ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ビーバーの巣作り被害(おまけ:Bakamitai ミーム)〜アメリカ滞在

2020-09-30 | アメリカ

事情があって本来の用事が終わっても2週間くらい
アメリカ滞在を伸ばしたのですが、驚いたのは、9月半ばを過ぎたら
ここピッツバーグは急激に冬になったことでした。

9月に入ってもおそらく日本と同様日差しは強く、午前中にウォーキングをしていると
(マスクのせいもありますが)帰ってくると全身汗びっしょりだったのに、
中旬に入った途端、歩き出すときには寒くて歯の根が合わずに震え上がるほど。
確実に日本の冬より急激に訪れると言った感じです。

車で高速を走っていると「エリー/ワシントン」、つまりこの先で北に行けばエリー、
南に行けばワシントンという表示を見るのですが、

このエリーとはあの五大湖の一つのことなんですね。

ペンシルバニア州がエリー湖を挟んでカナダの真下であることを、
この早い冬の訪れによって実感することになりました。

ちなみにピッツバーグからエリー湖沿いのクリーブランドまでわずか車で2時間、
ワシントンDCまでは先日行ったデイトンと同じくらいつまり4時間という距離です。

この写真はかつてカーネギーのビジネスパートナーだった人の土地を整備して作った
フリックパークですが、この手の公園の中でもここは特に整備が行き届いています。

ここも発見してからは二日に一度の割合で訪れましたが、暑い間間苦労して
木陰の多いコースを開拓したのに、
最後の頃は日向が有難いくらいの寒さでした。

寒くなってきたせいか、最後の頃は冬眠する動物たちが忙しそうでした。
こちらではめずらしい黒リスを一度だけ目撃しました。

しかしこういう写真は一眼レフでないと全くだめですね。

なんならシリコンバレーで撮った黒リスの一番レフ写真をどうぞ。

マーモットも後半になってから何度か目撃しました。

アルプスマーモット

やっぱり彼らも冬眠するそうです。
アメリカではウッドチャックとか言われている模様。

 

森の中を歩いていると目の前を鹿が横切るのはしょっちゅうです。
まず1匹、彼(彼女?)は分隊の先遣隊といったところです。

先頭が渡り切ると安心してぞろぞろと続く彼の仲間。

人の姿を見ると慌てて木陰に避難し皆でこちらを見ていました。
そのとき後ろに気配を感じて振り向くと、

群れの1匹が道の反対側からこちらをうかがっていました。
わたしが来てしまったので皆に続いて道を渡りそびれてしまったんですね。

この不安そうな顔(´・ω・`)

 

ピッツバーグに縁ができ、時間が許す限り現地を歩いてきましたが、
やっぱり最初に発見したシェンリーパークは何度歩いても飽きません。

人工的な構造物はありますが、それらは前にもお伝えしたことがあるように
WPAという大恐慌のあとの失業者対策事業のころにできたものなので、
石積みだったりレンガが敷き詰められたりで実に風情があるのです。

シェンリーパークの一角にある公園のビジターセンターも当時の建築です。
カフェになっていて、パーティのために借りることのできる施設ですが、
今年はコロナのせいで閉鎖になっていました。

一度裏口の前を通ったら、この建物の修復にかかった資金は
アノニマス(匿名)の寄付によるものです、と書かれたプレートを見つけました。

おそらくこの資産家(かどうかは知りませんが)も、この公園を愛し、
わたしのようにここでのひと時を楽しんでいたのでしょう。

公園にベンチを寄付したりして自分の名前を好きな場所に遺す、というのは
アメリカ人がよくやることですが、匿名というのはなかなか粋です。

よくある名前より、「アノニマス」という存在の方に人は強い印象を遺すからです。

シェンリーパークの一部は大きく張り出すようになっていて、
MKの大学のキャンパスと小道を挟んで隣接しています。

ここは「フラッグフィールド」といって、国旗掲揚台があるのですが、
それはここにアメリカ星条旗のためのモニュメントがあるからです。

石碑のリースの中に書かれた文言は

「1777−1927
アメリカ合衆国国旗の生誕150周年記念」

その下には

「このモニュメントはアレゲニー郡の163校の学童が
ピッツバーグクロニクル通信社と国旗の日協会の後援により
集めた188万ドルによって建設されました。

1927年6月14日」

とあります。

このモニュメントの右下のプレートにある説明によると、
アメリカ国旗は1777年に最初に制定されてから、その後現在まで
27回もデザインを変えてきました。

このモニュメントはその最初の年から150年目にあたる1927年、
子供たちからペニー(1セント銅貨)を集めて作られました。

現在のアメリカ国旗(50個の星)のデザインは1960年から今日までと
史上最も「長生き」のバージョンとなっています。

 

こういう道が延々と続く公園が身近にある。
アメリカ人がうらやましくなるのはこういうときです。

 

散歩していて他の人とすれ違うと、アメリカ人はよく挨拶をするのですが、
コロナ以降はそれも変わってきました。

ほとんどの人が散歩中でもマスクをしており、狭い道ですれ違うときは
どちらかが脇に避けてソーシャルディスタンスを守ろうとします。

「モーニング」とか「ハイ」とか声を出す挨拶も控え、
手を挙げるだけの人とかが増えてきました。

テレビではいまだにマスクの有用性を啓蒙する特集が繰り返し放映されています。

あんなにマスク嫌いだったアメリカ人が、今ではこの通り。
もちろん散歩の時くらいと思うのかマスクしない人もいますが、
不思議なことにそんな人たちに限って連れと大声で喋りながら歩いてます。

 

さて、そんなアメリカでの変化を肌身で感じていたある日の散歩中、
わたしは二人のおじさんに少し離れた場所から呼び止められました。

イヤフォンで聞こえなかったので外してから何ですか?と聴くと、

「こっちにビーバーが齧った木があるんだけど知ってた?」

いい年したおじさん二人がまるでおもちゃを見つけた子供のように
嬉しそうに指差して教えてくれたのが、これ。

「あいつら一晩でこれくらい齧っちゃうんだよねー」

ビーバーというのは寒いところほどベルグマンの法則により体が大きく、
ヨーロッパでは20キロ、オハイオ州では成獣の平均体重は16.8キロあるそうですから
この辺りのビーバーもかなり大きいと思われます。

昔は体重50キロくらいのビーバーがいたそうですが・・・どんなだよ(笑)

次に行ったら、根元をかじられた木はこの通り倒れていました。

ビーバー1匹で例年結構な被害が?出ていると見た。

なんで木をかじるのかというと、彼らは川を堰き止めるダムを作り
そこに巣を構えるかららしいですね。
ダムには泥も塗って完璧に水を塞ぐんだとか。

おじさんたちに教えられて気づくと、結構被害があちこちに・・・。
葉っぱの枯れ具合からいって何週間か前に倒れたようです。

日本ならたちまち危険だからと倒れる前に木を片付けてしまうところですが、
アメリカの公園ではしょっちゅうあちこちを整備する割に
倒木などは自然のままにしておく傾向があります。

ビーバーが巣を作ろうとしているのならなおさら?

切り株に彫刻刀で削ったような歯の跡が刻まれています。

ちなみにおじさんにビーバーそのものを見たことがあるか、と聞いてみると
一度もないとのことでした。
アメリカに住んでいてもそうそうお目にかかる動物ではないみたいです。

親の仇のようにかじりまくってますね。
どんな奴がやったんだ。

はいこんな奴です↓

アメリカビーバーのオスかわいくねー

 

おじさん二人には、わざわざ教えてくれてありがとう、と丁寧にお礼を言っておきました。

 

それにしても不思議なことがあります。
これだけ木をかじり倒した跡があるのに、どこにもダム巣らしきものが見当たらなかったのです。

wikiによると、ビーバーのダム作りは周辺の木を齧り倒し、泥や枯枝などとともに
それらを材料として川を横断する形に組み上げて作る、ということなので
倒した木はそれなりに川を堰き止めていないといけないはずなのですが、
写真を見ていただく限り、木が倒れているのが明後日の方向ばかりなんですよね。

ビーバーの巣作りは本能的なもので、親のやっているのを見て学習する、
という行動ではないそうですが、もしかしたらこの公園のビーバーは
まだ初心者で木をどう齧れば川を堰き止められるか要領がわかってないのかもしれません。

彼らは何年もかかって壮大なダムづくりを行うということなので
来年にはちょっと巣らしきものができているかも可能性もあります。


来年、機会があれば、このビーバーくんがどれだけ木をかじるのが上手くなったか、
ぜひ確かめに来ようと思います。

 

さて、ここからは全くの蛇足なのですが、散歩の時わたしはBOSEのサングラス式か
ソニーのイヤフォンで音楽を聴きながら歩きます。

今回、この曲をMKに教えてもらい、何度か聴いているうちに
「夏のピッツバーグ」イコールこのイメージに定着してしまったヤバい曲があります。

馬鹿みたいBakamitai (Full Lyrics) (Yakuza 0) - Hamburger Karaoke

MKにいわせると「〇〇ゲー」の類なんだそうですが、ヤクザ戦闘ものゲームの
主人公桐生一馬が歌うこのバブル時代のムード歌謡が今世界的にバズり気味で、
サビ部分のミームを作るのが密かにはやっているのだとか。

安倍前首相とか
FORMER japan pm shinzo abe senpai sings baka mitai

オバマ元大統領とか
obama sings baka mitai

習近平とか
Xi Jinping sings Baka Mitai

映画「シャイニング」とか、

第一次世界大戦時の世界のリーダーとか
WW1 Leaders Sings Baka Mitai (Dame Da Ne)

(直前にアメリカが参戦したところで爆笑してしまった・・)

第二次大戦時のとか。
Dame da ne WW2


いろんなバージョン皆競って作ってるんですよね。
日本語でこのカラオケを歌うのも流行っているとかで、もう世界中bakamitaiとしか(笑)

それからMK情報で面白かったのが、なぜかいま、竹内まりやの
「プラスティックラブ」が世界的にバズってるらしいということ。

なぜ竹内まりや?なぜこの曲?


 

 


帰国〜ファースト初体験と成田での自粛失敗

2020-09-29 | お出かけ

アメリカから帰国してまいりました。

本来であれば今頃は成田のホテルで絶賛自粛期間だったはずですが、
3日めにしてホテルの缶詰生活に根をあげてしまい、自宅に帰って
おとなしくしているというプランに変更を余儀なくされたのです。

現在の日本政府の指針は、海外渡航から帰ってきた人に対し
空港で検疫検査を行い、陰性であった場合も公共交通機関を使わず
自宅かあるいは対象宿泊施設で自粛することを推奨しているので、
お上から言われたことを真面目に守る我が家としては、夏前にMKが帰国した時も
彼に2週間のホテル生活をさせたわけですが、今回自分がそうなって
隔離された状態の自粛というのがどれだけ精神的に辛いものか思い知りました。

なぜわたしがホテル隔離に耐えられなかったかというと、
まず、外に出ることも制限されるということ以前に、
何の予定もないのにホテルに連泊するということに対する絶望感。

今回、TOが成田でおそらく最もグレードの高いホテルを取ってくれたのですが、
この「良かれと思って」が大変な落とし穴で、なまじ高級を謳っているので
MKの泊まったホテルのように館内にコンビニがないのも問題でした。

つまり、水とかお茶とかちょっとしたスナックとか、そういう買い物ができない。
食べ物は三度三度全てホテル内のレストランかルームサービスのみ。
そのうえちょっとお茶でも、とルームサービスでポット入りを頼むと1,200円。

ホテルのお茶代は場所代込みなので日常であればこの値段でも受け入れますが、
ホテルの部屋で過ごしている身にはなかなか気分的に辛いものがあります。

チェックイン時に、自粛宿泊対象者のためのレストランの食事30%引きチケットや
朝食バッフェ3,600円が2,800円になるチケットも束にしていただきましたが、
ホテルの食事はそもそも旅の非日常に属するもので、重さ的にも金額的にも
普通とはかけ離れていてこれが半月続くと思っただけでげんなりしました。

一番辛かったのはジムが使用禁止であることです。

しかも今回は帰国した日から3日間千葉県では雨が降り続き、外に出られず
仕方がないので、ベッドの上でヨガをしたり、ハウスキーピングが居なくなる夕方に
誰もいないホテルの廊下と非常階段を早足で歩いていました。

昔マドンナが全盛期の頃、日本に来てプールで物凄い勢いで泳ぎまくり、
エレベーターを使わずホテルの非常階段を駆け上っていたところ、
遭遇した従業員が驚いた、という話をふと思い出したりしながら。

これも一日二日なら話の種ですが、2週間続くとなると絶望でしかありません。
二日前までアメリカの広大な自然公園の延々と続くトレイルを
1日1〜2時間歩いていたのに、この環境の急激な変化には心身ともに酷く堪えました。

 

今にして思えばMKは2週間弱音も吐かずえらかったなあ・・・。
しかしわたしは彼ほど堪え性がないのでたまりかねてメッセージでTOに弱音を吐きました。

「ジムが使えないし売店も閉鎖していてホテルで水を買ったら300円だって」

「閉塞感やばい。14日この生活したら確実に死ぬ」

アメリカのホテルで一人で何日いても平気なわたしがここまで弱るとは
さすがのTOにも予測ができなかったらしく、慌てて自宅軟禁、じゃなくて
自宅待機に切り替えることにして、自粛帰宅者対応のタクシーを手配してくれ、
帰ってきたというわけです。

同じ自粛生活でも何でもそろって勝手知ったる我が家では全く精神的に違います。
自分でお茶を淹れたい時に淹れ、自分の食べたい量の食事を作り、
なんといってもピアノが弾けて外が歩ける。

自粛中ということなのでウォーキングは人とすれ違うことの少ない
早朝にマスクをかけて出ることにしました。

 

さて、今回の帰国についてその前日から淡々と語ります。

ピッツバーグでは9月半ばになると急に朝夜の気温がガクッと落ち、
午前中に外に出ると体が温まるまで歯の根が合わずに
ガチガチカスタネットのようになるくらい冷える日が増えてきました。

最低気温4度というと確実に日本の冬並みです。

最後の日の散歩ではMKの学校の横を歩きました。
後で聞いたらこの日は対面の講義(レーザーカッターを使うため)
があったということでした。

滞在後半に近づくほど野生動物を多く目撃しましたが、
これはどうも寒くなって彼らが冬眠の準備をしているせいかと思います。


ピッツバーグ空港からトランジットのオヘア空港までの飛行機は
出発時間が朝の7時だったので、わたしは数日前から5時起きを心がけ、
前日は夜7時半に寝て3時に起き、4時にホテルを出ました。

真っ暗な道を空港まで25分。
ただしその時間だと渋滞の心配もないし、空港のゲートもガラガラで、
朝早い便というのは「あり」だなと思いました。

7時出発の便に乗ってシカゴ・オヘア空港に着くとまだ7時30分でした。
東部時間のピッツバーグから中部時間に巻き戻ったからですね。

乗換便のボーディングまで3時間以上あるので、とりあえず
ゲートをチェックした後は、いつもするように運動のため、長いコンコースを
移動のフリして行ったり来たりして時間を潰そうと思い端っこまで歩いてみたら、
なんとひとつだけユナイテッドのラウンジがオープンしていました。

入ってみると、ここしか開いていないのに人はまばらで、
供される食べ物もパックされた簡単なものやスナックだけでした。

このとき時間は11時、いつもなら人であふれている通路です。

こちらでもコロナのせいで皆不要不急の旅行やビジネストリップを控えているのでしょう。
しかしそれだけで空港というのはこうなるのか、ということが衝撃でした。

搭乗10分前になってゲートに行ってみると・・・やばい。
人がいない。

この写真をTOとMKに送ると、

「ゲート間違えてないよね?」

間違えるも何も他もみんなこんなもんですがな。

搭乗は後方席から順番に行われ、わたしの搭乗順番は最終となるグループ4。

そう、今回のフライトでは
わたし史上初となるファーストクラス体験をすることになったのです。
なぜこんな非常時にファーストになったかというと理由は簡単で、
マイル移行で特典チケットを取ろうとしたらすでにビジネスが満席だったからです。

この便、わたしがFAに尋ねたところ、乗客総数30名ほどでした。

ファーストの席は全部で8隻、そのうち埋まっていたのは4席。
わたしの前にはアメリカから日本を経由して帰国するらしい、
背だけはやたら高いサングラスにマスクのおそらくK POP歌手(か俳優)
真ん中の4席には客はおらず、窓際に二人連れの日本人男性です。

KPOPだかKPOOPの人はわかりませんが、ビジネスの特典席が満員で
この数ということは、ファーストも4名が上限で、つまり乗客のほとんどが
わたしと同じく「マイレージ組」だったのではと思われます。

まあ事情はともかく、記念すべきファースト初体験を堪能することにしました。

どうもこれは噂に聞いていた新型らしく、細部がいかにも今風です。
一見壁のようなパネルを押すとこんな小物入れ(多分メガネ用)が出てくるとか。

シートの横にはヘッドフォン収納のスペースやリモコン入れが
これもパネル方式で面一に収まっており、シートの調整もタッチパネル式です。

ヘッドフォンもファーストはちょっとグレード高め。

アメニティケースはビジネスと同じ、グローブトロッターのトランク型。
これはデバイスのコードやコンセントを持ち歩くのに大変便利です。

それ以外にもザ・ギンザの化粧品セットが用意されていました。

さて、わたしは朝3時に起きて何も食べずに搭乗時刻を迎えたため、
さすがにお腹が空いてきていたのですが、搭乗の際、

「食事サービスについてはお客様の要請があれば行います」

みたいなことを言っていたので、黙っていれば何も出てこないのかと心配して
一応FAに聴いてみたところ、即座にメニューを持ってきてくれました。
さすがはファースト、ってか一人のFAがわたしとKPOOPの専用係として
痒いところに手が届きまくる手厚いサービスをしてくれました。

ビジネスとの違いはメインディッシュの選択肢ですかね。
ビジネスだと洋食でも肉か魚、という感じですが、ごらんのように
「牛フィレ」「チリアンシーバス」「猪の肩」「野菜」
と4種類のメインから選ぶことができました。

昔神戸のホテルで「猪の背肉の団子」を食べたことがありますが、
ジビエはワインをいただかない下戸とははっきり言って相性が悪く、
今回もわざわざ空の上で挑戦するだけの気力も意欲もなかったので、
普通に
フィレステーキを選択しました。

ちゃんとした食器とシルバーが出るのがファーストです。
まずアミューズ(アペタイザーではない)に出てきた一皿。
左端のピスタチオをまぶしたチーズボールは、マグロの切り身の上に鎮座していましたが、
残念ながらわたしが死んでも食べられないシェーブル(ヤギ)チーズでした。

サラダかと思ったらこちらがアペタイザーでした。
赤い身はロブスターです。

サラダのドレッシングは洋梨か玉ねぎワサビか選べたので洋梨を選択したのですが、
そのどちらも手違いで載せていなかったらしく、バルサミコ酢になりました。

そしてやっとここでコーンスープが出てきます。
やはりビジネスよりは皿数も多いし3割増しくらい手間がかかっている気がします。
何が一番美味しかったかというと実はこのスープでした。

「メインのステーキには2分お時間をいただきます」

とお断りがありましたが、2分って一体どこから出てきたのか。
レンチンする時間かしら。

さすがにファーストだけあって、今まで機内で出されたステーキの中では
一番美味しかったと思いますが、
残念ながら中身に全部火が通ってしまっていました。

焼き加減も聞いてくれなかったし。

デザートはクランブルタルトを選択。

これもビジネスにないサービスで、フルコースの最後のプチフールもありました。

食事が終わってしばらくしたら、FAが空いている隣の席に
ベッドちゃんと作ってくれました。
ファースト席を二人分使うなんてなんて贅沢なのかしら。

リラクシングウェア(品質も悪くない)は持ち帰り自由です。
ありがたくいただいて帰りました。

「よろしければお着替えになっておやすみ下さい。
お着替えの際にはお部屋を用意します」

着替えのお部屋って何かと思ったら化粧室に足台を出すことでした。
ちなみにファースト席には化粧室が4ブースあるので、今回は
トイレを待つ場面が一度もありませんでした。

 

さてそれでは寝みますか、と隣に行ってみるとこの通り。まるで旅館みたい。
下にマットを敷いてあり、ちゃんとしたシーツのかかった布団に
さらに毛布を乗せて端を折ってあるという心配り。

ベッドの寝心地も広さも十分で、(まっすぐ寝ると両手が下に落ちることもなく)
おそらくわたしの機内体験史上、最も快適に、ぐっすり寝ることができたと思います。

降りる1時間前に和食の朝食を頼みました。
器に入れた納豆が出てきたのは初めてです。

さて、というわけで飛行機は無事に成田に到着しました。
飛行機が停止し、「ポーン」という音が鳴っていつも通り立ち上がると、
FAがやってきて、

「しばらく機内でお待ちいただくことになります」

席に座って途中だった「フォードvsフェラーリ」を最後まで観終わりましたが、
まだ一向に案内がありません。

そのうち、乗り継ぎをする客だけに降りるようアナウンスがあり、
前の席のKPOOPがマスクにサングラス、なぜかシリコンの手袋をはめて
出て行った後、さらに30分くらいは待たされたでしょうか。

降りるとわたしを先頭に検疫のラインまで案内されました。
MKが帰国した5月終わりには鼻に綿棒を差し込む方式だったそうですが、
今は試験管状の容器に使い捨ての漏斗で唾を入れて提出します。

通路では検査方法がビデオ放映されていて、
皆なるほどーという感じで心の準備をしながら待つわけです。

機内では検疫所に提出するための書類を前もって書いておき、
それを
要所で見せながら行程をこなすために進んでいきます。

この書類ではアメリカが「特に流行している地域」に指定されていました。
滞在していて体感する限り、世間は日本と変わらない感じだったのですが。

というか、右側に「流行している地域」が書かれていますが、
これ世界中の国なんじゃないかと・・。
むしろ流行していない地域って台湾以外にどこ?

