ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

アメリカ海軍サブマリナーの肖像 その2

2017-06-21 | 海軍人物伝

コネチカット州グロトンにあるサブマリンミュージアム。
かつて叙勲されたサブマリナーの顕彰コーナーで見た
サブマリナーをご紹介しています。


冒頭にあげる絵を描くのに、各個人の写真を検索するのですが、
最もご本人がかっこよく見える写真を選ぶと、
海軍兵学校時代の写真や若い時の写真になってしまいます。

というわけで、イケメンだった若い頃の画像になってしまった

 

ユージーン・B・フラッキー
Eugene Bennett Fluckey

「ラッキー・フラッキー」

フラッキーというのは「ラッキー」を含む縁起のいい名前ですが、
実際にも彼は「ラッキー・フラッキー」と呼ばれていました。

上の「メダルオブオナーギャラリー」の中央に掲げられたのは
彼が艦長だった潜水艦「バーブ」の対日戦「戦果」です。 

93歳まで長生きしたことだけでもかなりラッキーな人生だったようですが、
それよりアメリカ海軍的には、フラッキーが潜水艦長として
その撃沈した敵船舶(つまり日本の船ということになりますが)
の総トン数が歴代一位ということがそのあだ名の由来のようです。

日本軍では撃沈の統計を取りその順番をつける、
という習慣がないのですが、 アメリカでは潜水艦でもこのように
トン数、隻数でランクをつけため、戦果を水増しするために
ありえない名前の日本駆逐艦をでっち上げる事例も起こりました。

ただでさえ確認が不正確になるので、戦時中の成績と戦後の
双方の資料で検証した実数が違ってくるのは当然のこととなります。 

フラッキーの撃沈した総トン数は

16 ⅓ 隻(4位) 95,360トン(1位)

なのですが、戦時中は

25 隻 179,700トン

となっていました。
ちょっとこれ・・・あまりに違いすぎません?
どちらも二倍とは言わんが、それくらい水増しされているではないの。

ちなみに総撃沈隻数で1位とされているのは前回紹介したリチャード・オケインで、

24隻  93,824トン

こちらも1980年に再調査されるまでは31隻、227,000トンとされていました。


ところで、フラッキーが総トン数で1位になった理由というのは
ちょっと考えてもわかりますが、撃沈した船が大きかったからです。

フラッキーが艦長を務めた潜水艦「バーブ」は5回の哨戒で
数多くの輸送船を撃沈しましたが、大型タンカーを含み、
空母「雲鷹」がその中に含まれていました。

1944年9月17日、船団を護衛してシンガポールを出発、
台湾に向かう「雲鷹」に「バーブ」は艦尾発射管より魚雷を発射、
艦中央部と艦後部に命中しました。

雲鷹の生存者約760名は護衛艦に救助されましたが、乗組員約750名、
便乗者約1000名のうち推定900名が戦死。
艦橋にいた艦長や副長は脱出したものの艦長は行方不明となりました。

 

フラッキーは「バーブ」を指揮して樺太で上陸作戦も行なっています。
1945年7月22日、乗組員で上陸部隊を編成し樺太東線に爆薬を仕掛けて
16両編成の列車を吹き飛ばしたというものです。

Silent Service S01 E26: The Final War Patrol

例の潜水艦ドキュメンタリーシリーズ「サイレントサービス」では、
18:30あたりからこの作戦について語られています。
爆薬を持ったまま転んだ隊員を皆がそろそろと引き起こす様子がリアル。 

この作戦は、第二次世界大戦中唯一の、潜水部隊による上陸作戦でした。

上陸作戦のためにフラッキー艦長は艦のあらゆる配置から志願者を募りましたが、
ボーイスカウト出身者を特に選んで編成したという話です。

なお、この番組の最後にはフラッキー(この時は大佐)本人が出演しています。

フラッキーは、名誉勲章を叙勲されていますが、上陸作戦に対してではなく、
以下のような作戦の成功に対するものでした。

 

彼の指揮するバーブは落命の可能性とアメリカ軍軍人としての
義務の限度を乗り越えて大胆かつ勇敢な攻撃を行った。

1月8日、フラッキー中佐は2時間の夜間戦闘で敵の弾薬搭載船などを撃沈したあと、
1月25日には大胆にもナンカン・チャンの港沖に集まる30隻の敵船の
真っ只中に乗り入れるという偉業を成し遂げた。
この海域を抜けるには1時間は見積もる必要があり、
また暗礁や機雷の存在も考えられたが、彼は

「戦闘配置!魚雷発射用意!」

の号令を出して(略)弾薬船は周囲をも巻き込むほどの大爆発を起こした。
バーブは高速で危険水域を抜け出し、4日後には安全水域に艦を移動させた。
英雄的な戦闘行為の締めくくりを、日本の大型貨物船撃沈で締めくくった。
アメリカ海軍はフラッキー中佐と彼の勇敢な部下に対し、
ここに最高の栄誉を与えるものである。 

 

ローソン・パターソン・ラメージ
Lawson Patterson Ramege

「隻眼のサブマリナー”レッド”」


ラメージはアナポリス1931年組、同期にはマケインがいます。
赤毛の人がほとんどそう呼ばれるように、彼のあだ名も
「レッド」であったと言います。

赤毛が喧嘩っ早いというイメージは確かにあるような気がしますが、
ラメージはイメージ通りだったようで、アナポリス時代、
喧嘩が原因で(どんだけ派手にやったのか・・)右目を傷つけ、
そのため極端に視力が落ちてしまいました。

片目だけの視力でまず失われるのは距離感だといわれます。
飛行機はもちろん、潜望鏡で外界を確認する潜水艦でも
視力が悪いのは大きなハンディとなるのですが、運の悪いことに
ラメージの志望は潜水艦乗りでした。 

適性検査では視力が原因ではねられてしまいますがどうしても諦められません。
強く願えば神に通じるというべきなのかどうか、視力試験前に、

彼は視力検査表を間近で見ることに成功しました。(偶然だぞ)

そこで検査表を暗記し、右目のための検査カードを、
あたかも右目で見るふりをして実際には両目で見て

念願の潜水艦配置に合格しました。
このことはとご本人が後から白状したんだそうですが、
これ実のところ、偶然なんかじゃなく、わざわざ見に行った、
つまり故意犯だったんじゃないかと激しく疑われますね。

結果良ければで、のちに名潜水艦長になったから
こうして後から笑い話半分の英雄譚みたいに本人も吹聴してますが、
もし潜水艦艦長になった後、視力が原因による大きなミスが起っていたら、
おそらく本人はこのことを墓場まで持っていったに違いありません。

潜水艦長として潜望鏡を覗くとき、彼は自分なりのコツを編み出し、

「焦点は常に近接に合わせた。
そうすれば、弱い方の目で観測しても目標を完全に観測することができた」

というイマイチよくわからない方法で任務をこなしていたようです。 

「グレナディアー」「トラウト」に続き「パーチー」艦長になった彼は、
 1943年、「途方もない潜水艦の波状攻撃」を日本のミ11船団に対して行いました。


この時ラメージは艦橋に陣取り、大胆にも艦を浮上させたまま船列の間に割って入り、
至近距離から19本の魚雷を発射するという前例のない攻撃を行いました。
日本船はこれに対して備砲で反撃し、ついには体当たりを試みています。

「炎上する日本船の合間を縫って、冷静にシーマンシップを発揮し、
魚雷と砲撃で礼を返した」

彼はのちにこの時の交戦についてこう語りました。

 

ポール・フレデリック・フォスター
Paul Frederick Foster 1889−1972

「史上最初に敵艦を撃沈した潜水艦長」


わたしは戦史というものを、あくまでも客観的に見ることをモットーとして
どんな事例も扱っているつもりなのですが、このサブマリナーシリーズなどで
日本の船を沈めて、その成績がトン数で1位だの隻数で1位だの、
その数で勲章をもらったりしている事例を調べていると、
正直決して穏やかな気持ちでいられず、なんとなく胸のざわめきを感じるのは、
これはもう日本人として致し方ないことだとだと思います。

そして、たとえば前回お話しした、

「軍機を守るために艦と運命を共にしたクロムウェル艦長」

の乗っていた「スカルピン」の生存者42名が、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して
日本本土へ護送される途中、冲鷹は「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192)
の雷撃により撃沈されてほぼ全員が死んでしまったわけですが、
この事実に対して、ザマアミロとかいうタチの悪い感情まで行かないまでも、
少なくとも「因果応報」という言葉を思い浮かべずにはいられないわけです。


ちなみに「山雲」に撃沈された「スカルピン」の生存者は当初42名。
護衛していた大型輸送船「龍田丸」を撃沈したカタキであったことから
(龍田丸は乗組員便乗者約1500名全員戦死)海上の彼らに対して
「冲鷹」乗組員は報復しようとしたのですが、艦長がそれを制止しています。

その「冲鷹」が米潜に撃沈されたのは、艦長の命令によって救助した潜水艦乗員に対し、
艦上でコーヒーとトーストを与えた直後のことであったといわれます。


さて、長々と何が言いたいかというと、このフォスター中将は
そのメダル授与の功績が対日戦ではないので、少なくとも
この微妙な感慨を持たずに済む、ということです(笑)

フォスターが名誉勲章を与えられたのはなんと

ベラクルスのアメリカ占領(1914年)

での功績に対してでした。

トランプが大統領になって「アメリカファースト」のスローガンのもと、
メキシコ移民を防ぐための壁を作るの作らないのという話もありましたが、
アメリカとメキシコというのは、昔から隣同士で色々ありましてね。

仲が悪い隣国同士で、経済力の低い方が高い方に移民としてなだれ込み、
それが問題になる、というのも世界各地で共通の事例です。

メキシコ革命の時には、アメリカの水兵がタンピコでメキシコ兵に拘束された、
というタンピコ事件がきっかけとなり、アメリカ軍が出動、
戦闘ののち、ベラクルスを半年間占領するという事態になったことがあります。
ちなみに、タンピコ事件でメキシコは、アメリカに一応謝罪したにも関わらず、

「誠意を表すために星条旗を掲揚して21発の祝砲発射を行え」

とさらに威圧され、頭にきてその要求に従いませんでした。
これをアメリカは攻め込むきっかけにして占領までしてしまったのです。

いやこれね、アメリカさん、もしかしてメキシコが従わないのをわかっていて、
こんな無茶な条件を突きつけたりしてません?

左から4番目のすらっとしたのがヴェラクルスの時の少尉だったフォスターです。 
メンバーは USS 「UTAH」 (BB31)の乗員で、この戦いの時フォスターは
「ユタ」の砲撃を指揮しました。 

フォスター左


海軍兵学校卒業後、フォスターが乗務した潜水艦はUSS G-4(SS26)。
第一次世界大戦ではUSS AL-2(SS41)でドイツのUボートを撃沈し、
これが初めて敵艦を撃沈したアメリカの潜水艦となりました。

つまりフォスターは「初めて敵艦を沈めた潜水艦艦長」だったわけです。 

 

その後は軍関係のブレーンとしてルーズベルト政権のために働き、
終戦後中将として海軍を引退しました。

 

サミュエル・デイビッド・ディーレイ
Samel David Dealey 1906-1944

「サブマリナーズ・サブマリナー」サブマリナーズサブマリナー」


彼にはたくさんのあだ名がありました。

「トルピード・トタン・テキサン」(魚雷を持ったテキサス人)

「デストロイ・キラー」(駆逐艦ゴロシ)

そして、

「サブマリナーズ・サブマリナー」、潜水艦乗りの中の潜水艦乗り。

それほどまでに潜水艦に乗っているのが似合っていた男。
ということは、日本の艦船をいやっというほど沈めたということでもあります。

彼が指揮した潜水艦「ハーダー」の通商破壊作戦における武勲は目覚しく、
最も輝かしい5度目の哨戒では、駆逐艦2隻(「水無月」と「早波」)を撃沈、
ほか2隻を大破させた功績によって、名誉勲章を授けられました。

「潜水艦乗りの中の潜水艦乗り」らしく、ディーレイ艦長は
潜水艦に乗ったまま、壮烈な最後を遂げています。

 

1944年8月、「ヘイク」とともに哨戒していた「ハーダー」は、
民間船の護衛で付きそう第22号海防艦と第102号哨戒艇を発見しました。

 

第22号海防艦に潜望鏡を発見されたので「ハーダー」は魚雷を3本発射。
しかしいずれも脇ををかすめ、逆に海防艦から攻撃を受けます。
海防艦は爆雷を投射器から12個、
軌条から3個「ハーダー」に向けて投下しました。

やがて攻撃地点から多量の噴煙や重油、コルク片が浮かび上がりました。
潜水艦「ハーダー」が15発の爆雷全てを浴び、撃沈された瞬間でした。


ディーレイが1943年に授与されたネイビークロス。

1945年8月22日、彼の功績に対して名誉勲章が与えられましたが、
授与式で勲章を受け取ったのは未亡人と三人の小さな子供達でした。

 

このとき「ハーダー」を撃沈した第22号海防艦と第102号哨戒艇は、
いずれもその後、大東亜戦争を無事に生き残ったということです。

 

 

 

 

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米海軍サブマリナーの肖像 その1

2017-06-20 | 海軍人物伝

「潜水艦のふるさと」を自称するコネチカット州グロトン。
海軍潜水艦基地に併設されたサブマリンミュージアムには
伝説のサブマリナーを紹介するコーナーがあります。

以前、わたしは敵銃弾に傷ついた自分の収容を拒んで潜行を命じ、
壮烈な戦死を遂げた「グラウラー」艦長、ハワード・ギルモア中佐について
一項を費やしてお話ししたことがあります。

このコーナーではギルモア艦長の遺品も見ることができます。

銀縁のメガネ。
アメリカ海軍の軍人が眼鏡をかけていたというのはちょっと意外です。

指揮刀とベルト、そして中佐の階級がついた肩章。
サブマリナーの徽章もおそらく艦内に残されたのでしょう。

戦死した二人と傷ついた艦長を艦橋に残し、今潜行して行く「グラウラー」想像図。
潜行を命じたギルモア艦長は苦悶の表情を浮かべて最後の瞬間を迎えます。

ここニューロンドンの潜水艦基地にあった潜水学校の同級生と。
1942年、中佐の戦死直前に撮られたもので、階級章から判断すると
真ん中の人物がギルモア中佐ということになります。

さて、それではそのほかにここに名前を残しているサブマリナーを
紹介していきます。

 

ジョン・フィリップ・クロムウェル大佐 
Jhon Phillp Cromwell 1901-1943 

軍機と共に艦に残ることを選んだ司令官

潜水艦隊司令としてクロムウェル大佐が座乗していたのは

旗艦「スカルピン」 USS-191

ギルバート諸島攻略のための「ガルバニック作戦」に参加したスカルピンは
艦長フレッド・コナウェイ中佐の指揮のもと、1943年11月、
トラック諸島へと哨戒を開始しました。

「スカルピン」はレーダーで探知した船団を民間船と思い込み追撃しましたが、
実はそれらは日本本土へ帰る軽巡洋艦「鹿島」と潜水母艦「長鯨」、
その護衛の駆逐艦「若月」と「山雲」だったのです。

「山雲」による猛烈な爆雷攻撃によって「スカルピン」は漏水し、
おびただしくソナーも破壊されました。

コナウェイ艦長は、生存のチャンスを得るために意を決して浮上し
決死の砲撃戦を挑みますが、「山雲」からの初弾が「スカルピン」の
艦橋に命中して艦長以下幹部が戦死。
最先任となった中尉が艦の放棄と自沈を命じ、総員退艦が行われます。

しかしクロムウェルは、日本軍の捕虜になった時に自分の知っている
最高機密情報が敵に渡ることを良しとせず、C・G・スミス・ジュニア少尉以下
11名の乗組員とともに艦に留まりそのまま艦の運命に殉じました。

 

「スカルピン」の生存者はその後2隻の空母、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して
日本本土へ連行されたのですが「冲鷹」に乗艦した20名は12月2日に
「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192) の雷撃で沈没した際に19名が死亡し、
残る1名は通過する日本軍駆逐艦の船体梯子を掴んで救助されました。

ちなみに現地の説明には「山雲」という単語は全く見られません。


リチャード・H・オケイン少将
Richard Hetherington O'Kane 1911-1994

敵撃沈記録歴代一位の艦長

オケイン少将はギルモアやクロムウェルのように戦死したわけではありませんが、
艦長として乗り組んでいた潜水艦「ワフー」が自爆してその後捕虜になり、
終戦まで大森捕虜収容所に収監されていました。

「ワフー」が沈んだ時、オケインは突如現れた日本海軍の駆逐艦に
果敢に攻撃をを加えていたのですが、発射した魚雷が戻ってきてしまい、

(そんなことあるんだ)自分で自艦を撃沈してしまったのです。
これが本当のオウンゴールってやつですね。

爆発の瞬間オケインはコニングタワーのハッチを閉めたため、
そこにいたオケイン始め15名が助かりましたが、全員が艦とともに沈みました。

この時のイメージがイラストで表現されていました。
オケイン艦長を含むコニングタワーの生存者たちが、
爆発の煙がどこからともなく漂ってくる艦内で
脱出の準備を行なっているところです。

しかしこんな経験をしたら人生観が変わるだろうなあ・・・。 

 

潜水艦長としては 敵船団の真ん中に位置して前後の船を攻撃するなど
革新的ないくつかの運用戦術を開発し優れた戦果を挙げ、撃沈した敵船舶の総数
24隻総トン数93,824トンは大戦中のアメリカ潜水艦艦長の中でトップです。

戦後帰国したオケインはトルーマン大統領から名誉勲章を授与されました。

戦後は潜水艦畑で教官職も務め、潜水艦部隊の指揮官として
数多くの勲章を授与されています。

死後、アーレイバーク級駆逐艦の28番艦には彼の名誉を讃え、

オケイン(USS O'KANE DDG-77)

とつけられました。
潜水艦一本だったご本人には駆逐艦は少し残念かもしれませんが、
潜水艦には人名は命名基準となっていないので、仕方ありませんね。 



ジョージ・レーヴィック・ストリート三世
George Levick Street III  1913−2000

「サイレント・サービス」


ストリートという単語は普通ですが、この名字は珍しいですね。

ストリート三世は戦死してないし捕虜にもなっておりません。
ただ、指揮官として優秀で、たくさんの日本の船を沈めました。

Silent Service S01 E11: Tirante Plays a Hunch

 

この「サイレントサービス」という一連の映画は、実写と演技を織り交ぜ
ドキュメンタリーのような作りで大戦中の潜水艦を語るシリーズです。

実話かどうか知りませんが、捕虜にした朝鮮人が英語でお金を要求し、
その代わりに日本軍の情報をペラペラ喋ったという設定で、これは実写らしい
「ティランティ」が「白寿丸」を攻撃する様子が映っており、
一番最後にはストリート艦長と副長のエドワード・ビーチがゲスト出演してます。

このシリーズは海軍省の制作によるものですが、ストリートは
番組制作に技術顧問という形で協力していました。
 

イラストは戦闘中潜望鏡を覗き込むストリート艦長の勇姿。 

ストリートは86歳で亡くなりましたが、遺言によって遺体は火葬され、
遺灰は海に散骨し、残り半分はアーリントン国立墓地に埋葬されました。


ヘンリー・ブロー
Henry Breault 1900-1941

仲間を救うために沈む艦内に戻った下士官

肩書きも何もないのは、彼が士官でもましてや艦長でもなく、
潜水艦勤務の一水兵だからです。

 

ブローという名前はおそらくフランス系であり、ヘンリーではなく
アンリであったのではないかとも思うのですが、それはともかく。

ブローは潜水艦という兵種ができて最初に乗り組んだ海軍兵士です。
1900年の生まれで17歳の時、「Oクラス」潜水艦の5番艦、
「O-5」(SS-66)の乗員となりました。

彼の肩書きにはTM2がつきますが、これは「トルピードマン2」の意です。

1923年、O-5は潜水艦隊、O-3  (SS-64) 、O-6  (SS-67) 、
およびO-8 (SS-69)を率いてパナマ運河を横断していました。

その時同海域をドック入りするために航行していた蒸気船「アバンゲイレス」が
操舵のミスを起こし、 O-5に衝突してしまいます。
衝撃でO-5は右舷側のコントロールルームに近くに10フィートもの破孔ができ、 
メインのバラストタンクが破損しました。

艦体は左舷側に向かって鋭角に傾き、そして右舷側に戻り、
その後艦首部分が先から13m海中に没します。

蒸気船はすぐさま救助活動を行い、指揮官を含む8名を海中から拾い上げました。
彼らのほとんどは上層階にいて素早くハッチを登ることができた者でした。

近くにいた船舶も救助を行い、何名かを救い上げましたが、
O-5はわずか8分後に沈没。
掬い上げられたのは16名で、艦内には魚雷発射係であるブロー始め、
機関長のブラウン、そしてさらに3名が残されていました。

爆発が起きた時、ブローは魚雷発射室で作業をしていましたが、
ちょうどラッタルを登ろうとしていたところでした。
素早くメインデッキに抜けたブローは、そのとき機関室で
ブラウンが仮眠をとっていたことを思い出しました。

彼は機関長の所に戻り、とっさにハッチを閉めて海水の流入を防ぎました。
そのまま登っていけば艦を脱出できたのにもかかわらず。

ブラウン機関長は目を覚ましていましたが、総員退艦の命令が出たのを
全く知らず、呆然としていました。
二人の男たちはコントロールルームを抜けて艦尾を目指しましたが、
前部電池室にも海水が入ってきていて通り抜けることはできません。

彼らは水かさが増す魚雷発射室を通り抜け、バッテリーがショートして
誘発を起こさないようハッチを閉めながら進みました。


サルベージ作戦と彼らの救出作業はすぐさま始まりました。
ココ・ソロの潜水艦基地からは現地にダイバーが派遣されました。

生存者の反応を求めてダイバーは艦首から順番に艦体を叩いていきましたが、
魚雷発射室に来た時、中からハンマーで艦体を叩く音を確認しました。

当時は現代のような潜水艦の救助設備がなく、方法というのは
クレーンか浮きを使って泥から艦体を引き上げるしかなかったので、
その時にたまたま近くにあったクレーンを使ってダイバーが艦体の下に
ケーブルを渡し、それを持ち上げるという方法がとられました。

