ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ジョン・グレンとフレンドシップ7〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-30 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空博物館の最初にある「マイルストーン」展示。
次にご紹介するのは、地球の軌道を周回したカプセルです。

この歴史的なカプセルで、ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニア
アメリカ人として初めて地球の軌道を周回しました。

1961年に行われた2回の弾道飛行
アラン・シェパードのフリーダム7ガス・グリソムのリバティベル7
につづき、これがマーキュリー計画の3回目の有人飛行です。



グレンの乗った宇宙船は「フレンドシップ7」でした。



なぜどの宇宙船も最後が7なのかというと、彼ら宇宙飛行士7人が
「マーキュリーセブン」として売り出された?からです。
宇宙船の名前はそれぞれの飛行士によってつけられ、それに7が加えられました。

ちなみにグレンの後の宇宙船の名前は、

スコット・カーペンター ”オーロラ7”
ウォルター・シラー ”シグマ7”
ゴードン・クーパー”フェイス7”

マーキュリーセブンのうちの一人、ドナルド・スレイトン
自分の識別名を”デルタ7”にするつもりでしたが、以前もお話しした通り、
心臓の疾患が疑われたため、地上に降りてNASA管理職を務めました。

1975年、彼は健康上の問題を回復して世界最高齢で宇宙飛行士に復活し、
アポロ・ソユーズ計画でドッキング任務を成功させています。


後列左から
シェパード(海)シラー(海)グレン(海兵隊)
前列左から
グリソム(空)カーペンター(海)スレイトン(空)クーパー(空)

「ライト・スタッフ」の映画紹介の時にも同じことを書きましたが、
空と海の人数が3人ずつというのは決して偶然ではないと思います。

余談ですが、映画で描かれていたように、マーキュリー7の中で
ジョン・グレンは堅物で愛国的で信心深く家族思いな人物とされ、
マスコミの間では彼が最もウケが良く、まるで
セブンの代表であるかのような扱いを受けていました。

NASAは、宇宙飛行士に理想の父親、理想の夫であることを要求したため、
採用試験の際、妻とうまく行っているかが聞かれましたが、中には
自分の不倫で妻との仲が冷え切っていたのにも関わらず、飛行士なりたさで
妻と口裏を合わせてうまく行っているふりをした人(クーパー)もいます。

もちろんグレンは清く正しく美しく、そういったこととは無縁の人物でした。

また、ヒーローとなった宇宙飛行士に、ゼネラルモーターズが
宣伝のために年間1ドルで(公務員なので無料というわけにはいかず)
シボレーコルベットを貸してもらえるという特典が与えられた時、
アラン・シェパードやウォルター・シラー、スコット・カーペンターなどは
目の色を変えて飛びつき、公道をこれみよがしにぶっ飛ばしていましたが、
グレンだけはその申し出を断り、ノイジーな2気筒600ccのドイツ車、
NSUの600CCプリンツに乗ってNASAに通っていました。


1962年2月20日。

ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニアを地球周回軌道に乗せたのは
発射用ロケット「アトラス」でした。




■アメリカの「追い上げ」

このマーキュリー・アトラス(MA)ミッションは、
NASAとアメリカがソビエト連邦との宇宙開発競争において
強力な競争相手であることを改めて再確認&再確立することにもなります。

ここでサラッと経緯を書いておきます。

ソ連は1957年10月に世界初の宇宙船スプートニクを打ち上げ、
1961年4月には人類初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンを送り込みました。
「ジェミニ計画」において、エド・ホワイトの宇宙遊泳はソ連のレオーノフ
ほんの一瞬とはいえ先を越され、悔しい思いを噛み締めます。

そしてNASAは1961年5月にアメリカ人初の宇宙飛行士、
アラン・シェパードを宇宙に送り込むことに成功しましたが、
ガガーリンの地球周回したのに対し、シェパードは弾道飛行に終わりました。
(それでもちゃんと順序を踏むあたりがアメリカです)

シェパードとグリソムの行った弾道飛行の所要時間はいずれも15分台です。


弾道飛行というのはこういうものなので、短時間で済むわけです。

シェパードは「アメリカ人で初めて宇宙に行った男」の称号を受けました。



それまで遅れをとっていたNASAですが、このグレンの軌道周回飛行で
ようやくソ連に互角と言えるところまでつけることができたのです。

グレンはこれで「アメリカ人で初めて地球を周回した男」となりました。


ケープ・カナベラル空軍基地での打ち上げの後、フレンドシップ7は
4時間55分23秒かけて地球軌道上を3周して戻ってきたのち、
バミューダ沖に着水してフリゲート艦USS「ノア」に回収されました。

「ノア」乗組員熱烈歓迎中の絵

ジョン・グレン、熱烈リラックス中@「ノア」艦上

しかし、スミソニアンにあるフレンドシップ7の現物を前にすると、
こんな小さなものに乗って、5時間足らずとはいえ、
地球を3周するなんて、さぞ窮屈だっただろうなと思わずにいられません。

そりゃ軍艦の甲板で足も伸ばしたくなるというものでしょう。

ちなみに彼がカプセルを出て最初にいった言葉は、

「船内はとても暑かった」

だったと言われています。
その理由とは。


「フレンドシップ7」の軌道周回ミッションにおいて、
ほとんどの主要なシステムは順調に作動し、偉業として大成功を収めました。
無人飛行なら終了していた自動制御システムの問題を克服したのです。

映画「ライトスタッフ」を観た方は、エド・ハリス演じるグレンが、
機外に「ホタル」を見たと思うシーンを覚えておられるでしょうか。

グレンが畏敬の念を持ってそれを見つめている間、
地上では、カプセルの熱シールドが緩んでいる可能性を示され、
彼が宇宙で死亡する最初の人間になるのではないかという緊張が走っていました。

「こちらフレンドシップセブン。
私がここにいることをお伝えしようと思います。

私は非常に小さな粒子の形作る大きな塊の中にいて、
それらはまるで発光しているかのように鮮やかに輝いています。
このようなものを今まで見たことがありません。


その少し丸みを帯びたものは、カプセルのそばまでやってきています。
まるで小さな星のように見える。
それらが近づいてまるで浴びているようです。

カプセルの周りをぐるぐる回っていて、窓の前で全部が鮮やかに光っていて。
多分7〜8フィート離れたところ、
私からはすぐ下に見えています!」

現状を何も知らずに、ただうっとりとポエムるグレン。

「了解、フレンドシップセブン。
カプセルの衝撃音は聞こえますか?オーバー」

カプコン、人の話聞いてねーし。

「ネガティブ、ネガティブ、時速3、4マイル以上も離れていません。
それは私とほぼ同じ速度で進んでいます。
私の速度よりほんの少し低いだけです。オーバー。

それらは、私とは違う動きをしています。
なぜならカプセルの周りを旋回し、私が見ている方向へ戻っていくので」

こっちもまだ「蛍」の話してる?
っていうかこれ、外側の異常じゃないんか。

実際カプセル内の温度は上がり続け、さすがの彼も一度は覚悟を決めました。
カプセルから出た最初の一言は、このような事情から生まれたものでした。


スミソニアンの展示は、中がライトアップされていて、
グレンが大気圏突入後バミューダ沖で回収された時のまま、
設定を変えていないスイッチの状態が維持されています。

手書きの時間、これもグレンの字と思われる
左上の視力検査表に注意

彼は飛行中、非常に多くのことを監視しなければなりませんでした。
例えば、飛行中のあらゆる力学に加え、グレンは飛行中、
常に自分の視力をモニターする任務を負っていました。

これはどういうことかというと、人間の眼球が
無重力状態で変形すること
が医学的に懸念されていたからです。



グレンは飛行中、紙の視力表でしょっちゅう視力をチェックさせられました。
計器の上に貼ってある2枚の紙がそうです。


結局ミッションコントロールは、熱シールドがバラバラにならないように、
逆噴射ロケットを投棄せず、装着したまま大気圏に突入するよう指示し、
結局グレンは(おそらくあまり危機感のないまま)再突入に成功しました。


ジョン・グレンが見ていた天井の機器



ジョン・グレンが最後に触ったそのままのスイッチ

■冷戦下のイベント

ジョン・グレンの飛行のために、米国国防省は、
NASAが世界中の中立国またはアメリカとの同盟国に
追跡ステーションを設置するための支援を行いました。

しかし、結果としてグレンは追跡局の無線範囲を外れた時には
いっさいNASAと通信をせずに飛行を行っています。

この理由はよくわかっていません。


任務終了後、「フレンドシップ7」は、アメリカの宇宙計画と
外交政策の利益を促進する為、3か月に亘る「ワールドツァー」に出ました。

つまりもう一度「地球を周回」したのです。
誰が上手いこと言えと。

これはセイロン(現在のスリランカ)に到着した時のもので、
「フレンドシップ7」は象の歓迎を受けています。


フレンドシップ7の裏側。
大気圏突入の凄まじい熱が加わるとこうなります。

任務前、浜辺をランニングするジョン・グレン

海兵隊航空士として、ジョン・グレンは第二次世界大戦において
59回の攻撃任務、朝鮮戦争では2回の遠征で90回もの任務を行なっています。

その後はテストパイロットになり、ここでも以前紹介したように、1957年、
史上初の超音速機(弾丸機)による大陸横断飛行を行いました。

そしてその後、オリジナルの7名のマーキュリー宇宙飛行士の一人となり、
1962年のマーキュリーミッションを成功した後は国民的英雄となりました。

凱旋パレード「よくやったジョン」

ケネディ大統領とレイトン・デイビス空将の間に座って
ワシントンでのパレード

1964年にNASAを辞した後は、1974年から1999年まで
オハイオ州で上院議員を務めていました。


1998年、グレンは77歳で宇宙任務に復帰し、
スペースシャトル「ディスカバリー」でSTS-95ミッションを行いました。

STSというのはディスカバリーのミッションの名称で、
STS−92と119には日本人宇宙飛行士若田光一氏、124には星出彰彦氏、
114には野口聡一氏、131には山口直子氏が搭乗しています。

グレンの2回目の宇宙飛行となったST S -95ミッションには
日本人女性宇宙飛行士第1号、向井千秋氏が同乗していました。

ディスカバリー計画になぜ頻繁に日本人が乗ることになったのかというと、
(他のメンバーはほぼ全員白人かたまにヒスパニック系で、
アジア系は日本人以外はエリソン・オニヅカだけ)
それは日本の、主に経済的協力の厚さを表していると思われます。


そして、なぜグレンが歳を取ってから宇宙に呼び戻されたかというと、

「老人が宇宙に行ったらその体組成はどうなるのか」

という実験対象に適役だと思われたからなのだそうです。

77歳でかくしゃくとしている元宇宙パイロットなんて存在、
当時はもちろん、今後も現れるとはとても思えなかったのでしょう。

そういう意味でも、グレンは宇宙関係の研究に貴重な記録を残したのです。


ここスミソニアンにはグレンの着用したスペーススーツ実物があります。


名札付き。
こちらはもちろん一回め、ジェミニVIの時着用したものです。


■マーキュリー計画


NASAが発足して間も無く始まったマーキュリー計画。
それはNASAの最初の大きな事業でした。

目標は、パイロット付きの宇宙船を地球を周回する軌道に乗せること、
その軌道上での人間のパフォーマンスを観察すること、
そして人間と宇宙船を安全に回収することでした。

当初、とにかくアラン・シェパードが初飛行に成功したとはいえ、
アメリカ人が宇宙でどのように生き延び、機能するのか。
多くの疑問が残されていたのです。

しかし、「フレンドシップ7」ミッションの成功により、NASAは
マーキュリー計画への取り組みをさらに加速させることになりました。

マーキュリー計画の開始から終了までの5年間で、
政府と産業界から200万人以上の人々がそれぞれのスキルと経験を結集し、
6回の有人宇宙飛行が実現し、コントロールすることに成功しました。

マーキュリー宇宙船は、人体が微小重力下で1日以上生存しても
通常の生理機能が衰えないことを実証しました。
これも、実際そこに行くまではわかっていなかったことの一つです。

マーキュリーはまた、1960年代に行われたジェミニ計画や続くアポロ計画、
そしてその後のすべての米国の有人宇宙飛行活動の舞台を整えました。

このように、フレンドシップ7号のMA-6ミッションは、
NASAの有人宇宙飛行における重要な出来事であると同時に、
さらに多くの成果を生み出すきっかけとなったのです。


宇宙飛行士席が見えるカプセルの内部。

ジョン・グレンが座った座席は「カウチ」と呼ばれ、
ミッション中、彼と宇宙服にぴったりフィットするよう特注されています。

宇宙船の大きさから換算して、マーキュリーの宇宙飛行士は
身長155.7cm以上、180㎝以下でなければならないことになっていました。

宇宙飛行士たちは、宇宙船に"乗るのではなく宇宙船を着るのだ"
とジョークを飛ばしていたそうです。



フレンドシップ7号の飛行中にジョン・グレンが握った操縦桿。
先ほども述べたように、グレンは経験豊富なパイロットでしたが、
この操縦桿は航空機のと違い、宇宙空間でカプセルの向きを変えるだけです。



■宇宙に行った「フレンドシップ7」の星条旗



スミソニアンには、ジョン・H・グレン・ジュニアがアメリカ人として
初めて地球の軌道を周回した際に、「フレンドシップ7」に納められていた
アメリカ合衆国の国旗が寄贈され、保存されています。

NASAは1963年に「フレンドシップ 7」をスミソニアン協会に譲渡し、
以来、ここナショナルモールの建物に展示されています。
この旗は、宇宙船のどこかに詰め込まれていたようで
(おそらくグレンも知らなかったかあるいは忘れていた)
機体と一緒に、スミソニアン博物館に運ばれてきました。


ジョン・グレン宇宙飛行士は、宇宙船フレンドシップ7を操縦して
地球周回軌道に乗り、1962年2月20日に無事帰還し、
アメリカ人として初めて歴史的偉業を成し遂げました。

彼は確かにたった一人でカプセルに乗り込み、地球を周回しましたが、
ミッションの成功は全米の何千人もの人々によって支えられていました。



NASAは1963年に「フレンドシップ7」をスミソニアン協会に譲渡し、
以来この、アメリカの宇宙開発計画を開始した宇宙船は、
ボーイング・マイルストーン・オブ・フライト・ホールで展示されています。

そしてスミソニアンは、この歴史的な宇宙船を
未来の世代に見てもらうことができるのを誇りにしています。



続く。




アポロ計画 ルナ・モジュールLM-2月面着陸船〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-28 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアンの「世界を変えた航空機シリーズ」の広場には、
航空機を拡大解釈するという観点から(多分)、
宇宙関係のこんな展示があります。

月着陸船 LM-2
 Lunar Module LM-2

展示説明の最初には、誇らしげな調子でこのように書かれています。

「この月着陸船は人類の成し遂げた最大の成果の一つである、
別の天体に自らを着陸させることに寄与しました」

1969年から72年の間に、基本的にこれと同じものである6基の月着陸船が、
合計12名のアメリカ人宇宙飛行士を月に降り立たせました。

ただし、ここに展示されているところの
「ルナモジュール」LM-2は、宇宙に行ったことはありません。

低軌道におけるテストのために建造されましたが、実際には
月面着陸に耐えるだけの能力があるかどうかを測定するために
地上で実験するためだけに使用されたものとなります。

アポロ11号に搭載され、実際にに月着陸を行なった
LM-5イーグルはこれと同じものです。

ところで、こういう話題を選んだ時の「あるある」とでもいうのか、
わたしがたまたまこのシリーズに着手したとたん、
アマゾンプライムでアポロ11号の船長だったニール・アームストロング
ライアン・ゴズリング(LA LA LANDの”セブ”役)が演じた、
「ファースト・マン」が配信されました。

資料を集めて取り敢えず目を通した後だったので、
映画の内容と登場人物のバックボーンが一応頭に入っており、
なるほど、このことをこう扱うのか、とか、
この人物はこんな逸話を残していたのか、などといった
現実との擦り合わせをしながら見ることができて大変面白かったです。


月面着陸船は、1945年から91年までの冷戦中、
技術的優位性と国際的な名声を争った、ソビエト連邦との
「宇宙開発競争」におけるアメリカの勝利を象徴するものとなりました。


アポロ月着陸船(LM)は、月周回軌道から二名の宇宙飛行士を
月面に往復させるためにグラマン社が設計した2段式の宇宙船です。

実物より現地にあったこの模型を見ていただくとわかりやすいのですが、
上段の階は、加圧されたクルーのコンパートメント、
機器エリア、そして上昇ロケットエンジンで構成されています。

下階には着陸装置があり、下降ロケットエンジンと
月面実験装置が搭載されています。


LM-2は、2回目の無人地球周回軌道試験飛行を行うために製作されました。

しかし、アポロ5号で実施された第1段の試験飛行が成功したため、
2回目の無人の試験飛行は不要と判断されました。
そこで2号機は、月面着陸ミッションに先立つ地上試験用になったのです。

ちなみにスミソニアンのホームページには、

1970年、愛知で行われた「愛・地球博」で、
このLM-2の上昇ステージは数ヶ月間展示されていた

と書かれているのですが、愛知の万博って、2005年ですよね?
1970年って、大阪万博のことじゃありませんか。

これだよね

そうかー、これ、大阪に来ていたことがあるのか。

前回ご紹介した、アクタン・ゼロの実験をしたことがある風洞と並んで、
我々日本人にとってご縁があったということで感慨深いですね(適当)

LM-2は日本から変換されて帰国後、下降ステージと合体し、
アポロ11号の月着陸船「イーグル」に似せて改造され、
スミソニアンに展示されて今日に至ります。

◆宇宙開発戦争 スペース・レース



1961年5月25日に行われたジョン・F・ケネディの表明を受けて、
月に人間を送り送り込むための表明が開始されました。

「人類初の月面着陸を試みる」
写真はアメリカ議会の合同会議で演説しているケネディ大統領です。
彼はこの時、人類を月に送るための議会の支援を要請しました。

ケネディの左後ろはリンドン・ジョンソン副大統領の姿が見えます。

この彼の決定は、冷戦下における宇宙開発競争において、
ソビエト連邦に宇宙における一連の成果を先んじて挙げられ、さらには
ロケット技術開発でアメリカが遅れをとっているという認識の上に立ち、
これを逆転するための意志を表したものでした。

ケネディ大統領のブレーンは、
「アメリカは10年以内に月に到達し、ソ連を打ち負かすことができる」
と焚き付け、吹き込み・・いや、示唆しました。

映画「ファースト・マン」では、11号の月着陸成功後、
それを見ることなく暗殺されたケネディ大統領の、あの、

「We choose to go to the Moon.」

が繰り返される演説が、その成功を墓前に報告するように流れます。



ここで宇宙開発競争、スペース・レースについて書いておきます。

宇宙開発競争とは、20世紀の冷戦時代に敵対していたソ連とアメリカが、
より優れた宇宙飛行能力を獲得するために行った競争のことをいいます。

その実態は第二次世界大戦後の弾道ミサイルによる核軍拡競争でした。

世界大戦が終了すると、それまでの同盟国であったアメリカとソ連は
冷戦(1947−1991)として知られる政治的対立と軍事的緊張に陥ります。

共通の敵がいなくなったので「てっぺんの取り合い」が始まったわけです。

そしてこの二大国は、西欧諸国と東欧圏(ソ連の衛星国)を巻き込んで
対立を二極化させる過程で宇宙開発競争を繰り広げるわけですが、
宇宙飛行において先んじること、すなわち技術的優位は、抑止力という点で
国家の安全保障に必要なものと見なされたのでした。

宇宙開発競争は、人工衛星の打ち上げに始まり、
月・金星・火星へのロボット宇宙探査、地球低軌道での有人宇宙飛行、
そして最終的には月への探査を実現させます。


◆第二次世界大戦後のソ連とアメリカ

ソ連のロケット技術に大きな貢献を行った科学者、
セルゲイ・コロレフは、スターリンの大粛清で投獄されていた人物ですが、
戦後スターリンは彼をロケット技師長に任命し、
ドイツから移住させた170名以上のロケットの専門家をコンサルタントにして
大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発を命じました。

1957年、コロレフがゴーサインを出したR-7セミョールカ・ロケット
実験に成功し、翌月には世界初の完全運用可能なICBMとなります。

その後、この技術は最初の人工衛星の宇宙への打ち上げに使用され、
誘導体はソ連のすべての有人宇宙船を打ち上げることに成功しました。


アメリカがドイツから獲得した技術者ヴェルナー・フォン・ブラウンは、
ソ連のコロレフの「カウンターパート」という立場でした。

彼は1950〜60年代にかけて、アメリカロケット技術の第一人者となります。



実は昔々、アメリカにもロケット技術の先駆者はいたのですが、
その人物はアメリカのマスメディアによって潰されてしまっていました。



アメリカのロケットのパイオニアであるロバート・H・ゴダード

1914年には小型液体燃料ロケットを開発し、特許を取得していたのですが、
『ニューヨーク・タイムズ』の社説でその考えを揶揄され、
マッドサイエンティスト呼ばわりされたため、すっかり拗ねてしまい、
世捨て人になって研究を人に公表せずに死んでしまったという人です。

今でも割とロクなことをしないので有名なNYTですが、この時の罪は重大で、
ゴダードという「マッドサイエンティスト」を失ったアメリカは、
第二次世界大戦中の三大国の中で、唯一自国のロケット計画を持たない国
になってしまったのです。

そこで戦後のアメリカは、ドイツから大量のV2ロケット、そして
「ペーパークリップ作戦」でフォン・ブラウンなどの技術者を乱獲しました。

アメリカに渡ったドイツ人技術者は、捕獲したV2を組み立てて打ち上げ、
アメリカのエンジニアにその運用を指導して、技術を伝えます。

その後、宇宙から初めて地球の写真を撮られ、最初の2段ロケット、
WAC Corporal-V2 combination を1949年に完成させました。

その後ドイツのロケットチームは、陸軍初の
実用中距離弾道ミサイル、レッドストーンロケット
を開発し、その技術は踏襲されて、アメリカ初の宇宙衛星、そして
最初の有人飛行による水星宇宙探査を打ち上げるに至ります。

これはジュピターとサターン、ロケット・ファミリーの基礎となりました。

◆競争開始〜スプートニク・ショック

1955年8月2日、アメリカが自ら定めた「国際地球物理年」のために
人工衛星を打ち上げることを発表した4日後、
ソ連が「近いうちに」自分たちも衛星を打ち上げる!と宣言したことから、
両大国のあいだに本格的な競争は始まりました。

そしてアメリカを衝撃的な「スプートニク・ショック」が襲います。

1957年、ソ連は初めてスプートニク1号で人工衛星の打ち上げに成功し、
1961年4月12日にユーリ・ガガーリンを人類初の宇宙飛行に送り出しました。

ソビエト連邦は、その後数年にわたり、このような初の試みを行い、
宇宙開発競争において早くからリードしていることを誇示し続けます。


そこで、ケネディ大統領の議会演説が行われた、というわけです。

「人類を月に着陸させ、地球に安全に帰還させる」

これ以降、米ソ両国は超大型ロケットの開発に取り組み始めました。

そしてアメリカは3人乗りの軌道衛星と2人乗りの着陸機を
月に送り込めるサイズのサターンVの配備に成功することになります。


そして1969年7月20日。

ニール・アームストロング、続いてバズ・オルドリン
人類最初に月面に足を踏み入れた瞬間です。

それはアポロ11号がケネディの目標を達成した瞬間でもありました。
この瞬間を推定5億人がリアルタイムで見たと言われています。


NASAの航空宇宙エンジニアであるジョン・フーボルト。(ドイツ系)
アポロ計画のために選択された月軌道ランデブーについて説明しています。


NASAは月面着陸と地球への再突入のために個別のモジュールを用意する
月軌道ランデブー法を採用することで重量を節約することに成功しました。



ちなみに人類の月面着陸は捏造だったとされる陰謀論ですが、
これは数年後からあちらこちらから起こってきています。

ちなみにwikiには陰謀論についてまとめてあって、
これがなかなか読み応えがあるので貼っておきます。

アポロ計画陰謀論



そして人類を月に立たせるための月着陸船です。

構造物としてのLM-2は、実際に見るとまるでハリボテのようで、
あまりにも不安定そうなのに驚かされます。

これは、宇宙の真空の空間でのみ動作するために設計されているので、
空力面での工夫や合理化などは必要なかったからです。

ただし、重力については最新の注意が払われました。



月面着陸に耐えるように構築された脚だけは頑丈そうです。
ボディは前述のごとく、非常に壊れやすく、限界まで軽量化されています。

重量を節約するために、座席はなく、
宇宙飛行士は中でずっと立って過ごしました。


それまでいろんな作家がSFにおいて宇宙船を想像してきましたが、
そのどれとも実際のものとは似ていませんでした。


あのアイザック・アシモフは、アポロ11号のニュースを受けて、
人類の月到達を知らぬまま世をさったロバート・ゴダードに向かって

「ゴダードよ、我々は月にいる」

と言葉を送り、NYTは、ゴダードを嘲った社説を出した49年後にあたる、
月着陸の翌日、「訂正」という見出しの下にごく短い記事を掲載しました。

 「タイムズは、自分たちのエラーを後悔しています」

      

◆アポロ以降〜デタント(緊張緩和)へ

さて、ケネディの月面着陸の目標は達成されました。

ほとんどのアメリカ人は、この特異な成果を、それまでにソ連が挙げた成果を
全て合算してもそれを上回るもの、と考えています。

ソ連はその後2つの有人月探査計画を進めましたが、
アメリカに先を越されたので、結局N1ロケットを中止し、
初の宇宙ステーション計画である「サリュート」計画と
金星・火星への初着陸に集中することに目標を切り替えました。

