ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海上自衛隊呉音楽隊 第49回定期演奏会

2019-02-28 | 音楽

2月から3月にかけては音楽隊の定期演奏会シーズンです。
残念ながら陸空自音楽隊とは全くご縁がなく行ったことがないのですが、
おそらく他の音楽隊でもこの時期に定演が行われているのでしょう。

先週末は、呉地方音楽隊の定期演奏会に行ってきました。

今回の訪問も、演奏会のためだけに滞在して日帰りです。
行きの飛行機はいつも右舷窓側を選択し、富士山を見ようとするのですが、
いつも気がついたら通り過ぎていて、これが見えます。

「今日もわれ大空にあり」でセイバーが飛んでいた日本アルプスの一端、
静岡、山梨、長野にまたがる赤石山脈だと思われます。

左上の雲の上に見えているのが中央アルプスかもしれません。

会場はいつもの呉文化ホール。

朝8時の飛行機に乗ったので、空港で朝ごはんを食べて時間を潰し、
その上で会場近くには早めに到着したのですが、前を通りかかると
会場前には列を作って開場を待つ人たちの姿がありました。
わたしたちはご招待なので、受付をすると二階に上がり、
決められた席に案内されるのですが、招待でない人は早いもの順で
好きな席に座れるのかもしれません。

呉文化ホールでの招待客は、必ず二階に上がって、そこで金屏風の前にいる
呉地方総監にご挨拶をすることになります。

わたしたちも、12月に退官された池太郎海将の後任になられた
杉本孝幸海将に初めてご挨拶してから席に着きました。

杉本海将は鹿屋の第一航空群の司令であったこともあるそうで、
つまり固定翼パイロット。
呉地方総監部は二代にわたって航空畑の総監ってことになりますね。

プログラム写真転載なので画像が粗くてすみません。

♪ 祝典行進曲(Celebration March)團伊玖磨

第一部の指揮は、呉音楽隊副長の田中孝二二等海尉が行いました。

祝典行進曲は、昭和34年4月10日に執り行われた皇太子殿下、今生陛下の
ご成婚を祝して作曲された華やかなマーチがオープニングに演奏されました。

先日行われた東京音楽隊の定期演奏会にも

「天皇陛下御在位30周年記念」

と銘打たれていたように、呉音楽隊もまた、御在位30周年にして
今年で平成が終わるということを記念する曲をオープニングに選びました。

音楽だけでなく、海上自衛隊では、天皇陛下御在位三十年を記念し、
慶祝行事の一環として2月24日から28日までの間、自衛隊基地の艦船が
満艦飾又は艦飾及び電灯艦飾を実施されていますので、近隣の方はぜひご覧ください。

「祝典行進曲」は最初にiPodが発売された頃、iTunesで購入した
陸上自衛隊の行進曲集に入っていたせいで、とても馴染みがあります。

さすがは團伊玖磨先生、軽やかで明るく、皇室の慶事に相応しく
気品が感じられる典雅なマーチで、その年の秋に行われた
東京オリンピックでは入場行進曲に使われたそうです。

ところで、わたしが東音のコンサートに行った日、いつも写真をくださる
Kさんは陸自中央音楽隊の特別演奏会に行って来られたそうで、
パンフレット画像を送ってくださったのですが、これによると
中央音楽隊でも最初に三善晃の「祝典序曲」を演奏したようです。

ただしこちらの祝典は大阪万博のために作られたものだとか。
それよりも注目したのは

「ヘイル・コロンビア」(アメリカの初代国歌)
「君が代」(フェントン)
扶桑歌(ルルー)雪の進軍(永井建子)

という一連の作品群でした。

この日のプログラムは、このようなもの。
この妙香寺は地元では「君が代発祥の地」と言われており、
昔ここで行われた横須賀音楽隊の演奏会でフェントン版君が代を聴いたことがあります。

ああ、この演奏会、聴きたかったなあ・・・・残念。

 

さて、呉音楽隊の演奏に戻ります。

♪ ごんぎつね〜音楽と語りのための〜 福島弘和

続いてはなんと珍しい、新美南吉の「ごんぎつね」の朗読に
音楽をつけて音楽劇仕立てにした作品が演奏されました。

この形式の音楽で最も有名なのは、セルゲイ・プロコフィエフの

「ピーターと狼」

だと思うのですが、作曲者が劇音楽の題材にこのお話を選んだのは、
「オオカミ」→「狐」という連想からだったとか・・まさかね。

 

自分がやらかしたいたずらのせいで、病気の母親に、今生最後の
うなぎを食べさせてやれなくなった兵十に対し、ごんぎつねは
償いのつもりでせっせと栗や松茸を運んでやるのですが、
そうとは知らない兵十は、ごんを銃で撃ち殺してしまう。

いつも呉音楽隊の演奏会には司会を務める、おなじみの
丸子ようこさんが皆が知っているこの悲しい結末の話を朗読しました。

ごんがいたずらをする様子、川のせせらぎ、夜の道の匂い・・。
こんな物語の情景がありありと浮かぶような、主に和風の旋律からなる
描写的な音楽が、あるときは朗読に絡み、時には独立して
あの「ごんぎつね」の話を紡ぎあげていきます。

わたしとしては、最後に兵十が銃をどんと撃つ瞬間、
ごんがばったり倒れる瞬間をどう音楽に乗せるのかに興味がありましたが、
意外とそこは普通?に、流れる音楽の上に物語を語らせておいて、
その後壮大に盛り上がり、ことばの余韻を味わっている人々に
駄目押しの感動を与える、という構成になっていました。

