ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ハイマン・G・リッコーヴァーの面接椅子〜USSシルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-27 | 海軍人物伝

USSシルバーサイズ潜水艦博物館の展示には、
原子力潜水艦を海軍にもたらした、

ハイマン・ジョージ・リッコーヴァー提督
Hyman George Rickover

1900年1月27日-1986年7月8日

のコーナーがあります。


このコーナーを深掘りしてみます。

「海軍原子力の父」
”Father of the Nuclear Navy"

それがリッコーヴァーに捧げられたタイトルです。
その下には、1985年、彼がダイアン・セイヤーのインタビュー中語った、

「どんな状況でもベストを尽くす、それが人間というものです」
That's what being human being is,
to do the best you can under any circumstances.

という言葉があります。
ところで、ちょっと検索しただけでもリッコーヴァーのクォートは
次々と出てきます。
もしかしたら発言だけで一冊の本になってたりするんでしょうか。

「自分の主張を書き留めることほど
思考プロセスを鋭くするものはありません。
口頭での議論で見落とされた弱点は、
書かれたメモで痛々しいほど明白になります」


いわゆる「メモ魔」だったんですね。

「何よりも、私たちの自由はそれ自体が目的ではないことを
心に留めておく必要があります。
それは、私たちの社旗のすべての階級に対して
人間の尊厳にたいする尊重を勝ち取るための手段なのです」


「悪魔は細部に宿る。
我々が軍でおこなうこともまた細部まで及ぶのだ」

悪魔は細部に・・・はお気に入りのフレーズだった模様。
もうひとつ悪魔シリーズで

「悪魔は細部に宿る。
しかし救い(salvation)もまた細部に宿るのだ」

「楽観主義と愚かさはほぼ同義である」

リッコーヴァーは良き家庭人で、愛妻家、子煩悩でした。



「わたしには息子がいる。
わたしは息子を愛している。
息子がそれを操作しても大丈夫なくらい全てを安全に保ちたい。
それがわたしの基本ルールです」

リッコーヴァーは、海軍での任務先から自分自身、
手紙を息子にマメに書き送っていますが、それだけでなく、
職権濫用というか公私混同というか、初期の原子力潜水艦の司令官たちに、
北極航路から自分の息子に手紙を送ってやってくれと頼んでいます。

そのため、息子のロバートは、北極にいた
USS「ノーチラス」「サーゴ」「スケート」「シードラゴン」
すべての原潜からの手紙を持っていました。

学校の友達にさぞ自慢できたことでしょう。

初の水中地球一周を達成した「トライトン」がインド洋から送ってきた手紙、
「ジョージ・ワシントン」がポラリスミサイルの初の水中発射を成功させ、
そのことを記念して司令官から送られた手紙もロバートは受け取っています。

ロバートのパパコネコレクションの数々

どの司令官も、他ならぬ「オヤジ」(と呼ばれていた)のためだし、
と必要以上に張り切って手紙を子供に送ったようです。

その内容では、しばしば彼の偉大な父親が誉めそやされていました。

「この歴史的な航海は、あなたの父上がノーチラス号と海軍に
原子力推進力を与えたという、輝かしくたゆまぬ努力によって
実現されたものだと理解しているでしょう」

「全世界が知っているように、あなたのお父さんは
我々の時代の海軍工学の天才です」


まあ、それは嘘偽りない本心だったと思いますが。

ちなみに息子ロバートは、イエールとMITで物理と経済の学位を取っていますが、
どういうわけかロンドンでアレクサンダー・テクニークを勉強し、
(頭-首-背中の関係に注目し身体を整える心身技法で
リハビリ、整体、演奏家や演技者などの発声を改善する)
先生となって、2008年に亡くなっています。


リッコーヴァーの名言、もう1発。

「良いアイデアが自動的に採用されるわけではない。
それらは勇気ある忍耐を持って実行に移さねばならない」


どうもリッコーヴァーという人は一言居士だったらしく、
今ならおそらく毎日のようにこういう言葉をツィートして、
世間の反応を楽しんでいたのではないかと思われます。

さて、博物館のパネルから彼についての解説を見ましょう。



辛辣で、真面目で、妥協のない態度で知られるリッコーヴァー提督は、
画期的な原子力潜水艦USS「ノーチラス」と
海軍原子力艦隊全体の立役者となった人物でした。

彼は1983年に退役しましたが、実に63年間という
最長となる海軍での勤務期間の記録を保持しています。



海軍兵学校時代

海軍兵学校とコロンビア大学(電気工学の修士号を取得)
を卒業した後、リッコーヴァーは初級士官として
水上艦艇と潜水艦に乗組み、世界中で海軍経験を積みました。

そしてそののち、海軍の原子炉電気プラントプロジェクトの
責任者に選ばれていますが、

彼が任命されたのは人気者だったからでも、
リーダー的素質があったわけでもなく、彼が頻繁に
いわゆる「お役所仕事」を破って目標を達成したからです。

と書かれています。
そこで彼の名言。

「我々は国家のための創造的な仕事をしている男を、
管理者のなす層と覚書の山の下に埋めてしまっている。
我々は果てしないフラストレーションによって
創造性を萎縮させているのだ」

お役所仕事から創造ができるか!というわけです。

■ リッコーヴァーの圧迫面接

彼とそのチームは、その結果、世界初の原子力潜水艦、
USS「ノーチラス」の研究、設計、テスト、建造、進水を
わずか5年間でやってのけました。

原子炉は街一個のサイズから、28フィートの幅に収められたのです。

リッコーヴァーはすべてのシステム、安全手順、人員、
原子力潜水艦、空母、船の近くに来るものに至るまで、
ありとあらゆることに執着してこだわる人物でした。

そのため、原子力潜水艦の乗務に応募してきたすべての将校に
自らがインタビューを行い、そのふるい落とす基準とか、
そのユニークすぎる面接の様子は伝説になっています。

一例をあげると、

面接室にインタビューを受ける人を先に通しておく。
部屋のテーブルにさりげなく「プレイボーイ」のような雑誌を置いておく。
他の本も置いておく。
散々待たせる。
一瞬でもグラビアの方に手を出してめくったら、面接前にアウト。
(リッコーヴァーはそれを陰で見ている)

恋人がいる面接者に電話を渡す。
原潜に乗りたかったら今すぐここで彼女に別れを告げろという。
それに少しでも躊躇いを見せたら即アウト。

とか。

また、彼の伝説を形作った有名な「リッコーヴァーの面接椅子」があります。

彼のオフィスには、インタビュイー専用の椅子がありました。
それは、ツルツルに磨き上げられた座面をもつ木の椅子でしたが、
前足2本は6インチ切り落として短くされていました。


圧迫面接中

さらには、特別に注文して調整させたベネチアンブラインドから、
彼らの目に日光が差す時間にインタビューを行うのです。

そしてリッコーヴァーはなにをしているかというと、
滑り落ちる椅子に「座り続ける」という問題に彼らがどう対処するか、
逆光に耐えながらどう知恵を絞るかを観察しているのです。
受験者にさらなるプレッシャーを与えるべく、上から見下ろしながら。

また、彼は質問に対して「馬鹿げた」答えをした者を、
箒入れに入れて2〜3時間「考えさせた」こともありました。
出てきた時に彼が何をいうかによっては「逆転」もあったかもしれません。

それもこれも、立候補者が潜在的に持っているものを
引き出すための「不規則な」状態を作り出していたということのようです。


これらの圧迫面接を乗り切り、無事に乗員に選んでもらったからといって
全く安心できないのがこのリッコーヴァーという人でした。

リッコーヴァーはたとえ潜航中でも、仕事をしている人を「殺して」、
強制的に他の人に仕事を引き継がせることでも有名でした。

「はいA君、今A君は死にました!
そこのB君ね、彼のあとを引き継いでください。
あ、A君は死んじゃったのでもう何もできません!」


気の毒なA君は、そこから先、文字通り死んだ魚の目をして
潜水艦内でただ浮遊していなければなりません。

この「殺される」ことは、原潜現場独自の用語で
「denuked」(原子力から削がれる)
と称し、原子力部門から追い出されることを意味しました。

これは、「本当の緊急事態」になったとき、起こることが
リッコーヴァーの脳内では再現されているということなので、
何人たりともその設定に逆らうことは許されないのです。

そして、スーツ姿で最初の原子力潜水艦に乗り込み、
テストを終えて出てきた彼は、こう語っています。

「私は、並外れた者を採用したのではない。
並外れた可能性を持つ者を採用し、

そして彼らを訓練したのだ」

と。

リッコーヴァーのキャリアにおいて、個人面接の回数は数万回に及びました。
大卒だけでも1万4千回を超えたといいます。

原子力潜水艦や水上戦闘艦に配属される少尉候補生、
新任少尉、原子力空母の指揮を目指す戦闘経験豊富な海軍飛行大尉まで、
その面接対象は多岐にわたりました。


リッコーヴァーは「ノーチラス」最初のテストダイビング中、
実際に潜水艦に乗り込みました。

彼の立場からは公的には乗る必要はなかったのですが、
とにかく自分の指揮下にあるすべてのこと、
そしてすべての人に対して、100%の責任を負うという
彼の信念がそれをさせたのだと言われています。

再び彼の名言から。

「責任というのはユニークな概念です。
あなたはそれを共有することができるでしょう。

しかし、あなたの責任は減りません。
それは依然としてあなたにあります。

責任があなたにある場合、それを回避したり、無視したり、
責任を転嫁したりすることも誰かに押し付けることもできません。

何かがうまくいかなかったとき、
責任を負う人を指差すことができない限り、
本当に責任を負う人は誰もいなくなるでしょう」

彼は全てのこと、特に安全に目を光らせ、自ら責任を負いました。

この彼の信念と努力のおかげで、いまだかつてアメリカは
原子炉の事故による潜水艦の喪失事故は一回も起こしていません。

スリーマイルで事故が起こった際、彼は公聴会に呼ばれ、
アメリカ海軍で一度も事故が起こしていない理由について
自らの信じる安全管理についての質問を受けています。

■ 誠実さへの献身



「愛する息子が触っても大丈夫なくらい安全な装置を作る」

という、リッコーヴァーの安全にかける完璧主義を表す逸話があります。

リッコーヴァーは、最新の潜水艦の建造中、その艦体に
溶接の不備で圧力に弱い部分があることを発見しました。

そこで彼が業者に命じたのは、不具合のある溶接の部分をすべて分解し、
もう一度適切な方法で施工をおこなうということでした。

それは一隻にとどまらず、そのときすでにほぼ完成していた
何隻かの潜水艦の解体を意味したので、建造会社は海軍に対し、
費用と人件費の超過分を請求しようとしたのですが、
リッコーヴァーはガンとしてそれを撥ねつけました。

この不具合は請負業者の責任であり、納税者は
そのようないい加減な仕事に対して1ドルも支払う義務はない。


しかし、業者の方は食い下がり、これに対し色々と配慮した海軍は、
最終的に超過費用の4分の3を支払うことでなあなあに収めてしまい、
リッコーヴァーを激怒させたのでした。

このことはゼネラルダイナミクス社のスキャンダル事件とされました。

しかしこれで海軍長官ジョン・レーマンから恨まれたリッコーヴァーは、
最終的に彼によって強制的に引退に追い込まれることになります。

ちょうど新造艦USS「ラホーヤ」の海上試験中起こった、制御不能と
深度逸脱事故の責任が実質的な責任者たるリッコーヴァーに押し付けられたのです。

82歳の誕生日から4日後の1982年1月31日に、リッコーヴァーは
13人の大統領(ウッドロウ・ウィルソンからロナルド・レーガン)の下で
63年間勤めた海軍から強制退役となりました。

彼は妻からラジオで聞いたことを聞かされるまで
自分の解雇について知らなかったということです。

この処分を喜んだのは、天敵ゼネラルダイナミクス社でした。
その当時、グロトンのGD社では、何人かが

「リッコーヴァーを捕まえてやった」

と得意そうに話していたという証言があります。



■ 教育に対する見解

1950年代後半から、リッコーヴァーは、
アメリカの教育システムを徹底的に見直す必要がある、
と声を大にして訴えていました。
そして、すべての学校が次の三つを実行すべきだと信じていました。

1)学生には幅広い知識を得られる機会を与える

2)その知識を日常の状況に適用できるスキルを彼らに与える

3)ロジックと検証済みのファクトに基づいて問題を判断する習慣を与える

彼はアメリカの教育水準が受け入れがたいほど低いと考えており、
それを問題視し、教育水準の向上、
特に数学と科学の向上方法について何冊かの著作物で提言を行いました。

■ 原子力推進の夢

リッコーヴァーは早くから船舶の原子力推進という考えに傾倒していました。

この考えを現実のものにするきっかけは、
彼が1947年に元潜水艦乗りの海軍作戦部長、
チェスター・ニミッツ提督に直談判したときに始まっています。

ニミッツは、潜水艦の原子力推進の可能性をすぐに理解し、
海軍長官ジョン・L・サリバンにこのプロジェクトを進言しました。

これを受け、世界初の原子力艦を建造することを支持したことから、
後にリッコーヴァーはサリバン海軍長官を
「原子力海軍の真の父
と評していたようです。

その後、リッコーヴァーは原子力部門のチーフとなり、
潜水艦推進用の加圧水型原子炉の設計に着手。

その後、アール・ミルズ提督がリッコーヴァーを推薦し、
国家の原子力潜水艦計画の開発責任者に選ぶという決定をしました。

ミルズ提督が彼を選んだ理由は、「どんな反対に遭っても」
海軍が頼れる人物と見込んだからと言われます。

「ノーチラス」の建造中、リッコーヴァーは少将に昇進しました。

異例といえば、彼のような人物が提督になることは異例でしたが、
もちろん、それを面白く思わない海軍機関部の同僚もいて、
(大体が大尉以上の昇格に失敗した人たち)彼を退職させるため、
アメリカ上院に対し、これは不適切な昇進だと訴えました。

その結果「ノーチラス」が初めて海に出る2年前だというのに、
上院は海軍提督昇進リストをいつものように形式的に承認せず、
リッコーヴァーの名前もリストにありませんでした。

しかしマスコミはじめ世間が「リッコーヴァー推し」だったこともあって、
海軍長官が鶴の一声で、承認の手続きを行なわれ、彼は昇進しました。

アメリカ海軍においては、海軍大尉の95%は、
どんなに優秀でも退役しなければならないのが掟です。

なぜなら、提督になるための可能性は5%しかないからです。

リッコーヴァーのような技術畑の軍人が、
その5%に入ることを心情的によしとしない軍人は多かったでしょう。

そんな中、驚くべき仕事の速さで、リッコーヴァーとそのチームは
ビーム8.5メートル以下の潜水艦の船体に収まる原子炉を完成させ、
これはS1W炉として知られるようになります。

「ノーチラス」はこの原子炉を搭載して1954年に進水し、就役しました。

1973年、役割と責任は変わらないものの、
リッコーヴァーは四つ星提督に昇進しました。

これはアメリカ海軍史上、作戦ライン将校以外のキャリアパスを持つ将校が
この階級に到達した2回目の例となります。
(1回目は調達部隊出身のサミュエル・マレー・ロビンソン)

ちなみに、アジア系の初めての四つ星提督が生まれたのは2013年
ハリー・B・ハリス(横須賀生まれ、母が日本人)でした。

リッコーヴァーの任務には、戦闘部隊のような指揮統制が含まれないので、
技術的には退役リストの提督の等級に任命されました。

これは現役の提督の数の制限と関係があるそうです。


■ 原子力に対する考え

彼のキャリアが終わりに近づいた1982年、
議会の公聴会でリッコーヴァーはこう証言し人々を驚かせました。

”私は、原子力発電が放射能を発生させるなら、価値はないと思っています。
では、なぜ原子力船を保有するのかと問われれば、それは必要悪だからです。


それは必要悪なのです。

私なら全部海に沈めてしまいます。

私は、自分が果たした役割を誇りに思いません。
この国の安全のために必要だからやったのです。
だから戦争というナンセンスなものを止めることを強く主張するのです。

残念ながら、戦争を制限しようとする試みは常に失敗してきました。
歴史の教訓は、戦争が始まると、どの国も
最終的には利用できる武器は何でも使うということです。

放射線を出すたびに、ある半減期、
場合によっては数十億年の寿命を持つものが発生する。
これらの力を制御し、排除しようとすることが重要なのです。”


その数ヵ月後、引退したリッコーヴァーは、
核海軍の創設に貢献したあなた自身の責任について後悔はないかと問われ、

後悔はありません。
この国の平和を守るために貢献したと思っています。
なぜ後悔する必要があるでしょうか。

私が成し遂げたことは、国民の代表である議会が承認したことです。
皆さんは、警察の警備のおかげで、国内の敵から安全に暮らしている。
同様に、皆さんは外敵から安全に生活している。
それは、軍隊が我々を攻撃から守ってくれているからです。

あの当時、核技術はすでに他の国で開発されていました。
私に与えられた任務は、海軍原子力の開発でした。
私はこれを達成することができたと思っています。


と答えました。

■ リッコーヴァーという人

彼は「同時代で最も有名で論争の的になった提督」と呼ばれました。
多動で、ぶっきらぼう、対立的、侮辱的、仕事中毒で、
階級や地位に関係なく常に他人に高い要求を突きつける人物でした。

そして「平凡さにはほとんど、愚かさには全く容赦しなかった」

彼の軍事的権限と議会からの委任された力は
アメリカ艦隊の原子炉運用に関して絶対的なものでしたが、
その支配的な性格は、しばしば海軍内部の論争の対象となりました。

乗組員が原子炉を安全に運転する能力があるかどうかを見極め、
事実上軍艦を現役から外す権限を持っていた彼は、
実際にも何度かそれを容赦なく実行しています。

作家で元潜水艦乗組員のエドワード・L・ビーチ・ジュニアは、
晩年の彼を「次第に衰えた力を顧みない」「暴君」と呼びました。

■死去

1986年7月8日、バージニア州アーリントンの自宅で死去、享年86歳。

彼の追悼式で、レーマン海軍長官は(リッコーヴァーの天敵)
声明で次のように述べました。

「リッコーヴァー提督の死によって、海軍とこの国は、
歴史的な偉業を成し遂げた献身的な将校を失った。

提督は63年間の勤務の中で、原子力の概念をアイデアから
現在の150隻以上のアメリカ海軍の艦船にもたらし、
3000隻にわたる無事故の記録を打ち立てた」


また、海軍作戦部長だったジェームズ・ワトキンス提督は、

「最も重要なことは、彼は師であったということです。
彼は基準を設定した。
彼の下にいたものは大変な思いをしたかもしれない。

しかしそれが彼の貢献を研究するすべての人に残した遺産であり、
今後の我々の課題でもあるのです」

と述べてこの不世出の天才の死を悼みました。


リッコーヴァー萌え

続く。


「シルバーサイズ」二人の艦長と一人の副長

2022-10-01 | 海軍人物伝

ミシガン州マスキーゴンに係留展示されている
第二次世界大戦次の「ガトー」級潜水艦、「シルバーサイズ」。
その哨戒活動を研究する試みも、いよいよ最後となりました。

謎の艦長ジョン・ニコルズ中佐の指揮のもと、第12次哨戒で
当事者は確認できぬまま、陸軍輸送船だった「馬来丸」を撃沈していた、
ということを前回検証しましたので、今回は、前回とほぼ同じコースで
哨戒活動を行った、第13次哨戒からです。

しかしながら、またもやちょっとした資料を見つけてしまったので、
まず、これまでにも登場した「シルバーサイズ」初代艦長、
バーリンゲーム中佐と、コイ中佐について、その軍歴を記すことにします。

■ クリード・カードウェル・バーリンゲーム少将


1941年12月15日、メア・アイランドで行われた
「シルバーサイズ」の就役式に出席したバーリンゲーム中佐

Creed Cardwell Burlingame
 (February 27, 1905 – October 21, 1985)
 Rear Admiral in the United States Navy

ニックネーム  バーリー
1905年2月27日生まれ
ケンタッキー州ルイビル
1985年10月21日没(享年80歳)
アーリントン国立墓地にて埋葬
所属・支部 米国海軍
在籍年数 1927-1957
階級 少将
担当コマンド USS Roanoke
潜水艦部門 182
USS「シルバーサイズ」
USS S-30
USS S-36

賞 海軍十字章 (3)
シルバースター (2)
レジオン・オブ・メリット

1927年6月、海軍兵学校卒業
戦艦USS「ユタ」乗組
1930年にコネチカット州ニューロンドンの潜水艦学校を卒業

1936〜1939 USS 「S-36」艦長
1939〜1940 ニューロンドン潜水艦基地
1940〜1941 USS 「S-30」艦長
1941年12月15日〜1943年7月20日 USS「シルバーサイズ」艤装、艦長


ここまでが「シルバーサイズ」艦長までの軍歴です。
「シルバーサイズ」指揮については以下の通り。

一応アメリカ海軍公式の記録となります。

潜水艦 USS「シルバーサイズ」(236)

1942年4月4日
試運転と初期訓練を終え、真珠湾に到着した。

1942年4月30日
第1回哨戒のため真珠湾を出発した。
日本本国海域の紀伊水道沖の哨戒を命じられる。

1942年5月7日(位置33.14、150.58)
マーカス島の北約540海里、北緯33度14分、東経150度58分で、
警備船第五戎丸に砲撃を加えて損害を与えた。

1942年5月17日 (位置 33.28, 135.33)
本州南部、潮岬沖で、
兵員輸送船鳥取丸 (5973 GRT) と
商船テームズ丸 (5871 GRT) に魚雷を撃ち、損害
を与えた。

1942年5月22日(位置33.30、135.27)
紀伊水道の河口、一夜崎と潮岬の間、33°30'N、135°27'E位置で
輸送船旭山丸(4551 GRT)を魚雷攻撃し、損傷させた。

1942年6月21日
真珠湾にて第1次哨戒を終了。

1942年7月15日
第2次哨戒のためパールハーバーを出発した。
再び日本本土の紀伊水道沖の哨戒を命じられた。

1942年8月8日(位置33.33、135.23)
北緯33度33分、東経135度23分の一夜崎付近、紀伊水道で
商船日経丸 (5783 GRT) を魚雷で沈没させた。

1942年8月31日 (位置 33.51, 149.39)
北緯33°51'、東経149°39'の太平洋北部で、
漁船2隻を砲撃で沈める

1942年9月8日
真珠湾にて第2次哨戒を終了した。

1942年10月3日
第3回目のパトロールのため真珠湾を出発した。
カロリン諸島方面への哨戒を命じられる。

1942年11月25日
オーストラリアのブリスベンで第3次哨戒活動を終了した。

1942年12月17日
第4次哨戒のためブリスベンを出発した。
ニューアイルランド沖の哨戒を命じられる。

1943年1月18日 (位置6.19、150.15)
トラック南西約90海里、北緯06度19分、東経150度15分の位置で
タンカー東栄丸 (10022 GRT, offsite link) を魚雷で沈め、轟沈させた。

