ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海行かば

2010-08-30 | 海軍

この譜面が読める方はぜひ口ずさんでいただきたいのですが、この曲が「君が代」だと言ったら驚かれますか?

これは、喇叭譜と言われ、英語ではビューグル・コールと言われています。
軍隊で、次の行動にかかるとき、決まったテーマを演奏しそれを報せる、という役目を持つ音楽です。

進軍ラッパのあのメロディ、といえばおわかりでしょうか。
正露丸(昔は征露丸)の宣伝に使われたのは「食事」です。
そういえば「ラッパのマーク」のラッパは、赤い房飾りが付いているビューグルですね。
陸軍はトランペット型、海軍はコルネット型を採用し、やはり赤い房飾りをつけ用いました。
「兵学校のおかずはイワシに牛蒡(ニンジンにダイコ説あり)たまには混ぜ飯ライスカレー」のように、どのコールにも歌詞が付いていました。
あくまでも自然発生的なものなので、部隊や時期によってバージョンが異なることもあります。
有名な陸軍の喇叭譜の歌詞。

起床 「起きろよ起きろよ皆起きろ 起きないと班長さんに叱られる」
消灯 「新兵さんは辛いんだね また寝て泣くのかよ」
突撃 「出て来る敵は 皆々倒せ」 「進めや進め 皆々進め」
食事 「一中隊と二中隊はまだ飯食わぬ 三中隊はもう食って食器上げた」

みんな何となく歌えてしまいますね。

冒頭の喇叭譜「君が代」ですが、令式の部という儀式の際演奏されるカテゴリーで、天皇および皇族お出ましの際演奏されるものです。

ビューグルがイギリスから日本に入ってきたのは幕末ですが、フランス式に喇叭譜が制定されたのは一九八五年のこと。
それから一九四五年の終戦まで陸海軍で使われます。

海軍で喇叭手となるのは軍楽兵ではなく航海科の水兵でした。
日本海海戦では敵艦との距離を数字符丁で伝達したそうです。
確かにこの方法だと騒音の中でも遠くまで確実に情報が届くかもしれません。

さて、以前映画トラ!トラ!トラ!における軍楽隊で、山本長官が乗艦したときに「海ゆかば」が演奏されていた、と書きました。
この「海ゆかば」は、皆さんがご存知の万葉集にメロディをつけたもの。
一九三七年、信時潔がNHKの委託により「国民精神強化週間」のために作曲したもので、国民歌謡というラジオ番組で初演されました。

(私事ですが、エリス中尉の母方の大大叔父は信時潔在学の頃東京音楽学校に入学するも、若くして肺結核で夭折しています。当時音楽を志す青年はそう多くはなかったと思いますが、なんと先祖にいたということをつい最近知りました)

さて、この曲はもともと戦意高揚のために作られたもので、真珠湾攻撃の戦果を発表する時にも使われましたが、こののちこれが演奏されたのは主に太平洋戦線の玉砕を伝えるときだったそうです。


しかし、山本長官乗船の際の「海ゆかば」は、こちらではではありませんでした。


「国民歌謡」で初演されるようなものですから、長官乗船などの儀式の際に演奏されることはありえなかった、とのご指摘をある方からいただきました。
そのときに演奏されたのはこの海軍喇叭譜における「海行かば」だったそうです。


またまた驚かれたでしょうか。
譜面は音源を採譜したものですが、四分の二拍子で取ったのはテンポがかなり速かったからです。何しろコンピュータ音源ののっぺりとした演奏ゆえ、一度ではリズムが弱起であることがつかめず何度か聴き直しました。
私たちの知っている「海ゆかば」とは似ても似つかぬイメージの曲調です。

海軍関係者でなければ何の疑問も持たず観てしまうシーンですが、実は海軍さんたちだけはこの海行かばを聞いてびっくり、だったようです。

医者、弁護士、パイロット、プロの世界を描いたドラマを当事者が見ると「それはない」と思うことだらけです。
この映画もそうだったわけで「音楽の考証をちゃんとしていると思う」などと書きましたが、ここは「海行かば」違いだったということです。

海軍関係者から見るときっと他にもいろいろあったのではないでしょうか。

しかし、映画が事実関係より優先させるものが多い(映像や音、ストーリーや人間関係ですら)ものであることを知っていると、「海軍喇叭譜の存在を知った上で、あえてこちらを採用したのではないか」と疑ってしまいますね。



参考:ウィキペディア フリー百科事典
   海軍兵学校よもやま物語 生出寿 徳間文庫

SAMURAI!を読む

2010-08-28 | 海軍
この夏、アメリカに行っている間に予約してあった本を帰ってから手にしました。
この写真、アメリカで再発売になったばかりのSAMURAI!です。

このブログをわざわざ見て下さっている方で「大空のサムライ」を読んだことも見たこともない、というかたはおられないことと思いますが、その「大空のサムライ」の英語訳です。

・・・・と言いたいところですが、実はこの本、そうではありません。


この本の表紙にはどういうわけか四人の「関係者」の名前が記されています。
サブロー・サカイ。
これはいいとして、なぜ三人もの手が必要なのか?
帯の説明をそのまま訳してみます。

<フレッド・サイトウ>

日系の特派員。一九四〇年後半からのサカイについてのインタビューを戦後手がけた。

<マーティン・ケイデン>

ニューヨークの軍事航空作家。
マサタケ・オクムラ、三菱ゼロの設計者ジロー・ホリコシとの共著「ゼロ:太平洋戦争における日本の航空戦」がある。
航空機に関する著書多数。

<バレット・ティルマン>

米国軍事航空歴史家。作家としての著書がある。
「旋風:対日本の航空戦」など。
1942年から1945年までのサカイの歴史的記憶の背景の中に読者を誘う。

サカイがサイトウに話す。サイトウは翻訳記事を書く。
そして、ケイデンがそれを小説風にリライトしました。

当初ダットンという会社から出版されていたものが、この新版はThe naval institute pressというU.S. Naval Academy(会員制の非営利団体。零戦の会のようなものかもしれません)のブランチである出版元によって出版されています。
最後のティルマンはあらたな出版元からの発売に当たって本の序文を手掛けています。

さて、このような、まるで伝言ゲームのようなことをしていたら、少なくとも坂井三郎が語ったことは、ほんの「あらすじ」で、「事実」とは程遠くなってしまうのでは?とおもいませんか?

そうなのです。

このSAMURAI!は、インタビューに大胆に創作を加え、脚色を施し、あることないことアメリカ人の感覚で解釈したものをさらに読者サービスで勝手に話を膨らませ語ってしまうという、もうとんでもないものなのです。

しかしたちの悪いことに?、ところどころには写真も掲載されているではありませんか。
100パーセント創作、という立ち位置でないところが問題です。



この本の誕生については神立尚紀氏の新刊「祖父たちの零戦」に詳しく書かれています。

それによると驚くべきことにこの「サムライ!」は、「大空のサムライ」より前に書かれているのです。
だからといって、こちらがオリジナルで「大空」の方が翻訳したもの、というわけでもないのです。
そのいきさつについては本に詳しいのでここでは書きませんが、つまりどういうことかというと「同じ人間のインタビューをもとにしているが全く独立した別の本」である、ということです。


しかしですね。

ちらっと読んでみると、これが面白い。
いや、面白いと言っても、素直に面白いというのではなく、「サムライ!」のアメリカ人的感覚で加えられた途轍もないセンスの脚色が、文字通り「面白い」。
まあ、さらに言うと荒唐無稽。
キワモノと一言で決めつけることもできますが、この脚色家、やたら愛を持ってストーリーを語ってくれるので、ついつい下らないと思いながらも読み進んでしまいます。
やはり世界中でヒットし、今日に至っても版を重ねている「名作」だけのことはあります。

「マシーンのように言われたとおり戦っていたと思っていた日本人が、我々と同じように泣き、喜び、戦争を捕えていたと知って感動した」
ボストンの大型書店「バーンズアンドノーブルス」店内にある検索機のオンラインページでこの本を検索したとき、こういった感想がありました。

アメリカ人が、アメリカ人の感覚で良かれと思って執筆したわけですから、アメリカ人にこのように受け入れられるのは当然です。
実際は「これ、日本人の感覚じゃないよなあ」
という部分があまりにも多いのですが、私たち日本人としてはそのへんを楽しんでしまいましょう。



以前「笹井中尉に叱られたい」の記事のとき、海外のサイトで見つけた「笹井中尉お説教シーン」を翻訳しましたが、その出元は、実はこれだったことも判明しました。

エリス中尉の見つけた文章は恐るべきことにそれでもかなり省略されていたんですねー。

くどい!と言われそうですが、省略部分をあらためて翻訳。

(笹井中尉に呼ばれたとき)我々はお互いに顔を見合わせた。
心配してないとはいえなかった。
今日やったことで厳しく罰せられる可能性だってあるからだ。
我々がササイのオフィスに入るや否やササイは仁王立ちに立ったまま我々に向かって大声で言った。
「これを見ろ、このあほどもが!」
彼はわめいた。
「こ れ を 見 ろ と 言 う ん だ!」
彼は顔を真っ赤にし、自分を抑えることもできない様子で、一通の手紙を目の前で振り回した。
(中略)
手紙はモレスビーの戦闘パイロット有志のサインがしてあった。


ね~?
何が「ね~」なんだか、ですが、なんか楽しくないですか?