しかし、一度ならず二度までもケーブルが破損し、救助は難航します。
全ての関係者が不眠不休で必死の作業に当たった結果、10月29日の深夜、
事故が起こってから31時間後に、O-5の艦首は持ち上がり、
魚雷室のハッチが開けられて二人の男たちは生還したのです。

ブローは名誉勲章、海軍善意勲章、防衛庁の勲章、救命勲章などを授与されました。

米国の潜水艦O-5における事故の際に発揮された勇気と献身のために。
彼は自分の命を救うため艦外に脱出することをせず、
閉じ込められた乗員の救助のために魚雷室に戻り、魚雷室のハッチを閉じた。

彼が栄誉賞を受けた時の大統領カルビン・クーリッジ(写真)はこう言って
彼の英雄的な自己犠牲の精神を称えました。

 

 

続く。 

 

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西澤広義エキジビット@戦艦「マサチューセッツ」

2016-11-30 | 海軍人物伝

戦艦「マサチューセッツ」の艦内で、西澤広義海軍中尉のイラストに遭遇し、
おおお!と思わず嬉しくなってしまった日本人のわたしです。

展示に当たってはアメリカ人のブラマンさんという人が
サインペンかなんかで描いたらしく、サインがしてありました。

「マサチューセッツ」艦内の展示区画には、「敵国軍コーナー」もあり、
このようにドイツ海軍将校のマネキンがひときわ人目を引いていたりします。

この軍服は少尉のもので、海軍独特のダブルブレスト、(今でもそうらしい)
右のボタンの上から二番目に斜めにあしらわれた赤と白のリボンがおしゃれ。

世界で最もそのデザインを高く評価されていると言われるナチスドイツの制服、
陸空だけでなく海軍もさすがのスマートさです。

ドイツの洋服製造業者フーゴ・ボスがナチスドイツのためにデザインした
突撃隊、親衛隊、ヒトラー・ユーゲントの制服は当時のドイツの青少年や
女子などの憧れを誘い、それは未だに「最も成功した軍服」の地位を縦にしており、
フーゴの会社は現在も紳士服のブランドとして名高い「ヒューゴ・ボス」として
ファッション界で評価を得ています。

アメリカでは日本より少し安価で流通していて、わたしもアウトレットで
薄い夏用の皮のワンピースを買ったことがあります。

フーゴ・ボスが海軍の軍服まで手がけたかという話は
どこにも言及されていずわかりませんでした。
 

さらに彼の周りには艦の模型もあったのですが、急いでいたので省略。

日本軍コーナーで詳細な説明をされていたのが、海軍の零式戦闘機。
感心なことに、「zero」ではなく、ちゃんと

MITSUBISHI A6M REISEN

と表示されています。
この下にある説明には

A6Mがアジアに出現したのは1941年のことであり、
これはイギリス、中国軍にとっては全く嬉しくない驚きとなった」

続いて

「同じ驚きがパールハーバー以降のアメリカ軍を待っていた」

零戦の初陣は1940年の9月、重慶ですから、しょっぱなから
年号が間違っていてることになります。
それと、実際に戦っていないとはいえ、中国大陸での零戦のデビュー、

少なくともフライングタイガー界隈は知ってたと思うんですけどね。

残りも訳しておくと、

「A6Mは駆動性にずば抜けて優れ、火力も強く、スピードのある戦闘機で、
経験豊かなパイロットたちが操縦し満州上空での優位を誇った。

これほど衝撃的な航空機は戦争中に零戦をおいて現れることはなかった。
1600kmの航続距離を誇り、その最盛期には太平洋においてほぼ無敵であった。

この図の零戦は210航空隊所属のA6M5であり、戦争最後の年に製作されたものである。
このころの日本はA7M「烈風」の製作に腐心していた(desperately clear ) が、
同時に多くのA6Mがカミカゼ特攻攻撃によって、敵艦船のデッキや
その周りの海でその生命を終わらせていった。

A6Mの総生産数はその派生型も含め11,291機であり、
そのうち6,897機が中島製である」

並んで「隼」。

「NAKAJIMA Ki-43 HAYABUSA

1930年代、日本空軍の主力飛行機はNakajima Ki-27、
ランディングギア固定式の飛行機だった」 

あのー、日本に空軍ってなかったんですけど・・・。
うちの軍事音痴のTOという人は、少なくとも5年前は
旧日本軍に空軍がなかったことを知りませんでしたがね。

「この後継型として1939年に中島が世に出したのが
Ki-43であり、その敏捷性を引き継ぎながら速度は大幅に増した。
7.7mmと12.7mmの2種類の機関銃の搭載が検討され、
結局後者が選ばれている。

隼という愛称で呼ばれたこの戦闘機は、デビュー当初
熟練された搭乗員たちによって操縦され、シンガポールにおいては
RAFのブリュースター・バッファローを一掃した」

バッファローというのはアメリカ軍では何かと評判が悪く、
日本側に熟練の搭乗員は殆ど残っていなかったとされるミッドウェーでも
19機のうち13機が零戦に撃墜されてしまっています。

「Ki-43は東インド洋でも勝利を続けたが、シェンノートの
フライングタイガース出現後は敗色が濃くなり、
その後次々と現れてくる敵の新型航空機の前に陳腐化していった。

この隼はKi-43-IIIで、1945年、満州の第48戦隊の所属である。
5,919機が生産され、そのうち2,631機が立川で製造された」
 

零戦を配したジオラマがありました。
アーサー・ドルモンドさんというモデラーの作品で、題して

"SAIPAN SURPRISE"

サイパンにアメリカ軍が上陸して1ヶ月後、日本軍は玉砕しました。
おそらくその後、島に不時着していた零戦を発見した米軍の部隊が
驚いてその操縦席を覗き込んだりしているシーンを再現したのでしょう。

飛行機の傍らには燃料の入っていたドラム缶が転がり、
日の丸の旗が地面に打ち捨てられています。

このコーナーには日本機の模型も幾つか展示してありました。

Kyusyu J7W1 "SHINDEN"。

局地戦闘機「震電」・・・・んんん?どれが?

wiki

もしかしたら「震電」はこの右側にあったのか?

その右側。全然違くない?
ちなみに現存する唯一の「震電」の機体はスミソニアンにあるそうです。

 

Nakajima A6M2 "Rufe"(左)

”ルーフェ”ってなんだよ。
連合国のコードネームをちゃっかり名前にしてんじゃねー。

と一人静かに突っ込んでしまった二式水上戦闘機。

Aichi M6A1 "Seiran"(右)

伊四百型潜水艦(のちに伊十三型潜水艦をも加える)を母艦として、
浮上した潜水艦からカタパルトで射出され、攻撃に使用されるために
計画された 水上機「晴嵐」。

伊四百が見つかったときのアメリカ人の興奮は大変なものだったと言いますが、
その潜水艦に折りたたみ式の戦闘機を載せてしまうなんてクレージー。
ということでこちらもアメリカ人的には大受けした「晴嵐」。

どちらもとんでもない変態兵器であることには変わりありません。
万が一日本がお金持ってたら戦争勝てたんじゃないかとこういうのを見ると思います。 

いや、そもそも日本にお金があったら戦争起こしてないか。 

奥のジオラマのタイトルは

"Totaled Zero"(完全なゼロ)

戦地にそのままの形で残されていた零戦を再現。

ここにアメリカ人パイロットの写真が一枚ありました。

ALFRED・B・CENEDELLA Jr.(セネデラ?)中尉

この戦艦「マサチューセッツ」に乗り組んでいた予備士官で、
本艦から発進する「キングフィッシャー」(ヴォート)のパイロットでした。

戦後は「マサチューセッツ」をフォールリバーに展示するために
大変な尽力をしたということで感状を受けたそうです。

この名前で検索すると、彼の息子と思しき「三世」が、
この夏(2016年)マサチューセッツで亡くなったという告知が出てきます。

 

B-29スーパーフォートレスの模型もありますね。(投げやり)

「震電」の正しい写真がこの後ろにあったりするんですが(笑)

旧日本軍機の写真がこのように展示されているケースに、


「〜の飛行士戦死者の霊に捧げ」

という部分が見えた襷状のものがありました。
日本人が書いたのは間違いないですが、なぜ逆さまに置いてある。

この、軍艦旗の模様も怪しい海軍搭乗員に捧げているつもりで
向こうを向けてあるのかと善意に解釈してみたのですが。

それにしてもこれ、誰?怖いんですけど。


さて、それでは最後に、「ニシザワ・エキジビット」とされている

西澤広義中尉の説明を訳しておきます。


ヒロヨシ・ニシザワ
海軍中尉

1920年1月27日〜1944年10月26日

長野県の山間の村に、造り酒屋の5人の息子の末っ子として生まれた。
小学校卒業後は織物工場で働いていたが、1939年、海軍航空訓練生に応募し、
71人の卒業生の16番で卒業した。

卒業後は大分、大村航空隊、ついで千歳航空隊に入隊した。
彼の最初の敵機撃墜は1942年3月、ラバウルにおいてであり、
乗機は三菱A6M4タイプ96式戦闘機(コードネームはクロード) だった。
42年の2月から彼は第4航空隊に所属しており、米空軍第7戦闘機隊の
P-40を共同撃墜している。

4月1日、第4航空隊は台南航空隊と合併する。
台南航空隊はラエから発進しポートモレスビー攻撃を行った。
 
西澤の最初の勝利はポートモレスビーにおけるPー39撃墜であり、
これは1942年の5月のことである。

1942年8月7日のアメリカ軍のソロモン諸島進出を受けて、 
西澤はガダルカナル攻撃に従事し、同日の間に
4機のワイルドキャットを撃墜したと報告している。
(連合国側の記録ではこの日喪失した機体は12機である)

10月の終わりまでに彼の空中戦における撃墜記録は30機となった。

台南航空隊はラバウルでの戦闘によって搭乗員がほとんど失われ、
解散して帰国後251空に改編されたが、彼はその生存者の一人であった。


1943年6月には、帝国海軍は撃墜数を個人記録ではなく、

隊全体の記録として申告するようにという布告を出したため、
西澤の記録は公的には正確なものが残っていない。

家族に出した手紙には、彼は147機を撃墜したと書いており、
のちに彼が死亡したとき、それを報じる新聞記事では150機となっていた。

彼は最後の直属の上司には撃墜数を86機だと申告しており、
おそらくこれが確実な撃墜数に近い数字であろうと現在考えられている。

彼は大分の航空隊での教官となったが、この仕事を嫌悪しており、
最後には忍耐の限界にきていたようである。

1944年10月24日、アメリカ軍のフィリピン上陸を機に
彼は戦地に戻ることを決意し、特攻隊を志願した。
しかし、彼の技量を高く評価していた上層部はそれを拒否し、
その代わりに最初の神風特攻隊の援護を任命した。

1944年10月25日、関行男大尉を隊長とする5機の特攻隊を
突入する敵艦隊のいるレイテ湾まで援護する任務である。

5機の特攻機は4隻の護衛空母に突入し、そのうちの1隻、
セイント・ロー CVE-63を沈没せしめ、ホワイトプレインズ、
カリーニンベイ、キトカンベイにいずれも大打撃を与えた。

西澤の援護隊はさらに2機のF6Fヘルキャットを撃墜し、1機を失っている。


翌日、西澤は他の搭乗員とともにセブに向かうため爆撃機に乗った。

彼らはルソン島のマバラカットで飛行機を受け取ることになっていた。

西澤が乗った爆撃機は、ミンドロ島上空で爆撃機は待ち伏せしていた
第14航空隊の
2機のヘルキャットの攻撃を受け、
ハロルド・P・ニューウェル中尉の
操縦するヘルキャットに撃墜された。

その魅力的な人生において、彼は自分が絶対に空戦で
撃墜されることはないと信じていたし、その通りになった。

自分が操縦者ではなく乗客として飛行機に乗るという、

彼にとって滅多にない機会に敵に襲われることになったため、
いかに天才の彼も
自分を救うことはできなかったのである。

第二次世界大戦では、日本軍は個人の戦闘機搭乗員の
戦功を広く告知するということをしなかった。
いかに英雄的な行為も単に任務の一部であり、
それ以上でもそれ以下でもないと考えられていたようである。

しかし戦争も末期になって本土攻撃が激しさを増すと、このポリシーは変化して、
搭乗員の功績を広報するようになってきた。

西澤の功績は1943年の時点で全軍布告され、草鹿任一海軍大将より
軍刀を授与され、中尉に昇進している。

 

明らかな間違いには線を引いておきました。
西澤が中尉に昇進したのは、戦死して2階級特進になったからです。


この大きなイラストと丁寧な説明にも見られるように、西澤広義は
日米両軍を通じたトップエースとしてアメリカで
認識されていました。

 

「マサチューセッツ」シリーズ、次回いよいよ最終回です。

 

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潜水艦「グラウラー」とギルモア艦長

2016-04-11 | 海軍人物伝

冷戦期に建造され、アメリカ海軍初の艦対地ミサイル「レギュラス」を
を搭載していた、潜水艦「グラウラー」について、イントレピッド博物館で
見学した関係からずっとお話ししてきたのですが、すこし寄り道です。


この「Growler」、日本語表記では「グロウラー」となっていますが、実際の発音に忠実に
ここでは「グラウラー」で通しています。

先日このグラウラーを航空機の「うろうろする人」のプラウラーと韻を踏んで?
「ガミガミ言う人」ではないかと仮定してみたのですが、どうやら魚の
「オオクチバス」の通名であるらしいことが各種調べにより判明しました。

そういえばガトー級の潜水艦というのはガトー(トラザメ)がそうであるように、
例外なく魚類の名前を付けられていたんでしたっけね。

というわけで、「グラウラー」という名前の米艦艇は全部で4隻存在します。
今日お話ししたい3代目の潜水艦「グラウラー」は、1942年に就役して日米戦争に従事しました。



「グラウラー」は1941年2月に発注され、11月には進水式を行い、
翌年3月に艤装艦長であったウォルター・ギルモア少佐の指揮下、就役しました。
すでにヨーロッパでは戦争が始まっていたため、発注から就役までの時間が短く、
就役した途端、「グラウラー」は太平洋戦線に投入されます。

「グラウラー」が第一回目の哨戒に出たのは1942年の6月。
早々に6月5日から始まったミッドウェー海戦において、
総勢19隻からなる潜水艦隊のうちの1隻として出撃しています。


その後、「グラウラー」はアリューシャンに向かいました。
キスカ島付近で哨戒中駆逐艦「霰」(あられ)と「不知火」を
それぞれ、沈没・大破せしめ、これが「グラウラー」にとっての初戦果となります。
「霰」も「不知火」も復旧させることに成功していますが、この時の被害の責任を負って
第十八駆逐隊司令は自決しています。

逆に、「グラウラー」艦長であるギルモア少佐は、この戦功に対し、
海軍十字章を授けられました。
冒頭の絵でギルモア少佐が胸につけているのは、このときの勲章か、
あるいはこのあとに授与された金星章であると思われます。
(十字勲章の色はブルーと白であるのに調べずに描いたので
赤と白ですorz)



27日の任務を終えて7月、真珠湾に帰還した「グラウラー」は、
8月に出航した第2回哨戒で対潜掃討中の千洋丸(東洋汽船)、輸送船「栄福丸」、
特務艦「樫野」、輸送船「大華丸」をそれぞれ撃沈しました。

彼我両方の潜水艦の使命は、当時通商破壊活動、つまり商船、輸送船を鎮めることでした。

この哨戒中、「グラウラー」は「氷川丸」を発見していますが、攻撃していません。
「氷川丸」は病院船であったにもかかわらず、戦時中なんども敵の攻撃を受けています。
緑の十字がついていても、偽装を言い訳の理由に攻撃する米艦がいたということですが、
少なくとも「グラウラー」は国際法に反することはしなかったのです。

これが艦長の指示であることは明らかで、この件からもギルモア艦長が
「海の武士道」を(アメリカだから騎士道?)重んじる武人だったことが窺い知れます。


第3回目の哨戒において、ソロモン諸島付近に派遣された49日間、

「グラウラー」には不気味なくらい何も起こりませんでした。
敵に発見されることも敵と交戦することもないまま、帰投したのです。

まるで次回の哨戒における悲劇のまえの静けさのように。


第4回目の哨戒作戦は、1943年1月1日から始まりました。
前回と同じく、ソロモン諸島が哨戒する海域です。

1月16日、トラック島付近の交通を警戒監視していた「グラウラー」は、
船団を発見し、輸送船「智福丸」を攻撃しています。
「智福丸」は陸軍の輸送船で、もしかしたら陸軍の師団を乗せていたのかもしれません。

土井全二郎著「撃沈された船員たちの記録―戦争の底辺で働いた輸送船の戦い」という
戦記本で、一度読んで強烈さに今でも忘れられない一節があります。

「船が攻撃されて沈むということになった時、四角くくり抜かれた穴から
船底にいる陸軍の軍人たちの一団が一斉にこちらを見て、
”まるで豚が絞め殺されるような”叫び声をあげていたのを見た」

という生き残った船員の話です。
このときの「グラウラー」の攻撃によるものだったかどうかはわかりませんが、
いずれにしても航行中の輸送船の沈没によって、多くの軍人の命が、徴用された
船員たちと同じように失われていったのでしょう。 

 


そして運命の2月7日がやってきました。

「グラウラー」が輸送船団を発見し、水上攻撃を仕掛けるため接近していったところ、
彼らより早く「グラウラー」に気づいた別の船が、まっすぐ突っ込んできていました。


このときに遭遇した相手は特務艦「早埼」(はやさき)でした。
給糧艦であった「早埼」は、船団を攻撃しようとしている敵潜水艦を
見つけるなり、まともに戦っても勝ち目はないと思ってか、体当たりを敢行したのです。

「グラウラー」は敵船団に近づきながら海上で蓄電を行っていました。
しかも実際には「グラウラー」の方が先に「早埼」を発見しており、
その行動をレーダーにより察知していたにもかかわらず、艦橋にいたギルモア艦長以下

当直見張り員は「早埼」の動きに気づきませんでした。

どうしてレーダー室の方から艦橋に伝達しなかったのかも不思議ですが、
いずれにせよ、これが「グラウラー」にとって不幸な結果となります。

ギルモア艦長はこちらに突っ込んでくる「早埼」を認めるなり、

「いっぱいに取り舵!」“Left full rudder!“

と命じました。
「グラウラー」はそのとき17ノットの速力で航行しており、(最大速度は20ノット)
おそらく艦長は「早埼」の右舷側をすり抜けようとしたのだと思いますが、
転舵は間に合わず、艦体が「早埼」の中央部に衝突し、艦首部は5~6mにわたって折れ曲がり、
艦首発射管はこの衝撃で潰れ、衝突の衝撃で艦は50度も傾きました。


その後、「グラウラー」の艦橋に向かって「早埼」からは機銃が乱射され、
また高角砲も次々と撃ち込まれてきます。
艦橋に上がっていた当直見張り員のうち士官と水兵の計2名は即死。
生き残ったギルモア艦長以下全員も今や負傷していました。
重傷を負ったらしいギルモア艦長は、艦橋の手すりに身をもたせたまま、
き残った艦橋の乗組員に対して


「艦橋から去れ!」“Clear the bridge!“

と命じました。
副長のアーノルド・F・シャーデ少佐は、そのとき一緒に艦橋にいましたが、
軽い脳震盪から回復して艦長が艦内へ退避してくるのを待っていました。

ギルモア艦長も続いて避退しようとしましたが、ハッチにたどり着く直前、
機銃で撃たれて再び昏倒します。
次の瞬間、副長と艦内の多くはギルモア艦長の最後の命令を耳にします。


「潜航せよ!」“Take her down!“


副長は驚愕し、一瞬は逡巡も感じたと思われますが、彼がそれを選択するより早く、
ギルモア艦長は外からハッチを閉めてしまいました。
シャーデ副長はギルモア少佐の意図をすぐさま理解し、絶対である命令通り、

艦を急速潜行させて「早埼」の攻撃から脱出して危機を逃れました。

ギルモア艦長は、おそらく重傷である自分がハッチを降りることは
一人では不可能であり、一刻を争うこの時間に自分が助かることは、
「グラウラー」の全乗組員の命と引き換えであることを悟ったのでしょう。

彼は艦長として、自分の命を棄てて艦を救うことを選んだのです。


それにしても、外からハッチを閉めるくらいの力がのこっていたのなら、
とりあえず中に飛び込むくらいはできたのではないのかとも思うのですが・・。



戦死したギルモア少佐には、潜水艦隊の艦長として、初めての名誉勲章が与えられました。
副長のシャーデ少佐は、ギルモア少佐戦死後すぐさま艦長心得(代理?)となり、
この4回目の哨戒作戦となる航海をとりあえず終えます。

この写真は第6次哨戒のときのものだそうですが、真ん中がおそらく

シャーデ少佐であろうと思われます。

この後も哨戒に何度も出撃した「グラウラー」ですが、第10回目の哨戒時、
わたしがここでお話しした「パンパニト」と「シーライオン」とで
"Ben's Busters"(ベンの退治人たち)と称する潜水艦隊を組み、東シナ海に出ました。

この時の哨戒で「グラウラー」は択捉型海防艦「平戸」、そして対潜掃討中の

駆逐艦「敷浪」を撃沈しています。 

 
第11回の哨戒活動が「グラウラー」にとって最後の任務となりました。
哨戒中ルソン島近海で待ち合わせていた僚艦の前に、「グラウラー」はついに現れず、
 海軍は「グラウラー」の沈没は原因不明のまま、ということで処理したのでした。

軍の記録の常として「撃沈された」とは認めたくない心理が働いたのでしょうか。
僚艦の潜水艦「ヘイク」は、避退行動中に、グラウラーのいるあたりから
150もの爆雷の爆発音も聴取したという報告を上げていたというのに。