1943年1月20日 (位置 3.52, 153.26)
北緯03度52分、東経153度26分の位置で、
トラックの南約290海里の日本軍輸
送船明王丸 (8230 GRT)、
スラバヤ丸 (4391 GRT) とシンデン丸 (5148 GRT) を魚雷で沈没
させた。

1943年1月31日
パールハーバーにて第4次哨戒を終了。

1943年5月17日
オーバーホールの後、第5次哨戒のためパールハーバーを出発した。
ソロモン諸島方面での哨戒を命じられる。

1943年6月4日
ニューハノーバー、ニューアイルランド間ステファン海峡に機雷を敷設する。

1943年6月10日 (位置 2.43, 152.00)
北緯02度43分、東経152度00分、ニューアイルランド北部で
輸送船日の出丸 (5256 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1943年7月15日 (位置 -2.36, 150.34)
軽巡洋艦長良は、南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖で触雷
(1943年6月4日に「シルバーサイズ」または
オーストラリアのカタリナ飛行船が設置した可能性)により損害を受ける。

1943年7月16日
ブリスベンでの第5回哨戒を終了した。


「乗員」が自慢していたように、バーリンゲーム中佐は、その後、

1943〜1945年 潜水艦第10082師団長
1944〜1945年1月 潜水艦第18戦隊司令官代理

と、潜水艦隊で出世していっていますが、それは戦争中の
「シルバーサイズ」の哨戒を成功させたからに他なりません。

公式な記録として残されているその戦績は、

5回の哨戒で、8隻の敵艦、合計44,000トンを撃沈

となっています。

バーリンゲーム艦長指揮下で、艦と乗組員は大統領表彰を受け、艦長として
2つのシルバースターと3つの海軍十字勲章を獲得しています。


第二次世界大戦後、もバーリンゲームは海軍でのキャリアを歩み、
1957年に退役すると同時に少将の階級となりました。


■ ジョン・スター・『ジャック』・コイ少将



John S. Coye Jr.
(April 24, 1911-November 26, 2002)
 Rear Adm. in USN 

次に、やはり少将にまでなったというコイJr.についてです。

二次世界大戦中、潜水艦U.S.S.「シルバーサイズ」艦長として
6回の哨戒を行い、それに対して各種勲章を受けた海軍士官とされます。

「シルバーサイズ」艦長として記録されている軍歴は以下の通り。

潜水艦 USS「シルバーサイズ」(236)

1943年7月21日
第6回目の哨戒のためにブリスベンを出発した。
ソロモン諸島とカロリン諸島の間の哨戒を命じられた。

1943年8月5日(位置1.53、153.52)
ラバウルの北北東、01°53'N, 153°52'E の位置で
機雷船ツガルに魚雷で損傷を与える。

1943年9月4日
ブリスベンでの第6回哨戒を終了した。

1943年9月16日 (位置 -2.36, 150.34)
補助砲艦「セイカイ丸」(2693GRT)触雷沈没。
南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖に
「シルバーサイズ」が1943年6月4日、設置したもの。

1943年10月2日 (位置 -2.36, 150.34)

Kavieng沖の02°36'S, 150°34'Eの位置で日本の
掃海艇W-28触雷損害
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

1943年10月5日
第7回目の哨戒のためにブリスベンを出発した。
ソロモン諸島/ニューギニア方面の哨戒を命じられる。

1943年10月18日(位置1.00、143.16)
ニューギニアのWewakの北、北緯01度00分、東経143度16分の位置で
貨物船Tタイリンマル(1915 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1943年10月23日 (位置2.30, 144.45)
ビスマルク群島の北西で
タンカー天南丸 (5407 GRT) と
貨物船ジョホール丸 (6187 GRT) と華山丸 (1893 GRT) を撃沈。

02度30分北、144度45分Eの位置。

1943年11月4日 (位置 -2.36, 150.34)
貨物船「リョウサン丸」と測量船「筑紫」(1400トン)触雷沈没。
南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖に、
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

また、
軽巡洋艦五十鈴と日本の駆逐艦五十風も損害を受ける。

8 11月 1943
パールハーバーで第7回哨戒を終了。

1943年12月5日
第8回目哨戒ためパールハーバーを出発した。
パラオ沖の哨戒を命じられる。

1943年12月29日(位置8.09、133.51)
パラオ沖の日本軍輸送船団に対する攻撃中に、
北緯08度09分、東経133度51分の位置で
輸送船天保山丸(1970トン)
北緯08度00分、東経133度51分の位置で
貨物船七星丸(1911トン)
北緯08度03分、東経134度04分の位置で
商船龍虎丸(3311トン)
魚雷攻撃して沈没させた。

また、
陸軍の貨物船、備中丸に損害を与える。

1944年1月15日
パールハーバーで第8回哨戒を終了。

1944年2月15日
第9回目のパトロールのために真珠湾を出港した。
マリアナ諸島西方への哨戒を命じられる。

1944年2月22日(位置-2.36、150.34)
日本の
補助潜水艦29(130トン)が触雷沈没。
Kavieng沖の位置02°36'S、150°34'Eに
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

パラオの南東約225海里、北緯00°28'、東経136°56'において、
貨物船コウフク丸 (1919 GRT) を魚雷で沈没させた。

1944年3月28日
ニューギニアのマノカワニ沖で
上陸船SS-3 (948トン)を魚雷で沈没させた。

1944年4月8日
オーストラリア・フリーマントルで第9次哨戒を終了。

1944年4月25日
第10次哨戒のためフリーマントルを出発した。
マリアナ諸島沖の哨戒を命じられる。

1944年5月10日 (位置 11.26, 143.46)
グアムの南南西約120海里の日本輸送船団に対し、魚雷を撃ち、
敷設船沖縄丸(2221GRT)と日本の補助砲艦第2長安丸(2632GRT)
と第18御影丸(4319GRT)を沈没
させる。


1944年5月20日 (位置 13.32, 144.36)
サイパン沖の北緯13度32分、東経144度36分の位置で、
補助砲艦松星丸 (998 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1944年5月29日 (位置16.23、144.59)
サイパンの北北西約100海里、16°23'N, 144°59'E の位置で
輸送船蓬莱山丸 (1998 GRT) とショウケン丸 (1942 GRT) を魚雷で沈めた。

1944年6月11日
真珠湾にて第10回哨戒を大成功に終える。
オーバーホールのため、メアアイランド海軍工廠に送られる。

1944年9月12日
オーバーホールを終え、真珠湾に帰還する。

1944年9月24日
11回目哨戒のためにパールハーバーを出港した。九州沖の哨戒を命じられる。

1944年11月15日 (位置 30.10, 137.23)
USS「スターレット」とともに、
警備船第12那智隆丸(97GRT)に損傷を与える

1944年11月3日
ミッドウェイでの第11次戦時哨戒を終了した。

以上です。
ついでと言ってはなんですが、コイ提督の「墓碑銘」は以下の通り。

コイ少将と彼の乗組員は、太平洋で3位となるトン数を沈め、
彼は「並外れた英雄的行為に対して」2つの金星を持つ海軍十字章を受けた。

ジャックは、5人の孫と2人のひ孫の訪問を楽しみながら、
カリフォルニア州オーハイで、91歳の生涯を閉じた。

1775年にマサチューセッツ州レキシントンでミニットマン隊の隊長を務めた
ジョン・パーカーの直系の子孫、5番目の甥である。


1933年に米国海軍兵学校を卒業後、35年間、
潜水艦、重巡洋艦、水陸両用軍団、NATOの司令官の任務に就いた。

1968年、カリフォルニア州コロナドに引退し、30年間、
自身のヨットCal-25「シー・ドッグ」でセーリングとレースを楽しんだ。

生涯の趣味は、オルガン演奏、木工、世界一周クルーズの写真撮影。



■ コイ少将の娘



ちなみに少将の娘、ベス・コイ(Beth Coye)
も海軍軍人になりました。

父親の転勤のため、彼女はほとんど1年ごとに転校させられていました。
海軍軍人の妻の中には、転勤しない(つまり夫を単身赴任させる)
人もいましたが、彼女の母は一緒にいることを選んだのです。

彼女は当然のように父の後を追って海軍に入りました。
彼女自身がインタビューで、
「自分の血は青と金でできている」
と言っていることから考えても、彼女に
父親の仕事に対する反発はなかったものと思われます。



アメリカでは、昔から、海軍軍人の親を持つ海軍軍人のことを、
「ネイビー・ジュニア」と言います。

陸軍では陸軍軍人を親に持つ人のことを、
「Born, Raised, Transferred」で「BRATSーブラッツ」と言い、
海軍でも「ネイビーブラッツ」と呼ばれることもあるのですが、
ベス・コイはまさにネイビージュニアであり、ネイビーブラッツでした。

超難関ウェルズリー大学卒の優秀な軍人で、情報将校を務めましたが、
当時は女性ゆえ、その能力に対し出世の道は限られていました。

60年代前半の当時は、女性が出世するチャンスはあまりなく、
35歳になって初めて下級幹部になることができるという状態。
今はそんなことはありませんが、当時はそういう時代だったのです。

さらに問題?だったのは彼女がゲイだったことでした。

海軍での女性の扱い(彼女は常に男性軍人の中でもトップだったが、
優秀な男性軍人がたどるようなコースには決して乗れなかった)
に限界を感じていた彼女が、41歳の時、
ゲイであることをカミングアウトして海軍をやめると言ったとき、
コイ准将は、娘に、

「ベス、お前は海軍にいるべきだ。
少なくともキャプテンになれるし、女性提督にだってなれるんだから」

と言って引き止めましたが、彼女は自分の意見を変えることなく退役し、
外側から海軍の同性愛者の人権のためにロビー活動を続けました。

彼女が後に、その「戦い」についての本を出版する計画を立てた時、
父コイ少将は、軍での自分の立場もあり、反対したと言います。

ベス・コイによると、父少将は、娘が本を書くのであれば、
自分が乗っていた「シルバーサイズ」について書いてくれることを
望んでいたというのですが、最終的には娘の意思を尊重し、
本の出版費用を1万ドル出資しています。


■ロイ・ダヴェンポート副長



もう一人、趣味のトロンボーン演奏で「シルバーサイズ」総員を
恐怖のどん底に陥れたことが個人的に忘れられない、
ダヴェンポート副長のその後についても書いておきます。

Roy Milton Davenport
Rear Admiral in United States Navy
June 18, 1909〜December 24, 1987 (aged 78)

「シルバーサイズ」は、その第二次世界大戦中の哨戒を成功させ、
戦果を挙げたことから、指揮官は悉く出世していますが、
(第3代艦長ニコルス中佐のぞく)
副長だったダヴェンポートがもしかしたら一番有名かもしれません。

その紹介には次のような一文があります。

He is the first sailor to be awarded five Navy Crosses, 
the United States
military's second highest decoration for valor.

「セイラー」というのは彼が兵卒だったという意味ではありません。
念のため。


■「シルバーサイズ」副長として

海軍兵学校を1933年卒業したダヴェンポートは、
戦艦USS「テキサス」乗組後、
コネチカット州ニューロンドンの潜水艦学校を卒業します。

第二次世界大戦が勃発した1941年、USS「シルバーサイズ」で、
クリード・バーリンゲーム中佐の下、副長として勤務。

4回の哨戒を終えた時、バーリンゲーム中佐は、
優秀な彼を自らの指揮下に入れるよう推薦しています。

彼の優秀さについてはいくつも逸話が残されているようですが、
時にはその機転が乗員全員の命を救ったこともあります。

「シルバーサイズ」がその紹介で艦船攻撃を行った後、
日本機に直接3つの爆弾を落とされたことがありました。

直撃は免れましたが、「バウ・プレーン」(艦首部の潜舵)が
何らかの原因で固まってしまったまま急速潜航し、
そのため艦体が設計深度を超えて沈んでいったのです。

そのまま海底に激突するかと思われた最後の瞬間、
ダヴェンポート副長は咄嗟にコッター・キー?を外し、
潜水艦を水平にすることに成功し、危機から脱出しました。

また、(これは当ブログでも取り上げましたが)
魚雷が発射室に半分詰まってしまい、再射撃を行うことになった時も、
副長は艦長と共に冷静に問題を解決しました。

また、ある時は、サイコロゲームでイカサマをされたと思い込み、
酔っ払って暴れた砲手を取り押さえ、銃を取り上げるというような仕事も
ダヴェンポート副長は無事に治めています。

(この水兵は拘束衣を着せられて潜水艦から降ろされることになりました)

コイ中佐、「シルバーサイズ」では、少なくともトロンボーン以外では
満点の副長として皆に信頼され、尊敬されていたことがよくわかります。



潜水艦隊司令ロックウッド少将に「シルバーサイズ」哨戒に対し
授与されたシルバースター勲章を付けてもらうダヴェンポート副長。

冒頭の写真で、ダヴェンポートはおそらく
真ん中のバーリンゲーム艦長の左側にいる人物だと思われます。

■「シルバーサイズ」以降の指揮

「シルバーサイズ」の任務を降りたダヴェンポートは、
アート・テイラー中佐の後任として、USS「ハドック」艦長に就任しました。

ちなみに、このテイラー中佐は、当時現場の潜水艦指揮官クラスから
絶賛不評だった当時の潜水艦隊司令、ロバート・イングリッシュ少将
その側近を批判する文書(subversive literature破壊文学と書かれている)
を流したとして、解任されたという話があります。

「ハドック」では3回の哨戒を率い、
第一次哨戒でのパラオ諸島沖で「東洋丸」・「有馬丸」を撃沈。
第2次哨戒では5,533トンの「サイパン丸」を沈め、
初の海軍十字章を、そしてその次の哨戒で2度目を授与されました。

3回目の哨戒では3隻、合計39,200トンを撃沈。

4回目の哨戒では、2隻のタンカーを撃沈したと報告し、
第二次トラック哨戒で護衛艦を含む5隻32,600トンの撃沈、
1隻4,000トンのダメージを主張しています。

が、これらの被害は、戦後にJANACで照合したところ存在しませんでした。

しかし、ダヴェンポートと彼の副官らは、最後まで日本側が、連合国に、
タンカーが健在であると思わせようとしていたと考えていたようです。

てか、そんなことをして今更日本に何の得があるかって話なんですが。


ちなみに、JANACによる「シルバーサイズ」の現実の戦果は以下の通り。
括弧の中青字は、「シルバーサイズ」の戦時中の主張です。

哨戒次数 14

撃沈数23隻(26隻)

撃沈撃破 総トン数90,080t 
(143,700t)


撃沈数だけはまあまあ近い線行ってますね。

「ハドック」を降りたダヴェンポートは、USS「トレパン」艦長に就任。
1944年9月から1944年12月まで、10回の哨戒を行い、
「トレパン」での通算成績として、
合計22本の魚雷を発射し、4隻35000トン撃沈を主張しましたが、
戦後にこれは13000トン、魚雷3本という数に減らされました。

■その後の経歴と引退

艦を降りたダヴェンポートは陸上勤務を希望し、
アナポリスで海事工学の教官を務めました。

彼は、ディック(リチャード)・オカーン(オケイン)などの
名誉勲章受賞者を除けば、潜水艦部隊で最も勲功のある軍人と言われました。

彼が少将に昇任したのは、やはり退役と同時のこと。
1987年のクリスマスイブに78歳で死去したということです。



続く。

急降下爆撃の父 アル・ウィリアムズ少佐〜アメリカ海軍航空の黄金時代

2020-06-25 | 海軍人物伝

スミソニアン博物館の「海軍航空の黄金時代」シリーズ、
海軍航空のパイオニアを紹介するコーナーは前回で終わったのですが、
別のコーナー、つまり当時盛んに行われた飛行機の性能を競う
エアレースで有名だった飛行家たちを紹介しているところに、
海軍軍人の名前を見つけたのでついでに紹介しておきます。

彼、アル・ウィリアムズの名前は、エアレーサーの一人となっていました。

■ エアレース

エアレース、そしてエアショーはいわゆるゴールデンエイジにとって
最も視覚に訴え、かつ刺激的な見せ物のひとつでした。

エアレースそのものは航空技術の進歩にさらに勢いを与えるもので、
競技者と彼らの乗った航空機は、軍事航空、あるいは航空発展の分野で
大いなる栄誉と名声を得たものです。

国際的なエアレースが最初に行われたのは1920年のことでした。

「ピュリッツァー・トロフィーレース」というのが最も大掛かりなもので、
これは年に一回定期的におこなわれるようになりました。

1930年に始まった短いコースを競う「トンプソン・トロフィーレース」
いわば航空のクロスカントリーである「ベンディックス・トロフィーレース」、
水上機専門の「シュナイダーカップ・レース」というものもありました。


1922年のシュナイダーカップレースが行われたのはイタリアのナポリです。
優勝したのはイギリス軍のビアード大尉でした。

シュナイダーカップに出場したスーパーマリンS.6E
これもイギリスチームの飛行機です。

この水上機は時速644キロの新記録を出した機体です。

そしてこの人物が1925年のシュナイダーカップ優勝者。
これ、誰だと思います?

ボルチモアで行われたレースでカーティスR3C-2に乗り勝利したのは、
アメリカ陸軍大尉、ジミー・ドーリットルでした。

ドーリットル、まぢで天才的なエアレーサーだったようで、
1931年、第一回ベンディックス・トロフィーでも優勝しています。

スーツ着てますが、これで飛行機乗ったんでしょうか。

このエアレースを描いた絵は、当時の新聞に掲載されたもので、
タイトルは、

「ジェームズ・H・ドーリットル トンプソントロフィーレース 1932年勝者」

なんと、ドーリットル、トンプソンカップでも優勝していたのです。
絵に描かれた飛行機の機体のずんぐりとしたシェイプ、これは

Gee Bee モデルR スーパースポーツスター

という機体で、彼が優勝したことで有名になりました。

右の方でおまわりさんが男の子の腕を掴んでいますが、
この二人の少年はドーリットルの息子たち、ジェイムズJr.とジョンです。

彼ら兄弟もまたパイロットになり、弟は空軍大佐で退官しましたが、
兄は1958年、陸軍少佐のときに38歳で自殺しています。

偉大な父の名前が重荷になったとかいう理由でないことを祈るばかりです。

 

さて、エアレースが盛んに行われたのには、仕掛け人がいました。

クリフ・ヘンダーソン(Cliff Henderson1895-1984)
は、こういった国際エアレースのマネージングディレクターで、

各種エアレースのスポンサーを集めてくる天才的な才能を持っていました。

Cliff Henderson (Clifford William, 1895-1984).jpg

ベンディックスもトンプソンも、この人の企画によるもので、
女性だけのエアダービーの仕掛け人でもありました。

陸軍の世界一周飛行をアレンジしたのもこの人です。

ついでに奥さんは女優だったりします。

女性ばかりのレースは「見せ物」として大変人気を博し、
アメリア・イヤハートなど有名な女流飛行家が排出されました。

その女性飛行家の中でエアレースの世界記録を塗り替えまくったのが、
当ブログでもかつてお話ししたことがある、

ルイーズ・セイデン Louise Thaden 1905-1979

です。
涼しい顔をして記録を次々と塗り替え、各種大会に優勝し、しかし
若いうちにあっさり引退して航空に関する著述を行っていました。

この人の凄いところは、男女混合のレースでも優勝していることです。

女流飛行家列伝「タイトル・コレクター」

 

■ アル・ウィリアムズ

さて、本日冒頭のスミソニアン博物館による似顔絵は
海軍軍人であり海軍パイロット、エアレーサーだった

アルフォード・ジョセフ・ウィリアムズ
Alford Joseph Williams(1896-1958)

中尉時代

です。

1917年にアメリカ海軍で航空士になったウィリアムズは、
1923年のピューリッツァートロフィーで速度新記録を樹立し優勝しました。

海軍航空のみならず、航空のパイオニアでもあったわけです。

ウィリアムズは米海軍だけでなく、米海兵隊、および米陸軍航空隊にも
所属していましたが、その経緯については後述します。

ちなみに彼が世界記録を立てたのは海軍のテストパイロット時代です。

彼はこの頃の手探り状態の軍航空における研究および試験パイロットとして
積極的な役割を果たしました。

彼本人もレースの優勝者として「スピードキング」というあだ名を奉られたほどです。

 

 

ニューヨーク州ブロンクスで石工の息子として生まれたウィリアムズは、
フォーダム大学の法学部(KKさんの在学しているところですね)に入学しました。

青い目に薄茶の髪、身長178センチメートル、体重66キロという
恵まれた体型をしていた彼は、卒業後2シーズンだけ
ニューヨークジャイアンツでプロ野球選手をしていたそうです。

彼の軍歴はその後ニューヨーク州兵に私兵として入隊し、
歩兵部隊に配属されるところから始まっています。

第一次世界大戦が始まり、彼は海軍予備役(USNRF)に2等級として入隊し、
マサチューセッツ工科大学の海軍航空部隊で航空訓練を受け、
訓練終了後の1918年、海軍少尉に任官します。

その後少尉のままペンサコーラで砲術および主飛行教官を務めた後、
テストパイロットに任命されることになります。

中尉任官後ピューリッツァートロフィーレースに出場するために
高速飛行機を割り当てられ特別な訓練を行うようになったとき、
彼は海軍の主任試験パイロットという重職にありました。

 

ところでいつの時代も組織というのは内部で対立があるものですが、
このころのアメリカ海軍航空は特に母数が少ないだけに
色々と覇権争いやら意見の食い違いによる摩擦があったようです。

ウィリアムズは前回お話しした「海軍航空の父」であり飛行船事故で亡くなった
ウィリアム・A・モフェット少将の弟子筋に当たると目されていたのですが、
このモフェット(当時大尉)とのちに海軍大将になるアーネストJ.キング大尉
当時親の仇同士のように対立している関係だったせいで、ウィリアムズは
その真ん中に立ってえらいとばっちりを受ける羽目になっています。

モフェット大尉が第一次世界大戦でヨーロッパにいる間、キング大尉は
自分の天敵であるモフェットの弟子、ウィリアムズ中尉を航空からはずして
なんと海上任務に移してしまうのです。

怒ったウィリアムズは辞表を叩きつけて辞めてしまいます。

いやいや、そういうことならモフェットになんとかして貰えばいいんじゃね?
と今の我々は考えてしまいがちですが、当時は通信手段が手紙しかなかったので、
モフェットがそれを知ったとしても遠隔地からはなんともしようがなかったのでしょう。