 

採取した唾を提出してからかつてのゲート前に設えた待合室で
与えられた検査番号が呼ばれるまで待ちます。
MKのときには指定ホテルに一泊したそうですが、今では
この待合室でせいぜい1時間待てば結果がわかるようになっています。

ちなみ検疫所や待合室は一切撮影禁止となっていました。

そしてめでたく陰性ということになればこの紙をもらうので、
これを
入国審査、そしてホテルのフロントで見せるわけです。

(この検疫マークの錨に注目したのはわたしだけ?)

再入国審査では自動読み取り機にパスポートをスキャンするだけで
審査官と対面することなくゲートを通過しました。
これもおそらく防疫上の配慮と思われます。

税関ではわたしの荷物を眺めて、税関員が

「何しに行かれてたんですか」

と質問してきました。
旅行でもビジネスでもなさそうとなると、目的に疑問を持たれても仕方がないかもしれません。
息子の大学生活立ち上げのための手伝いに、と端的にいうと
なぜか

「ご苦労様です」

とねぎらわれてしまいました。

そして1時間に一本しか来ない循環バスを待ち、やっとのことでホテルにたどり着いたというわけです。
(そして冒頭に戻る)

そうそう、さっき在住地保健所から電話がかかってきました。
帰国後の体調を聞かれ、できるだけの自粛を要請され、もし熱が出たら
保健所の専用の窓口に電話をするように、ということをいうためだけに
帰国者全員に連絡をしているのです。

今回の検疫を体験アメリカへの入国と比べても、日本のコロナ水際対策は
ちゃんとしすぎるくらいちゃんとやってると感じました。

 

おわり



「斃れてのち止む」〜映画「怒りの海」 最終日

2020-09-27 | 映画

昭和19年海軍省後援による情報局制作の国策映画、
「怒りの海」最終回です。

 



場面は暗転し、いきなり英語の放送が流れ出します。

ロンドン条約終了後、アメリカ全権が発表した声明でした。

「我が合衆国代表の目的は、我がアメリカ海軍が
日本海軍を現勢力のまま釘付けにすることであった」

「しかも日本が国民の支持せる三原則案を敢然放棄し、
敵手の跳梁を拱手傍観する如き本条約を承認せる」

いわばアメリカの「勝利宣言」です。
場面はロンドンから帰国する船の船室で、放送を聞いているのは
随員として参加した朝香少佐でした。

「日本が三原則を放棄したことに対し敬意と賛辞をおくる」

とありますが、これは、対米七割を軸にした三大原則のことで、
具体的には

補助艦対米7割、大型巡洋艦7割確保、潜水艦現状維持

という「これだけは譲れないライン」でした。
実際は重巡洋艦保有量が対アメリカ6割に抑えられ、
潜水艦保有量も希望量に達せずに終わったのはご承知の通りです。

ちなみラジオ音声はネイティブの英語話者がいなかったらしく、
どう聞いても日本人の英語です。

立ち上がって船室内のラジオのスイッチを切る朝香少佐の後ろ姿。
そして、このあと何をしたかと言うと・・・・

実際に自刃した随員は草刈英雄少佐で、自刃した場所も汽車の中と
フェイクありで表現してありますが、これは事実です。

草刈少佐の自殺とその後起こった五一五事件について、当ブログで過去、
自分で言うのも何ですが、実に簡潔にかつ面白く整理してまとめておりますので、
よろしかったらもう一度ご覧ください。

草刈英治少佐の切腹と五一五事件

映画では新婚だったとありますが、草刈少佐の妻は自決当時妊娠しており、
生まれた男子は海軍兵学校67期に入学し、父が死んだのと同じ
少佐のときに終戦を迎えました。

草刈少佐の出身地は会津若松だったということですが、
映画で朝香少佐のお墓があるのも、猪苗代湖を見下ろす
丘の中腹という設定になっています。

この墓前に参り花を手向ける平賀の姿がありました。

偶然墓前で平賀は浅香の同期の吉野と出会います。
吉野は大陸に渡って任務に就いていたと説明します。

墓前で吉野が同級生に呼びかけるように

「浅香・・・日本は立ち上がったぞ」

と言います。
これはおそらく、ロンドン軍縮会議から5年後の第二次会議で
軍縮会議から日本が脱退し、それまでの条約も破棄したことを言っているのでしょう。

「帝国海軍は無敵だ」

吉野は平賀に、上海事変の際現地で「夕張」を見た、といいます。

「ほお、そうでしたか」

第一次上海事変を受けて、野村吉三郎中将率いる第三艦隊、
巡洋艦7隻、駆逐艦20隻、空母2隻(加賀・鳳翔)を派遣しましたが、
その巡洋艦の中には「夕張」が含まれていました。
(その他は平戸、天龍、対馬、那珂、阿武隈、由良)

「あの凄まじい威力に毛唐ども、すっかり度肝を抜かれておりました」

ちょっとお待ちください上海事変なら「毛唐」の「毛」はいらないのでは。
吉野は海外で我が軍艦を目の当たりにしたとき落涙した、と語ります。

「閣下、どうか新鋭艦をどしどし作ってください」

しかし平賀はそれに対し力なく笑いながらこういうのでした。

「海軍の技術力は充実しておりますので、僕なんかが引退してもびくともしませんよ」

「・・・・引退?」

この少し前から平賀は海軍技術者の藤本喜久雄と対立、
この内部対立により、艦船設計の担当部署である艦政本部から
海軍技術研究所の造船研究部長という閑職に左遷されていました。

しかし、海軍後援の本作品では、そういうドロドロはもちろん、
平賀が軍服を脱ぐに至った事情には一切触れずに、
後進の指導に当たることになった、と表面的なことだけ述べます。

平賀の伝記であれば、友鶴事件、第4艦隊事件が起こった後、
平賀が調査委員会を率いてその対策を講じたことも描くべきだと思いますが、
このあたりは海軍的に「触れられたくない」黒歴史なのでこちらもなしです。

東大総長となった平賀先生がさっそく第二工学部を設立せよ!と
鶴の一声を(咳き込みながら)下命しています。

総長就任後、平賀の肝煎で東大には第二工学部が設立されました。
ついでに興亜工業大学(現在の千葉工業大学)を興したのも平賀です。

ついでのついでに、平賀先生、総長に就任するなり
派閥抗争を起こしていた教授を13名追放するという
「平賀粛学」を行っています。

咳を気にして診察を受けるようにおずおずという事務長に
大丈夫だと言っていると、来客がありました。

この士官が誰なのか全く説明がないのですが、彼は開口一番、
浅香の墓前で会った吉野少佐が亡くなったといいます。

なんと、「マライ」でスパイの嫌疑を受け収監され、釈放後、
マラリアに罹ってしまったというのです。

っていうかマライってどこ?マレーのことかしら。

「そうですか・・・」

この人は、なぜだか吉野が生前各国の印象などを書き込んだ手帳を
持ってきて、机の上に置き、

「閣下に読んでもらえば吉野も本望でしょう。
閣下を崇拝しておりましたから」

って、二回しか会ったことがない人の遺品をもらっても
平賀先生も困っちゃいますよね。
というかこのおっさん、なんで人の遺品を勝手に他所に持って行ったりするの。
普通返すならまず家族だろーが。

しかし、この士官の目的は実はこれが目的ではなかったのです。

「わたくしは吉野を連れて行きます」

はて、亡くなった士官を連れて行く・・・?
これは連れて「往く」ということなのでしょうけれど。

「いや、浅香も・・飛行機で死んだ澤井も今度の航海に連れて行きます」

最初に訓練で亡くなった飛行士官ですね。
このシーン、わたしはなぜだか’ぞっ’としてしまったのですが、
士官は湧き上がってくるような不気味な微笑みを浮かべながら笑いを含んだ声で、

「ひょっとしたら、赤道を、超えるかもしれません」

言い終わるとその顔から生気が抜けるように急激に表情がなくなりました。

海軍後援であり情報省が制作に関わった国策映画といいながら、
この士官の表すものはどう見ても闘志や軍人精神ではなく、
まるで魂がすでに幽界を彷徨っているかのような虚脱と諦めなのです。

これは何なんだろう。

「往く」ではなく、「逝く」の意味であることを隠していないのです。

わたしはこのシーンを挿入した制作者の意図について深く考えてしまいました。

「そうですか・・・」

またしてもそうとしか言えず下を向く平賀。
気まずい沈黙が総長室を満たしていきます。

士官の出て行った後、平賀がまたもや「土佐」の文鎮に目を止めると、
その映像に行進曲「軍艦」が重なります。

病の床に伏せっている平賀のために妻がつけたラジオは

「・・敵航空母艦4隻、戦艦1隻、その他1隻を撃沈、
戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻を中破し、
敵機200機以上を撃墜せしめたり」

「我が方の損害、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻小破せるも、
戦闘に支障なし、未帰還機15機」

はて、いったいどの海戦の結果なんでしょうか(すっとぼけ)

実は平賀の床の周りには見舞客が来ていました。
周りが寝ているように勧めても

「大丈夫だよ。それほどの病人じゃない」

と相変わらず強気な平賀先生です。

彼らは東大の評議会員でした。
病気の平賀を気遣って、入学式には休むように言いに来たのです。

しかし平賀は相変わらず

「大丈夫だよ。自分の体は自分が一番よく知ってる」

平賀は晩年結核に喉頭を冒されており、それが死因となりました。

平賀、入学式に出るどころか祝辞を読む気満々で
下書きを済ませておったのです。

「読んでくれたまえ」

「新入生諸君。
諸君は国家の期待といちもんきょうとうの輿望とを一身に担うて、
今日帝国の最高の学府に入学したのであります。

諸君がこの栄誉を勝ち得たのはもとより良き指導を受け、
多年蛍雪の功を積んだためとは申しながら、畢竟、
生来のお恵に他ならないのであります。

今や皇国は世界の二大強国を敵とし、総力を上げて乾坤一擲、
一大決戦を敢行しつつあるのであります」

声はかすれた平賀自身の声に代わり、場面は東大講堂になりました。
30歳から晩年までを演じ切った大河内伝次郎の巧さがひときわ光る場面です。

「諸君が安んじて日日の学業に専念できますのは、ひとえに
皇恩の広大無辺なるによるものであります。

さらに諸君は二十幾年、諸君の訓育に心血を注がれたる父母の恩の
三界にも渡ることを回想し、尽きせん感謝の念に絶えぬものがありましょう」

「皇国に学徒たるものの本分は、至誠を持って
’すめらみくに’に仕え奉るにあるのであります」

一言一言区切るように話をしながら身体を手で支えていた平賀総長、
前によろめくと、スタッフが思わずはっと身体を固くします。

「まことの創意とは、まことの独創とは、ただ国家の希求に身を呈し、
皇軍の扶翼に心肝を砕く、尽忠一途ぞ至誠より生るるものであります」

「諸君はよく学生たる本文を忘れることなく、いつにても、何時にても
召さるれば、勇躍戦場に赴き、一死君国に奉ずる決意を固めつつ、
而も、沈着冷静に勉学すべきであります」

この祝辞は、念願だった第二工学部の創設が成った昭和17年4月の
入学式のものであろうと思われます。

昭和18年2月。
死の床にある平賀を見舞いに来たのは、

艦政本部で苦労を共にした竹中と、

山岸でした。
ここに谷がいないのは、彼が早逝したということでしょう。

「どうだね。皆んな元気にやっとるかね」

「はい。皆一生懸命にやっております」

「いいふねが・・・・続々できて陰ながら喜んでいるよ」

「山岸くん。覚えとるかね。土佐を沈めたときのことを」

「は」

「皆・・・泣いたねえ・・・あの気持ちだ。
あの気持ちさえ失わなかったら、日本の海軍は益々無敵になっていくよ」

「君たちがうらやましいよ」

竹中が

「私たち折行ってお願いがあるんですが」

山岸が引き取って、体が回復するまで総長をやめてはどうか、
というのですが、うーん・・この容体はそういう段階かな。

しかしこんな状態でも平賀は、自分が役に立つ限りやめられない、
と弱々しい声ではありますがキッパリというのでした。

「これが最後の御奉公になる」

「先生!」「先生!」

「斃れてのち止む・・斃れてのち止む・・
戦えるよ・・・わしはまだ戦える」

彼の脳裏には大海原を駆ける軍艦の姿がありました。

その艨艟の姿に重なる軍艦行進曲で平賀譲の物語は終わります。

 

平賀は昭和18年2月17日 午後7時55分、東京帝国大学医学部附属病院で
嚥下性肺炎により64歳にて死去しました。

翌日遺体から取り出された脳は現在も東大医学部に保存されています。

 


「夕張」誕生〜映画「怒りの海」第4日

2020-09-24 | 歴史

稀代の天才技術者、平賀譲の伝記でもある国策映画、
「怒りの海」、4日目になります。

 

コンサート行きをあくまでも渋って見せる平賀でしたが、
しぶりながらもいつの間にかその気になったらしく、次のシーンでいきなりコンサート会場。

考えが煮詰まってしまっているのも平賀をその気にさせた理由でした。

オーケストラはNHK交響楽団の前身である新交響楽団だと思われます。
戦争中は歌舞音曲の類は一切禁止されていたように思っている人もいるかもしれませんが、
交響楽団は普通に活動を行なっていました。

新響は終戦のときにはベートーヴェンチクルスを行なっていたそうですし、
その後演奏会を再開したのも9月からです。

冒頭絵にも描いたこの指揮者がとにかくクローズアップされています。
この指揮者は山田和男、のちの山田一雄の若き日の姿だったのです。

新交響楽団は戦前近衛秀麿の後任としてヨーゼフ・ローゼンシュトック
常任指揮者に就任しましたが、ユダヤ人だったため、戦争が始まると
彼の出演に制限がかかるようになってしまい、その代役を務める形で
ローゼンシュトックに指揮法の薫陶を受けた(山田はピアノ科卒だった)
山田が振るようになっていたということで、映画出演となったのでしょう。

若き日のヤマカズ

皆の記憶にあるヤマカズ

わたしは晩年の白髪の姿しか知らなかったため、映画を見て
最初これがあの山田一雄とは全く思わず、検索を重ねて
若い時のヤマカズさんの写真を発見したときには驚きの声をあげてしまいました。

曲はバッハ作曲「パッサカリアとフーガ」。

ここでコンサートマスターが映るのが常道だと思うのですが、
なぜかそれがビオラのトップです。
映画スタッフの勘違いかな?

当時のコンマスは女優の鰐淵晴子の父君、 鰐淵賢舟でした。
鰐淵晴子さんは女優として有名ですが、ヴァイオリニストでもありました。
父親とドイツ人の母親の英才教育の賜物だったと言うわけですね。

壮大なフーガを繰り返しながら進む短調の荘厳かつ悲壮な交響曲。

しぶしぶ引っ張ってこられた態の平賀でしたが、
思わずその音の渦に身も心も引き込まれていくのでした。

 

 

複雑で多層的な旋律を奏でる各パート。

そしてその音の流れを棒一本でまとめ上げる指揮者。

同時に平賀は自分の信念を形にするために自分の下で
苦悩し足掻いている部下たちを思うのでした。

交響曲の旋律をバックに林を歩く竹中。
釣りをしながらも
設計が頭から離れない山岸。

相変わらず誰もいなくなった事務所で一人図面に向かい続けている谷のことを。

平賀の脳裏に去来する思いは如何なものなのでしょうか。

楽曲の多層な追いかけ合いが終わり、最終部分で専門用語では追迫部、
ストレッタという大きな一つの旋律となってエンディングに突入したとき、
平賀はたまらず、曲が終わりきらぬうちに席をあとにするのでした。

谷にスタッフを全員集めるように命じたのち、
平賀は何かを決心したふうに資料室に足を運びました。

ちなみにこの廊下を歩くシーンで壮大なフーガは終わりを告げます。

 

そこには艦政本部の会議でやりあった機関設計者の高木(志村喬)がいました。

「おお、あなたもここでしたか」

平賀は何事もなかったように声をかけますが、高木返事しません。
しかし平賀は構わず目当ての資料を本棚から探し出しにかかります。

ちらりと横目で平賀を見ながらも前回のことがあってか
目を落としたままの高木。

資料室には一つしか机がないので、こうなります。
これは気まずい(笑)

互いが互いをチラチラ見ながら何か言おうとして呑みこみますが、
口を開くきっかけがなかなかつかめません。

高木に至っては立ち上がって本棚の間でタバコに火をつけようとしますが、
ライターの調子が悪くカチカチやってあきらめたり、
この一連の名優二人の無言の掛け合いはなかなか見応えがあります(笑)

このときの大河内の演技も、志村のライターが点かないのを見て
一瞬ポケットに手を入れかけますが、志村がタバコ入れをしまうと
すぐに手を出したりして、文字通り「芸が細かい」。

高木が黙って荷物を片付け出すと、平賀はあえて自分のタバコに火をつけてから、
さりげなくマッチを机に置いて、

「はい」

高木はほっとしたように

「ありがとう」

口を聞くきっかけができたので、平賀は早速さりげなく世間話風に

「ご苦労ですな。日曜日まで」

「いや、あなたこそ」

「実はね高木さん、今朝ふっと思いついたことがあってね」

「いやわたしもなんだ。
子供と遊んでるうちに妙にフッといい知恵が浮かんできましてね」

「歳を取るとお互いにセッカチになってねえ」

「はっはっは」「まったくですはっはっは」

話が何だかつながってませんが、二人には多分わかっているか、
あるいはどうでもいいことなんでしょう。
とにかくここまできたらもうあとは親交まっしぐら。

「わたしの方はじつは見通しがつきましてね」

「僕の機関の問題もうまくいきそうなんだ」

お互いが自分の考えを先に披露しようとペンの取り合い。
また喧嘩になるのでは?とハラハラさせられます(嘘)

平賀は先に説明を始めますが、そのシーンはまるまるカットされており、
高木の「機関についてのアイデア」も明らかにされないままです。

シーンはいきなり艦政本部。
平賀が部下を集めて今度は彼らに向かって説明しています。

「つまり、こう・・鰹節のような格好で作るわけだ」

すると見ていた誰かが

「昔の『◯〇〇○型』(聞き取れず)に似てますね」

「そうね・・・
で、波をかぶる舳先から砲塔にかけてはこんなふうに思い切り高くする」

「それからこの機関部のあたりは傾いた時の復原力を持たすために
この程度の高さにするんだね」

「後ろの砲塔から〇〇にかけては波をかぶらない程度に思い切り低くする。
つまり、上甲板がこんなふうに三段の曲線を描くんだ」

さて、これを読んだだけで、「夕張」という名前がすらっと出てきたあなたは
おそらく「艦これ」ファンかさもなくば船屋さんでしょう。

「こう言うふうにすれば船を相当細くしても折れたりすることはない」

「第二の狙いとしては、従来防御だけの目的で
舷側や甲板に張っていた装甲板を、
艦の構造を厳重にするような張り方に工夫するんだ。
たとえばだね」

(書いている手元を映さず、技術者がなるほど、という)

