ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

令和元年 年忘れ映画挿絵ギャラリー

2019-12-30 | 映画

なにがといって、今年は御代がわりがあり、平成が終了し
令和が幕を開けたことほど大きな出来事はなかったでしょう。

新しい年号開始が始まったのは五月一日からであったため、
「令和元年」と口に乗せるのも晴々とするこの響きを
半年ちょっとしか楽しめなかったというのが残念と言えば残念ですが。

今年はいつになく映画をたくさん取り上げたので、恒例の絵画ギャラリーは
映画の挿絵だけでけっこうな数になりました。
大晦日の今日は、今年アップした絵をふりかえって年忘れ行事とします。

今日も我大空にあり

1964年度公開の航空自衛隊映画です。
「本物よりも司令らしかった」と本物にいわせた、浜松基地司令役の
藤田進はじめ、隊長役に三橋達也、そして佐藤充、夏木陽介と
当時の人気男優を主役に据えて撮影された意欲作。

なんといってもこの映画には航空自衛隊が全面協力しており、
主人公たちがそうであるところのブルーインパルスや、
当時自衛隊の期待の新戦闘機、F-104が惜しげもなく登場します。

F-104「スターファイター」については、日本だけでいわれていた
「最後の有人戦闘機」というキャッチフレーズにツッコませてもらいました。

 

脇役もこうしてみるとたいへん豪華なキャスティングです。
この中で令和元年現在健在なのは、この映画のオーディションに合格し
これが映画デビュー作となった酒井和歌子(70歳)のみ。

ちなみに本作脚本須崎勝彌氏で、結婚式当日、新婦に電話で
自分が出席できなかったことを謝りもせず、

「君は二号で愛機が一号」

などという台詞を言い放つといった、今ならフェミニズム以前に
ポリコレで炎上しかねないシーンもあります。

若大将シリーズなどで有名な監督の古澤憲吾は、タイトル文字に
こだわり抜いた日の丸の赤を使っていましたが、現場では
この赤のことを「パレ赤」と呼んでいました。

「パレ」とは何を意味するのか書くのを忘れたのでここで言及しておくと、
大東亜戦争初期に陸軍落下傘部隊が降下した「パレンバン」のこと。

本人が「パレンバン降下作戦の勇士だった」と自称していたことから、
まわりも気を遣ってか「パレさん」と呼んでいたらしいのですが、
本人は陸軍ではなく海軍航空部隊出身ですし、しかも入隊したときには
パレンバン侵攻はとっくに終わっていたわけで、つまり

全くの嘘

だったということが海軍航空隊だった松林宗恵監督(予備士官)などの
証言からも明らかになっています。

ただ、古澤は戦時中(昭和19年)の『加藤隼戦闘隊』の助監督をやっていて、
劇中、パレンバン降下作戦の再現シーンに落下傘部隊員役で出演しており、
この体験をもって「降下作戦の勇士」と自称していたと考えられます。

「白い巨塔」で財前五郎役をした田宮二郎が、晩年飛行機の中で
ドクターコールに真面目に名乗り出てきて皆困惑、という実話がありましたが、
昔の映画人の中には映画と現実の境界線が曖昧になってしまうくらい
のめり込むタイプがいて、古澤監督もその一人だったのかもしれません。

 

「憲兵と幽霊」「憲兵とバラバラ死美人」

東宝から再編後すっかり変な路線に舵を切った新東宝の
本領発揮というべきエログロナンセンス映画から
軍に関係があるという理由だけで取り上げた「憲兵シリーズ」二作。

一部の読者にはなぜか大変ウケた企画です(笑)

天知茂と中山昭二が両作で主役を取り換えるという
新東宝の使い回しシステムがよくわかる比較となりました。

良い憲兵は中山昭二、悪い憲兵はもちろん天知茂、そして
いわゆる創作物の憲兵の典型(拷問上等)を細川俊夫が演じています。

とくに「憲兵とバラバラ死美人」は、原作となった実際の事件を描いた本が
実在の憲兵だったことで、当たり前のことなのですが、
良い憲兵がいれば悪い憲兵もいるというような描き方をされていたため、
シリーズの主眼を

「戦後憲兵という悪のイメージが流布されてきたという事実」

とし、どちらも話そのものは熱く語るようなものでもなんでもないですが、
憲兵に被せられた歴史的な汚名を雪ぐことを目的として語ってみました。

ちなみに後で聞いた話ですが、昔は女性が殺されると
メディアは扇情的に被害者を「美人」と煽るのがお約束だったそうで、
酷い場合には「首なし美人死体」なんてのもあったそうです。

 

U-571

戦闘中、諸般の事情でU-571、つまりUボートを操艦して
敵と戦わなければならなくなったアメリカ海軍潜水艦乗員の話。

ドイツの暗号機エニグマ争奪というお好きな方にはたまらない
ワクワクする要素を盛り込んだ荒唐無稽な戦争映画です。

潜水艦もののあるあるとして、狭い艦内なので、人間関係が
濃密に描かれるという傾向がありますが、本作は戦時中の設定なので、
人間関係というよりは、おのおのの能力や危機に際しての対処の仕方、
たとえば主人公のマシュー・マコノヒーが艦長になれずに腐っていて、
戦闘を経験するうちに覚醒するという成長の過程が主眼となっています。

ところで潜水艦ものといえば、海上の敵と戦うシーンでは
必ず潜水艦乗員は上を見つめますよね。

この映画でもふんだんにそのシーンがあったので、絵に描いてみました。

また、劇中、海上に取り残された艦長(ビル・パクストン)に、
あの「グラウラー」の艦長ギルモア少佐が、自分を艦外に残したまま
潜水艦を潜航させよと命じたときの

「Take her down !」

という言葉を言わせてトリビュートしています。

また、マコノヒー演じるタイラーは、いざとなったら部下に
非情な命令を下すことができるかが指揮官昇進のポイントだったのですが、
実戦で生還か全員戦死かという場面に遭遇して初めて、彼は
この「テスト」に合格します。

ところで、この映画をドイツ海軍の元軍人に観せたところ、
「Uボートが大西洋にいたこと以外全部嘘」
と一蹴されてしまったようですが、アメリカ映画だしまあ多少はね?

 

日本破れず

「日本の一番長い日」、つまり終戦のご詔勅に向けて
そのとき政権の中心にいたものたちがどうふるまったかを
戦後初めて映画という媒体で描いたのがこの「日本破れず」です。

わたしは創作部分が多い映画そのもののできというより、阿南惟幾を演じた
当代の名優早川雪舟の存在感だけで、この映画を高く評価しています。

東郷茂徳をヒーローのように描いていたり、米内光政が
まったく実際の雰囲気と違っているのは大いに気に入りませんが。

ちなみに阿川弘之の「米内光政」には、米内の風貌については

「軍港芸者たちは、ただでさえうっとりするような彼の美男ぶりに
辶(しんにゅう)をかけて(物事をいっそう甚だしくすること)
惚れ込んでしまう」

「威風堂々、長身の身に黒いスーツをきて歩く姿は魅力があった」

「うわア、偉人さんみたいなよか男」(by佐世保軍港芸者)

なんて言葉を尽くしてその男っぷりが称賛されているわけで。
東郷茂徳=山村聡ほど
下駄を履かせなくてもいいですが、せめて
もう少し鼻の穴の小さな俳優さんに演じさせていただきたかったかなと。

あくまでも個人の感想です。

微妙に史実とは違うストーリーなので、映画は役名を採用していますが、
当ブログはそれを一切無視して本名で表記しました。

若々しい宇津井健、ガリガリに痩せた丹波哲郎、そして
沼田曜一細川俊夫といったこのころの主流俳優が出演し、
実在した反乱将校たちを演じています。

終戦の際、実は一番反乱を沈めるために活躍したのは
歴史的にはあまり著名ではない田中静壱大将でした。

この映画では、田中大将を藤田進が演じ、存在感を見せています。

そして、陸軍の暴走を抑えるためにあえて閣僚にとどまり、
最後まで陸軍の総意を体現する「ふり」をして事態を収集しようとしたのが
阿南惟幾だったということができます。

早川雪舟が天皇陛下のご聖断を賜り滂沱の涙を流すシーンを描いてみました。

「地球防衛軍」

日本のSFもののレジェンドである「地球防衛軍」を取り上げました。
こういう荒唐無稽ネタは語っていても絵を描いていても楽しめます。

エントリを制作するのに調べると、登場する武器などが
独立したウィキペディアのページで説明されていたりして驚かされました。

もとはといえば、東京裁判で日本の被告の弁護人を担当した
ジョージ・ファーネスがエキストラをしているということで
矢も盾もたまらず購入したのがこの映画のDVDでした。

ファーネスは本作で国連の方から来た科学者、
リチャードソン博士を演じています。

ところで、映画を見ているうちに、わたしはタイトルの「地球防衛軍」とは、
何を隠そうこの日本国の軍隊であることに気がついてしまいました。

つまり、「地球防衛軍」=現日本国自衛隊なのです。

劇中地球外生物「ミステリアン」と戦うのはこの日本国防衛軍。
このころの作戦思想として領域横断作戦はまだ採用されていないため、
残念ながら劇には陸軍と空軍しか登場しません。

この防衛軍の司令には、司令といえばもうこの人しかいない!藤田進。
隊長にも小隊長?にも中丸忠雄らイケメン俳優を使っていてなかなかよろしい。

 

「原子力潜水艦浮上せず」

潜水艦救難艦DSRVをとにかく宣伝したいアメリカ海軍の協力で
チャールトン・ヘストンという大御所を起用して作ったにもかかわらず、
いまいち脚本に海軍に対する造詣が足りない感が拭えなかった作品。

コメントでは「変な映画ですね」とまでいわれてしまいました(笑)

それは登場人物、ことに主人公の艦長に、海軍軍人なら当然こうあるべき、
というか、実際にも
選択するであろう軍人としての覚悟が全く見られないことです。
チャールトン・ヘストンともあろうものがよくこんな役引き受けたなっていう。

周りの人々の犠牲のおかげで生還したのに、救難艇から乗員を差し置いて
最初にのこのこ現れる艦長に、

「なに呑気にコーヒーなんぞ飲んでんだよ」

と思わず突っ込みたくなること請け合いです。

潜水艦の艦長ともあろう者が、我が身を挺して艦を救うという役割を
仲が悪かった(しかもそんな覚悟もなさそうに見えた)副長に
おめおめと取って替わられてしまうという設定もかなりイタい。

ミニ潜水艇で沈没した潜水艦を救助するのに自らの命を懸けた
ドン・ゲイツ大佐の心意気とは対照的です。

この挿絵は、オリジナルの映画ポスターと自分で作画した絵を
合成させていただきました。

ポスターに描かれているのは、外国の商船と衝突する瞬間の潜水艦です。

ゲイツ大佐の開発したミニサブは、一人が潜水艦の「目」となるため、
このように床に寝そべって監視をするという設定でした。

潜水艦の中なのでちょっと画像に赤みを加えてみました。

というわけで、今年ご紹介した映画は全部で七作。
来年もこれくらいのペースで絵を描くことも楽しみながら
自分視点で探した映画をご紹介していければいいなと思っています。

 

というわけで、みなさま、良いお年を。

 

 

 


引き揚げられたU-20〜ウィーン軍事史博物館

2019-12-28 | 軍艦

「ジーマハト・オストライヒ」(オーストリアの海軍力)という題で
ウィーン軍事博物館にわずかの間存在していたオーストリア海軍の資料を
前回紹介させていただきました。

今日は、いわばこの博物館の海軍的目玉展示をご紹介します。

その前に、前回ご紹介できなかった河川警戒船であろうと思われる写真をどうぞ。
SMS「テミス」に似ていますが、わかりません。

訪問までオーストリア海軍についてなんの前知識もなかったわたしは、よもや
ウィーン軍事史博物館でこんなものに出会えるとは思ってもいませんでした。

この時にはまだ「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐のモデル、
フォン・トラップ少佐が潜水艦乗りだったということも全く夢にも知らず、
さらにはオーストリア海軍が潜水艦を持っていたことも知らなかったので、
部屋に入り、それが潜水艦であることがわかった途端、動悸が早くなったほどです。

展示されていたのはオーストリア=ハンガリー帝国海軍のU-20でした。

第一次世界大戦の開戦後、プーラ海軍工廠で建造が始まり、
1916年進水を行なっています。

U-20と英語で検索すると、上にドイツ海軍のU-20が出てきますが、
同じドイツ語の「ウンターゼー・ブート」の『U』を使っていても
この二隻は同じ命名基準による艦名ではありません。

どういうことかというと、K.u.K海軍のU-20は、

U-20級

のことであって、U-20級は全部で4隻造られているため、
正式にはこれは、

U-20級の1番艦

であり、同級がかつては他に3隻存在していたのです。

オーストリア=ハンガリー帝国海軍は、第一次世界大戦の発生を受け、
喫緊の必要性に駆られて潜水艦を造ることになりました。

そこで、設計の手間を省いて、国内の造船会社ホワイトヘッド・フューメ
以前デンマーク海軍のために作った、

ハフマンデン型潜水艦

をそっくりそのままの仕様で建造するという形で進められました。

リンク先を見ていただくと、

After the outbreak of World War I, the Austro-Hungarian Navy 
seized plans for
the Havmanden boats from Whitehead & Fume Co.
and used them
as the basis for its four U-20-class submarines.

とあるのがおわかりいただけます。

「seized」という言葉には「奪い取る」「押収する」という意味合いがあるので、

「KuK海軍はホワイトヘッド社からハフマンデンの設計を『押収』し、
それをもとにU-20級を4隻作った」

という感じで書かれていることになります。


「ハフマンデン」

オーストリア=ハンガリー帝国海軍は、時代遅れですでに陳腐化していた
この潜水艦に決して満足していたわけではありませんが、何しろ急だったので、
とにかく潜水艦の形さえしていれば背に腹は変えられないといったところでした。

 

というわけで1918年、完成したU-20の1番艦は、さっそく公試試験に入りました。

しかし好事魔多し、その潜行試験で1番艦はオーストリア=ハンガリー帝国海軍の
軽巡洋艦「アドミラル・シュパウン」に衝突して破損してしまうのです。

 

「潜水艦の形さえしていればいい」などと失礼なことを言ったので
(いったのはわたしですが)その言霊がよくない影響を及ぼしたのでしょうか。

それは違います。

問題は、4隻のU-20潜水艦が、オーストリアの造船所とハンガリー王国の造船所で、
2隻ずつ、二箇所で並行して建造されていたことにありました。

なぜそんなことをしていたかというと、当時両国は「同等」の立場だったため、
特に国家事業については平等に利益分配しなければならなかったのです。

生産ラインが一元化していないと、たとえば設計の技術的な問題が表面化しても
修正が簡単にいかないため、
結局工期は大幅に遅れる結果になります。

公試試験の事故も、二つの造船所同士のすり合わせがうまくいかず
根本的な問題の解決に至らなかったのが原因だったと言われています。


Admiral Spaun.jpg

公試試験中のU-20にぶつかったという、

SMS「アドミラル・シュパウン」。

ちなみにこの「アドミラル・シュパウン」も、第一次世界大戦敗戦後、
イギリスに賠償艦として接収され、1年後には廃棄されています。

この時の衝突で、潜望鏡、司令塔に損傷を受けたU-201番艦は、
ドックに戻って7ヶ月間かけ、修理を行いました。

そして就役を行なったわけですが・・・・。

ちょっと待ってください。

この状況を鑑みるに、U-20、その後沈没していたようですね。
ってそれは見ればわかる。

近づいていくと、塗装の全く剥落し錆びた状態の艦体と、
長らく海中にあったらしい牡蠣がらの跡が生々しく残っているのが見えます。

敢えて塗装や修復を行わず、引き揚げられた時のありのままの姿で
ここに展示されているらしいことがわかりました。

それでは、U-20はどういう経緯で沈んだのでしょうか。

 

1918年7月4日、つまり2月に就役してから5ヶ月後のことです。
U-20の指揮をとっていたのはルードヴィッヒ・ミュラー大尉

この人のおかげでオーストリア海軍の階級がわかったので得意になって書いておくと、

Linienschiffsleutnant(リニエンシッフス ロイテナント)

が大尉に相当するランキングとなります。

ただし、これはオーストリア=ハンガリー海軍だけの階級です。
同じUボートに乗っていてもドイツ海軍とは全く違いますので念のため。


ちょっと面白いので寄り道して説明しておくと、KuK海軍では、階級の前に

少「コルベット」中「フリゲート」大「ライン」

と、乗る船のクラスが付き、リニエンシッフスとは、「ラインの船」という意味です。
この意味がよくわからないのですが、おそらく巡洋艦以上のクラスのことでしょう。

「ロイテナント」は尉官です。
これらを「カピタン」、つまり佐官で説明すると、

Korvettenkapitän OF -3(少佐)コルベッテンカピタン
Fregattenkapitän OF -4(中佐)フレガッテンカピタン
Linienschiffskapitän OF-5 (大佐 )リニエンシッフスカピタン

というわけですね。
尉官クラスは中尉と大尉のみこの法則で呼ばれ、
少尉だけ「コルベッテン」は付けられません。

 

閑話休題。
それではU-20撃沈までの経緯を説明します。

このミュラー・リニエンシッフスロイテナントが艦長を務めるU-20は、
1918年7月4日、アドリア海を航行中、
潜行していたイタリア海軍の潜水艦
F-12に発見されました。

U-20は海面を航行しており、これを海中から発見したF-12は
潜行したまま、相手に見つかるまで近づいていきました。

この航跡図からは読み取れませんが、F-12は最初は潜行して、
そして途中からは浮上してU-20を追跡し続けました。

F-12の浮上の理由は、U-20が浮上していたためです。
魚雷を撃ち込むには、
こちらも最後の瞬間に海面に出る必要があります。

 

図でいうと、おそらく、2105のポイントから魚雷発射しようと近づいていき、
発射するために浮上したところU-20が転舵したのではないでしょうか。

(海戦の知識がないので単なる想像です)

魚雷を発射するには艦首を相手に向けなくてはいけないので、
F-12は相手に艦首を向けるためになんどもターンを行っています。

そして2243ついにチャンスを捉えて攻撃しました。

射程距離は590m、撃ち込んだ魚雷はことごとく命中し、
U-20は乗員の脱出を全く許さないまま、瞬時に海中に没しました。

海面には残骸はなく、ただ油膜だけが浮いていたそうです。

沈没したU-20の艦体がアドリア海で発見されたのは、1962年のことです。
イタリアはこれを引き揚げることにしました。

おそらくその当時は我が国の伊33潜水艦の時に行ったような
ロープを艦体に回して吊り上げる方法(提灯式)で引き揚げられたのでしょう。

作業を行う前か行った後かわかりませんが、(おそらく事後)
潜水具の脱着をやってもらっているところです。

ロープで牽引したU-20(おそらく艦尾部分)がクレーンで吊り上げられ、
44年ぶりに海面に姿を現した瞬間です。

イタリアがなぜこの引き上げを行うことになったのか、その理由は
どこにも書かれていませんが、沈没の状態からいって
まだ中には乗員全員の遺体が残っていると判断したからではないでしょうか。

オーストリア政府と連絡をとって、費用を出させた可能性もあります。

引き揚げは前部と後部に分けて二日がかりで行われ、
内部に残っていた乗員の遺体は、オーストリアに運ばれて
現在唯一の士官学校であるテレジア陸軍士官学校の敷地に埋葬されました。

