心」が溢れていました。

「こういう面白いところがあるのでネタとしてお連れする」
という態度でここに訪れた我々、30分も経った頃にTOが
「じゃ、そろそろ帰りましょうか」
と帰り支度を始めると、機関室のドアそのものを使ったトイレから出てきたO氏夫人に
「え~!もう帰るんですか~」
となつく酔っ払い。
ええい、この方を誰と心得る。下がりおれい無礼者。

そこでふと、「ここで一曲歌ってブログネタに」
と不埒な考えが頭をかすめたエリス中尉でございます。

「あの、一曲歌って帰っていいですか」
「え!何を歌います?」
「大東亜戦争海軍の歌」
「へっ?」
「♪きょーかーんさけーたーりしーずみーたーりー♪って歌です」
しばらく詳しいお客さん(士官帽着用)が探して下さったのですが、
「ありません・・・」
「・・・・じゃ、愛国行進曲でいいです」

イントロ開始。

このへんから、
「え、誰が歌うのこれ」
「女の子が歌うの?」
盛り上がる酔っ払いども。

エリス中尉、仮にも音楽関係者の末席を汚すからには、
カラオケというものをあまりたしなみません。
ですから、カラオケで、しかも軍歌を歌うのは生まれて初めての経験だったわけですが、

いや~。気持ちのいいものですなあ。

ここに来て知らないもの同士肩寄せ合って狭い穴蔵のような地下二階で、
ウィスキーと乾パンを前に何時間もいられるというのが、
この「軍歌を歌う楽しみ」のためであるというこの方々の気持ちが、
マイクを握ったとたん100パーセント理解できたですよ。

「江田島健児の歌」とか先ほどの「大東亜戦争海軍の歌」なんてのをカラオケに入れてくれていれば、
銀座に来るたびに通ってもいいなあ、とちらっと思いました。



ところで、このバー「ヨーソロ」ですが、狭い店内のいろんなところに、
わたしが部屋に貯め込んでいるような海軍関係の本がさりげなく積んであります。
その中に、
「日本海軍食生活史話」とか、「回天写真集」なんて超貴重な本があるのを、
スルドイエリス中尉の目は見逃しませんでした。

「あ、これほしいなあ・・・・食生活史話だって。
何回か通ったら一ヶ月くらい貸してくれないかなあ」
「貸してくれるんじゃない?」

しかし、欲しい!と思ったものを我慢することが基本的にできないエリス中尉、
取りあえず、奥付を写真に撮り、帰ってインターネット検索してみました。
古書店で2万円~5万円の範囲です。
モニターを見ながらため息をつきつつ
「一番安いのでにまんえんか・・・・・」
「また行って見せてもらえば?」(TO)
「・・・・・・そうだね」

口ではそう言いながら同時に「購入」のクリックをするエリス中尉。

ああっ、いけないことだとはわかっているのにカラダが勝手に・・・・・買っちゃった。
しかもTOに断りも無しに。

この冬、セーター一枚買うのをやめればいいのよね!

というわけで、「ヨーソロ」、
TOにとっては非常に危険な場所であることが判明したのでございました。

ツマのやっているブログと同じく、かれはそれを全く知りませんが。



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消去法でも愛国心は愛国心

2012-09-28 | 日本のこと

アメリカに行くと、いつも羨ましさで胸が痛くなる思いがします。

広い国土。
豊かな自然。
それを守りつつ楽しむ文化。
便利なもの、こと。
しかし、古いものを護り続ける頑固さゆえに守られている部分。

手を入れないおおらかさ。
手を加える絶妙のセンス。

例えばこの池も、日本であれば子供が水遊びして溺れたのをきっかけに、
「自治体に管理責任を問う」
ような人間がいたり、或いは前もって責任を問われることを回避するために、
余った税金を使いきろうなどという役所の意見があったりすると、
あっという間に池の周りにはフェンスが立てられ、
美しくも面白くも無い平凡な場所に成り下がってしまうのだと思います。

さらに、西海岸ではほとんどの場所がからりと乾いた湿度の低い気候ですので、
夏は「暑さを楽しむ」こともできます。
水辺に来て、ボートを漕いだり、ウォータースポーツを楽しんだり。



このゴールを見たとき、ウォーターポロ、つまり水球の練習場かと思ったのですが、
どうやらカヤックポロだったようです。
向こうには足こぎボート、こちらにはペリカンがいる状況でのカヤックポロ練習中。

しばらく見ていましたが、もの凄い競技です。
オールを操りながら、片手でボールをさばいて、ゴールします。
こんなスポーツがもしオリンピック競技であったとしても、日本では競技する場所すらありませんね。


TOとどこまでも続くトレイルを歩きながら、
「ああー、この自然。アメリカって、豊かだね。羨ましい」

訪れていつも感じる羨ましさは、「こんな国に生まれたかった」という思いに繋がるのですが、
こういう豊かな国であるからこそ、その恩恵を求めて世界中から人が押し寄せるわけです。

そう、特にメキシコ人と、最近では、中国人です(笑)
最近では、あの少ない人口の韓国人も、留学と称してもぐりこみ、売春を行うので、
たとえば韓国女性は入国審査にものすごい時間がかかるのだそうですが、
中国人のニューカマーは例外なく、中国バブルで儲けた富裕層のようです。

「中国なんかに生まれてしまったら、小金儲けてどんなことをしてでも住み着いてやる!って思うよ」
「もともと彼らは世界中に『今よりいい場所』を求めてなだれ込んでいたからね」
「でも、日本人は移民しようとしないね。」
「中国人は不思議がってるんだって。日本人はどうしてお金があるのに移住しないのかって」

震災の後、特に原発の周辺からは、海外に逃げた日本人は結構いるようです。
わたしたちの泊っていたホテルに、こちらで商売のための不動産などを探すため、
東京から家族で来て長期滞在している家族がいました。


プールで一緒になったとき、その父親と少し立ち話したのですが、
かれは首都圏で歯医者と飲食店経営を営んでいるのだそうです。
子供が小さいので、原発の影響、ならびにこれから確実に起こると言われている、
首都直下型地震などの災害を避けるため、アメリカ移住を決心したということでした。

しかし、彼はまた、
「日本人と見ると中国系の業者はあの手この手で足元を見てふっかけてきましてね」
と、なかなか上手くいっていないようなことをおっしゃっていました。
そう、中国系、というのはこういう人種なんですよ。
華僑と言う名前の響きはだてではありません。

社会に一旦入り込んだら、そこで勢力を伸ばし、地盤を固め、いろんなところにもぐりこんで
徹底的に自分たちのためだけの商売、自分たちに有利な政治をしようとする。
取れる権利は取りつくし、遠慮など一切しない、これが普通の「移民」の態度です。

わたしとて、アメリカにこれだけ滞在し、その利点や美点をいやと言うほど知る人間。
何が何でもこういう国に押しかけて快適な暮らしをしたい。
その気持ちは分からないでもありません。

しかし、われわれが留学から「移住」と言う考えに至らなかったのも、
これだけ毎年行き来していて「いっそあちらに住もう」と言う考えにどうしてもなれないのも、
辿っていけばその一因には「先住者への敬意と遠慮」があります。



その国に生まれたわけでもないのに豊かさや安全を得るためだけに押しかけてくる。
その国の人々が昔からが育て、守ってきたものを、あっさりと自分のものにしようとする。
それだけならともかく、そこで自分たちのコミュニティを形成し、自分たちの感覚で作り変え、
街の姿や形まで、根こそぎ変えてしまう。
そのくせ社会の中心に喰い込んで、あれよこせこれよこせと権利を主張し出す。

元々の国民にしてみれば「いいとこ取り」でしかなく、不快に感じて当然だと思うのですが。

おまけに、先住者は後から来るものを既得権益の保護のために拒否するわけですからね。


それにしても、あれだけの災害があり、原発問題もあるのに、いまだに日本人の移民は
中国韓国系やヒスパニックなどに比べれば数もかなり少ないように思われます。
「何をしてでも」の「何」の基準が、日本人は彼らとはけた違いに高い、というのもあるでしょう。

いくらアメリカが快適で住んでみたくても、ビルの掃除や食堂の皿洗いなどをしてまで
住む気は無いし、第一、そんな立場でアメリカにいても、社会的に疎んじられるのが関の山。

今住んでいる国より確実にいい暮らしができないと、移住の意味も無いのですから、
なんだかんだで日本にいる方がまし、という考えでしょうか。

「色々あるけど大変な思いをして移住なんかするなら、
多少なんだかんだあっても日本がいいや、と思う日本人が多いってことなんだろうか」
「なんだかんだ、の内容が原発事故であってもそう考えられるならそれもすごいね」
「消去法の愛国心っていうか」
「いや、積極的に日本が好きって人も勿論多いでしょうけどね」


自然公園を歩きながらこんなことを話していたTOとわたしでした。





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友々呼びつつ死してゆくらん~黒木博司大尉

2012-09-27 | 海軍人物伝

               

黒木博司
大正10年9月11日、岐阜県出身
海軍機関学校51期卒
仁科関夫中尉と共に人間魚雷による必死作戦を考案
「天を回(めぐ)らし日本を窮地から救うべく戦局を好転させる」という意を込め
これを「回天」と名付ける
1944(昭和19)年9月6日、訓練中の事故により樋口孝大尉と共に殉職
死後少佐 亨年二十二

先日奇しくも黒木大尉殉職の9月6日に回天について書こうと思い立ったことを、
「何かの縁」と考えているエリス中尉です。

この事故の起きた9月6日、大津島の回天基地では訓練の二日目を迎えていました。
画像は、回天に乗り込む黒木博司大尉。
黒木大尉の写真はこの写真と正面からの写真が計二枚あるだけで、他の皆のように
基地での団体写真や出撃前の記念写真がありません。
この写真は、画像が不鮮明ですが、光の感じから晴天であるらしいことがわかります。
この9月6日は朝方は晴れ渡っていたのですが、午後から急に強風が吹き始めました。

この写真が撮られたのは、その前日の9月5日か、あるいはこの6日のことです。
どことなく険しい表情から、皆の反対を押し切って訓練を決行した9月6日、
つまり事故直前の黒木大尉の姿ではないかと思えてなりません。

それにしても、回天に乗り込むのになぜ酒瓶のようなものを持っているのでしょうか。

回天は一人乗りです。
この時はま二日目で、搭乗員を一人ずつ「適性検査」のような状態でチェックする段階でした。
座席は一つしかありませんから、指導官は、操縦席の左前方のわずかな隙間に、
体を折り曲げるようにして座ることになっていました。
そして、この指導官の重責が果たせるのは黒木大尉と仁科中尉二人だけです。

出航予定の4時、ますます風が強くなり、波浪は一段と高くなり、うねりさえ加わりました。
板倉光馬指揮官は危険と判断し、訓練の中止を告げます。
しかし、黒木大尉は語気も鋭く

「指揮官、どうして中止するのですか!」

と食ってかかりました。
波が高すぎて危険であることと、訓練予定の樋口孝大尉(兵70)が初めてであること、
板倉少佐は説得しますが、黒木大尉は一歩も引こうとしません。
それまで黙って横で聴いていた仁科中尉がこう言いました。

「今日はやめた方がいいでしょう。
私のときも湾口で波に叩かれ、潜入のとき20度近いダウンがかかって危なかった」

「黙れ!」

板倉司令官には見せなかった凄まじい形相で黒木大尉は仁科中尉に向かって怒鳴りました。

「天候が悪いからと言って、敵は待ってくれないぞ!」

この一喝で仁科中尉は押し黙りました。
そのとき、同乗予定の樋口大尉が

「指揮官、やらせてください。お願いします」

決然とした様子でこう言ったこと、そして、こと回天に関する限り板倉少佐は「素人」であること、
それらが板倉少佐に命令を翻させる理由となりました。
そして、板倉少佐は、そのことを生涯の痛恨として生きて行くことになります。

板倉指揮官の乗った追躡艇(ついじょうてい)はエンジン停止、仁科中尉の艇も的を見失いました。
そして、帰ってこない一号艇を求めて夜を徹した必死の捜索も叶わず、二人の命をつなぐ
酸素の無くなる予定時間―午前一時が過ぎました。

遺された黒木大尉の遺書によると、5時40分に発動、18時12分、つまり発信して30分後に鎮座。
7時40分ごろ、捜索のためと思われるスクリュー音を聞いたことが記されています。
黒木大尉は、事故直後の処置、経過、所見と仁科中尉に「後を頼む」と託すことば、
家族への遺言を手帳に書きつづりました。
中には、
「事故に備えて、用便器の準備を要す(特に筒内冷却のため)」
などという文もあります。