「目方を節約するために『か〇〇〇〇』なんかも出来るだけ沢山あけるんだ」

この5文字がどうしても聞き取れませんでした。

「主任!わたしのカンじゃ今度こそきっとモノになります」

「カンじゃないよきみ、わたしは確信を持っとるよ」

相変わらず負けず嫌いの平賀先生です。

席を外していて平賀の説明を聞いていなかった竹中が戻ってきました。
誰からもなにも言われていないのに平賀の描いた船体図
(ちなみに走り書き)を見ただけで首を振って

「素晴らしい・・・・!」

それでわかるんだ・・。

「世界一の船ができるぞ!」

そしてそれからはスタッフが不眠不休で頑張る様子が描かれます。
眠気と戦いながら計算する山岸。

平賀の走り書きを見ただけでその素晴らしさに気づいた竹中。

時折咳をしながら机に向かう谷。

軽巡洋艦の常識を覆す画期的なデザインで世界を瞠目させ、ジェーン年鑑には
特記項目付きで掲載されるなど注目された「夕張」は、
平賀譲の才能が遺憾なく発揮された、海軍史上特筆される艦とされています。

苦難の末、平賀の名前を造船史に永久に留めることになった
「夕張」の完成後、続々と生み出された軍艦が
実写映像をバックに紹介されます。

気になるのは、1944年当時海軍にこれらの軍艦は
残っていたかと言うことなんですが><

これはおそらく名前の上がったどれかでしょう(当たり前だ)
皆様はこの写真だけで艦名がお分かりでしょうか。

 

さて、そんなある秋の日。
菊作りの腕が玄人並みだったという平賀の作品、
「扶桑秋」が天位(多分特賞のこと?)を取りました。

わざわざその菊を見にきたらしい海軍士官とその妻。

「まあお見事ですこと。
平賀様って菊作りまでこんなにお上手なんですのね」

横から体を乗り出した子供が

「お父さん、あったよあったよ、ここに」

振り返ると、あらそこに”菊作り菊見るときはただの人”であるところの
(これを知っている人はきっと結婚式に何度も出席したことがある)
平賀譲先生ではありませんか。

軍令部に移動になったばかりの浅香少佐でした。
挨拶を交わすや、浅香少佐、

「閣下、今度家内をもらいましてね」

お互いに丁寧に頭を下げ合う両家の女たち。

不忍池の周りをそぞろ歩きながら浅香は平賀に
ロンドン会議に随員として参加することを打ちあけます。

「奴らは我が巡洋艦の優秀な性能に震え上がったと見えます。
しかし我々は覚悟をしております。
断じて閣下ご苦心の危檣(高い帆柱)を奴らの思うままにはさせません」

しかし、平賀はそれに対し、

「我々造船官には心配ご無用です。
なあに、邪魔が入ったらまた新手を考え出しますよ」

女性子供は笑いさざめきながら後ろを歩くのでした。

ワシントン条約決定後、巡洋艦以下の補助艦艇については無制限だったことから、
平賀設計の軍艦群が証明するように、条約の範囲内で最大限の機能を持たせた
「条約型巡洋艦」を建造することで日本は海軍力を維持しようとしましたが、
早い話アメリカとイギリスがその補助艦艇に制限をかけてきたのです。

そんな中夜遅く(9時)まで仕事をしている造船官の谷。

谷の咳き込む声を聞いてハッとする竹中。

心配して皆が机の周りに集まってきます。

そこに平賀主任が帰ってきました。

「どうしたんだ」

「はあ、何でもないんです」

しかし言った端から床に崩れ落ちてしまいます。

しかし谷、大丈夫ですといったその後に続けて

「主任、帝国海軍は身動きできぬほど縛られてしまったのです。
前には主力艦と航空母艦だけでした」

前、というのはもちろんワシントン条約のことです。

「今はもう巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、何もかも制限されてしまったのです!
我々は・・我々はどうしても数を生み出さねばなりません」

「私はまだ働けます。お願いします」

平賀主任は休めともやめろともいっていないんですがそれは。

ワシントン条約に続くロンドン軍縮条約の結果が、
造船の現場に与えた衝撃は計り知れないものがあったと推察します。

 

続く。


艦政本部会議での葛藤〜映画「怒りの海」 3日目

2020-09-22 | 映画

1944年海軍省後援の国策映画「怒りの海」、三日めです。

 

ある日、平賀少将が議長となって艦政本部の会議が行われていました。
この会議の終着点はただ一つ。

5000トン級の巡洋艦と同等の能力を如何にして3000トン級以下の船に持たせるかです。

平賀はそれが可能だと信じている、と説明を始めます。

排水量に対する裸の船体の占める重さの割合は、
駆逐艦および戦艦がそれぞれ35%程度なのに、
巡洋艦は45%、つまり10%多いわけです。
この点を工夫すればこの程度の重さの節約は十分可能だというのです。

そして排水量に大きく作用する機関、これを駆逐艦並みの速力を出すのに
巡洋艦の重量の割合は駆逐艦より大きいので、この点を・・。

といいかけたとき、

「ちょっと!」

と口を挟んできた軍人(高木少将)がいます。
この人、志村喬ですよね。
すぐに

「いや、やっぱり後にします」

というのですが。

平賀が続けます。

「攻撃力を弱めることなしに排水量を節約するには機関が問題になってきます」

なるほど・・・といったっきり黙り込む面々。
これは理屈はともかくどうしたらいいかわからんと見た。

「で・・・船体の技術的処理はどの程度まで進んでいると?」

「残念ながらはっきりした見通しはついていませんが」

うーん・・それっていまのところ「不可能」ってことでわ?

先ほど口を挟みかけた志村喬がここで、

「機関そのものは軽くなりませんよ?」

 

高木少将、実は機関製作部門の主任だったのです。

痛いところをついちゃった感じ?
全員またもし〜〜〜〜んとしてしまいました。

能力があり馬力の出る機関を軽く作る
つまりこう言うことなのですが、
それが簡単にできれば誰も苦労しないよね。

防御の点からいっても巡洋艦を駆逐艦並みに軽く作ることはできないのですし。

改めて機関を設計する側からお願いしておきます。
巡洋艦の機関は攻撃兵器並みに従来必要とされていた割合だけは、
絶対に動かせ、ない!

志村、いきなりエキサイトして声を張り上げてきました。

「そりゃあ困る。私には肯けない」

「いや、私もこれだけは譲れない!」

「それは君、横車だよ・・私も譲れん!」

地味で派手な場面の全くないこの映画の唯一不穏なシーンがこれです。

「お互いに信念の相違ですから」

「信念?」

「そうです!」

「まあ高木さん」(笑)

しかし二人は構わず、

「不可能です!」

「その不可能を可能にしてくれたまえ!」

とヒートアップしていきます。
ここで言い合っている言葉は残念ながら最後まで聞き取れませんでしたが。

し〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん。

取り繕うように平賀が、

「今は言い争っている時ではない。
1日でも早くいいものを作って海に浮かべることなんだ。
そう思わないか」

高木は返事せず、会議は沈黙のうちに終了します。

平賀は自分のチームを集めて宣言しました。
機関を軽くするのが不可能ならば、艦体構造を何とかせねばならない。

皆がどれだけ大変かはわかっているといいながらも、

「事ここに至っては理論じゃない、実行だ。
この上は君たちの経験と気迫とで作り上げる他、道はない。
熱意と誠意とがあれば必ず道は(以下略)」

技術者の割には精神論で来ますなあ。

ここでメンバーの一人、竹中から、

「高木閣下は本当に不可能と言われたのでしょうか?
もう少し機関の方にも何とかしてもらわないと」

ともっともな意見が出ます。

すると平賀閣下は呆れたように

「君ら・・・それでも帝国海軍の造船官か」

と言い放ちました。

「・・・・・・」

「君たちは援護射撃がなければ敵陣に突っ込めんのか!」

次々と犠牲を出した海軍の猛訓練をどう考えているのか、
そんな不平がましい態度で御船を作り奉るのか云々と平賀先生、
大正論を浴びせかけ、皆(´・ω・`)

「主任・・・っ!」

何か言いたげな竹中に次を言わせず、

「頼まん。僕ひとりでやる」

平賀少将、すねて部屋を出て行ってしまいました。

自宅でもそのことを考え続けて平賀少将、思わず

「馬鹿め!」

と独り言が漏れてしまいます。
びくっとする妻(笑)

「お父さんご機嫌悪いわね」

「疲れてるんだよ」

家族も慣れっこになっているってかんじですか。

「ご飯の支度ができましたよ」(みつ子)

これによると、平賀家には原節子の長女を筆頭に
女、男、男、女と子供がいたらしいことがわかります。

ただし、wikiによるとサントリーの佐治圭三氏に嫁いだのが
「三女」ということなので、もう一人この後できたのかも・・。

 

ちなみに平賀には菊作りの趣味があり、その腕はプロ顔負けで
受賞を何度もしているという一面がありましたが、ここで男の子が

「お父さん、今年はだめだね、菊。
お椀みたいなのちっとも咲かないや」

というと、子供相手に平賀は

「抜いてしまえ、咲かんやつは」

と吐き捨てるようにタバコを投げ捨てながら言うのでした。
男の子は嬉々として

「構わないのお父さん?」

とさっそく菊を抜きにかかりますが、もちろん姉に咎められます。

書斎に入って行った平賀は、またしてもそこに
「土佐」の文鎮を目に止めます。

精魂込めて設計したものの建造し終わらぬまま廃艦になった「土佐」。

条約締結によって手足を縛られたに等しい造船官の無念さの象徴を、
平賀はひとり凝視し続けるのでした。

 


平賀の苦難の日々が始まりました。
如何にして華府条約で削減された軍艦保有率を性能で補うための
「重量を減らしつつ防御力もある船」を作るか。

平賀の頭の中は寝ても覚めても艦艇設計のことしかありません。
(ということを表すための映画的表現)

艦艇装備研究所の実験装置の映像がもう一度出てきたりします。

寝ていたかと思うとむくりと起き上がり、目を爛爛とさせて
机に向かい、やおら図面を引き始めるのでした。

このあたりセリフなしで低音の音楽に乗せて平賀の頑張っている様子が描かれます。

しかしいかに天才の平賀といえども、軽くて装甲力があり、
攻撃力のある巡洋艦など、そう簡単にできるものではありません。

火鉢にもたれかかったりため息をついてみたり・・。
そして何をするでもなく夜が明けてしまいましたの巻。

「しゃあない、風呂でも行くか」

この頃は普通に皆風呂屋に通っていて、風呂屋も早朝から開けていたんですね。

「相変わらずお早いですね、先生」

顔見知りの人が子供を連れて入ってきました。
平賀がしょっちゅう朝風呂に入りにきていたとわかるセリフです。

子供が朝っぱらから風呂場に持ち込んだ船のおもちゃを見て、
当たり前のように目黒の実験場の水切り装置を思い出す平賀(笑)

いきなり難しい顔になり、男が

「今年の菊はいかがでした?」

とお愛想をするのも耳に入らぬ様子で、突然湯船から上がってしまいます。

お風呂のおもちゃで何か思いついたのか?
家に帰るなり高速唾つけページめくりで資料に没頭(笑)

そんな父親を気遣って、娘のみつ子はある策略をしていました。

「あたし自信があるわ」

と弟に向かって明るく宣言するのを母親が聞きとがめ、

「何のお話?」

「みっちゃんがね、今日の演奏会にお父さんをお連れするって言うんですよ」

母親は音楽に趣味のないお父さんが行くわけがない、
と決めてかかりますが、
みつ子はあきらめません。

丸めた紙を床に放り投げたかと思ったら、拾い上げてもう一度凝視し、
ため息をついて頭を抱え込む。

せっかく銭湯でいい考えが浮かんだと思ったのにドツボにはまってしまう平賀。
こんな調子なので、身体に障るのではと言うのが家族の心配なのです。

あきらめて朝食を取ることにし、居間にやってきた父親をみて、
これはチャンス、と顔を輝かせるみつ子。

「おとうさま!」

床に新聞を置いて読んでいる父に彼女は前から編んでいた
セーターを渡します。

「暖かそうだね。なにかご褒美あげようか」

「ええ!」

実は彼女が狙っていたのはこれだったのです。
なかなか策略家ですな。父親似かしら。

なのに父親は

「お母さんからもらいなさい」

するとみつ子、

「あらあん、お父様からいただかなくちゃあ」

「お父さんは忙しくて買いにはいけないよ」

「今日ほんの3時間くらいわたしとご一緒に」

ご褒美にコンサートに一緒に行ってくれ、というのです。
こんな美人の娘さんに一緒にお出かけしてくれと懇願されるなんて
父親冥利じゃないですか。行ってやりなさいよお父さん。

ところがお父さま、話にならんと言う感じで相手にしません。
するとみっちゃんったら、どんな音楽に興味ない人でも
おそらく知っていることを、渾々と父親に向かって説得するのでした。

「でも交響楽にはお父さん、百人前後の演奏者が出るのよ?
とても楽器の種類が多くて、それは複雑な組み合わせになってますの。
ですから指揮者がいて、初めて一つの音楽に纏まっていくんですわ。
指揮者がダメなら、それこそめいめいの演奏者が勝手な調子を出してしまって、
どんな優れた作曲でも魂が抜けてしまいますの」


もし彼女が父親の今置かれている苦悩を知った上で言っていたとしたら
この娘何者?と思わずにいられない深謀遠慮が感じられるアプローチですが、
もちろんそうではなく、娘は無邪気に父親に息抜きをして欲しいのです。

実はさっきの言葉に十分心動かされているっぽい平賀なのですが、
すぐに行くと言ってはなんとなく家族に対する示しがつかんとばかり、

「お父さんは仕事の方が楽しそうだ」

と苦笑いしながらいうのでした。

父思いの娘の策略は、果たしてこの頑固親父を動かすことができるのか?


続く。


「土佐」沈没〜映画「怒りの海」2日目

2020-09-20 | 映画

戦時中の海軍省後援による国策映画、「怒りの海」二日目です。

未完のままワシントン条約の結果を受けて廃棄処分となり、
今横須賀港を後にする「土佐」。

平賀譲主任ら造船官たちだけは帽子を振らず、ただ自分たちが心血注いだ
「土佐」の引かれていく姿を目に焼き付けるように凝視していました。

そしてすべてを終え事務所に帰ってきた平賀のデスクに、
小間使いが置いて行ったのは、「土佐」廃艦の記念品です。

それは「土佐」を象った文鎮でした。

わたしはこれまで進水記念として配られた軍艦の形の文鎮を
いろんな博物館などで見ましたが、廃艦記念の記念品というものは
寡聞にして知りません。

海軍というのはこういう儀式をきっちりやるところですから、
もしかしたらこういう経緯で廃艦される船に対しても
誠意を尽くして通常艦と同じように最後を見送ったのかもしれませんが。

事務所の全員のデスクに小間使いが記念品を配っているそのとき、
遥か彼方から爆音が聴こえてきました。

艦政本部の造船官たちは粛然と静まりかえり、窓の外を凝視しました。

心臓をえぐるような爆音が起こるたび、人々は動きを止めます。

造船士官の竹中は、ちょうど計算式を書き込んでいた紙に
爆音が起こるたびにチェックを書き込んでいます。

実際には廃艦式典をした直後にいきなり実験が始まるなどは
あり得ないのですが、(土佐も実験艦になったのは2年後)
そこは映画ですのでドラマチックに、事務所にいながら
「土佐」がやられている爆音が手にとるようにわかるという設定です。

同じく造船士官の谷(月田一郎)は、手を止めていましたが、
振り払うように定規で線を引きなおします。

しかし民間人の山岸はたまりかねて耳を押さえてしまいました。

自分たちが生み出そうとしていた「土佐」が、
今この瞬間他ならぬ海軍の手によって葬られようとしているのです。

 

1924から「土佐」は、数ヶ月に渡る実験に従事しました。
実験内容は、亀ヶ首試射場(呉港外)からの砲撃、砲弾や魚雷などに対する防御力強化、
新型砲弾(後の九一式徹甲弾)の効果の研究で、この結果得られたデータは
その後の1万トン級巡洋艦、「妙高」型、「高雄」型、「最上」型、そして
「大和」型の設計に生かされることになりました。

そのとき平賀主任が事務所に戻ってきました。

何事も起こっていないかのように、いつも通り竹中に仕事を命じ、
耳を押さえている山岸に目を据えると、

「何の真似だい、山岸」

書類を机に置き、山岸にも概算を命じます。

「はっ・・・今ですか?」

「今すぐだ」

「できません私には!」

平賀は山岸の顔をしばし凝視してから、

「なぜ」

そのときもう一度爆音が起こり、山岸は机を立ち上がります。

「山岸!」

皆そちらを息を飲んで注目しました。

「我々の仕事は土佐や加賀を作るだけですんだわけじゃないぞ」

「わかっております!そりゃあ・・。
しかしあれには、土佐には、わたしどもの魂が籠っています。
土佐を設計したときのあの精魂込めた日々、私たちには
忘れようったて忘れるわけにはいきません」

可愛い我が子も当然の船だ、という山岸の熱弁を皆息を飲んで聞いています。

「竹中さん、そうでしょう?みんなもそうだろう?
主任だってあれを平気で聞かれるはずはありません!」

平賀はそれに何も答えませんでした。
答えられなかったのです。

 

確かに当時の造船関係者の間では自嘲的に

「土佐」が「ドザ」(土左衛門)になった

と口の端に乗せられていたのは事実ですが、造船官たちが
こんなに動揺して嘆き悲しんだというのは若干やりすぎの気がします。

実験結果は造船官にとっても今後の貴重な研究の礎となったわけで、
そもそも当の彼らが実験の意味を知らないわけがないのですから。

 

「土佐」は1925年、2月8日仮搭載物の撤去や自沈用発火装置の取り付けを行い、
「摂津」とともに佐伯を出発し、翌2月9日、艦名の由来となった
高知県沖の島西方約10海里地点にて自沈しました]

自沈開始は午前1時25分、全没は午前7時頃、自沈地点の水深は350フィートです。

 

ワシントン条約後、つまり手塩にかけた建造艦を
涙と共に廃棄したときから
一瞬にして5年が経過しました。
つまり昭和2年のことです。

これから語られるのが同年起こった「美保関事件」のことだとすると、
嵐の中の訓練中、司令官加藤寛治が、旗艦の艦橋でご機嫌です。

「左舷に近づいたのは?」

「第一水雷戦隊です」

「もっと突っ込ませろ」

「なかなか気合が入っとる」

その時、史実の通りだとすれば、「神通」が「蕨」と、
そしてそれを見て避けようとした「那珂」が「葦」と衝突しました。

「神通」は大破、「蕨」の乗員はほぼ全員助かりませんでした。

この事故は、華府条約に伴う軍艦保有数の削減を、東郷元帥のお言葉通り
猛訓練と個艦優秀主義によって補おうとしていた中起こりました。
悪天候を推して激しい訓練を行なったことが原因ともいえます。

しかしここで不思議な展開が。

長官が、

「飛行機は飛ばんのか」

と唖然とするようなことを言い出すのです。
なんのために?