コニングタワーと艦体中部はウィーンに運ばれ、ここに展示されています。

艦内から見つかった遺品もすべてここに展示されています。

分厚い書物は、40年以上海水に浸かっていたのに、まだ字を読むことができます。

そして、士官が持っていたのでしょうか、いくつもの懐中時計。
第一次世界大戦では時間を合わせて行動を行うために腕時計が普及しましたが、

それは陸戦を行う部隊だけの事で、海軍では懐中時計が主流だったことがわかります。

1918年の海軍年鑑は驚くほど原型をとどめています。
まだ中身は読めるのではないでしょうか。

本の上に置かれた左のバッジは帝国海軍のインシグニアです。

靴。フォークにスプーン。
錨の絵の書かれた本は「ビーコン」(LEUCHTFEUER)というタイトル。

40年の時を経て、乗員の亡骸は祖国に戻ることができ、
彼らの魂はせめて少しでも安らかに眠っていると信じたいですね。

コニングタワーの周囲には見学用のデッキが設置されていました。
こういう風に真横から見学できる階層と・・。

艦体を真下に見下ろすことのできる高い階層も。

ハッチの部分は内部が見えるように透明のガラスに変えてあり、
内部にはおそらく当時と同じ場所に電灯が灯っているのが確認できます。

写真にはうまく写すことができませんでしたが、肉眼では内部の様子はわかります。
ここをかつて潜水艦の乗組員たちが行き来していたのだな、
と思うと、いつまでもその内部を見ていたいような気持ちになりました。

オーストリア=ハンガリー海軍士官用コート。
金色のサッシュは暗殺されたフェルディナンド皇太子の遺品にもありました。

下に写真がありますが、だれか有名な軍人が着用していたのでしょうか。

艦砲ですが、残念ながらスペックを表す説明がありません。
前回ご紹介した模型のうちどれかのものであることは間違いないところです。

帝国海軍水兵の冬・夏用軍服と私物など。
今度行くことがあれば、この部分も詳細に写真を撮ってきます><

潜水作業用のスーツで作業をする人。

というわけでオーストリア=ハンガリー帝国海軍について
この展示を通して新たに知ることになりました。

また行く機会があれば、その時にはここから見学することをお約束します。

 

続く。

 

 

 


ジーマハト・オストライヒ(オーストリアの海軍力)〜ウィーン軍事史博物館

2019-12-27 | 博物館・資料館・テーマパーク

ウィーン軍事史博物館の展示についてこれまでお話ししてきたわけですが、
お待たせいたしました。

ようやくこのブログ本来の役目である海軍関係について語る時がやってきました。

当博物館ではこのコーナーを

Seemacht Österreich 

英語では

Austria as a naval power

どちらも「オーストリアの海軍力」という訳でいいと思いますが、
ドイツ語の方が「海軍の力」を強調している感じがします。

1800年代から軍事博物館としてオーストリアの軍事史資料を
展示し、後世に残すことを使命としてきた当博物館ですが、
海軍にまつわる資料はかつてオーストリア=ハンガリー帝国の時代、
軍港としていた地域に存在していたものの、ここウィーンでは
近年まで陸軍関係のものしか扱っていませんでした。

オーストリアに存在した海軍についての展示が加わったのは、
第二次世界大戦終了後、博物館が大幅に改装された以降のことです。

 

海なし国であるオーストリアはいわゆるブルーウォーターネイビーを持たず、
それが組織的に統合されたのはカール大帝の息子、あのフリードリヒの時代、
つまり1800年初頭ということになりますが、もちろんそれまで
オーストリアが海軍的軍事力を持っていなかったというわけではありません。

なぜなら、ハプスブルグ帝国時代にはその帝国内に沿岸を持ち、さらには
ドナウ川という交通の要所ともなる河川に対して水軍力は必要だったからです。

17世紀まではそれで良かったのですが、1794年、ナポレオン戦争で締結された

「カンポ・フォルミオ条約」

によってオーストリアは割譲されたベネツィアを手に入れることになり、
そこで決定的に海軍という組織を受け入れることになったのです。

帝国の領土拡大によって「海なし国」とか言っていられなくなったんですね。

 

その後、帝国海軍の軍港となったのが現クロアチアのプーラとカッタロです。
軍港時代のプーラの帝国艦隊の写真が残されています。

「サウンド・オブ・ミュージック」の登場人物のモデルとなった帝国軍人、
フォン・トラップ少佐は、潜水艦勤務時代ここに居を構え、最初の結婚をして
子供を7人作っています。

 

写真は主砲の形から見て第一次世界大戦ごろの軍艦だと思います。

ちなみにプーラは帝国の崩壊後、イタリアに返還されましたが、
ムッソリーニの政権下、非イタリア人は文化的迫害を受け、ほとんどが国外に脱出、
かと思ったら、今度はイタリアの敗退によって敗走するイタリア軍の代わりに
ナチス・ドイツ軍がこの地に侵攻してきたため、パルチザンの疑いを受けた
多くの市民が逮捕・追放・処刑される悲劇の都市となりました。

古い映像や画像で、この地で行われたナチスによる市民処刑のシーンを
皆様も一回くらいは歴史アーカイブなどで見たことがあるかもしれません。

 

もう一つの軍港、カッタロは現在のモンテネグロに位置します。

カッタロ軍港に係留するオーストリア海軍の水雷艇。

いずれも君主制の終焉とともに両軍港からオーストリア海軍は姿を消すことになります。

次にオーストリアが海軍の必要性を重要視することになったきっかけは
イタリアにおける国民国家の爆誕でした。

国民国家の定義は、国家内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=国民)
として統合することによって成り立つ国家、ということになります。

ここで皆さん、突然ですが、

「イタリア・イレデンタ」

という言葉をどこかでお聞きになったことがありますでしょうか。
「茹で残しのイタリア」ではありません。
セルフツッコミをしますが、アルデンテではなくイレデンタ=未回収という意味です。

オーストリア、ウィーンの街を歩くと、至る所にイタリア、
ことにローマの影響を色濃く受けた史跡や建造物、構造物を見るのですが、
かつて帝国支配で民族とは関係なく国境がゆるゆるに存在していた時代の名残です。

 

国民国家の成立を目指した統一運動によって1861年成立したイタリア王国は、
かつてのオーストリアだった地方についてこれを「未回収」とし、

「それ、うちのものだ(なぜってそこにイタリア人がいる)から返せ戻せ」

と主張し、オーストリアとの間に対立を生んだというのです。
そこにはヴェネチアも含まれました。

余談ですが、この国民運動の流れとして、ムッソリーニのファシスト政権は

「イタリア語を話す地域は全てイタリア」

という主張の下に未回収の地を全て「回収」し、イタリアにしようとしましたが、
戦争に負けた時点で放棄させられたという経緯があります。


それはともかく、イタリアとの摩擦をきっかけに、ハプスブルグ帝国は
海軍力をパワーアップせざるを得なくなったということをご了承ください。

オーストリア海軍の名将たちの肖像画、そして
歴代海軍将軍の軍服の数々です。

奥にある肖像画の右上の軍人は、

ヴィルヘルム・フライヒャー・フォン・テゲトフ
Wilhelm Freiherr von Tegetthoff、1827 - 1871

帝国海軍で言うところの東郷平八郎元帥と考えていただいていいでしょう。

 統一したばかりのイタリア海軍と、オーストリア海軍の間で行われた

リッサ海戦

でオーストリア軍を勝利に導いたのがこのテゲトフ中将です。
日本のwikiにはなぜか最終階級のところに「軍事省海軍部長」とあるのですが、
それは階級じゃなくて役職だろうっていう(笑)

海戦中、艦隊を指揮するテゲトフ中将(真ん中)。

この絵がオーストリア的には我が日本の旗艦三笠艦上の
ロシア艦隊に挑む東郷平八郎と海軍上層部を描いた、東城鉦太郎画伯の
あの絵のような位置付けになっているのかと思われます。

ポケットに手を入れて指揮を執っていたというのも実話なんだろうか。

この時の戦闘の内容を一言で言うと、

「木造船は衝角戦で装甲艦に勝てないが、相手の練度が低く、
編成されたばかりの海軍力であった場合は戦争に勝てる」

と言う感じでいいんじゃないかと思います。(適当)

イタリアの装甲艦「レ・ディ・ポルトガロ」に衝角戦を仕掛ける
オーストリア海軍の木造戦列艦「カイザー」
この時「カイザー」は船首を破損し、有効な攻撃にはなりませんでした。

こちら、沈没するイタリア海軍の旗艦「レ・ディタリア」

「レ・ディタリア」は初戦から集中砲火を受けていたところに装甲艦
「フェルディナンド・マックス」に衝角戦を仕掛けられ、喫水線下に
開けられた破口から浸水して、数分で横転し沈没しました。

このとき旗艦に座乗していた指揮官のカルロ・ペルサーノ提督は、
助かった上、帰国してからの虚偽報告で勝利を捏造しようとしたため、
敗北と捏造の責任を問われて退役に追い込まれています。

イタリア海軍の「パレストロ」の艦長カッペリーニは攻撃を受けて
沈むことがわかった自艦に残ることを決め、それを知った乗員たちも
全員が艦長に付きそって「パレストロ」と運命を共にしただけに、
ペルサーノ提督の往生際の悪さは対比されて今日まで悪名を残しています。

 

余談ですが、カッペリーニの名前は「コマンダンテ・カッペリーニ」として
のちに潜水艦名になり、さらに余談の余談ながら、この潜水艦、
イタリアが連合国に降伏したあとはドイツに接収されていました。

ところが(笑)

いや、笑い事じゃないんですが、ドイツ軍艦として日本に寄港し、
神戸の三菱重工業で整備を受けているとき、ドイツが降伏してしまい、
それでは、と日本がありがたく接収させていただき、

「伊号第五百三潜水艦」

として、Uボートだった「五百一潜水艦」の三番艦になりました。
ただし終戦直前の再編だったため、幸か不幸か戦闘を経験せず、
シンガポールにいるときにイギリスに接収されてマラッカ沖で沈められました。

 

この大作は、説明の写真を撮るのを忘れたのですが、状況証拠的に
リッサ海戦の時を描いたもので間違いないと思います。

画面の手前にいるのは全てオーストリア海軍で、向こうがイタリア軍ですね。

オーストリア海軍の軍艦を模型で展示するコーナーも。
これは木炭船ではないかと思われるのですが・・・・。

「SMSテメス」Temes 1903

河川用監視艦として建造された「テメス」級の一番艦です。
動力は蒸気エンジン、時速13ノットで、乗員は86名です。

第一次世界大戦には投入されています。

というか、オーストリア海軍は第一次世界大戦に敗戦後は
解体されて消滅してしまったので、軍艦は全て第一次世界大戦までです。

装甲艦

「SMSクローンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ 」

Kronprintz Erzherzog Rudolf 1887

「ルドルフ」とはあのヨーゼフ一世と皇后エリザベトの間に生まれた
ルドルフ皇太子で、何度かここでも説明しておりますように、
30歳そこらで女性と無理心中してオーストリア皇室を失意のずんどこに陥れた、
あのルドルフのことなんですね。
しかもルドルフが死んだのは、この軍艦がプーラで完成したその同じ年でした。

それだけでもう縁起悪っ!と後世のわたしどもは思ってしまうわけですが、
とりあえず事故はなく、戦争もなかったので何事もなく10年過ぎ、ただし、
その間に早々と陳腐化してしまったというのが不幸といえば不幸でしょうか。

K.u.K海軍がアドリア海沿岸の警備のために建造した装甲艦で、
機関はヤーロー式。

クルップ35口径を主砲としていました。

SMS「ブダペスト」Budapest 1896

こちらも沿岸防衛船です。
そういえばこの頃は「オーストリア=ハンガリー帝国」だったので、
こういう名前が付けられるわけですね。

歴史的なことをいうと、彼女はアメリカのマルコーニが無線機開発し、
これを初めてイタリアが導入したとき、実験艦となって、
海軍で最初の無線通信を行った船ということになっています。

第一次世界大戦が始まると基地防衛のために出動し、
モンテネグロ砲兵隊と砲撃戦を行なっています。

第一次世界大戦ではイタリアの航空機の空襲を受け、
その後66ミリの対空砲を追加装備しています。

第一次大戦中にすでに寿命が来ていたので宿泊船になっていた彼女は
敗戦により、1920年にイギリスに戦時賠償として引き渡され、
翌年には廃棄処分になっています。

SMS「アルパド」Árpád 1901

戦艦「アルパド」は「ハプスブルグ」級戦艦の二番艦として建造されました。
「アルパド」は10世紀ごろのハンガリーの軍事指導者の名前です。

ここにあるのは1:50モデルです。

設計図が見つかったので挙げておきます。
上から見ると構造物が右舷側に偏っているように見えるのですが、
主砲とバーベットでバランスを取っているんでしょうか。

「アルパド」は姉妹船の「ハプスブルグ」とともに、戦後
イギリスに接収され、すぐさまイタリアでスクラップにされています。

「ブダペスト」もそうでしたが、イギリスって、どういうつもりなのか
敵国艦を接収するだけしてさっさと廃棄処分にしてしまうんですよね。

廃棄するためにわざわざ取り上げるのがなんかすごく嫌な感じです。

SMS「エルツェルツォークカール」Erzherzog Carl 1903

オーストリア=ハンガリー海軍最初の、最大の、そして最後の戦艦、
それが「エルツェルツォーク カール」級でした。

総排水量10472トン、最長126.2m、武装はシュコダの40ミリと
当時のオーストリアの海軍力を結集して建造された戦艦です。

しかしながら、同時代の「ドレッドノート」級と比べれば、
(そんなもんと比べてやるなという話もありますが)スケールはもちろん、
近代的なタービン推進力において全く敵うものではありませんでした。

なかなかかっこいいんですが。

「ドレッドノート」の画像検索結果

ちなこれが「ドレッドノート」。(だから比べるなと言ったら)

 

うちわの水兵の反乱を抑えるなどの働きはしていますし、大戦初頭には
砲撃戦にも参加しているようですが、あまり戦果などの記録がありません。

最後は姉妹船のように戦後補償に接収される前に、座礁して廃棄されました。

 

ちなみに艦名の前に付いている「SMS」はショートメールサービスのことではなく、

Seiner Majestät Schiff (ドイツ語の"His Majesty's Ship")

のことです。 

 

続く。

 

 


「青年の感激 思ひ出の三机」〜真珠湾攻撃 九軍神慰霊祭

2019-12-25 | 歴史

この写真は九軍神慰霊祭の行われた三机のある瀬戸町民センターの
二階に掲示してあった「千代田」乗組員の総員写真です。

全員の顔が見えるように甲板はもちろん、煙突や砲塔にまで
人が鈴なりになっている様子は壮観です。

「千代田」は「千歳」型水上機母艦の2番艦として開発されましたが、
就役して1年半後の1940年5月、甲標的(潜航艇)母艦として
ハワイ攻撃のための特別訓練を行うため三机に停泊していました。

その後再び航空母艦に改造され、レイテ湾沖で戦没しているので、
艦種カテゴリは空母ということになるのですが、そこでわたしは
戦後海上自衛隊が、潜水艦救難艦として「ちはや」とともに
二代にわたって「ちよだ」の名前を引き継いだということに気付きました。

艦種名こそ「潜水艦救難艦」ですが、つまりこれは「千代田」と同じ母艦です。
甲標的を載せるため三年間潜水艦母艦になっていた「千代田」の名前を
海上自衛隊が潜水艦救難艦に引き継いだことから、わたしは関係者の
ある「想い」を感じるのですが、それは考えすぎでしょうか。

今日は、三机の岩宮旅館にある史料館をご紹介します。
いわゆる九軍神となったハワイ攻撃の甲標的乗組員はじめ、
三机で訓練を受けるために滞在していた海軍軍人たちの写真、
直筆コピー、遺品などが、旅館の玄関横のスペースに展示されています。

ガラスケースの上部には、特別注文らしい横長の額に、九軍神の顔写真、
その下には岩佐中佐の遺書(複製)が掲げられています。

出撃前に故郷の両親に宛てた遺書で、文中の

「大和民族の擁護者として 大和氏族の推進者として

現下の時局に対処しうるは 直治最大の栄誉なり

まして選ばれて軍身(?)湾に突入以て

直撃一撃に敵(?)を打破し 大和正義を(?)せしめ

氏族の(?)を 世界平和根本の大任を(?)ぶにおいてをや」

という文言に続き、最後には

桜花 散るべき時に散りてこそ
          大和の花と賞らるるらん

身はたとえ 異境の海にはつるとも
          護らでやまじ大和皇国を

という辞世の句が記されています。

大本営の発表後、世間はことに岩佐中佐を称え、
毎日新聞が募集した詩に、東京音楽大学が曲をつけた
「軍神岩佐中佐」という曲までできたということですが、
その曲が世間一般に広く知られるには至らなかったようです。

ガラスケースの展示で目を引かれたのは、岩宮旅館に残された
三机滞在中の海軍軍人たちの見せるオフの姿でした。

旅館の人々によって記された彼らの階級は、潜航艇で突入後
二階級特進したものではなく、ここ三机でのものです。

左の写真はまるで修学旅行の学生のような雰囲気ですが、
捕虜になった酒巻和男少尉とシドニー湾突入の松尾敬宇中尉の他にも、
加藤中佐、そして下士官も一緒に写っています。

右は三机湾を後ろに撮ったもの。
「千代田」が停泊して訓練が行われていた16年夏の写真で、
当時は港に銃を持った衛兵が立って機密保全をしていたということですが、
とてもそんな港の物々しい様子は彼らの表情からはうかがえません。

左の写真の「講習員」とは、甲標的の訓練を受けたことを意味します。
「呉丸」の船上で撮ったものということですが、揺れる船上で
中馬兼四少尉の頭に伴少尉横山少尉がふざけて手をかけています。

「やーめーろーよー」

とか言ってそう(笑)

彼らは同じ年頃の岩宮旅館の姉妹とは大変仲が良かったようで、
この左側のような写真も残されています。

後方真ん中が酒巻少尉、右端で笑っているのが横山少尉です。
獅子文六の「海軍」のモデルになった横山少尉は、九州の出身なのに
りんごのように頬っぺたが赤く、そんな彼が日焼けすると、

「焼きリンゴ」

とからかわれたそうですが、この写真からもそれがうっすらわかります。

「呉丸」というのは地元の屋形船か何かだったのでしょうか。
いろんな写真を見る限り、酒巻少尉はどうもかなりの照れ屋さんのようです。
右側はまるで臨海学校の写真のような雰囲気ですが、三机湾から離れた
海岸で行われた水泳訓練での一コマのようです。

ここに写っている酒巻少尉以外の青年たちは、終戦までに全員が
戦地に散って逝ったことになります。

昭和16年12月の真珠湾攻撃ののちも、訓練がつづいていたことを
表す写真ともなっています。

いずれも岩宮旅館の前で撮られたということですが、
講習員であった「太田中尉」「佐藤少尉」
岩宮家の人々と、赤ちゃんを抱いたりして写っています。

いわゆる「九軍神」と酒巻少尉らは第1期講習員でした。
ここに写っているのは第13期の講習員として訓練をしていた軍人たちです。

展示ケースには、海軍が三机を実験場にするために
下見に来たところから、その歴史が写真入りで記されています。

海軍がここを甲標的の訓練場に選定したのは、湾形が
真珠湾に似ていることと、交通が少なく機密が保全されるからでした。

左の上は、「千代田」艦長であった原田覚大佐の写真が見えます。

「海兵41期、第33特根(?)司令官
セブにて甲標的隊を指揮 多大の戦果をあげたが
20年9月25日 戦病死・中将」

写真下二人は甲標的の試作艇の試乗を行った
関戸好密大尉(海兵57期)堀俊雄機関中尉

そして目を引くのが、ここに滞在した甲標的搭乗員たちが
出撃前に岩宮旅館の人々に残していた遺墨の数々です。

「轟沈」「男命の捨て所」「一誠」

など、当時の軍人たちが遺していく書の「流行り」でもあった言葉がならんでいます。

その中で、「回天」開発者だった黒木博司機関中尉の書に
目が奪われました。
説明をしてくれていた先ほどの慰霊祭の宮司さんに訊ねると、
黒木中尉はこれを左手で書いたのだそうです。