そこでとっとと海兵隊に移転したウィリアムズは大尉からキャリアを始め、
前歴を考慮されてすぐに少佐に昇進しました。

そして海兵隊にいた1930年代に、新しい戦闘機の戦術に取り組み、

「ダイビング爆撃」の手法の開発を担当しています。

つまり、彼は艦爆の「急降下爆撃の父」なのです。

この発明と開発にはアメリカ軍にとって計り知れない価値がありました。
来たる第二次世界大戦で、まさにそれが証明されることになります。

急降下爆撃を最初に行ったのは海兵隊、ということは知っていましたが、
これはウィリアムズがもしキング大尉に意地悪されていなければ、
海軍にその「栄誉」が与えられていたかもしれない、ということでもあります。

 

しかし、ウィリアムズはその海兵隊で任務を全うすることはありませんでした。

彼は独立した空軍の存在を肯定するという立場でしたが、
それを言ってはまずい場所(具体的にはどこかわからず)で率直な見解を述べたため、
口が災いして

海兵隊を辞任することを余儀なくされました。

二つ目の軍隊を辞めざるを得なくなったら、大抵の人はもう軍隊はいいわ、
ということになりそうですが、彼はそうでなかったのです。
それだけ航空、軍事航空の世界にどっぷりと浸かって足抜け?できなかったのでしょう。


そんな折、第二次世界大戦が始まってしまいました。

1941年、彼は陸軍航空隊に志願し、ベテランパイロットとして
数千人の陸軍パイロットに技術を教える教官という適職を得ることができました。

 

というのが、彼が海陸海兵隊の三隊を全て経験した理由です。
逆に、彼がもし航空という分野に執着していなければ、いずれの場合も
辞めるというまでには至らなかったに違いありません。

もし最初の水上艦への移動を受け入れていたとしても、
味方のモフェット少将は飛行船の事故で死ぬ運命でしたから、
彼が航空に戻れる可能性はまずなかったものと思われますし、
海兵隊をやめた理由も、独立空軍の創設という
航空愛のなせる止むに止まれぬ思いであったからです。

通勤風景

陸軍引退後、彼はピッツバーグの航空会社の営業マネージャーとなり、
F8Fベアキャット戦闘機の民間版ともいえる

グラマン G-58 ガルフホーク

を売りながらそれに乗って通勤していたそうです。

ガルフホーク展示場にて。

彼が乗っていたグラマン「ガルホーク」複葉機は、UHC、
スミソニアン別館の展示で見ることができます。 

彼はさらにその後、ガルフ石油(アメリカの大石油会社)
の航空部門に迎えられることになりました。

 

ところで彼はドイツ空軍のメッサーシュミットを実際に操縦したことがあります。
彼はレポートでその優秀さ、繊細さを熱っぽく語りました。

「そこにMe 109がわたしを待っていました。
実際にコックピット内の装備器具を研究する初めての機会です。


コントローラーは軽くて触ると繊細でした。
エンジンはまるで夢のように聞こえ、空冷ラジアルのような振動はありませんでした。

パラシュートを所定の位置に固定し、タキシングを行いました。

素晴らしかった。
離陸位置に向かいながら、垂直尾翼とラダーがかなり小さいにもかかわらず、
ラダーのプロペラブラストが驚くほど心地よい反応をもたらすことがわかりました。


離陸はスムーズであり、離陸までの距離はホーカーハリケーンの半分、
スーパーマリンスピットファイアの約4分の1であると推定しました。


空中で約130キロまで減速し、機首を引き上げ、落下させました。
エルロンは優れた制御を行いました。

メッサーシュミットの最も楽しい機能は、コントロールに対して
敏感でありながら機体の軸が
全くブレないということです。 
それは、ピアニストのタッチが忠実に再現される楽器のようでした。
荒っぽい操縦のパイロットは、きっと自分が恥ずかしくなるに違いありません。


メッサーシュミットMe109は今まで飛行した中で最も優れた飛行機です。
ドイツ第一線の単座戦闘機の一つを勉強する機会を楽しんだことは、
わたしにとってとても幸せな日となりました。

知る限りでは、わたしは空軍のメンバー以外でMe109を操縦した
唯一のパイロットになったはずです。


わたしは飛行機を美しく操縦することができたと思います。

 15分の時間を使って計器とコントロールに慣れ、その後、ロール、ダイブ、
インメルマンなどのさまざまなタイプの操縦に15分を費やしました。
30分後、着陸し、再び離陸し、フィールドを周回しました。


109は、飛ぶのと同じくらい簡単に離陸し、着陸する飛行機でした。」


彼がねっからのテストパイロットであったことが、この
まるで恋人のことを語るような興奮したレポートから伝わってきます。


海軍航空のパイオニアシリーズ 終わり

 

 


「戦う愚か者」 ピート・ミッチャー大将 〜 海軍航空のパイオニアたち

2020-06-21 | 海軍人物伝

マーク・アンドリュー・’ピート’・ミッチャー 
Mark Andrew ’Pete' Mitscher 1887ー1947

海軍航空部隊のベテラン司令官

1917年 海軍航空士

1919年 NC-1での大西洋横断チームに参加

1922年 ワシントンDCの海軍基地司令

1922年 デトロイトでの国際航空レース海軍チームのキャプテン

1923年 セントルイスでの国際航空レース以下同文

Vice Admiral Marc A. Mitscher during World War II (80-G-424169).jpg

「ベテラン司令官」とキャッチフレーズにありますが、それは
彼、ピート・ミッチャーが参加した戦闘を書き出すだけで十分理解できます。

第一次世界大戦

第二次世界大戦

 ドゥーリトル空襲 ミッドウェイ海戦 ソロモン諸島キャンペーン

 フィリピンシー海戦(マリアナ沖海戦)レイテ沖海戦 硫黄島の戦い 沖縄上陸戦

まさにその個人史が近代海戦史そのものなのです。
しかしながら、その名前はハルゼーやスプルーアンスほど有名ではありません。

その理由は、彼が極端に寡黙で必要以外のことは公に喋らず、ましてや
ハルゼーやマッカーサーのように自己宣伝やそれにつながるスピーチもほとんど好まない、
真のサイレント・ネイビーであったことにあるとされます。

写真は第二次世界大戦の頃に撮られたものですが、小柄で痩せていて、
深いシワが刻まれた顔は歳より老けて見え(50代に見えます?)
聞き取れないくらいの低い声でボソボソと喋る姿は完全な陰キャで、
人によっては全くとっつきの悪い困難な人柄に見られていました。

しかし決して冷酷だったり自分のことにしか興味がないというわけではなく、
身近に彼と接した者は、彼の驚くほど優しい笑顔にほっとさせられるのが常でした。

特に自身が創世期のパイロットの草分けであったこともあり、
パイロットたちには畏敬されていただけでなく絶大な人気がありました。


【不遇の海軍兵学校時代】

ニミッツと同じく彼もドイツからの移民の息子です。
しかし、母方にウィスコンシン州議会の議員である祖父を持ち、
父親のオスカーもものちにオクラホマシティの市長になるという具合で、
決して労働階級の出ではありません。

ミッチャーはその父親の希望で海軍兵学校に入りましたが、
本人に海軍や軍事、ましてや国防に対する熱意も関心もないので、
その頃の彼に人生後半の成功を予想させる要素は全くありませんでした。

「名前がイケてない」

として彼についたあだ名は、オクラホマ出身であることから

「オクラホマ・ピート」

2年になる頃にはそれは短縮され、彼はピートになりました。
彼の本名にはピの字もないのにAKA「ピート」であるのはそういうわけです。

彼が2年生になったときのことです。

兵学校でグループ同士の喧嘩がもとで死亡者が出るという不祥事が起こり、
彼はその罪を問われて退学させられました。

不条理なことですが、彼が手を下した事件ではなかったにかかわらず、
成績が悪く日頃の態度もよくなかったため、退学組に入れられてしまったのです。

慌てた父親は入学の時に推薦者となった下院議員にもう一度頼み込み、
ミッチャーは再入学ということで1年からやり直すことになりますが、
本人がそれを希望していなかった場合、大変辛いものであった可能性があります。

事実年下の上級生からはいじめを受け、彼の性格はより内向きになり、
そのせいで非社交的で反抗的な人物というレッテルを貼られることになります。

寡黙でとっつきにくい後年の彼の印象は、この経験によって形成されたのは
ほぼ間違い無いのではという気がします。

1910年、ミッチャーは131名中103番という成績でアナポリスを卒業しました。

【海軍パイロット第33号】

不遇な兵学校時代にミッチャーは当時話題だった航空に興味を持ち始め、
任官後いくつかの艦艇勤務を経たのち、パイロットを志願します。

海軍パイロット第33号として水上機軍団に配属になったのが1916年のことでした。

 

彼の運命が変わったのは、ちょうどその頃、航空を取り入れた海軍が
大西洋横断というチャレンジングなミッションを計画し、
彼にそのパイロットを務めるチャンスが与えられたことでしょう。


1916年ごろ(29歳)のミッチャー

 彡⌒ミ
(´・ω・`) まだ20代なのに・・

「海軍航空の黄金時代」の最初にこの海軍の壮挙について書きましたが、
海軍が派出した3機のカーティスNC飛行艇のうち成功したのは1機だけで、
操縦していた機は濃霧で途中リタイアを余儀なくされています。

しかし成功しなかった2機もやはり歴史的な飛行に成功したという扱いで、
彼には海軍殊勲賞を授与されることになったのです。

兵学校を退学させられた超劣等生が、ある瞬間から「パイオニア」となり、
いずれ海軍航空界の「クラウンプリンス」になろうとは、
周りはもちろん本人ですら予期していなかったことでしょう。

それに彼は少尉時代に赴任先で見染めた女性とすでに結婚していたので無問題。
って何の話だ。

ちなみにこの時一緒にチャレンジを行ったメンバーのうち、彼を含む三人が提督になりました。

 

【ドーリトルレイド】

その後彼は「アローストック」乗組、「ラングレー」「サラトガ」飛行長、
「ラングレー」「サラトガ」副長、水上機母艦「ライト」艦長を経て
空母「ホーネット」の初代艦長に就任します。

彼もまた最初の航空メンバーとして、空母運用の基礎を築いた一人です。

 

真珠湾攻撃によって日本との戦争が始まったのはその2ヶ月後でした。

緒戦の敗戦続きで落ち込んでいるアメリカ国民を奮起させるために
空母から飛び立つ陸軍機で東京を奇襲する、という計画については、
可能かどうかが「ホーネット」艦長であるミッチャーに打診されて決まりました。

右ミッチャー大佐

そしてドーリトル中佐率いる16機のB-25爆撃機が日本から1,050キロの発射海域の
「ホーネット」甲板を飛び立ち、首都を含む本土を攻撃したのです。

 

【ミッドウェイ海戦】

先日お話しした映画「ミッドウェイ」にも、「ホーネット」艦長である
ミッチャーらしき配役は全く確認できなかったわけですが、(見逃していたら<(_ _)>)
まあつまりそれだけ一般には無名だったということに他なりません。

結果だけ言うとアメリカが勝利したミッドウェイ海戦ですが、
あの映画でも強調されていたように、「ホーネット」は
魚雷爆撃部隊であるVF-8を隊長のジョン・ウォルドロン中佐以下、
ショージ・ゲイ少尉を除く全員を失っています。

出撃前のVF-8ワイルドキャット、「ホーネット」甲板にて。


「ホーネット」から出撃した第8魚雷隊。

このときの「ホーネット」はまだ就役して2ヶ月であり、
搭載している航空団の経験もまだ浅いものでした。

飛行長であるリング中佐と血気盛んなウォルドロン中佐の間に、
日本軍の迎撃計画についての口論が起こり、ウォルドロン中佐は
自らの魚雷爆撃隊を投入することを強くミッチャーに進言し、
戦闘機の護衛なしで空母艦隊に向かって行きましたが、
零戦の要撃隊に全機撃墜されることになったのはご存知の通りです。

「ホーネット」の他の航空部隊は敵を見つけることができず、
帰還できなかった航空機もあり、戦闘結果なしの損失率50%となりました。
このためミッチャーは自らの指揮が失敗に終わったと感じていました。

特に、第8航空隊のメンバー、とくにウォルドロン中佐の戦死については、
強く自身の責任を感じ、後悔していたとされます。

そのため、彼は部隊全体に対し名誉勲章を確保しようと奔走しましたが、
その働きは成功しませんでした。

最終的に第8魚雷航空隊のメンバーは海軍十字章を授与されています。

 

この失敗はもちろん海軍内でも事後に問題にされ、精査されました。
ミッチャーは、リングとウォルドロンの間で論争になった時、
ウォルドロンの意見を却下したのですが、結果としてそれが失敗だった、
つまりミッチャーとリングの判断ミスだった可能性もあるのだそうです。

しかし、この件についてはなぜか戦闘日報が提出されておらず、
判断のしようがなくなっていて、彼のミスだったかどうかは今もはっきりしていません。

日報がなくなったのはミッチャーを守るための海軍の隠蔽だったという説もあるそうです。

 

ミッドウェイ作戦の前にミッチャーは少将に昇進していました。
ハルゼーは彼をガダルカナル、ソロモン諸島の戦闘司令官に任命します。

「ジャップとの航空戦はおそらく地獄になるだろうと思っていた。
だからわたしはそこにピート・ミッチャーを送り込んだ。
奴は『戦闘馬鹿』だと知っていたからね」

さすがハルゼーらしい口の悪さですが、この「戦闘馬鹿」は、
原文通りだと「Fighting Fool」となり、悪口というより、
1932年の同名の映画(西部劇もの)から引用しているのではと思われます。

彼が無口な「戦う将官」であることは、誰もが認めるところでした。

 

【カミカゼ特攻の脅威】

高速空母機動部隊タスクフォース58を司令として率いるミッチャーは
トラック島の襲撃を実施したとき、

「トラック島なんてナショナルジオグラフィックの記事でしか知らなかった」

と言ったそうですが、彼は常にこのような「ドライな」一言を渋く呟くという
ユーモアのセンスを持っていたようです。

タスクフォース司令時代、首席補佐官だったのはアーレイ・バークでしたが、
彼の前職は駆逐艦艦長でした。

バークが人事長などの役割より現場の戦闘指揮官を好んでいた話は有名で、
駆逐艦が燃料を補給するため空母に横付けしている現場に
バークとともに立ち会ったミッチャーは
近くの海兵隊員にこういったそうです。

「その駆逐艦が追い払われるまでバーク大尉を確保しておきたまえ」

ただしミッチャーは、水上艦出身のバークが参謀になったことを
決してよくは思っていなかったという話もあります。
空母のことは飛行機屋にしわからん!という信念を持っていたのかもしれません。


その後ミッチャーは司令としてパラオ、フィリピン、硫黄島、沖縄を転戦しますが、
この間彼を心から悩ませたのは日本軍の特攻の洗礼でした。

1945年5月11日には、旗艦「バンカーヒル」に零戦の突入があり、このため
乗員の半数が死傷、彼は旗艦を「エンタープライズ」に替えましたが、その後
またしても特攻機の突入を許し、ミッチャーはウルシーの長距離特攻を受けて
損傷した「ランドルフ」に乗り換えることになりました。

夜昼24時間問わずやってくるこの攻撃によってタスクフォースの乗員の精神は
限界に達するまでに消耗し、ニミッツもこのことを重く見ていたのは有名です。


【戦後 海軍航空を死守】

対日戦は勝利しましたが、軍事費は大幅に削減されることになり、
ここに軍の必要性をめぐって政治的駆け引きが勃発しました。

つまり、陸軍航空の擁護者たちの主張というのは、
原子爆弾の開発により、戦略爆撃機が今や提供できる壊滅的な破壊力が
国家を守ることを可能にするなら陸軍や海軍そのものは要らない、
という極論に近いものだったのですが、ミッチャーはこれに対し
真っ向から反対して海軍航空の断固たる擁護者であり続けました。

彼の声明はこのようなものです。

「日本を打ち負かしたのは空母の力である。

かの国の陸軍と海軍航空を倒したのは空母の優位性であった。

空母は我々にその本土に隣接する基地を与え、空母の力は最終的に
彼らが被った最も破壊的な空の攻撃をも可能にしたのである。

しかし空母の力が日本を打ち負かしたと言っても、それは単に
空軍が太平洋での戦いに勝ったということではない。

我々が航空と地上両面バランスの取れた統合の力の一部として
空母の力を行使したのである。

陸上に拠点をおくだけの空軍、海軍の協力のない空軍には
これらの壮挙は決して行うことはできなかったであろう」

それからすぐ、彼は海軍作戦部長への就任を打診されますが、
「その任にあらず」としてこれを辞退したため、その職には
チェスター・ニミッツが就くことになりました。

ミッチェルは1946年には海軍大将に昇進しますが、翌年2月3日、
現役のまま心臓発作のため海軍病院で死去しました。

 

続く。

 


高高度記録ブレーカー アポロ・ソウセック少将〜海軍航空のパイオニアたち

2020-06-19 | 海軍人物伝

スミソニアン博物館の「海軍航空の黄金時代」で紹介されていた
海軍航空のパイオニアたちを紹介しています。

今日は、武器としての航空機を操縦する技術を極限まで昇華させ、
限界に挑んだひとりのヒコーキ野郎についてお話ししましょう。

アポロ・ソウセック Apollo Soucek

高高度飛行記録保持者

1924年 アメリカ海軍航空士

1929年5月 普通機による高高度記録39,140フィート達成

1925年6月 水上機による新記録達成

1930年 新型水上機で43,166フィートに記録を塗り替える

1937年 「レキシントン」の第2戦闘機部隊司令官に

ソウセック(Soucek)という苗字からおわかりのように、彼は
現在のチェコ共和国の移民の息子です。
チェコ語で発音すると「ソウチェック」となりますが、英語では
「ソウセック」「スーセック」のような発音になると思われます。

彼の父親は鍛冶屋でしたが、ボヘミア(当時のオーストリア=ハンガリー)
からアメリカに来て、アメリカで子供を儲けました。
長男にアポロ、そして弟にはゼウスという気宇壮大な名前をつけましたが、
どちらの息子も海軍航空で限界に挑むという選択をし、
決して名前負けしない人生を送ったと思われます。

 

【高高度記録挑戦】

1929年5月8日。

この日、アメリカ海軍のアポロ・ソウセック中尉は、ライト・アパッチXF3W-1
連邦航空局 (FAI)の高高度世界記録を樹立しました。
ワシントンDCのNASアナコスティアから飛び立ったソウセック中尉のアパッチは
高度11,930メートルに達したという公式認定により、
この功績に対しフライング・クロス勲章を授与されました。

しかしながら、本人はこの日12.192メートルまで行った、と主張していたそうです。
というのは彼はその飛行中、大気温度-51°Cを確認したから、というのが理由です。

ちなみに彼の乗ったライト・アパッチを見てみましょう。

 

・・・・・ちょっとお待ちください。

コクピットは外にむき出しですよね?
こんな飛行機で気温マイナス五十度の吹き曝しに生身の体を晒すなんて
どんな罰ゲーム?

と思ったら、チャレンジのために特別な装備を用意していました。
せっかくの男前もだいなしです。

ちなみにこの毛皮のフライングヘルメットはスミソニアンに所蔵されています。

Lt. Apollo Soucekヘルメット

彼の着ている革のスーツは裏が毛皮になっており、本人によると
素肌に毛皮が直接触れるようにしていた(つまり下着なし?)そうで、
エスキモーの衣装から着想した特別あつらえなのだそうです。

Soucekヘルメットの背面

後ろから見たところ。

ところで彼の弟ゼウス(何度見てもすごい名前だな)もまた海軍航空士になり、
記録に挑戦した人物なのですが、アポロの高高度記録挑戦にあたって、
彼はゴーグル内の湿気が氷結するのを防ぐための電気加熱式ゴーグルを開発しています。

これらの装備一式は全て高高度に達した時の寒さに照準を合わせたので、
地上温度32℃という猛烈な暑さの中、さらに彼は

「装備の途方もない重荷の下で汗をかく」

という苦痛に耐えながら離陸しました。
ですからむしろマイナス50度の寒さには楽に耐えられた、ということですが、
この頃の飛行記録挑戦は文字通り人間の体力と耐久力の限界への挑戦でもあったのです。

寒さはともかく、よくぞ30度の気温でこの装備を身につけ、
熱中症を起こさなかったものです。
当時は飲み物を持ち込むことなどきっとできなかったでしょう。

彼は高高度記録への挑戦を2度目は水上機で行いました。
最初の実験から1ヶ月後、450馬力のプラット&ホイットニーR-1340を搭載した
アパッチの水上機バージョンで13,157 mの記録を樹立しています。

【海軍でのキャリア】

彼は海軍兵学校を卒業しています。
在学中のあだ名は「Soukem」。

兵学校時代の「Soukem」

「信頼できる男が欲しいとき、Soukemがそこにいれば、
彼はきっと何かしてくれる」

とアナポリスの仲間に言われるほど頼れる男だったようです。
兵学校では野球とサッカーを課外活動に選びました。

ところこれを作成している現在、警官によってアフリカ系アメリカ人が
逮捕の際窒息死させられたという事件をきっかけに暴動がおきているわけですが、
アメリカの黒人差別というのは公民権運動まで公的に行われていました。

軍における差別問題については、セグレゲート(分離)によって編成された
タスキーギ航空隊やバッファロー大隊について何度か触れた関係で
当ブログでも何度か扱ってきましたが、黒人部隊の指揮官育成のために
ごく稀に国策としてアフリカ系が士官学校に入学することがあっても、
その扱いは周りの学生からのものも含めて非常に微妙なものであったと聞きます。

しかしながら、彼の時代、移民の二世であってもヨーロッパの白人系ならば
普通に軍学校に入学し、周りから特別視されることもなく、(むしろ慕われて)
その後エリート中のエリートである航空士にもなれたということのようですね。

陸軍士官学校でも、アイゼンハワーブラッドレーがいた「星の降り注いだクラス」には
史上初のプエルトリコ人学生、ルイス・エステベスが在籍していました。

EstevesWP.jpgエステベス

エステベスはその後クラスで一番先に少将にまでなっています。

つまりアメリカの軍隊は(海軍でも艦艇に普通にアフリカ系がいた)
一般社会よりかなりリベラルで、特に黒人以外、ヨーロッパ系であれば特に
出世に何の支障もなかったということになります。

 

さて、ソウセックは兵学校卒業後、少尉任官しました。
最初に乗った艦はUSS「ミシシッピ」です。
そのあとペンサコーラで航空士官としての訓練を受け、海軍最初の空母
「ラングレー」にパイロットとして乗り組みました。

ラングレー

その後は偵察員として戦艦「メリーランド」、機雷敷設艦から
大西洋横断航空のための航空士の休息、給油、メンテナンスを行う
「エアクラフト・テンダー」となった「アローストック」
空母「サラトガ」、「レンジャー」、「ヨークタウン」と、
航空司令官として空母の勤務が続き、第二次世界大戦中は
戦没した「ホーネット」の飛行長でした。

サンタクルーズで日本軍の飛行機にめためたにされている「ホーネット」(-人-)