一人がえっ・・という感じで返事を口籠ると、もう一人が
長官に忖度でもしたのか、こんなことをいうのでした。

「長官、飛行機飛ばせます!」

しかし、ここで嵐のシーンはなぜか一旦途切れます。

打って変わって晴天の空を水上機が飛来するシーン。
これは現場に悪天候をおして救難に出動する飛行機が
どんな訓練をしているかという説明のつもりのようです。

ここはおそらく横須賀の追浜。
つまり間違いなく本物の海軍の交通船が登場です。
竿で岩壁を押している水兵さんたちは紛れもなく本物ということになります。

戦中の国策映画でははよく軍協力のもとに本物の兵隊がエキストラをしていますが、
わたしなどそういうのを見るとこの若い人たちはこの後どうなったんだろう、

などと必ず考えてしまいます。

降りてきたのは平賀少将をはじめとするおなじみの造船官たちでした。

早速ここでも考え事に没頭して勝手な方向に歩いて行ってしまう平賀。
平賀には仕事に没頭するあまり周りの些事にかまわず
ちょっとした変な行動をとることが多々あったと言われています。

考え事をしながら歩いていると、顔見知りの軍人たちに遭遇しました。
海軍省検閲済みだけあって、俳優の敬礼はちゃんと海軍式です。

右の人は駆逐艦乗り。

「巡洋艦の方はお進みですか?」

といきなり核心に迫ったことを世間話として口に乗せると、

「小型のね・・・小型でうんと威力のあるのをと思ってね」

すると左の飛行士官が

「ほう・・・写真機で言えば『ライカ』ですな」

当時はライカが「小型で優秀」という代名詞だったんでしょうか。

「早く乗ってみたいですなあ」

「乗り心地は保証できません。あくまでも戦う船なので」

「いや、長屋住まいは慣れてますからな」

そんな和気藹々とした会話を交わす彼らの頭上を旋回していた水上機。
飛行士官も言うように飛行機も激しい訓練中だったのですが、
いきなりきりもみを始めました。

「やった」

このセリフは、じつに現場っぽいと思いました。

さすが現役軍人。
海に墜落した飛行機を見ても、眉を引き締めるだけです。

誰もひとことも発せず、身動きもせず、飛行機の消えた海面を凝視するのでした。

場面は再び嵐の海の上に戻りますが、先ほどの「美保関事件」で
出動した水上機ではなく、今度は
複葉機、艦載雷撃機の着艦訓練が行われています。

この頃の複葉機ですから、当然コクピットは外にむき出しで、
前方に申し訳程度のシールドガラスが付いているだけのもの。

しかしこちらは荒天をおして訓練を行ったのではなく、
訓練中に天候が急変してしまったということのようです。

母艦では全機帰還命令を出しましたが、一機が戻りません。

コクピットの澤井少佐は操縦しながらなぜかにやりと不敵に笑うのですが・・。
記事によると、着艦しようとして機体がマストに激突し、お亡くなりになりました。
(-人-)ナムー

場面は変わってこちら平賀邸では書斎で平賀が仕事中です。
合間に「土佐」の廃艦記念文鎮を手にとって眺めつつ・・。

平賀の妻、カズが夫のためにの紅茶を淹れています。

部屋には原節子演じる平賀の令嬢、みつ子が奏でる
ショパンの「雨だれ」が流れています。
インテリで文化的な家庭であることが窺えます。

しかし母親は、夫の邪魔になるとばかり、

「みつ子さん、もう遅いのよ」

「でもお父様まだおきていらっしゃるでしょ」

「ですからお邪魔になるといけないでしょ」

「お慰めしてるのよ。
お疲れの時は音楽ってとってもいいものなんですけど」

「だめですよ。ご趣味のないお父様には」

ショパンの雨だれが聴こえたくらいで気が散るようなタマだろうか、
という気がしますが(笑)
それにしても
この頃の「山の手言葉」は美しいですね。

妻は仕事中の夫の机に黙って紅茶を置きますが、
夫はその紅茶のカップにタバコの灰を落とします。

右、灰皿。
どうしてこの形状の灰皿を使っている人がカップに上から灰を落とす?
と突っ込みどころ満載です。

今時の妻ならせっかくわざわざ紅茶を淹れたのにお礼もないとか、
カップに灰を入れるなんてとか、そもそもタバコは健康にどうなのとか、
黙っていないところでしょうけど、この頃は違います。

仕事に夢中になるとどうしようもない旦那様、という感じで
彼女は愛しげに笑い声を立てるのでした。

「子供たちは寝たのかい」

「コウイチとみつ子はまだ・・」

「そろそろ学期試験だねコウイチは」

「そうだ、みつ子のピアノはだいぶ上達したみたいじゃないか」

ご興味が全くないってことはないみたいですよ奥さん。

「お紅茶取り替えます」

「はい」

はいじゃないが。あんたが灰いれたんだろうが。一言何かないんかい。

艦政本部での水路実験が行われています。
ここはわたしの記憶に間違いがなければ目黒の艦艇装備庁、
艦艇装備研究所に今でもある実験用水路のはず。

艦体の水の抵抗の実験(らしきこと)が行われています。
山岸さんが悲壮な声で一言。

「だめだ!」

実験結果をもとに平賀先生がお説教。

「君、僕があんなに言っただろう!
要求された〇〇は〇〇せないんだよ!」
(聞き取れなかったのでお好きな言葉を入れてください)

「はあ、しかし、スピードのことを考えますと・・」

「もちろん〇〇33ノット、これは絶対に動かせないんだ。
あちらを立てればこちらが立たんのならば何も苦労はないんだよ。
あちらも立てこちらも立てるのが我々の狙いなんだ」

「大丈夫でしょうか。
自分の設計でも従来のものよりずっと長くなっているんですが」

そこで一般原則に捉われず工夫をしろ、と平賀少将はおっしゃいます。

「とにかくやり直したまえ!」

 

「速力は30ノット以上も出ているんだ。
(次のライン全く聞き取れず)艦体の強度が肝心なんだ。
波に対する抵抗を十分考えに入れてもう一度持ってきたまえ」

実験が失敗して帰ってきた椅子に山岸は座り込み、

「やっぱりあの型じゃ重心が悪すぎるんだ」

急展開した時に倒れるだけでなく、魚雷の発射もできないというのです。

「3000トンで5000トンの威力を持たせるなんて無理なんだよなあ」

ワシントン条約による艦艇激減のしわ寄せは技術者にもきていました。
大型艦の威力を持つ小型の軍艦を作るなど、魔法でもなければ不可能です。
船の形をいくら変えても機関が同じなら何の意味もないですしね。

 

しかし平賀とそのチームは、その不可能に挑戦しようとしていました。

続く。

 

 


華府軍縮会議〜映画「怒りの海」 1日目

2020-09-18 | 映画

アメリカ滞在中にブログ作成するつもりで画面をキャプチャしたときには、
本作が海軍省検閲済みのいわゆる国策映画であること、主人公は
あの平賀譲であること、ワシントン軍縮条約の結果についての怒りが
映画のテーマになっていることなどがわかったわけですが、
さていつものように情報を集めようとしたら、これがびっくり。

ウィキペディアはない、映画評もない、もちろん解説サイトもない。
おそらくこの映画の知名度はほとんど皆無に近いのではと思われました。

制作は東宝。
立体的な五線譜に「東宝株式会社」という字が流れる、
戦時中のおなじみ東宝映画のタイトルです。



「海軍省検閲済み第48号」であり、もちろん後援を受けており、
「情報局選定国民映画」でもあるというバリバリの国策映画です。

場面は大正10年から始まりますが、この映画が制作されたのは
昭和19年、1944年のことです。

つまり四半世紀昔に遡っているという設定なのですが、
それだけ時が経てば風俗などもずいぶん様変わりしているはず。
そんな時代考証はしているんだろうかとか、昭和19年といえば
かなり敗戦色が色濃くなっていた頃なのに、映画作ってる場合だったのかとか、
これだけでいろんなことを考えてしまいますね。

「ごがいご〜が〜い」

鈴を腰につけて新聞束を持って走っている号外売りが登場。

音声が不明瞭で号外売りの滑舌が悪く、何を言っているのか
さっぱり聞き取れませんが、最初の

「ワシントン軍縮会議でアメリカが」

だけはわかりました。
不思議なことにこの新聞売り、新聞を配るでもなく、手を上げて
走りながら叫ぶだけ(笑)

折しも海軍省(絶対本物)に入っていく黒塗りの車あり。
霞ヶ関の海軍省跡は現在厚生労働省の庁舎が建っています。

海軍省発表の記者会見が開かれました。

「11月12日、ワシントン会議劈頭における合衆国全権、
ヒューズ国務長官の提案中、廃艦の条項について詳細を発表します」

これによると

●アメリカ合衆国

目下建造中の主力艦15隻
「デラウェア」「ノースダコタ」を除く老齢戦艦15隻

●イギリス

未起工であるが既に経費を支出したもの、
「キングジョージ5世」級を除く第1戦艦、老齢弩級戦艦15隻

●日本

未起工戦艦、巡洋艦8隻

既に進水した戦艦「陸奥」建造中の「土佐」「加賀」、
巡洋戦艦「天城」「赤城」その他「高雄」など

ただでさえ聞き取りにくい海軍省の軍人の声に悲壮な音楽が重なり、
余計に何を言っているかわかりません(´・ω・`)

横須賀工廠のつもりでしょうか。
建造中の軍艦「土佐」という設定ですが、これはさすがに模型だと思われます。

誰もいない工廠で「土佐」を前に艦政本部のメンバーが、

「この『土佐』やできたばかりの『陸奥』を廃棄するって
そんな取り決めってありますかね」

「世論だよ。新聞を見たまえ。
世間では陸奥一隻助かるかどうかのヤマカン的興味しかもっていないんだ」

「残念ながら僕には希望的観測は持てん」

と絶望的な会話を交わしています。

さてここで熱心に設計図を見ている後ろ姿の主人公が登場です。
平賀譲を演じるのは大河内伝次郎

平賀譲という人は兵学校を志望するも近眼のため体格検査ではねられ、
仕方なく東京帝大に行って、卒業後海軍造兵廠に入り、そこで認められ、
この映画の最初のシーン、ワシントン条約締結の頃には造船少将でしたが、
なんとその年齢が聞いてびっくり、32歳なんですよ。

愚痴を言いつつ帰ってきたこのおっさん、山岸は艦政本部の民間設計者のようです。
帰ってきた山岸に向かって平賀少将、

「なんだいこの設計は!」

「その先だよその先を越すんだよ君!」

「僕らは帝国海軍11号艦を設計している。そうだろ君!」

何回聞き直してもセリフが聞き取れないところがあるんですが、
平賀少将が君君君君連発しながらダメ出しをしているのはわかった。

しかし、この劣悪な録音一つとっても、お金がない中の国策映画であり、
映画の品質は二の次三の次であったことが窺えようというものです。

これはそもそも作品として歴史に残らないのも当然かと・・・。

 

叱られた山岸は憤懣を隠さず、平賀に向かって
ワシントン条約をどう思うか尋ねますが、
平賀はつれなく、

「それが君の仕事に何の関係があるんだ」

「我々造船官はただ脇目も振らず
御船を造り奉ること
努力すればいいんだよ!」

おお、ザ・国策映画ってかんじですな。

なので、平賀が本当に言ったかどうかわからないことを、
しゃーしゃーとセリフにしている可能性が大いにありますが、
このとき平賀先生はちょうど亡くなったあとなので無問題。

というか、平賀譲が亡くなったので追悼の意味で翌年作られた映画なんですねこれ。

しかし、これどうみても32歳の顔じゃないよね?
大河内伝次郎は46歳、32歳から61歳までを演じきって見事ですが、
さすがにこの頃の平賀を演じるには無理があります。

模型を使った廃棄作業の映像には字幕をかぶせて
あまりお金をかけなかった特撮のアラをごまかしております。

「華府」はワシントンの漢字表記で、変換すると出てきます。

「石見」は日露戦争で鹵獲した「アリヨール」です。

日本が設計した当時最大級の戦艦「薩摩」も。

「安芸」は「薩摩」の姉妹艦です。

これらの軍艦を標的とした廃棄作業を行なった海軍飛行隊の
実行部隊パイロットの中には若い頃の大西瀧二郎がいました。

人員削減のためのリストラだけでなく、兵学校でも
入学生の数を大幅に縮小するなどの動きがありました。

さて、そんなことなどあずかり知らぬ「世間」を表すのは
贔屓の芸者衆を三人引き連れてどこかにお出かけする旦那。
彼らが笑いさざめきながら人力で通り過ぎる同じ道で、

対照的な表情の海軍軍人たちとすれ違います。

怒りを含んで彼らの後ろ姿を立ち止まって見送る若い軍人吉野は
すぐに仲間に窘められますが、窘めた軍人もまた苦々しげに、

「大戦景気に浮かれやがって、娑婆の奴らあの体たらくだ」

すると吉野は、

「娑婆か・・・この俺が明日から娑婆の風に当たるんだ」

大戦景気というのは第一次世界大戦による生産業の好景気のことですね。

吉野、じつはリストラ宣告されてきたばかりだったのです。

「飲もうよ。今夜は大いに飲もうよ・・・なあ?」

「貴様はまだ見たことなかったな?矢守の裸踊り」

「そうそう、墨で腹に人の顔を描いてな」

「よし、滅多に公開しない代物だが今夜は吉野のためにご披露するか」

そうそう、海軍軍人は最後までユーモアを大事にね。あまり面白くなさそうだけど。

この後彼らは「加藤閣下」の見舞いに行くことにして歩き出しますが、
見事に四人の歩調が合っているあたりがさすが海軍省検閲済みです。

彼らが通り過ぎたあとには、

「平和記念東京博覧会」

のポスターが映ります。

第一次世界大戦終了を記念し、産業発展のために行われた博覧会です。
折しも彼らが海軍を去る前日、博覧会は佳境に入り、
花火大会が行われていました。

彼らが訪問する「加藤閣下」のお住まい?
加藤閣下とはいったい誰のこと?

おそらく加藤友三郎のことでしょう。

中央加藤

加藤は「八八艦隊計画」を推進した中心人物でしたが、ワシントン会議では
米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成し、
これによって世界の「好戦国日本」の悪印象は一時的ながら払拭され、
各国代表に

「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」(痩せて背が高いため)
「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスをもった提督)」

と称揚されました。

その後彼は内閣総理大臣に就任しますが、在任期間に大腸癌に斃れ、
青山南にあった自宅で療養中だったのです。

まるで病院のようなご邸宅ですね。

若い軍人たちは、口々に平和に浮かれた世間のアメリカ迎合を嘆き、
華府会議の「敗北」は国民の後押しがなかったせいだ、と言います。

いやちょっとお待ちください。
アメリカの提案を積極的に支持したのは目の前の閣下なんですがそれは。

この頃(昭和19年)には、加藤は決定を覆そうとしたということになってたのかな。

しかし加藤は若い軍人たちを噛んで含めるように嗜めるのでした。

「軍艦は減っても海軍魂は減らんはずじゃ・・
東郷閣下はそう慰めてくださった。

それに訓練に制限はない!この意気だ」

「はっ・・・」

そこにやってきたのは平賀譲でした。
加藤は平賀に彼らを

「海軍大学の強情者共でな」

と紹介します。

そして、辞めていく予定の吉野を呼び止め、

「身の振り方は決まったのか」

吉野が首を振ると、

「故郷の温泉にでも浸かったらまたわしのところに来い」

顔を輝かせる吉野・・・でも加藤閣下この一年後お亡くなりになるんですよね。
吉野の運命やいかに(涙)

加藤は、造船官たちが八八艦隊の計画に対し
無理を言う軍部の期待に応えてくれたことをねぎらいつつ、
今回の条約の結果になったことを詫びます。

「あんたがたにも申し訳ない・・わしらの力が及ばんでのう」

それに対して平賀は、戦艦の分は巡洋艦で補い、量より質で戦う、
と力強く宣言するのでした。
加藤はもう戦争は始まっている、と言った上でこう呟きます。

「敵はアメリカだ。
はっきりと海の向こうに姿を現しおった」

加藤寛治は1939年(昭和14年)2月9日、脳出血により逝去。
対米強硬派でしたが、最晩年にはアメリカ、イギリスとの交戦を
避けたいという心境にあったともいわれています。

条約で決定され、廃艦が決まった「土佐」の廃艦式典が
5月19日に行われるという告示を造船所の工員たちが見ています。

進水式後「土佐」は造船会社から海軍に所有が移譲していたので
廃艦式典も海軍主体で執り行われることになったのでした。

神式の式台が設えられた「土佐」甲板では式辞が厳かに奉じられています。

「まさにその威容を太平洋上に示さんとするとき、
建艦を中止するも止むなきに至り、今や帝国海軍の貴重なる実験の碑となりて
横須賀港外に光輝なる終焉を告げんとす。

嗚呼、我ら再びその勇姿を見る能わずと雖も・・・」



そして、直後に実験海域まで曳航されていく「土佐」。(の模型)
「土佐」は進水式の時に薬玉が割れず、縁起の悪さが囁かれていた艦でした。

実際には「土佐」は廃艦が決まって式典を終えた後、
運用術練習船「富士」に曳航されて長崎港から呉に回航され、
2年後の1924年から6ヶ月かけて実験の標的となって没しました。

ちなみに長崎県端島の「軍艦島」の愛称は、島の形がほかならぬ
この「土佐」に似ていることから命名されたということです。

港湾にいるすべての人々が帽子を振って「土佐」を見送ります。

おそらく撮影当時横須賀に係留されていた実際の軍艦と、
エキストラに動員されたらしい本物の水兵さんたちの帽振れ姿が写ります。

撮影は昭和19年ですが、大正時代の軍艦という設定なので
時代がバレないように軍艦の全体とか艦橋は映りません。

帽子を振る一団から少し離れた岸壁に、
平賀をはじめとする海軍の造船官たちが立っていました。

 

 

続く。

 


オハイオへの旅〜ミリタリーミュージアムを訪ねて

2020-09-16 | アメリカ


MKが学校の新学期からの授業を日本で受けるという可能性もあったため
この夏はそもそもアメリカに行くことができるのかどうか、
ギリギリまでわからなかったのですが、最終的に渡米が決まりました。

その瞬間、わたしはある計画を実行にうつすべくリサーチを始めていました。
実は今度ノースイースト滞在が実現すればぜひ行きたいところがあったのです。

去年、ピッツバーグに滞在している時、coralさんに教えていただいた
ライトパターソン空軍基地に付属するアメリカ国立航空博物館です。

ピッツバーグからオハイオまでは車で4時間くらいかかるとはいえ、
いつもなら何を置いても実行していたところですが、今回はCOVID19を始め
何かと世情が不安定なことがあり、ニュースやHPをチェックしていたところ、

2週間くらい経ってアメリカの様子が基本いつも通りであることと、
博物館はマスク着用とソーシャルディスタンスを取ることを条件に
オープンしていることがわかりました。

さらには借りている車(日産のムラノ)にも十分慣れてロングドライブいつでもOK、
と思われたので、博物館近くの
ホテルを二泊予約して出かけることにしました。

調べていると、デイトンまで3時間走ったところにあるコロンバスに、
「Mott military museum」という軍事博物館があることに気がつきました。

そこで、一日目をこの「モット」という博物館に使い、
その日の夕方にデイトンまでたどり着いて投宿し、翌日丸一日、そして
翌々日の午前中を予備にして国立航空博物館を制覇することにしました。

というわけで昼頃コロンバスに到着の予定で出発しました。
レストランは当てにならないのでランチを用意して車に乗り込みます。

高速を走っていると必ず視界ににAmazonプライムのトラックが入ってきます。
ステイホームの影響でアメリカでもAmazon大忙しのようです。

前も後ろもAmazonプライム、こんな光景はしょっちゅうでした。

しばらく走っていると、お馴染みの「草ロール」がころがる牧草地が出現し、同時に

「ウェルカムトゥ・ウェストバージニア」

という看板が現れました。

ペンシルバニア州の隣がオハイオ、と思っていたのですが、
実は両州の間にウェストバージニアが「ツノ」をちょこっと下から出していて、
フリーウェイを走っていると一瞬州内を通り抜けることになるのです。

看板を見た次の瞬間、わたしは

「♫ オールモストヘーヴン〜〜ウェストバージニア〜〜
ブルーリッジマウンテーン シェーナンドーアーリーバ〜〜」

と声に出して歌っていました。(実話)
そして、

「♫ ウェストバージニア〜マウンテンマーマ〜
カントリーロー・・・」

「・・・・ん?」

「でたあああああ!」

なんっとウェストバージニアには「カントリーロード」が存在する!

