ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

デア・ハウプトマン(大尉)〜映画「小さな独裁者」

2020-10-31 | 映画

 

 

脱走兵がたまたま放置されていた車の中に軍服を見つけ、
それを着込んですっかり大尉になりすまし、
部下を引き連れていく先々で殺戮を行う。

もしそれが実話をベースにしていたと知らなければ、
突っ込みどころ満載の穴だらけの脚本といわれそうな映画です。

しかしそれは現実に起こったことでした。

 

映画でも本名で語られているヴィリー・ヘロルト(Willi Herold)は、
盗んだバイクで走り出し、じゃなくて盗んだ制服で大尉となって
「ヒトラー総統の全権を受けた」と豪語し、敗残兵の部下とともに収容所を支配し、
脱獄囚の処刑や拷問を行ったうえ、収容所が爆破されるとこんどは
放浪しながら戦争犯罪を重ねていったというのです。

いくら制服を着ていたといえ、どうして19歳のガキにことごとく皆が騙されたのか、
軍人は誰も疑いもしなかったのか、それくらいドイツ軍はアホの集まりだったのか、
とこれを読んだだけでつぎつぎと疑問が湧いてきます。

ともかくこんな嘘のような話が現実に起こっていた、ということをを後世に知らしめた点で
本作品はある意味人類史に小さな貢献をしたといえるのではないでしょうか。

 

さて、この映画「Der Haptmann」、英語では「The Captain」。
captainは米海軍では大佐ですが、陸軍と空軍では大尉となるので、
日本語も「大尉」でいいと思うのですが、相変わらず日本の配給会社は

「小さな独裁者」

などと気持ちはわかるがとにかくセンスのない邦題をつけてしまっています。

 

さて、映画のストーリーは冒頭3行の通りです。
なんなら冒頭に描いた絵で全てが網羅されています。

実話なので流石の当ブログもツッコミようがないということもあり、
今回は数少ない資料(ドイツ語のドキュメンタリーYouTubeなど)を参考に、
この映画というより驚くべきこの人物について書きたいと思います。

冒頭の逃走シーン。

1945年3月、ドイツとオランダ国境から近いグローナウをめぐる戦いの途中、
ヘロルトは脱走し、

Deutschlandkarte, Position der Stadt Bad Bentheim hervorgehoben

このだいたい左上くらいのところをうろうろしていました。
(大雑把すぎ?)

道中、ヘロルトは側溝に落ちた軍用車の残骸を発見するのですが、
車中には
勲章のついた真新しい空軍大尉の軍服の箱があったので、
それを着込んで将校になりすました、というのがことの発端でした。

しかしこれはあくまでも本人の供述によるもので、本当だったかどうかは
もう永遠に検証されることはありません。

それにしても、逃走中こんなだった人が、

制服を着たとたんこんな風にいきなりこざっぱりしてしまうとは・・

いくらなんでもかなり無理があると思うのですが、どうなんでしょう。

彼がさらに北に向かって歩いていると、敗残兵に呼び止められます。

「部隊から逸れました。指示をください」

その後も北進を続けるうちに合流する敗残兵は増えてきて、
いつの間にか「ヘロルト戦闘団」「ヘロルト衛兵隊」を自称する
30人あまりの軍団になっていったのです。

車を手に入れると、彼はそのうち一人を運転手に指名しました。

映画ではたまたま野戦憲兵が通りかかったように描かれていますが、
実際は検問所を通過する際、ヘロルトは当時

「憲兵による書類提示の要請を拒否したため取り調べを受けたが、
あまりにも堂々とした振る舞いのため、取り調べの担当将校は
ヘロルトを空軍大尉と信じ込み、シュナップスを注いで歓迎した」

堂々としているかどうか以前に、当時19歳のヘロルトが大尉(通常30代?)を名乗っていて
誰もおかしいと思わなかったんでしょうか。

これですよ?
妙に童顔の将校だなー、とでも思っていたのかしら。

パーペンブルグに着くと、付近の収容所が脱獄囚の捜索を行っている、
という報告を受け、ヘロルトは市長および地元のナチス地区指導者と会談。

映画ではかなーり怪しまれているように描かれています。

ここでヘロルトは、

「自分には任務があり法的な些事のために割く時間はない」

として、脱獄囚を即時射殺させています。(つまり自分ではしていない?)

 

4月12日、ヘロルト一行はエムスラント収容所アシェンドルフ湿原支所に到着しました。
ここで行った大虐殺のため、後に彼には

「エムスラントの処刑人」

という別名が与えられることになります。

同収容所にはドイツ国防軍の脱走兵や政治犯が収容されていました。
直前に周辺からの移送があったため、数は3000人を越していたといいます。

ヘロルトはこのとき収容所および地元党組織の幹部らに

「ヒトラー総統は自分に全権を与えた」

と言い切ってこれが信用されています。

嘘は大きいほどバレないということなのか、あまりにも
話が大きすぎてつい信じてしまったのか。

相手がヒトラー総統とくれば、疑わしくても確かめる術がありません。
下手に疑ってもし本当だったら、そのときは自分の命取りになりかねません。

おりしも収容所で秩序が崩壊しつつあり、脱走者を相次いで出すなど、
不祥事に悩まされていた幹部連中は、中央からの、という言葉を聞いただけで
やましさから萎縮してしまい、ヘロルトを疑うこともしなかったらしいのですが、
それを読み解いた(かどうか知りませんが)ヘロルトは機を見るに敏、
状況を読むに長け、ある意味天才的な策略家だったといえます。

ただしその才能らしきものはろくな使われ方をしなかったわけですが。

彼は野戦裁判所を設置して秩序の回復を図ると宣言し、
さっそく血の粛清を行いました。

逮捕された脱獄囚たちは長さ7m、幅2m、深さ1.80mの大きな穴を掘らされ、
4月12日18時00分、高射機関砲の一斉掃射が始まりました。

生き残りがいないか死体を蹴って確認し、念入りに殺人が行われました。

映画ではたった一人、殺人にドン引きしていた部下をわざわざ指名し、
穴に入らせて生き残りを射殺させるという筋金入りの冷酷さ。

この日、日没までに囚人のうち98人が射殺されました。

収容所の将校が一人、ヘロルトの処分を「違法だ」としたうえで
上に報告する、と言っていましたが、その後どうなったのでしょう。

地元国民突撃隊部隊も出動させ、脱獄囚の捜索逮捕および処刑に当たらせますが、
映画では「埋め戻し」を拒否したとして、彼らまで処刑してしまいます。

相変わらず自分の手をあまり汚さず、宴会で余興の漫才をしていた囚人に
わざわざ銃を持たせて撃たせてあげるヘロルト。

ちなみにこの囚人は自分の犯罪について誤魔化して語ろうとしませんでしたが、
相方?が同じように銃を持たされるや自分を撃って自殺してしまったのに対し、
冷静すぎるほど狙いをしっかり定め、一発で逃げる人を撃ち殺してしまいます。

「ただの物盗りですよ」

といっていたけど多分嘘だったんだろうな、と観ている人に思わせる演出です。

実在したのかどうかわかりませんが、これ、いかにも頭悪そうな収容所監督の嫁。
逃げる囚人をいきなり銃で撃ち出すって、なんていうか、お里が知れるわー。

この翌日、4月13日には74人の「処刑」が行われ、もちろんそれは
ヘロルトの指示によるものでした。

最初の処刑から1週間後の4月19日、イギリス空軍の爆撃により
収容所は破壊され、生き残っていた囚人は脱走しました。

収容されていた囚人にしてみれば、イギリス軍は神の使いのようにみえたことでしょう。

ヘロルトは敗残兵を集め、収容所の場所から逃走し、放浪しながら
各地で殺人(ヘロルト野戦即決裁判所 Standgericht Heroldという名のもとでの
即決裁判による処刑)と略奪(地元のホテルや商店に供出させ、
通行税と称して道ゆく人々からものを取り上げる)を行いました。

4月20日、ハロルトはパーペンブルクで連合国の到着に備えて白旗を揚げていた
農夫を「逮捕」して即決裁判で絞首刑に処しています。
(映画では英語で『WELCOME』とバナーを揚げている市民を射殺)

続いて2人の男性を逮捕して処刑。

海軍の脱走兵1人と精神障害者1人を処刑。

4月25日、レーア刑務所に収監されていたオランダ人5人の身柄を引き取り、
数分間の裁判でスパイ容疑者として形式的に裁き、墓穴を掘らせた後に射殺。

映画では好みの娼婦を横取りされたのに腹を立て、私的感情から
もっとも自分に反抗的だった部下を「裁き」、路上で処刑していました。

そしてアウリッヒに到着したとき、現地のドイツ軍司令官の命令で
全員が逮捕されることになります。

映画ではご乱行の大騒ぎの翌朝、野戦憲兵に踏み込まれたということになっています。

この野戦憲兵(フェルドゲン・ダルメリー)については当ブログでは
首に独特の鎖をかけている怖い憲兵集団ということを書いたことがありますが、
その鎖を首にかけた一団がどどどっとホテルになだれ込んでくるわけです。

あわててヘロルトは手帳を食べて証拠隠滅をはかるも阻止されます。

これは本物のヘロルトが処分し損なった軍隊手帳?
下の段は「目=青」ですよね。

逮捕の翌日、ヘロルトは海軍軍事裁判所で罪を自白しました。

ところが現実でもヘロルト裁判は不可解ななりゆきとなるのです。

本来死刑になっても
おかしくないほどの重罪を犯しているにもかかわらず、
ヘロルトは一種の執行猶予、つまり処刑しない代わりに前線に送られる、
という甘々の判決を受けることになるのでした。

つまりこれは映画でも判事?が言っていましたが、兵隊が足りないので
処刑はしないかわり前線で死んでね、という処置だったということになります。

この執行猶予大隊または懲罰大隊はドイツ陸軍に組織されていた部隊で、
兵役不適格者や軽犯罪者など、「潜在的な厄介者」を兵力として認めたものでした。

これに所属する隊員は最前線において「並外れた勇敢」(außergewöhnliche Tapferkeit)
を示すことが求められ、さもなくば猶予されている刑罰が執行されたり、
一般の犯罪者としてエムスラント収容所に収容されることになっていました。

つまり、ヘロルトは執行猶予大隊でもし「並外れた勇敢」を示さなければ、
自分たちが君臨したエムスラントに送られることになるはずでしたが、
もちろんそこは爆破されてその跡地はそのころすでに畑になっていました。

 

とにかく、案の定ヘロルトは懲罰大隊に大人しく参加するどころか
ちゃっかり姿をくらまして、
煙突清掃員(昔の仕事)として潜伏していたのですが、
1ヶ月も経たないうちにパンを盗んで現地のイギリス海軍に逮捕されました。

そして取り調べによってその恐るべき犯罪がもう一度明らかになったのでした。

イギリス海軍の現場検証に立ち会うヘロルト。

ヘロルトと彼の部下の敗残兵たちは集められ、皆で
アシェンドルフの犠牲者の遺骨を掘り返す作業を命じられました。

これは連合軍がよくやる?ドイツ軍に対する「懲罰的作業」で、
強制収容所の看守や軍医、ナチスの幹部が遺体の「片付け」をさせられるシーンが
動画として残されていますのでご覧になったことがあるかもしれません。

その際、彼らは手袋などを着用することを許されなかったそうですが、
ヘロルトらもきっと素手で掘り返しをさせられたでしょう。

裁判中のヴィリー・ヘロルト。

連合軍がドイツ人に対し、戦時中のドイツ人の殺害について裁く、というのは
ちょっと違和感を感じないでもないですが、つまりはそれだけヘロルトは
普遍的、人道的に許しがたい犯罪を犯したとされたのでしょう。

1946年8月、ヘロルトと敗残兵ら14人を裁くための軍事裁判が設置されました。

彼らは125人の殺害について有罪となり、同月29日(判決が早い)
へロルトと6人の敗残兵に対して死刑判決が下されました。
(うち一名は控訴のち無罪)

裁判所におけるヘロルトの写真を見る限り、総統の勅命を受けて
中央から派遣されたものすごい切れ者の空軍将校である、
と田舎のおっさんたちが信じてしまったとしても無理はない、
なんというか、一種「できそうな」雰囲気だけはあります。

ヴィリー・ヘロルトは1925年、屋根葺き職人の息子として生まれました。

演習を無断欠席してヒトラーユーゲントを追放され、
煙突清掃員をしていたそうですが、写真で見る彼は
顔立ちのせいなのか、ブルーカラーの育ちというには上品な感じに思えます。

18歳で空軍に徴兵されて兵役に就き、降下猟兵の連隊で訓練を終えました。
彼が脱走中に見つけた軍服が空軍大尉のものであったというのは、
この経歴から見て偶然の一致すぎる気がするのはわたしだけでしょうか。

さらに映画では、「見覚えがある」といわれた将校との会話で

「降下猟兵だった」

と誤魔化すシーンがありました。

しかし、たかだか1年の軍隊生活で大尉を演じ切るだけの知識を
かれはどうやって仕入れたのでしょうか。

 

ところで、わたしはこの映画を最初に観て歴史上の人物に対しては
ついぞ抱いたことのないほどの激しい嫌悪感を抱き、

「こんなやつは絶対に死刑になっていて欲しい!

と怒りに任せて検索をしたところ、1946年11月14日、ヴォルフェンビュッテル戦犯収容所で
へロルトは他の5人とともにギロチンによる斬首刑を執行されていたこと、
しかも、彼は尋問中、虐殺の動機について問われると、

「何故収容所の人々を撃ったのか、自分にもわからない」

と答えたということを知りました。

大尉の制服によって自分が濫用できる権力を手に入れたことに気づいた彼は
それを思いつく形で試してみたくてたまらなくなったのでしょう。

おそらく、抵抗できない人間の命が自分の意のままになることが
精神的に未熟な幼児のままの彼には楽しくて仕方がなかったのだと思われます。

 

映画のエンディングシーンで、ヘロルトら一味が現代のドイツに現れ、
チンピラさながら略奪を行う様子が延々と描かれますが、製作者もまた
彼らに対してのこの嫌悪感をどうしてくれよう、とばかりに、怒りに任せて
この一見不可解なシーンを付け足したらしいのがわたしにはよくわかりました。

とはいえ、映画的にこの付け足しシーンは正直全く評価できなかった、
ということもお断りしておきます。

Lilian Harvey - Das Gibt's Nur Einmal

それでは最後に、ヘロルトが大尉の軍服を着込んで調子はずれに歌っていた歌、
乱痴気騒ぎのときにも女性たちと一緒に恍惚として歌っていた、
映画「会議は踊る」の挿入歌「ただ一度の機会」をお聞きください。

その歌詞とは・・

ただ一度だけのもの
二度と帰ってこないもの
それは多分ただの夢

Das gibt's nur einmal,
Das kommt nicht wieder,
Das ist vielleicht nur Träumerei.

 

終わり


ブルー・マックスとディクタ・ベルケ 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

2020-10-29 | 航空機

しばらく兵士と水兵のための記念博物館の展示に集中していましたが、
もう一度スミソニアンに戻ります。

というか、早くスミソニアンを済ませてしまわないと、今年の夏見学した
航空博物館にいつまでたってもたどり着かないので・・。

さて、というわけで前回なぜエースというものが誕生したのか、
そして彼らがどのように「利用」されたかという話をしましたが。
今日はその価値観が一般に膾炙したあとについてです。

 

■エースの定義

戦争の初期には何機か撃墜していればエースと呼ばれていました。
その後、空戦そのものが「珍しいこと」ではなくなってくると、
エースになるために必要な撃墜数は増えていくことになります。

そしてその結果、嘆かわしいことではありますが、帳尻を合わせるために
虚偽の撃墜を申告するけしからんパイロットが出て来ました。

そこで各国政府は、全てのエースが国家的英雄とみなされる権利を
正当に得ているということを確認する必要がありました。

撃墜は必ずそれを確認する第三者がいなければならず、
そうでなければその記録は未確認で公認記録とはならない、
というルールができてきたのもこのことからです。

 

■プール・ル・メリット勲章とインメルマン

プロイセンのフリードリヒ大王は1740年、

プール・ル・メリット(Pour le Merite)

という勲章をずば抜けた働きをした陸軍の英雄のために設置していました。

ドイツ政府は、第一次世界大戦になって、このフリードリッヒ大王の勲章を
撃墜数を多く挙げたエースに授与するために復活させたのです。

このメダルのことを別名「ブルー・マックス」といいます。

そういえば昔、ブルーマックスが欲しくていろいろやらかす
下層上がりの野心的なパイロットを主人公にした映画、

ブルー・マックス

 

という映画をここでご紹介したことがあったんだったわ。
今読んでみるとこいつとんでもねえ。

というか、エースの称号欲しさにこういうことをやらかす輩もいたってことなんでしょう。

ところで、なぜこの勲章のことを「ブルー・マックス」と呼ぶかというと、
これを最初に受賞したエースは、インメルマンターンでおなじみ、ドイツ軍の

マックス・インメルマン
(Max Immelmann 1890ー1916)

だったかららしいです。

マックス・インメルマン

襟の中央に燦然と佩用されているのがのちのブルー・マックスですが、
この頃は普通に「プール・ル・メリット勲章」と呼ばれるだけのもので、
まだ勲章そのものの色も「ブルー」ではありません。

勲章がブルー(ドイツ語ではblauer=ブラワー)となり、
名称がブルー・マックスとなったのはマックス・インメルマンが受賞したから、
つまりマックスはインメルマンの名前からきているのです。

彼の開発したインメルマンターンは航空機のマニューバとして
その後も、
もちろん現代もその名前のままで使われています。

スミソニアンにあったインメルマンの肖像。
犬はボクサーでしょうか

 

右がプール・ル・メリット、真ん中は大鉄十字章のようですが、中央に
ナチスドイツのマークがなく、『W』と刻印してありますので、
おそらく「1914年章」と呼ばれる軍事功労賞でしょう。

左は航空功労賞ですが、どこのものかはわかりません。

 

プール・ル・メリットは飛行機乗りの究極の目標といわれました。

ルフトバッフェでは、パイロットは最初の訓練を終了すると、
「ファーストクラス」の意味を持つ鉄十字章を獲得することができましたが、
プール・ル・メリットは、さらに、特定の数のミッションを生き残った
熟練の(そして幸運な)パイロットだけにしか授与されることはありません。

その意味するところは、ドイツ将校に与えられる
考えられる限り最高の栄誉とされていました。

そのためには敵機をある程度以上撃墜していなくてはなりませんが、
その数は1918年までに8機以上、と公式に決められました。

 

■「厄介な名機」アルバトロス戦闘機

さて、そんなギャラリーの上方には、カラフルな迷彩ペイントの
複葉戦闘機、

アルバトロス(Albatros) D.va

が空を飛んでいるように展示されています。

1916年、ドイツの航空機製造メーカー、
アルバトロス・フルーク・ツォイク・ヴェルケは、非常に高度な機構を持つ
アルバトロスDIを開発しました。

160馬力のメルセデスエンジンを備えた流線型のセミモノコック胴体と、
機体のノーズにきちんと輪郭が描かれたプロペラスピナーが特徴でした。

D-IIIという小さな下翼を備えた(一葉半)のセスキプラン・バージョンは、
1917年の初めに導入され、急降下で頻繁に下翼が破損する欠陥にもかかわらず、
操縦性と上昇力に優れていたため、大きな成功を収めました。

ちなみにレッド・バロン、マンフレート・フォン・リヒトホーヘン男爵が乗った
D-IIIも、下翼にクラックが発生しています。

アルバトロスDVモデルには、より強力な180馬力のエンジンが搭載されていましたが、
こんどはどういうわけか上翼の故障が急増していました。

このD.Vaは翼の破損の問題を解決するために機体を強化したところ、
重量が増加し、せっかくの新しいエンジン搭載による利点が
打ち消されるという残念な結果になってしまっています。

DVとD.Vaはまた、以前のD.IIIと同様、空気力学的な荷重がかかると
翼にねじれが生じることから、パイロットは、この機体での
長い降下を行わないようにと指示されていました。

つまり最初から最後まで、アルバトロスという名前のつく飛行機は
皆同じ下部翼の故障の問題を抱えていたことになります。

この問題に対処するために、小さな補助支柱が外側の翼支柱の下部に
補強のために追加されましたが、完全には成功しませんでした。

 

しかしながら第一次世界大戦中、約4,800隻のアルバトロス戦闘機が建造され、
オーストリア=ハンガリーもライセンス生産を行っています。

そして1917年を通じてドイツの航空隊によって広く使用され、
終戦までかなりの数のアルバトロスが活動を続けました。

ドイツのエースの多くは、アルバトロスシリーズで勝利の大半を達成しています。


リヒトホーヘンのアルバトロスD.V

ただし、彼らが評価したのは多くが初期のV.IIIであり、後継のD.Vは
改造後でありながら前より問題があるとして、嫌われていたようです。

たとえば、マンフレート・フォン・リヒトホーヘン。

彼もアルバトロスD.Vが製造されてすぐ機体を受け取ったのですが、
すぐに下翼の構造上の問題が解決されていないだけでなく、
構造を強化するための重量の増加が操縦しにくいことに気づき、
こんな風に手紙で知人に伝えています。

「イギリス機に比べるとまったく時代遅れで、
途方もなく劣っており、
この飛行機では何もすることができない💢

そこでアルバトロス社はこのD.Vaでパイロットの要望に応えようとしたのですが、
前述の通り、何を思ったか、重くて操縦性が悪かったD.Vよりさらに
機体が重たくなってしまったのです(´・ω・`)

その分はメルセデスの新型エンジンで相殺されるはずが、
結局最後まで同じ問題は存在していたということで、ドイツのエースたちが
もう少し性能のいい飛行機に乗っていたらもう少しエースが増えていたかもしれません。

 

英雄、オスヴァルト・ベルケ

1916年に戦死するまでに、ドイツのエース、
オスヴァルト・ベルケ(Oswald boelcke 1891-1916)
40機という第一次世界大戦のドイツでももっとも高い撃墜数を上げ、
大衆からの絶大な絶賛を浴びました。

しかし、かれの最も特筆すべき航空への貢献というのは、
戦闘機パイロットの後進指導であり、航空戦術の発明だったとされます。

このため彼は「航空戦術の父」とも呼ばれています。

ベルケはドイツ戦闘機部隊の組織の責任者でもありました。

かれの先駆的な研究は、今日の空中戦の原型を形作ったといっても過言ではありません。
これは、彼の空戦勝利よりもはるかに後世に大きな影響を与えた貢献といえましょう。

空中戦に特化した新しい航空隊長就任の命令を受けたとき、
ベルケが取ったのは当時にして
革新的なアプローチでした。

まず、人を育てること。

搭乗員採用にほとんど関与しなかった以前の戦隊司令官とは異なり、
彼は一人一人を面接し、その資質などをチェックした上で、
戦闘機パイロットとして素質と才能をもち、成功する可能性があると

