ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ブログ暫時休止のお知らせ

2011-03-12 | 日本のこと

このたびの地震災害で被害に遭われた方に心からお見舞いを申し上げます。
このブログに来られた皆さま、御無事でしたでしょうか。
宮城在住の方もおられたと思いますが、ご無事を心よりお祈りしています。

この報に接し、多くの亡くなられた方に心からの追悼の気持ちお伝えするとともに、
ブログの更新を少しの間お休みさせていただくことをご了承ください。



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パチンコ・マーチ

2011-03-11 | 海軍

瀬戸口藤吉自筆の行進曲軍艦スコアです。
タイトルは「Gunkan march」、そう、軍艦マーチですね。
あらためてそうか、と思うのですが、これは通称ではなく「英語タイトル」であるわけです。


軍艦マーチ、行進曲軍艦がパチンコ屋のテーマソングになり、
どこの店の前を通りかかってもこの曲が聞こえるようになったのは朝鮮戦争のころ、と言われています。
最近でこそそういうことも無いようですが、一定の年齢層以上はそういうもの、と思っていた時期もあるようです。


このパチンコ=軍艦マーチについては、インターネットの「嫌韓派」に言わせると
「半島出身者の民族ビジネスであるところのパチンコ屋で、
ああやってテーマソングのように使うことで揶揄し、バカにしているのだ」
ということになります。


そうだったのでしょうか。

元海軍兵学校卒の方が
「戦後、昔の軍関係のものが、何でも追放された時代、パチンコ屋だけは軍艦マーチを堂々と放送していました。
今でもそうです。(1997年当時)
しかも、この種のものは一番嫌うと云われる半島人の経営するところでもです」

などと書いておられます。
この方は
「やっぱりこれが本当にいいものだからだ」
といいように解釈されています。


果たして、パチンコ屋と軍艦マーチ(今日はこう呼称します)との真実の関係とは?



1997年、横須賀の三笠公園内に行進曲軍艦の碑が建立されました。
紆余曲折を経て建てられたこの碑の完成に寄せて、軍艦に関するあらゆるうんちくを語り、
あるいはその大変だった(文字通りの難産だったそうです)建立までのいきさつなどを記した記念小冊子に、
パチンコ屋とこの軍艦マーチのかかわりについて何人かが書いています。
その中から真実に近いのではないかと思われる記述を抜粋してみます。


昭和20年―。
この名曲も敗戦によって表舞台から姿を消しました。
東京の日比谷公園には行進曲軍艦の碑がありましたが、GHQの指導によって破棄の憂き目にあいます。

ところが、ある日、有楽町のガード下にあったパチンコ屋から高らかに軍艦マーチが鳴り響きました。
昭和26年のことです。
この「メトロ」という名のパチンコ屋は、拡声器を通りに向け、軍艦マーチを華々しく賭け、人々を驚かせます。

この「快挙」が、決して半島人の「旧日本軍揶揄」でなかったというのは
オーナーの田中友治氏が海軍航空隊出身だったことからも明らかでしょう。

揶揄どころか、田中氏がこの放送に踏み切ったきっかけは次のようなものです。

海軍出身の田中氏の店に現れ、占領者の余裕を見せて笑い遊びに興じるかつての敵国兵。
その腕には例外なくパンパンと呼ばれる街娼がぶら下がっていました。
こんな光景を見なければいけない敗戦国のみじめさ・・・・・。

「こんちくしょう」
とばかり田中氏は腹いせに思いっきり軍艦マーチをかけてやったのです。

「朝から晩までぶっ通しでかけました。うちの前の都庁の職員が喜んじゃって。
第一、あの曲は実に調子がいい。
店は超満員、三年の間に十軒も店を増やしたくらいです」

なるほど、精神的に快哉を叫ぶような気持もあったでしょうが、何と言っても
この曲の自然と精神を高揚させるというマーチならではの作用ゆえ、ぴったりとテーマソングとしてはまったのでした。

このメトロの「軍艦マーチ大進撃」に、他の業者が―それが半島出身者であっても―
あやかろうと倣ったことは間違いないでしょう。


ところで、この頃GHQの本部はご存知のようにお堀端の第一生命ビルにありました。
有楽町とはまさに目と鼻の先です。
しかし、さっそく飛んできたのはGHQ御本尊ではなく日本の警察でした。

まあ、この辺りが実に日本人らしいという気がします。
理由心情はどうあれ、現在の為政者のご機嫌を損ねることになっては治安が保たれぬ、
といったところでしょうか。

ところが肝心のGHQはあっさり「別に構わない」と許可したというのです。
鷹揚だったという言い方もできますし、(例によって深読みすると)たとえば
天皇を糾弾せず、日本国民を反感を持たせることなく統治するということに心を砕いていた占領軍は、
たとえそれが海軍のものであっても音楽を禁止する、などということの積み重ねで
民衆の心に澱のように蓄積していく不満の種になるようなことは避けるという方針だったのかもしれません。

そもそも、この軍艦マーチは敵国にも有名でした。
「最後の軍艦マーチ」という稿で、トラック島の第四艦隊附き軍楽隊の演奏した軍艦行進曲に、
米軍の指令部のみんなが思わず行進を始めたという話を書きましたが、こういうことには文明国であるアメリカは
一貫して理解があります。
アメリカ人の美点のひとつと言ってもいいかもしれません。



血沸き肉躍る、という言葉がありますが、この曲を聴くと、まさに身体の中で何かが動き出すような感動があります。
思想や信条、戦争や平和や、そういったものと何の関係も無く、この曲が名曲で有り続けている理由は、
言葉や理論では説明できないこの曲の珠のような完璧さです。

少なくとも最近、パチンコ屋の前を通ってこの曲が聞こえてくる、というようなことを経験したことがありません。
しかし、我が家に引いている有線放送には、軍艦マーチだけを繰り返しやっているチャンネルというのがあるのです。


日本のどこかでいまだにこの曲を一日流しつづけているパチンコ屋があるということなのでしょうか。







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豪華客船氷川丸

2011-03-10 | つれづれなるままに

横浜の港の見える丘公園前港には今年八十歳になる氷川丸が係留されて余生を送っています。

防衛庁の資料室で「人事辞令」を見ていたら、氷川丸勤務を命ぜられた軍医士官などのものがあり、
あらためて氷川丸が戦時中の病院船であったことを思いだしました。
ラバウルの戦記にも負傷した将兵が氷川丸で帰ってきた、という記述を見たのも海軍に興味を持って以降のこと。

あらためてこの数奇な運命を持つ船を訪ねてみる気になりました。
「今日から春」とでも言いたくなるような穏やかな美しいある一日、横浜の係留地に彼女を訪ねました。

翩翻と翻る国際信号旗。
先日江田島土産に「国際信号旗一覧表」の柄の手ぬぐいを買ったので、さっそく何か意味があるのか、
調べてみました。上から

J(ジュリエット)・・・私は火災中で危険な貨物を積んでいる
G(ゴルフ)・・・・・・・私は水先人が欲しい
X(Xレイ)・・・・・・・実地を以て、私の信号に注意せよ
C(チャーリー)・・・・イエス

うーん、全く分かりません。もしかして適当に旗揚げてます?
二字信号(二枚で一つの意味を持つ信号)でもなさそうだし。
と、いつものように読者に丸投げしようとしてふと思いなおし、さらに調べてみました。
すると、これは「JGXC」で、氷川丸の無線呼び出し符号であることが判明。
実は氷川丸には昔一度来たことがあったのですが、そのときはこの旗の存在自体全く目に止めもしませんでした。
あの頃よりちょっぴり賢くなった気分です。それにしても、信号旗って美しいですね。

乗船には200円かかります。
そう言えば、一度来た時にリニューアル工事中で乗れなかったことがあったなあ。
おそらく開港150周年記念(大笑)に合わせてのことだと思うのですが、内部をミュージアムのように作り変え、
歴史を振り返る映画など見るスペースを新たに作っていました。
この映画が、実に良くてねえ・・・。
また、別に日を設けてお話しするつもりです。

今日は、豪華客船としての氷川丸についてです。
1930年、外国航路の豪華客船として就航した氷川丸。
規模は中程度で、決して傑出した船ではありません。
しかし、この氷川丸を有名にしたのは、その接客、サービスの優秀さと料理の美味しさ、
そして大戦を沈むことなく生き抜いた強運と逸話の多さでした。