などと一人でも結構ドライブを楽しめてしまう自分でよかった。
と思いつつ、一回の休憩を挟んでコロンバスに到着。

わたしが車の中で持参してきた昼ごはんを食べていると、ガラガラの駐車場に
車が二台止まり、いかにもボランティアらしい爺さんたちが入っていきました。

今までアメリカの各所で見た、規模の小さな軍事博物館、
毎日リタイアした老人たちが趣味のボランティアで維持している
あのお馴染みのタイプのあれだな、と思いながら車を降りました。

建物の横のゲートは扉が閉まっていないので誰でも入っていけます。
航空機が数機、航空博物館というものではなさそう。

この手作り感あふれるアットホームなエントランスを見よ。

入っていくとそこには数人のおじさんたちがいて、
他の小さな軍事博物館と同じように物珍しそうな視線を浴びせてきました。

「10ドルです」

わたしが財布を出していると、レジのおぢさんが
おっと大事なことを聞き忘れたわい、という感じで

「ヴェテランですか?」

と聞いてきました。
あまりにも予想外の質問だったのでわたしが思わず

「は?」

と戸惑うと、

「あ・・・いいです」

このわたしが一瞬でもアメリカ軍を引退した元軍人に見える?
と後でMKに笑い話のつもりでいうと、

「自衛隊にいたかもしれないじゃない」

もしそうだったらやっぱりヴェテラン割引対象だったんだろうか。

展示はやはり南北戦争から始まりました。
リンカーンの死体検案書や髪の毛もあって、ここが
ただの小さな軍事博物館ではないことはすぐわかりました。

続いて第一次世界大戦関係。

ここから両側の通路は全部第二次世界大戦関係です。
左の上にある赤子を抱いている肖像はヘルマン・ゲーリング閣下です。

そのなかでここ「も」ユダヤ人迫害とその解放については
特にこだわっているように見られました。

Dデイ関係、日系アメリカ人の開戦に伴う強制収容なども。

軍服を着た有名人コーナーより。
アメリカ軍人(特に陸軍)って、皆帽子を斜めに被りますよね。

ナバホ族のコードトーカー(暗号通信員)の資料がありました。
これはちょっと珍しい展示です。

左上には、ここでも一度紹介したことがある日本の
「次は本土攻撃だ!」を啓蒙する「日本領地陥落時計」があります。

日本軍関係の資料もなかなか充実しています。

マニラで日本軍が降伏したときの山下中将の写真がありますね。

天井の零戦はもちろん模型です。

エノラ・ゲイとチベッツ少佐の「偉業」を称えるコーナー。

スペースシャトル「チャレンジャー事故」コーナーにあったオニヅカ少佐の写真。

珍しい企画として「戦場カメラマンコーナー」がありました。

ここの内容についてもそのうち詳しく整理して
当ブログでお伝えしていきたいと思っています。

航空機のあるヤードにはいくつかの慰霊碑がありました。

展示を見ている間中、おじさんたちは同じところで歓談していましたが、
わたしがありがとうございました、といって出ようとすると、一人のおぢが

「どうだった?」

と聞いてきたので、普通に感動しました、と言った後、

「外にある大きな”ボマー”の説明がなかったんですが、あれなんですか?」

と聞くと、

「え?なんてった?・・マスク外していいよ」

「だから・・あの大きな飛行機・・」

まわりのおぢたちが

「Dakotaのことじゃね?」

と言い出したので、

「紙に書いてくれます?」

というと

「DC-3 Dakota」

とメモに書いてくれました。

案の定わたしが輸送機を爆撃機と間違えていたことが判明したわけですが、
そりゃボマーとかいきなり言われても何のことかわからないよね。

書いてもらっている間、おぢさんの一人が、

「あんた、コラムニストかなんかかい?」

と聞いてきたので、

「そんな感じ(Kind of)です」

と答えておきました。

博物館を出てデイトンに向けて走っていると、
「スプリングフィールド」という看板が出てきました。
おお、うわさによるとイリノイ州の州都であるところのあれか。

同じ名前の都市はマサチューセッツやその他にもあるせいか、
(シンプソンズの住んでいるのも確かスプリングフィールドだった気が)
イリノイの州都がシカゴだと勘違いしている人は案外多いんですよね。

そういえば、第二次世界大戦のときに捕虜になったある将官(有名な人)に、
アメリカ人かどうか確認する尋問として、

「イリノイの州都はどこですか?」

と聞いた訊問官もその一人で、将官が正しく

「スプリングフィールド」

と答えたのに

「ブー!間違い!さては貴様アメリカ人じゃないな?」

となったことがあったそうです。いい迷惑だ(笑)

 

さて、デイトンに向かう前に現地のホールフーズで
今晩と明日の食料を調達しようとしたら、同じモールに
ときどき掘り出し物が見つかる「オフ・サックス」を見つけてしまい、
ついふらふらと入って行ったところ、これがなかなかの「あたり」でした。

特にファッション関係では同じチェーン店でも地域によって品揃えが全く違うのがアメリカです。
同じオフサックスやノードストローム・ラックでも、ニューヨークとかロングアイランドは
悲しいかなピッツバーグとは比べ物にならないくらいセンスがいいのですが、
それでいうとオハイオの「レベル」はなかなかのもののようでした。

両者は高級デパートのバーゲン品を売ることで、本家のブランドを落とさずに
在庫を捌くための文字通りのアウトレットですが、同じ高級デパートでも
バーゲンを年に2回しかせず、アウトレットを持たない超高級路線の
ニーマン・マーカスは、先日ついに倒産したというニュースを聞きました。

国立博物館から15分くらいのところに取ったホテルは、
COVIDのせいなのか部屋にコーヒーのセットすら置いておらず、
これまでここに泊まる理由の一つだった一階のカフェもやっていませんでした。


窓から見えるモールは閉店してゴーストタウンになってしまっています。
巨大なメイシーズの建物が無人の様子は実に物悲しい光景です。
 

朝方は蒸し暑く大雨が降っていました。

わたしも体調を崩し気味だったのでこの朝はゆっくり過ごし、
昼前になって国立航空博物館に出撃しました。

アメリカ空軍のマークのペイントされた格納庫と、フィールドに展示された
輸送機が見えてくるとテンションが上がってきました。

ここがミュージアムの玄関となります。

この航空博物館の展示機はもともと屋外にあったのですが、
1971年に格納小型の展示室が完成し、今の形になっているそうです。

かつて展示機があった(のかもしれない)フィールドでは
ガチョウの群れが草を食んでいました。

入場口から駐車場まで結構な距離ドライブします。
見学客の少ないうちにということなのか、通路にロータリーを作る工事をしていました。

駐車場の前の緑地はメモリアルパークとして
空軍関係の慰霊碑や記念碑が点在します。

COVID19のピーク時にはやはりここも閉鎖しており、7月くらいに
再オープンをしているようです。
エントランスではマスクをしたライト兄弟がお出迎え。

水飲み場やカフェは廃止していました。

入り口では熱を測るわけではなく、マスクを着用していればOK。
金属探知機の前に荷物検査を受けるのですが、そのとき、

「武器は持っていますか?」

どんな相手にも一応聞かなければならない質問事項のようです。

そしてこのとき驚いたのが入場料が無料だったこと。
さすがはアメリカ合衆国が全面支援している博物館です。

展示場は大きく中で二つの格納庫に分かれており、一つは
航空黎明期のものから第一次世界大戦ごろの航空機など、
もう一つは第二次世界大戦以降ということになります。

アメリカのみならず、世界各国の軍用機も揃っています。
ドイツ軍の飛行機ではあの「コメート」やMe262も所持しています。

各国空軍の制服の展示が充実しているのもここの特色。
海軍の代表的エースとして坂井三郎が紹介されていました。

疲れていたこともあって座り込んで最後まで見てしまった「カミカゼ」紹介ビデオ。
日本人としてはまずこのロゴからツッコミたいところです。

さて、これらの展示について、当ブログでは今後
いろんなアプローチでご紹介していきたいと思っておりますので、
その折にはどうぞよろしくお付き合いください。

 

 

 


19年目の9月11日〜アメリカ滞在

2020-09-15 | 歴史

MKの大学も本格的に授業が始まり、さっそく「忙しくなった」そうですが、
初めての自炊生活もなかなかいい出だしのようで、

「もうポットでご飯を炊くのは完璧」

と豪語しております。
なんでも底にコゲを作らない火加減を早くも会得したとのこと。
いざというときのためにトレーダージョーズの中華風オレンジチキンとか、
美味しいかどうかはわからないけど点心とかの冷凍食も用意して、
どんなに勉強で忙しくなってもとりあえず自分で何とかできるように
最低限のことはしたつもりでしたが、期待以上です。

ところが困ったことに、「遅くても8月31日」と予告していたはずの
ドームムーバー(学生専用の荷物預かり&配送業者)が、コロナのせいで
予定を2週間すぎても来ず、さらには連絡を取ったところ

「いつになるのかわたしたちにも全くわからない」

それ荷物なくしたんじゃないの?と疑いたくなりますが、とりあえず
布団とモニターが届かないのは困る、ということで、布団を買い、
モニターのために大きめのiPadを購入することにしました。

こちらのAppleも来店時間を予約してピックアップするシステムです。

何とアメリカのアップルでは今MKのような事態を予想したかのような

「学生証を見せれば一割引のうえ、イヤフォンプレゼント」

というセールを行っていました。
まあ、iPadを注文したらiPadだけでは済まず、Apple Pencil、
お高いApple純正ケースも買うのが普通なので、古い型のイヤフォンをつけても
アップルにすれば痛くも痒くもないわけで。

「イヤフォンは90ドル出せば最新式のモデルにできます」

というセールスもなかなかうまいっすね。

日本ではマスク着用をめぐって機内でトラブルを起こした人がいて
着用そのものについていろいろと問題にしている向きもあるようですが、
何度もいうようにこちらではどんな店舗の入り口にも「マスクガード」がいて、
マスクをしていないとお店に入れてもらえないので嫌も応もありません。

カートを返すとそれを拭いて消毒する係の人も配置されています。

たとえばピッツバーグでは州警察が定期的にコンプライアンスチェックを行い、
認可された施設に不備があればバシバシ警告を行います。

チェックを行う執行局は、抜き打ちで、店に出入りするすべての顧客、
及び従業員が常にマスクを着用しているかどうかを確認します。

また、飲食店ではテーブルやブースに6フィートの間隔、または
物理的な壁があることを確認し、最大収容人数の制限が掲示され、
実施されているかどうかを厳しくチェックするのです。

さて、「アメリカの最も長い日」であった同時多発テロ事件から
今年も19年目の9月11日がやってきました。

今日はこの日1日の911関連番組をご紹介していきます。

まず、朝からFOXでは当時ニューヨーク市長だったジュリアーニ氏を迎え、
(といってもオンラインでの出演ですが)当時の思い出を語らせていました。

ジュリアーニといえば、今回のCOVID 19関係でのNY市の対応が酷いので
彼をもう一度市長にという声が上がっているとか何とか。

ジャック・キーン氏は911当時現役の陸軍大将として事件に関わりました。
退役後、キーン大将はトランプ政権から何度も要職を提示されていますが、
政治の世界に入ることを拒み、ご意見番として活躍しているという人です。

セレモニーに参加する犠牲者の遺族にインタビューをしています。

ご存知の通りワールドトレードセンターの跡地には
フリーダムタワーという名前の高層ビルが建てられました。

トランプ大統領はキャンペーンでペンシルバニアにいましたが、
そこからエアフォースワンでシャンクスビルに向かいました。
わたしも今回改めて気がつきましたが、ユナイテッド93が墜落したとされる
シャンクスビルはペンシルバニア州だったんですね。

ビルに航空機が突入した後の人々の様子。
この子供たちは現在二人とも大学を卒業したくらいでしょうか。

今年の慰霊式はCOVID19のパンデミックを受けて一般公開されず、
例年のようにミュージシャンの生演奏もなく、時間も短縮されました。

大統領選を控えたメモリアルなので、対立候補のバイデンも
同じように
シャンクスビルを慰問したということです。

お互いこのメモリアルを
いかに大統領選に有利にするか、あるいは
突っ込まれるようなミスをしないように慎重に、とか、とにかく

そんなことばかり考えているんだろうなー、とわたしは
若干皮肉な気持ちで見ていたのですが。

ファーストレディのメラニアさんの装いは、黒の長袖のコートドレスと
非常にTPOを踏まえた感じのよいものと思われました。

わたしが注目したのは、大統領夫妻が遺族の代表と並んで
花輪を捧げるというセレモニーをこれから行うというとき、
トランプ大統領がさりげなくメラニア夫人の手を握ったことでした。

慰霊式典の行われた会場ではトランプ大統領が去った後、
無人の式台が映されていましたが、日本の国旗があるのに気がつきました。

右側の誰かわからない人が涙ぐみながらコメントをしている画面の下には
ここで墜落したとされる飛行機の乗客の唯一の日本人、
キノシタ・タカシさんの名前がちょうど表示されています。

早稲田大学理工学部の学生で20歳だったという報道がありました。

グラウンドゼロの慰霊碑は犠牲者の名前の横に
花が立てられるような窪みがあるデザインで、
この日は遺族などが訪れ、花を備える様子が映されました。

ここでCMとなったのですが、このロスランドキャピタルという
金融資産運用会社は、退役軍人が戦艦「アイオワ」の主砲の前で
当社の運用がアイオワの一撃のように力強い、みたいなことをいう
パトリオティックなコマーシャルを挟んできました。

事柄が事柄だけに、慰霊追悼番組のスポンサーには
あまりふざけたCFを打っているところは名乗りをあげなかったようです。

夜はヒストリーチャンネルが淡々と事件発生からビルの倒壊までの時間、
カメラが捉えた映像を映し出していくというドキュメンタリーが放送されました。

最初の航空機衝突が起こった直後の市民の様子には
大変な事故が起こったなあという騒然とした様子があるものの、
まだいうならば余裕というか対岸の火事的を見るような呑気さが感じられます。

ハンディカムを持っている人が撮影をしていますが、もし今なら
全員が携帯を構えて撮影をしており、その直後から
全世界に詳細な映像がSNSに溢れたことでしょう。

ビルを見守っている人たちが、高層からジャンプしている人がいる、
と騒然とし出したころです。

「何か落ちてる!」

「紙じゃない、紙ならあんな落ち方をしない」

「オーマイゴッド!」

という会話が録音されています。

そのとき、記録によると最初の衝突からわずか17分後、
南タワーにも航空機が衝突し、撮影者は悲鳴をあげます。

「テロリストだ!」

一機だけの衝突なら事故の可能性もありますが、
もう一つのビルにも直後に突っ込んだとなると・・。

ここで彼らは初めてテロであることに気がついたというわけです。

彼らは悲鳴を上げながら

「逃げなきゃ!」

とカメラを回したままエレベーターに乗り込むのですが、
次々と高層ビルが狙われていると彼らが考えるのもむりからぬことだったでしょう。

9時5分ごろ、別の高層ビルに住んでいる人がベランダから映したものです。

「酷い・・」

「中はどれだけ熱くなってると思う?」

「地獄だ」

事故当時88階にいた人から電話を受けた消防署オペレーターの通話です。
部屋の出口にいるので人をよこして欲しい、と通報者は懇願しています。

通報を受けるなり現場に急行して突入の機会を伺う消防士たち。
通報している人に、今人が向かっている、とオペレーターは説明しています。

皆が煙の吹き上げるビルの上方を凝視しています。

北タワーではすべての非常階段が破壊されていましたが、
南タワーでは一つの非常階段が使える状態で残されていました。

それで避難した人々もいましたし、消防士たちは階段を使って
救出のために上に向かって行ったのです。

「もう人が向かっていますからできるだけ早く助けにいきます」

と言っています。

救出のために現場に駆けつけたニューヨーク市消防局の消防士343人と、
ニューヨーク市警察などの警察官71人がビル倒壊で亡くなっています。

映像には「バタリオン2(第二分隊)入ります」という消防士からの声が残されています。

地上部隊とビルにあがって行った消防士の通信です。
救出を要請している人がいると連絡を受けて現場に着いたら、
もう彼らは飛び降りてしまった後であるという連絡を受け、
それを確かめているのです。

「その人たちはもう飛び降りてしまっていますか?」

「そうです」

ビルは倒壊前であり、次々と救援の消防車が駆けつけています。
ニューヨークの街である消防署前を通りかかったら、この署において
これだけのファイアーファイターが911で亡くなりました、
という慰霊のプラークが貼ってあるのを見ました。

北タワービルの103階から助けを求める人とビルのオペレーターのインターコムの会話です。

そこには100人以上の人々がいて皆が同時に自分のことを伝えようとしていました。
オペレーターは

「煙を避けるために姿勢を低くして待っていてください」

「だからそこにいてください。
わたしは消防士ではありません。
そこにいる消防士たちに伝えますから」

「もし可能なら窓を壊してください。
わたしに言えるのはそこに座って救助を待ってくださいということです。
消防士には救助に行くようにもうすでに伝えてありますから」

と何度も同じことを答えています。

近隣に出店していたファーマーズマーケットの関係者は
すべての商品をそのままにして避難し、誰もいなくなっています。

4ブロック離れたタワーから撮られた映像です。
窓にたくさんの人がしがみついているのを認めたあと、
その中の一人が落ちていくのに「オーマイゴッド」と叫び、

「ワイヤーとメタルが焼けている物凄い匂いが漂ってきている」

街角に佇んでビルを凝視している人々の中の一人が
携帯ラジオの音量をあげて、周りの人がそれに聞き入っています。

二機の飛行機がWTCに突っ込んだのに続き、少し後に
ペンタゴンにも飛行機が突入したというニュースが流れています。

ニューヨークの地下鉄は一部が崩壊したので運行を中止している、
というニュースが続いて流れています。

マンハッタンは閉鎖されたので誰も立ち入らないように、
という警告をアナウンサーが発しています。

「9月11日火曜日の朝、この日を我々は記憶し続けるでしょう」

ここからチームを率いて78階まで救助に上がり、その結果殉職した
オリオ・パーマー消防士が残した通信と、それを聞く地上の消防士たちの
表情が現れました。

「78階まで到達したが壁が崩れているので気をつけなければいけない」

「シャフトに挟まれてしまったら大変だ」

「トミー、(同僚)もうロビーまで戻ったか?
エレベーターロビーに戻ってきましたか?
エレベーターがめちゃくちゃになっているので、
コマンドポストに早くもどれ」

「要救助者が何とかして40階までいってエレベーターを使えるか確認する。
ここにはけが人がたくさんいる」

「火災は二箇所あるがたいしたことはない。
すぐ消火できると思う」

「今何階にいる、オリオ?」

「サウスタワーの南階段だ」

「78階か?」

「消防士を二人ほどこの階段まで要請することになりそうだ」

「わかった、10−4、階段に向かう」

そのとき近隣のビルから現場を見ていた人が叫んでいます。

「ビルが崩れそうになっているぞ!」

午前9時59分、ユナイテッド航空175便の突入から56分後、
ワールドトレードセンター南棟が崩壊しました。

近くで見守っていた人々が迫ってくる煙に追われて全力疾走しています。
この後、

「わたしは69歳だがこの歳で走りまくったよ」

とカメラマンに答えている人がいました。

10時28分、アメリカン航空11便の突入から102分後、
南棟に続きワールドトレードセンター北棟が倒壊しました。

塵芥を吸い込んで咳が止まらず座り込んでしまう人。
ベストをつけているので港湾会社の職員でしょうか。
仲間が水をわたしています。

屋内で係維を見守っていた近隣オフィスの人々が外に出てきました。
なんとかして自宅まで帰ろうとしています。

倒壊直後に止むに止まれない思いで消防隊に差し入れしていた人。
飲み物を入れたコンテナにはフランスの旗がつけられています。

見渡す限り真っ白な塵芥の積もるなか、この男性はどういうわけか
軽装のままビルの方向に向かって走っていくのでした。

見ている人がそっちにいくなと止めています。

 

WTC死者は合計で2763人。

その内訳は民間人2192人、消防士343人、警察官71人、
ハイジャックされた旅客機の乗員・乗客が147人、
ハイジャック犯のテロリストが10人となっています。

ジェット機の衝突によって北棟・南棟ではエレベーターが停止し、
200〜400人が閉じ込められた状態で死亡したとされています。

また、ツインタワーからの転落もしくは飛び降りによる死者は
最低でも200人と推定されていて、消防士の殉職者のうち1人は
落下してきた人の巻き添えとなっています。


この日街中の星条旗は半旗に掲げられ、「アメリカの一番長かった日」を悼みました。

 

 

 

 


アメリカの「カルチャー」〜ピッツバーグ滞在

2020-09-13 | アメリカ

9月になりましたが日差しは相変わらず強く、湿気が大気中にたまってくると
猛烈な勢いで雷を伴う雨が降ってまた爽やかさが戻ってくる、これを繰り返して
少しずつ涼しくなっていくのがピッツバーグの晩夏です。

日課のウォーキングですが、今回車で10分くらい行ったところに
トレイル(散歩道)コースがふんだんにある公園、フリックパークを見つけました。

ピッツバーグ最大の広さを誇る市立公園で、2.61 キロ平方メートルという
この公園は、元々一部にアンドリュー・カーネギーのビジネスパートナーだった
ヘンリー・フリックの所有地があったことから始まっています。

フリックはこの土地の購入についてしぶっていたのですが、娘のヘレンが
デビュタントでの「お願い」として公園の維持費用を供出することをねだり、
その結果公園が1927年にオープンしたということです。

父親とその令嬢。
絵に描いたような(って絵なんですが)アメリカの当時の上級です。

フリックはヨーロッパから帰国するためにタイタニック号を予約していましたが、
妻がイタリアで捻挫したため、乗船をキャンセルして難を逃れています。

娘のヘレンは慈善事業家で美術コレクターとして名前を残しました。

アメリカの「公園」とは、日本のと違って(日本のようなのはプレイヤードという)
人が歩く小道を自然の中に作っただけの広大な森林を指すことが多いのですが、
ここは特に最低限の整地をして歩きやすくしているだけで、柵などは基本ありません。