これによると、手紙は腕に覚えのある敵パイロット集団(groupという言葉が使われていた)からだった、と言うことになっています。
司令部からの手紙と違い、これだと手紙は俄然「挑戦状」の様相を呈してきます。
つまり、このありえない話がさらにありえなくなっているわけで、もはや事実などどうでもいい域に達しています。

他のシーンも、輪をかけてすごいんですよ~。


いや、こういう楽しみ方って、真面目に書いている作者になんだか失礼なんですが、突っ込みどころが多すぎて突っ込まなくてもいいところがほとんどない、という、この「SAMURAI!」、エリス中尉が一人で楽しむのはあまりにもったいないので、後日抜粋して皆さんにご紹介しようと思います。


それにしても、この笹井中尉、ちょっと怒りすぎ。





参考*「祖父たちの零戦」神立尚紀著 講談社刊






パン三都物語

2010-08-26 | つれづれなるままに


日本に帰ってきて何が嬉しいってパンが美味しいこと。
「アメリカはパンが主食なのに美味しくないの?」
と思われるでしょうか。

美味しくないんですよ。
探せばあるんでしょうが、アメリカ人の考える「美味しいパン」がそもそも日本人やフランス人とはどこか違う。

砂糖を加えてふわふわにしたパンは元々アメリカから来たものだそうです。

アメリカでも「白い食べ物は太る」という概念が浸透してきて、白いパンよりは胚芽や全粒粉のパンを健康のために食する傾向にあるとはいえ、アメリカ人曰く
「全粒粉やライ麦のパンは美味しくない」
体に良くても美味しくない、というんですね。

アメリカ人はホットドッグもハンバーガーも白いふわふわのパンで作りますから、どうしてもそれが主流。
そもそも具をはさむ緩衝材扱いで、パンそのもののおいしさなんてあまり期待されていません。
日本の菓子パンとはまた全然違うんですね。

アメリカ人もフランスのパンには一目置いています。

サンフランシスコには「ポーク・ブーランジェリ」というフランス人がやっている有名なパン屋があって、フランス式のバゲットやクロワッサンが食べられ人気。
朝どんぶりで出すカフェオレとターキー・クランベリーのタルティーヌ(バゲットに乗せたもの)をよく楽しんだものですが、去年あまりの人気に広い店に移転していて、今年は味が残念なことに落ちていました。

ホールフーズではいつも全粒粉マフィンを買っていました。
いろいろ試しましたが、美味しいバケットやクロワッサンは期待できないことが分かったため。
これはこれで美味しいのでアメリカではお気に入りでした。

そう、エリス中尉、パン選手権に出てもいいくらい、パンにはうるさいです。

パリに短期間住んだことがありますが、家族が朝寝ているとき、焼きたてのクロワッサンを食べに数ブロック歩いてポール(今は日本にもありますね)やポワラーヌ、エリックカイザーに通ったという執念のパン好き。

ポワラーヌのマダムは、ただならぬエリス中尉の執念に感じいってくれたのか、「地下で今パン焼いてるんだけど、窯を見せてあげましょうか」
と言ってくれました。

エリス中尉、フランス語が喋れるのか?って?

うぃ、じゅぷーぱーるふらんせ、め、あんぷちぷー。

まあ、フランスで買い物するには困らないくらい、と言いたいところですが、ラデュレの生意気な黒人ウェイトレスには
「ジュヌコンプランパ」(わからへんわ)
と言われましたな。


さて、地下に降りると昔ながらのパンがまの前で、上半身裸で作業するパン焼き職人。
何か今途轍もなく貴重なものを見ている!
と感動しつつも、
「?」
という顔でこちらを見る職人さんに
「ぼんじゅー」
「ぼんじゅー」
「いるふぇしょー?」(暑い?)
「うぃ、とれしょー」(おおーむちゃ暑いで)

という、初級フランス語会話しかできなかったあの日のエリス中尉でした。
フランス人って大阪弁でしゃべってる気がするんですよね。

話が大幅にそれましたが、何しろ、フランスは別格。
言わせてもらえばパンの聖地です。

しかし、わが日本も負けてはおりません。
あなた、東京のミシュランの星持ちレストランの数はいまや世界一。
探せば美味しいものは何でもあります。


美味しいパンといっても、ア○デルセンやポ○パドールのじゃありませんよ。
本日画像のパンはミッドタウンに入っているメゾン・カイザーのバケット。
北海道のウインザー洞爺に泊ったとき美味しいなあと思ったのですが、その後東京にもできました!

このバゲットは、そのへんのスーパーの真っ白でバターをつけないと何の味もないパンと違って、うっすら全粒粉の色が残り、噛みしめると実に粉が味わい深い。

ピクサーの「ラタトゥイユ」という映画でコレットという女性料理人がバゲットをパリパリさせて「美味しいものには音があるの」と言っていましたが、焼きたてはまさに外パリパリ、中しっとり。
買ってその日のうちに食べないと駄目だけどね。

(またまた寄り道ですが、この映画、邦題「レミーのおいしいレストラン」ですって?
センスのなさ極まれり。
原題の「 Ratatouille」の最初の三文字がRAT(ねずみ)である、という諧謔が台無しじゃないですか。
何故原題のままでは駄目だったのか?
いまどきラタトゥイユなんて、だれでも知っていると思いません?
あまり日本人を見くびったような題をつけないでほしい)

六本木ヒルズのロビュションの全粒粉バゲットも美味しいです。

でも、クロワッサンがねえ。

中国に行ったとき、一流ホテルにもかかわらずパンが妙な味なのに驚いたものですが、何が違うと言って、多分バターなのでしょう。
クロワッサンはバターが命。分量も問題ですが、質はうまみを決定します。
美味しいバターといえば、バター専門店「エシレ」が数量限定でクロワッサンを焼いていて、これはかなり美味しい。丸の内にあります。

でも、いいバターを使っているのでしょうが、カイザーのも、ロビュションのも、クロワッサンに限り「なんか違う」のです。
ましてやサンフランシスコのブーランジェリは問題外。
いや、あれを美味しくないなんて言ったら罰が当たるってもんですが、エリス中尉、何しろパリの朝6時に食べたクロワッサンの味を基準にしてしまっているのでねえ。

特に名店というわけでなくても、角のパンやですら、気合の入ったクロワッサンが食べられるのがパリ。
美味しくないパン屋などパリでは瞬時に潰れてしまうそうです。


少なくともできて30分以内に温かみの残る美味しいバターをたっぷり使ったクロワッサンが食べられない限り、日本であのレベルのクロワッサンは無理だろうなあ。





オーケストラの少女~帝国海軍の雅量

2010-08-25 | 映画
エリス中尉が高校生だったとき、学校の映画観賞会で何故か、ライザ・ミネリ主演の「キャバレー」が上演されました。

当時、新作と言うわけでもないこの映画が、なぜそのとき取り上げられたのか、今となっては知る由もありません。
たまたま映画の選にあたった教師がこの映画のファンだったのかもしれません。
そのとき「よくこの映画を高校生に見せたなあ」と内心驚いた覚えがありますが、後年この映画を観なおしたとき、ホモセクシュアルや妊娠などもエピソードにある、この名画を高校生に見せた母校の教師の当時の裁量に、あらためて感嘆する思いでした。

さて。
本日画像はユニバーサル映画「オーケストラの少女」のポスター。
この映画は、もうすでに著作権が切れているので、コピーを載せました。

公開は1937年暮れだったそうです。
なんでも笹井中尉を基準にしてすみませんが、この年、昭和12年は海兵67期生徒が三号だったときです。

この映画はポスターにあるように「100人の男と少女」という原題です。

失業したオーケストラのトロンボーン奏者を父に持つパッツィ。
「有名な指揮者を呼んできたらオーケストラを再結成する」というスポンサーの言葉に父や楽団員のために奔走します。
遂には指揮者レオポルド・ストコフスキー(本人が出ています)に指揮を依頼するところまで漕ぎつけたものの、話がこじれてしまいます。

最後の手段。
パッツィの計画で、オーケストラはストコフスキーの現れるところに偶然を装って待機し、その実力を彼に聴かせるためリストの「ハンガリアン・ラプソディ」を演奏します。

最初こそ無関心に黙って聴いていたストコフスキーでしたが、音楽が進むにつれ、その手が少しずつ動きだします。
いつのまにか彼は何かに突き動かされるように失業楽団の指揮をしているのでした。


ディアナ・ダービンの歌う(吹き替え無しで!)「ハレルヤ」(モーツアルト)「乾杯の歌」(ヴェルディ)は天使の歌声と称され、彼女はこの映画で一躍アイドルとなりました。
作家の遠藤周作氏もファンだったそうで、当時日本の青年は夢中でプロマイドを買求めたそうです。


今日は、このアメリカ映画が海軍兵学校で上映されたというお話です。

参考館講堂でのニュース映画の時間を延長し、「オーケストラの少女」が上映されるという噂が校内を駆け巡ったのは、昭和14年、厳寒の2月のことでした。

「またいつものデマだろう?」
こうした噂はこれが最初ではなかったので、生徒たちはそれが本当であってほしいと願いながらも、そうでなかったときの失望を思って半ば否定していた。
しかし、今度は本当であった。


この前年12月、菅野直大尉、関行男大尉がいる70期が江田島に入学してきました。

12月の入学。
一口に言っても、厳寒の江田島でいきなり新しい生活を始めた70期生徒のカルチャーショックは想像するに余りあります。

おそらく彼らは慣れない生活と厳しい環境で精神的にも疲れていたことでしょう。
何といっても厳寒の中行われる海軍のカッター訓練は最も辛く、臀部の皮は赤く剥け、手は冷たい潮水で凍傷にかかり、どんな元気な生徒も意気消沈していたに違いありません。

そんな時期、学校で上映されたこの映画が、どんなに彼らを力づけたことでしょうか。

70期の武田光雄元海軍大尉の回想です。

上映中のひとときは兵学校生活も怖い上級生のことも忘れて映画に浸りきり、「光の雨」や「ラ・トラビア―タ」の歌唱を聴くと思わず一緒に口ずさみそうになり、終わったときには感激で涙ぐむほどだった。

当時一号だった笹井醇一生徒、二号だった鴛渕孝生徒、大野竹好生徒。
勿論四号の菅野生徒や関生徒も、この、音楽の持つ力を、勇気とともに観る者にに与えてくれる映画に見入ったことでしょう。

旧帝国海軍の持つ美点の一つにリベラリズムがあると思います。

ロング・サインや勝利を讃える歌(卒業式のときの恩賜の短剣授与で流れる)を廃止しなかったことに表れるように「いいものはいい」と言える空気が最後まで失われることがなかったのは、感嘆すべきことでした。

軍と言う組織の中で、この時期、適性語の映画を上映するという粋な計らいを、彼ら生徒は、意識するとしないにかかわらず、映画の感動とともに嬉しく受け取ったのではないでしょうか。









アメリカから小包を送る

2010-08-24 | アメリカ

毎年毎年のことですが、向こうから平均して5箱、荷物を送ります。
エリス中尉が向こうでお買い物をするだけではなく、息子が玩具を買う、本を買うなどで荷物が増えるのと、例えばボストンで使っていたプールグッズなどはサンフランシスコでは不要になるため、減らさないと持って帰れないからです。

