ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ラジコン潜水艦のプール展示〜平成30年阪神基地隊サマーフェスタ

2018-07-31 | 自衛隊

 

阪神基地隊というのは決して広い基地ではありません。

今回来阪した「ちはや」「さざなみ」、掃海艇の「なおしま」が繋留されて
それだけでフルになる岸壁を二面、あとは芝生とヘリ発着のサークル、駐車場。

建物以外はそんなもので、つまり来場者が見て歩くような施設はないのです。

それだけに、一般解放のイベントには人々を惹きつける工夫が必要となってきます。
アイドルを呼んでのパネルディスカッションという試みもその一つですが、
なかなか画期的なイベントだと思ったのが、プールでの潜水模型実演でした。

プールはパネルディスカッションが行われた体育館の階下にあります。
阪神大震災の時、プールの底には亀裂が入り、水が抜けたそうです。

あの時、関西地区に所在する自衛隊基地は等しく被害に遭いましたが、
その中でも一番酷かったのがこの阪神基地隊でした。

地盤が埋立地であるため、液状化現象による地盤沈下がおこり、また、
護岸及び道路の一部が1~2m沈下するという壊滅的な状態だったそうです。


そのプールに到着すると、模型の潜水艦が水面に浮遊していました。

・・・・・なんだこの妙なシェイプの潜水艦は!?

と思ったらダイバーでした(笑)
といっても、「ちはや」に所属しているようなガチンコな人たちではなく、
シュノーケルと水中眼鏡をつけて時々水中にも潜るだけの、
つまりこの模型クラブのメンバーだと思われます。

潜水艦をプールで航行・潜航させたりするうちに、どうしても
水の中に潜らなくてはいけない事態になるということなのでしょう。

ちょうどこのとき、プールサイドの人が潜水艦を引き揚げていて、
水中の人はそれを支援していました。

引き揚げられた潜水艦が、ドイチュ国軍の旗の上のラックに置かれました。
ドイツということは、当然Uボートです。

この潜水艦模型を実際に水に浮かべているのは一体どんな団体なのでしょうか。

日本模型潜水艦協会、JMSSというのがこの団体の名称です。

この直前、わたしは飛行機のソリッドモデル展を見たばかりだったのですが、
同じ模型でもどうやら全く趣向が違いそうです。

まず、このクラブにおける「模型」とは「ラジコン模型」のことです。

地元六甲アイランドにその前身の発祥を持つこのクラブは、
アイランドシティーにある深さ50センチmの人工の川(透明度が高い)
今でも毎週日曜日の午前中、定期潜航会を行なっているそうです。

つまりソリッドモデルのように艦体そのものを作り上げることではなく、
操縦することがメインのクラブだったわけです。

いやー、一口に趣味の模型といっても奥が深いわ。

見たところ、現場のラジコン模型は、ソリッドモデルの作品のような
マイナーな機種より、Uボートや伊号潜水艦といった
「潜水艦の王道」が中心であるようにお見受けします。

立派な金属のプラークを埋め込んだ名札には、

U-Boat VII-C 1940

と刻まれています。

当方、Uボートに関してはまだ全然調べが足りておらず、
今のところ
Uボートとは

「ウンターゼー・ボート(海の下の船)」

という意味であることくらいしか知らんのですが、
たった今調べた付け焼き刃知識によると、第二次世界大戦が始まってから
ドイツは「I」からU-boatの建造を重ねていっており、この「VII」は
その7番目で、名実ともにドイツ海軍潜水艦の主流となったタイプです。

この模型では船殻の外側に膨らみが確認できますが、
これはバラストタンクで、 VII型の大きな特徴です。

ところで、ソリッドモデル展の時に逆卍のハーケンクロイツは
物議をかもすので使わない、という話をしましたが、
このU-boat(ちなみに発音は”ウーボート”でビッテシェーン)も、
バリバリナチスドイツ海軍の潜水艦なのに鉤十字はありません。

どうも鉤十字自粛は模型界の鉄則となっているようですね。

プールで航行&潜航させていい潜水艦は基本一隻、せいぜい二隻のようです。
野次馬としては、伊号とU-boatの同盟国競演なんてのを見てみたいですが、
これだけ広いプールでも(競技用50m)コリジョンの可能性があるのかな。

これは遠目でよくわかりませんが(近くてもわからないという説も)、
アメリカの潜水艦ではないかという気がします。

なんかこんな甲殻類いたよねー。
なんだっけ。カブトガニ?三葉虫?

引き揚げられたのを確認したらノーチラス号でした。

ノーチラス号はジュール・ベルヌの冒険空想小説「海底二万哩」に登場する
架空の潜水艦で、「ノーチラス」という言葉にはオウム貝という意味があります。

アメリカが世界最初の原子力潜水艦にこの名前をつけたのはご存知の通り。

自衛艦旗の上は一番左が「そうりゅう型」、二つ向こうは「うんりゅう」、
その向こうは「ゆうしお型」のような気がしますが、確信はありません。

左から二番目、この丸いノーズはUボートかな?

このテーブルの出品者の作品は伊号と呂号です。
伊潜は366号、回天を搭載しています。

わたしが来たときには、製作者が若い男性に「伊」「呂」の説明をしているところでした。

「回天戦は実際にやってるんですか」

と聞いてみると、どこかわからないが南方で、との返事です。
ウィキで調べると伊366がパラオで回天3基を出撃させたのは
昭和20年の8月11日、終戦の4日前のことでした。

伊366は終戦まで生き残り、五島列島で米軍により海中投棄されましたが、
かつて戦艦三笠内の会議室で行われたラ・プロンジェ深海工学会による

「海底の潜水艦探索プロジェクト」

でその姿が確認されているそうです。

 

そして手前は呂号第35潜水艦。こちらも三菱重工の生まれです。

1943年の8月25日、サンタクルーズ諸島沖で、米駆逐艦パターソン(DD-392)
に発見され、爆雷攻撃を受けて戦没しました。

艦橋がリアルに表現されていて泣けます。
手前の人は艦内と通信を行っているのでしょうか。

しかし、呂号35が戦没したのは就役してわずか1年半後ですが、
それにしては
艦体が古くなりすぎてやしませんか。


ところでわたしはこの時点でまだ、この模型を作ったのも出品者である、
と思い込んでいたのですが、実は
彼らの「仕事」は、装置を仕込み、
それを操縦することだと一連の会話でようやく知りました。

しかし全員がそうであるということでもなく、中には
自分で模型から作る人もいるということです。

伊号54の艦橋も人体を配して再現されています。

伊54は昭和19年に就役し、捷号作戦に出撃して消息を絶ちました。
米軍の記録によると、撃沈したのはアメリカ海軍の

駆逐艦「グリッドレイ」DD380

駆逐艦「ヘルム」DD388

であったということです。

話を聞いていると、上の部分をぱかっと外して見せてくれました。

当たり前ですが、中身が本物通りに再現されているはずもなく、そこには
水中を航行潜航するためのラジコン装置が内蔵されていました。

なぜこの人たちがラジコン潜水艦に夢中になるかというと、それはひとえに

「操縦の複雑さ」

が人を飽きさせないことにあるのだとか。
同じラジコンでも、水上をただ平面的に動かすのと、三次元的に
水中を自由に動き回るまでに習熟するのとでは文字通り次元が違います。

そういえば、呉にある「てつのくじら」を併設した自衛隊資料館で
潜水艦について説明する

「Knou Your Boat!」

のコーナーに

「海面を二次航行するだけの水上艦と比べ、
三次元の海中を航行する潜水艦の操作が難しいのは当然である」

と上から目線で?書いてあったのを思い出しました。

難しいからこそやりがいをそこに見出し、幾つになっても、
何年やっても飽きることがない、というのがこのラジコン潜水艦に
夢中になる人たちの「萌えポイント」のようです。

これを見てもわかるように、ラジコンで動かすのが目的なので、
その「ガワ」は既製品でもいいわけです。

この、まるでエイのような潜水艦は、テレビドラマ

「原子力潜水艦シービュー号」Voyage to the bottom of the sea

に登場する架空の潜水艦、

シービュー号

だそうです。
当クラブによると、「SFクラス」として会員の所有しているモデルには

ノーチラス号

原潜シービュー号

”謎の円盤UFO”「スカイダイバー」

”海底大戦争”「スティングレー」 

”海底軍艦”「轟天号」

小沢さとる作「サブマリン707」

があるそうで・・・・。

謎の円盤UFOって、エリス中尉のあれですよね。
それから、轟天号!
このブログでは散々「海底軍艦」で盛り上がったもんですよ。

まさか空は飛びませんよね?

六甲アイランドの人口川でなら問題はないと思うのですが、
潜水艦ラジコン操縦を野池で行うのは大変なスリルと緊張です。

一つ間違えば非常に長い製作時間を費やした作品を失う危険と隣り合わせ。

そもそも、ラジコン潜水艦の水密(可動部分、スクリューを回す軸の防水、
水圧対策)及び潜行・浮上は技術的に大変難しく、そのハードルを
クリアーするのは簡単なことではありません。

だからこそ、その達成感は何ものにも代えがたい喜びとなるのでしょう。

目の前で潜水してくれないと写真に撮ることができず、
結局潜水中の写真は唯一このシーンだけです。

ひとしきり見学が終わって、外に出てみました。

会場では野外ステージでこの日「防衛パネルディスカッション」をした
メンバーの属するアイドルグループのパフォーマンスが行われていました。

ちなみに、このグループは芸能事務所に所属するれっきとしたタレントですが、
阪神基地隊の催しには他の出演者(近隣大学のブラバンやアカペラグループなど)
と同じくボランティアで出演しているのだそうです。

この炎天下、日陰もないアスファルトの上で皆さんご苦労様なことです。

前列どころか、見物しているのが全員男性(平均年齢35くらい)です。
しかもその最前列の席には海上自衛隊の制服姿が!

うーむ、このお姿は先ほどパネルディスカッションを行なったばかりの(略)

最前列の椅子の背中には「指定席」という貼り紙(笑)

ちなみにアイドルの出番が終わり、ファンがすっかりいなくなった後も、
同じ席でずっと後続のパフォーマンスに拍手を送っておられました。




続く。




二人の艦長〜インディアナポリス轟沈と伊号58

2018-07-30 | 海軍

メア・アイランド海軍工廠跡の博物館の一隅でわたしは足を止めました。
あの戦艦「インディアナポリス」が彼女の運んだ原子爆弾について、そして

彼女を轟沈した伊58潜水艦とともに紹介されていたからです。

それは73年年前の今日、1945年7月30日の出来事でした。

アメリカ海軍の戦艦を攻撃した帝国海軍の潜水艦長と、攻撃を受けて
沈んだ戦艦の艦長だった二人の指揮官について、お話ししようと思います。

戦艦「インディアナポリス」はニューヨークのカムデン生まれ。

開戦後ニューギニア始めアリューシャン、マリアナ諸島、フィリピンと
太平洋に派出されては次の任務まで、ここメア・アイランド海軍工廠で
オーバーホールを受けてきて、ここが「ホームグラウンド」でもありました。

メアアイランド海軍工廠に入渠時の「インディアナポリス」です。
この時工廠では白丸で囲まれた部分の換装が行われました。

って、これ艦橋全部ですよね。

 

メア・アイランド海軍工廠は、原爆投下のための重要な役割の一部を担っています。

ヴァレーホ在住で35年間メア・アイランドで艤装に携わってきた
エディ・マルチネスは、1945年、サイクロンフェンス(クリンプネットの鉄条網)
がある日工廠の北端にある武器倉庫No.627Aの周りに巡らされ、10日後には
犬を連れた海兵隊がフェンス周りを警備するようになったのを目撃しています。

何年かして当時の極秘資料が公開されたとき、マルチネスは原子爆弾のコンポーネント、
周辺器具がメア・アイランド経由で梱包され積み込まれたことを知りました。

資料によるとメア・アイランド海軍工廠は南方に輸送するために精密機器を扱うのに
特殊な技術を持っていて、それが評価されたということになっています。
そして単独の、独立した建物が御誂え向きに島の端にあったということでしょう。

2ヶ月後、建物と柵は撤去され跡形も無くなりました。

この写真は1945年7月10日、メア・アイランドを出航する「インディアナポリス」。

メインのオーバーホールをここで受けた後、彼女は「極秘任務」として
サンフランシスコ東海岸にあったハンターズポイント海軍工廠で、
核実験(トリニティテスト)を数時間以内にしたばかりの濃縮ウラン、
広島に投下予定の原子爆弾に搭載するための濃縮ウランを積み込み、
サンフランシスコからパールハーバーに7月19日に到着しました。

その後テニアンに向かい7月26日到着、「積荷」を降ろし、
28日にレイテに向かいました。

その航路途中、7月30日、橋本以行艦長率いる帝国海軍の伊号58潜水艦の魚雷を受け、
わずか12分(5分という説もある)で「インディアナポリス」は轟沈しました。

ここにある展示の説明は、

インディアナポリスがメア・アイランドのドライドックに入渠中、
戦争省は今まで一度も使われたことのない「爆弾」を運搬する船に
彼女を指名したが、その理由は彼女の速度であり、能力であった。

ニューメキシコのロス・アラモスで進められていた「マンハッタン計画」を
実行に移すことが決定したのは7月16日のことであった。

同日の早朝、厳重に秘匿されてはいるけれど多くの提督が、将軍が、
そして技術者たちが布で覆われた原子爆弾が「インディアナポリス」に
積み込まれるのを凝視していた。

とあり、これもまたwikiとは日付が違っていて困ったものです。
7月16日といえば、インディアナポリスは太平洋上を航海中だったはずなんですが。

いくつかの大きな木製木箱が好奇心をあからさまにする人の目から
隠されるように艦内に積み込まれ、艦内の一角に安置され数人の警備がついた。

映画「インディアナポリス」には、好奇心を隠せない水兵が、警備の海兵隊員に

「中身は?マッカーサー将軍のトイレの紙って聞いたけど」

と冗談をいって睨まれるシーンがあります。
ちなみに、この海兵隊員(生存)は水兵(生存)に

「なんでマリーンに来たの?」

と聞かれ、

「To kill people.」(人を殺すためだ)

とにこりともせずに答えます。

 

「インディアナポリス」総員の出港前記念写真。

こちらは映画の全員で写真を撮るシーン。
こういう写真では兵たちは砲の上、艦橋にくまなく乗って写っているものですが、
それをしなかったのは・・・後ろの戦艦がCGだったからかな?

二つの爆弾の「心臓」はウラニウム−235で、鉛で封印された
金属コンテナに収められ、アドミラルキャビンの中に滑り止めをつけ、
デッキに溶接された台に安置された。

ということはですね。

よく歴史の”if”で語られるように、伊58の攻撃がもう少し早く、
つまりテニアンに着く直前であったなら、間違いなく
原子爆弾は
艦と共に海の底に沈んでいたということでもあります。

この原子爆弾二基のために、地球上に存在するウラン量の半分が
濃縮されたともいわれており、したがってさしものアメリカにも
追加で原爆を製造することは不可能だったのではないでしょうか。

原子爆弾の中身の図解がありました。

5番の赤い部分にあるのがウラニウム235で、
一枚26kgのリングが6個重ねてあり、先端の赤い部分には
38kgのリングが二枚内蔵されています。

8月6日の広島に続き、三日後の8月9日、「ボックスカー」から投下された
「ファットマン」が長崎に投下されました。

「ボックスカー」

しかし、その時には、原子爆弾をテニアンに運んだ「インディアナポリス」は
10日前に帝国海軍の潜水艦に撃沈され、もうこの世にはありませんでした。

「HIJMS」とは艦船接頭辞です。

帝国海軍を表すのにはIJN「Imperial Japan Navy」というのが一般的ですが、
英語圏の著述者には、たまにこの

「His Imperial Japanese Majesty's Ship」

を意味する略称を日本の軍艦を表す接頭辞に使用する人がいます。

それはともかく、ここで紹介されているI-58、伊号潜水艦58が
「インディアナポリス」を沈めました、と書かれています。

伊–58艦長橋本以行(もちつら)中佐の写真もありました。

ところで冒頭の絵は、映画「パシフィック・ウォー」(この邦題のセンスの無さよ)
を観て、わたしがどうしても描いてみたいと思ったシーン。

ニコラス・ケイジ演じる

チャールズ・バトラー・マクヴェイ3世

が、「インディアナポリス」沈没の指揮責任を問われ、
裁判に出廷した後、橋本中佐と敬礼を交わした瞬間です。


一応参考までにこの映画を観た感想を検索してみたところ、

「CGがチャチ」「これは戦争映画じゃなくサバイバル映画」

などという理由で評価を低くしている人が多いようでした。
(確かにわたしも回天発進シーンでガクッとなりましたが)

しかしわたしはこの映画の「サメとの戦い」は、乗員の味わった苦難を
わかりやすく、かつ映画的またはドラマ的に観ている側に伝えるための
ツールに過ぎないと感じました。

でも、こんな煽り文句にしてしまう媒体もあるからねえ・・。

 N・ケイジ、サメと闘う──「米海軍史上最大の惨劇」が映画化

言っときますが、ケイジがサメと戦うシーンは一度もありません。

念のため。


この映画のテーマは、自らの国を背負って戦った彼我の軍人たちの、
人間としての弱さ、(サバイバルシーンにもみられた)醜さと相反する美しさ、
そして苦悩と後悔、許しであるとわたしは思います。

例えばそれは、回天戦を命令した橋本艦長が一人になった時に見せる表情、
「インディアナポリス」が沈没していく際の音声を聞き、父親(神道家らしい)
の幻影と会話するシーンなどに表れています。

よくあるアメリカ映画、たとえば「パールハーバー」などのように、日本軍を
わかりやすい悪として描くことなく、逆にここまで日本軍人の人間的な部分に踏み込んだ
戦争映画は、わたしが思い出す限りではこの作品が初めてかもしれません。

第二次世界大戦中、自艦を失ったことで軍事法廷で裁かれた軍人は
アメリカはもちろんのこと、世界でもマクヴェイ艦長ただ一人でした。

なぜ彼はアメリカ海軍から弾劾されなければならなかったのでしょうか。

表向きの訴追理由はこうです。

「インディアナポリス」がテニアンを出発してから航行中、
魚雷回避のためのジグザグ航行を行わなかったことが、
敵の攻撃を許し、自艦を沈没させる結果を招いたから。

この時、検察側はその重要な証言者として、伊58潜の橋本艦長を
ワシントンD.Cの軍事法廷に呼んでいます。

1945年の12月10日のことでした。

マクヴェイ艦長の起訴も異例でしたが、自国の軍人を糾弾するために
かつての敵国の軍人を証人に採用するというのは異例を通り越して異常でした。


検察側は、日本側に原子爆弾運搬の情報が漏れていた可能性を疑っていました。
おそらく海軍は当初、機密漏洩を艦長訴追の理由にするつもりだったのでしょう。

まず、橋本中佐(9月に中佐に昇任)にその件を尋問したのですが、
伊58が「インディアナポリス」遭遇したのは全くの偶然だったと彼は答えます。


ついで訴追されたのは艦長として彼が危険回避行動をとらなかったことですが、
マクヴェイ訴追に有利な証言をさせるためにわざわざ呼んだ橋本中佐は、
予備審で、

「インディアナポリスがたとえジグザグに航行していても我々は撃沈できた」
(つまりマクヴェイは悪くない)

と断言したため、検察側の当ては全く外れてしまいます。
これでは艦長を有罪にできないとして、検察は橋本を法廷に出しませんでした。


映画「インディアナポリス」では、橋本が出廷したという設定になっており、
実際の予備審での発言と同じ内容のことを証言させています。

実際の法廷で、もしこの証言がなされていたら、さしもの軍事法廷も
艦長を有罪にすることは難しかったのではないかと思われますが、
映画では史実通り、マクヴェイの判決は有罪ということになっていました。