シアトル、バンクーバー航路の船として同年氷川丸は処女航海に乗り出します。
HIKAWAMARUをアメリカ人は「ハイカワマル」と読み、それがそのまま向こうでの愛称になりました。
  

実にレトロな雰囲気が往時の華やいだ空気を思わせます。
1960年その最後の航海を終えここに係留された後、しばらくこの船は客室を稼働させていました。
そう、ユースホステルとして修学旅行生などに利用されていたのです。
氷川丸に寝泊まりなんて、さぞ思い出に残る修学旅行になったでしょうね。
因みに、おそらく彼らが寝泊まりしたであろう三等船室はこのようなもの。

 
一室に8つのベッドです。ここで修学旅行お約束の枕の投げ合いがあったわけ。
しかし、船ですからベッドも物凄く小さい。寝台列車みたいな感じです。
一等船室ですら大きなトランクなどとても置くようなスペースはなさそうでした。
ましてやこの狭い船室でシアトルまで行くのに、いったい三等船客、荷物はどうしていたんでしょう。

さて、この船には三笠宮様ご夫妻も宿泊されました。
チャーリーチャップリンや宮様がお泊りになった、貴賓室がこれ。
  

木馬は「一等船客のお子様」だけが利用できる託児所にその当時からあったもの。
ヨーロッパ製でしょう。なんだかまるで工芸品のような作りです。
わたしがこれをみていると、三歳くらいのお子様が
「おんまちゃん乗りたい―」
と駄々をこねてお母さんを困らせていました。
昔もね、一等船客の子供だけだったんだよ。これに乗れるのは。

さて、氷川丸の名前の由来は、埼玉県大宮市の「氷川神社」から取られています。
当時、船にはよくこのように神社の名前をつけたそうです。
姉妹船「日枝丸」「平安丸」いずれもそうで、三姉妹の頭文字はHで統一されました。
そして、この船はいまだに氷川様を神棚に祀っています。

  
階段上の丸いモチーフ、アールデコ調で統一された優美な船の飾りに溶け込んでいますが、
これは実は氷川神社の紋章なのだそうです。
地元の方、ご存知でした?

さて、それでは一等船客のあなたはラウンジへどうぞ。
 

氷川丸についての本をこのために三冊読んだのですが、その中にこのピアノについて書いた部分がありました。
なんでも、脚を固定していたにもかかわらず、一度物凄い時化の時にひっくり返ってしまい、
脚の下にから杭を生やして床面に埋め込んだというのです。
このピアノは中が見られなかったので分かりませんでしたが、かなり年季が入っているようでした。
その脚を埋め込んだピアノがこれなのでしょうか。
病院船として就役していたときにもこのピアノは現役だったのでしょうか。

また項を別に病院船氷川丸について語ろうと思いますが、この、いたるところに優美な飾りを残し、
ゴージャスで平和な良き時代を体現したエレガントな船があのような修羅の海をくぐって来たということが、
何か全く信じられませんでした。
このピアノも八〇年の歴史の裡に様々な光景を見てきたのでしょうか。



タイタニック号がそうであったように、船でちゃんとした客扱いをされるのは一等船客。
一等と二等の間には一光年くらいの待遇の違いがありましたが、このラウンジを使用していけないのは、
どうやら三等船客だけだったようです。・・・・・ん?
 

あれ?英語と日本語の表記が違いますね。二等船客の立場は?
一等船客はこのように、ラウンジで楽しんだり、子供を預けてパーティをしたりと、思う存分船の旅を楽しむことができました。

 
携帯で見ている方のためにちょっと説明すると、円グラフのピンク部分が食事、グレイが睡眠。
なんだか食事ばっかりしてますよね。
することが無いので、散歩、ゴルフ、輪投げ、カードゲーム、ダンスなど。
今みたいにネットもないし、本もすぐに読んでしまって、退屈・・・。
そんな船客のために、船側はいろいろイベントを開催しました。
NOTICEと書かれた紙には「甲板でゲームをするからぜひ来てね」というお誘いが。
演目はスプーンレース、玉押し(?)パン喰い競争、外人だけが参加の「お箸でなんでもつかみましょうゲーム」
そして「豚の目」←何?

氷川丸のサービスは一級品だった、と冒頭に書きました。
初代船長の船員教育はまるで海軍並みの厳しさだったということです。
そこでついたあだ名がなんと「軍艦氷川丸」。

後に彼女が病院船として稼働したとき、南方で船上の宴会が行われました。
病院船になっても乗組んでいた豪華客船時代の船員は、士官の従兵のような仕事もしたのですが、
その気配りと訓練されたサービスは軍医士官たちを感激させたと言います。
その、世界のVIPをして感動せしめた船員の教育は、このような冊子にマニュアルが書かれていました。

中を少し紹介してありましたが、身だしなみの徹底は勿論、船客の話題に交わって一緒に笑ったりは持ってのほか、
一日でお客様の味の好みを覚えよ、などという項目もありました。

氷川丸の乗船名簿にはチャーリーチャップリン、ロックフェラーなど、錚々たるVIPがいましたが、
柔道の生みの親、講道館の加納治五郎はこの船で生涯を終えています。

オリンピックを東京に招致することに成功した加納は1938年IOCに参加後氷川丸に乗船しました。
その直後に病に倒れた加納は、横浜到着の二日前、「オリンピックはどうなった」の一言を最後に永眠。
しかし、その二カ月後のオリンピックの返上を知らずに逝ったのは加納にとって幸せなことだったかもしれません。

 

次回は「豪華グルメ客船氷川丸」です。お楽しみに。

 

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短現オールド・ネイビーの涙

2011-03-09 | 海軍

短現将校という言葉をご存知でしょうか。



1922年、ワシントン軍縮会議の結果を受けて陸海軍ともに大幅な人員縮小を行ったツケが、
1935年以降始まった軍拡競争、軍艦建造競争のころ人手不足となって現れてきました。

いくらフネをつくっても、乗せる人間がいないのです。

1936年には人員を増やすためにいくつかの対策が取られました。
特務士官の増員、そして尉官級の進級を早めることなどです。

兵科士官はこれで何とかなったのですが、軍隊のマネージャーたる主計士官がこの方法では確保できません。
そこで、海軍は任官期間を三年以下二年と定めた二年現役制度を発足させ、これが
短期現役(短現)主計科士官という名の特殊士官を誕生させることになりました。

1938年のことです。


短期現役主計士官の資格は、旧制大学の法学部、経済学部、商学部などの卒業者もしくは高等試験合格者。
1939年(昭和14年)より高等商業学校などの旧制専門学校卒業者も対象となっています。

この制度では大卒の訓練終了者はすぐに「海軍主計中尉」という階級がもらえました。
「海軍主計中尉 小泉信吉」でその短い人生が語られた小泉信三の息子信吉は、
一高から銀行にいったん就職が決まっていましたが、こちらを選んでいます。

この待遇ゆえに「海軍に一生を捧げる気はないが、あの凛々しい短剣をつって国のために働きたい」
と、まあ、どちらが主な理由かは人によって様々でしたでしょうが、志願は殺到。
第一期生の募集人員は35名でしたが応募してきたのは九百名以上、実に二十六人に一人の狭き門となりました。

「榛名」に転勤した兵科士官の某中尉は
「二年現役の主計中尉がわたしの席の上にデンと構えていた。
たった六か月で中尉とは、どうしても納得できなかった」
とその当初の短現士官に対するオモシロクナサを述解しています。

軍隊という組織に不公平と矛盾はつきもの、自分もまた兵学校を出たばかりで叩き上げのベテランよりも
上官になってしまう、という下士官から見れば「納得されない方の」立場であったわけですが、
やはり人間、不満に思う側に立たないと見えてこないものはあるのです。

しかし、この主計中尉は某中尉に経済の基礎について、GNPや国家予算の解説などを絡ませながら教えてくれ、
今まで全くそちら方面には無知であった「本チャン」(兵学校出)の某中尉は、
いつの間にか彼に尊敬の念すら抱くようになり、ついには格好の飲み友達にまでなったということです。

この小さな一例が示すように、この短現士官制度は一般の、それも優秀な頭脳と角度の違う視点、
そして知識を海軍内に流入させることになりました。
とかく膠着しがちだった海軍組織の言わば活性化につながることになったのです。

そう、この海軍苦肉の策が、のちに海軍人事中最大の「ヒット制度」と呼ばれる所以です。


そして、苦肉の策の「補助員」として登用したはずのこの主計士官の中の優秀な人物は
海軍が期待する以上の能力で「本チャン」士官にも負けず劣らない力を発揮したと言われています。
海軍が彼らに期待したのは「優秀なクラーク(官吏)」でしたが、彼らはその期待を大きく上回り、
あるものは指揮官として、ある者は占領地の行政官として予想以上の働きをあげることになりました。