「ホーネット」沈没は、確かアメリカ軍が放棄したため、日本軍が
魚雷を打ち込んで引導を渡したと記憶するのですが、この戦いで
スーセック大佐は戦闘中の行動に対してシルバースターを授与されています。

しかし何をして授与されたのかまではわかりませんでした。

大尉時代のアポロ・ソウセック。
1932年、USS「サラトガ」にアサインされたVF-1のボーイング F4B-2前で。

スーセックの少将昇進は1947年、イギリスの駐在武官、艦隊司令を経て、
航空局長の職にあるとき心臓発作を起こし、退職希望を出した18日後、
現役の少将のまま自宅で亡くなりました。

58歳と早い死ですが、自分より先に愛妻に先立たれたことが原因だったかもしれません。

彼は死後海軍中将に昇進し、夫婦共にアーリントン国立墓地に埋葬されました。

ちなみに、ちょっと気にしている人のために、彼の2歳下の弟、
ゼウスの写真も見つけてきました。

 Zeus “Zeke, Soak 'Em” Soucek

海軍兵学校は1923年クラスで、卓越したサッカーとラクロスの選手でした。
あだ名は「ジーク(Zeke、零戦かよ)」とか兄と同じく「ソーケン」だったようです。

彼が挑戦したのはPN-12水上飛行機の滞空記録で、36時間1分の世界記録を立てました。

そして、もう一つおまけに。
アポロ、ゼウス兄弟には妹がいたことが判明。(お墓コーナーで見つけました)
この名前もすごくて、なんと

ヴィーナス(Venus Soucek)

ただし、彼女は1904年に3歳で死亡しています。(-人-)

 

続く。

 

 


兵士から提督へ プライド中将とシュルト大将〜海軍航空のパイオニアたち

2020-06-18 | 海軍人物伝

スミソニアン博物館プレゼンツ、海軍航空のパイオニアたちシリーズ、
今日はパイオニアのなかでも一水兵から提督にまで出世した
二人の軍人をご紹介しようと思います。

能力がずば抜けていれば、一兵卒から大将になることは不可能ではありません。

有名なところでは、アーサー・パーシバル
シンガポール陥落で山下奉文に投降したことで有名になった中将は、
一兵卒からの叩き上げです。

「モンテ・クリスト伯」を書いたデュマの父親である
トマ=アレクサンドル・デュマ
陸軍中将まで出世しましたが、
残念ながらこの人はナポレオンとの折り合いが悪く、軍追放されています。

我が日本陸軍には、一兵卒からのスタートではないものの、
歩兵二等軍曹で優秀だったため中途で陸士を卒業し、陸軍大将になった
武藤 信義(むとう のぶよし1868-1933)という人もいます。

しかし、日本海軍では水兵から将官になった例は寡聞にして知りません。

 

能力があれば出世ができるという点ではリヴェラルなアメリカ海軍でも
さすがに水兵から提督という例はそうたくさんないのではないかと思われます。

それを可能にしたのは、おそらく当時超特殊であった航空機操縦という技術であり、
航空黎明期の発展と開発にとって彼ら特殊技術者の存在が不可欠であったからでしょう。

洋の東西を問わず、近代の軍隊ではこのような「大出世」は、組織的にも、
状況的にも
まず不可能になってきているのではないでしょうか。

 

アルフレッド・M・プライド 
Arfred Melville Pride 1897–1988

セイラー・エアマン・アドミラル

アメリカ海軍史上水兵から提督に昇進した最初の人物

1922年 戦艦から飛行機を発艦させた最初のパイロットに

1921-1924年 空母の着艦装置アレスティングギアの開発を行う

1931年 海軍の回転翼機のパイオニアになる

Alfred M. Pride.jpeg

プライド大将がパイオニアとしてその名前を挙げられるのは、
前述の通り「初めて」の快挙を数多く上げたからですが、
それらの業績ゆえに、海軍兵学校出でも予備士官でもない一水兵から
海軍大将にまで昇進した初めての人物であり、この「初めて」が、
なによりいかに彼が優れた海軍軍人であったかを物語っています。

【水兵からのキャリア】

マサチューセッツにある名門タフツ大学で機械工学を学んだ彼は、
第一次世界大戦が起こったので海軍に入隊し、予備軍の
マシニスト・メイト(機械工)、つまりシーマンからキャリアを始めました。

しかし工学科出身であることを見込まれてすぐに飛行訓練を受けることになり、
それによって
彼は海軍の正規部隊に入隊し、一時フランスで戦争を体験します。

当時、前述のホワイティングらが中心となって進められていた
空母推進計画に、彼は航空士としての立場で参加することになり、
「ラングレー」に乗り組みそこで実験的な飛行を行った後は
空母「サラトガ」「レキシントン」の開発にも加わることになります。

そこで適材適所を勘案した(らしい)海軍によって、彼は
軍人の身分のまま
マサチューセッツ工科大学(MIT)で航空工学を学び、
その後は本格的に海軍航空と空母運用に関わっていくことになりました。

艦船での航空運用に熱意を燃やしていた当時のアメリカ海軍は、
その頃オートジャイロというヘリコプターの前身である
回転翼機を試験的に取り入れようとしていましたが、
これを操縦して空母に着陸させたのがプライドです。

1923年に成功した初のオートジャイロですが、こんなもので
空母に着艦するというのはなかなかのスリルだったのではないでしょうか。

また、彼が開発を行ったという着艦装置アレスティングギアですが、
1920年代に行われていた実験というと、カール・ノルデン
T・H・バースが開発した横索式のものでした。

カール・ノルデンって、ノルデン照準器のあの人ですよね。
大金をかけた割に大した精度にならなかったノルデン照準器ですが、
アレスティングギアはうまくいったようで何よりです。

最初のアレスティングギアは、ここでもお話ししたことがある
飛行家ユージーン・イリー「ペンシルバニア」に着艦した時のもので、
彼は結局実験のときに装置が引っかからず海に落ちそうになった機体から
飛び降りた際、首を骨折して死亡していますが、このときから
すでに9年経っており、かなりの進歩を遂げていました。

HMS「フューリアス」上の実験

ちなみにアレスティングギアの「決定版」は、1930年代以降、
イギリス海軍の司令官C・C・ミッチェル(という呼び名だった)が
設計した装置であり、この人物はカタパルトの設計も行い、
それらの功績に対してアメリカ政府から自由勲章を授けられています。

 

【第7艦隊司令】

第二次世界大戦中、プライドは空母USS「べローウッド」(CVL-24)
最初の指揮官を務めました。
「ベローウッド」にとってもそうですが、水兵から出発し、
空母の艦長になったのも間違いなく彼が初めてだったと思われます。

彼は海軍少将に昇進し、パールハーバーの第14管区の指揮官、
艦隊指揮官を歴任し、1953年から1955年までは第7艦隊司令を務めましたが、
その頃7Fの担当は中東でしたので、おそらく彼は日本には来ていません。

彼が現役中に航空運用のために書いた多くの論文は、現在、
スミソニアン国立宇宙博物館のアーカイブに保管されています。

 

 

フランク・シュルト Christian Frank Schilt 1895−1987

エアレーサー、コンバットフライヤー

1919年 海兵隊航空士になる

1921年 地形技術隊写真班員になる

1925年 デトロイト新聞主催トロフィレースで2位

1926年 シュナイダーカップ・レースで2位

1928年 ニカラグア火災で救出作戦に加わり殊勲賞を受賞

Schilt CF USMC.jpg

フランク・シュルトは海兵隊の最初の飛行士の一人です。

彼もまた第一海兵隊の対潜哨戒水上機部隊に兵士として入隊しました。
これは第一次世界大戦に海外派遣されたアメリカ初の航空ユニットでした。

彼はそのまま海兵隊航空基地で訓練を受け、1919年飛行士になりました。
その後中尉の身分で海兵士官訓練学校に入学しています。

 ウェストポイント博物館の展示をご紹介した時、アメリカには当時
陸軍地形部隊なる測量と探検?を行うエリート部隊があったと書きましたが、
彼はその海兵隊版の航空写真係になり、ドミニカ共和国の海岸線を調査し、
地図を作成するという任務を行いました。

1925年カーチスF6Cホークの横のシュルト大尉

写真班の任務についている間、彼はノーフォークで開催された
シュナイダーインターナショナル水上飛行機レースで2位を獲得しました。

ちなみにこのレースの前年度の優勝者は、ジェームズ・ドゥーリトル
彼は東京空襲で有名になる前は飛行家として数々の実績を残しており、
飛行レースで幾度も優勝しています。

 

シュルトは海兵隊最初の飛行士としてだけでなく、飛行機で
人命救助を行ったことで有名です。
イラストの右上は、彼が操縦するO2Uコルセア複葉機
が、
カラグアの大火災で救出作戦を行っているところです。

災害発生時、ニカラグアのマナグアに赴任していたシュルト大尉は、
危険を冒して火災で包囲された地点と安全地域を10往復し、18名の負傷者を救出、
さらに現地に交代の指揮官と医薬品などを運びました。

と書くと簡単ですが、当時の飛行機はブレーキがなかったので、
着地すると翼を引きずって機体を止めていたのです。

加えて現地はアメリカの占領をめぐって敵対していた革命家の
サンディーノ軍に遮断されており、航空機は銃撃を受けるという危険の中、
山岳地帯で不安定な気流、覆いかぶさる雲という悪条件が重なり、
彼が無傷で10往復できたことは、

「ほとんど超人的なスキルと最高位の勇気の生んだ偉業」

であるとされました。

 
この偉業に対し、ホワイトハウスで叙勲されるシュルト大尉。
隣に立っているのはクーリッジ大統領です。

第二次世界大戦で、彼は1945年2月、ペリリュー島の島司令官でした。
ペリリューの戦いが終わって3ヶ月後のことです。

終戦後は沖縄の防衛司令部勤務にいたこともあるそうです。

彼の最終勤務地は海兵隊本部の航空局長で、
1957年に海兵隊を引退すると同時に大将に昇進しました。

海兵隊大将になったということを、英語では「フルジェネラル」と表現しています。

 

引退と同時に昇進するという話は自衛隊でもあるようですが、
それは名誉的な意味だけでなく、退職後の緒待遇にも関係してくるので
昇進を受ける側にとっては二重に喜ばしいことなのだそうですね。

 

 

続く。

 


「海軍空母の父 」ケネス・ホワイティング大佐〜海軍航空のパイオニアたち

2020-06-16 | 海軍人物伝

スミソニアン博物館展示に沿って、「海軍航空の黄金時代」というテーマで
話を始めたわけですが、
ここまで進んできても、何を持ってこのころが
「黄金時代」だったのか、正直
いまいちわからないわたしです。

 

そもそも「黄金時代」の言葉のルーツはギリシャ神話であり、ヘシオドスによると、
かつてクロノスが神々を支配し、人間が神とともに生きていた時代のこと。

その世界は調和と平和に溢れ、争いも犯罪も起こらず、(まあ隣に神様がいればね?)
あらゆる産物が自動的に生成され、働く必要もなく(金持ち喧嘩せずの論理)
人々は不老長寿で安らかに死を迎えたというのです。

スミソニアンの定義する「黄金時代」はいつかというと、1930年代まで。
つまり
飛行機というものができてすぐに世界大戦が始まり、
その必要から起こったヨーロッパでの技術革新を受けて

アメリカも後続ながらその潮流に身を投じると同時に、
繁栄に向かって
官民一体で突き進んでいった頃にあたります。

英独のように黎明期の技術を世界大戦である意味疲弊させることなく、
(イギリスでは第一次大戦が終わるや否や飛行機廃止論が席巻し、
負けたドイツは言わんもがな)アメリカの航空は、いわば
人間が神々と
無邪気に暮らすかのような幸福な時期を過ごしたという意味で、
スミソニアンは「黄金時代」と名付けたということなのかもしれません。

ちなみにギリシャ神話では、クロノスに取って代わったゼウスは
白銀時代と呼ばれる次世代の人間を滅ぼしてしまいます。(おいおい)

続く青銅時代神話の英雄が活躍する英雄の時代、さらに鉄の時代となるにつれ
人間は堕落し、世の中には争いが絶えなくなったというのですが、
スミソニアン的には現代の航空機の世界は何の時代に当たるのでしょうか。

 

さて、今日はそんな海軍航空の黄金時代に基礎を築いた
海軍軍人であり飛行家でもある人々を紹介していこうと思います。

うむ、ある意味これは「英雄の時代」でもあったってことかな。

 

さて、最初は冒頭にあげたスミソニアンの似顔絵の人物です。

ケネス・ホワイティング大佐
Cap. Kenneth Whiting 1881-1943

航空母艦開発のパイオニア

Kenneth Whiting - Wikipedia

1914年 オーヴォル・ライトに操縦を学び、海軍航空士に

1918年 ヨーロッパの海軍航空基地司令に

1922年 海軍初の空母「ラングレー」の副長に就任

以降、「レキシントン」「サラトガ」の設計にも参画する

 

彼をして人に「アメリカ海軍空母の父」と呼ばしめることもあります。

最初の6隻の米海軍空母の5隻の設計または建設に何らかの形で関与し、
米海軍に就役した最初の空母「ラングレー」の指揮官代理、そして
最初の2隻の米空母の副長を務めているからです。

米海軍における空母力の開発期、彼は多くの点で革新に導き、
それは今日の空母にも生きているのです。

【潜水艦】

海軍での彼のキャリアは潜水艦から始まりました。

この頃からアイデアマン?だったホワイティングは、乗っていた潜水艦
「ポーポイズ」が6メートルの海底にいるとき、常日頃から考えていた

「潜水艦の魚雷発射管から乗員は脱出することができる」

という仮説を証明するため、皆に宣言して自ら実験しています。

「ポーポイズ」はすぐに浮上して彼を回収し、実験は結果的に成功しましたが、
どういうわけかホワイティングは事後そのことを公言したがらず、
代わりに部下の中尉が「実験の結果」として上にこれを報告しています。

ちなみに海中に出てから浮き上がるまでの時間は77秒だったそうなので、
成功したとはいえ、彼は脱出中あまりの苦しさに、

「こらあかんわ」

と自分の中では失敗認定していたのかもしれません。知らんけど。

 

【海軍航空】

最初に空を飛んだ海軍士官として当ブログで紹介した
セオドア・スパッズ・エリソンもまた潜水艦勤務で、彼の友人でした。

実は海軍が飛行機を取り入れることになり、少数の士官に
グレン・カーティスが航空操縦法を伝授することがきまったとき、
最初に手をあげたのはホワイティングでした。

彼は仲が良かったエリソンに

「一緒にやらないか」

と誘ったのですが、どういうわけかホワイティングは採用されず、
エリソンが結局海軍航空士官第一号になってしまったのでした。

悔し涙にかきくれながら(知らんけど)潜水艦勤務をしていたホワイティングに
今度はオーヴィル・ライトが生徒を取るという話がやってきます。

今度は誰にも言わずに(たぶん)そのチャンスをモノにし、結果的に
ライトの最後の海軍将校の弟子となったホワイティングは、
1914年に海軍飛行士第16号に指定されることになりました。

その後フロリダ州のペンサコーラ勤務となったホワイティングは、
ヘンリー・マスティンと一緒に水上飛行機の設計の特許を取っています。

マスティンは現在横須賀にいる駆逐艦に名前を残した軍人です。

 

【空母を提唱】

 彼は1917年の段階でカタパルトとフライトデッキを備えた船の取得を
国務長官に提訴しますが、その提案はあっさり却下されました。

第一次世界大戦後にアメリカ合衆国に戻ったホワイティングは、
海軍作戦局の航空部門に配属され、マスティンら海軍飛行士とともに
空母の必要性について認めさせる計画を推し進め、USS「ジュピター」
空母に改造するプランをついに認めさせました。

「ジュピター」は改装され、アメリカ海軍最初の空母「ラングレー」になりました。

 

1919年には、戦艦「テキサス」から発進した航空機がターゲットを発見し、
正確に攻撃するという実験を成功させ、艦砲よりも精度の高い攻撃砲であるとして、
その後海軍がすべての戦艦と巡洋艦に水上飛行機を搭載させることに成功しています。

新しく設立された航空局に転勤したホワイティングはさらに空母計画を推進しました。

 1922年1月、彼はこう言っています。

「ラングレーは海軍にとって実験用の空母となるでしょう。
決して完璧ではありませんが、必要な実験には十分に役立ちます。

第一次世界大戦のせいで海軍は空中戦術や航空機の開発ばかりを行い、
対潜戦に焦点を当てて全くこの部分に手を付けませんでした。

空母運用は成功するでしょうし、将来の海軍にとって
絶対に必要なものであることを、わたしの心は少しも疑っておりません。

わたしたちは議会に『適切な設計をされた空母』を求めていますが、
おそらく
それを作るのに3年から4年かかるでしょう。

議会はそのチャンスをくれるでしょうか」

ホワイティングが望んだ「適切に設計された」空母は、
この発言の5年後、

USS「サラトガ」(CV-3) そしてUSS「レキシントン」(CV-2)

として就役することになります。

【ラングレー】

ホワイティングは1922年「ラングレー」の初代副長に就任しました。
同時に最初の指揮官として米海軍空母を指揮する最初の人物となったのです。

ただし「ラングレー」は戦闘艦隊に加わることはできず、その存在目的は
空母作戦の基礎を打ち立てる『実験室』として機能することでした。

ヴォートVE-7を操縦したバージル・C・グリフィン中尉は1922年10月17日、
アメリカの空母から史上初の発艦を行い、

America's First Aircraft Carrier – USS Langley (CV 1) #Warfighting ...その瞬間

ゴッドフリー・シェバリエ大尉が1922年10月26日に
最初の着艦をエアロマリン39Bで行いました。

その瞬間

LCDR Godfrey Chevalier.jpgシュバリエ中尉

そして1922年11月18日、彼ホワイティング自身が操縦する航空機が
世界で初めて空母上からカタパルト発射されました。
使用された飛行機は
Naval Aircraft Factory PTでした。

ホワイティングは「ラングレーツァー」の期間中、空母航空の
多くの基本的なポリシーを確立したとされています。

「ラングレー」にパイロットのためのレディルーム
(控え室、ブリーフィングルームとも)を設置しました。

着艦を評価・支援するために手動のムービーカメラで撮影し、
艦内に備えた暗室と写真ラボで艦上でそれが観られるようにしました。

当時まだ「ラングレー」には着艦を誘導する信号システムがなかったため、
ホワイティングは自分が飛行しない時には、飛行甲板の左舷後部の隅から
すべての着陸を観察していました。

これは、パイロットが機体が着艦のためにアプローチしてきたとき、
ホワイティングの姿が見えればそれは期待の姿勢が下向きすぎで
つまり危険であるという合図にもなります。

ホワイティングはその際 ボディランゲージで合図を送っていましたが、
ベテランパイロットが、その信号を送る専門の係を置くことを提案し、
 " 着陸信号士 landing signal officer "  "landing safety officer" (LSO)
が生まれることになります。

 LSOのコンセプトは、進化し高度な形で今日も空母で使われています。

 ホワイティングはまた、空母指揮官はパイロット資格を有すること
という条件を海軍に決定させるにあたって、多大な影響を与えました。

 

【その後】

1927年にホワイティングは米海軍2番目の空母、USS サラトガ (CV-3)
の建造を監督し、初代
副長として1929年5月までその勤務を続け、
そして1929年、初めて艦長に就任することになりました。

その後、ノーフォーク海軍航空基地司令を経て、1933年6月15日に指揮官として
古巣のUSS 「ラングレー」、空母USS「 レンジャー 」(CV-4)
 勤務後、
USS 「ヨークタウン 」(CV-5)USS 「エンタープライズ」 (CV-6)の計画策定を支援。

そして1934年6月、彼は再びUSS 「サラトガ」に戻り、指揮官を務めました。

その後地上勤務に回りましたが、最後まで現役でいたかったらしいホワイティングは、
1940年6月30日に58歳で退職リストに載せられても現役勤務を続けました。

(当時のアメリカ海軍ではやめたくなければ続けてもよかったんでしょうか)

第二次世界大戦が始まった時にはニューヨークの航空基地の司令でしたが、
肺炎に苦しみ、現役のまま心臓発作で亡くなりました。

彼の遺灰は遺言により、コネチカット州のロングアイランドサウンドの海に撒かれました。

 

彼の名前は、海軍航空基地ホワイティングフィールド、そして水上機母艦
USS「ケネス・ホワイティング(AV-14)」に残されました。

ホワイティングフィールドにある銘板にはこのように記されています。

ホワイティング・フィールドは、ケネス・ホワイティング大佐を
記念してその名前を受け継ぐものである。

彼はアメリカ海軍軍人であり、潜水艦と航空のパイオニアであり、
海軍航空士第16号であり、我々海軍の『空母の父』であり、
1943年4月24日、現役のままで死んだ。

 

続く。

 

 


英雄フォン・トラップ少佐とトラップ家亡命の真実〜ザルツブルグを歩く

2019-08-13 | 海軍人物伝

さて、ザルツブルグの旅行記をお送りしていたつもりが意外なところで海軍軍人、
しかも潜水艦艦長の軍歴について紹介するという、当ブログ本来の
役目?を思いっきり果たすことができて大変嬉しく思っております。

さて、本編の主人公、トラップ少佐についてですが、正式な名前は

Baron Georg Johannes Ludwig Ritter von Trapp
バロン・ゲオルク・ヨハンネス・ルードヴィヒ・リッター・フォン・トラップ

です。
バロン(男爵)およびリッター(騎士号)を叙任されたため、名前にフォンがつきます。

騎士号は一般的に貴族階級のように生まれ持って家が相続しているものではなく、
例えば戦功を挙げた武人に授けられる勲章のような称号で、その場合は
「フォン」も一代限りとなるのかと思っていたのですが、たとえばトラップ家の
子供達も、男女全員が「フォン・トラップ」名を相続しています。

指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンの父親は騎士でしたが、もともと
カラヤン家は17世紀から貴族に叙せられていました。

さて、フォン・トラップ中尉は第一次世界大戦勃発後初めて
二度目となる潜水艦艦長職に就くことになりました。

 

1915年(35歳)潜水艦U-5の艦長拝命

SMU-5 Erprobung.jpg

前回艦長だったU-6もそうでしたが、このU-5も、進水の儀式は
彼の妻となるアガーテ・ホワイトヘッドが行なった潜水艦でした。

彼女は彼女は魚雷を発明したホワイトヘッドの孫で、妙齢の独身女性だったため、
新造艦進水式にこの頃引っ張りだこだったのではないかと思われます。

冒頭画像は、U-5の艦橋にいるフォン・トラップ艦長。

サブマリナー、フォン・トラップの本領発揮はこの艦長になって以降です。
年表にはありませんが、この頃もう彼は大尉に任じられていたと思われます。

まず、4月27日、オトラント海峡で、澳=洪海軍をアドリア海に封じ込める
作戦に従事していたフランス海軍の装甲巡洋艦「レオン・ガンベッタ」に、
フォン・トラップ艦長のU-5が、二発の雷撃を行いました。