見込んだ男性だけを選びました。

生徒の戦闘スキルを開発する彼の方法も同様に革新的でした。

従前のドイツ軍では戦闘訓練といいつつ飛行することだけを学生に教えましたが、
彼が教えたのは空中戦闘の技術(アート)でした。

彼はパイロットの指導につねに積極的な役割を果たすため、
地上で見ているのではなく、つねに生徒と一緒に飛行し、
彼らのパフォーマンスを彼らと同じ目線で見て評価しました。
(またそれができる教官は彼だけでした)

彼はまた、彼自身の戦闘経験についても非常に論理的に分析し、
空中戦のための最初のルール(dicta)を書きました。

これらの簡単な「基本法則」はすぐに初心者に理解され、記憶され、
新しい戦闘機パイロットの血肉となって、後に続く者たちに受け継がれました。

 

■ベルケのディクタ(Dicta Boelcke)

1. 攻撃する前に常に有利な位置を確保するようにしてください。
 敵の不意を突いて、相手がアプローチする前、または最中に上昇、
 攻撃のタイミングが近づいたら後方から素早く飛び込みます。

2. つねに太陽と敵の間に自分を置くようにしてください。
 これは太陽のまぶしさで敵があなたを視認できなくなり、
 正確に撃つことを不可能にします。

3. 敵が射程内に入るまで機銃を発射しないでください。

4. 敵が攻撃を全く予測していないとき、または偵察、写真撮影、
  爆撃などの他の任務に夢中になっているときに攻撃します。

5. 決して背を向けて、敵の戦闘機から逃げようとしないでください。
  後方からの攻撃に驚いたら、振り向いて銃で敵に立ち向かいます。

6. 敵から目を離さず、敵に騙されないでください。 
 対戦相手がダメージを受けているように見える場合は、
 彼が墜落するまで追跡し、偽装ではないことを確認します。

7. 愚かな勇気は死をもたらすだけです。
 Jasta (戦隊)は、すべてのパイロット間で
 緊密なチームワークを持つユニットとして戦う必要があります。
 つねにその指導者の命令に従わなければなりません。

8. Staffel スタッフェル(squadron)の場合:
 原則として4人または6人のグループで攻撃します。

 戦闘が一連の単一の戦闘に分かれた場合は、
 数人で1人の敵に向かわないように注意してください。

 

今これを見て気がついたのですが、ハリウッドの三流映画、
「ブルーマックス」の主人公の名前は確かスタッフェルでした。
「飛行中隊」という名前だったのね。

まあ、イェーガー(戦闘機)という名前のアメリカ人もいるのでそれもありか・・。

 
Fokker Eindeckerシリーズの戦闘機(s / n 216、軍用s / n A.16 / 15
ベルッケは、これらの航空機の1つを飛行させる空中戦術を学びました。
 
■英雄の死

エースの葬式

ベルケが亡くなったフランスでの告別式には、ドイツ皇太子が出席し、
彼の棺にはカイザー・ヴィルヘルム自らが花輪を捧げました。

ベルケはドイツ国民だけでなく、敵国からも尊敬され崇拝されていました。

このときイギリス軍の航空機が上空を飛行してローレルの花輪を墓地に投下しましたが、
それには、

我々の勇敢な騎士である敵

 ベルケ大尉の思い出に

 大英帝国王立航空部隊より」

と記されていました。


オスヴァルト・ベルケは1917年10月28日、敵と交戦中、僚機と接触し、

翼が破損した機が墜落して頭蓋底骨折で死亡しました。

墜落したとき、どういうわけか彼はヘルメットを着用しておらず、
安全ベルトも着用していなかったということです。

 

続く。

 


「リメンバー・ザ・メイン!」 米西戦争とセオドア・ルーズベルト〜ピッツバーグ 兵士と水兵の記念博物館

2020-10-26 | 歴史

           Theodore Roosevelt Resource Guide: American Memory Collections (Virtual  Programs & Services, Library of Congress)

 

この「ソルジャーズ&セイラーズのための記念博物館」が
1911年に開館するまでの工事過程とその後の南北戦争ヴェテランを招いての
記念式典については一度当ブログでご紹介していますが、ここにきて
もう一度その関係資料が展示されているコーナーが現れました。

ケース後面に貼ってあるのはオリジナルの設計図ブループリントで、
設計会社であるPalmer and Hornbostelから(おそらく永久に)
リースしているものです。
設計図の日付には1907年10月18日と記されています。

 

Henry Hornbostel, architect.jpg

設計者の

ヘンリー・ホーンボステルHenry Hornbostel (1867 –  1961)

は前にも書きましたが今も残るカーネギーメロン学舎のコンペに勝ち、
建築を採用されたのがきっかけで当博物館の建築を依頼されました。

以降ここでは南北戦争ヴェテランのリユニオン(戦友会)が
頻繁に行われていくことになります。

ちなみに白黒写真では全く伝わらないホールの素晴らしさをご覧ください。
当時から寸分変わっていない壮麗な装飾の施された内装を。

中段の写真は建物落成後初めてここで行われたGARのリユニオンの様子です。
まだ当時は生存者がたくさんいて盛会であったことがわかります。

下段写真の中二つは、人垣の真ん中を入場(退場?)してくる
南北戦争のヴェテランたちで、ペンシルバニア州のみならず
東部の北軍関係者がかなりの数出席したようです。

ちなみにMKのアパートはここから数ブロックのところで、
わたしがホテルに帰るにはこの前の道を必ず通っていました。

博物館の前庭にあたる緑地帯にはお天気の良い日は
必ずたくさんの学生らしい人たちが座り込んでいます。

COVID19以降学生の社交は外で行われるのが主流のようです。
しかし、今はそれで良いですが、猛烈に寒くなる冬はどうするのか。

MKの学校でもサンクスギビングの休暇以降は、授業を
全てオンラインで行うことが早くから決まっています。

博物館の全景が描かれた(今は道ができ、反対側にビルが建ち、
このような角度からは建物を見ることはできない)
お皿とカップは、開館した最初の年だけ限定で
土産物ショップ(今でも同じところにある)で売られていたものです。

右側のウォーターピッチャーは銀製品で、これも記念品。
「アレゲニー郡メモリアルホール」と刻まれているそうです。

正式な名称が決まっていなかった頃に製作されたものでしょう。

 

 

さて、何回かにわたって南北戦争についての展示をご紹介してきました。
最後にはなぜか「軍隊と動物」というテーマが入ってきたのですが、

続いての展示は時系列どおり米西戦争関係となりました。

日本人には南北戦争以上にピンとこない米西戦争ですが、この

Spanish–American War


は、1898年4月21日から8月13日までの4ヶ月足らずの期間、
キューバ、プエルトリコなどのカリブ海諸国、そして
フィリピン、グアムで起こったアメリカ対スペインの戦争です。

ものすごく簡単にいうと、

「アメリカがスペインの支配下にあったキューバを
独立させるためにという名目でスペインと戦い、
勝ったら独立させずに
ちゃっかり自分のものにしてしまった」

というジャイアンアメリカの本領発揮な戦争だったわけですが、
これはそれまで内戦でだけドンパチやってきたアメリカさんが、
海外への覇権に乗り出し、その後の帝国主義のきっかけともなる出来事でした。

ところで、どなたも次の言葉のいくつかをきっとご存知でしょう。

「リメンバー・フォートサムター」
「リメンバー・アラモ」
「リメンバー・ルシタニア」
「リメンバー・パールハーバー」

「リメンバー・トンキン」
「リメンバー911」

ちなみに日本人に馴染みのないアラモについてさくっと説明しておくと、

「リメンバーアラモ」1835 Remember Alamo

Remember the Alamo! – Schlock Value


何をリメンバーか;

メキシコの領土であったテキサスに入植したアメリカ人が独立運動を起こし、
アラモ砦でメキシコ軍の攻撃によって守備隊が全滅したこと。

どんな戦争が起こったか;
翌年アメリカはメキシコに勝ち併合、リメンバーアラモを合言葉に
カリフォルニアをめぐってメキシコに宣戦布告

アメリカが勝利で得たのは;
アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ニュー・メキシコ、
ネバダ、ユタ、ワイオミングにあたる地域をメキシコから奪取し、
メキシコは領土の半分以上を失った。

それから、アメリカが第一次世界大戦に参戦したきっかけ、
それが「リメンバールシタニア」でした。

Remember the Lusitania!” – MilitaryHistoryNow.com

Recruitment Posters - <i>Remember the 'Lusitania'</i> | Canada and the First  World War

ドイツ潜水艦が無警告で放った魚雷によって沈没した
民間船「ルシタニア」。

これは犯罪であるので我々はこの「悪魔の所業」に対し、
正義の天誅を加えるべく武器を取って戦う、ついては
今日にでも志願して従軍してください、というポスターです。

 

とにかくアメリカがリメンバー言い出したら必ずその後戦争になる、
ということがよくお分かりいただけると思いますが、

この米西戦争の時も

「リメンバー・ザ・メイン」

というのがありました。

Remember the Maine? | History News Network

つまり在留米国人の保護を目的にハバナに停泊していた戦艦「メイン」が、
原因のいまだにはっきりしない理由で夜間爆発し、かわいそうに
当時ほとんどが就寝中だった260名の乗員はほぼ即死するという、アメリカにとって
非常に都合の良い、じゃなくて痛ましい事故がそのきっかけになっています。

ちなみにこの時死亡した中には八人の日本人(コックとボーイ)が含まれています。

当時の大統領マッキンリーは戦争には消極的でしたが、メインの爆発を煽り、
スペインの機雷のせいと決めつけた記事で世論を煽ったのが当時のジャーナリズム。
センセーショナルに報じれば報じるほど新聞は売れますからね。

このとき読者獲得競争で凌ぎを削ったのが、ご存知ハーストとピューリッツアーです。

要するにメディアが国民を焚きつけて戦争へと突入していくという構図は
すでにこのときに発生していたということなのです。

キューバに自治を与えて戦争を回避しようとしたスペインでしたが、
アメリカはそれに満足せず、完全撤退を迫ったのでスペインもキレて、
アメリカとの外交を停止してしまいました。

そこでアメリカはここぞとスペイン領のフィリピンに攻め込みました。

キューバを独立させよと言いながらフィリピンを盗っちまおうとは、
さすがアメリカさん、他の国にできないことを平然とやってのける!
そこにシビ(以下略)

そしてマニラに行く途中にあったスペイン領のグアムにも攻め込みました。
独立戦争の機運を受けて蜂起が起こったキューバにも攻め込みました。

つまり一挙にスペインから独立させるという名目で4カ所を取り上げたのです。
さすがアメリカさん(以下略)

まあいっちゃなんですがそれが当たり前の時代でしたからね。

ここには米西戦争の陸軍の制服が展示されているわけですが、
特筆すべきはOD色、オリーブドラブと呼ばれる色の軍服が
初めて登場したのがこの戦争の時からだったということです。

その直前までアメリカは「ブルーとグレイ」しか存在していませんでした。

この将校用制服の襟の形は我が帝国陸軍のものに似ていますが、
1912年つまり第一次世界大戦の頃には立ち襟に変更されます。

後ろにある説明によると「Undress Blouse」、この言葉は
軍服のジャケットを含むセットのことを指すようです。

ボランティア歩兵師団の制服が着用主の写真付きで展示されていました。
米西戦争ではとにかく新聞が世論を煽りまくったため、志願兵だけでなく
義勇軍などにぞくぞくとやる気満々の男たちが志願しました。


ところでアメリカにも当時の規格で軍服を再現し作るという会社が存在していました。
このサイトの米西戦争のページです。

U.S. Span-Am War Uniform

米西戦争のことを英語では「スパナム・ウォー」と略すんですね。

米西戦争でアメリカ陸軍騎兵隊の少佐として指揮を執った

セオドア・”テディ”・ルーズベルト

です。
彼が率いたのは「ラフ・ライダーズ ’Rough Riders'」という義勇軍部隊で、
米西戦争中最も有名となった「サン・フアン・ヒルの戦い」の勝利に貢献しました。

このことがその後政治家となった彼をニューヨーク州知事、副大統領、
そして第26代アメリカ合衆国大統領に押し上げたと言っても過言ではありません。

もっとも彼が若干42歳で大統領に就任したのが、副大統領時代に
マッキンリー大統領が暗殺されたからでした。

ちなみに、日本人があまり知らないことの一つですが、日露戦争の停戦を仲介し、
そのことによってアメリカ人で初めてノーベル平和賞を受賞しています。

棍棒外交、ホワイトフリートと彼が行った外交政策は、決して
ノーベル平和賞受賞者にふさわしいとは思えないのですが、似たような例は
アメリカ史上初めてアフリカ系として大統領になった人の時にもありましたよね。

ところで熊ってこんな動物だったっけ・・・。
これ中に子供が入ってないか?

 

ついでにルーズベルトの愛称「テディ」はテディベアの語源ですが、それは
大統領となったルーズベルトが熊狩りに行ったとき、同行のハンターが忖度し
「下ごしらえ」としてすでに弾を撃ち込んだ瀕死の熊を、

「大統領、ささ、どうぞ仕上げを」

と差し出してきたので、

「そういうのを撃つのはスポーツマン精神に悖る」

と拒否したのが美談として報じられ、それを知った街の菓子屋が
熊のぬいぐるみを作って「テディベア」と名づけたのが起源です。

なぜ菓子屋がぬいぐるみを作ったのかはわかりませんが。

ただし、彼も熊を狩りに来ていたわけですから、巷間いわれるように、
「瀕死の熊を不憫に思って断った」というのではなかったと思います。

まあ、普通に腕に自信があって、この手の忖度はプライドが許さなかったんでしょうね。

African Americans' Role in the Spanish-American War | Sutori

米西戦争ではアフリカ系の部隊、「バッファロー・ソルジャーズ」が投入されました。
このブログでも何度も紹介してきましたが、しかし当時は白人の義勇軍、
「ラフ・ライダーズ」の方が有名でしたし、メディアも黒人部隊の活躍はガン無視していました。

米西戦争に投入された「トラップドア」ライフル、と説明があります。
正確には、

スプリングフィールドM1873 トラップドア
(U.S.Springfield Model 1873 Trapdoor)

で、最初の標準装備となった後装式ライフルです。
歩兵銃型と騎兵銃(カービン)型のヴァリエーションがありました。

 

 

続く。


テレビ番組『HOARDERS』片付けられない症候群の人々・ミリーの場合

2020-10-24 | アメリカ

アメリカのテレビ番組、「HOADERS」から、一つの番組中
前回のジョニという元教師と並行して語られていたもう一つのストーリー、
アメリカ国中で推定300万人いるという「溜め込み癖のある人々」
=ホーダーズの一人について今日はご紹介します。

もう一人の溜め込み屋さんの話は、まず彼女の娘の証言から始まります。

「物に執着したり居間を散らかすだけなら好きにすればいいけど・・
とにかく何を言っても右の耳から左に抜けてくのよね」

英語でもこのことを

”go in one ear and out”

という言い方をするんですね。

彼女の名前はミリー。
自宅の庭でガーデニングに勤しんでいる彼女は実に勤勉そうで、
一見花を愛する普通の主婦にしか見えません。

草花の手入れは決してものぐさな人間にできることではない、
というイメージがありますが、花を咲かせるのが好きな人間が
片付けも好きとは限らないわけで。

そういえば、日本でも、家の前にたくさん鉢植えを置いて
草花を育てるのが好きな人が住んでるんだなというお宅がありますが、
得てしてそういううちの玄関はぎっしりと安物のプラスチックの鉢が並んでいたり、
酷いのになると発泡スチロールの箱をプランターにしているなど、
控えめに言っても「素敵」とか「おしゃれ」とは程遠かったりするものです。

もう少し量を減らしてちゃんとしたプランターなどに咲いていれば
通りゆく人々の目を楽しませることもできるのに、もしかしたら
こういう人たちは人の目などより自分さえ楽しめればいいという考えかな、
と残念な気持ちで通り過ぎるのですが、ミリーさんは
アメリカ版のこういうゴーイングマイウェイ型ガーデナーなのかもしれません。

とにかく彼女はガーデニングをしていると「幸せ」だとは言っています。

そして家に一歩入ると中はこの通り。

ミリーの長女、ジェシカさんが証言を行います。

「ドアの中に一歩入ると、そこは物の山よ。
まず中に入るのもたいへんなの。
椅子なんかどこにあるのかもわからないわ」

しかしミリーはここで生活をしているわけですから、
それなりにそこには「けもの道」ができているようです。

彼女の家はアメリカのごく普通の庶民の家です。
前回のジョニさんと違い、彼女の「ホーダー」ぶりは
家の中限定らしく、近所から苦情が来るような事態にはなっていません。

ジェシカさんは、そんな母を全否定しています。
なぜなら

「わたしは自分が本当にイケてる (have some really cool stuff)と思ってる」

からですが、母はそんなことを考えたこともないだろう、とのこと。

これは次女のチェルシーさんの写真です。
こんな写真立てにせっかく娘の写真を入れたのに、それを飾る場所もなく
物の山のうえに置かれているのです。
彼女はいいます。

「わたしの『家の最初の記憶』は、全力で走って、それから
服の山にジャンプする遊びをしたことでした」

彼女は祖父の家で2週間過ごしたとき、気づいたそうです。
うちはおかしい、と。

それから彼女は母にコンタクトを取らなくなりました。
彼女は母を捨てたのです。

これが若き日のミリーさん。
なかなかキュートな女性なのですが、どうも知性的にかなり問題があるようで、
娘が祖父の家に逃げたとき、当然の流れとしてCPSが調査にきたことを

「怖かった」

なんて言っているのです。

CPS(Child Protective Services)とは日本の児童相談所のような組織です。

 

母親のホーディングのせいで、チェルシーは過去6年間の間、
母親のいる自宅を出たり入ったりすることになりました。

そして、ついに母親に最後通帳を突きつけたのです。

「家を散らかすかわたしか、どちらかを選んで」

つまり母親がこのままため込み生活を続けるのなら、わたしは帰らない、
と宣言したのです。

ミリー自身は、彼女のホーディングは彼女自身の早い時期に
その原因があったと信じています。

よくわかりませんが、反抗期があったとか・・・・?

まあしかしその選択は結局彼女自身がしてきたことであり、
現在の状態はその結果ということなんですけどね。

家の中があの状態、そして外ではこうやってせっせと土いじりをする。
彼女の頭の中はやはり何か病的な問題があると見るのが妥当かもしれません。

ジェシカは母親に対してチェルシーよりもおそらく強い怒りを持っています。
彼女が自分のことしか考えていない母親失格であると語り、
自分自身と母親の関係はすっかり破壊されてしまったと断言しました。

チェルシーが母親の更生次第では家に戻るという余地を残しているのに対し、
ジェシカはもうそんな段階をとっくにぶっちぎっているので
チェルシーについても「信じられない」と言い放つ始末。

しかし、今回番組に応募しプロフェッショナルの助けを借りることにしたのは
娘たち二人の考えだったということです。

そこで番組御用達のホーダーズ専門心理学者であるトンプキン博士が登場。

早速彼女と会って「セッション」を始めますが、ミリーは
博士に対しても大変防御的な態度を取り続けています。
投げやりで問題解決しようという意欲にも乏しく、

「いっそこのホーディングの中で死んでしまいたい」

みたいなことを言うのでした。

わたしは部屋を片付けられない(あるは片付けたくない)という人が、

「いっそみんな燃えてしまえばいいのにと思う」

というのを聞いたことがあるのですが、同じ心理ですかね。

ミリーの件に駆り出されたもう一人のプロフェッショナルはこの人。
そう言う仕事があること事態おどろきますが、このドロシー・ブレインガーという女性は
「オーガナイジング・エキスパート」つまりプロの片付け師です。

早速片付け作業に突入したミリーの家ですが、そのドロシーに、
ミリーは
娘たちに対する愚痴をぶちまけ始めました。
さらに自分の状態を無茶苦茶にする彼女を「軽蔑する」という言葉まで出てきたので
これはいかんとドロシーはスタッフに一旦作業を中止させました。

この後に及んでミリーさん、処分するものすべてをチェックし、
全てに触れてすべてを調べたいと言い出したのです。

なんならこれも捨てる前に触ってチェックせんかい。って言いたくなりますよね。

そんな母親にジェシカはキレて、

「なんだってわたしがこの家を片付けてると思ってんの?」

という言葉とともに、わたしはあんたの子なんかじゃない、
などとまたしても言い放ちます。

ミリーさん(´・ω・`)←冒頭写真

しかしこの人、感情の起伏が平坦というか、心理学者やオーガナイザー、
娘に何を言われても
右の耳から左の耳」で飄然としています。
自分のことなのにこの他人事感はどういうことなんでしょうか。

そのくせ物を捨てるのにいちいち干渉し、娘たちにも言いたい放題。

「そうよ、でもあなたがわたしの人生を惨めにしたのよ」

なんて我が子に向かっていいますかね普通。

壊れかけたランプを「これは幸福の灯りよ」
賞味期限切れの食べ物も「捨てないで!食べられるわ」

ミシンも置いとくんですか。
どこで縫い物するんですか。庭かな?

一向にが見られないので、ドロシーは物の山を整理するのを手伝うことによって
ミリーを軌道に戻すことを試みましたが、これがなかなかうまくいきません。

なかでも、彼女がこの小さな石さえ取っておくと言い出した時には、
手伝いに来ていた彼女の妹が怒って遠くに放り投げてしまい、
彼女はブチギレるという非常事態?に。

しかし、番組スタッフはその石をもう一度こっそり拾っておいたようです。
何にするかって?それは後のお楽しみ(棒)

そしてドロシーが娘になり代わってミリーを宥めたり透かしたり、
ときには子供のように褒めながら、なんとかゴミが片付きました。

さて、ミリーさんの場合は、ちゃんと片付けるとこまで漕ぎ着けたので、
ここで番組から素晴らしい「贈り物」が用意されます。

モノがなくなった家をプロの手で徹底的に掃除し、
見違えるようにしてくれるというサプライズです。

掃除期間を経て、次の朝」我が家に戻ったミリーの見たものは。

必ず同じ角度からの「ビフォー」を紹介します。

作業の様子もテレビでは放映されますが、電気のシェードや天井まで
くまなく清潔に掃除するだけでなくモデルルームのようにアレンジしてくれます。

なんとこれ、わずか一晩で魔法のように仕上げているのです。

しかし、床の大きなシミは取れないみたいですね。

でたー、アメリカ人の常套句、

「ママを誇りに思うわ」

ここまで片付けたのは母ちゃんじゃないんですがそれは。

「猫みたいな臭いがしないわ」

猫は清潔好きな動物なので、ちゃんと飼っていれば臭わないんですが。
猫に謝れ!