一方、アメリカは、さらに5人のアポロ乗組員を月に着陸させ、
他の地球外天体の探査をロボットで継続する方法を選択しました。


その後1972年、アポロ・ソユーズ共同実験計画(ASTP)が合意され、
アメリカとソ連の宇宙飛行士の地球軌道上でのランデブーが実現しました。

国際ドッキング規格APAS-75が共同開発され、
デタント(緊張緩和)の時期が到来します。

・・・とかなんとかやっている間にソビエト連邦が崩壊したので、
アメリカと新生ロシア連邦は1993年にシャトル・ミール計画
国際宇宙ステーション計画に合意し、結果的に宇宙においても
冷戦時代の競争を終わらせることができたというわけです。

めでたしめでたし。
なのかな。

宇宙計画についてはこれから分野ごとにまた取り上げることになります。


続く。







NASA実物大風洞実験装置〜マイルストーンシリーズ・スミソニアン航空博物館

2022-03-26 | 航空機

こんな風景を思い浮かべてください。

ここはバージニア州ハンプトンにあるNACAラングレー記念航空研究所。
ここには新しい風洞、NACAのフルスケールのトンネルがあります。

海軍のヴォートO3U-1「コルセアII」実物そのものが風洞に取り付けられ、
エンジンが始動されると、すぐに機体は時速120マイルで「飛行」を始めます。

しかし、それを見ている者の目には、この飛行機は空中の一点に留まり、
ただ、風洞の中の空気が時速120マイルでこの上を吹き抜けていくのです。

これが、NASAの前身である
NACA(National Advisory Committee for Aeronautics)
の新しいFST(Full Scale Tunnel)=風洞です。



飛行機の模型ではなく、飛行機そのものを使って行われた最初のテストでした。
FSTの利点は、高さ9m、幅18mの大空洞に飛行機を丸ごと搭載できることです。

実物大の実験は、小さな風洞で小さな模型を試験しても、どうしても生じる、
いわゆる「スケール効果」の不確実性を排除することができるでしょう。


◆ 風洞とは

風洞、英語で言うところのwind tunnel, WTとは、
人工的に「流れ」を発生させ、発生させた流れの中に縮小模型などの試験体を置き、
局所的な風速や流れの可視化などの実験を行う施設です。

風洞を用いた実験を風洞実験・風洞試験と呼ばれ、
航空機・鉄道車両・自動車など高速で移動する輸送機械や、
高層ビル・橋梁など風の影響を受け易い建築物の設計に用いられます。

歴史を遡ると、1700年第後半にはすでに、空気抵抗を測定するための
回転アームを用いた風洞で飛行機の実験が行われていました。



同じスミソニアン別館のウドヴァー・ヘイジーセンターの方には、
ライト兄弟が用いた風洞装置が展示されています。

ライト兄弟はこの装置で翼の形の研究を行い、その結果
ライト・フライヤー1号の開発に成功しています。



初めて実物大の風洞を開発したのは、ドイツでした。
V1、V2ロケットを開発した陸軍兵器実験場ペーネミュンデの技術者たちは、
実験のために巨大な風洞を製作しました。

中にも入れます

◆ NACAの風洞



風洞試験を経ることなく飛行する飛行機はありません。
この巨大な風洞ファンは、バージニア州ハンプトンにある研究センターの、
NASAの実物大の風洞に取り付けられていた二つのファンのうち一つでした。


二つの大型プロペラがテスト飛行機とこの写真に見える
F-18などのモデルに空気を送り、飛行機を実際に空に飛ばしました。


航空諮問委員会(NACA)のために、1931年に建設された風洞は、
当時のアメリカ軍の重要な軍用機のほとんど全てをテストしています。

風洞は「9メートル×18メートルのトンネル」とも呼ばれ、
最大12メートルの翼幅の航空機を保持できます。

航空宇宙エンジニアは、風洞実験から採られた正確なデータを使用して、
基本的な設計を検証し、また改善を行いました。

実物大の風洞は、これまでに建設された中でも最も価値があり、
そして用途の広い研究用トンネルの一つとなったのです。

実物大の風洞は、実物大の航空機、フリーフライトモデル、
吊り上げ機、そして超音速輸送機など、多くの軍事、
及び民間航空の設計に関するデータを提供することになりました。

バージニア州ノーフォークにあるオールド・ドミニオン大学
1996年から2009年までトンネルを運営し、航空機、トラック、
列車、自動車、そしてレースカーなどのテストをおこなっていました。

ちなみにわたしも初めて聴くオールド・ドミニオン大学と言う名前ですが、
GPAは3.3で、難しさを5段階でいうと3の「普通に難しい」大学だそうです。

この大学の名前は重要であとでもう一度出てきますので覚えておいてください。



ベルXP-59、ノースアメリカンP-51Bマスタング
そしてヴォートF 4U-1Aコルセア

これら第二次世界大戦に活躍した航空機は、
このファンを使った風洞実験を経て生まれました。

NACAの実験を通しての抵抗力低減の取り組みは、速度と射程を向上させ、
連合軍のパイロットに先頭における決定的な有利をもたらしたのです。


マーキュリー・カプセル、月面着陸練習機、そしてスペースシャトル
これらもまた風洞でテストされた航空宇宙設計でした。

写真で風洞にセッティングされているのはマーキュリーカプセルです。

「ライト・スタッフ」に描かれたマーキュリー計画で、アメリカ合衆国は、
史上初の有人軌道飛行あと、マーキュリーカプセルに
アラン・シェパード宇宙飛行士を乗せて弾道飛行による打ち上げを行いました。

マーキュリーカプセルは2機、有人弾道カプセルとして打ち上げられています。


NACAの技術者が現場で製作しているのは、
木製のブレードで、これをさらに加工して使用しました。

木を用いてこれを製作したのは、形を正確に再現するためで、
バランスを取ることができるからでした。
しかも、木の層を接着させて重ねることで、変形を防ぐことができます。

エプロンをして木を削っている人なんて、NASAのイメージゼロですね。


テストの結果収集されたでたは、空力学者やエンジニアが使用するために、
女性からなる「コンピュータ」チームによって処理されました。

コンピュータに「」が付いているのは、コンピュータを使用したのではなく、
彼女らのタイプを使用したデータ処理をしてそう呼んでいるのです。

◆米軍機の高速化に寄与した風洞実験

完成後10年間、ラングレーFSTは世界最大の風洞実験装置でした。
それは航空技術分野でアメリカの世界的な存在感を高める原動力となります。

その後78年間、ラングレーFSTでは、ロッキード・マーチン社のF-22に至るまで、
アメリカ軍に存在したほぼすべての戦闘機がテストされることになります。

特に歴史的に重要だったのは、1938年から45年にかけて行われた
「ドラッグ・クリーンアップ・テスト」
”Drug cleanup tests”
と呼ばれる一連の大きな試験でした。

この試験は、実戦配備された飛行機から外装を1つ1つ取り除き、
パテで粗い部分を滑らかにし、滑らかな基本形に成形してから、風洞に入れ、
各段階で部品ごとに原因となる空気抵抗を特定する、と言うものです。

風洞実験によって、機体の最も抵抗の大きい部分を特定し、
飛行機全体の抵抗が小さくなるように改良していくのが目的でした。

第二次世界大戦中、アメリカの敵となった国の戦闘機は、
米軍機の高速性に悩まされましたが、それらの高速化に貢献したのは、
他ならない、この抗力クリーンアップ試験であったというわけです。

このトンネルで二日間にわたるテストが行われたのは1943年3月6日のことでした。

これはフル・スケール・トンネルで行われた最軍機とされたテストだったため、
この情報が世間に明らかになったのはつい最近になってからのことです。

◆ ラングレー風洞を飛んだ”アクタン・ゼロ”

1942年6月4日。

それはある軍人に言わせると、
「ミッドウェイ海戦の敗北よりも深刻な事件のあった日」
として記憶される日付です。

日本軍の飛行機がアリューシャン列島のダッチハーバーにある
米軍基地を攻撃したときから、この話は始まりました。

このとき、日本の三菱零式艦上戦闘機は地上からの攻撃でオイルラインを切断され、
パイロットは草原と思われる場所に不時着しなければなりませんでした。

しかし、その草原は水と泥に覆われた沼地であったため、
着陸態勢に入った飛行機は仰向けにひっくり返り、パイロットは死亡します。
彼は「龍驤」から発艦した古賀直義一飛曹と言うことがわかっていますが、
今はそのことについては本題ではないので語りません。

墜落した飛行機は1ヵ月後にアメリカ海軍の哨戒機に発見され、
検査の結果、引き揚げ可能であることが判明します。
日本軍の零戦としては初めてアメリカの手に渡った貴重な機体でした。


さりげなく星形をつけてる零戦(´・ω・`)

鹵獲された零戦は、サンディエゴとワシントンのアナスコスティアで
米海軍の試験を受けた後、NACAラングレー記念研究所に運ばれ、
さらに特殊計器の取り付けが行われました。

そして、1943年3月5日(金曜日ということまで記録に残っている)
午後3時頃、風洞のあるラングレーに到着した零戦は、
そのままラングレーのフライトラインに「しれっと」駐機されて夜を迎えます。

その夜、闇にまぎれて零戦はフルスケール・トンネルに密かに搭載され、
2日間、極秘裏にテストが行われました。
テストに参加した風洞の特別クルーは、秘密厳守を誓約させられています。

月曜の夜が明けると、飛行機は何事もなかったかのように、
フライトラインの元の場所に戻っていました。

この秘密実験の存在は、この日から67年後の2008年になって、
フルスケール・トンネルの前所長であるジョー・チェンバース氏が、
この秘密実験に参加したラングレーの退職者たちにインタビューし、
初めて明らかになったのでした。

風洞を飛んだ零戦の写真は現存せず、試験結果もどこにも残されていません。

この時、日本の零戦は、ライト飛行場からラングレー飛行場まで自力で飛び、
滑走路から風洞に運び込まれ、厳重な秘密のベールの下で即席のテストを行い、
67年間もほとんど誰にも知られることがありませんでした。

アクタン・ゼロの解析についてはテストパイロットの意見などが残され、
色々な解釈がされていますが、風洞実験がどのように
アメリカの戦略に生かされたかも、資料が残っていないので
現在のところわかっていないとされているようです。

◆FSTを救った?オールド・ドミニオン大学

戦後のNACAでは、先日もお話しした、X-1に象徴される、
マッハ1に向かう飛行域の高速航空機が中心となりました。

音速を超える飛行機も、離着陸の時には低速に落とさねばなりません。
フルスケールトンネルはそのような低速実験に最適な施設でした。

また、このトンネルではヘリコプター試験も頻繁に行われるようになります。

1958年、NACAはNASAとなり、国家的な宇宙開発計画が本格化しました。
宇宙船もまた、大気圏突入後は低速で着陸しなければなりません。

というわけでラングレートンネルは、マーキュリー宇宙カプセル、
HL-10の低速試験の主力となっていきます。

また、この時期から無人のフリーフライト試験が開始され、
遠隔操作でトンネル内の気流に乗って模型を飛ばす実験が行われました。

このフリーフライト試験は、模型の安定性や制御特性を、
固定された付属品に邪魔されずに試験・観察することができました。


また、1960年代から70年代にかけては、
航空機の超高迎角における空力特性に大きな関心が寄せられた時期で、
再びフルスケール・トンネル内での模型を遠隔飛行実験が行われました。

1985年、米国内務省がラングレーFSTを国定歴史建造物に指定しました。
つまりランドマークというか史跡?となったのです。

しかし、アメリカでは、歴史建造物指定がされたからといって、
この施設が取り壊されないという保証はないみたいなんですね。

懸念した通り、NASAは国から風洞を減らすよう圧力をかけられ始めます。

そこで、当時のラングレー所長ポール・ホロウェイが、
フルスケールトンネルを保存するために考え出した解決法が、
先ほど名前の出た近隣の大学、オールドドミニオンだったのです。

そこでホロウェイ所長は、オールドドミニオン大学の工学部長を説き伏せ、
フルスケール・トンネルの運営を引き継ぐ名乗りをあげ、
ラングレーに提案しろ、と迫りました。いや、勧めました。

この工学部長という人が、この施設を従来とは異なった用途で
空力試験に利用するチャンスだと考えたので話はまとまりました。

1997年、オールドドミニオン大学がFSTの運営を引き継ぎました。
当時、大学が運営する風洞としては世界最大のものとなりました。

オールドドミニオン大学は、1996年から2009年までこのトンネルを運営し、
ライト・エクスペリエンスによる1903年のライトフライヤーの再現や、
NASCARのレーサーなど、従来とは異なるモデルのテストが行われました。

風洞実験されるライト・フライヤーのレプリカ


◆ラングレーFSTの最後

オールドドミニオン大学との契約が切れた後の2009年9月4日、
ボーイングX-48の混合翼を使った最後の試験が行われました。

そして1931年の完成から約80年後の2011年5月18日に解体工事が完了しました。

この歴史的なトンネルで現在にその形をとどめているのは、
国立航空宇宙博物館が譲り受けた2つの駆動ファンのうちの1つだけです。

このファンは、2015年2月、博物館の
「ボーイング・マイルストーンズ・オブ・フライト・ホール」に設置されました。

設置中

梯子のかかっている部分に、「TEST 」と雑に書かれた字が見えますが、


それは現在もスミソニアンで確認することができます。


NASAのエンジニアであり、著述家であるジョセフ・R・チェンバースは
このように述べています。

「フルスケールトンネルは、NACAが世界一流の研究所であるという
メッセージそのものであり、航空機設計者にとって
後世に残る貴重なデータを生み出してきたのです」



続く。






XS-1グラマラス・グレニス 音速を超えた飛行機〜スミソニアン航空博物館

2022-03-24 | 航空機


前回に引き続き、スミソニアン航空博物館の「世界を変えた歴史的航空機」から、

ベル X-1 グラマラス・グレニス
Bell X-1 Glamorous Glennis

をご紹介します。

スミソニアンのエントランスを通ってこの広場に出た時、
真っ先に目についたのは、このオレンジの機体でした。
忘れようにも忘れられないその特徴のある音速機。
かつて映画「ライト・スタッフ」の紹介のために絵に描いたこともあります。



X-1 グラマラス・グレニスの前に立つパイロット、チャック・イェーガー。
彼はこの機体で、人類史上初めて音速を突破した男になりました。

スミソニアン博物館に足を踏み入れ、その機体を実際に目の当たりにしたとき、
わたしのテンションはいきなり急上昇したものです。

まだこの絵を描いた頃は存命だったイェーガー氏ですが、
2020年の12月7日、97歳で死去しています。

スミソニアンの紹介はこのようなものになっています。

「NASA チャールズ・E’チャック’ イェーガーは、
空軍で最も経験豊富なテストパイロットでした。

11回の空中勝利を収めた第二次世界大戦のエースである
ウェストバージニア出身のパイロットは、機械を本質的に理解し、
主観的な飛行特性に対する感覚を、飛行を直視するエンジニアに
パフォーマンスデータとして的確に伝えるという稀な能力を備えていました。」

◆ 音の壁を破った瞬間

1947年10月14日、ベルXS-11号機に乗ったアメリカ空軍の
チャールズ・'チャック'・イェーガー少佐は、
音速より速く飛んだ最初のパイロットとして歴史に名前を刻むことになりました。

後にX-lと命名されることになるXS-1は、
カリフォルニア州ムロックドライレイク近くのモハベ砂漠上空で、
高度43,000フィート、マッハ1.06、時速700マイルに到達したのです。

この飛行により、航空機は音速よりも速く飛ぶように設計できることが証明され、
依然として貴重な遷音飛行データを収集することに成功しました。
「音の壁」という神話は事実上破られることになったのです。

ナショジオの番組ではありませんが、文字通りの「ミス・バスター」です。

XS-1は、1944年にNACA(National Advisory Committee for Aeronautics)
米陸軍航空隊(後の米空軍)が共同で開始したプログラムで、
有人遷音速・超音速研究機として開発された機体です。

1945年3月16日、陸軍航空技術軍団は、ニューヨーク州バッファローにあった
ベル・エアクラフト社とプロジェクトの開発契約を結びました。

プロジェクト名はMX-653
ベル社には、3機の超音速・超音速研究機が発注されます。

プロジェクトの目的、それは音速を突破する機体。

XS-1という名称は、陸軍が命名したもので、
Experimental Sonic-i(音速実験機I)の略称です。

それを受けてベル社は、ロケットエンジンを搭載したXS-1型機3機を製造しました。


スミソニアンに航空機多しといえども、鮮やかなオレンジ一色、
というペインティングなのはこのX-1だけであろうと思われます。
(もしかしたら標的機などであるかもしれませんが)

この理由は、観察者が地上から機体を視認しやすいとして選ばれました。


◆イギリスを利用したアメリカ

同じような実験は、イギリスでも試みられていました。
イギリス航空省はマイルス・エアクラフト社に依頼し、
世界初の音速突破機開発プロジェクトを極秘裏に開始しています。

このプロジェクトの結果、ターボジェットを搭載したマイルズM.52が試作され、
水平飛行で時速1,000マイル(870kn、1,600km)に達し、
1分30秒で11kmの高度に上昇できるよう設計されました。

X-1にクリソツだったM.52、と思ったらX-1らしい(コメント参照)

1944年までにM.52の設計は90%完了し、
マイルズ社は3機の試作機の製造に取り掛かりましたが、
そのとき、アメリカが高速機の研究に関するデータ交換を申し出てきたのです。
同年末、航空省はアメリカと高速機の研究・データ交換の協定を結びました。


マイルズ社とイギリスは何の疑いもなくアメリカとの協力に合意したのですが、
のちにアメリカの腹黒さに驚愕することになります。

マイルズ社は、協定を結ぶなり乗り込んできた、アメリカ側ベルの担当者に
自社でM.52の図面と研究を見学させたのですが、その直後、
アメリカはイギリスとの協定を破棄してしまいました。


マイルズ社の技術者からすれば、こちらのデータを見せただけで、
向こうからは何のデータの供与もないまま終わったということになります。

種明かしをすると、当時、ベル社は、マイルズに全く秘密のままで
独自のロケット動力による超音速機の建設を進めていました。

しかし、ピッチ制御の問題に直面し、それを解決するためには
M.52で既に決定していた可変入射尾翼の搭載が適切かもしれないと考えました。


つまり、ベル社の技術陣は、その仮説が正しいかどうかを、
マイルズとRAEの試験飛行のデータによって確認しようとしたのです。
そのためにアメリカ政府を動かしてイギリスと協定を結ばせ、
データを見せてもらいさえすればもうイギリスは用済みとなるので、
アメリカ政府に協定を破棄させたというわけです。



こういった権謀術数は、イギリスのお家芸のようなイメージがありますが、
さしもの老獪国家もなりふり構わないヤンキーにしてやられたというわけです。


◆「翼のある弾丸」〜研究と調査

アメリカでXS-1が最初に議論されたのは1944年12月のことでした。
初期の仕様は、時速1,300 kmで高度11,000 mを2〜5分で飛行できる
有人の超音速機というものでした。

アメリカ陸軍航空局と全米航空諮問委員会 (NACA) がベル航空機会社に
遷音速領域の条件の飛行データを取得すべく
3機のXS-1(「実験、超音速」、後のX-1)の建造を依頼したのは1945年3月です。

同じ頃、日本がそのアメリカに国内の至る所を
空爆で散々蹂躙されていたことを考えると、
つくづくこの国力差のある相手に戦争を挑んだことそのものが
無謀でしかなかったと考えずにいられません。


さて、設計者は、代替案を検討した結果、ロケット機を製作することになりました。
ターボジェットでは高高度で必要な性能を得ることができないと考えたからです。

X-1の原理をキャッチーな一言で言うとしたら、それは
「翼のある弾丸」
でした。

事実、その形状は超音速飛翔で安定することが知られている
ブローニング50口径(12.7mm)機関銃弾によく似ています。

危険な空気抵抗を克服するために、X-1は非常に薄くて強い翼と、
制御を改善するための微調整可能な水平尾翼を備えていました。

高出力の「弾丸」は超音速で安定していたため、
設計者は期待を50口径の弾丸に似せて成形したのです。

「翼のある弾丸」には、操縦者を座らせる狭い操縦室が
機首の傾斜した部分の枠付き窓の後ろに設置されていました。


狭っ

なにしろ「弾丸」ですから、もちろんパイロットの脱出シートもありません。

ベル社の当時のテストパイロット、チャルマーズ・”スリック”・グッドリンが、
テスト飛行の危険手当てとして15万ドルと、さらに
0.85マッハを超えた分に対して追加を要求した、という噂があり、
本人はそれをのちに否定したにもかかわらず映画「ライトスタッフ」では
逸話として挿入されていますが、まあ、家庭を持つ男なら当然かもしれません。

さらに、この法外な要求のため、軍はベル社とのテスト契約を打ち切り、
テストの権利を買い取って、軍人であるイェーガーに飛行させた、
という話もあるそうですが、これはどちらかというと後付けの理由で、
軍としてはとにかく制服を着た人間に「史上初」の快挙を上げさせたかった、
というのが本当のところではないかと思われています。


さて、開発が始まった時はまだ戦争中だったため、XS-1は
戦闘機として運用される可能性を考慮して、地上からの離陸を想定していましたが、
戦争が終わったので、B-29スーパーフォートレスによる空輸、
という方法が選択がされることになりました。

そして、1947年にはロケット機の圧縮性に問題が生じます。
そこで先ほどお話しした「イギリスとの技術協力(のふりをした一方的な搾取)」
により、可変入射尾翼に改修されることになりました。




X-1の水平尾翼を全移動式(または「全飛行式」)に改造した後、
テストパイロットのチャック・イェーガーが実験的に検証し、
その後の超音速機は、すべて全移動式尾翼か
「無尾翼」のデルタ翼型が選ばれるようになりました。


燃料は水で薄めたエチルアルコールと液体酸素の酸化剤で燃焼させるも方式でした。
4つの燃焼室は個別にオン・オフが可能で、推力を細かく変えることができました。

1号機と2号機のX-1エンジンの燃料と酸素タンクは窒素で加圧され、
飛行時間が約1+1/2分短くなり、着陸重量が910kg増加しましたが、
3号機のエンジンはガス駆動のターボポンプを使い、
エンジンの重量を軽くしつつチャンバーの圧力と推力を増加しました。

◆ XS-1たちのその後



現在、国立航空宇宙博物館が所有するXS-1、1号機(シリアル46-062)は、
イェーガーが妻に敬意を表して「グラマラス・グレニス」と命名したものです。

XS-1、2号機(46-063)はNACAで飛行試験が行われ、
後にX-1「マッハ24」研究機として改良されて、現在、
カリフォルニア州エドワーズのNASA飛行研究センターの屋外に展示されています。

3号機(46-064)は、ターボポンプ駆動の低圧燃料供給システムを採用した機体。
X-1-3「クイニー」の名で親しまれたこの機体は、
1951年の地上での爆発事故でパイロットを負傷させ、喪失しました。


X-1D

その後、X-1A、X-1B、X-1Dの3機が追加で製作されましたが、
このうちX-1AとX-1Dの2機は、推進系の爆発で失われています。


XS-1の2機は高強度アルミ製で、推進剤タンクは鋼鉄製でし。
1号機と2号機は、ロケットエンジンへの燃料供給にターボポンプを使用せず、
燃料供給システムの直接窒素加圧に頼っていました。

先ほども書いたように、XS-1の輪郭は50口径の機関銃の弾丸を模していますが、
その胴体には、2つの推進剤タンク、燃料と客室加圧用の12の窒素球、
パイロット用の加圧コックピット、3つの圧力調整器、
格納式着陸装置、翼のキャリースルー構造、
リアクションモーターズ社の6,000ポンド推力のロケットエンジン、
500ポンド以上の特殊飛行試験用計測器などがぎうぎうに詰め込まれています。


◆音速の「壁」


「X-1は、ボーイングB-29のボムベイから空中で発射された」

スミソニアンのHPにはこんなことが書かれています。

X-1は当初地上離陸用に設計されていましたが、最終的にすべてのX-1機は
ボーイングB-29またはB-50スーパーフォートレス機に懸下して、上空から発進
つまり空中発射されるということになりました。

XS-1にどんなエンジンを乗せるかについては、大変な議論の紛糾を経て、結局
リアクション・モーターズ社が開発中だったXLR11ロケットエンジンに決定します。

そのエンジンの推進剤は、安全性を最優先した結果、
従来使用されていた硝酸とアニリンではなく、
液体酸素とアルコールの組み合わせになったわけですが、
この組み合わせは、膨大な燃料を消費することがわかりました。

つまり安全を優先した結果、燃料を節約する必要があったということ、さらに
ロケット推進機を地上から運用することで性能低下が懸念されたため、
空中での発射という方法に計画は変更された、というのです。

THE RIGHT STUFF Chuck Yeager (Sam Shepard) breaks The Sound Barrier

映画「ライト・スタッフ」の音速突破シーンです。
「牽下された」というイメージだと、まるで糸で吊られている状態から
発射されたように思えますが(わたしだけかな)、映像のように
文字通り爆弾倉から落下されてそこから自力で飛ぶという方法です。

映画では計器のガラスが割れたりして緊張感満点ですが、
チャック・イェーガー自身は、この瞬間に拍子抜けというか、
がっかりした、とのちに語っています。



音速の壁というものが、破った瞬間にそれとわかる形で存在していると思ったのに、
つまりもっと衝撃波のようなものがあると思っていたら、
(本人曰く『パンチで穴が開けたときのような衝撃があると思っていた』)
ぬるーっと突き抜ける感覚しかなかった、つまらんかった、ということですね。

英語では実際にはこう言ったようです。

"Later, I realized that the mission had to end in a Let-down 
because the real barrier wasn't in the sky
but in our knowledge and experience of supersonic flight."