そして、艇内に
「天皇陛下万歳、大日本万歳、帝国海軍回天万歳」
などとしたためたのが夜の10時。

この間空気不足による思考力の低下を何とかしようと睡眠を取ろうともしたようですが、

〇四〇〇死ヲ決ス。心身爽快ナリ。心ヨリ樋口大尉ト 万歳ヲ三唱ス。

〇四四五、君ガ代斉唱。莞爾トシテユク。万歳。

基地では午前一時が酸素の限界としていたようですが、
実は二人はそれよりもう少し長く生存していたようです。

〇六〇〇猶二人生存ス。相約シ行ヲ共ニス。万歳(黒木大尉)

〇六・〇〇 猶二人生ク。行ヲ共ニセン。(樋口大尉)

と、全く同じことを同時に記しています。
これは、一体どういう状況だったのでしょうか。
もうろうとしながら、どちらともなく声を掛け合い、
「まだ生きていたか」
と、もしかしたら二人で微笑みを交わし合ったのかもしれません。

板倉光馬司令官が戦後著した「不沈潜水艦長の戦い」には、司令官から見たこの日の事故経過、
さらに黒木大尉死後、仁科大尉が「火となった」凄まじいその後の様子、そして、
この事故が大津島の島民の心を打ち、これ以降彼らは回天を見ると、歩みを止め、
深々と頭を下げるようになったことが記されています。

黒木大尉はなぜ回天を考案したのか。
それは、黒木大尉が仁科大尉に打ち明けたこの言葉に包括されるでしょう。

「回天が敵艦に体当たりを敢行して戦果を上げれば、必ず航空部隊は同調する。
俺が回天の戦力化を急ぐのはこのためだ」

元々黒木大尉は、飛行機を爆装して敵艦に体当たりする作戦を、昭和18年の8月に、
呉空の司令に対して提起していたのでした。
時期尚早であるとこのとき提案を退けられたのが、
黒木大尉が回天作戦を進める動機であったともされます。

その後日本の戦局はやむにやまれぬ状態に陥り、ついに大西瀧治郎長官の提言により、
一撃必死の特別攻撃を挙行することになりました。

1944年10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊がレイテ湾で最初の特攻作戦を敢行。

黒木大尉が殉職した次の月のことです。


黒木大尉は遺書にいくつかの句を遺していますが、比較的早い時間に「辞世」とかかれた
句のうちの一つはこのようなものでした。


国を思ひ
死ぬに死なれぬ益良雄が
友々よびつつ
死してゆくらん







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二種軍装の花婿

2012-09-25 | 自衛隊

元海上幕僚長にお目にかかった話をしたとき、
会話が中途半端で終わってしまったので
「こうなったら銀座の宜候にでもお連れして続きを」
と、ちょっと意欲的に語ってみました。

といいながら別に何もしなかったわけですが(笑)。


ところが講演会の後、たまたまそのときにやはり会に参加しておられた
幕僚長の防大のクラスメートという方が、声をかけて下さって、
「東京で会いましょう」
ということになり、あれよあれよと言ううちに話は進み、一席設けてお食事を、
という運びとなってしまいました。
しかもそのとき、その方が

「赤☆とイ○ミにも声をかけましたから」

とおっしゃってくださったのでございます。
イ○ミというのは、元呉地方総監だった、知る人ぞ知る「軍関係者」。

やった~!!

これで、
「元海上幕僚長と元海将とエリス中尉(爆)」
という夢の顔合わせが実現するのか?!

ところが、元海将はちょうど少し前から「出張中」。
そして、肝心の元海幕長は、前日まで「調整中」。
当日に返事が来て「やっぱり行けません」

・・・・・・・orz

なぜだかわかります?

そう「対中国情勢の悪化」でございます。
いくら元海幕長でも、もう退官した人間が、なぜ?
これはですね、「軍同士」のおつきあいの問題。
政治レベルの折衝は軍同士には全く関係ありません。
しかしながら、だからこそ普段から海軍同士というのは、交流を深めているわけですね。
ですから、こんなときであるからこそ「現場レベルでのナニカ」
が、全くこれは予想ですが交流レベルで必要になってくると。

という勝手な予想をしてみました。

そもそもそういう時期が時期だけに、そういう、今も半公人である方が銀座で、
プライベートとはいえアソんでいるように思われては、いろいろと都合も悪いことがあるのではないかなあ、
とわたしは「来るかもしれない」と返事があったときから、実は胸を痛めていたのですが・・・・。
やはり、どちらの理由かはわかりませんが、来られない、ということになったのでした。

しかし、当日の朝ぎりぎりまで調整して下さっていたということは
「とりあえず来ようと努力して下さっていた」ってことですよね?

というわけで、中国問題が落ち着いたら、実現の可能性もあるのかなと、
これもあまり期待せず待ちたいと思っております。


このときエリス中尉が大変期待していたことがあります。
それは、元海幕長は奥様同伴で!!来られる、と最初おっしゃっていたこと。

覚えていますか?

「海上幕僚長の奥様であるのはどんな方なのかしら」

とエリス中尉が考えたという話を。
その興味と疑問が一挙に解決するチャンスだったのに・・・・・。

しかし、この日お目にかかった氏の同期のO氏は、奥様同伴で、
しかもその奥方というのが、元海幕長を
「赤☆クン」呼ばわり?するというくらいご夫妻と親しい方。
これは、いろいろと聞けそうではないですか。

待ち合わせは王道の「銀座和光前」。
われわれが三越前に着いたのが15分前。
「少し早かったかな」というと、TOが
「海軍五分前をなめたらイカン」

いつの間に・・・・TO・・・・。

その方は、防大を卒業した後、自衛官にはならず会社経営をなさっている方。
世には最初から防衛大学を「通過点」のように割り切って卒業し、親の会社など継いで
経営者になってしまう卒業者もいるそうですが、一般的にそういう方と自衛官との付き合いは
同期でもあまりないのが普通だそうです。
その方が海幕長や海将といまでも付き合いがあるのは、やめた理由が怪我だから。
高校生時代の事故の後遺症が防大時代のラグビーのときにでてしまったのだとか。

というわけでこのO氏、任官はなさらなかったのですが、青春の最も多感な時期を厳しい訓練と、
学業(航空工学)、そして精神的な錬磨に明け暮れた方というのは、佇まいに自ずと
「芯」とでもいうべきものが感じられるものです。、
それは、人混みの和光前においても目立つ、その方の放つオーラに表れていました。

「木村屋(となりのあんパン屋)で今買い物している」
ということで5分ほどして現れたこの方の奥方は、草笛光子風の美人妻。
なんと音楽関係の方です。
今でも現役で仕事をなさっている方ですが、物腰優雅で、良家の奥様風、
当然ながらエレガント、しかしながら人を打ち解けさせる明るさを持った「手荒くナイス」です。

食事は万が一のことも考えて「人目につかないところがよい」と考えたTOが、
隠れ家のようなお座敷を予約してくれました。
銀座「ライオン」の上の階にあります。

デザート。

話に夢中で全く写真を撮りませんでしたが、かろうじて撮った一枚。
抹茶のムースに栗のチョコレートケーキ。

話は防大時代の訓練の話になりました。

「よく、カッターの訓練で、お尻の皮が剥けて血が、なんて聞きますが、今もですか」
「本当ですよ。お尻だけじゃなく、手の皮も剥けるんです。
指紋がなくなってしまった、なんて話もありますし、それで他の訓練、鉄棒なんぞしようものなら」
「ひぃいい」
「皮が鉄棒にくっついて、その『人の皮』ごと上からまた鉄棒を握らなきゃならない」
「あああぁあ」
「カッターは板の上を事業服のズボンを穿いただけで何百回と擦るわけですから、当然血がにじんで」
「ひょおぉお」
「上向きに寝られないんですよ。皆俯せ。ところが朝になったらいつの間にか上を向いているので、
シーツとにじみ出た浸出液と、剥けた皮が一緒になってズボンを脱いだらそれがばりばりと」
「うぁあああ」

そして、そんな訓練を共に受ける「同級生」の繋がり、というのは昔も今も大変強いのだとか。

「だって、お互い剥けたお尻に赤チン(!)を塗り合うんですから。もう家族以上ですよ」
「家族には意外と見せないかもしれませんね」

話は先日の講演会の話になりました。
「実はどこに座るかはくじ引きだったのですが、主催の方が『赤☆さんと同じ卓におきました』って。
それくじ引きじゃないですよね。しかも、『隣開けてますから。行っちゃえ行っちゃえ』といわれて、
厚かましくもお隣に座らせていただきまして」

「赤☆クン、キレーな人の隣でうれしかったんじゃない?」(奥方)

こういうことをすらっとおっしゃる方なんですよ。
キレー云々はともかく(しかししっかり自慢かたがた書いてしまう満更でもないエリス中尉)
海上幕僚長をクンづけかー。かっこいい=(意味不明)

この方の夫も、防大出の優秀な「超優良株」でいらしたからこそ、おそらくこのような天真欄間、
美人で人並み以上に取り柄もあるような、二物も三物も与えられている女性を娶ったわけですが、
では問題の「赤☆クン」は?

エリス中尉が目の色変えて聞かずとも、そのあたりは美人妻がちゃんと教えて下さいました。
赤☆氏の奥様はご母堂同士が幼なじみだったご縁で知り合ったそうで、
この奥様も当然のようにお美しい方だそうでございます。

「在任中、ご本人はもちろんですが、家族の方もきっとご心労は大変でいらしたのでは?」

と訪ねてみたのですが、「あのとき、やつれてたよね・・・・」とだけおっしゃっていました。
奥様のことか、赤☆氏のことかは伺いませんでした。 
おそらくどちらもを指しておられたのではないかと・・・。

ちなみに、赤☆氏のご息女は音楽をなさっている(詳細は秘密)ということで、今回、
何かと音楽関係者の存在が目につくのも何かのご縁と言うべきかもしれません。


ところで、今でも十分お美しいこの方がO氏とめでたく結婚の運びとなり、
花も恥じらう美しい花嫁になったときのこと。
新郎のO氏はすでにそのとき自衛官に進むことを断念し、経済界へのチャレンジを図っていました。
お二人が出逢ったのはO氏が防衛大学生の頃。

「もう、その制服姿が素敵だったんですよ」

ん?どっかで聞いたことあるぞ。こんな話。
エリス中尉は、実生活では決して口にしませんが、
何しろ海軍はもちろんのこと自衛隊のりりしい制服姿に目がありませんので、
実はこのO氏夫人の気持ちがいやっ!というほどわかります。
わたしだって、もし適齢期にご縁があって、自衛官と個人的に知り合っていたら、
取りあえずその制服姿にイチコロに参ってしまっていたのではないか、と言う気すらします。

そんなO氏が自衛官でなくなる、というのは夫人にとって至極残念なことではあったのかもしれません。
だからといって女性が「自衛官でないあなたには魅力を感じないの」とか何とか言ってフッてしまう、
などという不幸がこの二人に起こらなかったのは慶賀に堪えません。
なんと言ってもO氏自身の魅力と人間性に惹かれて彼女は伴侶になることを決意したのですね。
うんうん。

しかし。

結婚式。ああ、結婚式にだけは、乙女であったところのO氏夫人には強いこだわりがあったのです。
もうすでに自衛隊に籍が無いのにもかかわらず、新婦の強い希望により、O氏は結婚式のために

純白の第二種を、自衛隊にわざわざ借りに行くという羽目になってしまいました。

「よく借りられましたね・・・・・」
ちょっとこのあたりの自衛隊の融通の利かせ方というのも信じられないのですが、
きっとそういうことを管理する「被服係」にコネクションでもあったのかもしれません。

「わかります。白の制服、素敵ですものね」
「そう、詰め襟でね」
「わたしもきっとそう言うと思う・・・」

案外制服フェチズムのお嬢さんって世の中にたくさんいるんじゃないかしら。
そういう趣味嗜好の人間って、わたしだけじゃなかったんだ・・・・。
ちょっとばかり安心したエリス中尉でした。

夫妻との話は防大時代の話に始まり、現在赤☆さんの置かれている状況、
そして今の日本の置かれている状況、あらゆる・・・そうこのブログでお話ししている
まさに同じような内容に渡りました。
日本とトルコの関係、エルトゥール号のことなど、O氏がご存じのことは、わたしの認識と
多くがリンクしており、まさに同じように考えている方が(制服のことではなく)ここに!
と、またもや日頃考えていることについて意を強くした次第ですが、
帰りのタクシーでO氏がつくづくと「たった二年でそこまでくわしくなるもんですか」
と感心して下さったので、

「たった二年なので自分ではまだまだだと思っていますが・・・・。
でも、なんと言っても先日赤☆さんに『おたく認定』されてしまったので、
わたしはその言葉を一生の誇りにして生きていけます」