「裏側じゃないんですよ」

岩宮旅館の女将は笑いながらそう言いました。

そういえば昔、左手で裏向きの字を書く遊びをやりましたっけ。
黒木中尉はそれを遺墨でやってしまっているわけですが、
さすが墨で書き慣れている昔の軍人だけあって、
裏向きながらなかなかの達筆に見えます。

回天の開発後、指導者として黒木中尉の遺した逸話から
部下にはもちろん自分にも厳しい人物のようなイメージでしたが、
これを茶目っ気でやったとすれば、意外な一面です。

旧軍軍人の遺した遺書は達筆が多く、それをもってある人は
「今の若者とはレベルが違う」などと言ったりしますが、
全てを見る限り、決して全員が全員そうではなく、やはり達筆もいれば
そうでもない人がいて、その割合は今も変わらないのではないかと思います。

違うことがあるとすれば全員が毛筆がきに慣れているかどうかだけでしょう。

顔マークを添える人あれば、「男一匹」などとスカした一言の人もいて、
「青年の感激 思ひ出の三机」など、純情な青年らしいことを書く人もいます。

ここにも左手で「馬」という字を「裏向き書き」をした人がいます。
人が歩いている絵には

「ナイト・バイ」

と意味不明な言葉が添えられていますが、仲間が見たらわかったのでしょうか。

書の下にはここで訓練をしたその後や、いつ書を認めたか、
三机に滞在したおそらく全ての軍人たちの詳しい紹介が添えられていました。

たとえば第4期講習を昭和17年に受けた艇附の鹿野明兵曹長は、
昭和17年春に寄せ書きを遺し、その後昭和19年5月29日、
サイパン北方で戦死していますし、その他に名前が見える軍人たちも
読む限り全員が生きては帰らなかったようです。

軍神たちの物語は、幾度かテレビがドキュメンタリーに取り上げたようで、
2015年8月15日の深夜1時35分放送というマイナーな扱いで放映された
ザ・ドキュメントの「軍神ー忘れられた英雄たち」という番組や、
「50年目の鎮魂歌〜姉妹と軍神たちの青春」が録画されたCD-ROMが見えます。

わたしとしては、同じCD-ROMに録画されている

「呉での慰霊祭にて 酒巻少尉との会話」

というのをぜひ見てみたいのですが・・・。

左側の青年の立ち姿の写真は、わたしが見せていただいた
町民会館の二階の展示ケース前です。
ロケを行った俳優でしょうか。

その町民センターに掲示されていた写真です。
遺品の多くは靖国神社に寄贈されていますが、たとえば
シドニー湾に突入した松尾敬宇少佐艇から発見された
(ということはオーストラリアからの返還ということになる)
小さな小さなキューピー人形は、現在、江田島の
第一術科学校の教育参考館に展示されて見ることができます。

ケースの前に集まった「三机初体験」の数人(久野潤氏含む)のために
九軍神と特殊潜航艇の訓練を行った若者たちについて語ってくれたのは
先ほどの慰霊祭を執り行った宮司でしたが、その方は
昔地元の役場に務めておられたころ、ここに慰霊にやってきた
酒巻少尉を役場内で見たことがあったそうです。

「そのときはわたしも若く、声をかけることもできずに遠くから見るだけでした」

そういう宮司さんも岩宮旅館の6代目女将、山本恵子さんと同い年。
(わたしは思わず女将さんがお若く見えるのに驚いてしまったのですが)
「軍神たち」をお世話した岩宮旅館の人々もすでに亡き人になりました。

しかし、ここに岩宮旅館があって、一年に一度、彼らやここで訓練を受け、
その後南の海に散って行った若者たちのための慰霊祭が続けられる限り、
彼らは人々の記憶から消え去ることはないのでしょう。

例年は参加者は旅館に一泊するのですが、今年は昼間に終了したため、
何人かは松山までその日のうちに移動しました。

わたしは海自OBの参加者お二人をお乗せして運転手を引き受け
瀬戸内海を臨む海沿いの道を走っていましたが、夕日が傾いてきた頃、
こんなビューポイントに差し掛かったので、お二人を車に残したまま
外で写真を撮らせてもらいました。

夕日に照り映える海と岸壁をファインダーの中に見ながら、
わたしは、
かつてここに若き日の一途で純粋な思いを
残された最後の日々に燃やし尽くした青年たちの美しい眼差しが

この同じ海の色を見ていたことを思わずにはいられませんでした。

 

終わり

 


FIRST TO DIE〜真珠湾攻撃 九軍神慰霊式

2019-12-23 | 海軍

九軍神慰霊祭は、主催の青年団や地元の人たち、岩宮旅館の関係者、
自衛官(陸自隊員の姿もあった)、自衛隊OB、そして
旧軍に関心が深く遠隔地から慰霊に訪れた(わたし含む)人、
そしてごくわずかの報道関係者(産経新聞記者)、さらには
高松の金刀比羅宮で行われた掃海隊殉職者追悼式でお見かけした
戦史研究家の久野潤氏の姿もありましたが、当初想像していたよりも
ずっと小さな規模で、参加人数も決して多いものではありませんでした。

しかし、昭和41年からずっと今日まで、この慰霊祭は
途絶えることなく続いてきているのです。
わたしはその理由をこのように考えました。

 

日本が敗戦し、三机から「九軍神の聖地巡礼」の人々の姿が
かき消すようにいなくなったあとも、おそらく三机では
国のために命を捧げて散った若者たちに対する敬慕の耐えることなく、
彼らがこの小さな漁村に遺していった物語の数々は親から子へ、
子から孫へと語り継がれていったのでありましょう。

そんな三机に時は流れ、昭和40年、九軍神の遺族がこの訪れたのをきっかけに、

「広く世界の平和を呼びかける礎石とすべく」

浄財によって須賀の森の一角に慰霊碑が建立されました。

GHQによるWGIP(ウォーギルトインフォメーションプログラム)のせいで、
昨日まで称えていた軍神を、戦犯と掌を返して罵るような風潮が日本中を席巻しても、
戦後世代が旧軍は悪とし慰霊を旧軍懐古として日本そのものを否定しても、
三机の人が、地元に伝わる軍神たちの物語を大事にしてきたからこそ、
このささやかな儀式も、ごく自然に世代を超えて受け継がれてきたのでしょう。

 

慰霊祭開始の挨拶をしたのは、青年団の責任者という人です。
出席者はおおむねスーツなどだったのに対し、青年団のメンバーは
普段のスタイルで参加しており、この催しが彼らにとって
決して特別なものではない日常の延長にあることを窺わせます。

先ほど自衛官から手ほどきを受けていた青年団メンバー二人の介助で
国旗と海軍旗の掲揚が行われることになりました。

慰霊碑横に置かれたプレーヤーから流れる喇叭譜君が代。
日の丸と旭日旗が自衛官と地元の青年の手で掲揚されます。

掲揚が告げられたとき、わたしは旭日旗のことを海軍旗でも
自衛艦旗でもなく、「鎮魂旗」と称しているのに気がつきました。

ここに揚げられているのは海上自衛隊の自衛艦旗ですが、
九軍神のみたまにとっては海軍旗と言わなければなりません。

しかし戦後の日本で自衛艦旗を「海軍旗」と称することはタブーとなっているため、
どちらでもない「鎮魂旗」という言葉が生み出されたのでしょう。

なぜタブーなのかと考える時そこに忸怩たる思いをもたずにいられませんが、
いずれにせよこの名は慰霊にふさわしいと思われました。

鎮魂旗掲揚台を寄贈した海上自衛官、そして作家であり
呉市海事歴史科学館、通称大和ミュージアムの館長、戸髙一成氏の名前も見えます。

寄贈されたのは今から11年前のこの日、12月8日でした。

続いて神主が「修祓の儀」を行いました。
修祓とは、神式の行事に先立って、罪穢れのない
清浄な世界を作り上げるための「清めの儀式」です。

罪穢を祓い去ってくれる四柱の神々を祓戸大神(はらいどのおおかみ)といい、
神官は神々に祓詞(はらいことば)という祝詞を奏上しお願いをします。

そして次に神官は罪穢れを祓い清めるため、大麻(おおぬさ)を
慰霊碑、次に神饌物(捧げ物)を振りました。
それが済むと、起立低頭した列席者の頭上で御祓が行われます。

そして、神官が九軍神となった死者の魂に「誄詞」(るいし)といって、
死者を偲び、その生前の功績をたたえ哀悼の意を表わすことばを捧げました。

この三机における慰霊祭で毎年変わらず捧げられている言葉なのかどうか、
初めて出席するわたしにはわかりかねましたが、その誄詞中の、

「誰一人結婚することなく若い命を捧げた」

ということを悼む文言は、ことにわたしの胸に刺さりました。

映画「海軍」では、艇附の下士官が最後の出撃前に妻を呼び寄せ、
狂おしく抱き合う様子が描かれていましたが、実際には全員が
独身のまま若い命をあたら散らしていきました。

26歳の隊長、岩佐直治中佐には郷里の前橋に婚約者がいましたが、
休暇で帰郷した際、親にも相手にも理由もいわず婚約を破棄しています。
その話がなぜ今日に伝わっているのかというと、岩佐大尉は訓練時
宿泊していた岩宮旅館の女将、チヨさんに

「死んでいくのに結婚しては、相手を傷つけることになるからね」

そう打ち明けたからでした。

婚約者が理由も告げぬ突然の婚約破棄にショックを受け、一時悲嘆に暮れても、
自分が任務を果たしたとき、必ず戦死の報とともに誠意は彼女に伝わり、
やがて自分を許してくれるだろう、と思ってのことに違いありません。

しかし、岩佐大尉のように誰かに打ち明けたりしなかっただけで、
他の軍人たちも多かれ少なかれ、密かな思いを心のうちにあきらめたり
別れを告げたりして、この世との未練を断ち切って逝ったたものと思われます。

「死ぬことよりも、自分がこの世に血を残さずに往くのが辛い」

とは、「回天」乗組員が遺した言葉ですが、誄詞の一文は
それだけが心残りであろう御霊を慰撫しているように聴こえました。

参列者が順次神前に歩み出て、献花を行い、
二礼二拍手一礼を行いました。
まず青年団のメンバー。

十名の特殊潜航艇乗員が投宿していた岩宮旅館、そして
松本旅館の関係者。
右側は岩宮旅館の現女将です。

続いて自衛隊関係者、わたしを含むその他の参列者が献花を行いました。

最後に参拝を行ったのは、陸自と海自のOBからなる豫山会の皆様です。
豫山会とは、愛媛県出身の軍人会を母体として継続している
一般財団法人の団体で、明治45年創立、かつてはあの
秋山好古もその名を連ねていました。

その歴史を見ると、陸軍が中心の軍人会だったようですね。

戦後は、青少年に対する社会教育活動の振興助成や体育の奨励、
青少年の育成事業を行っているということです。

正面で参拝しておられるのが豫山会代表理事河野氏(陸自OB)
後ろの四名は全員が海自OBで、こういうときにも
最先任が中央に、つまりかつての序列通りに並んでおられます。

豫山会の方が追悼の言葉を捧げられました。
この方も海自OBです。

コメントにもありましたが、海上自衛隊の練習艦隊は、例年
江田島を出航したのち、三机にに寄港して九軍神の碑に献花を行います。

平成26年度海上自衛隊練習艦隊 九軍神慰霊碑献花式

中畑康樹海将が練習艦隊司令の時ですね。
献花式には地元の中学生も参列しているようです。

というわけで式次第は滞りなく終了しました。
再び国旗と追悼旗が降下されることになり、神主さんが
プレーヤーのスイッチを押す係に(笑)

掲揚の時と同じメンバーの手で両旗が降納されました。

最後に神職が霊前に挨拶をして慰霊式の終了です。

式終了後、皆で椅子を片付け、談笑している出席者。
だいたいここに見えているプラス数人が全出席者数となります。

例年夜夕方6時(当然真っ暗)から行われる慰霊祭が
今年昼間になったのは、12月8日が日曜日に当たったからです。
いつもは執行を行う青年団が自分たちの仕事を済ませてから準備を行っているので
夕方から始めざるを得ないということでした。

陽が沈んでからの須賀公園での慰霊祭はかなりの厳しい寒さになるらしく、
わたしは前もって防寒対策をしっかり行ってくるように、
といわれていましたが、幸いなことに晴天に恵まれた昼間だったため、
寒いどころか陽に照らされて座っていると暑ささえ感じました。

この日は直会終了後、車で松山まで帰りましたが、夕方開始のときには
ほとんどの参加者は岩宮旅館に宿泊をするのだそうです。

慰霊碑の正面にあたる岸壁から三机湾の内海を臨む。
参加していた自衛官に写真モデルになってもらいました(嘘)

いつから慰霊祭に自衛官が派出されるようになったのでしょうか。
彼らにすればこの日など休日出勤ですし、例年は残業となります。
何人かにうかがってみたところ、呉地方総監部から、あるいは
愛媛地本からきたという自衛官もいました。

さて、慰霊祭の後の直会は、先ほど待ち合わせした町民会館の集会室?
というかキッチン付きの和室で行われました。

開始前、わたしをこの慰霊祭にお誘いくださった提督が、町民会館の
二階フロアに、特殊潜航艇関係の展示があるといって
ご案内くださったのですが、驚いたのがこの写真です。

ガラスケースの上に九軍神となった若者たちの顔写真を引き延ばし、
一人ずつ額に入れて飾ってあったのです。

「普通の市民会館でこんなのはまずないでしょうね」

いずれも真珠湾の特殊潜航艇突入を扱った英字新聞です。
左の九軍神の写真を掲載した署名記事のタイトルは

「FIRST TO DIE」

死を第一義として、というようなニュアンスでしょうか。
右二つは2009年の発行で、ハワイ湾突入の「最後の一隻」の残骸を
調査潜水艇が発見した時のニュースを報じるものです。

なぜこんな大発見を日本の新聞がこれと同じような一面トップどころか
ほとんど無視し報じなかったのかが不思議でたまりません。
(もちろんその理由はわかっていますがこれは嫌味で言ってます)

真珠湾に侵入した特殊潜航艇のうち4隻は、目標に到達できず
座礁したか、沈められたか(そういうアメリカ側の報告もある)、あるいは
打ち上げられていたのを発見されたわけですが、この時発見された一隻は、
アメリカでの最近の研究によると、魚雷二本を「オクラホマ」に命中させ、
撃沈せしめたということが明らかになっています。

この日の追悼式での誄詞による文言でも、攻撃は全く成功しなかった、
というようなことがいわれていましたが、「オクラホマ」の沈没原因を
検証したうえで、アメリカの研究者がそう発表したからには、
かなりの真実に近づいた結果に違いないと少なくともわたしは信じています。

攻撃の結果は彼らに対する崇敬の念になんの変化ももたらすものではありませんが、
それにしても日本側がその研究結果にどうしてここまで無関心なのか、
わたしはこれを知った日からずっと違和感を抱き続けているのも事実です。

こちらは九軍神の慰霊を続ける三机の人々の姿を報じる新聞記事。
ちなみに朝日新聞です。

「戦死の報で真相知り涙」

というのは、岩宮旅館で彼らの世話をした岩宮旅館の、
現在の女将の伯母という人が取材に答えていった言葉です。

11月の末に休暇から戻った彼らが三机から母艦「千代田」とともに
姿を消してから3ヶ月後、大本営発表によって彼らが軍神となった、
と知ったとき、日本中の誰よりも驚いたのがおそらく
彼らの滞在した旅館の人々だったと思われます。

故人となった女将の伯母は、

「新聞の写真を見て家中で泣きました。
一人ひとりの顔が脳裏に浮かんでは消えました」

と記者に語りました。

新聞などの媒体が当時「九軍神」の遺影に使った元写真です。
海軍の報道部にとって都合のよかったのは、捕虜になってしまった
酒巻少尉は一番右(前列)にいて加工しやすかったことでしょう。

この写真は甲標的の整備員も揃って写っている貴重なものです。

同じメンバーが「千代田」艦長原田覚と写した写真。
「千代田」の先任である士官とともに岩佐大尉だけが(右から2番目)
前列に座っています。

シドニー湾に特殊潜航艇で突入した伴智久、八巻悌次、
松尾敬宇、中馬兼四大尉、そして、マダガスカル攻撃で雷撃を成功させ、
英軍艦2隻に大きな打撃を与えたものの、その後陸上で英軍と交戦、
戦死した秋枝三郎(海兵66期)が写っています。

Midget submarine crews (AWM P00325-001).jpg

wikiの鮮明な写真も貼っておきます。
各人の後ろにいるのが彼らの艇附です。

開戦2ヶ月後に撮られた第4期のメンバーです。
この中に「回天」開発の黒木弘大尉がいるのではないかと思うのですが、
(左から2番目?)名前がなかったのでわかりません。

直会は青年団の皆さんが心を込めて用意してくれた寄せ鍋でした。
冬の味覚である牡蠣まで入っています。

わたしの近くには予科練だったという92歳の方が座っていて、
皆にその元気ぶりを感心されていました。

出席者の一人、久野淳氏の竹田恒泰氏との共著、
「日本書紀入門」。

会もたけなわの頃、青年団のメンバーの一人が誕生日
(12月8日!)であるということで、身内からケーキが贈られ、
皆で「ハッピーバースデー」を歌うことになったとき、

「こんな日なのにハッピーはいいのかどうか」

という声もあがったのですが、別の人が、

「いいんだよ、ハッピーで」

とひとこというと、全員が納得していました(笑)

ホールケーキにしたかったのだけど、何しろ地元の小さなケーキ屋で
予約しないと無理、といわれてしまったのでショートケーキ詰め合わせです。
誕生日ケーキなのにサンタが乗っています。

この時の話によると地元の青年団でも若い人が少なくなって
人材不足は深刻なのだそうですが、そんな中、手作りの慰霊祭を
毎年欠かさず続けてくれている彼らの誠意には敬意を払わずにいられません。

和やかなまま直会がお開きになり、わたしはここを離れる前に
もう一度岩宮旅館によってみることにしました。

そこには九軍神始めここで訓練をしていた特殊潜航艇乗員たちの
生きた証が史料館として展示されているのです。

 

続く。

 

 

 


ベイエリア トレイル三昧〜サンフランシスコ

2019-12-22 | アメリカ

今年の夏は当初東海岸から西海岸に移動し、そのまま日本に帰るという
動線的に美しい予定を立てていたのですが、急遽ニューヨークで
所用ができてしまったため、サンフランシスコ滞在の日を少なくしてまた再び
東海岸に飛ぶというアクロバティックな旅程になりました。

大好きなベイエリアの滞在期間が短くなったのは残念ですが、その分
勝手知ったる第二の故郷を存分に楽しむことを決意。

そこで、今まで訪れていながら知らなかった場所を歩いてみようと、
地図上で「Trail」と示された場所に片っ端から行ってみることにしました。
わたしが家を借りていたバーリンゲームから車で行ける距離だけでも、
アメリカにはとんでもない数の「トレイル」が存在します。

まずここは住宅街の中の公園で、近所の人が犬の散歩に来るような、
トレイル評論家のわたしに言わせると星ひとつランク。

写真の老夫婦は歩いている間ずっと手を繋いでいました。

ここはメインが球技などのグラウンドで、なんとローラースケーター用の
本格的なリンクがあるのですが、施錠されていないので、セキュリティのため
監視カメラが常時作動しているようです。

「SMILE YOU'RE ON CAMERA」

さすがベイエリア、なかなかキレッキレの警告です。

また別の日、サンフランシスコベイを臨む海辺のトレイルに行ってみました。
湾に沿った部分はほとんど全域にトレイルがあり、
とても10日では制覇することは不可能です。

水辺のカモメが今何か食べられそうな貝をゲットしました。

アメリカの鳩は日本より目つきが可愛らしく色が茶色よりです。

釣り専用の桟橋がわざわざ設置してあるあたりがベイエリア。

散歩道と公園、そしてマリーナがいたるところに。
地図で検索して出てこないようなところにもハーバーが点在しています。

ゴルフもそうですが、アメリカではヨットを持つこともその気になれば
日本より簡単に、しかもお手頃価格で可能。

ヨット以外のウォーターアクティビティの敷居が近いのも
アメリカという国の羨ましいところ。

ちょっとこの地に観光できただけの人が、その日の思いつきで
カヌーに乗ってベイに漕ぎ出すこともできるのです。

トレイルを歩くときにはいつも、30分歩いてUターンし戻ってくる
「1時間コース」、3キロ歩いて戻ってくる「6キロコース」、
気力があって天候状態がよければ「2時間コース」を
その日のスケジュールや体調と相談しながら決めます。

この日のベイエリアは日差しが強く、1時間コースがやっとでした。

帰ってくると、最初のポイントである岩を積み重ねた突堤で
旅行者らしい二人が仲良くサンマテオ橋をバックに自撮りをしていました。

さて、また別の日には、少し足を伸ばしてグーグル本社の近くの
マウンテンビューのショアラインパークに歩きに行きました。
いつもは夏休みで子供達のキャンプが行われているショアライン湖ですが、

♪今は 暦の上ではもう秋 誰も いない海〜

ということで湖面は観光客の足こぎボートが見えるだけです。

ここに来れば、比較的人馴れしたカリフォルニアジリスに会えます。

今年はスタンフォードのディッシュには寄れませんでしたから、
ジリスを見た唯一の機会です。

ここで何度も紹介していますが、カリフォルニアジリスは
地面に穴を掘って住み、天敵である蛇と戦って生きています。

いつものように足元のリスにカメラを向けながらふと気がつくと、
この反対側のかなり広い部分に柵が張られ、何か建てるのか
地面が掘り返されているではありませんか。

確かそこにもたくさんリスが生息していたはずですが、
地面の彼らの巣は一体どうなってしまったのか・・・・。

そしてそこに住んでいたリスたちの運命は・・・?