(その後、私は失望のうちに任務を終了させることになった。

なぜなら、本当の”壁”は空に存在するのではなく、
我々の超音速飛行への知識と経験のうちに存在するものだったからだ)

そりゃ普通そうだろう、としたり顔で言う人は、改めて
コロンブスの卵の逸話を思い出してみると良いかと思われます。

それはその瞬間まで、最初にやったものにしかわからないことでした。

X-1が音速を突破するまでは、人々はそもそも
人類には音より速く飛ぶことができるようになるとさえ思っていなかったのです。


歴史を刻む朝、X-1の前に立つイェーガー

しかし、1949年1月5日、チャック・イェーガーが操縦するX-1#1、
グラマラス・グレニスは、ムロック・ドライレイクからの地上離陸に成功しました。

X-1#1の最高速度は、1948年3月26日にイェーガーが飛行中に達成した
40,130フィート(約957mph)でのマッハ1.45です。

その後、1949年8月8日、アメリカ空軍のフランク・K・エベレストJr.大佐
高度71,902フィートに達し、最高高度を達成しました。

その後、1950年半ばまで、委託業者による19回のデモンストレーション飛行と
59回の空軍試験飛行が続けられることになります。

◆スミソニアンのXS-1




1950年8月26日、空軍参謀長ホイト・ヴァンデンバーグ元帥は、
スミソニアン博物館長官ウェットモアにX-1 の1号機を贈呈しました。

そのとき、元帥は、

「X-1は、航空時代の最初の偉大な時代の終わりと、
2番目の時代の始まりを告げるものである。

亜音速の時代は一瞬にして歴史となり、超音速の時代が誕生したのだ。」

と述べています。

これに先立ち、ベル・エアクラフト社のローレンス・D・ベル社長
NACAの科学者ジョン・スタック氏、
空軍テストパイロットのチャック・イェーガー氏は、
音速を初めて超え、超音速飛行の実用化への道を開いた功績により、
1947年にロバート・J・コリアー・トロフィーを受賞しました。

◆ X-1の”レガシー”

X-1実験は超音速飛行の課題を解決しましたが、
誰もが期待する変革を生み出すことができたわけではありません。

音よりも速く飛ぶことは軍事用途を除いて費用が高すぎたため、
民間の超音速の時代はあっという間に終わってしまいました

しかしながら、遷音速及び超音速の実験によって収集されたデータが、
新世代の亜音速民間旅客機を、より安全で効率的なものにし、
後世に生かされることになったのは、今日を生きる全ての人の知るところです。


続く。




アメリカ初のジェット機XP-59A〜スミソニアン航空博物館

2022-03-22 | 航空機

「宇宙からのスパイ」シリーズを終わり、ここからは新シリーズです。

スミソニアン航空宇宙博物館のゲートを入ると、最初に現れるのが
このボーイングがスポンサードした歴史的航空機を展示する巨大なホールです。

「これらは、創意工夫と勇気、戦争と平和、政治と権力、
そして社会と文化の物語を語るものです。
これらのマイルストーンは、私たちの地球を小さくし、

宇宙を大きくしてきました」

こんな言葉で紹介されるホールには、

リンドバーグが大西洋単独横断を行った スピリット・オブ・セントルイス

アメリカ初のジェット機 ベルXP-59Aエアラコメット

チャック・イェーガーが初めて「音の壁」を破った ベルX-1

ジョン・グレンが乗った水星カプセル フレンドシップ7

マリナー、パイオニア、バイキングの惑星探査機、

民間開発で初めて宇宙に到達した スペースシップ・ワン

など、人類の航空・宇宙史にとって記念碑となる機体が展示されています。
当シリーズの新シリーズでは、このマイルストーン、
歴史的航空機を順に取り上げていくことにします。


◆ Bell XP-59A Airacomet
ベル・XP-59A エアラコメット
「アメリカ初のジェット機」



時代順でいくと、「スピリット・オブ・セントルイス」が展示の最古となりますが、
そちらはチャールズ・リンドバーグについて語る時のために置いておいて、
当ブログでは最初に、アメリカ初のジェット機となった、ベル社の
XP-59A エアラコメットをご紹介することにします。


【ジェット開発の遅かったアメリカ】

XP-59Aは、アメリカが開発した初のジェット機です。

以前もスミソニアン博物館の世界のジェット機開発シリーズで取り上げましたが、
ジェットエンジン開発の発祥はイギリスであり、ドイツがそれに追随しました。

具体的に運用に至ったのはイギリスのグロスター流星戦闘機中島の菊花など。
特にドイツはジェット推進機で当時世界のトップに立ち、
メッサーシュミットMe262ジェット戦闘機、
アラドAr234ジェット爆撃機
が実用化されていました。

それに対し、アメリカのジェット推進の分野への参入はかなり遅かったため、
第二次世界大戦中の1942年にはもう初飛行を済ませていたものの、
ご存知の通り戦闘に投入されることはありませんでした。

当時のアメリカがジェット機開発を急がなかったのはなぜだったのでしょうか。

それは、目の前の戦争に勝利することに集中していたアメリカが、
より迅速に、今そこにある戦争に貢献できる従来型の設計を大量生産し、
実戦に投入することを、何より優先していたからでした。

このことは結果的に賢明な判断だったと言われることになります。

なぜなら、アメリカ以外の、大戦中にジェット推進を推し進め、
第二次世界大戦に投入したいずれの国も、その斬新すぎる技術を持て余し気味で、
運用に漕ぎ着けることはできても実戦に際し問題があまりにも多く、
結局ジェット機で戦争に目立った影響を与えることはできなかったからです。


その点アメリカは、戦後にドイツの科学者を引き抜くなど、
後発ならではの手段を使い、改めてじっくりと問題に取り組むことによって、
アメリカ陸軍航空隊(AAF)とアメリカ海軍に貴重な経験を与えると共に、
ジェット機エンジンにより高度な設計への道を開くことを可能としたのでした。

今日ご紹介するのは、そんなアメリカが、のちに後発のデータの積み重ねで
ジェット推進の先進国への道を踏み出す前の、歴史的航空機です。


【初飛行】

ベル社のテストパイロット、ロバート・M・スタンレーが、
アメリカ初のジェット推進航空機であるこのXP-59Aで飛行したのは
1942年10月1日のことでした。


初飛行を行うエアラコメット

ベル社は革新性で定評があり、リスクを最小限に抑えながら
新しいタイプのエンジンを組み込み、従来の機体デザインを踏襲しました。

大きくと厚みのあるミッドウィングは、ハイパフォーマンスより
安定したハンドリングを優先した戦闘機といったデザインでしたが、
この機体は、大変残念なことに、テストプログラムの結果、従来の
ピストンエンジン機よりパワー不足で、低速
であることが証明されました。

そのためXP-59Aは戦闘に投入されることはなく、
高度な練習機としてのみ、陸軍航空隊と海軍にジェット機操縦技術の
貴重な体験を与えるだけにとどまりました。

しかしながら、これはここから何世代にも亘るアメリカ空軍と民間ジェット機への
源流ともいえる、歴史的な存在であることは否定できません。


【ジェットエンジン推進委員会設立】

ここで時間を一度巻き戻します。

1930年代半ばになると、アメリカの技術者たちは、時勢を受けて、
航空機にジェットタービンエンジンを応用させることを真剣に検討し始めました。
戦争が始まると、それらの取り組みは一層加速されました。

1941年、当時の航空参謀次長だったヘンリー・H・ハップ・アーノルド将軍は、
ジェット機推進を検討する特別グループとして、
陸軍航空隊、海軍航空局、国立標準局、ジョンズ・ホプキンス大学、
マサチューセッツ工科大学、アリス・チャルマーズ、
ウェスティングハウス、ゼネラル・エレクトリック
を選び、その代表による
「ジェット推進に関する特別委員会」が結成されることになります。

1941年4月、ジェット推進の先進国であるイギリスに渡ったアーノルドは、
そこでイギリスのエンジン開発技術者、フランク・ホイットル設計による
W.1Xターボジェットエンジンを搭載した
グロスターE.28/39ジェット推進試験機の見学を行いました。


ホイットル


グロスターE.28/39ジェット推進試験機

帰国したアーノルドは、この技術を持ち帰り、アメリカ政府、陸軍航空隊、
ゼネラル・エレクトリック社の幹部やライト飛行場の技術者と情報を共有。

この結果、アメリカはジェットタービン航空機エンジン
(ホイットルの新型エンジンW.2Bのコピー)15基、および
ジェット機3機の製造を直ちに開始することになりました。

【製造企業の選定】

とはいえ、ホイットルエンジンの性能はあまり高くないとされたため、
新たに双発のジェット機を作ることが決まり、
エンジンの製造には、すでにグロスター機とホイットルエンジンに精通していた
ゼネラル・エレクトリック社が選ばれました。

そして新型戦闘機の製造はベル・エアクラフト社に決定したわけですが、
その剪定の背景にはいくつかの要因があったと言われています。

まず、当時、ベル社が比較的暇だったことです。
日本の某軍用機製造にもそんな経緯で選ばれた製造会社がありましたが、
ベル社もまた他のメーカーほど航空機の開発・生産に追われていませんでした。

そして、これはたまたま偶然としか言いようがありませんが、ベル社の所在地が
エンジンを請け負ったゼネラル・エレクトリック社の工場に近かった
のも、
ベル社が選ばれた理由の一つだったと言われています。

今と違い、物理的に両者の工場が近いということのメリットは多く、
例えば機体とエンジンの開発者間の情報交換もスムーズという理由です。



ベル社の創立者ローレンス”ラリー”・ベルの熱意と、
常識にとらわれない設計を実現させるという評判も選定の理由でした。

機体名はXP−59Aと決まりましたが、この名称は、
もともとベル社が提案したピストンエンジン戦闘機プロジェクトと同じでした。
極秘で取り行うこの仕事の本質を隠すのに好都合だったのです。

エンジンを担当していたゼネラル・エレクトリック社も同じような策略を使い、
アメリカ初のジェット機用エンジンをI-A型と名づけています。

当時、同社は航空エンジンの過給機をA〜Fのモデル名で製造していたため、
I-AのIはその延長、Aはシリーズの最初のバージョンと思わせることができます。

【製造のネックになったのは何か】

1941年9月、ラリー・ベルとチーフエンジニアのハーランド・M・ポイヤー
チームを結成し、アメリカ初のジェット機の設計に取りかかりました。

しかし、それはあくまでも「理論のための理論」に基づくものでした。

ゼネラル・エレクトリック社が最初のエンジンを完成させ、
試験が開始される予定は半年も先であったため、
さしものベルも、その性能特性を推測することしかできなかったのです。

実際、1941年10月にイギリスから出荷されたW.1Xエンジンも、
ゼネラル・エレクトリック社独自のバージョンも、
当初予測された出力レベルを発生させることはできませんでした。

もう一つ大きなネックになったのは、事柄上致し方ないとはいえ、
極度の秘密主義だったと言われています。
早急に結果を出すために強いられた緊急性も、プロジェクトには障害となりました。

例えば、機密保持の観点と、できるだけ早く飛行機を飛ばしたいという焦りから、
アーノルド将軍は当初、風洞実験を行うことすら禁止していたというのです。

流石にそれはいかんでしょということになり、オハイオ州ライト飛行場にある
低速風洞による実験だけは許可せざるを得なくなりました。

【実験〜ダミーのプロペラ】

最初の飛行実験においても、重視されたのは機密保持でした。

ベル社は最初のXP-59Aをオハイオからわざわざカリフォルニアに輸送し、
そこで最初の飛行試験を行ったわけですが、なかなか笑える偽装をしています。

実験機には機首にダミーのプロペラを取り付け、胴体に防水シートをかけて、
新しいピストンエンジン機に見せかけるといった涙ぐましい努力でした。


ダミーのプロペラが・・・泣けるというか笑える

もちろんプロペラをつけたままでは飛ばせないので、飛行直前に整備士が取り外し、
着陸後に再び取り付けるという面倒臭そうなことまでやっていました。

そして、1942年10月1日、ベル社のテストパイロット、ロバート・M・スタンレーがXP-59Aを初めて空へ飛ばす日がやってきたのです。



第一回目の実験で、スタンレーは着陸装置を完全に伸ばしたまま飛行を行い、
7.6m(25フィート)以上の高さを飛行しただけで着地しました。
7メートルって、ほとんど地面這っているとしか思えないんですがそれは。

その日さらに3回の飛行が行われ、最終的に30mの高さに到達しました。
実験がいかに慎重だったかということですね。

翌日、さらに4回の飛行を行い、高度3,048m(10,000フィート)が記録されます。


【しかしレシプロ戦闘機に勝てず】

この際、決して洗練されていると言えないXP-59Aの機体を、
最高速度628km/h(390mph)まで駆動させたのは、
ジェネラル・エレクトリック社のI-A型遠心流ジェットエンジン2基でしたが、
如何せん、この速度は敵や味方のピストンエンジン戦闘機の多くに勝てません。

そのため、YP-59A試験評価機13機が追加生産されることになり、
GE社が生み出したより強力なI-16(J31)ターボジェットエンジン
これらとその後のすべての量産型エアラコメットの動力源となります。

後方から見たP-59のI-16エンジン

13機のYP-59Aは、1943年6月にムロックで飛行試験を行うために到着し、
このうち1機は14,512m(47,600フィート)の非公式高度新記録を樹立しました。

ベルは陸軍航空隊に自信満々で300機のP-59戦闘機の購入を提案しますが、
陸軍が発注を決定したのは、その3分の1の僅か100機のみでした。

確かに高度記録こそ出しましたが、依然としてP-59は
当時のノースアメリカンP-51マスタング、リパブリックP-47サンダーボルト
ロッキードP-38ライトニングといった戦闘機に明らかに劣勢だったからです。

最終的にベル社が完成させたエアラコメットは、
P-59Aが20機、P-59Bが30機の計50機のみに留まりました。

武装は37mmM-4砲1門と44発、50口径機関銃3門と1門あたり200発。
高度10,640mで最高速度658km/h(409mph)の飛行が可能でした。

実戦に使用されるには時期尚早と判断されたP-59Bは、
陸軍航空隊第412戦闘航空群に配属され、
AAFのパイロットに、ジェット機の操縦と性能の特徴を慣れさせるための
貴重な練習機となって、のちへとつながっていくことになるのです。


陸軍は練習機としてしか使用しなかったこの機体を
「未来へ続く戦闘機」として、大々的にリクルートポスターにあしらいました。

Hitch your future to this star
あなたの未来をこの星に繋ぐ

陸軍のリクルート宣伝担当のセンスが光ります。

【ジェット機の優位性】

P-59などの初期のジェット機は、この新しいタイプの
エンジンのパワーと効率を実証することになりました。

これらの進歩により、新時代のジェット旅客機が生まれます。
それ以降、空の旅は地球を小さくし、しかも誰もが利用できる値段に変わりました。

ジェットエンジンを搭載した軍の戦闘機は、必要に応じて超音速で飛行でき、
爆撃機や輸送機は広範囲にわたる距離に巨大なペイロードを運ぶことができます。


【ジェット機を操縦した史上初の女性パイロット】



アン・G・バウムガートナー・カール
(Ann G. Baumgartner Carl、1918- 2008)
は、テストパイロットとしてベルYP-59Aジェット戦闘機に乗り、
アメリカ女性初の米軍ジェット機操縦者となりました。

彼女は女性空軍サービスパイロット計画の一員として、
ライト飛行基地の戦闘機のテストセクションのオペレーション補佐官を務めました。

アメリア・イアハートを小学生のとき実際に見たのがきっかけで
飛行士を志した彼女は、医学部予科を卒業後、
イースタン航空広報部に勤務しながら、飛行学校に通い技術を学びました。

その後、女性空軍サービスのパイロットとして
砲兵訓練基地のレーダー追跡標的機を操縦する任務につき、
ダグラスA-24、カーチスA-25、ロッキードB-34、セスナUC-78、
スティンソンL-5などを操縦しました。

その後オハイオ州デイトンのライト飛行場に異動した彼女は、
戦闘機試験課の作戦補佐官兼テストパイロットとして
飛行することが許されるようになりました。

ここで彼女が操縦したのは、B-17、B-24、B-29、
イギリスのデ・ハビランド・モスキート、
ドイツのユンカースJu 88などです。

そして、戦闘機試験部門に復帰後の1944年10月14日、
アメリカ初のジェット機であるベルYP-59Aを操縦し、
アメリカ女性初のジェット機操縦者となったので下。

ライト飛行場での戦闘機飛行テストパイロットとしての任務は、
WASP計画が解散された1944年12月に終了しています。

ちなみに、彼女の結婚相手は、
ツインマスタングP-82を設計した技術将校ウィリアム・カール少佐で、
出会いは飛行試験だったという・・・つまり職場結婚でした。

このカール少佐というエンジニアは、後に水中翼船を設計・製造しています。

【スミソニアン博物館のXP-59A 】


アメリカ初のXP-59A(AAFシリアルナンバー42-108784)は、
国立航空宇宙博物館に保存されているこの機体そのものです。

実は、歴史的初飛行の直後、陸軍は飛行試験データを記録するための
オブザーバーを同乗させることの必要性を認識するに至りました。

そこで、パイロットの前方にある銃座をオブザーバー用に改造し、
上部の外殻に20インチの穴を開け、この狭く開いた空間に
座席と小さなウィンドスクリーン、計器盤を取り付けたのです。



オブザーバー用シート設置の改装後、飛行テストは1942年10月30日に再開され、
AAFの残りの試用機は全てこの構成で飛行しています。


1944年2月、それはまだ戦争中のことでしたが、
エアラコメット・プロジェクトを担当していたアメリカ空軍の技術者が、
アメリカ初のジェット機を博物館展示用に保存することを思いつきました。

8月、陸軍はベル社に、最終的な処分が決まるまで機体をムロックに、
オリジナルのエンジンをオハイオ州のライト・フィールドに保管する計画を通知。

この時点で機体の飛行時間はわずか59時間55分というほぼ新品状態でした。

1945年4月18日、機体はスミソニアンに引き渡され、保存されていましたが、
1976年、国立航空宇宙博物館の開館前に、機体はオリジナルの形状に復元され、
オブザーバー用のオープンコックピットは取り外されることになりました。

そしてその歴史にふさわしく、初代エアラコメットは現在、
「マイルストーン・オブ・フライト」のギャラリーに展示されているのです。


エアラコメットをた操縦した女性パイロット、アン・カールに、
晩年のオーヴィル・ライトが語った言葉です。

「ジェットエンジンには実に心を鷲掴みにされましたよ。
何とシンプルな推進手段なんだろうか、とね」



続く。



キューバ危機とCIAのライトテーブル〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-20 | 歴史
前回のハッブル望遠鏡で全部終わったと思ったスカイスパイシリーズ、
なんと、紹介し忘れていたログがありました。

最後を華々しく宇宙望遠鏡で終わるつもりが、このミスによって、
シリーズ最後に紹介するのは「机」になってしまいました。


スミソニアン博物館の「スカイスパイ」航空偵察のコーナーに、
どう見てもコクヨ製ですよね?的なスチールのデスクがあります。

このグリーンに塗装された金属製の昇降式テーブルの正体は、

940MC ライトテーブル
ボシュロム社製ズーム270光学系(S N.1651AA)

何の変哲もない写真解析デスクですが、歴史的に見ると
「ミサイル危機の遺物」と呼ぶべきものです。

ボシュロム社というと、コンタクトレンズが有名ですよね。
1653年に創業したジョン・ボシュとH・ロムの名前をとって
ボシュロム、らしいですが、アメリカの会社には珍しいネーミングです。

今でこそコンタクトレンズ会社と目されていますが、これは当社が
コンタクトレンズを発明し、特許を持っているからで、
他にもレイバンのサングラスや、シネマスコープなどを手がけています。

元々はレンズの会社で、第一世界大戦まではドイツからの輸入に頼っていた
レンジファインダーや魚雷管照準器などの光学兵器を、
ドイツに頼らず(ドイツが敵になってしまいましたのでね)
作る必要ができたことから、この方面で発展してきました。

ちなみに有名なレイバンのサングラスですが、元々は陸軍のパイロット用に
1936年に開発したデザインで、マッカーサーもご愛用でしたね。

■キューバ危機の「遺物」をめぐる不思議な物語



ところで、この写真は、1962年10月14日、偵察機U-2が撮影したもので、
場所はサンクリストバルのロス・パラシオス付近。
ちょうど画面の真ん中で「CONVOY」と示された点々は、
ソ連のMRBMの配備に近づくトラックの車列を撮影したものです。

撮影翌日に分析されたこの写真は、
キューバにソ連の中距離弾道ミサイル(MRBM)
があることを示す最初の証拠となりました。

このシリーズを始めてから、当ブログでは何度も
「写真解析者」Photo Inspectorという係?について言及していますが、
この頃の、CIAのフォト・インスペクターの職場にあったのが、
このテーブルで、彼らはここで偵察写真の解析を行ったのです。

さて、1962年10月15日月曜日の朝、そのCIAの写真解析者(PI)は、
国立写真通訳センター(NPIC)のライトテーブルを心配そうに見回していました。

それは、切迫した、不吉な雰囲気に見舞われた様子でした。

その中には、3フィートの解像度を持つ高画質な写真もありました。
この写真は、以前に当ブログでご紹介済み、リチャード・S・ヘイザー少佐
U-2機でキューバ上空を秘密裏に飛行して撮影したものです。


この写真の鬼畜ルメイの左側の・・・・

この人ね

写真は24時間前に撮られたばかりの、極秘も極秘、国家機密に類するもの。
この特別かつ極秘のミッションは、キューバ上空での一連の、
高高度・低高度偵察飛行の幕開けとなる快挙でした。

ヘイザー少佐は、CIAが改良したU-2を操縦して危険なミッションに参加した
2人の空軍パイロットのうちの1人でした。

彼らは、ハバナの西にある大きな「corridor(回廊)」を撮影するために、
カリフォルニア州のエドワーズ空軍基地から離陸しました。

余談ですが、先般のロシアのウクライナ侵攻で、
「人道回廊」という言葉が盛んにニュースに上がりましたね。

この回廊とこの時の回廊は同じ「コリドー」で、
ヒューマニタリアン・コリドー、(Humanitarian corridor)は、
人道上の援助、保護の対象となる通行路、という意味で使われており、この場合は、
中距離弾道ミサイルの配備のためにソ連がキューバに開いた通行路
という意味になろうかと思います。

さて、ヘイザー少佐らが乗ったU-2に搭載されたカメラの有効範囲は75マイル。
このスパイ任務で、彼は戦闘機の迎撃や対空防御に遭遇せずにすみました。

「誰も自分の名前が第三次世界大戦の始まりのきっかけとして
歴史に残ることを望まないだろうから」

そのこと(自分がソ連に発見されず攻撃されなかったこと)が心から嬉しい、
とヘイザー少佐がのちに語った、ということも一度ここで書きました。


ロッキードU-2偵察機に搭載されていたハイコン(Hycon)B型パノラマカメラ

帰還したU-2を、フロリダ州オーランド近郊のマッコイ空軍基地に着陸させると、
露光したフィルムはワシントンのCIAに直ぐ届けるために宅配便にで送られました。

この「宅急便で送られた」というのがどうにも悠長に見えて仕方ないのですが、
もちろんこれは民間の宅配業社など使ったわけではないでしょう。
フロリダからワシントンまで、陸軍の連絡便が飛んだのではないでしょうか。

さて、それからが大変です。

その日は日曜ですが、もちろん誰も休みなんか取っている場合ではありません。
おそらくですが、その日家に帰った者はなく、なんなら徹夜もしたでしょう。

そして技術者たちは、その日の午後から夜にかけて、
透明なアセテートのポジにネガを転写する作業に集中することになりました。

月曜の朝(ほらやっぱり徹夜)、この貴重な画像はNPICの分析室に届けられ、
それから次は主任研究員たちは熱心に、そして考えうる限り丹念に、
この驚くべき写真のキャッシュを精査し、その作業はその日の夜まで続きました。

そして、その結果、

「ニキータ・フルシチョフが
キューバにミサイル発射場網を設置した」

この大胆な行動をとっていたことを示す、明確な証拠が可視化されたのです。


NPICで仕上がってきた写真を見た者は、皆、米ソの対決が目前に迫り、
冷戦のライバルである2国が核戦争の瀬戸際に立たされることを悟りました。

おそらく彼らは全員が慄然とし、次の瞬間青ざめていたことでしょう。

「サンクリストバル2号」と名付けられた発射場は、写真によると、
6台のミサイルトレーラーや積み上げられた機材、作業員用のテントなど、
建設中の痕跡をはっきりと残していたのでした。

第二次世界大戦中は海軍に所属し、日本とアリューシャン列島の航空写真を研究し、
写真解析の新しい技術を発展させたとされる、NPICの当時の所長
アーサー・ルンダール(Arthur C. Lundahl)は、
この画像をまさにこのライトテーブルで見たという人物です。


ルンダール所長(ちなみにシカゴ大学卒)

ソ連が中距離ミサイルSS-4の準備中であることは、彼の目にも明らかでした。

「もし、私の人生で何か正しいことをしたいと思った時があったとすれば、
それはまさにこれだった」


と、ルンダールは後に述べています。
そして、彼は、この重大な情報をCIA本部に連絡したのでした。


午後8時、国家安全保障顧問のマクジョージ・バンディにも連絡が入りました。

「マック」バンディ(ボストン・ブラーミンの家系生まれ、イェール大卒。
ボストンブラーミンはイギリス入植者の子孫でボストンの上流階級)

この厳しい、そして驚くべき報告を受けたバンディは、
大統領に行うブリーフィングを翌朝まで遅らせることにしました。

なぜこんな重要なことを、という気もしますが、この時点でことを始めると
大統領初めワシントンが徹夜になってしまうと思ったのかもしれません。
今晩徹夜しても明日の朝に始めても、おそらく結論に影響なしと見たのでしょう。

知らんけど。

さて、ケネディ大統領は案の定パジャマ姿のまま、
火曜日の朝のブリーフィングでこの写真を見ていました。
そして、おそらくはこう言われたのでしょう。

"大統領、ロシアがキューバに攻撃用ミサイルを保有していることを示す
確固たる証拠が、写真で示されました。" 