と申し上げると

「元海上幕僚長のお墨付きなんだからたいしたものだ!」

今度いつか本当にお目にかかれる日が来ますように。







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嗚呼彼遂ニ帰ラズ~仁科関夫中尉

2012-09-23 | 海軍人物伝

仁科関夫(にしな・せきお)

大正12年4月10日、大津市鹿間町出身
海軍兵学校71期卒業
黒木博司大尉と共に人間魚雷「回天」の発案者
昭和19年11月20日、菊水隊出撃に参加、
ウルシー環礁にて戦死、死後二階級特進、海軍少佐
亨年二十一


何度かこのブログでお話している佐藤秀峰氏の漫画「特攻の島」には、実在の人物が出てきます。

黒木博司。板倉光馬。そして仁科関夫。


物語冒頭からよく見る、やたら目つきの鋭いこの司令が板倉光馬であることを、
今回読み直してあらためて気づいた次第です。
その豪快さんぶりに魅かれて、何度か語ってきたこの「不沈艦長」、実はこ両人の上司でした。

この漫画における板倉艦長、年齢的にも雰囲気も実物と全く似ていません。
似ていないと言えば、黒木、仁科両人も実物の雰囲気とはほど遠い容姿に描かれています。
著作権の壁ゆえこの画像と並べて掲載するのを断念したこの漫画の仁科中尉画像
(一応趣味半分で絵に描いてはみました)
ですが、髪を肩まで伸ばし、髭もそらない偉丈夫風。
写真の白皙の秀才風の青年(ハンモックナンバーは581名中25番)とは大分風情が違います。

しかし不思議なことに、同じくワイルドすぎる黒木大尉も含めて、この描写は
彼らの壮絶な最後の日々を表わすに相応しい説得力を持っているようにも思われます。

黒木大尉と共に回天を発案し、軍令部に許可を求めて日参した末に動き出した「回天」。
その訓練が始まってわずか二日目に、黒木大尉と樋口孝大尉の乗った訓練的が事故を起こし
仁科中尉は共同発案者にして一身同体の盟友である黒木大尉を失います。

当時を知る者の証言によると、悲痛をこらえ黒木大尉の遺志を受け継ぐものとして皆の先頭に立ち、
回天隊を率いていた最後の日々の仁科中尉には「鬼気迫る雰囲気が漂っていた」とのことです。

「髪を切らない」と誓ったのか、仁科中尉が伸びかけた髪で写っている写真は、
他の隊員と共に腕組みをしている仁科中尉だけがレンズの方を全く見ていません。
生への無関心、現世に対する未練の拒絶、哀しいまでに感情を閉ざした表情・・・・。

佐藤秀峰氏の描く仁科中尉像は、この遺された写真以上に、もしかしたら
仁科中尉の実像に迫っているのかもしれない、とあらためてこの作品を読んで感じました。



「回天」が非人間的な特攻兵器であり、皆が強制的な心理的圧迫を上から受けて志願し、
死んでいったとする戦後の論調について、回天隊員だった小灘利春氏の
「そうではない、国を救えると信じて喜んで往った者もいたのだ」
と言う反論があったことを紹介したことがあります。

この証言に真実味を与えているのが、
回天を開発し作戦を企画したのは軍の上層部ではなく若い二人の士官だったという事実でしょう。
彼らの目的は、国家存亡の危急に自らが立ちあがり、その兵器の有効性以上に
「自分が死ぬことによって国を生かすために為す特攻の先駆けとなる」ことでした。

甲標的での真珠湾攻撃もそうですが、少なくとも回天は、
上から命令された必死作戦ではなかったのです。

第9期潜水学校普通科学生の教程を終了した仁科少尉が、
呉の魚雷実験部(P基地)に、甲標的訓練を受けるためやってきたのは昭和18年10月のことです。
このとき仁科中尉は一年歳上の海軍機関学校51期卒、黒木博司中尉と同室になります。

二人の運命的な出会いが、国家危急を救うための画期的な新戦法を思案していた黒木大尉をして、
「一撃必殺の人間魚雷兵器」
を考案させるきっかけを生んだのでした。

当時日本の魚雷は「世界の20年先を行っていた」とまで言われていました。
高圧酸素を原動力にして走行する九三式魚雷は世界最優秀の性能を備えていたのです。
原動力が純酸素であるため排気ガスが水蒸気として海水に吸収され、
航跡が見えにくいという利点もありました。

しかし、敵がレーダーを採用したころからこの特徴が利点では無くなり、さらに時代は
航空戦が主流となっていたため、大量の魚雷が倉庫に眠っている状態だったのです。

この九三式魚雷は全長が九メートルありました。
これを回天仕様に一四メートルにまで延長し、さらに耐圧を20mから水深80mまで補強。
これは、的が潜水艦の外側に搭載されるためです。

設計図と意見書が完成し軍務局に届けられました。
最初の計画は「必死」を前提とする作戦は許可できない、と言う理由で却下されます。
しかしふたりは仮称「人間魚雷」の設計図を携え、上京し、
時の海軍大臣嶋田繁太郎大将に直訴する熱意で、遂に許可を得ることに成功します。

その試作命令には、しかし
「脱出装置の設置」が厳命されていました。

山本五十六司令が特殊潜行艇「甲標的」の真珠湾参加を当初許可しなかった理由は、日本海軍に
「生還する道の無い必死作戦は認めない」と言う東郷司令の遺訓が生きていたからです。
同じ理由で「脱出装置を設置するならば許可する」
と海軍軍令部としては言うのが当然です。

しかし、魚雷から回天に改造する段階で、重さはすでに3トンから8、3トンにまで増えています。
二人は「これ以上の重量を加え性能を低下させることはできない」と、真っ向から反対しました。

そのときに、仁科中尉は
「脱出装置をつけるならば、おつけになって結構です。
その代わり、私達は出撃するとき、そいつを基地に置いて出ていきますから」
と言い放ったと言われています。

このような二人の熱意によって、この兵器が「自死を前提とした特攻兵器」として、
作戦に導入されることになったのでした。

黒木大尉は
「本訓練中、貴様と俺と二人のうち一人は必ず死ぬだろう。
さらに二人とも死んだ場合はどうなるだろうか」
と常に話していたと言いますが、その予言通り、昭和19年の9月6日、天候不良の中
反対を押し切って訓練に出た黒木大尉の的は帰投時間を過ぎても戻らず、
翌朝午前9時、海底に沈んだ的ならびに黒木大尉と樋口大尉の死が確認されたのです。


その死に顔を見たとき、仁科中尉がどのように慟哭したかはわかりません。
しかし、従容として死に就いた黒木大尉について、漫画「特攻の島」で作者は仁科中尉に

「あの人は・・・殉教者だ」

と言わせています。

そして、何の迷いもなく死を遂げた黒木大尉に対する自分を

「俺は・・・・・、凡夫だ」

とも。そして、

黒木大尉の死に顔を見たとき、
「俺は気づいた・・・
俺は、あの人に、一歩でも近づきたくて・・・回天の開発に没頭していたのだと」

作者の佐藤秀峰氏の解釈は、おそらく仁科中尉がウルシーでの突入寸前、
伊潜の中で記した日記の中の、「黒木少佐ヲ偲ブ」という一節から生まれたものでしょう。

「嗚呼彼遂ニ帰ラズ。
徳山湾ノ鬼ト化ス。
回天隊員ヨ奮起セヨ。
日本国民ヨ覚醒セヨ。
訓練開始ニアタリ三割ノ犠牲ヲ覚悟ニ猛訓練ヲ誓ヒシ仲ナレド
黒木少佐ノ今日ノ姿ヲ見ントハ」



黒木大尉の遺影を胸ポケットに、そして遺骨を的に携えて行ったという仁科中尉。
その瞬間、彼は愛する人々の面影を瞼に過らせ、
そして魂は体を抜け、遠くに立つ黒木大尉の姿を追いかけて行ったのかもしれません。


実は、この項を書いている今現在の日時は、2012年九月六日です。
このテーマをこの日取り上げたのに、取りたてて深い意味があったわけではありません。

黒木大尉が殉職したのが、まさに今日、六十七年前の九月六日であることに気づいたのは、
記事を書いている最中のことでした。



参考文献:人間魚雷回天 ザメディアジョン
       特攻の島 佐藤秀峰 芳文社
       回天 その青春群像 上原光晴 翔雲社
       「あゝ回天特攻隊」横田寛 光人社
       「特攻最後の証言」アスペクト出版




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昨日の石巻 被災者に感謝すること

2012-09-22 | 日本のこと


石巻の二日前の写真です。
被災地がいまどのようになっているのか、現地から写真をいただきましたので、貼ってみます。



ニュース映像でも見たあの川。
遠景では緑が青々と茂り、もうすっかり元通りに見えますが・・・・。

 

廃墟となったままの建物。
至る所に雑草の茂ったままの公道。
「復興の鎚音」など、どこにいったい聞こえているのでしょう。





ニュースであまりにも有名になってしまったここからの眺め。
あのとき濁流が押し寄せた平地は、今緑で覆われています。
つまり人工物がなくなってしまった後、「グラウンド・ゼロ」化しているということです。


まるで草原のような場所。
重機は稼働しているのでしょうか・・・・・。

冒頭の鳥居が津波に耐えたものかどうかの説明はありませんが、
別の写真ですべてが倒壊した平地にぽつんと鳥居だけが立っていて、
外国人が不思議がるコメントを寄せているのを見たことがあります。

広島、長崎に原子爆弾が落とされた後も、電柱や鳥居は不思議なくらい残っていて、
こういった形状のものが爆風や水流にも耐えるものだということがわかります。
(映画「パールハーバー」で、コンクリートの上に転倒防止ワイヤーを貼って立っていた鳥居は
おそらくあっという間に流されると思いますが)



iphoneで画質を落として撮られたものらしく、拡大するとぼけてしまうのですが、それでも画面を見ると、
ほとんどががれきのままである部分は茶色く写っています。

被災地の方々は一時の呆然とした状態から立ち直り、今は懸命な復興のために努力しておられるのでしょうが、
これを見る限りその進捗状態は決して順調ではないと思われます。
森まさこ議員が訴えるように、現政府の復興政策は、遅々として動かずといったところなのでしょうか。


ところで、最近のニュースですが、
高校の修学旅行に中国、韓国を決定していたものの、八月からのそれぞれの国との関係の緊張に伴い、
「生徒の安全を確保できるとは限らない」
と、父兄からの要請を受けて行き先を別の国に変更するケースが増えているそうです。

しかし、この事態を全く考慮しないどころか、韓国国内で「慰安婦記念館」「独立記念館」などの見学を組み入れている
信じられない教師たちがいることが、片山さつぎ議員の調査によって明らかになっています。
明らかにそういった思想を持つ日教組教師が、その筋からの接待を受けて行き先と日程を組んだとしか思えません。
さらに、そのなかのある高校は
「行き先のアンケートを取ったが、周りにだれも韓国行きを希望する生徒がいないのにも関わらず、
いつのまにか行き先が韓国に決められており、アンケート結果も発表されなかった」そうです。


未来の日本を担う子供たちを学校に預ける父兄は、今やこういう教師たちの専暴ともいえる
「自分たちの思想の押しつけ教育」を拒否し、子供たちを守るために戦わなくてはならなくなっています。


そこで提案なのですが、もしお子さんたちの修学旅行が、韓国であるという情報を得たら、すぐに行動開始。
現状の安全への不安を楯に、行き先を親日国の台湾に変えさせましょう。
台湾は、料理も美味しくて日本語がしゃべれる人も多いですし、なんと言っても故宮博物館にでも行けば、
大陸の中国にはない最新の展示で、中国の歴史美術に触れることができます。

「修学旅行は楽しむものではない!」
という理屈で教師たちが「謝罪修学旅行」を強行するならば、東北を代替旅行地にプッシュしましょう。

被災地に行って今の東北がどうなっているのか知ることは、日本人である子供たちにとってなによりの社会勉強です。
ついでに、本作業の邪魔にならないような、復興の手助け(がれきの片付けとか)のボランティアの一つもやればいいのです。

そこまでしなくても、風評被害で観光客が落ち込んでいる観光地を訪れ、お金を落とすだけでも大きな復興の手助けになります。


うちの息子の学校は基本的に「修学旅行」というものがないので、
幸いエリス中尉はこのような「左巻き教師」とバトルする必要もなさそうですが、
特に公立学校に通うお子さんをお持ちのお父さんお母さんは、
教育者たちが今この問題をどうとらえているかをよく監視し、彼らの職権乱用を決して見過ごすことのないようにお願いいたします。