同日の日本側の記録によると、


「マニラ入港前夜、雷撃を受け万栄丸沈没。
対潜掃蕩を行うも、戦果不明。即日反転、ミリ(ボルネオの港)に回航」
(第19号海防艦)

「マニラ入港前夜、マニラ湾入口にて敵潜水艦の雷撃を受け、万栄丸沈没。

対潜掃蕩後即日反転、ミリに回航」(千振) 

とどちらもが対潜掃討攻撃を行っているので、「グラウラー」がこのどちらかの
対潜爆弾(あるいはどちらもの)によって戦没したことは間違いないことに思われます。

 
現在、アメリカのサイトを検索すると、皆一様にギルモア少佐のことを
「ヒーロー」という言葉で称えているのがわかるかと思います。
自らの生命の危険を顧みず、他を生かそうとする自己犠牲の精神。
それをアメリカ人もまた、「英雄的行為」として賞賛するのです。





 

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沖縄県民斯ク戦ヘリ~太田實中将

2015-06-13 | 海軍人物伝

大東亜戦争で日本領土で地上戦が行われたのは唯一沖縄だけでした。

巨額の制作費を投じて世に出されたS・スピルバーグ制作の「ザ・パシフィック」は
その最終週近くに沖縄での地上戦がアメリカ側の視点から描かれます。

このブログでもかつて映画「ひめゆりの塔」を扱ったことがありますが、
犠牲になった女子学生に主眼を据えるなど、被害者の立場から語った日本映画はいくつかあり、
戦争映画に挿入されているものも含めれば、相当な数になるかもしれません。

しかし、アメリカ側から沖縄戦を描いたものはもしかしたら初めてかもしれません。
このテレビドラマシリーズは、元海兵隊員ユージーン・スレッジのノンフィクション、
「ペリリュー・沖縄戦記」を始め、実際にこれらの戦闘に参加した軍人の証言を
ドラマにしており、そのために大変リアリティのある描写が話題になりました。

そこにはヒーローはおらず、市井の善良な一市民が狂気の戦場で何を見、何をしたか、
淡々と事実が描かれるため、米兵が行っていた非人道的行為も糊塗することなく
そのまま平坦とも言える調子で映像化されています。
映像のあまりのリアリティに、わたしはこれをHuluで通して観たとき、
大画面で見なくてよかったと何度も思ったくらいです。


そして10シリーズの9番目が「沖縄」なのですが、ここで最も印象的だったのは、
乳飲み子を抱えた日本女性が、米兵に近づいていって自爆するという場面でした。
しかし、証言から取られたシーンが多いこの映画で、なぜかここだけ創作だそうです。

実際、民間人が軍役に就いている知人から手榴弾を入手するなどして自決したり、
本土決戦に備えて、少年兵に対戦車自爆攻撃の訓練を行ったという事実はありましたが、
女性や幼児による自爆攻撃は、米軍側の資料を含め、史実に残されていません。

しかし、捕虜にしようとした日本兵が米兵を道連れに自爆したり、米兵が民間人

(映画では少年だったが原作では老婆だそうです)を撃ち殺したり、ということは
度々起こったことであり、穿った考え方をすると「
子連れの女性が自爆」という創作は、

「であるから、米側としては、民間人であっても殺すしかなかった」

というマイルドな言い訳として挿入されたという気がします。

それにしても、米軍が沖縄に侵攻してきたとき、覚悟の上で軍に献身的な協力をするも、
次々と斃れていった沖縄県民が、戦後、本土の犠牲となったことの怨みをアメリカではなく
「日本」と「軍」に持ち続けるのも
当事者であれば致し方ないこととも理解できます。

そんな沖縄県民ですが、彼らの怨みの対象はなぜか海軍にはないと言われます。
その理由というのが、この大田中将(最終)の最後にありました。






太田實少将は海軍兵学校41期。

同期には草鹿龍之介木村昌福(まさとみ)などがいるクラスなのですが、
このクラスの恩師の短剣4人には、現在名前を聞いてすぐにそうとわかる軍人は一人もいません。

一番「出世」した草鹿龍之介も118人中26番ですし、109番だった木村昌福、
そして64番だった太田が
後世に名を残しています。

また先日「ルーズベルトニ与ウル書」で取り上げた市丸利之助もこの学年で、
(彼の成績は22番と”比較的”上位ですが)
木村、市丸、そしてこの大田少将に通じるのは、
いずれもその評価が、ハンモックナンバーで自動的に出世した地位で為した功績でなく、
もっと深いところの、人格や将器から生まれてきた結果であったことに注目すべきでしょう。

超余談ですが、この学年の後ろから7番目のハンモックナンバーに「東郷二郎」という名前があります。
これがうわさの東郷元帥の息子か?と思ったのですが、そうではなく、東郷は東郷でも、
日清日露戦争で第6戦隊司令官だった東郷正路中将の息子でした。

アドミラルトーゴー平八郎さんの方の息子はその一学年上の40期ですが、これも今調べてみたところ、
後ろから数えたほうがずっと早い、144人中121位なんですね(T_T)
しかしまあ、全員が超優秀な集団であるわけですし、
ハンモックナンバーが下の方、
といっても本人の不名誉だとはわたしは全く思いません。


東郷元帥だってそもそも秀才というタイプではなかったわけですし、
現に後世に称えられる軍人はハンモックナンバーとは無関係なことが多いのは、

今説明した実例にもある通りです。


大田少将は昭和21年1月から沖縄方面根拠地司令となり、その3ヶ月後に始まった沖縄戦において
進退極まり、五名の幕僚とともに6月13日、
壕の中の司令官室で自決しました。

軍人として華々しい功績をあげたわけでない一司令官の名前が現在も忘れられておらず、
そして沖縄の人々が海軍に対する反感を持たなかった理由は、大田少将が自決寸前、
海軍次官宛に打った一通の電報が、沖縄県民の心情を代弁していたからに他なりません。

沖縄県民の奮闘と犠牲を称え、後世必ずそれに報いてやってほしい、と締めくくられた電報には、
沖縄戦において、彼らがいかに一丸となって
戦い、犠牲的精神を発揮して、
父祖伝来の土地を守ろうとしたかが、
簡潔な、しかし血を吐くような調子で述べられていました。

それは現代語訳にすると次のようなものです。


沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、

県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる

県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、
現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせする

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、
県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった
にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛招集に進んで応募した

残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、
しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、
軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、
辛うじて砲爆撃を避けつつも
風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、
砲弾運び、挺身切り込み隊にすら申し出る者までいる

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、
女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、
生きながらに離別を決意し、
娘を軍営の門のところに捨てる親もある

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした
頼れる者のない重傷者の看護を続けている
その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ
移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して
勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、
(一部に悪評が無いわけではないが、)
ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、
遂に(判読不能)与えることがないまま、
沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして
草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという
 



米軍上陸当時、沖縄戦に備えて配備されていた部隊は、


運天港と近武湾に配置された震洋隊や咬龍隊、
魚雷部隊などの海上攻撃部隊、
南西諸島航空隊、
第951航空隊沖縄派遣隊、
砲台部隊、迫撃砲部隊

などです。
大田少将が、そのなかで第一次上海事変や2.26事件にも参加した経歴を持ち、
海軍における陸戦の権威であったのは確かですが、この人事の陰には、
前任の司令官が艦艇出身で、陸戦の指揮能力を全く持たなかった、とう事情がありました。

米軍が読谷海岸に上陸した時、大田少将は沖縄本島で1万人を指揮していましたが、
そのうち陸戦隊として投入できる兵力はわずか600人ほどで、しかも赴任にあたって、
大田少将は比喩でもなんでもなく、

「武器がなく竹槍で戦わなくてはいけないらしい」

というようなことを家族に漏らすという有様でした。


第32軍は米軍の飛行場占領以来、防御基地に立てこもり、米軍に対して
多大な犠牲を強いていましたが、参謀本部から

持久戦を捨てて攻勢に出るように

という要求が相次ぎます。
この要請は、実は海軍の主張によるものだったということですが、
5月4日に行われた総攻撃は、米軍の強力な防御砲火によって失敗しました。

このことが関係しているのかどうかはわかりませんが、その後5月24日、
米軍の上陸によって陸軍が首里を撤退することに決めたとき、陸軍の第32軍は
海軍司令部を陸軍第32軍の作戦会議に
呼びませんでした。
そして直前になって
撤退命令を出したのですが、大田少将は敢然とこれを拒否しています。

当初軍司令部が首里撤退に当たってその援護を命じたとき、大田と司令部は
その命令を読み誤り、一旦完全撤退しながら後から復帰しており、
大田の拒否はこのときの齟齬からくる陸軍への拒否だという説もあります。
このとき、「撤退をお断りする」電報はこのような内容でした。

「海軍部隊が陸軍部隊と合流するということは本当にやむを得なかったわけで、
もとより小官の本意ではありません。
したがって南と北に別れてしまったと言えども、陸海軍協力一体の実情は
いささかも変わっていないのであります。
今後はそちらからの電文にしたがって益々臨機応変に持久戦を戦うつもりです」


この電文からはなんとも言えず、実は米軍に退路を断たれたため、

撤退することは敵わなかったから、という推測も成り立ちますし、これは個人的意見ですが、
もしかしたら、大田少将は、撤退によって沖縄県民に犠牲を強いる可能性を懸念したのかもしれません。

事実、陸軍が首里を捨てて島尻地区に撤退したことによって、そこに避難していた島民が

結果的に激しい地上戦に巻き込まれることになっています。



いずれにせよ、この電報を発した翌日、海軍司令部は米軍三個連隊に包囲され、

二日間の抵抗ののち、大田少将は牛島軍司令官に対して

「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり。
根拠地隊は今13日2330玉砕す」

と決別電報を打ち、司令部の壁に辞世の句、

大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり

と書き記し、海軍次官宛にあの電報、その最後に

「沖縄県民斯く戦ヘり 県民に対し後世特別の御高配賜わらんことを」

と記された後世への遺書を打電して自決して果てたのでした。



アメリカ公刊戦史に記された沖縄戦の記述はこのようなものだそうです。


小禄半島における十日間は、十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準以下でありながら、
いつかはきっと勝つという信念に燃え、地下の陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、
しかも米軍に最大の損害をあたえるためには喜んで死に就くという、日本兵の物語であった。

アメリカの沖縄戦を語る視線は、むしろ残酷にも思えるくらいの憐憫に満ちています。



大田少将の兵学校では卒業時の成績は、だいたいクラスの真ん中。
学年途中で病気をして一旦最下位になったからとはいえ、入学時の成績も120名中53番ですから、

団体があれば必ず一定数いる、

”どんな集団に組み入れられてもなぜかいつも中間地点にいるタイプ”

であったという気がします。


その人物像もも皆が口を揃えて、温厚で包容力に富み、小事に拘泥せず責任感が強かったと証言し、
いかなる状況に遭遇しても不満を漏らさず、他人を誹謗するようなことはなかったと言われます。

しかしその反面、家ではすべての事は妻に任せっきり、髭剃りすら寝たまま妻にやらせる亭主関白。
妻とはそういうものだと思って育った娘が、新婚の夫に同じことをしようとしたら、
婿殿は刃物を持って迫ってくる嫁に殺気を感じて飛び退いたという笑い話まであります。

「軍人の妻になったからには夫が一旦任務に就けば、家庭のことはすべて自分でやれ」

という考えのもとに、大田自身は、たとえ子供や妻本人が病気でも、一切手を貸しませんでした。



大田中将は子沢山で、男女合わせて11人の子供がいました。
その理由というのも、兵学校で一番後に結婚したと思ったら、もう一人未婚が残っていて、
さらに一番若い嫁(18歳)をもらったと思ったら、さらに若いのと結婚した同級生がいた為、

「何も一番になれないのは悔しいから、子供の数でクラス1になる!」

と妻に向かって宣言したからだそうです。

11人の子供たちへの教育方針は”海軍式(海兵式?)”。
大田家の朝は海軍体操に始まり、心身を徹底的に鍛えるという家訓のもと、
妻は夫のいない間も、毎日子供たちを連れて海に泳がせに行かねばなりませんでした。
父親である大田少将が子供たちを率いる時には、皆が見ているのも構わず、
砂浜で海軍式号令をかけて、海軍体操を始めるのが常でした。

そして、自分が胃腸を患ったせいで、つり革につかまるのはもちろん、
お釣りを受け取っても激怒されるという理不尽な潔癖性ぶりで子供たちを悩ませていました。



そんな父、大田中将が沖縄に出征が決まった時、本人はもちろん家族も、
それが今生の別れになると明確に理解していました。
別れの日、海軍の車が迎えに来ている辻まで出た大田家の者は、
最後に大田少将が白い手袋をして敬礼をしたまま、ゆっくりと一人一人の顔を
まぶたの裏に焼き付けようとでもするように見つめていたのを覚えています。

そのとき、男児の一人が、父親に向かって海軍式の敬礼を返しました。

大田少将の息子のうち、二人は戦後、海上自衛隊に入隊しました。
三男の落合(たおさ)(養子に行き苗字が変わった)は1991年、
自衛隊初の海外派遣任務となったペルシャ湾掃海派遣部隊を指揮して、
「湾岸の夜明け作戦」に参加しています。




家族への厳しくも愛のある接し方を見ると、「外柔内剛」という言葉が浮かぶのですが、
最後の「撤退お断り」はともかく、大田少将は陸軍とも協調できる人物でした。

しかし、5・15事件に始まる一連の軍人の反乱については、軍人は政治に関与しないという理念から
怒りすら抱いていたわけですから、ここ沖縄で、三月事件・十月事件の首班であった
長勇と協調して戦うということになったときには、さぞ複雑な思いを持ったと思われます。


ところで戦後沖縄県民が「海軍なら許す」という傾向だったのも、
沖縄における陸軍が、外敵と戦うのに必死なあまり、ともすれば沖縄県民に遺恨を残すような
「県民軽視」に走りがちだったのに対し、大田少将の遺書が軍の姿勢を批判する一言すら加えた、
県民の犠牲と努力に言及したものであったからに他なりません。

そこには「天皇陛下万歳」も「皇国の興廃」という言葉も・・、
軍人の遺書や最後の言葉に必ず見られる定型の文句が全くありませんでした。
当時の帝国軍人として、最後にこういう本音を、しかも海軍宛に打電するのは異例のことで、
このことだけをとっても、大田少将を勇気ある人と讃えるのにやぶさかではありません。

しかし、そこであえて規格外とも言える遺書を残した大田少将という人は、
同期で3ヶ月前硫黄島に死した市丸少将の言葉を借りれば、「干戈を生業とする武人として」
護るべきは「皇国」という抽象的な概念めいたものではなく、
そこに生きる国民であると明確に自覚していたのに違いありません。


大田少将始め、司令部が自決を遂げた壕から発見された軍艦旗には、
誰が記したのか、「沖縄の日没」という文字が墨で遺されていたということです。





 

 

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ある海軍大佐の戦後~朝鮮戦争と東京オリンピック

2015-04-17 | 海軍人物伝

もと海軍軍人を中心にPF艇の管理を行うYBグループに職を得た元海軍大佐。
ここでの仕事は”カンカン虫”と言われた汚れ仕事でも深夜や悪天候での見張りでも、
皆が粛々とその任を果たし、要領よくサボったり人を出し抜いたりといった
「兵隊根性」とは無縁の職場であり、それはご当人曰く

自他尊重、ミューチュアルアドバンテージ(相互利益?)

のうえに貫かれたもので、同僚の老兵の中には

「海軍独特の民主的な集合体における肌の触れ合い」

などと自画自賛するものも現れるくらい、うまくいっていたようです。

発足当初は生涯労務機関に駆り出された軍労務者たちが、
米兵からまるで俘虜のごとく追い回されたり小突き回されたり、
あるいは中国系アメリカ兵から顔に青痰を吐きかけられたりなどという
屈辱的なことも起こったそうですが、朝鮮動乱の開始とともに雰囲気は変わりました。

元海軍軍人たちは、夜の闇に乗じて来襲する泥棒警戒のために
ライフル銃を貸与されてリバティ船の見張りを行うまでになったと言います。


もっともこの銃はコケ嚇かしのため空包(音だけが出るようにした儀礼用または演習用の弾薬)
でしたが、空包の発火をやらせてみると、かつて戦争中にさんざん大砲をぶっ放した

海軍さんも、普通のおじさんになっていて、おっかなびっくりのへっぴり腰です。

戦後4年経って、すっかり戦争放棄の民のお手本と成り果てたと嘆息しつつ、
所詮は戦後生きる糧を得るためのやむなき職であったと自ら認めることになりました。


ここでちょっと寄り道をして、朝鮮戦争への日本の「寄与」についてお話ししておきたいと思います。
 「日本軍」と耳にした途端、血がのぼって荒れ狂う韓国人にぜひ知っておいてほしい話。
それは、日本軍がなければ現代の韓国軍はなく、今の韓国もないという史実。
ジャーナリストの井上和彦氏のコラムからです
 

朝鮮戦争・釜山橋頭堡(きょうとうほ)の戦いにはこんなエピソードがあります。

韓国軍の金錫源(キム・ソクウォン)准将率いる韓国第3師団約1万の将兵は、
北朝鮮第5師団との戦闘で、東海岸の長沙洞(チャンサドン)付近に追い詰められました。

壊滅の危機だった同年8月17日、国連軍の戦車揚陸艦4隻が救助にやってきました。
金准将は驚愕しました。
米海軍の戦車揚陸艇に乗っていたのは、旧日本海軍将兵だったからです。



金准将は、日本の陸軍士官学校を卒業(27期)し、支那事変では連隊長として大活躍し、
金鵄勲章まで受章した元日本陸軍大佐で、「半島の英雄」として、日本でも広く名が知られていました。

その英雄が、朝鮮戦争勃発と同時に、韓国陸軍准将として再び戦場に登場したことは
韓国軍の士気高揚に貢献しただけでなく、日本軍時代の名声と人柄が知れ渡っていたため
韓国人の”元日本兵”らが先を競って集まってきたといいます。

首都ソウルの防衛を担った第1師団長時代から、金准将はカイザー髭を蓄え、
「軍刀は武人の魂である」としていつも日本刀を携えていました。

そして米軍事顧問団の制止も聞き入れず、常に最前線で陣頭指揮を執り、
日本刀を振りかざして部下を奮起させ・・・つまり骨の髄まで“日本軍人”だったのです。

金准将は先の海上撤退で艦艇に収容された後、それまで作戦指導中に片時も放さなかった日本刀を、
南少尉に手渡しました。

それは戦場における最後の日本刀だったということです。


金准将のほか、後の韓国空軍参謀総長となる金貞烈(キム・ジョンニョル)将軍は、
大東亜戦争緒戦のフィリピン攻略戦で武勲を上げた元日本陸軍大尉で、
南方戦線では戦隊長として三式戦闘機「飛燕」で大活躍しました。

北朝鮮軍戦車に体当たり攻撃を敢行した飛行団長、李根晢(イ・グンギ)大佐も、
加藤隼戦闘隊の撃墜王の1人であり、

後の韓国空軍参謀長となるチャン・ソンファン中将や、キム・ソンヨン大将、
韓国陸軍砲兵隊を育てたシン・ウンギュン中将なども、日本陸軍の将校でした。


戦後韓国軍を立ち上げた首脳部の多くは、日本の陸軍士官学校か満州軍官学校の出身者です。
このため朝鮮戦争での韓国軍は「米軍装備の日本軍」といわれ、
戦争自体も「第2次日露戦争」の様相を呈していたという指摘があるくらいなのです。

例えば韓国陸軍のキム・ソグォン少将(1893~1978年)は朝鮮戦争時、
マッカーサー元帥が国連軍総司令官就任にした直後のの軍議で、本人を目の前に愉快そうに

「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。よろしい。
日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、存分にみせつけてやりましょう」


といい放ち、その腰に佩した日本刀を仕込んだ軍刀の柄を叩いて見せたといいます。


かし、彼ら朝鮮戦争での救国の士に対する日本嫌いの李承晩(イスンマン)の
戦後韓国の仕打ちは酷いものでした。
「親日」を理由にブラックリストに載せ、
予備役編入後に理事長を務めた高校の敷地に在った金将軍の像まで撤去しています。

井上氏はこのコラムの最後をこういう言葉で結んでいます。


韓国の方々に言いたい。歴史を直視できない民族に未来はない。 





さて、朝鮮動乱に出動を要請されたYBグループのメンバーはいずれも20歳代の若者ばかりで、
彼らは海上トラックや上陸用船艇に配備され、気軽な調子で出動していったのですが、
残された老兵たちはふとあることに気がついて愕然としました。


臨戦地境の海域でもしその身に何かあったとしても、今の彼らには
なんの保証や手当の裏付けもないのです。

海軍軍人であれば、戦死傷病があっても軍人年金や叙勲の名誉が与えられましょうが、

今の彼らは軍人でもなく、かといって米軍や韓国軍から保証されている立場でもありません。

かつての司令官や艦長たちは今更ながらに若者たちの身を案じ、
帰還を今か今かと密かに心痛めながら待っていたそうですが、
彼らの心配は杞憂に終わり、ほどなく彼らは無事に帰ってくることができました。

彼らのうちのリーダーは、その後自衛隊の要職にまで上り詰めたそうです。



その後海上警備隊が創設され、YBグループにあったかつての将校も、

また予備学生出身者も、年齢が42歳未満の者は全員、警備隊幹部となりました。


その中に、海軍の再建を固く信じて飛び込んできた青年がいたそうです。
九州の名門の出である彼は父子三人で大東亜戦争の戦列に在りましたが、
将官だった父も、少佐であった兄も還ることはありませんでした。
彼自身、2度も3度も乗艦の沈没で、その都度南洋を泳ぎ回って生還しています。 

こんな人物が、その後自衛隊の幹部となり、「ベタ金」の海将となっていったのです。
(と書けば誰のことかわかってしまう方もおられるでしょうか)