キューバにあるソ連のミサイル基地の存在。

それはアメリカにとって実に不吉な兆候を表すものでした。
ミサイル発射場のいくつかは、2週間以内に核兵器で武装されるだろうという。

海岸からわずか90マイルのところにある発射場からミサイルが発射されれば、
10分以内に8000万人のアメリカ人が死ぬ、と専門家は警告を行いました。

このあとは歴史によく知られた話になります。

ケネディ大統領は、すぐさま特別執行委員会を組織して、
アメリカが取るべき適切な対応に対する協議を重ね、
軍事と外交の両面から、この危機を打開するための措置を試みました。

ケネディ大統領のとるべき道は、即刻ミサイル撤去を撤去させること。
このことは、アメリカ大統領として決して交渉には応じられない一点でした。

10月21日、ケネディはキューバの「quarantine」(封鎖)を命じます。
ミサイル基地への攻撃、キューバに侵攻する計画さえも否定しないという意味です。

10月22日午後7時、テレビ演説を行い、全国民に今ここにある危機を知らせました。

「キューバから西半球の国に向けて発射される核ミサイルは、
ソ連による米国への攻撃と見なし、
ソ連に完全な報復を行うことこそが、この国の政策である」


「検疫(封鎖)の強化」とは、つまり
キューバに向かうソ連船を阻止する可能性があることを意味します。

ソ連はどう出るか。
世界の命運を握るのは、どちらか一方の手に委ねられた「引き金」でした。

この危機は、10月28日、両大国が奈落の底からの一歩を踏み出すことに合意し、
終結を見ることになったのは、歴史の示す通りです。

具体的に、ソ連は、アメリカがキューバに侵攻しないということを約束し、
イギリスとトルコに配置されたミサイルを撤収するのと引き換えに、
キューバのミサイルの撤収に同意することで終結しました。

この、キューバ・ミサイル危機と呼ばれるこの未曾有の国難の震源地に、
「この」(つまりスミソニアンの)「ライトテーブル」があったのでした。



■CIAのライトテーブル



緑色に塗装された金属製の昇降テーブル1台、940MCライトテーブル1台、
ボシュロム社製ズーム270光学系1台(Sn.1651AA)で構成されています。


1962年、NPIC内のCIAライトテーブル


1962年、ワシントンD.C.にあるCIAの
National Photographic Interpretation Center (NPIC)の内部
右側がCIA専用台

この歴史的な偵察写真を解析したというだけ、と言って仕舞えばそれまでですが、
このライトテーブルの上で、まさにその歴史は激動を始めました。

キューバ危機から10年間経っても、CIAはこの "キューバ危機の遺物 "
(テーブルですが)を保存するための措置をずっと講じていたそうです。

その後1972年、危機から10周年を迎えるにあたり、CIAは
これらの遺物(写真)を31枚のパネルで特別展示したらしいのですが、
残念なことに、この展示は「非公開」であり、一般には公開されませんでした

一体、誰に見せたかったのか、何をしたかったのかCIA。
お役所体質のため「一般」の意味を取り違えていたんでしょうか。

その後1976年、アポロ11号の宇宙飛行士で、
当時スミソニアン国立航空宇宙博物館長を務めていたマイケル・コリンズが、
当時CIAに保管されていた展示(内輪しか見られなかった)を見る許可を得ました。


宇宙飛行士特権を濫用した人

コリンズはキューバ危機に対する一般の理解を深めるための、
多くの写真やグッズ・・使用された写真のネガの複製、歴史的なU-2カメラ、
パイロットスーツ、脱出シート、生存者の装備、写真解釈装置などに
大変衝撃を受けたとされます。

そして、コリンズの訪問からわずか1ヵ月後、CIAの科学技術担当部署は、
展示品の一部をスミソニアン博物館に寄贈移管することを通知してきたのでした。

コリンズが宇宙飛行士でなければ、もしかしたら
この件は違う道を辿っていたかもしれません。


■ライトテーブル博物館へ



1977年、博物館の倉庫に、ライトテーブルと他の14点の遺品が到着しました。

スミソニアン博物館側は、CIAとのやり取りの中で、
ミサイル危機の遺物を将来的に展示することに関心を示していたため、当初、
ライトテーブルはワシントンDCのナショナル・モールにある博物館に来ました。

しかしどうにも展示計画にライトテーブルがなじまなかったため、
1980年代半ばから2011年まで、博物館はライトテーブルを実用に使っていました。

多くのボランティアが、一連の書籍に関する資料や写真を整理する際に、
ライトテーブルをがっつり使用してそれを行ったというのです。
歴史的遺物としてCIAから譲られたのを普段使いしていたってことですね。

その結果、一連の展示物に必要な文書や写真の整理、参考文献の整理、
カセットテープのコピーなども行われましたし、アーカイブ作業を
このライトテーブルは「見守ってくれた」そうです。

スミソニアンの学芸員たちは皆、アメリカ史におけるライトテーブルの歴史的意義に
深い敬意を払い、畏敬の念さえ抱きながら毎日使っていました。
それは、彼らの仕事場に独特の雰囲気をもたらしていたそうです。




さて、ここからは、ちょっと余談めきますが、
今の世界でも同じようなことがどこかで起こっているのかもしれない、
と思い、少しこの頃のスミソニアンでのある出来事を書いておきます。

1980年代後半、スミソニアンの航空部門の関係者は、展示の関係から
ソ連大使館のエアアタッシェメントの訪問を日常的に受けていました。

キュレーターの中にはロシアの航空史を専門にしている者もいて、
あるいはワシントンでのコネクションを作るという心算があったかもしれません。
(もちろん平時であれば、そんな大げさな、と言われそうな話ですが)

その頃、ソ連大使館の関係者たちは何かと博物館にやってきて、
話をしたり、図書館で調べものをしたり、時には昼食を取ったりしていました。

彼らがオフィスを訪れたとき、そのうち一人がキューバ危機の歴史的な遺物、
つまりライトテーブルの隣の椅子に、たまたま座ったことがありました。

そのとき、スミソニアンの学芸員はその「遺物」の何たるかを、
嬉々として説明し、ソ連の人々は興味深くそれに聞き入ったそうです。

しかし、その後、スミソニアンを訪問していた3人のエアアタッシェのうち2人は、
スパイとしてアメリカから追放されることになりました。


1962年10月にキューバ上空で撮影されたU-2写真を
CIAのアナリストが検討するために、
ライトテーブルと光学系とともに使用した昇降テーブル。

このライトテーブルは、キューバ危機と今生きる人を具体的に結びつけています。
1962年10月15日の数時間、この何の変哲もないテーブルが、
まさに歴史の分岐点となったのです。


スカイスパイシリーズ、本当に終わり







キング・オブ・スカイスパイ ハッブル宇宙望遠鏡〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-17 | 歴史

スミソニアン博物館の「スカイ・スパイズ」のシリーズ、
スミソニアンでは決してそうと標榜しているわけではないですが、
流れ的にこれこそが「宇宙からの眼」の集大成ではないかと思い、
最後に、ハッブル宇宙望遠鏡の展示で締めたいと思います。

宇宙望遠鏡は空中からの偵察などという狭義の物ではなく、もっと純粋な、
そう、アメリカがずっとその偵察衛星の歴史で標榜してきたが如き、
人類の科学技術の発展のためのものであることに間違いはありませんが、
小さな小さな人工衛星から始まった「宇宙の眼」の技術が発展した
一つの究極の形であることは確かだと考えるからです。

それでは参りましょう。

■ ハッブル宇宙望遠鏡

ハッブル宇宙望遠鏡(HST、Hubble)。

1990年に地球低軌道上に打ち上げられ、現在も運用されています。
もう稼働を始めて32年になるわけです。

史上初の宇宙望遠鏡ではありませんが、これまでで最大であり、
最も用途の広い望遠鏡の一つであり、重要な研究ツールとして、また、
地球の大気に邪魔されない環境で天文学の広報活動を行う重要な設備です。

宇宙望遠鏡は1923年にはすでに考案が始まっていました。

ハッブル以前の宇宙望遠鏡には、1983年にNASAとオランダ、
イギリスが共同で打ち上げた赤外線天文衛星、IRASというのがありました。


IRAS Infrared Astronomical Satellite


ハッブル望遠鏡は、天文学者エドウィン・ハッブルの名にちなんでつけられました。

【ガチの天才】宇宙を広げた超人 「エドウィン・ハッブル博士」の天才っぷりがヤバすぎる【ゆっくり解説】

ついにゆっくり解説という禁断の領域に手を出してしまう当ブログである

ハッブル以降打ち上げられた宇宙望遠鏡、

チャンドラX線観測衛星(1999-現在)
スピッツアー宇宙望遠鏡(2003-2020)


などとともにいまだにNASAの大観測所の1つとなっています。

ちなみに我が国がこれまで運用した天文衛星は、

X線天文衛星 「すざく」 (ASTRO-EII)
赤外線天文衛星 「あかり」 (ASTRO-F)
太陽観測衛星 「ひので」 (SOLAR-B)
惑星観測衛星「ひさき」(SPRINT-A)

で、「ひので」「ひさき」は現行運用中です。

■打ち上げ直後にトラブル発生!


ハッブル望遠鏡は1970年代にNASAが資金を提供し、
欧州宇宙機関からも寄付を受けて建設されました。

1983年の打ち上げを目指していたのですが、技術的な遅れや予算の問題、
そして1986年のチャレンジャー号事故のためプロジェクトは難航しました。


これが宇宙望遠鏡の「主鏡」です。

ハッブルは 2.4m の「鏡」を持ち、5 つの主要な観測機器で
紫外線、可視光線、近赤外線の電磁波を観測しています。

1990年にようやく打ち上げられたハッブルですが、配備された直後に
主鏡の取り付けに失敗していたことがわかりました。
具体的には、間違った研磨のせいで球面収差が発生してしまったのです。

球面収差とは、これも簡単にいうと、形状が歪だと、
鏡の端で反射した光が中心とは違うところに焦点を結ぶということです。
焦点がずれると光が損失し、暗い天体の高コントラストの撮像に影響があります。

このミラーの欠陥の実態は人間の髪の毛の50分の1レベルだったそうですが、
それでも球体収差はハッブル望遠鏡にはあってはならないことでした。

そこで、主鏡の補正のために、NASAのエンジニアたちは、
それこそ欧州宇宙機関をも巻き込んだ危機管理会議を開いて検討しました。

問題となったのはどうやって現行の狭いチューブに、
補正光学レンズ、そしてミラーを挿入するかでした。

この時、エンジニアの一人ジェームズ・クロッカーがシャワーを浴びていて、
ホテルのシャワーヘッドが垂直のロッドを移動するのを見て思いついたのが、
(向こうのシャワーは壁に直接ついているタイプが多い。
これはおそらく壁に取り付けられて高さだけがスライドできるものだったと思われ)

「必要な補正部品をこのような装置(つまりシャワースライド?)に搭載し、
筒の中に挿入してからロボットアームで必要な位置まで折り畳み、
副鏡からの光線を遮って補正し、様々な科学機器に焦点を合わせる」

というアイデアだったそうです。

なんかよくわかりませんが、少なくともこれ、
日本のホテルのシャワーなら思いつかなかったことは確かですね。

そこで、クロッカーはアメリカに帰ってから
Corrective Optics Space Telescope Axial Replacement (COSTAR)
つまり補正光学宇宙望遠鏡軸上交換装置
の開発を進めました。
(軸上、というのがシャワーの取り付け軸のことだと思う。知らんけど)

NASAの宇宙飛行士とスタッフは、COSTARの開発とその設置方法、
もしかしたらこれまでで最も困難なものになるであろうミッションの準備に
11か月を費やしました。(逆にたった11ヶ月でできたのかという説も)

そして1993年12月、スペースシャトル「エンデバー」に乗った7人の飛行士が
HSTの最初のサービスミッションのために宇宙に飛び立ちました。

このエンデバー、STS-61はワンミッション。
つまり打ち上げ、ハッブル望遠鏡の修理、以上、でした。

髪の毛の50分の1の傷のために一体いくら使う気なのという気がしますが、
それだけハッブルの修理は最優先課題かつ大ごとだったということです。


ハッブル望遠鏡修理のために宇宙に行った人々

STS-61 Mission Highlights Resource Tape, Part 2

おそらく最終日、飛行8日目、5回目の宇宙遊泳のフィルムです。

1時間もかかるので全部みっちり見たわけではありせんが、
大体15:00〜から船外作業が始まり、35:00ごろには作業が終わって、
CAPCOMの女性がお礼を言って、43:00ごろ修理箇所が写り、
47:27にCAPCOMが「フロリダ上空のすごい映像が映っています」と報告し、
最後に男性のCAPCOMがプロフェッショナルな仕事でした、
我々はあなた方を誇りに思う、と褒め、最後に
"We wish you Godspeed in a safe trip home."(無事帰還を祈ります)
と眠そうに(この人はサブで、メインは夜中なのでいないみたい)言っております。

これだけ見ると1日で簡単に修理ができたようですが、修理には
史上2番目に長時間となる7時間50分の滞在を含む計5回の船外作業を要しました。


ハッブル宇宙望遠鏡とディスカバリー(下)。
これは1997年の2回目の整備ミッション中。
太陽光の中に持ち上げられています。

このサービスミッションにより、ハッブルの光学系は本来の品質に修正されました。
ハッブル望遠鏡は、宇宙飛行士が宇宙でメンテナンスできる唯一の望遠鏡です。

5回のスペースシャトルミッションで、観測装置など望遠鏡のシステムの修理、
アップグレード、交換が行われてきました。

5回目のミッションは、コロンビア号の事故(2003年)の後、
安全上の理由から当初は中止されましたが、その後2009年に完了しました。

■ ハッブル望遠鏡の仕組み



1、後部シュラウド・ベント(AFT Shroud Vents)
望遠鏡内の科学機器の換気を行うためのベントです

2、バーシング・ピン(Berthing Pin)停泊ピン?
オービターのペイロード・ベイに取り付けられた
サポートシステムのラッチに装備されています

3、アンビリカル(Umbilical)臍の緒
ペイロードべいでの任務及び展開奏者中、オービターから望遠鏡に
電力を供給するから「臍の緒」

4、エレクトリカル・インターフェース・パネル
(Electrical Interface Panel)
メインとバックアップの「臍の緒」を接続します



他の望遠鏡と同様に、HST(ハッブル望遠鏡)には、
光を取り入れるために一端が開いている長いチューブがあります。

それは、その「目」が位置する焦点に光を集めてもたらすための鏡を持っています。
これが先ほどから話題になっていた「メイインミラー」です。

HSTはいくつかのタイプの「目」を持っています。
昆虫が紫外線を見ることができるように、人間が可視光を見ることができるように、
ハッブルは天から降るさまざまな種類の光を見ることができなければなりません。

具体的にハッブルが装着しているのはカセグレン反射望遠鏡というものです。

開口部から光が入り、主鏡から副鏡へと反射します。
副鏡は、主鏡の中心にある穴を通して光を反射し、その後ろに像を結びます。
入射光の経路を描いた場合、「W」の状態になることが必要です。

具体的には下の図をご覧ください。


焦点では、より小さい、半反射、半透明のミラーが
入射光をさまざまな科学機器に分配します。

HSTのミラーはガラス製で、純アルミニウム(厚さ10万分の7ミリ)と
フッ化マグネシウム(厚さ10万分の2ミリ)の層でコーティングされており、
可視光、赤外線、紫外線を反射します。
主鏡の直径は2.4メートル、副鏡の直径は30センチとなります。

ハッブル望遠鏡は地球の大気の影響を受けず歪みが生じない軌道を回るため、
地上と違い背景光が大幅に少なく、高解像度の画像を撮影することができます。

また、可視光だけで詳細な画像を記録することができ、
宇宙の奥深くまで見通すことができるのです。

ハッブル望遠鏡による多くの観測は、宇宙の膨張速度の決定など、
天体物理学の分野で画期的な進歩をもたらしています。


ハッブル望遠鏡は2020年4月で運用期間が30年を迎えました。
今後も2030年から2040年まで耐用できると予測されています。

もちろんそうなる前に後継機も用意されており、
ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)
2021年12月25日に打ち上げられたばかりですでに稼働中となっています。



このジェイムズ某望遠鏡がまた画期的でしてね。
太陽光や電磁波、赤外線がノイズになって影響を及ぼすのを防ぐため、
遮光板が必要となるのですが、これがその折り畳まれた遮光板です。
5層のレーヤーになっていますが、一枚は人の髪の毛の薄さしかありません。
物質が付着しないように、見学者はネットを被って見ていますね。


下から見たところ。
上に乗っている金色のものが主鏡で、望遠鏡の方式はカセグレン式です。

これ、何かを思い出しません?
そう、折り紙による紙飛行機ですよ。

ハッブルの100倍高性能! NASAが「オリガミ宇宙望遠鏡」の展開試験に成功

How NASA's $10 Billion Origami Telescope Will Unfold The Early Universe 

わたしの知り合いに、折り紙で有名な人がいるのですが、
彼女は科学系の学者が本業であり、NASAの先端宇宙技術にも
実は折り紙が使われていて、と昔話していたのを思い出しました。

このことだったんかしら。

JWSTは今後地球からおよそ100万マイル(160万km)の軌道から、
星、他の太陽系と銀河の誕生、そして
私たち自身の太陽系の進化に関する情報を明らかにするでしょう。

JWSTが搭載しているのは主に4つの科学機器です。
近赤外線(IR)カメラ、近赤外線マルチオブジェクト分光器、
中赤外線機器、そして調整可能なフィルターイメージャーです。

■ スミソニアンの”ハッブル宇宙望遠鏡”
ハッブル宇宙望遠鏡構造物試験機(SDTV)

ハッブル宇宙望遠鏡(HST)が建設されることになった1975年、
ロッキード・ミサイル・アンド・スペース社は実物大のモックアップを製作し、
さまざまなフィージビリティ(実行可能性)研究を行いました。

当初は宇宙船の取り扱い方法をテストするための金属製の円筒でしたが、
ロッキード社が実際の宇宙船を製作する契約を獲得するにつれ、
この試験体は研究に次いで進化を重ね続けました。

そしてこの試験体は、最終的に実際の宇宙船のケーブルや、
ワイヤーハーネスを製作するためのフレームとして使用され、また、
軌道上での保守・修理作業を開発する際のシミュレーションにも使用されました。

その後振動試験や熱試験など動的な研究が行われ、
ハッブル宇宙望遠鏡構造物試験機(SDTV)と正式に命名されたのです。


この試験機は、使用の役目を終えて1987年6月にNASMに寄贈され、
カリフォルニア州サニーベールのロッキード社で屋外に保管されていましたが、
そこで改修され、1976年当時の形状に復元されました。

そして1996年、シャトルから放出されるHSTの実物を再現するために、
SDTVは展示から取り外されてまたミッションに復活されることになりました。

この大規模なアップグレードは、ロッキード社、HSTの下請け業者、
NASAゴダード宇宙飛行センター、NASMスタッフとボランティアによって行われ、
光学望遠鏡アセンブリの機器部分、開口ドア、高利得アンテナ、ソーラーアレイ、
後部シュラウド手すり、その他多数の細部を製作することに成功しました。

主な追加作業は、現実的な多層(ノンフライト)熱ブランケットとテーピング、
インターフェースハードウェア、ウェーブガイド、そしてアンビリカルでした。

NASAは、アップグレードされた物体を床から劇的な角度で展示できるように、
大型の機器クレードルも提供して、今日スミソニアンで展示されています。

ハッブル宇宙望遠鏡は30年の月日を日夜稼働し続け、
次世代型望遠鏡JWSTの打ち上げによって引退を考える時がやってきました。

しかし、我々人類はハッブルの果たした務めを決して忘れてはなりません。
HSTの長年にわたる比類のない発見のおかげで、地球の大気圏外の様子が、
そこでの魅惑的な画像が、地球で一生過ごす誰にも楽しめるようになりました。

2つの渦巻銀河間のまれな配列から、銀河団間の強力な衝突まで。
ハッブル宇宙望遠鏡は天界の片隅で起こっていることを、
我々の住むこの地球に近づけることを可能にしたのです。



「ザ・スカイスパイ」シリーズ
終わり。




偵察衛星ガンビットとアメリカの諜報〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回、スミソニアン博物館の展示から、アメリカが冷戦時代に打ち上げた
ディスカバラー計画という名の実はコロナ偵察衛星に搭載された
コロナカメラをご紹介したわけですが、今日はもう一つの偵察衛星、

KH-7 GAMBIT in the house

について書いてみようと思います。

前回取り上げたコロナ計画が立ち上がったのは1960年.
対して、今日のガンビットKH-7が立ち上がったのは1963年です。

■セイモス計画と偵察衛星GAMBIT



1963年7月12日。
極秘の偵察衛星GAMBIT、別名エアフォースプログラム206の1号機
アトラス・アジェナロケットに搭載されてカリフォルニアの空に飛び立ちました。

ガンビットはアトラス・アジェナブースターを製造したコンベア社とロッキードが、
それまでの、何度もミッションに失敗してきたロケットに代わって、
初めて次世代ロケットシステムを使用して打ち上げられました。

あまりにも失敗が続くのでこれはNASAと空軍の打ち上げの手順が
バラバラだからではないかい?と第三者機関が勧告し、これによって
ブースターの材料やら試験方法やら手順を統一した結果だそうですが、
三軍バラバラで宇宙開発をやった結果、ソ連に先を越されたということに
反省はなかったん?と思わず突っ込んでしまいますね。

さて、GAMBITについて読んでいると、いきなりこんな文章にぶち当たりました。

GAMBITは、1960年にアメリカ空軍の
セイモス(SAMOS)計画の灰から生まれた

不死鳥のような存在である。

コロナ計画もガンビットも、そもそもそんな名前初耳だが、
とおっしゃる方はこれを読んでいる人にも多いかと思うのですが、
それもこれも、偵察衛星事案は国家機密だった期間が長かったせいです。

おそらく、セイモス(SAMOS)計画についてもご存知と言う方は稀でしょう。

わたしも、この偵察衛星について調べ出して以来、次々出てくる衛星の名前に、
一体この国はどれだけこの時期、偵察衛星をこっそり上げまくっていたのか、
とはっきり言って呆れております。

しかし、名前が出てきたからには説明しないといけませんね。
セイモス計画は、

Satellite And Missile Observation System, SAMOS, Samos E,
「衛星及びミサイル観測システム」


で、やはり1960年第初頭に開始されていつの間にかひっそり終わった計画です。

セイモス計画は、空軍主導で行われたさまざまな偵察衛星の開発を言います。
最初のプロジェクトは、セイモスE-1とセイモスE-2と名付けられました。

簡単にいうと、従来のフィルムで画像を撮影し、軌道上でそれを現像し、
ファックスに相当するもので画像をスキャンする「フィルム読取衛星」でした。

その際、空軍はリスクヘッジのため、「フィルム回収衛星」として
セイモスE-5、E-6なるものを運用する予定にしていたそうです。

その頃アメリカでは、ソ連のICBMのより解像度の高い画像を収集するために
GAMBIT衛星計画がアイゼンハワー大統領によって承認されました。

GAMBITは、イーストマン・コダック社が開発したカメラと、
ゼネラル・エレクトリック社が開発した衛星を使用し、
長時間録音可能なフィルムを搭載し、撮影後は再突入機に格納し、
それを地球に送り返すというシステムになっていました。

1963年初頭、GAMBIT計画は波乱万丈のうちにスタートしました。

最初の衛星はバンデンバーグ空軍基地でさあ打ち上げというとき、
ブースターに充填中の推進剤に気泡が発生し、排出バルブが損傷します。

このせいで、ロケット全体が地面に崩れ落ち打ち上げは失敗。

あーあー

火災や爆発こそ起こりませんでしたが、地面との衝撃でカメラが押しつぶされ、
レンズが破壊されたため、衛星はかなりの被害を受けます。

もちろんアメリカとしてはGAMBIT偵察衛星を乗せていることは秘密で、
関係者以外にはその姿を見られることなく終わりました。

何度も話していますが、アメリカは宇宙開発の陰で実は偵察を目的にしており、
「コロナ」をわざわざ「ディスカバラー」と言い換えたように、
セイモスの飛行も、一般には科学的なミッションとして宣伝されていました。

しかし、さすがにこれだけ度重なると、科学的なデータが得られなかった理由を
それらしく説明するのは難しくなってきました。

流石のアメリカも言い訳の種が尽きてきたのかもしれませんし、下手な嘘をつけば、
世界中からのツッコミは避けようがないと思ったのかもしれません。

そこでアメリカは嘘をつくのはやめました。

堂々と隠蔽することにして(おい)1961年末、ジョン・F・ケネディ大統領
偵察プログラムそのものを隠匿する=秘密のベールをかけるよう命じます。

1963年のGAMBITのデビューまでに、国防総省の発表には
「機密ペイロード」の打ち上げ以外の詳細は一切記載されなくなりました。

■アメリカの諜報活動は有人打ち上げを予測した


「The President Daily Briefing」

秘密といえば、このコーナーにはこんな資料もあります。
ジョージ・W.ブッシュ大統領時代のもので、ファイルの下方には
「トップシークレット」と書かれています。

50年以上、CIAが作成していた日報の表紙の写真ですが、
これは毎日のブリーフィングで取り上げられた重要な政治案件、軍事関係、
そして経済発展と世界情勢などに関するテーマが綴られています。

この日報を見ることができたのは、大統領とその側近など、ごく限られた人々のみ。

諜報機関(インテリジェンス・エージェンシー)は、1950年代以降、
外国の兵器システムから特定の国の政治的な発展に至るまで、
幅広い主題に関する国家諜報活動の見積レポートを作成してきました。

それらは、行政機関のほんの数人の高官、および軍関係者にのみ配布されます。



これはCIAの「レビュープログラム」。
日付は1960年の5月3日で、まさにこのGAMBITが打ち上げられた頃となります。

冒頭には、機密解除になった印にTOP SECRET
とわざわざ取り消し線が引かれています。

この国家諜報活動の見積(Estimate)は、そのタイトルも

「ソビエトの誘導ミサイルおよび宇宙船の能力」


黄色くハイライトされたところだけ訳しておきます。
この報告が、ある意味恐ろしいくらいその後の未来を言い当てています。

いかにアメリカの諜報能力がものすごかったかということでしょう。

我々はソ連が来年中には次に挙げるうちの一つ以上を達成できると考える

a. 垂直またやダウンレンジ飛行と有人カプセルの回収;

b. 無人の月面衛星または月面着陸;

c. 火星または金星の近くの探査;

d. 装備、動物、そしてその後、おそらく人間を乗せて
カプセルを軌道に乗せ、その後回収すること;

:(;゙゚'ω゚'):

1960年5月から始まったこの国家諜報活動の「見積」には、
ソビエトの試験飛行の監視、諜報活動に基づき、

「ソ連が来年中に人類を軌道に送り、宇宙に送って回収することができるだろう」

と書いてありますが、このまさに1年後の1961年4月12日、
ソ連はユーリ・ガガーリンを宇宙に打ち上げることに成功しました。

この諜報活動とその分析が正しいことが証明されたのです。
ここでふと思ったのですが、アメリカの諜報は、1957年当時、
スプートニクの打ち上げを全く予測できなかったんですよね?