トレイルには全て名前がついていて、ところどころ立て札があります。
Tranquil trail というのはその名前の通り穏やかでアップダウンのない真っ直ぐな道。
何も知らなくてもお年寄りや家族連れ向きだとわかりますし、この
「ローラーコースタートレイル」は、マジでトレーニングしたり、
マウンテンバイクの威力を試したい人向け、というのが伝わってきます。

シェンリーパークの鹿は夕方出てきますが、ここは森が深いせいか
昼間でもよく彼らが歩いているのを見かけます。

この立派なツノを持った鹿とばったり出会いました。

よく見たら木の影から出てこられない小鹿がいます。
彼らは道を渡ろうとしたときわたしがやってきたので
慌てて隠れているつもりなのです。

それにしても父親と子供が連れ立っているのは初めて見ました。

 

それで思い出したんですけど、アメリカって普通に離婚が多いんですよね。
MKの前のルームメイトも母親は後妻で、弟だけが実母のところと実家を行き来しているとか。
子供を引き取るのも必ずしも母親とは限らないのです。

わたし自身もMKの幼稚園で子供をワッチする仕事をしたとき、
その頃ですら(つまり子供がまだ小さいのに)クラスに必ず一人か二人、
親が離婚してどちらもの家を行ったり来たりしている子がいました。

母子家庭の母親が意気投合して二家族で一緒に暮らしているという例もあって、
さすがアメリカ、と驚愕したものです。

2度目に訪れたとき、いきなり墓地に迷い込んでしまいました。

傾斜を利用した「霊廟」というレベルのお墓もありました。
星のマークがついているのはユダヤ教の人々の墓です。

すぐに引き返しましたが、境目になんの案内もないので知らない人は
入って行ってしまうと思います。

 

ある日火事騒ぎ?を目撃しました。
大型ショッピングセンター、「ターゲット」に行こうとしたら、
店の前に消防車が止まっていてお店の前が通れなくなっていたのです。

消防車は梯子を稼働させていますね。

店の反対側にいる赤シャツの軍団は、全員退避中の店員。
幸い大事にはならなかったようで次に通ったら普通に営業していました。

また別の日には、交通事故の生々しい跡を目撃しました。
この写真は現地のテレビ報道のものですが、バイクが車線変更したとき
後ろからきていた車の左側ドア部分に激突、そのままライダーは
側壁に叩きつけられて即死したという事故でした。

壁にもたれて携帯を触っているのが運転手で、わたしが渋滞を抜けて
現場を通りかかった時にはライダーの身体は地面にまだ横たわっていました。

お亡くなりになった方をもろに見てしまったこともあって、
その日のニュースでその人の名前や年齢を調べてしまったものです。

また結構雨が降った週末、教会の前を通りかかったら
ちょうどこれからライスシャワーがあるらしく皆外に出てきていましたが、
さすがアメリカ人、傘をさしている人は二人だけ。

アメリカにも傘を売っていないわけではないのですが、
アメリカ人というのは本当に傘をさしません。
Covid19以前のマスクのように、「それをしたら負け」と思っている節があります。

Covid19といえば、ピッツバーグ最大の医療機関であるピッツバーグ大学医学部病院では
このようなロゴを渡り廊下に示しています。

アレゲニー郡だけで9月10日現在、感染者は10,915人、
死亡者数358人ということですから、感染者規模は大阪府と同じ、
死亡者規模としては東京都と同じくらいです。
街は表面上穏やかそうでも医療関係者は「戦場」になっていることが予想されます。

つい先日もピッツバーグ大学の学生にプチ集団感染があり、MKの大学からも
一人だけとはいえ感染者を出したということを聞きました。
この状態では野球や観劇などのエンターテイメントが再開できないのも当然かもしれません。

こういう危機に陥ったとき、アメリカは第一線に立つ人々をわかりやすく称えます。

日本では武田邦彦氏が、医療関係者はそれをするのが仕事なんだから当たり前、
とおっしゃっていましたが、もしアメリカでこういう発信をしたら、 
非難だけですめばいいねというレベルのバッシングをされるかもしれません。

「日本人の同調圧力ガー」

という枕詞をマスク着用や自粛関係に対する非難する言説に見かけますが、
少なくともBLMやトランプ支持者に対する態度を見る限り、
アメリカ社会の同調圧力の方が極端だと感じます。

MKの学校では授業開始前に全員の検査を行いました。
室内ではなく外で(建物の外廊下で)机を並べ、
学生は各自赴いて自分で綿棒を扱って検査を行っています。

 

COVID19では先日ニューヨーク市の飲食店が集団で市を訴えた、
というニュースがありました。
インダイニングでの営業を禁止し、開業しているところを摘発するなど
厳しい対策を取ったことに対する損害賠償を求める訴えと聞いていますが、
ここピッツバーグではどういう基準になっているのか、
休業している店、デリバリーだけで営業している店、そして
平常と全く変わりなくインダイニングを開けている店と三様です。

感染防止のための対策を厳しく講じた上で許可をとっているのか
その辺は詳しく知りませんが、今いるホテルの近くに
平常通り営業しているバーガーの有名店があると聞いて、行ってみることにしました。

まずチェックインすると、同時に何人目か、待ち時間はどのくらいか
ひとめでわかるアプリを登録させられます。

呼ばれるまでできればどこか他所に行って待ってくださいというかんじ。

この日は晴天の週末、しかも昼時とあて待ち時間は30分あったので、
わたしたち散歩コースでもあるオハイオ川の河原ぞいにちょっと歩いてみました。

下から見ただけでわかってしまったフレッド・ロジャースを確認。
後ろのブリッジの下に立つと、仕込まれたスピーカーから

ミスター・ロジャース・ネイバーフッドのテーマソング、

Watch Mister Rogers Age While He Sings “Won't You Be My Neighbor” (1967 Through 2000)

が聞こえてくる仕組みです。

「Ever Watchful」というのは一つの単語化している言葉で、
あえて日本語にするなら「常時監視」という感じでしょうか。

社会を統治する規則や規範に違反する人々を発見、抑止、更生、または
罰することによって法律を執行するために組織的に行動する一部の政府構成員の活動をさす、

「Low Enforcement」

という殉職警察官の碑にはこんな像がありました。

先日、ピッツバーグでは薬物接種の上路上で全裸になって座り込んでいた
アフリカ系の男性を確保するために後ろから顔に袋を被せた若い警官が
COVID19に感染し、死亡したということが発表されました。

しかし、メディアは相変わらず武器をとるために車に戻ったところを
警官に8発撃たれて死んだアフリカ系の父親の涙の訴えを大きく報じました。

「ラストコール」というのは、警官が殉職したとき、そのセレモニーで流す
殉職警官が生前最後に本署と取った通信のことを言います。

Dave Bray- Last Call (Tribute to Fallen Officers)

このビデオの最後には、配属2時間後に銃撃事件で殉職した
女性警官がその直前に行った「ラストコール」が収録されています。

実はここには「第二次世界大戦記念碑」なるものもあるのですが、
これについてはまたいつか日をあらためてご紹介するかもしれません。

ちなみにピッツバーグは「鉄鋼の街」として、戦争には大いに協力した、
というようなことを主張しているのだと思います(たぶん)

さて、というところで時間が来たのでテーブルに案内されました。

「マスクは食べ物が運ばれるまで外さないようにしてください」

このバーガートリーはちょっと(というかだいぶ)高めだけれど、
ちゃんとした牛肉を使った豪勢なバーガーを楽しみたいアメリカ人に人気の店です。

MKが、ここはシェイクも名物なんだというので、二人で一つ
死んだ気になって注文してみました。

MKにいわせると、ハンバーガーとシェイクという組み合わせは

「アメリカのカルチャーなんだ」

ということで、せっかくハンバーガーというアメリカ文化の真髄のような食べ物を
いただくからには、毒くわば皿まで(ちょっと例えが悪いかな)の精神で
そのカルチャーに敬意を表すべきだと考えたわけです。

ハンバーガーに先駆けてやってきたそれには、タピオカ用のような
ぶっといストローが二本付いていました。

「どれどれ・・・・んっ・・・ズズー(吸い込んでる音」

あの、耳下腺が痛くなるほど吸わないと飲めないんですけど。
っていうかこれ要するに溶けかけたアイスクリームだよね?

「いやー、ウェルカムトゥアメリカって感じですな。
ところでウェイトレスが一緒に持ってきたこのアルミのカップは何?」

「作った時余ったシェイクだよ」

というか、これで作って(クッキーとかピーナツバターと混ぜるわけだな)
グラスに入れるとどうしても残るのでそれも持ってきていると。

「どうも見た目がよくないね・・・ってか余らんように作らんかいって思うんですけど」

「これもカルチャーなんだよ」

お店の壁には本店におけるフローチャートがあって、これが結構面白かったので紹介します。

あなたはバーガトリーにいますか?

           →はい
           →いいえ→いや、あなたここにいますよね(これ読んでるんだから)

あなたがここにいるわけは?

A あなたがたはバーガーに飢えている

「あなたがた」が『Yinnz』というピッツバーグ弁になっている

B フットボールの代わりにシェイクを「スパイク」したい

spikeというのはフットボール用語 でタッチダウン後ボールを地面にたたきつけること。
つまり「キメたい」というようなニュアンスだと思われ。
ご存知のようにここはスティーラーズの本拠地ハインツフィールドのすぐ横です。

C カジノがカードを数えるために追い出されたから

ここから歩いてすぐのところに実はカジノもあります。
もちろん今はやっておりません。

D ファウルボールが飛んでくるのを待っていたらお腹が空いたから

何度もお伝えしているようにここにはパイレーツの本拠地である(略)

E あなたはブラウンズのファンで、心の穴を埋める必要があった

クリーブランドブラウンズはオハイオのフットボールチームで、
おそらく両者は地域的にライバル関係にあるのだと思われます。
負けたと決めてかかってますね(笑)

その下のバーガー、ビール、シェイクについては

バーガーとビール=Righteous(正義)

バーガーとシェイク=Lust(欲望)

ビールとシェイク=Divine(神々しい)

バーガーとビールとシェイク=バーガトリー

決定的な感じですか?→ワインが水に変わりましたか?→

矢印の下がトイレです(笑)

あなたは

ツリーハガー→あなたにはべジーバーガーがいいでしょう

         →気が変わった→ミートハガーへ

肉を使わないベジバーガーが美味しいのでも有名だそうです。

ミートハガーチキンを所望、あるいは地上の牛の喜び、あるいは蟹を愛好

→シェイクについて話しましょう!→キメろ!あるいは古典的にいきましょう

→食事を楽しんで

→お支払いすみました?→いいえ→汝盗むなかれ(聖書の言葉)
           →はい→またどうぞお越しください

待っている間、隣の(と言っても離れてますが)テーブルの
若い男性と年配の女性と5人の子供に気がつきました。
男女は夫婦ではなく、子供は全員親が違う感じです。

兵士と水兵の記念館の展示から南北戦争について書いた時、
当時は一家の主人を戦争で亡くしたら、自動的に子供は孤児院行き、
未亡人は持ち家を公売にかけて自治体の「未亡人の家」で一生を送った、
ということを知り、かなり驚いたのですが、そのときにできた孤児院が
今でも市内にあって、何度か前を通ったことを思い出しました。

男女二人は孤児院の職員で、休みの日なので子供たちを連れて
河原にあそびに来てここで昼食を食べさせているのだろうと思いました。

というわけで、やっとのことでやってきた注文のバーガーは、
フローチャートにはありませんが、

→あなたは日本人ですか→はい→
ドライエイジドの和牛を使ったバーガーはいかがでしょう

という選択で、ミートユアメイカーという15ドルのバーガーにしました。

肉そのものはバーガーにするにはちょっと上品すぎるかなと思いましたが、
なんとトリュフを加えて(もちろん本物)香り付けをするという力技により
それはそれはリッチなお味に仕上がっており、堪能したことをご報告しておきます。

結論は、

→やっぱりバーガーはアメリカのカルチャーです!

 

 


ズアーブ兵部隊と古兵予備軍団(傷病兵部隊)〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2020-09-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

「レキシントンの戦い」の再現ショーが見られたボストン、
南軍からの攻撃に対応するために作られたフォートがあったサンフランシスコ、
そしてここピッツバーグでも、南北戦争の痕跡は至るところにあります。

なにしろペンシルバニア州ではあのゲッティスバーグの戦いが行われ、
ピッツバーグには砲兵工廠や陸軍連隊のヘッドクゥオーターがありましたから、
市内には有名な将官の墓所なども普通にあって、車で走っていると

「ここに南北戦争で戦った北軍の誰それのお墓があります」

という立て札を目撃したりします。

南北戦争の兵士を顕彰するために作られた記念博物館、
「ソルジャーズ&セイラーズメモリアル&ミュージアム」を、たまたま
コロナ肺炎以前に見学していたことから今回のシリーズ制作となりましたが、
案の定そうやって知識を得ていくと、今まで見逃していたものごとが
急に意味をもってクローズアップされてくるという現象がありました。

歴史家でもジャーナリストでもないわたしがアフォリエイトでもない
無料のブログ(というか逆にブログの写真掲載のために月会費を払っている)で
今までいろんなことを追求してきた意味のほとんどはそこにあります。

今まで曖昧糢糊としていた知識が、ある場所に踏み込んで行った途端
ぱっと開けて旧知のものごとと繋がったときの喜びと興奮は
何ものにも替え難いというほどのものではないにしろ、
当ブログ継続の大きなやる気と動機になっているのは間違いありません。

今回の滞在では当初予約していたホテルから一方的に予約をキャンセルされ、
野球場の道向かいにあるホテルに変更することになったのですが、
これが今にして思えば結構な「あたり」で、ゲームが中止になっているおかげで

シーズンなのに周りが混雑することなく、交通至便であることがわかりました。

川沿いの遊歩道にホテルから歩いて出られて散歩コースにはことかかないし、
ダウンタウンのように夜になると周りに怪しげな人がうろついていることもありません。

 

というわけで毎日せっせとあちこちを探索しているわけですが、
到着して次の週末に遊歩道の公園を歩きにいったら、なんとそこが

「フォートピット」という砲兵工廠があった場所であることがわかりました。

当時の煉瓦造りの建物を利用した博物館があり、おそらくここでは
南北戦争時代の遺物なども展示されているのだと思います。
コロナのおかげで閉館していましたが、こういうのも偶然とはいえ、
たまたま南北戦争について調べていた最中であったことを思うと不思議な気がします。

ここには1754年に構築されたピット要塞の一部が保存されています。
ピッツバーグに残された最も古い建築物と考えられているとか。

南北戦争時代、ここはピット要塞として北軍の司令部ともなっていました。

さて、それでは南北戦争関係展示の続きをご紹介していきます。
ケースごとにテーマがあるようなのですが、ここにはこんなことが書かれています。

「北軍兵士が着用した『普通と違う』ユニフォームのいろいろ」

ほとんどの人たちは南北戦争のユニオン=北軍のユニフォームは
ダークブルーだと思っておられるでしょう。
確かにそれは間違っていはいませんが、その間、ユニオンブルーとは
少し違うタイプのユニフォームを着ていた組織もありました。

この見るからに民族的なユニフォームの男性はズアーブ(Zouave)兵です。
右下のズアーブ兵はノア・パンバーン上等兵といい、ロバートE.リー将軍の正式降伏と
仮釈放に出席するために選ばれた155番目からの小さな派遣団の1人でした。

彼は戦後も連隊のヴェテランとして様々な催しに
ズアーブ兵のユニフォームを身に付けて参加していたということです。

ユニフォームは彼の死後、息子によって当会館に寄付されました。

南北戦争時のズアーブ兵

アルジェリア・チュニジア人が中心となったフランス語を喋る兵隊で、
南北戦争は義勇軍として北軍・南軍のどちらにもズアーブ兵部隊がありました。

第155ペンシルバニア志願連隊は最も有名なズアーブ兵部隊でした。
北軍のブルーをあしらったユニフォームに赤いサッシュベルトをしています。

彼らの民族衣装はファッションにも影響を与え、
ゆったりしたパンツは「ズアーブパンツ」、丈が短くノーカラーで
トリムのあるボレロ 風の上着は「ズアーブジャケット」。
この言葉は今でもアパレル用語として使われています。

ゆったりしたパンツはサルサパンツと言うこともありますが、
ズアーブパンツというのもよく使われる用語です。

エルマー・エルズワース少佐 Elmar Ellswarth

このシリーズが始まってすぐ、「ジョン・ブラウンの亡骸は墓土の下」という歌詞の
「グローリー・ハレルヤ」というタイトルの曲をご紹介したと思いますが、
そもそも、ジョン・ブラウンって誰?といいますと、南北戦争時代、
人種差別=黒人の奴隷制度に反対し、南部の武器組織を急襲して失敗、
死亡した人物であったのです。

いまでもいろんな替え歌ができているこの曲ですが、当時も

「エルズワースの亡骸は墓土の下」

という替え歌がありました。
オリジナルができてから数年後には替え歌ができていたということですから、
あらためにこの曲の汎用性の高さがわかりますね。

そのエルズワースというのがこのエルマー・エルズワース少佐で、
なぜ彼が歌に歌われることになったかというと、彼こそは

「南北戦争が始まって最初に死んだ将官」

であったからです。

Elmer Ellsworth

その写真がなぜこの一角にあるかと言うと、彼はズアーブ士官候補生部隊を率いていたからです。
リンカーンの大親友でご覧の通りのイケメン士官でもありました。

その死に方というのがなかなか不条理なので、説明しておきます。

エルズワース少佐は、占領した南部の街にあったアレキサンドリアホテルに
南軍の旗が掲揚されていたのを見て、オーナーに無断で屋上に上がり、
オーナーに無断で旗をナイフで切り落として意気揚々と降りてきたところを
オーナーであったジャクソンという男にいきなり撃たれてしまったのです。

この版画は階段を降りてきたエルズワースをジャクソンが撃ち、
エルズワースの部下が銃剣を構えてジャクソンに向かっています。

部下であったこのズアーブ兵は上で紹介した写真のフランシス・ブラウネル上等兵で、
少佐がやられた次の瞬間問答無用でジャクソンを倒しました。

リンカーンはこの親友の死を嘆き、彼の遺体は大統領権限で
ホワイトハウスの一室に
一時納められていたということです。

Veteran Reserve CorpsVRCの制服です。

日本語で言うと「古兵予備軍団」ですが、実態は、障碍を負っていたり
衰弱した軍人および元軍人からなる部隊で、南北戦争時代、北軍にのみ存在しました。

彼らは前線で必要とされる健常な兵士らに代わって軽作業等に従事していました。

第21VRC歩兵連隊B中隊の兵士

傷病兵軍団のユニフォームは一般部隊とは違うデザインで、ここにもあるように、
ジャケットは空色のカルゼ地、紺色のトリム、

騎兵用ジャケットと同型の裁断、腰/腹部にかかる丈です。
ズボンはジャケットと同じ空色でした。

写真の右袖に見える階級章の裏布はトリムと同じ紺色です。

VRCには将校もいて、空色の布地に襟および袖口に
紺色のベルベットをあしらったフロックコートが支給されましたが、
空色は汚れが目立ちやすいと現場からクレームでもあったのか、
後には通常部隊と同様の紺色のフロックコートの着用が許可されています。

VRCの軍楽隊です。

軍楽隊員というのは当時の基準でいうところの
「軽作業部隊」「invalidな人でもできる部隊」とされていました。

それにしても「古兵」といいつつ若く見える人ばかりですね。
健康そうに見えてもどこかに具合の悪いところがあるのでしょうか。

ここの説明に

”Invalid Corps"=傷病兵部隊

が別名だったと書かれていますが、
実際はこちらが最初の正式名であったのです。

しかし、イニシャル「I.C」廃品(Inspected-Condemned)を想像させ、
この部隊名が士気に悪影響を与えているということになったので、
南北戦争期間中に名称をVRCに変更することにしたのでした。

2大隊からなっており、一等大隊には障害が比較的軽い者が配属されました。
軽い、つまりマスケット銃を扱えたり行軍ができる程度の能力があれば、
警衛や憲兵(Provost)としての任務に従事できました。