YSグループと言われる「海軍軍人の吹き溜まり」が出来た当初から、
海軍の復活を洞察した元海軍軍人は決して少なくありませんでした。
この九州から海軍再建を信じて出てきた青年将校のスマートな背広姿を見たとき、
もしかしたら、それは3年くらいで実現するかもしれないと希望を抱く者もいました。

実際は予想より少し早い2年半後、吉田・リッジウェイ会談によってそれは正夢となりました。


警備隊創設の朝、その旗の下に「戻っていく」青年たちは、
まるで借り着のような妙な色の正服を着ており、

身分は文官でも軍人でもない”特別職の公務員”というものでした。

彼ら自身海軍の復活を喜びながらも『新憲法第9条』が喉につかえたような、
忸怩たる気持ちをどこかに持ちながらの船出ではありましたが、

彼らにはどうにもならぬ仕儀と合点せざるを得なかったのです。

自衛隊発足のために政府が集めたY委員会のメンバーは金モールの袖章を飾る

高級幹部ととなり、元大佐らのYBグループは、ネストから去っていく
自分たちの手にかけたPF艇とその甲板の若者たちを心静かに見送りました。

自衛官の採用には年齢制限があったため、特務士官、准士官、下士官は
優秀な人物が多かったにもかかわらず、YBグループに残ることになります。

ところでこの名称のYとかBとかですが、これはおそらくですが、一般日本人に
わかりにくい名称で活動することで、外部からいらない雑音が入ってくるのを防ぐためでしょう。

自衛隊発足後もYBグループは非就役船舶の保管業務のほか、海上トラック、
交通艇の保管、港湾防備作業、見張り監視、信号通信など、
およそ海自関係の雑役はなんでもやるようになりました。

自衛隊が軌道に乗るまでの便利屋さんといったところです。

どんな仕事もかつての海軍さんが中心になっている組織ですからお手の物で、
動乱景気のオーバータイムもここが稼ぎどきとばかりに引き受け、
アメリカ人将官にさすがにここまでは、と心配されてしまうほどでした。

しかし食糧事情も国内ではまだまだ良くなかったので、 米軍専用のレーションが
貯蔵品で変質したものとはいえ、出されるのは結構ありがたいことだったのです。

最初にYSグループが発足してから16年が経過していました。

往時のメンバーは人員整理と定年退職で次々と基地を去り、
敗軍の兵を語らず黙々として一人の名もない海の男となって働いた
アドミラルもキャプテンも、多くが墓の向こうへと去ってしまっていました。

ここで元大佐ご本人について少し補足しておきましょう。


元大佐は海軍兵学校48期。
海軍省の報道部に勤務したあと、航空母艦「瑞鳳」副長を経て、
以降ずっと航空隊司令を歴任し、終戦時には釜山の海軍航空隊司令でした。

昭和15年、この元大佐が報道部に勤務中作詞した、軍事歌謡の名曲
「艦隊勤務」は、現在でも歌い継がれています。


そして1964年。
神武以来の好景気に沸く日本で東京オリンピックが開催されました。
開会式の代々木の空を、航空自衛隊の5機のブルーインパルスが5つの輪を描いたのは、
敗戦後24年で、日本が復興を高らかに世界に宣言した歴史的瞬間でした。 

そのヨットレースの競技場となった江ノ島ヨットハーバーに、
かつて食うや食わずの困窮生活から横須賀に転がりこみ、自衛隊の復活をその目で見た
老大佐の姿がありました。

老大佐の眼前には江ノ島、鎌倉、葉山沖一帯に錨泊する海上自衛隊の支援隊が
列線を隈なく張り、老大佐はその光景に思わず目を見張りました。
そこには懐かしいPF艇の改装型の姿さえあるではないですか。
まるで我が子が立派に育ったのを見るような思いです。


 晴れ渡る秋空のもと、光る海に帆をなびかせるヨットの帆走に見とれながら、
老大佐はこの海を再び激動させてはならないと改めて思うのでした。





 

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ある海軍大佐の戦後~「大日本幽霊艦隊健在なり」

2015-04-16 | 海軍人物伝


昭和27年4月26日。
この日海上保安庁の外局として隊員6000名の海上警備隊が組織されました。
それこそ世間の目をはばかるようにごくひっそりと・・・。

海軍の再建ともいうべき海上自衛隊の前身の誕生した瞬間でした。

戦争を放棄し、軍備を否定した新憲法下に置いてまるで隠し子のような発足とはいえ、
横須賀基地港内の岸壁に係留されたPF艇の艦尾には、星条旗に変わって
軍艦旗(この時には警備隊旗だった)が翻りました。

音楽隊は「われは海の子」を吹奏し、
どういうわけかアメリカ海軍の軍楽隊が威勢良く行進曲「軍艦」を吹きならしたそうです。

ここにかつて世界三大海軍の一であった帝国海軍の一員として、「われは海の子」と
アメリカ人の奏でる「軍艦マーチ」の音の渦の中、涙をこらえつつ立つ一団がありました。
雨の日も風の日も、厳寒の冬も酷暑の夏も、PF艇のキーパーをやってきたYSグループの老兵たちです。

この前年の昭和26年、吉田首相はリッジウェイ対象と会見を行い、
この時にアメリカからPF艇(フリゲート艦)18隻、上陸支援艇60隻を貸与のうえ
日本海軍創設を要請しました。

その後、旧海軍軍人を交えた「Y委員会」がその構想を練るために発足しましたが、
これに先んじて、すでに横須賀に係留されている貸与予定の艦船を保管する業務を
任されていた日本人グループは、「YSグループ」と呼ばれました。

「武蔵」艦長経験者であり、「大和」特攻にも「矢矧」艦長として参加した
古村啓蔵少将がアメリカ軍に特に招かれていた他、横須賀という土地柄もあって、
ほとんどが大東亜戦争の生き残り、百戦錬磨の老兵ばかりでした。

誰言うともなく自らを「幻の艦隊」と称するようになったこの集団は、
くたびれた復員服に身を包んでいても、気骨稜々のさむらい揃いでもあったのです。


この中の一人にある元海軍大佐がいました。


元大佐は、戦争中は12の航空部隊を遍歴し、軍人冥利に生きた時世も今は過去、
復員の際、終戦で解放された連合軍捕虜が結成した強盗に
列車の中で腰の長刀を奪われて「丸腰」の姿で帰郷をしてきました。

再開した妻子は給料の支払いが途絶えて明日の生活さえ憂う困窮状態。
生糧品の放出を騎兵連隊の主計士官が村役場に陳情に行ったところ、
富農でもある農協の責任者は、椅子にふんぞり帰ったまま

「もう戦争は済んだで、負けた兵隊に食わせるものはあらせん」

と嘯き、しぶしぶと供出した配給の薯はまるで鼠の尻尾のような屑ばかりでした。

東京で再起を誓った元大佐は、小さな新聞社に拾われますが、
公職追放に該当する履歴がたたって2ヶ月で解職、次に顧問名義で就職した映画会社は
赤色争議による重役総退陣に遭いこれも退職。
この後職を点々としている間に息子を結核で失い、妻も感染してしまいます。

芯が出た畳の上に海軍毛布一枚を敷いてそこで寝起きする窮乏生活に進退極まったとき、
教会の口添えで米海軍基地の労務者として糊口をしのぐつてを得ることができました。

ここで元大佐は司令官の秘書をしていた日本人女性からこんな情報を耳打ちされます。

「近くソ連からアメリカ海軍の貸与船舶が返還される。
これは横須賀で保管し、いずれ日本海軍が復活するとき、そっくり貸与するものらしい。
その管理の仕事で旧海軍さんを差し当たり200名ほと募集するそうだ。
行く行くはPF艇27隻、その他の船舶50隻となって、雇用人数は1,000名を超える。
そのマネージメントなら昔取った杵柄でちょうどいい仕事なのではないか」

月給は1万5千円、職種は顧問。
妻の看病をしている身には定収入が得られるのはありがたい話でした。

昭和24年8月の末に

未就役船舶管理部隊

というこの駐留軍労務者のグループが発足し、「海の老兵」の吹き溜まりとなりました。
朝鮮戦争のときには一部の人員が揚陸作戦に派遣されたりしたそうですが、
秘匿されたためうるさい世間の噂になることもありませんでした。

海軍が滅びた日本に、軍艦旗が再び翻る自衛艦隊の創設されるその日まで、米軍基地で
供与された船舶の子守をしていたのが、彼らYSグループのもと海軍軍人たちだったのです。


警務隊の旗が揚がった時、老兵たちの中には郷愁に誘われて涙したものもありましたが、
大方の新しい組織のメンバーはそのように捉えたわけではありませんでした。

彼らにとっては新生日本の新しい海軍の創設であり、懐古するものではなかったのです。



PF艇は昭和24年、ソ連から横須賀に回航され、返還と同時に警備隊に貸与されました。
回航員は港内の係留作業がすむとただちに退艦して母船に収容され横須賀を去ります。
数次にわたる回航にはいつも同じ顔ぶれが見られました。

ヤンキーの水兵さんはスマートなのに対して、ソ連水兵さんは明治時代の日本の兵隊さんのようで、
どこかで見たことのあるような懐かしくも泥臭い雰囲気を漂わせていたそうです。

回航員が退艦したばかりのPF艇には、およそ消耗品と名のつくものは一物もありません。
燃料タンクは舐めたように空っぽ。
時折巻きタバコが落ちていることもありましたが、大変不味いものでした。

PF艇が到着するにあたって、保管業務に備えて日本人従業員の緊急募集が行われ、
地方にスカウトが人材確保のために飛びましたが、馳せ参ずるものは全員が元海軍軍人です。
敗戦の荒廃の中生活に困窮していた彼らにとって、船に因縁のある仕事は魅力でした。

蓋を開けてみれば集まったのは中将級から海軍の飯も食いそめぬ終戦一等兵まで雑多、
アドミラルクラスは十指に余り、佐官級は赤穂義士もかくやと思われる豪勢な顔ぶれ、
旧華族の御曹司、いわゆる皇室の藩屏 (はんぺい)と思しき御仁さえもいたそうです。

思えば戦前戦後にかけての有為転変により、かつての陛下の股肱も
今や職業軍人という代名詞で蔑まれる怒りの失業者軍団。
200名のうち半数以上が准士官以上という陣容です。

司令官、艦長、司令の経歴を持つ将官や大佐級、作戦の帷幕にあった参謀、
かつて恩師の短剣をいただいた英才に太平洋で武功抜群を称えられた将兵。
特務士官、准士官、下士官のかつての精兵が雁首を並べたこの集団の存在を
ある日共産紙がデカデカとすっぱ抜いたつもりで書き立てました。

「大日本幽霊艦隊健在なり」 

と・・・。 


YSグループには職を求めて終戦時穴ばかり掘っていた穴掘り兵や、召集されたこともない
ただのおっさん、そして陸軍軍人もデタラメの履歴で潜り込んでいました。
もっとも面接係の海軍の古狸は「来るものは拒まず」のいい加減、もとい寛容さを備えていました。
業務中に海に落ちられては困るので泳げない者に手を上げさせ 、
そのなかでもいかにも陸軍面の風格を持った求職者に


「船は何に乗ったか」

「ハイ、関釜連絡船に乗りました」

「それでどこへ行ったか」

「ハイ、北支であります」

「・・・・・やっぱり陸軍だな・・・」

「ハ、もとい、憲兵は陸軍でも海軍でも受け持ちでした」

「よし採用決定」

 
軍歴の立派な海軍軍人も怪しげな軍歴のおっさんも、皆等しく
戦後の困窮生活で食い詰めていたことに間違いはなく、
来るべくしてこの「老兵の吹き溜まり」 に流れてきた同志となりました。

 

保管船舶の係留場を「ネスト」と呼びました。
彼らはそれぞれのネストに分かれ、さらに個々の船に分乗して保安監視と
保存整備の労務に従事しました。
ここでは昼夜交代の見張り当直も、日常の手入れ作業も皆が平等に行います。
提督も佐官尉官も、上等兵曹も国民兵ももちろん元陸軍さんも・・。

それはまさにデモクラシーを絵に描いたような理想の平等社会でありました(笑)

それから足掛け4年間、元船乗りの老兵たちは、PF艇群をまるで愛撫するかのように
丹精込めてネストに繋がれた愛娘を手塩にかけて育てあげ、
それは、彼女らが自衛艦となるその日まで続きました。


そのうちPF艇のほかに、LSSL、上陸支援艇60隻が横須賀に配備され、
YBグループと名称の変わった旧YSグループの従事者は、総員850名を越し、
こうなると海軍経験者だけを採用するわけにもいかなくなってきました。

帝大出身の秀才、映画会社の技師、アメリカ帰り、戦犯釈放者、
倒産した自営の社長も縁故を頼ったりしてやってきました。
吹き溜まりには違いないのですが、中には「ある事情で」一時しのぎに職を求め、
そのうち大学に進学して将来を約束される地位に就いた青年もいました。

彼らのほとんどは戦死した海軍軍人の子弟であったということです。 


1950年(昭和25年)、朝鮮動乱が勃発しました。
韓国海軍に転身する船を急速に整備するため、YBグループは
半狂乱とも言える動乱体制に否応もなく巻き込まれることになります。
観戦修理廠の造船作業に伴って、嫁入り仕度のおめかし(サビ落としと総塗粧)

が彼らの日課となりました。

YBグループの組織は役職が全て英語となり、軍ではありませんから
マネージャー、サブマネージャー、技術者はスタッフ、エンジニア、
そしてボイラーマンと呼称されていましたが、先般の共産紙はわざわざ
この組織図に

鎮守府参謀長=トップマネージャー

などという解説をつけてその欺瞞を暴いたつもりになっていたようです(笑)

とにかく、動乱体制ではマネージャーとサブマネ、人事担当以外は、
総員がカンカン虫と旧軍で称したところの、船底から重油タンクの中を
油と汗とペンキまみれで這いずり回る重労働に甘んじました。

そしてそれも終え、韓国兵が乗り込んでくると、エンジニアの経験者は
米海軍士官の指示を受けて、彼らの指導にあたりました。
みずからが造修を手がけたPF艇試運転の際には、マネージャーやスタッフたちも
弁当を持って便乗しました。

マネージャーはかつて世界最大の戦艦「陸奥」に艦長として座乗した人物でした。
黒潮のたぎる東京湾頭に艇が出たとき、彼は「陸奥」とは大違いの狭苦しいPF艇の艦橋で、
冬の冷たい西風から
いささかも顔を背けることなく、昂然と海を眺めていました。

寒さのあまり鼻水が出ていても、露ほどの関心も払うことなく立つ元艦長に向かって、
アメリカ軍のチーフが無言のままそっと真新しいハンカチーフを差し出すと、
彼はさりげなく受け取って鼻の下を横一文字に拭い、一言

「サンキュー」

といってそれを自分のポケットに突っ込みました。
その日、東京湾は富士山が裾まで捲れて白波が走る快晴でした。


このマネージャーが「誰」であったか、元大佐の記述には明らかにされていません。
本人の経歴にも戦後YBグループで警備隊に関わったことは一切触れられていないのですが、
わたしはこの人物が二代目「武蔵」艦長であった古村敬三少将だったのではないかと思います。



続く。
 

 

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「ルーズベルト」ニ与フル書~市丸利之助少将

2015-03-22 | 海軍人物伝

靖国神社の遊就館展示を見たことのある方は、一番最後の本土決戦のコーナーで
ガラスケースに収められた
「ルーズベルト」ニ与フル書、というコピーの文字に
必ず目を留められたことでしょう。

これは、昭和20年3月26日(公式)に硫黄島で戦死した、

市丸利之助海軍中将(最終)

が、硫黄島でしたためた、米国大統領ルーズベルトへの書簡です。

市丸少将は日本が玉砕することになった昭和20年3月の硫黄島の戦いで戦死しましたが
その最後の状況ははっきりしておらず、遺体も不明のままです。

ただ、亡くなる前にしたため、日系二世の三上弘文兵曹に英訳させた手紙が
アメリカ軍の手に渡ったことで、少将の名は人に知られることとなりました。


この手紙は日本を追い詰めて戦争を起こさせたことを正面から詰り、それまでの
白人支配の大国主義に立ち向かって有色人種の支配からの解放を目指す日本の立場を説き、
さらにはアメリカの勝利の意味に疑問を投げかけて終わっています。 

日本がなぜ戦わなくてはならなかったのか短い言葉でを全て言い尽くしたこの手紙は、
戦後、あの戦争を自分自身の負い目にしてしまってきた多くの日本人に、
負けたゆえに不当に負い続けていた戦犯国の汚名を晴らし、
もう一度日本の誇りを取り戻そうという思いを抱かせずに入られません。


昭和19年11月、第27航空戦隊司令官として硫黄島に着任した市丸少将は、
昭和20年2月19日に上陸してきた米軍との間で行われる熾烈な戦いに
すでに自分の運命を予感していました。
あの擂鉢山の戦いで「擂鉢山の6人」が星条旗を揚げたのは2月23日です。

余談です。
擂鉢山に揚げられた星条旗は翌日、翌々日、朝になると日章旗に変わっていたそうです。
闇夜に紛れて旗を(二日目は血で描いた日の丸だった)揚げに来ていた日本兵がいたのです。
アメリカ軍は躍起になってその周辺の草叢や洞窟を火炎放射器で焼き、
その後は日本の旗が擂鉢山に揚がることはなくなりました。


3月7日には、「海軍と中央の不手際を責めた内容」の総括電報が
栗林中将の名前で打電され、3月14日には日章旗が奉焼され(焼かれ)ました。

そして70年前の今日である昭和20年3月17日、栗林中将のあの決別の電報が打たれます。
その最後には

国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき


という句が添えられていました。

おそらく同日、市丸少将はこの「ルーズベルトに与うる書」を書き、
二世の兵曹に通訳をさせたのに違いありません。
この書は、市丸少将の遺書でもあったのです。

自分の書いた遺書がアメリカ軍の手に渡ることを期(ご)して、市丸少将は
この原文と英語訳を、それぞれ突撃する別の将校の体に身につけさせました。
彼らが死んだ後、敵が将校の遺体を検分することを見越してのことです。

 市丸少将の目論見通り、日本文の手紙はは村上治雄海軍通信参謀、英文は
赤田邦雄第二十七航空戦隊参謀の体に巻かれて米軍に発見されました。
市丸少将自身も最後に自分の体に日英両方の手紙を巻いていたと思われますが、
それらしき死体が発見されることはありませんでした。

もしこのことを考えて2部ずつ取られた写しの方が発見されたのです。
手紙は、というより二人の遺体は、硫黄島北部の洞窟内にあったということです。

その内容を口語訳で記しておきます。
出典はwikiですが、一部判断により手直ししています。


ルーズベルトに与うる書

 日本海軍市丸海軍少将が、フランクリン・ルーズベルト君に、この手紙を送ります。
私はいま、この硫黄島での戦いを終わらせるにあたり、一言あなたに告げたいのです。

日本がペリー提督の下田への入港を機として、世界と広く国交を結ぶようになって約百年、
この間、日本国の歩みとは難儀を極め、自らが望んでいるわけでもないのに、
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変を経て、
不幸なことに貴国と交戦するに至りました。

これについてあなたがたは、日本人は好戦的であるとか、
これは黄色人種の禍いである、あるいは日本の軍閥の専断等としています。
けれどそれは、思いもかけない的外れなものといわざるをえません。

あなたは、真珠湾の不意打ちを対日戦争開戦の唯一つのプロパガンダとしていますが、
日本が自滅から逃れるため、このような戦争を始めるところまで追い詰めらた事情は、
あなた自身が最もよく知っているところです。

畏れ多くも日本の天皇は、皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、
養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三綱とする八紘一宇という言葉で表現される
国家統治計画に基づき、地球上のあらゆる人々は、その自らの分に従って
それぞれの郷土でむつまじく暮らし、恒久的な世界平和の確立を唯一の念願とされているに他なりません。


*この部分の英訳は


“Yosei” (Justice), “Choki” (Sagacity) and “Sekkei” (Benevolence),

となっています。
 

このことはかつて、

 四方の海  皆はらからと 思ふ世に  など波風の 立ちさわぐらむ

という明治天皇の御製(日露戦争中御製)が、あなたの叔父である
セオドア・ルーズベルト閣下の感嘆を招いたことで、あなたもまた良く知っていることです。


*セオドア・ルーズベルトは第25、26代大統領でFDRの叔父にあたります。
東郷元帥が日露戦争終結後読み上げた「聯合艦隊解散之辞」に感銘を受け、
これを英訳させて軍の将兵に配布させていたことが有名ですし、
自身は日本びいきでアメリカ人で初めて柔道の茶帯を取得しています。
忠臣蔵(47RONIN)を愛読していたことも知られているのですが、
その後台頭する日本に脅威を感じてか露骨に牽制を始め、排日移民法なども作らせるようになりました。

ハワイ王朝を乗っ取ろうとした時、巡洋艦「浪速」「金剛」がそれを牽制したため、
ハワイを併合するという野望は崩れ共和国としたことも、嫌日の要因でしょう。

 

わたしたち日本人にはいろいろな階級の人がいます。
けれどわたしたち日本人は、さまざまな職業につきながら、
この天業を助けるために生きています。
我々帝国軍人もまた、干戈(かんか)をもって、
この天業を広く推し進める助けをさせて頂いています。

*干戈というのはいくさのことです。
この部分の出だしで市丸少将は「Japanese」ではなく「 We, the Nippon-jin,」
と自称していることが目を引きます。

「干戈」の部分の英文はこうなっています。

We, the soldiers of the Imperial Fighting Force take up arms to further the above stated “doctrine”.
(私たち帝国軍の兵士たちは、上記の「教義」を促進するために武器を取っている)



わたしたちはいま、豊富な物量をたのみとした貴下の空軍の爆撃や、艦砲射撃のもと、

外形的には圧倒されていますが、精神的には充実し、心地はますます明朗で歓喜に溢れています。

なぜならそれは、天業を助ける信念に燃える日本国民の共通の心理だからです。
けれどその心理は、あなたやチャーチル殿には理解できないかもしれません。
わたしたちは、そんなあなた方の心の弱さを悲しく思い、一言いいたいのです。


あなた方のすることは、白人、特にアングロサクソンによって世界の利益を独り占めにしようとし、
有色人種をもって、その野望の前に奴隷としようとするものに他なりません。

そのためにあなたがたは、奸策もって有色人種を騙し、
いわゆる「悪意ある善政」によって彼らから考える力を奪い、無力にしようとしてきました。


近世になって、日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種、ことに東洋民族をして、
あなた方の束縛から解放しようとすると、あなた方は日本の真意を少しも理解しようとはせず、
ひたすら日本を有害な存在であるとして、かつては友邦であったはずの日本人を野蛮人として、
公然と日本人種の絶滅を口にするようになりました。

それは、あなたがたの神の意向に叶うものなのですか?