だから中身は息子の海水パンツやバスタオル、読んだ本に向こうでしか買えない食器洗浄機専用タブレット(これ、すごく便利なんですが日本にはないんですよ)など。
はっきりいって80ドル出して送る価値があるかどうか?
というものではあるのですが、80ドル出しても惜しくない貴重品は優先して手荷物にするため、どうしてもこのような箱を送らざるを得ません。

確か数年前までは「船便」が使えました。
勿論一か月かかるのですが、3,40ドルだったような記憶があります。

しかし、911の影響なのかどうか、船便で海外に荷物を送る制度が廃止されてしまい、「一番安い方法で。追跡調査無し。保険なし」
ということにしてもこの大きさの箱では最低80ドルかかってしまうのです。

それでもUPSやフェデックスよりはかなり安いので、いつもUSPS(向こうの郵便局)から送るのですがね。

この、アメリカの郵便局員が、かなり問題なんですわ。

ボストンではここ何年か同じ女性が受け付けてくれて、もう顔見知りになっています。
去年、私の前で東洋人が荷物を出していました。
彼女の番が終わり、私がカウンターに行くと、その職員、確かにこう言ったのです。
「私中国人嫌いなのよね」

・・・いいんですか?そんなこと言って。
まあ、私が中国人でないことは小包のあて先を見ても明らかなので、私に向かって言ったのではないんですが。
うーむ、今のやり取りで何があったんだろうなあ、などと考えました。

で、その中国人が、ボストンではあまり見ないのですが、サンフランシスコに行くともううじゃうじゃいまして。

アメリカでは民族的に、特定の職業に集まる傾向があります。
メキシコ人と言えば庭師。ホテルのハウスキーピング。
韓国人と言えばクリーニング。なぜか「スパ」。
まあ、これはLAあたりでは怪しげなサービス込みのもので、当局もなだれ込んでくる韓国人売春婦には手を焼いているそうです。
そして中国人は、あまりにもいっぱいいるのでそれこそピンキリですが、郵便局や免許局に多いです。
人にあれこれ指図する職業に就きたいのかもしれません。

去年ですが、この中国人郵便局員とエリス中尉、バトルをしました。
メキシコ人のホテルフロントともバトルしたことがありますが、それはまた別の機会に。

画像のようなボックス一つにつき、税関用の書類を書くのですが、中身が何かについて書く欄にtoys,clothes,booksなどと記すのです。
サンフランシスコの中国人のおばちゃん職員にそれを出すと

「クローズって、なんですか」
「は?」
「どんな種類の?」
「コートだけど」
「どんなコート?ロング?ショート?」
「へ?」
「ちゃんと書かないと困ります」
またその言い方が実に居丈高で偉そうなのですわ。

・・・・・・・(-_-メ)ぷちっ←キレる音

「それがいったいあなたとどんな関係?私はね、今まで何度も、何十箱と言わずアメリカから同じ書き方で小包を送ってきたけど、今日生まれて初めてコートの長さなんかきかれたわよ!」
おばちゃん、いかにもやれやれ、わからず屋の日本人はこれだから困る、みたいに首を振り、周りの職員に助けを求めます。

「そんなディティールまで書かなきゃいけないって、プライバシーはどうなってるの?
もし下着だったらその種類も書かなくてはいけませんか?」

おばちゃん、無言。

「それに、私の後ろを見て。こんなに後ろに人が並んでいるのが見えませんか?
コートの長さより早く私の荷物を送った方がいいのではないですか?」

いや、勿論、こんな滔々と言ったわけではありませんよ。
怒りで言葉もつっかえながら、しかし、怒りのパワーに任せて言いきったわけです。

アメリカの友人にその話をすると
「ただあの人たちって意味なく威張りたいだけみたいねー」

そう、住んでいたときうちの地区担当の韓国人配達人(これもおばちゃん)もやたら威張りくさっていましたね。
どうも、日本人のために働くのがやたら腹立たしいみたいでした。

なんだかねえ。自分の国でもないのにそこで他の民族に偉そうにするって、何なのこの人たち。
日本にもそういうケチくさい権力を振り回して威張る人はたまにいますが、アメリカの場合民族間の色々がからんできましてね。
より不愉快なことが多々起こるわけです。

さて、今回送った荷物は驚くべきことに一週間で日本に着いたため、我々が帰国したときには再配達3回目になっていました。
それでも何度も持ってきてくれるんですよ。日本の郵便屋さんは。
(アメリカなら局に取りにいかないといけない)

そして今回、荷物の一つにこのようなカードが入っていました。

これはですね。
抜き打ちで箱の中を検査のために開けたからごめんね、というもの。
去年は明らかに開けて検査したと思われる新たなテープでそれを証明していましたが、今年からはこの紙になったようです。
このスリップが入っていたのは画像の下の箱ですが、テープを貼り直して、外から検査したことが分かるようになっています。

どれもこれも「モストチーペストウェイプリーズ」で送ってきましたが、今まで一度も無くなったり、破損したりしたことがありません。

アメリカの郵便局は今のところ信頼していいと思います。




伏龍隊~翼をもがれた少年飛行兵

2010-08-23 | 海軍


伏竜特攻をご存知でしょうか。

靖国神社の遊就館で、思わず足を止めて見入ってしまう潜水服姿のブロンズ像があります。
手には5メートルの竹の棒を持ち、その先には炸薬15キロの五式撃雷が装着されています。
この姿で水中深度5~7メートルの海底に潜んで待機し、敵の上陸用舟艇が頭上を通過するときにその船底に炸薬を突き刺し、自らも果てるという特攻、伏龍隊です。

海軍の水中特攻には咬龍、海龍(小型潜航艇)回天(魚雷)そしてこの伏龍がありました。
人間が爆弾を運搬するというこの特異な特攻兵器については海軍内でもほとんど知られていなかったと言います。

訓練の段階で終戦を迎えたため、実行されることなく終わったこの作戦ですが、その訓練中に多くの隊員が事故で殉職しました。

事故の内容は、空気清浄罐漏水、苛性ソーダ液(濃厚なアルカリ液)が逆流し、それを嚥下しておこるものが最も多く、まず助からないと言われていました。
背中に背負った苛性ソーダの罐はブリキが薄く、少しの衝撃ですぐ破損しました。

あるいはボンベの酸素不足による窒息。
浮上訓練中岩に当った空気清浄機が破れ、逆流した海水のため溺死。
大空を夢見て飛行予科練に入ってきた15、6歳の少年たちが毎日のようにこのような事故で死んで行きました。

訓練基地のあった横須賀市久里浜の野比海軍病院の医師は「医師ですら見るに耐えない様子で死んでいった」と語ります。
「毎日のように誰かが死んでいた。必ず部屋には二つ以上の棺が置かれていた」
という証言もあります。

伏龍隊で訓練中終戦を迎えた門奈鷹一郎氏は、かねがね疑問を抱いていました。
「何を基準にして俺たちは伏龍特攻に選抜されたのだろう。長男も多かったようだが・・」
七つ釦の予科練に憧れ、飛行機乗りを目指して海軍に入った門奈氏。
気がつけば翼をもがれ、海底で戦果と引き換えに自らの命を終わらせるための訓練をしていました。
何故門奈氏が選抜されたか。
その答えは当時選考に当たっていた三重空の教員福田利男氏が知っていました。
「“孤独に耐えうる者”というのが選考の第一条件でした」


“孤独に耐えうる者”。


伏龍特攻隊員は、敵上陸予定の数時間前に潜水位置に待機させられます。
敵上陸時間は夜明けから8時ごろ。
海底に沈んでいくのは真夜中から日の出前です。

棒機雷が一発爆発すれば、付近50メートルの人間は死滅します。
したがって、50メートル四方の海底に隊員は一人ずつの配置です。
明けやらぬ夜の海底ただ一人、ひっそりと伏龍隊員は文字通り伏せる龍のごとく潜んでいなければなりません。

周囲五十メートルに自分ただひとり。
音のない世界で刻一刻忍び寄る己の死を前にしてただひたすら孤独に耐えているのみです。
生身の人間の神経で、この極限状況下、果たして平静な気持で、接敵までの数時間を過ごすことができたでしょうか?

この絶対の孤独に耐えられる人間など、この世に存在するでしょうか。



訓練のためにはまず潜水ズボンを穿き、足に鉛のわらじをつけます。潜水上衣を着けると補助員が面ガラスを外した潜水兜をかぶせ、四か所ナットで留めます。酸素ボンベ二本に清浄罐をはがねバンドで取り付け、前に重りを吊ります。酸素供給管、呼気排出管、命綱が結ばれると、いよいよ最後に面ガラスが取り付けられるのです。

「面ガラス一枚が現世と地獄の分かれ目だった」

門奈氏はこう述懐します。
潜水直前、この面ガラスが「キキキーッ」と音をさせて締め付けられる。
このガラスが外されるとき自分は生きているのか。
訓練の毎回毎回がこのような恐怖との戦いでした。

昭和五十九年、伏龍特攻隊員有志による慰霊祭が靖国神社でとり行われました。
挨拶に立たれた七十一嵐伏龍隊実験隊長笹野大行氏はこう語ったといいます。


「今回の催しの通知を頂いて以来、犠牲者を火葬にする順番を待っている間に漂ってくる死臭と、あの面ガラスを締め付けるときに耳にしたキキキーッという音が亡霊のように私の頭から離れなくなりました」


伏龍特攻は日本海軍が危急存亡の瀬戸際で、溺れる者はわらをもつかむの例え通り窮余の一策から生まれた最も原始的な竹槍戦術でした。
その発案者もはっきりせず、訓練中の殉職者数、殉職した隊員の氏名すら今や正確な記録は無いそうです。



参考:海底の少年飛行兵―海軍最後の特攻・伏龍隊 門奈鷹一郎著 光人社
海軍伏龍特攻隊 光人社NF文庫







ヴィスコンティのトランク

2010-08-22 | つれづれなるままに



アラン・ドロンという俳優をご存知でしょうか。

「太陽がいっぱい」でデビュー後、
一流スターに駆けあがった伝説の美青年です。
有る程度の年齢層なら、かつて日本に「アラン・ドロンブーム」があって、
若い女性が夢中になった時期があるのをご存知かもしれません。