こちら台所でございます。

おっと、キッチンにはアイランド型のカウンターテーブルがあったのか。

マットの色と食器を合わせ、美味しそうにパンを盛って、
なんとディナーキャンドルまで灯されているではありませんか。

シンクも蛇口も磨いただけでこのとおり新品のようです。

本人はもちろん娘たちも感激しまくっています。

洋服で床が見えなかった寝室も・・

この通り。
壁は塗り替え、リネンや窓のカーテンも新調したようですね。
よく見ると鏡の枠まで色を塗り替えてあったりします。

オーガナイザーが見繕ったのでしょうか。カエルのプランターまで。

そしてなんと。

「この寝室はチェルシーさんに住んでいただくイメージで改装を行いました」

つまり、これならお母さんのもとに帰ってこれるでしょう、というわけです。

「まあ、なんてゴージャスなの!」

これですっかり(いつのまにか?)一緒に住むという合意は成り立ったわけで・・

「一緒にいられなくて寂しかったわ」

とハグをしあう彼女らでした。

感激の涙を流すミリー。
めでたしめでたし・・・・・

といいたいところですが。

そのときトンプキン博士が最後に皆を外に呼び集めました。
ミリーに向かってこういいます。

「あなたの娘たちと妹さんが、あなたがため込んだものを始末することができるか、
疑いを持つようになった、とわたしが思った瞬間がありました」

「この石がその象徴だったんですよ」

「いいですか、これは”招待状”なのです。
あなたがこの石を手放すことで、この”旅”を
今後も続けても構わないと思っていることを

みんなに知らせることになるのです。
さあ、これを捨ててください!

「捨てて!」「捨ててよ」

ところが全く空気読まないミリーさん、この状況で言い放ちました。

「わたし、この石を取っておきたいの」

博士「・・・」
ジェシカ「・・・」
チェルシー「・・・」
妹「・・・」

「だいたい昨日されたことだってまだ怒ってるわ#」

 

・・だめだーこれあ。

トンプキン博士、呆然。
家族も呆然。スタッフももちろん呆然だったでしょう。

ビフォーアフターの映像をバックに、博士は語るのでした。

「せっかくいいエンディング用意してやったのに、
なんだあのBBA台無しにしやがって空気嫁」

・・・・じゃなくて、

「それはわたしにとって大きな失望でした。
ミリーが病気の深淵にいかに深く彷徨い込んでいるかがこの言葉ではっきりしたのです」

 

これだけのサプライズを用意されても、それは彼女の心を
1ミリー(ミリーさんだけに)たりとも変えることはできなかった、
つまり
彼女の「病気」はサプライズや心理学の領域ではもはや如何ともし難い
ということがわかってしまったというわけです。

博士はまだ17歳のチェルシーは(そうだったんだ;)
我々がきっかけを与えることで自分を解放し、いつでも元に戻れる場所を得たので、
ミリーが元の生活に固執しない限りは、娘である彼女も
普通の生活を送れる可能性があるだろう、と語りました。
彼女はそうなる価値のある人間だ、と。

まあここまでやったら、他人にはもう手の下しようもありません。
どうなっても
彼女ら自身でなんとかするしかないのです。

プロである博士にはおそらくこの後訪れる破綻も見えていると思われますが、
番組としては希望のありそうなことを述べて手を打つしかないですよね。

つまりこのきれいなキッチンが上の写真の状態に戻るのは・・・
そうだなあ、
よく保って2週間ってとこだとわたしは思います。

「ミリーはセラピストとオーガナイザーに今後の生活を
維持するためにセラピストとオーガナイザーのアフターケアを受けている」

しかし二人の後ろにいる博士(笑)と娘二人の表情が全てを物語っています。
彼らにはおそらく今後の破綻が手に取るように見えているのに違いありません。

 

終わり

 


テレビ番組 『HOARDERS 』片付けられない症候群の人々・ジョニの場合

2020-10-23 | アメリカ

アメリカに行くたびにチェックする番組があります。
とてつもなく太ってしまった人を医療で救済する「My 600lbs life」、
ジャングルに裸の男女が放置され2週間サバイバルする「Naked and afraid」、
そしてもう一つがこの「Hoarders」です。

Hoarders、というのは「貯め込む人」または「溜め込む人」という意味です。

この番組に出てくるのはモノを捨てられない、片付けられないが高じて、
家がいわゆる「ゴミ屋敷」になり、地域で問題視されたり、家族に見捨てられたりした人を、
テレビ局が救済という名前のお節介をしながら世間に暴露し、これを見た人が、
我が身を振り返って色々と考えたり考えなかったり、という・・・。

いうならば他人の恥を覗き見するというコンセプトに基づいた番組なのです。

今日は何度目かになりますが、この番組をご紹介します。

まず画面には

「強迫的ため込み行為は、たとえその対象物が無価値、危険、または不衛生であっても、
取得して保持するという強迫的な必要観念に駆られることを特徴とする精神障害です」

という説明が現れます。
はっきりと片付けられないのは症候群ではなく「精神障害」と言い切っているわけです。
続いて、

「アメリカではおよそ300万人の人々が脅迫的溜め込み障害であるといわれています。
今日ご紹介するのはそのうち二人のストーリーです」

 

この番組は毎回二人の「ホーダーズ」を交互に紹介していく、
という方法で番組が進行して行きますが、当ブログでは
煩雑さを避けるため一人ずつ項を分けたいと思います。

今日の「ホーダーズ」は、ジョニさん。
彼女はかつて学校の先生をしていました。

アメリカでは軍人でもそうですが、引退後の身分について、
「リタイアード(引退した)教師」「リタイアード・オフィサー」
という言い方で語ります。
今は無職であっても「無職」とは言いません。
これは現役時代のタイトルが生涯「リタイアド」として持ち越される、
という社会慣習によるものだと思われます。

溜め込み屋さんにもいろんなパターンがありますが、とにかくジョニさんは
洋服やジュエリー、雑誌、ありとあらゆるものが「大好き」で、
とにかく買い物をせずにはいられないというタイプです。

買っておいて一度も身につけていないものもたくさんありそうですが、
とにかく言えることはジャンクなものが多いですね。

財布を逼迫せず悩むこともなく買える「お手軽なもの」に手が出てしまうようです。

そして片付けられない。捨てられない。

一つ一つのものは不潔なものではなくても、こんな具合に床を埋め尽くし、
全体的にゴミとなって層を成していくというわけです。

車の中もこの通り。
もう少しでバックミラーから後ろが見えなくなりそうです。

彼女の孫のテレサさんに言わせると、とにかくジョニさんは買い物依存症。
二日と開けず店に通うのですが、例えばガム一箱が安くなるクーポンを持っていっても、
買ってくるのはマカロニアンドチーズ一箱だったりしてとにかく無計画で衝動的。


そして続いては、彼女の長男であるジョーイさんが証言を行います。

「もうとにかく1インチの隙間にも物が埋め尽くされて、歩ける部屋がないんだよ」

「とにかく完璧にFILTHY』(不潔極まりない)なんだ」

そうこうしているうちに、ジョニさんの家は立派な「汚屋敷」に。
「フィルシー」な匂いは外に流れ出し、近所の人たちが苦情を申し立てるようになり、
市が動き始めました。

最初に市が彼女に行ってきた注意勧告は、

「ファイア・ハザード(火災の危険)」

でした。
電気関係、ガス、それらからいつ火災が起きてもおかしくないというのです。

続いて、サルという男性が証言を行いました。
なんと驚くことにサルはジョニのボーイフレンドだというのです。

いやまあ、いいんですけどね。
汚部屋の住人である小汚い老女にボーイフレンドがいたって。

サルはいいます。

「とにかくそのとき彼女は家が散らかって大変だった。
かといって行くところもないので気の毒に思い、家に住まわせた」

するとたちまち服やジュエリーや雑誌をサルの家で広げ出し、
サルの家を汚屋敷に変えてしまいました。
呆れたサルは彼女に

「どうするつもりなんだ?」

と苛立って詰問したそうです。

「俺も物に押しつぶす気か」

サルも彼女を放り出すには忍びないのですが、このままでは
息もできなくなってしまうため、最後通帳を手渡しました。

つまり、ジョニが家を掃除して、自分のうちに荷物を送り返さないなら
もうこの家から出ていってもらうと。

そうなれば彼女はホームレスになるかもしれません。

ボーイフレンドなら放り出せば済みますが、息子は彼女と縁を切るわけにはいきません。
どんな問題があっても彼女はとにかく母親なのですから。

しかし、この写真を見てもわかるように、子供が小さい頃、
母親は子供を放置していたというわけではなさそうです。

若き日のジョニさん。
学校の先生だったということですが、まともすぎるくらいまともな人に見えます。

しかし息子はこのように証言しているのです。

「子供時代は食べ物に困ったこともないしいつもいい服を着ていた。
欲しいものはなんでも与えられた」

「ただし部屋はいつも散らかっていた」

「ため込み行為」にはトリガーと呼ばれるきっかけがあるといいます。
それはジョニさんにとって早い時期に母親を亡くしたことだというのですが、
それが悪化したのは夫と離婚したことでした。

離婚で夫を失ったことで散らかしたいという気持ちを我慢できなくなった、
彼女は自分で分析するのですが・・。

しかし、この女性が老人になるとああなるのか。
老いとは残酷なものですね。

周りに誰かいたときにはまだ制御できていた彼女の性癖は、
彼女の家族が彼女に業を煮やして離れて行き、一人になることで
とめどなくなっていったのです。

悪影響は子供達にも及びました。
こんな母親ではそうなっても全く驚きませんが、成人した次男のジョーイは
結婚して子供もいたのに麻薬中毒となり、娘の親権を母方の祖母に渡すことになります。

こうやって不幸が再生産されて行くわけですね。


番組では彼らの救済のために何人かの「プロ」を用意しています。
このマット・パクストン氏はプロの「汚部屋片付け人」です。
何をもってそう決まっているのかはわかりませんが、彼のタイトルは

「アメリカでトップのホーディング・クリンアップエキスパート」

彼はこれまで10年の汚部屋掃除経験上、300匹の猫や、
8フィート幅のネズミの巣など、ありとあらゆる「汚いもの」を見てきました。

彼は豊富な経験を利用して、ため込みに苦しんでいる人に対し、
思いやりに焦点を当てた清掃を提供するプログラムを開発し、
日々汚部屋の人々を救済しています。

エキスパートなりのメソッドを彼は持っているようで、まずは
対象者の家を虚心坦懐に(知らんけど)見て、彼女の生活が
どのようなものかをチェックすることから始めました。

どういう意味があるのかはわかりませんが、今住んでいない彼女の家に
夜訪れて中を点検しています。

「ここは玄関です・・・こちらはリビングルーム」

画面ではわかりませんが、臭いもかなりのようです。

そしてついに、マットの率いる「片付け隊」が出動するときになりました。
いすゞのトラックにデカデカと書かれた
GOT-JUNKはそのまま電話番号となっています。

ところが一時が万事というのか、立ち会う約束をしていたもう一人の兄弟、
そして肝心のジョニ本人が時間通りに現場に来ないわけですわ。
現場からせいぜい30分のところに住んでいるにもかかわらず、です。

そうなると勝手に掃除を始めるわけにいかないのですが、
このジョーイというおっさんは

「ちゃんと立ち会いがそろわないと作業が始められない」

という言葉に食ってかかるのでした。

そうこうしているうちにジョニがやってきたので、これ以上
もう一人の兄弟とやらを待っているわけにもいかないね、
ということになったのですが、このおっさんが絡む絡む。

「何がしたいんだ?」

「作業を始めたいだけですよ」

「オーケー、じゃこのゴミはお前のだ、さあやってくれ」

なんか人間として言葉が通じないって感じ。
ネズミの巣や300匹の猫より、マットにとって常に厄介なのは
こういうややこしい人だったのだろうなと思わされます。

ため込みの当事者はもちろんのこと、下手するとその周りにいる人が、
とんでもない”DQN”である可能性は確率から言っても高いわけで・・。

この息子はやたら苛立っていて、母と片付けるモノを巡ってやおら口論を始めます。

「服なんかも全部処分するぜ」

「ちょっとー、それはお父さんよ」

「これが?これが?」

ハート型のクッションですが、これが別れたご主人だと・・・?
わけがわかりません。

しかしこんなおっさんにも少年の頃がありました。(そらそうだ)

母親がこんななので、長男である彼は「家族の長」を任じてきたようです。
しかもそれは彼がまだ幼い頃からで、母親はそんな彼に頼る風でもありました。

しかしこういう場になって、母親の自堕落の蓄積を赤の他人に委ねるという
状態は、おそらく彼を酷く苛立たせているのでしょう。

物を捨てる捨てないで、母と息子の間には険悪なやりとりが交わされます。

「だから、お前がなにか取っておきたいと思うんじゃないかと思って」

「なんのために?お母さんみたいに生きるためにか?」

そのうち、彼は到着しない弟、フランキーの悪口を言い出しました。

「あいつは使えない(No use)やつだ。価値もない(worthless)」

そんなとき、ようやくフランキーとやらがやってきました。
本人の了解が取れなかったのか、フランキーの映像はなしのまま、
二人は喧嘩を始め、その音声が画面の字幕に流れます。

するとそのとき・・・・

 

「突然口論を遮るように騒ぎが通りを横切った」(直訳)

 

なんと、彼らの母親がタイミングよく転倒していたのです(笑)

いや、笑っちゃいけないか。

長年の片付け生活でいろんなものごとを見てきたマットも困惑。
息子二人が大声で喧嘩しているとき、母親が転倒して負傷とは。

マットが長年の経験から推測するに、彼女は何か棒のようなものに躓いて転び、
頭部を地面で強打したものだろうということです。

というか長年の経験がなくてもそれくらいわかる。

すぐに救急車が呼ばれました。
というかそれくらいの怪我をしたということだったんですね。

これってまさか身体を張って兄弟喧嘩を止めようとしたとか・・・はないよね。

 

非常事態なので、マットは彼女なしで掃除を進める許可を得ましたが、
そうなったらなったで、またしてもジョーイの怒りはマットに向けられることになりました。

マットのチームが捨てたもののなかから、ジョーイは
自分の大事な「珍しい花火コレクション」があった、と食ってかかりました。

もう見るからにうんざりしているマット(笑)

「叫ぶのやめてくれます?」

「あんたに何がわかる?
俺たちはゴミを今日一日で6,000パウンドも捨てられたんだ。
それでもってまだやいやい言いやがる」

「俺のコンピュータデスクだって捨てるはずじゃなかったのに。
あれには800ドル払ったんだぞ!」

もう完全に頭抱えてしまってますね。

あなたの攻撃性は我々の我慢できる範囲を超えてます」

「あんたは自分の従業員のことしか考えてないんだろう。
その(ぴー)な従業員共のな!」

流石のマットもこのオヤジにはうんざりして、この場を引き揚げることにしました。

「気の毒な女性が助けを求めているのに・・」

その女性の救済を彼女が産んだ息子が難んだということになります。
しかしそんな息子に育ててしまったのは当の彼女というわけで・・・。
こういうのもある意味自業自得というのでしょうか。

しかし捨てる神あれば拾う神もいます。

彼女の苦境を救うためにテレビ局は彼女がいるサルの家に
精神科の医師を向かわせ、彼女のこれからについて話し合うことになりました。

「まだ血がでてるんですよ」

おそらく彼女が包帯をすることをテレビ局は許さなかったのでしょう(闇深)

 

精神科医は、こう言ってはなんですが、精神科医でなくても
十分想像のつく結論をしたり顔で述べるのでした。

「彼女が自分の人生そのものに平和を得ることができなければ、
彼女は自分自身を和らげるために溜め込み行為に逃げ続けるでしょう」

精神科医は、根気よく話し合いを行い、彼女はサルの家に住み続けながら
自分の住居の掃除を継続するということに(一応)納得しました。

「家族はまだジョニの家が救われることができると思っており、
彼女がいつか戻るかもしれないという希望を持ちながら片付けを続ける」

と番組のテロップはいうのですが。

あの息子二人、やる気のない弟にやたら攻撃的で麻薬中毒上がりで、
自分自身も「ホーディング」の素質たっぷりの兄、そして
無気力で愚かなこの女性が、この一件後、人が違ったようになって
片付けが進む=ものごとが好転するとはわたしにはとても思えません。

テレビに依頼すれば誰かが何かしてくれるかもしれない、
という胸算用から動き出したに過ぎない彼らが(カメラの前ですら
あのざまだったのですから)撮影が終わり、誰も見ていないところで

誰も世話を焼いてくれなくなったとき、それでもこの困難な仕事を続けるでしょうか。

 

彼らがそれができる人々であれば、そもそもここまでになっていない、
とわたしは誰でも思い至るであろう一つの現実に突き当たります。

 

続く。

 


ホーンとアレックスまたは人犬一体な野郎ども〜兵士と水兵たちの記念博物館

2020-10-21 | 博物館・資料館・テーマパーク

ピッツバーグの「ソルジャーズ&セイラーズ・メモリアル&ミュージアム」は、
今ではピッツバーグ大学の施設の一つになっています。

どう考えても教育施設ではないので、もしかしたら目当ては、ここの
地下の駐車場をいざとなれば確保するためか、と疑っています。

というのは、ピッツ大ほど古いと、たとえば卒業式などで大量に人が集まるとき、
車を止める場所が学内だけでは足りなくなるんですよね。

たかが駐車場のためにそこまでするか?という説もありますが、
この大学、規模が大きく、その分金持ちなので、全く不思議ではありません。

ちなみにピッツ大は全米でもトップに数えられる医学部を持つ名門校ですが、
その優秀な医学部の大学病院は、市中と郊外に、診療科目単体だけで
少なくとも慶応や北里などよりはるかに大きなビルディングを持っています。

病院全体でいうと89,000人の従業員、8,000を超えるベッドを備えた40の病院、
外来施設や医師のオフィスを含む700の臨床施設、370万人の医療保険部門と、
もはや大学を離れた巨大医療企業となっているわけです。

 

大学関連の施設の多さもたいへんなもので、ダウンタウンを走っていると
目抜き通りに面して日本のコンビニの5倍くらいの床面積のスクールショップ
(大学名のロゴが入った衣料品などを売っている店)がいくつもあったり、
独立した学生用のドーム(ドミトリーから来た寮の呼び方)があったりします。

驚いたのは、わたしがこの夏の滞在のために予約していたキッチン付きホテルが、
短期間の間に
ピッツバーグ大学に借り上げられて学生寮になっていたことでした。

冬に滞在したのと同じホテルを予約してすぐ、ホテルから「事情があって泊まれなくなりました」
とキャンセルを命じてきたので、急いで他の同系列ホテルを取り、

「隣が養老院なのでコロナのせいで行政指導があって予約をやめたのに違いない」

などと考えて納得していたのですが、真実は斜め上でした。

たまたまこのホテルの前を通ったら、なんとホテルの看板の代わりに
ピッツバーグ大学の学生寮の真新しい看板が立っていたのです。

わたしが予約した後、大学はホテルと契約し、借り上げてしまったのです。
おそるべしピッツ大。

アメリカ滞在中にローカルニュースで、ホテルの部屋に住んでいる
ピッツ大の学生がインタビューに応じていて、

「快適です。なんたってテレビがあるし」

などと言っているのを見て納得しました。
コロナ対策でドームの部屋を一人一部屋にした結果、今までの
2倍以上の部屋が必要になったというわけです。

 

 

閑話休題、そのピッツ大の所有となっているところのSSMMの展示、
開館のきっかけとなった南北戦争の資料をご紹介します。

一つのケースに、ジェームス・マクフィーター大尉という
ピッツバーグ出身の士官の軍服と「ポークパイスタイル」の帽子が展示してあります。

戦闘の時に裾に銃弾が通過した痕があるのだそうですが、
写真では残念ながらそれを確認することはできません。

それより、わたしがまたもや目を止めたのはこのガラスケースの隅っこに、
ポークパイ・スタイルの帽子をかぶった犬のぬいぐるみが
またもや登場したことです。

南北戦争展示の最後に、このようなコーナーが現れました。
犬を中心とした「軍隊と動物」関係の資料です。

と思ったらここにもいた!

タグが見えるように展示されていたことで、この犬がやはり南北戦争時代の
ペンシルバニア連隊のマスコット犬「ドッグ・ジャック」であることがわかりました。

彼の「戦歴」はこのように記されています。

ペンシルバニア第102連隊所属

「ヨークタウン包囲」「ウィリアムスバーグの戦い」

「フェアオークスの戦い」「ピケットの戦い」

「マルバーンヒルの戦い」(負傷)

「第一次・第二次フェレデリクスバーグの戦い」

「セーラムチャーチの戦い」
(捕虜になり、その後南軍との捕虜交換協定により原隊に復帰)

当SSMMではドッグ・ジャックをマスコットにして、このような
ぬいぐるみを販売していたようです。

ジャックありきでこの軍用動物シリーズコーナーができたのかもしれません。

 

古今東西、軍隊という組織にはマスコットがつきものでした。
アメリカの兵士達にとってこれらの友人たちは、
階級社会の中で無償の愛情の対象である特別な存在です。

南北戦争時代、ピッツバーグの兵士たちには第102連隊の
最も有名なマスコット、ブルテリアの「ジャック」がいましたし、
またペンシルバニア第11連隊の「サリー・アン・ジャレット」という犬は
ゲッティスバーグで戦死後、ブロンズ像となって永遠にその名をとどめています。

The Story of Sallie the Dog at Gettysburg

子犬の時から連隊育ちだった彼女は、ゲティスバーグの戦闘で最前線で

「猛烈に敵に吠え」

て戦いました(涙)

部隊で数年間、常に前線にあって負傷しながらも生き残った彼女は
終戦の3ヶ月前、ハッチャーランの戦いについに斃れました。

戦死する前の晩、彼女は不吉を訴えるように鳴き続け、それで
何人もの兵士が眠りから起こされたといいます。
彼女が頭部に弾丸を受けて即死したのは次の朝のことです。

激しい砲火で立ち止まっては危険な戦場にもかかわらず、
数人の兵士たちは彼女の遺体を倒れた場所に埋葬し、目標を置きました。

また、猛禽類をペットにしていた連隊もあります。
ウィスコンシン第8志願連隊では、「オールド・エイブ」(Abe、アベじゃないよ)
というリンカーンリスペクトな名前のハクトウワシをペットにしていました。

エイブは敵に羽を広げて威嚇することで戦闘に参加していたそうです。

その後、アメリカ陸軍に第101空挺隊が誕生した時、
エイブは連隊のマスコットとしてそのイメージが継承されました。

The Story of エイブ先輩。剥製か?