しかし、第二次世界大戦で戦ったベテランの海軍軍人たちは、
この結果に大なり小なり疑問を持ったのではないでしょうか。

自艦を失ったことで艦長がその責任を問われなければならないのなら、
同罪に相当するアメリカ海軍軍人は一人や二人ではないはずです。
つまり、なぜ彼だけが、と誰しもが思ったことでしょう。

そのように考えたうちの一人にチェスター・ニミッツ元帥がいたため、
この大物の鶴の一声により、この裁判判決そのものが無効になりました。

彼は事実上無罪となって海軍に復帰し、1949年の退役時には少将に昇任しています。

しかし、一度有罪判決を受けたことによって、一部乗員遺族からの、
彼への非難と怨嗟の声はいつまでも止むことはなかったのです。


マクヴェイ少将がコネチカットの自宅でピストル自殺をしたのは
1968年11月6日、「インディアナポリス」轟沈から23年後のことでした。

近しい人々に、妻を癌で亡くし孤独に苦しんでいると打ち明けていた彼は、
また死の前日、遺族からの恨みの手紙を受け取っていたとも言われています。


彼の遺体は自宅の裏庭で庭師によって発見されました。
その手には彼が幼い時からお守りにしていた水兵の玩具が握られていました。


ところで今日は、冒頭にも書いたように「インディアナポリス」が
73年前に撃沈された日ですが、いかなる運命の皮肉か、この日7月30日は
チャールズ・バトラー・マクヴェイ三世の誕生日でもありました。

毎年巡りくる己の誕生日、彼はおそらく片時も頭から離れたことがない、
883名の部下の命日を、同じ日に迎えなければいけなかったのです。

何という戦後でしょうか。

 

さて、この時海軍側は、最初から、

マクヴェイ艦長にインティアナポリス撃沈の責任を負わせようとしていた

といわれています。

海軍たる大組織が、なぜここまでして一艦長に責任を負わせようとしたのか。
それが明らかになるのはそれから50年後のことです。

映画「ジョーズ」を観てこの事件に興味を持った小学校6年の少年、
ハンター・スコットが事件の背景を調べ、このような仮説を立てました。


当時の海軍は秘密行動中の「インディアナポリス」の位置情報を把握しておらず、
沈没してから4日間も救助をさし向けなかったため犠牲者が拡大した。
その責任を、上層部は全てマクヴェイ一人に負わせようとしたのではなかったか。

スコットは調査の段階で、「インディアナポリス」の生存者316名のうち、
150名に詳細な聞き込みを行ない、仮説の正しかったことを証明してのけたのです。

その聞き取りの段階で、様々な生存者の声が明らかになりました。

最初に沈没から生き残ったのは1,196名のうち約900名、
しかし初期の段階で助からなかった人の死因は、主にオイルの嚥下だったこと。

油を頭からかぶった状態で陽に炙られ漂流しているうち、目が見えなくなり、
海水に浸かったままの体からは体温が奪われ、極限状況に精神を蝕まれ、
暴力的になって互いに争ったり、また幻覚のアイスクリームやホテルを求めて
「永遠に」どこかに泳いでいってしまった人々のこと。

映画でも描かれていたPBY水上艇のマークス大尉も証言を行いました。
彼の水上艇が海面に着水して
最初に拾い上げた男は、錯乱状態で、ただ、

「俺はインディアナポリスから来た」

と繰り返していたことや、映画で描かれたように、翼に乗せて収容した56名が、
その多くが取り乱して痛みに転げまわり、翼や機体を蹴飛ばしたりして穴を開けたため、
水上艇は二度と飛び上がることができなくなって、救助の艦艇が全員を収容した後、
機銃で沈めるしかなかったということなどを。


マークス大尉は救助するために漂っている人たちの体を引き揚げましたが、
多くの者が手足を失ったり、全身が酷く腫れていて、搭乗する事そのものが
彼らにとってゾッとする痛みを伴うらしいことを知ります。

海から遭難者を引き揚げるために腕を掴むと、彼の手に剥がれた肉が残りました。

海水でずっと洗われていた体から体毛はほとんどなくなり、
まるでイモリのように
真っ白でツルツルした皮膚をした一団は
皆一様に啜り泣いており、
マークスとクルーはその異様な姿に戦慄しました。

 

ハンター少年の提言がきっかけで、マクヴェイ艦長の名誉復権運動が起こった、
という話は日本にも伝わり、かつての伊58艦長橋本以行の耳にも達しました。

彼は早速、上院軍事委員会委員長のジョン・ウォーナーへ電子メールを送り、
その運動を熱心に支援したといわれています。

そしてついに2000年10月30日。

チャールズ・マクヴェイ艦長は
「インディアナポリス」の喪失に対して全く責任を問われない

ことが正式に認められ、彼の名誉回復がなされました。

その証書に当時の大統領クリントンが署名を行う僅か5日前、
橋本以行はそれを知ることなく91歳でこの世を去っています。

 

ところでこの映画、「USSインディアナポリス 勇気ある男たち」では、
冒頭画像にも描いたように、チャールズ・マクヴェイ3世と橋本以行、
現世では一度も相見えることのなかった二人の出会いが創作されました。

確かに、もしあの世というものがあって、そこで彼らが出会ったとすれば、
人間としての過ちを互いにを許しあい、
堅く相手を抱きしめる代わりに
祖国の為に戦った軍人同士であらばこそ如是敬礼を交わしたに違いありません。

そんな二人の冥界での邂逅の姿を、この映画はラストシーンにおいて、
彼らを知る後世の全ての人々の眼に映しだしてくれたのだとわたしは思っています。



 

 


自衛隊の「奉仕精神」と「リスクヘッジ」の兼ね合い

2018-07-28 | 自衛隊

阪神基地隊のサマーフェスタ会場に展示されていたパネルです。

この日一般公開されていた「ちはや」と「さざなみ」は、
今回の西日本豪雨災害で支援を行ない、交代してここに来ていました。

 

関係者に聞いた話だと、発災後の呉では広島からの取水管に問題があり、
断水がしばらく続いているということで、教育隊や「かが」、
「くにさき」、「しもきた」等の大型艦を開放して入浴支援を行いました。

江田島も幹線道路がほとんど分断されたため、一術校から小用には出られず、
早瀬、音戸経由で何とか呉に出ていましたが、この画像の左下にもあるように
呉地方隊はなんとLCACを出して、呉まで希望者を乗せて、
入浴をするというなんとも裏山、いや心憎い支援を行なったそうです。

今HPを見たら、断水している地区の中学校で入浴支援を行なっていますが、
水道復旧の見込みが立ったので支援は8月9日に終了する、とあります。

また、呉地方総監部によると、7月20日には断水が復旧したため、
艦艇による入浴、給水、洗濯支援を終了した、ということです。

この写真からは、どんな支援任務においても、自衛隊が「顔の見える」、
心からの接遇を心がけているのが窺え、国民の一人として頭が下がります。

 


ところで話は変わります。
まずはこの写真を見ていただけますでしょうか。

左舷格納庫部分に水平に三本の線状にの傷がついています。

メールで「いつかブログに取り上げてください」と読者の方が送ってきてくれた写真です。
この護衛艦は「まつゆき DD-130」。

この無残な傷は、哨戒ヘリSH60Jのローターが接触した痕なのです。

覚えておられますでしょうか。
事故は2012年4月15日、大湊基地を出航後に起こりました。

この事故は、恒例の練習艦隊寄港を済ませ、大湊基地から出航した
「かしま」「しまゆき」「まつゆき」3隻の練習艦隊を見送るため、
低空を展示飛行中だった大湊基地の哨戒ヘリSH-60Jが
「まつゆき」艦体にメインローターを接触させ、墜落したというものです。

ヘリは海中に転落し、7名の乗員のうち機長であった三佐以外は
全員救出されました。

機長は引き揚げられた機体の操縦席で発見されました。
機体が海に落下したら、まず脱出を試みるのが本能的な行動のはずですが、
操縦桿を握ったままというのはそれを全くしようともしなかったということです。

メールを下さった方は、

「他の乗員は皆脱出出来ているので、恐らくは
ローター接触後も何とか機体を立て直すことに全力を上げつつ、
責任を感じて脱出しなかったのだと思います」

と推測しておられます。

わたしも、おそらく機長は自分の操縦ミスであったことから、
乗員を全員無事に脱出させることを優先したのだろうと思いました。

それでは今回、ヘリはなぜ艦体に接触したのでしょうか。


海上自衛隊では遠洋航海に向かう練習艦隊を他の隊員たちがいろんな形で見送ります。
海軍時代から続く伝統であり、見送る者と見送られる者が交わす海の儀礼は
見る者を感動させずにはいられません。

たとえば、練習艦隊が遠洋航海前の内地巡航で地方隊に立ち寄ると、
基地所属や最寄りの航空部隊のヘリが見送りのために上空に飛来するのも
海上自衛隊になってから生まれた習慣でしょう。

そのとき、ヘリコプターの機長はサービス精神を発揮して、
ぎりぎりまで艦に接近することもあるのだそうです。

サービス精神。

機長がその優しさからこの言葉に忠実であろうとしたことが事故に繋がりました。
このことにわたしは胸が塞がれるような悲しみを覚えるのです。


 

サービス精神といえば、今回のサマーフェスタ会場でも思ったのですが、
自衛隊が一般人を対象にするいかなるイベントにも見られるのが
一種健気なまでのサービス(奉仕)精神であり、つまるところ安全への配慮です。

一般人を乗せる体験航海や観艦式などでは、彼らが事前にどれほどの準備を行い、
主に安全を確保するために最大限の注意を払い気を遣っているのかが、
当日現場を訪れると至るところに感じられて感動するのが常です。

 

しかしどんなに安全対策に気を遣っても、事故は起きるときには起きるものです。

護衛艦「かが」見学中の男性が転落、けが

14日に金沢港に入った海上自衛隊第4護衛隊群所属の
護衛艦「かが」艦内で同日午前10時40分ごろ、
関係者らへの特別公開に参加していた金沢市の男性(83)が
甲板と格納庫を結ぶエレベーターの隙間に落ちた。
男性は約20分後に救助され病院に搬送された。

左まぶたの上を切るけがをしたが、意識ははっきりしているという。

同艦によると、男性は自衛隊石川地方協力本部友の会の役員。
山野之義・金沢市長らと20人のグループで艦内を見学中、
航空機運搬用エレベーターの
ケーブルが通る隙間から
約3メートル下にある可動式の甲板の床に転落した。

自衛官10人が引率にあたっていたが、隙間の周辺には誰もいなかったという。

遠藤昭彦艦長は

「艦内のお客様への対応の警戒が十分でなかった。深く反省している」

と述べた。
1万人超の来場者を見込む15日の一般公開では隙間周辺に柵を設け、
警戒にあたる人員も増やして安全確保に努めるとしている。

「かが」は海自最大の基準排水量1万9500トンのヘリコプター搭載護衛艦。
就役訓練中で、金沢港大浜埠頭(ふとう)で15日にある
「港フェスタ金沢2017」にあわせて入港し、17日まで停泊する予定。
3月の就役以来、民間港への入港や内部の一般公開は初めてという。

 

少し前にわたしはこの話を自衛隊内部に詳しい知り合いから

「『かが』の一般公開でエレベーターから人が落ちて、艦長は更迭された。
自衛隊の中だけの話だから他には言わないでください」

という注釈つきで聞かされていたのですが、実はこの事件、
その方(とわたし)が知らなかっただけで、石川県の地方紙、そして
案の定朝日新聞がしっかり当時記事にしておおごとにしていたのでした。

その「内部だけの話」に驚いてわたしは帰宅後すぐに調べてみました。
が、当時の艦長は事故後が起こってから次の3月まで艦長のままですし、
後職も群司令部の首席幕僚と、更迭どころか左遷というわけでもなさそうです。

わたしはそのことを確認し、安堵しました。

誤解を恐れず言わせていただくと、状況を鑑みるに、
悪いのはこの怪我をした見学者だとしかわたしには思えず、従って
この責任を艦長が取るのはあまりに不合理だと思ったからです。

ニュース映像をみていただければお分かりのように、
落ちた穴というのは
艦載機を乗せるパレットの隅にあります。
言っちゃなんですが、小さな子供でもあるまいし、この方は
エレベーターの端っこまで行って何がしたかったのでしょうか。

によるとこの83歳の男性、

●エレベーターの写真を撮ろうと後ろに下がった結果、
ちょうどワイヤを通す角の隙間にはまってしまった

●ワイヤの穴を覗き込んでいてバランスを崩した

らしいのです。
写真なら高級機種持ちの「カメ爺」なのかインスタバエなのか知りませんが

(年齢的にこの可能性はないと思いますが)とにかく、たまたま自衛官の
目の届かないところで勝手な行動をして落ちたとしか思えないのです。

一般公開であれば、もっと厳重な見張り体制が敷かれていたでしょう。

しかし自衛隊側はこの日の見学者の主体が防衛団体の関係者であることで
一種安心してしまい、
あるいは市長への接遇に気を取られて、
フラフラ歩き回る人に
気がつかなかったということなのかもしれません。

 

そして、事件からちょうど1年後の今月始めのこと。

当時の艦長と副長二名が書類送検された、という報道があり、
わたしはこの事故が「内々の秘密」でなかったことを知りました。

考えたら、人が実際に怪我をしているのに自衛隊がそれを隠すなど
ありえないことでしたが、考えがそこまで至らなかったのです。

それを伝える石川新聞の記事によると、

去年7月、海上自衛隊の護衛艦「かが」で見学者が落下し
大けがをした事故で、金沢海上保安庁は当時の艦長ら2人を
業務上過失傷害の疑いで書類送検した。
書類送検されたのは護衛艦「かが」の艦長と副長の2人。
2人は去年7月、見学者の男性をエレベーターの隙間から
3メートル下に落下させ大けがを負わせた疑い。
金沢海保は設備管理者の2人が転落防止の措置を怠ったとしている。

書類送検されたからそう書くのが常道とはいえ、

「落下させ大怪我を負わせた」

という語調には個人的に不快なものを感じずにいられません。

それはともかく、この一年の間、元艦長と元副長は、警察組織である
海上保安庁に赴いて取り調べを受けていたことになります。

書類送検というのはその結果を検察庁に送ることで、今後は
検察による事故についての取り調べが行われることになるでしょう。

安全対策に不備があった(つまり男性の動きに誰も気づかなかった)
ということは艦長本人も認めているところですが、怪我人が
地本友の会の会員だということなら、自分の不注意で起きた怪我の責任を
自衛隊に負わすようなことは(おそらくですが)していないでしょう。

つまり全てがこの事件を重く見た警察組織である海上保安庁の判断です。

今後を注視していきたいですが、当事者たちが不起訴となることを祈ります。

 

さて、前々回「ちはや」の見学記で、この日もヒールのサンダルに
スカートの女性が艦艇見学に来ていた、と書きましたが、ここで
この女性によって引き起こされる「リスク」を仮定してみましょう。

もしこの女性が階段から足を踏み外して落ち、運悪く骨折したとします。
しかし、わたしがきっと言うように、

「そんな格好でくるお前が悪い。以上」

ということにはまずなりません。
「かが」の件での艦長と副長のように

「監視を怠ったため階段から落下させ大怪我を負わせた」

として、当艦長は海保の取り調べを受けることになるでしょう。

 


かつて横須賀の米軍基地で「ロナルド・レーガン」を見学した時、
事前にパスポートのコピーを提出させられ、さらに

「65歳以上は乗艦お断り」

という通達がありました。
自分は65歳以上だがどうしても乗りたいと言う人は、

「もし何かあっても自己責任、アメリカ海軍には決して責任を問いません」

という念書を書け、ということでした。
さすがは訴訟大国のアメリカです。

日本人の65歳なんてまだまだ老人などではないですから、
この年齢制限は厳しすぎないか?と個人的には思わないでもないですが、

これがアメリカ軍の考える「生物としての安全限界年齢」なのでしょう。

 

 

公僕という言葉があります。
文字通り公衆に対して奉仕する者、
という意味ですが、
自衛隊はまさに究極の公僕かもしれません。

しかもその奉仕とは、公的機関でありながら決して機械的でも
事務的でもないことは、
例えばあの東日本大震災において

「一人一人の顔の見える災害支援を心がけよ」

と号令を下した現地の指揮官の言葉に表れているでしょう。


わたしも日本国民の一人としてその奉仕精神を尊く有難いと思いますが、
その奉仕精神が、表層的な部分で本日語ってきたような事故に結びつくこともあるのです。

米軍ほど厳格にする必要はありませんが、せめて80歳以上の見学は断るとか、
付添人の同伴を条件にしていれば、少なくとも「かが」の事故は起きていません。

不適切な服装の艦艇見学も、舷梯を上る前に

「乗艦をご遠慮ください」

の一言で済むことです。

自衛隊は現場でたとえ小さな不興を買うことになったとしても、
リスクヘッジを優先することが時には必要ではないかと思うのですが。



 

 




潜水艦救難艦「ちはや」と「えひめ丸」事故〜平成30年度阪神基地隊サマーフェスタ

2018-07-27 | 自衛隊

阪神基地隊のサマーフェスタで一般公開されていた
潜水艦救難艦「ちはや」についてお話ししています。

見学の列は艦橋まで誘導され、そこから外付けの階段を降りて
後甲板に抜けていくというコースになっています。

艦橋窓に貼ってあった信号員の写真も紹介しておきましょう。

こちら手旗信号で通信中。
っていうか、こんなところに立って行うのは普通のことなんですか?