つまり、アメリカのこの時点=1960年当時の諜報能力は、わずか3年で
ここまで相手の動向を手にとるようにわかるほどになっていたってことですよね。

うーん・・・やっぱりアメリカすごいわ。


これはもう少し時代が下って、1973年の国立写真解釈センターのレポートです。

このレポートは、エジプトの地対空ミサイルの種類と場所を
詳細に説明する内容となっています。

同センターはいくつかの諜報衛星からの画像取得ミッションに基づいて、
これらの内容のレポートを定期的に作成しました。

一部の報告には、U-2S R-71ブラックバードなど、
戦略偵察機から撮影された写真が組み込まれていて、
どちらの方法もいまだに現役であることを表しています。

■GAMBIT、その後



GAMBITの前には、アメリカの諜報活動についての資料として赤字で

「大統領と政策立案者に情報を提供し続ける」

と書かれています。
衛星偵察とは、まさにそういう目的のための発明なのです。


さて、GAMBITの打ち上げに失敗してしまったアジェナは、
その後修理のためロッキード社に送り返され、アトラス(201D)ロケット
1963年7月12日に最初のGAMBITミッションの打ち上げを行いました。

アトラスロケットは完璧な性能を発揮し、GAMBITを高度189kmの極軌道に投入。
空軍はこれをミッション4001と命名しています。


GAMBITは、長いチューブの両端に2枚の大きな鏡がついていました。
一方の鏡は、衛星の下の地面を筒の中に反射させ、もう一方の鏡に当て、
集光して筒の中の細いスリットに通された大きなフィルムに光を送り返します。

このカメラシステムは、高解像度で地上の細長い画像を露光することができました。



この図面では、ペイロードデータの「ステレオストリップカメラ」の型番、
その他見られてはまずい?ところが黒塗りされています。

GAMBITミッションは、その後何機かが成功したりしなかったり、
多くのミッションでは画像が不十分だったりそもそも画像がなかったり、
まあ結構な問題が発生していたようです。

当時の記録システムはワイヤ記録システムで信頼性に乏しく、
打ち上げたうち2機が太平洋の藻屑となっています。
それからバッテリーが爆発したり画像が戻ってこなかったり、
いくつもの失敗はありましたが、全体として見ると、これでも成功と言ってよく、
国家偵察局と大統領に質の高い情報を提供することができたとされます。


GAMBITは40機製造され、1967年6月に最後の1機が打ち上げられました。
2015年6月30日、ワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館に、
最後に残ったGAMBITの1機が展示されることになりました。

■NASMのGAMBIT

国立航空宇宙博物館で展示されているスパイ衛星「GAMBIT」。



1995年、CIAと米国の情報衛星を管理する国家偵察局は、
まずCORONAと呼ばれる最初の写真偵察衛星プログラムの機密を解除し、
スミソニアン博物館にCORONAカメラシステムを引き渡しました。



過去20年間、ワシントンDCの国立航空宇宙博物館で展示されてきたCORONAは、
飛行物体ではなく、プログラム後期のエンジニアリングカメラ1台と
モックアップの機材が含まれています。

CORONAが機密解除されると、情報当局は、それに続くシステムである
GAMBITとHEXAGONの機密解除を検討し始めます。
そして1996年には数年以内に両システムの機密解除を計画していました。

スミソニアン国立航空宇宙博物館で展示されているスパイ衛星GAMBITは、
1997年、当時の国家偵察局長官キース・ホールが博物館を訪れ、
大型偵察機数台を博物館に寄贈する計画について博物館関係者と協議を行いました。

ホールは寄贈するつもりのものが何かを伝えなかった(なぜかしら)と言いますが、
博物館の学芸員は置き場所を考えるために、その寸法を伝えました。

これはお互い口には出さなくとも通じ合っていて、
「スミソニアン、お主も悪よのう」「長官様こそ」みたいな?


その中には、ソ連邦の変化を探るためにエリアサーチを行った巨大な衛星
「HEXAGONカメラシステム」、そして
GAMBIT(ガンビット)衛星が含まれていたのです。

ヘキサゴンカメラシステムはまだスミソニアンで見ることができません。

ちなみに、この頃打ち上げられたKHと呼ばれる偵察衛星を、
まとめて最後に列挙しておきたいと思います。

 KH-1、KH-2、KH-3、KH-4 コロナCORONA


KH-6ランヤード LANYARD

KH-8ガンビット GAMBIT

KH-9 ヘキサゴン HEXAGON

KH-10有人軌道実験室(MOL)

KH-11 ケンナンKENNAN

KH-12

KH-13

続く。



衛星偵察:宇宙に浮かぶ秘密の目〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

「私たちは宇宙開発に350億ドルから400億ドルも費やしてきました。

しかし、もし衛星写真から得られる知識以外に、何も得られなかったとしたら、
それは私たちにとって、このプログラム全体にかかった費用は
10倍は高くついてしまったということになるのです。

なぜなら、今夜、我々は敵のミサイルの数を知りました。
我々の推測は大きく外れていたのです。

私たちは必要のないことをやっていたのです。
作る必要のないものを作っていたのです。
私たちは、持つ必要のない恐怖を抱いていたのです。」

リンドン・B・ジョンソン大統領、1967年



スミソニアン博物館の展示から、「スカイ・スパイズ」
空からの偵察の歴史についてご紹介してきたわけですが、
衛星からの偵察のコーナーの端が宇宙開発のゾーンと物理的に重なっており、
なるほど、色々と考えているなあと感心した次第です。

宇宙開発競争、それはロケットを飛ばすことによって可能となる
高所からの敵攻撃能力の誇示であり、かつ抑止力となるもののはずでしたが、
それは同時に、高所からの偵察の「眼」を持ちうるということも意味します。

スパイ衛星からの写真は、宇宙開発競争と冷戦の重要な遺産と言えます。
なぜなら偵察は宇宙飛行の最初の優先事項とされていたのでした。

■偵察と宇宙

1950年代半ば、ドワイト・アイゼンハワー大統領は、
ソビエト連邦による奇襲核攻撃の可能性を懸念していました。

このような不安を解消するために、アメリカには2つの選択肢がありました。

一つ、ソビエトに無断でスパイ活動を行うか
一つ、互いの軍事活動を監視する協定を交渉するか


そして、アイゼンハワー大統領は、その両方を試みたのです。

彼は1955年の国際リーダー会議で、ソ連とアメリカの偵察飛行を
互いに許可し合うという「オープンスカイ」提案を行いました。
どうせどっちもやってるんだから、もうお互いオープンにしない?というわけです。

しかし当然ながら、ソ連はこれを断固拒否してきました。

というわけで、航空機や気球による偵察には限界があり、
さらには外交交渉もうまくいかなかった、という理由を得たアメリカは、
スパイ衛星という新しい技術に活路を見出し、舵を切ることになります。

偵察機U-2

これについても既にお話し済みですが、1950年代には、航空機による
ソ連領土の探査や、カメラを搭載した偵察気球も、短期間ながら活躍しました。

中でもU-2は、特に高所からの偵察任務のために設計された究極の偵察機でしたが、
1960年5月、「U-2撃墜事件」によってアメリカの偵察行動が明らかになります。

U -2のパイロット、ロバート・パワーズは捕まり、スパイ容疑で裁判にかけられ、
ソ連の裁判で有罪判決を受け、シベリア送りになりましたが、
外交交渉で捕虜交換システムによって救出され、帰国することができました。

■ 「フリーダム・オブ・スペース」
「宇宙の自由」とは

偵察衛星の開発と投入は、国際法上の微妙な問題を提起することになります。
ここで人類は、こんな疑問について自問自答せざるを得なくなりました。

「宇宙は外洋のように万人に自由なのか。
それとも空域のように一国の主権的領土の一部なのか」

アイゼンハワー大統領らアメリカ首脳陣の考えは、前者でした。
宇宙は万民に自由であり、この考えが国際国際的に広がることを望んでいたのです。

歴史的に移民を受け入れて成り立ってきたアメリカらしい考えと言えますし、
穿った見方をするなら、アメリカの技術力を持ってすれば、
たとえ宇宙がフリースペースでも、そこで常に優位に立てる、
という絶大な自信と誇りが言わせたことだったかもしれません。

「宇宙の自由」を提唱したいアイゼンハワーは、1957年の

国際地球物理年(International Geophysical Year)
(日本語では国際地球観測年とされた)

を利用して、世界的規模による地球に関する科学的研究を行い、
この先例を作ろうと考えました。

アイゼンハワーは、スパイ衛星よりも議論の矛先に上がりにくそうな科学衛星を、
アメリカにとって最初の宇宙進出の対象にすることを決定し、
これを国際地球観測年計画の一部に組み込んだのです。
(あくまでもこれらは”表向き”の動きで、アメリカが偵察衛星打ち上げに向けて
裏で色々やっていたことは歴史の示す通り)

とかなんとかやっていたら、1957年末にソ連がスプートニクを打ち上げました。

アメリカはスプートニクにショックを受けながらも、1958年1月には
科学衛星「エクスプローラー1」が打ち上げ、
「宇宙の自由」への第一歩を踏み出すことになります。

【日本と国際地球観測年】

余談です。
この年、日本はまだ戦後6年でまだ独立していませんでしたが、
国際的地位の復活のために赤道観測を行うと協力を申し出ました。

しかし体よくアメリカに断られてしまったため、日本はその代わり
南極観測を行うことにして昭和基地を建設し、観測に協力しました。

その後国の威信をかけた南極観測隊を送り、昭和基地で始まった観測は、
「観測年の間だけ」という当初の予定を大幅に超えて、現在も継続されています。


■ ディスカバー/ コロナ
アメリカ初の偵察衛星

1960年から1972年にかけて、アメリカはコードネーム「コロナ」
日常的に宇宙からソ連を撮影する偵察プロジェクトを実施していました。

きっかけは、ここで何度もお伝えしている1960年の偵察機U-2撃墜事件です。

実はこのコロナ計画、ソ連に遅れを取っていると表向きでは言いながら、
実はかなりの実質的な成果を上げていたのでした。

実際、月への人類派遣に匹敵する困難なプロジェクトだったはずなのですが、
宇宙計画と違い、いかに成功しても、事柄の性質上その実態は
決して一般に知らされることはありませんでした。

U-2偵察の時もそうでしたが、偵察活動を大々的に宣伝するわけにいきません。
特に宇宙からのスパイ活動はシークレット中のトップシークレットした。

お互い様という気がしますが、アメリカもソ連も、冷戦中
最も警戒するべきは相手の核攻撃の進捗状態です。

アメリカにしてみれば「秘密主義」のソ連の核の実態を知るには、
鉄のカーテンの向こうで何が行われているかを知らないわけにいきません。

「コロナ」はその重要な答えとなったのです。

さて、ソ連がスプートニク1号を打ち上げた数ヵ月後の1958年初め、
中央情報局(CIA)と米空軍による偵察衛星プロジェクトが承認されました。

それは、簡単にいうと、カメラを搭載した宇宙船を軌道上に打ち上げ、
ソ連を撮影し、そのフィルムを地球に帰還させるというものでした。
この秘密スパイ衛星にCIAによって名付けられた名前が「コロナ」です。

しかし、その真の目的を隠すために、「ディスカバラー」と表向きに名付けられ、
科学的な研究プログラムであるという公式発表がなされました。

この辺は英語の語感がわからない外国人としてはなんとも言えないのですが、
「コロナ」より偵察がばれなさそうな、科学的なイメージがあるんでしょうか。


このコロナシステムで、1960年から1972年の間の100回以上のミッションで
80万枚を超える写真が撮影されたと言われています。

そしてその間も休みなく向上するカメラや画像処理技術を取り入れつつ、
コロナをはじめとする高解像度の偵察衛星は、アメリカの情報分析担当者に
ますます詳細な情報を提供するようになっていきました。


■ディスカバラー(実はコロナ)13号:最初の成功

とはいえ、アメリカの宇宙打ち上げ計画は当初失敗続きだったのはご存知の通り。

一回も成功しないまま、粛々と打ち上げ数だけが増えていた
ディスカバラー/コロナ・ミッションですが、これが初めて成功したのは、
1960年8月、実に13回目の打ち上げ実験でのことでした。

この時初めてアメリカは衛星から帰還カプセルを軌道上から回収したのです。

ディスカバラー14号がカメラを軌道に乗せ、宇宙から撮影した
米国初のソ連領の写真が入ったカプセルを帰還させたのはそれから1週間後でした。


アイクとディスカバラー13号カプセル(カレー鍋じゃないよ)


ほおこれがアメリカ国旗か〜(横の軍人たちの目よ)


宇宙から撮影された米ソ初のスパイ写真



ディスカバリーという名前のコロナ計画の偵察衛星が初めて撮った、
宇宙船から撮影されたソ連軍用地の最初の写真は、
チュクチ海近くのミス・シュミッタにあるシベリアの航空基地でした。

高度160km以上から撮影されたもので、約12mの物体が写っています。
ディスカバラー14のフィルムは、それ以前に行われたU-2航空機による偵察で
得られたすべて合わせたよりも多くのソビエト領土をカバーすることができました。

「宇宙の自由」を謳うことによって、アメリカは何の気兼ねもなく?
U-2が見舞われたような国際非難とパイロットの危険もなく、
それ以上の情報を手に入れることができるようになったのです。


■コロナのミッション



冷戦時代、アメリカはソ連の核兵器の脅威について
常にを正確に把握することを至上目的としていました。

もし長距離弾道ミサイルが発射されれば破壊的な到着までわずか数分しかないため、
安全保障的に、兵器設置場所に関する正確でタイムリーな情報を
できるだけ早く入手することが必要と認識したのです。

このため、「コロナ・カメラ計画」が発動されました。


ロケットで軌道上に打ち上げ、目標地域の上空に送った衛星に
ソ連の施設の画像を撮影し、送信するようにカメラを仕込むのです。

プロジェクトの目標は、軌道上から地球の広い範囲を詳細に撮影することでした。
そのためには、プロジェクトチームがクリアする必要があったのは
3つの大きな技術的課題でした。

1、時速27,000kmで移動しながら、地表から高度160km以上から
高画質な写真を撮影できるカメラを設計すること

2、カメラを安定させなければいけない 特定の場所を鮮明に撮影すること

3、撮影したフィルムは地球に持ち帰ること

割と当たり前のことばかりですが、それが簡単にできれば誰も苦労しません。
それを達成するために、コロナの技術開発・運用には、
実に数十社の企業と数千人の人々が秘密裏に取り組んでいました。


■コロナのカメラ

カメラは回転することで高解像度のパノラマフィルム画像を生成しますが、
当時はまだ取得した情報を利用するためには、
露光したフィルムのリールを回収して処理する必要がありました。

そのため、パラシュート型のノーズコーンにフィルムを収納し、
大気圏に突入してから空中にあるうちに確保していました。

このように、技術的にも戦略的にも大変複雑なものでしたが、
これらは功を奏し、1959年から1973年までの間に、
何百回ものフライトによってソ連の活動を知ることができました。

戦争につながるかどうかという不確実性から緊張を緩和することができたのです。


コロナカメラシステムの本体の向こうには、
アイゼンハワーが宇宙から戻ったディスカバラーを開けるお馴染みの写真が・・・。

このお釜は、「ディスカバラー計画」の回収されたリターンカプセルで、
つまりコロナ計画の原初的な作戦として、ソー・アジェナロケットで打ち上げられた
わずか750kgの人工衛星でした。

この頃の「失敗」は、つまり大気圏突入後の回収がほとんどで、
機密保持のためにカプセルはしばらくしたら水没する仕組みになっていました。

ソ連もどういうわけかこの情報を知っていて、
カプセル落下地点で潜水艦が待ち構えているのがわかると
直前で中止されるなど、お互いそれこそ水面下での熾烈な戦いがありました。

カメラの説明は以下の通り。

「KH-4B カメラは1967年から1972年までコロナ衛星に搭載されて
世界各地の偵察写真を撮影し続けた」

カメラ製造元 Itek
フイルム持ち帰りカプセル製造元 ゼネラル・エレクトリック
打ち上げ機 ソー・アジェナ(Thor-Agena)
打ち上げ機製造元 ダグラス(ソー)ロッキード(アジェナ)


まずはコロナを打ち上げたKH-4Bコロナ衛星です。
KHはKey Holeのことで、鍵穴=「覗き見る」からだとか・・・。

中が覗けるキーホールなんておそらく当時はもう存在しないんですが、
まあ隠喩的というかこの言葉が「覗き見」のイメージなんでしょう。

そしてこの衛星の先っぽの部分が、目的たるカメラです。



(先端から左回りに)
#1 フィルム返還カプセル
#2 フィルム返還カプセル
コンスタントに回転しているステレオ・パノラマカメラ
フィルム補充カセット
フィルム通路


この、「コンスタントに回転するパノラマカメラ」というやつが
どう回転するのかわからんのですが、まさか360度回転?


スミソニアンHPのもう少し詳しい図



この部分なんですけど、どうも複雑な回りかたをするようです。


スミソニアン協会の国立航空宇宙博物館にあるこれは、
現存する唯一のコロナカメラです。
(コロナカメラと打とうとすると、途中でコロナ禍と出てしまう今日この頃)

スミソニアンはこのカメラの評価と保存を請け負うことになり、
パーツをまず分解した後、フィルムキャニスター、ノーズコーン、
フィルム搬送装置、熱シールドが、処理前にスタジオで調査されました。

その後、掃除機と中性洗剤で汚れを除去し、
その際腐食した材料は除去され、保存処理がなされました。
劣化した金属も、金属光沢剤と腐食防止剤で慎重に処理され、
バッテリーの端子は洗浄し、劣化が進行しないように分離。

金メッキされたノーズコーンは、クリーニングと研磨が行われ、
熱シールドは洗浄、安定化、充填、インペイントが行われました。

ちなみに、このカメラで撮影した写真には、地表の2mの物体も写ります。
今ではそんなの当たり前どころかもっと小さなものも写りますが、
最初のこの技術があったからこそ、現代の技術へと繋がっているということを
我々は忘れてはいけないかもしれません。(適当)

処理された部品は、博物館に戻され、
クライアントによって処理されたフレームに再び設置され、
スミソニアンに展示されて今日に至ります。

続く。




宇宙からの「スパイ」とシギント収集艦「オックスフォード」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

実は「スカイ・スパイ」のシリーズを前回をもって一旦終わったと思い、
その他のスミソニアン博物館の「マイルストーン」(歴史的)航空機とか、
宇宙開発で打ち上げたカプセルなんかについての説明ログを制作していたわたし。

まだ扱っていない「スカイスパイ関係」展示があるのに気がつき、
慌ててこれを取り上げる次第です。(何か不備があったらすみません)

なぜこの部分を積み残してしまっていたかというと、
スミソニアンの展示配置にその原因があって、「スカイスパイ」の展示と
宇宙開発展示の合流?するところに、この「宇宙からのスパイ」があり、
わたしはこれに気がつかないまま別のコーナーに移ってしまっていたのです。


まあ、そもそもアメリカの宇宙開発の最終目的は偵察にあったわけですから、
この二つのコーナーに重なる部分があっても当然だったんですけどね。

スミソニアンには偵察衛星のモジュールや宇宙カメラや、
何ならハッブル望遠鏡まであったりするのですが、
これらは「スカイスパイ」なのか、「宇宙開発」なのかと言われても
どちらにも当てはまるカテゴリなので、このパネルを見つけて初めて
このコーナーが「スカイスパイ」の最後であることに気がついたというわけです。

ちなみに、パネルの向こうに見学している人の足が写りこんでいますが、
ちょっと現地の雰囲気をお伝えできるかなと思って?トリムせずに挙げておきます。

■スパイイング・フロム・スペース

宇宙からのスパイ、つまり偵察ですね。
日本語ではスパイとは「スパイする人」という意味でしかありませんが、
英語だと普通に偵察です。

まずはこのパネルのメインの文言には衛星偵察についてこのように書かれています。

「衛星偵察プログラムは、秘密裏にされてきました。

一般の人々が一部とはいえそのことを知り得たのは、
1960年以降のこととなります。

アメリカは、第二次世界大戦以来、偵察に使用していた航空機、船舶、
そして地上のステーションを増強するために、

1950年代後半に衛星の開発をいよいよ開始することにしました。

衛星偵察には、これら他のプラットホームに比べて重要な利点があります。
それらは広大なカバレッジ(行動範囲)を提供し、
攻撃に対しても遥かに優位で、決して脆弱ではないことです。

そしてアメリカは、衛星偵察を開始してから今日まで、

画像情報と信号のデータを諜報手段として取得し続けています。

偵察は、他の情報源とともに、民間および軍の指導者に世界中の政治、

軍事、および経済の発展に関するタイムリーで正確な情報を提供します。
また軍の作戦を実際に支援することもあるでしょう。」

そして偵察種類が定義されています。
割と当たり前のことしか書いていませんが、一応整理のために載せておきます。


偵察 RECONNAISSANCE

別の組織・別の国家に関する情報を取得するために設計された秘密の活動

画像諜報活動 IMAGERY INTELLIGENCE

飛行場、造船所、ミサイル基地、地上部隊、指揮統制センター、
およびその他のターゲットの写真


シグナル・インテリジェンス:シギント
SIGNALS INTELLIGENCE :SIGINT

【電子インテリジェンス Electric Intelligence】
レーダーおよびミサイルと宇宙船間で送信される信号の傍受

【コミュニケーションインテリジェンス Communications Intelligence】
外交および軍事メッセージの傍受

「シギント」という言葉は前にも説明しましたが、
シグナルズ・インテリジェンスの頭から三文字ずつ取った短縮形です。


■国家による偵察衛星機関 
National Reconnaissance Office: NRO

ケネディ政権は、1961年、偵察衛星の設計開発、うちあげ、運用のために
あくまでも密かに政府機関である国立偵察局NROを設立しました。

ところで、アメリカの政府機関の「ビッグ5」って何かをご存知ですか。

CIA、国家中央情報局くらいは誰でも知っているでしょうし、
何ならその一つにFBIを挙げる人もいそうですが、FBIはビッグ5ではありません。

アメリカのビッグ5機関とは次の通りです。

CIA アメリカ国家中央情報局 Central Intelligence Agency

NSA アメリカ国家安全保障局 National Security Agency

DIA アメリカ国防情報局  Defense Intelligence Agency

NGA 国家地理空間情報局 National Geospatial-Intelligence Agency

NRO アメリカ国家偵察局 National Reconnaissance Office


このアメリカ国家偵察局ですが、バージニア州シャンティリー、
ダレス国際空港からすぐ近くにその本拠があり、3000人が所属します。

職員は、NROの幹部、空軍、陸軍、CIA、NGA、NSA、海軍、
米宇宙軍からなる混成組織となっています。

その任務内容から国防省に属し、ビッグ5の他機関と緊密に連携しています。

NROが手がけた最初の写真偵察衛星計画は、もちろんあのコロナ計画です。
表向きはディスカバラー計画として宇宙開発を目的に打ち上げた衛星は、
冷戦時代のソ連を上空から写真撮影するのが目的でした。



コロナ計画の機密は前にも書いたように1992年に解除され、
1960年から1972年までの情報が公開されました。

1973年には、上院委員会の報告である議員がうっかり
NROなる存在を暴露してしまい
、そのことからニューヨークタイムズに掘られて
NROが国防総省や議会に知らせずに年間10億〜17億ドルを溜め込んでいる
とスキャンダルまで一挙に暴かれて公開されてしまいました。

このすっぱ抜きはちょうどCIAが調査をしている最中だったそうです。
CIAの調査でNROが長年積み上げていた前倒し金は65億ドルに上るとしました。

NROの「いざという時の金」(レイニーデイ・ファンド)だったというのですが、
それはいくら何でも貯め込みすぎだろうって。

当初は衛星偵察が極秘だったこともあって、NROそのものが秘匿されていました。
日本語のWikipediaには、

「かつては諜報関係者すら、
公的な場所で組織名を口にする事さえ禁じられた
ほどの秘匿機関であり、組織の存在が暴露された後も長きに渡り
現職長官名も公開されない極秘機関だったが、
このような秘匿は情報公開法に抵触するとの抗議を受け、
現在では公式サイトでその概要を知ることができる」

とあります。

また、NROは独自に人工衛星を運用しており、その「ポピー」Poppyという衛星は
1962年から1971年の間、国民に秘密裏で7号まで打ち上げられていました。

こんな名前の衛星があったことなど知らない人の方が多いのではないでしょうか。


このいかにもキレッキレそうな目つきのおじさんが、NRO初代所長です。

ジョセフ・ヴィンセント・チャリック(Joseph Vincent Charyk)