大東亜戦争によって、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、それぞれの民族が善政を謳歌します。
あなた方がこれを破棄さえしなければ、全世界が、恒久的平和を招くことができる。

それは決して遠い未来のことではないのです。

あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げているではありませんか。
数百年来あなた方の搾取から逃れようとしてきた哀れな人類の希望の芽を、
どうしてあなたがたは若葉のうちに摘み取ってしまおうとするのでしょうか。

ただ東洋のものを東洋に返すということに過ぎないではありませんか。
あなた方はどうして、そうも貪欲で狭量なのでしょうか。

大東亜共栄圏の存在は、いささかもあなた方の存在を否定しません。
むしろ、世界平和の一翼として、世界人類の安寧幸福を保障するものなのです。
日本天皇の神意は、その外にはない。
たったそれだけのことを、あなたに理解する雅量を示してもらいたいと、
わたしたちは希望しているにすぎないのです。

ひるがえってヨーロッパの情勢をみても、相互の無理解による人類の闘争が、
どれだけ悲惨なものか、痛歎せざるを得ません。

今ここでヒトラー総統の行動についての是非を云々することは慎みますが、
彼が第二次世界大戦を引き起こした原因は、第一次世界大戦終結に際して、
その開戦の責任一切を敗戦国であるドイツ一国に被せ、極端な圧迫をする
あなた方の戦後処置に対する反動あることは看過することのできない事実です。

あなたがたが善戦してヒトラーを倒したとしても、その後、
どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するおつもりなのですか?


*ヒトラーはルーズベルト死去の直後、4月30日に自殺した 


およそ世界が強者の独占するものであるならば、その闘争は永遠に繰り返され、

いつまでたっても世界の人類に安寧幸福の日は来ることはありません。

あなた方は今、世界制覇の野望を一応は実現しようとしています。
あなたはきっと、得意になっていることでしょう。

けれど、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、そういった得意の絶頂の時に失脚したのです。
願わくば、私の言外の意を汲んでいただき、その轍を踏むことがないようにしていただきたいと願います。

市丸海軍少将



わたしはこの文章を読むうち、あらためてぞくぞくと鳥肌が立つのを感じました。

この手紙は日本を煽って戦争に仕向けたアメリカの欺瞞を糾弾しつつ、
「ファシズムとの戦い」という大義名分を叫びながら、一方では有色人種の人権を踏みにじっている、
というこの大いなる矛盾を突いたものでした。


お前は今勝ったと思って得意になっていようが、その勝利は決して真の勝利ではない、
と市丸少将が看破した通り、戦後、かつての強者の元から日本が望んだように
すべての国が立ち上がり、独立を果たしていきました。

「貪欲で狭量な大国たち」が被支配階級の代表として戦いに立ち上がった日本を叩き潰し、
極東国際軍事裁判において二度と自分達に逆らえないようにしたはずにもかかわらず、
一旦そのように動き出した大きな流れを押しとどめることすらできなかったのです。



そして市丸少将の「どうやってソ連と協調するつもりなのか」という言葉は、
不気味なくらい、戦後アメリカの憂鬱を言い当てています。
この東西対立がなければ、もしかしたら被支配国の独立は
もう少し先送りになっていたという因果関係までうっすらと予想されるではありませんか。



先日、映画「アメリカン・スナイパー」について書いたとき、マイケル・ムーアが

「アメリカはイラクを開放してなんかいない。自分達の過失をおとぎ話のように語るな」

とベトナム、イラク、アフガニスタンの全てにおいてアメリカが解放者などではなく、
むしろそこへいったのは失敗だったと認めるべきだ、と言っていたことを書いたのですが、
今も昔も大国アメリカの大義名分なんてこんなものです。

マイケル・ムーアがこれを読んで、自分の叔父を殺した日本兵のいる日本が
解放者だったと認めるかどうかは甚だ怪しいところですが(笑)


「得意の絶頂の時にウィルソンが失脚した」ように、得意の絶頂のFDRは、
手紙が書かれたわずか一ヶ月後の4月12日に死亡したため、これを読むことはありませんでした。
死もまた「失脚」であると考えれば、手紙は奇しくもFDRの運命を言い当てたことになります。

もし合衆国大統領が生きてこの文章を読むことがあったら、そのとき彼はどう感じたでしょうか。
この血を吐くような「虐げられてきた民族の心の声」を聞いてなお、
一片の良心に照らしても神の前に恥じることすらなかったであろうと考えることは、
むしろこの政治家の人間性を貶めることのような気さえします。


わたしは戦後70年後の日本人の一人として、この世界が
市丸少将の言ったことそのままになったことを鑑みるに、日本は戦争には負けたけれど
最終的に目指した勝利を(敵から見るとこれもまた大義名分に過ぎないのですが)
勝ち取ることはできたのだと考えずにはいられません。

かつての植民地、被支配国が大国と同じ一票の権利を持ち、国同士対等である
という70年前日本が理想とした社会が曲がりなりにも生まれたのは、
アメリカが勝ったからではなく、日本が戦ったからだと確信するものです。



市丸少将の書いたルーズベルトへの手紙は、アメリカ軍の手に渡ったあと、

7月11日、新聞に掲載されて アメリカ人は皆これを目にすることになりました。

 これが当時アメリカに当時論議を巻き起こしたという記述はどこにもありません。
「正義のアメリカ」に楯突く小賢しい言論とほとんどのアメリカ人は思い、
ごく少数の人間が、この言葉に何かを感じるだけに終わったのかもしれません。


ただ、わたしは、このような手紙、アメリカとその大国主義を真っ向から否定する意見を、
戦争が続いているにも拘らず、隠すことなく全米に公開したアメリカという国を、
良くも悪くも文明国であると思い、そこに民主国家としての良心を見ます。


そしてやはり、市丸少将の最後の言葉の持つ普遍の力は、決して少なくないアメリカ人、
移民の国であるアメリカにとって、人間としての良心に訴えかけるものであったと信じたいのです。

アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官、チェスター・ニミッツ元帥は、
この手紙をAnnapolisの海軍兵学校に提出させ、そこに納めさせました。
このことを以って決めつけるわけではありませんが、ニミッツ提督もまた手紙の内容に真理を認め、
市丸少将の叫びに共鳴した一人だったからではなかったかとわたしには思えてなりません。


 A Note to Roosevelt(Battle of Iwo Jima)
 



 

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WAVESあれこれ~「アメージング・グレース」

2015-03-19 | 海軍人物伝

さて、ホーネットの艦内を利用した「ホーネット博物館」のWAVESコーナー、
続きと参ります。
WAVES、直訳すると志願緊急任務のために受け入れた女性は、第二次世界大戦時、
軍の人員を増やす要求に応じて1942年8月に正式に組織されました。

当初から、WAVESは海軍の「公式部分」として扱われ、男性と同等に扱われました。
つまり、階級が高ければ女性でも男性の「上官」として敬礼される立場です。
冒頭ポスターの左のほうでも、男性の水兵さんたちが女性の士官を見て

「俺らも敬礼するの?」


などと侃々諤々話し合っている様子が描かれていますが、これはもしかしたら当初
海軍の男どもにとっても画期的すぎたに違いありません。
しかし、ともあれこの扱いは、女性軍人を集めるのに大いに効果を発揮しました。

軍人になっても地位は男性の下で仕事は補助、というものなら、
とてもではないけどアメリカ女性を集めることはできなかったでしょう。

驚くことに、WAVESの給与体系は全く男性と一緒でした。
給料が一緒なら彼女らを取り締まる軍規も全く同じです。
つまり、「特別扱いはしない」ということを表明して募集したのですね。

とはいえ、性差を考慮して戦闘艦や航空機の勤務からは遠ざけられ、
米国本土内の任務に限定されていました。

しかしご時世というのでしょうか、大戦の後半ごろから、本土内という縛りは外れ、
米国の領土とされている地域なら海外でも勤務できるということになって、
WAVESの一部をハワイに派遣するという動きもありました。

国は海軍勤務の女性軍人を広く募集します。
真っ白な制服を着て軍艦の見えるハドソンリバー沿いを闊歩する素敵なWAVES。

「この絶好の機会をお見逃しなく」「海軍はWAVESに貴女を必要とします」

そんな殺し文句に、海軍を志望した女性は多かったでしょう。



このリクルートポスターは、どうみても「ヴォーグ」の挿絵のノリですが、
これはのWAC、WAVES、そして海兵隊の制服をまとった女性たち。
写っていませんが一番向こうにはWAFの女性がいます。
いずれも(ってか同じ顔ですが)流行りの眉毛に真っ赤な口紅を塗っています。 



コーストガード、沿岸警備隊も負けてはいません。

アメリカ軍は軍隊ごとの摩擦をできるだけ避けるために、沿岸警備隊にも
海軍と全く同等の階級制度を採用していました。(います)

SPARDSというのは

 Semper Paratus and its English translation Always Ready

つまり、沿岸警備隊のモットーである「即応」のラテン語のあとに、
英語訳をくっつけたという説と、いわゆる「フォーフリーダム」、4つの自由の

Speech, Press, Assembly, and Religion

(言論、報道、集会、宗教の自由)
から取ったものだという説がどちらもアメリカ版のwikiページに別個に存在します。
どちらが正しいのかはわかりませんが、このニックネームを考案したのは、
沿岸警備隊の最初の女性司令官、

ドロシー・C・ストラットン大佐

であることだけは確かです。
ちなみにストラットン大尉はWAVES出身。
亡くなったのは2006年で、なんと107歳の天寿を全うしています。



ドロシー・ストラットン大佐コーナー。

彼女の名前はUSCGC Stratton (WMSL-752)」に残されました。



「マリーンになりませう」(戦中なので)
「戦いに海兵隊を解き放て」

ってとこですか。
ちなみに、toがfromだと全く違う意味になります(笑)



アメリカ人の好きそうな「過去の声ー未来への旅」という絵。
過去から現在に至る有名なミリタリーウーメンが一堂に会してます。



南北戦争の従軍看護婦や聖職者からはじまっているようです。
女性が制服を着出すのが第二次世界大戦時からで、ここには以前お話しした
WASP の初代司令官、ジャクリーヌ・コクランやナンシー・ラブがいるはずです。
29番はアメリカ海軍で初めて士官となり、WAVESの初代司令官になった

ミルドレッド・H・マカフィー少佐




朝鮮戦争のパート。



現代のパート。

黒人女性として初めて沿岸警備隊で回転翼のパイロットとなった
ラシャンダ・ホルムズが前にいますね。

アメリカ陸軍は2008年に史上初めて陸軍大将が誕生しています。
その名もアン・ダンウッティ陸軍大将
陸軍で「弾撃って」とはなんてぴったりな
と思ったら、兵站担当師団の司令官だったそうです。

この絵が描かれたのが2008年以降であれば、おそらく彼女も描かれているはずなのですが。


宇宙服を着ているのは、空軍大佐でNASAの宇宙飛行士となった

アイリーン・コリンズ空軍大佐


1999年のスペースシャトル、コロンビア号の初の女性船長を務めました。




おお、誰かはわからぬがなんと聡明そうな美人、と思った方、お目が高くていらっしゃる。
彼女の名はグレース・ホッパー
名門ヴァッサー女子大学とイエール大学で数学と物理学を専攻し、ヴァッサーで教鞭をとり、
女性で初めて数学の博士号を取ったという「アメージング・グレース」(彼女の愛称)でした。

彼女は1943年、つまり37歳にして海軍の予備役になり、翌年には中尉に進級。

同時にハーバード大学でコンピューターの開発に携わりました。
つまり、コンピューター開発者の仕事をすることが「海軍での仕事」だったということです。
だから多分カッターを漕いだり遠洋航海には行ったわけではないと思います(笑)


ところで、現在コンピュータ用語で使われるプログラムの不具合を意味する言葉としての
「バグ」という言葉は、当初彼女が実際に機械に蛾が挟まって作動しなくなったことから
その後不具合を「バグのせいで」と言ったり書いたりして定着した用語です。

もちろん彼女が生んだのはコンピュータスラングどころではなく、
英語に近い言語でプログラミングできるようになるべき、というその考えに基づき、
開発させたプログラミング言語COBOLです。
(これはこれでその後いろんな問題があったようですがそれはさておき)



退任前のアメージング・グレースのお姿。

彼女は1966年、中佐で予備役に退くのですが、翌年の1967年、
作戦部長付きのプログラミング言語担当として現役に復帰します。
このとき61歳。
定年後の再就職をもう一度海軍でしたようなものですね。
そして1973年には大佐、1983年には77歳にして代将(Commodore)、
そして2年後、80歳を前に准将になります。

まあこれは米海軍の階級制度で代将が無くなり准将になったためですが、
彼女の場合はこういった破格の昇進も「功労賞」といった意味合いがありそうです。

彼女が海軍を最終的に退任したのは79歳で、これは男女関係なく
最年長での退役の記録となっているそうです。

うーん、やっぱり「アメージング・グレース」だったんですね。




ここでもう少しWAVESの写真などを。
終戦後、日本への占領軍として駐留していた女性兵士たち。
宮島で記念写真ですか。

そういえば、占領軍のパレードで隊列をなしていた女性将兵たちはかっこよかったなあ。
ああいうのを見た日本人が「こら負けますわ」と打ちひしがれたであろうことは想像に難くありません。



朝鮮戦争における女性将兵たち。
韓国軍の女性兵士(っていたのね)たちと交流している写真がありますね。



「わたしも最初は同じ間違いをしちゃったのよね。
お化粧室ならここ真っ直ぐ行って3つ目のドアよ」

意味わかりますか?
甲板の「パウダールーム」とは、後ろで作業している水兵でわかるように
パウダーはパウダーでも「ガンパウダー」、つまり火薬庫のことなのです。




WAVESが内地に送るためのニューイヤーカード。
シャレが効いてるつもりなんでしょうが。

「もし残りの ”さんざびっちず” が いなくなってれば、
いつもの通りのお正月をお祝いできたのにね」

だそうです。
イタリアが降伏した後の、1944年に書かれたものですね。

それにしても女の人の出すカードじゃないだろこれ(呆)




 

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「ザ・デストロイヤー」~駆逐艦「濱風」と前川万衛艦長

2015-03-06 | 海軍人物伝

 

呉海軍墓地にある旧海軍艦艇の慰霊碑についてお話ししています。
駆逐艦「濱風」(濱は旧字体ですがここではこう記します」は、二代目で、
陽炎型の13番型として昭和16年浦賀船渠で竣工されました。

昭和16年11月26日、真珠湾攻撃のために単冠湾を出港したハワイ攻撃機動部隊の
「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻の空母
(『ファイナルカウントダウン』でオーエンス中佐が一生懸命言ってましたね)
を護衛するという華々しい初戦を飾り、ポートダーウィン機動作戦、
ジャワ南方機動作戦、セイロン作戦などにも参加しています。

ミッドウェー海戦では日本側は4隻の空母を失いますが、このとき「濱風」は
「蒼龍」の援護を行い、沈没した同空母の乗員を救出しました。



駆逐艦というのは敵を「駆逐する」、英語で「破壊する者(デストロイヤー)」

という名の通り、もともと「水雷艇を駆逐する」というのが存在意義です。

そういう意味でいうと、一等「陽炎」型駆逐艦の13番艦である「濱風」は、
その使命を最後の最後まで全うしきった駆逐艦であったというべきでしょう。

揚陸作戦においても、昭和17年8月には、ガナルカナル島に上陸した米軍を駆逐するため
陸軍一木支隊916名を「嵐」「荻風」「谷風」「浦風」「陽炎」らとともに
ガ島北岸太母岬に揚陸させ、その半年後にはガ島撤退作戦にも参加しています。

さらに「濱風」はコロンバンガラ島への陸兵揚陸にも携わった直後、
さらなる陸兵上陸を支援するために行われたコロンバンガラ夜戦で、
「神通」を取り囲み、寄ってたかって攻撃を加える敵艦隊を「雪風」らとともに
酸素魚雷を装填しながらじわじわと包囲し、艦隊ごと航行不能にしています。

このように、特にファンが多いと言われる陽炎型駆逐艦の中でも、艦これ的には
特に嫁にしたい駆逐艦ナンバーワンといわれているらしい「濱風」。
個人的には「島風」とともに「ザ・デストロイヤー」の称号を差し上げたいほどです。
 


しかし駆逐艦として戦い抜いたということは、同時に
次々と失われていく聯合艦隊の艦を見届けてきたということでもあります。


「濱風」の最後は、天一号作戦、坊之沖岬海戦で「大和」の護衛として出撃、
魚雷の命中によって轟沈を遂げるというものでしたが、

ミッドウェーで蒼龍の最後を見届ける
クラ湾夜戦で旗艦「新月」の最後を見届ける
コロンバンガラ海戦で旗艦「神通」の最後を(略)
撃沈された空母「飛鷹」の乗員を救出する
シブヤン海戦で「武蔵」の最後を見届け、800名の乗員を救助
回航中撃沈された「信濃」の救助を行う

という壮絶な歴史の目撃者ともなりました。

彼女が救出した人員は途方も無い数に上ります。
記録に残っているだけでも

戦艦「武蔵」  934名

戦艦「金剛」  146名

空母「信濃」  448名

輸送船「日竜丸」 36名

輸送船「安竜丸」 5名

これだけで約1500名強。
戦後設立された「濱風会」では救助人員をそう称していますが、
「蒼龍」「赤城」「飛鷹」駆逐艦「白露」の乗員については資料がないため、
おそらく合計でいうと3000名にはのぼるだろうと言われているのです。

さらに先ほどのガ島からの陸兵撤退、海軍特別陸戦隊の撤退を含めると、
この乗員300名の小さな駆逐艦が5000名の命を救ったことになります。


コロンバンガラ島夜戦で「神通」の仇を取ったあと、「濱風」は
ベララベラ海戦に参加して損傷したため呉に帰港してドック入りしますが、
このときに三代目艦長、前川万衛中佐(52期)が着任しました。
「濱風」の救助した人員数がここまで膨大になった原因は、どんな嵐の戦場でも

武運強く戦い抜き生き残った彼女の「運」に加えて、この前川艦長の着任にありました。
「濱風」溺者救助作業のほとんどは前川艦長が指揮を執っています。


冒頭挿絵ですが、どこを探しても前川中佐の写真が見つからなかったので、

「こんな人に違いない」という思い込みだけで想像似顔絵を描いてみました。
多分似てないに違いありませんが、いいんです(きっぱり)




アメリカ軍は徹底的に人命救助を重視しました。
一名の戦闘機搭乗員のためにカタリナ飛行艇を日本本土まで飛ばしていたくらいで、
沈む軍艦と運命を共にしなかった艦長を左遷するような日本海軍とはえらい違いです。
戦争のやり方も、有り余る物資と人を有しながらなお防御を重視するアメリカと、
防御は二の次で自分の命を盾にしてでも攻撃を成功させることを取る日本とでは、
これはもうどう考えても国力の無いほうが負けることは明らかでした。

どうして戦後の人間なら単なる一ブロガーにもわかるこの理屈が、
当時の日本軍において無視されてきたのかは、前にも言いましたが、
「軍人精神」という名の正常性バイアスがかかっていたからだとわたしは見ます。
まあこの辺りの論議についてはいつかまた日を改めるとして、
とにかくアメリカが人命重視を徹底したのは、そうしないと国民の戦争への
理解が得られないということと、なんといっても一人のスペシャリスト
(海軍艦艇に勤務する者は専門職である)を育てる時間とコストが勿体ないからです。
人を育てる労力は飛行機や船の生産などよりずっと大変だと知っていたからです。

日本の美しい言葉「勿体ない」が、こういうときに全くかえりみられなかったのは
実に勿体ないことだったというしかありません。 
まあ、切羽詰まって省みられるほどの余裕がなかったという事情もありますが・・・・。


それに、戦時、艦を停止して人員救助をしているところを敵に襲われ、
救助している方が何人も戦死した例は多く、一艦300名の命を預かる艦長としては、
敵が帰ってくる可能性の多い戦闘海域で行き脚を止めるという決断をするのは
それが駆逐艦の使命とはいえ大変な決断を要します。

つまり、「濱風」のように徹底的に溺者救助に命をかけたフネの方が少数派なのです。


しかも、前川艦長の救助方法は少し変わっていました。

マリアナ沖海戦のときには一般に駆逐艦が行う、短艇を使ってやる救助方法とは違って、

艦を風上に持っていって停止し、風の力だけで艦を漂流者のほうへ近づけていき、
風下舷の艦首から艦尾まで垂らしたロープを掴んだ生存者を引っ張りあげる

という方法で行いました。

まず、中央から後ろにかけての外舷にありったけの縄ばしごと、先端を輪にしたロープを
何十本も垂らし、探照灯を海上に照射して、漂流者のかたまりを目標にすると、

行き脚を止めて風の流れだけでそこにじわじわと近寄っていきます。
スクリューで人員を傷つけたりすることなく、艦の外周で同時に救助が行えます。
縄ばしごを自力で上がれるものは上がり、体力がないものはロープの先に体をくぐらせれば
甲板の「濱風」乗員が引っ張り上げてくれるというわけです。
海面から人がいなくなるともう少し艦を走らせ、発見すると再びスクリュー停止。