エイブをあしらった第101空挺隊のインシニアが真ん中に見えます。

101st Air Assault 現在の101空挺隊のマーク

南北戦争の間、兵士たちはそれこそいろんな動物を隊のマスコットにしていました。
記録に残っているのは、犬猫鳥以外に猿、ヤギ、レパード、ラバなどです。

猿、犬、ウサギ、鳥?を一人で抱き抱える軍艦の水兵。

 

上に書かれた英語はひとつのことわざで、

「ガチョウにとっていいことはガンダー(雄の鵞鳥)にとっても良い」

  1. 雌のガチョウにとって良いことは、雄のガチョウにとっても同様に良いことだ=
    女性にとって良いことは、男性にとっても同じように良いはずだ
  2. ある人にとって何かが良い場合、それは他の人にとっても同じくらい良いはずだ

という意味があるそうです。なるほど。
まだどうでもいい知識を得てしまった・・・。

 

とにかく、そこに兵士がいる限り、必ず動物のマスコットが存在していました。

そして、それに合わせて?彼らの姿を部隊章に表しました。

Treat Em Rough de Young | 48 hills

たとえばこの尻尾を膨らませ、爪を立てて戦闘態勢の黒猫は、
第一次世界大戦の戦車部隊の

Treat'em Rough(奴らを乱暴に扱え=やっちまえ)

という募集ポスターから生まれました。

第一次世界大戦の時に生まれたアフリカ系ばかりからなる
第92部隊、通称「バッファロー小隊」のマークです。
彼らを最初に「バッファロー」と呼んだのは、彼らが最初編成され
戦った相手のネイティブアメリカンの兵士たちでした。

彼らの髪や肌の色がバッファローを想起させたからということです。

上は1918年、ボルシェビキ革命の後連合軍の一部としてロシアに派遣された
中西部の部隊が使用していた肩パッチで、シロクマのつもりです。

下は走るグレイハウンドを象った第一次世界大戦時の郵便部隊のマーク。

冒頭写真は軍用犬のトレーニングを行う専門の部隊の兵士と犬ですが、
彼と同じ制服がここに展示してあります。
犬の使っていたハーネスやメガネ(毒ガス用?)もマネキンに装着して。

まずこの犬のマネキンが装着している装具の説明をしておきますと、
これらはすべて現在のアメリカ陸軍に所属する軍用犬仕様となります。

換気用ベントが付いた犬専用空冷ベスト

「マット・マフ」(Mutt Muffs)、繊細な犬用イヤーマフ
Muttは犬という意味がある

「ドッグルス」(Doggles) 砂漠地帯での勤務で砂埃から目を守る

「マットルクス」(Muttluks) 肉球保護パット
地面に鋭利なものが落ちているような場所で装着

42nd Dog Scout Dog Platoon One

冒頭写真でケネス・ホーンが着ていた第42斥候犬小隊1の制服です。

ホーンは第二次世界大戦後、占領後のドイツに駐留している時
第42斥候犬小隊(ISDP)に所属して、その間ジャーマンシェパードの
「アレックス」と行動を共にしていました。

連日彼らは訓練と任務を行い、人犬一体の軍隊生活を送ったそうです。

アレックスとケネス

1949年、第42 ISDPは、待ち伏せ、ブービートラップ、その他の
危険な状況を早期に警告する手段として発足しました。

ホーンとアレックスはチームを組んでドイツ国内のアメリカ軍基地を巡回し、
他の斥候犬のためにデモンストレーションを行いました。

もはや夫婦です

軍用犬訓練の基本。

「根気強く同じ命令を繰り返すこと」

「ちゃんとできたら必ず褒めてやること」

「命令を無視したり任務に失敗するのは許されません」

「根気強く行わなくては皆無駄になります」

正装した第42ISDPの人犬一体な野郎ども。

人犬一体な野郎ども部隊全体。
最後列の右から2番目の犬、さりげなくサボってんじゃねー(笑)

 

ここに軍用犬の役割が箇条書きされていました。

「戦闘」

「兵站司令」(Logistics and Command)

「医療救護」

「追跡と捜索」

「斥候」

「見張り」

「法の執行」(Low Enforcement)

「薬物&爆発物捜索」

「威嚇」

「兵站司令」と「法の執行」がよく分からないのですが、最後の
「威嚇」はわかります。
アフガンで囚人にやっていたあれですね。

アメリカ軍では遡れば独立戦争から軍用犬を採用していました。
最初は文字通り「ペット」感覚だったのが、第一次世界大戦では
塹壕でネズミを退治させるなどという「任務」を課すようになります。

第二次世界大戦は多くの犬が軍事行動のサポートを行うようになりました。
アメリカ軍では1万頭が斥候、見張り、伝令、地雷の探索に動員されました。

現在アメリカ軍では全部で200匹の犬がイラクとアフガンに
パトロールと薬物検査を行うために派遣されており、軍全体では
その10倍以上の犬が同様の任務を世界中で行なっています。

911以降、空軍でも検査犬の数を増やし、主に爆博物の探知のために
特別な訓練を行う部隊を創設して対処しています。

 

さて、人犬一体の熱々カップルだったホーンとアレックスが別れる日がやってきました。

楯と首輪、そして櫛だけが、ケネス・ホーンが除隊するときに持って帰ることができた
アレックスの思い出の品でした。

あまり知られていませんが、ノルマンディ上陸作戦にも犬は参加していました。

ボートが近くまで岸に待機して、ちかづいて来る兵士皆にむかって
励ますように吠え、数フィート、彼と一緒に歩いてくれます。

そしてこの場に自分が必要とされていないと感じると、
空のボートまで駆け戻り、そこで自分を必要とする人々をまつのでした。

イラクの自由作戦

空挺犬



戦場に犬がいなかった時代はありません。

ちなみに上の左から2番目の犬は、亡くなった主人(水兵)を悼んでいます。
後ろにあるゴールドスターのバナーは、この家の出征した兵士が
戦死したということを表しているのです。

右上、防空眼鏡にレインコートのシェパード。
ちゃんと尻尾の形にあわせてコートが仕立てられているのが笑う。

ポケット犬

最後に、認識表のことは一般的に「ドッグタグ」と言われてきましたよね。

ドッグついでに説明しておくと、「ドッグタグ」とは1906年、
陸軍が各兵士に個別の金属識別デスクを発行し、それ以来米軍の装備の一部になりました。
それ以前は、兵士には軍の身元を特定する手段がほとんどなかったのです。

この時発行されたメタルの認識票はドッグライセンス・タグを連想させ、
兵士たちはすぐにニックネームとしてこれを「ドッグ・タグ」と呼ぶようになりました。

しかし現在では発祥地のアメリカでも「ドッグ・タグ」という言葉は使われなくなっています。

 

続く。

 


失われた棺のミステリーと戦争未亡人の悲劇〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2020-10-19 | 歴史

ソルジャーズ&セイラーズ記念博物館の南北戦争関係展示続きです。

冒頭写真の星条旗はおそらくここSSMMが開館した際、
展示のために寄贈されたもので、1861年から1865年までの間
ボルチモアの連隊に掲げられていた本物だということです。

マスケット銃というとイコール南北戦争というイメージですが、
ここには当時使われていたライフルが見本帳のように並んでいます。
上から

1816年モデル スプリングフィールド・マスケット

1842年モデル フランス製マスケット

ベルギー製 69インチマスケット

1863製 スプリングフィールド・マスケット

1832年製 スプリングフィールド・マスケット

1819年モデル フリントロックライフル

1819年モデル Breechloading(後装式)ライフル

1863年モデル  シャープス新後装式ライフル

シカゴの州都であるスプリングフィールドには兵器工廠がありました。

ここには、第102ペンシルベニア志願歩兵連隊の

ジョン・ウィリアムス・パターソン大佐
(John Williams Patterson)

の遺品が展示されています。

戦死した大佐の写真の横には聖書とその横にはさらに
写真で大佐が持っている剣が展示してあるとされます。

しかし、日本人についても言えることですが、
昔の人って今の同年齢より老けてませんか?
パターソン大佐は戦死した時29歳で、写真はそれ以前に撮られているので
確実に20代のはずですが、髭せいなのかとてもそう見えません。

コーナーにはなぜか彼の未亡人の写真まであります。
その理由はパターソン大佐の戦場での負傷ががもたらしたとして

「戦場と銃後の悲劇」

というタイトルでパターソン家の悲劇を紹介しているからです。
それによると、パターソンと妻のアルミラはピッツバーグのサウスサイドに位置する
バーミンガムという地域に住んでいました。

パターソン大佐は1862年5月31日の「フェアオークスの戦い」で胸に銃弾を受け
肺を損傷して重傷を負いました。
翌年1863年の5月、彼と94名の部下はセーラム・チャーチで捕虜になったのですが、
このときあのマスコット犬の

ドッグ・ジャック(Dog Jack)

もついでに一緒に捕虜になっています。
彼らは南軍の兵士と交換というバーターによって1ヶ月後に解放されました。
ジャックも「交換対象」として北軍に帰されています。
おそらく同人数同士の捕虜交換だったと思うのですが、ジャック一匹に対し
北軍は南軍の兵士一人を返還したのかどうかが気になります(笑)

 

さて、捕虜から戻ることができたパターソン大佐ですが、ちょうどこれから1年後、
1864年の5月に、「ウィルダネス(荒野)の戦い」で戦死しました。

パターソンが29歳という若さで戦死して同じ歳の彼の妻アルミラは
三人の子供を抱えて未亡人となってしまいました。

そこで子供たちは当時の習慣に従ってピッツバーグのorphan court
(孤児院)の監視下に置かれることになります。

ちなみにこのオーファンコートというのはペンシルバニア州では
現在でも機能している法設備で、正確には

ペンシルバニア州アレゲニー群第5法管区

に所属し、未成年者の保護者の制定、委任状、親の権利と養子縁組、
民事上の義務、結婚許可証、非営利団体と法人、そして
相続と地所税の問題などを取り扱っています。

働き手をうしなったパターソン家のために、当時の孤児法廷は、
彼女の家と財産類を売却しています。

「孤児法廷セール・不動産売却」のお知らせチラシが残されていました。

アルミラ・パターソンの名前で、

「アレゲニー郡孤児法廷の命令に従ってわたしは公売を行います

3月2日土曜日午前10時より、ピッツバーグ市裁判所
故ジョン・W・パターソン大佐所有の不動産」

以下、正確な住宅の所在地が記されています。

ちょっと驚いてしまうのですが、当時は夫の所有である不動産は
妻に所有権がなかったということなんでしょうか。

まるでこれでは行政が戦争未亡人から不動産を取り上げたようですが、
つまりこれは、夫を失った妻には収入を得る当てがない、ということを
前提にして、不動産を売った金を寡婦年金として彼女に渡し、
彼女の住居は同種の未亡人を収容するための公的住居である
「ウィドウズ・マンション」に定められたということのようです。

それにしても母親が生きているのに子供を孤児院に入れるなんて
どういうつもりの福祉だったのかと暗然としてしまいますよね。

というわけで、アルミラ・パターソンは29歳という若さで「未亡人の家」に入り、
1908年に73歳で亡くなるまでずっとそこで暮らしました。

夫彼女自身12歳で孤児の身の上だったというアルミラは、夫を亡くしただけでなく
夫の死の数ヶ月後には彼女の三人の子供のうち末の娘を猩紅熱で亡くしています。

家を売りに出したときにはすでに彼女は娘を失い、孤児院に入ったのは
上の二人の男の子だけだったということになります。

この頃のアメリカは、兵士の銃後についてほとんど関心を払わず、
行政も今の感覚で見ればですが、理不尽な対応しかしていなかったことがわかります。

 

大佐は生前、軍人らしく自分の身にもしものことがあったときのために
このような遺書をしたためていました。

もし私の身に何かあって戦闘で倒れることがあれば、
最後に任務を完全に遂行するための力を与えてください。

もし私が死ななければならないときには、私はキリスト教徒として、
そして愛国者として相応しい死になることを望みます。
そしてその死によって私の妻、子供たち、そして友人たちが
何一つ悔やむようなことがないように。
そのとき私の名はその任務を気高く立派に果たしたものの一人として
後世に評価されますように。

ジョン・ W・パターソン

自分が国のために忠誠を尽くして戦い、「愛国者として」死んでも、
その国は自分の死後、遺族に相応しい待遇を用意していないと知ったら、
誰が好き好んで軍隊に身を投じようと思うでしょうか。

家族がこんな目に遭うならむしろ死んでもしにきれないと思わないでしょうか。

アメリカは現在軍人とその家族に対して非常に手厚い国になっていますが、
一朝一夕にこのような制度になったのではなく、戦争が起こり、
それに伴う社会問題に対して世論がそれを修正していくことで、
段階を経て今の形にたどり着いたのかもしれないとこの例を見て思わされます。

死んでも死にきれないといえば、南北戦争時代、こんな話がありました。
パターソン大佐の展示と同じケースに地面から引き抜いた跡のある墓石があります。

154 E.Z.HAIL

この墓石にはこんな笑えない「ミステリー」がまつわっているのです。

ユージーン・ゼブロン・ホール(Eugene Zebulon Hall

はミシガンのデクスターの出身で、ミシガン第20歩兵連隊に志願入隊しましたが、
1864年の6月18日、ピッツバーグで戦闘の末負傷し、4日後亡くなりました。

ホールの家族は彼の遺体をミシガンの故郷まで汽車で送り返してもらうために
費用を支払ったのですが、どうやら遺体の防腐処理がきちんと行われなかったらしく、
折からの猛烈な夏もあって、棺から恐ろしい匂いが漂いだし、
気分が悪くなる客が現れるなど、車内が騒然としました。

ホールの棺はピッツバーグの駅ですぐさま降ろされ、市内随一の大きな墓地であり
今でもそこにあって南北戦争の勇士が何人も眠っているアレゲニー墓地に運ばれ、
可及的速やかに有無を言わせず(って本人は死んでますが)埋葬されてしまったのです。

おまけにその際彼のラストネームは「HAIL」間違って刻まれました。

彼の遺体がいつまでも到着しないので、駅で彼の遺族は
なにかあったのかと心配しながら待ち続けたのですが、

当時のこととて連絡もいい加減だったのか、結局遺体は到着しないまま
時間は経過し、おそらくホールを知る親族は全て亡くなりました。

この「ミステリー」が解決したのはなんとそれから130年後の
1994年のことになります。

ホールの遺体の行方に興味を持った彼の子孫が、きっと棺は
ピッツバーグから何かの手違いで汽車に乗ることがなかったに違いないと推測し、
ピッツバーグの関係者を通じて、当記念館SSMMに記録を依頼したところ、

・・・・ビンゴ!


アレゲニー墓地の埋葬記録には確かに

「E.Z.HALL」

という名前が残されていることが判明したのです。
間違っていたのが墓石の名前だけだったのが幸いしました。

そこでホールの子孫は正しく名前の刻まれた墓石をあつらえ、
間違いで130年間ホールの墓の上に立っていたのを引き抜いて、
お世話になったSSMMにお礼かたがた(かどうかは知りませんが)寄贈したというわけです。

こちら、不幸にも異郷で戦死し、故郷に帰ることもできず、130年の間
間違った名前の墓石の下で眠っていたユージーン・ホールさん。

こんな無念な死後、死んでも死にきれない魂が、アレゲニー墓地を
毎夜彷徨っていたとしても全く不思議なことではないような気がしますが、
執着しない人だったのか、それとも彷徨っていたけれど誰にも気づかれなかったのか。

 

いずれにしても130年後に子孫が探し出してくれたので
彼はようやく安らかに眠りにつくことができたに違いありません。

写真の下に手書きの文字が見えますが、これはホールが
故郷の人々に当てた手紙です。
彼の遺体を探し当てた「好奇心旺盛な」(そう書いてあった)子孫は
この手紙を読んで彼のことを知ったということなのでしょう。

 

その内容が抜粋されているので書き出しておきます。
これは当時の奴隷制度のひどさを生々しく物語る資料とも

なっています。

「彼らは皆奴隷を残酷に扱うことを当たり前と思っているようで、
別の日、僕は黒人女性が地面を耕すのに雄牛のツノに縄で縛り付けられて
雄牛と一緒に鋤を引かされているのを目撃しました。

また、黒人の女の子の首に鎖をつけ、大きな木までくくりつけて
とうもろこし用のクワを引かせるのを10回から15回くらいは見たことがあり、
どうやらそれは何かの罰のようでした。

とにかく白人というのはこういうことを何も知りません」

「僕は不幸なことに兵士が持っている唯一の慰めともいえる
ナップサックを紛失してしまいました。
手紙や日記、4月以来の写真、ウールの毛布一枚、防水用の
ゴム引き毛布1枚、シャツ2枚、ソックス2足などが入っていたのに。

思うに多分グリーンビルからノックスビルに移動する車の中で失くしたのでしょう。
僕たちは屋根無しの木の車で移動したのですが、僕はそれを
枕にして寝たりしていて、30マイル移動しているうちに
車から滑り落ちてしまったものと思われます」

記述は短い文章の中にいくつもスペルの間違いがあり、日本語で
「ママ」と書くところの英語の「sic」がこれだけの短い文章に五箇所あります。

それでも当時は字をかけるだけまともな教育を受けたということになります。

実物を見てもこれがなんなのか全くわからなかったのですが、
説明によると、これは第102ペンシルバニア連隊の旗だそうです。

戦闘に入る前に、この旗は石に包まれ、敵に奪われないように
ラッパハノック川に沈められました。(不思議なことをしますね)

その後3年経って旗は浮き上がってきたので、当時の連隊長、
ジェームズ・パッチェル大佐は旗をソルジャーズ&セイラーズに寄贈しました。

3年間水に浸かっていたのでこのような状態になったというわけです。

The Grand Army of the Republic、GAR

は、「南北戦争従軍軍人会」は、南北戦争に参加したユニオン軍の
陸海軍、海兵隊と歳入カッターサービス(のちの沿岸警備隊)のヴェテランの会です。

南北戦争従事者が生きている間は存続していましたが、1956年、
最後のヴェテランであるアルバート・ウールソン Albert Woolson

Albert Woolson (ca. 1953).jpg

が106歳で亡くなった瞬間消滅しました。

彼は重歩兵部隊のドラマーだったということでGARの上層部になりましたが、
実際に軍隊で活動していた時期はごくわずか、誰も彼を覚えていないそうです。

しかし、ほとんどのアメリカ人は、

「そんなことは彼がヴェテランであることに何の関係もない」

として、彼が死んだ時にはアイゼンハワーが声明を出したりしています。

こちらは南北戦争における最後のピッツバーガー、
Joseph CaldwellがGARの催しに参加したときのもの。

カールドウェルは南北戦争ではペンシルバニア砲兵連隊に所属し、
1946年、98歳で亡くなりました。

退役軍人の会はアレゲニー墓地を行進したり(右)
リユニオン(同窓会)などの活動を行なっていました。
左のブルーリボンはメキシコ戦争のヴェテランのものです。

退役軍人会であるGARの「司令官」に就任したのは、

ウィリアム・クローゼン博士 Dr. William B. Krosen

志願歩兵で終戦時には中尉まで昇進した人物ですが、元々医学生で
戦後医師となり、下院議員でもあったという経歴でこの役職となったようです。

GARのケースに展示されていた水筒を、わたしはこの字を見るまで
太鼓だと思っていました。(それくらい大きい)

ペンシルバニア州アレゲニー郡の退役軍人会の名前が刻まれているので
実際に使用されたものではなく、軍人会の記念品として特注されたものでしょう。

「我々は同じ水筒から水を飲んだ」
”We drunk from the same canteen"

という文字が刻まれています。

 

続く。

 


陸軍スポーツマン大隊とスパッドXIIIのエースたち〜 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

2020-10-18 | 航空機

スミソニアン博物館では、第一次世界大戦に生まれた戦闘機の操縦士、
ことにその中でも技能に長けたエースを国家が英雄のように祀り挙げ、
それが国家のプロパガンダに利用されるようになった、

ということがその展示で明確に語られています。

この「スミソニアン史観」については、その客観性においてずいぶん
他の事象(たとえば原爆投下とか)とはスタンスを異にするように思いますが、

よく考えたら、第一次世界大戦とエースという存在の登場については
アメリカはほとんどそれに関与するような立場ではなかったので、
(つまりしょせんは他人事なので)このような解釈も出て来たのかなー、
と若干意地悪な目で見てしまったわたしです。

■ 陸軍スポーツマン大隊

さて、そのスミソニアン史観によると、戦闘機の搭乗員と違って、
地上の戦い、特に第一次世界大戦の塹壕戦での戦闘では、
「適切なヒーロー」が生まれにくかった、ということだったわけですが、
意外な方法でヒーローを「集めた」大隊がイギリス陸軍に存在しました。

戦場の英雄を称えるのではなく、別分野の英雄を戦争に送ってしまおうという考えです。

こちらは1915年のイギリスのポスターです。

スポーツマン大隊が

入隊を募る

ツェッペリン号を滅ぼしたいあなた

そして、ヴィクトリア勲章の欲しいあなた

彼についていこう

そして入隊しよう

スポーツマン戦隊に

中央の写真はロイヤルエアフォースのエースですが、
「エースをリクルートに利用する」というタクティクスを用いつつ、
彼が実はスポーツの世界で名を挙げた選手だった、ということを強調しています。

下に見えるゴブレットはドイツの航空隊において
戦闘に優れた業績を挙げたパイロットに贈られた賞らしいのですが、
出元というのははっきりしていないそうです。

それにしてもスポーツマン戦隊ってなんだ?

と思って検索してみたところ、
こんなわかりやすいポスターが出てきました。

The Sportsman's Gazette: Introduction

 

ボクシング、テニス、ゴルフ、ラグビー、クリケット、
ホッケーにビリヤード(スポーツなのか)ハンティングの人もいますね。

彼らは自分のスポーツ道具を足元に置いて背広に着替え、
軍服を着て銃剣を担ぎ行進していきます。
いまなら「軍歌の響きがー!」「青年たちのミライガー!」と非難されそうなポスターです。

スポーツマン大隊の徽章の中央にある

HONI SOIT QUI MAL Y PENSE

という文言は中世フランスの言葉で、イギリスでは
ガーター勲章のモットーとなっている

「それを悪だと考える人は誰でも恥ずかしい」

という意味で、通常「悪を考える人に対する恥」と訳されます。
当時でも、健全なスポーツマンを兵隊にすることについて
ネガティブな意見を持つ人が存在したという意味かな、
とわたしなど考えてしまいましたが、深読みしすぎでしょうか。

 

スポーツマン大隊は、第23大隊、第24大隊(第2スポーツマン大隊)
とも呼ばれ、第一次世界大戦の初期ごろ組
成されたイギリス陸軍の大隊です。

陸軍ではヒーローが現れにくいということから、おそらく陸軍上層部が
発想の転換によってひねり出したアイデアだと思われるのですが、
この特定の大隊は、その名前の通り、クリケット、ゴルフ、ボクシング、
サッカーなどのスポーツやメディアで名を馳せた男性の多くから構成されていました。

最初のスポーツマン大隊の結成式は、当時戦争省長官だった
ホレイショ・ハーバート・キッチナー卿の承認により、ロンドンに現在もある
セシルホテルで行われ、その後は1年半にわたりキャンプで訓練が行われました。

1915年11月にはブローニュに上陸し、その後西部戦線、ソンムの戦い
デルヴィル・ウッドでの戦闘
に参戦しています。
その中には数名の第一線のクリケット選手、ボクシングチャンピオン、
エクセターの元市長、そして作家も含まれていました。

SPORTSMAN BATTALION - RUGBY UNION FOOTBALLERS British WW1 ...