ところで、タイトルの被災者に感謝、という言葉の意味について。

オペレーション・トモダチ、トモダチ作戦で災害地に救援物資を輸送したヘリの女性機長の話です。

被災地の「SOS」とかかれたグラウンドのある学校に降り立つとき、彼女は緊張していました。
なぜなら、このような災害地に物資を運ぶと、例外なくそれを奪い合い、被災者が我先にとヘリに群がって収拾がつかなくなる、
というのが彼女の知っているアメリカの、そして世界の基準だからです。

おそるおそる屋上にヘリを着陸させると、一人の年輩の男性だけが近づいてきて、隊長に
「被災者は数百人いる」といいました。
その後、男性の指示で、人々がヘリに一列を作り、黙って物資をバケツリレーで運び始めました。
混乱も、奪い合いも、諍いも、そこにはありません。

ある程度まで物資を運ぶと、代表者が「もうこれで結構です」というのです。
隊長が、まだあるから置いていく、というと彼は手を振って、

「ほかの困っている被災者のいるところに回してくれ」

と、どうしても受け取ろうとしなかったのです。
けが人を運ぶことを申し出ると、これもたった一人、足を骨折した老人がそれを申し出たのですが、
しかも、かれはそうしてもらうことを大変申し訳なさそうにしていたのです。

隊長は、こう報告を結びました。

「日本人の優秀さと精神性の高さは、アメリカ軍の公式記録に残される」



わたし自身、被災後アメリカで、日本の被災者のモラルの高さ精神の気高さを
ニュースで知ったアメリカ人からそれを絶賛され感激したことがあります。
未曾有の災害によってあらゆるものを失った被災者の日本人に、そのときわたしは心から感謝したものです。

かれらは、あの壮絶な状況下でこそ輝く、尊いそのふるまいをもって
日本人の日本人たるすばらしさをを世界に知らしめてくれたからです。










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流星になった男たち~入間T-33墜落事故 後半

2012-09-21 | 自衛隊

「鷲」さんに教えていただいたYouTubeから画像を撮らせていただきました。

事故機に搭乗していたのは中川尋史二等空佐と門屋義廣三等空佐
航空学生出身、飛行時間それぞれ5000時間、6000時間を超えるベテランです。
航空学生は第12飛行教育団で約二年の基礎教育、飛行訓練を受けるもので、
最初の段階からパイロット養成を目的とされた空自のエリートコースでもあります。

この日のフライトは「年間飛行」と呼ばれるもので、
パイロットの技量維持が目的の定期訓練です。
内勤であった中川二佐が機長として前席に座り、
現役の門屋三佐が教官として同乗しました。

ここでもう一度、彼らの最後の13秒について考えてみます。

しかしその前に前回ご紹介したわれらが「九条信者」が、この件において事故二日後
「捏造美談を暴くために」した涙ぐましい奮闘ぶりからご紹介します。 
え?鬱陶しいからやめろ?まあまあ。
彼らがどんな論理の上にたって主義主張を展開しているのか知ることも、
たまには必要ですから。
事故を報じる新聞、テレヴィ、そしてラディオの全てが
「自衛官の殉職美談をでっち上げた」
と怒り心頭に発した九条さん(この部分は女性が書いたらしい)は、
25日の「朝雲新聞」が

「二人は墜落直前、ベイルアウトを試みたが、民家への被害を避けようとしたためか
脱出の機会が遅れ、高度不足で開傘せず失敗したものとみられる」

と報じているのに対し、他の一般紙と全く同じ報道であるのにもかかわらず

「(朝雲新聞は)自衛隊と称する日本軍なしには存在し得ない御用新聞です」

とこれを決めつけた上で、その美談捏造を自分で暴くことを決心します(笑)
事故後二日目に新聞各紙に電話をかけ、墜落した機の侵入経路を明示せよと要求し
それをどこもやらないので、業を煮やした彼女は図書館に行き、
「仕方なしに図書館で金10円也をエイッと投資して」地図をコピーしてきました。

そして、その緻密な考察とは、このようなものです。

「基地と侵入経路の間には、入間川の両岸沿いに濃密な住宅地、商業地があります」

民間機には設置されていない緊急脱出装置を使って操縦士が逃げた
無人の事故機は、そのどこに衝突しても不思議ではなかったのです」


ここから導かれる彼女の考察結果は、

「墜落事故美談『民家避け』の矛盾は地図で明らか」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

あの・・・・・もしかして、これ本気で矛盾を暴いたつもりになってます?

事故二日後で、事故調も立ち上がっていない段階で直後に出てくる話を
「身内がそう思いたいから捏造した美談」だと決めつけたいのはよくわかりますが、
直後だからこそ、関係者にははっきりとわかることだってあるんではないでしょうか。

彼女は、よっぽどこの「捏造」が気に入らなかったらしく、 

「記者達は本来なら基地の管制官を問い詰めて事故機の侵入経路を言わすべきでした」

メディアには

「地図に太線を書き加え、正確に状況を再現すべきです」

特にNHKには


「あの、お得意の、とてもとても、お綺麗な、ご神託のような雰囲気を漂わす

コンピューターグラフィックスとやらを駆使して、大いにカラフルにやるべきです」

と、全方位に噛みついた上で、

「しかし、どこもやらない。やれない。やる気がない。
ああ。ないない尽くしで、仕方ない。どうしようもない」

と電波をゆんゆんと放射するのでした。
いや、まあ、事故2,3日後でこれは、ちと慌て過ぎってやつではないんですかね。
少し後には、詳細な経路と高度、コクピットと管制塔の通話も皆報道されたのですから。

その後、彼女が渇望していた詳細な情報が開示され、国会で明らかになったとき、
彼女はその資料を駆使して捏造を暴いたのでしょうか?

答えは・・・・ああ、NOなのです。何も、ああ、しなかったのです。
(ちょっと文体を真似してみました)

これは予想ですが、彼女なり彼なりは、そのような「自衛隊に都合のいい資料」は
全く目に入らないか、あるいは半年後には真相究明の熱も冷め、
公開された資料は目に入らないふりをして、
次の糾弾物件にアツくなっていたのではないでしょうか。

この事故から13年後の今日、沖縄の基地反対運動、そして、原発反対運動に
この、むやみに行動的だが行動そのものに継続性のない「九条さん」が、
熱心に参加していることを、わたしは確信するものです。



さて、事故機の最後の13秒に戻りましょう。

事故機T-33は最高速度が時速970km。
エンジンに燃料の供給がなされなくなったと言うことを考え、少なく見積もっても
エマージェンシーを宣言してからジャスト二分の間に機が推進したのは約30km。

この二分の間、「イニシャル」
(滑走路延長線上に設定された飛行場上空への進入のための通過点)に直行しながらも、
彼らは基地に辿り着けないときは、河原に機を墜落させることを
まず真っ先に考えていたものと思われます。


グーグルアースで入間基地とこの河川敷の位置関係を見るとよくわかるのですが、
事故機の進路、入間基地に向かう航路途中を横切る形で川があります。
落ち続ける鉄の塊となった事故機からのベイルアウトを最初に宣言したとき、
眼下前方には、
「事故機はうちの校舎の真上を通過していった」と校長先生が証言したという
西武文理高校がありました。
高校の周りは整然と戸建ての並ぶ「ニュータウン」です。

そのとき高度は360m。
安全に射出するための最低高度は300mです。
このとき、このぎりぎりの高度と、「河原が見えた」という二点が、
おそらく中川二佐をして最初のベイルアウト宣言をさせたものでしょう。

しかし、このとき入間川に対して機位は斜角をもっており、今機を捨てれば、
河原にではなくその手前の文理高校か、あるいは川向こうの奥富地区に墜落する。
実際に、最終的なベイルアウト後、わずか0.6秒後で無人の機は地表に激突しています。
その間の機の推進距離、900メートル。
今はだめだ、中川二佐は瞬時にそう判断したのでしょう。

YouTubeでは最後の13秒間、かれらが「空き地はどこだ」と探しながら飛んだ、
とありましたが、わたしは少しそれは違うと思います。

国会に提出された資料の事故機の航跡図を見ると、彼らが最初にマイナートラブルを
宣言してから、機は東経139°24・5上をほぼまっすぐ降りてきています。
(イニシャルは東経139°24上にある)

しかし、一度目の「ベイルアウト」を宣言してから、その航跡は
―地図上ではごくわずかですが―左方に向かって振られているのです。


かれらは13秒間、つまりこの最後の3kmで、
機を完全に河原と平行に修正したのではないでしょうか。
そして必死の操縦で「このままならまっすぐ推進しても確実に河原に落ちる」角度に
機を向けたとき、すでに安全射出に必要な高度は失われていました。

そして、二度目の「ベイルアウト」通報。
後席の門屋三佐は、通報7秒後、事故機が送電線に接触する寸前、脱出。
中川二佐は、接触とほぼ同時、門屋三佐の2秒後に脱出しました。

門屋三佐のパラシュートは全く開かないまま、
高度70メートルから地表に叩きつけられ死亡。
中川二佐は、切断された電線の垂れ下がる送電線の真下に墜落して死亡していました。


狭山ヶ丘高校の校長先生が

「わたしたちはいざとなったら崇高な自己犠牲精神に身を捨てることができる」

と、前回述べた校内誌への寄稿で述べています。


しかし、かれらはそのとき「自己犠牲」という覚悟の上で行動したかというと、
それだけではなかったのではないかとわたしは思うのです。

YouTubeの冒頭には、自衛隊員が入隊のときに誓う、

「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、
以て国民の負託に答える」

という言葉が掲げられ、彼らが職務に殉じたことが述べられていました。

人間の行うことである限り、どんなに細心の注意を払っても、事故は起こります。
そのたびに自衛隊は頭を屈めて、
いきり立つ「九条さん」のような人々の誹りを受けなくてはなりません。

そしてそういう事故が起こるたび、或いは毎日繰り返される訓練を通じ、
パイロットは誰に言われるともなく、
今にも起こるかもしれない事態を想定しては自問自答を始めるのだそうです。

「あの事故が自分の身に起こったらどうするか」
「今あのような事故が起こったらどう行動するか」

そしてその答えは、彼らが自衛官である限り、彼等の裡に共にあるのです。
事故後、自衛官が
「もしわたしが彼らだったら、やはり同じようにする」
と語ったという資料を、今回、いくつか目にしました。

異常を感じた事故機が報告のために管制塔との通信を設定してから、
河原に墜落するまでの時間は、6分6秒6。
中川二佐と門屋三佐は、このわずかな間に死の危険を顧みず、
おそらくは常に自分に問い続けたその「答え」の命ずるままに行動し、
そして殉職したのです。


狭山市は、ジョンソン基地といわれる米空軍基地があったときから
航空機事故が絶えないところで、
ジョンソン基地からはなんと7件の事故で15名のパイロットが殉職しています。

日米が共同で入間を使用することになった後、自衛隊機の事故は4件。
そのうちこの事故を含む3件は、パイロットが可能な限り
機を安全な方向に誘導した形跡があるそうです。

朝日新聞の読者欄には墜落した近所に住む女性からの

「特攻隊で操縦経験のあった父から、自衛隊の飛行機は
必ず河原に落ちてくれるから大丈夫、と聞かされて育った。
操縦士の方達には感謝している」

という投書が掲載されたといいます。


(これが朝日新聞であることが信じられないのですが、
この頃はまだこういう意見を拾い上げていたのか、朝日新聞といえども、
この殉職には感銘を受けずにはいられなかったのでしょうか)

自衛官としての覚悟は、誰から強制されるものでもありません。
それは自衛官として「国民の生命を守る」
と誓った日から、彼らの中に根を下ろす「使命感」なのです。
結果的に自己犠牲となろうとも、それを果たそうとするのは
彼らがまた日本人であるからでしょう。

中川、門屋両パイロットを知る同級生は、かれらのこの行動をしてこう評しています。

武士道というか。長い時間をかけて歴史の中でつくりあげた
日本人のメンタリティー、
(精神性)あるいは国民性と言ってもいいかもしれない」



「かくすれば、かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」

その昔、国を護るために自ら命を捨てた若者たちは、こう言って笑って征きました。
わたしたちは、自分の命によって他の命を生かそうとする「覚悟」を持ちたいと、
この国に生まれた人間であるかぎり、心のどこかで願っているのかもしれません。

このT-33「シューティング・スター」に乗って6分6秒6を戦い抜いた英雄たちの物語に
多くの日本人が心打たれるのは、つまりそういうことだからなのでしょう。


最後に、自衛隊員が入隊時にする宣誓文を記します。



私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、

日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、
常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、
政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、
事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、
もって国民の負託にこたえることを誓います。



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流星になった男たち~入間T-33A墜落事故 前半

2012-09-19 | 自衛隊

平成11年11月22日。

妙に数字の綺麗に揃った日付のこの日、
航空自衛隊入間基地所属のT-33ジェット練習機が入間川河川敷に墜落しました。

この事故機に乗っていたパイロットは、二名ともベイルアウト(緊急脱出)を試みましたが、
いずれもパラシュートが開く高度を遙かに下回る機位からの脱出であったため、
一人は全くパラシュートが開かないまま、もう一人は開きかけたところで地面に激突し、
死亡しました。