リス地帯を通り過ぎ、ショアライン湖の横を抜けると、そこからは
スラウという湿地帯が広がっています。
カリフォルニアではここを「バーズサンクチュアリ」、保護地区に制定しています。

ここの主のような存在であるペリカン。
ここには昔からペリカンの一大コロニーがあります。

ペリカンは水上で数匹単位で行動することが多いようです。

みんなで魚を追い込むとか、そういう高度なことはしないのに、
なぜ一緒にいるのか。

例えばこのうち一羽が獲物を見つけたらしい動きをしますと・・・、

全員が同時に首をつっこむのです。
つまり、お互いが「相手が見つけた魚を横取りしちゃる」
という下心の元に行動を共にしているということなんですね。

そう思ってみると、仲良く一緒に泳いでいる彼ら、実はお互い
相手の一挙一動に神経を集中しているらしい様子が窺えます。

単独で空を飛び、獲物を見つけると急降下して水にダイブする
アジサシ。
水に飛び込んでいくところです。

入水角ほぼ90度。
実際に見ると目にもとまらない速さで弾丸のようです。

首が着水した瞬間。
生きていくために1日に何回もこんなダイブを繰り返します。

何年か前はカリフォルニアの深刻な水不足のせいで、この一帯に
水が全くと言っていいほどなくなってしまい、ペリカンのような
体の大きい鳥は姿を消してしまったことがあり、心配したものですが、
今年行ってみると水量はほぼ従前通りになっていて安心しました。

この日は友人と会うことになっていたので、湖を望むカフェを指定したのですが、
レイバーデイとやらでものすごい人だったので彼女が車を停められず、
仕方なくスタンフォードのベーカリーカフェに移動しました。

ここもブランチを楽しみに来る人で混雑していていずいぶん待たされましたが・・。

やっとありついた遅い朝ごはんは、スペイン風オムレツです。

サンフランシスコ市内にも何度か足を向けました。
これは、うっかり間違えて一番渋滞するルートに入ってしまった時。
左も右も恒常的に大渋滞するポイントです。

この日、市内で信号待ちをしていて道路脇にホームレスの群れ発見。
サンフランシスコのダウンタウンは、うっかり道を間違えると
昼間でも道端に転がるホームレスを見ながら昔の駅のトイレみたいな
臭いの中を身構えながら歩いていかなければなりません。

しかし街の外れに生息する皆様はずいぶんお道具持ちでいらっしゃる。

どこかのお店のカートは基本ですが自転車にトランク、テントまで!

何より彼らのきている服の綺麗なこと。
ダウンタウンのホームレスより明らかに『いい暮らし』をしているらしく、
首輪をつけた犬まで飼っているという・・・・。

今いるニューヨークの郊外の街も、散歩に行くために高速を降りると、
そこでいつも爽やかに手を降っているホームレスがいるのですが、
明らかに身なりはさっぱりしていて、時々ホームレスではない人が
横に立って世間話をしているので不思議でたまりません。

最近アメリカではホームレスが増えたのは体感的に事実ですが、
皆が皆悲惨な生活をしているわけではないらしいんですよね。

ダウンタウンまで来たときにいつも通る高速の入り口の倉庫に
「One Way」ならぬ「One Tree」があるのはここでもお話ししたことがありますが、
今回初めて渋滞をいいことに通り過ぎてから写真を撮りました。

昔は矢印の先に木が位置していたのに、明らかに違う方向に育っています。

バーリンゲームで見た交通違反らしい車とそれを停めたパトカー。
車に近づいて声をかけるとき、警官は色々と身構えている様子がわかります。
おそらく右手は銃のホルダーにかかっているものと思われ。

日本と違って、停めた車の運転手がヤバいやつ、あるいは見つかったらヤバいものを
持っているとか言う場合、問答無用で警官を撃ってくることがあり、
それで何人もの警官がこれまで命を落としているわけですから。

昔サンフランシスコ在住だったときに住んでいた家の近くです。
霧の多いときには夏でもこんな空になり、気温は低くなります。
とてもノースリーブやTシャツ一枚で歩ける地域ではありません。

滞在中一度だけゴールデンゲートブリッジを眺める自然公園、
クリッシーフィールドに歩きに行きました。

この日のブリッジはご覧のように上が全く見えない状態です。

スワンの浮き輪は役に立ったのでしょうか。

クリッシーフィールドはゴールデンゲート下を流れる海に面していますが、
そこと一部で繋がった「マーシュMarsh」、沼地の部分には、
サギ(右)とかシギ(左)などの淡水で生息する水鳥がいます。

こちらは海鳥。
すげー変な顔なのでちょっと調べてみたら、

Surf scoter (アラナミキンクロ)

という渡り鳥であることがわかりました。

オスは全身が濃い黒で、額の大きな角斑と後頭部の大きな白色の三角が特徴的
嘴に黄色、橙色、黒色、白色の4色の模様がある(wiki)

いつ見ても観光客でいっぱいです。
(観光客は大概買ったばかりのトレーナーを着ていたり、無謀にも
Tシャツのままで来てそのまま過ごす豪快さんなのですぐわかる)

水上機が飛来しました。

機体番号が判明したので調べてみると、ミルバレーにある

「Seaplane Adventures」

と言う飛行機ツァーの会社の飛行機であることが判明しました。
HPによると、30分間ゴールデンゲートブリッジ近辺を遊覧するツァーは
大人一人189ドルだということです。

ここでのウォーキングは、GGブリッジの下まで行って
元来た道を帰ってくること、と決めています。

ご存知のようにこのGGブリッジ下にはかつて守りの要所だった
フォートポイントがあり、このようなかつての兵士のコスチュームで
イベントを行ったりしております。

GGブリッジの下のフォート内部は博物館になっていますが、わたしはここに
何年か前から「中国万歳」な展示が増えたとご報告したことがあります。

サンフランシスコ市内の「慰安婦像」設立に向けた動きなどもそうですが、
最近は市内のどこかに「抗日博物館」的なものもできたとか。
なぜかGGブリッジのフォートで中国の獅子舞をやっている写真がありますが、
相当チャイナマネーが入り込んでるなあと感じます。

いつも私は歩きから帰ってきてから朝食(というか昼?)を食べるのですが、
この日は散歩の途中にカフェで食事をすることにしました。

カモメの向こうの小屋が「ウォーミングハット」(温め小屋)というカフェです。

パンの種類も選べるターキーサンドイッチはアメリカンサイズ。
半分食べてお腹がいっぱいになったので、持って歩いていたら、
途中で砂の上に落としてしまいました(´・ω・`)

残りを食べるのを楽しみにしていたのに・・・。

カフェの売店にあった「ChocStars」シリーズ。
本人から文句の出なさそうなキャラばっかりですが、配慮してか
左から

「メキシコ」「朝食」「女王」「ラップ」「ポップ」

ここにある他にも

「スープ」(キャンベルね)「GG」(レディ)「ベガス」
「レゲエ」

などがあり、実在の人物ではない

「アンクルサム」

だけが実名?となっています。

というわけで今年も無事にアルカトラズ島を見届けてきました。

そして、帰りにちょっと寄り道をして、昔住んでいたときに
息子を通わせていた幼稚園の前を通ってみました。

看板は新しくなり、外壁も金網の外に木材を貼って目隠ししています。

しかし、この階段などあの頃と全く変わっていません。

この階段を一緒に上がって送り迎えをした息子の姿は
まだあの頃のままはっきりと脳裏に浮かぶのに、その同じ息子が
大学生となっているわけですから、時の経つのは早いものです。

 

 

 


真珠湾攻撃 九軍神慰霊祭〜酒巻少尉の写真

2019-12-21 | 海軍

真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇で突入した艇長と艇附、
士官と下士官9名の英霊「九軍神」の慰霊祭にお誘いいただいたとき、
どのような経緯で12月8日の慰霊がこのようなところで行われてきたのか、
全くその経緯についてわたしは知識がありませんでした。

参加の意思を伝えてから、茶封筒にボールペンの手書きで
三机からの案内状が届いたのですが、何日かして追いかけるように届いた
もう一通には、先の案内状の電話番号の訂正だけが書かれていました。

どうして今時メールという通信手段を使わないのだろうと思いつつ、
その丁寧さに驚いた、と誘ってくださった提督にお伝えすると、

「会えばわかりますが、茶髪やピアスをした普通の青年です。
ただ子供の頃から九軍神の話を聞いて育ち、自分たちと同世代の若者の生きざま、
自己犠牲の精神には尊敬の念を持って自然な形で代々慰霊祭を続けています。
我々海自OBは銃数年前にそのことを知り、陰ながら応援しています。」

という返答をいただきました。

戦史にその名を仰ぎ見た九軍神の慰霊に参加できる感激もさることながら、
今の若い人たちがどんなふうに英霊の顕彰を受け継いで、
後世に伝えようとしているのかぜひ見てみたい、と思ったのはそのときです。

街全体の面積に比してこの須賀公園というのは広すぎる気もするのですが、
もともとあったらしい八幡神社を中心に、キャンプ場や炊事場、広場を作り、
ここをちょっとしたレジャー地にしようとしたようです。

九軍神慰霊碑はここにもしっかりその名称が記されています。

整備の際に設置されたと思われるプール。
ということは、こんな静かな内海なのに海水浴はできないのでしょうか。

砂浜がない、ということはとりもなおさず海の深さを表しています。

かつてこの三机で特殊潜航艇・甲標的の乗組員が訓練をしていたとき、
この三机湾の沖には母艦「千代田」が停泊し、その威容を見せていました。

真珠湾攻撃の半年前の昭和16年春になると、十人の男たちは
三机の旅館に泊まり込みとなり、毎朝8時になると、旅館の女将が作った
弁当を持って出て行き、夕方6じごろには戻ってくるという
まるでサラリーマンのような生活をしていたそうですが、
地元の人々との接触はなく、もとより村の人々も、彼らが
何をしているのか尋ねることもなかったということです。

訓練終了後の潜航艇には厳重にカバーで覆われ、村の人々は
彼らが何をしているかわからないなりに、厳しい訓練を行っているらしいと
なんとなく察していましたが、同年の11月中旬、十人の軍人が
休暇から帰ってきてすぐに、三机湾沖の「千代田」は突如姿を消しました。

そしてほどなく、大東亜戦争開戦の知らせがこの小さな漁村にも伝わりますが、
まさかその海戦にあの軍人たちが関わっているとは誰も思わなかったといいます。

大本営が酒巻少尉を除く九人が特殊潜航艇で真珠湾に突入し、
戦死を遂げて「軍神」となったことを発表したのは、翌年の3月6日。
その日、三机村の人々は、あの軍人たちがここで何をしていたのか、
初めて知ることになったのでした。

強い潮風から護られるように周りを深い木々で囲まれた広場に
「大東亜戦争級軍神慰霊碑」はありました。
注連を巻かれ、清酒や供物が供えられています。

慰霊碑の前には、九軍神の写真が並んでいます。
海軍の慣習に倣って、全員の真ん中に隊長の岩佐直治中佐(海兵65期)。
その両脇に67期の古野繁実・横山正治少佐

横山少佐は、わたしが再々ここで扱っている獅子文六の小説、
「海軍」のモデルとなりました。

兵学校68期の広尾彰大尉は、古野少佐の左。
本来なら横山少佐の右には酒巻少尉が二階級特進して
酒巻大尉となり、並ぶはずでした。

四名の両側に、下士官であった五名の艇附の写真が並びます。
映画「海軍」では、艇附が中年のおじさんになっていましたが、
最年長であった岩佐大尉の艇附、佐々木直吉少尉ですら28歳、
酒巻艇の艇附稲垣兵曹長26歳、あとは25、24、23歳と
全員が二十代前半の若者たちでした。

海軍という組織の不思議なところで、艇附は必ず艇長より年上です。
年齢が上でも士官と下士官では士官が上級であり先任ですが、
この組み合わせは、海軍での経験豊かな優秀な下士官を
士官の補助に付け、実質指導させることが目的だったと思われます。

 

本日は慰霊祭なので慰霊碑前に遺影が飾られていますが、
ここにはふらりとキャンプなどで訪れる人たちにも
慰霊碑の示すところの意味を広く知らしめるべく、このような
立派な説明のプレートが設置されているのでした。

この碑は、昭和16年12月8日大東亜戦争の先陣として
ハワイ真珠湾攻撃に挺身決死隊として散った
九人の軍神を慰霊するために建立されたものである。

軍神は戦いに赴く前に、三机湾を真珠湾にみたてて
極秘の訓練を受けるために、この地に滞在したが
同地方の人々との交流も深く、彼等の逸話美談が
今も町民の間の語り草となっている。

この解説板の背景の九本の柱は、
軍神のみたまの数をあらわしたものである。

金属のプレートは、この日の青空と緑とともに、
彼らのみたまを表すという九本の柱を映しています。

この下線部分は、「秘密保持のために交流はなく」
とされた先ほどの記述と正反対なのですが、これは矛盾するものではなく、
彼らは村人に礼儀正しく、旅館の人々などには青年らしさを見せながら
訓練については厳に口を謹んで一言も言わなかったということなのでしょう。

わたしが解説の前に立ち、写真を撮っていると、
髭を蓄えた紳士が近づいてきて解説板の足元にある大理石を指差しました。

「ここには、何年か前まで酒巻少尉の写真があったんです」

えっ、とわたしは息を飲みました。
全員が戦死した甲標的の乗員の中で、たった一人生き残った酒巻和男少尉。

ジャイロが故障し(というか出撃前からわかっていたらしい)
目標を見失った甲標的で迷走したのち、艇附の稲垣兵曹とともに
艇を捨てて海に飛び込んだ結果、自分だけが砂浜に打ち上げられ、
米軍の「捕虜一号」となった酒巻少尉については、当ブログでも
何度となく折に触れて語ってきました。

真珠湾攻撃の「九軍神」の戦死が公表されて以降、
群馬、鹿児島、福岡、佐賀、鳥取、島根、広島、岡山、
そして三重と、見事に一つも重なっていない彼らの故郷には
軍神詣での人々が絶えなかったということです。

しかし捕虜、そして「真珠湾で死に損なった男」として、ある意味
他の誰よりも過酷なその後の人生を送ったのが酒巻少尉でした。

酒巻和男という人間の立場から見ると、「九軍神」という称号は
捕虜になってしまった彼の存在をなかったことにするものであり、
これこそ海軍によって日本中に膾炙された残酷な欺瞞でもあります。

酒巻少尉の写真を最初に九軍神の碑の足下に供えたのは誰だったのだろうか。

そして、それはいつからあって、なぜある日突然無くなったのか。

いくら問うても、誰が、いつ、なんのために、という疑問が湧くばかりで、
それでは
何が正しいのか、どうなるべきなのかに対する答えは見つかりません。

何よりもわたしが考えずにいられなかったのは、
この地を慰霊のために訪ねてきたという酒巻和男氏
(戦後ブラジルに渡りトヨタ・ブラジルの社長になった)は、
ここに置かれた自分の写真を見ることがあったのか、ということです。

おそらく彼ならば、自分の写真がここにあることを望むまい、
とわたしは漠然と思うだけですが、いずれにせよその疑問に対する
答えが明らかになることは永久にないでしょう。


慰霊碑の横には飛行機のプロペラが飾ってありました。
夜間戦闘機「極光」のものです。

陸上爆撃機「銀河」を夜戦用に改造したB29迎撃用の
レーダー付き双発重戦闘機で「月光」を応援して夜間
B29に対する本土防空戦に参加することになっていたが、
性能不足で活躍の場がなかったという悲しい運命を持つ

全長15メートル 全幅20メートル 乗員三名
全重量 1350 最大速度毎時282キロ

武装20ミリ旋回銃二挺 20ミリ機銃1挺

「悲しい運命を持つ」という一文がなんかじわじわきますね。

なぜここにプロペラがあるのかの説明はありませんが、
石碑とともに設置されたのは平成2年のことだそうです。

慰霊碑の後ろには九軍神の名前と階級の下に、碑文があります。
カタカナで書かれているのを読みやすく直してここに掲載しておきます。

臆 殉国忠勇平和礎石の九軍神 昭和16年12月8日未明
大東亜戦争の先陣として ハワイ真珠湾攻撃に挺身決死隊第一号
面目躍如輝く戦果を揚げ また能く我が空軍爆的の烽火(ほうか=のろし)
となり 海空呼応壮絶無比 一大緒戦を展開

自らは従容艇と運命を与にし 壮烈湾深きところ 浪の華と散行きし九軍神
三机湾は 当時日本の真珠湾として 緒勇士と特殊潜航艇が一心同体
生死諦観 決死の猛訓練基地となり 海軍を哭かしめる門外不出の秘境であった。