レオン・ガンベッタ

雷撃された時、地中海において潜水艦の脅威が増大していたにもかかわらず、
「レオン・ガンベッタ」は護衛を伴っていなかったといわれます。

二発の雷撃で「レオン・ガンベッタ」は10分で沈没し、乗っていた821名中
ヴィクトワール・セネ少将を含む684名が死亡し、生存者は137名でした。

同じU-5で、トラップ少佐はこの年、イタリアの潜水艦「ネレイデ」も撃沈しています。

Regia Marina Nereide.jpgネレイデ

澳=洪海軍は偵察機によりイタリアの潜水艦「ネレイデ」の存在を確認し、
ゲオルク・フォン・トラップ艦長の潜水艦U-5が急遽派遣されました。

「ネレイデ」が浮上して停泊していた沖にトラップ艦長のU-5が沖に浮上すると、
まず「ネレイデ」は魚雷発射し、これを外したため潜水を試みました。
U-5は潜水中の「ネレイデ」に魚雷1本を発射し命中。
ネレイデは全乗員とともに沈没しています。

1916年(36歳)U14艦長就任

 An Austro-Hungarian wartime postcard of the submarine in Austro-Hungarian Navy service as SM U-14.U-14

前艦長の病気でU-14の艦長に就任したのがフォン・トラップでした。
彼が艦長になってから、U-14は爆雷を受けていますが、損害箇所の修理とともに

近代化を施したU-14を、再びトラップ艦長が指揮し、
世界最大の貨物線ミラッツォなど、11隻の撃沈記録を打ち立てます。

U-14はその後、艦長が二人交代しましたが、この二人をもってしても
トラップ艦長の戦績を超えることはできなかったということです。

U-14の、全てフォン・トラップ艦長の指揮による戦果をあげておきます。
これらの戦果は全て撃沈で、撃破はありません。

Vessels sunk while in command of U-14
DateVesselNationality 
28 April 1917 Teakwood  United Kingdom  
3 May 1917 Antonio Sciesa  Kingdom of Italy  
5 July 1917 Marionga Goulandris  Greede  
23 August 1917 Constance  France  
24 August 1917 Kilwinning  United kingdom  
26 August 1917 Titian

 United kingdom

 
28 August 1917 Nairn  United kingdom  
29 August 1917 Milazzo  Kingdom of Italy  
18 October 1917 Good Hope  United Kingdom  
18 October 1917 Elsiston  United Kingdom  
23 October 1917 Capo Di Monte  kingdom of Italy

1918年(37歳)Uボート基地指揮官としてカッタロに転任

37歳で潜水艦隊司令というのは異例の昇進の速さだと思いますが、
トラップ艦長が打ち立てた戦果の賜物です。

潜水艦隊司令なのに少佐だったというのも、年齢が達していなかったからでしょう。

11月11日、第一次世界大戦終結

大戦中のフォン・トラップ少佐の撃沈記録は、総数12隻(45,668総トン)。

叙勲された勲章は以下の通りです。 

マリア・テレジア軍事勲章騎士十字章

レオポルト勲章騎士十字章

プロイセンの一級鉄十字章

オットー戦功章 

カール勇猛章等ドイツ領邦の勲章も受章

そして、これらの功績により、騎士に叙せられました。

 

ゲオルク・フォン・トラップ少佐は海軍の、いや国の英雄だったのです。

この軍歴と功績を踏まえた上であの映画の「トラップ大佐」を改めて見ると、
かっこいいのは外見と階級だけで、実に滑稽な演出によるカリカチュアされた
軍人像(例えば子供達に軍隊式に行進させたりとか)に当てはめて表現されており、
マリアはもちろん、子供達も、フォン・トラップ少佐の海軍の同僚も、
とにかく本人をよく知る者は一様にショックを受けたというのがよくわかります。

特に、海軍時代の少佐の部下の一人は、養老院でこの映画を初めて観て、

「フォン・トラップがコケにされているように感じ」

怒りを覚えた、とまで言っていたというのです。

しかも実際のトラップ少佐は、家庭においてはとても優しい人で、映画のような
軍隊式の厳しい教育パパとはかけ離れていたため、
妻のマリアは、
映画製作中、何度も夫の描かれ方について脚本を書き換えるよう頼みましたが、
最後までそれは聞き入れられることはありませんでした。

 

繰り返しますが、家族ならずともザルツブルグの人々は、
「サウンドオブミュージック」という映画にずっと冷淡な目を向け続けました。

アメリカ人視点で語られている併合下のオーストリアについての描き方も、
ヨーロッパの人々がこの映画に反発する大きな原因です。

自由な民主主義国家のオーストリアを虐げるために併合したナチス、
そしてフォン・トラップはそのナチスと戦う善、のような描き方は、いかにも
善悪二元論で無条件にナチスを悪者にするハリウッドならではだと思います。

オーストリア併合・アンシュルスの現実は、決してハリウッドの善悪論などで
全てが語れるような単純なものではありませんでしたし、
もっと根源的なことを言えば、フォン・トラップはオーストリア軍人で、彼自身は

「オーストリア・ファシズムの立場からナチスと権力争いをしてその結果破れた側」
(wiki)

に立っていたに過ぎず、映画に描かれていたような「自由オーストリア対ナチス」
と言う構図は全く当てはまらないといえます。
もっとわかりやすく言うと、アメリカから見たならば、ヒトラーとトラップ、
どちらも同じ穴の狢と行っては何ですが、政治的方向性は同じくしていたはずなのです。

さらに皮相的な推察をさせていただければ、当時ヒットラーは、オーストリアの英雄、
フォン・トラップ少佐を客寄せパンダ的に我が方に取り込みたかったのに対し、
トラップはオーストリア人でありながら併合と言う形で祖国を裏切ったヒットラーを嫌悪しており、
かつ隷属的な立場に降ることを拒否し、亡命を決意したという見方もできるかと思います。

 

以上のことから、我々日本人は、トラップ一家が亡命したという結果だけを見て、
アンシュルスの実態に目を向けないままハリウッドの「歴史修正」を
単純に信じ込まされてきたという見方がなりたちます。

だとしたら、あの映画が歴史音痴の日本人に与えた「悪影響」は計り知れません(笑)


蛇足ですが、イタリアで「サウンド〜」が上映されなかったのは別の理由によるものです。

海軍軍人フォン・トラップは、彼らから見ると、自国の商船を何隻も沈めた極悪人で、
しかも、当時の同盟国ドイツに対し自由のために戦うという「善」として
英雄のように描かれているのが許せない!というのがイタリア人の見方だそうです。


何が言いたいかというと、こんな面倒臭い案件を、独善的なストーリーで
映画にしてしまうアメリカという国を、
当事者含めヨーロッパの人々は
いかに苦々しく見ていた(見ている?)か、ということなんですね。

ヨーロッパ人に「アメリカ嫌い」が多いのも宜なるかなといったところです。


さて、ザルツブルグの通りにあった「サウンド・オブ・ミュージック」ショップですが、
つまり当時を知る人がいなくなって、観光客向け(しかも、あの映画のおかげで
『聖地巡礼』に訪れる日本人は昔から多いとか)に稼ごうと考える
商売人も現れている今日この頃、ということなのでしょう。

誤解がないように書いておくと、オーストリア人はハリウッド映画は無視しましたが、

西ドイツではこの映画の9年前、トラップ一家の物語を題材とした映画『菩提樹』、
『続・菩提樹』が制作されており、ドイツ語圏でのハリウッド映画の不評とは対照的に
『菩提樹』は「1950年代で最も成功したドイツ映画のひとつ」とも言われている (wiki)

ということなので、トラップ一家が嫌われているというわけでは決してありません。


それより、当ブログ的に最後に触れておきたいのが、K.u.K
オーストリア=ハンガリー海軍の消滅です。

もともと海のない国に生まれた海軍でしたが、第一次世界大戦に敗戦し、
1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、海軍の艦艇や軍人は
分裂した諸国や戦勝国へ分割されてしまい、消滅することになりました。

「一度消滅した海軍が復活した例は日本だけ」

と云われるように、オーストリアには以降海軍と名のつく組織はありません。

フォン・トラップ少佐が、それ以降の長い人生で、特にアメリカに亡命した後も、
海軍時代のことはもちろん亡命についても一言も語らなかったことが、
彼の深い悲しみと海軍消滅がその人生に落とした影を物語っているような気がします。

続く。

 

 


堀内豊秋大佐の肖像〜海上自衛隊 第一術科学校 教育参考館展示

2019-04-16 | 海軍人物伝

教育参考館の展示であと一つだけお話ししたいことがありますが、
その前に、この度の見学で見た賜餐館の写真をご紹介しておきます。

賜参館は、あくまでわたしが調べたところによるとですが、
昭和11年のご行幸(前回ご行啓と書いてしまいましたが、天皇陛下お一人だったようです)
の際の兵学校ご訪問の際、ご休憩を賜るために建てられました。

入り口に置かれた自衛隊の錨のマーク入りマット・・・欲しい。

国会図書館まで行ったとき見つけてきた資料を再掲します。


現在の写真と比べていただくと、昔は奥の壁の向こうに部屋があったらしく、
(もしかしたら控え室、あるいはちょっとしたキッチンがあったのかも)
扉があり、床は絨毯引きになっています。

天井はおそらく昔はシャンデリアの類が下がっていたらしいブラケットの
取り付け場所がありますが、自衛隊に所有が移ってから全部取り外し
無粋な蛍光灯に取り替えてしまったのだと思われます。

現在は元の雰囲気に戻されているようですが、蛍光灯は残されています。

おそらくこれはできた時のままだと思われます。
木製の窓に腰板。
ご行幸の際には前面に天鵞絨のカーテンが掛けられていたのではないでしょうか。

現在の賜餐館の状態と比べていただきたいのがここです。
陛下をお迎えするために造られたことを表すのがこの部分。
大講堂にも見られる、菊の紋を逆に彫り込んだ「玉座仕様」です。

陛下はこの前に設えられた椅子にお座りになり、
休憩、もしかしたら午餐を召し上がられたのかもしれません。

 

さて、教育参考館で一つだけ、皆があまり注目しない展示について
今日はお話ししたいと思います。

 

💮 堀内豊秋大佐の肖像画

 

教育参考館の第二展示室、主に昭和の軍人についての資料が並んでいるコーナーに、
メナド攻撃を行った海軍落下傘部隊の司令官であり、
デンマーク体操かをアレンジした海軍体操の生みの親だった堀内豊秋が、
落下傘を背負い、ヘルメットをかぶってこちらを見ている絵があります。

大きさは縦1.2メートル、横70センチくらい。
メナド降下作戦でカラビラン飛行場に降り立った堀内隊長の姿です。

ネットには一切上がってこないこの大きな油絵に描かれた堀内大佐は、
この写真にもうかがえる実に飄々とした表情で、軍人の肖像にしては
あまりに生き生きとした闊達な印象なのがいつも目を引きます。


前にも書いたのですが、この絵の作者はバリ在住だった画家で、
オーストラリアはウィーン生まれの

ローランド・ストラッセル(シュトラッサー)

であったことがわかっています。

ストラッセルはわかっているところによると1885年生まれ。
第一次世界大戦中は戦争画家として地位を確立しています。

Roland Strasser 

このハフポストの自画像には、堀内大佐の表情に通じるものがあります。
ストラッセルは絵のためにアジアなどを旅行し作品を残している画家で、
検索すれば日本で描いた歌舞伎や着物の女性の絵も見つかります。

ところで!

この記事によると確かにメナド攻撃のあった1942年、彼はバリにいたようですが、
わたしたちにとってはちょっと看過できない内容なので翻訳しておきます。

彼の代表作のほとんどはバリで製作されたものであり、
それは彼にとって
魅力的な場所だったのだろうと思われる。

彼と妻は1942年初頭から1945年末までは
日本軍の占領から逃げるため、

ずっとバリの住居に隔離されていた。
およそ4年間の間彼らは他の白人を見たことがなかったが、
1945年になって
日本が降伏し、AP通信の特派員に発見された。

 

日本軍から逃れるために終戦までの4年間、隠れ家生活をしていた?
バリで?

お断りしておきますが、メナド(現在はマナドとなっている)とバリは
別の島であり、現在でも飛行機で2時間20分の距離なのです。

しかも、堀内大佐がインドネシアにいた時期はたった3ヶ月。

それではここにある堀内大佐の絵はいつどこで描かれたものなのでしょうか。
そのことについて検証する前に、堀内大佐について書いておきます。


オランダ軍が、自分たちをインドネシアから追い出した日本軍に恨みを持ち、
報復のためにほとんど形だけの裁判で「残虐行為の責任」を堀内に負わせ、
処刑にしようとしたとき、住民は堀内司令の助命嘆願をしたといわれます。

それは占領下で堀内大佐、しいては日本軍がいかに善政を布いていたかの証明であり、
かつてここを支配していたオランダ人への住民の強い反発の表れだったと言えましょう。

日本軍が侵攻しこの地を統治して司令として任に当たった堀内大佐は、
まずオランダ軍に徴兵されていたインドネシア兵を解放し、故郷に戻らせました。

その後彼らは、あらためて日本軍に仕えるために戻ってきたのでした。
各々が故郷からの土産を携えて。

インドネシアで日本軍が歓迎されたのは堀内一人の人徳によるものではありませんが、
彼が指揮官として、そして人間としていかに公明正大に振る舞い、
戦争下の現地人にも慕われたかを表すエピソードです。

しかもそれはインドネシアだけではなく、日中戦争の間、全く同じことが
中国でも起こりました。

 

盧溝橋事件を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、
局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、
抗日運動を活発化させました。

あの南京攻略から5ヶ月後、福建省厦門を占領した海軍第五艦隊の
陸戦隊司令だった堀内少佐(当時)が当地に赴任して行ったのは
荒廃した地域の復興、公正な裁判の実地、治安回復でした。

すっかり堀内に信頼を寄せた住民は、任期がきて彼が転勤することを知ると、
現地最高司令官に

「堀内少佐を留任させてほしい」

という嘆願書を提出するという異例の事態が起こりました。
その嘆願書の実物が、この堀内の肖像画の近くに展示されています。

筆跡も麗しい中国語のその嘆願書にはこんなことが書かれていました。
(本文を一部省略して掲載します)

 

かつてこの地は蒋介石政権による、明確な理念もなく、
ただ日本軍に抵抗するために民衆を扇動するだけの政策の影響を受け、
一家の働き手を強制的に徴兵され、献金を強要されるなど、
住民は痛ましい不幸に遭い、住処を失って郷里を離れていきました。
豊かだったこの地は廃墟と化し、とりわけ満州事変が勃発した頃は田園は荒れ果て、
家々は傾き崩れ、どこもかしこも見るに忍びない、それは酷い有様でした。

幸いなことに皇軍がこの地に上陸し、宣撫に全力を尽くしてくださったおかげで、
我々住民は産業を起こして利益を得ると同時に、初めて
それまでの弊害や住民の苦しみを取り除くことができるようになり、
日を追うごとに地方の復興も目に見えて明らかなものになり、
かつてこの地を離れていた住民も戻ってくるようになりました。

昭和14年夏に堀内部隊が本島に駐防するようになってからというもの、
産業を興して利益を得て弊害を取り除き、賞罰も分け隔てなく公正なものであり、
教育を普及し、農業を振興し、橋を改修し、道路を造り、衛生設備を整え、
すっかり荒廃しきったこの地も、ここに挙げた事柄全てにより、
ほんのわずかな期間のうちに、より豊かな地区へと変貌を遂げました。

海外在住の華僑も、家族からの近況を手紙で知る度に、故郷のこの状態は
賢明な長官の全盛のおかげなのだということを知らされております。
おかげさまをもちまして、昨年中に南洋の貿易で得た収益額、および
帰郷してきた住民の統計数は、過去10年間で最高を記録するものになりました。

しかしこのような善政良績の数々は、堀内部隊長、村松中隊長、
その他上下の士官のご一同様が住民の人心を安定させることに努力された、
その恩恵とご意向によるものであり、ご一同様が我々住民との共存共栄にご理解を示され、
我々がこんなご親切な提携や援助を頼ることができなければ、どうしてこの地が
荒廃しきった状況から復興し、日を経るにつれて豊かになっていく今日があったでしょうか。

これは文治武功(法律・制度や教育の充実により占領地域を統治する優れた武勲)
の模範というべきものであります。
「軍人頑固なること石の如し」などと申しますが、

堀内部隊長、村松中隊長、その他上下士官のご一同様が、
実によく我々住民の声に耳を傾けてくださることに感謝しております。

皆が口々に堀内部隊の労苦を厭わぬ仁政を褒め称えているのを耳にします。

これほど素晴らしい功績を挙げられた堀内大隊長ですが、
一つの部隊に長く止まることはできず、近く転勤なさるらしいと聞いております。
もしも堀内部隊長および中隊長、上下士官ご一同様に、これからも末長く
この島に駐在していただけるようにお取り計らいくだされば島民は幸福であり、
皆進んでご指導に従い、この地の様々な業務も復興することでしょう。

このような経緯から、我々は自身の良心に従って黙っていることなどできず、
物の道理も弁えぬ愚かな行いと知りつつも、あえて連盟にてこの陳情書をしたため、
ここに謹んで我々の誠の思いを述べた上、真摯に司令官閣下にお願い申し上げる次第であります。

住民一同の願いを何卒お察しいただき、今後も堀内部隊長ご一同様が本島に駐留し、
島内の治安を維持し、外敵から脅威から我々を守り、地方を防備してくださるならば、
島民全てを挙げてその指揮に従い(かつて周の召公が、甘棠ーかんとうーの木下で
民衆の声に耳を傾け、公正な善政を行ったことに感動した民衆が、
その甘棠をも大切に慈しんだという故事にあるように)心からお慕い申し上げ、
心安らかに生活し、労働を楽しみながら、東亜和平の人民となるべく努力致す所存であります。

この書をしたためるにあたり、丁寧にお願いいたしますよう心がけましたものの、
陳腐な言葉で失礼を申し上げたかもしれませんが、
ただ切に仰せをお待ち申し上げているだけではいられず、
僭越ながらこのような陳情書をお送りすることとなりました。

民国二十九年(昭和十五年)五月一日

厦門根拠地隊司令部 牧田司令官ご高覧

禾山区倉裡社誘導員 黄季通 (押印)

以下103人の連名、押印。

 

必死で健気な思いがあふれていて、読んでいて胸が痛くなるほどです。
念の為書いておくと、署名はもちろんのこと全員が中国人の名前です。

彼らが堀内を慕い、転勤してほしくないと一生懸命の思いでこの陳情書を出した、
その5ヶ月前に、現在の中国が糾弾するところの南京大虐殺が行われたことになりますが、
本当に南京で何十万の無辜の中国人を日本軍が殺戮したのなら、同じ中国人が
堀内と日本軍をこれだけ慕うというのは、あまりにも筋が通らなさすぎませんか。

 

さて、ストラッセルが描いた堀内の絵に戻りましょう。

彼が描いたのは、メナド降下作戦で地上に降り立った時の堀内の姿です。
もちろん彼はその場にいたわけではなく、その時の様子を聞き及び、
本人をモデルに想像で描き上げたのであろうことが想像されます。

おそらく画家は、日本が統治を始めてから隊長である堀内と知り合い、
大作戦を成功させた指揮官の姿を描いてみたいと思ったのでしょう。

ドイツ語のwikiがいうように、彼らが日本軍を恐れてバリに隠れていたのなら、
バリから遠いメナドにいた堀内の絵を描くということは不可能です。

それでは、悪辣な日本軍が画家を拉致でもしてきて無理やり彼に描かせたのでしょうか。

これはわたしの個人的な考えですが、ストラッセルの目を通して見た堀内には
天性の善が滲み出るような朗らかな、何にも恥じぬ明るさが見えます。
もし強制されて描いたならば、彼ほどの画家はこんな風に「敵」を描かないでしょう。

 

今回、日本語、英語、ドイツ語、どこを探しても、
ストラッセルと堀内の関係については探し出せませんでしたが、
おそらく彼は、堀内を描いたとき、インドネシアの古くからの伝説による

「白い布と共に天から降りてきて我々を苦しみから解放してくれた」

日本軍の司令官が、現地民に敬愛されていたことを知っていたはずです。

その後、彼は堀内大佐が占領軍によって処刑されたことを聞きおよび、
沈黙しつつも深い哀悼の誠を捧げたに違いありません。

 

ところで、大変気になったのですが、「堀内部隊を転勤させないでくれ」
という中国人たちの必死のお願いは結局聞き入れられたのでしょうか。

そのことを調べるため、

上原光晴著「落下傘隊長堀内海軍大佐の生涯」

を読んでみたところ、ただこのようにありました。

「住民は堀内の軍政を讃えて、昭和15年10月、「去思碑」を建てた。
この記念碑建立には、百八人の中国人が寄付金を出している。
『おれは原住民にもてるんだよ』
うれしそうに言って、堀内は持ち帰った碑文の掛け軸を妻に見せた」

つまり、嘆願書は聞き入れられず、堀内の転勤が決まったので、住民は
せめてもと彼の徳を讃える碑を建てた、と言うことになります。

戦後、兵学校出身の作家が現地にこの碑を探しにいったそうですが、
もちろんのこと新体制となった中国では、日本軍人の功を讃える碑など、
早々に処分されたと見え、見つけることはできなかったということです。

 

 

 

 

 


「ほどほど海軍人生」〜華族軍人・松平保男海軍少将

2018-02-25 | 海軍人物伝

少し前のエントリで、大尉時代の児玉源太郎と陸軍の同僚だったという
我が家の祖先の話をしたことがありますが、その後少し調べてみました。

児玉源太郎の大尉時代というとだいたい明治7(1874)年〜です。
まだそのころは「鎮台」であったのちの師団で同じ階級であったことになります。

この頃の軍人というのは軍制により士族しかなることはできませんでした。
児玉が徳山藩士の家の出であったように、祖先も土佐藩士です。

彼らが大阪鎮台にいた頃は、大村益次郎が提唱し、大村暗殺後は
山縣有朋が継承した
徴兵制による国民皆兵が始まったばかりでした。
ご存知とは思いますが、大村を暗殺したのはこの軍制改革(廃刀含む)
に不満を持つ士族の一派だったと言われています。


明治維新によって元皇族、公家、大名、明治維新時の勲功者、そして
「功をあげた軍人」にも爵位が与えられることになったため、
日清・日露戦争で功をあげたことによって叙爵された軍人が華族となりますが、
その対象はあくまでも士族の出自に限られていました。

例えば東郷平八郎海軍大将の家族東郷家、乃木希典大将の乃木家には
伯爵位が叙爵され、児玉源太郎は子爵となっています。

日清・日露戦争で華族となった陸海軍軍人は115名におよびました。

 