左舷側デッキに出ると、発光信号を行う探照灯があります。

探照灯で行う発光信号についての説明。
「ツートン」の「ツー」では長く、「トン」では短く光らせます。
手が滑ってつけたり消したりするタイミングを間違うと、
読み取ってもらえない、というようなアクシデントもあるのでしょうか。

デッキからは体験航海で一般人を乗せて航行する交通船が見えました。
今日は波もないし、海の上をかっ飛ばしたら少しは涼しいかもしれません。

「ちはや」の艦橋デッキからは外付けのこんな階段を降りていきます。

この左側は当たり前ですが、海。
今から降りようとしているおばちゃん、呑気に写真を撮っていますが、
いざ降りるとなると怖くてなかなか足が踏み出せず、やっとのこと
降りだしたと思ったら気の遠くなりそうな時間をかけて下に到達しました。

岡山玉野の三井造船で行われた「ちよだ」の引き渡し就役式では、
最後に乗艦した艦長がこの外付け階段を猛烈な速さで上っていましたが、
まあ昇りだから自衛官なら当然としても、実際に上から見ると凄い角度です。

回数を経て、この手の階段に比較的慣れているわたしも、
ここを降りるのはスタスタというわけにはいきませんでした。
そこで下にいた乗員に、

「海が時化ているときに怖くないんですか?」

と聞いてみたのですが、あっさりと

「もう慣れてますから」(にっこり)

と返されました。


本艦の使命は沈没潜水艦の救助であり、そのための装備が搭載されているわけですが、
そのメインとなるのが背中に赤いシマシマが4本入ったチョウチンアンコウ、
じゃなくて潜水艦救難艇DSRVです。

DSRVが海中に投入されるときには赤丸で囲んだ「センターウェル」
(中央の井戸)から降ろすと前回書きましたが、英語ではセンターウェルではなく、

「Moon Pool」

というのが名称のようですね。

この他潜水艦救難艦には、無人の探査機(画面右下の赤い装置)もあり、
それはこの後、艦の左舷側で見学することができました。

「ちはや」中心線で艦体を縦切りにすると、こんな風になります。
前回unknownさんも「なんとなく気持ちが悪い」とおっしゃっていたように、
穴はこの部分だけとはいえ、見ていてなんだか不安になる形状ですね。

救難艇をセンターウェル(ムーンプール)からクレイドルで海中に降ろすと、
艇はクレイドルから浮き上がってそこから発進していきます。

ダイバーを海底に運ぶPTC(Personnel Transfer Capsule)もここから出し入れします。

二つ上の画像の赤丸で囲んだ部分、ムーンプールの横に、

「DDC」Deck Decompression Chamber

なるものが4基ありますが、これは潜水士が深海に潜る前に、ここで
作業を行う深度と同じ圧力に加圧し、
潜水病にならないようにするカプセルです。

この逆で、作業を終わったダイバーは、母艦に帰ってくると、
また時間をかけて
体を減圧していかなくてはなりません。

昔のダイバーは、ある程度の深度まで潜ったら海中で何十分か静止し、
だんだんと圧力に慣れながら少しずつ潜り、帰りも時間をかけて
少しずつ圧力に体を慣らしながら浮上していたものだそうです。

階段を降りると左舷側(冒頭写真)に出てきます。

そこにあったDSRVの詳細断面図。
大変見にくいですが、ここは三つの球だけに注目してください。
前回のコメントでお節介船屋さんが解説してくださっていましたが、
これは耐圧球で、人員が必要に応じて乗り込む場所となります。

一番前は操縦室であり乗員(4名で乗るらしい)がいる場所、
真ん中の球は下のスカートを通して沈没潜水艦の乗員を揚収する部屋、
そして後部が機械室となります。

お供えしてあった模型にも赤いシマシマあり。

画面左下の潜水艦はロシアの原潜「クルスク」です。

今回わたしは飛行機の待ち時間、たまたまナショジオの

「衝撃の瞬間 ロシア原子力潜水艦の悪夢」

を観ていたのでその偶然に少し驚きました。


現場にあったこの絵は、DSRVの発進から潜水艦へのドッキングの様子です。

2000年8月12日にバルト海に沈んだ「クルスク」救出の際、
まずレスキューチェンバーは母船の動揺が激しくて失敗しています。
次にDSRVが出動しましたが、「クルスク」の艦体が斜めになっており、
さらにハッチの部分の破損が激しく、接合さえできませんでした。

このナショジオの動画を見ればわかりますが、実は救出作業以前に、
艦内で爆発が起こり、生存していた乗員もそれで全員が亡くなっています。

救難艇DSRVはアームでワイヤを切断することもできます。
前部のスラスタートンネル(覚えたての言葉)の穴が目に見えてかわいいっす。

潜水艦救難は、沈没した潜水艦の擱座の状況によってやり方を変えます。
艦体が傾かずに沈んでいれば、チェンバーを降ろし脱出筒からの救出を試みます。

チェンバーは潜水艦から出されたメッセンジャー・ブイを巻き取りながら降下、
脱出筒の上に到着すると、まず下の区画に注水をして接合部を密着させます。

その後、区画内の海水を排水し、ボルトで潜水艦に固定。
ハッチを開けて乗員を収容してから浮上するという仕組みです。

ダイバースーツとヘルメットが展示されていました。
左にちょっと写っているのは潜水員です。(ものすごい筋肉質スリム!)

潜水艦救難艦のダイバー・・・きっとこの人たちとんでもない肺活量なんだろうな。

と先日測った肺活量が2000台だったわたしが言ってみる。
これでも昔水泳選手だったんだけどな・・あ、小学生の時か。

腰の右部分にノズルが付いているので、これは何かと質問すると、
海中で40度のお湯を循環させて人体を温めるためのチューブを繋ぐそうです。

深海では零下にはもちろんなりませんが中緯度である日本近海でも
特に冬はこのような仕組みが必要となってきます。

この時は展示されてはいませんが、ヘルメットには潜水時、
頭頂部にビデオカメラとライトを装備します。

先ほども説明しましたが、潜水士は必ず潜水前にDDC装置の中に入り、
作業を行う深度の圧力までゆっくりと加圧を受け、
しかるのちPTCカプセルに乗り移って海中に運ばれます。

海中での作業が終わると、潜水員はPTCで再び母艦まで戻り、
PTCに接続したDDCにまた移乗して再び加圧。
作業が終わるまでなんどもこの行程はくりかえされます。

驚くのはここからです。

作業が全て終わったら、潜水員たちはDDCの中で、
ゆっくりと
室内の圧力が大気圧に戻るまで生活します。


ちなみに、水深300mの気圧に加圧するのには3日かかりますが、
逆に減圧には

11日(!)

かかるので、DDC内部にはベッド、テーブル、トイレ、
シャワーが設けられて生活が営めるようになっています。
(食事などの差し入れはどうやって行うんでしょう)

それにしても11日、狭い部屋から一歩も出ずに過ごすって・・。

気圧以前に、精神的圧迫感が凄まじいのではないかと思われます。
11日間も何をして過ごすんだろう・・まさかネットはできないだろうし。

ダイバーの資質って、体力以前に強靭な精神力という気がしますね。

左舷舷側を歩いていくと、今度は

無人潜水装置 ROV(Remotely operated vehicle)

が現れました。

DSRVの補助のために「ちはや」だけに搭載された無人潜水艇で、
マニピュレーターも付いています。

 

ところで、皆さんは2001年2月10日におきた「えひめ丸」事件をご存知ですね。

アメリカの原潜(グリーンヴィル)が、宇和島水産高校の実習船に
浮上した際衝突し、実習船がハワイ沖に沈没したという痛ましい事故です。

あの事故が起こってから、呉で準備をしたのち現地に赴き、
現場海域でアメリカ側とともに
遺体捜索を行ったのが当「ちはや」でした。

 

少し寄り道になりますが、先日、この時の日本とアメリカの対応について
ジャーナリストの有本香氏がおっしゃっていたことを書いておきます。

海底に沈んだ「えひめ丸」からの遺体の収容は困難とみられました。
沈んだのが水深約600mと作業ができない深度だったからです。

この深度での作業は普通のやり方では不可能としたアメリカ側は、
当初、船と一緒に沈んだ9名の遺体は諦めるようにと日本側に申し渡しました。

これはアメリカ人なら十分有り得る対応で、

「魂の無くなった身体はただの形骸に過ぎないのだから、
二次災害の危険までおかして引き揚げる必要はない」

というドライな考えによるものです。
(日航機墜落事故の時に犠牲となったアメリカ人男性の家族は
遺体に全く執着せず、事故後日本に来ることもなかったと聞きます)

しかし、日本側、つまり当時の首相森喜朗氏は粘りました。

遺体はなんとしてでも収容しなければならない。
家族に遺体を返すことを放棄することは許されない。
それが日本人の考え方だ。

と捜索続行を米側に強く要請したのです。
交渉の際、森首相はアメリカ側からこのような言葉を投げつけられています。

「そんなことをいうなら、アリゾナの乗員の遺体を収容して返してくれ」

真珠湾で日本軍に沈没させられた「アリゾナ」は記念艦として展示されていますが、
実は艦とともに沈んだ乗員の遺体は収容されておらず、今も艦内に眠っています。

これは日米彼我の宗教観から発生した遺体に対する扱いの違いによる齟齬でした。

この時、いわば「執拗に」遺体収容にこだわる日本側に、おそらく
プラグマティックなアメリカ人はうんざりし、このような言葉を投げたのでしょう。

そもそも、事故直後早々に、捜索活動を打ち切っていいかと打診してきた米側に
当時の外務政務官桜田義孝外務政務官は

「だが断る!」

と言い放ったという話すらあったくらいです。

しかしとにかく、最終的に日本側の熱意は通じ、沈没から8ヶ月後になって
遺体収容作業がアメリカの手で行われることになりました。

作業は、600mの海底にある「えひめ丸」を水中で吊り上げ、
安全な潜水作業を行うことができる水深35mの海域まで、
約25km船体を移動させたうえで行うというものです。

途中、吊り上げ用ワイヤーが切断するなどの数々の困難がありましたが、
予定より約1か月半遅れた10月12日、ついに吊り上げは成功し、
アメリカのダイバーの手によって8名の遺体が1ヶ月かけて収容されました。

「ちはや」は現地入りして訓練を行い(潜水士の加圧を含むものでしょう)
米海軍からの要請に基づき、DSRV、ROVによる付近海域の捜索を行なっています。


まさにここから、周辺海域捜索のためのROVが海面に降ろされたのです。

ROVは操作卓から操縦を行います。
下の写真が海底を撮影したものらしいのですが、なんだかよくわからないですね。

そして後甲板に出てきました。
柵に沿って列ができていますが、これはなんと、
退艦を待つ人たちがこれだけ溜まってしまったのです。

この待ち時間はなかなか辛いものがありました。

「ちはや」は潜水艦救難だけでなく潜水母艦としての機能も持ちます。
その巨大な艦体には、充実した医療施設を備え、この広い甲板には
救急搬送のヘリも発着することができるのです。

それから、この写真をご覧ください。

同じ甲板で行われた、「えひめ丸」犠牲者の追悼式です。

ちなみに、探索を終えた「えひめ丸」は、引き揚げされず、
もう一度海深1800mの海域まで運ばれて遺棄され、今もそこで眠っています。

この時「さざなみ」からはラッパの音が風に乗って聴こえてきていました。
おそらく格納庫内でラッパの展示が行われているのでしょう。

 

さて、次は何を観に行こうかな。

 

続く。


潜水艦救難艦「ちはや」見学〜平成30年度阪神基地隊サマーフェスタ

2018-07-25 | 自衛隊

ご当地アイドルを迎えての防衛パネルディスカッションが無事終わり、
わたしはまず潜水艦救難艦「ちはや」の見学に出撃しました。

艦内は通路に沿って最後まで見て歩くコースらしく、そのせいで
十人ずつ混雑具合を見て乗艦させていたため、結構長い列ができています。

「ちはや」の舷門は低く、乗艦は容易。
ただし、退艦は甲板から階段を降りていきます。
一般客の見学については、自衛隊は気を遣いすぎるくらい配慮をするのが常で、
この写真でもお判りのように舷梯の下には海への転落を防止の
ネットが張られています。

乗艦するとまず潜水艦救難艦の救難装備品の一つである深海救難艇、
DSRV (Deep Submargence Rescue Vehiecle )があります。

カバーをしている部分は非公開か安全対策?

小型潜水艇とはいえ、この角度から見ると大きさに圧倒されます。
DSRVの揚収設備は艦体のほぼ中央(上部構造物の後方)にあります。

外殻のところどころに穴がありますが、これは耐圧のためでしょうか。
海中を照らすライトが下部に確認できます。

潜水艇の艇首は甲板の方向を向いていますが、これは、
「ちはや」のの搭載艇(09DSRV)は艦尾側に向けて発進し、
艦首側から進入して揚収される方式を取っているからです。

揚収施設の下部分。
この写真からは想像できませんが、救難艇の発進は、艦隊船体中央部にある
ムーンプール(センターウェル)から行われます。

センターウェル下部には艦底閉鎖装置が設けられていて、
2分割した閉鎖板が油圧によって外側に向かって観音開きに開閉する方式です。

見上げるとすごい迫力。
プロペラを囲むようについている「天使の輪」は何かと思ったのですが、
英語では、

「Steering Shroud」

 ステアリングは「操舵」でいいのですが、「シュラウド」というのは
一般的には遺体を包む布(聖骸布)の意味があり、海事用語では
マストに掛かっているネット状の舫のことであり、原子力用語では

原子炉内中心部の周囲を覆っている、円筒状のステンレス製構造物

のことを言ったりします。
潜水艇のシュラウドというのはどれなのかいまいち意味がわからないのですが、
とにかく「周りを取り囲むような形状の操舵装置」でいいかと思います。
(違ってたらすみません)

ふと装置の隙間を見るとダイバースーツが干してありました。
「ちはや」にはやはりセンターウェルから出し入れする

PTC(Personnel Transfer Capsule、人員輸送カプセル)

も備わっていて、潜水員を水中に輸送することができます。

か、かわいいじゃねーか////

「ランタン・アングラー」

というのはこの絵でも薄々お判りのおようにチョウチンアンコウです。
潜水艦救難艇をチョウチンアンコウに見立ててアイコンにしてるんですね。

実際には見ることができませんが、この絵でわかる艇体下部の「スカート」、
このスカートを救難艇は
遭難した潜水艦のハッチに連結し、
そこを通って脱出してくる潜水艦乗員を揚収します。

このマークのチョウチンアンコウくんの背中にはシマシマがありますが、
潜水艦救難艦の上部には赤く太いラインが4本入っています。

これがシマシマ。

「ちよだ」のDSRVがセンターウェルに沈んでいくところ。
どうも、艇体を一度吊り上げて持ち上げ、下支えをレールで移動させると、
そこはセンターウェル、という仕組みのようですね。

救難艇の前からきっちりと仕切られた見学路ができていて、
見学者は一列でじわじわと周りを見ながら進んでいきます。
救難艇を格納するらしい部分から見た救難艇。

皆暑さに耐えながら黙々と並んでいますが、このあと、
格納庫奥にある
それはそれは細くて急な階段を上っていかねばならず、
そのため列は遅々として進みません。

前の方に12cmのストームヒールサンダル+スカートの女子がいましたが、
登るときはまだしも、この後の舷側の階段を降りるとき大変だっただろうな。

本人は「ヒール履き慣れてるから大丈夫!」ってところかもしれませんが、
下で一般人が滑り落ちたりしないか見張っている自衛官は
ハラハラさせられる上、人によっては見たくもないものを見せられるわけで、
はっきり言って大迷惑ってやつだったと思います。

厳しいようだけど、こんなお洒落番長は舷門で乗艦禁止にしてもいいと思う。
何かあったらこんなのでも自衛隊の責任が問われたりしますから。

救難艇の発進&揚収作業の時に使用すると思われるヘルメット。
上は潜航士用のマーク入り特別製?で下は普通用。

当潜水艦救難艦には自転車も搭載しています。

上から見た深海救難艇。
背中の赤いラインがかろうじて見えています。

艇体に入った切れ込みを見る限り、ステアリング・シュラウドとやらは
前後に角度を変えることができるだけみたいですね。
ぐるぐる回ったりはしないのか・・。

階段を上っていったところにあったのはDSRVの電池室でした。
電池といっても、あれだけのものを動かすための動力ですから、
こんなに大きいわけです。

深海救難艇の機関は蓄電池により電動モーターで駆動させるので、
ここで充電して入れ替えるということなんだと思われます。

入ってすぐ気がついたのは、この部屋の涼しさ。

「電池のために冷房しているんですか」

とそこにいた乗員に聞くとそうだとのことでした。
充電した電池そのものが放熱するのでしょう。

まさか、この、カバーのかかっていない白いのが電池なの?

電池室の後は、右舷デッキに出てきました。
この日やはり一般公開されている「さざなみ」が絶好の角度で見えます。

それにしても眼に突き刺さるような夏空の青さよ・・・。

わたしの前を歩いていた男女は「ちはや」乗組員のご両親らしく、
一人の海士くんがやってきて、少し照れくさそうな、ぶっきら棒な様子で

「あとで別のところ案内するから」

などと言いつつ、母親と並んで写真に収まっていました。

この日は関西出身の乗員の家族が息子娘に会うために来ているらしく、
会場では時々「隊員家族」というタグを掛けた人を見かけました。

艦橋の操舵室にたどり着きました。
艦首側左舷に向いたジャイロレピータ。

艦尾側にあるジャイロは稼働可能タイプです。

こんなところに測距儀が!(予備かしら)

「国際信号における緊急信号」

とあり、

「O」人が、海中に落ちた

「IT」私は、火災を起こしている

後はWが見えますが、「医療の助力を求む」かな。

それにしてもこの文章、句読点要る?

艦長(二佐)の座る艦長席。
一般公開で見学者が座るのは全く問題ありませんが、
艦長以外の自衛官が座っているのを見られたら、たぶん大ごとです。

訓練中の環境における人員配置がわかりやすく写真で説明してありました。
ただしこの写真では艦長は赤い椅子なので、「ちよだ」ではなく
イージス艦、ヘリ搭載型護衛艦、輸送艦などの大型艦での一コマでしょう。

一般客の目から数字を隠すパネルがわりに航海科の看板が(笑)
舫でかたどった錨、そしてJSLTは

日本リンパ浮腫治療学会(Japanese Society for Lymphedema Therapy)

んなわけあるか〜い!

艦橋から艦首甲板を望む。
「ちはや」はサイドスラスタを搭載しているのでタグボート要らずです。

「ちはや」にはサイドスラスタの他に可変ピッチプロペラも使用されています。

可変ピッチプロペラ(CPP: Controllable Pitch Propeller、 CPP)は、
艦の全速から微速、停止、後進の全範囲の運転に対して、翼角の制御させることで
前後進の必要な速度が簡単に得られる仕組みです。

サイドスラスタは横に動くため、CPPは速度をコントロールしながら
前進後進ができるというわけ。

もしかしたらこれはカモメプロペラの製品かもしれないので、
HPをあげておきます。

カモメプロペラ可変ピッチプロペラによる安全航行と省エネ

 

ふと海面に目をやると、そこには内火艇(交通船)が、
明らかに一般人と思われる乗客を乗せて航行していました。

そういえば、サマーフェスタ事前に応募すれば乗れる、
とかHPに書いてあったような気がします。

落ちないようにネットを張っているとはいえ、
船上の人たちはずっと立ったままなのね・・・。

信号ラッパの収納場所見つけた。

降りれます!!じゃないだろ?降りられます!!だろ?
と突っ込むのも面倒臭くなるこの存在の耐えられない軽さ。

「ご当地ゆきお」というこのシリーズ、めんたいこ以外にも

「かぼす」「かすていら」「デコポン」「とんこつ」

などが展開しています。ってなんなのよこれ。

 

続く。


ご当地アイドルと考える日本の防衛〜平成30年阪神基地隊サマーフェスタ

2018-07-24 | 自衛隊

前回阪神基地隊に来たのは、昨年の暮れに行われた
餅つき大会(という名称かどうかは知りませんが)の時です。

その懇親会会場に、年端もいかない場違いな少女たちが混じっており、
異彩さで目を惹いていたのですが、後から彼女らが
阪神基地隊御用達の
「ご当地アイドル」であることを聞かされました。


ご当地アイドル(ローカルアイドルともいう)というのは、
文字通り、地域を活動拠点とする「地域限定アイドル」です。

全国各地にに2018年6月現在で1,245組存在するそうですが、
基本的に一つの地域にアイドルが混在することはなく、
したがってここ神戸にも
ご当地アイドルは1組しかおりません。


これがその神戸担当ご当地アイドルのメンバーですが、
何というか、全員その辺を普通に歩いていそうな感じ。
いかにも街で見かけるちょっと可愛い女の子というのがポイントかと。

このご当地アイドルグループと阪神基地隊の縁は結構古く、
基地隊御用達のようになったのは前司令の時からだそうで、
サマーフェスタなどの一般公開の時に文字通り「客寄せ」として
イベントに花を添える的な役割を担ってきたようです。


今回のサマーフェスタでは、彼女らのうち二人をパネラーに据え、
防衛についてのパネルディスカッションが行われました。

これは考えたな、とわたしはちょっと感心しました。

自衛隊のイベントなので、防衛について一般人を啓発するような
真面目な催しも行いたいが、たとえ評論家を呼んできたところで、
いわば週末のお祭りに楽しみを求めてやって来た人たちが、
このクソ暑い(失礼)中、青山繁晴氏や百田尚樹氏ならともかく、
知らないおじさんの難しい防衛講話なんぞに脚を止めてくれるでしょうか。

やっぱりここはアイドルで釣って(笑)熱心に聞いてくれる層の固定化を図り、
人がいるところには人が集まるという群集心理を巧みに利用し、
ちょっと自衛隊の宣伝もしてしまおうという戦略が正解でしょう。

体育館の半分ではトートバッグ製作や鉛筆画の展示、
組紐や南極の氷展示が行われていますが、舞台側の
パネルディスカッション会場では、開場と同時に
パイプ椅子の最前列に席を占める一団あり。

わたしが車で正門前を通りかかった時、ちょうど開場となり、
開門前から待っていたらしき人々が門内になだれ込んでいたのですが、
それはもしかしたらこの人たちだったかもしれません。

というわけで、時間となり、パネルディスカッションが始まりました。
向かって右テーブル、自衛隊からは隊司令、総務科長、先任伍長の三人、
左のご当地アイドル側には大学生と高校生のメンバー二人が座り、
ハラハラドキドキの(嘘)ディスカッション開始です。

わたしは最後列に座りましたが、始まるまでは
椅子にもまだまだ余裕があるという感じでした。

となりではパソコンでモニターにテーマを映す作業をしています。

「どうなる?ニッポンの海上防衛!」

うーん、これはもしかしたら尖閣の中国船による海洋調査の話まで行くか?
と思いたいけど、相手がアイドルではなあ・・・。

ディスカッションはメンバーの紹介から始まりました。
この写真を出してきたのは、基地隊司令の履歴を明らかにするためではなく、
当方、うっかりしていてアイドルの写真を撮るのを忘れてしまい、
後から見ると写っているのがこれしかなかったからです。(しかも一人だけ)


そして、前列の男性陣は、全員が彼女らの熱心なファンだと思われます。
父兄参観に来た彼女らの父親といってもおかしくないような年齢層です。

「誰々(メンバーのあだ名)が一番!」とマジックで書いたTシャツを
来ている人などは
少なくとも父親とかではないことは確かですが。

ディスカッションは三人の自衛官が一つのテーマにつき一定の時間喋り、
アイドルが時々振られるクイズ形式の質問に答え、解説を受けて

「全然知りませんでしたー」

「勉強になりましたー」

と〆るのがお約束、という感じで進みます。
当初の予想通り
アイドルは文字通りの飾り物確定。

彼女らの防衛関連における知識は見たところ皆無で、というか
一般常識的にもそれは如何なものか、というレベルだったわけですが、
しかしながら、世間一般の人の防衛に対する関心なんて、
この平和に暮らしていける日本においてはこれが平均かもしれない、
とわたしはふと考えました。


たとえば、この画面のホワイトボードにお日様マークが見えますね?