パリに行ったとき、スタンドで売られている新聞の話題に
いまだにドロンの名前が大きくあるのに驚いたものです。
フランスでももう芸能活動はせず、実業家として、
悠々自適の老後を営んでいるらしいドロンは
そのとき半生を振り返る自伝を出したもののようでした。

そのアラン・ドロンがまだ駆け出しのころの話です。

その頃、ドロンは映画監督ヴィスコンティの付き人をしていました。
これは文字通りそうだったのか、
有名な男色家であった監督の恋人であったのかはわかりませんが、
おそらくどちらも兼任していたのでしょう。

耽美的なヨーロッパ貴族出身のヴィスコンティにかかっては、
何でもあり、と思えてしまいますね。

さてそのヴィスコンティの持ちものや立ち居振る舞いは、
ドロンに大いなる影響を与えたもののようです。

なかでもヴィスコンティ監督のトランクはドロンにとって憧れでした。

船旅が主流だったころ、貴族階級は旅にまるで箪笥のような大きなトランクを使い、
ホテルの部屋にその引き出しのついたそれを
そのまま家具のように置いて使用しました。
貴族ヴィスコンティ監督も、その優雅なトランクを
ふんだんに撮影旅行に持って移動していました。

それらのトランクは全て同じ模様。

「ようし、僕も今に大スターになって、
監督のように自分のイニシャルを特別注文したトランクを作らせるぞ。
そのときはもちろんA・Dのモノグラムで」

彼は老舗ブランドルイ・ヴィトンを知らず、
トランクに刻印されたL・Vというモノグラムのイニシャルを
ルキノ・ヴィスコンティを意味するのだと思っていたということです。

その後「太陽がいっぱい」で大スターとなり、実業家としても成功をおさめ
自分のファッションブランドを持っているドロンですが、
いまだにA・Dというモノグラムのトランクは見たことがありません。
おそらくドロンは自社ブランドではなく、
このルイ・ヴィトンを愛用しているのではないでしょうか。

”LOUIS VUITTON”

余談ですが、アメリカではこれを「ルイス・ヴィトン」とよみます。
フランス語の語尾のSは発音しないので、Hermesの「エルメス」を
「エルメ」と呼ばない日本表記は間違いなのですが、こちらに関しては
アメリカが間違っていることになります。
アメリカ人には実際にそういう名前の人もいるので、
「Louis」を「ルイ」とはどうしても読めないのでしょう。


さて、そのルイ・ヴィトンです。
若い時は「何がいいんだろう」と、あのモノグラムを見て思ったものです。
ヴィスコンティならいざ知らず、貧乏臭いファッションに猫も杓子もあの柄。
ショルダーや小さいバッグ、エリス中尉は一つも持っていません。


だいたい合わせにくくないですか?
花柄のワンピースなどと合せているようなセンスの悪い人は
さすがに最近めったに見ませんが、わたしには
あれを無地扱いして服と合わせることはとてもできません。

ここに限らずブランド臭を前面に出すモノグラムが苦手なのです。

しかし、旅行用トランクは80×60一つ、クルーズ用とやら一つ、
何やら軽くてやたらでかいたためるボストン2つと、
大量に持っています。
帰りにモノが増えたときにバッグを買って帰ってくる、
という旅を毎年しているうちに、だんだんと増えてしまいました。

日頃身につけるように持つバッグとしてのヴィトンではなく、
・・・・・それこそヴィスコンティのように、
旅行という非日常的イベントの小道具としてのあのモノグラムは好きなのです。

最近はもうこのラインナップにリモワの大型トランクで万全。

リモワの丈夫なことは折り紙つきですし、ヴィトンも「航空事故でも壊れない」
と言われるくらい丈夫と言う噂を信じていたのですが、
今回、アメリカに行ったとき悲劇が起こりました。

取っ手がーーーー!('A`)

トランジットで荷物のピックアップのときに気付いたのですが、
すぐに乗継だったのでそのまますぐに預けてしまいました。
それが、その後チェックインのたびに係員が
「これはこのフライトで壊れたんじゃないから責任はねーよ」
と言う意味のタグを付け替えるわけですよ。

壊されたときすぐに言わないといけなかったのかなあ?
と思いつつ日本に帰ってきて聞いてみたら、
傷害保険で修理代が出るそうです。

さっそくルイ・ヴィトン・ジャパンに修理を依頼。
こういうとき、老舗ブランドのありがたみを感じます。
たとえ日本で買ったものでなくてもちゃんと修理してくれるのですからね。
ハンドルを交換し、犬のリーシュのような付属品を付けてもらうことにしました。

見積もり報告の電話で係の女性が
「大変貴重なものをお預けくださいまして」
と言ったので自社ブランド製品を「貴重」とは?と一瞬違和感を感じたのですが、
次の瞬間
「長い間使い続けた思い出の詰まったトランク」
という意味合いなのだと気付きました。


破損の理由ですが、なまじプライオリティタグが付いていたのが災いして、
他の荷物の下から取っ手を持って引きずり出された結果だろうと思います。


ヴィスコンティのように優雅な船旅をするならともかく、
世界最強のアメリカ航空局地上職員に
投げられたり引っ張られたりする飛行機の旅では、
やはり丈夫なリモワやゼロなんかの方が安心なのかもしれませんねえ。

まあ、気持ちだけは優雅に旅行したいので、これからもヴィトン使いますが。
それに、修理されて返ってきたら、今までより愛着がわきそうです。



ラエ飛行場見取り図を見ながら「サムライ」を読んでみる

2010-08-19 | 海軍
古書で探し出した昭和51年発行の朝日ソノラマ刊「ラバウル海軍航空隊」(奥宮正武著)
に、何故かラエ基地の略図が載っていました。

大空のサムライで、いろんなドラマが繰り広げられた、あのラエです。

ちなみに滑走路の長さは幅30メートル、長さは約800メートルしかなかったそうです。
主滑走路と並行して走っているのは補助滑走路です。
滑走路の西にU字型のものがありますが、これは小型機専用の天井のない掩体。
バンカーとかシェルターと言った方が分かりやすいでしょうか。

離陸は、北側に位置する山が高かったので海側に向かって飛び立っていました。
山側にある駐機場にはいつも邀撃待機用の零戦が数機並べてありました。

さて、「大空のサムライ」です。

もう文章にされているので、堂々と言いきってしまっていいと思いますが、坂井三郎氏自身が執筆したものではありません。
しかし、たとえそうであってもこの本の価値に何らの変わることはなく、依然戦後に書かれた戦記中の傑作であり、この一冊が後世の人々を魅了したという事実は動かせません。

代理の人間が書いた、というより、坂井氏の魂が筆者の筆を借りて書いた、と言ってもいいほど、その記述はきめ細かく、真に迫り、ある意味「事実より真実」に迫っていると思えます。
客観的な事実ではなく、あくまでもインタビューを小説に再構築した、というべきなのでしょうけれども。

さて。

笹井中尉がマラリア予防のためのキニーネの瓶を持って搭乗員室の前にやってくる、という記述があります。
「目八分に構えた特徴のある歩き方」で。

これは宿舎ではなく「控え所」と記した場所のことです。
笹井中尉は、薬の瓶を持って士官宿舎からやってくるものと思われます。

みんなで、泣きながらキニーネを飲んだ後、海軍体操をするのも、この控え所です。
体操の後、みんなは三々五々宿舎に向かいます。
夕食はそこで食べたのでしょう。
しかし、食事の作られていた場所は謎です。
坂井氏もついに最後までどこで作られていたかわからなかった、と述べています。

食べ物でもう一つ。
ラエで「タピオカ」を植えて、食べるのを楽しみにしていたということですが、戦いの忙しさにまぎれて忘れてしまったということ。
タピオカが戦後日本でナタデココの材料として「流行る」など想像もできなかったでしょうね。

搭乗員の控え所から宿舎までは約500メートルあったそうです。


さて、坂井先任はある日副長室で小園司令から「笹井中尉を分隊長にするので、彼を盛りたててやってくれ」と頼まれます。
この副長室は士官宿舎の中の、個室だったものと思われます。
ちなみに、士官は全員個室を与えられていました。

士官宿舎から搭乗員宿舎までは一キロ。
坂井先任はまず、一キロの距離を歩いて、宿舎に戻り、本吉三飛曹に「笹井中尉を呼んできてくれ」と頼みます。
そのことについて海岸で話し合おうと思ったのです。

本吉兵曹は、笹井中尉を迎えに行く途中で、ちょうどこちらに向かってくる途中であった中尉に会い、一緒に戻ってきます。分隊長の命を受けた笹井中尉はやはりそのことについて坂井先任と話すために士官宿舎から歩いてきていたのでした。

このジャングルの小道を、笹井中尉は実にまめに通って搭乗員の様子を見に来ていた、という坂井さんの証言があります。
いくら士官でも、中尉の身では車で毎日来るわけではなかったでしょう。
たとえ近くにあっても搭乗員宿舎に士官が顔を見せることはなかったという当時の常識の中で、往復2キロの距離を歩いてやってくる笹井中尉の部下を思う気持ちは本物だったったことが覗い知れます。

二人は、そのまま海岸の桟橋に歩いていきます。
ちゃんと看取り図にも桟橋を記しておきました。
地図ではすぐ近くのようですが、搭乗員宿舎から桟橋まではさらに五、六百メートルあったもののようです。

そこでの会話は、「戦話・大空のサムライ」が一番詳しく、かつドラマティックに描かれていますが、
「こんなとき、若い男女ならどんな語らいをするのか、柄にもなく少々ロマンチックなものを感じていました」などという記述も見られます。
満天の星、脚を漬けた海水に見える夜光虫、実際はそんなものではなかったのかもしれませんが、この場面の表現は実に詩的で「そうであってほしい」という読者の期待を見事に汲んだ名場面です。
エリス中尉もここを読むのが本当に好きでした。
今でも。



続・大空のサムライの最後に、坂井先任と西澤兵曹とが搭乗員を「制裁した」という逸話があります。
やってはいけないことをしたので、戒めるために体罰を与えたということなのですが、
これは、「宿舎にいた搭乗員を全員海岸に集めた」とあります。

この日も、笹井中尉は士官宿舎からおそらく坂井さんに会うため、やってきていました。

坂井さんの「意地を持って戦え、士官なんかに負けるな」という演説を後ろで聞いてしまった笹井中尉は来た道を何も言わず帰っていきます。

笹井中尉、きっとこれ、ショックだったのではないかと思います。
慰めて差し上げたい・・・。←独り言です


さて、今日の内容は、地図をもとに想像(妄想?)していただくために書きました。

よく知っている人にはあまりにも断片的すぎて、何をいまさら、って感じ?
でも、あの話が、地図と照らし合わせることで、より生き生きと感じられるような気がしませんか?