「ゲームをしている場合ではない」(ロバート卿)

ラグビー協会の選手たちは、彼らの義務を果たしている

90%以上が志願した

「昨年国際試合を行った英国に現存する全てのラグビー選手は
国旗のもとに集結している」1914年11月30日の記事より

英国のアスリートたちよ!
この栄光ある先達のあとに続かないか?

ラグビー選手をターゲットにしたリクルートポスターです。

■ スパッド XIIIのエースたち

SPAD XIII  スミスIV

FE8と並んでフロアに展示されているのがスパッドのスミスIVです。

スパッド XIIIは、伝説のフォッカーD.VIIやソッピースキャメルと並んで
第一次世界大戦で最も成功した速くて丈夫な戦闘機の一つでした。
本機は大戦中多数のエースを輩出しています。

前回ご紹介したジョルジュ・ギヌメールそしてルネ・フォンク(Fonck)

File:René Fonck en juin 1915.jpg - Wikimedia CommonsFonck

戦後は映画にも出演し、大西洋横断中に行方不明になった
シャルル・ナンジェッセ(Nungesser)

upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/...Nungesser

Coliというパイロットとともにその最後の飛行となる
大西洋横断に出発する直前の生きているナンジャッセの動画があります。

Nungesser and Coli attempt Atlantic crossing in 1927. Archive film 93571

眼帯をしているのがColiで、その前に出てくる若い人がナンジャッセでしょう。

フランス人の母、アメリカ人の父を持ち、アメリカ陸軍のために飛んだ
ラファイエット飛行隊ラオル・ラフベリー(Lufbery)

upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Ger...Lufbery

そしてアメリカのエースだったエディ・リッケンバッカー(Eddy Rickenbacker)

media.gettyimages.com/photos/captain-eddie-rick...

バリバリの現役時代の動画と、1956年にインタビューを受けるリッケンバッカーの姿。

1956 CAPTAIN EDDIE RICKENBACKER US WW1 ACE OF ACES SPEAKS

 

とにかく、この戦争で最も有名な「エア・ヒーロー」がスパッドXIIIに乗っていたのです。

スパッド航空機製造会社の設計責任者ルイス・ベシェローLouisBéchereauは、
19当時人気のあった空冷式ロータリーエンジンの設計限界を認識し、
はるかに優れた出力重量比、および多くの最新機能を備えている
イスパノ・スイザ・エンジンを搭載したスパッドVIIを設計し好評を博しました。

後継機のスパッドXIIIは、 VIIより革新的な改良バージョンであり、
大きな改良点は、2基の固定式の前方発射ヴィッカース機関銃と、
より強力な200馬力のイスパノ・スイザ・8Baエンジンです。

プロトタイプは1917年4月4日に初飛行し、翌月末までに生産機が前線に到着、
その堅牢な構造と高速での急降下能力、特に空戦においては
最高のドッグファイトが可能な戦闘機のひとつとなりました。

スパッド XIIIは1918年末までに、8,472機製造され、フランスの戦闘艦隊は、
終戦までにほぼ全てがこれを導入していました。

アメリカ遠征軍の一部であったユニットもこれを導入し、
リッケンバッカーやラフベリーのようなエースを産んだのです。

スパッドはまたイギリス、イタリア、ベルギー、ロシア軍にも使用されました。

しかし驚いたことに、それほど多数生産されていながら、現存する
スパッドXIIIは世界にたった4機だけで、NASMコレクションはその一つです。

ここに展示されている機体の「スミス IV」というのはニックネームで、
米陸軍航空サービスのレイモンド・ブルックス少佐の乗機でした。
命名の理由は、彼が代々愛機に「スミス」と名付けており、
この機体はその4番目だったからということです。

Arthur Raymond Brooks, A.E.F. file photo.jpgLt.Brooks

アーサー・レイモンド・ブルックス (1895-1991)の撃墜記録で
最も顕著な戦果の一つは、スパッドXIII
スミスIVを操縦して
ドイツ空軍のフォッカー(オランダ製)の飛行隊に単独で挑んだときのものです。

彼はヒストリーチャンネルの「ドッグファイト」で紹介されたパイロットの1人でした。

「 最初のドッグファイター 」と題されたエピソードは、
1918年9月14日、8機のドイツフォッカーD.VII航空機に対するブルックスの
ソロドッグファイトを描写しています。

この戦闘中、彼は僚機ハッシンガー中尉を失いながらも(ハッシンガーは、
行方不明になる前に2機フォッカーを撃墜した)
ブルックスは2機撃墜、
優れた降下技術を発揮して残った4機の敵機の攻撃から逃れることができました。

また、彼は、パイロットの位置とナビゲーション、および空対地通信に使用する
無線航法装置(NAVAID)の開発のパイオニアでもあります。

戦後は航空を旅客輸送事業として商業化するための初期の取り組みに参加し、
アメリカの航空郵便の輸送に関わった、最も初期の商業パイロットの1人でもありました。

ブルックス少佐のスパッドXIIIは、1918年8月に

「The Kellner et Ses Fils piano works」
(ケラーと彼の息子たちピアノ工房

によって制作されました。
なんでピアノ工房が戦闘機を作っているのか全くわかりませんが、
これについては何の説明もないので、大量生産の際、飛行機工場では
間に合わないのでピアノ工場も動員されたのかと思うしかありません。

まあ、当時の飛行機は木製部分が多かったので、ピアノ制作と
似通った技術でできてしまったということだったのでしょう。

我が国の日本楽器(現ヤマハ)河合楽器(現カワイ)なども
戦争中は軍需工場となり、日本楽器はプロペラ(陸軍機)、
河合楽器は航空機用の補助タンクなどを作っていましたしね。

ヤマハなどその流れで軍からの要請も多くなり、
昭和6年にはすでに金属プロペラを手掛けていました。
その流れで戦後は船作りーのバイク作りーの、
ついでにキッチン作りーの以下略、となったわけです。

ちなみに海軍のプロペラは住友金属が手掛けていました。

 

さて、その後、スパッドの機体は1918年9月に米陸軍航空第22航空飛行隊に割り当てられました。
航空機は、ブルックスが以前に墜落した同じタイプの別の航空機の代替品でした。
ブルックスはこの「スミスIV」で総撃墜数6機のうちの1機を撃墜しています。

戦後、アメリカ陸軍飛行隊が使用していたスパッド XIIIのうち二機が米国に送られ、
リバティ・ボンド(国債)奨励イベントの目玉展示として全米をツアーし、
その後、1919年12月にスミソニアン協会に移管されました。

スパッドXIIIは長年スミソニアンの倉庫で保存されていました。

その間、何のメインテナンスも行われず放置されていたせいで、
1980年代にはそ機体表面は腐ってボロボロになり、
いつの間にかタイヤがなくなっているという状態であったため、
飛行機は展示のためにあらためて修理に入りました。

1984年から2年間かけて完全に復元され、現在はこうして
博物館の第一次世界大戦の航空ギャラリーに公開されているというわけです。

 

つづく。


エースとナショナリズム 第一次世界大戦の航空戦〜スミソニアン航空博物館

2020-10-16 | 歴史

スミソニアン航空博物館の第一次世界大戦コーナーに、
ここで初めて実物大の飛行機の展示が登場しました。

The Royal Aircraft Factory FE8

英国の戦争省直轄の航空機研究施設である、

RAF(ロイヤルエアクラフトファクトリー、
のちにエスタブリッシュメント)


が第一次世界大戦時に設計した一人乗り戦闘機のレプリカです。
最初は偵察用でしたが、前方に機関銃を備えた戦闘機に仕様を変えています。

1915年10月時点で、F.E.8プロトタイプは最先端の設計でした。
王立飛行隊は操縦席からの広い視野が確保され、ルイス機銃を装備した
革新的なこのプッシャー式(推進式とも。プロペラやダクテッドファンが
機体後部に設置されている)戦闘機に多大な期待をかけていました。

しかし、ここで問題が。

当時のRAFにとってこの最新鋭の設計の製造は、明らかに
「Overcommitted」、つまり能力以上のことを引き受けるという
言葉そのままだったため、その結果、生産はかなり遅れることになりました。

1年後にようやく生産した飛行機が前線に到達したときには、すでに
その性能は新しい敵の航空機のほうが上回っているという状態。

というわけで、設計の段階で最先端だったF.E.8は戦線では時代遅れで、
しかもイージーキル、簡単に(パイロットを)殺すことができました。
それは「デス・トラップ」とすら(ここでは)呼ばれています。

って全然だめじゃん。

というわけで、ホームフロント(銃後)における生産の遅れが、
戦線でのパイロットの安全に直接影響するという好例?になってしまった、
とスミソニアンでは身も蓋もない評価ですが、それでも
全く活躍しなかったというわけではありません。

王立航空隊のエースの一人、フレデリック・パウエル(公認6機、
未確認9機)がこのFE8は2番目のFE8プロトタイプで、
1916年1月から3ヶ月の間に未確認含め6機撃墜しているのです。

このため彼はFE8の飛行隊長に就任もしています。

Captain Edwin Louis Benbow (1895-1918) - Find A Grave MemorialEdwin Benbow

また、FE8のエースといえば、

エドウィン・ルイス・ベンボウ大尉(1895−1918)

がいます。
彼はこの機体だけでアルバトロスを公式に5機以上撃墜して
FE8エースとなり、それだけでなく、あのレッド・バロンと
二回対決して、二回目に撃墜しているのです。

ベンボウ大尉の銃弾は相手のタンクを打ち抜きましたが、
リヒトホーヘンはこのとき不時着して命は無事でした。
これがベンボウ大尉の8機目の撃墜記録となっています。

しかし、翌年、彼はドイツ軍エースの
ハンス・エベルハルド・ガンデルドに撃墜されて死亡しました。
奇しくもベンボウ機はガンデルドの8機目の撃墜機でした。

蛇足ですが、あのヘルマン・ゲーリングも第一次世界大戦のエースで、
22機撃墜して「鉄人ヘルマン」とか呼ばれ、ブロマイドまであったとか。

中尉時代

そりゃこれだけ痩せてればねえ(´・ω・`)

 

航空搭乗員の飛行服

ところでいきなりですが、みなさん「トレンチコート」のトレンチって、
第一次世界大戦の時の塹壕のことってもちろんご存知ですよね。

トレンチコートは泥濘地での塹壕戦で耐候性を発揮したことからその名前となり、
一般的に用いられるようになってからも、軍服のデザインを色濃く残しています。

たとえば肩にボタン留めできるエポーレットは、もともと水筒や双眼鏡、
ランヤード(拳銃吊り紐)を吊ったり、ベルトをかけて留めることができ、
戦闘中に仲間が倒れてしまっら、ここを持って引っ張ると大変便利。
(引っ張ってもボタンが取れないようにできていたんですね)

デザインがハードで「正統派」なものほどこの名残が残っていて、
腰回りについているD鐶は、手榴弾を吊り下げるためのものでした。

襟はボタン留めした上で「チンストラップ」というベルトを
上からかけると寒風を防ぐことができますし、手首のストラップも同様です。

右胸に付けられた当て布、ストームフラップは、ボタン留めしたときに
雨だれの侵入を防ぎますが、もともとは銃を構えるときに銃床が当たる場所で、
ガンフラップとも呼ばれています。

軍服繋がりでなんとなくトレンチの話題から始めてみましたが、
ここはスミソニアンなので航空搭乗員の衣装についての展示です。

このコートの広告、言わずと知れたダンヒルのものですね。

初期の航空服は単にピッタリフィットするキャップとダスターコート、
そして手袋といったものでした。
しかし航空機の出番がふえていくにしたがって、防護を重視した
より機能的な服が必要とされるようになってきます。

1914年までにゴーグルと頭部を防護するヘルメットが登場しますが、
パイロットたちは自分たちで飛行服を工夫していました。

そういえば、映画「レッド・バロン」でも、「フライボーイズ」でも、
あの頃のパイロットは飛行機に乗る時に皆バラバラな格好だった気が。

リヒトホーヘンはボトルネックのセーターを着ていたし、
毛皮の襟のついたコートを着ていた人もいたし・・・。
飛行機に乗る時の決まった制服はなかったのね、とわたしなど
ファッションに目ざとい方なのでかなり昔から気付いていました。

そういうわけなので、何千人もの軍飛行士にいよいよ衣服を着せる必要が生じて
初めて、衣料品業界は飛行士用の衣服のデザインと製造を始めました。

この商機をなぜどこも早くから利用しなかったのか、という気もしますが、
飛行機というもの自体が世間とは乖離した存在だったため、
そこに特別の衣服が必要であるなどと誰しも思いつかなかったのでしょう。

そこで、ダンヒルの飛行服です。

WHERE FLYING MEN ARE FITTED OUT
「空飛ぶ男たちが装着する場所」

これは「それこそがダンヒルである」という意味のコピーライトです。

男前のパイロットが身につけているのは、基本トレンチコートのようです。
さすがは英国ブランド、飛行機でもトレンチコート。
襟のチンストラップをしっかりと留め、腰のベルトもしっかり閉めて、
襟を立て、毛皮をあしらった飛行帽を着用しています。

ズボンの上から編み上げ式のロングブーツを履き、
膝までをしっかり革で覆っていますが、これはいざという時
少しでも防護に役に立ったかもしれません。

なんというか、帽子以外は航空服としてふさわしいかどうか
はなはだ疑問ではありますが、当時はトレンチコートは気候の変化に対し
それだけ汎用性があるということになっていたんでしょう。

広告の文章も見てみましょう。

スペシャリスト

初期のモータリゼーションのシーンにおいて、最も厳しい条件下でも
防風性をもち全天候に対応してきたのが専用の衣装です。

Messrs DUNHILLSは航空任務に携わる将校の皆様のための
「ザ」・ハウスです。

私たちの航空衣装一揃えは、最高品質であることはもちろん、
耐久性においても高い評価をいただいており、
さらに、何点か組み合わせていただくことにより
大変お買い得なお値段でのご提供が可能でございます。

カタログには「フライングメンズ・キット」の詳細を掲載しておりますので、
ご希望の方はぜひお求めください。


おしゃれでこだわりのある将校は、やはりダンヒルで揃えたりしたんでしょうね。
我が帝国海軍の搭乗員も、お洒落さんは三越で搭乗員服とか
軍服をあつらえていた人がいたし、「ペチコート作戦」の少尉は
サックス・フィフスアベニューで特別に仕立てていたし、そうそう、
先日聞いた話では、海上自衛隊にもおられるそうですよ。
三越か何処かで制服を誂えておられるというお方が。

ダンヒルはこの広告にもあるように、元々はエルメスのような
馬具製造業から出発した企業でしたが、1902年、
「モートリティ」(motorities、MotoringとAuthoritiesを合わせた造語)
をキーワードに、自動車(オープンカー)に乗る人のための
ゴーグルやコート、レザー製品を販売するようになりました。

だいたい、ダンヒルというのはあまりにもいろんなものを売りすぎて、
何のメーカーだかよくわからないがとにかく高級ブランド、というイメージを
今でも持つ稀有な?企業ですが、このときもその流れで、
おしゃれな将校用スペシャル
セットを販売することになったのでしょう。

ただし、すぐに軍の航空隊が制服を採用するようになったので、
この分野におけるダンヒルの商品はそれ以上発展しなかったようです。

ドンマイ。

 

エースとナショナリズム

冒頭に採用したドイツの1917年発行ポスターです。
凛々しい航空搭乗員が航空機のコクピットに立っている絵に、

Und Ihr? (そしてあなたは?)

戦時公債を申し込みましょう

このコーナーには

「犠牲が問われる」

というタイトルが付けられています。

ゲーリングやリヒトホーヘンのブロマイドが売られていた、
という事実からもわかるように、飛行機乗りの浴びる脚光は華々しく、
テレビのない時代、知名度は絶大でした。

そして、第一次世界大戦に参加していた各国はすぐに気がつきます。

エースというスーパースターのネームバリューと、彼らを使えば、
広告塔としてリクルートに役立ち、大衆は熱狂して公債を買うなど、
戦争に喜んで協力するのだ、と。

創造された伝説

ドイツとフランスは、おそらく勇敢な英雄としてエースを喧伝することで
抜きんでいていましたが、他の国にもこの傾向はもちろんありました。

多くの場合、パイロット自身の口から語られて広まった彼らのイメージは
政府とマスコミによってより増幅され、推進されて伝播し、
長くて激しい戦争の最中に、英雄を求める国民の「渇き」を和らげました。

 

大衆紙の役割

フランスの新聞も、エースのヒロイックなイメージを創造するという
重要な役割を率先して担っていました。

そもそも「エース」というタイトルが生まれたのは1915年頃で、
オリジナルはパリの新聞がフランスのパイロット、
アドルフ・ペグー(Adolphe Pegoud)が4機目の撃墜をした後、

「I'as de notre aviation」(我らの航空エース)

として登録?したのがきっかけということです。

George guynemer”The Purest Symbol of the race"

そしてこのメロドラマチックな絵のように、宗教的な香りを漂わせつつ、
時には政治的なメッセージを混ぜながら、言葉よりもカラフルに、
視覚に訴えるメッセージで、彼らの気高い士気を喧伝するのが常でした。

なぜなら広報の対象は字が読めない者にも及んだからです。
カラフルなイラストは、確実に新聞記事よりも広範囲にその魅力を訴えました。

こういった安価で広まりやすいイメージは、長い歴史の中で
常に民意に影響を与えてきたということができます。

 

象徴的な英雄のプロモート

戦争の費用が嵩んでくると、政府も、彼らの宣伝プログラムを
大衆が戦争を支えてくれるようなものへとフォーカスしてきます。

しかし地上の戦争からは適切な英雄は滅多に現れないので、
国としては、大衆の戦意を高揚させるために戦闘機のパイロット、
そのなかでもエースを宣伝に使うのが手っ取り早かったのです。

上の絵はわかりにくいですが、当時大人気だった
フランスのエース、

ジョルジュ・ギヌメール 1894−1917
Georges Marie Ludovic Jules Guynemer,

を称えて描かれたものです。

File:Georges guynemer par lucien.jpg - Wikimedia Commons

エースという存在は、生きている間はもちろんですが、
その最後が悲劇的であればさらに世界に名を知られるようになります。

たとえば上記の絵は、フランスでおそらく最も有名なパイロット、
ギヌメールが戦死してから描かれたもので、彼の魂が
天使によって天国に運ばれているというシーンです。
(わかりにくくてすみません)

添えられた文章も悲壮かつセンチメンタルなもので、

「最も純粋な飛行界のシンボル」

「不屈の粘り強さ、野生的なエネルギーと崇高な勇気」

「犠牲の精神と最も高貴な叙述を正確に示す不死の記憶」

などなど。

彼はフランス空軍第2位の54機の撃墜記録を持つエースで、
1917年ベルギー戦線で戦死しました。

彼がドイツ軍機に撃墜されて墜落したのは偶然墓地でした。
ドイツ軍は彼の死を確認し、遺体を運びだそうとしたのですが、
そのときイギリス軍の砲撃が始まり、戻ってみたらなんと、
不思議なことに、ギヌメールの遺体は消えていました。

彼の悲劇的な最後は人々に語られ、その遺体の謎に対する興味も相まって、
さらに英雄ギヌメールのロマンチックな伝説が作られていくことになったのです。

 

ところでこんな話の後になんですが、拾い物の新聞連載漫画、
「Captain Easy」を最後に貼っておきます。

 

続く。


”THE HUN IN THE SUN” 第一次世界大戦の航空戦の現実〜スミソニアン航空博物館

2020-10-15 | 歴史

第一次世界大戦で最初にして最大の激戦となったヴェルダン攻防戦について
地上と航空側面かお話したわけですが、今日もスミソニアン博物館の
第一次世界大戦についての展示をご紹介していきます。

写真が写せなかったもの

「塹壕の後ろ側に這い上がると、わたしは少し高くなった場所に銃を置き、
『ノーマンズランド』に居合わせた英国兵の塊に向けて無茶苦茶に発砲した」

ウィルヘルム・ランゲというドイツ軍兵士の回想より。
「ノーマンズランド」というのは、両軍の塹壕と塹壕の間のことです。

この頃は英国軍に航空写真という偵察手段が登場していましたが、
航空写真では決してドイツ軍の壕の深さと頑丈さ、そしてドイツ兵の
練度のレベルや彼らの士気のいかなるかまで知ることはできませんでした。

地下壕で安全性を確保したドイツ軍守備隊は、偵察できないところで
マシンガンのポストをどれだけ速く動かすことができるかなどと、
技術改善するための射撃訓練に取り組んでいました。

このイメージは、「ソンムの戦い」が行われたソンムを
上空から撮った何枚もの航空写真の典型的な一枚です。

写真は確かに紙に落書きされた飛行士のメモよりは正確でしたが、
このころの航空写真というのははしばしば軍事的価値には値しないものでした。

まず、この頃の貧弱なレンズでは重要な情報を写しとることはできず、
開発の進捗は戦場で十分に役に立つまで追いつかなかったのです。

当時はフィルム現像と印画紙にプリントするのに時間もかかり、
かりに高品質レベルの写真が撮れたとしても、手元に来る頃には
その情報はすでに情報としての価値を持っていないことがほとんどでした。

 

22歳で白髪に・・・搭乗員の精神的影響

野原で座って語らっている軍服の青年たち。
イギリス第三航空部隊の搭乗員たちです。
一人ひとりに手書きで

「Killed」撃墜「wounded」負傷
「missing」未帰還
「dead」死亡

という文字が添えられています。

ある第一次世界大戦時の戦闘機パイロットは

「搭乗員という仕事は、人の神経をとことん痛めつける。
航空隊は6ヶ月の勤務を半分こなしたところで、2週間
休暇を取れることになっていたが、ほとんどの人間は
最初の4ヶ月半で壊れてしまうのだった」

と語っています。
もっとも、運が悪ければその前に訓練で事故死するか戦死するか・・。
いずれにしても写真の搭乗員たちの割合で同じ運命に遭うのでした。

搭乗員の生活というのは傍目には確かに楽勝に見えました。
いったん前線に出た後は戦争を離れ、「比較的」とはいえ
暖かくて清潔な飛行基地に戻ることができましたし、
食べ物もなんならお酒も十分与えられ、搭乗員仲間と
カードで遊ぶあいまにちょこっと自分の愛機の手入れなどして
次のミッションまでの間を過ごしていました。