ところである日、明治維新当時の華族について
写真を紹介しているyoutubeを見つけました。

Last Samurai Lords and Japanese Peerage, 1860's- 大名・華族

この映像の最初のタイトルの一番左側が、今日冒頭に画像をあげた
会津松平家の12代当主松平保男(もりお)の海軍大尉時代です。

このyoutube、アニメ「エルフェンリート」のテーマソング「Lilium」が
かつて日本に存在した華族階級の映像と不思議な融合を見せ、
思わず惹きこまれて見てしまいました。

(ちなみに『リリウム』はラテン語の経文がそのまま使われているため、
アニメの内容()をおそらく全く知らない外国の教会などで
聖歌として昨今非常によく歌われていると知ってちょっと驚きました)

映像には当時の丸の内や東京駅を上空から見た写真などがあり、
大変興味深いものでしたが、それより華族の団体写真の中に軍服姿が多いのに
興味を惹かれ、「武功」が大きくモノを言ったという華族制度を
今一度調べて見る気になりました。

その何人かの軍人の中でも一際目を引いた美男の松平保男をサンプルに
今回お話ししてみようと思います。



会津松平家は江戸時代に陸奥国会津を収めた松平士の支系です。
徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を「親藩」と言いますが、
(いわゆる『御三家』も親藩からなる)松平家はその一つで、
徳川秀忠の四男が家祖となって作った家系です。

松平家はは廃藩置県になった時に子爵を叙爵され、これをもって
華族に列せられることになりました。

松平家12代当主である松平保男は1878年に生まれ、1900年(明治33年)、
海軍兵学校28期を卒業しています。

この年の兵学校卒業者は総員104名。
首席はのちに工学博士になった波多野貞夫、次席が海軍大将永野修身です。
クラスは52名ずつ二グループに分かれ、波多野候補生組(厳島)と
永野修身組(橋立)に乗り組んで練習航海を行っています。

松平の成績は86番と後ろから数えたほうが早かったのですが、最終的に
予備役入りとほぼ同時とはいえ、少将(今の海将補)にまで出世しています。

これは彼が少佐の時に家督を継ぎ、松平家の当主となると同時に
子爵となっていたことと大いに関係があると思われます。

基本優秀であれば平民でも出世できたのが海軍という組織ですが、
建軍当初の士官が全て士族であったこともあり、実際には
家柄というのが出世の大きなファクターであったのも事実なのでしょう。


さて、それでは海軍での松平保男の経歴についてです。

1902(明治35)年 24歳  海軍少尉任官

  横須賀水雷団第一水雷艇付

1905(明治38)年 27歳 海軍大尉

  日露戦争に「鎮遠」分隊長として参加

  防護巡洋艦「明石」砲術長

  戦艦「河内」砲術長心得

1910年(明治43年)34歳  海軍少佐

1916年(大正5年)40歳 海軍中佐

   戦艦「山城」副長

1920年(大正9年)44歳 海軍大佐

   戦艦「伊吹」艦長、「摂津」艦長」
   
   呉鎮守府付(簡易点呼執行官)

     横須賀海兵団長  

1925年 (大正14年12月1日)49歳 海軍少将

    (大正14年12月15日)予備役編入

 

「鎮遠」はドイツ製で、日清戦争では「勇敢なる水兵」の乗っていた
「松島」に損害を与え、勇敢な水兵三浦虎次郎三等水兵は戦死したわけですが、
その後鹵獲されて戦利艦として海軍が使用していました。

鎮遠」が日本海海戦に参加したのは実は1904年なので、松平が大尉として
「鎮遠」に乗って参加したのは日本海海戦ではなかったはずです。

youtubeにはこの写真も出ていたのでご覧になったと思いますが、
真ん中が保男、左側が兄であり養父である?松平容大(かたはる)
右も兄の(のちに養子となって山田)英夫です。

兄、容大は11代会津松平家の当主、つまり保男の前の当主です。
保男と同じく容大は先代の側室の子供、英夫もおそらくそうでしょう。

側室が産んだ三兄弟が陸、陸、海の軍人となり、記念写真に収まっているという図です。

英夫は陸軍士官学校を出て歩兵少尉に任官後、日露戦争にも出征しており、
乃木大将の副官を務めたこともあります。
歩兵中佐で予備役に編入され、そのあとは貴族院の伯爵議員となりました。

ちなみに彼の息子も陸軍軍人になりましたが、インパール作戦で戦死しています。

 

長男の容大は少し複雑で、幼い時から御家再興の期待をかけられすぎたせいか、
これに反抗して大変な問題児になってしまいました。

校則違反で学習院を退学、同志社英学校に入るも、ここでも問題を起こし、
最終的に東京専門学校(今の早稲田)をようやく卒業する事ができました。

卒業した明治26年、志願兵として陸軍に入り、日清戦争に参加。
軍人が彼の水に合ったのか、その後大尉まで昇進してから予備役に入りました。

この写真が撮られたのは袖章から見て保男が中尉時代のことですが、
スタートラインがこのように遅かった兄容大は、9歳年下の弟と同じ
中尉であった可能性があります。


容大はこの6年後の1910年、予備役に編入され、貴族院議員を務めていた
40歳の時に(おそらく病気で)逝去してしまいますが、
彼に子供がなかったことから、
その子爵位を保男が継ぐことになりました。

ここで驚くのが、容大の死後、弟の保男は弟でありながら
容大の「養子」つまり息子になったということです。

これも当時の華族が家督を継ぐための手続きです。

保男の妻は沼津藩主水野家の娘です。
この時代の結婚は好きも嫌いもなく、家同士のものでした。

ところでこの写真、保男と女性が二人写っていますが、どういう関係だと思います?
妻とその姉妹?それとも子供の乳母かなんか?

驚くなかれこれ、どちらも「夫人」なんですよ。
どこにもそう書いていないけど、そう想像するしかないのです。

記録に残る保男の子供は全部で七人。
上から5番目までが全員女の子です。
そしてその下に次代当主である初めての男の子が生まれ、末の子も男。

両方の女性が「夫人」となっていることから考えて、
女の子が五人生まれたところで保男は世継ぎを得るために
側室を娶ったと考えるのが順当でしょう。

つまりこの写真は保男と正妻と側室共が、彼女らの子供を一人ずつ抱いて、
最初の男の子の誕生日に写したものではないかとわたしは思います。


側室制度というのは今現在女性蔑視、人権侵害ということになるわけですが、
当時は華族典範によって、

爵位は華族となった家の戸主、しかも男性のみが襲位する

と決められており、女系は認められていなかったため、
正妻との間に子供が生まれない、もしくは女の子しか生まれなければ、
華族男性は世継を産むための側室を持つか、養子を取るしかなかったのです。

 

しかし、この写真を見る限り、松平当主、実に慈愛深く?家族を、
というか正室側室二人の妻を見守っている感じですね。
どちらも妻として大事におもっているよ、みたいな・・・。

男前だからそんな風に見えてしまうってのもありかと思いますが。

もちろん女性二人の間には色々とあったのだと思いますが、
当時の華族に嫁入りした女性の、これも運命だと受け入れたのでしょう。

しかしこれって戦前の海軍には、側室を持つ軍人がいたってことなのか・・・。

 

しかもこれだけではありません。

保男には写真に写っていない松平恒雄という兄がいました。
その兄は彼とは母親の違う、つまり父親の別の側室の子供です。

保男は異母兄の長女と秩父宮雍仁親王との間に結婚の話が出た時、
平民である兄の家からは皇族に嫁入りすることは出来ないということで、
異母兄の娘を養女にし、
松平当主家の娘として皇室に嫁がせているのです。

いやー・・・。(絶句)

この時代ってほとんどウルトラCな操作で血筋を維持していたってことですよね。
養女はともかく側室が許されなくなった現代の世に、天皇家の存続の危機が
懸念され叫ばれるのも、こういうのを見ると当然のような気もします。

 

晩年の松平保男の軍服姿。

この「ザ・権威」の塊のようなお姿をご覧ください。

その軍歴の中で、松平は

軍令部出仕兼軍事参議官・上村彦之丞附

皇族付武官(伏見宮博恭王付)兼軍令部出仕

という、華族ならではの後者の任務もこなしています。


一言で言って彼は、日清・日露戦争に尉官で参加し、無事に軍での任務をこなし、
予備役編入2週間前に海軍少将になるという順風満帆な軍人生活を遂げた、
良き時代の幸運な帝国海軍軍人だったという気がします。

言ってはなんですが、海軍兵学校時代のハンモックナンバーが
さほど優秀でなかったということもそれに寄与しました。

早めに予備役に入ったその後は定石通り貴族院子爵議員となり、
会津出身で構成される県人会、
「会津会」の総裁、同じく
会津の軍人で構成される「稚松会」の総裁を兼務、と
名誉職一筋。

同じ学年の永野修身が、これもこんな言い方をするとなんですが、
なまじどっぷりと優秀で、海軍大将にまでなったせいで
敗戦の責任を問われ、
極東軍事裁判にA級戦犯(国家指導者)
として出廷することになったのを考えると、
いかに松平の血筋を後ろ盾にした

「ほどほど海軍人生」

がある意味イージーモードであったかということです。
本人がそういう人生に満足していれば、さらにいうことはありません。

名誉職まみれの?晩年を過ごし、さらには壮健だった松平家12代当主、
子爵松平保男海軍少将が逝去したのは1944年1月19日のことでした。
発病してまもなくの、急逝とも言える最後だったそうです。

 

葬儀委員長は同期生の永野修身海軍大将、
やはり同期だった左近司政三中将が葬儀委員を務めました。

神道である松平保男の死後の霊号は「海誠霊神」

最後の最後まで彼の何が幸運だったといって、それは祖国と海軍の敗戦を
その目で見ることなくこの世を去ったことに尽きるのではないでしょうか。

 

 


アメリカ海軍サブマリナーの肖像 その2

2017-06-21 | 海軍人物伝

コネチカット州グロトンにあるサブマリンミュージアム。
かつて叙勲されたサブマリナーの顕彰コーナーで見た
サブマリナーをご紹介しています。


冒頭にあげる絵を描くのに、各個人の写真を検索するのですが、
最もご本人がかっこよく見える写真を選ぶと、
海軍兵学校時代の写真や若い時の写真になってしまいます。

というわけで、イケメンだった若い頃の画像になってしまった

 

ユージーン・B・フラッキー
Eugene Bennett Fluckey

「ラッキー・フラッキー」

フラッキーというのは「ラッキー」を含む縁起のいい名前ですが、
実際にも彼は「ラッキー・フラッキー」と呼ばれていました。

上の「メダルオブオナーギャラリー」の中央に掲げられたのは
彼が艦長だった潜水艦「バーブ」の対日戦「戦果」です。 

93歳まで長生きしたことだけでもかなりラッキーな人生だったようですが、
それよりアメリカ海軍的には、フラッキーが潜水艦長として
その撃沈した敵船舶(つまり日本の船ということになりますが)
の総トン数が歴代一位ということがそのあだ名の由来のようです。

日本軍では撃沈の統計を取りその順番をつける、
という習慣がないのですが、 アメリカでは潜水艦でもこのように
トン数、隻数でランクをつけため、戦果を水増しするために
ありえない名前の日本駆逐艦をでっち上げる事例も起こりました。

ただでさえ確認が不正確になるので、戦時中の成績と戦後の
双方の資料で検証した実数が違ってくるのは当然のこととなります。 

フラッキーの撃沈した総トン数は

16 ⅓ 隻(4位) 95,360トン(1位)

なのですが、戦時中は

25 隻 179,700トン

となっていました。
ちょっとこれ・・・あまりに違いすぎません?
どちらも二倍とは言わんが、それくらい水増しされているではないの。

ちなみに総撃沈隻数で1位とされているのは前回紹介したリチャード・オケインで、

24隻  93,824トン

こちらも1980年に再調査されるまでは31隻、227,000トンとされていました。


ところで、フラッキーが総トン数で1位になった理由というのは
ちょっと考えてもわかりますが、撃沈した船が大きかったからです。

フラッキーが艦長を務めた潜水艦「バーブ」は5回の哨戒で
数多くの輸送船を撃沈しましたが、大型タンカーを含み、
空母「雲鷹」がその中に含まれていました。

1944年9月17日、船団を護衛してシンガポールを出発、
台湾に向かう「雲鷹」に「バーブ」は艦尾発射管より魚雷を発射、
艦中央部と艦後部に命中しました。

雲鷹の生存者約760名は護衛艦に救助されましたが、乗組員約750名、
便乗者約1000名のうち推定900名が戦死。
艦橋にいた艦長や副長は脱出したものの艦長は行方不明となりました。

 

フラッキーは「バーブ」を指揮して樺太で上陸作戦も行なっています。
1945年7月22日、乗組員で上陸部隊を編成し樺太東線に爆薬を仕掛けて
16両編成の列車を吹き飛ばしたというものです。

Silent Service S01 E26: The Final War Patrol

例の潜水艦ドキュメンタリーシリーズ「サイレントサービス」では、
18:30あたりからこの作戦について語られています。
爆薬を持ったまま転んだ隊員を皆がそろそろと引き起こす様子がリアル。 

この作戦は、第二次世界大戦中唯一の、潜水部隊による上陸作戦でした。

上陸作戦のためにフラッキー艦長は艦のあらゆる配置から志願者を募りましたが、
ボーイスカウト出身者を特に選んで編成したという話です。

なお、この番組の最後にはフラッキー(この時は大佐)本人が出演しています。

フラッキーは、名誉勲章を叙勲されていますが、上陸作戦に対してではなく、
以下のような作戦の成功に対するものでした。

 

彼の指揮するバーブは落命の可能性とアメリカ軍軍人としての
義務の限度を乗り越えて大胆かつ勇敢な攻撃を行った。

1月8日、フラッキー中佐は2時間の夜間戦闘で敵の弾薬搭載船などを撃沈したあと、
1月25日には大胆にもナンカン・チャンの港沖に集まる30隻の敵船の
真っ只中に乗り入れるという偉業を成し遂げた。
この海域を抜けるには1時間は見積もる必要があり、
また暗礁や機雷の存在も考えられたが、彼は

「戦闘配置!魚雷発射用意!」

の号令を出して(略)弾薬船は周囲をも巻き込むほどの大爆発を起こした。
バーブは高速で危険水域を抜け出し、4日後には安全水域に艦を移動させた。
英雄的な戦闘行為の締めくくりを、日本の大型貨物船撃沈で締めくくった。
アメリカ海軍はフラッキー中佐と彼の勇敢な部下に対し、
ここに最高の栄誉を与えるものである。 

 

ローソン・パターソン・ラメージ
Lawson Patterson Ramege

「隻眼のサブマリナー”レッド”」


ラメージはアナポリス1931年組、同期にはマケインがいます。
赤毛の人がほとんどそう呼ばれるように、彼のあだ名も
「レッド」であったと言います。

赤毛が喧嘩っ早いというイメージは確かにあるような気がしますが、
ラメージはイメージ通りだったようで、アナポリス時代、
喧嘩が原因で(どんだけ派手にやったのか・・)右目を傷つけ、
そのため極端に視力が落ちてしまいました。

片目だけの視力でまず失われるのは距離感だといわれます。
飛行機はもちろん、潜望鏡で外界を確認する潜水艦でも
視力が悪いのは大きなハンディとなるのですが、運の悪いことに
ラメージの志望は潜水艦乗りでした。 

適性検査では視力が原因ではねられてしまいますがどうしても諦められません。
強く願えば神に通じるというべきなのかどうか、視力試験前に、

彼は視力検査表を間近で見ることに成功しました。(偶然だぞ)

そこで検査表を暗記し、右目のための検査カードを、
あたかも右目で見るふりをして実際には両目で見て

念願の潜水艦配置に合格しました。
このことはとご本人が後から白状したんだそうですが、
これ実のところ、偶然なんかじゃなく、わざわざ見に行った、
つまり故意犯だったんじゃないかと激しく疑われますね。

結果良ければで、のちに名潜水艦長になったから
こうして後から笑い話半分の英雄譚みたいに本人も吹聴してますが、
もし潜水艦艦長になった後、視力が原因による大きなミスが起っていたら、
おそらく本人はこのことを墓場まで持っていったに違いありません。

潜水艦長として潜望鏡を覗くとき、彼は自分なりのコツを編み出し、

「焦点は常に近接に合わせた。
そうすれば、弱い方の目で観測しても目標を完全に観測することができた」

というイマイチよくわからない方法で任務をこなしていたようです。 

「グレナディアー」「トラウト」に続き「パーチー」艦長になった彼は、
 1943年、「途方もない潜水艦の波状攻撃」を日本のミ11船団に対して行いました。


この時ラメージは艦橋に陣取り、大胆にも艦を浮上させたまま船列の間に割って入り、
至近距離から19本の魚雷を発射するという前例のない攻撃を行いました。
日本船はこれに対して備砲で反撃し、ついには体当たりを試みています。

「炎上する日本船の合間を縫って、冷静にシーマンシップを発揮し、
魚雷と砲撃で礼を返した」

彼はのちにこの時の交戦についてこう語りました。

 

ポール・フレデリック・フォスター
Paul Frederick Foster 1889−1972

「史上最初に敵艦を撃沈した潜水艦長」


わたしは戦史というものを、あくまでも客観的に見ることをモットーとして
どんな事例も扱っているつもりなのですが、このサブマリナーシリーズなどで
日本の船を沈めて、その成績がトン数で1位だの隻数で1位だの、
その数で勲章をもらったりしている事例を調べていると、
正直決して穏やかな気持ちでいられず、なんとなく胸のざわめきを感じるのは、
これはもう日本人として致し方ないことだとだと思います。

そして、たとえば前回お話しした、

「軍機を守るために艦と運命を共にしたクロムウェル艦長」

の乗っていた「スカルピン」の生存者42名が、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して
日本本土へ護送される途中、冲鷹は「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192)
の雷撃により撃沈されてほぼ全員が死んでしまったわけですが、
この事実に対して、ザマアミロとかいうタチの悪い感情まで行かないまでも、
少なくとも「因果応報」という言葉を思い浮かべずにはいられないわけです。


ちなみに「山雲」に撃沈された「スカルピン」の生存者は当初42名。
護衛していた大型輸送船「龍田丸」を撃沈したカタキであったことから
(龍田丸は乗組員便乗者約1500名全員戦死)海上の彼らに対して
「冲鷹」乗組員は報復しようとしたのですが、艦長がそれを制止しています。

その「冲鷹」が米潜に撃沈されたのは、艦長の命令によって救助した潜水艦乗員に対し、
艦上でコーヒーとトーストを与えた直後のことであったといわれます。


さて、長々と何が言いたいかというと、このフォスター中将は
そのメダル授与の功績が対日戦ではないので、少なくとも
この微妙な感慨を持たずに済む、ということです(笑)

フォスターが名誉勲章を与えられたのはなんと

ベラクルスのアメリカ占領(1914年)

での功績に対してでした。

トランプが大統領になって「アメリカファースト」のスローガンのもと、
メキシコ移民を防ぐための壁を作るの作らないのという話もありましたが、
アメリカとメキシコというのは、昔から隣同士で色々ありましてね。

仲が悪い隣国同士で、経済力の低い方が高い方に移民としてなだれ込み、
それが問題になる、というのも世界各地で共通の事例です。

メキシコ革命の時には、アメリカの水兵がタンピコでメキシコ兵に拘束された、
というタンピコ事件がきっかけとなり、アメリカ軍が出動、
戦闘ののち、ベラクルスを半年間占領するという事態になったことがあります。
ちなみに、タンピコ事件でメキシコは、アメリカに一応謝罪したにも関わらず、

「誠意を表すために星条旗を掲揚して21発の祝砲発射を行え」

とさらに威圧され、頭にきてその要求に従いませんでした。
これをアメリカは攻め込むきっかけにして占領までしてしまったのです。

いやこれね、アメリカさん、もしかしてメキシコが従わないのをわかっていて、
こんな無茶な条件を突きつけたりしてません?