これは、彼女らの一人が「機雷」という言葉を知らなかったため、
(機雷の『き』の漢字を聞かれて『奇襲の奇ですか』という名言アリ)
改めてどのようなものか説明した跡、つまり機雷の絵です。

そこから始まるんかい、とわたしは結構ワクワクしてしまいました。
(ネタ的な意味で)

しかし、そのようなやりとりを通じて、彼女らに噛んで含めるように、
海上自衛隊と
防衛の基本について説明していくことによって、おそらくですが、
そこに集まった一般人、前列に陣取っていた彼女らのファンにとっても、
結構な啓蒙になったのでは、
とわたしは進行中考えていました。

 

パネルディスカッションは、「日本にとっての海上交通の重要さ」、
具体的には日本の輸入は海上輸送と航空輸送の割合はどのくらいか、
から始まって、
ソマリア沖アデン湾の海賊対策にまで及びました。

「海賊て、お話の中にしかいてないと思ってたー」(神戸弁)

アイドルがいうと、基地隊司令が、

「パイレーツ・オブ・カリビアンみたいな?」

「そうそう、ジャック・スパローみたいな」


わたしはこのアイドルとほぼ同じことを、
民主党政権下で
当時の国対委員長(平田健二)が言い放ったのを覚えています。

「海賊というのは漫画で見たことはあるが、イメージがわかない」

70過ぎの現役政治家が同じことを、しかも国会で言っていたのですから、
わたしにはとてもアイドルを無知をだなどと笑うことなどできません。

ディスカッションの最後のテーマは

『海上自衛官って?』

お休みはいつか、休みには何をしているのか、どこに住んでいるのか、
年俸はどれくらいもらっているのか。

最後は、わたしにとってこの日唯一全く今まで知らなかった情報でした(笑)

このテーマでも、自衛官が一人ずつ、自分のことを中心に話していきます。

とにかく海上自衛官は家を空けることが多い。
若いうちは家を出るとき奥さんが

「あなた、今度いつ帰ってくるの」

と言って送り出してくれたのに、最近では家にいると

「あなた、今度はいつ行くの」

になってきた、と総務科長が皆を笑わせると、基地隊司令が

「亭主元気で留守がいい、っていうんですよ」

アイドル1「・・・?」
アイドル2「・・・?」

なんと彼女ら、この言葉を生まれてこのかた聞いたことがない様子。
まあこれは時代のせいというより単に本人たちの問題でしょう。


総務科長の話の途中で、アイドルはこの対談中、唯一この時だけ

「(総務科長の)奥さん、(外国)人って聞いたー」

「どこで知り合ったんですか」

などといきなり積極的に質問しだしたのにはふふっとなりました。
お年頃の女の子らしい。

そして、最後の小テーマ、「自衛官にはどうやったらなれるか」。
この大事なポイントには海上自衛隊としては何が何でも着地せねば。

自衛官への登用について簡単な説明をした後、

「あなたたちだって自衛官になれますよ」

「えー、女性の自衛官なんているんですか」_(┐「ε:)_ズコー

「いますよ。今は護衛艦の群司令にも女性がなっていますし・・。
(高校生の)なんとかちゃんは防大に入ることもできるし、
(大学生の)かんとかちゃんは大学卒業後、
一般幹部候補生になるという道もあります」

「でも・・・体力ないからやめときます」(あっさり)

「それじゃ自衛官と結婚するというのはどう?
この基地にもたくさん独身の自衛官がいますよ」

前方の男性たちの空気が瞬間凍ったと思ったのはわたしだけでしょうか(笑)

 

さて、そんなこんなであっという間に1時間が経ち、
パネルディスカッションは無事終了。

決して皮肉でも冗談でもなく、普通の防衛講話とは全く違った意味において、
大いに勉強させていただいた、と言っておきます

さて、会場には陸自駐屯地からの装備展示もありました。
こんなのが伊丹から一般道路を走ってきたのね、とつい考えてしまう、
巨大な発射機(LS:Launching Station)。

これによると、機動時には全長15.90m、全高約4mなので、
連節バスよりは短いくらいでしょうか。
問題は高さですが、これも作業車にはその倍くらいのがあります。

現地の説明がこれ。

あのう・・・これ、パトリオット・ミサイルの発射機ですよね?
なぜ「ペトリオット」という説明が全くないんでしょう。

もしかして何かの配慮?

(とこういうことにはやたら疑い深いわたしである)


パトリオットミサイル(MIM-104 Patriot、MIM-104 ペトリオット)は、
レイセオン社が開発した広域防空用の地対空ミサイルシステムです。

一般的な名称は「パトリオット」(愛国者)ですが、自衛隊では
より英語発音に近い「ペトリオット」を正式名称にしています。

ペトリオットはシステム名で、どのシステムもトレーラーで移動でき、

「射撃管制車輌」「レーダー車輌」「アンテナ車輌」「情報調整車輌」

「無線中継車輌」「ミサイル発射機トレーラー」「電源車輌」

「再装填装置付運搬車輌」「整備車輌」

の10両でワンセットです。
本日ここに展示してあるのはこの10両のうちの一つミサイル発射機です。

現地にはこのペトリオットミサイルの発射機以外にも
偵察警戒車や軽装甲機動車などのほか、偵察用オートバイがいました。

ヘルメットをかぶってオートに乗った写真を自衛官が撮ってくれます。


自の迷彩の人も暑そうでしたが、ここでずっとヘルメットをかぶせ、
バイクに跨らせて写真を撮っている陸自の隊員さんも大変そうでした。

でも、不思議なことに彼らが汗をぬぐったり暑そうにしている様子は全くないのです。
むしろどの自衛官も端然として涼し気にすら見えます。

例のパネルディスカッションで、自衛官に何か質問は、と聞かれたアイドルが、

「海賊対策で暑いところに行ってる自衛官の人たちは体は大丈夫なんですか」

と聞いていましたが、答えは

「そのためにわたしたちはいつも体を鍛えています」

それはよく知ってるけど、体を鍛えると汗の出方までコントロールできるのか?
とわたしはこの日の自衛官たちを見ていて不思議でなりませんでした。

続く。

 


2018年度阪神基地隊サマーフェスタ

2018-07-23 | 自衛隊

阪神基地隊で行われた本年度のサマーフェスタに行ってきました。

例年この時期にはわたしはアメリカにいるので、各地方隊の
サマーフェスタには参加したことがないのですが、今年は渡米が
例年より二ヶ月近く後になったおかげで参加が叶ったものです。

サマーフェスタの前日は、神戸にあるわたしの実家と義母に、
しばらく日本を離れる息子の顔を見せに行くことにしました。

いきなり私ごとですが、今回は実家のこのピアノ、わたしが小学生の頃から
高校受験まで弾き続けたピアノを、実家ではいよいよ処分することにしたため、
お別れの弾き納めをするというのも実家に立ち寄った理由です。

長年弾きこんで紙のように柔らかくなった鍵盤のタッチや、真ん中のレとミの白鍵に
傷があるのも、練習中にコーヒーを置いてできてしまった輪じみの痕も、
その前に座った途端完璧に思い出し、かつてここにいた日々が蘇りました。

iPadに入れていつも弾いている曲や、妹のリクエスト(The very thought of you)
などをひとしきり弾いて納得し、蓋を閉める時に心の中で

「長い間ありがとう」

と呟いてお別れをしてきました。

ところで、私ごとついでに、先日わたしは今年の人間ドックを房総半島にある
亀田総合病院というところで一泊して受けてきたのですが、(写真は個室から)
その日のうちに胃にヘリコバクターピロリ菌がいることが判明しました。

実家に行ってその話をすると、やはり除菌済みだという妹が

「小さい時に川遊びしたことがある子にはほとんどいるらしいよ」

といい出しました。
その時、わたしにはピンと閃くものがあったのです。

「もしかして学校の横に湧いていたあの水・・・?」

わたしたちの通った中学校の外側には農業用に引くための清水が湧いていて、
わたしはバスケットボール部、妹は陸上部のクラブ活動の休憩時間に、
とめどなく湧く冷たい天然の水を一時期飲みまくっていたことがありました。

「あれね、水道水とは違う味だったけど、冷たくて美味しかったのよねー」

「自分でも大丈夫かってくらい飲んだ(笑)」

「やっぱり大丈夫じゃなかったんだ・・」

しかし、ピロリ菌、10代最初に体内に侵入して、宿主が弱ってくる
ウン十年後までじっと息を潜めていたとはなんて我慢強い奴。

医者にも言われてその日から除菌を始め、薬を一週間分与えられましたが、
ピロリ菌が、

「ぐえええ苦しい」「もうあかん」

と死に絶えて行く様子をできるだけ具体的に想像しながら飲むようにしています。

わたしの胃の中の話などどうでもよろしい。

実家で夕食を食べた後は、いつものホテルオークラ神戸に宿泊しました。
チェックインすると、窓の下ではビアガーデンが大盛況。

ビアガーデンの向こう側に見えているのが震災復興記念モニュメントです。
震災で破壊された突堤の一部分が保存されています。


明けて次の日。
雲ひとつない・・・・今日もまた酷暑となりそうな悪寒。

関東も大概ですが、関西の暑さの方が酷い気がします。
なので、今回は車を借りたのは大正解でした。

なんとバックミラーがそのまま車載カメラです。
今時のレンタカー(日産)って進んでる。

阪神基地隊の前まで行くと、別の場所に借りたらしい臨時駐車場に
案内され、そこに留めて基地まで歩きます。

まだ10時なのにフライパンの上のように炙られながら、
皆黙々と基地までの工場街の道を歩いていきます。

「よくこんな日に外のイベントに来る気になるよなあ・・」

こんな時には、自分もそのうちの一人であることをすっかり棚に上げて
世の中の人々の自衛隊イベントへの熱心さにただ感心してしまいます。

実は阪神基地隊というのは、こんな街並みの一角にあったりします。
一帯が埋立地を利用して工場が立ち並ぶ地域で、震災の時には
阪神基地隊そのものも液状化現象で大変な被害を受けました。

駐車場にも正門前にも自衛官が立ってずっと誘導を行なっています。
皆が口々に

「水分の補給をしっかりお願いします!」

と来場者に声をかけていました。
サマーフェスタで熱中症患者を出したら大変ですから。

この日は呉で入浴支援にあたっていた潜水艦救難艦の「ちはや」、
そして護衛艦「さざなみ」が一般公開のためやってきていました。

広島・呉の災害支援を終え、任務を交代しての来神となります。

この時にも呉地方隊では入浴支援任務は行われていましたし、
本来なら一週間違いで行われるはずのサマーフェスタも今年は中止です。

阪神基地隊も水害とその前の震災には出動したというのを聞いていたので、
わたしはサマーフェスタが行われるのかどうか心配でメールしてみたところ、
一部部隊を派遣しているが予定通り行うつもりという返事でした。

基地に到着したので、まずは阪神基地隊司令深谷一佐にご挨拶。

応接室で冷たいお茶を一杯いただきました。

早速応接室の写真に目が釘付けになるわたし。

この写真、神戸湾で機雷を掃海隊が爆破した瞬間なのです。
阪神基地隊には第43掃海隊が所属していますが、戦後すぐから
神戸湾では浚渫の際に機雷が発見されることが何度もあったからです。

この写真には、ポートアイランドの「一文字灯台」ではないかと思われる
赤い灯台が左のほうに見えているので、機雷爆破場所はどう考えても
六甲アイランド付近だろうなと思って見ていたのですが、
こんなニュース映像が見つかりました。

神戸で第2次大戦中の機雷を処理(10/06/12)

左はわたしも出席した「せいりゅう」の引き渡し式の写真です。

応接室と司令室はドアで繋がっています。

年代物の東郷平八郎の掛け軸、「一死報国」という額がありましたが、
どちらも由来についてはわからないとのことでした。

新しい基地なので、昔から所蔵されていたというものでもないわけで・・。

艦番号102「はるさめ」を先頭にした護衛艦群と哨戒機のコンボ。
近くで見なかったので水彩かリトグラフかはわかりません。

さて、応接室で関西水交会の新会長にご挨拶し、
しばし歓談後、いよいよ外に出撃です。

いよいよ、と書いたのは、それだけ過酷な時間になることが予測されたからです。

ご覧のように、阪神基地隊というのはただ建物とこのような広場と岸壁で構成され、
全く日陰というものがないわけですから、夏は暑く、そして冬は
何の遮蔽物もないので、風が海から吹き上げられてさぞ寒いと思われます。

まず、11時から行われる予定のパネルディスカッションを見るために、
体育館に行ってみました。

広い体育館の半分では、サマーフェスタの予定されていたイベントが行われています。

こちらは組紐講座。
舫の結び方を利用して何か作っているようです。

南極の氷の展示もあり。

「どうぞ触ってみてください」

この時で開場してから30分ですが、暑さでもうこんなになっています。
サマーフェスタ終了まで溶けずに残っていたんだろうか。

ちなみに、うちのTOの職場にはなんのツテがあったのか、
南極の氷が送られて来ることになり、皆でかき氷をしようとしていたため、
お節介なわたしが、

「溶ける時に空気が弾ける音を聴くのが南極の氷の楽しみ方ですよ」

と口出しをしておきました。
ここの氷がプチプチ弾けていたかどうかはわかりません。

体育館の中は、日差しこそ差しませんがまるで蒸し風呂のような暑さで、
そのせいか皆が積極的に氷を触りにきていました。

それにしてもこの海上迷彩の隊員さん、こんなもの着て暑くないのかしら。

イベント予告にあった「海図トートバッグ」製作コーナー。
地図柄の、大変おしゃれなこのトートバッグですが、
何と本物の海図(多分破棄処分にする予定のもの)を使って作るのです。

ちなみに右は長崎市、左は下関市の部分です。

クレートにはトートバッグの大きさに裁断された海図が収納されているので、
こだわり派?はこの人のように、あれこれ見比べて、良さそうな図柄を選びます。

そして現場の自衛官に指導してもらい、まず裁断された海図を
木型に乗せて折り目をつけ、糊で貼り、取っ手紐をつけて出来上がり。

旧海軍の艦内帽を被った少年も熱心にトートバッグ製作中。

同じ体育館の一隅には、鉛筆画家の菅野泰紀氏の作品展が行われています。
実はわたしが今回楽しみにしていたのがこれでした。

大阪で行われた練習艦隊の艦上レセプションで菅野氏とご挨拶をし、
その後三笠で行われるという個展のことをお聞きしていたのですが、
多忙で結局横須賀に行くことができず残念に思っていたからです。

HPをみていただければわかりますが、菅野氏はこれを全て鉛筆で描いています。

「産声ー鋼鉄の咆哮 大和」という作品。

「瑞鶴」(左)と「伊勢」。

重巡洋艦「衣笠」と軽巡「神通」。

海大IV型a 潜水艦「伊168」。

なんと魚雷発射の瞬間です。

艦対空ミサイル発射中のイージス艦「こんごう」。
オスプレイが着艦しようとする航空母艦(じゃないけど)「かが」
除籍になって今はもう無い、護衛艦「はるゆき」。

「はたかぜ」はミサイル発射の瞬間です。

「あさぎり」はシースパロー発射かな?

想像で描かれた武器発射の瞬間には不思議なリアリティがあります。

絶対に写真では残せない瞬間も可能。
そう、絵ならね。

というわけで、「おやしお」型が魚雷を放った瞬間。

対潜哨戒機P-1が対潜戦で対潜爆弾か短魚雷を投下!

水平線が斜めなのがいいですね。

掃海ヘリコプターMH-53Eが係維掃海で機雷を爆破させています。
恒例の硫黄島での訓練の一コマでしょうか。

わたしがここで一番気に入ったのは二式大艇の離水する瞬間の絵ですが、
よりによってそれだけ写真を失敗しました。

今HPを見たら、なんと画伯の作品、複製画ならお安く購入できるんですね。
二式の作品のA3サイズ、買ってみようかな。

 

さて、この後、体育館ではサマーフェスタの「目玉」(かもしれない)
ご当地アイドルを迎えての防衛パネルディスカッションが行われました。

 

続く。

 


「潜水艦H-3 効果」〜メア・アイランド海軍博物館

2018-07-21 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

 メア・アイランド海軍工廠跡にある博物館の展示についてご紹介しています。

今日は一枚の潜水艦の写真から。

海軍工廠が保存していた潜水艦H-3、旧名「ガーフィッシュ」の写真です。

H-3は就役して2年目の1916年12月、サンフランシスコ北部にある
ユーレカ付近の沿岸で霧のため座礁しました。

乗組員は、ここでもご紹介した沿岸警備隊の救命ブイで全員救出されましたが、
艦体が波に押されて完璧に砂州に乗り上げてしまいます。

干潮時には海面から23m、満潮時に艦体は海面から76mの高さに
押し上げられてしまい、復帰は困難を極めました。

まず、海軍は

タグボート USS 「イロコイ」 AT-46と「シャイアン」BM-10

をメア・アイランドから出動させ、牽引による救出を試みました。
しかし、失敗。

海軍は此の期に及んで、救出する業者を入札によって選定し、
その結果作業を請け負ったのは民間のサルベージ業者でした。

この写真の艦腹に、サルベージ会社は「マーサー・フレイザーCo.」
とデカデカと看板を出してます。

請け負った業者は、木材運搬を専門としていて、船を救出するのは初めて。
どうしてこの会社が名乗りを上げたかというと、彼らには
この状態を打開する秘策があり、当時の5千ドルという破格な成功報酬を
ゲットすることができると踏んだのでした。

その秘策とは。

みなさん、写真をご覧ください。
小高い砂浜に乗り上げてしまったH-3の艦底に、丸太が取り付けてあります。
つまり業者のアイデアとは、丸太をソリがわりにして艦体を
海に滑り落とすという画期的なものだったのです。

滑りを良くするために丸太の下には木材の「レール」を敷くなど
工夫が凝らされました。

しかし、当初、業者のこのアイデアは、あまりに実験的だったため、
海軍の関係者はこんな方法とんでもないと猛反対し、後にして思えば
最悪の選択をしてしまうことになります。

「そんなの、巨大艦に潜水艦を牽引させればいいことじゃないか!」

そう考えた海軍は、防護巡洋艦「ミルウォーキー」に、百万ドル相当の
丈夫な舫とサルベージギアを装着して牽引作業を行わせました。

しかし、「ミルウォーキー」は、牽引作業中、H-3の近くにあった
砂州に乗り上げて、座礁してしまったのでした(T_T

ほれみたことか、と業者は自分たちのアイデアを実行に移し、
ついにH-3を丸太で海に戻すことに成功したのです。

ちなみにあれこれ試行錯誤したこともあって、座礁から復帰まで1ヶ月かかり、
この期間に海軍からは一度除籍扱いになっています。

 

え?