しかし、恵まれている上に自由で気楽に見える生活の下で、
彼らの精神はいつか必ずやってくる「死」への恐怖で蝕まれ、
いかなる量の飲酒や気晴らしも、部隊全体にのしかかる
重圧のようなものを払い除けることはできませんでした。

戦死した友人の代わりにすぐに新しい顔が現れ、
ほどなくその者たちも「西へ行く」、つまりそれは死を意味します。

この生活の中で、苦悩する若者が平常な精神を保つことができず、
瞬く間に髪が白くなる例は珍しくありませんでした。

日本軍の搭乗員も、特に特攻部隊に配置されたものには
同じようにふんだんに酒や食べ物を与えられて、傍目からは
『陽気にやっている』ように見えましたが、
『夜など、一人になるとどうだったかわからなかった』(丹波哲郎回想)

ただし、髪が白くなったという話はあまり聞いたことがありません。

 

航空搭乗員の訓練

特に黎明期の航空機の訓練はそれだけで危険が伴いました。
戦争が始まっても、当時の参戦国には、航空搭乗員を出来るだけ急いで、
しかし安全な方法で育成するプログラムがまだ普及していませんでした。

例えば王立航空師団は戦争が始まったとき、教官の数も足りておらず、
さらにはじゅうぶんな訓練用のフィールドもなかったくらいです。
結果として、最終的に英国軍の戦争中に
失われた航空機の60パーセントは
戦闘ではなく訓練中の事故
によるものとなりました。

しかしながら、戦闘で失われる搭乗員の数が増えていくにしたがって、
訓練のやり方はより適切なものに置き換えられてゆき、
急速に改善がなされていったという事実があります。

今なら考えられませんが、第一次世界大戦当時、航空訓練を
「生き残った」搭乗員は、しばしば5時間未満の飛行時間で

実戦に参加することを余儀なくされました。

この準備不足のため、彼らは戦闘に飛び込むやいなや致命的なエラーを犯し、
そして生きて帰ることはできなかったのです。

この漫画?には「THE LAST LOOP」というタイトルがついています。
撃墜されて最後の旋回を行いながら墜ちていくのはドイツ軍機です。

”BEWARE OF THE HUN IN THE SUN"

我々には馴染みがありませんが、英語圏ではこのフレーズは、
航空、特に空戦を語る上で最も有名なものだといわれています。

まず、絵を見ていただければ、それだけで
「太陽を背に向かってくる戦闘機は常に優位に立つ」という
戦闘機漫画で子供ですら知っているセオリーを思い出すでしょう。

第一次世界大戦の場合、(第二次世界大戦でも同じですが)
攻撃に向かう連合国軍は、つねに西から東に飛ぶことになりました。
対してドイツ軍は基地が東にあることから太陽を背にできるので、
連合国軍の編隊に対し常に優位を保つことができました。

特に高高度を飛びながら西から東に向かってやってくる飛行機は
上空の太陽を背にしさえすれば、完全に姿を消してしまいます。

もちろん夕方には彼我の機位は逆転するわけですが、
当時の飛行機では暗くなるとまず帰還も着陸もできなくなるため、

空戦は常に連合軍に不利な時間に行われることになりました。

また、 連合国の飛行機はヨーロッパ独特の西風編成風によって
ドイツ側に押し流される危険性があり、早く現地を離脱しないと
最悪それは自分の基地に戻ることができないということを意味しました。

 

ところでこのフレーズの意味することはわかったけれど、
「HUN」ってなんですか?ということなんですが。

1940年に発行されたスピットファイアのマニュアルには、
「フン族は太陽の方向からやってきた」
ということから最初にドイツ軍が使用した言葉だと説明されています。

これもわたしたちにはピンときませんが、ヨーロッパ人が

アッティラ・ザ・フン

に対して持っている恐怖心というのは凄まじいものがあります。
現在でも、凶暴な者(ひいては横暴な者)のたとえに

「アッティラのような

などというくらい、5世紀ごろのヨーロッパを震え上がらせた男でした。
異様な風体をしてオーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ロシア南部、
ドイツ、そしてローマと荒らし回った彼らは、

常に東から太陽を背にしてやってきた

ことから、ドイツ軍が自分たちをアッティラとフン族の軍に擬えて、
そのように自称したのが始まりではないかという説もあります。

ちなみに”BEWARE OF THE HUN IN THE SUN”で検索すると、
同名のバトル・オブ・ブリテンの時のイギリス空軍の映画が出てきます。

 

当時、多くの駆け出しパイロットは飛行機の操縦を習う以前に
自動車の運転というものすらしたことがありませんでした。
(それをいうなら年齢的に自衛隊の航空学生もほとんどそうなんですが)

しかし、近代と違うのは、指導の補助となるシミュレーターなどなく、
非常に原子的な方法で練習を始めていたのです。
例えば、イギリス空軍は、飛行中における危険について学ぶ方法が

事故のイラストを見るだけ

だったというのです。

訓練ではプラカードやその他地上で行うあれやこれやを使用して、
飛行機のループや敵機の回避方法を説明していましたが、
もちろんこれらが実際の飛行体験に代わるものはなりえません。

ただ、どこの国もだいたい同じような状況だったので、
この点においてどこが有利だったというようなことはありませんでした。

MARKSMANSHIP ON RAILS

「マークスマンシップ」というのは「射撃術」という意味です。
必要は発明の母と陳腐な言葉を思い浮かべてしまいますが、
戦争のための科学技術の進歩というのは凄まじいもので、
絵を見て飛行を学ぶ時代はあっという間におわり、訓練用の機器、たとえば
レールを走るトロッコから銃撃を行う練習装置が発明されました。

これなどは少なくとも実戦にかなり役立ったのではないでしょうか。

当時のロイヤル・フライング・コーア(イギリス航空隊)で使用された
教科書やノートなどが展示されています。

立てかけてある黒い本には

「国際連邦航空局

大英帝国

飛行船パイロット証明書」

とあります。
分厚い証明書ですね。

操縦法の教科書、ドイツ機の判別のための図解、
そして手前の手書きのノートは何回着陸したとか、
飛行時間の合計がメモしてあります。

左のノートの表紙にはなぜか

「mademoiselle miss」(マドモアゼル・ミス)

とあるのですが、これは意味がわかりません。
イギリス人男性がフランス人女性を差しているのかなという気がしますが。

まさか飛行機のあだ名とかじゃないよね?

左はおそらくプロペラの一部に彫刻を施した看板。
マグのように見えるのも部品をリサイクルしたものでしょうか。
すべてイギリス航空隊の搭乗員の個人的な持ち物です。

第一次世界大戦におけるパラシュートの普及

パラシュートというものが普及し出したのもこの頃です。

当時の技術ではパラシュートの素材はあまりにも分厚く、
特に連合国では飛行機のコクピットに載せることもできなかったので、
使用することができたのは連合国では気球搭乗員だけでした。

しかしながらさすがというか、ドイツ軍とドイツの同盟国は、
1918年にはコンパクトなパラシュートを開発し運用しいました。

写真は気球から飛び降りている搭乗員です。

当時の気球はしばしば火災を起こし大変危険な乗り物でしたが、
この使用によって多くの搭乗員が命を助けられたといいます。

航空機乗員の命を救うパラシュートの普及のためには
集中的に(しかし危険な)テストが繰り返されました。

ドイツ軍がパラシュートのテストをしているところですが、
こんなドームのうえみたいなところから飛び降りて
はたしてパラシュートは開いたのか?と不思議ですね。

と思ったらご安心?ください。
これはまだパラシュートができてすぐのテストの光景で、

「とりあえずパラシュートをつけて飛行機から飛んでみた」

という段階なんだそうです。
下にはネットが張ってあります。

ドイツ軍が導入したパラシュートは、1918年の3月、
航空機の地上員だったHEINEKEが発明した、バックパック内蔵型の

(つまり今も機構的には全く変わっていない)ものです。

最初にテストをした70人のうち3分の1は、ラインが絡まったり、
傘が破れたり、ハーネスが破損したりして死亡しています。
内部にはこんなものを導入するのか、という否定的な意見も出ましたが、
しかし、「何もつけずに飛行機に乗ること」と、3分の2が
助かる可能性を秤にかければ、彼らにとってどうすべきかは明確でした。

ちなみに最初にパラシュートというものを考えたのはレオナルド・ダ・ヴィンチで、
彼が15世紀に描いたスケッチにそのようなものが見られるそうです。

初期のフランスの設計者は、1912年にエッフェル塔からの降下失敗を含む、
飛行機や塔からの実験的なジャンプで実際にテストしていました。

Franz Reichelt’s Death Jump off the Eiffel Tower (1912) | British Pathé

ちなみにエッフェル塔からの降下(落下)映像。
実験というより興業師に金をもらってやった、ということだったと
「映像の世紀」では説明していました。
しかし、このおっさん名前からしてこれどう考えてもドイツ人です。

脱出を余儀なくされた時の搭乗員の生存率を改善するものでしたが、
イギリスは1918年9月までなぜかパラシュートを採用しませんでした。
同じくフランスとアメリカもまた、戦時中はこれを許可していません。


続く。


血塗られたヴェルダン攻防戦 第一次世界大戦〜スミソニアン航空博物館

2020-10-13 | 歴史

スミソニアン博物館の展示、「第一次世界大戦の航空ヒーロー」は
一転して地面で行われていた塹壕戦の解説に移ったわけですが、
膠着戦から戦況はここで急に様相を大きく変えていきます。

「SLATEMATE」、つまり行き詰まりを打開したいのはどちらも同じでしたが、
新たな攻撃計画をもって先手を打ったのはドイツでした。

当時のドイツ軍参謀総長エーリッヒ・フォン・ファンケルハイン元帥。
Wikipediaの日本語版だと愛称(じゃないか)は、

「ヴェルダンの血液ポンプ」

「ヴェルダンの骨ミキサー」

ととんでもないことになっていて、どうやらこのおっさんが
このヴェルダンの仕掛け人とされているらしいのですが、
それは、彼が膠着した戦線を打開するために

「消耗戦」

という戦略を史上初めて採用したことからきています。

消耗戦というのは敵をとにかく疲弊させることが目的です。
塹壕戦ではいつまでたっても決戦に持ち込むことはできないので、
回復不可能なほど相手の力を削ぐことだけを目的にしようというわけでした。

ドイツはこの消耗戦の相手をフランスに「選んだ」といわれています。

四方八方と戦争している中で、ロシアは国土が広大すぎて兵力も多く、
消耗戦の相手には大きすぎるし、イタリアは逆に小さすぎて、
消耗させるまでもないし(失礼だな)こちらの犠牲を払うには割が合わない。
イギリス軍も、たとえ消耗させたところで降伏するような相手ではない。
という消去法で残ったのがフランスだったというわけです。

そして消耗戦を実地する舞台として、ヴェルダンが選ばれたわけですが、
ファルケンハインがこの地を選んだ理由は、ここが曰く付きの場所だからです。

フランク王国を独仏伊に三分割する「ヴェルダン条約」が843年に結ばれ、
1648年にはヴェストファーレン条約でフランス領になるも、
1792年にはプロイセンの攻撃を受けて陥落したという因縁の古都。

フランスはおそらくここを攻め込まれたとき、メンツにかけても
防衛戦に全力を傾けてくるに違いないとファルケンハインは踏んだのでした。

彼の読みは恐ろしいくらいに当たりました。
このポスターは、

THEY SHALL NOT PASS!「奴らを通しはせぬ」

と説明があり、それはそのままポスターにフランス語で書いてあります。
On ne passe pas!

ヴェルダンには国境の大要塞があり、交通の要所に違いはありませんが、
この地を選んだファルケンハインはそんなことはどうでもよかったのです。
(目的は消耗戦ですから)

フランス軍にしても、ヴェルダンに戦略的価値を認めていたわけではなく、
国内では要塞の価値を問う声もあり、ヴェルダンにそこまで必死にならなくとも、
という意見すら軍部にはあったといわれます。

ところが、前述の歴史的な価値がある地ゆえ、フランス世論は黙っておらず、
(このポスターもその筋のプロパガンダなのかと思われます)
「ヴェルダンにドイツ軍を入れるな」という声が湧き上がり、
この声に後押しされる形でフランスはヴェルダン死守こそ正義、となってゆき、
司令官たちは、不屈の兵士たちを有名なこの言葉で奮起させ、
ドイツの期待通りヴェルダンを死守すべく全力で向かってきたのです。

両軍の要塞攻防戦が始まりました。
戦端が開かれたとき、たがいの戦闘規模は大きくはありませんでした。

まずドイツ軍がこれまでの塹壕戦の常識を破って、塹壕を設けず、
いきなりフランス軍を急襲し、前進基地を奪い取るのに成功しました。

しかし、当時の塹壕は三重に構築されており、そう簡単に
防衛戦を突破することはできません。
ファルケンハインは、砲兵の援護によって歩兵の消耗を極力抑え、
じわじわと攻略していくという戦法をとります。

この頃のドイツ兵はまだスパイクのついたヘルメットを着用していますね。

そして、ドイツ軍はまたしてもフランス軍の不意をついて、
今は戦士の墓となっているドゥオーモン保塁に攻め込みました。

この戦果は、まるで映画「1941」で伊潜がハリウッドを攻撃することを決めたとき
三船敏郎が言っていたように、 攻撃そのものは戦略的に価値は全くなかったのですが、
相手の心理をかき乱すことに成功しました。(え?たとえがあんまりだって?)

事実、フランス側は保塁の陥落で危機感を持ち始め、本気モードになってきます。
そして不調だったジョフル将軍を降ろして、フィリップ・ペタン将軍を投入しました。

ペタン将軍はここで

”On ne passe pas!"

と兵たちの下がっていた士気を鼓舞させ、次々に師団を投入させて
フランス軍の足並みが揃い始めました。
消耗戦を企むドイツ軍には待ってましたという状況ですが、ところがどっこい、
ドイツはドイツで攻勢だったために手を緩めてしまったこともあって、
思った通りに攻撃ははかどらず、文字通りの消耗戦に突入してしまうのです。

もう一つ、ドイツ側で消耗戦ということを意図していたのは、
おそらくファルケンハイン一人だけで、ほとんどのドイツ軍指揮官は
本気でヴェルダンを攻略することを目的として戦っていたため、
この状態になると、こんどはドイツ側の士気が全体に落ちてきました。

Kronprinz Wilhelm 1. Leib-Husarenregiment.jpgヴィルヘルム

ドイツ軍攻撃軍司令官は皇太子ヴィルヘルムでしたが、
彼もまたファンケルハインの計画をつゆ知らず、

一進一退となったヴェルダンから一歩も引かず、
がむしゃらに攻撃規模を増やす指令を下したのです。

攻略に固執して戦力を逐次投入したため多大な損害を出す結果となった。
被害の甚大さを痛感したクノーベルスドルフとファルケンハイン
攻撃の中止を進言するが、ヴィルヘルムは聞き入れず攻撃を承認させ戦闘を続行した。
(wiki)

なんと、首謀者ファルケンハインその人がに中止を進言してますがな。

しかし燃えるペタン将軍は次々に新しい師団を送り込み、前線の部隊と
入れ替わらせていったため、最終的にはフランス軍のほとんど、
78個師団が
ヴェルダンに参加して、文字通り消耗していくことになりました。

 

また、この戦いが歴史的に重要なポイントとなった出来事は

「歴史上初めて戦争に自動車が本格的に使われた」

ことです。

ヴェルダンには鉄道がありましたが、砲撃があまりに激しく、
使用が不可能になっていたので、フランス軍は貨物自動車で
増援部隊を前線に送り込みました。

これを見ていた各国軍隊は、自動車の軍事的価値を認識することになります。

この自動車で送り込まれたフランス軍兵士は40万人。
そしてその半数以上が死傷したということになります。

そしてその後は取ったり取られたり、押し込んだり押し返されたり、
ファルケンハインもその頃にはすっかりやる気をなくして皇太子に進言したわけですが、
前述の通り皇太子はいうことを聞かず、ペタンもまた撤退の時期を探りながら、
1917年の5月、ようやくドイツ軍を最初の位置まで押し戻すことに成功。

長い長いヴェルダン攻防戦をようやく集結させることができたのです。

さて、地上での戦況ばかりをお話ししましたが、この一進一退には
実は航空機の参加もあることはあったわけです。

写真は、ドイツ軍の将軍(ファルケンハインかどうかは不明)が
フォッカー E. III 戦闘機を点検しているところです。

ドイツ軍はそれまで無敵のフォッカー が空を支配して、
彼らの地上での戦略を後押しし、
勝利に導いてくれると信じていました。

The Luftsperre: An Aerial curtain

ドイツ語のルフトスペーレは「航空カーテン」という意味になります。
彼らは敵陣地上空までに航空機を送らずして敵の位置を観察し、
自軍の空域を守ることができると信じていました。

ドイツ軍指揮官たちは空中封鎖、またはルフトスペーレを行いました。
彼らの飛行機は前線を上下に飛行し、(カーテンがあるように)
ドイツの占領地を飛行しようとする連合軍の航空機を攻撃しました。

そして航空機や気球は自軍の陣地上にいながら、
フランス軍に対する砲撃の着弾を観測することができました。

ドイツ戦略の終焉

ところが、ヴェルダン攻略戦が始まるや否や、ドイツ軍の指揮官たちはすぐに
空中で敵を封鎖するには、あまりにも飛行機が少ないことに気がついて愕然とします。

一方フランス軍のニューポールXI戦闘機軍団はフォッカーE.IIIに明らかに数で勝り、
やすやすとドイツ陣地上空に入り込んで飛行機を撃ち落とし、地上の軍隊を攻撃しました。

ドイツ軍の「カーテン戦術」とは対照的に、

「探し出し、追跡して撃ち落とせ」

つまり攻撃的な空中戦略を展開したのです。

絵を見ていただくと、ジャーマン・ラインの上空で、ニューポールが
飛行船やドイツ機を撃墜している様子が描かれているのがわかるでしょう。
中隊、または戦隊を1人の指揮官の下に統合させることにより、
フランス軍はドイツの前線に対する攻撃を組織し、調整することができました。

もうひとつ、あまり語られない航空史のトリビアですが、
この時フランス軍が
「エスプリ・ド・コーア」(部隊精神)を養うために、
飛行機の側面に部隊独自のエンブレムを描き始めたのが、
航空機のノーズ&ボディペイントの事始となりました。

エスカドリーユ(戦隊)・ニューポールNo.3、精強とされた部隊の一つは、
Cigogne、コウノトリをあしらったマークでした。
コウノトリはまたアルザス地方のシンボルでもあり、フランス軍は
戦争後ドイツ軍から国を取り戻す希望をこのマークに込めたのです。

また、コウノトリはヨーロッパ全体で幸運のシンボルでもあります。

 

ニューポールNieuport XI(11)の模型も展示されています。
イギリスの飛行機ですが、フランス軍のマークが尾翼に見えます。

右側は同調装置のついた機銃、という説明があるので、
ニューポールではなくフォッカー に搭載されていたものだと思われます。
ヴェルダン攻防戦で出撃したドイツ軍の戦闘機のものでしょう。

それまでの戦線では、圧倒的にフォッカー が優勢でした。
連合軍の偵察機が易々とフォッカー に撃墜される現象を、イギリスのメディアは

「フォッカー の懲罰 Fokker Scourge」

と名付けていた頃もあったくらいです。

ベルギー軍のニューポール 11 C.1

ところが、「ベベ」という愛称を持つこのニューポール11は、
この戦闘で「フォッカー の懲罰」の時代を終わらせてしまいました。

1916年1月にヴェルダンに到着し、その月のうちに90機が投入され、
ほぼ全ての面でフォッカー を圧倒する働きを見せました。

この損失で、ドイツはその航空戦術に急進的な変革を強いられることになります。

 

さて、最初にペタン将軍の言葉として紹介されていた、
「THEY SHALL NOT PASS!」という文字とポスターの隣には、実は
その言葉と対比させるように、こんな言葉とともに同じ大きさの写真があります。

「THEY DID NOT PASS」

彼らは突破することはなかった

ヴェルダンでは航空機がフランス軍を援護し、ドイツ軍の
手っ取り早く勝利を得るという希望を阻むことに成功した。

しかしながら航空機は地上で起こっている虐殺を防ぐことはできなかった。

1916年の12月に攻撃が終わったとき、54万2千人のフランス兵、
そして43万4千人のドイツ兵の犠牲者が出た。

このうち、死者不明者はフランス軍16万2,308人、ドイツ軍10万人となります。

局地的な戦争で3ヶ月間にこれだけの犠牲がでたというだけでも
第一次世界大戦のヴェルダン攻防戦の熾烈さがわかります。

 

写真の、まるでオブジェではないかと思われるほど整然と積み重ねられた
夥しい人骨は、そのどれもがかつては生きてものを思い、エーリッヒとか
ジョルジュとか呼ばれて、誰かを愛し愛されていた男性だったのです。

写真の上にある、

「THE VERDUN OSSUARY」

は、戦場となったヴェルダンにあるドゥオーモン納骨堂のことで、
小さな外​​の窓から、両国の少なくとも130,000人の戦闘員の白骨が、
建物の下端にあるアルコーブを埋めているのを見ることができます。

MORSという文字が見える気がするのですが気のせいかな。

ヴェルダンの戦いは結局両軍に膨大な犠牲を生み、ファルケンハインの意図した
消耗戦になりましたが、当初こそ成功していたものの、
引き際を知らない皇太子のせいで(たぶん)ドイツは引き返せなくなり、
その結果泥沼にはまってセルフ消耗戦になってしまいました。

つまり作戦失敗です。
ファルケンハインはこの責任をとって参謀総長を辞任しました。

フランスへの影響もまた大きなものがありました。
終わらない戦争にフランス軍の兵士たちもまた極端に士気低下し、
忍耐力は限界に達しつつありました。

1917年、春に行われたニヴェル攻勢で、それはついに爆発し、
113個師団の内49個師団でによる命令拒否、反乱軍が立ち上がるなど
革命一歩手前の状況にまでになりました。

ヴェルダンの英雄となったペタン司令官が着任してこの反乱を収束させ、
その後フランス軍では多数の犠牲をともなうとわかる突撃は避けるようになったそうです。

なお、フランスはこのニヴェル攻勢をとくに恨みに思っていて、
「リメンバー・ニヴェル!」・・・といったかどうかは知りませんが、
とにかくヴェルサイユ条約ではドイツにさんざんこのときの「仕返し」をしたとか・・・。

犠牲者を多数出すより、自軍に叛乱されたことの方がよっぽど応えたようですね。

 

 

続く。


”西部戦線異常なし” 第一次世界大戦〜スミソニアン博物館

2020-10-12 | 歴史

スミソニアン博物館の展示から、前回は第一次世界大戦に登場した
航空機という新兵器とその搭乗員について、映画や小説を中心足したメディアが
そのイメージを作り上げ、世間が喝采したということをお話ししました。