二等大隊はより深刻な、例えば手足の切断やその他の大怪我を負った者が
料理人、倉庫番、看護師、公共施設の警備員の任務に配属されるために組織されました。

古兵予備軍団は24個連隊を擁し、各連隊は1個師団および3個旅団が編成され、
いかに対象となるような将兵が増え続けていたかがわかります。

障害が軽度であるとされた一等大隊員は二等大隊員の2倍から3倍程度いて、
次のような任務に就いていました。

捕虜収容所の看守

徴兵の執行

憲兵隊長(Provost marshal)補佐

前線と後方の間の交代兵員の移送

新規入隊者、捕虜の護送

鉄道の警備

ワシントンD.C.での警邏

動乱の際の市街の防衛

戦争を通じて、60,000人以上の陸軍将兵が古兵予備軍団に参加し、
そのうち1,700人がいわゆる殉職しています。
このうち戦闘における戦死者は24名でした。

連合国軍(南軍)にもこの種の傷病兵部隊が存在したそうですが、
北軍ほど組織化された者ではなかったようです。

 

ちなみに、1865年7月7日、リンカーン大統領を暗殺したとされる
共謀者4人の絞首刑が執行されていますが、これを担当したのは
第14古兵予備連隊F中隊から派遣された4人の兵士でした。

ついでのついでに、よくご存知かもしれませんが、
この時に絞首刑になった4名の顔写真をあげておきます。

Mary Surratt.jpgメアリー・サラット

Lewis Payne cwpb.04208 (cropped).jpgルイス・パウエル

David Herold retouched.jpgデビット・ヘロルド

George Atzerodt2.jpgジョージ・アツェロット

の女性を含む4名で、刑の執行場所はマクネア砦でした。

Here's Where the Lincoln Co-Conspirators Were Hanged in DC 150 Years Ago |  Washingtonian (DC)

処刑台の近くに2名兵士の姿が見えますが、これがVRCから派遣され
執行を行った後の4名のうち2名の兵士であろうと思われます。

リンカーン暗殺とその後の処刑についてはもう少し後で
詳しく説明したいと思います。

 

南北戦争が終結すると、必要性もなくなり、古兵予備軍団の部隊は
1866年までにほとんどが消滅し、残っていた部隊も普通連隊と統合され、
古兵予備軍団は完全に消滅することになりました。

 

続く。

 


ゲッティスバーグ観光記念の「土産物」〜ピッツバーグ ソルジャーズ&セイラーズ記念博物館

2020-09-09 | 歴史

ピッツバーグの学校地区にある兵士と水兵のための記念館、
そして軍事博物館でもあるSSMMの展示から、最初の部屋
「ピッツバーグ・ルーム」にある展示をご紹介しています。

南北戦争のハイライトでもあるゲッティスバーグの戦いですが、
ゲッティスバーグがペンシルバニア州だったなんて、初めて知りました。
おそらくこれを読んでいる方々もほとんどは考えたこともないのではないでしょうか。


「ゲッティスバーグの間」には戦場で使われたグッズの色々が
壁に貼ったアクリルのケースの中に収められています。

記念館が開館したとき、南北戦争のヴェテランの何人かは
戦中に使用していたものを寄贈しましたが、これらもその一つです。

帽子のクロスした望遠鏡を象ったマークの下に「F」とあり、
F砲台つまり「ハンプトンの砲台」の所属という意味です。

下のバッグは同じ寄贈者からのもので、ベルトと一体にして
ベルトポーチのような使い方をしていたものと思われます。

ゲッティスバーグの戦いに参加したトーマス・ロウリー准将の肩章、
戦場に携帯するためのフォーク、ナイフ、スプーンなどです。

弾丸が埋まった民家の木材部分。

ジョージ・ミード将軍の司令部は北軍の最前線のちょうど後ろにあった
リディア・レイズナーという寡婦の家に置かれていましたが、1863年7月3日、
ピケットラインが攻撃された時に弾丸がめりこみました。

アメリカの家、特にここピッツバーグやボストンなどでは築100年の家に住む例は
全く珍しくありませんが、この家はたまたま取り壊しになった際、
銃弾の埋まった部分を当記念館に寄贈しました。

 

終戦直後から激戦の跡となったゲッティスバーグには、次々と
観光客が訪れたため、土産物を売る業者が現れました。

これはペン立てのついた「デスクセット」らしいのですが、
これらはリンカーンが有名な「ゲッティスバーグの演説」を行った付近や
国立墓地から勝手に拾ってきた石とか小弾丸とか木などをこのように集めて
適当に鷲のマークをあしらっています。

今はそんなものないのかもしれませんが、昔は、観光地の土産物屋に行くと、
「天橋立」とか「白浜」とか書かれた小さな札を立てた、「飾り物」
今思えばあんなもの買って何にするんだろうというようなグッズがありましたよね。

なんかこの「土産物」を見ていると猛烈にあれを思い出したのですが、
この「ゲッティスバーグ土産」も、観光に行って買ってきて、
しばらくは飾ってあるけどそのうち埃に塗れてヤードセールに出され、
というような運命を辿り四散してしまうようなものなんだろうと思います。

具体的には3インチの砲弾跡が刻まれた大理石の墓石、
2つのミニエボールの銃弾が埋め込まれた木、
キャニスターボールの破片が刻まれた花崗岩、などなどが、
馬具のかけらなどとともにリボルバーボールの上に乗っています。

制作されたのは1870年代ということで、おそらく当時は
歴史的史跡などという扱いがされていなかったため、業者が入り込んで
「お宝拾い」をしてはこうやって小銭を稼いでいたのでしょう。

北軍兵のキャップ。

こちらは南軍(コンフェデレート)兵士の使っていたドラム型水筒。 

先ほどのより大きなキャニスター(砲弾)が硬い樫の木に
見事にめり込んで埋まってしまった例。

20世紀になってからゲッティスバーグで発見されました。

 日本の旗のスクエアバージョンみたいなこの旗は、
ゲッティスバーグでルーサー・カルヴィン・フーストが使った信号旗です。

ルーサー・カルヴィン・フーストは現在のワシントン&ジェファーソンカレッジ、
当時のジェファーソンカレッジの20歳の学生で南北戦争に志願しました。

信号隊に配属になったフーストはゲティスバーグの戦い三日目の戦闘で
「ビッグ・ラウンド・トップ」と呼ばれる高地を
北軍が攻略した時にそこに信号兵としてそこにいました。

この旗は、フーストの記憶によると、目的の受信地に到達するまで
ステーション間で信号兵がメッセージをやり取りするのに使用された
二枚組の信号旗のうちの一枚です。

この二枚で1セットとなります。

フースト君はゲッティスバーグ三日目、このようなことを日記に書いています。

「僕たちは昨夜野営した。

今朝には午前中にかなりの小競り合いが行われることが確実になり、
正午に向けて戦いは再び激化し、最も激しく最も熱い砲撃があった。

僕の隣に座っていた男は瞬時にして砲撃で吹っ飛ばされて微塵となり、
数ヤード進むうちにこんどは馬がやられてしまった。

我々は敵のライフル弾が降ってくる中、ここ丘の上に信号基地を構えた。

敵は午前10時にはこの丘を指揮する3つのバッテリーを設置し、
我々は3回前進してそれを奪ったが、最初は撃退されてしまった。

戦いは厳しかったが、我々はそれぞれの地点で彼らを叩いた。
午後1時から2時までの間、砲弾や榴弾が降り注ぐのは目撃していない。

猛暑の間、僕はウォーレン将軍からバーニー少将、
セジウィック将軍、ミード将軍への伝令のために全部隊を回った。

わたしが行こうとすると連中はこちらに怒鳴ってきた。

『やめとけ、通り抜けるなんて絶対無理だ!』

しかし、僕はミード将軍に私の伝令を送らないわけにはいかず、
猛烈な速さで戦場を駆け抜け、でもう少しで馬を殺すところだった。

アイケンというもう一人の伝令は砲撃が収まるまで待つといい、
任務を引き受けなかった。

今日は「悪魔の巣」から狙ってくる狙撃兵によって
わが信号隊のうち7人が死傷することになった。

そして、素晴らしい武器であるはずの榴弾によって
我が軍は何百人もが犠牲になることになったのである」

これは・・・榴弾が自爆してしまったってことなんでしょうか。

さて、冒頭の写真は南北戦争時代の軍楽隊、というか「太鼓隊」です。

写真を拡大してみますが、太鼓を叩いているのも、
その指揮を執っているのもせいぜい13歳くらいの少年ばかりですね。
初回に少年兵について少し書きましたが、彼らは太鼓隊に配属されることが多かったようです。

 

もうこの世には一人も存在していませんが、南北戦争で軍隊生活を送った者は、
この太鼓の響きをまるで心臓の音のように記憶していたことでしょう。

なぜならドラムはこの時期、起床の合図から行進の伴奏にと、
あらゆるコミュニケーションにツールとして使われていたからです。

兵士たちは(そして馬たちもおそらく)食事の合図や就寝、そして
戦闘を表す何百もの異なった合図を覚えることから軍隊生活を始めました。

ちなみに南北戦争時代のドラムは薄い素材の木に蒸気を当て曲げて作りました。
皮は文字通りのカーフスキンを張ってあります。

左:陸軍歩兵部隊の太鼓

政府の依頼でフィラデルフィアの会社が当時一個6ドル75セントで請け負ったドラム。
たった百個しか製作されなかったため、現存しているのは
非常にレアであるということになるそうです。

太鼓の上に乗っているのはビューグル(喇叭)です。

右:ペンシルバニア第6重歩兵連隊の太鼓

ほとんどのドラムには部隊の徽章が彩画されています。

左:捕獲した南軍のドラム

こういうのも「鹵獲」というんでしょうか。
南軍の兵士が使っていた太鼓ですが、その後は北軍が使用しました。

もちろん南軍のペイントは消され、上から描き直されています。

右:砲兵隊ドラム

この砲兵ドラムは、高さを約半分に短く改造してあり、
その際、鷲と13の星の絵を残すようにトリミングしてあります。

なんでそこまで面倒な改造をしなくてはいけなかったのか。

このドラムが切り落とされた理由は不明ですが、
連隊バンドがドラムラインに鋭い音を必要としたか、
このドラムを使用したドラマーが行進の時に演奏する
ケースに合わせるため
ドラムを切ったかのどちらかだと言われています。

しかし、今ならケースに入らなかった場合の解決法は
「ケースを買い換える」一択ですよね。

サイズが合わないからってドラムを切るなんて考えられません。

この管楽器はB フラット、ドイツ語でいうところのB管(ベーカン)の
サックスなんだそうで、いわゆる現代のサキソフォーンとのあまりの違いに
ちょっとびっくりさせられます。

戦場仕様でホーンを大きくしてあるのかな?

これは馴染みのある形のBフラット管コルネットです。
手書きの紙片がケースに楽器とともに収められており、
それにはこう書かれています。

「音楽・・・ああ! なんとかすかな弱さ
汝の魔力の前に言葉は衰退する
なぜ語りたい気持ちになるのか
彼女の魂をあまりうまく吹き鳴らせないときに」

持ち主は詩人でもあったようです。

右側はジョン・B・クラーク少佐
アレゲニー市(現在のピッツバーグ北側)に支持者を持つ長老派大臣で、
2週間足らずで10個部隊分の志願兵を集め、
第123ペンシルバニア志願歩兵隊を形成するだけの影響力を持っていました。

この曲「凱旋行進曲」はクラーク少佐を称えて作曲されたものです。

その曲というのがですね。
この「グローリー・ハレルヤ」Glory, Hallelujah

この曲は皆さんおそらくよくご存知です。
「グローリー、グローリーハーレルーヤー」というあれですね。
 

アメリカ陸軍空挺部隊では部隊歌、
日本では「太郎さんの赤ちゃんが風邪ひいた」、また近年では
大型電気店のCMソングとして知られています。

実は歌詞はこんな内容だったってご存知ですか?

John Brown's body lies a mould 'ring in the grave,
John Brown's body lies a mould 'ring in the grave,
John Brown's body lies a mould 'ring in the grave,
His soul is marching on!

(ジョン・ブラウンの身体は墓の下、彼の魂は行進する)

The stars of heaven are looking kindly forth,
The stars of heaven are looking kindly forth,
The stars of heaven are looking kindly forth,
On the grave of old John Brown!

(天の星は優しく見つめる、ジョン・ブラウンの墓を)

となっています。
ジョン・クラーク大佐を称える歌なのになんでジョン・ブラウンなんだ、
というについてはまた今度説明するかもしれません。

ちなみにジョン・ブラウンとは北軍の兵士に人気のあった
死刑廃止論者だそうです。

ピッツバーグにあった連隊旗などが収められているケースです。


画面の左側に少しだけ見えている白と金色の旗は、1948年、
戦時中に息子を失った母親で構成される組織が
パレードに掲げて行進したものです。

おそらく、戦勝パレードの類ではなかったかと思われます。

また、中央に見えるアメリカ国旗は、星が75個もあります。

「75星出征旗」(エンバーカションバナー)

といい、この旗を窓にかけると、その家の息子は出征していることを表しました。

また、旗に金の星が縫い付けられていれば、彼が戦死したことを示しました。

 

 

続く。

 


ゲッティスバーグルーム〜ピッツバーグ ソルジャーズ&セイラーズ 記念博物館

2020-09-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

南北戦争に参加した全ての軍人たちを顕彰するために
1910年代からここピッツバーグに作られた、
ソルジャーズ&セイラーズ・メモリアル&ミュージアム、
略称SSMM、最初に誰もが足を踏み入れるのは、

「ゲッティスバーグ・ルーム」

です。

ここにはSSMMの壮麗な建物の歴史を物語る写真もありますが、
最も目を引くのがこの

アレキサンダー・ヘイズ准将(1819-1864)

の巨大な肖像画です。

ヘイズはペンシルバニア州出身で、この近くの墓地に墓所があるのですが、
南北戦争前、土木建築技師となってピッツバーグ市内に架かる
橋梁建設のプロジェクトに関わったことからこの特別な扱いになったようです。

ヘイズは士官学校の成績が25人中20位だったということですが、
その当時は一学年がそんなに少なかったというわけですね。

ちなみにその後南北戦争が起こり軍役に復帰した彼は
ゲティスバーグの戦いで戦功を挙げましたが、
ポトマック軍との戦いでミニエ銃の弾を頭に受けて亡くなりました。

Alexander Hays.jpg

44歳で准将というのもすごいですが、この写真どう見ても44歳には見えません。

これが「ゲッティスバーグの間」でございます。
絨毯は時々取り替えて天井も塗装し直していると思いますが、
オーク製の凝ったパネル壁面は昔の写真に写っているそのままです。

開館10日後の写真。掛けられている絵も変わっている模様。
この部屋は元々共和国大陸軍(南北戦争の退役軍人)のメンバーのための会議室でした。

部屋の真ん中にある展示物は、「パレードキャノン」(Parade Cannon)
祝砲などを撃つための大砲というのが定義でしょうか。

パレードといえば、今年の7月4日、ジュライフォースのパレードは
どこも中止になり、花火だけの建国記念日となったところが多かったようです。

それこそアメリカ建国以来初めての事態ではなかったでしょうか。

ゲッティスバーグの間には二つだけ展示があります。
もう一つがこれ、

Limber and Artillery Chest

リンバー=前車というのは、大砲のの架尾や砲弾車(caisson、ケーソン)、
などの後部を支えて、牽引を容易にするため2輪の荷車のことを指します。

どう見ても4輪だが、とおっしゃるあなた、確かにそう見えますが、
実は前車はやはり2輪なのでございます。

この1860年当時の前車とケーソン(砲弾車)、
左側が前車で2輪、やはり2輪の砲弾車と組み合わせて4輪で使用します。

つまり写真は、向こう側の2輪がリンバーで、こちらの「武器箱」は
2輪の車と一体型になったものであるということです。

南北戦争の英雄たちの写真・・・なのですが、我々日本人には
よっぽど有名な軍人でもない限り聞いたこともない名前ばかりです。

この人たちはペンシルバニア州から北軍に参加した将官です。

左から、

デビッド・グレッグ准将 農場主、外交官

David McMurtrie Gregg.jpg

退役後一般人の生活があまりにつまらないので、もう一度
軍隊に入れてくれ!と頼んだけど断られた人。

ストロング・ビンセント准将 弁護士(ハーバード卒)

Strong Vincent.jpg

ミシガン軍との戦いで弾丸が太腿の付け根を貫通しその後死亡。
享年26歳(それで准将って・・)

サミュエル・W・クロウフォード将軍 軍医

Samuel W. Crawford - Brady-Handy.jpg

軍医として軍隊に参加しながらいつのまにか指揮官になっていた人。

ジョン・F・レイノルズ少将 職業軍人

GenJFRenyolds.jpg

北軍で最も尊敬された上級指揮官の1人。
ゲティスバーグの戦闘開始直後に戦死。

レイノルズが首を撃たれた瞬間が版画化されていました。
ほとんど即死状態だったということです。

さきほど「日本人はほとんど名前を知らない」と言い切りましたが、
この4人についてはちゃんと日本語のWikiもあり、どうやら
南北戦争に詳しければ知っているというくらい有名であることがわかりました。

南北戦争当時ここピッツバーグのアレゲニー郡には1814年から100年間
アーセナル(武器弾薬庫)があったのでその関係の資料が集められています。

奥の版画にも描かれているように女性が弾薬を巻く仕事に携わっていました。
男性軍人が監督を務め、作業室は「ラボラトリー」と称していたそうです。

右奥に見えるのが彼女らの「巻いた」弾薬カートリッジ。

南北戦争で北軍が使用した砲弾(Artillery Shell)の断面です。
ここアレゲニー武器弾薬廠で生産されたものです。

Civil War Artillery Projectiles – The Half Shell Book by Historical  Publications LLC - issuu

炸薬で破裂すると、内部に仕込まれた小球が飛び散って
破壊的なダメージをもたらすというわけでなかなかエグいです。

このケースには当時の衣装や装備などが収められています。

当時の士官たちのイケてる軍隊生活の一コマ。

ピッツバーグにはリベラルアーツのDuquesne universityという大学があります。

フランス語式にSは無音で「デュケイン」と読むのですが、この語源は
独立戦争前に入植してきたイギリス人とフランス人(+インディアン)の間で起こった
フレンチ・インディアン戦争(1754〜63)に遡ります。

その戦場となったのが現在のピッツバーグで、その名前も
当時のイギリスの首相だったウィリアム・ピット(小ピット)に由来しているのです。

OlderPittThe Younger.jpgピット

このときイギリス軍バージニア民兵隊を指揮したのは21歳のワシントン少佐
ポトマック川を上ってフランク・ロイド・ライトの「フォーリングウォーター」のある
フランス軍の「デュケイン砦」を目指したという話が残っています。

その後デュケインは地名として使用されるようになり、この写真の
「デュケイン・グレイ」はこの地域で米西戦争の際結成された歩兵隊の名称で、
制服のグレイが名称に取り入れられています。

色や肋骨服のデザインはウェストポイントの制服に通じるものがありますね。

エポーレット付きの肋骨服にサッシュという正装をした

ジェームズ・S・ネグリー准将(1826-1901)

地元の出身で(ピッツバーグ大卒)、「ストーンズリバーの戦い」では
北軍の勝利に大きな働きをした軍人です。


こちらは1850年ごろ、つまり南北戦争の前のドレスユニフォームで
名称は「ピッツバーグ・ブルー」といいました。
袖章から、軍楽隊のメンバーの制服であることがわかります。

この頃は戦前ということもあり、制服はこのサッシュ(帯)
に見られるように装飾的で軽い着心地を追求する傾向がありました。

ドレスユニフォームの肩に付けるこのような飾りの房を
「エポーレット」(フランス語で”肩”)といいます。

上のシルバーのものは1812年製であることがわかっており、
1850年製の金色のケース入りエポーレットと比べると素朴な作りです。

どちらも初級士官のドレスユニフォームのためのものです。

1800年ごろからペンシルバニアではマスケット銃の生産を行っていました。

この図は、1836年に発行されたマスケット銃による銃撃に必要な
「11のステップ」を図にした歩兵のドリルのためのマニュアルです。

ドラム型の「キャンティーン」つまり水入れです。
ドラム形状の側面は、「スターブ」と呼ばれる木片でできており、
周りを鉄のバンドで固定されています。
内部に水が注がれると、木が膨張してしっかりと密閉されます。