二人の飛行時間はいずれも数千時間を超え、年齢は47歳と48歳。
二佐と三佐ですから、いかなる事態にも対応可能なベテランパイロットであったはずです。

なぜ彼らはもっと早くベイルアウトしなかったのか。


年間飛行(パイロットの技量維持目的)のため彼らが入間基地を離陸したのは13時2分。
30分の訓練を終了し、帰投のため管制塔と通信を設定した直後に異常が起こりました。

13時38分、マイナートラブル(軽微な問題)通告。
(Minor trouble, request direct initial. Present position now 21 NM north)

事故機は、異臭、振動、異常音、オイル臭を通報。

13時40分、緊急事態を宣言。
(Declare emargency, now 10NW north)

13時42分14秒 ベイルアウトを通報。

この頃、機は急激に高度を下げてきています。(高度約1000フィート、約300m)

13時42分27秒 先ほどから13秒後、再度ベイルアウトを通報。(高度700フィート、213m)

13時42分34秒頃 後席操縦者は事故機が送電線に接触する直前脱出。

13時42分36秒頃 前席操縦者は事故機が送電線のグランドワイヤーに接触直後射出による脱出。

13時42分36,6秒 事故機はグランドワイヤーの下線を切断後、90m離れた位置に墜落炎上。



読者の元自衛官、「鷲」さんが、「13秒後のベイルアウト」というYouTubeを教えてくれました。
コメント欄でも書きましたが、わたしはこれを観るのは初めてではありません。
最初に観たとき、溢れる涙に嗚咽が止まらなかった記憶があります。

最初にベイルアウトを通告してから、再度ベイルアウトを告げるまでの13秒。
なぜ彼らは最初の通告でベイルアウトすることをしなかったのか・・・。


最初のベイルアウト宣言後、彼らは眼下に広がる住宅地に気づいた。
住民を巻き込む災害を防ぐため、必死の操縦によって入間川の河川敷まで事故機を誘導し、
それを確認したのち、
つまり13秒後にベイルアウトを行った。
しかしそのとき
すでに機位は脱出に必要な最低高度(300m)を下回っていた。



YouTubeはそのように、命を捨てても自らの任務を全うした彼らの姿を今日の我々に伝えています。

このYouTubeには、事故後の12月1日、事故のあった入間と同市内の
狭山ヶ丘高等学校の校長が、校内紙に寄稿した文章を引用していました。
その全文によると校長は、二人の自衛官の勇気と崇高な自己犠牲を称え、

「もし皆さんが彼らだったらこのような英雄的死を選ぶことができますか」

と生徒たちに問いかけたうえで、

「わたしも皆さんと同じ選択をするでしょう。

実は、人間は、神の手によって、そのように創られているのです。」
「愛の対象を家族から友人へ、友人から国家へと拡大していった人を我々は英雄と呼ぶのです」

と締めくくっています。

この校長先生の手記は国会でも披露されました。
その中のこう述べた部分、
「防衛大臣は謝ることに終始して、部下である自衛官の職責を全うしたその死を称えなかった」
と、この点が質問者から大臣に厳しく問われたということです。

このような校長先生の元で学校生活を送ることのできた狭山ヶ丘高校の当時の生徒達は、
幸運だったとわたしは思います。

それはよしとして、この文章には1999年12月1日時点の校長先生の認識が、
そのままこの小文の趣旨となっている部分があります。
マスコミの、この事件への対応についてです。

しかし新聞は、この将校たちの崇高な精神に対して、一言半句のほめ言葉も発してはおりません。
かれらは、ただもう自衛隊が「また事故を起こした」と騒ぎ立てるばかりなのです。


今回、エリス中尉が注目したのは、この二人の死を、彼らの精神を、本当にマスコミは無視したのか?
全く報じることもなかったのか?ということです。

この校長の文章を元にしているYouTubeは、この点を
「マスコミは自衛隊を叩きに叩いた」としています。

今現在「マスコミは叩くばかりだった」と言われれば
メディア内部に巣くう左側の勢力による報道姿勢の歪みが、国益すら危うくしている昨今、
ごく自然なこととして「そうだったのだろうな」と納得してしまいがちです。
確かに、大勢としては圧倒的に自衛隊を責める報道が大きく、特に事故直後は、
この校長が言うような、メディアの集団ヒステリー状態が起こっていたのも事実でしょう。
「叩きに叩いた」というのも決して過ぎた表現ではないと思います。

しかし、本当にそれだけだったのでしょうか。


事故から半年後、平成12年の5月に、当時の森内閣が衆議院議員の質問に対し答弁書を提出しています。
ここから、事故調査委員会の報告を抜粋してみます。

【墜落の原因】
主燃料、緊急用燃料コントロールユニット付近の燃料ホース等から漏洩した燃料が発火、
同ユニットを加熱、エンジンへの燃料供給が絶たれたことから事故機の推力が急激に低下した

事故機は点検においてこの半年以内に一度も異常は見つかっていない

交信記録、航跡記録等から調査した事実に基づけば、
事故機操縦者は、マイナートラブルの発生及びイニシャル
(滑走路延長線上に設定された飛行場上空への進入のための通過点。以下同じ。)
に直行する旨を通報した13時38分39秒から、
入間タワーの着陸許可に対して脚下げを確認した旨応答した13時42分3秒までは、
着陸が可能との判断のもとで飛行を継続しており、
その後、急激な推力の低下が発生したため緊急脱出する判断を行ったものと推定される。

緊急脱出は、13時42分14秒及び同27秒に通報されたが、
この時点では、事故機は住宅密集地上空を飛行していたことから、
事故機操縦者は、
脱出によってコントロールを失った航空機が民家等に被害を与える可能性を局限するため、
直ちに脱出することなく、入間川河川敷に接近するまで操縦を継続し、
送電線接触直前の13時42分35秒前後に脱出したものと考えられる。


次の事実に基づき、事故機操縦者は、脱出によってコントロールを失った航空機が
民家等に被害を与える可能性の局限を図ろうとしたと推定される。

(1)緊急脱出は、13時42分14秒及び同二十七秒に通報されたが、
この時点では、事故機は住宅密集地上空を飛行していたこと。

(2)事故機操縦者はその時点で脱出することなく、入間川河川敷に接近するまで操縦を継続し、
送電線接触直前の13時42分35秒前後に脱出したこと。



半年後の事故調査による考察から、彼らがどのような意図を持って最後に行動したかが
推定とはいえ明記されています。
それでは、この調査結果が出るまで、メディアはこのことに全く触れなかったのか?

私事ですが、当時息子を出産して、天変地異のカルチャーショックのあまり、
世間の情報を一切受け付けない世捨人状態だったエリス中尉には、
全く目にも耳にもましてや脳にもこの事件は入ってこず、
従って事件の記憶すら定かではありません。
要するに世間の論調というのも当時どうであったかさっぱりわからなかったため、
全く新しい事件を調べるようなつもりで、これについての記事を片っ端から検索したところ、
なかなか面白い(実は面白くない)サイトが見つかりました。

一言で言えば

「九条信者、自衛隊解体を叫び、沖縄からアメリカは出て行けと叫んでいるところの」

思想をお持ちの団体によるHPです。
この筆者は事故翌日の11月23日、すでに
「市民に甚大な被害を与えた恐るべき軍隊であるところの自衛隊がまた事故を起こしたので、
防衛庁こと日本軍大本営に怒りの叱責電話集中をHPにおいて呼びかけている」という、
まあ、つまり、そういった手合いです。

その防衛庁への叱責の電話というのが、祭日であったため出た留守番の電話応対係に

「直ちに飛行機を飛ばすのをやめろ!」と怒鳴りつけ、もう一人の「空幕」(?)がでると、
「生意気にも暗に北朝鮮を指し、ぐだぐだ言い始めたので
かつての侵略行為を反省しろ!
日本は朝鮮や中国から10や20のミサイルぶち込まれたって我慢しなきゃならないんだ!』
と怒鳴りつけてやった」

と言う、まあ、なんというか、比較的香ばしい基地の外に属する方でございます。
 
この人物が、11月24日、事故後2日にして事故報道に対し怒り心頭です。
ちょっと面白いのと、この方の一風変わった文章に滲み出る何かを汲み取っていただくため、
この部分を、皆様にはご不快でしょうが抜粋いたします。
もし、ご本人、この掲載に異論があるなら、ぜひご連絡ください。

またまた、アメリカ製の日本軍ジェット戦闘機の墜落、送電線切断、
80万世帯ほかの甚大な被害を生んだ
1999.11.22.月曜日の恐怖の事故に関して、
驚くべき「殉職美談デッチ上げ」報道の製造経過を暴かなくては、
ああ、
ならなくなってしまったのです。
ああ、また敵が増える。しかも、今度は軍隊そのものまで含むとなれば、
ああ、
命がいくつあっても足らなくなりそうです。


ああ、の使い方が決定的にキモチワルい、と思うのはエリス中尉だけでしょうか。

しかしここで注目すべきは筆者の文章センスではなく、当時の報道機関が最初の段階において

毎日新聞「同基地の交信などから、同機が住宅街を避けようと飛行し、墜落したとみられる」

読売新聞「民家避け脱出遅れる?」

朝日新聞「住宅避け脱出遅れる?
-防衛庁側は「二人は機体の向きを密集地から離すため逃げ遅れたのではないか」と話している


東京新聞「空自は操縦不能になった場合、操縦士にすぐ脱出しろと指導する一方、 
「民家などは避けるように」とも伝えており、
過去の事故でも脱出が遅れて死亡したとみられる例がある」



このようなほぼ横並びで、操縦士たちの脱出の遅れとその予想された理由を報じていたという事実です。
この方がこれに対して「ねつ造だ!」と怒りまくってくれたおかげで、当時の資料を当たらずにすみました。
(^▽^)

さらに、

テレヴィ放送に関しても、何度もそのことを繰り返すので不自然に感じた」

というこのサイトの「お仲間」からの報告も入っていたようです。
(テレヴィ、という表記センスにもなんだかなあと感じるのはエリス中尉だけ略)

そして、NHKラディオが報じたという、

「小渕総理は事故の際パイロットは迷惑をかけないよう人家を避けて墜落したのだろうと述べた」

というニュースに関してもこれは

「ぶら下がり取材の発言であることから全く信頼性がないもの」

さらにいきなり

「美談製造業者の内幕でした」

・・・・・ってそれ、どうしてそういう結論になるかな。全然内幕暴いてないじゃん。
(ラディオという表記も略)


ここで注目すべきはこの方の香ばしいお怒りの様子ではなく、
当時の報道機関が自衛隊叩きだけに腐心していたわけではなく、
小見出しとはいえ市街地を避けた飛行であったことを最初から報じていた、
という事実です。

この左巻きな方がこれだけ騒いでいることから観ても、YouTubeや校長先生の意見は、
多少一面的な見方であったと公平に見て思わざるを得ません。

同じ報道に接しても、ある考えの者からは「殉職美談」、別の考えの者からは
「彼らの自己犠牲を無視している」という、全く反対の意見が出てきているのです。

勿論、全体的な報道の調子は、まず「送電線切断による停電」「交通ATMがストップ」など、
被害ばかりを一面に報じ、彼らが住宅地を避けたことは小見出しの中にしか見当たらず、
「非難」ばかりが強調されて、自衛官たちを悼む様子が全く無いというのも事実です。

しかし・・・・。

ちょっと「藪の中」とか「神坂四郎の犯罪」なんて内的多元焦点手法の小説を思い出しますね。

人間の認識力というのは、このように自分が受動体として持っている「初期設定」
がフィルターとなって、案外それが入ってくる情報を振り分けてしまうこともあるのではないか、
と考えさせられます。

今後、これを物事を判断するにおいてこのフィルターを無意識にかけてしまっている可能性がないか、
わたし自身今後何かを判断するときに一応振り返ることを心がけようと思います。

・・・などというしおらしいことを言っておりますが、
どちらにしてもこの件に関して、どんなフィルター無しの公平な視点を心がけたとしても、
この九条信者さんには何の共感も感じることができません。

彼らは、事故後二日の、つまり何の情報も無い時点で、ねつ造だの何だのと大騒ぎしています。
つまりこういった論陣の論拠というのは全く科学的ではなく、常に「軍隊に対する怒り」
を基にしているから、感情的で説得力もないのだな、とよくわかりますね。


彼らの最後の13秒について、もう少しお話ししたいと思います。

(後半に続く)






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「その後の漢(おとこ)達」~海軍リス戦隊始末

2012-09-18 | つれづれなるままに

「完」・・・・・て、勝手に終わらすな!
「嗚呼、我等が陸戦隊」こちらが真・完結編!(なのか?)