この短現士官の戦地での活躍については、また項を別にお話ししたいと思います。

さて、戦後この短現将校から、二人の総理大臣が出ています。
中曽根康弘鳩山威一郎
戦後の政界、財界、法曹界、そして経済界の中心に、実に多くのこの短現主計士官の活躍がありました。


戦後の日本をつくってきた政治家の中には短現士官のみならず、
兵学校卒士官や予備学生出身の海軍出身者が数多くいます。

源田実、安倍晋三(予備学生、海軍滋賀航空隊)有馬元治(短現)林田悠紀夫(短現)
小坂徳三郎、宮沢弘(短現)田英夫(予備学生)松野頼三(短現)大谷藤之助(兵56)。

東大生だった田英夫氏は学徒出陣で震洋特攻隊長として終戦を中尉で迎えています。



昭和53年のこと。
当時、海軍出身で国会に籍を置く政治家は70余名いました。
衆参両院で総員750名、実に一割がネイビーだったのですから驚きます。

このメンバーは「オールドネイビークラブ」を結成し、この年その第一回大会を憲政会館で行いました。
会館にはZ旗が飾られ、その錚々たる顔ぶれは壮観なものでした。


それにしても、自民党の故中川昭一氏が何かの会合で会場にあった国旗のことで
「国旗を見て不愉快だと感じる人に配慮しないのか」「何故飾っているのか」
と某新聞の記者に詰め寄られたというようなことが起こる21世紀の日本からは信じがたい光景です。

国政にも戦争従事者がいなくなって平和や国体に対する意識をかえって硬直させているのかもしれない、
と思う今日この頃ですが、こう言う話はまた別の機会に。


海軍兵学校74期卒の民社党代議士吉田之久氏が「甲板士官」を務めました。
海軍喇叭「君が代」の演奏される中、正面に飾られた大きな軍艦旗に対し

「かしら、中!」

かけられた号令に艦内帽をかぶった国会議員たちはしばしの間挙手の礼を捧げました。


そのとき、鳩山威一郎、中曽根康弘ら数名の議員の目には涙がありました。
その涙にいささかの驚きを以て、甲板士官の吉田氏は主計短期現役出身の議員にそっとこう聞きました。

「学徒出陣の先生方がそれほどの思いを軍艦旗に込められるとは・・・」
するとその議員はこう言ったのだそうです。

「いや、海軍のおかげで僕たちは今日があるのです。
愈々(いよいよ)戦闘出動のとき、艦長らは短期出身の将校の多くに、重要書類を持って直ちに艦を降り、
本隊に戻れ、と命じられました。
命を大事にしろと言われた海軍への恩義は一生涯忘れられないのです」


海軍にはこういう、ある意味精神主義的なだけではない、冷静で科学的な一面がありました。
大和最後の特攻でも、艦長は激しく抵抗する少尉候補生を艦から降ろしたと云います。


この後、オールド・ネイビー・クラブは1984年の16回までは会合を重ね、そのときに
第一回大会の70名は20名ほどになっていましたが、
このとき甲板士官を務めた吉田氏もその後2003年、76歳で亡くなりました。
田英夫氏が亡くなったのは2009年。86歳でした。


この会合が何回まで持たれ、現在中曽根氏以外にそのメンバーの誰が健在であるのかは
今回調べたのですが分かりませんでした。






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エリス中尉VS韓流おばさん

2011-03-08 | つれづれなるままに

といいましても、この画像の後エリス中尉が
「やかましいいいっ!私の目の前でピーだのペーだのの話はするなあっ」
とキレて、彼女らと大立ち回りをした、という話を期待しないでいただきたいと最初にお断りしておきます。

ええ、なべて日本人がそうであるように、面と向かっては何も言わないんですよ。
そして、家に帰ってからネットやメールで文句を言ったり、相手をあげつらう、と・・・・。

おっと、最近知人から聞いた「困った人」の話題になってしまいました。

私は決して彼女らに文句を言うためにこれを書いているのではありません。
たとえほっとするランチのひととき、お気に入りのカフェでの読書タイムを、騒音で台無しにされたとしても(-_-メ)

この日、わたしが用事で訪れる某商業施設のオープンスペースで、
全く名前を聞いたことも勿論見たこともない韓流スター?が、サイン会をしたようなのです。
その前を通りかかったとき、何やら全体的にくすんだ色彩のおばさんの一団がぎっしりと待ち構えていて、
「うわあ」と思ったものの、その後すっかり忘れていたのですが、用事を済ませお昼ご飯を食べに行ったときに、
運悪くそのサイン会が終了し、団体がなだれ込んできたというわけ。

驚くべきことに、彼女らは総員関西人。

「♪きっと君は関西人~ 間違いなく関西人~ 『さいでんなー』 『ほうでんなー』 ♯」

全員が新幹線日帰りで、たった小一時間のサイン会のために大挙してやってきたのです。
無名のスターのために。
(オープンスペースでサイン会をする程度なのでそう思ったのですが私が知らなかっただけかもしれません)

そして常人の1・5倍は声がでかく、さらに集団心理でおまけに興奮しきっているおばさんたちの、
聞きたくもないのに聞こえてしまうその会話から何となくわかったのですが、彼女らはそのスターの熱烈なファン、
というわけでもなく、ピー様とかペー様とか、とにかく「韓流スター」ならどうやら誰でもいいようでした。

さて。
その前の日、東○見×録という、学生時代お世話になったタイプの素敵な日本食やピザやチューハイが楽しめる、
ボーイさんにはときどき外国の方もおられる、渋谷のレストラン兼お酒を飲むところで、集会が行われました。

非常に気の置けない、楽しい酒席だったのですが、その席で出席者の一人が、
「女はよー困ったもんだ」みたいな話のついでに、
「韓流おばさん」みたいなのにも困ったもんだ、ということをおっしゃったのです。
エリス中尉、今まで周囲にそのような趣味の方をお見かけしたことがなかったので、
「そんなヒト、本当にいるんですか?見たことないんですけど」といい、
「いるよー!」
と力いっぱい反論されたばかりだったのです。

昨日の今日というこのタイミングで、一生に見る全韓流おばさんにこの日まとめて遭遇してしまったというわけです。
これは何かの啓示でしょうか。

そして、そのとき、その某氏が
「テレビ見てたら、地方の若い女の子が『夢は韓国人と結婚することです』って言ってんのよ」
とおっしゃるので、思わず
「気持ちわるい―」
と率直な感想を口にしてしまいました。
そのことに対する罰が当たったのでしょうか。

それにしても、世間で言われているほど韓流って流行ってませんよね?
周りにそんな人が一人もいないし、逆に「ヘンなひと」みたいに思われるのがオチではないかと思ってたのですが。


エリス中尉、ネット界で言うところの「嫌韓厨」ではありません。
しかし、かの国の目を覆うばかりの問題点、日本を目の敵にし反日教育までしながらこちらには居丈高な姿勢、
そして在日の過剰な被害者意識と政治家に働きかけ日本の国体をぐちゃぐちゃにしかねないエイリアンっぷり、
彼我双方の「かの国的なもの」に対して、うっすらと嫌な感じを持つという程度には嫌韓です。

そして、巷に溢れる現状をもって「いやはや困った人たちだなあ」と思う気持ちを逆なでするごとく、
最近のメディアが「韓流」「おとなり韓国」「永遠のライバル韓国」「韓国が今凄い」「韓国ドラマ」
などを不自然なくらいの熱心さで、かつかの国の困った実態を全くスルーしたまま、
このように日本人に対し「韓国」をゴリ押しするようになってから、より一層あの国にまつわるものは
見るのも聞くのも厭になってしまいました。

テレビを買おうとしない理由も、この自分たちの持って行きたい方へ印象操作をするテレビというメディアに
心からうんざりしているせいです。

「気持ちわるいー」
という言葉は、「韓国人と結婚したいと思うこと」に対してではなく、
「わざわざそんな日本人がいることをテレビという媒体で流す意図」、
その作り手の限りなく気色悪いたくらみを感じるゆえの感想です。
「アメリカ人と結婚したい」だったら、彼らはそれを放送したか?ってことですね。