それでは座礁した「ミルウォーキー」はどうなったのか、って?

500トンのH-3を引っ張れなかった9,700トンの「ミルウォーキー」は
それでは誰が引っ張るのか?タグか?それとも・・・?

海軍は、この時点で完璧に戦意を喪失し、自分たちでなんとかする気を失います。
そこでおそるおそる?くだんの業者に、

「あのう、ミルウォーキーも同じ方法で復帰できますかね?」

とお伺いを立ててみたところ、業者、踏ん反り返って(多分)

「あんなでかいフネを滑らせるだけの丸太となると、
そうさなー、7百万ドル(現在の二千億円)は要るかもなー」

2千億円って・・・
そんだけお金があったら新しい原子力潜水艦造れるし!

と当時の海軍はもちろんそんなことは言いませんでしたが、引き揚げは中止。
かわいそうに救出の可能性がなくなった「ミルウォーキー」は見捨てられ、
そのまま除籍されて、放置され、頃合いを見て解体されました。

 

海軍はその後除籍となっていたH-3をもう一度就役させています。
この潜水艦を救うために巡洋艦を一隻失うことになったのですから、
せめて潜水艦だけでも復帰させないことにはやりきれなかったのでしょう。

最初から大人しく業者のいうことを聞いていたらよかったのにね。

これって、あまり重要でないものを切り捨てて、大切な物を得る、
ということわざの逆をいった感じじゃないですかね。
つまり、

一、小の虫を助けて大の虫を殺す

一、小を専らとして大を失う

一、小事に拘わりて大事を忘る 

を地で行くことになってしまったと・・・。


ちなみにこのサルベージ会社の作業中の写真は海軍工廠の所蔵です。
きっと海軍は、この後、この写真を大事にして時々は眺め、
事あるごとに大を失うことのないように自らを戒めていたに違いありません。

「コンコルド効果」という現象がありますが、こちらは

「H-3効果」

と名付けても良さそうな事案です。

さて、この博物館は展示されているものの種類が雑多で、
悪く言えばあまり整理ができていないのかなという印象ですが、
その分、こんなものまでと思われる歴史的遺産がその辺に転がっています。

懐かしの?砲が集まっていたコーナーのこれは、

Breech Loading-Krupp Gun(クルップ銃)

といって、19世紀以降世界で使用されたドイツ製銃です。

一番最近では第一次世界大戦まで使われましたが、世界といっても
アメリカ合衆国が使っていた訳ではありません。

1871年に USS「ベニシア」のキンバリー司令という人が
朝鮮半島で獲得したもの、となっていますが、この年には
第一次世界大戦はもちろん、フィリピン革命も米西戦争もまだですので、
戦闘で鹵獲したものではなく、単に拾って来た可能性が高いです。

 Dahlgren Boat Howitzer (ダールグレン・ボート・ハウザー)

ダールグレンというのは、アメリカ海軍の火砲開発部にいた人で、
ダールグレン銃などを発明しています。
これは筒の根元が丸いダールグレン銃と違い、
車輪の上にシンプルな筒が乗った艦載用ということです。

スカラー安全協会というニューヨークの団体が開発した、
舫を飛ばすための銃。

いわば「人を殺す銃」ではなく「人を助けるための銃」です。

Korean Cannon (朝鮮大砲)

こんなものがあったのか、とちょっと驚きました。
Culverin gun(カルベリン砲)とも呼ばれている、とかで、
先ほどの「ベニシア」がメア・アイランドに朝鮮半島から持ち帰ったそうです。

こちらもコリアン・キャノン。

ところで、この朝鮮大砲のウィキペディアに、さりげなく
「日本の朝鮮侵略」と書いてあるので、何かと思ったら
文禄・慶長の役のことでした。

17世紀にイタリアで鋳造された青銅の銃。

1905年に軽巡USS「 Raleigh」(ローリー)に外科医として乗り組んでいた
軍医が、ボルネオのサンダカンで見つけて持ち帰り、彼はその後
メア・アイランドにあった海軍病院のコマンダー(つまり病院長)
として赴任した時に、ここに寄付したということです。

USS「イントレピッド」の時鐘。

もちろんニューヨークに展示されているCV-11ではありません。
3隻目の「イントレピッド」は、1904年にここメア・アイランドで進水し、
1907年にコミッション、つまり就役しました。

ではこの1905はなんなんだ、と思われた方、すみませんわかりません。

「イントレピッド」(三代目)練習艦となったり、メア・アイランドで
潜水艦乗員の宿舎となっていたこともあったそうです。

メア・アイランドで製造された鐘ですが、特に何かの船のためにではなく、
構内にディスプレイされていたそうです。

 AS-12 「Sperry」(スペリー)

はフルトン級の潜水母艦でここメア・アイランド生まれです。
就役して10日目に真珠湾攻撃がありました。

生まれた時期にふさわしく、ソロモン諸島、ニューカレドニア、
ミッドウェイ、グアム、マリアナ諸島と、激戦地に赴き
潜水艦の修理などに携わって来た「スペリー」は、戦後、
朝鮮戦争に従事し、さらにはその後大々的な改装を受けて、
アップデートされ、なんと1985年まで現役で活躍しています。

サンディエゴにて、手前が「スペリー」。
向こう側の「プロテウス」「ディクソン」共に潜水母艦です。

NAVY YARD M.I CAL.1877

と書かれた巨大な鐘。
メア・アイランドで製造されたものかどうかは確かではないそうです。

USS「インディペンデンス」にあったものという説があり、
「インディペンデンス」がドック入りしている時にここに付けられて
始業と終業を知らせていたと言われているそうです。

第二次世界大戦が始まった時、鐘は日本軍のガス攻撃の場合を想定して(!)
船から工廠の一隅に移されていましたが、そんなことは起こらないので、
国債を売ったりする時に賑やかに鳴らされたりするようになりました。

工廠でお仕事をしていたエイミー・ウェストさんが、
当時この鐘が設置されていたメア・アイランド工廠483ビルの屋上で
同僚のアンジーさん(左)エドナさんと年明けに鐘を撞いています。

なんとアメリカでも、年の変わる時に除夜の(どう見ても昼間だけど)鐘を撞く、
ということが行われていたとは。

 

余談ですが、時鐘にも聞く人が聴けば音程があります。
アメリカ海軍の時鐘は一般的に’Aナチュラル’(ラの音)で造られるのですが、
ここにある「スペリー」の鐘、そして「イントレピッド」の鐘は
どちらもなぜか’Bナチュラル’(シ)、つまり一音高いのです。

これは、両艦の鐘製作者が適当に作ったから・・ではないと思いますが、
あえて高い音になるようにしたという可能性もあります。

メリーランドにある有名な聖ペテロ教会(St. Peter's Chapel)
1989年に創建した際、メア・アイランドに鐘の製造を依頼しましたが、
この鐘の音は’Dナチュラル’(レ)だそうです。

同じ工廠製なのに音程が違うとなるとおそらくこちらは故意でしょう。

軍艦の時鐘より、教会の鐘を低く鳴るように作ったわけですが、
なんとなくその理由はわかるような気がしませんか。

 

 

続く。



ゼロから完璧まで〜ソリッドモデル作品展

2018-07-20 | 航空機

文京シビックセンターで行われていたソリッドモデル展見学記最終回です。

展示されていたモデルは膨大な数ですが、出展していたモデラーは、
わたしが見た限りによると11人±と言ったところでしょうか。
大変お若く見える方から大ベテランの風格の方まで年齢は様々ですが、
とにかく全員が男性です。

全ての模型を対象にした場合、女性のモデラーというのは
もちろんいないわけではないでしょうが、少なくとも
ソリッドモデル界隈には何となくですが、一人もいない気がします。

行ってみて、見てみて、話を聞いてみて、後から調べてみて、
わたしはソリッドモデルという物凄い世界があることを知りましたが、
このように気宇壮大というか悠長に一つのゴール(つまり完成)
に向けて情熱的に取り組むといった作業は、どちらかというと実利的で
すぐに出る結果を求めがちな女性には、向いていないのかもしれません。

もちろん、男性の中でも少数派に属する人々であることは確かです。

わたしは一つ一つの作品の前で立ち止まり、製作者に逐一説明を聞いて、
時折関係ない会話もしながら会場を観て歩いたのですが、一人の出品者に、

「女の人も観に入ってこられますが、大抵サーっと歩いて、
一通り眺めたらすぐに出ていってしまうのに珍しいなと思って見てました」

といわれました。

模型を作ることそのものには全く門外漢の知識しか持ち合わせませんが、
模型が再現できることには興味以上の関心を持っている上、
その機体にまつわる歴史やストーリーに、自分の知識が重なると
パズルが解けたような達成感があってたまらないんですよね。

まあ、こういう変則的な模型ファンも世の中にはいるってことですよ。

 

さて、冒頭画像のモデルは、それこそこの道半世紀!みたいな
ベテランの風格を感じるモデラーの作品、

F7U カットラス チャンス・ヴォート

です。
当ブログ的にはカットラスについては随分「イジって」きたのですが、
何というか、モデラーというのは単にその飛行機が優秀かどうかなどより、
独自の(模型製作者ならではの)萌えポイントに触発されて、カットラスのような
マイナーな(マイナーですよね)飛行機を作りたがるのだろうかと思いました。

こんなことを書くとカットラスに失礼ですけど。

でも、3年しか配備されなかったことといい、あだ名が「未亡人製造機」
(お約束)といい、やっぱりこれダメダメ飛行機なんだな。

「なんかマンボウみたい・・・・」

散々カットラスについて書いたことがあり、さらには「ホーネット」艦上で
実際の機体を見ていたにも関わらず、わたしはこの模型を見て
おそらく初めてものすごく重大なことに気がつきました。

マンボウみたいに見えるその訳は、この飛行機に

水平尾翼がない(つまり無尾翼機)

からだったのです。

何で水平尾翼を無くしたかというとまあサクッというと、
戦闘機に速さを求めたってことなんだと思いますが(多分)、
無尾翼なので、着艦の時に抑え角(甲板と機体の角度)を
思いっきり取ることにして、案の定前が見えないという、
「ポゴ」の時のような欠陥が生まれてしまったというわけ。

英語のwikiにはさらっと

「これによって4人のテストパイロットと21人の海軍搭乗員が死んだ」

なんて書いてあります。
うーん、やっぱり死に過ぎ。
もうこうなったら未亡人大量製造高速マシーンという感じですか。

製造した4分の1が事故で破壊された、ともありますし、

VF-124, USS Hancock ハンコック
VF-81, USS Ticonderoga タイコンデロガ
VA-86, USS Forrestal フォレスタル
VA-83, USS Intrepid イントレピッド
VA-116, USS Hancock ハンコック(別部隊)
VA-151, USS Lexington レキシントン
VA-212, USS Bon Homme Richard ボノム・リシャール
Air Test and Evaluation Squadron 4 (VX-4),
USS Shangri-La and USS Lexington
試験航空隊 シャングリラとレキシントン

これだけの現場で機体が「海に持って行かれた」って・・・(絶句)

未亡人製造機の他にはこのブログでもご紹介済み、

「ガッツレス・カットラス」 "Gutless Cutlass"

とか、

「少尉除去装置」 "Ensign Eliminator"

なんてあだ名もあったようですね。

ただし、このシェイプは飛行機のカタチとして実に近未来的で、
当時カットラスを見た人は、目を見張ったそうです。

それに、やっぱりスピードだけは出たんですよ。スピードは。

というわけで、模型作り人もこの辺りに惹かれてこれを
製作対象に選ぶんだろうな、という気がします。


ところで、カットラスの向こう側には

「昭和30年代のソリッドモデル・キット」

という展示がありますね。
これはその名の通り、まだ既成の「プラモデル」がなかった頃、
模型といえばこういう材料で作ってました、という見本。

この製作者の私物だったりするんでしょうか。

こちらはホーカー社のシーフューリー

レシプロ機で第二次世界大戦のために作ったのですが、
製作が間に合わず、その代わり?朝鮮戦争に投入されました。

この時中国義勇軍のMiGと空戦して撃墜していますし、
ビルマ軍やキューバ空軍などでも撃墜記録を上げています。

非常に単純な仕組みだったのが幸いして使いやすかったようですね。

グラマンの「ダック」・・・ダックってアヒル?

この角度からはその特異さがわかりにくいですが、

うわーかっこ悪うー。(個人の感想です)

なぜダックなどと名前がついたのかよーくわかりますね。

これならまず水に浮くこと間違いなしなフロート。
ちなみにこのフロート、伊達に付いているわけではなく、
中に荷物やそればかりか燃料も収納でき、おまけに!

フロート内の並列のシートに2名まで人員を乗せて輸送が可能だった。

乗ってみたいようなみたくないような。

この写真は沿岸警備隊の使用機のようですが、やはりどちらかというと
海難救助に活躍したんではないかと思われます。

その他には哨戒、輸送、連絡、観測、標的曳航、煙幕展開
などに結構重宝されたようですね。

1933年から45年まで生産されあちこちで使われていました。

これは見ればわかるようにまだ製作中。
ソリッドモデルの世界ではあまりに製作期間が長いので
(だいたい三年が普通らしい)展覧会にはこのように
途中経過の作品を展示することがあるようです。

これは翼と胴体のアス比を見てもお分かりかと思いますが、
かなり大きな飛行機です。
もしかしたらB29の大きさくらいだったりして?

航空研究所の試作した長距離機になる予定だそうです。

航空研究所は東京大学にあり、航空の基礎的学理を研究していたところで、
大学の研究員あh陸海軍の佐官、尉官、担当官という構成でした。

それにしてもこの試験機、コクピットはまだありませんが、
妙なところに窓がありますね。

前回別のモデラーさんの作品でもご紹介した

 デ・ハビランド D.H.88コメット

エアレーサーといって、レース用です。
前回ご紹介した優勝機である機体を色ごと再現したモデル。
この「グロブナー・ハウス」という機体はレストアされて
実際に飛行を行っている(現在も)ということです。

これこれ。
確か尾翼の赤の中にはハーケンクロイツが入るはずという・・。
偵察用グライダーだったと思います。

そうそう、これを見て思い出したのですが、前回「エル・アルコン」を
「何かのアニメに出ていた」と紹介したのですが、実は

宮崎駿さんのアニメ映画「風立ちぬ」内での主人公堀越二郎が
少年時に空想していた設定の飛行機だと思います。

と裏コメをいただきました。
このアニメをいまだに観ていないことがばれちゃいましたね。

そしてこれは同じ宮崎監督の「未来少年コナン」に出てくる
ファルコという飛行機だそうです。
『そうです』でこれも観ていないことがばれてしまいましたね。

どっちも暇になったら観てみようっと。

ビールの缶で機体を作っている(らしい)製作者の作品。
ロシア語は読めないけど、アエロフロート機であることはわかる。

そして機材はTu-114ツポレフです。

たった今ものすごく驚いたのは、「ツポレフ」と入力したら
「Tu-95」と変換されたこと。

こちらは戦略爆撃機らしいですが、いわゆる同社の目玉商品なんですかね。

パンアメリカン航空使用、ストラトクルーザー

「ストラトフォートレス」「ストラトフレーター」
「ストラトジェット」「ストラトタンカー」

何でもかんでも成層圏を意味する「ストラト」をつければ
いいと思っているボーイングの旅客機ですが、戦争が終わったとき、
ボーイング社は民間への華麗なる転身を計ろうとして、
ストラトフレーター(貨物機)をなんとか旅客機に改造しました。

それが「ストラトクルーザー」です。

貨物機だったストラトフレーターが、下部を膨らませて
非常にカッコ悪かったわけですが、これにもそのかほりがします。

いや、その翼の角度はない。

と思わず真顔で言ってしまいそうになりますが、
アメリカ軍の試作機だったと思います。
というかそうであってほしい。

真ん中の戦略偵察機はX-16
このとき製作者と話をしていて初めて知ったのですが、
偵察機というのは「大きい機体であるからこそ意味がある」
つまり高高度からの偵察に使えるからなんですね。

じゃ、ヴィジランティが偵察機に転換されたのも、決して
無理やりとかそれしか使い道がないというわけじゃなかったってこと?
わー・・・なんかすみません<(_ _)>

高高度というのは基本高度2万メートル以上。
これだけ高いところを飛ぶならこれくらい大きくなければね。

しかし、X-16という名前でお分かりのように、結局これは
モックアップだけで実機製作には至っていません。

しかし模型では完成してちゃんとアメリカ軍のマークが入っています。

なんとこんな戦闘機が日本では試作されていたなんて。

閃電J4Mが双胴式になったのは、P-38から着想を得たのかな、
とチラッと思ったりするわけですが、日本軍の搭乗員も、
P-38のスピードにはかなり苦しめられたといいますから、
速度を重視した機体を製作するときにこれを真似てみた、
というのもあながち間違いではないような気がします。

しかしそれにしても変なところにプロペラがあるなあ。

「搭乗員が空中で脱出したとき、プロペラに巻き込まれるというのが
計画が中止になった原因の一つだそうです」

あー、やっぱり。誰がみてもそう思うよね。

結局閃電は長期間にわたって開発していながら、実機にならなかった
幻の戦闘機ですが、なぜかアメリカ軍では

「ルーク( Luke)」

というコードネームをもう付けていたということです。
どうやらどこかで計画書が捕獲され、アメリカ側では
日本がこんなのを作っている、という情報をもとに、
閃電ができたときに備えてコードネームを与えていたんですね。

なんか期待に添えなくてすみません。って感じ。

これはもう、スピードだけが目的っていうシェイプですね。

マイルス 超音速研究機 M.52

音速を超えるだけのために作られた飛行機のようです。
マイルス・エアクラフトは、30年代から1942年まで存在した
イギリスの航空機製造会社でした。

機体のデータはアメリカに譲渡され、ベルX-1の役に立ったので
無駄というわけではありませんでしたが、この飛行機そのものは
マッハ1.5を記録したものの、どこかに飛んで行ってしまったため
回収できなかったということです。

この日出展されていたモデラーの皆さんには全員にお話を伺えましたが、
この大量に航空機を出していた方とはチャンスがありませんでした。
大小大量の作品を出しておられたのですが、残念です。

加えて、前に団体の人たちが熱心に見学をしていたため、
こんな写真しか撮れませんでした。

奥の緑のシャツの方が製作者です。

それにしても製作中の模型が多い!
グレーの機体は皆同じ飛行機に見えますが・・・。

ダッソーのミラージュIIIC。

この模型は少し変わっていますね。
プリントしたものを貼り付けているようです。

さて、というわけでとりあえず全部を見終わったので、
出口の受付のようなところに座っておられる方たちにお礼を言って
会場を後にしました。

外から見たソリッドモデル展の様子を見ていただければ、
わたしがいかに場違いだったかお分りいただけるかと思います。

でも、場違いながら実は思いっきり楽しんでしまったのだった(笑)

ソリッドモデルという言葉自体初めて知ることになったこの日、
ゼロから始めて完璧を目指す模型製作の奥深さを、
怖いくらいに感じてしまったわたしでした。

ソリッドモデルクラブの皆様、今回新しい世界を教えてくださった
Kさんに
心からお礼を申し上げます。

 

ソリッドモデルシリーズ終わり

 


スーパークルセイダーv.s ファントムII〜ソリッドモデル作品展

2018-07-19 | 航空機

ソリッドモデルの展覧会で見た模型についてお話ししています。

ソリッドモデルの定義とは中が空洞ではない、つまり中実(ソリッド)であり、
木を削って躯体や翼などを作り上げる、ということを説明しました。

この「シー・ホーネット」(ホーネットの艦載機用でアレスティングフック付き)
などは、その木材の部分を見せるような作り方をしています。
日本では切削性に優れた朴の木がよく使用されているというお話でした。

戦後、アルミ箔が普及すると同時にこれを木に貼ることが始められ、
今では紙のように薄い金属板を貼るのだそうです。

この金属部分にはビスを表現するために穴を穿ちます。

裁縫道具の印つけみたいなので打っていくんでしょうか。
ライトの反射している部分を見ていただければわかりやすいです。

それからこのタイヤ。

「ユザワヤで大きさと色の合うボタンを探して来ました」

「よくこんなぴったりの大きさのものが見つかりましたね」

「いや、それをまた加工して大きさを合わせるんです」

前回のエントリで斜め銃付きの月光を作っておられたモデラーの作品。

Military Air Transport Service、MATSのコンスティレーションです。

アメリカ軍の軍事航空輸送サービスのことで、使用機材は色々。
グローブマスターにスターファイターをまるまま乗せて空輸したりしていました。

ちなみに海軍の輸送サービスのことを

 Naval Air Transport Service (NATS)

といいます。

 

チャンス・ヴォート社のF8U-IIIクルセイダーですが、はて「III」とは・・?