17年3月 九軍神の勲功氏名の発表せらるるや 沈黙果敢天晴の最後に
驚嘆し 三机の人々は感涙した。

当時若桜の九軍神 マダガスカル・シドニー等で散華した緒勇士が
三机に遺した逸話美談は 一斉に花と咲いた。

歌書よりも軍書に悲し三机湾も 今や戦争の真珠湾から平和の真珠湾に衣更え
日米を真珠で結ぶ山紫水明の平和境となり 観光客も次第にその数を増しつつある。

九軍神は戦争の犠牲となり また平和の礎石ともなる
戦争放棄 平和憲法治下 国土平安民生安定の福祉国家として
新生日本はたくましく前進する。

嗚呼 芳しきかな護国の英霊 瀬戸町有志は広く浄財を募って
軍神由緒の地に 慰霊碑を建立して その功績を敬仰する。

旧軍神の英霊永久に冥せられよ。

昭和41年8月吉日健之

前半がまるで戦時中のような語調だったのが、後半にきて
いきなり「戦争放棄」「平和憲法」というのが不思議といえば不思議ですが、
まあつまりこれが昭和41年ごろの日本国民というものかもしれません。

石碑の土台には瀬戸町長をはじめ建設委員であった
当時の町会議員の名前が刻まれていました。

おそらくは当時の町長、町議会議員のほとんどが
三机で訓練を行っていた軍人たちを記憶に止めていたことでしょう。

知らない者に対しては、その逸話を知る者たちが、彼らがいかに礼儀正しく、
また地元の人々に対し「美談」が生まれるほどの印象を与えたかを語りました。

現在の瀬戸町の若者たちも幼い頃から彼らの物語を聞いて育ったのです。

慰霊式の時間直前になって、青年団の若い人が
国旗と自衛艦旗掲揚のやり方を自衛官に指導してもらっています。

毎年の慰霊祭には海上自衛隊から派遣されて自衛官が出席し、
烏帽子に直垂の装束を纏った神主までいて大変立派なものです。

慰霊碑の前にしつらえられた椅子に参加者が揃ったところで
定刻となり、いよいよ九軍神慰霊祭が開始されることになりました。

 

続く。

 


三机・九軍神慰霊の旅〜愛媛県伊方町

2019-12-19 | 海軍

やっと音楽まつりのご報告が終わりましたが、その音楽まつりが
始まってからというもの、阪神基地隊の年末行事、旧軍軍人英霊の慰霊祭、
人間ドック、上原ひろみのコンサートとやたらと行事が集中してしまいました。

ドック入りは本来アメリカから帰ってすぐに予約を入れていたのですが、
今回は事情があって帰国する日を伸ばしたため、予約を取り直してもらい、
こんな忙しい師走に病院で二泊三日(うち1日はPET )過ごす羽目に。

 

今回入渠を行った千葉の亀田クリニックは、病院らしくない病室に、
病院らしくない房総の海を眺める絶景レストランと、辛くて面白くない
検査がほんのりリゾートスパ気分で受けられる数少ない総合病院で、
病室から「ルームサービス」もできるレストランには、和洋中スィーツ、
鉄板焼きコーナーもあって、フィレミニヨンステーキは焼き加減を聞いてくれます。

しかしいかに洒落orzなレストランといえど病院なのでクローズが8時。

というわけで、二日目は最初の食事が午後4時だったのに、
夕ご飯は7時に食べなくてはならなくなってしまいました。

もっともお腹が空いていなければ食べなきゃいいんですが、
食事もお高いドック代に含まれているとなると、パスするのも惜しく、
一応行って、指定の定食(和食洋食から選べる)を頼みました。

前の食事から3時間しか経っていないのにこんなのぜってー無理。

 

さて、ドックの結果は何の異常も認められませんでしたが、
ただ今回、自分で低めと思っていた血圧が、そんなものではなく、
異常に低かったことを思い知りました。

元来わたしは上限100超えることはまずない筋金入りの低血圧。
今回測定をした看護師さんは、数値を見てえらく驚き(50−84)、

「いつもこんなんですか?」

「はあ、こんなもんですねー」

「いや、ちょっと低すぎるのでもう一度測りましょう」

しゅこしゅこしゅこしゅこ・ぷしゅ〜〜〜

「・・・・測らなきゃよかった」

「やっぱり低いすか」

「上が70台です」

「大丈夫です。それくらいは普通というかよくあります」

「ちょっと・・・あの、低すぎるかと。生活に支障は?」

「急に立ち上がったら立ちくらみするくらいですが、
小学校の頃からそんなですし、朝は普通に起きてます。
そんなに珍しいですか」

「珍しいです」(きっぱり)

どんなことでも珍しいといわれるとちょっと嬉しいのはなぜ。

さて、ドック前の週末は阪神基地隊の年末行事に行ってまいりました。
ただし、参加できたのはラスト30分だけです。

いつも週末飛行機に乗るときには空港駐車場が混むので早くきて、
出発時刻までラウンジでゆっくりすることにしているのですが、
この日だけは何を思ったのか、飛行機の便まで早めに取っていたのを
すっかり忘れ、ラウンジで青汁牛乳割りをのんびりと飲んでいるうちに
取った便は出発してしまっていました。

こんなこともあろうかと、変更可能なビジネス切符にしておいたので、
あわててその次の便の空席(最後の一席)に乗ったのですが、
この日の羽田は何があったのか大変な混雑で、出発が30分遅れる始末。

伊丹に着いて車を飛ばし、30分で阪神基地隊に到着しましたが、
基地正門では警衛の隊員さんに、

「今からですか」

と不思議そうに聞かれてしまいました。

到着したら、阪神基地隊司令寺田一佐の前に挨拶の列ができていたので、
様子を見てご挨拶しようと思いつつ、ふと脇のテーブルを見ると・・・、

今回は木下と臼を見ることすらできなかった餅つき大会の成果、
搗き立て餅の盛り合わせセットがありました。

受付で五千円(値上げしたっぽい)参加費を支払ったことでもあるし、
せめてお餅くらいはいただいてみようと写真を撮っていたら、
そんなわたしに声をかけてこられた方がおられます。

「あのー、ブログをやってらっしゃる方ですか」

当ブログ読者キタ━━━━━(゚∀゚;)━━━━━・・・・・????

さすがにこう同じようなことが起こると以前ほど動揺しなくなりましたが、
それにしてもなぜわかったのでしょうか。

「髪の毛が長くてカメラを持っておられるので・・・」

なるほどー。それはいいところに気がついたね。

声をかけてこられた方は水交会と自衛隊家族会の会員で、
やはり息子さんが海上自衛官。
名詞の裏側の写真は、カメラがご趣味の父上が撮った
息子さんのこれまで乗った艦と山岳写真でした。

肩にCanonのEOS を下げておられる方でしたが、当ブログに掲載している
写真を褒めて頂き、望外の喜びでした。(その辺全く期待していないので)

なんでも、当ブログに挙げた自衛隊活動写真に、息子さんが
通算3回も写っておられたということで、偶然とはいえ
そんなこともあるんだ、と驚いたものです。

また登山を趣味とされており、関西出身者なら一度は耳にしたことがある
「六甲縦走」(須磨浦公園から六甲尾根を丸一日縦走する登山コース)
を何回もなさっているという方だったので、そんなお話や、
自衛官の息子さんのお話を楽しく伺っているうちに、
あっという間にお開きの時間になってしまいました。

遅れてきたので誰だったのかわかりません。
政治家の先生の最後のごあいさつだけを拝聴しました。

盛会だったようで何よりです。

関西で行われる艦上セレプションでは食べ物がすぐなくなる、
と何度もネタにしてきましたが、艦上でない場合には
料理もたっぷり用意されているせいか、そのようなことはありません。

テーブルの上のお菓子をせっせとカバンに入れている人は見ましたが。

というわけで、帰りに基地司令、先任伍長らにご挨拶する以外は
一人の方とお話しするだけで終わってしまった行事でしたが、
楽しかったからヨシ!

阪神基地隊の庁舎は全面改装中でした。

ところで、最近伊丹空港のリニューアルが完成して、
飲食店が増えただけでなく、航空会社ラウンジもきれいになりました。

フリークェントカスタマーは専用のセキュリティゲートも使えるのですが、
わたしがアメリカから帰ってきてからというもの、このセキュリティが
やたら厳しくなって、コートはもちろんジャケット(カーディガン状のも)
まで脱げと要求され、ブーツは必ず脱がされるようになりました。

女性の場合、カーディガンの下がキャミソールだったりして
脱げないこともあるのですが、そういうと、全身くまなくボディタッチされ、
スリッパでぺたぺた歩かされるという辱めを受けます。

そんなことをしているのでセキュリティにやたら時間がかかり、
週末の朝など、プライオリティゲートですら長蛇の列ができています。

一度、ゲートの係員に

「何だか最近厳しいですね」

というと、国土交通省からの指導があったからだと答えました。
いったんそういうことになると、例外を認めず、長蛇の列ができようが
女性のカーディガンまで脱がせてきっちりやるのが日本の公的機関です。

年末年始の国内移動時はどんな地獄になることやら。

さて、阪神基地隊年末行事の次の日のこと。
夕方に帰宅したわたしは早々に就寝しました。
なぜなら、次の日、愛媛県松山空港に行く飛行機が
朝7時に出発するからです。

松山だったら神戸から行けば近かったんじゃね?
という説もありますが、飛行機の切符は片道で取ると
二回往復するより高くなるという不思議システムなので、
いったん家に帰るしかなかったのです。

昨日のような間違いを二度とすることのないように、
何度も出発時間を確かめ(笑)4時起きして空港には
1時間前に到着。

飛行機がタキシングしているとき、

「三興丸」

という、三興運油の運油船が航行しているのを見ました。

今回は珍しく窓際を選択したのですが、ラッキーなことに
雲のない晴天だったので写真を撮ってみました。
東京湾にかかるベイブリッジ、スカイツリーもはっきり見えます。

景色を見るために右側の席を予約しておきました。
晴れているとアルプス山脈(だと思う)がこんなに見えます。

まるで白い絨毯のような分厚い雲。

瀬戸内海上空に差し掛かりました。
たくさん島がありすぎて名前を特定することは不可能でしたが、
どうもこの島はリゾート開発でもしているようです。

島と島を結ぶ橋。

こんな景色を見るうちに松山空港に到着です。
本日の目的は愛媛県の西端に細長く伸びる角のような半島の
原子力発電所と同じ名前を持つ伊方町の三机です。

この名前をみて、すぐに歴史的な出来事を思い出すのは
一部の戦史に造詣の深い人だけに違いありません。

昭和16年12月8日、海軍のハワイ奇襲によって大東亜戦争が始まった日、
同時に5隻の特殊潜航艇による真珠湾攻撃が行われ、捕虜となった
酒巻中尉をのぞく九人の乗組員は、攻撃の翌年、大本営発表によって
全員戦死を遂げ、「九軍神」になったとされました。

ここ三机には昭和15年ごろから特殊潜航艇の訓練基地があり、
真珠湾突入の十人のほか、シドニー湾に突入した松尾敬宇大尉、
あるいはのちに「回天」の開発を行った黒木大尉といった若者たちが
この三机で極秘の訓練を受けるために滞在していました。

わたしは、毎年地元青年団が主宰する慰霊祭に深く関わってこられた
ある海上自衛隊OBの方にお誘いをいただき、今回初めて
12月8日の真珠湾突入日を命日として行われる九軍神の慰霊祭に
参加させていただくことになったのです。

松山空港から現地までは途中までしか鉄道の便がないので、
わたしは空港でレンタカーを借りることにしました。

「時間があれば瀬戸内海沿いの道を通ると風光明媚です」

と教えていただいていたのですが、レンタカーに乗って
ナビを入れると、到着予定時間が慰霊祭が終わった時間だったので、
風光明媚は諦めて高速道を選択しました。

高速を降りて197号線を走っていると、伊方到着直前、
いきなり「みかんの花が〜」のメロディが聴こえてきてビビリました。

「何だ今のは」

思いながら走っていると、「佐田岬メロディライン」という看板がありました。

車のタイヤと道路の振動でメロディが聞こえるような設置がされているのです。

佐田岬メロディライン R197 「みかんの花咲く丘」 愛媛県 伊方町 

道路に細かい溝が刻まれていて、一定の速度(50km)で走ると
その幅の違う溝が音程をつくり、メロディに聞こえるのだとか。

メロディラインには三曲が設定されているそうですが、行きに
一曲しか聴こえなかったのは、速度が50キロを超えていたのでしょう。

ナビの案内通り1時間半走って、指定時間まであと10分、
というとき、ちょうど車は山を越えて三机港を見下ろす道に出ました。

本当に小さな小さな漁村です。
特殊潜航艇の訓練が行われていた頃、三机村だったこの地は、
昭和30年に伊方町に統合されましたが、現在の人口も3千人くらいです。
地図で調べたところ、三机には小学校しかなく、中学校は山を越えたところに、
高校はどこが近いかわからないというくらいの過疎地です。

慰霊祭の主宰は青年団ということですが、こういう土地で
逆によく若い人が残っているものだと思ったりしました。

鉄道はいまでもありませんが、昔は海上交通が盛んでした。

待ち合わせに指定された「町民センター」に到着したのは 
ぴったり海軍5分前。
1時間半ドライブして、こんな正確に到着できたのも
英霊のお導きではないかとふと思ったりしました。

比較的近代的な(おそらく平成初期の建築)町民センターの向かいは
間違いなく九軍神がここに滞在していたころからあった民家。

町民センターの向かいのこの家は、松本旅館。
細部は改装を重ねていますが、躯体は当時のままだそうです。

こちらには特殊潜航艇の乗組員のうち、艇附であった下士官
(横山薫範、佐々木直吉、上田定、片山義雄、稲垣清兵)
が宿泊していたと後で聞いて驚きました。

そして、このて前から二軒目があの「岩宮旅館」です。
岩宮旅館には、隊長の岩佐直治大尉以下、横山正治中尉、
古野繁実中尉、広尾彰少尉、そして酒巻和男少尉ら
海軍兵学校卒の士官たちが宿泊していました。

慰霊祭の前、そして慰霊祭終了後の直会の後にも、
わたしたちは岩宮旅館の玄関にある資料を前に、
説明を伺うことができました。

岩宮旅館は戦後建て替えを行っていますが、
場所は全く同じで変わっていないそうです。

岩宮旅館の隣の家は開業医がいたらしく、
すっかり錆びた看板がまだ残されていました。

昭和15年に訓練が始まった頃には、1ヶ月おきにやってきて、
その度に1週間から10日ほど滞在していたそうですが、
日米開戦が近いと目されていた昭和16年の春からは、
両旅館に泊まりこみになったということです。

慰霊祭の時間が近づきました。
わたしは参加者の海自OBの方が乗ってきた車に乗せて頂き、
山上のドライブウェイから見えていた砂州のようなところにある
須賀公園の駐車場までやってきました。

ここから歩いて公園の奥まで行くと、そこが慰霊祭会場です。

例年慰霊祭は青年団が開催するため夕刻からの開始になるのですが、
今年は12月8日が週末だったため、昼に行われることになりました。

「かなり寒いので防寒対策をしっかり行ってください」

と脅かされて?いたのですが、思っていたほどの寒さはなく、
むしろ日差しが強くてじっとしていると暑いくらいです。

ただ、この公園に来てみると、風の強さには驚きました。

車を止めたところから慰霊碑まで歩いて行く途中に咲いていた小菊。
名前は知りませんが、供花にされる種類ではないでしょうか。

慰霊祭はこのあと12時から開始となりました。

 

続く。

 


希望の歌、喜びの歌〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

2019-12-18 | 自衛隊

 

令和元年度の自衛隊音楽まつり、自衛太鼓が終わると
その盛り上がりは最終章のフィナーレにつながっていきます。

その前に、これも音楽まつり恒例となった、演技支援隊の紹介があります。
大きな楽器の出し入れやステージ途中のセッティング、カラーガードが
使用する小物を手渡すなどという細々とした仕事も行います。

東部方面隊から選抜された隊員12名とそれを率いる隊長からなり、
会場のアナウンスでは、

「自衛隊在職中に一度あるか無いか。
ほとんどの自衛官は経験せずに過ごすこの機会を
自分の進化の糧として変換し、幕を閉じるまで
この音楽まつりの進行を支えてまいります」

と紹介されていました。

最終章のテーマは

「ディスティネーションー到達へのひびきー」

演技支援隊の敷いた赤い絨毯を指揮者がまっすぐに指揮台に向かい、
敬礼をすると、スポットライトには4名の奏者が浮かび上がりました。

曲はモーリス・ラヴェルの「ボレロ」
本来はヴィオラとチェロのピチカートとスネアドラムの刻む、

タン・タタタ・タン・タタタ・タンタン

の繰り返しから入るこの曲ですが、吹奏楽なので
ハープが弦楽器の代わりを行います。

そして、フルートがまずメロディを16章節奏でるのが原曲ですが、
本日のは8章節で別の楽器に交代するという変則アレンジです。

フルート、クラリネットときて原曲には無いユーフォニウム、
そしてトランペットに受け継がれていきます。

リズムの上に執拗にメロディが繰り返されるあいだ、
全部隊はボレロのリズムである三拍子で静かに行進し、
最初のフレーズがリピートされたときには整列を済ませていました。

それと同時に、第302保安警務中隊が音楽まつり参加各国の
国旗を掲げ、入場してきました。

国旗を持つ旗手は赤絨毯の上を、銃を携えた「ガード」は
その横を護衛する形で肩を並べ、進路の両側を
青と白の制服に身を包んだ儀仗隊に守られて歩いていきます。

後ろに見えるコンバス奏者は呉音楽隊からの出張だと思われます。

 

ところでわたしはこの4カ国の旗が入場するのを見るたびに、
4カ国のうち全てが、この旗の下にお互いかつて干戈を交えたことがある、
という事実に思い当たり、感慨を覚えずにはいられませんでした。
アメリカに至っては、他三ヶ国全てが「かつての敵国」です。

平和な時代に生まれるって本当に素晴らしいですね。

曲が盛り上がり、カラーガードがステージ前方に位置すると、
ちょうどそのとき曲は転調し、エンディングへと向かいます。
もちろんステージ用に短くアレンジしてあります。

そのとき、音楽隊以外の全部隊(自衛太鼓、カラーガード、防大儀仗隊)
などが速足で入場してきて、音楽隊の周りに整列しました。

始まる前、どうして太鼓があるのだろう、と思っていたのですが、
このときに謎が解けました。
ラスト4小節、ハ長調に戻ってクライマックスを迎えるところで、
銅鑼とともに自衛太鼓が演奏に加わったのです。

全部で5打、トゥッティ(総員演奏)の大音量の中で
二台の大太鼓の音ははっきりとその存在を主張し、
視覚的にも音楽的にも目を見張るような効果となりました。

そして、このとき、防大儀仗隊の列員が銃を構えています。

ラストサウンドを振り終わった指揮者が、挙げた両手のうち
左手だけをさっと振り下ろすと、儀仗隊の銃が号砲を発射。

銃声は一斉にというわけではなく、
「パパパーン」という感じで三音聴こえてきました。

しかし、この写真を見ると、全部が空包入りではなく、
もしかしたら弾が入っているのは一人置きで、あとは
文字通りの「エア撃ち」なのか?という疑問がわきますね(笑)

「ボレロ」への拍手が止むと「喜びの歌」のメロディが始まりました。
いわずと知れたベートーヴェンの第9交響曲「合唱」の第四楽章です。

今回は何かとベートーヴェンづいていますが、その理由として
ドイツの軍楽隊を招聘するということがあったのでしょうか。

そこで自衛隊の歌手が出場です。
ただし、メロディは「喜びの歌」でも、これはクラシックの人がよく知っている

「♫フロイデ シェーネル グッテル フンケン トフテル アウス エリージウーム」

というあれではなく、

「希望の歌~交響曲第九番~」FULL

という、藤澤ノリマサの曲です。

藤澤バージョンのオリジナル出だしを歌うのは、海自東京音楽隊の男性歌手。
9小節目からは同隊歌手の中川三曹がこれに絡みます。

そのとき、ステージ後方には空自の歌手がペアで。

陸自のペアも後ろでサビの部分(喜びの歌のメロディ)を歌います。

「あなたが笑顔でいられるように みんなが笑顔でいられるように」

日本語にしてみると、なんてこのメロディにぴったりの歌詞なんだろう、
とそのハマり具合には感心せずにはいられません。

どちらかというと日本語歌詞の

「晴たる青空 漂う雲よ 小鳥は歌えり 林に森に」

よりも、なんというか言葉が人ごとではない感じがあります。

演奏をしない部隊は決められた振り付けでステップ踏みながら拍手。

ワンコーラス終わると、後ろにいた空自ペアが前に出てきて二人で歌います。

管楽器奏者は普通に歌が上手い人が多いので、
音楽まつりの歌手も人材に事欠きません。

男性歌手、みなさん本業ではないにもかかわらず大変お上手です。

海自の二人はその間後方にお目見え。

そして陸自の二人が引きついで2コーラス目の最後を。
その間彫刻のように身動ぎもせず立ち続ける302。
「ボレロ」で行進してきて、音楽が止まった時に立ち止まってから
一度も整列し直していないにもかかわらず列に全く乱れがありません。

恐るべし第302保安警務中隊。

ほとんどの人が笑顔なので見ていてこちらが嬉しい。
「エガオノチカラ」です。

どさくさに紛れて? ハイファイブしている人たちもいるよ。

3コーラス目は歌手六人全員で熱唱。
東京音楽隊の中川三曹は得意のハイトーンでオブリガードを。

今年の男性歌手は体型と背丈がわりと揃っていますね。
三人でコーラスグループ(名前は”J’s-ジエイズ-”とかね)組めそう(笑)

カラーガードと自衛太鼓が交互に並んでいます。

最終章の指揮を行うは海上自衛隊東京音楽隊長、
樋口好雄二等海佐。

先般の即位礼に伴う国民祭典では自衛隊音楽隊が大活躍でしたが、
黛敏郎の作曲した「黎明」を指揮したのは陸自中央音楽隊の
樋口孝博一佐、そしてこちらの樋口好雄二佐がファンファーレを指揮しました。

また、そのときの陸海空合同音楽隊での「威風堂々」の指揮は
空自中央音楽隊長松井徹生二等空佐でした。

「希望の歌」が感動のうちに終わりました。

楽器を持っていない人は両手を大きく振って・・。

全出場部隊の退場曲が始まりました。

「君が代行進曲」です。

両手バイバイで退場していく出演部隊。
手前の陸自隊員は「千本桜」のボイスパーカッション奏者じゃないかな?