これを前川艦長は徹底的に、かつ執拗に行ったのです。
見張員が「海上に漂流者を認めず」と報告しても、「もう一度確認せよ」と返し、
一度では決して沈没地点の探索を切り上げることをしませんでした。
そして、救助の対象が一人、二人となってきても、見張員が声をあげるたび、
同じことを何度も繰り返し救助を続けたのです。

しかしこのやり方ではいつ敵に捕捉されるかわからず、気が気ではなくなる乗員もいました。
「濱風」の専任将校、武田光雄水雷長は、内心の不安からつい、

「艦長、もうそろそろこの辺で切り上げてはどうですか」

と急かすように具申したところ、作業の間中、椅子に腰掛けたまま泰然としていた艦長は
静かな口調でこう言ったそうです。


「水雷よ、ここに泳いでいる人達は、我々が助けねば誰も助けてくれないだろう。
それははっきりしている。 だが我々が救助の中で敵の攻撃を受けるかは、これは運だよ。
だったら最後の一人まで助けようではないか」 

武田水雷長はこのとき、今後は自分も艦長の言うとおりにやろうと心に決めたそうです。



「濱風」は最後まで救助中に敵に捕捉されることはありませんでした。



この前川万衛中佐が大尉時代のことです。
昭和10年に起こった「第4艦隊事件」のとき、乗り組んでいた
駆逐艦「夕霧」の艦首は、嵐の動揺によって切断されました。
同じように切断された「初雪」の艦首には機密が搭載されたため、
曳行が不可能とされた時点で第4艦隊はこれを雷撃で乗員もろとも沈めました。
「夕霧」艦首部も曳行が試みられましたが、やはり27名の下士官兵を乗せたまま
途中で沈没してしまったのでした。

「濱風」の航海長に、第4事件のことを話したとき、

「あの事件で大勢の兵隊たちを殺してから、俺は・・・」

と前川艦長は言葉を途切れさせたそうです。



冒頭写真の「濱風の碑」の後ろには、こんな文字が刻まれています。

「第二次大戦中作戦参加の最も多い栄光の駆逐艦であり、
数々の輝かしい戦果をあげると共に、空母蒼龍、飛龍、信濃、戦艦武蔵、
金剛、駆逐艦白露等の乗員救助及びガダルカナル島の陸軍の救助等、

人命救助の面でも活躍をして帝国海軍の記録を持った艦である。」



その「濱風」の最後の出航となった坊ノ岬沖海戦、「大和」特攻の前夜のことです。
「濱風」先任下士官が

「ネズミがロープを伝って陸上に上がっていくのを見ました」

と先任将校に小声で囁きました。
士官は先任下士に向かい、

「誰にも言うな」

と口止めしたと言いますが、実はこの不思議な現象はこの夜、
坊ノ岬沖海戦に次の日出撃する幾つかの他の艦でも目撃されていました。
動物の本能は、もうすぐ艦が沈むことまでを察知することができたようで、
事実「濱風」もこの海戦で戦没することになります。

「濱風」の最後は多くの生存者によって目撃されています。
4月6日、徳山を出港、7日、大隅諸島西方で敵機動部隊の攻撃を受け、
後部に大型爆弾が命中、航行不能となりました。
そこへ魚雷が船の中央部に大音響とともに命中したため、真っ二つとなって沈没したのです。


この慰霊碑の実に不思議な形は、彼女の最後の瞬間を想起させます。
轟沈した「濱風」の乗員は100名が戦死し、前川艦長始め256名が救出されました。 


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米海軍アイスクリーム事情~ハルゼー提督とアイスクリーム艦

2015-02-14 | 海軍人物伝

わたしがいつぞやネットを探して古本屋で見つけた
元海軍主計中佐、瀬間喬著「日本海軍生活史話」は、旧海軍の「食」に関する
あらゆる資料が掲載されている労作(昭和60年発行)です。

食べることはある意味戦闘以前に軍隊にとって重要な一事であるため、
それらを司る役目である主計は重職であり、その元主計士官によって集められた資料は
海軍に留まらず
戦前の日本の「食」のあり方を窺い知る貴重な記録となっています。

んが、ありがちなことですが、実際のところ日本海軍は糧食、補給、廚業に対し
まともな関心を払わぬことが多かったようです。

この著者である元海軍主計中佐に言わせると、糧食に関することは主計科に丸投げで、
肝心の主計科士官たちの中でも、本流は会計経理に進むため、

衣食に携わる主計業務は蔑視に近い軽視という扱いを受けていたというのが実情だったそうです。

れでは陸軍はどうだったかというと、なぜか海軍よりずっとマシだったらしいのです。
2・26事件の首魁であった磯部浅一は一等主計でしたが、もともと安藤輝三大尉と同期の
歩兵であったのにわざわざ主計に転科しています。
その理由というのは、貧農家庭出身の磯部らしく、

「革命のためには、経済学を専攻する必要がある」

という深謀からきたものであったそうですが、いざ転科してみたら磯部大尉の意に反して
”飯炊き勉強ばかりやらされて”、というくらい廚業重視で本人苦笑、というものであった由。

今も昔も「海はグルメ」ということになっているのにこれはいかなることでしょうか。
食に対してこだわりはあってもそれをするのは下の者の仕事、という感覚?

瀬間元主計大佐は、このあたりの意識に甚く不満を感じていたようで、この本の後書きで、

「司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』の中で『上は大将から下は主計兵に至るまで』
とあったが、いかにも主計兵が最下等のものであるようで快い気持ちはしなかった」

とうらみつらつら書いています。
司馬遼太郎が意識せずに、しかし深層心理のうちに

主計は兵科よりも下等なものであると認識していたのが現れたということでしょう。

しかし司馬遼太郎のような所詮権威主義の言うことはこの際置いておいて。
当たり前ですが、食は軍隊の最基本です。
食べねば軍隊は機能せず、それどころか戦わずして負けてしまうのです。

事実、後年南方に日本軍が進出していき、戦闘どころか根拠地で食料不足になったときに、
その壊滅を未然に防いだのは往々にして司令官ではなく優秀な主計士官でした。

現地との折衝や食料の自給、それらを計画指導し、主計士官が部隊を救った例は沢山あります。

そして艦艇生活での食。
それは選択の幅のできる陸よりずっと重要視されており、

従って海軍軍人に一番愛され人気のあったのは、他でもない給糧艦「間宮」でした。

「艦これ」ブーム以来、プラモデル会社の人々が一番驚いているのが
「間宮」の模型が売れることだそうです。
「間宮」は艦これ的にも愛されキャラとして絶大な人気があるそうですが、
それもこれも実際に彼女が海軍さんたちに深く愛されていたという史実からきています。


彼女の特徴のある一本煙突はそのままあだ名になり

「おお、一本煙突が来たぞ」

と、すべての軍人たちが・・・・それこそ上は大将から一水兵に至るまで、
「間宮」の来るのを待ち望み、大喜びでこれを迎え、昭和19年12月に
南シナ海で戦没したという報せには多くの軍人が涙したといいます。


つまり「間宮」は「士気を高める」という意味で戦闘に役立っていたのです。
本筋ではありませんが、もう少し間宮についてお話ししておくと、「間宮」は特務艦で、
軍艦ではないので、軍艦旗は掲揚していますが艦首に菊の御紋章はつけていません。



後部上甲板には一応もしものときのために肉牛の屠殺場があったそうです。

屠殺人もおらず、そもそも肉牛など乗せることもなく、結局一度も使われないままでした。
真水や氷などの配給も行う関係で、洗濯機がなく洗濯夫の乗っていない
駆逐艦などの艦のために、洗濯を代わりにしてあげることもできました。

艦隊のお昼ご飯はだいたい洋食だったので、「間宮」では毎日パンを焼いていました。
つまり、「間宮」が寄港した艦隊の乗組員は毎日焼きたてのパンを食べていたのです。

艦内生産をしていたのは有名な羊羹、最中、洗濯板と称するパン菓子、こんにゃく、豆腐。
そして今日話題のアイスクリームです。
「大和」にもアイスクリーム製造機があったという話を書いたことがありますが、
こちらの真偽は少々怪しいようで、冷凍室があったのだからアイスクリームも作れただろう、
といった程度の話であるようです。

もっともアイスクリームの作り方というのは簡単といえば簡単で、冷凍庫さえあれば
それで冷やし固めたものを手で2時間おきに練ればできあがるので、
(フランスの王宮の料理人は事実そうやって作っていた)「大和」でも
フランス料理を供する時などには大きなしゃもじで練って作っていたのかもしれません。

余談ですが、海軍の食事レシピは、供する相手が士官か兵かで微妙に変わってきます。
一言で言うと材料費と手のかかるものは士官にしか出しません。

昭和7年に海軍主計に使用されていたデザートレシピによると、

ベークドアップル・・・士官
ピーナッツボール(ドーナツボールのこと)・・・兵

マデルケーキ(マデル酒を入れたパウンドケーキ)・・・士官
ダンブリン(牛のケンネン油に粉を混ぜて焼いたケーキ)・・兵

といった具合に差がつけられています。
牛の腎臓周りの脂を「ケンネン油」といったそうですが、こんなものをお菓子にするか・・・。


普通、アイスクリームを作るときには生卵を熱さずに使いますが、
「間宮」のアイスクリームは食中毒の恐れがないように卵を使わず、
缶入りのカーネーションミルク(無糖練乳)を使用して作ってあったそうです。

もしかしたら「アイスミルク」のようなさっぱり系だったかもしれません。

「間宮羊羹、「間宮最中」とともにこのアイスクリームは廉価(皆お金を払って食べていた)
で供給するために大量生産を目標としていましたが、材料、製造法が
正直で真っ当であると艦外からも大変好評であったということです。


さて、というのは前置きで、本題に入りましょう。



アメリカ人というのはアイスクリームが好きです。

ある調査によると、アメリカ人のアイスクリーム消費量は平均年間一人当たり48パイント、
世界で最もアイスクリームをよく食べる国民だそうです。

昔は日本にはアイスクリームだけ売っている店なんてのはなかったのですが、
いつの間にかアメリカの「サーティワン」などが進出してきて、
モールのブース程度とはいえ、専門店が普通に並ぶようになってきました。

しかし、アメリカでは「アイスクリームだけ売っている」店が昔から普通にありました。
これはどういうことかというと、冬でもアイスクリームを食べる人がいたということです。

冬でも食べるのですから夏はもう1日一回はアイスクリームを食べずにはいられないようで、
息子の学校の近くのアイスクリームスタンドに、真昼間なのに老若男女
(車でないと来られませんから)が涼を求めてウィンドウに鈴なりになっています。
こういうのを見るたび、アメリカ人のアイスクリーム好きに感嘆してしまうのですが、
これは軍人であってもいささかも変わりなし。


アメリカ軍では、軍隊の士気向上のためにアイスクリームは不可欠と考えていました。
米国陸軍省が部隊の士気を維持するために不可欠な6項目をリストアップしたのですが、
そのうちの1項目は”アイスクリーム”だったそうです。

まじで。

日本人が白い米にこだわったように、アメリカ軍人はアイスクリームによって鼓舞されたのです。
ちなみにあと5項目がなんなのかは知りません。

陸軍には日系人部隊がありましたが、日系兵士たちもアイスクリームジャンキーであったらしく、
日系人による諜報部隊について書かれたサイトを見ていたら、

「生きた捕虜を連れて行ったら褒賞としてアイスクリームがもらえるように上に説得し」

などという文章が見つかりました。
・・・・この捕虜って日本人のことですよね?



そして、アメリカ海軍。

第二次世界大戦(アメリカの話なのでこう言いますね)のとき、米海軍は、
太平洋で戦う将兵たちのために、100万ドルを費やして
「アイスクリーム・バージ」なる船を作りました。
特務艦の一種ですが、その船の任務はただ一つ。

1,500ガロンのアイスクリームを作り、保存すること。

うーん・・・海軍軍人になってこんな船の艦長に任命されたらどう思うかなあ。
だいたいそんなもん本当にあったのか?とかなり疑問なのですが、
アメリカ人の間でもやはり眉唾扱いされているネタだそうです。
しかし幾つかの文献を当たったところそれはどうやら本当だったらしく1945年に就役し、
「世界初のフローティング・アイスクリームパーラー」と呼ばれていたとか。



その資料らしきものがこれなのですが、どうやら「ナショナル乳業」という企業が
宣伝も兼ねて軍の依頼を受けて作った船みたいですね。
アイスクリームだけでなく他のものも乗せていたみたいで、
1500ガロンではなく500ガロンとなってはいますが、いずれにせよ
この船を見守る兵隊さんの満面の笑顔を見ても、アメリカ人が

「アイスクリームがたくさん!ってことはアイスクリームバージだ!」

とはしゃいで名前を勝手につけたらしいことが薄々予想されます。

はしゃいだと言えば、なんでも戦争中、ある軍艦にアイスクリーム製造機が届き、
嬉しいのではしゃぎすぎて足を骨折、本国に送り返された兵士がいたというくらいでして。

どんだけアイスクリーム好きなんだよ。



間宮さんが人気があったのは特に駆逐艦にない設備が整っていたからでしたが、
アメリカの駆逐艦な野郎たちも

「大型艦にはあるのにうちらにはアイスクリームメーカーがない!不公平だ!」

 

と随分ご不満だったようで、こんな制度を考え出しました。

When destroyers picked up downed pilots they were rewarded with ice cream from the carrier, 
in one particular case, an squadron commander got a destroyer 25 gallons of ice cream :P. 


駆逐艦が海に落ちたパイロットを助けたら、空母からご褒美として
アイスクリームがもらえたというのです。

ある駆逐艦の航空隊指揮官は、25ガロン(約100リットル)
のアイスクリームを褒賞として受け取った、とありますが、
なんでもこの単位は、「助けたパイロットの体重分」という噂です。

いずれにせよ、人命救助のご褒美にアイスクリームとしたあたりにユーモアと良識を感じますね。


このサイトでついでに拾ってきたアイスとは関係ない話ですが、大戦中、
USSオバノンという駆逐艦は、
ある夜の航行で浮上していた日本海軍の潜水艦と遭遇しました。
オバノンはそれまで超近接した潜水艦相手に戦闘をする訓練を
したことがなかったので、
どうしていいかわからず、とりあえずジャガイモを投げたそうです。

日本軍の潜水艦乗員は手榴弾だと思って急いで駆け寄り、即座に投げ返してきました。
その後、息詰まるようなジャガイモの投げ合い・・・にはならず、
オバノンは急いでその場から離脱し、同時に潜水艦の方も沈んで逃げたそうです。



さて、というわけで縷々お話ししてきましたが、ようやく冒頭マンガについてです。
題材が題材なのでアメコミのタッチで描いてみました。(描線を増やしただけですが)

米海軍では空母や戦艦など、大きな船には必ずアイスクリーム製造機が装備されていましたが、
一台しかないので、アイスクリームだけは階級関係なしに並ぶことになっていました。
日本海軍はメニューの手間ですら階級差がありましたし、米軍も基本的にそうなのですが、

ことこのアイスクリームについては万民平等、水兵はもちろん提督であろうが一列に並んで待つべし、
と決められていたというのです。

全ての者はアイスクリームの前に平等である。てか?

ある日、その掟を知らず列の先頭に割り込んだ新米士官たち。
長蛇の列の中から大喝されてそちらをみると、声の主はハルゼー提督だったというお話。


このほかにも、自艦にアイスクリームメーカーを導入させようと、ドック入りのたびに
大変な熱弁を奮ってその必要性を訴え、ついにはそれを成し遂げた艦長がいたそうですが、
きっとこの艦長は、


「あの爺さんのためなら死ねる!」

というくらい乗組員一同の株と士気を上げたに違いありません。
これが負けず嫌いのハルゼー提督なら

「悪いが俺はまだジジイじゃないぜ」

と言われてしまうわけですが。

・・とにかく、どれだけアイスクリーム好きなんだよアメリカ人(呆)

 

 



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越山澄尭大尉~「モレスビー沖に死す」

2013-12-11 | 海軍人物伝



■ 卒業

兵学校の卒業写真は、このように分隊ごとに撮られます。
21分隊の卒業生は7名、ここに越山澄尭がいました。
写真には間に合わなかったらしい分隊を除き、各自の自筆による
サインが添えられています。

前回、全体写真から越山生徒を特定しましたが、全く根拠がないわけでもなく、
 



この前列の紋付袴の生徒が、この分隊写真の越山と似ているというのもその根拠です。
皆さんはどう思われますか。

前回も書いたように、この21分隊には「真珠湾の軍神」である古野繁實がいて、
冒頭写真では後列左端に立っています。

古野は福岡出身、卒業時のハンモックナンバー(成績)は120番。
240名ほどのちょうど真ん中あたりにいたようですが、身体壮健で、
兵学校に当時の横綱網玉錦一行が訪問し、序の口力士と
手合わせ稽古をした際、
ほとんどが全く歯が立たなかった中で、
たった一人、
相手を上手投げで破る快挙を成し遂げたほどでした。


この分隊の伍長は地頭三義で、ハンモックナンバーは19番。
2号生徒のときのハンモックナンバーの上位36人が伍長として、
全部で36ある分隊を率いると言う仕組みです。

因みに第1分隊の伍長は中村悌次
「海の友情」をお読みになった方は、この名前を覚えておられるでしょうか。
戦後、名海上幕僚長として、米海軍と海自の友情の大きな立役者となった人物です。

その中村が、ヘンデルの「勝利を讃える歌」の流れる中、恩賜の短剣を授与せられ、
卒業生たちは「ロングサイン」に送られて練習艦隊に出航して行くのです。


“淡い生活4年も過ぎて ロングサインで別れてみれば

ゆるせなぐった下級生 さらば海軍兵学校 俺も今日から候補生”


■ 練習艦隊

7月25日、卒業式を終えた67期生は、練習艦隊に配乗しました。

そのころの情勢を少し説明しておくと、支那事変は三年目に入ったものの解決のめどはつかず、
国内では国家総動員法が成立、
逐次統制は強化され、物資は不足となりつつありました。

ちょうどこの頃、アメリカは突如日米通商航海条約を破棄
さらにはヒトラー率いるナチス・ドイツが同盟国締結を日本に迫ってきていました。
そしてそれを受け入れようとする陸軍と、
反対の海軍との間にも齟齬が生じ、
少尉候補生たちにもその不穏な世界の空気はひしひしと感じられました。



練習艦隊は「八雲」「磐手」の二隻をもって編成され、それに給炭艦「知床」が追随しました。
このとき「知床」の艦長だったが、のちにあの「キスカ救出作戦」の指揮を執った

木村昌福大佐(兵41期)

です。
このとき越山候補生は「八雲」に乗り込んでいます。

兵科候補生は、練習艦隊実習において、主に天測と当直(副直士官勤務)で鍛えられます。
この二つは初級士官として必須の資格条件であり、この練習航海を通じて絶え間なく、
かつ繰り返し演練指導されているうちに、シーマンシップと共に身に付いてくるものです。

天測にはやはり得手不得手があるので、

「当艦位置、現在奈良県猿沢池!」

ということになってしまう候補生もいたようです。(嘘でしょうけど)
そしてこのあと、前回お話ししたハワイへの遠洋航海があるわけですが、
この部分の記述にこんなのを見つけました。

「南洋諸島(ボナペ、トラック、パラオ)の寄港行事は、
ハワイと全く逆の地味なもので、土人踊りを見た程度であった」


ハワイでは現地在住の県人会などの日本人団体始め、行く先々で彼らは
熱烈な歓迎を受けましたから、余計にその差を感じたのでしょうが。
まあ、この頃(昭和58年)放送禁止用語とかありませんからね。

彼らはサイパンにも寄港し、現地の日本人学校の校庭で運動会をしました。
候補生たちと一日走ったりした子供や女学生を含むこれらの人々が、
その5年後にどんな運命をたどることになったのか・・・。
このときの候補生たちもそのうち182名が戦死し、戦争が終わったときに
残っていたのはわずか88名でした。


遠洋航海が終わり12月の年の瀬に横須賀に帰港したかれらは、艦隊配乗となります。

越山は「五十鈴」「五月雨」乗組後、潜水艦講習員として一ヶ月の講習を受けています。

昭和16年11月。
東条内閣は成立後情勢の再検討を実地した結果、
11月5日の御前会議で

「対英米蘭戦争を決意し、武力発動の時期を12月初頭と定め、
陸海軍は作戦準備を完成す。
対米交渉が12月1日午前0時まで成功せば、武力発動を中止する」

との方針を決定していました。
これを受けて大本営から作戦計画示達が出されました。

連合艦隊は11月7日、「第1開戦準備」(戦略展開)を発令、
11月13日岩国に主要指揮官、幕僚を集めて作戦計画を示達、
図演および作戦打ち合わせを実地しました。


この「図演」と言う言葉をわたしが知ったのは比較的最近のことで、
ある海上自衛官との文章でのやりとりの中で目に留まった言葉です。
英語では「ウォー・ゲーム」とか「ミリタリー・シミュレーション」といい、
「兵棋演習」自衛隊では「指揮所演習」と言うこともあります。

こんにち、大東亜戦争において大本営が行った図演の読みがことごとく甘かったのが
敗因であったということになっているわけですが、同じシミュレーションでも、
当ブログでかつてお話ししたこともある、「総力戦研究所」で行われた
「開戦シミュレーション」
は、昭和16年の開戦前において、日本の将来の敗戦をほとんど現実のままに予想していました。
この総力研に集められたのは、政治、軍ともにその中枢ではない
「オブザーバー」的視点を持った
若い人たちでした。