「スーパークルセイダーです。3機しか作られなかったそうです。」

F8Uのヒットがチャンス・ヴォート社にとって「救世主」となった、
というのはこのブログでも書いたことがあるわけですが、
この成功に気を良くしたCV社は、ファントムIIへの対抗機として
クルセイダーの後継となる本機を作りました。

速度は一定以上の水準を持ち、ファントム IIに勝る点もありましたが、
迎撃専門のクルーを乗せていたファントムIIには勝てず、この流れで、
スーパーでない方の優秀なクルセイダーもファントムに駆逐されてしまうことになります。

スーパークルセイダーの関係者はこれ以降ファントムIIを敵と定め、
3機のうちの2機のスーパークルセイダーの運用者、NASAのパイロットは

決まって海軍のファントム IIの迎撃に上がり模擬空戦でこれを打ち負かした。
これは海軍側から嫌がらせを止めるように苦情が来るまで続けられた。(wiki)

嫌がらせを止めるように苦情が来るまで

嫌がらせ

実戦でなければ俺ら強え!ってことですか(笑)

なおこのモデルは内部構造を見せるために一部スケルトンです。

大きなモデルはそれこそグランドピアノの上にギリギリ乗っかるくらいですが、
こんな小さなモデルに心血をそそぐモデラーもいます。

右の鳥のようなのは、「エル・アルコン」。
テレビアニメに出てくる練習機だそうです。

ボーイング396という実験機です。
本気でこんな形の飛行機を飛ばそうとしていたのか。
またしても前回の「飛行機馬鹿」という言葉が脳裏を過ぎるわけですが、
画像検索しても出てくるのはこのモデラーさんの作品ばかり。

本当に実験機として存在したかどうかも怪しい・・・。

まあ、そういうものをカタチにしてしまえるというのが模型なんですよね。

「これってちょっと風が強いとたちまちあおられてしまうのでは」

と他人事ながらつい心配になってしまうシェイプの飛行機。
飛行機の羽の形って、伊達にあの形をしているわけじゃないと思うのよね。

ARUP S2

というこの飛行機、開発されたのはなんと1933年。
こんなの飛ぶわけないじゃん!と思ったら、飛んでました。

ちなみにショーでクラッシュしてテストパイロットは死亡しています。

The flying "Heel Lift" - Arup S2 and S4 flying wings

「ヒール・リフト」とありますが、実際に靴の踵に入れる中敷と比べている映像が(笑)
これを見る限りちゃんと飛んでちゃんと着陸しているんですが・・・。

こういう超マイナーな「失敗作」を再現できるのも模型の(略)

A26と言っても、エド・ハイネマンの「インベーダー」とは違います。
製作者に聞いてびっくりしてしまったのですが、これは日本製の長距離飛行機、
キ77、陸軍と朝日新聞社が資金を出し合って2機試作したものなのです。

A-26の「A」は朝日新聞の頭文字、

「26」は皇紀2600年の26

だと言いますから、驚きませんか。(朝日新聞的な意味で)

1号機は昭和19年に周回世界記録(未公認)を樹立していますが、
2号機は昭和18年にインド洋上で消息不明となっています。

戦後アメリカ軍に接収された1号機は、修理されたようですが、結局
1949年ごろ廃棄されました。

アメリカ軍によって移送されるキ77。
向こうに見えているのは標的にされる直前の「長門」です。

このツルツルとした模型の機体ですが、木を削って形を作り、
磨いて塗料を乗せるというオーソドックスな仕上げをしています。

朝日新聞の旭日旗、名前が「神風号」・・。

これも昔三菱の航空資料室を見学した時に書いたことがあります。

朝日新聞社は1937年、ロンドンで行われるジョージ六世の
戴冠式の奉祝の名のもとに、亜欧連絡飛行を計画しました。

当時、日本とヨーロッパの間を結ぶ定期航空路はなく、
逆風である東京、欧州間の飛行は、非常に困難とされていたのです。

この連絡飛行の機体に採用されたのが「神風号」という名前。
一般公募によるものだったそうですが、いやまったく、築地にある、
あのアサヒ新聞と同じ新聞社のことであるとは、信じられませんね。
この麗々しい記事は、勿論のこと朝日新聞に載せられたものです。

神風号は1937年4月6日、日本を出発。
離陸後94時間17分56秒で、ロンドンに到着しました。
イギリスの新聞は朝刊のトップに神風号の接近を報じ、ロンドンの空港や
前経由地の
パリの空港は人が詰め掛け、神風号の二人の乗員は
フランス政府から
レジオンドヌール勲章を受勲しました。

この歴史的な快挙を成し遂げたその飛行機が、ここで作られていたのです。

・・と当時のエントリをそのまま引用してみました。

 A26と同じ製作者の作品だったと思います。
ソリッドモデルで風防はどうやって製作しているのかというと、

初期には塗装のみで表現されることも多かったが、1950年代には
既に熱した透明塩ビ板を木製の型に押し付けて成形する方法も使用されていた。
その後材料はアクリル板へと変化し、成形方法も手動から
バキュームフォームへ変化。

というのがwikiの説明。
この作品は塩ビをヒートプレスして透明化させているそうです。

デ・ハビランド DH.88 「コメット」

は、レース用飛行機で、このつるっとした機体がいかにもスピード重視。
1900年初頭から30年代までは、よく都市間飛行の最速を競う
飛行機のレースが行われ、有名な飛行家を輩出したものですが、
この機体はレースのためだけに作られ、3時間半試験飛行をしただけで
大胆にも英ー豪間レースに出場し、いきなり優勝したという凄い奴です。


例えばこのモデルの製作者は、ソリッドモデルクラブに入会して
4年という経歴ですが、入会前にも独自に何機か製作をしています。
全くの素人が入会するというのはなかなか敷居が高そうです。

この飛行機はDo26(ドルニエ)

躯体の形を見てわたしにもわかりましたが、水上艇です。

現場で製作者に聞くと、これは郵便を運んでいたということですが、
ここに載せるためにDo26で調べると、第二次世界大戦の開戦前に

ドイツのドルニエ社で開発された飛行艇

ルフトハンザ航空の大西洋横断郵便機として開発された

開戦後軍用に改造され、洋上偵察や輸送任務に使用された

はて?これになぜスイスのマークが付いているんだろう・・。

少なくともこの「ゼーアドラー」というタイプ、
6機しか制作されておらず、他国が使用する余地はなかったはずなのに。

不思議に思って画像検索してみると、あらびっくり、
画像で見つかる実機の写真はハーケンクロイツかドイツ軍のものばかり、
スイスの十字を付けているのはこの方の模型だけではないですか。

「もしかしたら・・・・・」

わたしは一つのことに思い当たりました。

この会場で別のモデラーさんが、自分の作品(ドイツ機)を指して、

「これ、本当はナチスの鉤十字が付いてるはずなんですよ」

一つはマークがなく、もう一つは丸だけです。

「鉤十字付けると怒られちゃうんですよね」

「実際にそうだったのに・・・?」

「一度、作品展にロシア人が入ってきて、
鉤十字を見つけて
文句を言われたことがありました。
『こんなものを付けてあなたは無神経だ』とかなんとか」

「えー・・・酷い」

「そう、怒られるから鉤十字は描けない」

史実を遡求し、後世の政治判断でなかったことにしたり、あるいは
変えるべきではないと思うわたしにはとても納得のいく所業とは思えません。

今、隣国の一部国民が、必死で海上自衛隊の自衛隊旗である
十六条旭日旗、陸自の八条旭日旗に(書くのも汚らわしい)
「戦犯旗」というレッテルを貼ろうとして運動しています。
つまり彼らは旭日旗をナチスのハーケンクロイツと同じように、

「使ってはいけないもの」

にしようとしているわけです。

ただし、それを言っているのは一国だけで、先日のフランスでの
独立記念日でも我が陸自の隊旗がシャンゼリゼを行進しましたし、
日米合同の訓練では自衛隊は普通に自衛艦旗を揚げています。

かつての連合国(日本と戦った国)はこの旗になんの問題もないという立場で、
むしろこの「運動」に呆れている風でもあるのがまだしも救いです。

で、ハーケンクロイツなんですが、実機で水上に滑走、離水、着水させている
本格的なモデラーが海外にいまして、そのyoutubeがこれ。

Dornier Do 26 06.09.2014 RC seaplane

惜しいところで田んぼの「田」の字(笑)

もういっそ、「田」にしてしまえば?と言いたくなります。
しかし、模型業界における逆卍って、こんなことになってたんだ。
知らなかった。

「いっそまんじ(卍)にしようかな・・・なんて」

「何か言われたらこれお寺のマークですよ、って?」

そう笑い合いましたが、わたしはなんだかモヤっとした気持ちになりました。
実際にハーケンクロイツを付けていたモデルにすら、それを描くことを
禁止してしまうというような所業を「全体主義」っていうんだよ!

とは誰も言わないのかな。

 

続く。


月光の「斜め下」銃〜ソリッドモデル作品展

2018-07-17 | 航空機

文京シビックセンターで行われたソリッドモデルの作品展、続きです。

一口にモデラーといっても、このソリッドモデルを作る人たちは、
ほとんどゼロから、素材やその加工法を自分で編み出して創るという、
気の遠くなりそうな創造の果てにこの境地に至っておられることがわかりました。

ソリッドモデルというのはいわばマニュアルというものがないらしいのです。

日本では飛行機が武器となって使用されるようになると、識別のために
木で作ったソリッドモデルを「實體模型」と称して軍が主導し作っていました。

この實體模型製作はモックアップ製作の技術にもつながることから、
戦後は模型製作そのものが禁止されていたこともあったそうです。

いわゆる模型会社のキット模型というのはそれらの普及型で、
模型というと本来はこちらを指します。

その製作過程は、資料、材料の準備、加工、塗装、部品の製作、
組み上げという手順を踏む。
市販の図面の一部には断面形状まで描かれているものもあるが、
信頼できる資料がない場合には、図面と写真から正しい断面形状を読み取り、
再現するには高い能力と経験が必要である。
また、航空機ではエンジンや爆弾などの外部に装備される武装を除き、
複数の種類の機体で共通に使用される装備はほとんど無いため、
小物の部品までほとんど全て自作する必要がある。

とWikipediaにもしっかりと書いてあります。
ちび丸艦隊シリーズの「雪風」をもらったくらいでオロオロして、
人に制作を押し付けるわたしなど、7回生まれ変わっても到達できない境地です。

模型会社のキットによるプラモデルはあらかじめ詳細なモールドが施され、
誰が作っても正確なアウトラインを再現できるのですが、
それでもソリッドモデルに留まったモデラーというのは、つまりは
規制のキットでは物足りない、という種類の人たちだったわけです。

例えば、この日の会場で制作を実際にしておられる人がいました。
この方に限らず、制作途中の作品について伺うと、全員が全員、

「ここをどうしようか考えてるんですよ」

と悩みながら制作しているらしいことをおっしゃいます。
ソリッドモデルが何か予備知識なしでいきなり行ったわたしにも、
そういった皆さんの言葉から、

「これはどうやらなんの決まりもなく、ただ想像力を駆使して、
ゼロから作り上げていくとんでもないモノらしい」

と察しがついてきました。

この方が今削っている木片は、飛行機の躯体になります。
削りかすが少し見えていますが、考えながらやっているので、
サクサクと進むというものでもなさそうです。

「ここに来て、作業、進みました?」

と恐る恐る聞いてみると

「全く進んでません」

そうなんだろうなあ。

ちなみにこの方がこれから作ろうとしているのは、

ブラックバーン ファイアブランド TF.5

イギリスの戦闘機というと、スピットファイアくらいしか知らないわたしは、
どちらが会社名なのかも調べるまで見当もつきませんでした。

こういう、マイナーな(マイナーですよね?)飛行機を選ぶというのも
ソリッド・モデラーの傾向ではないかという気がします。

この日会場で、作品出品者同士が

「そういえば今回零戦がないね」

という会話をしていたのを聞いてそれを確信したのですが。

「これは水上艇ですね」

底のシェイプからそうではないかと推察し尋ねてみると正解。
なんと、こちらも制作途中だそうです。

期限のない延大な趣味ならでは、気分次第で作業をする模様。

このモデラーの作品はもちろん実物が展示されていますが、
後ろにあった写真に注目してみました。
どれもよく見ないと合成とはわからないくらいよくできています。

このアメリカ軍機のブルーですが、この方曰く、

「自分で考えたオリジナルの色を使っている」

とのことです。
とにかくモデラー歴は軽く60年はいってそうなベテランでした。

もしかしたら「キットは物足りなくてソリッドに止まった」
という人たちのお一人だったのかもしれません。

カナダ空軍のF-104(スターファイター)だと思われます。
(この方は模型に一切説明をつけない主義のようでした)

スターファイターといえば、映画「ライト・スタッフ」で、チャック・イェーガーが
テスト飛行で墜落させていましたっけね。
あの映画にはチャック本人も一介のオヤジ役で出演していましたが、
テスト飛行でスターファイターを壊したというのは創作だそうです。

ちなみに、F-104にも「未亡人製造機」のあだ名はあったそうで、
割と最近、ドイツでは、

「スターファイター 未亡人製造機と呼ばれたF-104」

というタイトルのテレビ番組が制作されたとか・・。

この飛行機によって文字通り未亡人に製造された奥さんが、
ロッキード社を相手取って訴訟を起こすという内容だそうで、
エンディングにはこの飛行機によって殉職した116名の名前が
『今日まで責任の所在は明らかにされていない』
という言葉とともにずらずらと出てくるんだそうです。((((;゚Д゚)))))))

今にして思えば自衛隊もこれを使っていたことがあったのか・・。
しかしこうしてみると、空自の人たちが

「三菱鉛筆」

と呼んでいた訳がよくわかります。
また、こんな名称もあったと製作者が。

「”最後の有人戦闘機”なんて言われてました」


というかこのブログでも書いたことがあったんだっけ。
あれは静浜基地の空自の博物館を見た時のエントリだったかな。

「でも全く違いましたけどね」

そうそう、あれは日本でそう呼ばれていただけで、つまり英語の

「ultimate manned fighter」

あるいは

「Missile With A Man In It」

を意訳した結果という説らしいですね。

日本では真剣に、航空機がミサイルを積む時代はもうすぐ終わり、
と考えていたので、この英文を曲げて解釈してしまったのかも。

ちな、これを選定するときに

「乗ってみなければわからない」

と言い放ち、アメリカに赴いたのは当時の空幕長源田実ですが、
決定後、これを日本に運んだのは

貨物航空会社 フライング・タイガース

だったそうです。

尾翼のスコードロンマークが・・・・(笑)

「本当にこんなマークだったんですか?」

「そうだったみたいです」

「トランプがついてるんです」

と指し示して教えてくれた王立空軍の飛行機。
名前も聞いたけど5秒後に忘れました(´-ω-`)

ポーカー・・・じゃなくてホーカーだったかな・・いや・・。

冒頭写真のパンナム機を始め、ビールの缶を素材に使っているモデラーの作品。
TWAの旅客機、というと、つい最近見たトム・クルーズの主演映画、

「バリー・シール アメリカを嵌めた男」(原題 The American Made)

で、「TWAのパイロット」という台詞を耳に留めたのですが、
トランスワールド航空のことだったんですね。
TWAは2001年に廃止されました。

この機体は当時最新鋭だった「スーパー・コンスティレーション」です。

ハワード・ヒューズが開発を推し進めた旅客機で、その美しいフォルムから
「レシプロ大型旅客機の最高傑作」として現在も数機が保存され、
イベントなどで飛行し人気となっているということです。

コンスティレーションのコーナーにあった「プロペラの削り方」。
ねじれとか完璧に再現されているんですが、これすごくない?

案外日本の軍用機が少ない、と感じるソリッドモデル展ですが、
この方は「月光」を、しかも二機制作しておられました。

「厚木にいた飛行機ですか?」

「そうです」

見ると、ちゃんと「斜め銃」が再現されてるじゃありませんか。

話には聞いていたけど、斜め銃というのがどのように設置されていたか
初めてちゃんとわかりました。

聞いたところ、やはり銃は20ミリだったそうです。

ハッチが空いているので、ここの銃撃手が乗るのだと思い、

「銃手は一人ですか?」

と聞いてみると、なんとパイロットが操縦席から銃撃するのだそうです。
つまり、これはB29のような大きな飛行機の下を航過しながら、
パイロットが狙いをつけて銃を発射するのですって。

「効果はあったんでしたっけ」

「何機か落としてます」

え〜そうだったのか。小園さんやるじゃん。
今ちょっと調べたら、スミソニアンにも横須賀の月光があるそうですね。

スミソニアン・・・・今年行ってみようかな( ̄+ー ̄)

銃撃手がおらず、パイロットが銃撃を行う、という話をしていると、
隣のブースのモデラーさんが

「え、そうだったの。知らなかった」

と話に加わって来られました。
月光製作者は、わたしたちに機体をひっくり返して見せてくれました。
すると、そこには

「斜め下銃」

が!!!