「マスコミ」という媒体が意図する方向にいともたやすく煽動されてしまう大衆という名の愚物の代表が
いわば「韓流おばさん」です。
そしてその昔はそういう「愚物」が戦争を煽り、煽られ、
負ければ今度は「戦争をした日本が悪いから、中国や朝鮮の人たちには謝り続けなくてはいけない」
などという日教組教育にいともたやすく騙されてしまうわけです。

・・・が、話が大きくなるのでこの話はまた今度。

そしてその日の夜。
たまたまインターネットでニュースを見ていて、おそるべきことが明るみになっていたのを知りました。

何と「韓国の方と結婚したいです」と言った女の子は、日本人ではなく在日だった、というのです。

この子はツィッターで「今日インタビューされたときに、韓国人と結婚したいって言ってやった(ざまあ)」
「でも、お母さん(日本人)は苦労しているから、本当は日本人と結婚したいんだけど」

と御丁寧にここまで暴露してしまい、恐ろしいもので、すぐにそのつぶやきは話題になりました。
あの「韓国人と結婚したい発言」をテレビで見て不快感と不信を感じていた人たちは
「在日の女の子が韓国人と結婚したいというのを、わざわざ日本人であることにして放送するマスコミって何?」
という風に、やはり矛先はメディアに向いたようです。


非常に分かりやすい構図として、テレビ離れと昨今の不況により日本企業がコマーシャルから撤退する、
そうすると次に入ってくるのがパチンコ屋などの在日マネーです。
スポンサーが「そういう」企業であれば、当然その放送内容が「このように」なってきたとしても全く自然なこと。
そして、日本人はさらに離れていくという悪循環です。
しかし、テレビに映るものを無批判に受け入れる、いわば洗脳されやすい層は離れていかず
ここに「韓流おばさん」の誕生となるわけです。

こういう韓流おばさんに対しても、「韓国人と結婚したい在日の女の子」に対しても、まあ、人それぞれだからねえ、
と言うしかないですが、それにしても、このメディアの「気持ち悪」さ、これは何とかならないものでしょうか。



ところで、広場につめかけたこの日の韓流おばさんたちの風体を見ていて、
エリス中尉、心からその無名の韓国スターとやらに同情しました。
わざわざ日本に来て、失礼ながらこんな人たちにきゃあきゃあ言われて、はたして嬉しいのでしょうか。
ジャパンマネーのためとはいえ、ファンももう少し(ごにょごにょ)な方が、少しはやる気もでるんじゃないのかなあ。

 

 

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荒木俊士大尉

2011-03-07 | 海軍人物伝

荒木俊士少佐(死後昇進)
海軍兵学校67期卒。
伊号10潜水艦乗組を経て鹿島空、四五二空、宿毛空、四五三空、三〇二空で分隊長。
昭和二〇年二月一六日、敵艦載機来襲の際厚木基地発進
厚木東方上空において敵戦闘機群を発見、二機撃墜せるも被弾のため戦死

靖国神社の二の鳥居を出たところの左側に、旧九段高校があります。
おそらくこの高校のものと思われる実に立派な天文台があるのです。

その昔、天文部が盛んだったこの高校で、荒木俊士という高校生が夢中で悠久の星空を眺めた、
それが、この九段の一角だったのでしょうか。


「我々は負けていない」という題で森岡寛大尉について書いたとき、厚木の三〇二空の隊写真を見つけました。
中央の折椅子に森岡大尉と並んで腰かけている大柄な荒木俊士大尉。
この、いかにも大らかで部下に慕われそうな豪快な感じのする隊長はこの後まもなく戦死します。


隊長としての荒木大尉は、やはり写真にも覗えるように
「ヌーボーとした風貌は海兵出にしては珍しいタイプで、枠の外にはみ出したような大らかさがあった」
「古武士のようなひょうひょうとした態度、その話しぶりはいつもユーモアがあり、優しい目はみなを惹きつけた」
という人物であったようです。



靖国神社の横に二〇〇九年に閉校してしまいましたが名門だった都立九段高校がありました。
荒木大尉はこの前身の市立一中出身で、朝夕靖国神社の前を低頭して通学したそうです。
兵学校の入学式には全国津々浦々からあらゆる階層のの中学生が集まって来るので当初は
「羽織はかまの国粋型もあれば背広スタイルの制服もあった」のですが、
九段の一中は当時珍しい背広スタイルの制服を採用していましたから、
この記述は入学式の際の荒木大尉の姿を指していたものでしょう。
現在六七期の合格者の集合写真が残されていますが、この中にスーツ姿は三人います。



荒木大尉はどこに行ってもリーダーを務めるタイプだったようですが、隊長になってその真価を発揮したようです。

「髭の荒木」として、甲板士官時代は下士官を震え上がらせました。
しかし、もともと天文学部で熱心に天体観測をしたり、ヴァイオリンを趣味で弾くなど、
「柔」の部分も持っていたようです。
この「飛行学生時代同室者をさんざん悩ませた」ヴァイオリンには隊長になってからは触れなくなり、
そのかわり僻地の航空隊(おそらく占守島、別飛沼基地にいた第452海軍航空隊のことと思われる)にいたときは、
士気高揚と娯楽のために入手困難だったレコードを私費を投じて買い集めることをしています。

指揮官には、技量もさることながらいかに人心を掌握するかという将器が何より必要なものであると思われますが、
この荒木大尉には、部下の心をひきつける人間的な魅力とともに、
そういった気遣いが自然にできる優しさが備わっていたようです。

厚木一豪勢な布団の置かれた私室には常に香が焚き込められていたのだそうですが、
これも剛でありながらその対極にある荒木大尉の雅の部分だったでしょうか。


博多空時代のこと。
隊内の酒保で買ったものは持ちだし厳禁と決まっているのに、
どうも隊の境の垣根のあたりに部下に菓子類を持って来させ、
外出許可が出て外に出てから垣根越しに受け取っている者がいるらしい、という噂が立ちました。

荒木中尉は衛兵司令であったので責任を感じ、同期の高木中尉と夜な夜な作戦会議を行います。
その結果、荒木中尉がずっと松の木によじ登って上から見張りをすることになり
首尾よく犯人を捕まえることに成功しました。

犯人は元教員の優秀な上飛曹で、かれはフィアンセとのデートのとき
一緒に食べるためにお菓子を持ちだしていたのでした。
相手が許嫁ということで大目に見たくとも、そこは立場上大目に見られない荒木中尉、
上飛曹を隊内に連れ帰りお説教をする一方、待っているはずの許嫁には高木中尉に
「急用ができてこられなくなった」
ということを伝えさせています。



さて、この荒木大尉が、死後も名隊長として部下から慕われ続けたのは、壮絶なその最後の姿ゆえでした。
昭和二〇年二月のその日、その最後の空中戦は基地の上空で行われたため、
列機を始め何人かがその最後を目撃しています。
彼らの証言を総合するとこのようになります。

「この日、雷電隊と同時に零夜戦隊も厚木基地を離陸した。
荒木大尉を一番機に、たった四機の夜間戦闘機零戦が、何百機いるかわからないグラマンに、
せめて一機でもと気負い立って離陸していった・・・・・」

「荒木大尉はグラマン十数機を発見した。
百m以上の優位から荒木大尉はそのグラマンの一番機に一撃を加えていった」

「三、四番機はすでに敵中に突入と同時にばらばらになっていた。
四機の零戦で突入するには、あまりに敵の数が多すぎたのだ。

それにしても、自分の後から射撃されながらも前の敵に食いついて離れない荒木大尉の攻撃法は
その性格を如実に表していた。
荒木大尉は前のグラマンを墜としたけれど、自分もまたやられて離脱、
その飛行機はふらふらしながら藤沢の不時着場へ機首を向けて不時着しようと試みたけれども、
ついに途中で墜落してしまった。
飛行機に残った無数の被弾の中の一発は、荒木大尉の頭に命中していた」

よく訓練され、技も肝も日本一、と自負する零戦隊の、
見る見る失われていく部下を一機でも救うために、荒木隊長は果敢に敵機の大群に挑んでいったのでした。

戦後数十年を経ても、当時の部下は荒木大尉の名指揮官ぶりを、そしてその最後を忘れ得ず語り続けたそうです。


「あのときの隊長は、立派だった」と。







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「永遠の0(ゼロ)」

2011-03-06 | 海軍

日頃海軍や零戦に興味を持っている、などということをことさら吹聴していなくとも、何となく会話の端々で
そういう志向が相手に伝わる時があります。

そんなわけで、どうやらエリス中尉が海軍関係に一方ならぬ興味を持っているということを把握している知人が、
「××さん、ワタシ『永遠の0』読み始めたんですよ。
××さん(エリス中尉実名)が興味を持っているって聞いて、読んでみたくなって」
とおっしゃいます。次いで