左から4番目のすらっとしたのがヴェラクルスの時の少尉だったフォスターです。 
メンバーは USS 「UTAH」 (BB31)の乗員で、この戦いの時フォスターは
「ユタ」の砲撃を指揮しました。 

フォスター左


海軍兵学校卒業後、フォスターが乗務した潜水艦はUSS G-4(SS26)。
第一次世界大戦ではUSS AL-2(SS41)でドイツのUボートを撃沈し、
これが初めて敵艦を撃沈したアメリカの潜水艦となりました。

つまりフォスターは「初めて敵艦を沈めた潜水艦艦長」だったわけです。 

 

その後は軍関係のブレーンとしてルーズベルト政権のために働き、
終戦後中将として海軍を引退しました。

 

サミュエル・デイビッド・ディーレイ
Samel David Dealey 1906-1944

「サブマリナーズ・サブマリナー」サブマリナーズサブマリナー」


彼にはたくさんのあだ名がありました。

「トルピード・トタン・テキサン」(魚雷を持ったテキサス人)

「デストロイ・キラー」(駆逐艦ゴロシ)

そして、

「サブマリナーズ・サブマリナー」、潜水艦乗りの中の潜水艦乗り。

それほどまでに潜水艦に乗っているのが似合っていた男。
ということは、日本の艦船をいやっというほど沈めたということでもあります。

彼が指揮した潜水艦「ハーダー」の通商破壊作戦における武勲は目覚しく、
最も輝かしい5度目の哨戒では、駆逐艦2隻(「水無月」と「早波」)を撃沈、
ほか2隻を大破させた功績によって、名誉勲章を授けられました。

「潜水艦乗りの中の潜水艦乗り」らしく、ディーレイ艦長は
潜水艦に乗ったまま、壮烈な最後を遂げています。

 

1944年8月、「ヘイク」とともに哨戒していた「ハーダー」は、
民間船の護衛で付きそう第22号海防艦と第102号哨戒艇を発見しました。

 

第22号海防艦に潜望鏡を発見されたので「ハーダー」は魚雷を3本発射。
しかしいずれも脇ををかすめ、逆に海防艦から攻撃を受けます。
海防艦は爆雷を投射器から12個、
軌条から3個「ハーダー」に向けて投下しました。

やがて攻撃地点から多量の噴煙や重油、コルク片が浮かび上がりました。
潜水艦「ハーダー」が15発の爆雷全てを浴び、撃沈された瞬間でした。


ディーレイが1943年に授与されたネイビークロス。

1945年8月22日、彼の功績に対して名誉勲章が与えられましたが、
授与式で勲章を受け取ったのは未亡人と三人の小さな子供達でした。

 

このとき「ハーダー」を撃沈した第22号海防艦と第102号哨戒艇は、
いずれもその後、大東亜戦争を無事に生き残ったということです。

 

 

 

 


米海軍サブマリナーの肖像 その1

2017-06-20 | 海軍人物伝

「潜水艦のふるさと」を自称するコネチカット州グロトン。
海軍潜水艦基地に併設されたサブマリンミュージアムには
伝説のサブマリナーを紹介するコーナーがあります。

以前、わたしは敵銃弾に傷ついた自分の収容を拒んで潜行を命じ、
壮烈な戦死を遂げた「グラウラー」艦長、ハワード・ギルモア中佐について
一項を費やしてお話ししたことがあります。

このコーナーではギルモア艦長の遺品も見ることができます。

銀縁のメガネ。
アメリカ海軍の軍人が眼鏡をかけていたというのはちょっと意外です。

指揮刀とベルト、そして中佐の階級がついた肩章。
サブマリナーの徽章もおそらく艦内に残されたのでしょう。

戦死した二人と傷ついた艦長を艦橋に残し、今潜行して行く「グラウラー」想像図。
潜行を命じたギルモア艦長は苦悶の表情を浮かべて最後の瞬間を迎えます。

ここニューロンドンの潜水艦基地にあった潜水学校の同級生と。
1942年、中佐の戦死直前に撮られたもので、階級章から判断すると
真ん中の人物がギルモア中佐ということになります。

さて、それではそのほかにここに名前を残しているサブマリナーを
紹介していきます。

 

ジョン・フィリップ・クロムウェル大佐 
Jhon Phillp Cromwell 1901-1943 

軍機と共に艦に残ることを選んだ司令官

潜水艦隊司令としてクロムウェル大佐が座乗していたのは

旗艦「スカルピン」 USS-191

ギルバート諸島攻略のための「ガルバニック作戦」に参加したスカルピンは
艦長フレッド・コナウェイ中佐の指揮のもと、1943年11月、
トラック諸島へと哨戒を開始しました。

「スカルピン」はレーダーで探知した船団を民間船と思い込み追撃しましたが、
実はそれらは日本本土へ帰る軽巡洋艦「鹿島」と潜水母艦「長鯨」、
その護衛の駆逐艦「若月」と「山雲」だったのです。

「山雲」による猛烈な爆雷攻撃によって「スカルピン」は漏水し、
おびただしくソナーも破壊されました。

コナウェイ艦長は、生存のチャンスを得るために意を決して浮上し
決死の砲撃戦を挑みますが、「山雲」からの初弾が「スカルピン」の
艦橋に命中して艦長以下幹部が戦死。
最先任となった中尉が艦の放棄と自沈を命じ、総員退艦が行われます。

しかしクロムウェルは、日本軍の捕虜になった時に自分の知っている
最高機密情報が敵に渡ることを良しとせず、C・G・スミス・ジュニア少尉以下
11名の乗組員とともに艦に留まりそのまま艦の運命に殉じました。

 

「スカルピン」の生存者はその後2隻の空母、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して
日本本土へ連行されたのですが「冲鷹」に乗艦した20名は12月2日に
「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192) の雷撃で沈没した際に19名が死亡し、
残る1名は通過する日本軍駆逐艦の船体梯子を掴んで救助されました。

ちなみに現地の説明には「山雲」という単語は全く見られません。


リチャード・H・オケイン少将
Richard Hetherington O'Kane 1911-1994

敵撃沈記録歴代一位の艦長

オケイン少将はギルモアやクロムウェルのように戦死したわけではありませんが、
艦長として乗り組んでいた潜水艦「ワフー」が自爆してその後捕虜になり、
終戦まで大森捕虜収容所に収監されていました。

「ワフー」が沈んだ時、オケインは突如現れた日本海軍の駆逐艦に
果敢に攻撃をを加えていたのですが、発射した魚雷が戻ってきてしまい、

(そんなことあるんだ)自分で自艦を撃沈してしまったのです。
これが本当のオウンゴールってやつですね。

爆発の瞬間オケインはコニングタワーのハッチを閉めたため、
そこにいたオケイン始め15名が助かりましたが、全員が艦とともに沈みました。

この時のイメージがイラストで表現されていました。
オケイン艦長を含むコニングタワーの生存者たちが、
爆発の煙がどこからともなく漂ってくる艦内で
脱出の準備を行なっているところです。

しかしこんな経験をしたら人生観が変わるだろうなあ・・・。 

 

潜水艦長としては 敵船団の真ん中に位置して前後の船を攻撃するなど
革新的ないくつかの運用戦術を開発し優れた戦果を挙げ、撃沈した敵船舶の総数
24隻総トン数93,824トンは大戦中のアメリカ潜水艦艦長の中でトップです。

戦後帰国したオケインはトルーマン大統領から名誉勲章を授与されました。

戦後は潜水艦畑で教官職も務め、潜水艦部隊の指揮官として
数多くの勲章を授与されています。

死後、アーレイバーク級駆逐艦の28番艦には彼の名誉を讃え、

オケイン(USS O'KANE DDG-77)

とつけられました。
潜水艦一本だったご本人には駆逐艦は少し残念かもしれませんが、
潜水艦には人名は命名基準となっていないので、仕方ありませんね。 



ジョージ・レーヴィック・ストリート三世
George Levick Street III  1913−2000

「サイレント・サービス」


ストリートという単語は普通ですが、この名字は珍しいですね。

ストリート三世は戦死してないし捕虜にもなっておりません。
ただ、指揮官として優秀で、たくさんの日本の船を沈めました。

Silent Service S01 E11: Tirante Plays a Hunch

 

この「サイレントサービス」という一連の映画は、実写と演技を織り交ぜ
ドキュメンタリーのような作りで大戦中の潜水艦を語るシリーズです。

実話かどうか知りませんが、捕虜にした朝鮮人が英語でお金を要求し、
その代わりに日本軍の情報をペラペラ喋ったという設定で、これは実写らしい
「ティランティ」が「白寿丸」を攻撃する様子が映っており、
一番最後にはストリート艦長と副長のエドワード・ビーチがゲスト出演してます。

このシリーズは海軍省の制作によるものですが、ストリートは
番組制作に技術顧問という形で協力していました。
 

イラストは戦闘中潜望鏡を覗き込むストリート艦長の勇姿。 

ストリートは86歳で亡くなりましたが、遺言によって遺体は火葬され、
遺灰は海に散骨し、残り半分はアーリントン国立墓地に埋葬されました。


ヘンリー・ブロー
Henry Breault 1900-1941

仲間を救うために沈む艦内に戻った下士官

肩書きも何もないのは、彼が士官でもましてや艦長でもなく、
潜水艦勤務の一水兵だからです。

 

ブローという名前はおそらくフランス系であり、ヘンリーではなく
アンリであったのではないかとも思うのですが、それはともかく。

ブローは潜水艦という兵種ができて最初に乗り組んだ海軍兵士です。
1900年の生まれで17歳の時、「Oクラス」潜水艦の5番艦、
「O-5」(SS-66)の乗員となりました。

彼の肩書きにはTM2がつきますが、これは「トルピードマン2」の意です。

1923年、O-5は潜水艦隊、O-3  (SS-64) 、O-6  (SS-67) 、
およびO-8 (SS-69)を率いてパナマ運河を横断していました。

その時同海域をドック入りするために航行していた蒸気船「アバンゲイレス」が
操舵のミスを起こし、 O-5に衝突してしまいます。
衝撃でO-5は右舷側のコントロールルームに近くに10フィートもの破孔ができ、 
メインのバラストタンクが破損しました。

艦体は左舷側に向かって鋭角に傾き、そして右舷側に戻り、
その後艦首部分が先から13m海中に没します。

蒸気船はすぐさま救助活動を行い、指揮官を含む8名を海中から拾い上げました。
彼らのほとんどは上層階にいて素早くハッチを登ることができた者でした。

近くにいた船舶も救助を行い、何名かを救い上げましたが、
O-5はわずか8分後に沈没。
掬い上げられたのは16名で、艦内には魚雷発射係であるブロー始め、
機関長のブラウン、そしてさらに3名が残されていました。

爆発が起きた時、ブローは魚雷発射室で作業をしていましたが、
ちょうどラッタルを登ろうとしていたところでした。
素早くメインデッキに抜けたブローは、そのとき機関室で
ブラウンが仮眠をとっていたことを思い出しました。

彼は機関長の所に戻り、とっさにハッチを閉めて海水の流入を防ぎました。
そのまま登っていけば艦を脱出できたのにもかかわらず。

ブラウン機関長は目を覚ましていましたが、総員退艦の命令が出たのを
全く知らず、呆然としていました。
二人の男たちはコントロールルームを抜けて艦尾を目指しましたが、
前部電池室にも海水が入ってきていて通り抜けることはできません。

彼らは水かさが増す魚雷発射室を通り抜け、バッテリーがショートして
誘発を起こさないようハッチを閉めながら進みました。


サルベージ作戦と彼らの救出作業はすぐさま始まりました。
ココ・ソロの潜水艦基地からは現地にダイバーが派遣されました。

生存者の反応を求めてダイバーは艦首から順番に艦体を叩いていきましたが、
魚雷発射室に来た時、中からハンマーで艦体を叩く音を確認しました。

当時は現代のような潜水艦の救助設備がなく、方法というのは
クレーンか浮きを使って泥から艦体を引き上げるしかなかったので、
その時にたまたま近くにあったクレーンを使ってダイバーが艦体の下に
ケーブルを渡し、それを持ち上げるという方法がとられました。

しかし、一度ならず二度までもケーブルが破損し、救助は難航します。
全ての関係者が不眠不休で必死の作業に当たった結果、10月29日の深夜、
事故が起こってから31時間後に、O-5の艦首は持ち上がり、
魚雷室のハッチが開けられて二人の男たちは生還したのです。

ブローは名誉勲章、海軍善意勲章、防衛庁の勲章、救命勲章などを授与されました。

米国の潜水艦O-5における事故の際に発揮された勇気と献身のために。
彼は自分の命を救うため艦外に脱出することをせず、
閉じ込められた乗員の救助のために魚雷室に戻り、魚雷室のハッチを閉じた。

彼が栄誉賞を受けた時の大統領カルビン・クーリッジ(写真)はこう言って
彼の英雄的な自己犠牲の精神を称えました。

 

 

続く。 

 


西澤広義エキジビット@戦艦「マサチューセッツ」

2016-11-30 | 海軍人物伝

戦艦「マサチューセッツ」の艦内で、西澤広義海軍中尉のイラストに遭遇し、
おおお!と思わず嬉しくなってしまった日本人のわたしです。

展示に当たってはアメリカ人のブラマンさんという人が
サインペンかなんかで描いたらしく、サインがしてありました。

「マサチューセッツ」艦内の展示区画には、「敵国軍コーナー」もあり、
このようにドイツ海軍将校のマネキンがひときわ人目を引いていたりします。

この軍服は少尉のもので、海軍独特のダブルブレスト、(今でもそうらしい)
右のボタンの上から二番目に斜めにあしらわれた赤と白のリボンがおしゃれ。

世界で最もそのデザインを高く評価されていると言われるナチスドイツの制服、
陸空だけでなく海軍もさすがのスマートさです。

ドイツの洋服製造業者フーゴ・ボスがナチスドイツのためにデザインした
突撃隊、親衛隊、ヒトラー・ユーゲントの制服は当時のドイツの青少年や
女子などの憧れを誘い、それは未だに「最も成功した軍服」の地位を縦にしており、
フーゴの会社は現在も紳士服のブランドとして名高い「ヒューゴ・ボス」として
ファッション界で評価を得ています。

アメリカでは日本より少し安価で流通していて、わたしもアウトレットで
薄い夏用の皮のワンピースを買ったことがあります。

フーゴ・ボスが海軍の軍服まで手がけたかという話は
どこにも言及されていずわかりませんでした。
 

さらに彼の周りには艦の模型もあったのですが、急いでいたので省略。

日本軍コーナーで詳細な説明をされていたのが、海軍の零式戦闘機。
感心なことに、「zero」ではなく、ちゃんと

MITSUBISHI A6M REISEN

と表示されています。
この下にある説明には

A6Mがアジアに出現したのは1941年のことであり、
これはイギリス、中国軍にとっては全く嬉しくない驚きとなった」

続いて

「同じ驚きがパールハーバー以降のアメリカ軍を待っていた」

零戦の初陣は1940年の9月、重慶ですから、しょっぱなから
年号が間違っていてることになります。
それと、実際に戦っていないとはいえ、中国大陸での零戦のデビュー、

少なくともフライングタイガー界隈は知ってたと思うんですけどね。

残りも訳しておくと、

「A6Mは駆動性にずば抜けて優れ、火力も強く、スピードのある戦闘機で、
経験豊かなパイロットたちが操縦し満州上空での優位を誇った。

これほど衝撃的な航空機は戦争中に零戦をおいて現れることはなかった。
1600kmの航続距離を誇り、その最盛期には太平洋においてほぼ無敵であった。

この図の零戦は210航空隊所属のA6M5であり、戦争最後の年に製作されたものである。
このころの日本はA7M「烈風」の製作に腐心していた(desperately clear ) が、
同時に多くのA6Mがカミカゼ特攻攻撃によって、敵艦船のデッキや
その周りの海でその生命を終わらせていった。

A6Mの総生産数はその派生型も含め11,291機であり、
そのうち6,897機が中島製である」

並んで「隼」。

「NAKAJIMA Ki-43 HAYABUSA

1930年代、日本空軍の主力飛行機はNakajima Ki-27、
ランディングギア固定式の飛行機だった」 

あのー、日本に空軍ってなかったんですけど・・・。
うちの軍事音痴のTOという人は、少なくとも5年前は
旧日本軍に空軍がなかったことを知りませんでしたがね。

「この後継型として1939年に中島が世に出したのが
Ki-43であり、その敏捷性を引き継ぎながら速度は大幅に増した。
7.7mmと12.7mmの2種類の機関銃の搭載が検討され、
結局後者が選ばれている。

隼という愛称で呼ばれたこの戦闘機は、デビュー当初
熟練された搭乗員たちによって操縦され、シンガポールにおいては
RAFのブリュースター・バッファローを一掃した」

バッファローというのはアメリカ軍では何かと評判が悪く、
日本側に熟練の搭乗員は殆ど残っていなかったとされるミッドウェーでも
19機のうち13機が零戦に撃墜されてしまっています。

「Ki-43は東インド洋でも勝利を続けたが、シェンノートの
フライングタイガース出現後は敗色が濃くなり、
その後次々と現れてくる敵の新型航空機の前に陳腐化していった。

この隼はKi-43-IIIで、1945年、満州の第48戦隊の所属である。
5,919機が生産され、そのうち2,631機が立川で製造された」
 

零戦を配したジオラマがありました。
アーサー・ドルモンドさんというモデラーの作品で、題して

"SAIPAN SURPRISE"

サイパンにアメリカ軍が上陸して1ヶ月後、日本軍は玉砕しました。
おそらくその後、島に不時着していた零戦を発見した米軍の部隊が
驚いてその操縦席を覗き込んだりしているシーンを再現したのでしょう。

飛行機の傍らには燃料の入っていたドラム缶が転がり、
日の丸の旗が地面に打ち捨てられています。

このコーナーには日本機の模型も幾つか展示してありました。

Kyusyu J7W1 "SHINDEN"。

局地戦闘機「震電」・・・・んんん?どれが?

wiki

もしかしたら「震電」はこの右側にあったのか?

その右側。全然違くない?
ちなみに現存する唯一の「震電」の機体はスミソニアンにあるそうです。

 

Nakajima A6M2 "Rufe"(左)

”ルーフェ”ってなんだよ。
連合国のコードネームをちゃっかり名前にしてんじゃねー。

と一人静かに突っ込んでしまった二式水上戦闘機。

Aichi M6A1 "Seiran"(右)

伊四百型潜水艦(のちに伊十三型潜水艦をも加える)を母艦として、
浮上した潜水艦からカタパルトで射出され、攻撃に使用されるために
計画された 水上機「晴嵐」。

伊四百が見つかったときのアメリカ人の興奮は大変なものだったと言いますが、
その潜水艦に折りたたみ式の戦闘機を載せてしまうなんてクレージー。
ということでこちらもアメリカ人的には大受けした「晴嵐」。

どちらもとんでもない変態兵器であることには変わりありません。
万が一日本がお金持ってたら戦争勝てたんじゃないかとこういうのを見ると思います。 

いや、そもそも日本にお金があったら戦争起こしてないか。 

奥のジオラマのタイトルは

"Totaled Zero"(完全なゼロ)

戦地にそのままの形で残されていた零戦を再現。

ここにアメリカ人パイロットの写真が一枚ありました。

ALFRED・B・CENEDELLA Jr.(セネデラ?)中尉

この戦艦「マサチューセッツ」に乗り組んでいた予備士官で、
本艦から発進する「キングフィッシャー」(ヴォート)のパイロットでした。

戦後は「マサチューセッツ」をフォールリバーに展示するために
大変な尽力をしたということで感状を受けたそうです。

この名前で検索すると、彼の息子と思しき「三世」が、
この夏(2016年)マサチューセッツで亡くなったという告知が出てきます。

 

B-29スーパーフォートレスの模型もありますね。(投げやり)

「震電」の正しい写真がこの後ろにあったりするんですが(笑)

旧日本軍機の写真がこのように展示されているケースに、


「〜の飛行士戦死者の霊に捧げ」

という部分が見えた襷状のものがありました。
日本人が書いたのは間違いないですが、なぜ逆さまに置いてある。

この、軍艦旗の模様も怪しい海軍搭乗員に捧げているつもりで
向こうを向けてあるのかと善意に解釈してみたのですが。

それにしてもこれ、誰?怖いんですけど。


さて、それでは最後に、「ニシザワ・エキジビット」とされている

西澤広義中尉の説明を訳しておきます。


ヒロヨシ・ニシザワ
海軍中尉

1920年1月27日〜1944年10月26日

長野県の山間の村に、造り酒屋の5人の息子の末っ子として生まれた。
小学校卒業後は織物工場で働いていたが、1939年、海軍航空訓練生に応募し、
71人の卒業生の16番で卒業した。

卒業後は大分、大村航空隊、ついで千歳航空隊に入隊した。
彼の最初の敵機撃墜は1942年3月、ラバウルにおいてであり、
乗機は三菱A6M4タイプ96式戦闘機(コードネームはクロード) だった。
42年の2月から彼は第4航空隊に所属しており、米空軍第7戦闘機隊の
P-40を共同撃墜している。

4月1日、第4航空隊は台南航空隊と合併する。
台南航空隊はラエから発進しポートモレスビー攻撃を行った。
 
西澤の最初の勝利はポートモレスビーにおけるPー39撃墜であり、
これは1942年の5月のことである。

1942年8月7日のアメリカ軍のソロモン諸島進出を受けて、 
西澤はガダルカナル攻撃に従事し、同日の間に
4機のワイルドキャットを撃墜したと報告している。
(連合国側の記録ではこの日喪失した機体は12機である)

10月の終わりまでに彼の空中戦における撃墜記録は30機となった。

台南航空隊はラバウルでの戦闘によって搭乗員がほとんど失われ、
解散して帰国後251空に改編されたが、彼はその生存者の一人であった。


1943年6月には、帝国海軍は撃墜数を個人記録ではなく、

隊全体の記録として申告するようにという布告を出したため、
西澤の記録は公的には正確なものが残っていない。

家族に出した手紙には、彼は147機を撃墜したと書いており、
のちに彼が死亡したとき、それを報じる新聞記事では150機となっていた。

彼は最後の直属の上司には撃墜数を86機だと申告しており、
おそらくこれが確実な撃墜数に近い数字であろうと現在考えられている。

彼は大分の航空隊での教官となったが、この仕事を嫌悪しており、
最後には忍耐の限界にきていたようである。

1944年10月24日、アメリカ軍のフィリピン上陸を機に
彼は戦地に戻ることを決意し、特攻隊を志願した。
しかし、彼の技量を高く評価していた上層部はそれを拒否し、
その代わりに最初の神風特攻隊の援護を任命した。

1944年10月25日、関行男大尉を隊長とする5機の特攻隊を
突入する敵艦隊のいるレイテ湾まで援護する任務である。

5機の特攻機は4隻の護衛空母に突入し、そのうちの1隻、
セイント・ロー CVE-63を沈没せしめ、ホワイトプレインズ、
カリーニンベイ、キトカンベイにいずれも大打撃を与えた。

西澤の援護隊はさらに2機のF6Fヘルキャットを撃墜し、1機を失っている。


翌日、西澤は他の搭乗員とともにセブに向かうため爆撃機に乗った。

彼らはルソン島のマバラカットで飛行機を受け取ることになっていた。

西澤が乗った爆撃機は、ミンドロ島上空で爆撃機は待ち伏せしていた
第14航空隊の
2機のヘルキャットの攻撃を受け、
ハロルド・P・ニューウェル中尉の
操縦するヘルキャットに撃墜された。

その魅力的な人生において、彼は自分が絶対に空戦で
撃墜されることはないと信じていたし、その通りになった。

自分が操縦者ではなく乗客として飛行機に乗るという、

彼にとって滅多にない機会に敵に襲われることになったため、
いかに天才の彼も
自分を救うことはできなかったのである。

第二次世界大戦では、日本軍は個人の戦闘機搭乗員の
戦功を広く告知するということをしなかった。
いかに英雄的な行為も単に任務の一部であり、
それ以上でもそれ以下でもないと考えられていたようである。

しかし戦争も末期になって本土攻撃が激しさを増すと、このポリシーは変化して、
搭乗員の功績を広報するようになってきた。

西澤の功績は1943年の時点で全軍布告され、草鹿任一海軍大将より
軍刀を授与され、中尉に昇進している。

 

明らかな間違いには線を引いておきました。
西澤が中尉に昇進したのは、戦死して2階級特進になったからです。


この大きなイラストと丁寧な説明にも見られるように、西澤広義は
日米両軍を通じたトップエースとしてアメリカで
認識されていました。

 

「マサチューセッツ」シリーズ、次回いよいよ最終回です。

 


潜水艦「グラウラー」とギルモア艦長

2016-04-11 | 海軍人物伝

冷戦期に建造され、アメリカ海軍初の艦対地ミサイル「レギュラス」を
を搭載していた、潜水艦「グラウラー」について、イントレピッド博物館で
見学した関係からずっとお話ししてきたのですが、すこし寄り道です。


この「Growler」、日本語表記では「グロウラー」となっていますが、実際の発音に忠実に
ここでは「グラウラー」で通しています。

先日このグラウラーを航空機の「うろうろする人」のプラウラーと韻を踏んで?
「ガミガミ言う人」ではないかと仮定してみたのですが、どうやら魚の
「オオクチバス」の通名であるらしいことが各種調べにより判明しました。

そういえばガトー級の潜水艦というのはガトー(トラザメ)がそうであるように、
例外なく魚類の名前を付けられていたんでしたっけね。

というわけで、「グラウラー」という名前の米艦艇は全部で4隻存在します。
今日お話ししたい3代目の潜水艦「グラウラー」は、1942年に就役して日米戦争に従事しました。