そう、ところで一つ分からないことがあります。
それは、笹井中尉と坂井さんが「士官と下士官の垣根を乗り越えて機会あるごとに持った二人だけの研究会」の場所です。

「それはいつもいつも夜のことでした。昼間はお互いの立場があったからです」
という、その会合は、どこで行われていたのでしょう。

1 搭乗員宿舎の裏の海岸
2 やっぱり桟橋
3 笹井中尉の私室
4 壊れた格納庫

答を知る可能性のあった「大空のサムライ」を書かれた方はこの春お亡くなりになったということです。

それは永遠の謎となってしまいました。




USAトヨタ、いじめにあう

2010-08-18 | アメリカ
前回「車事情」編で、いかにサンフランシスコがプリウスだらけかという話をしましたが、証拠写真です。
これ、この反対側にも実は二台停まっていました。

今回SFでプリウスを借りていましたが、ガソリンを入れたのはたった一回。
30ドル、つまり2700円で一カ月乗りました。
冗談抜きで凄いです。

エリス中尉、日本ではプリウスどころか日本車にすら乗っていない非国民で、おまけにそれは一週間に一度ハイオクを満タンに(8千円ぐらい)しないといけない、という・・・。
まあエコロジー派からは眉をひそめられそうなクルマに乗っています。

こういう人間がどうしてアメリカに行ったときだけプリウスにこだわるか、というと・・。
うーん、なぜだろう。
「日本車を応援」?「アメリカにガソリン代を落としたくない」?
でも、今までそれこそアメリカ車にはいろいろ乗りましたが、やっぱり日本車、いいですよ。

じゃ日本でも乗れ?
日本だと、私が乗らなくても、みんな乗ってるじゃないですか。
だから大丈夫かなって。
それに、スポーツ仕様でもない限り「良すぎて面白くない」んですよね。


さて、例のプリウスリコール問題ですがね。
あれから調べたところ、どうやら事故はやらせ、テレビ番組の実験はねつ造、つまり、アメリカの自動車会社が議員を担ぎだしてトヨタバッシングをした、というものらしいですね。
実際のプリウスはNASAに送ったものの何の欠陥もなかったと。
私は、米国トヨタに親戚がいるわけでも、株主というわけでもありませんが、実に腹立たしい。
これについては、もし興味があったら「テキサス親父」のビデオレターを見てください。分かりやすく解説しています。

ttp://www.youtube.com/watch?v=oSCcC42G9DA


この問題がおきたとき焚きつけていた弁護士が某国系だったというので、黒幕は○ュンダイではないかと思ったのですが、まあ、そんな壮大な自作自演をする資金はあの会社にはなさそうですね。
あそこは「漁夫の利」を狙っていただけなのでしょう。
バッシングにもかかわらずまったく某社の売り上げには結びつかなかったのがお気の毒、ってところです。
まあ、トヨタが百歩譲って失墜したとしても、ニッサン、ホンダ、スバル、その他日本車はなんぼでもありますがな。
何が悲しくて○ュンダイに乗り換えるんだか、って話ですな。

ここで、この会社について、面白い?社史を見つけました。


栄光の現代自動車 腹立ちまぎれの開発史(2004-2009)

現代自動車→トヨタにハイブリッド車の技術移転を要求
トヨタの回答→断る

現代自動車→トヨタにハイブリッド車の共同開発/OEM販売を提案
トヨタの回答→断る

現代自動車→トヨタにハイブリッドメカニズムの販売を要求
トヨタの回答→断る

現代自動車→トヨタに保守交換部品としてハイブリッドメカニズムの販売を要求
トヨタの回答→弊社のハイブリッド車ユーザに対してならば当然可能と回答

現代自動車→部品リストを元に一台分のハイブリッドメカニズムのみの合計価格を
         試算→800万円以上になることが判明 激怒

現代自動車→腹立ちまぎれに韓国内の新聞でトヨタを詐欺企業として非難
      トヨタのハイブリッド車は500V以上の高圧電流を使っているので感電死する
      可能性が高いという噂を流布
トヨタの反応→無視

現代自動車→クリックという小型車にパナソニック製の電池と三菱製のモータを追加し
      た回生充電機能の無いモーターアシスト車を数台試作しハイブリッド車とし
      て官公庁にリース配布していたが
      元になったガソリン車より燃費が悪かったことが発覚し、慌てる

現代自動車→腹立ちまぎれにターゲットをハイブリッドからディーゼルに変更
      日本のディーゼルエンジン技術は遅れているという噂を新聞を使って流布、
      (実際は日本とドイツがディーゼル機関の主要特許を独占)
日本の反応→無視

現代自動車→大規模石油精製所をもたない韓国は2007年の原油高騰の影響を
      モロに受け軽油の値段がガソリンより高くなるという珍現象が発生。
      そのためディーゼル車の販売台数が激減
      腹立ちまぎれにターゲットをディーゼル車からハイブリッドに再度戻す

現代自動車→トヨタ車の特許の壁に気づき、腹立ちまぎれにターゲットをトヨタから
      ホンダに変更2007年 韓国の新聞を使って、2年後にはホンダのハイブリッド
      車を抜くと発表
ホンダの反応→無視



さて、その我らが○ュンダイ(伏字はほんの気持ちです)。
最近ですが「肩にカシミヤセーターをはおったリッチなオーナーに恵まれているポルシェ」「禿げていても乗っているともてるポルシェ」に、何故かミニクーパーがガチンコ勝負を挑むもさらっとスルーされたという事件がありました。何か、ボクサーに吠えかかるテリア、って感じで微笑ましく、ミニの方もおそらく洒落(というか宣伝)のつもりだったのでしょう。
このやり取りだけで結構面白いイベントでもあったのですが、このあと何故か○ュンダイが「うちがその挑戦を受けようじゃないか」(キリッ)って出てきたんですよね。

おそらく、世界中が○ュンダイ参戦に思ったことはただ一つ
「空気読め」
だったかと。

ところで、これを読んでいるあなた。
そう、この間の少将射出事件といい、これといい、もしかしたらエリス中尉って

嫌韓?

と思われたあなた。
そんなことはありませんよ~そんなことは決して ヘ(゜∀゜ヘ)(ノ゜∀゜)ノ


まあ、真面目な話、この世の資本主義社会における企業同士の戦いにきれいごとなんてありません。上を引きずりおろして自分がその位置に立つ、喰うか食われるかの仁義なき戦い、それが自由競争です。
さらに、自国内の基幹産業の重要な一角に、かつての敵国が居座っているの構図はジャイアンとしては面白いものではありませんでしょう。

例えばペプシという会社は、企業スパイがコカコーラから盗んで持ち込んだ企業秘密を「不正な情報で競争はできない」とつっぱねた、というオトコマエ企業だったわけですが、これも同国同士だからでしょうね。
今回のもデトロイトで日本車破壊デモをやっていたのと同じ心理、「ジャップごときがフンダララ」というものだと思います。
それにしてもトヨタの社長「ここは泣く場所ではない」なんて公聴会で苛められたそうですね。お気の毒。
ひたすら低姿勢に徹し、この危機を乗り切れば、どうやらそういう国家ぐるみのトヨタ苛めだったらしいというわけで、全く・・・

許さん鬼畜米。

トラ!トラ!トラ!~黄色い複葉機

2010-08-17 | 海軍
淵田少佐や米軍軍楽隊をモノクロで描いたのですが、この映画はれっきとしたカラー映画です。特に人物のアップはカラーだと難しいんですよね。
今日は飛行機ですので色を付けました。
この黄色い複葉機が今日の話題です。


この映画について書くのも三回目となりました。
いやあ、こんなにネタ満載の映画とは知りませんでしたわ。
Pearl Harbor never diesってこのことですか。


真珠湾攻撃に参加した人名を見ていると、その他の戦記に登場する名前がずらずらと出てきます。

たとえば、岡嶋清熊大尉。土方大尉の戦闘三〇三の隊長です。
「飛龍」の攻撃隊指揮官として参加してます。
「雷撃の神様」といわれた村田重治少佐。
やはり艦爆の豪傑、親分と呼ばれた高橋赫一少佐。
それから、加賀から制空隊長として、志賀淑雄大尉(当時)が出撃しています。

その志賀大尉(終戦時少佐)の話です。

志賀少佐は源田大佐率いる本土防空部隊、三四三航空隊の飛行長として終戦を迎えます。
進駐してきた米軍士官の尋問で「源田大佐はどこだ?」と志賀少佐は尋ねられます。

「彼は今行方不明だ。何故探す?」
「彼は真珠湾に行った」
「真珠湾なら俺も行ったよ」
それを聴いた途端、その士官は

”I've found my boy!"