具体的にどんな風に斜めに突き出していたのかわかったのもですが、
思っていたより兵器として成果があったことをここで初めて聞いて、
なぜかちょっと嬉しくなってしまったわたしでした。

 

続く。

 

 


「海の日」~笹川良一と「明治丸」

2018-07-16 | 日本のこと

今日は海の日です。

実は、海の日になるとこの古いエントリを引っ張り出してきて
再掲しているわたしですが、海の日について知らない人が多いので、
啓蒙の意味を込めて今年もまたあげておきたいと思います。

 

昔々、「海の日」で休みになることを知ったとき

「海の日って、何の日?」
「だから、海の日でしょ」

と知らない者と分かっていない者同士で
情けない会話を交わした覚えがあります。

別に知らないからといって何の不都合もなかったため、
それっきりその意味を調べることもなく何年かが経ちました。
その間、何回も7月20日はやってきましたが、
いつもその日には日本にいない、ということもあり、一度として

この日のことを調べようという気も起こさなかったのです。

そしてある日、当ブログ記事のために海軍について調べていたとき、
その流れでわたしは初めて「海の日」の何たるかを知ったのでした。
つまり、このブログをやっていなければ、
今でもこの日に関して何も知らなかったでしょう。



驚いたことは「海の日」というのが新たに設定された祭日ではなく、
戦前の「海の日」を復活させたものであったことでした。

「海の日」は昭和16年(1941)近衛内閣の逓信大臣村田省蔵の提案によって
終戦までの5年間「海の記念日」とされていた祭日が元になっています。

村田省蔵

なぜ逓信大臣が海の記念日を提案したか、ということから説明すると、
この村田省蔵は、議員になる前は大阪商船(商船三井の前身)社長であり、
近衛政権下では、日中戦争勃発に際して海運の戦時体制確立を主張し、
海運自治連盟を結成して、みずから理事長を務めた人物だったからです。

それがなぜ7月20日だったのか。

それは、明治9年(1876)6月2日、明治天皇が東北・北海道を
ご巡幸あらせられたことに端を発します。
御生涯の大半を御所で過ごされた江戸時代の天皇とは対照的に、
明治天皇は各地へ行幸されました。
明治5年から18年にかけて行われた巡行行事を六大巡幸といい、
この北陸・東海道へのご巡幸はその2番目に当たっています。

埼玉、茨城、栃木、福島、宮城、岩手、青森

この各県をご巡幸のち、7月16日、お召し艦にご乗船され、
函館を経由して横浜にご帰着されたのでした。

そして、横浜にお召し艦が到着したのが7月20日だったというのです。
この昭和16年はそれからちょうど50年目だったということもあるでしょう。


「それはわかった。
しかし、それから50年も経った昭和の世になって、
ご巡幸のお召し艦が、横浜に着いた日をわざわざ祝日にして
国民のお祝いにするのはどういう意味か?」

この説明を読んでそう疑問を持ったあなた、そうですよね?

ご巡幸だけで6回も行われているので、

「天皇陛下が無事ご巡幸からお戻りになった日」

を記念するなら、それだけで6日の祝日が必要です。
この「横浜帰着の日を海の記念日にした」ということだけは
Wikipediaにも書かれているのですが、このように考えると

「なぜその日を選んだのか」

という疑問がわいてきます。
そして案の定その疑問に明確に答える資料は見つかりませんでした。

しかし、もう少し念入りに検索ワードを変えて探してみると、

まず明治神宮の機関報が引っかかってきました。

この函館から横浜までのお召し艦航行中、海上は荒天で
強風のため「明治丸」はまる3日間というもの時化に煽られ、
お迎えのため横浜港で待ち受ける人々は青くなっていたところ、
予定を大幅に遅れて帰港した「明治丸」からは
端然とした様子の明治天皇が降りて来られ、一同は
胸を撫で下ろした、ということがあったのだそうです。

それがマスコミによってセンセーショナルに報じられ、
明治天皇のご無事を寿ぎ安堵し、少なくとも昭和15年までは
忘れ得ぬ事件として民衆が認識していたということもあるでしょう。

勿論、それは民衆にアピールする理由であり、
この制定には実は政治的な意図がありました。


ここでもう一度「海の記念日」を制定した逓信大臣、
村田省蔵の経歴に目を戻してみましょう。

村田は日中戦争に伴って、海運の戦時体制の確立を主張した人物です。
海の記念日の成立に当たっては、やはり逓信省局長の尾関將玄

「徹底的なる戦時態勢を必要とし、なによりも国力を充実すべきである。
海の記念日はかやうに、堅実なる国力の充実をはかるための契機たらんとする」

と述べており、これが戦争の遂行上重要となってくる海上輸送において、
船員や船舶の徴用と調達を海運関係に協力要請するとともに、
その認知を国民に対して広く行おうという意図があったわけです。

このときに明治天皇のお召し艦となったのがそれまでの軍艦ではなく
初めて「明治丸」という民間船が使われたということも、

「民間船舶の戦時体制への協力」

という、この記念日のテーマにぴったりだったからともいえます。



その後、民間船が「戦時徴用船」となり、輸送船団が攻撃を受け、
敗戦時には民間の船舶はほとんど壊滅といっていいほど残らず、
徴用された民間の船舶関係者はその多くが戦死することになった、
というのは原爆投下や空襲、あるいは沖縄での犠牲と共に
非戦闘員の命が戦争で失われた悲劇として、わたしたちが
いつまでも忘れてはいけないできごとです。


それにしても、戦後の日本に吹き荒れたGHQの思想統制と
あるいは旧軍パージ を考えると、このような経緯を持つ
「海の記念日」が戦後復活したこと自体、少々奇異なことにも思われます。

実はこの制定の陰にはある一人の人物の姿がありました。

この日を祝日として復活させようと言う動きは昭和30年ごろからあり、
その推進を熱心に進めていたのがあの笹川良一氏でした。

この写真を改めて見ると、最近の鳩山由紀夫さんって、ますます
笹川氏に似てきましたよね・・・なんでとはいいませんが。

さて、笹川良一、というと「右翼」の一言で片付け、そこで思考停止して
この件に関しても「右翼だから」と単純に納得する人が多いかもしれませんが、
わたしはこの人物は一言では語れない清濁併せ持つ人物だと評価するゆえに、
この件にも何か表に出て来ない「理由」があるのではないかと思っています。

たとえば笹川氏が尽力した戦犯救出や戦犯裁判の処刑者の遺族会だったり、
戦争に関係した「誰か」との約束があったのではないか、とか。

いずれにせよ笹川氏が「墓場まで持っていった秘密」にその真の理由があるのでは?
と若干(世間一般の評判に対する)「判官贔屓」のような気持ちから空想しているのです。


笹川氏がどのような力を行使したのかはもう知るすべはありませんが、
ともあれ、1995年(平成18年)の7月20日から、
「海の日」は施行されることになりました。

その初施行を二日後に控えた7月18日、笹川氏は95歳でこの世を去りました。


いうならば、戦時体制推進に
発祥の由来を持ち、しかも世間的には
「右翼の大物」が推進して決めた「海の日」です。


こんにち広く説明されている「海の日」の意義とは

「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願い、
海の環境や資源について考えたり、海に親しむ契機にする」


というものですが、それはさておき、この由来に異を唱える人はやはりいて、
今回これを書くために目を通した情報の中には、

「海の日そのものは歓迎だが、戦前の祝日だったのが気に食わない」

として、案の定これを制定した戦前の日本(軍部じゃありませんよみなさん)
に始まって、笹川良一への非難からこの件も「黒」とする意見がありました。

あの「赤旗」に至っては、明治天皇のご巡幸に対しても

「明治新政府の地租金納制や、徴兵制に対する不満が強かった
東北の民衆の感情を抑えるためだった 」


などと否定的なニュアンスだったりします。

いや・・・・これ、おかしくないですか?

ご巡幸はさっきも書いたように6回行われているんですが?
しかも、茨城、埼玉、栃木は東北じゃーありませんぜ?

だいたい、仮に本当にこれが民衆の不満をなだめるためだったとしても、
そのためわざわざ天皇陛下がご行幸されることの、どこがいかんのかね?

ちなみに共産党ですが、「海の日」が7月20日に固定されていた頃は
上記の理由により、この祝日そのものに反対しておりました。

しかし、2003年になって「ハッピーマンデー法」が施行され、
(なんちゅう法案名だ)20日固定ではなく7月の第3月曜日、となった途端、

「 従来からの党の主張に合致するうえ、連休・3連休の増加は
労働者にとって強い要求であること、
レジャー等の関連団体の合意も得られている」

といった理由から、あっさりと反対するのをやめたということです。
労働者のための制定なら由来は見逃す、ってことでおけー?

しかし、それをいうなら明治天皇のご巡行も、
労働者や庶民、つまり民草のために行われたんじゃないのかなあ。


さて、取ってつけたように冒頭画像の説明ですが、
これはご巡幸のときにお召し艦となった「明治丸」
この「明治丸」は灯台巡視船として日本政府がイギリスに発注したものです。

当時の新鋭艦で優れた性能を持っていたため、
お召し艦になりご行幸に採用されました。

写真は、1910年、台風一過のあと岸に打ち上げられた明治丸ですが、
この後補修をし、関東大震災(1923年)や東京大空襲(1945年)において
多くの罹災者を収容するなどの活躍をし、現在は国立海洋大学が保存しています。

それだけに留まらず、この明治丸は歴史的に大変貴重な役割を担った船なのです。
現在の日本の海域(FEZ)はこの明治丸が決めたということをご存知ですか?

明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、
日本政府の調査団を乗せ英国船より早く小笠原諸島に達し
調査を開始したことにより、小笠原諸島領有の基礎を固める役割を果たし、
小笠原諸島はわが国の領土となりました。
明治丸の活躍がその後、日本が世界第6位の排他的経済水域
(EEZ)を持つ海洋大国となる礎となったのです。

(海洋大学HPより)






て「海の日」制定施行の二日前に亡くなった笹川良一氏の話を最後に。

左翼は7月20日が「海の日」施行であることに反対していましたが、
その後、休日法の改正で第3月曜日に変わったことで納得し、
今では反対の立場を取っていない、という話をしました。

この改正法によって、毎年「海の日」は日付が変わることになりましたが、
何年に1回かは、笹川氏の命日である18日になるのです。

なぜこの日を制定するのに熱心だったのか理由は分からないものの、
笹川氏に取って悲願であったらしいこの祝日施行でしたが、
こればかりは、ご本人も生前予期するすべもない「ご褒美」だったかもしれません。

そして「明治丸」ですが、最初にこの項を製作した時には、募金を募集しており、
もし笹川氏が生きて権勢?を振るっていれば、出資に乗り出してくれたにちがいない、
と書いたのですが、その後再び平成25年12月より、本学と文部科学省により
大規模修復工事が行われ、平成27年3月に竣工し、その美しい姿がよみがえりました。

 
 「明治丸」修復工事竣工後の空撮動画

ドローンによる空撮のようです。

寄付もまだ行なっているようですので、リンクを貼っておきます。

明治丸ミュージアム事業への寄付のお願い

 


 


大空を翔る(時として荒唐無稽な)夢〜ソリッドモデルクラブ作品展

2018-07-15 | 航空機

文京区シビックセンターで行われた航空機模型クラブの展覧会に行きました。
前回巡洋艦模型展を教えてくれた方の情報です。

文京区といえば、渡米前に住んでいた町であり、シビックセンターの
市役所で結婚届を出し、我が家の本籍地のある懐かしの場所。
行くたびに後楽園のプールに息子を連れて通ったことや、
日本に進出して最初にできたころ、ワクワクしながら通った
日仏学館の近くのスターバックスや、桜の季節の播磨坂の想い出が蘇ります。

この展覧会、この模型クラブが創立65周年記念ということで
ソリッドモデル(木を削って形をつくる模型)がテーマです。

会場は文京区シビックセンターの貸し出しスペースで、行ってみると
思ったより小さなスペースなのに軽く驚きますが、
模型展というのは、いかに小さなスペースであってもその中にいると、
なぜか無限の広がりを感じるのはホビーショーや前回の模型店で経験済み。

意識するとしないに関わらず、縮小された模型を見るとき、自分自身も
いつの間にか「小さき者」となって、その視点で観ていることがその理由でしょうか。

というような御託はともかく、力作をご紹介していきます。
今回は全部が航空機ということで、まずは黎明期の飛行機から。

サンマテオのヒラー航空博物館で人力飛行機についての展示を見て、
ここでもご紹介したことがありますが、これはその前、
オットー・リリエンタールのグライダー。

なんというか、飛行機以前のスタイルです。

リリエンタールという人は、生涯2000回くらいの滑空実験をしたと言いますが、
こんな危なっかしいもので、しかも防具もつけず、よく怪我しなかったな、
と思ったら、やっぱり墜落して脊椎を損傷して亡くなっていました。

(-人-)

オットー・リリエンタールグライダー

先ほどのページの下半分に、二宮忠八のことが書いてあります。

ライト兄弟よりも早かった飛行機の発明「飛行神社」

その忠八さんの発明した「玉虫型飛行機」。

二宮さんが陸軍に動力付き飛行機を採用してもらっていたら、
航空の歴史が変わっていたかもしれません。

デュモン「14ーbis」

こんなの絶対飛ばないよね。と思ってふと見ると。
ちゃんと滑空している写真があるじゃないですか。
すげー!こんなの今時作って飛ばす人がいたんだ!と思ったのですが、
この写真、後から合成だとわかりました。

まあ写真は偽物ですが、実際にも高さ6m上空を200m滑空した模様。

アルベルト・サントス=デュモンはいわゆる理想家で、飛行コンクールで
得た賞金を、そのまま慈善事業に寄付するといった「いい人」でした。

そんな人だったので、飛行機の発明が即座に兵器利用されたことに失望し、
飛行家として拠点としていたフランスから祖国ブラジルに帰ってしまいます。

もちろんそこでも事情は同じ。
世界中の軍隊がこの新兵器を取り入れることをトレンドにしていましたからね。

祖国に帰った彼はそこで飛行機を兵器利用するな!という提言を行いましたが、
黙殺され、またしても
失望した末、ホテルで首を吊って自殺してしまいます(-人-)

今回わたしが一番驚いたのは、カルティエのアイコン的時計、
「サントス」が、この人の名前から取られていたということです。

彼がフランスに住んでいた時、宝石商ルイ・カルティエに飛行用に
時計を注文したことがあり、そのデザインを元にしているのだとか。

ご本人もファッションリーダー的存在で、トレードマークはハイカラー。

空飛ぶ伊達男の異名を取ったデュモンのお洒落番長ぶり・・・納得。
ちなみに彼は59歳で亡くなるまで生涯独身でした。

ALBERTO SANTOS-DUMONT - BRAZIL'S FATHER OF FLIGHT

彼の生涯が非常にわかりやすい英語で解説されていますので、
興味のある方はご覧ください。

デュモンは絶望して死んでしまいましたが、彼の考え方は残念なことに
世界的な流れからいうとごくごく少数派で、時代はこの新発明を

軍事利用することでどんどん発展させ昇華させていきます。

なんと、こんな飛行機同士ですでに空中戦が行われていたくらいです。

青島攻略で日本機と戦ったという、

ルンプラー・タウベ

もちろんドイツ軍の飛行機です。

すっかり忘れていましたが、日本とドイツって第一次世界大戦では敵同士、
青島ではビスマルク要塞を陥落して日本が勝ったりしてたんですね。

この戦争で初めて軍隊に飛行機を投入することになった日本は、
これも海軍初の水上機母艦「若宮」を建造し、水上艇である

モーリス・ファルマン

でルンプラータウベと空中戦を行いましたが、駆動性の点では
タウべの圧勝で、はっきりいって勝負にもならなかったそうです。

加山雄三の映画「青島要塞爆撃命令」ではちょっと違っていた気もしますが。

その横になんとブラックバードSR-71Aがいました。

ソリッドモデルというのは木型をまず成型して、その上にアルミとか
塗料とかでコーティングするわけですが、この方はケント紙使用。

しかもこの説明によると、「ソリッドモデルとは違う」?

工程について聞くのを忘れたのですが、これはもしかしたら
ソリッドとは違い、中空なんでしょうか。

わたしは実際に、カリフォルニアのマーセド近くにある無名の航空博物館、
キャッスル航空博物館でこの実物を見ているわけですが、
実際のブラックバードの機体は色が禿げてまさにこんな質感でした。

こういうクラブで模型を作る方というのは、ネットでいろんな角度の写真を集め、
公開されている設計図や、とにかくあらゆる資料から設計を起こすので、
売られているキットを買ってきて作る、というのとは次元の違う「趣味」です。

このブラックバードを作った方も、機体の下部はどんな写真にも写っておらず、
アメリカに住んでいる人にスミソニアンまで行って写真を撮ってきてもらった、
とおっしゃっていました。

 

こちらも同じ方の作品、ケント紙による海軍の「景雲」

模型の楽しいところは、実際には存在しなかった飛行機や、試作機を
あたかも存在するかのように再現できることでしょう。

この「景雲」も偵察機として試作された機体です。

当時の日本機には画期的な形をしているのがわたしにもわかります。
景雲、昭和20年の5月と敗戦色濃くなったころ試作されました。

なんと、日本はこの時期三菱が開発したジェットエンジンを
この機体に積もうとしていた、というのにはびっくりしました。

試作の段階で1機目は排気タービンを装着しなかったせいか、
10分間飛ぶか飛ばないうちにエンジン内で火災が起きて失敗。
その後空襲で破壊され、2機目を作っているうちに終戦になったそうです。

さて、わたしのように飛行機に興味がないわけではないが、そこに
まつわるヒストリーや物語があればなおよし、というような、
模型作りの門外漢にとっては、同じ展示でもこのような演出があると
おっ、と目を輝かせて見入ってしまうものです。

本作品展のテーマは「大空を駆け巡る『夢』」ということで、
作り手の「こんなものを作って見たい」という夢が形になったものだそうです。

それでいうと、この作り手さんは、「ジーメンス シュケルト D IV」
半分がスケルトンになった写真を見て「作りたい」と思ったのだとか。

陸軍将校が飛行将校(パイロット)と地図を見ながら、爆撃地点を
打ち合わせ中、というストーリーで、制作者によると、

「パイロットなので少し背が低いんです」

あーなるほど!
人体は模型を買ってきてあちらこちらアレンジをしているそうです。

わたしが他の作品を見ていると、制作者が戻って来られて、
それまで中身を見せるために外していたプロペラを付けてくれました。

(わたしが一眼レフのカメラを持っていたので、取材かと思い、
戻って来られたということです。きっとがっかりさせたことでしょう)

例えばエンジンのディティールも、金属片を丸くくりぬいたりして、
おそるべき再現度となっています。
足下の石などは、水槽に使う小石を選んできたり。

前から見て気づいたのですが、機体の下にはオイル受けのバケツがあります。

この制作者の作品第一号はにゃんと、(猫戦闘機だけに)クーガーでした。
クーガーについてエントリをアップしたばかりだったのでちょっと嬉しかったです。

ところで、このクーガーさん、尻尾がありませんが?

こちらがこの模型の完成直前のお姿。

「落として壊してしまったんです」

にゃんと〜!

説明によると、

「機体にアルミ板を貼りながらキャノピーをヒートプレスしているところで
作品は高い棚から落る」(原文ママ)

なんか達観しきったようなこの表現、たまりませんわ。

同じ人の二作目、

И-153 イー・ストー・ピヂスャート・トリー チャイカ

チャイカはカモメという意味です。
そういえば「わたしはカモメ」というソ連の女性飛行士のセリフがありましたね。

実際は「わたしはカモメ」はチェホフの戯曲のセリフで、本人
(ワレンチナ・テレシコワ)が言ったのは単に

「ヤー・チャイカ」(こちらチャイカ)

だったとか。
今調べたらテレシコワ女史って81歳でまだご存命でした。

それはともかく、わたしがこの模型に食いついたのも人体付きだったから(笑)

毛皮のブーツとか、思いっきり雰囲気出てます。
不時着してしまって「うーむ、ここはどこ?」みたいな?