「グラウラー」は1941年2月に発注され、11月には進水式を行い、
翌年3月に艤装艦長であったウォルター・ギルモア少佐の指揮下、就役しました。
すでにヨーロッパでは戦争が始まっていたため、発注から就役までの時間が短く、
就役した途端、「グラウラー」は太平洋戦線に投入されます。

「グラウラー」が第一回目の哨戒に出たのは1942年の6月。
早々に6月5日から始まったミッドウェー海戦において、
総勢19隻からなる潜水艦隊のうちの1隻として出撃しています。


その後、「グラウラー」はアリューシャンに向かいました。
キスカ島付近で哨戒中駆逐艦「霰」(あられ)と「不知火」を
それぞれ、沈没・大破せしめ、これが「グラウラー」にとっての初戦果となります。
「霰」も「不知火」も復旧させることに成功していますが、この時の被害の責任を負って
第十八駆逐隊司令は自決しています。

逆に、「グラウラー」艦長であるギルモア少佐は、この戦功に対し、
海軍十字章を授けられました。
冒頭の絵でギルモア少佐が胸につけているのは、このときの勲章か、
あるいはこのあとに授与された金星章であると思われます。
(十字勲章の色はブルーと白であるのに調べずに描いたので
赤と白ですorz)



27日の任務を終えて7月、真珠湾に帰還した「グラウラー」は、
8月に出航した第2回哨戒で対潜掃討中の千洋丸(東洋汽船)、輸送船「栄福丸」、
特務艦「樫野」、輸送船「大華丸」をそれぞれ撃沈しました。

彼我両方の潜水艦の使命は、当時通商破壊活動、つまり商船、輸送船を鎮めることでした。

この哨戒中、「グラウラー」は「氷川丸」を発見していますが、攻撃していません。
「氷川丸」は病院船であったにもかかわらず、戦時中なんども敵の攻撃を受けています。
緑の十字がついていても、偽装を言い訳の理由に攻撃する米艦がいたということですが、
少なくとも「グラウラー」は国際法に反することはしなかったのです。

これが艦長の指示であることは明らかで、この件からもギルモア艦長が
「海の武士道」を(アメリカだから騎士道?)重んじる武人だったことが窺い知れます。


第3回目の哨戒において、ソロモン諸島付近に派遣された49日間、

「グラウラー」には不気味なくらい何も起こりませんでした。
敵に発見されることも敵と交戦することもないまま、帰投したのです。

まるで次回の哨戒における悲劇のまえの静けさのように。


第4回目の哨戒作戦は、1943年1月1日から始まりました。
前回と同じく、ソロモン諸島が哨戒する海域です。

1月16日、トラック島付近の交通を警戒監視していた「グラウラー」は、
船団を発見し、輸送船「智福丸」を攻撃しています。
「智福丸」は陸軍の輸送船で、もしかしたら陸軍の師団を乗せていたのかもしれません。

土井全二郎著「撃沈された船員たちの記録―戦争の底辺で働いた輸送船の戦い」という
戦記本で、一度読んで強烈さに今でも忘れられない一節があります。

「船が攻撃されて沈むということになった時、四角くくり抜かれた穴から
船底にいる陸軍の軍人たちの一団が一斉にこちらを見て、
”まるで豚が絞め殺されるような”叫び声をあげていたのを見た」

という生き残った船員の話です。
このときの「グラウラー」の攻撃によるものだったかどうかはわかりませんが、
いずれにしても航行中の輸送船の沈没によって、多くの軍人の命が、徴用された
船員たちと同じように失われていったのでしょう。 

 


そして運命の2月7日がやってきました。

「グラウラー」が輸送船団を発見し、水上攻撃を仕掛けるため接近していったところ、
彼らより早く「グラウラー」に気づいた別の船が、まっすぐ突っ込んできていました。


このときに遭遇した相手は特務艦「早埼」(はやさき)でした。
給糧艦であった「早埼」は、船団を攻撃しようとしている敵潜水艦を
見つけるなり、まともに戦っても勝ち目はないと思ってか、体当たりを敢行したのです。

「グラウラー」は敵船団に近づきながら海上で蓄電を行っていました。
しかも実際には「グラウラー」の方が先に「早埼」を発見しており、
その行動をレーダーにより察知していたにもかかわらず、艦橋にいたギルモア艦長以下

当直見張り員は「早埼」の動きに気づきませんでした。

どうしてレーダー室の方から艦橋に伝達しなかったのかも不思議ですが、
いずれにせよ、これが「グラウラー」にとって不幸な結果となります。

ギルモア艦長はこちらに突っ込んでくる「早埼」を認めるなり、

「いっぱいに取り舵!」“Left full rudder!“

と命じました。
「グラウラー」はそのとき17ノットの速力で航行しており、(最大速度は20ノット)
おそらく艦長は「早埼」の右舷側をすり抜けようとしたのだと思いますが、
転舵は間に合わず、艦体が「早埼」の中央部に衝突し、艦首部は5~6mにわたって折れ曲がり、
艦首発射管はこの衝撃で潰れ、衝突の衝撃で艦は50度も傾きました。


その後、「グラウラー」の艦橋に向かって「早埼」からは機銃が乱射され、
また高角砲も次々と撃ち込まれてきます。
艦橋に上がっていた当直見張り員のうち士官と水兵の計2名は即死。
生き残ったギルモア艦長以下全員も今や負傷していました。
重傷を負ったらしいギルモア艦長は、艦橋の手すりに身をもたせたまま、
き残った艦橋の乗組員に対して


「艦橋から去れ!」“Clear the bridge!“

と命じました。
副長のアーノルド・F・シャーデ少佐は、そのとき一緒に艦橋にいましたが、
軽い脳震盪から回復して艦長が艦内へ退避してくるのを待っていました。

ギルモア艦長も続いて避退しようとしましたが、ハッチにたどり着く直前、
機銃で撃たれて再び昏倒します。
次の瞬間、副長と艦内の多くはギルモア艦長の最後の命令を耳にします。


「潜航せよ!」“Take her down!“


副長は驚愕し、一瞬は逡巡も感じたと思われますが、彼がそれを選択するより早く、
ギルモア艦長は外からハッチを閉めてしまいました。
シャーデ副長はギルモア少佐の意図をすぐさま理解し、絶対である命令通り、

艦を急速潜行させて「早埼」の攻撃から脱出して危機を逃れました。

ギルモア艦長は、おそらく重傷である自分がハッチを降りることは
一人では不可能であり、一刻を争うこの時間に自分が助かることは、
「グラウラー」の全乗組員の命と引き換えであることを悟ったのでしょう。

彼は艦長として、自分の命を棄てて艦を救うことを選んだのです。


それにしても、外からハッチを閉めるくらいの力がのこっていたのなら、
とりあえず中に飛び込むくらいはできたのではないのかとも思うのですが・・。



戦死したギルモア少佐には、潜水艦隊の艦長として、初めての名誉勲章が与えられました。
副長のシャーデ少佐は、ギルモア少佐戦死後すぐさま艦長心得(代理?)となり、
この4回目の哨戒作戦となる航海をとりあえず終えます。

この写真は第6次哨戒のときのものだそうですが、真ん中がおそらく

シャーデ少佐であろうと思われます。

この後も哨戒に何度も出撃した「グラウラー」ですが、第10回目の哨戒時、
わたしがここでお話しした「パンパニト」と「シーライオン」とで
"Ben's Busters"(ベンの退治人たち)と称する潜水艦隊を組み、東シナ海に出ました。

この時の哨戒で「グラウラー」は択捉型海防艦「平戸」、そして対潜掃討中の

駆逐艦「敷浪」を撃沈しています。 

 
第11回の哨戒活動が「グラウラー」にとって最後の任務となりました。
哨戒中ルソン島近海で待ち合わせていた僚艦の前に、「グラウラー」はついに現れず、
 海軍は「グラウラー」の沈没は原因不明のまま、ということで処理したのでした。

軍の記録の常として「撃沈された」とは認めたくない心理が働いたのでしょうか。
僚艦の潜水艦「ヘイク」は、避退行動中に、グラウラーのいるあたりから
150もの爆雷の爆発音も聴取したという報告を上げていたというのに。


同日の日本側の記録によると、


「マニラ入港前夜、雷撃を受け万栄丸沈没。
対潜掃蕩を行うも、戦果不明。即日反転、ミリ(ボルネオの港)に回航」
(第19号海防艦)

「マニラ入港前夜、マニラ湾入口にて敵潜水艦の雷撃を受け、万栄丸沈没。

対潜掃蕩後即日反転、ミリに回航」(千振) 

とどちらもが対潜掃討攻撃を行っているので、「グラウラー」がこのどちらかの
対潜爆弾(あるいはどちらもの)によって戦没したことは間違いないことに思われます。

 
現在、アメリカのサイトを検索すると、皆一様にギルモア少佐のことを
「ヒーロー」という言葉で称えているのがわかるかと思います。
自らの生命の危険を顧みず、他を生かそうとする自己犠牲の精神。
それをアメリカ人もまた、「英雄的行為」として賞賛するのです。





 


沖縄県民斯ク戦ヘリ~太田實中将

2015-06-13 | 海軍人物伝

大東亜戦争で日本領土で地上戦が行われたのは唯一沖縄だけでした。

巨額の制作費を投じて世に出されたS・スピルバーグ制作の「ザ・パシフィック」は
その最終週近くに沖縄での地上戦がアメリカ側の視点から描かれます。

このブログでもかつて映画「ひめゆりの塔」を扱ったことがありますが、
犠牲になった女子学生に主眼を据えるなど、被害者の立場から語った日本映画はいくつかあり、
戦争映画に挿入されているものも含めれば、相当な数になるかもしれません。

しかし、アメリカ側から沖縄戦を描いたものはもしかしたら初めてかもしれません。
このテレビドラマシリーズは、元海兵隊員ユージーン・スレッジのノンフィクション、
「ペリリュー・沖縄戦記」を始め、実際にこれらの戦闘に参加した軍人の証言を
ドラマにしており、そのために大変リアリティのある描写が話題になりました。

そこにはヒーローはおらず、市井の善良な一市民が狂気の戦場で何を見、何をしたか、
淡々と事実が描かれるため、米兵が行っていた非人道的行為も糊塗することなく
そのまま平坦とも言える調子で映像化されています。
映像のあまりのリアリティに、わたしはこれをHuluで通して観たとき、
大画面で見なくてよかったと何度も思ったくらいです。


そして10シリーズの9番目が「沖縄」なのですが、ここで最も印象的だったのは、
乳飲み子を抱えた日本女性が、米兵に近づいていって自爆するという場面でした。
しかし、証言から取られたシーンが多いこの映画で、なぜかここだけ創作だそうです。

実際、民間人が軍役に就いている知人から手榴弾を入手するなどして自決したり、
本土決戦に備えて、少年兵に対戦車自爆攻撃の訓練を行ったという事実はありましたが、
女性や幼児による自爆攻撃は、米軍側の資料を含め、史実に残されていません。

しかし、捕虜にしようとした日本兵が米兵を道連れに自爆したり、米兵が民間人

(映画では少年だったが原作では老婆だそうです)を撃ち殺したり、ということは
度々起こったことであり、穿った考え方をすると「
子連れの女性が自爆」という創作は、

「であるから、米側としては、民間人であっても殺すしかなかった」

というマイルドな言い訳として挿入されたという気がします。

それにしても、米軍が沖縄に侵攻してきたとき、覚悟の上で軍に献身的な協力をするも、
次々と斃れていった沖縄県民が、戦後、本土の犠牲となったことの怨みをアメリカではなく
「日本」と「軍」に持ち続けるのも
当事者であれば致し方ないこととも理解できます。

そんな沖縄県民ですが、彼らの怨みの対象はなぜか海軍にはないと言われます。
その理由というのが、この大田中将(最終)の最後にありました。






太田實少将は海軍兵学校41期。

同期には草鹿龍之介木村昌福(まさとみ)などがいるクラスなのですが、
このクラスの恩師の短剣4人には、現在名前を聞いてすぐにそうとわかる軍人は一人もいません。

一番「出世」した草鹿龍之介も118人中26番ですし、109番だった木村昌福、
そして64番だった太田が
後世に名を残しています。

また先日「ルーズベルトニ与ウル書」で取り上げた市丸利之助もこの学年で、
(彼の成績は22番と”比較的”上位ですが)
木村、市丸、そしてこの大田少将に通じるのは、
いずれもその評価が、ハンモックナンバーで自動的に出世した地位で為した功績でなく、
もっと深いところの、人格や将器から生まれてきた結果であったことに注目すべきでしょう。

超余談ですが、この学年の後ろから7番目のハンモックナンバーに「東郷二郎」という名前があります。
これがうわさの東郷元帥の息子か?と思ったのですが、そうではなく、東郷は東郷でも、
日清日露戦争で第6戦隊司令官だった東郷正路中将の息子でした。

アドミラルトーゴー平八郎さんの方の息子はその一学年上の40期ですが、これも今調べてみたところ、
後ろから数えたほうがずっと早い、144人中121位なんですね(T_T)
しかしまあ、全員が超優秀な集団であるわけですし、
ハンモックナンバーが下の方、
といっても本人の不名誉だとはわたしは全く思いません。


東郷元帥だってそもそも秀才というタイプではなかったわけですし、
現に後世に称えられる軍人はハンモックナンバーとは無関係なことが多いのは、

今説明した実例にもある通りです。


大田少将は昭和21年1月から沖縄方面根拠地司令となり、その3ヶ月後に始まった沖縄戦において
進退極まり、五名の幕僚とともに6月13日、
壕の中の司令官室で自決しました。

軍人として華々しい功績をあげたわけでない一司令官の名前が現在も忘れられておらず、
そして沖縄の人々が海軍に対する反感を持たなかった理由は、大田少将が自決寸前、
海軍次官宛に打った一通の電報が、沖縄県民の心情を代弁していたからに他なりません。

沖縄県民の奮闘と犠牲を称え、後世必ずそれに報いてやってほしい、と締めくくられた電報には、
沖縄戦において、彼らがいかに一丸となって
戦い、犠牲的精神を発揮して、
父祖伝来の土地を守ろうとしたかが、
簡潔な、しかし血を吐くような調子で述べられていました。

それは現代語訳にすると次のようなものです。


沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、

県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる

県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、
現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせする

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、
県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった
にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛招集に進んで応募した

残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、
しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、
軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、
辛うじて砲爆撃を避けつつも
風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、
砲弾運び、挺身切り込み隊にすら申し出る者までいる

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、
女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、
生きながらに離別を決意し、
娘を軍営の門のところに捨てる親もある

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした
頼れる者のない重傷者の看護を続けている
その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ
移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して
勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、
(一部に悪評が無いわけではないが、)
ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、
遂に(判読不能)与えることがないまま、
沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして
草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという
 



米軍上陸当時、沖縄戦に備えて配備されていた部隊は、


運天港と近武湾に配置された震洋隊や咬龍隊、
魚雷部隊などの海上攻撃部隊、
南西諸島航空隊、
第951航空隊沖縄派遣隊、
砲台部隊、迫撃砲部隊

などです。
大田少将が、そのなかで第一次上海事変や2.26事件にも参加した経歴を持ち、
海軍における陸戦の権威であったのは確かですが、この人事の陰には、
前任の司令官が艦艇出身で、陸戦の指揮能力を全く持たなかった、とう事情がありました。

米軍が読谷海岸に上陸した時、大田少将は沖縄本島で1万人を指揮していましたが、
そのうち陸戦隊として投入できる兵力はわずか600人ほどで、しかも赴任にあたって、
大田少将は比喩でもなんでもなく、

「武器がなく竹槍で戦わなくてはいけないらしい」

というようなことを家族に漏らすという有様でした。


第32軍は米軍の飛行場占領以来、防御基地に立てこもり、米軍に対して
多大な犠牲を強いていましたが、参謀本部から

持久戦を捨てて攻勢に出るように

という要求が相次ぎます。
この要請は、実は海軍の主張によるものだったということですが、
5月4日に行われた総攻撃は、米軍の強力な防御砲火によって失敗しました。

このことが関係しているのかどうかはわかりませんが、その後5月24日、
米軍の上陸によって陸軍が首里を撤退することに決めたとき、陸軍の第32軍は
海軍司令部を陸軍第32軍の作戦会議に
呼びませんでした。
そして直前になって
撤退命令を出したのですが、大田少将は敢然とこれを拒否しています。

当初軍司令部が首里撤退に当たってその援護を命じたとき、大田と司令部は
その命令を読み誤り、一旦完全撤退しながら後から復帰しており、
大田の拒否はこのときの齟齬からくる陸軍への拒否だという説もあります。
このとき、「撤退をお断りする」電報はこのような内容でした。

「海軍部隊が陸軍部隊と合流するということは本当にやむを得なかったわけで、
もとより小官の本意ではありません。
したがって南と北に別れてしまったと言えども、陸海軍協力一体の実情は
いささかも変わっていないのであります。
今後はそちらからの電文にしたがって益々臨機応変に持久戦を戦うつもりです」


この電文からはなんとも言えず、実は米軍に退路を断たれたため、

撤退することは敵わなかったから、という推測も成り立ちますし、これは個人的意見ですが、
もしかしたら、大田少将は、撤退によって沖縄県民に犠牲を強いる可能性を懸念したのかもしれません。

事実、陸軍が首里を捨てて島尻地区に撤退したことによって、そこに避難していた島民が

結果的に激しい地上戦に巻き込まれることになっています。



いずれにせよ、この電報を発した翌日、海軍司令部は米軍三個連隊に包囲され、

二日間の抵抗ののち、大田少将は牛島軍司令官に対して

「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり。
根拠地隊は今13日2330玉砕す」

と決別電報を打ち、司令部の壁に辞世の句、

大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり

と書き記し、海軍次官宛にあの電報、その最後に

「沖縄県民斯く戦ヘり 県民に対し後世特別の御高配賜わらんことを」

と記された後世への遺書を打電して自決して果てたのでした。



アメリカ公刊戦史に記された沖縄戦の記述はこのようなものだそうです。


小禄半島における十日間は、十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準以下でありながら、
いつかはきっと勝つという信念に燃え、地下の陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、
しかも米軍に最大の損害をあたえるためには喜んで死に就くという、日本兵の物語であった。

アメリカの沖縄戦を語る視線は、むしろ残酷にも思えるくらいの憐憫に満ちています。



大田少将の兵学校では卒業時の成績は、だいたいクラスの真ん中。
学年途中で病気をして一旦最下位になったからとはいえ、入学時の成績も120名中53番ですから、

団体があれば必ず一定数いる、

”どんな集団に組み入れられてもなぜかいつも中間地点にいるタイプ”

であったという気がします。


その人物像もも皆が口を揃えて、温厚で包容力に富み、小事に拘泥せず責任感が強かったと証言し、
いかなる状況に遭遇しても不満を漏らさず、他人を誹謗するようなことはなかったと言われます。

しかしその反面、家ではすべての事は妻に任せっきり、髭剃りすら寝たまま妻にやらせる亭主関白。
妻とはそういうものだと思って育った娘が、新婚の夫に同じことをしようとしたら、
婿殿は刃物を持って迫ってくる嫁に殺気を感じて飛び退いたという笑い話まであります。

「軍人の妻になったからには夫が一旦任務に就けば、家庭のことはすべて自分でやれ」

という考えのもとに、大田自身は、たとえ子供や妻本人が病気でも、一切手を貸しませんでした。



大田中将は子沢山で、男女合わせて11人の子供がいました。
その理由というのも、兵学校で一番後に結婚したと思ったら、もう一人未婚が残っていて、
さらに一番若い嫁(18歳)をもらったと思ったら、さらに若いのと結婚した同級生がいた為、

「何も一番になれないのは悔しいから、子供の数でクラス1になる!」

と妻に向かって宣言したからだそうです。

11人の子供たちへの教育方針は”海軍式(海兵式?)”。
大田家の朝は海軍体操に始まり、心身を徹底的に鍛えるという家訓のもと、
妻は夫のいない間も、毎日子供たちを連れて海に泳がせに行かねばなりませんでした。
父親である大田少将が子供たちを率いる時には、皆が見ているのも構わず、
砂浜で海軍式号令をかけて、海軍体操を始めるのが常でした。

そして、自分が胃腸を患ったせいで、つり革につかまるのはもちろん、
お釣りを受け取っても激怒されるという理不尽な潔癖性ぶりで子供たちを悩ませていました。



そんな父、大田中将が沖縄に出征が決まった時、本人はもちろん家族も、
それが今生の別れになると明確に理解していました。
別れの日、海軍の車が迎えに来ている辻まで出た大田家の者は、
最後に大田少将が白い手袋をして敬礼をしたまま、ゆっくりと一人一人の顔を
まぶたの裏に焼き付けようとでもするように見つめていたのを覚えています。

そのとき、男児の一人が、父親に向かって海軍式の敬礼を返しました。

大田少将の息子のうち、二人は戦後、海上自衛隊に入隊しました。
三男の落合(たおさ)(養子に行き苗字が変わった)は1991年、
自衛隊初の海外派遣任務となったペルシャ湾掃海派遣部隊を指揮して、
「湾岸の夜明け作戦」に参加しています。




家族への厳しくも愛のある接し方を見ると、「外柔内剛」という言葉が浮かぶのですが、
最後の「撤退お断り」はともかく、大田少将は陸軍とも協調できる人物でした。

しかし、5・15事件に始まる一連の軍人の反乱については、軍人は政治に関与しないという理念から
怒りすら抱いていたわけですから、ここ沖縄で、三月事件・十月事件の首班であった
長勇と協調して戦うということになったときには、さぞ複雑な思いを持ったと思われます。


ところで戦後沖縄県民が「海軍なら許す」という傾向だったのも、
沖縄における陸軍が、外敵と戦うのに必死なあまり、ともすれば沖縄県民に遺恨を残すような
「県民軽視」に走りがちだったのに対し、大田少将の遺書が軍の姿勢を批判する一言すら加えた、
県民の犠牲と努力に言及したものであったからに他なりません。

そこには「天皇陛下万歳」も「皇国の興廃」という言葉も・・、
軍人の遺書や最後の言葉に必ず見られる定型の文句が全くありませんでした。
当時の帝国軍人として、最後にこういう本音を、しかも海軍宛に打電するのは異例のことで、
このことだけをとっても、大田少将を勇気ある人と讃えるのにやぶさかではありません。

しかし、そこであえて規格外とも言える遺書を残した大田少将という人は、
同期で3ヶ月前硫黄島に死した市丸少将の言葉を借りれば、「干戈を生業とする武人として」
護るべきは「皇国」という抽象的な概念めいたものではなく、
そこに生きる国民であると明確に自覚していたのに違いありません。


大田少将始め、司令部が自決を遂げた壕から発見された軍艦旗には、
誰が記したのか、「沖縄の日没」という文字が墨で遺されていたということです。