(見つけたぞ!の意。My boyはアメリカ人にありがちな表現で、志賀少佐が少年のようだったという意味ではありません)と言って志賀少佐の肩を掴んだそうです。

アメリカ当局は、勝利するやいなや真珠湾についての総括を開始し、記録をまとめ上げるために日本側からの証言者を血眼になって探していたのです。

国力において日本をはるかに凌駕するアメリカといえども、この真珠湾における「航空戦の重用」という、その後の大戦の流れを方向づける先制攻撃をしてのけた日本に内心驚嘆していたこと、すなわちこの攻撃をアメリカがいかに軍事上の痛恨事だと思っていたということが分かります。

蛇足にすぎない私見ですが、私はこの一事や明治維新に見られる、日本人の「あるとき突然ブレイク・スルーをしてのける」能力が、戦後日本の奇跡の発展の一助になったと確信しています。
おそらく「真珠湾」を知っている彼らはそのことを「奇跡」とも思わなかったのではないでしょうか。
そもそも日本人の潜在能力を脅威と捉えたからこそ、日本を挑発し「最初の一発を撃たせ」出る杭を合法的に叩きつぶしたかった、と言うのが当時の列強の真意だと私は思います。



志賀少佐の話を続けます。

この映画について書いた一番最初の記事で、暁の出撃シーンについて書きましたが、志賀大尉はこのとき一番に飛び上りたくて、(自分の艦加賀のではなく)旗艦赤城の発艦信号機が上がるのを待ち構えていたそうです。
しかし、先を越されてしまい、二番になってしまったそうです。
一番に飛び上がったのは赤城の板谷茂少佐でした。

東野英二郎扮する南雲中将が見送ったのはこの板谷機だったわけです。

このとき、真珠湾攻撃に参加した攻撃隊のうち、特殊潜航艇の9軍神を含め64人が戦死し
ています。
しかし誤解を恐れずに言えば、それは軍人として本望の死というものではなかったでしょうか。
志賀大尉は出撃して朝日をバックに堂々の大編隊を見たときの感慨をこう残しています。

「日本全軍が一つの槍となり、その剣先のさらに先頭が自分であるというのは、まさに『男子の本懐ここにあり』と感じた」

映画では田村高廣の演じる淵田少佐が「見てみい、旭日旗や」と昇る朝日を指して言います。
この日の太陽が吉兆に思えた、という記述は淵田少佐自身の伝記によるものです。




さて、今日画像の黄色い複葉機ですが、映画では飛行機操縦学校の練習機で、前に生徒、後ろに先生(太ったおばちゃん)が乗っています。

おばちゃん先生、機嫌良く指導をしていたところ、日本軍の編隊をを頭上に認め顔色を変え「私が操縦するわ」と言うやひらりと機体を翻して逃げるのですが、それを三人の搭乗員が上から

(-_-(-_-(-_-)「・・・」

という感じで見送ります。

なかなかユーモラスなシーンで、きっと映画館では笑いが漏れたのだと思われますが、実際はそうではありませんでした。

志賀少佐はパールハーバーに到着したとき、この黄色い複葉機を見ています。
「あ、民間機だ。誰も墜とさなければいいけどな」
と思ったのですが、その飛行機は、その後「加賀」の山本旭一飛曹が撃墜してしまったのだそうです。

志賀大尉が、「大東亜戦争の発艦一番乗りをせん」と扼腕して待っていたように、山本一飛曹もまた、撃墜一号を記録せん、と張り切っていたのでしょう。

この山本一飛曹は民間機を撃墜したということで懲罰とまではいかないものの、志賀大尉から叱責を受けたとのことです。

この場面は明らかに志賀少佐が戦後記述したことからの描写だと思われますが、撃墜してしまったということを映像にしなかったのは日本側製作者かアメリカ人総監督か、果たしてどちらだったのでしょうか。
 
真珠湾攻撃におけるアメリカの民間人の犠牲者は57人。
(ちなみに軍関係者は2,345人)

そのうちの二人(志賀少佐は遊覧機と言っていますが、映画の「飛行学校」を取るとしたらおそらく二人でしょう)が、このうちに含まれていたということになります。



参考:零戦最後の証言 神立尚紀著 光人社



八月十五日、靖国神社

2010-08-16 | 日本のこと


8月14日の夕方、成田に到着。
ブログに暑いと書いたら罰金(誰に?)と自分で自分に言い聞かせましたが、罰金払っても言う。

暑い。

ボストンも暑かったけど、こんな、サウナの中を歩くような空気の重さはありません。
アフリカから来た人が「アフリカより暑い」と言ったらしいけど、こんな気候でよくそれなりの文化が発達したものだなあと(まあ昔はこれほどではなかったとはいえ)勤勉な祖先に頭が下がる思いです。

さて、昨日、靖国神社に参拝してきました。

毎年アメリカでそのニュースを見ながら過ごしてきただけの8月15日ですが、今年は帰国が間にあったため、まさに「バーキン片手に」英霊の方々にご挨拶をさせていただいたわけです。


誰ひとりいない手洗い場しか知りませんでしたが、今日は手を清めるのにひしゃくの順番を十数分ほど待ちました。
「洗ったってことでいいか~」
と勝手に省略している若いモンもいましたが、まあいいでしょう。
この酷暑の中、こうやってここに来ているだけでお姉さん評価しちゃう。

並び始めたころの場所。
11時30分くらいから並び始めたのですが、神殿までの道はひと塊ずつ順番に前に進んでいき、ほとんどは陽の照りつける中、ただ隣の人とくっつかんばかりにして立って待つのみ。

離れてみるとこんなかんじです。
横の学生二人連れが話しているのを聴いていると、どうやら一人が「ゴー宣」(小林よしのり氏のゴーマニズム宣言)のファンらしい。
もう一人は彼に誘われたようです。
「戦争論」「天皇論」に見られたような言葉を使って
「だから靖国に来ないといけないんだ」
という友人に
「そうかあ、オレ、来年はもう少し勉強してから来ますよ」
という後輩らしきもう一人。

彼らの多くは日教組の自虐史観の洗礼を受けていると思うのですが、インターネット時代となり、自分で情報を選びとることができるようになってから、かえってそのことに疑問を持ち、このような考えに至る若年層が増えているようにも思います。

団塊世代の全共闘が極左だったことを思うと、これはある意味振り子の振れのような現象でしょうか。もっともごく小さな振れなのかもしれませんが。
メディアから与えられる情報に対して疑問を持った最初の世代が彼らなのかもしれません。


並んでいるときに終戦記念日式典が放送され、管総理のスピーチが始まったのですが、周りの反応は酷いものでした。
「誰この声」
「管よ」(女の人)
「俺、最近この声聞くだけでムカムカしてくるんだよな」
そして管総理が先だっての「謝罪談話」を絡ませたような「手を取り合って云々」と言ったとき
「(英霊への)哀悼になってねーし」
と呟いた男性が。
どんな人間が周りにいるかわからないので、それ以上は誰も何も言いませんでしたが、少なくともここに並んでいる人の多くは同じような見方を現政権に対して持っているのかもしれない、と思わされました。

そして、正午。黙祷。

黙祷し、皆が静まり返ると、それまでも鳴いていたはずのセミの声が異様に大きく境内に響き渡ります。

ちょうど靖国神社崇敬会の入会受付テントの前で待っていたので、あらためて入会しておきました。
実はエリス中尉、遊就館見学に行ったとき「友の会に入ります~」と言って、バッジを貰ったりしているのです。
帰ってきてから書類を見ると「二十五歳以下の方に限る」

・・・・・・ヽ(^o^)丿

で、待てど暮らせど友の会の会員章、来ず。
そりゃそうでしょう、書類を整理する段階で
「ちょっとー、この人二十五歳どころか大幅に年齢オーバーじゃないの!あなたちゃんと年齢欄確かめなかったでしょう!」
と怒られたのでしょうなー。
「でもー、どう見ても二十五歳以下にしか見えなかったんですう~」

・・・・・・・。

まあ、これは、ないな。
単にお姉さんが年齢制限を知らなかったということで。

ちなみに、隣の席ではアイドル並みのルックスをした制服の女子高生が正真正銘「友の会」に入会していて、白鳩のバッジを貰っていました。
いいねえ。私が男子高校生なら彼女に一目ぼれしたかも。


手続きとともにお下がりのお神酒をいただき、あらためて並び、神殿に礼拝。
たどり着いたのは12時15分くらい。
いろいろな方のお名前を思い浮かべ、さらに名もない幾多の英霊にも。

ところで、この日の機動隊の警備は物凄いものです。案の定、ご存知右翼団体の街宣車が正午過ぎから暴れ始め
ました。

右翼団体と言っても、ひとくくりにはできないと思います。
この団体はこのようなスローガンを掲げ、境内でひたすら黙祷し、ときどき「海ゆかば」などを歌っていました。

しかし、同じようなスローガンを掲げつつ、靖国通りで機動隊とバトルを繰り広げている輩は、どう見ても「元暴走族、今暴力団構成員」で、ちょうどタクシーの中から見ていたのですが、初心者マークの赤い車を拡声器で怒鳴りつけ、勇敢にも交通指導に入った婦警さんを罵り、靖国通りの逆車線を疾走し、機動隊員をマジで弾き殺そうとし・・・。

それを見て眉をひそめる善男善女。

街宣車に書いてあるスローガンはいちいちごもっともなのですが。
ほとんどの右翼団体は思想的なものなど全く理解せず、むしろ「保守的思想」=「右翼思想」=害悪、という構図を市民に植え付けるのが目的だと聞いたことがあります。

それが本当ならば、やりたい放題やってみんなから白い目で見られることが彼らの「お仕事」なわけで、今日はまさにハレの日。彼らの「活動目的」の集大成が今日のバトルってことでしょうか。
神殿に参拝もせず、黙祷もせず靖国前を行ったり来たりするだけの思想団体って何なんでしょうね。

機動隊の皆さんご苦労様です。

戦争に行ったとおぼしき年配の団体。
若いカップル。家族連れ。学生。
13センチはあろうかというハイヒールで列に並ぶいまどきの女の子。
白い第二種軍装(と言うんでしょうか)の海上自衛隊海士の方も。
(周りは『コスプレ?』って目で見ていましたが、勲章が現在のものだったので多分)

それにしても、これだけたくさんの人々が、お祭りでもない、屋台もでていない、何の楽しみも娯楽もない酷暑のなか、この日の靖国にただひたすら首を垂れ御霊に手を合わせるために黙々と列を作る。

まだまだ大丈夫、と言いたい気持ちと、この日を政治やチンケな思想団体にこのように利用される今の日本に対して何とも言えない不甲斐なさを、交互に感じながら靖国を後にしました。







我自爆ス 天候晴レ

2010-08-15 | 海軍

昭和16年12月12日、開戦5日目。

彼らは第11航空艦隊第21航戦第一航空隊員の陸攻機乗り組みの八名でした。
台湾から比島攻撃に参加して不運にも敵弾を受けて不時着します。
「不時着ならば当然自決だろう。彼らは生きてはいまい」
同行機の報告を受け、司令部には「全員戦死」の報告がなされます。