「(当然)お読みになったんですよね?」と尋ねられて

「いや、まだ読んでなくて」という返事をしました。

ほどなく、
「年に一度、夏の休みには『慰霊のために』戦争関係の本を5冊(決めているそうです)読む」という方と話したときに

「今年読んだのは『永遠の0』からでしたね。読みました?」と、同じように聞かれたので、同じように答えました。

ふーむ、どうやらこの本は、いわゆる戦史とか戦記に特に興味を持っているわけではない人が
「とりあえず手にしてみる戦争関係の本」というポジションを獲得しているようですね。

それが何年か前は「大空のサムライ」であったと。
そう気がついたとき、ハタと膝を打つ気持ちだったのですが、このように周りの人が
「とりあえず手にしている」ベストセラー、とにかく一度読んでみることにしました。

しかし、読む前に一度「書評」「ネットでの感想」などの類を一度チェック。すると
「泣きたいときに読む本」
「泣ける本」
「嗚咽をこらえきれなかった」
「正座して読む本」等々。

どうも、戦記小説というより「余命一カ月の花嫁」のノリで読まれているのではないだろうかとうっすら嫌な予感。

読んでみました。
ふーむ、これは
「極上のお子様ランチ」、あるいは
「一流マンガ家の手による『漫画で読む日本史』」(世界史でも何でもいいんですが)
というものではないだろうか。


エリス中尉は、大尉と少佐ではどちらがえらいのか即答できなかった過去があるとはいえ、
今ではとりあえず一通りの、そして知らない人よりは知っているくらいの知識はあると自負しています。
(そういうのを自負というのか、って?まあまあ)
そういう人間の眼で見ると、この実際の戦史に架空の人物を絡ませ、
さらに実在のパイロットの名も登場するこの小説には、全く新しく知る部分はないといってもいいでしょう。

主人公の凄腕搭乗員を、5人の生存者がいろんな立場で語る、というこの手法自体は昔からあるものですが、
彼らが語る戦争中のあれこれ、そして出来事は、全て既存のノンフィクションから集められたものです。

勿論、このやり方はヘタをすると「人の著作紹介」で終わってしまう危険な手法なのですが、
百田氏が創作したストーリーのコアが、決してプアーでないため、その肉づけとして語られる
「ノンフィクション部分」は、実に「生きて」いると感じます。
そして、これは小説家ならではの手法で、集めてきた史実から、ズバリ、氏の主観で歴史を単純に語ってしまう、
ということを、実に軽やかにやってのけています。

ノンフィクションが事象を語るという使命の下に、その意味付けや結論などを読者の判断に任せるのに対し、
(勿論、著者の導きたい結論があってこそ、その語り口が方向づけられるのですが)
氏は、いとも簡単に登場する生き残り搭乗員らの口を借りて、集めた事象から一つの主観を導きだすのです。

一例としてあげると
「零戦の航続距離は長かった」
「技術力が優れていたのでそのような機体が実現した」
「この航路の長さゆえガダルカナル攻撃は可能であった」
「しかし、距離が長すぎて、パイロットは疲労が蓄積し、それゆえ次々と撃墜された」

このような事象を並べて感じることから、一挙に

「零戦の航続距離をあれほどまでに長くした技術者は、一体乗るのが生身の人間であることを
少しでも考えたことがあるのだろうか」
「あんな非人間的な飛行機ができなかったら、あれだけの搭乗員は死なずに済んだのではないだろうか」

という結論(坂井さんもこのように言っているそうですが)を出していて、
つまりこれはノンフィクションを読んで「考えさせる」部分に対する答をいきなり書いてしまっているわけだ、と。

お子様ランチと位置付けたゆえんです。

しかし、これがお子様ランチだから価値がないというのではありません。
おそらく「エリス中尉が興味を持っているものを読んでみたくなった」という知人や
「一年に一度慰霊のために何か読む」と決めているので読む知人のように、戦史や戦記に全く縁のない人間が、
まさに「とりあえず入門書として手に取ってみる」
という本としては、実に「よくできている」と言わざるを得ないのです。

エンターテインメントとして非常に上質の作りで、人によっては一日で読めてしまうくらい口当たりがよく、
そんな中で海戦の作戦ミスやら、零戦の性能やら、特攻を命じる上層部への批判やら、
普通は何冊もノンフィクション本や歴史本を読んで理解するようなことを「楽しく学習できてしまう」。

「漫画日本の歴史」と評するゆえんです。

それぞれ「一流マンガ家による」「一流シェフによる」とつけたのは、これが決して「子供騙しになっていない」
という意味であって、やはりベストセラーになるのには、それなりの価値があらばこそ、 
と言う世間一般の評価に則するものです。

それなりに知識のある人間にとっても、その知識がどのように料理されているかを見るのは楽しいものですし、
これは、詳しい人と詳しくない人のちょうど中間地点に位置して、お互いの世界への抜け穴になっている小説、
という気がします。


ところで、実はこのお子様ランチの「材料である野菜を丹精込めて作った農家」の立場の方が
「ウチの野菜を勝手に使って腕がいいと褒められている!虫取りをしたり、堆肥をやったり、丹精込めて作ったのに!
作ったシェフが腕を褒められるなんて割が合わん」
と言う向きがあるということについて。(ごく限られた意見ですが)

この「農家の方」の言っていることも心情的にはわからないでもありません。
しかし完成した野菜を使ってどのようなものを作ろうと、合法的、かつシェフの自由。
それはもうすでに農家からは出荷されてしまったわけですし。

巻末にずらりと参考にされたノンフィクションの本が書いてあるのですが、この小説を読み終わってそのおいしさに
「材料をつくっている農家や畜産業者に連絡を取ってみる」
人って、結構多いんじゃないかと思います。


ここから始まってもっと専門的に理解を深める第一歩としては、実に親切な「入門書」になっていて、
それ以上でもそれ以下でもなく、それなりの評価に値すると言えるのではないでしょうか。

ところでこの本で搭乗員の一人が「特高は狂信的なテロ行為だ」と言い放つ新聞記者を
「私はあなたの新聞社を全く信用していない」とばっさり切り捨てるシーンがあります。
これは、小説ならではの「ざま見ろ感」(カタルシス)で、個人的には最も快哉を叫んだ部分でした。

 

 

 

 

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勇敢なる水兵異聞

2011-03-05 | 海軍

「勇敢なる水兵」という唄は戦後世代でもいつの間にかメロディを耳にしているくらい
日本人にはなじみの深い曲です。

映画「連合艦隊」では、18年奉職し予備役で今は船大工をしている小田切武市(財津一郎)が
「煙も見えず~雲も無く~」
とこの歌をご機嫌で歌いながら登場します。


この唄で歌われた勇敢なる一人の水兵について今日はお話ししましょう。

本日画像は北蓮造画伯描くところの「勇敢なる水兵」から、周りの光景を全てカットして
心象風景風にアレンジしたエリス中尉バージョンです。
(周りのややこしい光景を描くのが面倒だったとかそういうことでは・・・ありません)


ここで、一般に世間に伝えられてきた「勇敢なる水兵の最後」はこのようなものです。


1894年(明治27年)9月17日、日清戦争における黄海海戦のさなか、午後3時26分
敵艦「鎮遠」の砲弾が旗艦「松島」左舷前部下甲板に命中、一瞬にして30名が戦死、70名が負傷した。

「松島」に砲員として乗り組んでいた三浦虎次郎海軍三等水兵は腹部に重傷を負い、激痛に耐えながら
「副長、まだ沈みませんか。定遠は」と尋ねた。向山副長が
「定遠は戦闘力が弱ったから安心せい」と答えると、三浦三等水兵は
「天皇陛下万歳」と叫び微笑みながら息を引き取った。


この黄海作戦とは、できて間もない連合艦隊が黄海の鴨緑江河口付近で清国の北洋艦隊を捕捉、
激戦の末にこれを破ったもので、鴨緑江作戦ともいわれます。

帝国海軍が経験する初めての本格的な近代海戦だったため、敵の射程内に足の遅い艦が取り残されたり、
こちらの射線上に味方が割り込んで砲撃の邪魔をしたり、という混乱があったものの、
戦艦も持たない海軍が軽装甲の巡洋艦で「定遠」「望遠」という巨艦を速射砲だけで撃沈し、
この戦法はその後の艦隊戦にも大きな影響を与えたと言われています。