つまり、「認知バイアス」(軍人精神とかいう形の)がかかってしまった場合、
いかなる図演も、その的中率は格段に下がるということでもあります。

このときに驚いたのが、海上自衛隊ではこの図演をリアルタイムで行っているということ。

またその自衛官によると

「現代では図演も冷徹に行っていますので、ご安心下さい」

ということで、国民の一人としてはこの頼もしい言葉に胸を撫で下ろした次第です。


■ 開戦

ハワイ作戦を実地する潜水艦は、真っ先に展開を開始しました。
先遺隊の展開部隊は潜水艦乗組が15名。
そして、特潜2名
言わずと知れた古野繁實、そして横山正治両少尉です。

古野の乗った特殊潜航艇は、(広尾艇説もあり)7日23:30頃、
湾外でアメリカ軍の掃海艇に発見され、駆逐艦に撃沈されました。

これは、真珠湾空襲の4時間前で、日米海軍最初の会敵とされます。


一方、南方への侵攻も同時に開始され、海軍は主力空母を除いた
連合艦隊の大部分を展開しました。
この南方部隊に、越山は伊59で参加しています。
南遣隊の司令長官は、小沢治三郎
この隊の陣容は以下の通りです。


第24戦隊(24S) 特設巡洋艦「報国丸」「愛国丸」「清澄丸」
第11航空戦隊(11Sf)  水上機母艦「瑞穂」「千歳」
第4潜水戦隊(4Ss)   軽巡「鬼怒」
   第18潜水隊(18sg) 潜水艦「イ-53」「イ-54」「イ-55」
   第19潜水隊(19sg) 潜水艦「イ-56」「イ-57」「イ-58」
   第21潜水隊(21sg) 潜水艦「ロ-33」「ロ-34」
第5潜水戦隊(5Ss) 軽巡「由良」
        第28潜水隊(28sg) 潜水艦「イ-59」「イ-60」
        第29潜水隊(29sg) 潜水艦「イ-62」「イ-64」
        第30潜水隊(30sg) 潜水艦「イ-65」「イ-66」



開戦前、

「インド洋方面からイギリス海軍の有力部隊が
マレーに増強された」

という情報を得たためそれに呼応して、

当初フィリピン方面であった越山少尉所属の5Ss は、マレー半島沖に転用になりました。
12月9日、ここに配備されていた伊65が、イギリス戦艦部隊を発見し、
12月10日の「マレー沖海戦」の端緒を作りました。

その後第5潜水戦隊は南方部隊直属となり、
蘭印侵攻作戦に対する協力として、インド洋方面に進出しています。

越山の伊59は、17年の1月上旬、ダバオ(フィリピンミンダナオ島)
に進出、その後ポートダーウィン(オーストラリア)沖の監視に任じました。

第5潜水戦隊はその後2月下旬から一ヶ月、インド東岸、そしてセイロン島の
交通破壊戦を実施。この作戦で、商船数隻を撃沈しています。


17年4月頃の南太平洋の基地航空戦は激化しようとしていました。
中旬以降、台南空、4空(陸攻)、横浜空(飛行艇)が南太平洋方面に進出。

67期の笹井醇一中尉は、この25Sfで、山口馨、木塚重命の同期生と共に
4月17日以降、ラバウルからモレスビーに対する航空撃滅戦に参加し、
そのときの台南空の下士官で笹井の部下であった坂井三郎が、戦後この部隊の想い出を
「大空のサムライ」
と題して出版したため、図らずも笹井醇一の名は有名になりました。


越山中尉も、まさにこの笹井中尉と同じ方面、
主にモレスビー沖での哨戒、監視を呂33で行っています。

笹井中尉が8月26日、ガナルカナル攻撃で戦死しているのに対し、
越山中尉の戦死はモレスビー沖でその3日後の29日です。



■ガ島増援輸送作戦

この12月8日、すなわち真珠湾攻撃により日米が開戦した日に、
わたしは奇しくも海軍兵学校67期卒の市来俊男氏の講演を聞きました。

市来氏は航海士として「陽炎」で真珠湾に参加し、やはり「陽炎」で、
ガダルカナルへの一木支隊(一木清直大佐以下2300名)
川口支隊(川口清健以下1200名、総勢3000名)の輸送任務を経験しています。

この駆逐艦による高速輸送、夜間急速揚陸を、当方は

「ネズミ輸送」

と呼び、アメリカ軍は

「TOKYO EXPRESS」

と呼びました。
敵の方がよほどかっこいい名前で呼んでくれていますね。

この後軌道に乗った増援輸送は、9月に入って本格化しますが、
ガ島奪回を期した川口支隊を主力とする部隊は、集結が遅れたため
その作戦は失敗してしまいます。

この総攻撃支援作戦として、潜水部隊は8月下旬からソロモン南東、
そしてガ島周辺に展開していました。

越山中尉乗組の呂33は、8月上旬以降、
モレスビー沖の監視、哨戒に任じていましたが、
8月29日以降消息を絶っています。

潜水艦は極秘で任務遂行し、危急のときにも無線を発しないので、
殆どの戦没潜水艦は、いつ、どこで撃沈されたのか、それとも
事故によるものなのかわからないまま消息を絶ち、消息を絶った日を以て
その損失が初めて確認されます。

呂33潜もやはり同じように、その最後が誰にも知られること無く、
そのまま帰ることはありませんでした。

開戦一年にもならぬ内の戦死は、やはり同級生には無念であったと見え、

戦死の時期が早すぎたことは戦況の推移上やむを得なかったとはいえ、
かえすがえすも残念でなりません。

とある級友は、越山の早い戦死を惜しんでこう書き遺しています。
そして、

「情熱をうちに秘めた男、越山であるから、
その最後の瞬間もきっとそうであったにちがいない


と想像しています。

これは我々には頗る理解し難い評論で、

従容とその死を受け入れ泰然と微笑みつつ死んだのか、
それとも、天皇陛下万歳と怒号ののち果てたのか、

「情熱的なものを内に秘めたタイプ」

であれば果たしてどちらの死を選ぶのか、はっきり言って想像もつきかねます。

きっとこの同級生の脳裏には、彼と親しく兵学校で交わり、

彼の人間を良く知っているものであるからこそ想像しうる
「最後の越山澄尭の姿」というのがあったのに違いありません。


■ 「下駄を下さい」


越山が最初に兵学校に現れたとき、

「凄いのが来た」

と目を見張ったクラスの西村茂義は、鹿児島弁で語らい、
越山を「越山サー」と呼んで親しんだ親友となったようです。
「凄い」と思われたその越山は、西村にとっては、一度言葉を交われば実に人なつこい、
優しい心根に、誰もが彼に打ち解けてしまうような大きな心の持ち主でした。


最後に、越山の大人物ぶりを物語るこんな逸話をご紹介してかれの物語を終わりにしましょう。


先日も書きましたが、兵学校の教練に当たる下士官は、年齢は遥かに上のベテランでも、

軍隊の階級は兵学校学生より下になります。
ですから、教練で教員が命令を下すとき、

「誰々生徒はそのまま姿勢を正す!」

などという「不思議な三人称」を使うことになっていました。
勿論その他の状況ではまるで自分の息子のような青年に向かって、
教官は敬礼をし、敬語で上官に対するようにしゃべるのです。

そんな逆転した状況ですから、学生の態度によっては、
内心面白からぬ反感を持つ年かさの下士官もいたかもしれません。

そんな年配の教官であった某兵曹がある日、越山に
「あの」下駄をもらえないだろうか、とねだりました。


下駄とは「維新の遺物」と彼の第一印象をして評させた、あの、高下駄です。

彼が、件の高下駄を大事に新聞紙にくるんでチェスト(物入れ)の
一番底にしまい込んでいたのを、級友は覚えていました。
それもまた越山の几帳面な性格の一端をあらわす想い出として。


越山生徒が大将になるまで大事にしまっておきますから、ぜひ下さい」

越山が果たしてその下駄を、そのように所望した兵曹に本当に与えたのかどうか、
それはその同級生にも最後までわからなかったようです。



越山澄尭 大正7・7・3生

本籍 鹿児島市上竜尾町

位階勲等 海軍大尉正七位勲六等功5級

戦死年月日 昭和17年9月1日

戦死状況 昭和17年8月22日ラボール発モレスビー方面監視偵察に
     つきたるまま消息無く、敵艦隊を攻撃、反撃を受け戦没と推定
     昭和17年9月1日附戦死認定


 

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越山澄尭大尉~海兵67期の兵学校生活

2013-12-10 | 海軍人物伝

昭和11年4月1日、江田島海軍兵学校に入学して来た
全国から選りすぐりの秀才たち245名の記念写真です。
その年の2月11日紀元節の佳日、彼らは待ちに待った

「カイヘイゴウカク、イインテウ」

という電報を受け取り、ここに集ってきたのです。
入校式までの一週間、身体検査、体力試験、服の試着、校内見学が行われますが、
恐ろしいことに、ここまで来たのに最後の身体検査で刎ねられ、
10名もが不合格となり無念の帰郷となりました。

いやこれ、あんまりじゃないですか。
いくら身体検査とはいえ、電報をもらってから天にも昇る気持ちだったのに、
ここで奈落の底に真っ逆さま。
何と言っても、家族や故郷の人々に合わす顔が無いとはこのことです。
唯の不合格などよりよっぽど罪深いですよこれは。




ここでいきなりですが、この67期が冒頭写真の三年半後、卒業の際に撮った写真です。

写真を撮る日に欠席したばっかりに上に丸囲みで「死んだ人」になってしまう、
という不幸な人が、昔からクラス写真には何人か必ず居たものですが、
この写真の二人は、なんというか・・・・ラッキーでしたね。


67期は248名の大所帯ゆえ、卒業写真も皆豆粒になってしまい、

誰がどこに居るのか、全くわからないわけですから。


しかし(笑)。



しかし、江田島の教育参考館に飾られている卒業生の写真には、
一人一人の名前がちゃんとわかるように表示されています。
わたしは兵学校見学をしたときにちゃんとこの67期だけ名前をチェックし、


後ろから三列目の左から5番目が、笹井醇一生徒

であることを突き止めたのである。(照れ)
関係なかったですねすみません。

それはともかく、この「入学前・卒業前」のビフォーアフター写真、
しつこいですがもう一度並べてみます。

使用前

使用後

いやもう、なんと言いますか、全体の空気からして違ってますね。
同じ制服や全員がぴしっと頭をまっすぐにしている所為もありますが、
3年4ヶ月の兵学校生活は若者をこれだけ変えたってことですよ。

あと一点留意していただきたいことがあります。
彼らの後ろに見える建物。
いかにもできたばかりらしく、白壁には一点の曇りもなく窓ガラスもピカピカです。
入校前の団体写真は、江田島の見学に行くと最初に立ち寄る、

大講堂の前の石段で撮られていますが、卒業時は彼らが居住していた生徒館前です。

67期生が2号生徒(3年生)になったとき、彼らが入校して来た昭和11年に
着工した新生徒館が完成し、彼らはその7月から、寝室と自習室を新校舎に移しました。

今も江田島にそのままの姿で(窓枠だけが取り替えられている)あるこの校舎に

初めて入居しそこで寝起きしたのが、彼らを含む65から68期までの学生でした。

わざわざ恒例の大講堂前ではなく新校舎前で撮影をしたのは、
この新築がこの学年に取って大きな想い出であったからでしょう。

 

越山のクラス、67期というのは彼ら自身の評価によるものですが、

「地味ではあるが全員の粒が揃っていて、お互いによく助け合う」

という美点を持っていたようです。

戦後俗に言われるところの「お嬢さんクラス」「ネーモー」(獰猛のこと)ではなく、
下級生を殴ることは比較的なかったようです。

実際にも、彼らは最高学年の1号生徒になり、新入生を迎えようとする頃、
わざわざクラス会を開いて「鉄拳制裁禁止」を決議しています。 

しかしそこは兵学校ですから(笑)
「新入生の娑婆気を抜く」教育はそれなりにみっちり愛をこめて行いました。
なんといっても彼ら自身試練を受けてきているのですから。


入校式まではやさしく見えた上級生は、その夜の
「姓名申告」「起床動作練習」で鬼と化します。
67期生徒が辛い4号生活をもう少しで終えるときに


「あと少しで何も知らない下級生が来ると思うと心が弾む」

なんて書いてるんですね。
この、初日のいかにも親切な上級生を装っている間、彼らの心境はまさに
赤ずきんちゃんをだまくらかすオオカミになった気分?
舌なめずりするというか手ぐすね引くというか、いずれにせよ、
あまり高尚とはいえぬインビなカイカンに打ち震えていたに違いありません。


上級生が下級生を「鍛える」ときの口癖とは次のようなものです。


「もりもり鍛える」
「言い訳するな」
「娑婆気を抜く」
「へばったような顔するな」
「待て!!やり直せ」(主に階段、廊下で呼び止めて)

「言い訳するな」はわたし、よく言いますね。息子に。
それはともかく、「お達示」の文句の典型は次のようなもの。

「言語道断」「もってのほか」
「多くは言わん。脚を開け」(殴るとき)

兵学校における、上級生と下級生、指導するものとされるもの、
そしてそういった関係には実に面白いものがあり、このことについては
またあらためてお話するつもりです。


当事の流行言葉も、生徒同士でよく使われました。

「じーっさい」(実際)

これは、前にも書いたことがありましたが、当時の流行語で、
兵学校に限らず、感嘆詞として使われたのだそうです。
何か可笑しいとき、パンパン手を叩く人いるじゃないですか。
(正直言ってあれ、わたしはあんまり好きじゃないんですけど)
ああいうときに

「じっさい!じっさい!」

というのが流行っていたんですね。


さて、入校式に続く入校教育では、初日に度肝を抜かれた新入生は
それまでの甘い夢は吹っ飛んでしまい、その厳しい訓練に悲鳴をあげることになります。

この入校特別教育とは、すなわち「陸戦」と「短艇」。
教官は下士官で、面と向かっているのになぜか三人称で命令してきます。

「越山生徒はそのまま匍匐前進する!」

こんな感じです。
兵学校の生徒は、入校した時点でこれら教官である下士官より
軍隊的には高い位を与えられているからです。

陸戦は、当時の中学生と言うのは教練という形で既に履修しているのですが、
短艇、つまりカッターはほとんどの生徒が生まれて初めての体験。
たちまち手に豆を作り、それが尻の皮とともに破けて血まみれです。

しかし、これは現在の防衛大学校においてもかわることなく行われており、
以前お話ししたことのある防大卒の方は、

「破れた皮が張ってくる頃またその皮がずるりと・・・」
「きゃああああ」

というホラー話でもしているような調子でその想い出を語ってくれました。

生徒館に戻れば室内、廊下、階段、至る所で1号の怒号の下に走り回り、
また「インサイドマッチ」(ぞうきんですね)の取り込みなど、
分隊内務に終われ全く息つく暇もないのです。

もしかして、これを読んだ防大関係者の方等は、

「現在の防大と変わりないじゃないか」

と思われるかもしれませんね。

ともかくこのカルチャーショックと肉体的な辛さのあまり、大抵の生徒にとっては

「4月3日に軍楽隊演奏会と夜桜鑑会があった、と記録が残っているが、
このころの生活があまりにも衝撃的で、この記憶を呼び戻せるものは殆どない」

というくらい茫然自失のひとときであったようです。
(ちゃんと覚えていて回想録に書いている生徒さんもいますから、
もちろん全員が全員そうだったというわけではありません)

兵学校のしつけ教育について目についたところを書くと、

「上級生は何とか生徒、クラス間は貴様、俺と呼ぶ」
「教官は何とか教官、と呼び、殿はつけない」
「です、ではなくであります、という」

「窓、カーテンの開け閉めは所定時間に定められた通り実施」

「帽子をアミダに被るな」
「軍服には常にブラシを当てる」
「靴の泥はすぐ取って磨く」
「事業服の紐は端が垂れないように結べ」

「食事のときは左手を膝におき、右で食べる。
ただしパンをちぎるときには両手」
「食器を手で持たない」
「ものを落としたときには自分で取らず賄いを呼んで取らせる」


一般社会のマナーとは少し違っていますが、片手で食事をするというのは、
全て後に艦隊生活をするということからきています。 

あとおかしいのは、

「デザートの羊羹は箸で切って食べる」

兵学校ではデザートに羊羹なんか出してたんですね。
羊羹用の小さなフォークなど無いので、こういう規則が出来たようです。

「酒保へ行くときは駆け足をするな」

生徒たちは次の課業に行くときには駆け足をせねばならず、
階段も駆け足で昇りは二段ずつと決められていました。
生徒たちは


「猛烈に腹が減り三度の食事では燃の足りず、
週末の酒保が楽しみで仕方がない」

というのに、その酒保に行くときだけは走ってはいけないというのです。
なんと無慈悲なお達しなのでしょうか。
というより、みんなが楽しみのあまり走るのでこんな規則が出来たんですね。 

 

指導監事の中山が入校時に

「遠洋航海を夢見て入校して来たと思うが、そんな夢は捨ててしまえ」

と檄を飛ばした話を前回しましたが、67期は
ともかくも海外への遠洋航海に行くことは実現しました。
その下の68期の遠洋航海は国内、69期からは開戦で中止になりましたから、
実質、海軍の歴史でこれが最後の海外への遠洋航海となったのです


昭和14年10月4日 横須賀を出発
   同 10月18日 ホノルル
     10月24日 ヒロ
     11月8日  ヤルート
     12月20日 横須賀帰港 


本来、兵学校の遠洋航海の行き先は、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアを、
学年ごとに割り当てられていて、67期はアメリカの予定だったのですが、
ヨーロッパではすでに第二次大戦が緒に就いていたので、西海岸の予定を
半分切り上げた距離のハワイまで行くことになったのです。

67期卒、駆逐艦乗り組みで、「陽炎」の航海長で真珠湾に参加した、 
市来俊男(戦後掃海作戦に携わり、海上自衛隊)は、この遠洋航海の想い出を
こう語っています。

「真珠湾を通過したとき、まだ薄暗かったが、総員が甲板に上げられた。
そして、『入り口を良く見ておくように』と指導官が言う。
皆目を凝らしたが、その『入り口』は 暗くてよく見えなかった」

また真珠湾攻撃のとき酒巻和男少尉の特殊潜航艇を真珠湾まで運んだ
伊69潜に乗っていた山本康比久も、この遠洋航海のとき、

「お前たちのうちの数名は数年ならずしてまたこの灯を見るだろうから
よくスケッチしておけ」

と言われ、午前三時の薄明かりの中、沖3マイルから湾口をスケッチしています。

昨日の「軍神の床屋さん」でお話しした古野繁實、そして横山正治という
「真珠湾の軍神」は、二人ともこの67期です。
指導教官の言葉通り、そのわずか2年後、古野・横山を始め、
この山本も、再び真珠湾口を見ることになりました。

前述の市来の言によると、実際にそれが始まってから、
「ああ、あのとき」
と遠洋航海でのこの教官の言葉を思い出したということですが、それまでは、
そこに起こることのわずかな予感も芽生えなかったということです。

この67期の生存者たちの想い出を読むといつも不思議なのですが、
この、開戦二年前の海軍というのは、内部で一体どのようなことが想定され、
あるいは取りざたされていたのでしょうか。

真珠湾が成功したことの要因には、企図の秘匿と、機密保持
という二つのエレメンツがあると思います。

(アメリカ上層部が日本の作戦を事前に知っていたというのは定説ですが、
やはり現場はそんなことを夢にも知らず、結果的に奇襲成功したわけですから)

しかし、彼らによると、少なくとも67期生は2年前にそれを予感させるようなことを
指導教官から聞いているわけで・・・・・、それではその指導教官は、
一体どういう情報と確信に基づいて生徒たちにそれを告げたのでしょうか。



少し学校生活に慣れてくると、新入生の次なる試練は疲労と睡魔との戦いです。
そして若い彼らはいつも猛烈にお腹をすかせ、週末の酒保を首を長くして待ちわびました、
この頃には日曜も外出を許され、上級生と同じ生活になります。

兵学校の座学課業には「軍事学」というのもあるのですが、生徒の期待に反して、
これは「運用」として艦の模型で各部の名称を教わる程度でした。
兵学校ではあくまでも心身育成と教養の基礎習得が柱となっているからです。


67期生の回想禄は、当時を懐かしく回顧するものばかりで、歌ではありませんが
時は全てを美しく想い出に変えるとはいえ、やはり若さというのは従容として
どんな現実でも柔軟に受け入れるものだとこれらを読むと感じます。

彼らの想い出でとくに楽しいものとして残っているのが、
土曜日の夕方から上級生に連れられていく「短艇巡航」。
夜中海を帆走しながら上級生の体験談を聞いたり、
星空を眺めてロマンチックな気分になったり、かと思えば
鬼の1号が流行歌を歌いだすのを目を丸くして驚いたり。

夏の水泳特訓、そして待ちに待った夏休み。

休暇が始まる8月1日の朝、彼らは朝3時に起床します。
生徒は出身地も様々なので、全ての生徒が朝一番の汽車に乗るからです。

3時に起きると直ちに朝食。

このときにの朝食を全てたいらげたものは将来大物になる」

と言われているほど、皆食事もそこそこ、上の空。

東日本に帰るものは小用まで徒歩、ここから機動艇に乗り

呉桟橋に上がって呉駅にいき、一番列車に乗り込みます。
西日本組は、学校の出す船に乗って宮島の向こう岸から、山陽線の下りに乗り込みます。

この日列車は臨時増結され、期待と開放感で胸をはち切れんばかりにした
白い第二種軍装の群れを詰め込んで、彼らを故郷へと運んで行くのでした。


そして一ヶ月後、生徒たちは故郷での休暇を終えて帰ってきます。
皆またあの生活が始まるかと半ばどんより、しかし級友の顔を見て嬉しさ半分。


このとき、なぜか1号の機嫌が「すこぶる」悪いのだそうです。


 さて、昨日は67期の越山澄尭生徒の写真を挙げて、級友の語る彼の印象等を
語ってみたわけですが、この冒頭写真の中には、鹿児島一中から来て
「凄いのが来た」
と同郷の者たちの目を丸くさせた、その越山がどこかにいるわけです。

どこだと思われますか?