-物語の最後に、驚愕の真実が明かされる?!


                      監修:引き続き大リス帝国海軍報道部

 相変わらず穏やかな我等陸戦隊の戦場兼訓練風景で或る。

 このところ、ぴょんきち大尉はご自慢のツァイスの双眼鏡で何かを偵察中で或る。

ぴょんきち大尉「う~ん、変だ・・・・・。おかしい・・・・・こんなはずでは・・・」

 次の日も・・・・その次の日も・・・・・

 けん太兵曹長が登場。

けん太兵曹長「どうでっか?隊長?ブログ状況に変化ありまっか?
「んー駄目だ・・・・、ブログ登場から5日も経っているのに、コメントの一つもない。
これは潔くあきらめた方がいいな」

ぴょんきち大尉「残念残念。さ、さ、訓練、訓練!と・・・・」

けん太兵曹長「あきらめって・・・・ちょっと隊長!コソコソと何処行きまんねん!
訓練場はあっちでっせ・・・、てかっ・・・」

けん太兵曹長「大金が手に入れば、陸戦隊の給料なぞはした金だ!入ったら三倍返しするから!って、
二人して行った旭日亭でさんざん高い勘定させたの忘れたんでっか!」

ぴょんきち大尉「ぬぅあにぃ~、
ブログで上手いもうけ話が有るって、ワシ等ののグッズ販売も夢やないでっせ!AKBもそのうち真っ青や!て、
最初に言いよってきたのはおまえだろ!」

※旭日亭については参考資料を参照のこと



 そして、いつものごとく・・・・始まるのである。
※エコのため、画像はリサイクルしております。ご了承ください。



けん太兵曹長「隊長、いきなり可愛い部下に向かって何すんねん!」
ぴょんきち大尉「こいつ、逆らうのか!」

※エコの為、音声もリサイクルしております。ご了承ください。


・・・・・・・・・・・・こうして、かれらの一日は過ぎていくのである。

しかし、次の日になれば争いごとなどけろりと忘れて、また、仲良く訓練・戦闘に励む彼らであった。

現在、「分身の術」訓練中・・・・

ぴょんきち大尉「けん太、右足ちょい下げ!」

けん太兵曹長「はっ!」

・・・・・その頃、一万メートルの高高度を大リス帝国へ接近する一機の機影があった。
敵機か?友軍機か?哨戒機か?はたまた輸送機か?
そして、我等が陸戦隊の運命は?

全ては来年、某中尉が彼の地を訪れることがあれば明らかになるであろう。

がんばれTO!



参考資料

※旭日亭について

旭日亭とは、ぴょんきち達がよく行く、食堂兼居酒屋兼割烹兼料亭兼甘味処のこと。



いつも海軍関係のお客で混んでいる。
特に海軍パイロットには人気のお店。
昼時なのか陸軍パイロットも一羽写っている。
用務連絡で基地へ訪れたついでに立ち寄ったのだろうか。
マスターのコメスケ 大リス帝国海軍退役軍人

(コメスケの経歴)

兵学校卒業後、短剣一本(!)で「気の向くまま」(!)に大リス帝国海軍の各艦厨房を渡り歩いてきた、
軍人にして生粋の料理人(!)であった。
軍隊組織の中で、なぜそのような勝手が許されたのかは謎。

得意料理は「軍艦巻き」と「カレーライス」。
これには秘話があり・・・・・・

彼が某国海軍との親善交流で、同国の戦艦「○△□※」を訪れた際、
深夜の厨房において内緒で同国料理(軍艦巻きとカレーライスか?)を研究中のところを、
乗員に見つかって捕まり、過日「ネズミ上陸」の「景品ネズミ」にされ、
当直士官にあやうく自慢のしっぽを切られそうになったという。

「わしの可愛い尻尾のどこがネズミの尻尾に見えるのか!
よくチューイせい!」

と行ったとか言わなかったとか・・・・・。

ちなみに、リスたちはそんなもの食べないので、作っても不評である。

また、同国海軍向け放送の人気番組
「突撃!隣の艦の晩ごはん」
「たまに行くなら、こんな艦」

でも時々リポーターをしている。

なお、退役時の最終階級は、本人?曰く「五つ星である!」とのこと。

完!

♪~そのままドン突きの三笠公園で~♪貸した金のことなど~♪
ドス黒く澱んだ横須賀の海に浮かぶ 月みたいな電気クラゲよ♪ハッ!!

製作総指揮、監督、脚本、演出、営業、宣伝、売り込み、その他全て 陰の大番長
出演 ぴょんきち大尉
    けん太兵曹長
    マスターコメスケ
    帝国陸海軍のみなさん
ナレーター 芥川隆行 
エンディング曲「タイガー&ドラゴン」 
演奏 ウィーン少年合唱団 指揮クラウディオ・アバド
編集と食事の後片付け エリス中尉
提供 TO





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CSI:NY撮影現場に遭遇

2012-09-16 | アメリカ

というわけで、正解は、このテレビドラマ主演のゲイリー・シ二―スでした!
人生で二度目に(一度目はパット・モリタ)間近で見たハリウッドスターです。
サブキャラ好きのわたしが「アポロ13」のケン・マッティングリーに注目していたと知っての偶然か。
なんだかおかしな文章ですが、細かいことはよろしい。

秋田に旅行したとき、サスペンスドラマでは、いつも崖などで
「あなたが犯人だったのね!」
「今頃気づいたのか。それではあの世への土産話に聞かせてやろう。
宇宙が生まれて137億年」
「そこから始まるか」
「人類が生まれて46億年」
「あんた鳩山由紀夫かい」
とかやっている間にパトカーがピーポピーポとやってきてしまうから、
こういうところでの長話はやめておいた方がいいという会話をしたと書きましたが、
つまりこれはそういうシーンを撮ろうとしている状況であると理解しました。

ただしこの場所は細い山道を通って入る袋小路のような埠頭で、追い込まれたらまず逃げ場なし。
サスペンスドラマや刑事ものでも、必ず犯人というのは倉庫街や埠頭に逃げる習性がありますが、
どうやらこのCSIの犯人も、同じことをするつもりのようです。



行きに通りかかったときには、その他大勢の脇役が衣装チェックしていました。



グレーのシャツの人が衣裳係かあるいはディレクターですね。




それにしても、本物とは違うなあと思うのが、FBI職員やらおまわりさんやらに、
ハゲデブチビがいないこと。どの人も一応「俳優」ですから、それなりの容姿です。
お腹の出ている人が誰ひとりいないというのがいかにここアメリカで不自然なことか・・。




サンフランシスコ警察からちゃんとパトカーも貸し出されています。
カメラにちゃんと写り込む位置に停まっています。



この左の人は、お腹がでているから、というわけではなく、本物です。
なぜわたしがそれを言いきるかというと、かれ着用のブーツ。
これは、このあたりの警備を馬でする「騎馬警官」の制服なのです。
去年ここで馬と一緒に写真を撮ったので知っているのですが、今日は馬はお留守番の模様。
おそらくこの人たちは、ここでロケをするので監視見張りに来ていると思われます。
どちらもかっこよくて俳優さんみたいですけどね。

カメラは俳優のバックにゴールデンゲートブリッジが写り込むようにセットしています。



いよいよセット完了。
ゲイリーさん、セイラさん、あと犯人役さん、お願いしまーす!



撮影が始まると、あたりに散らばったディレクター(下っ端)が、観客に静かにするように合図します。
なぜわたしがここにいるかというと、ブリッジの下まで歩いていきたいのだけど、
ここに来たときに「ここから一歩も動くな」と足止めされてしまったからです。
そして、ディレクター(下っ端)がなぜカメラ目線であるかというと、その原因は私のカメラ。
このカール・ツァイスレンズ搭載の新しいカメラ、パノラマモードを撮るときには、
前にも説明いたしましたが、→の方向に向かってシャッターを押し続けながら回転します。
そのとき、「かしゃかしゃかしゃかしゃかしゃ」とカメラは言い続けます。
その音が意外と大きくて・・・・・、
つまり、このディレクター(下っ端)は、言葉は出せないので、目線で

「静かにしろって言ってんだろーがこの田舎もん!」

とガンを飛ばしているところなのです。
しかし、この人、男か女かどっちだと思います?



俳優キター!
今皆で犯人説得中。

(まん中の人)「なんだってお前こんなことをしたんだ。可愛がってやったのに」
(犯人)「あんたなんかに俺の気持ちがわかってたまるか!」
(ゲイリー)「だからって犯罪はいかんよ、んん?」
(セイラ)(風が強いからヘアスタイルが乱れるわ)



観客指導のディレクター(下っ端)その2。
右側にサイクリングツアーの子供たちがきて、何も知らないで声を出したので、
「静かにしてください―!」
と言いに行っていました。

日本でもときどきこういうロケ、やるじゃないですか。
うちの近所はそういうポイントで、しょっちゅうそういう光景を見ます。
余談ですが、春ごろ、公園でロケの準備をしているクルーを目撃しました。
車から出されて地面に置かれている機材やら雑モノを入れているらしき段ボール箱を見ると、
書かれた文字が全てハングルだったんですが・・・・・・・・・・・・・・・。

どういうこと?・・・・・・・・・・・・・・・・(フジテレビかな?)


そんなことはともかく、どうしてああいうテレビのスタッフって例外なく偉そうなんでしょうね?
口では「ご迷惑おかけします」とか言ってても、どこか特権をかさにきた風で、高圧的なんですよね。
ここでまた、そういった態度に接して、これがワールドスタンダードであることを実感しました。

 ゲイリー・シニース、大アップ。

やっぱりかっこいいなあ。
調べてみたら面白そうだったので、宅配レンタルで月4枚ずつ借りることにしました。
しかし、観終わるには一体何カ月かかるのか・・・・。



休憩。
メイクさんはいりまーす。
黄色いショールの女性は、ゲイリーのマネージャーらしく、ちょっとの休憩の間もやってきて、
ウィンドブレーカーを着せていました。

この回がアメリカで放映され、さらに日本で観られるのはいつのことになるかわかりませんが、
もし、このシーンを観ることがあったら、このすぐ横でエリス中尉がカメラパチパチしていることを
ぜひ思いだしてください。

だからなんなんだ、って言われればそれまでですが。




撮影の間中、エリス中尉のカメラよりずっとおとなしくしていたお利口な犬たちの後ろ姿。(サービスカット)





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テレビ番組撮影現場に遭遇INサンフランシスコ

2012-09-15 | アメリカ

パロアルトに住んでいたこの夏、適度に暑い太陽と湿度の少ない快適な気候を楽しみましたが、
やはり長年訪れてきたサンフランシスコに、何度か足を向けました。
なにしろ、

I left my heart in San Francisco

でございますから。
フィッシャーマンズワーフや中華街は住んでいたときですらめったに行ったこともなく、
さらにアルカトラズ観光もようやく二年前初めて実行したというわたしですが、
これは住んでいたものなら大抵はこんなもので、観光地には住民はたいてい寄りつきません。



しかし、地元の人間が毎日のように散歩に訪れ、観光客も自転車を借りて走ったりする、
ゴールデンゲートブリッジ下の「クリッシーフィールド」という一帯は大好きです。
ゴールデンゲートからの飛び降り自殺や、鳥についてお話した項で、エリス中尉が滞桑中、
ここに毎日のように歩きに訪れることをお話しました。


ところで、サンフランシスコを漢字で「桑港」と書きます。
「サンフラン」が日本人には最初「ソーホー」と聴こえたらしいです。

なんでやねん。と思ったあなた。
虚心坦懐に聞いてみると、ネイティブの発音はサンフランより「ソーホー」の方が近いです。
割とマジで。

正式には桑方西斯哥(ソーホーシスコ)」、さらに港町であることから港を最後につけて
「桑方西斯哥港」と表記していましたが、長すぎるので桑港になりました。

念のため皆さん、一度
「そーふぉすぃすこぅ」
と発音してみてください。
あら不思議、あなたの発音がネイティブそのままの「San Francisco」に。

蛇足ですが、フィラデルフィアは「古豆腐屋」を「どう」にアクセントをつけて、
そしてミルク、は「めぉこ」と発音すれば、アメリカ人に
「パードゥン?」
と聞き返されることもありませんよ。

さて、TOが日本から来たとき、朝息子をキャンプに送っていった後、ここを散歩しました。
パロアルトからは40分くらいかかります。



サンフランシスコ市内に入ったとたん、いきなりそこは霧の中。
ここは以前住んでいたタウンハウス(同じ会社が管理している貸家の集合村)の入り口。
建物の右部部は住民専用のジムで、毎朝来たものです。
三年前まではこのタウンハウス内にいつもお世話になる「ティムさん」の会社が貸家を持っていて、
一ヶ月単位で借りられるため、利用していました。