木製のキャンティーンは1800年から1850年くらい、南北戦争前まで
兵士たちの間で使用されていました。

このキャンティーンには「SNY」とペイントされた跡があり、
ニューヨークステイトの意味だということです。

手前の銃はフレンチモデルの42型パーカッションピストルということですが、
ちょっとググったら普通に売買されていてちょっとびびりました。

アンティーク銃売買サイト

安いのは100ドルから上は天井知らず?(とはいえせいぜい1000ドルくらい)
どれも説明を読んでみると、普通に使用できるみたいなんですよね。

まことについでながら、同じサイトで日本の鎧兜を扱っていました。

江戸時代の武士の鎧

兜付きでスタート3000ドル。安いのか高いのか。

続く。

 


ソルジャーズ&セイラーズメモリアルホールと博物館〜南北戦争のヴェテラン

2020-09-05 | 博物館・資料館・テーマパーク

ペンシルバニア州はアメリカでも最も古い州の一つです。
その中でもピッツバーグは古くは鉄鋼で栄えた街で有名で、わたしなども
実際に行くまでは「鉄鋼の街」「工業都市」をイメージしていました。

イメージを大いに助長したのはビリー・ジョエルの「アレンタウン」という曲で、
あの曲の効果音に入っていた鉄鋼を打つ音がどこからでも聞こえてくるような街だと
今にして思えばとんでもない勘違いをしていたものですが、
現代のピッツバーグは
アメリカの中でも住みやすい都市として
トップに名前を連ねています。


さて、歴史のある街らしく、古い様式の石造りの教会などが数多く残り、

1700年代に創立のピッツバーグ大学や工学系の名門校カーネギーメロン大学、
自然博物館などが集中するオークランド地区の一角に、

Soldiers and Sailors Memorial Hall and Museum
兵士と水兵の記念ホールおよび博物館

があります。
滞在時に見学して参りましたので、シリーズとしてご紹介していきます。

SSMMはその名前が表すように、アメリカのために戦った軍人を顕彰する
慰霊施設であると同時に、軍事博物館でもあります。

このビザンチン様式絵画みたいなタイルの貼ってあるところが
地下にある駐車場から出てくる階段となります。

わたしが見学した時にはまだコロナ前で、地下にある駐車場は
ピッツバーグ大学のオリエンテーションに参加する父兄の来訪のために
無料で解放されていました。

 

ピッツバーグの歴史的建造物で、かつランドマークであり、
国の歴史遺産に認定されているこの建物は、創設以来
軍事に関わる収蔵品の保存と全ての退役軍人たちを称えるための
会合などが行われてきました。

まずは建物の正面に足を運んでみましょう。

フランスの新古典主義の手法による「ボザール様式」は
1800年代後半から1900年にかけて流行した建築様式です。
イタリアやフランスのバロック&ロココのエッセンスが取り入れられています。

市庁舎やカーネギーメロン大学の学舎など、市内に多くの建築を残した建築家、
ヘンリー・ホーン・ボステル(1867−1961)が設計し、1910年に完成しました。

"Lookout"


まずわたしが足を運んだのは水兵のブロンズ像の前です。

望遠鏡を持ってたたずむそのセーラー服の襟は風になびき、
彼が今海を望む場所に立っていることがわかります。

彫刻家フレデリック・ヒバードが開館して10年後制作したもので、
「Lookout 」(監視、見張り)という題名が付けられています。

"parade Rest"

水兵像とはファサードを挟んで反対側に兵士像があります。

同じヒバードの作品でこちらの題名は「Parade Rest」
分列行進の「止まれ」の状態の陸軍兵士の姿です。

制作年は水兵像より1年後で、彫刻家がまず水兵像、
続いてこちらを手掛けたことがわかります。

製作年月日から想像するに、これらの像は第一次世界大戦で犠牲になった
兵士と水兵を顕彰するためにここに設置されたのに違いありません。


ところでヒバードの作品には南北戦争関連のものも多く、
 たとえばグラント将軍の像などもあるわけですが、この度のBLM関係で
作品が引き倒されたり落書きされたりということはあったんでしょうか。

”America"

兵士と水兵を従えるようにファサードの中央にあるのは、
剣を携えた女神像で、彫刻家チャールズ・ケック「アメリカ」

 

この後館内に入って行ったわけですが、正面から入れると思いきや、
扉は閉ざされていたので建物沿いに歩き、とても博物館の入り口に見えない
小さな入り口をやっとのことで見つけて入館しました。

まずは当ホール建築の写真からご紹介です。

左上、1908年9月11日撮影の工事現場の様子

土台となる部分ができて行っている感じですね。

メモリアルホールの計画は、1891年、南北戦争が終わって14年後、
戦争に参加したヴェテランたちが中心となって起こされました。

設立に際して求められたポリシーは、

記念碑は、私たちの偉大な産業の中心地の富、知性、愛国心を
表せば表すほど、荘重で立派でで印象的なものでなければなりません」

というものでした。

その1ヶ月後の写真が下で、10月24日撮影です。
右上はその2ヶ月後12月28日で、特徴的なギリシャ神殿風の柱がもう取り付けられています。

進捗の早さは流石に鉄鋼の街の総力を挙げたプロジェクトです。

工事を請け負ったのはエイクリー(Eichley)ファームいう建築業者で、
現在もピッツバーグで設計・施工・デザインなどのビジネスを行っています。

左上:1909年の3月24日にはもうすでに大まかなフレームは完成。

右下:1910年5月、完成間近。

丘の上と右後ろに見えている建物は現存するピッツバーグ大学関連の施設です。

同じ方向から現在の写真です。

そして、1910年10月11日、晴れて完成相成り、SSMMはオープニングの日を迎えました。
メモリアルホールにおけるオープニングセレモニーの様子が二枚の写真に残されています。

ステージの上には来賓が並び、その中にはゲッティスバーグの戦いで有名な
ダン・スティックルス将軍Dan Stickles始め、
南北戦争に参加した将官(政治家になっていた人あり)が含まれました。

ステージ側から撮られたのがこちらの写真です。
客席を見るとそのほとんどが白髪の老人ばかりで、客席側の出席者もまた
南北戦争の
ベテランが中心であるらしいのがよくわかります。

実はこの二枚の写真を撮るために、会場に二台のカメラがスタンバイしており、
同時にシャッターが押されたものと思われます。

客席側のほとんどがカメラ目線になっているのにご注意ください。

後ろ側から撮影した写真には、舞台袖側に三脚を立てたカメラマンが
手を上げてこちらを見るようにと合図をしている様子が写っています。

その甲斐あって、ほとんどがこちらを見ているわけですが、
写真のご老人のばかりの中に一人だけ帽子をかぶった女性がいます。

この女性、アンナ・シャープ・マクドウェル(Anna Sharp Mcdowell)は、
ペンシルバニアの
陸軍第3連隊にとって不可欠な存在だったといわれています。

彼女の父親が陸軍の退役軍人であった関係から彼女は食事係を務め、そのかたわら
彼らのスケジュール管理などの事務的な仕事をしていましたが、歌が得意だったので
何かしらイベントがあると歌手として喉を披露し皆を楽しませたそうです。

部隊のアイドルというか、マスコットガールみたいな存在だったんでしょうか。

女性であり、さらには南北戦争の退役軍人でもなかったにもかかわらず、
彼女はこの退役軍人会の正規メンバーに認められてここにいるわけです。

記念館が完成して公式にオープンしてから10日後、
SSMM評議員における最初の会合が行われました。

その会合が行われた部屋がこの「ゲッティスバーグの間」です。
ここには、南北戦争の資料の一つとして
ゲッディスバーグの戦闘で第二軍を率いた
アレキサンダー・ヘイズ准将の肖像画が(おそらくその頃から)あります。

 

 

そして完成したばかりのソルジャー&セイラーメモリアル前に集合したのは、

National Encampment of the Union Veterans Legion(UVL)

つまり南北戦争のユニオン(北)軍の退役軍人たちで、1911年9月15日の日付です。
全員がスーツに帽子着用なのが時代ですね。

 

今ベテランの会合は、全員ベースボールキャップ(部隊マーク入り)
にボマージャケットか夏ならTシャツの集団になることでしょう。

こちらはさらにその11年後、1922年のUVLの「戦友会」ですが、
さすがに少しだけ人数が減っている感じです。

わたしなどまたしても、

「ブルーのために戦ったのか、それともグレイだったのか」

「ゲッティスバーグの演説を聞いた思い出を彼は語る」

「彼らはいつかこの世からいなくなるだろう。
その時この世界はどんなに寂しいものになるか」

と南北戦争のベテランのことを歌ったスタンダードナンバー、
「オールド・フォークス」(Old Folks)を思い出してしまうわけです。

Carmen McRae / Old Folks

 

ちなみにピッツバーグのあるペンシルバニア州はアメリカ合衆国側(北軍)でした。

我々日本人にはいまいちピンとこない

北軍=ユニオン
南軍=コンフェデレート

という名称ですが、
地図にするとこんな感じです。

薄紫は合衆国にとどまった奴隷州となります。

ちなみにカリフォルニアは北軍側ですが、今回、
サンフランシスコにあったグラント将軍の銅像は、
BLMの皆さんによって
きっちり破壊されております。

どうもよくわからないのですが、奴隷解放を旗印にしていたはずの
北軍の将軍も許されないっていうのはどういうことなんですかね。

わたしなどニュースで「風と共に去りぬ」を放送禁止にしようという動きがあると聞いて、
こいつら本当にこの小説を読んだことあるのか?と情けなくなりました。

 

 

名前が書いてあるだけでどういう人たちかわからなかったのですが、
一人ひとり検索してみると、

1937年、南北戦争のベテランであるルイス・マラゼー(一番右)が
85歳でピッツバーグの自宅で亡くなった

というニュースが引っかかってきました。

南北戦争のベテランで、1927年にここで行われた戦友会にやって来たのは
この人たちだけだったとということになります。
ニュースによると、マラゼー氏がなくなったのはこの会合の10年後。

南北戦争が終わったのは1865年ですから、1852年生まれのマラゼー氏は
終戦時わずか13歳の「少年兵」ということになり、最年少組です。

13歳で戦争に参加ってそれはないんじゃないか?
と思った方、南北戦争には普通に子供が参加していたんですよ。

The Civil War's Child Soldiers: "Danny Boy"

海軍の水兵の制服の子、一人だけですがアフリカ系の少年もいます。
おそらく年格好から言って、写真の一人(左から3番目)を除く6人は
ビデオの写真のような「子供連合軍」だったのでしょう。

写真を見ると、下手すると10歳くらいの子供兵士の姿もあります。
だからこそ、南北戦争のヴェテラン=オールド・フォークスは、
第二次世界大戦が始まる寸前まではまだ生存していたのです。


次回からはソルジャー&セイラーメモリアル・ミュージアムの展示を
順にご紹介していくわけですが、展示の目的であったところの
南北戦争関係の資料からということになります。

 

続く。

 

 


オンラインの入学式〜アメリカ滞在

2020-09-01 | アメリカ

アメリカで生活してしばらくになりますが、映画や観劇、
コンサートの類はそもそもこちらでも絶賛自粛中ですし、
ほとんどのレストランはテイクアウトだけの営業なので、
外出は食料品とMKの生活立ち上げのための用品の買い出しか、
そうでなければ外を歩きに行くくらいしかしていません。

しかし、そもそもこれまでも別に遊びまわっていたわけではなく、
特に夜は用事もないので外に出ることは滅多になかったので、
特に不自由を感じているわけではありません。

モールなどお店ではマスク着用が求められているので皆守っていますが、
わたしの観察したところによると、外でウォーキングをしている人、
自転車を漕いでいる人のマスク着用率は50%といったところ。
走っている人でマスクをしている人は見たことがありません。

特に朝早くは人ともすれ違わないのでしなくていい、という
マイルールができている人が多いようです。

わたしも日本よりマシとはいえ、こちらも結構暑いので
歩いていて人が来たらマスクをつけるようにしています。

冬はいろんな色のマフラーファッションを見せてくれる
カーネギー博物館のマスコット?ディッピーくんもマスク着用。

 

到着してすぐ、去年毎日歩いた公園に行ってみました。
元々人が多いような場所ではありませんが、今年は一段と静かです。

何日か時間を変えて歩くうち、一番混雑?するのは
夕方7時ごろからであることがわかりました。
暑いので陽が沈む頃歩きに来る人が多いということです。

公園散歩の後に、一度以前住んだところの近くにあった
ユダヤ人街のベーグル屋さんに行ってみました。
外側から自分の携帯で注文して中から店員が持ってくるのを受け取る仕組みです。

ベーグルそのものが4分の3くらい小さくなっていました。
小さくしすぎて?真ん中の穴がなくなってます(´・ω・`)
わたしは毎回ハラペーニョ・クリームチーズを選ぶのですが、ベーグルが小さくなった分
ハラペーニョの辛さがマシマシになったという気がしました。

ほとんどがテイクアウトオンリーの中、テーブルを一つおきに使用不可にするなど、
ソーシャルディスタンスを配慮しながら営業しているレストランもあります。
ピザの美味しいこのお店もそのひとつ。

この日は日曜日で教会帰りらしいドレスアップしたグループがちらほら。

これがドレスアップ?と思ったあなたはアメリカ人の「普通」をご存知ない。
女性がスカートかワンピースを着れば、それは「改まっている」ということです。

夫婦とどちらかの母親とで教会の後の恒例の?ランチタイム。
ちなみにこのレストランのあるのは高級スーパーや高級養老院があり、
見るからに生活レベルの高い地域です。

前回も書いたようにこちらでiPhone11を買って以来これに頼りっきりですが、
天候などのシチュエーションによって出来不出来はあるものの、
本領発揮というか優秀だなーと思うのが夜景です。

調整なしでパッと撮ってこれくらいなら上出来じゃないですか?

これが買って初めて撮った窓越しの夜景。

夜散歩した時に雨が降り出して真っ暗になったのですが、
オハイオ川にあるリバーレスキュー隊の救難ボート置き場のハッチが
珍しく開いていたので撮ってみました。
ブレることなくちゃんと写っています。

ピッツバーグは今回雷とスコールによく見舞われます。
雷を伴う雨は激しいですが短時間で終わり、焼けつくような晴天、
これが何度か繰り返されます。

前回発見したストリップ・ディストリクトのイタリア街の商店街、
移民系多めな一角のシーフードレストランがダインイン営業中とわかり、
行ってみることにしました。

夕方だったせいかほとんどの店が終了しています。

わたしはここでも当たり前のように「招き猫体質」を発揮してしまい、
並び出した途端後ろが長蛇の列になってしまいました。

長蛇といってもアメリカ人は列を作るのを嫌いますので、
お店の人に名前を言って店の前で適当に待つ感じです。

シーフード料理の店なのでやはりここはクラムチャウダー一択でしょう。
クラム多めでこってりとしていました。

SNS上で評価の高かったロブスターサンドを頼んでみました。
レモンをたっぷり絞っていただくのがよし。

アメリカで外食する時の常として、半分食べたらあとは箱をもらい、
自分で詰めて持って帰って次の日アレンジして食べました。

さて、いよいよ大学の始まりにむけて始動が始まりました。
まず、全員に必ず30分のこのガイダンスを観るように、という通知があります。
内容はCOVID19に対処するための、わりと当たり前な注意なのですが、

このビデオに大学のマスコットである黒いスコッチテリアが大活躍。

至る所に登場して和ませてくれます。

「あー、こんなところにいる」「かわ(・∀・)イイ!!」「 ´д` ;ハアハア」

とか騒いでいると、(英語なんで)肝心のことを聞き逃してしまうわけですが。

制作側も昨今の学生に何がウケるか知り尽くしている模様。



ソーシャルディスタンスは6フィートというのがこちらでは言われていますが、
つまりこれはスコッチテリア6匹分であると。

確かにインパクトありますよね。
(どうして『インパクト』なのかちゃんと聞いていなかったのでわかりません)

ちなみにマスコットが犬であるせいで、当大学のスクールショップには、
犬用のバンダナ、タイニーサイズからXXLまでサイズも豊富な
犬用シャツや首輪が大変充実しております。

こちらはマスコットぽいですがそうではなく学長です。
MKは新入生ではありませんが、もちろんオンラインでの
入学式を見るのは初めてです。

学長に続き、学校関係者がこの後次々と画面で紹介され、
皆が一言ずつ挨拶をしたりしてセレモニー?は進んでいきます。

お約束、各界で有名になった卒業生の紹介タイム。
宇宙飛行士がいたり、普通にノーベル賞受賞者がいたり、

アメリカ陸軍中将閣下もおられるのである。

しかし、正直な話、従来の入学セレモニーを父兄として経験した立場でいうと、
8月の下旬という酷暑の中、キャンパスをあっちにいったりこっちにいったり、
セレモニーに始まりオリエンテーション、親睦会とたらい回しにされるわりに
何もしていない時間の方が長いというあの悪夢の1日に比べれば、
ずっと端的に大学のことがわかり、学長やスタッフの顔を間近に見て、
しかも自室にいながら全てが短時間で済むオンラインは最高です。

ほどなく学生のオリエンテーションも始まりましたが、こうやって
何百人ものクラスメートの顔を見ながら話が聞けるわけです。
もうこれから大学はこれでいいんじゃないの、とさえ思うのですが、
MKによるとやはり科学系の授業はどうしてもそうはいかないのもあるようで。

さて、今日はいよいよムーブインの日。

学校が借り受けているアパートに荷物を搬入するわけですが、
前もって日にちと時間を自分で予約し、指定の時間にオフィスに行って
鍵を受け取り、
30分だけ駐車場に車を停めてその間に荷物を入れます。

時節柄混雑と接触を避けるために同じ枠には数人しかアサインされていません。

アパートは築100年は余裕で経っていそうな年代物でした。

ここにもアパート内でのマスク着用を呼びかけるスコッチテリアが。
さすがに室内ではマスクしなくてもいいとことわってあります。

このアパート、全部が大学の寮ではなく、一般の人も住んでいるようです。

エレベーター、これが凄かった。
手動式開閉ドアの内側がフェンス型の二重ドアでこれも手で開けるのですが、
この重たいドアを力一杯手で押さえていないとどちらも勝手に閉まってしまい、
しかも閉まる時
ガシャーンとものすごい音を立てるという不親切設計の極みです。

おそらく100年前設置されたもの(ウェスティングハウス製)だと思われます。

マスクの重要性を視覚に訴える学校制作のポスター。

日本でも最近「富嶽」の計算でもマスクの有用性が証明されたとかなんとか。
マスク着用の有用性について相変わらず疑義を唱えている人もいるようですが、
もうとにかくそういうご時世になってしまったんだから、エチケットとして
文句言わずしとけばいいのよ、
って感じですね。

平常時は机とベッド、本棚が二つづつ、そしてソファーと椅子のある
20畳くらいの部屋にキッチンとバストイレクローゼット付きの部屋に
二人で住むのがこのドーム(寮)の基本なのですが、なんとびっくり、
今回はどの部屋も一人で占有できるようです。

おそらく、学生の多くがオンライン授業を実家で受けるため、
ドームに住む学生が半分になってしまったということでしょう。
前の部屋より広くなり、しかも一人ということでMKは大喜び。

このあとベッドとタンス、机を彼の考えによって動かしたのですが、
日本の家具と違い、こちらの家具は鉛でも仕込んでるのかってくらい重くて、
このタンスなど全く持ち上がらずほんとうに難儀しました。

室内には寮規則の書かれた紙とともに、マスク3枚(学校と業者から)
消毒シートに消毒剤、体温計のプレゼントが机に置かれていました。
キャンパスに行く前には自主的に測ってくださいということのようです。

部屋はいつもより入念に「ハイジーン」(消毒)されているということですが、
わたしは全く信じていないのでゼロから掃除をやりたおしました。

案の定ベッドの上など埃だらけでした。
ハイジーンとは一体。

古くて饐えたような匂いがするのはちょっといただけませんが、
100年もののアパートなのでなかなか風情があってある意味お洒落です。

元々は普通のアパートなので、キッチンはファミリー向けと同じ大きさ。
大型冷蔵庫に電子レンジ、食洗機になんならオーブンまであります。

学校の「ミールプラン」というのを契約し、食事はオンラインで注文して
大学の指定した近所のレストランに取りに行くことにしましたが、
やはり気軽に行けるカフェがないのでキッチン付きはありがたいです。

次の日聞いたら、自分で豆を挽いてコーヒーを淹れ(今凝っている)
サラダとサンドウィッチを作って食べたと言っていました。

彼にすれば最初のキッチン付き住居での一人暮らしになります。
もともと自分で何でもできるようにしつけておいたし、
(というと聞こえがいいけど実は以下略)寮生活も三年目になるので
心配はしていませんが、ひとまず安心です。