スミソニアンが、第一次世界大戦の航空について華やかなイメージを
導入部で強調したのは、創造されたパイロットの英雄的なストーリーと
そのワクワクする冒険に心ときめかした彼らは、じつのところ
航空戦の酷い現実などをわかっていなかった、といいたかったようです。

ハリウッドで敵戦闘機役を演じたプファルツと、映画館の入り口のような
掲示板で飾られたコーナーを抜けると、いきなり観覧者は、
こんな写真にお出迎えされて、冷水を浴びせられた気分になるのです。

そう、第一次世界大戦の「塹壕戦の実態」ですね。
ご丁寧その一帯はあたかも塹壕の中にいるような木の枠組みで飾られて。

写真では塹壕が崩れた状態になっているので、
おそらく大攻勢が発動され、敵が陣地戦を破って攻撃してきた跡でしょう。

このころは中国本土からと思われる旅行者の姿も多く見ました。
現在ではもちろんスミソニアンは休館しています。

第一次世界大戦は「塹壕戦」から解説が始まります。

「塹壕での生活」として、

雨が降り、悪臭を放つ泥はさらに酷く黄色くなり、砲弾跡は
緑がかった白い水で満たされ、
道路と線路は何インチもの粘液で覆われ、
黒い枯れ木がにじみ出るように汗をかき、砲弾がやってきます。

それらはただ頭上に飛んできて腐った木の切り株を引き裂き、
板の道を壊し、馬とラバを打ち倒し、消滅させ、混乱させ、破壊させ、
そして彼らはみなこぞってこの地の墓に突入してゆくのです...
それは言葉にできない、神も不在の、絶望的な状態です。

イギリスのシュルレアリスム系画家、

ポール・ナッシュ Paul Nash 1889ー1946

が自宅に送った手紙の一節です。

Spring in the Trenches, Ridge Wood, 1917 (1918)

ナッシュは帰還後、戦争と塹壕の自己体験を描きました。

「ワイヤ」1919年

 

1916年、ベルギーでイギリス軍がレーションの食事を取っているところ。

大戦初期から塹壕陣地全体は複数の並行する塹壕線で構成され、
それぞれが連絡壕でつながっていて、警戒用歩哨処、攻撃用砲座などを中心に
将兵が起居する宿舎、便所、救護所など、支援施設が備わっていました。

イギリス軍の塹壕は前方、戦闘区域、後方区域と
三列の塹壕で成り立っていることが多かったようです。

1916年撮影、歩哨に立つフランス軍兵士。
膠着した塹壕戦では歩哨がすこしでも頭を出すと
狙撃兵に狙われるため、体を乗り出さなくても射撃できるように
潜望鏡付きの小銃も開発されましたが、
鏡が一枚だと左右が反対に見えるので狙いがつけにくく、
実用性には乏しいものでした。

1918年、フランス戦線でシラミ退治をするアメリカ兵。

地味に戦闘以外の消耗は兵士の心身を蝕みました。
スペイン風邪が流行っていたこともありますし、コレラ、チフス、
塹壕足(トレンチフット)と呼ばれる凍傷と細菌感染症のダブルパンチなど。

もちろん精神をやられる者は多く、「シェルショック」などと呼ばれました。

ビデオのモニターも、土嚢を積んだ塹壕の壁?にセットしてムード満点です。

"All Quiet On The Western Front"

これがレマルクの「西部戦線異常なし」という小説の英語タイトルです。

主人公の青年が、塹壕から蝶に手を伸ばして狙撃手に殺された日、
最前線の戦況に何の変化もないことから、

「西部戦線異常なし」

と塹壕基地司令が記した報告書の一文が小説のタイトルにされたのですが、
ただしこれも原語はドイツ語で、
原作の題名は

 Im Westen nichts Neues

というものです。

直訳すると西部戦線にニュースなし ='Nothing New in the West'
となるわけで、元々えらくあっさりしたタイトルだったわけですが、
「クワイエット」を使った英訳については、レマルク本人が

「ドイツ語とは完全に一致していませんが、お礼を申し上げます」

と出版社に言っており、察するにあまり気に入ってなかったのではないかと(笑)
どちらかというと日本語の「西部戦線異常なし」の方が原作に近い気がしますね。

そしてこのモニターでは白黒の同映画の一部が放映されていました。

スミソニアンの解説は次のようなものです。

地上戦(塹壕戦)をロマンティックに描くことはほとんど不可能だったので、
ハリウッドはそれを取り扱うとき、非常にシリアスに、リアルに表現するか、
さもなければ全く無視するという傾向がありました。

エーリッヒ・マリア・レマルクの「西部戦線異常なし」をベースにした映画は、
第一次世界大戦を描いたアメリカ映画の中でもベストと言われています。

戦争を些細なこととしてでもセンセーショナルなものとしてでもなく、
淡々とその残酷さと、その中にある普通の人間を描いています。

ここで放映されているシーンは、フランス軍歩兵が手をあげて、
「塹壕の上」に上った途端、ドイツ軍のマシンガンにあっさりと
倒される様子が描かれています。

こちらはその予告編。

ドイツ人が英語を喋り、たとえば主人公のパウルも「ポール」
アルベルトも「アルバート」になっています。
「英語圏でない国の人が英語を話す」映画の走りだったかもしれません。

こちらは1979年のリメイク版。

All Quiet on the Western Front Trailer 1979 film

兵士役で出演しているイアン・ホルムという俳優は、映画「炎のランナー」
主人公ハロルドのコーチ、ムサビーニを演じた人ですね(←マニアックすぎ)

荷車に乗り切らず、腕に十字架を抱えて運ぶ兵士。

「心配しないで。すぐ帰ってくるから」

これが言葉の通りにならなかったのは歴史が示す通りです。

最初の戦いがマルヌ川タンネンベルグで始まって2ヶ月で、
誰もがこれが「長い戦い」になることに気がつきました。

長期化の原因は、新兵器の機関銃の登場が生んだとも言える
塹壕戦の深化にありました。

「STALEMATE」

塹壕のイメージで構成されたスミソニアンのギャラリーには
いきなり突き当たりにこの文字が飛び込んできます。

マルヌ河の戦いで敗北してから前進できなくなっったドイツ軍は、
やおら地面を掘り(dig in)始めました。

これによってドイツ軍の現在位置に到達できなくなった連合国軍は、
同じように地面を掘って塹壕を作り出し、そうなると今度は
ドイツ軍が連合軍の反撃を阻止するために急速に塹壕を頑丈に、
かつ(ドイツ軍らしく)凝った構造となり、文字通りのいたちごっこで
最終的には両者の塹壕は延々とヨーロッパの大地を伸びていき、
スイス国境からフランスとベルギーを貫いて北海に達する
「死の迷路」を作り上げて行ったのです。

前線を突破しようとする試みは、ただ、陣地を取ったり取られたり、
という空しいエンドレスサークルをもたらすだけでした。

その犠牲の多さは誰一人として予想できずかつ驚くべきもので、
フランスでは30万人もの命が最初の1ヶ月で失われています。

絶望の中で軍指導者たちは新しい戦法や武器でこの状態を
何とかしようと試みるようになってきますが、この「行き止まり」を
打開するかに思われたのが、航空機だったのです。

ミミズのように土に塗れながら惨めな塹壕戦を戦っている歩兵から見ると、
空を自由に駆け、騎士のように戦って称賛される飛行士は
まさに雲の上の人であり、憧憬の対象だったに違いありません。

たとえその命が一瞬で燃え尽きる儚いものと知っていたとしても、
この身と交換できるなら構わない、と誰しも思ったのではないでしょうか。

右側は、

ピッケルハウベ 

Pickelhaube Pickel(鶴嘴) Haube (ヘッドギア、帽子)

といわれるプロイセンとドイツ帝国の象徴である、
スパイクのついたドイツ軍のヘルメットです。

プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 の時代、
1843年にプロイセン軍部隊用に新しく制定されたタイプで、
ここにあるのは竜騎兵(ドラグーン)用です。

模型は初期の軍用機、

Jeannin stahltaube

何と読むのかすらわからないのですが、「タウべ」というのは鳩のことで、
翼の形がはとにそっくりということでこの名前になったようです。

イーゴ・エトリッヒ博士が設計した

「エトリッヒ・タウべ」

というタイプが原型ですが、博士とライセンス契約したルンプラー社
特許料を払わないので、怒った博士があっちこっちの会社と契約し、
その結果、いろんなバージョンの「タウべ」が500機出回ることになりました。

この「ヤンニン・シュタールタウべ」もその一つでしょう(たぶん)

模型の向こうに見えているのは野戦用携帯電話です。

フォッカー Fokker E.III

フォッカー Eシリーズは、(男前の)アンソニー・フォッカー が開発した
マシンガンとプロペラの同調装置
を装備した世界初の戦闘機となりました。

この経緯については以前お話ししたことがあります。
鹵獲したフランスの戦闘機に装備されていたこの同調装置を
フォッカー が魔改造してしまったんですね。

それまではプロペラに弾丸が当たるのは仕方がないので、
プロペラに当たった銃弾を左右に弾き飛ばす溝をつけ、
パイロットに跳ね返らないようにする方法が取られていましたが、
フォッカー はこの問題をやや解決していたフランス機を手に入れ、
これをヒントに完璧な同調装置を作ってしまったのでした。

フォッカー E.IIIは機体そのものが優れていたわけではありませんが、
この装置のおかげで「フライング・マシンガン」と呼ばれました。
後述する「ヴェルダン攻防戦」では、世界唯一の
同期式マシンガンを持つ航空機としてデビューを飾っています。

次回は、そのフォッカー E.IIIが初登場したヴェルダン攻防戦、
消耗戦の嚆矢であり、第一次世界大戦屈指の激戦として
別名「肉挽き機」「吸血ポンプ」とまで形容された戦いについてお話しします。

 

続く。

 


”空の騎士” 第一次世界大戦の航空映画〜スミソニアン航空博物館

2020-10-10 | 航空機

今日は久しぶりにスミソニアン博物館の展示から、第一次大戦時の
「空のヒーロー」、レッドバロンと当時の文化についてお話しします。

レジェンド、メモリー、そして グレートウォー・イン・ジ・エア

と名付けられたセクションに入っていくことにします。
このギャラリーのテーマは第一次世界大戦の航空機

World War I Aviation

という英語の後は、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語、
そして日本語の記述があります。

スペイン語やましてや中国語での記述がないのは、
世界大戦に航空機を創造し、参加した国限定なのでしょう。

ギャラリーの入り口にある解説はこのようなものです。

 

70年以上もの間、航空機にとって最初の戦争というのは
偉大でロマンチックな冒険として記憶されてきました。

そして多くのファクターがこの認識に貢献しています。

戦争中のジャーナリズムと政府のプロパガンダは、軍用機搭乗員を
あたかも勇敢な「空の騎士」(Knight of the air")のような
イメージを創造し続けてきましたし、さらに重要なことは
1930年代の「空心(そらごころ)」溢れたハリウッド映画や大衆文学は
そのイメージを普及し後世に残す中心的な役割を負い続けたことです。

しばしば航空戦の残酷な現実はロマンティシズムという劇薬によって
和らげられ、作家や脚本家はこぞって第一次世界大戦の航空を
魅力的な記憶に書き換えたのです。

こんにち、それらのイメージはいまだに一般大衆に人気がありますが、
空の戦争の現実については、その真実を知る機会は10年、また10年と
時が流れるにつれて、少なくなっていくというのもまた事実です。

ここでいきなり目を引くのはこんなコーナーです。
以前、当ブログ「ソッピースキャメルに乗る犬」という項で、
この犬のキャラクターについてご紹介したわけですが、
ここでは、犬小屋に乗って

「CURSE YOU, RED BARON!」
(くたばれ、レッドバロン!)

と叫んでいる例のキャラクターなど、一見子供用の
第一次世界大戦航空にまつわるグッズが集められています。

この犬はいつもソッピースキャメルに乗って、フォッカー IIの
「レッドバロン」と戦うことを夢想しているわけですが、
決して本当に戦うことはなく、本当にただ空想しているだけです。

今は懐かしいLPレコードに描かれているのは
「スヌーピーと戦っているレッドバロン」のようですね。
いつも夢想していたレッドバロンとの空戦がついに実現したのでしょうか。

「人生ゲーム」のようなボードゲームの空戦版。
カードを引いて指示に従うというのも人生ゲームと同じ。

ちなみに人生ゲーム(The Game of Life)はアメリカ生まれで、
1860年にはこの原型があったといいますから、
1930年代に同じようなシステムのゲームがあっても不思議ではありません。

ランチボックスにプリントされた漫画は、まず犬が
右向きに犬小屋に乗り、

「彼は第一次世界大戦のエースで、今
ソッピースキャメルに乗って空を駆けている・・」

「最も深刻な緊急の事態しか彼を任務から引き返させることはできない」

子供「夕ご飯だよー!」

(犬、それを聞くなり左向きに)

右の写真は前列前で脚を組んで座っているのがレッドバロン、
マンフレート・リヒトホーヘン男爵とすぐわかります。
主役のオーラというのか、なぜか一人だけコートの色が違うんですね。
あ、それは彼がただ一人の士官だからなのか。

左側はリヒトホーヘンを主役にした漫画のようです。
超拡大したので内容までは読めませんが、英語なんですよね。

アメリカも一応ドイツとは敵国だったと思うのですが・・・。

上はこれも子供用ゲームで「スヌーP vs レッドバロン」。
下の絵本はその題もストレートに「ソッピースキャメル」。
ラクダが飛行機の尾翼をつけ、胴にRAFのマークをつけています。

赤に鉄十字というだけで誰でも「レッドバロン」と思い浮かんでしまいます。
よく考えたらこれってすごいことですよね。
で、さっきの説明によると、彼をこれだけ有名にしたのは、当時の映画やメディア、
ジャーナリズムであったと・・・・・・。

ハンサムな若いドイツ貴族の戦闘機エース、というだけで、
当時の創作者たちにはたまらない逸材だったということでしょう。
また、大衆もそのイメージをこよなく愛したのです。

鉄十字の真ん中にあるのが

「レッドバロン」というレストランのメニュー

その下

レッドバロンの横顔をあしらったデザインのシャツ?

フォッカー をあしらったビアマグ

レッドバロンブランドのピザ(ペパロニ)

映画、ドキュメンタリー、そして赤いフォッカー の模型。

左の赤い部分にあるのが

「大衆化された伝説」

右には

「オリジナルの伝説」

とあります。
右側に書いてあることを翻訳しておきましょう。

1918年4月21日、マンフレート・フォン・リヒトホーヘンが亡くなった時、
彼はすでにレジェンドとなっていました。
多くの人々が、彼がドラマチックな空中でのドッグファイトの末、
80機という撃墜記録を挙げたということを知っていたのです。

事実、彼はしばしばステルス&サプライズ戦法によって
瞬く間に敵機を落としました。

彼が亡くなったのは赤いフォッカー Dr.I 三葉機のコクピットだったので、
彼がこの航空機でほとんどの勝利を収めたと考えられていましたが、
彼が最も多く撃墜記録をあげたのは他の戦闘機です。

戦争中、ドイツ政府はフォン・リヒトホーヘンを国家の英雄に仕立て、
それを「悪用」していたといってもいいのですが、彼が空戦で死んだことで
彼は、同国人はもちろん、敵の心にまで同様に、神話を残したのです。

フォン・リヒトホーヘン記念メダリオン。

それでは左側の部分です。

「彼は正々堂々と、全力を尽くして戦い、相手を撃墜し、
そして相手が強敵であればあるほど、自分のためにそれを歓迎した」

The Red Knight of Germany, 1927

「ドイツの赤い騎士」というこの小説?の作者はフロイド・ギボンズ。
イギリス人かアメリカ人かはわかりませんが、英語です。

ベストセラーになったマンフレート・フォン・リヒトホーヘン本で、
リヒトホーヘンを今日のヒーローとしてその人生を
ロマンチックな伝説風味で書き上げたものです。

公式な記録を元にしているというものの、ギボンズはかなり事実を
フィクショナライズし誇張して創作してしまっています。

1920年代から30年代にかけて、あまりにも多くの若い人が
レッドバロンについてこの本に書かれていることをうのみにし、
それだけならともかく、航空機で行われる戦争というものについて、
この「小説」に書かれた誇張を信じこんでしまったということがありました。

うーん・・・我が国にも全く同じようなエース本があったような記憶が。

戦後の日本で誇張した英雄譚仕立ての戦記があっても、
それはせいぜい「零戦ブーム」なるものを作ったくらいでしたが、
当時はこれを読んでレッドバロンに憧れ、空戦をやってみたくて
航空隊に入るという若者もたくさんいたのに違いありません。

彼らは程なく空戦の真実というものを知ることになったでしょう。

このギャラリーには、フォッカー の三葉機ではありませんが、
鉄十字をつけたドイツ軍の戦闘機が展示されています。
(この機体の話はのちほど)

そして、ここはあたかもアメリカのどこかの街であるかのような外灯と、
映画館のネオンが照らすタイトルが

「ハリウッドの空の騎士 主演 ダグラス・フェアバンクスJr.」

本当にそんな映画があったのか検索してみましたが、
彼のバイオグラフィにはそういう映画は登場しません。

 

リチャード・バーテルメスという俳優の「暁の偵察」ポスターです。
ポスターを見ると、ダグラス・フェアバンクスJr.も出ています。

The Dawn Patrol (1930) - Feature Clip

「レッドナイト」がよっぽどウケたのか、二つの大戦の間、
ハリウッドはやたらと「空の騎士」ものを制作しています。

これらの映画に描かれた飛行士のロマンチックなイメージは
非常に持続的であり、今日まで空中での戦争に対する
わたしたちの認識をかたち作るのに役立ってきたといえます。

「ドイツの赤い騎士」などを読んで航空ファンになってしまった人、
 「ヒコーキオタクの部屋」1935年版が再現されていました。

1920年代から30年代にかけて、第一次世界大戦の航空機というのは
大変人気のあるカルチャーで、マガジンやコミック、新聞などで
栄光の空中戦が取り上げられました。

航空マニアは熱心にストーリーを読み漁り、ラジオドラマを聴き、
空戦を描いた映画を観に行き、果ては飛行機模型を・・・・

あれ?こんな人今でも普通にいるなあ。

このギャラリーの手厳しいところは、こういったマニア連中は
その結果、

「空戦が実際にどのようなものであるかについて、
歪んだ見方をすることになった

と切って捨てているところでしょう(笑)

一方、この大衆文化の多くは戦闘機パイロットになることができる
(その資格を持つ)若い白人男性を対象としたものでしたが、
そこにとどまらずより広くアピールする魅力があったのも事実です。

女性やアフリカ系アメリカ人にも航空マニアとなる人は多く、
(彼らはミリタリーパイロットになることを禁じられていた)
彼らもまた大衆文化の中のロマンチックな空の戦争に心を奪われたのです。

彼ら彼女らのほとんどが、白人男性と全く変わらない経緯で、
航空マニアになっていきました。
つまり、熱心に航空雑誌を読み、模型を作り、映画を見るというように。

この映画は有名なのでご存知の方も多いかもしれません。

「地獄の天使」Hell's Angels 1930

は、「飛行機オタク」ハワード・ヒューズが監督を務めたパイロットものです。
(ところでヒューズの綴りってHUGHESだったんですね。今知った)

わたしも観たことがないのでwikiからあらすじを抜粋すると以下の通り。

オックスフォードの学友、ドイツ人留学生のカールと、
ラトリッジ兄弟のロイとモンテの3人と戦争を描いた物語である。

兄、ロイは遊び慣れしたヘレンを貞潔な女性と思い込んでいるほどの硬い男で、
一方、弟、モンテは節操の無い享楽主義者だった。

第一次大戦が始まると、兄弟はともにイギリス陸軍航空隊に入った。
ドイツ空軍に招集されたカールは、ツェッペリン飛行船でロンドン爆撃を命ぜられるが、
イギリスへの愛を断ち切れず爆弾を全部池の中に投下する。
(インターミッションはチャイコフスキーの交響曲第5番第2楽章)

兄弟は修理したドイツ軍の墜落機で敵軍になりすまし
敵の弾薬庫を爆撃する作戦に志願し、出撃。
爆撃は成功するが、2人は撃墜されて捕えられた。

助命の代わりに英軍の作戦行動の機密を売れと脅迫され、
弟モンテは死への恐怖から話す決心をするが、それを知ったロイは
情報提供の代わりに拳銃を要求し、その銃でモンテを撃ち、
自らも祖国を裏切ることを拒んで、銃殺場へと連れられて行く。

ジーン・ハーロウ演じる「悪い女」がやたらクローズアップされていますが、
彼女はどうやらパイロットの物語に色を添えるだけのキャスティングだった模様。

筋全く関係なしの過剰サービス画像

撮影には87機の第一次世界大戦当時の英仏独蘭の戦闘機や爆撃機を購入し、
実際に飛行させており、当時としては破格の製作費をかけた超大作で、
この映画の撮影中の事故で3人のパイロットが死亡しているそうです。

(ただでさえ飛行機の安全性には問題のあった時代ですからね)

映画「アビエイター」でディカプリオが演じていましたが、このとき
ハワード・ヒューズ自身も飛行し墜落、眼窩前頭皮質を損傷する負傷を負い、
この怪我が後の奇行の原因になったといわれているそうです。

ところで、冒頭写真の正体ですが、この白黒写真と同じものです。

プファルツPfalz D.XII

「ハリウッドエースのための戦闘機」という説明があります。

このドイツ機プファルツD.XII戦闘機は、ハリウッドの航空映画で長年使用され、
本物の戦争期間よりずっと長い間第一線に就いていました。

1930年代、これらの映画は空中戦というものを形作り、
WW1パイロットのイメージを騎士道精神溢れた
「ナイト・イン・ジ・エア」として永続させるのに役立ちました。

上記の「暁の偵察」でもこのプファルツD.XIIはその赤の色彩、
胴体に描かれた髑髏のマークと鉄十字で映画の虚構を彩っています。

映画ではスタント「エース」だったフォン・リヒターなる人物が
ステレオタイプの恐ろしいドイツ人としてこれを操縦しました。

実際のプファルツが西部戦線に登場したのは1918年です。
第一次世界大戦後は賠償として連合国に多くが接収されました。

「暁の偵察」で使用された機体は、まさにこの時に取得したもので、
ハワード・ヒューズは同じ機体を「地獄の天使」にも登場させました。

その後、この「ハリウッド戦闘機」はパラマウントが取得し、
1938年度作品の「Men With Wings」にも登場しました。

Menwithwings1938.jpg

スミソニアンでは、この機体を使った映画が会場で流されていました。

 

続く。


ジョージ・ウェスティングハウス メモリアル:おまけ エジソンクズ案件〜アメリカ ピッツバーグ滞在

2020-10-08 | 歴史

ピッツバーグに縁ができ、時間が許す限り現地を歩いてきましたが、
やっぱり最初に発見したシェンリーパークは何度歩いても飽きません。

人工的な構造物はありますが、それらは前にもお伝えしたことがあるように
WPAという大恐慌のあとの失業者対策事業のころにできたものなので、
石積みだったりレンガが敷き詰められたりで実に風情があるのです。