だいたいが詰め襟黒ボタンの学生服、学習院出身らしきボタン無しの上着あり、
学生帽に背広という制服もあります。(これは、東京の靖国神社横にあった九段中学です)

しかし、よく見ると、何人か、和服の者がいます。
このうちの一人が越山生徒であるはず、と思い、探してみました。



同級生の証言によると、かれは「黒い紋付を着ていた」。
そして、背が低かったということは、前列にいる可能性が高い。

このことから、この、真ん中の着物の生徒を特定しました。
羽織の紐が紋付の仕様になっている生徒は彼だけだったからです。
それだけが根拠です。
もしかしたら前列左から7番目の生徒かも知れません。(←いいかげん)

「維新の遺物」と見まごうばかりのオールドファッションなスタイルで
江田島に現れた越山生徒ですが、そのことを同郷のある生徒はこのように見ています。

小生の記憶によれば、彼の御尊父は確か、
ある神社の神主であるとか云うことであったが、
往時の薩摩兵児(鹿児島地方で,一五歳以上二五歳以下の男子のこと)
を思わせるような彼の服装の中に御尊父や御家族の
大きな慈愛がこもっていたのではないだろうか。
彼は(ママ)その服装で悠々慌てず臆せず遥遥文明の汽車に乗って

江田島まで来たときの気持ちが小生にはよく頷けた。


別のある生徒は、

どちらかと言うと無口で、とんがり気味の口から発する話し方も、
朴訥そのもののように思われたが、また、性温厚で非常に親切な人柄であった。

と彼をして評価しています。
同級生の越山を見る眼差しはあくまでも暖かく、深い尊敬に満ちています。


次回は特別にもう一項設けて、
越山澄尭が海軍軍人としてどのように戦い、どのように死んだかを
その戦歴から追ってみたいと思います。 

 
 


 
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越山澄尭大尉~海兵67期の入校

2013-12-09 | 海軍人物伝

先日武道館で行われた自衛隊音楽まつり。
わたしはこの人気のイベントに1日二公演参加する僥倖を得、
一回目の公演が終わったときに息子をタクシーに乗せるため、
武道館に隣接する北の丸公園に沿った道を歩いていました。

一回目公演の音楽の余韻がまだ体内に興奮として残っているのに、
すでに次回公演への期待が高まっているらしいことに自分でも苦笑しながら
弾む足取りで歩き難い舗道を息子と進んでいると、
ふと目の端に、に引っかかったものがあります。

「兵」という文字。

普段このようなブログをやって、軍や戦争という事象に対して日常的に
アンテナを張り巡らせている目は、この文字を目ざとく識別していたのです。

それは、かつてここにあったという

「近衛歩兵第一聯隊跡」

の碑でした。

近衛歩兵第一聯隊は、日本最初の歩兵連隊として創設され、明治7年(1874)、 
明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年、大東亜戦争の週末に至るまで、
71年あまりの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、
大正天皇、昭和天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り
御在隊遊ばされた名誉ある聯隊です。

西南、日清、日露の各戦役および日華事変には、軍に従って出生して
輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争においては、帝都防衛の一翼を担いました。

これら近衛兵には、毎年の徴兵検査で
全国から厳選された優秀な荘丁を以て充てられたということです。


海軍兵学校67期、越山澄尭の祖父、越山休蔵は戊辰戦争以降、
「西郷隆盛の近衛兵」として、遡っては西南戦争をともに戦い、
子々孫々の誇りとなっている人物です。


わたしが越山澄尭の親族であるY氏から連絡をうけたのは、
この音楽まつりのことを集中的にエントリに挙げている最中のことです。
まるでその近衛兵の碑が引き寄せたようなその偶然の符号に、
わたしがそうであったように、Y氏も因縁めいたものを感じたそうです。

越山の甥であるというその人にとって曾祖父にあたる越山休蔵は、
西南戦争では第七隊長として官軍と戦い、その後少数精鋭の近衛に選ばれました。
西南の役を通じてそれだけ西郷に近かったためであろうと思われます。



「坂の上の雲」と並んで評価の高い司馬遼太郎の長編小説、

「翔ぶが如く」は、西郷と大久保利通が主人公であり、征韓論、明治6年政変、
やがて西南戦争へと向かう歴史の流れが俯瞰で描かれていますが、
この小説によると、 征韓論に敗れて西郷が下野した時、
直属の部下たちは揃って、近衛帽をお堀に投げ捨てて鹿児島に戻りました。

越山の家系には、休蔵がやはりそのようにして帰鹿したことが言い伝えられています。





全国数千人の受験者のなかから厳しい入学試験を経て選ばれた海軍兵学校67期生が

その燃ゆる若い希望に胸を躍らせながら江田島に集まって来たのは、
昭和11年三月末のことでした。
桜もまさに綻びんとすることで、かれらは入校式の二日後の4月3日、
海軍軍楽隊の演奏をその桜散る生徒館の中庭で鑑賞しています。
そしてその夜は「夜観桜会」が催されました。

ある67期生徒がその演奏会のことを後に書き残しています。

「軽やかなワルツや胸躍る行進曲を演奏する軍楽隊員の肩に、
ひっきりなしに桜の花びらが降り掛かっていた・・」

しかし、江田島の潮風はまだまだ春と呼ぶには冷たく、
中でも南国から来た生徒たちは

「どうも、寒いなあ」

と頷き合っていました。
もう気の早い人は袷(あわせ)を脱ごうかという気候であった鹿児島から来た
「兵学校の薩摩隼人」たちです。


この67期にも、248名の入学者のうち30人が同郷がいました。
最も出身者が多い東京の39名に次ぐ人数です。
なかでも、鹿児島一中、二中は出身者が多く、

東京府立4中・11名
鹿児島二中・8名
鹿児島一中・7名

と、両校出身者を足すとそれだけで同県出身者の半数になりました。

鹿児島というのは偉人西郷を生み、また軍人を多く排出しています。
そして実際にも西郷に仕えた軍人である越山休蔵の孫がこの67期に入学していました。
それが、越山澄尭です。

最初に越山生徒を見た同郷の生徒たちは目を見張りました。
それほどにこの生徒の第一印象は一種異彩を放っていたのです。

人一倍小さな身体、そして鋭い目をした精悍な面。
兵学校にやってきたときのかれのいでたちは、木綿の黒紋付に、
棕櫚の鼻緒の下駄を素足につっかけるというもので、

「ものすごいのが来た」

ある同郷の級友は最初の越山の印象をこのように記憶しています。
内地の南端とはいえ、昭和の文明の空気を吸った彼ら同郷の者にさえ
その風体は異様なものに思えたといいますから、
ましてや都の水に産湯をつかった「都会っ子」たちには、越山の姿は
もしかしたら「維新の遺物」と思われたかもしれません。


「男尊女卑」とも言われることもあり、平成の世である今でも
全国的にはバンカラのイメージがあるのが
薩摩隼人ですが、
一中時代の越山は、絵に描いたような「バンカラスタイル」
を押し通していました。

バンカラのバンは蛮、と書きます。
西欧風の「ハイカラ」をもじって出来たもので、ハイカラがこぎれいなお洒落なら、
バンカラは悪ぶったお洒落(と言えるのなら)で、一高生が流行の発信源でした。

定番のバンカラスタイルとは、弊衣破帽で、腰に手ぬぐい、高下駄、という、
そう、昔あった歌、かまやつひろしの「我が好き友よ」そのままです。

ワイシャツに似た木綿の白シャツに着物、そして袴に高下駄。
彼が、高下駄で「大いに短身をカバーしつつ」肩をいからせて歩く姿には
一種独特の風情があった、と級友は語り、
なかでも同郷でやはり鹿児島一中出身のある同級生は、

「その姿が印象的で今でも目の前にちらつく」

と戦後書き遺しています。 

入校式も終わり、入校直後の訓練が始まるにあたって、
67期指導官付きであり運用を任ぜられた指導監事の中山定義は、
彼ら67期生を海岸の松並木に集め手に訓示をしました。

「君たちはスマートな制服と短剣に憧れて、また遠洋航海で外国へ行ける楽しみ、
中には未来あの大臣、大将を夢見るなど、いろいろな動機で入校して来たことと思う。
しかし只今限り、そんなことは全部忘れてしまえ。
諸君は『太平洋の藻屑』とはっきりと覚悟せよ

以前このことを書いたとき、わたしは生徒たちが軍組織の非常さに
まるで背に水を浴びせられたような気がしたのではないか、と述べました。
しかし、あれから、当時戦いに身を投じた青年たちの様を、
残された文献や資料から見て来た今、一概にそうとも言えない気がしています。

この檄を飛ばした中山自身、戦後になって、その67期生に向け、

「当時私は30歳そこそこ、それは私自身の覚悟であり、国策の向かうところ、
米国海軍を目標としてその必然的宿命を予感しつつ猛訓練に精魂を尽くしていた
青年士官全員の心意気であった」

とかつての自分の心情を、弁解というわけでもないでしょうが、こう吐露しています。
おそらく越山ら、数千人の中から選ばれし者の自覚と誇りを持ってここに在った
67期生の生徒たちもまた、当時の風雲急を告げる世界の状況を
我が身のものとして、
祖国の急に身を投じる覚悟は、ある程度できていたことでしょう。


勿論、若さ特有のオプティミズムゆえに、自分の死を観念としか捉えておらず、
この訓示によって初めて現実に触れ、文字通り水を浴びせられる思いをした生徒も
少なからずいたかもしれませんが。



67期の入校式にあたり、出光万兵衛校長はこのように訓示しました。

「諸子を花に譬えれば、すみれあり、タンポポあり、れんげ草あり千差万別、
夫々に特徴はあるものの、本校において育成培養するところのものは、
かの朝日に匂う山桜花である」


「桜花」とは我が身散らすという意味において「海の藻屑」と即ち同義です。
ある生徒は「それでは自分を今譬えれば何の花であろうか」
と自問せずにはいられなかったそうです。

しかし、いかに戦雲急な時代とはいえ、教育機関の長が、
その面立ちに子供っぽさすら残した青年たちに、

潔く死ぬことを目標とせよと訓示するとは・・・。

江田島教育と言うのは長期的にはその後に続く海軍生活に必要な心身、
学術の基盤造りを目指し、短期的には少尉から大尉までの少壮士官を想定し、
一旦急あれば身命を顧みず勇猛果敢に戦う敢闘精神を養成し、
同時にこれを支える強健な身体を造ることを目指したものでした。

一度、作家の丹羽文雄が従軍し、「鳥海」に乗り込んで
ソロモンの夜戦を経験し書いた小説「海戦」を扱ったことがあります。
そこでわたしが心に残ったのが、丹羽が驚嘆した、
兵学校出身士官たちの徹底的とも言える「生の放棄」でした。

死に対する覚悟は、一応付いているつもりだ。(中略)
私はすでに自己放棄をやっている。
然し、死に関しては現実的に軍人にかなわないのだ。
軍人の示す完全な、おそろしいほどな自己放棄には、時間がかかっていた。
偉大な訓練の結果であった。


丹羽の言う「おそろしいほどな自己放棄」とは、遡れば海軍兵学校の入校の日、
自らを桜花に喩え、海の藻屑になることを覚悟せられた、この67期生のように、
海軍兵学校の教育を通して培われていったものと思われます。


 さて、越山澄尭は、入校教育の一環として、
4月12日に、呉の潜水艦学校を見学しています。
このときに彼が潜水艦勤務になることを何か予感したか、
あるいはこのときにその志望となる萌芽が心中発したか、

それはわかりません。

越山は1号(最上級生)のとき、21分隊で、
同じ分隊に、昨日エントリに挙げた古野繁實生徒がいました。

このときには自分の進路を内心決めていたでしょうから、
古野とそして越山は、同じく「どんがめ乗り候補」として、
お互い将来のことを話し合ったものと思われます。

そして、古野は昭和16年12月8日、開戦の当日、真珠湾に特殊潜航艇で突入し、
「真珠湾の軍神」となりました。

それから8ヶ月後の昭和17年、越山の乗り組んだ呂33潜は、
モレスビー沖で消息を絶ちました。
越山の戦死したのは呂33が消息を絶った8月29日とされています。



桜は桜でも、人知れず山に咲き、美しい盛りで誰にも賞賛されること無く散る山桜。
入校当時の彼が何の花であったかはもうすでに知るべくもありませんが、いずれにしても、
兵学校卒業後、越山は見事な山桜となり、そして散ったのでした。
 

 


越山生徒が入校して卒業するまでの67期の海兵生活について、
もうすこしだけ続けてみたいと思います。

 

 

 

 

 

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軍神の床屋さん~真珠湾特殊潜航艇・古野繁實少佐

2013-12-08 | 海軍人物伝

古野繁實海軍少佐。
海軍兵学校67期、昭和16年12月8日、
特殊潜航艇乗組としてハワイ真珠湾の攻撃に参加、戦死。
死後二階級特進。


今日は12月8日。
真珠湾攻撃から今年で72年が経ちました。
このときに行われた航空機動部隊による攻撃は様々な媒体で語られますが、
そのときに真珠湾に突入した特殊潜航艇5隻の戦果は、
はっきりしたことが未だにわかっておらず、学者の研究対象になっているほどです。
それらは真珠湾を語るとき海面での戦闘に比べて語られることはありません。

しかし当時、このときに潜航艇で突入した潜水艦部隊の9人は、
生きて捕虜第一号となってしまった酒巻和男少尉を除き、
「真珠湾の九軍神」
として何よりも大々的にその功績を喧伝されました。

わたしは、時折情報チェックのために聴く、我が家の「ゆうせん」の
「軍歌・戦時歌謡」チャンネルで、「大東亜戦争海軍の歌」の二番、

あの日旅順の 閉塞に
命捧げた 父祖の血を
継いで潜つた 真珠湾
ああ 一億は みな泣けり
還らぬ五隻 九柱の
玉と砕けし 軍神(いくさがみ)

というのを聴くたびに、

「これがもし酒巻少尉も戦死して軍神が10人だったら、この歌詞は
どうなっていたのだろう。
九柱は語呂がいいけど、十柱は「とばしら」とでも読ませたかな」

など、とてつもなくどうでもいいことをつい心配してしまうのです。


結果に過ぎませんが、「9人」というのは据わりがいいというか、
「軍神の数」としては10人より「様になる数字」ではないかというか。

さて、今日お話しするその九軍神のうちの一人、古野繁實少佐は、兵学校67期です。
特殊潜航艇のこのときのメンバーは、隊長岩佐直治中佐が、65期。
66期がなく(松尾敬宇中佐は66期)古野少佐と横山正治少佐が67期、
広尾彰大尉と捕虜になった
酒巻少尉が68期です。


特殊潜航艇のチームは、開戦時、大尉、中尉、少尉、という、
軍隊的には「実働隊」と言うべき若い士官が指揮官となりました。


その67期に、わたくしエリス中尉の敬愛する笹井醇一少佐がいることもあり、
このクラスについては当ブログで何度か記事にしてきました。
あるとき、兵学校67期であった親族をお持ちだという方、Y氏が、
インターネット検索によってそんな記事から当ブログを探し当て、

「海兵67期がどんな環境で学んでいたか教えていただけないか」

というご依頼をしてこられました。

その親族に当たる海軍軍人とは、潜水艦勤務で、ラバウルで戦死した

越山澄尭海軍大尉と仰る方なのですが、まず、越山大尉とクラスメートである、
この古野少佐の物語を、真珠湾攻撃の日に再掲させていただくことにします。


越山大尉の親族であるY氏は、67期の潜水艦乗りが、開戦までの間どうすごしたか、
そして同期の「軍神」になった同じ「どんがめ仲間」の古野中尉の戦死を
どのように見たのかの片鱗を、拙文より読み取っていただけますと幸いです。

なお、越山大尉について、一項を設けてその戦歴と級友の回想から、
在りし日の大尉の面影らしきものに迫ってみました。

近々アップしますので、これもご笑覧ください。




1941年12月8日。


真珠湾攻撃が航空機を主力とする機動部隊によって行われたとき、
同時に五艇の特殊潜航艇が湾内に突入しました。

生きて捕虜になってしまった酒巻和男中尉を除いた九人の戦死者をだれが言い出したか
(海軍当局の発表には軍神の文字はない)
「九軍神」
とマスメディアは高らかに謳い、国民は熱を帯びたように彼らを讃え、憧れ、世に言う
「軍神ブーム」が起こりました。

人々は競って、学校の生徒は教師に引率されて軍神の家に詣で、礼拝しました。
新聞記者は遺族に頷けばいいだけの問いを投げかけ、その答えが麗々しく紙面を飾り、
その家族は涙を見せることもできなかったといいます。




まだまだ実戦には不備が多く、時期尚早というほかないこの潜水艦での攻撃を
よく言われるように

「最初から戦果が期待されず、かつ生還を期さない特攻作戦で、
戦争突入の象徴として死んで軍神となる」


ことが目的だったということを、
当の彼らがどのくらいその覚悟の裏に感づいていたかは今となっては謎です。


なぜならこの計画を生みだしたのは彼ら自身とも言えるからです。





古野繁實中尉は福岡県遠賀に生まれました。
実家は里山を抱え込んだ広大な屋敷を持ち、代々庄屋をつとめた旧家。
六人兄弟の三番目で親の期待を一身に受けていました。

兵学校を卒業し潜水艦に配せられた古野少佐は、
同じ「どん亀乗り」の仲間と呉で下宿を始めました。

67期のほとんどがそうであったように、このとき少尉だった彼らは人生でおそらく
「最も楽しい時期」を過ごしたのでしょう。
航空ほどではなかったかもしれませんが、開戦前の六五期前後の若い海軍士官は
どこにいってもММ(モテモテ)だったといいますから。

呉で下宿を探し始め「その辺のたばこ屋のおばさん」に聞いて
紹介してもらった家に住み始めた彼らは、
そのたばこ屋の隣にあった
「ナイスな女床屋さん」のいる床屋のお得意客となりました。

このきれいな床屋さんを、古野少尉はいたく気にいっていたようです。

同期の松下寛氏の戦後の回想―

「開戦前のある日、呉の床屋で古野君と会った。
彼は床屋の彼女に思し召しがあったらしく、
彼女の理髪する順番が廻ってくるまで、いつまでも待っていた」



古野中尉が特潜に行ったのは昭和16年の春のことでした。

潜航艇のメンバーの一人、酒巻少尉は、
受け取った転勤命令が暗号電報だったことに驚きます。


「たかが一海軍少尉の転勤に・・・」


そして、士官10人、下士官12人の

「その存在そのものが秘密兵器である甲標的搭乗員」


は、帽振れで送られることなく、元の配置から密かに姿を消したのです。
軍艦千代田に集められた
その中には「平和への誓約」の主人公、
シドニー湾に特殊潜航艇で突入し戦死した松尾敬宇大尉の姿もありました。


真珠湾への甲標的突入は、当初訓練にいわば「無聊をかこつ」日々の中で、
搭乗員岩佐大尉を中心に自然に発生し、それを彼らが若さの情熱で具申し、
司令部詣でを繰り返した末受け入れられたということです。



生還の望みがないことを理由に、山本五十六司令長官は、
最初甲標的の参加を許可しませんでした。

さらには主力を自負する機動部隊方面からは

「甲標的にうろうろされては相手に気づかれるおそれがあるし、
もしそうなれば急襲が難しくなる」


という理由で、作戦そのものに否定的な意見が出されます。


しかし死を覚悟で作戦への認可を訴える若者の情に、
山本長官は最後にはついに

「ほだされた」
ということになっています。

この特殊潜航艇について全ての人が持つのは
「なぜ」
「何のために」
十人もの人間の生命と引き換えにするにはあまりに杜撰で無謀な、
かつ戦果の見込めない突入が行われ、
かつ機動部隊の華々しい成功者ではなく彼らが軍神となったのか、
という単純な疑問ではないでしょうか。


ここで思い出すのが「天一号作戦」、大和特攻を伊藤中将に説得した草鹿中将の言葉です。

「一億特攻の魁となっていただきたい」


成功の見込みの無い無謀な作戦に首を縦に振らなかった伊藤中将が
この一言で作戦を受諾したのです。

冷徹な作戦遂行の結果敗して死するのと、象徴としての死を最初から目的に戦うのと―

同じ死するのでも後者の死により意義があるという選択でしょうか。

死ぬことで後に続くものの精神的支柱、殉国の象徴となる、というのは
殉教者の真理であり、あるいはこれが当時の軍人の理想であったのかもしれません。



古野中尉は自分の任務についての一切を同居のクラスメートに語りませんでした。
新配置について一カ月後、かれは下宿を引き払います。

「当時はまだ真珠湾の計画はできていなかったと思われるので
彼自身に運命の切迫感を感じさせるものはなかったであろうが・・」

同居していたクラスメートの今西三郎氏はこう懐古します。

しかし、甲標的の何たるかと、その性能や目的などを目にしただけで、
おそらく古野中尉の中にはある覚悟と確信―
―自分は近々確実に死ぬであろうという確信が
芽生えていたことは想像に難くありません。

「貴様らのように命は永くないよ」

古野中尉がこうつぶやくのを今西氏は耳にしています。


そして、その言の通り古野少佐が軍神となってからのことです。

松下氏は前線帰りの髪を刈りにいつもの床屋に出かけました。
古野中尉がお気に入りだった美人がいる床屋です。

古野中尉が

「いつまでも自分の髪を刈ってもらう順番を待っていた」

のは、任務に就く直前のことだったのでしょうか。
それとも下宿を引き払う時だったのでしょうか。

いずれにしても、そのとき、古野中尉は気に入っていた女床屋さんに、

心の中でひそかに別れを告げたに違いありません。


その女性が、松下氏を見るとこう話しかけてきました。

「十二月八日真珠湾に攻撃をかけた特別攻撃隊の九軍神の中に
古野という名がありましたが、
わたしがいつも頭を刈っていたあの古野さんと同一人物なのですか」


そうだ、と松下氏が答えると、彼女は今更のように自分の手をじっと見つめ、
思いだそうとするかのようにしばし瞑想し、その後こう呟きました。

「あの人がねえ」









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