全員がはけて暗くなった会場に、ピアノの音が流れました。
「ベートーヴェンコラージュ」で演奏した太田沙和子一等海曹です。

東京音楽隊の歌手、中川真梨子三等海曹が歌う
「瑠璃色の地球」が始まりました。

このとき会場のスクリーンに映し出されていたのがこの映像。
この組み合わせにグッときて熱いものがこみ上げてきたわたしです。

暗い会場に蛍のような光が舞い、スクリーンに映し出された
銀河系の映像と相まってうっとりするような効果を醸し出していました。

歌が続く中、最終章の指揮を行った樋口二佐が赤絨毯をまっすぐ歩み・・、

最後のピアノの音と同時に静かに敬礼を行いました。
この瞬間音楽まつりは終了します。

代々木体育館の会場入退場は、二つの入退場口から一方通行で行います。
その点武道館よりも人の流れがスムーズに行われるのですが、
箱が大きいだけに入場者数も大幅に増やしたらしく、
終わってから体育館を出るまでが大変でした。

ようやく会場の端までたどりついたとき、演技支援隊が
これからお仕事らしく整列しているのが見えました。
真ん中に立っているメガネの隊員が確か隊長だったと記憶します。

最後に紹介されていた隊員は全員ではなかったんですね。

最後にフロアをのぞいてみたら、赤絨毯にカーペットクリーナーをかけてました。

最初の日、体育館の外に出た人たちは皆、NHK通りのイルミネーション、
「青の洞窟」のブルーの灯に歓声をあげていました。

今回縁あってここ代々木で自衛隊の奏でる音楽に酔いしれた人々にとって、
イルミネーションでブルーに輝く並木は、
令和最初の音楽まつりを
思い出深く彩る最高の舞台装置となったに違いありません。

 

 

終わり。

 


炎輪(えんりん)〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

2019-12-16 | 自衛隊

防大儀仗隊の演奏が終わると、音楽まつり名物、自衛太鼓です。
ところでこのとき、アナウンスで英語の「自衛太鼓」のことを

「Japan Self-Defense Force Japanese ナントカ」

と言っていたのですが、「ナントカ」」は「ドラム」ではありませんでした。
聞き取れなかったので気になって仕方がないのですが、
どなたかここが聞き取れた方、ご教示いただければ幸いです。

参加はこれまでの音楽まつり史上最高となる15チーム、総勢250名。

去年の音楽まつりで、開場を待つ列の前に自衛太鼓のOBだったという方がいて、
その方から自衛太鼓の選抜方法や練習について色々とお聞きしたものですが、
そのときに一番驚いたのは、陸自の場合多くの駐屯地がチームを持っていて、
音楽まつりに出られるのは選抜された一部だけだということです。

しかし今年はフロア面積がほぼ二倍?くらいの代々木体育館になり、
出演できるチーム数が増えたので、毎年当落の知らせに一喜一憂する
「ボーダライン」のチームにとっては
朗報となったことでしょう。

今年の自衛太鼓のテーマは「炎輪」(えんりん)。
文字通り炎のように激しく燃え上がる太鼓の輪を意味します。

自衛隊には実に多岐にわたる職業がありますが、このテーマを考える人と、
艦艇の名前(特に潜水艦)を考える人は大変だろうなといつも思います。

自分の考えた言葉が大々的に広報されることになるので、
どちらも大変やりがいがあるでしょうけれど。

早速最初の「炎輪」が中央に形成され、演舞が始まりました。

予行演習でわたしのとなりにいた女性たちは、初めてらしく、
大音響と振動ににびっくりしていましたが、わたしは、武道館での、
あの建物全体が震え上がるような、地鳴りのなかに体を埋めているような
異世界的体験を思うと、明らかに別物に感じられました。

ただ、こちらの会場での自衛太鼓が良くなかったというわけではありません。
広い会場を得て出演チームを増やした今回の自衛太鼓は、
もし今後こちらでの公演が継続されれば、さらなる進化を遂げるだろうという
予感を感じさせるに十分なものでした。

真ん中にできた一つの輪の周りに、両側に見えるように太鼓が並んで
「どどんど ・どどんど・ どんどんどん」
という連打から始まります。

出演各チームが工夫を凝らしたユニフォームで登場しますが、
これらの活動は自衛隊の任務とは全く関係がないので、
ユニフォームや太鼓などを調達する資金も自分たちで補っているはず。
(たまに地元の篤志家の寄付という例もあるかもしれませんが)

全体で叩いていると、観客席からはほとんど見えませんが、
写真を撮ってみると、こんなことしてたんだとわかることがあります。

連打の合間にバチをくるっと宙で回転させています。

演舞にはときどき全員による「やあー!」という掛け声が入ります。
自衛官というのは日頃から大きな声で話す訓練を受けているのに、
その声の大きなひとりひとりが腹の底から声を上げるのです。

現在女性自衛官は自衛官全体の10%だそうですが、自衛太鼓においても
ほぼ同じ割合で
女性奏者の姿を見ることができます。

平常の勤務では後ろで小さくお団子にしている髪を、ステージでは
和風のまとめ髪にして櫛をあしらっているのが艶やかです。

こちらの女性自衛官も、ユニフォームに合わせて”くのいち”風ヘアで。

去年伺った話によると、チームが音楽まつりに選ばれても、万が一
一人の隊員が不祥事を起こしたら、即出場停止だそうです。
音楽まつりは「自衛太鼓の甲子園」である所以です。

最初のパートが終了すると、小太鼓の連打が続く中、
配置転換が行われます。

最初の輪の周りにあっという間に小太鼓で二つの輪が形成され、
三つの輪が並びました。

今年のテーマの「輪」という文字はここから生まれたのでしょう。

大太鼓はその両側に文字通り「ドラムライン」を形成します。

5つのチームごとに一つの輪が形成されている状態。
炎がたぎるような演舞を続けている三つの輪の中に
各チーム名を記したのぼりが立てられました。

「やあー!」

という全員の一声をもってこのパートが終了すると、
次からは
恒例の各チームごとの演舞になります。

最初は熊本西特連太鼓

熊本市にある西部方面特科連隊(野戦特科部隊)に所属するチームです。
西部方面隊唯一のFH-70を装備する部隊だとか。

同部隊は2018年の再編まで第8特科連隊といい、太鼓チームは
「熊本八特太鼓」という名称だったそうですが、部隊新編のため
「熊本西特連太鼓」と改称しました。

「八戸陣太鼓」

は陸上自衛隊八戸駐屯地に所属するチームで、音楽まつり常連の一つです。

八戸駐屯地は第4地対艦ミサイル連隊、対戦車ヘリ隊などが所属する
陸上自衛隊の駐屯地です。
海上自衛隊八戸基地とは滑走路を挟んで向かい合っています。

ここも常連チーム、朝霞振武太鼓
練馬、朝霞市、和光市、新座市の全てにまたがる朝霞駐屯地の所属です。
陸自の観閲式はいつもここの訓練場で行われるのでご存知の方も多いでしょう。

観閲式のあとは必ず朝霞振武太鼓の演舞が披露されます。

千歳機甲太鼓は、千歳にある第11普通科連隊所属でです。
この駐屯地に太鼓が誕生したのは昭和62(1987)年のことで、
当時の師団長の発案だったということです。

HPを是非見ていただきたいのですが、さすが北海道のチーム、
雪と氷に囲まれてノースリーブで演奏という無茶をしまくっています。
(しかも夜まで・・)

わたしの記憶ではここ何年かで初めての出場だった気が。
山口維新太鼓は第17普通連隊に所属するチームです。

かつては陸軍の駐屯地だった同駐屯地の歴史を見ると
「日露戦争出兵」から始まっていてなかなか感慨深いです。

ところでこの維新太鼓を調べていて知ったのですが、
山口には航空自衛隊の「防府天陣太鼓」そしてなんと、海自の
「関門太鼓」なる海空太鼓チームが事実上存在していて、
この維新太鼓と三隊
合同で演奏することもあるらしいのです。

海自に太鼓がない理由は「陸にいないから」だと思っていましたが、
考えたら陸上勤務のメンバーだっているわけだし、あってもおかしくないですね。

調べていたら、この海自関門太鼓は下関基地隊所属で、

オリジナル太鼓衣装「ドドーン」

という会社で衣装をおあつらえしていたことが判明しました。
「山口維新太鼓様」もここのお客様のようです。

太鼓着の背中には「雲海」と書かれています。

滝ヶ原雲海太鼓は富士総合火力演習、通称総火演でお馴染み
静岡県御殿場の駐屯地で、ここには防衛大臣直下の部隊、富士学校、
そして航空学校などと、東部方面隊隷下の東部方面航空隊などがあります。

駐屯地としての規模が大変大きいため、太鼓に参加する人数も多く、
それが常連チームであり続ける理由でしょう。

そういえば、音楽まつり出場全チームは、御殿場で本番前の総練習をする、
と去年のOB氏が言っていた記憶がありなす。

駐屯地が大規模なので、全部隊を収容する入れ物にも事欠かないのかもしれません。

「さつまかわうちえんじだいこ」と読んでしまいましたが、「川内」は
じつは「せんだい」だったことを調べて初めて知りました。
薩摩川内焔児太鼓の所属は陸上自衛隊川内駐屯地(鹿児島県薩摩川内)。

ところで画面の右上をご覧ください。
出番を待つ奏者たちは、皆四つん這いでじっと顔を伏せています。

陸自川内駐屯地は陸自第8施設大隊の根拠地なので、主要装備が
地雷原爆破装置だったりドーザだったりします。
おっと、あの機動支援橋もありまっせ。

船岡さくら太鼓が所属する宮城県柴田郡の船岡駐屯地も、
主要部隊は第二施設隊と後方支援の部隊だそうです。

グリーンとオレンジのユニフォームも毎年お馴染みの、
北富士天王太鼓

北富士駐屯地は山梨県にあって、第1特科隊などが駐屯する部隊です。

背中に描かれた五重塔ははもちろんその名の通り善通寺のはず。
善通寺十五連太鼓
香川県の善通寺駐屯地に駐屯する第15普通科連隊なので「十五連」です。

善通寺駐屯地は陸自の呉地方総監部みたいな感じで、
陸軍時代の建物が保存されており、一部は史料館として公開されています。

同駐屯地は陸軍時代から四国地方における最大・最重要駐屯地とされ、
さらには近い将来発生が予想される南海トラフ大地震の際の最重要地域でもあるので、
近い将来に施設の近代化や、拠点としての機能拡大を行う予定だそうです。

滝川しぶき太鼓は陸自滝川駐屯地の所属チームです。
ちなみにこれも「たきがわ」(それはクリステル)ではなく、
「たきかわ」と読まなくてはいけないそうです。

北海道の滝川という、よそ者にはどこにあるのか見当もつかないところから、
一年に一度の音楽まつりに選抜されて参加してきました。

滝川駐屯地には第10即応機動連隊が駐屯します。
即応機動連隊とはなんぞや?ということからしてよくわかりませんが、
多分、いろいろ装備を取り揃えていて、一つの駐屯地で全てが完結する
パッケージ的駐屯地なんだと思います。(違っていたらすみません)

長野県松本駐屯地の松本アルプス太鼓
松本駐屯地は長野県に唯一存在する自衛隊です。
第13普通科連隊などが駐屯していて、広い範囲をここだけでカバーするため、
山岳の活動に強い精強部隊として知られているということです。

陸自ばかりの自衛太鼓の中で数少ない空自部隊太鼓、
航空自衛隊入間基地の入間修武太鼓、今年も出場です。

いつも小さい鐘や篳篥、踊りを加え軽妙な単独演舞を行うチーム。
必ずこんな女性が混じっているのも空自らしさとでも言いましょうか。

一昨年の航空祭の見学にいったので、今ならどこにあるかわかる。
(関西の人間には芦屋と言うと兵庫県芦屋しか思いつかない)
そう、福岡は遠賀郡芦屋基地の「太鼓隊」(こう呼ぶらしい)
芦屋祇園太鼓

おっと、最後に空自の太鼓チームがふたつも続きましたね。

ここも女性が目立ち、さらに単独演舞に軽妙さと楽しさが感じられます。
太鼓にも一般人でもわかる「陸自らしさ」「空自らしさ」があるものです。

さて、単独演奏のトリを取るのは北海自衛太鼓と決まっています。
その理由は、北海自衛太鼓が自衛太鼓の「祖」だからです。

自衛太鼓発祥の歴史については去年詳しく書きましたので、
ご興味がおありの方はこちらをご覧ください。

自衛太鼓 彼らは如何にしてここまで来たか

良く見ると三人一組でまるで千手観音みたいなことをやっていました。

北海自衛太鼓は 陸自幌別駐屯地に所属する太鼓隊です。
幌別駐屯地は室蘭港にも近く、海自との関係もある陸自駐屯地で、
所在地は登別。

前にも書きましたが、自衛太鼓の出演チームは、ここに指導を受けるため
代表を一人送り込んで演技を体に叩き込み、原隊にそれを指導します。

1チームごとの単独演舞が終わったら、いよいよフィナーレです。
全太鼓チームが一体となって叩く太鼓の音は、今回
代々木体育館の遥か外で待っている者の耳にも届いてきました。

広いフロアにくまなく人員を配置しての総員演舞です。

武道館のように身体全体が太鼓の響きに包まれるような臨場感こそありませんが、
過去最大の参加人数による演舞は、太鼓という楽器の持つ力によって
プリミティブな感覚が揺さぶられるような感動と興奮を誘いました。

さて、第三章の「ジェネレーション」と自衛太鼓の関係付けについてです。
これだけたくさんの自衛官が出場するとなると、出演している年齢層は広く、

下は18歳、上は53歳。

今回の出演者の中には父子で参加している例もあるのだとか。
そう、これぞまさに「ジェネレーション」を超越して奏でる一つの音です。

太鼓指導は北海自衛太鼓のリーダー、高橋直保陸曹長。

高橋陸曹長はリーダーになって三年目となります。
自衛隊音楽まつりで自衛太鼓が演じる曲を作曲?するのは、
実はこの北海太鼓のリーダーの責務となっているのです。

そして、自分で作った曲を、音楽まつり参加チームに伝達し、
実技を指導し、音楽まつりの本番で自衛太鼓を成功させるまでが仕事です。

この責任ある北海太鼓リーダーの任務は、退官するその日まで続きます。

 

 

続く。

 


波〜令和元年 自衛隊音楽まつり

2019-12-15 | 音楽

自衛隊音楽まつりの第三章が始まりました。
テーマは、

「ジェネレーションー世代を超えてー」

第一章の「インセプション」から「トラディション」「イクスパンション」
ときて、「最後にションの付くシリーズ」ということでこの選択です。

「開始」「伝統」「増大」ときての「世代」ですから、ここだけ状態を表すものではなく、
おそらくこの企画をした人は防大儀仗隊と自衛太鼓のステージに
どんな「ション」が当てはまるのか、少し苦労なさったのではないかと思われます。

自衛太鼓が「世代」というテーマを名付けられたわけはのちに判明しますが、
防大技状態の始まりに、世代を超えて受け継がれているあるものが登場しました。

先ほどのステージで演奏をしていたトランペット奏者が、

♫ドードソードミーミドーミ ソーソミードソーソソー

♫ドードソードミーミドーミ ソーソドーミソーソソー

と「起床ラッパ」のメロディを演奏しました。

「自衛隊の朝を知らせる起床ラッパ。
この起床ラッパは、自衛官と、まだ学生という組織の違いはあれど、
防衛大学校においても、同時刻、同内容にて構内になり渡ります。

そして、自衛官未満である彼ら、彼女らは、次の世代の国防を担うという
重要な使命のもと、幹部自衛官になるための育成期間を過ごしています。

世代を超えて受け継ぎ、発揮される若き力。
防衛大学校技状態によるファンシードリルです!」

なるほど、ジェネレーションと銘打ったので、ラッパを関連づけたのね。

さて、今回、公演と公演の間にも外で練習している様子、そして
最終日の早朝に会場でウォーミングアップしている様子を目撃し、
彼らが寸暇を惜しんで練習を行っていることを知りました。

本番で失敗なく見せる彼らのドリルが、不断の努力の上にあることに
いまさらながら感心させられたものです。

防衛大学校の生活は、防大漫画「あおざくら」に見るまでもなく、
大変ハードなものだということですが、彼らは主人公の近藤くんのように
課業と役職をこなしながら、課外活動でさらにこれほどの研鑽を積んでいるのです。

世の中に楽な道はいくらでもあるというのに、あえてこのような学生生活を選び、
自衛隊指揮官を目指している若い人たちがいるのだと知ることは、
国民のひとりとして感謝に絶えません。