ところがその23日後、彼らが生きていたとの報告が入ります。
彼ら八人は、不時着後原住民に取り囲まれ、そのまま縛りあげられたので、
自決もできないまま捕えられマニラに送られます。
その後解放されたのでした。

戦友は当初無邪気に歓迎しましたが、
「武人の誇りを汚した」と司令部から判断された彼らに与えられたのは、
階級章を剥いだ軍服でした。
ことを内密に運ぼうとする上層部の意向で八人は戦友からも隔離されてしまいます。
何度か行われた査問会議の備忘録が今日残されていますが、
それによるとその結果は「あらためて死に所を得させる」というものでした。

彼らがなぜすぐさま自決しなかったか。

それは、後の特攻の生みの親と言われた大西瀧治郎参謀長の訓示に端を発していました。
「このたびの戦争では、なによりも戦う人員を減らさぬこと」
機長の原田武夫一飛曹は
「かねてから今度の戦いでは早まるなと言われていましたので」と上官の松本少佐に語っています。
大西参謀長は責任を感じたのでしょう。
「捕虜になってもいいじゃないか。
八人はすでに戦死扱いになっているのだから、新たに戸籍を作ってやり、
別人の名前をあたえて一生面倒見てやればいい」
とまで言って彼らをかばいますが、しょせん実現不可能な案でした。

そしてなにより、事実が広まるにつれ、
「下士官の面汚しだ」「一空の名折れだ」という仲間の蔑みに、まず八人が耐えられなくなり、
「早く死なせて下さい」と飛行長にせがむようになります。
そして2月20日、彼らは、アンボン基地からチモール島に降下する落下傘部隊の支援に、
第2分隊の第3小隊2番機として出撃します。

分隊長の福岡大尉はこのとき、自殺行為とも見える奇妙な攻撃をしました。
爆撃後、重い陸攻で列機を単縦陣に組ませ、戦闘機のような低空銃撃を何航過も行ったのです。
あるいは、「八人の死に場所」を御膳立てする意図だったかもしれません。
しかし、地上砲火は分隊長機に火を吹かせました。
死神の指名を受けたのは彼ら八人ではなく福岡大尉だったのです。

彼らへの風当たりは一層強くなります。
「なんで福岡大尉が死んであいつらが生きて帰ったんだ」―。


松本飛行長はその後、ポートモレスビーの偵察を彼らに命じます。
このとき自爆を確認させる目的で零戦三機を掩護につけるのですが、
「大空のサムライ」こと坂井三郎一飛曹がこの掩護のことを伝記に書き残しています。

―「早く自爆させよ」とは―これほど馬鹿げたことはない。
俺達が付いている以上、敵戦闘機に体当たりしても、
この一機だけは落とされはしないぞ。―


 そして坂井一飛曹は彼らを励ますために、風防ガラスにこう書いて伝えるのです。

「ムダニシヌナ キミタチハ オレタチガ カナラズマモル ガンバレ」

坂井一飛曹は彼らの事情を伝聞でしか知らず、よって彼らのこのときの心情を全く知る由もありません。
「カモ中隊のカモ番機」(真っ先に敵機に落とされる機位なのでこういう)から、
さらに一機ぽつんと外れた四番機というべきところに編隊を組まされていた彼らの顔を見て
「目頭が熱くなった」と述懐しています。
そして、
「聞くところによるとこの搭乗員は(中略)敵弾を受け壮烈な戦死を遂げた、
とのことであるが、この戦死は強要されたものではなかったという。」
と締めくくっています。

しかし事実はそうではありませんでした。

「モレスビーの対空砲火は熾烈だからおそらく死ねるだろう」との松本飛行長の判断を受け、
3月23日、24日、29日と彼らは、「死に場所を求めて」出撃するのですが、
ことごとく意図に反して生還してしまいます。

しかも3月29日になると、その出撃は、死ぬことより、
偵察の任務をまず果たすことを優先していたようにも見られるのです。
基地滞空時間は10分。
砲弾に当たることは避け、任務を遂行すると時間を空費せずすぐさま帰投しています。

偵察の白井嘉孝二飛曹が、この日、
「偵察がうまくいったら、捕虜の件が帳消しになって内地送還されるかもしれない」
と語っていたという証言があります。

この白井兵曹は、精神的重圧に耐えきれず、23日に自決を図り失敗しています。

彼らはおそらくわずかな情報や、飛行長の一言、
あるいは自らの楽観論などから小さな希望を見いだそうとし、
さらに心は千々に乱れていたのでしょう。

しかし、それまででした。

3月31日、松本真実少佐はついに最後の命令を下します。
「原田機長以下八名は、単機発進してモレスビーを爆撃せよ」
掩護なしの単独攻撃。事実上の自爆命令でした。


遺書もありません。
名目は写真偵察なのです。
サイダーと煙草を回し飲みし、最後の敬礼をして八人は飛びたちました。
電信員、首藤勘市三飛曹からラエに送られてきた最初の暗号電報です。

「爆撃終了、全弾命中 1155」

二度と帰らぬラエ基地を後にして、オーエン・スタンレー山脈を越え、
ポートモレスビーに向かう機上で、かれらは何を思ったのでしょうか。

この世で見る最後の景色。
自分たちが消滅した後も何も変わらないであろうサンゴ礁の連なる海。
さんさんと輝く太陽。
全てが静止したかのような瞬間の中で、彼らはその景色をその目に刻みつけようとしたことでしょう。
そしてその光の中に、その紺青の海に、新たな命を得て溶け込み、
永遠に生き続けることを願ったでしょうか。

原田機長は自らと、七人の部下の命の最終地に向けて操縦幹を切ります。

「行くぞ」

彼らは互いに微笑を交わしていたかもしれません。
二十歳の電信員は最後に打電します。

「敵地上空 天候晴レ 高度300 我タダ今ヨリ自爆ス」


主操縦 原田武夫一飛曹
副操縦 徳田秀利一飛曹
主偵察 白井嘉孝二飛曹
副偵察 西田利穂一飛曹
主電信員 首藤勘市三飛曹
副電信員 渡辺禎銀一飛曹
主搭乗整備員 清野五郎二整曹
副搭乗整備員 三浦浅吉二整曹

戦死後一階級昇進、金鵄勲章授与。



参考:「我れ自爆す、天候晴れ」岩川隆
  

 

 

 


レゴランドUSAに行く

2010-08-14 | アメリカ
最後の一週間我々はサンフランシスコを後にしてLAへ。
友人に会いに行くのと、レゴランドが最終目的です。
火曜日、サンフランシスコを発ちました。


ここでニッサンの大きめのタイプを予約していたら、案の定ボードに名前がない。
「名前ないんですけど」
(コンピュータぱこぱこ)
「ああ、370ロットに行って」(謝らない)

2分後

「車停まってないんですけど」
(コンピュータぱこぱこ)
「ああ、ずっと出してたんですけど(これぜってー嘘)遅いから戻したみたいですねえ。
470ロットにある大きな車にグレードアップします(から文句はねえだろ)」

どうして非を認めないかねアメリカ人ってやつは。もう慣れたけど。

そして戦車のようなGMを借りました。
しかし、トランクに荷物を入れるのに一苦労。
サンフランシスコで乗っていたプリウスに魔法のようにおさまっていた荷物が・・。
いやー、日本の車って、荷物収納力も凄いです。
さすがウサギ小屋の住民。

そして、2時間運転してカールスバドにあるレゴランドカリフォルニアへ。
ここは、名前からも推測できるように、レゴのテーマパークなので、いたるところにレゴでできたモチーフがあります。


もちろん絶叫ライドもあるのですが

レゴランドらしいといえばこのレゴでできた世界のジオラマ。



細部まで物凄く凝っていて、人間も全てレゴです。
観光バスが停まっていますが、これ、3分たつと次に移動します。
これはワシントンDCの部分です。

息子は、どこに行っても同じような歳の子供にさりげなく近づき、友達になってしまうやつなのですが、ここでもあちこちでその特技を発揮。
メイキングレゴコーナーで。
ゲームコーナーで。
親がずーっと待っている中、夢中でお楽しみでした。
TOは日本から持ってきた仕事を昨夜ほとんど徹夜でしていたし、私は彼のPCの光がまぶしくてほとんど寝られず、二人とももうへろへろ。
おまけに、寒いサンフランシスコからやっと暖かいところに、と思ったのもつかの間、この日は風が冷たくて日向は暑く日陰は寒くて震えるくらい涼しい。
「寒いよ―」
と泣き言を言うと
「心配しなくても日本は地獄の暑さだから」
そう、もうすぐ、この寒さが恋しくなるのね・・・・。

さて、このレゴランド、絶えず「レゴマスター」と言われるアーティスト(息子の現在の憧れの職業ナンバーワン)が、園内の製作室で新たなレゴを作っています。
私は見なかったのですが、現在スパイダーマンを制作中とのこと。
TOが見たところによると、下半身は完成していたとのことです。
ここも住んでいたときを含めると数回目の訪問ですが、いつ来ても新しい像があります。
それでは、有名人レゴのご紹介。


ボルボがスポンサーになっているのか、こういうものも。


今借りているGMと並べてみました。
訳はありませんが。

街全体がレゴなので、こういった有名人ばかりではなく、市井の人々も。
何やらインカムをつけ張り切るお兄さん。


疲れきって寝るおじさん。ほとんどこの日のTO状態。
なんと、このおじさんの頭上にとまる鳩もレゴです。

で、当然、ウケを狙ってこのようなものも。
疲れてやる気ナッシングな工事人。
何やら絶望する人。
この、絶望くん、トイレの横にあったのですが、みんなにえらく共感されて人気者でした。
必ず立ち止まってみんな写真をパチパチ。

6時ごろ、出口に石がま焼のピザを売っている店発見。
息子におやつを食べさせるつもりで入ったらTOが一枚余計に買ったので、一口、と期待せずパクリ。


(゜∀゜)=3ウマー

間違いなくこれまでの人生で食べたピザのベスト3に入るくらいでした。
といっても日頃ピザあまり食べないので母数は果てしなく小さいですが。

ホテルに震えながら帰ってきて見た夕日。
明日、ラグーナニゲルという美しい町で一泊し、いよいよ日本に帰国します。


それでは。


パイロットの運動神経

2010-08-13 | 海軍


「戦闘機体重制限」の日に書きましたが、艦爆に行った作家の豊田穣氏は
「跳び箱で宙返りもできない人間は戦闘機に行かせてもらえなかった」
と述壊しています。
そう言われれば、戦闘機に乗って宙返りしたり機体を思うように操るには、
人並み以上の運動神経が必要なんだろうなあと思ってしまいます。