カナダ生まれのウクライナ系ですが、アメリカ国籍を取っていると思われます。
カルテックで博士号をとり、アメリカ空軍で主任科学者を勤めていたことから
ケネディ大統領に初代NRO所長に抜擢される流れの中で
アメリカ国籍を与えられることになったのかもしれません。

■アメリカの航空偵察



U-2偵察機

カメラと電子情報機器を搭載したU-2偵察機が任務を始めたのは
1956年で、ソビエト連邦上空を飛行し始めました。

これらの任務は、ソ連がフランシス・ゲイリー・パワーズが操縦する
U-2を撃墜する「U-2撃墜事件」が起きて1960年に停止しましたが、
停止したのはソ連上空だけで、他の地域では偵察は継続されましたし、
空軍は現在も高度なU-2を運用し続けています。

ストーンハウス STONEHOUSE



エチオピアのアスマラにあった、ストーンハウス深宇宙受信ステーション
1965年から1975年まで運用されており、ここでは
ソ連の深宇宙探査機のコマンドの応答や探査機から受信が可能でした。

右の写真は85フィートの反射鏡、左の写真は直径150フィートのアンテナです。
月、火星、金星など遠方にあるソ連の宇宙探査機からの
ごく微弱なテレメトリー信号を受信するために、
これほど巨大なアンテナが必要だったというわけです。

この施設は1975年に閉鎖されましたが、世界中の同様のステーションは、
シギントを実行し続けています。

■データ収集用プラットフォーム艦


USNS 「ジェネラルH.H.アーノルド」

USNS ジェネラル・ホイトS. ヴァンデンバーグ (AGM-10)

これらは、大西洋範囲計測船 (ARIS) を情報データ収集用に改造したものです。
主要な移動式技術情報収集プラットフォームとしてレーダー信号データを提供し、
カムチャッカ半島や太平洋でソ連のICBMからテレメトリーデータを収集しました。

ARISは、ソ連のICBMの発射実験が予想される時期に、
年に数回、太平洋上で情報収集任務を遂行しています。

これらは1960年代から1970年代にかけて運用されましたが、ヴァンデンバーグは
現在退役し、フロリダ州キーウェスト沖で人工岩礁として使用されています。


USS オックスフォードAGTR-1/AG-159

「オックスフォード」も情報収集艦として運用された艦船の一つです。

第二次世界大戦中にはリバティシップとして建造されたのですが、
冷戦後電子信号情報収集のために改装されて
航空機、船、地上局からの送信を傍受しました。

「オックスフォード」は電子信号軍事情報(シギント)を収集のために
最新のアンテナシステムと測定装置を装備し、
海軍の「通信に関する研究開発プロジェクトの包括的プログラム」
つまり電子スパイの能力を備え、かつ世界各地に赴くことができる
「高度な移動基地」となったわけですが、他のシギント収集艦と同様、
特に任務内容と雇用そのものすら、機密扱いとなりました。

これらの「研究」船は、秘密活動のための有効な隠れ蓑を作るために、
海洋学的実験を行うための装置と人員ということになっていました。

■シギント収集艦「オックスフォード」

【キューバ危機】

1962年秋、それはキューバ危機が起こった年でしたが、「オックスフォード」は
キューバ・ハバナ沖でゆっくりと、「8の字」を描くように航行していました。

その任務は、キューバ全土のマイクロ波通信を盗聴することでした。

キューバのマイクロ波システムの仕組みについて、アメリカ側は既に
情報を収集して知悉しており、「オックスフォード」は、
キューバの秘密警察、キューバ海軍、防空、民間航空を盗聴できたのです。

1962年9月15日、「オックスフォード」のレーダー員は、
NATOが「スプーンレスト」と呼ぶソ連のP-12レーダーの存在を検知します。

これは、ソ連ががキューバの目標追跡・捕捉システムを
密かにアップグレードしていたことを示唆するものでした。

1962年10月27日、その日は「黒い土曜日」とも呼ばれていますが
「オックスフォード」はSAMミサイル基地からのレーダー信号を検出し、
キューバのソ連防衛の突破口を発見したのです。

この発見により、その後F-8クルセイダーの低空飛行による写真撮影と
高高度でのU-2の偵察飛行の両方が出動しました。


【史上初の「ムーンバウンス」通信成功】

1961年12月15日、「オックスフォード」は、
月を通じて陸上施設からのメッセージを受信した最初の船となりました。

「ムーンバウンス通信」は、地球-月-地球(EME)通信とも呼ばれ、
地球から月に向けて電波を送信する技術です。

地球から月へ電波を送り、月面で反射させ、地球上の受信機でキャッチする。
この技術は、海軍の艦船との安全な通信を可能にするものでした。

1961年12月15日午前0時頃、海軍作戦部長ジョージ・W・アンダーソンと
NRL研究部長R・M・ページ博士が、メリーランドから約2414km離れた
大西洋上のUSS「オックスフォード」に、月経由でメッセージを送信します。

海軍が地上局から艦船へのメッセージ送信に成功したのは、これが初めてでした。

この出来事は秘密にされていたわけではなく、AP通信が小さな記事を書き、
それが12月17日付のワシントン・ポストに掲載されています。
あまりにささやかなニュースなので騒がれなかったのですが、偉大な功績でした。

送信の成功を受けて、「オックスフォード」には操縦可能なパラボラアンテナと
送信機が設置され、双方向通信が可能になりました。



冒頭にも挙げたこの写真は「オックスフォード」甲板で、
通信技術者である乗員二人がアンテナに乗務?している貴重なシーン。

この成功を受けて、海軍は
技術研究船特殊通信システム(TRSSCOMM)、世界のどこにいる船でも、
マイクロ波を月に向けて発射し、メッセージを送ることができるシステムを得ます。

これは分かりやすくいうと、月が反射板となり、
地球上の90度の範囲にある受信局へ電波を送り返すという仕組みでした。


【技術研究艦USS オックスフォード (AGTR-1)】

その後「オックスフォード」(AG-159)は1964年4月1日に
技術研究艦(AGTR-1)に改名されました。

電磁波受信だけでなく、海洋学や関連分野の研究を行う艦として
世界の海を航海しました。(名誉職みたいな感じですかね)

退役は1969年12月19日。
日本の横須賀で海軍艦艇登録簿から抹消されました。


海軍は現在でも艦船を使ったシギントを実行しています。


続く。




宇宙からの「眼」 無人衛星偵察の目指すもの〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館の軍事航空偵察シリーズ、「スカイ・スパイ」。

冷戦時代の高高度偵察機について前回お話ししてきたわけですが、
人が乗った航空機で偵察を行うというのは、どうしても撃墜されたり捕まったり、
それこそU-2ではありませんが、最悪国家の危機レベルでのリスクを伴います。

そこで、人を使わない偵察機、ドローンの登場となります。

■ ドローン



ここ数十年の間に急速に普及したのが、遠隔操作で操縦する無人航空機です。

この写真の輸送機の主翼の下、パイロンには、ドローンが装着されています。
最初にドローンが軍事偵察(主に写真偵察)に投入されたのはベトナム戦争で、
これらの航空機は、一般的にジェットエンジンを搭載した高速機でした。

その後、マイクロチップの導入により、カメラや制御技術が小型化されたことで、
より小型で低速の飛行体が開発され、投入されていきます。

後世の多くの紛争では、攻撃の評価や計画、コンプライアンスの監視に
ドローン、UAV(無人航空機)の飛行が不可欠となっていくのです。


RQ-4グローバルホークの整備を行う飛行士:2008年9月


ネットでの拾いもの・・どうしてこうなった状態のドローン

■ 衛星偵察

空中偵察の次のステップは、宇宙軌道上からの偵察です。
衛星は軌道上から広大な地域を詳細に監視することを可能にしました。

【ディスカバラー13再突入カプセル】

「ディスカバラー」は、ソ連を監視するための人工衛星を開発する秘密計画
アメリカの「コロナ計画」の公称(つまり表向き名称)です。

アメリカは「コロナ計画」をあくまでも宇宙開発計画として発表していましたが、
その実態はソ連を監視するためのスパイ衛星を打ち上げることでした。

航空機による偵察は、これらの宇宙計画までの単なる「場つなぎ」にすぎなかった、
という話を前回しましたが、この計画は実は1950年代後半に始まっていました。

アメリカが考えた、宇宙に偵察カメラを送り作動させるという壮大な計画。

これは実に最初から失敗の連続だったのですが、さすがアメリカ、
1960年8月、「ディスカバラー13」カプセルを回収することに成功しました。

これは、軌道上で回収された人類史上最初の人工物となります。

「13」カプセルはテストだったので、フィルムは搭載されていませんでしたが、
その1約週間後に打ち上げられたディスカバラー14号が、
約2週間後には宇宙からフィルムを持ち帰ったのです。



航空機が偵察型衛星を再突入時にキャッチしています。
ディスカバラーで撮影したカプセルは、ソ連が取得することのないように
海中に落ちてからではなく空中でキャッチすることにしました。

カプセルはある程度の浮力を持っていましたが、敵の取得を恐れ、
一定の時間が過ぎると沈むようにできていたので、
それでほとんどの最初のカプセル実験は失敗したと言われています。

何回めかの実験の時には、ソ連が情報を手に入れて、落下地点付近で
潜水艦を待機させているらしいとわかって、実験そのものが中止されました。


アイゼンハワー大統領の前にある金だらいのようなものが、
回収されたディスカバラーのカプセルです。
大統領はアメリカ国旗を持って、なにかパフォーマンスをするつもり?

と思ったのですが、実はこのお釜の中に仕込んであった国旗だそうです。
アメリカ人の好きそうな演出ですな。

というか、それまでのディスカバラーにはもれなく国旗が仕込んであったのか?
ヤラセくさいなあ・・・と思うのはわたしの心が汚れているせいでしょうか。


ディスカバラー計画は1960年代初頭にひっそりと終了しましたが、
これは打ち上げの言い訳をもうしなくて良くなったからで、
コロナ計画そのものは1972年まで秘密裏に続けられていました。



1995年2月、ビル・クリントン大統領は大統領令に署名し、
1960年から1972年までの機密扱いの衛星偵察写真を公開していますが、
それがこれからご紹介するいこれからご紹介する一連の画像です。

この機密解除された1962年8月の画像には、旧ソ連のアラル海が写っています。

過去数十年間の地球環境の変化を研究する科学者にとって、
このような詳細な画像は学術的にもたいへん有用なものです。



こちらも同じランドサットによるアラル海の画像ですが、
先ほどの写真から23年経った1987年8月撮影のものになります。
画像がカラーなのはもちろん、画像の鮮明さが技術の進歩を語ります。

ただし、写真にはこの期間、アラル海で起きた環境破壊の様子が示されています。

農薬の過剰使用や不適切な灌漑が20年以上も繰り返された結果、
かつては広大で豊かだったアラル海は汚染され、縮小してしまっています。

上の画像と比較してみてください。


発射される偵察衛星

年代を追って


ロケットが立派に・・・。

■ ランドサット


ランドサット衛星は、1972年から地球を観測しています。

地球の数百億平方キロメートルがランドサットのセンサーによってカバーされ、
その画像は地球科学のさまざまな分野の科学者に実用的な情報を提供してきました。


ランドサット1

ランドサット1は、高度917kmの軌道に打ち上げられました。
1日に地球を14周し、18日ごとに同じ場所を通過していました。

ランドサット4

ランドサット4と5は高さ705kmの軌道で、16日サイクルです。
ランドサット5は現在も稼働中です。

ランドサット1、2、3に搭載されていた地球画像センサーは、
マルチスペクトラルスキャナー(MSS)と呼ばれていました。

ランドサット4号、5号には経年劣化が比較できるように同じMSSに加え、
さらに進化したTM(Thematic Mapper)というセンサーが搭載されました。

ちなみにランドサット4号は故障で引退し、
ランドサット6は所定の軌道に到達できずに行方不明のままです。(おい)

1999年、ランドサット7はさらなる改良バージョンであるセンサー、
ETM+(Enhanced Thematic Mapper Plus)を搭載しました。



マルチ・スペクトル・スキャナー(Multi-Spectral Scanner)

ランドサット6号機に搭載されたセンサーです。
約34,000平方キロメートルの範囲を、約80メートルの解像度で画像生成します。
MSSは、可視光と赤外線の両方の波長でデータを取得し、
振動鏡を使って地球をスキャンするしくみです。


【テマティック・マッパーThematic Mapper】



マッパーは「地図化」ということだと思われます。

スミソニアンにあるこのマッパーですが、実物大のモデルです。
まるでスピーカーみたいですが、これは撮像素子、
イメージセンサーと言った方が分かりやすいでしょうか。


横に立っている人が怖い・・ってそこかい

ランドサット4号、5号に搭載されているもので、
初期のランドサットに比べて約3倍の大きさの地形を捉えることができ、
より多くの波長帯のデータを収集することができます。

博物館に展示されている実物大のモデルは、
ヒューズ・エアクラフト社の提供によるものです。


セマティック・マッパーでランドサットから撮ったルイジアナ州ファルムランド。


同じく、ラスベガスのミード湖。
ミード湖は世界最大の人工湖で、コロラド川のフーバーダムを形成します。
「レッドリバーバレー」という歌がありますが、この辺りは地層が赤いんです。


ランドサットTMが捉えたミズーリ川の氾濫前

氾濫後。

さらにその後。
川のラインがはっきりしないくらい氾濫しています。

■ 人工衛星が見た海洋・シーサット



「シーサット」は、レーダーによる海洋監視に特化した初の人工衛星です。



1978年に打ち上げられたこの衛星は、98日間にわたって運用され、
1億平方キロメートルの地表の画像を作成するのに十分なデータを取得しました。

高度800kmの軌道を周回し、海氷、海流、渦、内部波など
多くの海洋の特徴をレーダー画像で提供することができました。

スミソニアンに展示されているのは20分の1スケールモデルで、
 ジェット推進研究所による提供です。

海底の地形を知る

シーサットには、海面の地形を計測する装置も搭載されていました。

この画像で明るい色合いは隆起を、暗い色の部分は窪みを表しています。
海面の変化は、海底の海溝や海嶺の地形を表します。

海洋の温度を知る

NOAA-12衛星に搭載された
高性能超高解像度放射計(AVHRR)のデータによる海面温度の画像。

オレンジと赤の色は温度が高く、紫と青の色は温度が低いことを表します。
この1997年の画像では、メキシコ湾流の暖かい部分がはっきりと確認できます。

AVHRRは実際の海面温度を知ることに役立ちますが、
海水温を知ることで、漁業関係者の海流や餌場などの特定情報に役立ちます。

海底の地形を知る


マサチューセッツ州ナンタケット島沖の尾根や浅瀬による表面の凹凸が、
シーサットの画像にはっきりと現れています。
表面の模様と海中の様子がよく一致していますね。

河川底の堆積物を知る


アラスカ南西部のクスコクウィム川河口の堆積物が、
シーサットの画像にはっきりと映し出されています。
明るい部分は川の流れによって形成された水路です。

モザイク合成


モザイク画像で表されたシーサットによるグランドバハマ島周辺。
南側には、島の西海岸の水の流れによる渦が見られます。

海洋温度を知る


熱容量マッピングミッションによる画像。

暖かい水は明るい色調で、冷たい水は暗い色調で表示されています。
写真の下の方に見えるのがメキシコ湾流。
メキシコ湾流の端には巨大な2つの渦が確認されます。

海洋温度を知る2


熱容量マッピングミッションによるメキシコ湾流の別の画像。
白い部分が温かいメキシコ湾流で周囲の水は冷たいことがわかります。

■ 広視野センサSeaWiFS



黒海のSeaWiFS画像。

1997年8月に打ち上げられた衛星「SeaStar」に搭載されている
広視野センサ(SeaWiFS)です。

1997年8月に打ち上げられたSeaWiFSは、海の色を測定し、
植物プランクトンの濃度データを提供するとともに、
海と地球の変化の関係を研究することを目的としています。

センサの発達については長くなるのでここでは扱いませんが、
目に見える可視光だけでなく、赤外線など、
放射線を見ることができるセンサがいつの間にか?現れました。

それらの情報はフィルムに記録されるのではなく、
コンピュータの画像に変換できるもので、ピクセル
(小さな四角のモザイク)で構成されているのは皆さんご存知の通り。

■レーダー

陸地を見るもう一つの方法は、レーダーを使うことです。

レーダーは雲も見通すことができ、日の光を必要としません。
そのため、昼夜を問わず、大気の状態が悪くても画像を記録することができます。

レーダー画像は、表面の粗さ、方向性、含水率、組成などの物理的特性と、
シーンを「照らす」レーダー信号の波長に依存しています。



1978年に運用されたシーサット衛星のレーダー画像。

左上から右下にかけてサンアンドレアス断層が広がっています。
暗いところは断層の北東に位置するモハーベ砂漠。
明るい部分は南西に位置するサンガブリエル山地であり、
右下には主要な道路がはっきりと示されています。



アパラチア山脈が折り重なっている様子をシーサットレーダーで撮影したもの。

■シャトル・イメージング・レーダー

1981年にスペースシャトルに搭載された
シャトル・イメージング・レーダー装置(SIR-A)
地表の約1,000万平方キロメートルの画像を撮ることができました。



エジプト西沙漠のランドサット画像に重ねられたシャトル画像レーダー実験
(SIR-A)
のデータには、古代の干上がった川の水路が写っていました。
かつて水が流れていた河道の特定は考古学者の研究に役立ちます。



ガラパゴス諸島のイサベラ島にあるアルセド火山の3D画像。
地形データとSIR-C/X-SARのレーダー画像を重ね合わせて作成されたもので、
粗い質感の溶岩流は明るく、滑らかな灰の堆積物や溶岩流は暗く見えています。

■ラダーサット

1995年11月に打ち上げられたラダーサットは、カナダ宇宙庁が運用しており、
さまざまな解像度のレーダーデータを提供しています。



南極大陸のパインアイランド湾に突き出たベア半島(左)とスウェイツ氷河の末端。

この画像は、カナダとアメリカが共同で行っている
南極マッピングミッション(AMM)の一環として取得されたものです。

AMMは、1997年9月に開始された、
宇宙から南極大陸全体を高解像度でマッピングするプログラムです。
レーダー画像から氷に覆われた南極の詳細な地図が作成されています。


21世紀に入ってからの10年間は、衛星による上空からの偵察が主流でした。

戦場の状況を迅速に把握し、広範囲の電磁波を継続的にサンプリングするためには、
依然として空力的な飛行体が必要です。
しかし、これらはますます無人化されていくでしょう。

手のひらサイズのマイクロマシンから、グローバルホーク、
NASAの太陽電池駆動のパスファインダーまで。

さまざまなUAVが存在しますが、これらは何日も継続して飛行することができます。

UAVの研究と発展の目指すものは、
かつての有人の空中戦の原点を再現することにあるのかもしれません。

より確実に。人的被害を被ることなく。


続く。




軍事航空偵察とキューバ危機〜スミソニアン航空博物館

2022-03-07 | 歴史
スミソニアン航空博物館の「スカイ・スパイ」軍事航空偵察のコーナーから、
今日は冷戦とキューバ危機について焦点を当てたいと思います。


■ 冷戦の始まりと航空偵察

戦後の最初の10年間、冷戦といわれる時代に突入してすぐ、
アメリカはソ連の(後には「赤い」中国の)広大で封印された範囲に含まれる脅威、
すなわち核の有無を確認するという緊急性に駆られるようになります。

しかし当時の航空機は、ほとんどが爆撃機を改造したものにすぎず、
ただ周辺を偵察することに任務の範囲が限られていました。

その極秘裏に行われたミッション中に起こり、公表されていない事件で、
少なくとも数十人の偵察機乗員が死亡または捕虜になったといわれます。

アメリカが恐れていたのはソ連による「真珠湾攻撃の再来」つまり不意打ちでした。
そこで敵の動向を探るため上空からの偵察が行われるようになります。


のちに主流となる人工衛星は1940年代後半から計画がありましたが、
当時はまだ技術的なハードルが多く残っていたため、
その諸問題がクリアできるまでの間は、とにかく
カメラを目標の上空に持っていくしか手段がなかったのです。


気球を使った撮影も試みられました。
カメラを搭載した気球をイギリス、ドイツ、トルコから中央アジア経由で
1000機ほど打ち上げたものの、回収できたのは55台だけでした。

風任せで飛ぶ気球にどんな効果を期待していたのか、と
逆に現在のわたしたちにはそちらの方が大いなる疑問です。
もちろん偵察効果は皆無に近かったに違いありません。

しかし、そうこうしている間に光学技術が向上してきました。
迎撃する航空機やミサイルの影響を受けない高度からでも
目標を画像におさめることができるカメラやフィルムが出てきたのです。

より高い位置からでも偵察が可能となってからは、
航空機の性能も、高度に焦点を絞って開発されるようになっていきます。

そしてレーダーによる短波長領域だけでなく、近・遠赤外領域のセンサーなど、
時代はつぎつぎと新しい偵察のための手段を可能にしていきました。

そして前回もお話ししたように、ロッキード社は、究極の上空偵察機、
U-2とSR-71を世に送り出したのでした。


U-2とSR-71、伝説の偵察機のツーショット



初期のU-2ミッションが撮影したソ連中央部のチウラタムSS-6ミサイルサイト。

【ボマー・ギャップ】

カーチス・ルメイはそれが航空機っぽくないのが気に入らなかったようですが、
偵察機U-2はジェットエンジンを搭載したグライダーで、
高度8万フィートを飛行し、ソ連の上空をほぼノーマークで飛び回り、
より鮮明な写真を撮ることを可能にしました。


偵察によって撮影されたソ連の潜水艦群


U-2から撮影された原子爆弾の発射実験基地。

というわけでこの期間、アメリカはソ連についてかなりの情報を得ていました。
これが前提です。


日本人である我々にはいまいちピンと来ない言葉ですが、アメリカでは
冷戦時代、「ボマー・ギャップ」という言葉が、盛んに使われたそうです。

「ボマー・ギャップ」とはアメリカ当局が国内に向けてアナウンスした言葉で、

「ソ連はジェットエンジン搭載戦略爆撃機の配備において
我が国より優位に立っている」


ということを表しています。

キャッチフレーズではないですが、語感がキャッチーなせいか、
国民には数年前からそれが広く受け入れられていましたし、
特に国防費の大幅増額を正当化するための政治的な論拠となりました。

実際、ボマーギャップを埋めるため=ソ連の脅威に対抗するためという名目で
米空軍は爆撃機はピーク時には2500機を超える大規模な増強を行っています。


しかし、結論から言うと、実は
ボマーギャップは存在していませんでした
しかもこの大号令をかけた「中の人たち」は、
U-2の偵察がもたらした情報によって、これを知っていました。


「ボマーギャップ」がないことを明らかにした
U-2の偵察写真。
1956年にはこの事実が明らかになっていました。

しかし、「ボマーギャップがないことの証明」はできませんでした。

それが「悪魔の証明」(ないことは証明できない)だからではなく、
どうやってソ連の爆撃機大量配備はないことを知ったかが明らかになるからです。

アメリカの偵察技術の実態がソ連側にもバレてしまうことが何より問題ですし、
それに、ボマーギャップがあることにしておいた方が、
いろいろ便利(軍事予算の獲得もスムーズに行くわけ)ですしね。


そうそう、「ないことを知っているのにあるかのように決めつけて」といえば。

この半世紀後、ブッシュ政権も、大量破壊兵器があるという情報を根拠に
イラク戦争に突入していますが、これ、本当にあると思ってたんですかね?