上にゴールデンゲートブリッジを見上げる「フォート」。
レンガの建物には、昔(第二次世界大戦よりずっと前)から火薬、弾薬庫があり、文字通り
ここには「フォートレス」(要塞)がありました。
建物の前は駐車スペースになっているので、ここに車を停めて歩きます。

 ここをジョギングの折り返し地点にする人のために。
ハンドプリントに「でん」して、ターンします。
シャレかと思ったら、この写真を撮った直後、女性が「でん」してまた走っていきました。
本当に利用しているんだ・・・・・。



この下の部分が使われているのは見たことがありません。

さて、この車を停めるスペースに、いかにも撮影スタッフのようなグループがいました。



まん中のおじさんは撮影スタッフ、右の黒づくめは腕にマークがありますから、
おそらく警備関係のスタッフかと思われます。

 トラック内部。

移動カメラ。

サンフランシスコは何かと映画やTVショウの舞台になるところですから、ヒッチコックの
「めまい」以来、数知れずこう言った撮影が行われてきたのでしょうが、
住んでいて撮影現場を見たのは去年、しかも「これから設営」という状態でした。
今回はまさにもうすぐ始まりそうな予感。

機材チェック中。



すると、そこからもう少し行ったところにも撮影現場らしき場所が。
「映画の撮影みたいだね」
「ブラッド・ピットあたりが来てたりして」
などと言いつつ歩いていると、道のわきに立て看板発見。



お暇な方は読んでみてください。
面倒な方のためにざっと説明すると、要は

「CBSのドラマCSI:NYを撮影するから、うるさくしたりしないでね。
撮影の関係で足止めしたりするけど、協力してね。
もしそういうことを自分がすることができないと思う人は撮影が終わるまでどこか行け」

ってことです。

 

おお、いよいよ撮影っぽい。
我々の周りには、自転車の人やらジョギングの恰好の人やらが座りこんでいて、
てっきり野次馬だと思ってその中に紛れ、カメラを取りだしたりしたところ、スタッフらしき人が、
「ここでは立ち止まらないでください」
周りの人々は野次馬ではなく、エキストラだったのです。

・・・どうりで誰も写真撮ったりしていないと思った・・・・。

この右側の写真は冒頭のと同じ構図ですが、犯人役にハンドカフを掛ける瞬間の打ち合わせ。
冒頭の大きな写真をもう一度見てください。
この中にあなたも知っている映画スターがいますよ。
ちなみに、犯人を押さえているのは体型から判断すると監督(アンソニー・E・ズイカ―)
いちばん左と監督の後ろも俳優。
さて、左から二番目の俳優は、だーれだ!

ちなみに、このCSI:NYですが、わたくし観たことはございません。
ただ、アメリカに住んでいてテレビを見ていると、CBSチャンネルでよく番宣を観ます。
なんと2004年から続いている人気番組で、日本ではWOWWOWやテレビ東京系列で
放映されていたのだとか。

いつまでも立ち止まって撮影開始を眺めるほどの興味も無かったので、われわれは
それを観ながら通り過ぎ、海岸沿いを歩いていきました。

 犬の後ろ姿。(サービスカット)

 散歩業者。

 ソーラーシステム。

風力でこのオブジェのようなものをぐるぐる回し、電気を作っています。
その電気を何に使うかというと・・・、



タダで電気自動車のチャージをするコーナー。
このほか、向こうに見えているビジターセンターの電気も賄われているようです。
ここが、こちらかわの「折り返し地点」なのですが、こっちには「でん」する場所は無く、
かわりに、お食事処が。

「お腹空いたねえ」
「朝ご飯食べよか」
「さんせーい」

 

サンドイッチとお茶で朝ご飯にしました。
パソコンを出して長時間仕事をしている人がいますが、別に何も言われないようです。
それはいいのですが、ちょ・・・
「警告 銃器は許されていません」
・・・・・って、いるんですか?
こんなところに飛び道具持参で来る人。
お巡りさんは立ち入り禁止?
こんな「エコロジーの聖地」みたいなところに銃禁止マークがあるのも、アメリカならでは。
もしかしたら、カリフォルニアって銃の所持は合法だったっけ・・・・・。



今年は行きませんでした。こちらは科学の殿堂、エクスプロラトリウム。



目つきの悪い鳥さん水浴び中。



サンフランシスコはハネムーンのメッカです。(たぶん)
アツアツな感じがレンズを通じて伝わってきました。
・・・・・いいなあ・・・・・、って、そういや隣にTOがいたんだった。忘れてたわ。

朝ご飯をゆっくり食べて、先ほどのところまで帰ってくると、
「すみませんがここから動かないでください」と足止めされました
映画の撮影がちょうど始まっていたのです。


(後半に続く)

 

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尖閣諸島が中国領になるシナリオ~或る駐在員からの速報

2012-09-14 | 日本のこと

(`・´)ゞエリス中尉殿、中国政府の声明が、9月10日の真夜中に発表されました。
全文の翻訳版をお送り致します。
「違法かつ無効」中国外務省の声明全文
2012.9.10 23:35 中国
【北京=川越一】中国外務省は10日、日本政府が沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)の国有化を決めたことを受けて、声明を発表しした。

     ◇

日本政府は中国の再三の厳正なる抗議を顧みず、釣魚島の「購入」を宣言し、いわゆる「国有化」を実施した。
これは、中国の領土主権に対する重大な侵犯であ り、13億人の中国国民の感情を著しく傷つけ、史実と国際法を踏みにじった。
これに対し、中国政府および人民は断固たる反対と強烈な抗議を表明する。

 釣魚島および周辺諸島は古来、中国の神聖なる領土であり、それは歴史を証拠とし、法を根拠とする。
釣魚島は中国人がいち早く発見し、命名し、利用してきた もので、中国の漁民が昔から活動してきた。
明代にはすでに中国の防衛管理範囲に組み入れられ、台湾の付属島嶼(とうしょ)であった。
釣魚島は“主のいない 地”であったことはなく、中国こそが争いのない主人である。

1895年、日本は甲午戦争(日清戦争)末期に、清朝政府の敗北に乗じて、 違法に釣魚島を窃取した。
続いて、不平等な馬関条約(下関条約)へ署名し、「台湾全島と付属島嶼」を割譲するよう脅迫した。
第二次大戦終結後、カイロ宣言 とポツダム宣言を根拠に、中国は日本が侵略した台湾、澎湖諸島などの領土を回復し、
釣魚島と周辺諸島は国際法上、中国に回帰した。
歴史は覆すことはできな い。
日本の釣魚島に関する立場は、世界の反ファシスト戦争の勝利の成果を公然と否定するものであり、
戦後の国際秩序に対する重大な挑戦だ。

 1951年、日本は米国などとの間で不公平な「サンフランシスコ平和条約」に署名し、
琉球群島(現在の沖縄)は米国が管理することとなった。
53年、米国 琉球政府は勝手に管轄範囲を拡大し、中国領である釣魚島と周辺島嶼をその中に巻き込んだ。
71年、日米両国は沖縄返還協定の中で、またしても勝手に釣魚島 と島嶼部を「返還区域」に組み入れた。

中国政府は日米にこのような勝手に中国の領土を移譲するような行為に最初から断固反対し、承認していない。
日本政府 が釣魚島は日本固有の領土で、日中間には解決しなければならない領土紛争は存在しないというのは、
完全に歴史と法のごまかしであり、まったく成り立たな い。

72年の中日国交正常化、78年の平和友好条約締結の交渉過程で、両国の一世代上の指導者は大局を見て、
「釣魚島問題を棚上げにし て、解決を後回しにする」との重要な了解と共通認識をまとめた。
日中国交正常化の門はここから開いたのだ。中日関係の大いなる発展は40年となったばか り、
東アジア地区の安定と安寧も40年になったばかりだ。
もし日本当局が当時の共通認識をあくまでも否定し、一切を帳消しにするならば、
釣魚島をめぐる情 勢はいかにして安定を保てようか? 

中日関係は今後、いかにして順調に発展できようか? 
日本はいかにして隣国や世間の信用を得られようか?

近年、日本政府は釣魚島問題においていざこざを引き起こしてきた。
特に今年に入ってからは、右翼勢力が「島購入」の風波を巻き起こすのを大目に見て甘やか し、
それによって自らの「島購入」の道に橋を架けた。
日本側の釣魚島問題に関するあらゆる行為は偶然ではない。
それを反映して出てきている政治の傾向は警 戒に値すると人々が考えるには理由がある。
われわれは問わずにはいられない。日本はいったいどこに向かおうとしているのか?
日本が将来、どこに向かって いくのか、人々を安心させられるのか?

中国政府は一貫して中日関係の発展を重視してきた。
中日両国と両国民は友好的に付き合うほかな く、互いに敵対などできない。
中日の戦略的互恵関係を推進することが、両国民の根本利益に符合し、地域の平和と安定、発展の大局に役立つ。
しかし、中日関 係の健やかで安定した発展は、日本側が中国側と同じ方向に向かい、ともに努力することが必要だ。
日本政府の「島購入」という行為は中日関係維持の大局とは 反対の方向に向かっていく。

中国政府は厳しく言明する。日本政府も「島購入」は完全に違法かつ無効である。
日本が中国の領土を侵略した という史実はいささかも変えられない。
中国の釣魚島および周辺諸島に対する領土主権はいささかも変えられない。
中華民族が侮られた時代は過ぎ去り、再び戻 ることはない。
中国政府は主権が侵犯されることを黙ってみていたりなどできない。
中国側は、日本側が中国の領土主権を損なう一切の行為を直ちに停止し、掛け値なしに双方が達した共通認識と了解に立ち戻り、
交渉による紛争解決のレールに戻るよう強烈に懇請する。

日本があくまで耳を貸さずに独断専行するなら ば、それによって生じる一切の深刻な結果は日本側が負うほかない。



しんさんからの緊急速報は以上です。

国が購入を決めた三日後の14日、中国の海洋監視船(海監)が六隻も同時に領海侵入をしてきました。
この数は過去最多で、「まさか六隻も一挙に入ってくるとは」と海保は対応におわれたということです。

以前お話しした中国南沙諸島支配の経緯。

因みに、この時の中国がどのような戦略を取ったか、箇条書きします。

  1. 島の領海内で中国漁船が座礁したなどとして、島にそのまま避難所を建てて住み込む
  2. この漁民の保護と称して、中国機が上空を哨戒、そのまま支配
  3. 空中給油機を伴って戦闘機部隊の公海上での訓練を行う



先日、国会の外交防衛委員会で、佐藤正久議員が、
「尖閣に自衛隊を駐留させないと、中国漁民の避難所を作られ、そのまま実効支配される」
と訴えていましたが、まさにこの先例から当然懸念される成り行きであるわけです。
中国は尖閣で今全く同じことをしようとしています。


それにしても、しんさんにいただいた声明文ですが・・・・・

すごいですね。
なんか、一毫もの誤謬も疑っていないというか、盗っ人猛々しいというか・・・。
これだけ読むと、日本がもしかしたら勘違いしていて、
あそこは中国の言うとおり元々日本のものじゃなかったんじゃないか?
なんてついつい思っちゃいますね。

東京都が購入を声明していたとき、大半の国民は
「国では信用ならないから、国には売らない」という地権者(代理人)の意を受け、
「国には売るな」とう声をあげていたのです。
ところがいきなり何が起こったのか、地権者は国に売ることを表明。

国有化には、日本国民と中国政府がどちらも反対であるというおかしな構図。
ここで何かの意図を持ってバランスが変えられつつあるように思います。

なぜ地権者は一夜にして国に売ることを決めたのか。
もしかしたら中国政府から民主政府に何らかの指示なり取引なりが持ちかけられたのではないでしょうか。

まさか、民主政府は、国有化を表明することによって中国を名実ともに激高させ、
大声で相手を非難し、さらに堂々と?脅迫するきっかけを中国からの指示によって作ったのではないでしょうね?