旗艦松島は甲板上に積み上げてあった発射薬に引火、大火災を起こし、死傷90余名、
しかし、決死の消火により十数分後に鎮火。
そのとき水兵三浦虎次郎は敵弾の破片で横腹をえぐられます。


苦しき声をはりあげて 彼はさけびぬ副長よ

呼び止められし副長は 彼のかたへにたたずめり 声をしぼりて彼は問う まだ沈まずや定遠は

副長の眼はうるおえり されども声は勇ましく 心やすかれ定遠は 戦い難く為し果てき




この海戦の勝利は国民に熱狂を持って迎えられましたが、そのシンボルとしてこの「勇敢なる水兵」
松島虎次郎の話は、それこそ国民に深い感動とそれに続くブームとしての熱狂を与えたのです。


ここで、この海戦から半世紀を待たず「開戦のシンボルとしての犠牲」、
真珠湾の九軍神ブームが起こったのを彷彿とされた方もおられるでしょうか。
「肉弾三勇士」。「敷島隊」。あるいは米軍の「硫黄島に星条旗を立てた兵士」。

いつも、そして、洋の東西を問わず、戦争を遂行するために国民の意識を煽り、熱狂させるための
「象徴としての一兵士」がいました。
三浦三等水兵は、近代戦を戦いぬき勝利した帝国海軍の最初の「聖なる犠牲者」になったのです。


ここで考えずにいられないのは、この三浦水兵は、言わばこの戦いに一水兵として参加し死んでいった、
というそれだけの人物です。
ほとんどの海軍軍人が、そして日本人がそうであったように自分が瀕死の傷を負っているのにもかかわらず
戦況を気にしながら死んでいったという、いわばワン・オブ・ゼムの戦死者でした。
勇敢と言うならそれはここにいて戦って死んだ水兵全員であり、士官将官であり、
彼ただ一人が勇敢な働きをした、というわけではないのです。

しかし、当時すでに国民の意識をある方向に操作するという機能を果たしていたマスコミは
この逸話を大きく取り上げ、ここに国民のヒーローとしての「勇敢なる水兵」が誕生するのです。




この歌の作詞者はこの報道に感動し、一晩でこの歌詞を作り上げました。
冒頭画像の元になった有名な絵も、同じような経緯で制作されたものでしょう。
勇敢なる水兵三浦虎次郎の故郷佐賀県にはその死を悼む碑が建てられ、その歌は唄いつがれ、
彼の名は永遠に歴史に刻まれることになりました。



しかし、というのが適当かどうかは分かりませんが、当時報道されなかった事実はこうです。

倒れた三浦水兵の元に巡回してきた副長の向山慎吉少佐は、かれを抱き上げようとします。
しかし、傷が痛そうで動かすことはできませんでした。
そのとき三浦水兵は

「いたい、いたい、おかあさん」

とうわごとをつぶやきました。向山副長が
「三浦どうした、鹿児島男児がお母さんなんて泣く奴があるか」
(鹿児島は副長の勘違いで、実際三浦水兵は佐賀県出身)
と叱咤激励するとかれはそのとき

「定遠はどうしましたか」

と初めて問うたのです。副長が
「大丈夫、定遠はやっつけた。これから鎮遠をやるんだ」
これを聴いた三浦水兵は

「カタキを討って下さい」

の一言を遺して瞑目したのだそうです。

享年一八歳と九カ月。
子供のようなこの水兵が母の名を呼んでいたことは報じられず、かれが言わなかった
「天皇陛下万歳」という台詞を付け足して、この英雄の死は麗々しく讃えられました。
もし事実が事実通り報じられていたら、
「勇敢なる水兵」
という唄は生まれなかったかもしれません。
国民もヒーローとしてかれを讃えることはなかったかもしれませんが、その代わり
おそらくこれを知る全ての人々に一層深い哀悼の気持ちを与えずにはいられなかったのではないでしょうか。


勇敢なる水兵

作詞:佐佐木信綱 作曲:奥 好義


一、煙も見えず雲も無く 風も起こらず波立たず 鏡のごとき黄海は 曇り初めたり時の間に

二、空に知られぬいかずちか 波にきらめくいなづまか 煙は空を立こめて 天津日影も色くらし

三、戦い今かたけなわに 勉め尽せる丈夫の 尊き血もて甲板は から紅に飾られつ

四、弾丸の砕片の飛び散りて 数多の傷を身に負えど その玉の緒を勇気もて つなぎ止めたる水兵は

五、副艦長のすぎゆくを 痛むまなこに見とめけむ 苦しき声をはりあげて 彼はさけびぬ副長よ

六、呼び止められし副長は 彼のかたへにたたずめり 声をしぼりて彼は問う まだ沈まずや定遠は

七、副長の眼はうるおえり されども声は勇ましく 心やすかれ定遠は 戦い難くなしはてき

八、聞きえし彼は嬉しげに 最後の微笑をもらしつつ いかで仇を討ちてよと 言う程もなく息絶えぬ

九、皇国につくす皇軍の 向う所に敵もなく 日の大御旗うらうらと 東の洋をてらすなり

十、まだ沈まずや定遠は この言の葉は短きも 皇国を思う国民の 心に長くしるされん







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エリス中尉IN大和ミュージアム公園

2011-03-04 | 海軍

一日置きに三日に渡って海軍兵学校潜入記を語っているので、一体何日呉にいたのだ?
という印象をお持ちの方もおられるかもせれませんが、二泊三日です。
初日は夜間の到着だったので、実質は一日半、観光する時間があったわけです。
月曜日、何よりも兵学校跡を優先し、帰ってきてもし間に合えば大和ミュージアムかてつのくじら館に行こう、
と思ったのですが、帰ってきたらちょうど四時半、どちらも最終入館時刻を過ぎていました。

「仕方ないね。明日の朝とチェックアウトしてからどちらも見よう」

そう言ってホテルに帰りました。
そして次の日、明けて火曜日。

みなさん。これから呉に旅行に行かれる予定があったら、
そして、呉に行くなら大和ミュージアムとてつのくじら館は観たいなあ、と思われるなら、

火曜日は避けてください。休館日ですので。

海軍兵学校に行こうとする前に、いつが休館日なのか、いやそもそも休館日なんてものがあるのかどうか、
何故考えもしなかったんだエリス中尉。
「意外と馬鹿」なんてもんじゃない!おまえはたった今「馬鹿決定」だ。

と、さりげなく嫌味を言ってみたところで、火曜日に帰らなくてはいけない事実は動かせず。
中の真っ暗なミュージアムの中を恨めしく見ながらとぼとぼと海辺に向かって歩いていくと、
おお、そこには休館日に来てしまう我々のようについていない人たちのためにこんな仕掛けが。


公園の展望台と思いきや、これは分かる方にはわかる、なんと「艦橋」です。
息子が立っている場所に立って舳先を見ますと・・・。

甲板の半分が実物大で公園に再現されていて、その大きさが分かるようになっているのです。
これは結構な感激でした。
その大きさを体感できるというわけです。
もし、今日が休館日でなかったら、この仕掛けのある公園には気付かなかったに違いありません。
しかし、甲板の上、みんなで海軍体操中ですね。


甲板のところどころにこれも実物台のこのようなマークが。
でも、これしばらく気付かなかったんですよ。息子に言われて「あ、そうか!」と・・・(´・ω・`)

いかにもできたばかりの「大和の時鐘」。鳴らせます。
大和では就役している間昼夜を問わず三十分ごとに当番の時鐘番兵がそれを鳴らして、
艦内に時間を告げていました。
鐘を鳴らすのは、0:30の一点鐘、1:00は二点鐘、1:30は三点鐘。
そのまま30分ごとに一点ずつ増え、八点鐘で4時。
4時半からまた一点鐘が始まります。

(うーん、これでいま何時かすぐわかるようになるまで、かなりの時間が必要では)

打ち方にも独特の流儀があり、2点打ったら区切りをつけました。
つまり三点は「カンカン、カン」
四点は「カンカン、カンカン」となります。

この鐘を鳴らしてみましたが、耳もつんざけよとばかりの響きなので、一点鐘だけにしました。
さすが、この大きなフネで海上にあるときも聞こえるわけですからね。

この公園には、謎のオブジェもありました。

 

 

別に犬は不思議でもなんでもないのですが、一体ずつの足元に埋め込まれた
「火傷に注意!」のプレートが実に謎。
これ、なんですか?ソーラーパワー?それともこの犬が夏場は熱くなって火傷するから触るなってこと?