凄まじい精度のアメリカの諜報&偵察能力をもってすれば、
実は大量破壊兵器がないことはわかっていたのに、
あえてわからないフリをして・・ってことじゃなかったのかしら。



閑話休題。

1960年5月に、U-2がソ連のミサイルで撃墜される撃墜事件が起き、
期待されていた冷戦の雪解けも頓挫してしまいます。



SR-71、ブラックバードは1960年代半ばに衝撃のデビューをしました。
約8万5,000フィートで飛行するマッハ3の航空機で、
瞬く間に傍受されない性能を確立し、
毎時10万平方マイルの速度で画像を収集しました。
これほど速く、高く飛ぶ飛行機は他にありません。

■ キューバ危機

キューバ危機のことを、英語ではCuban Missle Crisisといいます。
1962年の、この世界を揺るがした歴史の転換点、
キューバ危機では、空撮が重要な役割を果たしました。

航空写真によってキューバにソ連のミサイルが存在することも確認されたのです。



このU-2偵察写真には、キューバでのミサイル組み立ての
具体的な証拠が写っています。

ミサイル輸送機と、燃料補給やメンテナンスが行われるミサイル準備テントです。



この写真は見ておわかりのようにミサイル準備区域を低空から撮影しています。

このショットを撮影したパイロットは、
高度約250フィート(76m)を音速で飛行して生還を果たしました。




同じく、キューバ危機の時にキューバのサン・クリストバルに設置された
ソ連の中距離弾道ミサイルサイトのUー2による空撮写真です。



こちらはRF-101ブードゥーが撮影したミサイルサイトの写真。
ロシアのSA-2(地対空ミサイル)のパターンを見て、
アメリカはロシアがキューバを武装化していることを確認しました。


【アメリカ政府の表明】



キューバのミサイルの航空写真を国連で見せる
アドレー・スティーブンソンII(1962年11月)。

スティーブンソンは民主党の政治家で、安全保障理事会の緊急会合で
ソ連の国連代表ヴァレリアン・ゾーリン

「キューバに核ミサイルを設置しているかどうか」

を詰問口調で尋ね、ゾーリンが答えにくそうにしていると、

「翻訳を待つのではなく、イエスかノーで答えたまえ!」

と言い放ったことで有名になりました。
イエスかノーかで有名になった人は我が日本国にもいましたですね。
このときゾーリンは、

 「私はアメリカの法廷にいるわけではないので、
検察官のようなやり方で質問されても答えられない」

とごもっともなことをいってケムに巻きました。
まあ、結果としてイエスだったんですけど、
彼の立場では答える権限になかったのでしょう。


スティーブンソンはまた、ミサイル危機の対処法として

「ソ連がキューバからミサイルを撤去するなら、アメリカは
トルコにある旧式のジュピター・ミサイルを撤去することに同意する」

という交換条件を大胆に提案しています。
もちろんこの案は大勢から非難轟々だったのですが、
ケネディ大統領も弟のロバートもこれを評価しており、
実は明らかにはなっていない段階で、ケネディ政権はこの案を
ソ連側に打診していたのではないかという説もあるのだそうです。

歴史って、実は表向きはともかく、
明らかになっていないことの方が多いのかもしれない、
などと思ってしまう逸話です。



大統領執務室でカーティス・ルメイ将軍(ケネディの左隣)、
キューバミッションに参加した偵察パイロットと会談するケネディ大統領。

左から3人目は、キューバのミサイルが最初に確認されることになった
写真を撮影したリチャード・S・ヘイザー少佐です。


962年10月14日の日曜日の早朝、ヘイザー少佐は、
カリフォルニア州エドワーズ空軍基地で、急遽「USAF 66675」と再塗装された
CIA U-2F、アーティクル342(空中給油用に改造された2機目のU-2だった)
に乗り込み、「真鍮のノブ」作戦(Brass Konb)と名付けられた
キューバ上空飛行(ミッション3101)に出発しました。


メキシコ湾上で日の出を迎えた彼は、ユカタン海峡を飛行した後、
北に向きを変えてキューバ領土に侵入します。
その時点でU-2Fは72,500フィートに達していました。

ヘイザー少佐はカメラのスイッチを入れ、自分のミッションを行いました。
彼のU-2が島の上空にいたのは7分足らずでしたが、
あと5分滞在していたら、2つの地対空ミサイルにさらされる危険性がありました。

ヘイザー少佐にはドリフトサイト(爆撃機用の照準サイト)をスキャンして、
キューバの戦闘機や、最悪の場合、SA-2ミサイルが向かっていないかを確認し、
もしそうなら、ミサイルレーダーのロックを解除するために、
S字を描くように急旋回してから遠ざかるようにと指示がされていました。

しかし、キューバの防空網からは何の反撃どころか反応もありません。
ヘイザーはコースアウトして、フロリダ州のマッコイ空軍基地に向かい、
ちょうど7時間の飛行の後、米国東部標準時の0920に同基地に着陸しました。


着陸後、持ち帰ったフィルムはすぐにワシントンD.C.の
ナショナル・フォトグラフィック・インテリジェンス・センターで処理され、
最初に上がった画像は武装したガード付きのトラックで運ばれました。

解析の結果、NPICのアナリストは正午までにSS-4ミサイルの輸送機を確認。

10月22日、ジョン・F・ケネディ大統領は、ヘイザー大佐の写真によって、
ソ連がキーウェストからわずか90マイルのところに
核ミサイルの秘密基地を建設していることが証明されたと発表します。

それから起こった様々なことは今回の主旨ではないので省略しますが、
ソ連のニキータ・フルシチョフ首相がキューバからのミサイル撤去を命じたことで、
キューバ危機は終結することになったのでした。


ヘイザー中佐は、2005年にAP通信とのインタビューでこう語っています。

「危機が平和的に終わったことに自分以上に安堵した者はいなかったでしょう。
第三次世界大戦を始めた男として歴史に名を残したいとは思いませんから」




■ 歴代大統領と「偵察」
Presidents and Reconnaissance

アメリカの歴代大統領は、航空偵察による正確で最新の情報を信頼していました。
今日は最後にそんな偵察にかかわる大統領のシーンをお届けします。


航空写真を見るフランクリン・D・ルーズベルト大統領ジョージ・ゴダード准将
ゴダード准将については先日当シリーズで説明したばかりです。
いわば、アメリカ空軍の写真航空偵察のパイオニアというべき存在です。

偵察士官だった大統領の息子エリオット・ルーズベルト と組んで、
自分を性病検査のセクションに左遷した大佐を追い落とした、
というなかなかに黒い面を持つ人だったのが印象的。


Uー2航空機の役割について語っているドワイト・D・アイゼンハワー大統領

パイロットが撃墜されることになったU-2撃墜事件ですが、
スパイ行為を強く押し進めたのはアイクだった、という話でしたね。

この事件によって、冷戦の雪解けは棚上げになり、
アイクは絶好の歴史的名声を得るチャンスをレーガンに譲ることになります。


サムネで見たらビリヤードをしているのかと思ったのですが。
空中偵察で得られたデータから作成された3次元地形モデルを見る
リンドン・B・ジョンソン大統領


航空写真から作成した地形モデルを検討するジェラルド・フォード大統領
フォードの左で地図を指差しているのは、
当時国務長官だったヘンリー・キッシンジャーではないかと思われます。


空中偵察について説明を受けているジミー・カーター大統領
横に仁王立ちしている女性が誰かはわかりません。


偵察写真から得られた証拠について、
ロナルド・レーガン大統領が国民に語りかけています。

写真にはソ連のミサイルサイトが映っているようですので、
これは就任してすぐに、レーガン大統領が
ソ連を「悪の帝国」(an Evil empire)呼ばわりした時ではないかと思われます。

この何年か後に、ゴルバチョフと会談するためにモスクワに行ったレーガンは、

「今でも悪の帝国と思っていますか」

と聞かれて、すぐさまいいえ、と言った後、

「わたしが言ったのは別の時間、別の時代のことですよ」
"I was talking about another time, another era."

と答えたそうです。


続く。


映画「ビロウ」〜見える敵と、見えない敵

2022-03-05 | 映画

オカルト戦争映画「ビロウ」二日目です。
この作品の日本発売のDVDパッケージの

「見える敵と見えない敵」

というアオリ文句には、上手いこと言うじゃないかと珍しく感心させられました。

さて、前回までで、「タイガーシャーク」前艦長が、この哨戒で命を落とし、
霊となって超常現象を起こしているらしいとわかりました。

潜航中にレコードが鳴り出して敵の攻撃が始まったり、
艦外修理中にクアーズ中尉が謎の死を遂げたり、
艦外からモールス信号で「帰ってきた」と通信されたり。

こんな潜水艦という舞台でしか起こり得ない怪奇現象は、
全て戦闘行為や事故ではなく、乗員によって命を断たれた艦長が
恨みから起こしているのだろう、と見ている誰もが映画半ばで気づきます。

ホラー映画の定石から言うと、この後の見るべきところは
艦長の死の秘密が解き明かされ、彼を手にかけた真犯人を、
呪いのパワーがどんな酷い目に遭わせてくれるのかといったところです。

つまり、この後の展開はホラー的にはもう見えたも同然なのですが、
ただこの映画の他と違うところは、これが戦争中の、潜水艦の中の出来事という
ディティールにあり、逆にいうとそれしかないということでもあります。

さて「タイガーシャーク」の異変は続いていました。



操舵席ではおかしなことに、舵輪が勝手に動き出して
二人がかりでも修正することができなくなり、果ては弾け飛んでご覧の有り様。


「タイガーシャーク」乗員は、この相次ぐ異常現象をどう捉えているのか。

「俺たち実はもう死んでるんでね?」

「なるほどー、気づかんかったわ」

冷静な機関長は、蓄電池から出た水素のせいで、
酸素不足が皆の脳にバグを起こしたに過ぎず、おかしなことも
たまたま起こった機械のトラブルだ、と言い切ります。


航海士であるキングスレーやオデール少尉、クレアの三人は、艦が、
いつの間にか敵を撃沈したとされる場所に向かっていることに気が付きました。

オデール少尉は、そのことをルーミス大尉に質問しますが、
お前がイギリスに行きたいからなんかしたんじゃないのか、と逆ギレされるのみ。



さて、壊れた舵は油圧を回復すれば動くようになるはずですが、
油圧管が通っているのは蓄電室であり、しかも水素が充満しています。

そこでブライス大尉とルーミス大尉は、なぜか乗員に知らせずに
下の区画をこっそり密閉して、蓄電室での修理を決行することにしました。

どうしてせめて乗員を上の区画に避難させないんでしょうか。
何を考えているんだこの幹部たちは。



危険な作業がドアの向こうで行われていることを何も知らずに
潜水艦での「日常」を過ごす乗員たち。



イリノイ州ノックスビル出身の乗員は、就寝前に娘の写真に投げキスします。


しばらくしてブライス大尉がチーフと連絡を取ろうとしますが、返答がありません。
そりゃあるわけないよね。


恐る恐る水密ドアを開けてみると、
全員が真っ黒になった区画の中で焼け爛れて死亡していました。

火花が水素に引火して爆発したんです。
ってさ、どうしてなんの振動もなく音も叫び声も聞こえてこないの?
狭い潜水艦で区画一つが吹っ飛んだと言うのに。

しかも、中に踏み込んだオデール少尉らは、爆発直後だというのに
普通にドアのノブや床のグレーチングに素手で触っています。

こんな大爆発を起こして激しく炎上し燃えたなら金属は熱くなるよね?
他の区画も無事ではいられないと思うんですが。


まあ、それはよろしい。よろしくないけど。

わたしがホラー映画として一番怖かったのはこのシーンです。
ドアの鏡に映るルーミス大尉の動きが、実際より一瞬だけ遅いのです。

しばらく映像を凝視して動作を確認していたルーミスですが、鏡に背を向けた瞬間、
彼は感じました。
鏡の中からこちらを見ている自分自身を。

振り向いた彼が見たものは・・・

「ああああああ〜〜〜〜」画像自粛)



血相変えて飛び出してきたルーミス。



「ルーミス?」

「奴がいる!」

錯乱状態のルーミス大尉はそのまま出て行ってしまいました。


外に。



アクアラングなしで。


生き残った数名の乗員が呆然としていると、物が落ちる音がしました。
駆けつけてみると、廊下には前艦長ウィンターズ少佐の私物一式が・・・。


そのときブライス大尉は艦長室のカーテンの奥に、
確かに「それ」を見たのです。

艦体はそのまま海底に鎮座し、暖房が切れてバラストも動かなくなりました。


スタンボという掌帆員はまだ生きていて、床でぶつぶつ独り言を言っていました。


そこで看護師のクレアが彼を正気にするために殴りつけます。
この怒れるスタンボのセリフも、PG-13が取れなかった理由の一つでしょう。


ここでオデール少尉は、いきなりクレアにこんなことを言い出します。

「ルーミス大尉は勲章が欲しかった。
ブライスは昇進してアナポリスに行こうとしていた。
クアーズは故郷に美人のガールフレンドが待っていた。
だからだ。」

いや、ちょっと待ってほしい。

まず、オデール少尉は、艦長の死の真相を知っているのでしょうか。
それとも知らないで想像でこれを言ってるんでしょうか。

本人も言うように、彼にとってこれが初めての哨戒任務であり、
途中でどこかに行っていたとかでないのならば、当然彼は
艦長が亡くなった時、「タイガーシャーク」の幹部としてそこにいたわけです。

「ドイツの船を沈めた後、艦長が暖炉の飾りを拾おうとして海に落ちた」

と言うのを今まで信じていたのが、おかしなことが起こりだしたので、
どうやらそれは嘘で、3人の士官が艦長を殺したらしいと気付いたのでしょうか。

それならどうしてその理由だけをこんなにはっきり言い切るのか。

しかも、なぜ3人が自分の保身のために艦長を殺したのか、
艦長は何をしようとしたのかについては、わかっていないようなのです。

そんな馬鹿な。

だって、オデール少尉も潜水艦の幹部のひとりなのに、
なぜ彼だけがその時何も知らずにいられたのか、知らされなかったのか。


なぜこの映画はこんな無茶苦茶な設定になっていると思いますか?
お分かりいただけただろうか。
ヒントは、「映画の主人公が誰か」です。

本作の主人公は、若いアメリカ人イケメン士官であるオデール少尉です。
彼は事件が発覚するきっかけを作った女性看護師のカウンターパートでもあります。

主人公が、同盟国の女性看護師とともに黒い殺人事件の真相を暴く。
それには、オデール少尉が「事件を起こした側」であってはなりません。

しかし、潜水艦という特殊な狭い環境下で起きた事件について、
いくら下っ端でもここまで知らずにいられるわけはないのです。

完全にこれは映画の設定ミスというやつです。

わたしは、オデール少尉の役は、救難機かなんかのパイロットで、
撃墜されて英病院船にいたことにすればよかったのにと思っているのですが、
彼が「潜水艦乗員」であることは外せなかったのかもしれません。



さて、そうしている間にも、艦内の空気は残り少なくなり、
クレアも朦朧としてきてしまいます。


そのとき彼女はこのメモとブライス大尉の書いた航海ログを見つけました。
そして彼女はついに事件の真相を知るのです。



その日、2315、ドイツ軍艦らしき艦影を発見した「タイガーシャーク」は
1発の魚雷を放ち、命中の手応えを感じました。



隔壁の破れる音を確認し、撃沈は確実だと思った四人の士官たちは
敵艦の沈没を確かめるために、甲板に上がります。

「標的艦は炎上しており、海面には無数の人間が漂流していた」

クレアが読み進めたところ、そこで記述が途絶えていました。


そのとき彼女は寝台の上に人影を見ました。
人影は彼女に何かを告げているようにも見えます。

怯えながらも、彼女の脳裏にある考えが閃き、彼女は震える手で
あの日沈めたと彼らが言うところのドイツ艦と、
自分自身が乗っていた病院船、フォート・ジェームズ号、
二つの艦影を重ね合わせてみたのです。

するとそれはほぼ同じ艦であるかのようにピッタリと重なりました((((;゚Д゚)))))))

つまりフォート・ジェームズ号を沈めたのはUボートではなく、
この「タイガーシャーク」だったのです。

これが真相でした。
ウィンターズ艦長は間違って同盟国の病院船を1発で撃沈したことを知り、
すぐさま海上の生存者を救出させる指令を下そうとします。

ところが、軍法会議にかけられキャリアを台無しにすることを恐れた三人の士官が、
暗黙の了解のうちに艦長を亡き者にしてしまったのです。


その頃潜水艦内では浮上のための努力が続いていました。

蓄電池が切れたので空気を送るために、全員が一丸となって
ワイヤーを素手で掴んで引っ張っております。

これをするとどうなって空気が送られるのかわたしにはわかりませんが、
空気が少なく、飲み残しのコーヒーがカップの中で完全に固まるくらい寒いのに、
全員全く白い息も吐かず、元気いっぱい綱引きをしております。

「もうおしまいだ!」
「ちくしょー!」

と言いながら引っ張っていると、あら不思議、
艦が浮上していくではありませんか。


こう言うところの詰めが甘いのは、ホラーに話を振り切った結果ですかね。


しかし、このとき引っ張られたワイヤーの先の部品が飛んで、
それを頭部に受けた病院船の航海士キングスレーは亡くなってしまいました。

この人は艦長の死に何も関わっていないのに・・・・。


見事浮上したところに別の艦が接近していることが探知されました。
どうやら同盟国艦船らしい、と一同が沸き立ったそのとき、


「よくやった、オデール少尉」

折り目もパリッとした軍服にタイを締め、ブライス大尉登場。
こざっぱりと髪の毛までいつの間にか撫でつけて。
そういえばさっきこのおっさん暗闇で髭を剃って靴を磨いていたな。

「私はもう大丈夫だよ」
”I'm feeling much better now."


オデール少尉がもはや艦を捨てるべきです、というと、ブライス大尉は、



「コネチカットになんといえばいい?」

と、この期に及んで艦を維持することを主張するのでした。
オデールが構わず通信員に救助をコンタクトするようにいうと、ブライス大尉、

「君は艦長ではないぞ」

するとオデール少尉、ここぞとばかり、

「あなたも違いますよね!?」



ブライス大尉は途端にキレてオデール少尉を殴りつけ、
腰の銃を抜くが早いか、通信機にぶっ放して破壊してしまいました。

気がくるっとる。


ところで、男たちが無益な争いの真っ只中にいる間、
ここでもいい意味で空気読まない働き者のクレアは、勝手に外に出て、
雨の中、通りすがる船にカンテラを振って助けを求めておりました。


彼女のいないのに気がついて甲板に上がってきたブライス大尉に、

「みんなを艦もろとも葬るつもりなのね?」

と烈しくなじり、ブライスに突きつけられた銃を自分の喉元に当てて、

「殺すなら殺しなさいよ!え?」

この映画で最も男前なのは実はこのクレアだったりします。

ついでに英語では彼女、ブライスに対して

「このf×××ing coward!」

とまで罵っております。

これは、階級社会の軍隊の中で彼女だけが無関係だからです。(看護師ですが)

「女性が乗ってきたから縁起が悪い」

という最初の思わせは全く逆で、潜水艦の置かれた最悪の事態を打開したのは
実は勇気あるこの女性というオチだったんですね。


見張り塔には、ハッチを開けて出ていったルーミス大尉が引っ掛かっていました。

いよいよおかしくなったブライス大尉、ルーミス大尉の亡骸に向かって
パンパンと銃を当てながら彼を罵ります。

「『すぐに離脱するんです!
彼らはUボートのせいだと思ってくれるでしょう』だと?
『見つからないように早くここから去りましょう』だと?
他にアドバイスはないのか、チャンプよ?」

あー、間違えて病院船を撃沈した現場から離脱しようと言ったのは、
だれかと思ったらルーミス大尉だったのね。

でも、ブライス大尉だってそれに同意したんだよね?
人のせいにしてはいかんよ。



そのとき、先ほどの船が灯りに気づいたのかこちらにやってきました。


ブライス大尉は夢遊病のひとのようにクレアに語りかけます。

「私はどうにかしようとしたんだ・・・なんとかなると・・
なんとかしてウィンターズの名誉を傷つけないようにと・・

私はこのユニフォームを着て港に帰るはずだったんだ。
だが・・・・
私はどうしたらいい、ミス・ペイジ?

もう・・何もわからない!


「ライトを拾って私にちょうだい!」

甲板に駆け上がったオデール少尉とウォラースが見たのは、
まるで手負の獣を宥めるように、ブライス大尉に手を差し伸べるクレアの姿でした。


ライフルを構えるオデール少尉の前で、ブライスはこう言います。

「ああ、わかったよ。どうして彼が私を殺さなかったかが・・
彼はそれをする必要がなかったからだ。

さて、私は何をすると思う?ミス・ペイジ」


(え・・・・?)


次の瞬間、彼はライトを海に放り込み、続いて銃をこめかみに当てました。





そもそも、最初にイギリスの病院船を敵と間違えたのは誰だったのでしょうか。

艦長はじめ、ブライス大尉、ルーミス大尉、クアーズ中尉の誰もが
海軍軍人として任務を遂行する上で起こり得るミスを起こしたにすぎず、
少なくともその時点では誰一人として悪人ではなかったのです。

しかし、「軍人としての名誉を守るための嘘」は、
犠牲になった艦長の霊の深い恨みとなって彼らを死に引き摺り込みました。


危ない人がいなくなったので、ここぞとオデール少尉は銃をぶっ放し、
近づいてきた船に合図を送ります。


ところが、船は通り過ぎていくではありませんか。


一同が絶望的になったそのときです。


船から信号花火が打ち上げられました。




彼らを救出したのはイギリス船籍の民間船RMS「アルキメデス」でした。

この映像では船尾にユニオンジャックがありますが、彼女は商船なので、
実際なら旗竿に近い上の隅に、ユニオンフラッグがついた
小さな赤い旗だけをつけているはずだそうです。(ネット情報ね)


助かったのは、まず、通信員の「物知り博士」ウォラース。
集めていたポップコーンのおまけである潜水艦をなぜか海に指で弾き飛ばします。


そして我らがクレア・ペイジ看護少尉。



彼女に平手打ちを喰らって正気を取り戻したスタンボ。

「あんたは今までで俺を殴った最初の女ってわけじゃないが、
最後の女になることもなかったわけだ。
・・・俺を正気に戻してくれてありがとよ」


「Well done」を互いに投げかけ検討を讃えあう二人でした。



そしてオデール少尉。
船端に佇む彼のところに船長がやってきて、


「君の船が沈んでいくよ」



本当だ・・・。


艦体は悲鳴のような軋みをあげ、艦尾を上に向けて海に姿を消しました。
彼はクレアとこんな会話を交わします。

「君ならなんて”これ”を説明する?」

「今となってはもう誰も信じないわよね」

「ウィンター艦長が死んだとき、彼は・・残していったんだ
・・どう言えばいいんだろう」

ええ?ちょっと待って?
もしかしたらオデール少尉、艦長が死んだ時のこと何か知っていた?
このセリフ、一体どういう意味なんだろう。
それに対してクレアは、

「あなたが思う通り言えばいいわよ、少尉。
でも、わたしたちは何か
訳があって引き戻されたんだ
と思うわ」



そのとき、彼らには知る由もないことでしたが、海面から姿を消した潜水艦は
真っ直ぐ、目的を持っているかのように確信的に海中を落下していました。



そして、海の底で潜水艦を待っていたのは・・・・・。
潜水艦は引き寄せられるように「フォート・ジェームズ」の側に横たわりました。


今回、どこかの映画サイトの感想(日本語)に、

「なぜ前艦長だけが呪いのために現れたのだろうか。
それをいうなら、殺されたドイツ人や撃沈された病院船に乗っていた

たくさんの犠牲者は一斉に化けて出てこなくてはいけないはず」

というのがありました。

この感想を書いた人は、おそらく最後のシーンをちゃんと見ていないか、
あるいは日本語字幕にとらわれてペイジ少尉の最後の言葉を
きちんと解釈しなかったのではないかと思われます。

間違えて撃沈された病院船の元に潜水艦を引き戻したのは、
果たして艦長の霊だったのでしょうか。
それとも誤爆で命を失った無辜の民間人の怨念だったのでしょうか。




映画「ビロウ」〜呪われた潜水艦

2022-03-03 | 映画

今日は3月3日。
世間一般では雛祭りですが、海軍的にはちょっと違います。

ということで(どういうことだ)今回お送りするのは、
当ブログ映画部にとっても前代未聞となるオカルト戦争映画、「Below」です。

わたしは、年に何度か、ブログのネタのために、内容をほとんど精査せず、
それらしいタイトルの廉価版DVDをまとめ買いするのですが、
このDVDはどういうわけか、パッケージに日本語が書かれておらず、
再生してみると日本語字幕もない正真正銘の海外版でした。

さては輸入盤が間違って届いてしまったのか?と思ったのですが、
普通に再生はできるので、DVDのリージョンは日本ということです。
????

もうこの時点でオカルトです。

とりあえず観てみると、わたしでも英語字幕さえあれば意味がわかるレベル。
知らない単語といえば、劇中盛んに「malediction」と言い出したので、
Siriさんに「”めあでぃくしょん”ってなんですか」と聞いたくらいでした。

潜水艦とオカルト、というのは洋の東西を問わず相性がいいようで、
我が帝国海軍にも沈没潜水艦と33の数字にまつわる有名な話があったりします。
当作品はその相性の良さをベースに、オカルト要素を前面にした作品です。

タイトルの「ビロウ」Below は文字通りの「水面下」。
日本の配給会社には珍しく、原題そのままを採用する英断です。

タイトルの、水深計の数字が移り変わる影とともに、
陽の照る海面の映像から、ゆらゆらと湧き上がるように現れる「BELOW」の文字。

さすがにこのタイトルに対し「呪いの潜水艦」とかはまずいだろう、
とさしもの映画配給会社邦題担当氏も考えたに違いありません。


映画は第二次世界大戦中、1943年の大西洋上空から始まります。

イギリス王立空軍RAFのPBYカタリナ哨戒機のパイロットが
手紙を入れたコーヒーボトルを海上に投下していました。

海上に漂う、英国籍の病院船「フォートジェームズ」生存者にあてた
その手紙の内容は、

「燃料が足りない 救助を寄越す」



そして、イギリス軍から海上の生存者を救難する要請を受けたのは、
折りしも付近を航行していたアメリカ海軍潜水艦、USS「タイガーシャーク」

この「タイガーシャーク」として映画撮影に使用されたのは、
ガトー級USS「シルバーサイズ」Silversides SS-236です。

「シルバーサイズ」は第二次世界大戦中14回の哨戒にも生き残った殊勲艦で、
戦後は、金銭的な問題から存続の危機に見舞われながらも、
記念艦としてミシガン湖マスケゴンで保存されています。

撮影は「シルバーサイズ」をミシガン湖の中央まで曳航しそこで行われました。

本作への出演は、彼女にとって保存のための資金を稼ぐチャンスでしたが、
肝心の映画が全く不評で、配給収入も低調に終わったのは無念というべきでした。



救助要請を受けた「タイガーシャーク」のブライス大尉とルーミス大尉は、
なぜか暗い顔をして、現場への急行を渋る様子を見せるのでした。
しかし上からの命令とあっては仕方ありません。

翌朝、彼らは赤い帆をつけた救難ボートを発見します。
帆が赤いのはイギリスの救命ボートである、と
艦長は本作主人公であるところのオデール少尉にいいます。

「独軍の救命艇なら帆は白い。教わらなかったのか、少尉?」

この航海が潜水艦最初の任務だというオデール少尉は、

「いえ、ラテン語の『潜水艦員のモットー』は習いましたけど」

艦長は呆れた顔で少尉を眺めます。

この最初のシーンはわたしにとってまずまずで、たとえ世間的にB級映画でも、
こういう蘊蓄があればヨシ!といきなり本作に対する点数が甘くなりました。


その時、レーダー駆逐艦の艦影を捕らえたため、救助は急ピッチで行われました。
重症の一人目、そして二人目と収容していき、三人目・・。

”Next man!"  ”Next man!”