国有化に対抗するためという格好の理由を相手に与え、六隻の次は一二隻、
そして重機を積んだ船が上陸すれば、海保では対応できないでしょう。
(前回も、何が何でも上陸させるなではなく、政府からの指示はけがさせるなであったらしいので)

何しろ、今情勢は非常に重要な局面を迎えています。
この最初の対応が、今後の日本の存続をさえ決する気さえします。




とにかく、この場でコメントへの返答をさせていただくと、
中国で日本人が襲撃されるという事件が相次いでいます。
そして中国政府は、前回もフジタの社員を人質に取るということをやってのけるような人治国家です。
いざとなったら中国に進出した日本企業の資産をそのまま超法規的措置で強奪しかねません。

しんさん、どうかくれぐれも、十二分に自分の身をお守りください。





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笹井中尉と三輪車

2012-09-13 | 海軍













「さとん」さんから68期海軍史についてのお訊ねがあったとき、
ある軍事雑誌の特集で掲載されていた笹井中尉の未公開写真のことを書いたら、
さとんさんは当然これを知っておられ、
「笹井中尉の三輪車に乗った姿が可愛くて癒されました」
というコメントをして下さいました。

それについてエリス中尉が

あの雑誌の笹井中尉の三輪車写真ですが、解説の方が何も知らなかったらしく、
写真に「当時三輪車を持っている家庭は無かった」と、
まるで笹井家が金持ちであるような描き方をしていますが、
あれにはわたくし異論があります。


後ろに写っている建物から、あれは笹井中尉の父親の、造船士官であった笹井大佐が
若き日呉に赴任して官舎に住んでいたときの写真だと思うのですがどうですか?
(どう見ても個人宅にはみえないでしょう?)

きかん気の強い子供だった笹井中尉が、他の上官の子供を泣かせたりして、

大佐や母上が謝りに行ったそうですが、
これは官舎住まいならではのエピソードではないですか。
三輪車は笹井家の所蔵していたものではなく、
官舎全体で士官の子弟のために持っていたものではないかな、という推理をしています。

と書いたところ、さらにさとんさんから、このようなコメントを頂きました。

私も官舎か何かのような気もしますが、笹井中尉のお父様は大学も出ていますし、
だからと言ってお金持ちにはイコールってわけではないですが、
大佐ともなるとかなりの給与があったことは間違いないです。
三 輪車の撮られた時期は、お父上も海軍に入って15年以上ですし
お金には余裕があったでしょう。
私は、あの三輪車は本人の所有だと思っています。
官舎であれ ば士官の子供ばかりでしょうから共有するまでもなく
高価であっても買い与えることができたとふんでいます。
一枚の写真で色んな推察が出来るのは楽しいです ね。


今となっては検証しようの無いこういったこと(しかも興味の無い人間にとってはどうでも話)
を、こうやってあれこれ議論できるのは、まったくブログならではの楽しみです。
さらに、この「どうでも話」について記事を書いてしまう、というのも、ブログならでは。


笹井醇一少年が三輪車に乗っているという写真ですが、眉根を寄せたきかん気の強そうな表情が
実に笹井中尉らしくて、思わず微笑んでしまう「なごみ写真」です。

それはともかく、以前、「川真田中尉の短ジャケット」という項で、
この特集の写真欄に付けられたコメントがあまりにひどい、という話をしたことがあります。
笹井少尉候補生の写真説明に、「兵学校の休みに撮られたと」書いていることなどです。


この三輪車の写真に付けられたコメントも、突っ込みどころ満載です。
まずは、

(この写真は笹井中尉の)小学生時代と思われる。

いや、これどう見ても小学生じゃないと思うの。
見たことのある方、そうですよね?
わたしも子供を持つまでは、乳幼児の年齢なんて全く分からなかったけど、今なら分かる。
この写真の笹井少年はせいぜい四歳でしょう。

新宿区上落合の自宅の庭で撮影。

なぜか言い切っています。
しかしながら、さとんさんとのやり取りにもあったように、
後ろに写っているのは、その造りから、どう見ても個人宅には見えません。

この筆者は、上落合は、笹井家の最終住所であり、
笹井中尉が生まれたのは東京の青山であったことを知らずに書いているようです。


笹井少年が上官の子供を泣かせたのでご両親が謝りに行かねばならなかった、
というエピソードからも、これが官舎であるのは確実でしょう。

コメントには呉と書きましたが、笹井賢二氏は、佐世保に赴任したこともあります。

因みに笹井家は、佐世保の官舎住まいの後、またもう一度青山に戻った形跡があり、
それは笹井少年が青山小学校を卒業している(卒業名簿にも名前がある)ことからわかります。

つまり整理すると、笹井家は、

青山―呉―佐世保―青山―新宿

と移動したということになります。


ところで、佐世保海軍工廠の人事部長が井上四郎という中佐で、
造船大尉であった笹井氏の上司でした。

この縁から、井上少佐は笹井中尉の母上の妹を、あの大西瀧治郎とお見合いさせています。
大西長官の結婚は36歳のとき、つまり1927年。
笹井中尉はこのとき9つです。
当時の、ことに造船士官は昇進も早くはありませんでしたが、それでも、
9歳のときに大尉なら、笹井中尉が4歳のころ、賢二氏は中尉であった可能性もあります。


わたしが「三輪車は官舎の共有物、あるいは借り物だったのではないか」と考えたのは、
官舎住まいの中尉大尉であれば、いくら海軍軍人でもあまり経済的余裕は無いからです。
単純に考えても、一般的に、現代でも世の小さい子供を持つ若い夫婦、ことに勤め人は、
例外なくあまり家計に余裕はありません。(一般的に、ですよ)

いまならともかく、当時超高級品の三輪車を買うことができたか?という疑問ですね。

ましてや上官の子弟がいる官舎敷地内で、高級品の三輪車を息子に乗せるというのは、
「海軍士官の妻」の項でもお話したように、縦社会の、「出る杭になるのを怖れる」
当時の(今もかな)日本人としては、あまりありえないことに思えるからです。



もっとも、母上の実家は名家ですから(御典医の家系で、父は一橋大学の創立者)、
もしかしたらそのオジイチャマが初めての男の孫に買ってやった、ということも考えられます。

つまり、どう考えても真実はわからないまま、というのが結論です(笑)


それにしても、笹井中尉は、素晴らしい環境に資質を持って生まれてきたのですね。
あの時代に生まれていなければ、軍人ではなく医者にでもなっていたのでしょうか。


さとんさんがおっしゃるように、笹井家の所有であっても全く不思議はないのですが、
わたしはあえて「三輪車は官舎の子供の共有だった」と考えてみます。
冒頭漫画のようなことがあったのではないかなあ、と、ふと思いついてしまって、
どうにもそれが頭から離れなくなってしまったもので・・・・・・。

つまり、ブログならではの無責任な妄想ですので、あらかじめご了承ください。


それにしても、刊行物の写真につけるキャプションを書く人は、お金をもらっているんだから、
せめてちゃんと調べて、本当のことを書いていただきたいと思うの。






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板倉光馬~とある潜水艦長のブラックアウト 

2012-09-11 | 海軍人物伝









板倉光馬のブラックアウトシリーズ、後半です。

ブラックアウトの末上官をなぐったものの、海軍を去らずにすんだかつての候補生も今や少佐。
伊潜の艦長という、重責を担う働き盛りです。

大変な事件を起こし、海軍追放を首の皮一枚残して免れた少尉候補生時代の板倉少佐。
にもかかわらず、お酒をやめようとは全く思わなかった、というところまでお話しました。
しかし、いくらなんでも、飲むなら飲むで、もう少し自分の酒癖をもう少しなんとかしようと
こころがけたのかというと、
さにあらず。

あるときは、日頃ウマの合わない教官を酒の席で追いかけ、追い詰め、
気がついたら羽交い絞めにされて、「教員失格」の烙印を押されるなど、
相変わらず「自分に愛相の付きる思いを」繰り返していたのです。

ちょっとは学習せーよ、と思わず声を掛けたくなるのですが、
飲めない人間にはわからない、「飲まねばならぬ理由」があるんでしょうね。
酒飲みという人種には。

全く懲りない板倉少佐、夫人には「板倉の家から酒が無くなるのは恥だと思え」などと厳命し、
夫人が酒屋からの帰りに思わず
「お酒の無い国に行きたいなア・・」
と嘆息するといった調子の酒豪生活を送っておりました。

しかし、このころの板倉少佐の置かれた状況を慮ってみると、そこには酒が好きでやめられない、
というより、命ぎりぎりの重責を任された人間の、しばしの精神的逃避を見るような気もするのです。

このころの板倉艦長の仕事は、毎日が死と隣り合わせでした。
次の出撃が年貢の納め時かもしれない、という覚悟と共に、毎日任務にあたっていたのです。

あのキスカ撤退作戦の前哨となった任務も、その一つでした。
第二期「ケ号作戦」です。
キスカ島周辺は敵の哨戒網が張り巡らされ、ぴーとでも音を出したとたん、見つかってしまいます。
後年、板倉少佐自身が「任務についていた2週間の間一瞬として生きた心地がしなかった」
と述懐したという激務でしたが、その任務がこれからというとき、
板倉艦長は着任三ヶ月にして、まだ乗員全員と酒を酌み交わしたことがないのに気付きました。

そこで、今生の想い出になるやもしれない、最後の酒席を取り行うことにしたのです。
艦長は総員集合を命じ、このように命令しました。

戦場において斃れるのは本懐であるが、不注意や過失で死ぬことは末代までの恥辱である。
酒によって乗員が海に落ちたり命をなくしたりした例は少なくない。
そこで今日は、艦内の酒を全部処分する。
飲むのだ。

代金はわたしが払うから遠慮はいらん。一滴も残してはならぬ。
ただし、明朝までは上甲板に出ることは禁ずる。
酒の飲めない者は御苦労だが交代で当直してもらいたい。
なお当直中は、何人といえどもハッチから上げてはならぬ。


皆わっと歓声をあげて宴席の支度にとりかかりました。
酒豪で名高い板倉艦長の前には、酒を注ぎに来る下士官兵が引きも切らず、次々と
杯を重ねるうちに艦長はすっかりきこしめしてしまいました。

酔った板倉艦長は、しかし上甲板が気になります。
そのままハッチを開け、乗員が「誰も外に出ていない」ことを確認し、
海に向かって小用を足すうちに・・・・・・・。「ちーん」

次に板倉艦長が気がついたとき、極寒の海に転落し救いあげられたその身体は
冷凍マグロのように上甲板に転がされており、数名が素っ裸の艦長を乾布まさつしていました。
そして、周りには心配そうに覗きこむ乗員が・・・。

うわあああああっ。

もう、これ、わたしだったら、死にますよ。そのままもう一回海に飛び込んで。
さすがの板倉少佐も毛布を身体に巻き付けて艦内に駆け込み(おそらく)眠れない夜を過ごし、
次の朝、総員を集めて照れくさいのを押し殺し、平然と訓示しました。

「昨日は艦長の意を体してアルコール分を残らず処分したことは非常によろしい。
お前たちが酒の上で万が一のことがあっては申訳ないと思ってやったことであるが、
一名も事故が無くて何よりである。
ところが艦長であるわたしが、海に落ちて危うく不忠、不孝の汚名をのこすところであった。
あれほど注意していた艦長でさえ不覚をとったのである。
お前たちは、今後とも酒には十分に注意して間違いを起こさぬようにしてもらいたい。
終わりっ!」

皆、下を向いて笑いをこらえていたそうです。

あとから水雷長が
「皆板倉艦長の心臓には驚いていますよ」
「どっちの心臓だ」
「両方です」

しかし、それだけではすみません。
平安丸から「イカニサレシヤ」と信号がありました。
何があって艦を停めたのか、信号で返事をしなくてはなりません。

板倉艦長、ピーンチ!

この未来永劫記録に残る信号に
「艦長が泥酔して用便中上甲板から海に転落」
なんて、送れましょうか。いや、送れません。
板倉艦長、苦し紛れに信号を送りていわく、

「溺者救助訓練ヲ実施セリ。作業完了、異状ナシ」

これを送信させられた通信兵は、笑いをこらえるのに必死だったのではないでしょうか。


前回にお話した殴打事件のとき、殴打した鮫島艦長が人並みの、つまり、
「俺を殴った候補生なんぞ即刻クビ、悔しいから海軍刑務所に放り込んでやる」
みたいに考える軍人であれば、この時に後の「不沈艦長」は海軍を去っていたでしょうし、
この転落事件のとき、板倉艦長の心臓がもう少しデリケートだったら、ヘタするとここで命運尽き、
キスカに赴くことも、その成功に寄与することもなかったでしょう。


徹頭徹尾、この板倉光馬という人は、強運に恵まれているのです。
艦長として乗った潜水艦はことごとく不沈だった、というのも、この運の強さを物語ります。


ところで私事ですが、TOの仕事関係のある方は、いわゆる「見える人」です。
TOが大きな講演をしてから、全く関係ない仕事の打ち合わせで彼の前に現れたとき、
「ああ、なんかすごい肩からオレンジ色の光が出ていますよ。ぴかーっと」
と言ったそうで、その時まさに昂揚した気分だったTOは驚いたそうです。

もし、全生涯通じて板倉少佐のオーラを見ることができる人がいたら、
それはいざとなると非常に強く輝く、特別な色を持った光が見えていたのかもしれません。




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