なんとこの飛行機「ノモンハン事件」で日本軍の九七式と空戦してます。

ただし複葉機のI-153は、日本軍の九七式にはかなりの苦戦をしたようです。
同時にソ連軍が投入したI-16と九七式はほぼ互角でしたが、
結局は搭乗員の質で勝る日本軍の圧倒的な勝利となりました。

白い機体の汚れ具合とかがもうリアリティありまくり。

やはり同じ人の一際目を惹くロケット的航空機、ポゴ。

コンベアXFY-1 POGO PLANE

アメリカ海軍、空母の上のスペース節約のためにこんなものを作っておりました。

U.S.A. Air News - Pogo Plane In Flight (1954)

ロケットのように垂直に離陸して、普通に飛んで、また垂直で着陸してしまう、みたいな。
確かに画期的でこれがうまくいけば、着艦はしやすいと思うけど、それじゃ

着艦した後どうやってハンガーデッキに格納するんですか?

と瞬時に疑問が生まれてきてしまいます。

実際はそれ以前の、

「着陸するときにパイロットが地面を見ることができない」

という理由で、計画は中止、試験機だけで終わってしまいました。
着陸を見る限り、コクピットは上しか見えておらず、バックミラーでもないと無理だったでしょう。
しかも、スピードも出ない(亜音速以下)のでなんの使い道もなさそうだと。

でもなんだかネーミングといい、飛んでいる姿といい、夢がありますよね。

 

何と言っても、アメリカも航空大国になる過程において、結構
おバカなことを試してはやっぱりダメじゃん、というような無駄な失敗を
やらかしてる証拠がこれ、という気がします。

本展覧会のテーマでいうと、大空を駆け巡る「夢」の最たるもの。

その夢も、その前に「荒唐無稽な」とつけてもいいような・・・
いや、真面目に実現確実!と思ってやってたのならすみません<(_ _)>

まあなんだ、愛すべきヒコーキ(馬鹿)野郎たちに乾杯(笑)

 

ソリッド模型展シリーズ、もう少し続けます。

 

 

 


メア・アイランド・ヒストリック・パーク

2018-07-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

昨年夏のアメリカ滞在時、メア・アイランドに行きました。

アメリカ海軍について調べたり書いたりしていると、しょっちゅう
艦船が建造された、ということで「メアアイランド海軍工廠」という名前を見ます。

調べてみると、メア・アイランド海軍工廠は1996年、つい最近まで稼働しており、
そこには現在当時の建物を利用した博物館があるというではありませんか。

これは多少無理をしても行くしかあるまい。

その時に滞在していたのはパロアルトだったので、朝息子をキャンプに送り届け、
すぐに現地に向かって車を走らせました。

パロアルトからはまずブリッジで対岸に渡り、そのまま北上して、
バークリーを通過し、さらにこの写真のカークィネス橋を渡って、
海を渡り、バレーホ(Valejo)という街に行きます。

サンフランシスコに住んでいた頃、このカークィネス橋は、シックスフラッグという
遊園地や、ナパ・バレーに行くときに必ず通る印象深い地点でした。

メア・アイランドは正確にはアイランド、島ではなく、ナパ川を挟んで
バレーホの対岸にある長い半島というか砂州なのですが、とにかく
バレーホからは、たった二本しかない橋を渡って行くしかありません。

この閉鎖性も、海軍がここに工廠を置いた原因だったのだろうと思われます。

ナパ川、または「メア・アイランド海峡」に架かる橋は

「メア・アイランド・コーズウェイ」

これはそのブリッジを渡っている写真ですが、艦船が通過するため、
跳ね橋になっているだけでなく、橋の中央に運搬のためのレールが
一本敷設されているのがおわかりでしょうか。

船舶通過時に跳ね上げる部分は、舗装されていないメッシュ状です。

船舶がブリッジを上げてもらうためには、管制室に音信号を送るか、
ビジュアルでは発光信号、手旗信号でリクエストができます。

もちろん直接電話してもOKです。

ザ・ゴーストタウンのこの雰囲気、どこかで見たと思ったら、
サンフランシスコの対岸にあるアラメダです。

アラメダには昔海軍航空基地があり、1997年に閉鎖されて、今では
空母「ホーネット」を軍事記念館として公開するほかは廃墟となっています。

凄いのは飛行場ごと廃墟になっていること。
上空からでもわかるくらい、滑走路が荒れ放題になっています。
かつて管制塔などがあったらしい部分からは根こそぎ建物がなくなり、
そのあとになぜかワイナリー、スポーツジム、そしてピザ屋が並んでいます。

アメリカというのは土地がいくらでもあるせいか、こういう
何というかとてつもなく豪快な廃墟が結構あちこちに存在するのですが、
メア・アイランドもその一つ。

メア・アイランドで最初に船が造られたのは1859年のことです。
海軍工廠の142年間の歴史で最初の海軍所属艦船として建造されたのは
USS「サギノー」( Saginaw)というスループ船でした。

また、史上初の「航空母艦」として木造のデッキを甲板に乗せ、
史上初の飛行機の発艦を行なった装甲巡洋艦「ペンシルバニア」はここで造られています。

こういった建物の佇まいを見ると、海軍工廠として
設備が充実していった時期の1900年初頭の建築だと思われます。

建物の屋上からはダクトが出ていて右側の巨大な煙突につながっており、
内部の換気を行っていたのだと思われます。
また、屋上に異質の素材の構造物が見えますが、これはグーグルマップで見ると、
後から何か必要性が生じて屋上に増築された2棟のうちの一つです。

路駐の車はこの道が駐禁ではないから車庫がわりに置いているようで、
おそらくはこの向かいにある復員軍人援護局病院の関係者のものでしょう。

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おかしなことですが、この「ミュージアム」という看板の下には
それらしい出入り口はないのです。

「おかしいな〜」

そう言いながらとりあえず周りをウロウロしていると、
一人の男性がわたしたちに

「博物館ってどこから入るのかなー」

と、やっぱり困っていたらしく聞いてきました。

「どこなんでしょうねー。わたしたちも探してるんですが」

赤レンガの工場のような建物で、錨が置いてあるので、
確かにここが博物館なのだろうとは思うのですが、まず
入り口がどこかわからず、しかも看板もなくて人もおらず、
いったいどこから入っていけばいいのか困り果てました。

やっと入り口が見つかりました。
この博物館、毎日オープンしているわけではないので、
訪問にあたってはオープンしている日時を慎重に調べておいたのですが、
それにしてもこれ、見てくださいよ。

開館時間

平日 正午から午後2時まで

第1、第3週のみ正午から4時まで

つまり第2、第4週は2時間営業ってことですね。
どうしてこんなにやる気がないのかというと、博物館に詰めている人が、
おそらくはボランティアかなんかで人手がないのに加え、
博物館を見に来る人も滅多にいないせいなんだと思います。

そういえばアラメダにも同じような博物館がありましたが、
そちらは時間が合わず、訪問することができませんでした。

れから掲示板の下には電話番号があって、
アポイントメントを入れてくれればシップヤード見学ツァーもできますよ、
値段は一人5ドルです、とあります。

機会があれば是非ツァーにも行ってみたいとは思いましたが、
例えばたった一人二人のためにツァーをしてくれるんでしょうか。

しかし、やる気のなさというのは展示状態にも現れていて、冒頭写真の
建物の前にあった錨もただ転がしておいてあるだけで正体も全くわかりませんし、
この巨大な「何かの輪切り」も、なんの説明もなく全く何かわかりません。

戦艦の主砲の筒部分を裁断したものかもしれませんが、何でしょうか。

赤錆の浮いた錨鎖、鎖。

かろうじて錨の刻印に穿たれた文字は読めます。
1935年ノーフォーク海軍工廠で造られた錨です。

この看板の横にあった鉄扉を開けてみると、入っていくことができました。
そこにも人がおらず、しばらく待っているとおばちゃんが出てきて、

「見学してもいいですか〜?」

と聞くと、いいわよー、と答えます。
入館料を払わなければ人のうちに上がらせてもらうような気分です。

入ってすぐのコーナーがこれ。
タグボートの舵輪なんですが、下の説明によると、
何やらの創立者であるケネス・ザドウィックの80歳の誕生日を
記念して、再生しましたとかなんとか。

これはもしかして・・・・。

隣がこれ。
模型の艦、何かお分かりですよね?


ケースの左端にあるモニュメントからもわかるように「アリゾナ」です。
そしてどうもこのケースは、

戦艦「アリゾナ」元乗員の会コーナー

ンプは「アリゾナ」で使われていたものでしょうか。

それはいいとして、なぜ原潜の模型が・・・・。
もしかしたら「アリゾナ」元乗員の作った趣味の模型コーナーだったりして。

ますます人の家にきた感が・・・。

かつてのメア・アイランド海軍工廠の写真もありました。
海軍のマーチングバンドが先頭になって、おそらく後ろには
パレードが続くのでしょう。
工廠の工員と海軍の水兵たちがゆるーい感じで自分の職場の前に立ってみています。

これはどこだろうとグーグルマップで調べてみたところ、
似た建物があることから、おそらくドライドックの横を通る
ニミッツ・アベニューで撮られたものらしいことが判明しました。

ただし、この写真の頃にはニミッツはまだそんなに偉くないので、
おそらくは違う名前の道だったと思います。

1940年2月、3番ドライドック建造中の写真。

ドックの形状から、これもグーグルマップで探し当てました。
なんと3番ドック、現役で仕事をしております。

今ドック入りしているこの船、みなさん、なんだと思います?

なんとこれ、アメリカ沿岸警備隊の船なんですよ。

コーストガードの船は、この間も海保の観閲式で見た方はご存知でしょうが、
白地に赤いポイントの入った船体なのでそれと正反対の色使い。
なぜ赤く、目立つように塗装しているかというと、これは

重砕氷船 USCGC「ポーラスター」WAGB-10

だからです。

海上自衛隊が所有する「しらせ」は「砕氷艦」ですが、こちらは
 USCGC(ユナイテッドステイツ・コーストガードカッター
なので、砕氷船、あるいは砕氷カッターと呼ぶべきでしょう。

40年前に建造されてから宗谷並みに頑張っているカッターで、
なんども南極に行き、なんども改装を受けていますが、それでも
乗員から「錆びたバケツ」なんて嬉しくないあだ名があるそうです。

何しろ40歳のご老体なのでこれ以外にも、

「ビルディング10」(10番目の建物)

「ポーラースペア」(ポーラスターに掛けて。スペアは『オールドミス』)

「ブランドX」(そういうロックバンドもあります)

「クソでかい官公庁のビル」

「楽しい真っ赤なお風呂」

まあ、図体でかくて使いにくいけど憎めないよね、みたいな?

そしてこの写真、ちょっとわたし、偶然にびっくりしてしまいました。
グーグルマップにコーストガードの「ポーラースター」がドック入りしているのが
写っていたのは本当に偶然なのですが、この次の写真、これも実は
コーストガードのUSS「ベアー」なのです。

当ブログでコーストガードアカデミーの博物館展示をご紹介しましたが、
コーストガードアカデミーで割と最近まで熊を飼育していた理由に、
黎明期にコーストガードが(当時は税収カッター部隊といった)
南極に派遣したカッターの名前が「ベアー」だったから、という説明を
もしかしたら覚えてくださっている方もおられるでしょうか。

この写真は、ここメア・アイランドのドックにいる「ベアー」、
1903年の撮影です。

この船、なんとあのバード提督を乗せて南極にも行ってるんですよね。

 

さて、そんな感じで、いろんな海軍の写真や資料がそれこそ無造作に、
非体系的に羅列されているメア・アイランド海軍博物館。

展示についてゆっくり、のんびりお話ししていこうと思います。

 

続く。

 


海の上で生まれた少女〜帆船「バルクルーサ」サンフランシスコ海事博物館

2018-07-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

冒頭写真は「バルクルーサ」の船長キャビンです。
かつてここの住人であった「オールドマン&ウーマン」、
アルフレッドとアリス・ダーキー夫妻の肖像写真が飾られています。

「バルクルーサ」もその歴史の中でたくさんの船長を迎え、
その中には、乗員に不当な値段で物を売りつけるような妻もいたわけですが、
この夫妻はあることで有名になりました。


「バルクルーサ」の甲板下の階に降りてきています。

上部構造物にもキッチンがありましたが、ここにもあります。
もしかしたら、こちらは船長とオフィサーのためのキッチンかもしれません。

電気がない時代にできた船なので、ロウソク立てと上部に煤受けがあります。

時化てもお皿が飛び出さない、この形の食器棚は、確かサンディエゴの
「スター・オブ・インディア」のキッチンで見たのと全く同じ仕様です。

このころの船上で使用される什器のほとんどは真鍮製です。
それにしても真四角のやかんって変わってませんか?
安定性を高めるための船の上専用の仕様なのでしょうか。
手前のお皿に乗っているのはどうやらパンのつもりかな。

キッチンの隅の説明をアップにしてみましょう。
「クリスマスディナー・・・・・」と書かれています。

この航海の間に丸々と太った豚さんは、クリスマスの日に調理されて
ローストポークと化し、
プラムプディングと一緒にテーブルに乗る予定です。

大抵の豚さん(豚には必ず誰か1等船員の名前が与えられた)には、なんというか
非常に不思議なことに、自分がお皿に乗る日を察知する能力があり、
運命の日には檻を破って(!)脱走することがあったと言いますから驚きます。

以前もタイトルに使ったことがある、甲板の檻から逃げ出し、

「お訪ね豚」

のポスターが作られた「ソウクルーサ」(ソウは雌豚の意)も、
きっとその不思議な第六感で
自分の運命を悟ったのに違いありません。

豚が逃げると、乗員が総出で、デッキの端から端まで駆け回り、
捕物が始まるのが常でした。

陰鬱で辛いことが多い船の生活のなかで、もしかしたらこの追跡は
船員にとって結構な楽しいイベントとなったのかもしれません。
説明には「メリー・チェイス」(楽しい捕物)とあります。

ギャレー、フォクスル、デッキハウス、そしてキャビン・・・・。

豚自身のキーキー鳴く声、船員の叫び声、笑い声、罵声・・・・。
そんな喧騒の中、豚さんは必ず最後には追い詰められるのでした。

この豚さんはなぜか生きたままの姿でキッチンにおりますが、
おそらく逃げ回っているうちに追い込まれ、
「トンで火に入るクリスマスの豚」状態になったところでありましょう。

雌豚の「ソウクルーサ」さんもこんな風に捕まって、クリスマスのディナーに
なってしまったんだろうな・・・・(´;ω;`)・・・


余談ですが、冷蔵庫がなかった時代、我が海軍の軍艦でも食料として
牛を乗せ、必要に応じて(クリスマスはないですが)バラしていました。

軍艦の上で牛を解体していたというのもすごい話ですが、それ以前に、
まず牛をするという辛い仕事を軍人にやらせていたっていうのがね。

当時の日本では家で飼っていた鶏を客が来たらシメて出す、ということが
普通に行われていたので、鶏に関しては問題なかったと思いますが、
流石に牛をしたことがある乗組員など滅多にいるものではありません。

しかもそれまで餌をやって情が移ってしまい、乗組員、誰も手を出そうとしません。
そこで桜大尉という美丈夫がついに名乗り出て、花子という名前の牛に引導を渡しました。

これは海軍のレジェンドとなり、

「桜大尉、女ゴロシの牛殺し」

という本人は全く嬉しくないキャッチフレーズで呼ばれることになります。

自分たちが嫌な仕事をやらせておいて、そのあだ名はないだろうと思いますが、
女殺しと付け足したことはせめてものフォローに・・・いや、なってない(笑)


さて、閑話休題。

ダーキー艦長は1899年、まだこの船が「バルクルーサ」という名前の元に
貨物船として活動している時期、インド航路に若い妻を帯同しました。

「バルクルーサ」はサンフランシスコに輸入するジュートとお茶のため
インドまでいって帰ってきたのですが、その航路途中、なんと!

妻は女児を出産したのです。

当時は生児の死亡率が高く、出産に危険が伴っていたので、
もし出港前に妻が妊娠しているとわかっても
おそらく航海についてこなかったのでは、と思われます。

しかしこの頃は一度の航海が下手すると年単位であったため、
航路途中で赤ん坊は妻の胎内に宿ったのでありましょう。

そして出産期を迎え、女児は無事にこの世に生まれてくることができたのです。

インドからサンフランシスコへの航路途中で生まれた女の子には

インダ・フランシス(INDA FRANCIS)

という名前がつけられました。

これがインダ・フランシスの出征証明書。
出生と死亡を登録するロンドンの役所の発行です。

生年月日は1899年の11月3日、父親の職業は

「マスター・マリナー (Master mariner)」

となっています。

船長のキャビン近くから地下に降りる階段がありました。
下の階には主に「バルクルーサ」が貨物船として扱った
荷物や、アラスカでの仕事についての展示があります。

ところで階段の横にこんな説明がありました。

「想像してみてください・・・階段がなかったなんて!

Longshoremen(船荷の積み下ろしをする作業員のこと)は
港でにを扱うとき、このハッチからはしごを使って上り下りしました。
水兵たちは滅多にカーゴデッキに立ち入ることを許されませんでした」

この階段の下がカーゴデッキです。
矢印には,


「この下のはしごが見えますか?」

これか・・・・。

このはしごの位置が昔の通りであれば、これで上り下りするのは
かなり大変だったのではないかと思います。

こんな感じで降りていたわけです。

「バルクルーサはジュートとお茶を運んでいた」

というコーナーに、船で生まれたこの赤ちゃんインダの記述がありました。

ジュートで作った袋を必要としたのはアメリカの農家です。
彼らは収穫した麦などを入れるのに使いました。

船長の妻アリスがいよいよ陣痛に見舞われたとき「バルクルーサ」の全乗員は
一等船員も、水兵も、皆が自分たちの持ち場で仕事をしながらも
ハラハラしながら過ごし、産声が聞こえたときに互いに顔を見合わせて
喜びを分かち合ったのに違いありません。

そして生まれた女の子をあたかも「バルクルーサ」の宝のように
あるいは皆の「授かりもの」であるかのようにうっとりと眺めたのでしょう。

 

しかし、彼女がその後どんな人生を歩んだのかについては、
船長のダーキー夫妻のその後も含めて後世に伝えられてはいないようです。

サンフランシスコ海事博物館にはダーキー船長の書いた「論文」もあり、
それも閲覧することができるそうなので、もしかしたらそれを読めば
なにかがわかるかもしれませんが・・・。

 

さて、「バルクルーサ」の展示しているサンフランシスコ海事博物館は
サンフランシスコ湾のフィッシャーマンズワーフの隣にあります。
昔は貨物港だったこの一帯ですが、今ではサンフランシスコの観光地として
一年中世界からの観光客が必ず訪れる場所になっています。

「バルクルーサ」の貨物船時代のストーリーは、そのブラックさといい、
過酷な操業状態といい、しれば知るほど暗いイメージがまつわるのですが、
こうして太陽がさんさんと降り注ぐカリフォルニアの港で見ると、
過酷な船員生活の中でも乗員たちには、海に棲む者がその厳しさと引き換えに
目にすることのできる、例えば今日のような宝石のような美しい瞬間に
心を奪われることもあったのだと思いたくなります。

100年前も「バルクルーサ」は同じここサンフランシスコに錨を打ち、
このようなまばゆい八月の光を甲板に受けたことがあったのですから。

そんなことを考えながら甲板に立っていると、艦尾に人影を発見しました。

広角レンズで写したので、水平線がおかしくなってすみません。
この人は展示物のメインテナンスを行う係のようで、どうやら緑のペンキを
この機械に塗装する作業の真っ最中のようです。

帆船「バルクルーサ」は基本人力で全てを行なっていましたが、
貨物の積み下ろしはドンキー・エンジンによる巻上げ機を使用しました。

おそらくこれがその荷揚げ用のウィンチではないかと思われます。
もし次に行ってみたら、説明が付け足されているかもしれません。

 

続く。