これはまだ暑い頃に撮った写真です。
フラッグフィールドを周りの道沿いに一周し、丘を下るとそこには
ウェスティングハウス・メモリアルがあります。

ウェスティングハウスとは、あのアメリカの電機メーカーの創始者、

ジョージ・ウェスティングハウスJr.(George Westinghouse, Jr)1846−1914

のことです。

技術者にして実業家でもあったウェスティングハウスは、
電気産業を発展させた先駆者でありました。

メモリアルは、若き日のウェスティングハウスが、彼の全人生における
その発明を記した碑に向き合って立っているというデザインです。

恰幅のいいタキシード姿のおじさんが立っている銅像よりも、なにか
青雲の志みたいな、未来を信じることの大切さみたいな(適当)
そういうメッセージが感じられていいですよね。イケメンっぽいし。

 

ジョージ・ウェスティングハウスは、1846年、ニューヨークで生まれました。

父はマシンショップの経営者ジョージ・ウェスティングハウス・シニアで、
彼の正式な名前はGeorge Westinghouse Jr.だったのですが、彼は
父親の死後「Jr.」をなくしてしまいました。

彼の祖先はドイツのウエストファーレン出身で、ドイツでの名前は
「Westinghousen」つまりドイツ読みだと「ウェスティングハウゼン」となりますが、
移民してきた人の家名の常として英語風に「アレンジ」されています。

技術者として、そして実業家として名を残したウェスティングハウスは、
彼は若い頃から工学ととビジネスの方面に才能を発揮したそうですが、
その土台は父親の所有する工場で子供の頃から働いていたことで育まれています。

老けてませんか

15歳のときに南北戦争が勃発すると、止むに止まれずニューヨーク州兵に志願しました。
正式には志願は17歳からでしたが、その辺は適当だったようです。

軍隊という組織が水に合ったのか、彼は両親が懇願するまで除隊せず、
やっと帰ってきたと思ったら今度は渋る親を説得して
第16ニューヨーク騎兵隊に入隊、18歳で 陸軍を辞めたと思ったら
今度は海軍に加わり、南北戦争の終わりまで、士官として

USS Mascoota(マスクータ、砲艦 ガンボート)

の補助機関士を務めていました。

USS Muscoota.jpgUSS Maccosta

想像ですが、彼はこのときの機関室勤務で、自分が進むべき道と
自分の天才との相性の良さに気づいたのではなかったでしょうか。

彼の膨大な開発品の中には海上推進用の蒸気タービンがあります。

彼は67歳で死去したとき当初はブロンクスの墓地に埋葬されたのですが、
軍歴があったため、翌年棺をアーリントン国立墓地に移し、そこで眠っています。

 

さて、若きウェスティングハウスが熱狂した(らしい)戦争も終わりました。
退役した彼は、スケネクタディ(航空博物館のあったあそこ)の実家に帰り、
ユニオンカレッジに入学しますが、
最初の学期を終えずに中退してしまいます。

同じ年に彼はすでに最初の発明となる回転式蒸気機関、そして
「ウェスティング・ファームエンジン」などを考案しているくらいですから、
そんな彼にとって教養大学の授業は児戯にも等しいものだったのでしょう。

21歳で彼は線路の引き込み線の分岐器(リバーシブル・フロッグ)
また22歳で列車事故を目撃した彼は、即座にそのことから着想を得て
脱線した列車を元に戻すための装置をを発明しており、
このことからも早熟の天才ぶりがうかがえます。

 

 

さて、ニューヨーク生まれ、スケネクタディ育ちのウェスティングハウスの碑が
どうしてここにあるかっていう話なんですが、彼がマルグリット・ウォーカーと結婚後、
ピッツバーグに居を構え、工場を経営して住んでいたという縁によるものです。

彼らが住んでいたところは彼らが退去後荒廃していましたが、
ピッツバーグ市が買い取って現在「ウェスティングパーク」という公園です。

石柱はかつての邸宅の名残でしょう。

Drink It In: The Best Place to Get Drunk on Pittsburgh's History |  Pittsburgh Magazine新婚当初のウェスティングハウス夫妻

ウェスティングハウスは経営者としても才能の塊のような人物でした。
彼の会社は、

1日9時間労働
週通算55時間労働
土曜日は半日労働
労働者に女性を採用

とその後の労働体制の基本となったこれらのことを
初めて取り入れたアメリカの会社となりました。

シェンリー公園にはリリーポンドという可愛らしい名前の池があり、
ここが碑の設置する場所に選ばれました。

坂道の上は現在広大なゴルフ場になっています。
もちろんアメリカのゴルフ場なので柵などありません。

モニュメントの設計俯瞰図。

ウェスティングハウス・モニュメントが完成したのは 1930年、
会社の従業員がお金を出し合ったそうです。

モニュメント全体の主任設計者であるヘンリー・ホーンボステル(左)。
出来上がったばかりの碑の前で。

モニュメントの設計はカーネギーメロン工科大学(当時)の教授で
ノルウェー系アメリカ人のポール・フィヨルドが手掛けました。

しかし落成から100年という年月の間にモニュメントは劣化し、
途中で洪水などもあったため、現地は一時荒廃していました。

ウェスティングハウス財団とメロン財団、そして市が共同で
この部分の大々的なレストアを行い、現在の姿になっています。

地面の敷石はそのときにあらたに設置されたものだということです。

落成当時より周りをあふれるばかりの緑が覆い、よりいい感じに。

若き日のウェスティングハウスが向かう半円形のスクリーンには
かれの業績がレリーフとともに並べられています。

「幹線鉄道の操作が初めて高圧電気に置き換えられる」

「省スペースでハイパワーと素晴らしい低コストによる蒸気タービンは、
普遍的な電力の基本的な供給源になりました」

「ナイアガラの滝のエネルギーを電気に変換する
最初の大きな電力システムは産業帝国を築くことに寄与しました」

「1893年にシカゴで行われたコロンビア万国博覧会では、
安全なACシステムが供給できるという史上初のデモをおこないました」

ウェスティング・エアブレーキは世界中の鉄道輸送の速度の
安全性と経済性を計り知れないほど高めました」

「安全なスピードでの輸送を可能にした最新の信号システムは、
ウェスティングハウスの先見性の賜物でした」

ジョージ・ウェスティングハウス

北軍兵士
ピッツバーグ市民
ウェスティングハウス創始者
その発明と労働によって人類に恩恵をもたらした人

1846−1914

このメモリアルは、産業という軍隊で彼と一緒に働いた
ウェスティングハウス記念協会の54251人のメンバーによって建てられました

ウェスティングハウスの発明の恩恵を受けた人々の代表である
労働者とビジネスマン二人の後ろ姿も裏に回ると見ることができます。

石碑に金で彫り込まれたウェスティングエアブレーキの展開図。

ところで、ウェスティングハウスといえばトーマス・エジソンとの葛藤が有名ですが、
どうもこれ、読めば読むほど日本では「発明王」として偉人化されているエジソンが
実は偉人どころか悪人じゃないかという気がしてきます。

彼らはウェスティングハウスの交流送電システム、エジソンの直流送電システムで
電流戦争と呼ばれる戦いを繰り広げました。

エジソン「高電圧システムは危険だ」

ウェスティングハウス「いや、管理可能なものであり、利点が多い」

エジソン「よし政治家に働きかけて送電電圧を800 Vに制限する法案を成立させたる!」

→失敗

エジソン「くそっ、こうなったらあいつの理論のイメージそのものを落としたる」

→交流電流で象を公開処刑する実験をおこなう

エジソン「ウェスティングハウスの理論では象ですらこの通り、
人ならもっと簡単に死にますから、処刑に利用するのがいいでしょうな」

→初めて電気椅子を使って人間が処刑される

エジソン「電気椅子の処刑は採用させたぞ。
電気椅子による処刑を『ウェスティングハウスする』 (Westinghousing)
と呼ばせるように扇動してやれ」

ウェスティングハウス「なんて残酷で異常な処刑法なんだ!
失敗した上8分間も処刑者を苦しめるなんて許せん!訴える」

→「コール・ウェスティングハウジング」作戦失敗

→ついでに交流送電システムの信用を傷つけることにも失敗

エジソン・ゼネラル・エレクトリックを吸収合併したゼネラルエレクトリックが
交流用の設備の生産を開始することを決定し、エジソン完敗

この経緯について電気椅子と象さんの処刑シーンを含む
説明映像がありましたので
よろしければ色々覚悟の上ご覧ください。

象だけでなく犬などの動物も実験で処刑したということですが、
今なら動物愛護団体がだまってませんわ。

Westinghouse - Chapter 16 - Battle of the Currents

しかし、エジソン、あのニコラ・テスラにも酷いことしてますよね。

直流用に設計された工場システムをテスラの交流電源で稼働させたら、

褒賞として5万ドル払うと提案しておいて、テスラが成功させると
交流を認めたくないがあまり「冗談だった」といって支払いをせず、
テスラは激怒して退社し、ウェスティングハウスのところに行ったとか。

このおっさんどう控えめに言ってもクズです。

どうして日本ではウェスティングハウスとテスラよりエジソンが有名だったのか、
誰か理由をご存知の方いますか?

 

 

 


南北戦争のBlack Lives Matter〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2020-10-06 | 歴史

ここピッツバーグのBLM、ブラックライブズマターについては、
デモなどを見ることはまずないのですが、空き地のフェンスに
これまで警官に命を奪われたとされるアフリカ系アメリカ人の名札を貼って
花が供えてあったり、必ずバイデンの名前とセットで庭に札を立てていたり
おそらく許可を得ていないような場所にデカデカと、

ペイントをする人がいたりして、まあそれなりに一部ムーブメントなんだな、
と感じるものはあります。

この文字の書かれた壁の上にかかる高速道路の橋脚には、
巨大な「犠牲者」の似顔絵がペイントされています。

BLM運動のきっかけになった男性の死亡事件が起こってから
そんなに経っていないのにもかかわらず、ここまでの大作を
一人で仕上げた人がいるわけですね。

大きな運動のきっかけとなったのは5月のジョージ・フロイドの死亡でしたが、
わたしは正直この人が麻薬の常習者で偽札を作っていた「札付き」ということもあり、
警察の対応に問題があったのは確かだけれど、フロイド氏を聖人化して
葬式で天使の輪っかに羽をつけた巨大な肖像画を作ったり、セレブが競うように
彼の遺児に莫大な金額に相当するプレゼントをしたりというのは、
なんだかちょっと違うんじゃないかという気がしたものです。

んがしかし、この絵のブレオナ・テイラーさんという女性の死は
あまりにも理不尽で掛け値なしに気の毒としかいいようがありません。

警察はすでに勾留中の麻薬の売人を検挙しようとして
彼女の家に深夜間違えて踏み込み、警察を不審者だと思った彼女のボーイフレンドが
銃を使ったのをきっかけに、テイラーさんに銃を発射。

彼女はおそらく何が起こったかわからないままに
8発の銃弾を体に受けてほぼ即死したといいます。

大学卒業後救急救命士としてルイビル大学病院に勤務していた
真面目な26歳の女性が、警察の「勘違い」で死亡したのでした。

ただし、警察は、彼女と対面する前に銃声が聞こえたため、
ドアを蹴破って突入し、ほとんど同時に銃を3人で22発撃ったため、
彼女が黒人であることも、女性であることも、銃撃と同時に知ったでしょう。

というか狙いだった麻薬の売人も黒人だったため、家を間違えていても
誰も気づかなかったというのが悲劇です。

彼女は厳密には「黒人だから殺された」のではなく、間違いであったわけですが、
踏み込んだ部屋の中にいたのが白人女性であれば警官はそれでも発砲したのか、
という疑問は当然湧いてきます。

この事件の続報として、ちょうどわたしが帰国してホテルで待機していたとき、
CNNで事件に関与した警官3人のうち2人は不起訴とする大審院の判決に対し、
 抗議運動参加者と警官隊と衝突したというニュースを繰り返し報じていました。

この騒乱で警官2人が銃撃を受けて重傷、銃撃を行った容疑者を含む
デモ参加者127人が逮捕されたそうです。

この騒乱でも銃撃されているのが警官であることからもわかるように、
警察がともすれば容疑者に対してオーバーキルになってしまう理由は、

逮捕の際に犯人に撃たれて殉職する警官が非常に多いからと聞きます。

実に不条理な死ですが、BLMは叫ばれても、OLM(オフィサーズライブズマター)
については決して社会問題になることはありません。

人種がどうのこうのの前に、アメリカを銃を持たない社会にしさえすれば
起きなかった事件ばかりではないの、と日本人としては思ったりするわけですが、
とはいえ、アフリカ系がアフリカ系ゆえに差別以前に命の危険に曝される、
という彼らの危機感は、彼らにしか実感できないものであるのも事実です。

そもそもアフリカ系が堂々と差別されていたのはつい最近までで、
人権が制度上改革されてからまだ100年も経っていないのです。

人心に巣食う差別心はまだまだ払拭できていないのが現実なのでしょう。

 

 

ところがそんな人間扱いされていなかったアフリカ系を軍隊に
登用することは、南北戦争時代から行われていました。

身も蓋もない言い方をすれば、死ぬことが前提の駒としての命は
国家にとって「多ければ多いほどいい」からだともいえます。

彼らの命は戦争を行う国家にとって「有効活用」すべきものでしたし、
そのためには奴隷のように無理やり引っ張っていくのではなく、
彼らに栄誉を与え、彼らの一部には部隊を率いる指揮官として
白人と同じ階級を与えるということもあえて戦略的に行ったのです。

SSMMの次のコーナーでは、南北戦争時代「黒人の命の問題」が
どのような形で扱われていたかを知るための資料が紹介されていました。

「アフリカ系アメリカ人と南北戦争」というコーナーです。

まず、冒頭写真は南北戦争のあとに組織されたアフリカ系からなる部隊、
第24歩兵連隊のポスターです。

24歩兵連隊は南北戦争が終わった4年後の1869年から1951年まで、
そして再び1995年から2006年まで活動したアメリカ陸軍の部隊で、
1951年の最初の解散前は、主にアフリカ系アメリカ人の兵士で構成されていました。

連隊は、法制度としての人種差別がまだ存在しており、黒人部隊そのものが
「セカンドクラス」として扱われながら、国家に忠誠をつくし
国のために戦ったという点で特筆に値します。

第24歩兵連隊は、ここでも度々お話ししているアフリカ系兵士ばかりの部隊、
バッファロー連隊のひとつです。

南北戦争中に組織された

第38アメリカ(カラード)歩兵連隊(1866年7月24日制定)と
第41アメリカ(カラード)歩兵連隊(1866年7月27日制定)

から編成されました。
いずれも南北戦争のためにほぼ同じ時期に作られた部隊です。

ちなみに、南北戦争時代「カラード(色付き)部隊」と呼ばれる
黒人だけの部隊、連隊はこれだけたくさんありました。

南北戦争中のアメリカ合衆国カラード連隊リスト

このページをスクロールされた方はあまりにリストが長いので驚かれるでしょう。

戦後組織されたこの第24連帯のような黒人部隊に入隊した兵士は、
南北戦争の退役軍人か、あるいはフリードマンと呼ばれる
奴隷から解放された黒人たちのどちらかでした。

ちなみにフリードマンが多く住み着き、コロニーを結成したのはテキサス州です。

もう一人の人形は、おそらく

マーチン・R・ディレイニー少佐 Major Martin R. Delany(1812-1815)

のつもりだと思われます。
彼は南北戦争中に少佐まで昇進した初めてのアフリカ系アメリカ人でした。

奴隷制廃止論者、ジャーナリスト、医師、軍人そして作家、
おそらく彼は黒人ナショナリズムの最初の提唱者で
「アフリカ人のためのアフリカ」という汎アフリカ主義を掲げました。

ディレイニーは、ピッツバーグで白人医師のアシスタントとして医学を学びました。
彼はピッツバーグで3人の医師の元で研究を行いましたが、
彼らはいずれも奴隷廃止論者であったのは勿論です。

1833年と1854年、ピッツバーグでコレラが流行したとき、
多くの医師や住民が汚染の恐れから街を逃れたにもかかわらず、
街に止まって患者を治療し続けました。

37歳のとき、彼は医学部の受験を決心します。

17名もの医師の推薦状を持っていたのにもかかわらず、
ほとんどの大学は申請すらも受け付けようとしませんでしたが、
唯一それを受理し、入学を許可したのがハーバード大学でした。

このときハーバード医学部は彼を含む3名の黒人学生の入学を許しています。

ところが、授業が始まった翌月、白人の学生のグループが

「黒人の入学は我々が供与されるべき福祉や
医学の講義にとって非常に有害である」

という手紙を教授らに送り抗議をしたのです。
彼らの言い分は、

「黒人が教育を受けたり地位を得ることに対して異議はないが、
当大学で我々と一緒に行われることには反対である」

というものでした。
レイシストという言葉は当時はありませんが、要するに
我々はレイシストではないので差別はしないが、
どこか別のところに行ってくれというわけです。

 

3週間以内に、ディレイニーと他の2人の黒人の学生、
Daniel Laing、Jr.Isaac H. Snowdenは、多くの学生や医学校のスタッフが
学生であることを支持していたにもかかわらず退学になりました。

113名のうち27名の白人学生が

「彼らを入れるなら我々がやめる」

脅迫したので学校側は屈してしまったのです。

医学大学で学ぶ夢を絶たれた彼はピッツバーグに戻りました。
彼は白人の支配階級はたとえ有能であっても有色人種に
社会のリーダーになることを許さないということを確信し、
彼の意見はより先鋭的に、ある意味極端になったと言われます。

Martin Robison Delany (before 1885).jpg

彼はその後奴隷制の実態をを直接観察するために南部を訪れ、
その後出版社を興して本を発行します。
そしてリベリアやカナダなどに在住していましたが、南北戦争が始まると
黒人部隊の編成のためにアメリカに戻りました。

そしてリンカーンのために戦う軍の入隊者を集め、最終的にその数は
北軍全体の10%に相当する17万9千人となりました。

1865年、ディレイニーはリンカーンに会って彼は

黒人将校に率いられた黒人兵による部隊

の設立を提案します。
前述のフレデリック・ダグラスが既に北軍に対し行っていた同様の訴えは
却下されていましたが、リンカーン本人がディレイニーを

「最も並外れたインテリジェントな男」

と評価したこともあって、彼は黒人として最初の指揮官となったのです。

第107カラード部隊の音楽隊。
軍隊における音楽隊の任務はある意味今より生活に密着しており、
重要な働きをしていたといえるかもしれません。

ここでちょっと和みネタを。

おじさんの足元にいるこのぬいぐるみの犬は、
前回登場した北軍のアイドル犬、「ドッグ・ジャック」のようです。

ドッグ・ジャックが寄りかかっているこの立派なおじさん、
残念ながら写真に写っていなかったのですが、おそらくこの人は
元奴隷で、奴隷廃止運動家、政治家にまでなった

フレデリック・ダグラス Frederick Douglass、1818−1895

ではないかと思われます。 
ダグラス(30代)

奴隷として生まれたダグラスの生涯の方向を決定づけたのは、
12歳のときに彼の女主人が見所があると思ったのか、こっそりと彼に
文字の読み書きを教えたことだったようです。

20歳ごろ(自分自身でも正確な生年月日を知らなかったという)
ニューヨークに逃げたのちは奴隷廃止運動に身を投じ、新聞を発行して
人権の平等を訴える活動を行いましたが、彼は急進的な、力で訴える方法には反対で
あくまでも言論で民心を動かしていこうとしていました。

彼の自叙伝「アメリカの奴隷」は、知性に劣るとされた黒人による著書としては
初めてベストセラーとなり、彼の名前は海外にまで有名になりました。

リンカーンや、リンカーン暗殺後はジョンソン大統領とも黒人参政権について協議し、
南北戦争後は奴隷解放救済銀行の総裁を務めています。

しかしながら、南北戦争で自らの血を犠牲にしていくら戦っても
自分たちを取り巻く環境にさほど向上がみられないと多くの感じた
多くのアフリカ系アメリカ人たちは失望し、白人と平等になるという夢を捨て、
白人のいない黒人だけの街を形成してそこで暮らすことでよしとするようになります。

これを見たダグラスは彼らに

「まだ諦めるな」

と説きましたが、理想と現実は違う、と自暴自棄的になった黒人たちに
お前は理想主義者だと非難され、その穏健的な方法が否定されることもありました。

 

南北戦争時代の陸軍駐屯地は、メンバーの個々の歴史が記録される本を保管していました。
ペンシルベニア州にあった15の「カラード部隊」駐屯地の1つである
ロバート・ショー大佐の大隊に保管されていたこの珍しい本には、
ピッツバーグのアフリカ系アメリカ人退役軍人の、
南北戦争サービスに関する貴重な情報が含まれています。

たとえば、ここに示されているのはMatthew Nesbittの身上書です。
ネスビット同志が自分の話を駐屯地の記録係に語りかけているとき、
それはほとんどの同志の身の上を代弁していたといってもいいかもしれません。

「わたしはジョージア州のゴードンカントリーで
ウィリアム・ネスビット氏の奴隷でした・・・・」

興味深いのは、奴隷から解放された後、彼がかつての主人(マスター)
の苗字を
そのまま名乗っていたことです。

1898年にネスビットはピッツバーグで大工となり、その後陸軍入隊し、
戦後はこのSSMMの近くに結婚して居を構え、
1910年に亡くなりました。


最後に、個人的に気になったこととして、ハーバードの医学部は
その後、有色人種の学生の入学を許可したのかどうかを調べてみました。

すると、リンカーンの奴隷解放宣言の署名が行われた後の1866年、
エドウィン・ハワードというアフリカ系の学生が入学し、
1869年に医学の学位を取得していたことがわかりました。

1888年にはフェルディナンド・オーガスタス・スチュアート
医学部に在籍し卒業後医学博士となっています。


Harvard Medical Class of 1888

スチュアートの在籍したハーバード大医学部の卒業記念写真。
三列目のほぼ真ん中に、ネクタイ・ベスト着用で写っています。

この頃、ウェストポイントにも黒人の士官候補生が入学しています。

黒人が軍士官学校や名門大学医学部に入学するに至ったことは、
人種的平等をめぐる戦いにおいては重要なマイルストーンとなったのは確かですが、
クラスで唯一の黒人であった彼らは、学校という組織には受け入れられても、
人間関係の中では孤立、孤独、そして完全な拒絶に直面しなければなりませんでした。

 

それは決して彼らのすべての問題の解決策にはなり得ず、
世紀が変わった今日も、根本的に全く同じ根から発生する事件が
BLM運動が広がりを見せる発露そのものを生んでいるということもできるわけです。

 

 

続く。