「ねくすとめ(絶句)・・・・・」

なんと3人目は女性、撃沈された船の看護師だったのです。

大戦中、潜水艦に救出された看護師を乗せたという例は、
映画「ペチコート作戦」のときにも説明したように存在しましたし、
なんなら「太平洋航空作戦」の冒頭に出てきたシーケンスのように、
女子供を潜水艦が運んだということも現実にありました。

しかし、この状況で若い綺麗なお姉さんが乗り込んでくるなど、
ベテランの潜水艦乗員にとっても想定外だったでしょう。
一同「虚を突かれた思いがした」様子ですが、今はそれどころではありません。



早速急速潜航の行き詰まる一連のシーケンスが展開されます。



艦体そのものは「シルバーサイズ」を使っていますが、
実際に動かす必要がある装備には新たに作られた小道具が使われているらしく、
操舵器には経年劣化が全く見られません。



潜航のためにフィンが降ろされています。(本物)



「シルバーサイズ」は一応まだ稼働できるようで、潜航シーンもあります。



鯨のお腹のようなデッキから水が噴き上がります、


おそらくこの後、模型と切り替わっていると思われますが、
あまり自然なので模型だと見分けられる人は少ないかもしれません。


接近してきた艦船を羨望鏡で確認。



ブライス大尉は「ドイツ海軍のZ級」駆逐艦であるらしいと確認し、
潜航深度をさらに下げる決定をしました。


その頃潜水艦乗員の間では、司令塔から後ろと前に向かって、
救出した中に女性がいるという衝撃のニュースが伝言ゲームされていきます。

「3人のブリッツ(イギリス人)だ。一人は女(スカート)だぞ!」

女性=スカートくらいなら、何の問題もなかったと思うのですが、
ここから倫理コードに引っかかりまくりのセリフが出てきます。



bosooma・・・辞書には載ってなくても意味はわかってしまうという。

さらにこの時、女性=「bleeder」と表現したせいで、(たぶんですけど)
この映画はPGー13レーティングを取れず、結果として
上映が非常に限られた映画館でのみのものとなってしまいました。

この表現は、乗員が「女性はbleeding=不浄だから不吉である」
というジンクスを抱くという流れにつながっていて、観ている者は、これで
「女性が乗ったから不吉なことが起こるのだな」と先入観を持たされます。

しかし、実は、種明かしをすると、こう思わせることが映画に仕掛けられた
一種の「トリック」となっているのです。

というわけで、この表現は、たとえPG-13が取れないとわかっていても、
監督にとって、どうしても外せなかったということなのでしょう。



病院船に乗り組んでいたというクレア・ペイジ少尉に対し、
乗員の中で最初にまともな会話を交わしたのは、若いオデール少尉でした。



彼は潜航中の物音に怯えるクレアを気遣います。

しかし、クレアはどことなく挙動不審です。
重症である生存者の一人の手当てを決して乗員にさせないのです。



その後、幹部らとオデール少尉は、もう一人の軽傷の生存者、
商船海軍二等航海士のキングズリーから沈没に至る事情を聞いていました。

船を攻撃したのは確かにUボートだった、と彼は証言します。
しかしオデール少尉はその証言は変だと直感します。


そこにやってきたペイジ少尉を目を逸らし気味に見ながら、ブライス大尉は
彼ら二人に、遠回りになるからイギリスまで送れない、と宣言します。
そしてついでのように彼女に、

「乗員たちと馴れ馴れしくしないでくれ。
中にはちょっと変わっているというか・・」

「迷信深い人がいるって意味ですか」

「普通でない状態だからね」

士官たちも動揺してしまうくらいの別嬪の存在が兵に与える影響について、
最先任としては当然持つべき懸念という気はしますが、どうも
このブライス大尉の様子が何かを隠しているようで怪しい。

クレア・ペイジに対する接し方も、警戒し過ぎているように見えます。


その頃下の階では、通信員ウォラースが乗員に怖い話を朗読していました。
(手前の乗員は魚を飼っている)

ここで早速出てくる単語が「Malediction」です。



十代の水兵が幽霊話を怖がるのを皆で面白がっていますが、
実はこれはわかりやすい伏線となっています。


オデール少尉は、ルーミス大尉に病院船沈没に対する疑問をぶつけました。

「Uボートが魚雷一発しか攻撃しなかったって、変じゃないですか?」

たいしたことじゃないさ、と一見軽い調子で答えるルーミス中尉は、
話しながらずっとヨーヨーを弄んでいます。

彼が劇中で披露するヨーヨーの技は「世界一周」「犬の散歩」などで、
このために特別レッスンをブライアン・カビルドというプロに受けました。

カビルドは「ヨーヨーWiki」に名前が載っており、
ロールエンドにもその名がクレジットされています。


その夜、通路を歩いていたブライス大尉が
重傷救助者が収容された部屋の前で立ち止まると、中では・・



大尉は「ほらな」と言いたげなうんざりした表情を顕にしてその場を去ります。



そのとき、レーダーが頭上の艦を感知しました。



海上にいるのはE級駆逐艦であろうと予測されました。
彼は通信士官のクアーズ中尉です。



エンジンを止め、息をするのすらはばかる沈黙が艦内を支配しました。
潜水艦映画おなじみの「全員で上を見る」あのシーンです。



その静寂の中、やおらニシンの缶詰を開けて
手で摘んで上から口に放り込むルーミス中尉。
どうでもいいけどその手であっちこっち触るなよ。

そのときです。
いきなりベニー・グッドマンの「シング・シング・シング」、
あのあまりにも有名なイントロが大音量で鳴り出しました。


慌てて駆けつけてみると、ターンテーブルの上のレコードが
誰もいないのに、針を乗せて回っているではありませんか。

危険海域でわざわざジャズを鳴らして攻撃されていた間抜けなUボートも
他の潜水艦映画には登場しましたが、さすがにこんなとき
大音量でレコードを鳴らすのは分かりやすく自殺行為です。

問題は、なぜ勝手にレコードが鳴り出したか。
つまりこれが「最初の奇怪な出来事」だったのでした。



その結果、たちまち爆雷が雨霰と降ってきました。


ここで嘘だろ・・と思ったのが、一瞬全員が天井に張り付いて、
次の瞬間床に叩きつけられるシーンです。
潜水艦が激しく下方に振動すればこういうことも起こりうるのでしょうか。


爆雷がデッキを転がる不気味な音を、目で追う乗員一同。
こういうシーン始め、潜水艦映画としての表現はなかなか見応えがあります。


敵は去りましたが、皆に植え付けられた不信感は拭えません。
なぜピンポイントで駆逐艦が来たのか、なぜレコードが鳴り出したのか。

これを艦内に呼び入れた三人に結びつけるのは自然な流れです。
しかも、ルーミス中尉は、オデール少尉が美人にデレデレして、
何か機密を漏らしたのではないかと言い出す始末。

ちょうどその時、ブライス大尉は、重傷者の手当てに当たった衛生兵から
彼が着ていた衣服のタグを見せられました。



これで謎が解けた、とばかり手錠と銃を持ち、
クレアが怪我人の包帯を巻き直しているところに踏み込んで、



「起きろ、ドイツ人」

すると彼は慌てる様子もなく、



「やあ、マイン・カピタン(我が艦長)」

ちなみに後にして思えば、このドイツ人パイロットのセリフも、
一つの伏線となっているのですが、この時点では誰も気づきません。

彼は撃墜されたドイツ機のパイロットで、戦争捕虜として
クレアの乗っていた病院船に収容されていたのでした。
クレアは必死で、彼はPOWでありジュネーブ条約で保護される立場だ、
と訴えるのですが、艦長は問答無用で射殺してしまいます。

そして、彼女がそのことを言わなかったせいで、
全員の命が危なかった、と激しく詰り、彼女を監禁させました。

駆逐艦の攻撃やレコードを全部ドイツ人のせいにしたいようですが、
死にかけていた彼がどうやってそれを?となぜ誰も突っ込まないのでしょうか。


現に、ドイツ人を殺害した後、またレコードが鳴り出します。
それを任務の重圧でおかしくなった乗員の誰かのせいにして
幹部らは納得しようとするのでした。

乗員の「侵入者」に対する忌避感は、一人がドイツ人であったことで顕在化し、
次いで乗員たちは「よそもの」「女性」であるクレアに嫌がらせを始めます。


彼女のベッドの下に遺体を転がしておくとか悪質すぎ。

ブライス大尉は嫌がらせの犯人に一応は注意して見せますが、
クレアの「船の(ship)乗員全員が死者に敬意を払うべき」という抗議に対し、
「shipじゃない、これはboat(潜水艦)で君はゲストだ」と言い返します。

要するにシロートは余計な口を出すな、と言っているわけですな。


悪戯がうまくいったので声を殺して馬鹿笑いする乗員AとB。


しかし、乗員Bが死体袋からかすかな声を聞いたような気がします。

「引き返せ・・・」「ひっ・・・・」

引き返すって、どこに?


それからが怪奇現象のオンパレード。

まず、クレアの目の前に、ドサリとどこからともなく落ちてきた
シェイクスピア悲劇全集は、ブライス大尉のものでした。

彼女が手に取った時、開かれていたのは「マクベス」のページでした。
「マクベス」は自分を殺した殺人者に復讐する幽霊の話です。


ここは艦長室のようです。

ここでもどこからともなく男性の声が聞こえてきたり、
ドアが跳ね返ったりして脅かしにかかってきますが、彼女はこの部屋が
つい最近までウィンターズ少佐という艦長のものであったことを突き止めます。



つまり、今の今まで彼女が艦長だと思っていたブライス大尉は
ウィンターズ少佐の副長だったということになります。

そこにやってきたクアーズ中尉にクレアが尋ねると、
「今はブライス大尉がスキッパーだ」・・と妙な返事。

これは、この哨戒中に何らかの事故で艦長が失われたということになります。

その後艦長室を追い出されたクレアが、心配して見にきたキングスレーに
見せた一葉の写真、それは、



慰問で訪れたベニー・グッドマンと前艦長ウィンターズ少佐のツーショットでした。


クレアがブライス大尉に前艦長ウィンターズのことを尋ねると、彼の答えは、



「ドイツの船を撃沈した後、艦長は暖炉の上の飾りにでもするつもりか、
海上の破片を拾おうとして、転落死したんだ」


うーん・・こんな話信用できる?


その時です。
異様な衝撃が艦体に響きました。


海面の駆逐艦が「曳鉤攻撃」を仕掛けてきたのです。
駆逐艦が引っ張る一本の鎖にはいくつかのフックが装着されています。

鉤縄を曳航して海中の潜水艦を傷つけるこの戦法は、
第一次世界大戦中にドイツとイギリスの海軍によって使用されましたが、
第二次世界大戦中のドイツ海軍が用いた記録はありません。

しかも、相手の沈んでいるところまで縄が伸ばせなくては意味がありませんから、
使用は浅瀬に限られていました。

ただ、英語のサイトによると、第二次世界大戦中、
日本帝国海軍の艦船がフック攻撃をしたという報告もあるにはあるそうです。

ちょっと調べようとしてみましたが、全く引っかかるものがなく諦めました。



鉤フック攻撃によって、潜望鏡は引き裂かれ、艦体は深く抉られ、
たちまち浸水が始まりますが、致命傷には至りません。

「タイガーシャーク」はそれでも海底から全速で移動し、
フックを逃れることに成功しました。


傷ついた艦体から漏れた油が海上に流れると敵に発見されるぞ、
などと対処法を皆で話し合っていると、一人がついに、

「この潜水艦は呪われてる(This boat is cursed.)」

という言葉を発し、皆がギョッとしてそちらを見るのでした。


艦長代理のブライス大尉は、潜水艦の外に出て外殻から内部に入り
漏れを塞ぐ修理をする特別班に、オデール少尉を指名してきました。



オデールが指名したのは、怖い話を朗読していたウォラースと、


掌帆員のスタンボです。


これにクアーズ中尉も加わり、四人は、まず内側ハッチの外に出て、
そこに海水を注入し、その後外に泳ぎ出していきました。

ところで、いきなり外に出て水圧とか大丈夫なんだろうか。


外に出た途端、マンタの群れに遭遇しドッキリ。
襲われないと分かっていてもこれは怖い。


外側を泳いでマンホールの穴のようなところをくぐると、
そこには水のないこのような空間があるのですが、
本当に「ガトー級」潜水艦ってこんな構造なんでしょうか。


その時、ブライス大尉は、空白となっていた「あの日」のことを
航海ログに記入していました。

「2330、ドイツ軍艦の沈没を確かめるために、士官4名が外に出た
ウィンターズ少佐、私、ルーミス大尉、そして
クアーズ中尉である」


そのクアーズ中尉に、オデール少尉は誰も他にいない絶好のチャンスとばかり、
ウィンターズ少佐の死について尋ねてみました。
するとクアーズ中尉の答えは、

「ウィンターズ少佐は海上の生存者を撃ち殺せと命令したが、
それを拒否した我々ともみあいになり、足を滑らせた少佐は頭を打って死んだ」



「事故だったんだ」

ところが・・・!


クアーズ中尉は、次の瞬間、滴る海水の中から現れた人影が
振り下ろした「その槌」で「後頭部を強く打ち」死亡しました。


パニック状態で艦内に戻ってきたのは三人。

スタンボは完全に錯乱状態で、ケアをしようとしたクレアを突き飛ばし、
オデールは身体の激しい震えが止まりません。


そのとき、外側から規則的に艦体を叩く音がしました。

「モールス信号だ」
「B・・・A・・・C・・・K」
「・・少佐が戻ってきたんだ」


オデール少尉は、潜望鏡もソナーもダメになったこの状態で、
どうして2日で到達するイギリスの港に寄らず、
アメリカに帰ることに固執するのか、とブライス大尉に食ってかかります。

救助した病院船の航海士であるキングスレーは、
深度、防戦網、機雷原がどこかも分かっているのだから、
とオデールはキングスレーと一緒にブライスを説得しようとするのですが。


「乗員も最悪の状態だし、幹部が二人も死んでるんですよ!」
「それが戦争というものだ」

英語ではご覧のとおり「戦争へようこそ」となっています。
この「ウェルカムトゥ」は、

「ウェルカムトゥアメリカ」(これがアメリカですよ)
「ウェルカムトゥジャパン」(日本ってこうですよ)

と、大抵は悪い意味でよく使われます。


そこで空気読まない部外者のクレアがこう言い放つのでした。

「誰も言わないなら私が言ってあげる。
この潜水艦には何か出るわ(haunted)。
すぐに安全な港に戻るのが先決よ」



皆真っ青な顔をして黙り込みますが、ブライス大尉だけは、


コネチカットに帰還すると言い放ちます。
そして、部下ではないクレアには何も言えないものだから、
代わりにオデール少尉に八つ当たり。

「反乱罪の罰を誤魔化そうとしているな。
なんなら今武器庫を開けて銃を再装填して来ようか?
これ以上乗員や私を煽るようなことを言うならな」



オデール少尉は上官に対し、返す言葉を知りませんでした。


続く。



「OからUまで」軍事偵察機の近代史〜スミソニアン航空博物館

2022-03-01 | 航空機


スミソニアン航空博物館の軍事航空偵察の世界、
題して「スカイ・スパイ」の展示から、今日は偵察を行う航空機についてです。

偵察機については、スミソニアンが誇る(たぶん)模型製作部が
航空模型を製作し、それを展示して説明が添えられています。

■ ノースアメリカンNorth American0−47


0-47は、第一次世界大戦で使用された3人乗りの観測機で、
空中観察や写真撮影のために広い視野を確保できるように設計されています。

軍団・師団用の観測機として設計されたのですが、実際、
第二次世界大戦中はほとんど練習機や標的曳航機となっていました。

模型からもなんとなくお分かりのとおり、O-47は、
当時の標準的な単発軽爆撃機をかなりずんぐりした形にしたものです。

密閉されたコックピットに3名の乗員が搭乗し、
胴体の基部には観測者が見やすいようにガラス張りの部分が設けられていました。

産卵直前のグッピー的ななにか

試作機は、850馬力のライト・サイクロン・エンジンを搭載。

この試作機は、後に登場する連絡機よりもはるかに高速だったのですが、
後に登場する通称「パドル・ジャンパー=水たまり飛び」よりも、
多くの支援と優れた飛行場が必要だった、と説明されています。
要するに手間がかかり性能がイマイチだったということになります。

Puddle Jumperは、航空会社のハブ空港である大空港から
適度な距離にある小空港を結ぶフライトによく使われる小型飛行機のことで、
座席数は6~20席程度、大体1時間以内のフライトしかしないので、
乗り心地も、荷物を入れるところも、ほぼないに等しいという感じです。

わたしも乗ったことがある、ラスベガスとグランドキャニオンを往復して
観光客を輸送する飛行機が、まさにその「パドルジャンパー」でした。

そのパドルジャンパーより性能が劣ると言われるO-47。

なぜこんな機体を3人乗りに?と疑問が湧きますが、
観測機に必要な人員数について多くの議論がなされた結果、こうなったのだとか。



O-47は第一次世界大戦以降の観測機の中では最も多く調達され、
合計238機が製造されました。

1940年ごろになると、観測連絡機に求められる条件は超低速で飛行し、
小さな平地で離着陸できることでしたが、O-47にその能力はなく、
機動性が向上した現代戦にはその大きな機体はもはや時代遅れでした。

後発のO-49でさえ大型で複雑であることが判明し、
彼女らの代わりに民間の軽飛行機をベースにした、
はるかに小型の航空機が観測の役割を果たすことになります。

(テーラークラフトL-2、アーロンカL-3、パイパーL-4。
これらはいずれも
『グラスホッパー』と呼ばれていた)


というわけで、時代遅れとなった巨体のO-47は、
第二次世界大戦中、訓練機や標的曳航機として使用されました。

O-47は第二次世界大戦中、訓練機や標的曳航機として使用され、
1939年の開戦時には、ナショナルガードの航空機のほぼ半数を占めていました。

書き忘れましたが、O-47のOは偵察(observation)のOです。

ちなみに、飛んでいる写真の機体の上部に丸い輪っかが乗っていますが、
これ、サンフランシスコのメア・アイランド海軍工廠博物館にあった
方向探知機(Direction  finder)ですよね。

これです


アメリア・イヤハートの写真に写っていましたが、これ、
本人が失踪したときの飛行機に積んでいたらしいんですね。

使い方が難しく、本人も知識がなくて使うことができなかったのが
失踪のファクターとなったという記述を見つけ、ショックを受けたことがあります。

アメリアー、遊んでる場合じゃないだろ?って。

このアンテナはベンディックス社のラジオ方向探知機のものでした。


■ロッキードF-5ライトニング
 Lockheed F-5 Lightning



「ペロハチ」といわれたP-38の偵察バージョン、F-5です。

ここでもスミソニアンの展示の写真を挙げたことがあるP-38ライトニングは、
独自のツインブームデザインと三輪着陸装置を備えた大型双発戦闘機です。

写真偵察バージョンは、武装を取り除いた機首にカメラを据え、
左右と下方向の写真が撮影できるようになっていました。

ライトニングはスミソニアンによると総合的な能力は零戦より下でしたが、
零戦に勝る部分であった高速・高高度性能
敵地上空での非武装写真偵察任務に理想的だったとされます。



なんと、この偵察ペロハチ乗りを、あのウィリアム・ホールデンが演じた
30分の教育映画が、陸軍広報部によって製作されていました。

P-38 Reconnaissance Pilot starring William Holden (1944)

「偵察パイロット」というこの短編映画の内容は、

太平洋での任務を終えて帰る飛行機の中でタバコを吸う主人公
恋人・家族との再会
回想〜入隊の誓い、航空訓練(複葉機、レシプロエンジン機)
Fー5に配置されがっかりする主人公
偵察機パイロットとしての特殊訓練
出撃後任務を重ねる
零戦編隊との遭遇 交戦して勝利15:40〜
主人公の偵察によって日本軍基地(ラバウル?)への爆撃成功


しかし偵察隊がその成功を直接評価されることはありません。

爆撃機のパイロットが戦功章を受賞するのを後ろの列で見ている主人公ですが、
その成功が自分の偵察にあることを密かに誇りに思い、
今故郷で自分の肩に頭を乗せている恋人に、戦地でのことを

「悪くなかったよ」

とだけ微笑みながら告げるのでした。(完)
まあなんだな、偵察パイロットを志望する人員を増やしたかった、つまり
それだけ皆が応募したがらない職種だったってことなんでしょう。


■ McDonnell RF-101 ブードゥーVoodoo


RF-101 Voodooは超音速の偵察機で、非武装で飛行し、
最大6台のカメラを搭載することができました。

キューバにおけるソ連のミサイル開発の低空偵察や、
北ベトナムでの写真撮影などの任務に活躍しました。


有名なキューバのミサイルサイトの写真。
U-2全盛の時代、ブードゥーによって撮影されました。


ちなみにわたくし、エンパイアステート航空博物館で、
偵察でない方のブードゥーにお目にかかっております。
翼の付け根の三角のインテイクが目印(と覚えておこう)


ナイアガラの帰りに見つけたエリー湖沿いの軍事博物館にもいました。

1959年には8機が台湾に譲渡された関係で、台湾空軍は
中国大陸の偵察を行うためにこれを運用しています。

■ Lockheed SR-71


当ブログでは模型も含め何度も紹介しているSR-71、通称ブラックバード。
ブラックバードはあくまでも愛称であり正式名ではありません。

高高度を飛び、偵察を行っていた偵察機です。


とても・・・・薄いです・・。


着陸の時はドローグを使うとは・・・。


せっかくなので、わたし撮影のSR-71写真を。
機体の85%がチタンでできていると、こんな色になるんですねー。
塗料に鉄粉を含むフェライト系ステンレスを使っています。



薄いのは偵察飛行でレーダーに捕らえられないように。
伝説の偵察機SR-71はその現役期間、完璧にノーマークでした。



前にも書きましたが、SRの名付け親?はカーチス・ルメイです。
この機体以前、偵察機は

reconnaissance/strike (偵察爆撃)=RS

だったのですが、それを退け、

strategic reconnaissance(戦略偵察)

にしたといわれています。
偵察機は偵察の任務に特化されるようになったので、
爆撃のSは必要がなくなったということなのか。


一人で着ることはできず、着用には必ず介助を必要する
SR-71のフライトスーツ。
ちなみにこの飛行機、シートベルトすらも自分で付けることはできません。

しかも、着脱の際、急減圧が起こると、体外の空気の減圧により気泡が生じ、
血液の流れが阻害される潜水病と同じ「空気塞栓」が起こる可能性があるので、
搭乗前に充分な時間を掛けて100%の純酸素を呼吸し、
血液中の窒素を追い出してからスーツを着用する必要がありました。

■ Lockheed U-2


SR-71の非公式名「ブラックバード」のように、U-2にも
「ドラゴン・レディ」という愛称が付けられています。

先日、U-2撃墜事件の偵察パイロット、フランシス・パワーズについて
お話ししてみたわけですが、自分の撮ったスミソニアンの写真の中に、
U-2を撃墜したミサイルがあったので、ちょっと驚きました。

忘れていたのか?わたし。


SA-2 ガイドラインミサイル Dvina (ドヴィナー)

SA−2はNATOのコードネームで、SAは”surface-to-air”のことです。

ところで、当ブログではSR-71を設計した
スカンク・ワークスクラレンス・ケリー・ジョンソンについて、
何度か取り上げているのですが、このU-2を設計したのもジョンソンです。

もう一つついでに、P-38ライトニングもこの人の設計です。

当時「第二の真珠湾攻撃」をソ連から食らわないように、
そして、より高高度からの偵察を目的に、U-Sは1950年代半ばに
ロッキード社を介してジョンソンに設計が依頼されました。

ジョンソンは、プロジェクトを予定よりも早く完成させることで知られていました。

最初に設計したCL−282という機体は武装しておらず、
専用のカートから離陸して胴体着陸する(どんなんだ)という、
まあいわば、ジェットエンジンを積んだグライダーみたいなものでしたが、
ルメイ将軍はこれを見るや、

「車輪も銃もない飛行機に私は興味がない!」

といって、プレゼンテーション会場を出て行ってしまったとか・・。

しかし、結局このプロトタイプは採用されました。

(採用を決める委員会のメンバーに帆船好きがいたり、
インスタント写真を発明したエドウィン・ランドがいたせい、という話もある)

つまり軍ではなくCIAが運用するならいいんでない?
というところに落ち着き、アイゼンハワーもこれを了承しました。

最終的には軍が飛ばすことになるんですけどね。

名前のU-2の「U」は、なぜか偵察と関係のなさそうな
多用途とか有用の「utility」から取られています。

U-2に搭載する大型カメラは高度18,000mから76cmの解像度を持っていました。

カメラの光学関係を開発していたジェームズ・ベイカーが、ジョンソンに
610cmの焦点距離を持つレンズのために、
機体にあと15cmのスペースを確保してほしい、と頼んだところ、彼は

「その15センチのためにわたしはおばあちゃんを売るよ!」

と答え、ベイカーは代わりに133cm×33cmフォーマットの
460cm F/13.85レンズを最終設計に使用ししたという逸話が残されています。


スミソニアンに展示されているU-2のカメラ


前にも一度上げていますが、もう一度。
U-2の積んでいた偵察のためのお道具一覧です。

U-2撃墜事件でソ連のジェット機はともかく、
対空ミサイルにはその性能を発揮できないことが明らかになったあとも、
1962年のキューバにおけるソ連のミサイル増強の偵察、中国の核実験の検証、
ベトナムや中東での偵察、民間の災害調査や環境監視など、
重要な役割を果たしてきました。

航空宇宙博物館の機体は、空軍の特別プロジェクトのために
迷彩色に塗装されたU-2Cです。

U-2の生産は1989年に終了しましたが、今現在も現役で運用中です。

続く。