さて、こちらも休館で(なぜ一緒の日に休む)見られなかった海上自衛隊の「てつのくじら館」
は、シンボルとして海上自衛隊の誇るこのような巨大な最新鋭の潜水艦が

おっと、まちがえた。こちらでした。

すごいですねー。本当にてつのくじらそのものです。
息子はどちらかというとこっちに行きたかったようです。かっこいいですね。
ところで潜水艦のアンカーというものがどんな形か、などと言うことを真剣に考えたことのある方はおられますか?

 
こういうものなんですね。

息子「なぜ?」

「うーん、それはだな、ヘタにものに引っかかりやすい形をしていて、深海で岩に引っかかって
そのまま浮上できなくなる、ということがないようにだ」

親の習性として、子供の質問には脊髄反射で適当なことを答える癖がついているのですが、
言った後でこれだけは正解だったかもしれない、と思いました。
で、このアンカーが引き上げられ、ここに納まると。
ぴったりはまったところを見てみたい・・・・。
というわけで、今回大和ミュージアムとてつのくじら館のレポートができなかったのは
「また呉に行かなくてはいけない、と言うことか・・・・・・」

 
行ってやろうじゃないの。いや、また行きたいです。




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伊三十三号潜~三葉の写真

2011-03-03 | 海軍

一度、この悲劇の潜水艦について吉村昭氏の「総員起シ」を元に書きました。

この稿からお読みになる方のためにもう一度この伊33潜について書くと、
一度事故で沈没、三十三名の犠牲者を出した艦が、
修理の後就航十三日目にして急速潜水訓練のときに浸水、頭部弁に挟まった木片のために沈没し、
艦に残ることを選んだ和田艦長以下102名の乗員は死亡
ハッチから脱出した何人かのうち2名が生還する
9年後引きあげられた艦の前部魚雷発射室からは13名の腐敗していない遺体が発見された


というものです。
その後この小説をお読みになった方もおありでしょうか。


先日、ふとしたきっかけで、この伊33潜に父親が乗っており、事故のとき本人は母親のお腹にいた、
という方が戦後亡き父を偲ぶよすがとして作った本を手に入れました。
出版されたものではなく、ごく限られた人だけに配られたもののようです。

この伊33潜でのものではありませんが、当人のつけた航海日誌もあり、当時の新聞記事もあり、
勿論息子さん本人の幸せそうな現在の姿もあります。

この方にとって初対面の父とは、浮上してきた艦から出てきた真っ黒な頭がい骨だったのだそうです。


それには三葉の写真が添えられていました。
小説を読まれた方は
「まるで生きているかのような全部魚雷発射室の内部の遺体写真」
が六葉あった、という文章を読まれたかと思います。
そのうちの、三枚です。


最初は、何が写っているのか、全く分かりませんでした。
しかし、しばらく眺めていてこれがあの写真だ、と分かったときに背中が粟立つような感覚が
忍び寄ってきました。


「このすさまじい光景に気も転倒したのか、彼は『おい、総員起こしだ、総員起こしだ』
と叫び、戦友の名前をよんで起きろ起きろと冷たい肌を叩くのであった」

と、撮影をした村井茂氏はまたこのように書き残しています。

この一文に対し「本当だったのでしょうか」
と書いたのは戦友であった生存者が
いつ、このように遺体に触れることができたか、という疑問からです。

そして、状況的に村井氏は本当にそれを目撃したのかどうか疑わしい点があり、
村井氏以外にこのことを書いている目撃者が一人もいない、ということから、
今回あえて疑問を投げかけてみました。

        


この伊潜を引きあげることになったとき、当初から前部には浸水していない区画がある、
ということが話題になりました。
そのため艦を平行に保つことができず、作業は難航を極めたと云います。
海上に持ち上げられた艦のハッチからは猛烈なホルマリン性のガスが吐き出され、
作業員も取材記者団も作業母船の甲板で倒れるという事故も起きました。
ガスは外気にあたって青い炎と化し、波間であたかも人魂のようにゆらゆら点滅したそうです。


ハッチを開けてから三時間後、ガスの臭気も軽くなったと判断し、残水処理が始まったと同時に
静止する手を振り切ってひとりのカメラマンが洞穴のような真っ暗な潜内に入って行きました。
それが村井氏です。

ストロボが魚雷内部の「特用空気」に引火して爆発しかねない危険な状態でしたし、
現に遺体が全部荼毘に付されてからここに入った技術将校がガスで三人死んでいます。
この時と、遺体の運び出しをするときに何故何事も起きなかったのかが不思議でなりません。

当然のことながら、このとき潜内に入ったのはカメラマンのみ。
しかも息をできるだけ吸わず、分単位の滞在です。
遺族は勿論、関係者も潜内には入っていません。

そして遺体の運び出しは「潜水士が一人ずつ背中に背負って運び出した」ということになっています。
これは村井氏の証言です。

吉村氏の小説では
「艦内で遺体を棺につめて、ロープで狭いハッチから引き揚げた」
となっています。


この食い違いが「総員起こしだ」と生存者が本当に言って顔を叩いたかどうかの違いにも
表れている気がします。
吉村氏の小説にはこのドラマチックな記述はありません。

それが真実ならおそらく小説には書かれるであろうこのエピソードが無いのです。
これも、これが事実であったかに疑問を感じる理由です。

そしてハッチがぽっかりと口を開け、一人がそこを覗き込んでいる写真があるのですが、
そこに見えているラッタルが邪魔で、とてもではないが「そこから棺を引き上げる」
ことなど不可能であることが分かります。
棺を入れることすらおそらく全く無理でしょう。人一人がようやくすり抜けられるような穴なのです。
かといって一体ずつ背負って運びだす、というのも物理的に全く不可能です。

村井氏は遺体の運び出しの時、そこにいなかったのではないか、頬を叩いた、というのは、
また聞きの伝聞だったのではないか、と疑うゆえんです。

硬直している遺体は、たとえば写真に残っている遺体のように手足を開いたものは
「そのまま」の状態ではたとえロープで引きあげたとしてもハッチをくぐらなかった可能性すらあります。


別の写真に、伊潜の上に人数分の棺桶と大量のむしろが載せてある作業中のものがあります。
写真から推察するに、むしろで包んだものを一体ずつロープで引っ張りあげたのではないでしょうか。



そして。
この三葉の写真に映る乗員の遺体ですが、やはりどう見ても
「まるで寝ているようには」見えないのです。

大きく脚を広げて手をだらりとベッドから垂らした写真。
片足は一段上の棚かあるいは隣りのベッドにかけ、顎をのけぞらしているので顔は見えません。

そして、うつぶせの姿勢で頭を抱えこんだ遺体。
暑かったのでしょう、上半身の服は脱いでおり、その背中の若々しい肩甲骨と、
贅肉の全くない背中には背骨がくっきりと見えています。
彼は右に横向けた顔を下に回した左手とシーツで覆っていますが、
表情の部分は墨で塗ってあります。

髪は三センチから五センチ程に伸びており、これは当時の医師も不思議がっていたようですが、
九年間腐敗を免れていた区画内では、おそらく皮下細胞の死が緩慢だったのではないでしょうか。

そして、もう一枚の写真には小説にも書かれていた「直立した縊死体」が鮮明に写っています。

これらを撮るとき、区画内は真っ暗で、したがって「起きてきそう」に思われたのでしょうが、
すでにこのとき艦は気温30℃の海上に引きあげられて何時間にもなっています。
さらにハッチを開けて三時間も外気を送りこんだ結果、一番最初の写真でも
皮膚はすでに変色しきっているのが分かります。
さらに白黒の写真でも、その表面から水分が全くなくざらざらで、いたるところ表皮が剥離している様子は
鮮明です。

わずかに、爪先立った縊死体のすらりとした脚に弾力があるように見られますが、
皮膚に不気味なまだら模様がくっきりと浮き出していて、とても「生きているようには」見えません。

九年。
区画内の床に落ちている紙が、誰も触らず太陽にも当たらないのに角が破れ
自然にボロボロになるくらいです。
確かに九年経っているとは信じられない遺体の状態ではありますが、だからといって
「生きているようだった」
「呼んだら起きてきそうだった」
という証言から想像されるものとは全く違ったものがそこにはありました。