さて、今回場所が従来の武道館より広くなったわけですが、
儀仗隊の人数は20名プラス打楽器隊と従来と同じです。

それではフォーメーションに変化があるのでしょうか。
そんなことも楽しみにしながら観覧しました。

 あまりに動きがシンクロしているせいで遠目にはわかりませんが、
今年もメンバーの中には女性隊員が混じっています。

最初の敬礼した状態から二列に分かれ、それがX字となる。
このフォーメーションは去年と同じではないかと思われます。
演技はいつも同じことをするのではなく、少しずつ変わるようですが、
基本的なやることはだいたい毎年定型にのっとっているようです。

袖に桜のマークが三つ付いているのは最上級生の4年です。
やはり3年4年とやっている者の練度が高いので、音楽まつりには
上級生がほとんどを占めるようですが、1年2年も出ないわけではないそうです。

二軍三軍ができるほどの隊員数もいないってことなんでしょうか。

X字がダイヤモンド型になり、さらにもう一度、と目まぐるしくチェンジします。

手袋をつけるのは素手だと擦れて痛いし手が傷つくから、ということですが、
素手より銃を滑らせて取り落とす確率が増えるとおもいます。
儀仗隊員は最初から手袋着用で、手袋が第二の皮膚のように思えるまで
練習を繰り返すのでしょう。

自衛隊音楽まつりのDVDを作成している会社のカメラマンでしょうか。
今回は会場が広いので、カメラも数台出撃させたかもしれません。

今年出演している学年は4年生が64期で、以下65、66、67期となります。
もっとも自衛官は防大の卒業年次ではなく、幹部候補生学校の卒業年次を公称するようですが。

横から見たら「<<」のようなフォーメーションは、去年はしなかった記憶があります。
これは、くの字の二列隊形が歩み寄ってすれ違う瞬間ですが、
ぶつかる直前に体を横にかわしてまた元の直線状の進路に戻るという、
簡単そうで実は結構難しいんじゃないかと思われる動きをしています。

この交差も新しい技だと思われます。

今年この陣形が加わったのは、会場が代々木になったからでしょう。
儀仗隊の演技は、客席の両側どちらから見ても正面が見えるように
その点を考慮してフォーメーションを組んでいました。

ウェーブのように動きを列の端から時差で行うことを、
儀仗隊ではどうやら「波」と呼んでいることがわかりました。

ちなみに、去年「HPがいつまでも鋭意工事中だった」と書いたのですが、
たった今見に行ったらリニューアルされていました。

防衛大学校儀仗隊HP

隊長の挨拶は音楽まつり以降にアップされたもののようです。

これによると、儀仗隊の創設は1955(昭和30)年。
その頃の儀仗隊員は、今の隊員たちのお爺さん世代にあたります。
親子二代で儀仗隊員、もしかしたら親子三代で、という例も
あったかもしれませんし、これからもあるかもしれません。

これぞ本当の「ジェネレーション」を超えて受け継がれる伝統です。

先日、自衛官の集まり(一佐以上海将補以下)に混じって話をしていたら、
その世代の少なくない自衛官のジュニアが防大やあるいはもう部隊にいて、

「あいつの息子はお父さんより出来がいい」

「わたしの息子もどうやらわたしより出世しそうです」

とかいう話で盛り上がりました。

先日練習艦隊帰国行事でお会いした新幹部の父上も自衛官でしたが、
家業でもないのに父親の働く背中を見て自分もやってみたいと思う例が
思っているより多いのにちょっと驚いたものです。

今回、比較的近かった二日目の貴賓席からの写真です。
本体はブレず、銃だけが動きのある画像が撮れてなかなか嬉しいです。

今回レンズは1日目は28−300mmでしたが、思ったより被写体が遠かったので、
二日目は70−300mm一本で(ニコン1の広角と両持ち)がんばりました。

ハイアマチュアの知人が盛んにレンズ沼に足をひっぱろうと、

「そろそろ400買いませんか」

と囁いてくるのですが、いくらなんでも、ねえ。
(でもそういえば総火演も400があればいいよね、とか考えて
中古の値段を調べてしまったわたしである)

銃を回すとき、完璧に手から銃が離れている瞬間があるんですよね。

防大儀仗隊ホームページによると、音楽まつり後、新体制での休日練習始めは雨だったそうです。
雨が降ったら銃を用いずに歩く練習を重点的に行う模様。

全員が横一列に並びました。

今年のパーカッションにも女性が4名いると思われます。
去年も女性が多かった記憶がありますが、ここまでではなかったかと。

そうそう、女性で思い出しましたが、ついにイージス艦の艦長に
女性が就任しましたね。

女性初のイージス艦長が就任

unknownさんが早々に教えてくれましたし、
先日、ある旧軍軍人の慰霊祭に行ったところ、そこにいた海自OBが、
このことを話題にしていてわたしもそれを聞きました。

「みょうこう」もこんなのにしなくては・・・!

今回、防大儀仗隊の公式ツィッターで、このように横一列で
左から右に、右から左に技を時差で繰り出していくウェーブ状態を
そのものずばりで「波」という技名がつけられていることを知りました。

銃を回す技が左から送られてくると、最右に立っている隊員は、敬礼しながら
左手で銃を回し続け、ぐるりと会場を見回します。

これにはいつも会場はどっと受けるのですが、今回、最終日に
わたしの横の招待席に座っていたアメリカ軍人らしい人が、
これを見ながら目を輝かせて喜んでいるのを目撃しました。

アナポリスやウェストポイントでこんな儀仗隊があるというのは
聞いたことがないので、純粋に珍しいのかもしれません。

ちなみに、防大で「校友活動」(でしたっけ)と呼ばれるところの
課外部活動を、アメリカのウェストポイントでは

「マッカーサータイム」

と呼ぶそうです。
ウェストポイントの見学しかしたことがないので海軍は知りません。

「波」で彼らが順番に銃床を床につけていくとき、その音が
だらららららっ!
と規則正しく聴こえてきてそれがまるでドラムのようです。

「波」のフィニッシュは銃の投げ上げ。
正面から見て左端の隊員が、銃を思いっきり高く投げ上げます。
投げ上げながらその場垂直飛び。

銃が落ちてくるのを待つ間の彼の姿勢をご覧ください。
ちゃんと手をグーに握っています。
さすがは自衛官。

しかもギリギリまで手を出さないという。

ちなみに去年はこの「波」の陣形は馬蹄形となっていました。
今年は広い会場なのでまっすぐ横一列です。

最後は二列に向かい合った隊員が互いに銃を投げ渡す中、
隊長がその中を歩いていく「蹴り渡せ」です。

多少のプログラムの変化はあっても、必ずこれは最後に行われます。

去年までわたしはこれを「銃くぐり」と勝手に名前をつけていましたが、
去年正式な(これが正式なのだとしたら)名称を教えてもらいました。

去年は「蹴り渡せ」の「蹴り」がいまいち理解できなかったのですが、
今年ははっきりとわかりました。
この写真を見ていただければお分かりのように、銃を投げる前に
必ず足を蹴るように前に出しているのです。

つまり「蹴り」、そしてその後「渡せ」です。

列員のなかで便宜的に使われてきた名称で、こんなふうに大々的に
外の人に言われることを想定していなかったのだと思われます。

上手い「渡せ」をする二人の時には、銃がこんなきれいに並びます。

隊長が通る寸前に一回、そして通り過ぎてからもう一回。
これで元の自分の銃になります。

去年コメントにいただいた話によると、この技はやはり決して簡単ではなく、
隊長は一回踏み出すと、戻ることができませんし、(そらそうだ)
たとえば手元が狂ったり隊長が何かでつまづいただけでも3キロ近い銃が
顔を直撃することになり、かなり緊張する技なのだそうです。

最後に行われるだけに一番の見せ場でもあります。

それから、防大HPで知ったことですが、4年生の「退団」は12月1日。
つまり音楽まつり最終日なのです。

隊長はもちろん、出演している最上級生はこの日の演技をもって
防衛大学校で最後の儀仗を終えることになります。

毎年のようにこの瞬間を撮っていますが、彼らの裡は
最後に迫った儀仗隊列員生活に対する感慨とともに、
悔いなく最後までやり遂げようという強い意志で満たされているのでしょう。

今回も完璧に全ての演技をミスなしで終えました。
最後は全員が銃を回しながらの敬礼。
隊長は抜刀して剣の敬礼です。

大太鼓は右手で敬礼。シンバルは右手が空かないので頭中。

隊長とドラムメジャーの二人だけが、鍔飾りのある帽子を着用できます。

指揮は田中優基学生、ドラムメジャーは東瀬滉一学生でした。
四年間お疲れ様でした。

防大儀仗隊のファンシードリル、今年も三回とも素晴らしい出来でした。

さて、「ジェネレーション」の2番目は自衛太鼓です。

 

 

続く。


打ち上げ花火〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

2019-12-14 | 音楽

 航空中央音楽隊の演奏をもって、全音楽隊のステージが終了しました。

真っ暗な会場の一隅からドラムの音が響きわたり、会場は
スポットライトに照らされた音のする方を注目します。

バルコニーのようになった部分には陸自中央音楽隊の打楽器陣が
まるで戦いを挑むかのようにドラムを連打していました。

それが終了すると、別の一隅から海自東京音楽隊の打楽器が
呼応するように聴こえてきます。

これは面白い。陸海「ドラム合戦」です。
ドラム合戦といえば思い出すのは「嵐を呼ぶ男」ですね。(わたしだけ?)
石原裕次郎演じる主人公が敵役のチャーリー(笈田敏夫)と、
交互にドラムを叩いてやっておりましたね。ドラム合戦。

左手を怪我していた裕次郎が痛みに顔を歪めるとニヤリと笈田が笑ったり、
苦し紛れに裕次郎がスティックを右だけで持って、

「♬オイラはドラマー ヤクザなドラマー」

と歌うとなぜか試合に勝ててしまうという展開に大いに笑わせてもらったもんです。

というのは余談もいいところですが、このドラム隊、
長方形の会場の対角線上に位置していたため、音は聴こえても

どこにいるのかわからないという人も多かったと思われます。

わたしも予行演習の初日、陸自は後ろから二人が見えただけ、
海自は大きなスクリーンに隠れて全く見えませんでした。

陸海ともに独自性を出していて、陸の叩き方はまるでドラムを叩く人形のような。
いつもスティックが地面と平行になっている感じの奏法です。
ところで今この画像を見て初めて気付いたんですが、後ろには北部方面音楽隊もいます。

海自は頭を深々と下げ、スティックを縦にして。
応酬が一頻り済むと、(位置が遠いので難しかったと思いますが)
両者が同時に演奏を行いました。

さて、またしても唐突にこの日行われていた航空祭の写真です。

わたしの知り合いは、音楽まつり常連ですが、日にちが重なった今回、
百里基地を選んだ理由をこう言っていたそうです。

「ファントムが飛ぶのを見られるのはおそらくこれが最後だから・・」

アメリカの航空博物館に行くとすっかり過去のヴェテラン機として
長いことお疲れ様状態で展示されているところのF-4ですが、
我が航空自衛隊では
アップデートにアップデートを重ね、今日まで現役でした。

随分前からもう最後といわれてきましたが、今回は本当に最後の展示となります。

このシャークペイント、アメリカでよく見るタイプです。
でも明らかにペイントが日本の方が丁寧でキマッています。
向こうのは時々シャークの顔がヘンだったりするんですよね。

空自大サービス、各種ペイントを施してのサヨナラフライトでした。

ファイナルイヤー塗装(赤い鷲)のF-4。
長い間お疲れさまでした!

さて。

暗い会場にスポットライトが浮かび上がらせたのは、
陸自の迷彩服を着た隊員の姿です。

自分が座っている木の箱を打ち鳴らし始めました。

この木の箱は「カホン」という打楽器で、このように座って叩くのが正式です。
跨って演奏するのがペルー式カホンだそうです。

カホンのリズムにピアノのイントロが絡んで始まった曲は
米津玄師の「打ち上げ花火」

DAOKO × 米津玄師『打上花火』MUSIC VIDEO

アニメが素晴らしいですね。
風景の美しさに見入ってしまいました。

出だしのメロディを海自のサックス奏者が取ると、陸自がそれを受け継ぎ、
ワンコーラスだけの演奏が行われます。

と思ったら、アニメ「天気の子」の挿入歌、RADWINPS
「愛にできることはまだあるかい」のメロディをベトナム人民軍が演奏しながら登場。

愛にできることはまだあるかい

RADWINPSといえば、「HINOMARU」という曲で左翼(と自称する日本嫌い)
に非難轟々だったという事件を思い出しますが、彼らはすでに
そんな炎上などなんの瑕疵にもならないくらいの評価を築いています。

反対側からはドイツ連邦軍の女性奏者が吹きながら輪に加わります。

ソロを受け渡しながらカホン奏者を中心に四重の輪ができました。

曲は同じRADWINPSの「グランドエスケープ」にかわりました。

【天気の子】グランドエスケープ(RADWIMPS) / めありーfeat.カタムチ cover

そういう効果を狙ったのかもしれませんが、このステージの三曲は
どれもよく似た曲調で、全く知らない人には違いがわからないかもしれません。

というより、三曲のYouTubeを見ればおわかりのように、本ステージの曲は
全てアニメの挿入歌から選ばれているのです。

いまや日本独特の文化として世界に認知されているアニメの曲を
外国バンドを加えた全員で演奏するということがテーマだったのでしょう。


曲を変えながら人の輪は一つ、二つと増えていき、最終的に7重にまでなりました。

これが入場して輪を形作っている時の楽器の持ち方基本形。
ところで一番後ろのクラリネット奏者のズボンにはなぜラインがないんだろう。

ちなみに彼らの階級は前から伍長(コーポラル)、軍曹(サージャント)、
一等兵(プライヴェート・ファーストクラス)で、真ん中の女性が最先任です。

 「グランドエスケープ」の

♬ 夢に僕らで帆を張って 来るべき日のために夜を超え
いざ期待だけ満タンで あとはどうにかなるさと肩を組んだ

の部分をアカペラで全員で歌うという趣向です。

会場に拍手を求め、歌える人は歌ってね、みたいなひととき。
ただしここの部分、外国招待バンドの隊員さんたちには歌えないと思うのですが、

ほんのたまーにいるんだよ。一緒に歌っている人が。
ドイツ連邦軍のこの人は、偶然口を開けていただけかもしれませんが、
在日米軍の中には真面目に紙を見ながら歌ってる人もいるのでびっくりです。

駐日しているうちに日本語が堪能になったとか?奥さんが日本人とか?
音楽家は耳がいいので歌詞くらいなら覚えて歌えてしまう人もいるのかも。

ついドイツ連邦軍の皆さんはこの場を楽しんでいるかしら?
と、わたしは目で追ってしまうのでした。

謹厳なドイツ人にはこういうのって肌に合わないんじゃないかと・・・。

あ、よかった。問題なく楽しんでおられるようです。

初めての日本での公演、彼らにとって、いい思い出になればいいですね。

あと、ベトナム人民軍参謀部儀礼団軍楽隊の皆さんは、この出演を糧として、
他の軍楽隊のステージパフォーマンスからいい刺激を受け、さらなる発展をして欲しいです。

アメリカ陸軍軍楽隊には何もいうことはございません。
どんなときでもその場の空気を読んで盛り上げてくれます。

というか、彼ら自身が本当に楽しんで音楽をやっているって感じ。

そのあと、一瞬会場が静かになり、「ひゅう〜〜〜〜」と音がしました。
会場の全楽隊が手をかざして上を見上げると、スクリーンでは、
そう、「打ち上げ花火」が。

花火が炸裂したあとは、最初に戻って「打ち上げ花火」を演奏します。

一番外側の列には海自と空自のカラーガード隊も加わっていました。
全部隊出演ということですが、流石に第302保安警務中隊はおりません。

いわゆるスイッチオフの姿は決して人前で見せないのが保安警務中隊なのです。
(でも正直ちょっと見たい気もする。彼らのそういう姿を)

「打ち上げ花火」を全員で演奏しながらフォーメーションを変えていきます。

その間32小節。
曲が終了した時には・・・・

ピースマークの顔が二つ、会場のどちらからも顔がちゃんと見えるように
向きを変えてできていましたとさ。

 ベトナム軍の左側のかたまりがピースくんの右目となります。
こんな大々的な人文字を描けるのも代々木体育館ならでは。

最初の日は音が遠くに聞こえるような気がして、
「やっぱり武道館の方が迫力があっていいなあ」と思ったものですが、
こういうことができる広さは効果の点で替え難いですし、武道館より
「いい席とそうでない席の格差が少ない」という公平さもあります。

なにより、今回人の出入りを管理しやすかった、と自衛隊が判断したら、
もしかしたら来年から会場はここになるかもしれません。

 

さて、このステージで皆がピースマークを作りだしたとき、
ステージには後ろに防衛大学校の儀仗隊が進入してきていました。

防大儀仗隊、ファンシードリルの始まりです。

 

 

続く。

 

 


スローン・ルーム〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

2019-12-13 | 自衛隊

外国招待バンドのステージが全て終了しました。
最後に出演した自衛隊音楽隊は航空自衛隊航空中央音楽隊です。

紹介でいきなりクロスドメイン、つまり陸海空の領域を超えた
防衛の新世紀の姿を言い表すために、

「宇宙」「サイバー」「電磁波」

といった空間に言及しました。

これは、同隊の選んだ本日のテーマ、「スターウォーズ」につなげるための
実に適宜な導入だったといえましょう。

平たくいうと、誰が上手いこと言えと、というやつです。

空自中央音楽隊の選曲については、いつも個人的に
ピンポイントでわたしの好みを突いてくることに驚きますが、
今日もまた、その嬉しい予感が当たりそうです。

プログラムによると、本日のテーマは

「スターウォーズ〜Tribute to Prequel Trilogy〜」

恥ずかしながらわたし映画「スターウォーズ」、観たり観なかったりで、
映画の細部については全く詳しくありません。

あらためて調べたところ、この「宇宙オペラ」(オペラだったんだ)は
最初の三部作を「旧三部作」とし、本日取り上げるところの
「プリクエル・トリロジー」は、旧三部作制作以降しばらくお休みしていた
ルーカスフィルムが、何かのきっかけで急にやる気になり、
アナキン・スカイウォーカーを主人公として過去編を作ったということです。

三部作は

「エピソード1 ファントム・メナス」

「エピソード2 クローンの攻撃」

「エピソード3 シスの復讐」

から成り、エピソード1発表当時は評価に賛否が巻き起こったとか。

ファンファーレで始まるステージは、おなじみのカラーガードが
赤と黒、シルバーの旗を持って登場します。

音の出ないビューグルを使う「喇叭隊」カラーガードも健在です。
彼女らも各部隊から推薦や自薦で応募し、選抜されるのでしょうか。

赤いフラッグは炎を表し、激しい戦いの曲などに用いられます。
照明もその時は赤が中心となります。

プレクエル・トリロジーのいずれかの映画の戦闘シーンの音楽なのでしょう。
場内のあちらこちらで、フラッグ隊ふたり一組による「バトル」が行われます。

一眼レフで撮影するようになってから初めて写真を見てわかったことですが、
彼女らの持っているフラッグには、持つ時目じるしにあするためのテープが
いくつも巻かれています。
このバトルの時も、旗の柄の握る位置は厳密に決められている模様。

「美は細部に宿る」という言葉を思い出しますね。

ところで、ご存知の方も多いかと存じますが、この音楽まつりの期間、
空自百里基地では航空祭が行われておりました。

わたしの知り合いは音楽まつりと航空祭、どちらに行こうか
迷った結果、百里を選んだそうです。

わたし自身も、実は12月1日に「いせ」の体験航海にお誘いいただいて、
すっかり行く気になっていたのですが、お願いしていたチケットが
どんぴしゃりで12月1日の招待公演だったため、体験航海をあきらめた、
というくらいの「イベントウィークエンド」でもあったのです。

一対一のバトルで思い出したので、この日航空祭に参加してこられた、
いつものKさんのブルーインパルスのコークスクリューの写真を貼っておきます。

トレイル隊形でしたっけ?
これをパッと見て「変だな」と思った方、あなたはブルー通です。
Kさんのご報告によると・・・。

ブルーの編隊を、よ~く御覧下さい。
実は一機欠けているんです。
離陸直前に3番機に不具合が発生して5機編成になっちゃいました。
普段なら予備機が代替するのですが、
前日に4番機にも不具合が発生していて、
既に予備機を投入済みなので已む無く5機での展示飛行となりました。
一部の演目はチョット残念な出来映えでした。
それでも中止せず4番機が3番機のポジションに臨時で入ったりして
飛んでくれたクルーに感謝です。

ということでした。

せっかくの航空祭に出演できなかった3番機ブルーは残念でしたね。

そういえば思い出しませんか?