豊田さんの同期である大野竹好中尉は、運動神経抜群で器械体操が得意だったということですし、
一期上の笹井醇一中尉は柔道や相撲の名手。
豊田さんの周りの戦闘機乗りは運動神経の良かった人が多かったので、
豊田さんもこのような見解を持っておられるのでしょう。

今日画像の岩本徹三中尉は、そのとおり、まるで
「運動神経の塊り」と言われていたそうです。
写真を見る限り、非常に小柄ですが、実にバネのあるような、精悍な感じです。

土方敏夫元海軍大尉の話を聴く会で
「岩本徹三中尉に指導され褒めてもらった」と大尉が言ったのを聞きましたが、
戦中すでに岩本中尉の名前は全軍に響き渡っていたのだと思われました。
「天下の浪人零戦虎徹、なんてねえ」と、有名人を語るような口ぶりだったのが印象的です。
巷間その戦法をめぐり、いろいろな評判のあった岩本中尉ですが、
戦闘機パイロットとして頭抜けた資質を持つ一種の天才であったことは間違いないでしょう。

さて、その運動神経の塊りゆえに岩本徹三中尉は多機撃墜者だったのか?

こう言う話になると、必ず名前の挙がる「ラバウルの魔王」西澤博義飛曹長
この方は伝記によると相撲や柔道などの格闘技は強かったそうです。
しかし、背は高いものの、全身写真を見るとかなり痩せ気味で、証言によると
「いつも体の不調を訴えていた」

消化器関係がどうも弱かったようです。
自分がそうだから言うのではないですが、一般的に精神的にデリケートすぎる人は胃や肝臓が弱い、
と言いますから、かれもそうだったのかもしれません。
ちなみに肝臓はイライラの臓器、肺は悲しみの臓器だそうです。
なんだかちょっと詩的じゃないですか?・・・じゃないですね。すみません。

西澤飛曹長が詩的だったかどうかはともかく、後年伝えられる「複雑な性格」も、
その繊細さゆえからだとすれば納得がいきます。

さらに、西澤飛曹長はラバウルで罹ったマラリアに苦しめられていました。
南方では蚊に刺されることでかかる病気にデング熱とマラリアがありますが、
デングの方は症状は酷いものの、治ってしまえばもう終わり。
ところがマラリアの方はいったんかかると、ずっとその影響を体に遺すのです。
(西澤飛曹長は、笹井中尉が配るキニーネを「苦いから」といって、
飲むふりをしてこっそり捨てていたに違いありません)
マラリアのせいで顔色がいつも青く、そのせいなのか坂井三郎中尉からは
「陰気で人付き合いも悪い」と、性格まで非難(?)されています。

うーん、何となく、何となくですが、西澤飛曹長、格闘技はともかく、
走るのとか宙返りが得意だったようにはとても思えません。
(一見して「ただものではない」迫力のある人物ではあったようですが)

そして、杉田庄一飛曹長に至っては「鈍重なタイプだった」という同期の証言さえあります。



服部省吾氏という、戦後航空自衛隊のトップガンと言われたパイロットの本、
「戦闘機パイロットの空戦哲学」(光人社)によると、運動神経は全く関係ないのだそうです。

では、何が戦闘機パイロットの腕前のいかんで問題となるのか。

それはずばり「頭」なのだそうです。
頭と言っても、記憶力や勉強ができるという意味ではなく、
空中の全般情勢を正しくありのままに認識する力と、判断力ということです。

秀でた人がその他と違っている点があれば「センス」つまり、感覚だというのは、
どんなジャンルのことについても言えると思いますが、そのセンスが戦闘機乗りの場合、
操縦プラス射撃の総合で必要です。

一口で腕利きの戦闘機パイロットといっても、色々なタイプがあり、
例えば赤松貞明中尉のような「天才的な射撃の名手」もいますが、
「射撃は全く駄目だが、操縦の腕が抜群で下手な射撃をカバーするため極限まで接近できた」
というドイツ空軍のヴァルター・クルピンスキー大尉のような人もいます。

射撃であれ操縦能力であれ、空中で自分の置かれた状況を瞬時に、
かつ的確に判断できる頭のよさがパイロット腕前につながる、と服部氏は断言します。



ところで、航空自衛隊のホームページでは、戦闘機パイロットの訓練の様子が、
ドラマ風ドキュメンタリーで見ることができます。
昔と違って、模擬戦は「はい、君今撃墜されましたから」って、モニターでわかるんですねえ。

これによると、センス=状況判断力であり、さらに瞬間先の攻撃を確実にするための
予測力が必要とされていることがよく分かります。

もし興味があったらぜひこのPEACE MAKERSというショートムービー、観てみてください。
現役戦闘機パイロットの素顔が見られますよ。








「トラ!トラ!トラ!」~海軍軍楽隊

2010-08-11 | 海軍
この映画についても、軍楽隊についても「また書きます」と言ったのですが、なんと軍楽隊ネタが満載映画だったので、今日は「トラ!トラ!トラ!」に見られる軍楽隊の考察をします。

さて、今日の画像は日本軍が攻め込んできたそのとき、真珠湾の「ネバダ」船上。

おりしも国旗掲揚のため、軍楽隊が国歌演奏をしています。
(何故ネバダと分かったかというと、大太鼓に書いてあるのです)
演奏途中で船上の全員が異変に気付き、指揮者や何人かの楽団員は目でそちらを追います。あきらかに飛んでくる編隊が味方のものではない、と気づくやいなや、指揮者のタクトがどんどん速くなります。

何故途中でやめないのか?
というと
「国家演奏は、たとえ死んでも決して途中でやめてはいけない」からなのです。

「死んでもラッパを離しませんでした」
で有名なのは日清戦争のラッパ手木口小平ですが(超リアリストでロマンのかけらもなかったうちの父などは『あれは単なる死後硬直』と言って娘をがっかりさせてくれました)
職務に殉じて死ぬのも軍楽隊の務めという考えは洋の東西を問わずあるものです。


猛スピードで取りあえず最後の音符にたどりつくやいなや、みんなは我先に避難を始めます。楽器を捨てて逃げるため、甲板には太鼓が転がるのが見えるのですが、エリス中尉はチューバ奏者はどうしたんだろう、と心から心配しました。

この絵でチューバ奏者は描いていませんが、チューバのラッパの先は太鼓奏者の向こうに見えています。
ブラスバンドにおけるチューバは、ベース部分を受け持つので、必要不可欠な楽器です。
太鼓なら捨てて逃げられますが、チューバはご存知の通り身体に巻きつけるようにして構える楽器。
とても瞬時には捨てられません。まあ、弾よけにはなるかもしれませんね。

これは映画ですのでこのような表現になりましたが、しかし実際は、たとえアメリカ人でも、いやしくも軍楽隊員なら楽器を捨てて逃げる、ということは無かったと思われます。

わが帝国海軍軍楽隊においても「軍楽隊員にとって楽器は武器」と言われていたそうです。

さてかたやその海軍軍楽隊です。

この映画は山本五十六司令が着艦するところから始まるのですが、士官と同じく白い二種軍装に身を固めた軍楽隊が「海ゆかば」を演奏します。
指揮しているにもかかわらず指揮者は楽隊に背中を向け、正面に構えています。
これは山本長官に背を向けないためです。
これは史実でしょう。実に日本的な配慮だと思いました。


「軍楽隊の楽器選び」の日に「軍楽隊のエリート」についてお話ししましたが、彼らの中でも旗艦勤務に選ばれる楽団員は、横須賀の中でも特に技量抜群とされた者でなければなりませんでした。
なぜなら、軍トップクラスの人物や時には皇室の方々の近くで演奏するからです。

現に山本長官と距離数メートルに近づいていたくらいです。
技術だけではなく、その勤務のためには非常に厳しい一般教養や運動の訓練を受け、身だしなみはもちろんのこと、容姿もかなり厳選されたようです。

軍隊で容姿を重んじるなんて、と思われますか?

長身碧眼のブロンドが優先されたナチスの親衛隊、いまだに身長容姿が第一条件という英国近衛兵をあげるまでもなく、ビジュアルを重んじることによって威容を保つ組織というのは軍隊だからこそともいえるのです。

さらに。
軍楽隊員はいつも音楽演奏をしているわけではありませんから、艦隊勤務では本来の演奏の仕事以外に、無線や伝令も受け持ちました。
つまり、艦長に直接メッセージを手渡すということになるわけですから、誰でもいいというわけにはいかなかったのです。

こんにち残された戦艦大和勤務の軍楽隊の集合写真を見ると、勿論写真からは彼らの演奏技量の如何は分かりませんが、とにかく「容姿端麗」を絵にかいたような楽団員が多いのに驚きます。


さて、この映画にはもう一シーン、軍楽隊の登場があります。
それは司令部の正餐シーンで、白いテーブルクロス、銀器のフルコースのランチのBGMに「海」が演奏されます。
はて、海と言われてもどんな曲だっけ、と言われる方のために歌詞を挙げますと

「松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ
干網(ホシアミ)濱に高くして 鴎(カモメ)は低く波に飛ぶ
見よ 晝の海 見よ 晝の海」

(文部省唱歌)

海軍さんのランチのBGMにはぴったりではないですか。

この映画の日本制作部分のディディールのこだわりには、前回も書きましたがしばしば感心させられます。
おそらく、実際にどんな曲が演奏されたかまでを考証したものと思われます。
実際、司令部の食事のBGM選曲も軍楽隊の重要な任務で、和食と洋食で曲調を変えたり、その場の一番偉い人がナイフとフォークを取ったときに曲が始まったりと、それはそれは厳しくいろいろな決まりごとがあったそうです。

この軍楽隊、先日も少し書きましたが、訓練の厳しさを知らない一般の兵には「音楽やっていればいいんだから楽だな」などと最初は言われるのですが、実態を知った者からは必ず同情されたそうです。