「背負って運び出す」
というのも
「頬を叩いた」
というのも、
いかにも生きているようだった遺体ならいざ知らず、
この写真に見られる無残に変色しびらんした遺体に対してはどちらも不可能である気がしていました。

吉村氏の取材や、村井カメラマンの証言が微妙に食い違っているのは、
どちらも「常にそこにいた」からではなく、周辺の話や聞こえてくることなどが
いつの間にか事実として認識されていたからかもしれません。


しかし、真っ先に駆けつけて作業を終始見守っていた二人の生存者が
最初に出てきた真っ黒に変色した頭がい骨を、
両手で、勿論素手で、しっかりと抱くようにして、小さな小さな棺に入れている写真を見たとき、
少なくとも当初の疑問が解けたような気がしました。

彼らは、前部魚雷発射室の遺体収容作業も、きっとずっと間近で見守ってきたのでしょう。
そして、デッキに引きあげられた、一人一人のあの無残な遺体と対面したのでしょう。

自分たちだけが助かり、齢三十になろうとするのに、戦友は冷たい海の底で
ずっと昔のままの歳で、こうやって「死に続けて」いたのだと知ったとき、

それが到底生きているようには見えない死体そのものであっても、
彼らが当時の面影そのままに現れた戦友に思わず
「総員起こしだ総員起こしだ」
と呼び頬を叩いたことは真実だったのかもしれないと。


                    
                    








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オペラ歌手の容姿

2011-03-02 | 音楽

もう、この絵と題名だけで、特に先週2月26日、新国立劇場のオペラ「椿姫」を観た方は
「ああー・・・ねえ・・・」
と、力なく呟かれるかもしれませんね。

音楽家は音楽の才能さえあればなれる職業です。
しかしながら、中村紘子様が言いきるように「容姿も実力」ということは避けられない事実。
勿論、一般的に言う「例外」はあるものですが、超絶技巧の某ピアニストや、ただのおばさんでコンテストに出て話題になった歌手など、センセーショナルなストーリーがまつわった場合はその限りにありません。

だがしかし。
「容姿が実力」と何のためらいもなく言いきれる音楽のジャンル、それがオペラ。
よくある話なのですが、身体ができていないと声ができないと言われる歌手には、
小山のように太っている人が多々います。
特にワグナーの4時間もかかるような楽劇になると、マラソン並みの体力が必要ではないか、
と思われるほどのハードさなので、特にドイツの、ワグナーばかりやっている歌劇団の歌手は
軒並み物凄いどすこい体型です。

しかし、皆がそんな体型なので、最後になって指揮者が舞台に上がり、
みんなに囲まれてその縮小サイズであるのを見て
「ああ、そうだったのか」と納得します。

つまり、今ここにいる人たちを「神のような美男美女である」と翻訳しながら観る作業を
暗黙のうちにしているわけです。

しかし、一般的にもすらりとした美貌の歌手がやはりもてはやされるのは事実。
だって、例えばベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」。
まるでベルサイユのばら並みに「男装の麗人」が活躍するのですが、ここに小太りのおばちゃんが出てきた日には、
いくらうまくても舞台を見るたびに「翻訳」しなくてはいけないという作業が、非常に辛い。
(という公演を一度観ました)

結核で死んでしまうこの椿姫のヴィオレッタや、「ラ・ボエーム」のミミの役が丸ゝと太っているのも
何かと感興を殺ぐものです。

で、先日、新宿の新国立劇場オペラです。
「こんなアルフレードはいやだ!」というアルフレードだったんですねー、この日の主役は。

少しこの日のオペラについて解説いたしますと、オペラ鑑賞という非常に料金的に敷居の高い芸術を、
日本でももっと気軽に楽しむ、という偉大な使命を帯びて企画された新国立劇場の定期公演です。
シーズン通し券などでハコ売りし、コーラスや脇役は全て二期会の邦人歌手を使うことで、
チケットの低価格化を実現しています。

しかし、主役、主役級、だいたい三人は、海外の中堅どころを呼んできて「特別感」を出しています。
全員二期会なら「二期会公演」になってしまい、おそらくこれだけの人は呼べないでしょうから、
このシステムはオペラファンと、日本人オペラ歌手にとってもよくできていると言えましょう。

この日のヴィオレッタは、がりがりに痩せた、赤毛の美人で、
この「華やかだが裏社会に生きてきた高級娼婦(ドミモンド=半世界の意味)の崩れた雰囲気が実にぴったり、
そして、先日のNHKホールの代打、代打の代打歌手などより、ずっとテクニックもあるようで、
なによりヒステリックで不安定な前半のビオレッタを実にシリアスに表現できていて、
観客も彼女のアリアと彼女にはいたく満足し、アリアの後の拍手も惜しみないものでした。

ところがアルフレード。
最初、乾杯の歌に繋がる群衆シーンからこのオペラは始まるのですが、何処にいるのだかわからないわけですよ。
それもそのはず、「外タレ」を呼んでくるはずのこの主役に今回抜擢されたのはなんと韓国人。

ミラノスカラ座で、何のサービスのつもりか、チョイ役ですが中国人と韓国人が配役されていたのを「要らないって・・・」
と苦々しく思ったところの「オペラ・レイシスト」エリス中尉です。

誰が何と言おうと、オペラに東洋人は要らん!特に男は要らん!
日本公演だから日本人を使うならまだしも我慢するけど、「チャン」も「リー」もお断りだあ!
オペラは耳だけではない、観て「なんぼ」の芸術、
どうでもいいところで「翻訳」しなくてはいけない歌手は使わんでくれ、と、心から願うものの一人です。

いや、全員が日本人なら、いやたとえ日本人でなくても、全員が東洋人ならいいんですよ。
せめてコーラス隊だけ日本人、というのなら、まだ我慢しましょう。
しかし、アルフレードに韓国人を使うのはやめてくれ。

しかも。彼が主役だとわかったときの感想。
「うそ、このこまわり君がアルフレード・・・・・」
このこまわり君を三時間美男に翻訳するのか・・、とげんなりしつつオペラは進んでいきます。
最初こまわり君に見えていたこの歌手、しばらく経つと
「うーん、誰かに似ている」

・・・・・はっ。キム・ジョンイル?

そう言えばこの歌手もキムだ。
うわあ、金正日のアルフレードかあ。そう言えば体型もそっくりだわ。
まあ、北朝鮮国民にしたらあれがハンサムらしいけど。

キムくんの名誉のために言っておくと、決してこのアルフレード、ヘタではありませんでした。
軽やかなテノールで、高音がやや不安定のきらいはあったものの、おぼっちゃまで打たれ弱いこの青年の苦悩は、
よく表現することができていたのではないか、と言っていいかと思います。

でも、ダメ。
特にビオレッタとのラブシーンで、実際にしているのかどうか分かりませんがキスするところなど
「いやだー」
と見てはいけないものを見るような気がしてついつい目をそらしてしまうんです。

ビオレッタ役の歌手も、心なしかその瞬間だけは「引いて」いたように見えました。
一〇一回目のプロポーズで、浅野さんが武田さんとのキスシーンを「死んでも厭だ」と言ったためそれは無くなった、
という話がふと脳裏をよぎったりしました。(失礼だなあ)

ただ、現実的にみれば、たとえ金正日そっくりの男性でも、美女と恋愛するなどということはあり得るわけですし、
(現実の金正日ならなおさらのこと?)
このおぼっちゃまがこういう容姿で、今まで「もてない君」だったからこそ、こういう女性に入れあげ、
女性も容姿などという「うたかた」のものよりその誠実さを愛したのだ、という
深い深いストーリーを加味すれば、何の不思議もない椿姫です。

それに、このキム君、なかなか愛嬌のある奴で、カーテンコールの時のお茶目な仕草は、
「きっといい奴なんだろうなー、三枚目で」
と思わせ、非常に人間としての好感を持ったのですが。

でも、やっぱりオペラっていうのはそういうリアルな映画とは違うからねえ。
カーテンコールの時に隣りのカップルが
「もう少し痩せてた方がいいかもねえ・・・・・」
と呟いたのを(=_=)こんな顔でうなずきながら聞いていたエリス中尉です。

新国立劇場の企画の方、これを見ていたら配役に次回からはもう少し
「オペラらしい夢のあるキャスティングを」
と心からお願いする次第です。


それにしても、ヴィオレッタ役の歌手、カーテンコールの瞬間、それまでの退廃的なけんのある表情が豹変し、
いきなりかわいらしい健康的な顔になったのには驚きました。
どうやらビオレッタを憑依させていたようです。

 

 

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