空自中央音楽隊のステージは、毎年最後に全部隊の上を
ブルーインパルスを描いた布が通過するという演出をしていましたが、
2年か3年前にやめてしまいました。

ただ、あれが今でも続いていたとしても、今年の代々木体育館では
広すぎて布の幅が足りず、できなかったと思われます。

激しい調子のバトル的音楽が(題名はわかりません)終わると、
雰囲気は一転し、
カラーガードは青い旗に持ち替えました。

この旗の受け渡しを行うのも演技支援隊の隊員です。

ハープのアルペジオから始まる切なげな曲は、

「Attack of the Clones」の「Across The Stars」

 

その調べに乗ってふたりのカラーガードが旗を降り踊ります。
ちなみにこのときハープの演奏をしていたのは男性隊員でした。

彼女らの動きはここでも完全にシンクロしています。
適当に旗を振っているのではなく、振り付け通り。

二人で始まった踊りに他のカラーガードも加わって。

なびく白とブルーの旗とメランコリックなメロディの調和。
空自中央音楽隊お得意の選曲のセンスが遺憾なく発揮されています。

曲調がドラマティックに盛り上がった瞬間、会場を照らすライトが
赤く染まるという演出も大変効果的なものでした。

(でも正直赤いライトって写真に撮るといまいちなんですよねー)

そして、誰でもが知っている「スターウォーズのテーマ」が始まりました。

ビューグルのEXILEをしているカラーガード(笑)

外に並んでいる時、このカラーガードさんが舞台メイクをしたまま
出てきて、知り合いに声をかけているところを見ましたが、
ライトで飛んでしまうため青いシャドウをこってりつけていました。
目の下にはキラキラ光るスパンコールも付けています。

こんな機会でもないと今時普通の女性はまずしないという舞台化粧ですが、
彼女らにとってはコスプレ感覚で楽しんでしまえそう。

音楽隊と違い、カラーガードのお嬢さん方にとって音楽まつりのステージは
自衛官生活でたった一度限りの経験となるわけですから、
練習の期間も含めて、得難い一生の思い出となることでしょう。

ビューグル隊を真ん中に挟んで両側から互いに旗を投げ受け取る、
という、これも空自恒例のフォーメーションが始まります。

ビューグル隊は邪魔にならないように立て膝できっちりと静止。
これも日頃鍛えている自衛官だからブレずに姿勢を保てるのかもしれません。

時間にすれば一瞬なのですが、今回連写しまくったので、
写真をここぞとたくさん掲載してしまいましょう。

この投げ渡し、いつも彼女らは軽々と投げ、失敗なく受け取っています。
これまでの音楽まつりで同じフォーメーションを何度となく見ていますが、
旗を落としたのを一度としてみたことがありません。

そもそも、投げ上げた旗が隣とぶつからないだけでもすごい。

飛んでくる旗を受け止めようとする彼女らの真剣な表情をご覧ください。
それにしてもどれくらい練習を重ねるのでしょうね。

投げ渡しのあと、

「♬ド〜ソ ファミレド〜ソ、ファミレド〜ソ〜ファミファレ〜」

の一番盛り上がるメロディが。

その次の瞬間、次のフォーメーションに向かってダッシュ!

フィナーレに向かって全隊が気持ちを高めていきます。

そして空自中央音楽隊、今年もやってくれました!
わたしの全スターウォーズ曲中モストフェイバリットであるところの、

「スローン・ルーム」(Throne Room)

でのカンパニーフロントを。

日本では「王座の間」というタイトルだそうです。

誰かその理由を教えて欲しいのですが、ただ人々が演奏しながら
横一列に歩いて行くことが、なぜこんなに感動を誘うのでしょうか。

スターウォーズ NHK BSプレミアム 『王座の間とフィナーレ』

ましてやこの「スターウォーズ」一の名作とわたしが信じる
この曲とカンパニーフロントが一緒になったときの破壊力と言ったら・・・・。

今回、三回見て三回ともこの部分で涙腺を緩ませてしまったのですが、
こんな人はわたしだけだったでしょうか。

そして大感動のうちにステージは終わりを告げます。
わずか6分間だったとは思えないくらいストーリー性に富んだ
素晴らしいパフォーマンスでした。

指揮は芳賀大輔三等空佐、ドラムメジャーは島田祥宏三等空曹でした。

 

さて、陸海空自衛隊とゲストバンドが全てのステージを終えました。
次は前出演音楽隊による親善ステージです。

 

続く。



ヨルク軍団行進曲〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

2019-12-11 | 音楽

さて、令和元年度自衛隊音楽まつりに出演する
最後の外国ゲストバンドが入場を始めました。

ピッコロが軽快なメロディを奏でる行進曲に乗って

ドイツ連邦参謀軍軍楽隊

の入場です。

こちらも同じく参謀軍ですが、この参謀軍軍楽隊は
国家儀礼の式典での演奏も担当する、つまりそれだけ
技量があるということなのだろうと思われます。

全体的にガタイのいいおっさん多め、バイキング風髭多め、
制服の色といいこのドラム隊といい、いかにもドイツの楽隊です。

実力も軍楽隊の中ではトップらしく、ベルリンフィルと年次コンサートを
合同で行うほどの実力があるそうです。

昨年、ヨーロッパからの初の参加国となったのはフランスでしたが、
今年はそれに続く2カ国目ということでドイツからの招聘です。

この勢いで来年はぜひイギリスかイタリアから呼んで頂きたいですね。

指揮者は最初の曲「プレゼンティア・マーチ」に合わせて、
ゆったりとした足取りで指揮台に歩みます。
自衛隊音楽まつりでは最初から指揮台に指揮者がいて全員が入場、
というのが通例となっているので、ちょっと珍しいパターンです。

「パンパカパッパ パンパカパッパ パッパッパ!」

でぴたっとゲネラルパウゼ(ドイツ語の全停止)。
そして

「ジャン!」

で恭しく全軍お辞儀(もちろん日本式)。

先ほどのベトナム軍もやっていましたが、この日本式お辞儀、
我々日本人が思っているよりずっと海外の人には特殊な仕草なのです。

だからここは彼らとしてはむしろウケて欲しかったと思うのですが、
観客の日本人たちはお行儀よく拍手を送るのみでした。

きっと彼らは後で、

「あそこで真面目に拍手してくるのがヤパーナーだよな」

と言い合ったに違いありません。

この人は軍楽隊のシンボルである(正式になんというか知りませんが)
重そうなものを持って歩くのがお仕事。

房だけでもかなりの重量がありそうです。
黄色い小旗に描かれた鷲、なんだとおもいます?

これ、実はドイツ連邦の国章で、フィールドは黄色ではなく金色、
黒い鷲は「アドラー」といいます。

鷲はヨーロッパでは強さ、勇気、遠眼、不死の象徴であり、また、
空の王者、最高神の使者と考えられ、キリスト教圏ではよく使われます。

わたしが長らくここでお話ししたオーストリア=ハンガリー帝国や、
ナチスドイツの国章に使われていたことでも有名ですが、現在でも
オーストリア、ポーランド、ルーマニア、チェコ、スペイン、そうそう、
忘れちゃいけないアメリカの国章に鷲があしらわれています。

ドイツの鷲は8世紀なかば、カール大帝のころからも用いられ、
神聖ローマ帝国では「双頭の鷲」が国章と定められました。

ハプスブルグ家の紋章が双頭の鷲なのは、それを引き継いでいるのです。

ベルリンフィルと共演するだけのことはあって、
特に金管セクションの音色は重厚で輝かしく、流石の風格です。

まあただ、言わせて貰えば、うまいのはいいけどゴリゴリの正統派で
しかもドイツドイツした曲ばかりセレクトするものだから、
あれこれと人心の好みに忖度したサービス満点の日米軍と比べると、
初見のとっつきは悪いかなという気はしました。

まあしかし、こう言うのがお好きな方にはたまらないと思います。

二曲目は「ヨルク軍団行進曲」

German Military March - Yorckscher Marsch ヨルク軍団行進曲

 

ヨルクってなんぞや?


というところから始めなければいけませんが、これはドイツ人なら
誰でも知っているプロイセンの将軍で、ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵

冬将軍に負けたナポレオン遠征に多国籍軍として参加していた部隊を
指揮官として早々にロシア側と相談し撤退させた(つまり裏切った)人です。

で、驚くべきことに、この曲を作曲したのは、ベートーヴェン
海上自衛隊東京音楽隊といい、今回はベートーヴェンづいてますね。

しかし、ベートーヴェンがナポレオンに見切りをつけたから、
同じくナポレオンを裏切った将軍を称えてこの曲を作った、
ということでもなく、作曲したときには全く違う題名(ボヘミア守備隊行進曲)
だったのが、いつの間にか演奏されていくうちにこうなったとか。


余談ですが、リンク先でお分かりのように、フォン・ヴァルテンブルグの子孫、
ペーター・ヨルクは、映画「ワルキューレ」でも描かれた1944年の
ヒトラー暗殺計画の首謀者として人民裁判でナチスに処刑されています。

ドイツでは「独裁者を裏切る家系」と言われているに違いない(確信)

お国柄を表すっていうんでしょうか、行進も正確で狂いなく。

演技支援隊が次の曲のためにセッティングをする中、
「ヨルク軍団行進曲」で全体が形作った人文字は・・・

♡日本

でした。
真面目に演奏しながらしっかりサービス、これがドイツ風。

おう、次はイタリア抜きでやろうぜ!(本気にしないでね♡)

「十字軍ファンファーレ」

ドイツの国章をあしらった太鼓とファンファーレトランペットの演奏。
この曲がもうおもいっきりプロイセ〜ン!なんですわ。

「ドイツの瀬戸口藤吉」とでも呼ぶべきドイツ軍楽隊の父、
リヒャルト・ヘンリオンが作曲した行進曲の数々は、ドイツ人にとって
古き良き皇帝のドイツを懐かしむ心の音楽なのだそうです。

そのうちの有名曲、「十字軍ファンファーレ」は、カラヤンも録音を残しています。

ベルリン・フィルハーモニー・ブラスオルケスター
ヘルベルト・フォン・カラヤン

交差したサーベルはドイツ軍の印?
太鼓のカバーの房も赤黄黒のフラッグカラーです。

ファンファーレトランペットは式典用で、信号ラッパと同じく
口の形だけで音を吹き分けます。

使用されている楽器は、1980年代にヤマハがザルツブルグ音楽祭に出演する
ウィーンフィルのために制作したタイプであろうかと思われます。

演奏時は足を前後に開いて左手をベルトに差込み、体を斜めが基本形。

指揮はラインハルト・キアウカ中佐
聴き慣れない名前ですが、ドイツには同名の歌手もいます。

さて、一応演奏は終了をコールされ、隊長が敬礼しましたが、
ここからがちょっとした見ものでした。

退場曲は「ベルリンの風」(ベルリナー・ルフト)

こちらは「ドイツオペレッタの父」と呼ばれるパウル・リンケの作品で、
ベルリンの非公式の「市歌」というくらい人々に馴染みのある曲です。

先ほど貼ったカラヤンの録音にもありますので、興味のある方はどうぞ。
ベルリンでのコンサートでこれをやるととてもウケるようです。

マーチングの技術もさりげにすごいと思わされたのはこれ。
全員で形作った国章の鷲のシルエットが、
行進しながら羽ばたいているように見えるのです。

羽部分を作っている人たちは一拍につき二歩ずつ、
向きを変えて翼の羽ばたきを表現。
頭と胴体、尾の人たちは一拍につき一歩ずつ。

そして途中でまたもやゲネラルパウゼしたかと思ったら、

「アリガトウ、ニッポン!」

全員で叫んで、万場は拍手喝采。🇯🇵🇩🇪日独友好。

いやー、もうこういうの嬉しいですね。
ぜひ次はイタリア抜きで(もうええ)

そして最終日。

どこで調達してきたのか(多分オフの日の観光中)軍楽隊長が
🎌日の丸の扇子🎌を打ち振りながら退場していくではありませんか。

さすがセンスあるう!

 

・・・続きます。

 


ベトナム〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

2019-12-10 | 音楽

ところで、読者のあざらしロビさんが、どうやらわたしと同じ日に
音楽まつりに出撃されていた模様です。

矢印のところにおられるのがロビさんと奥様。
(右は夫妻肖像画)

ちょうどその向かい、貴賓席にわたしが座っていたことになります。
この写真で言うと、左側のふたりボックス席の右側がわたしです。

そうそう、後ろに座った人が黒い上着を掛けてきたので
目障りだなあと思っていたりしたんですよね(笑)



さて、音楽まつりの第二章2番目に登場したのは、
ベトナム人民軍参謀部儀礼団軍楽隊でした。

ベトナム社会主義共和国の国防を担当する軍事組織で、事実上、
国の正規軍として機能すると共に、ベトナム共産党が指揮する
「党軍」としての側面も併せ持っているため「人民軍」と称します。

ベトナムでは2年間の徴兵制を布いているので、陸軍だけでも
兵力は(あの小さな国で)46万人、海軍4万5千人、空軍3万人。

かつては総兵力170万あったそうですが、それでも日本の二倍であるのは
やはりベトナム戦争を戦っただけのことはあります。

ご存知とは思いますが、我が自衛隊は陸海空合わせて24万7千人です。

 

 

本日出演の軍楽隊は参謀部儀礼団ということなので、ベトナムとしては
常日頃国際儀礼などに音楽を提供するもっとも権威のある?
軍楽隊を投入してきたのではないかと思われます。

もちろんのこと音楽まつり初参加となります。

最初の曲は「ベトナム」
すごいタイトルですが、もし我が国に「日本」という曲があっても、
こんな感じにはならないんじゃないかという気がしました。

いわゆるアジアンポップス調で、歌詞の最初に「ベトナム」という
言葉が入っているのが聴いていてその場でわかります。

彼女は専属の歌手のようですが、軍服を着用しているので
アメリカ軍のように技術曹として採用されているのかもしれません。

歌が始まって8小説目には全体が星の形になりました。
これはもちろんのこと、ベトナム国旗の星を表しています。

赤い旗に黄色い星、中国と同じく共産党による一党独裁なので、
国旗からもわかるように「ミニ中国」という面もあります。

まあ、親分と違って覇権主義でもないし民族弾圧もしてませんけどね。

おそらくベトナム軍には、会場がこんなに広いことは
伝わっていなかったと思われます。

広い会場の真ん中でマーチングも控えめ、アトラクション?
というのが、この新体操のリボンを綺麗どころがクルクル回すだけ。

ちなみにこの写真は予行演習の時のものです。

こんな広いところで固まらなくても、と初日見ていて思いましたが、
他ならぬ彼ら自身も他のバンドと比べて俺らちょっとしょぼくね?
と気づいたらしく、最終日に向けて少しずつ変化していくさまが見られました。

同軍楽隊はブラスバンドとして見た場合、ステップ一つとっても演奏そのものも、
正直言って「発展途上」という言葉が過ってしまうレベルでしたが、
それを補って余りあったのは、クルクルリボン隊のお嬢さん方の「レベル」でした。

二日目。どうよこれ。

音楽隊とは関係ないところから綺麗な人を選抜して
吹奏楽先進国であるアメリカと日本のステージに対抗しようとしたのか、
それは知りませんが、会場のカメラマンは楽団員には目もくれず(そらそうだ)
このお嬢さん方の写真を撮りまくっていたと思われます。

こちらもなかなかよろしい。
彼女はHoang Thi Dungさんとおっしゃいます。

わたし的に一押しの美女はリー・チー・ドゥンさん。
っていうか皆同じ名前なのはなんでなんだぜ。

全員が全員、完璧な歯並びを惜しげもなく見せるため、
にっこりと微笑みながらお仕事をしています。

まあしかし、望遠レンズを覗いているカメラマン以外には、
あまりにも会場が広すぎてそもそも女性が綺麗かどうかもあまり伝わらず。

しかも予行練習日は、何を思ったか、お嬢さん方、
軍服のパンツスーツという空気の読めなさ。

彼らが儀礼用の全身白の制服で演奏したのはこの日だけでした。

こちらが二日目の同じパートの写真です。
自己反省したのか、どこかからご指導が入ったのか、
楽団は赤いベレーにライン入りの制服に着替え、
タンバリン隊はミニスカートということにしたようです。

まあ普通そうなる罠。

 

二曲目のタイトルは「ライスドラム」

イントロはまるでディキシーランドジャズみたいな出だしなのに、
それに続くのは

「♫と〜れとれ ぴ〜ちぴち かにりょおり〜」

みたいなフレーズで、西洋風音楽理論に拘らない(笑)形式の曲。
ベトナムで有名な民族音楽だと思われます。

ベトナムはフランス領の時代が長かったので、特に料理は
大変洗練されていると聴いたことがありますが、音楽は
古来より伝わる雅楽などもいまだに継承されているそうです。

このバンドの演奏で全てを推し量るわけではありませんが、
音楽については民族色の強い傾向が浸透しているように見えました。

しかし、音楽まつりではむしろこういうのを聴きたいですよね。

最後に全員で円を描き、手を胸にお辞儀をしましたが、
ベトナム軍の赤い帽子で描いた円、そしてこの日本式挨拶は
日本に敬意を表した演出だったと思われます。

指揮は音楽隊長ファン・トゥアン・ロン中佐
袖の二本線は全員がつけているので階級章ではありません。
階級は肩章で表されます。

クルクルリボン隊は中佐が敬礼をしている時もクルクルしていましたが、
そのまま回しながら退場していきました。

さて、3回目の最終日の同隊ステージです。

二日目が終わって、「まだまだいかん」と鳩首会談を行った結果
(たぶん)彼らは演技にさらなる軌道修正を加えることにしたのでしょう。

最終兵器のアオザイを投入してきました。

長いパンツはもちろん、ミニスカートでもまだパワーが足りない!
ここは世界で最も女性をセクシーに見せるといわれるアオザイで一発逆転や!

ということになったのだと思われます。

一応衣装は一式持ってきていたけど、様子見してたんですかね。
それともベトナム同胞の集まりのために用意してきたのを出してきたか。

全てを覆い隠しながらも体の線を際立たせずにいられないデザイン、
切れ込みが脇の下まで入って素肌がチラリズムというのもあざとい、
いや、心憎い。

椰子の木の下でデートをする二人。伝統的な模様なのでしょうか。

三曲目の「勝利の行進曲」は、8×5に並んだ部隊が8小節ごとに
向きを四方に変えて演奏をするという今時珍しいフォーメーションでした。

いや、フォーメーションというものでもないか。

というわけで日程後半にいくほどある意味評価うなぎ上りだった(多分)
ベトナム人民軍参謀儀礼団軍楽隊の演奏でした。

さて、続いての最終外国招待バンドはドイツからの出演となります。

 

続く。