恥ずかしながらこのわたしも、こんな一語一句覚えている話で何を今さら、
とたかをくくっていたら、曲終了後、右頬に涙が流れ、
(わたしの右目の涙管は事情があって閉塞しているので)
なぜか鼻詰まりを起こしていたのでちょっとびっくりしました。

帰りの車の中でわたしがTOにそのことをいうと、

「なんで『ごんぎつね』なんかしたんだろう」

「どうして?よかったじゃない」

「何もコンサートであんな悲しい話を取り上げなくても、って思った」

TOは「火垂るの墓」を最後まで観ることができず、
(清太が鉄棒をするところでやめてしまった)さらには、

「にいちゃん、なんで〇〇死んでしまうん?」

と何かに引っ掛けて冗談を言っただけで

「やめろおお!」

と嫌がるというくらい悲しい話に弱い人なので無理もないのですが、
そもそも音楽とは、楽しいも悲しいも人の世に起こりうる普遍的なものや
それらを含む森羅万象を音で表すことを目的にしている芸術なのでね。
悲しいからやらないとかいうわけにはいかんのですよ。

「それと、プログラムに書いてあったごんぎつねの解説が嫌だった」

「何それ。わたし読んでない」

「えーと、
『悲しい、悲しいけど美しい。そして死という最大の悲劇が

起こらなければ通じ合わない人間の愚かさを、新見氏は見事に
芸術作品として結晶させています』だって」

「・・・うん・・それはわたしもいやだわ」

新美南吉がこの話を書いたのは若干17歳の時だったそうですが、
おそらく彼はアネクドートとしてこの話を書いたつもりも、
ましてや何かの教訓を示唆するつもりもなかったでしょう。

わたしがこのテーマについて三行で書くならこうかな。

改悛の気持ちから、相手に決して知られずに行う償いという
「善」に報いる「神」はこの時世界にたまたま不在だった
兵十は今後の人生においてごんの死という十字架を負って生きていく

「十字架」はあくまでも観念的な意味ですので念のため。

ここでふと興味を持って調べてみたところ、すごいページが見つかりました。
学校教師のための参考(アンチョコ?)サイトで

「ごんぎつね」で新美南吉は何を伝えたかったか

なぜ悲劇なのか、作者について知ることで、どうして彼が
こんな話を作ったのかを子供達に考えさせようというのですが、
新見の生い立ちが悲惨で、子供時代は孤独だった、に始まって

中国との15年戦争がはじまっており、「ごんぎつね」は
世の中が戦争ムードへと大きく傾き始めている中で書かれている

といったいかにもな日教組的誘導があって、なかなか香ばしいです。
ここには子供から出された意見も列挙されていますが、

「早まって人を殺したり傷つけたりしてはいけない」

「いたずらや火縄銃では決して幸せになれない」

など、こちらもほとんどが先生の喜びそうなお利口さんばかり。

作家が作品に投影させるのは必ずしも教訓とは限らないし、
17歳の少年、新見がただ

「なんとなくそんな話を描きたかったから書いてみた」

どいうだけだったかもしれないのに。

閑話休題、音楽とは全く関係なかったですね。


さて、「ごんぎつね」のあと、早々に休憩がアナウンスされました。

昨年12月に交代した音楽隊長のお披露目となる日だったので、
第二部以降に
ボリュームを持たせることにしたのでしょう。

新隊長は石田敬和一等海尉。
呉音楽隊の構成メンバーは全員が海曹海士からなり、
隊長と副隊長だけが尉官となります。

石田一尉は音楽大学ではなく、江田島の幹部候補生学校を卒業し、
初任幹部として東京音楽隊に勤務をしていた経歴を持ちます。
専門はオーボエ。

ちなみに前半の指揮者田中二尉は、最初の任務が駆潜艇「くまたか」だったそうで。
さすがは海上自衛隊の音楽隊、こんな経歴の人もいる。

昨年の12月まで、大湊、横須賀音楽隊の副隊長を歴任してきた石田一尉は
この度呉音楽隊で初めての隊長職就任となります。


♪ 「軽騎兵」序曲 フランツ・フォン・スッペ

 

最初のステージでどんな曲を振るかというのは、指揮者にとって
「自分はこういう指揮者です」ということを知らしめる意味もあって
非常にこだわりを持つところだと思うのですが、その最初の曲がこれ。

名前を知っているかどうかはともかく、誰でも聞き覚えがあって
広く親しまれている曲を選んだあたりに、新隊長の好みと方向性が窺えます。

その傾向は、次の曲にも表れていました。

♪ 弦楽合奏のセレナードop.48 ペーター・I・チャイコフスキー

 

わたしはこの曲を「弦楽セレナーデ」という名前で認識していたのですが、
吹奏楽編曲版はこの名称として知られているようです。

本来はオーケストラの4楽章からなる構成ですが、吹奏楽バージョンは
それらの主要部分をメドレーにして12分の曲にまとめてあります。

実家の母は、

「わたしのお葬式にはチャイコフスキーを流して欲しい」

というくらいチャイコフスキーの旋律を愛しているのですが、
その中で彼女が特に好きなのが、3楽章の「エレジー」。(4:10から)

練習の合間にピアノで弾いてあげるとうっとりとしていたものです。

第一楽章は、おそらく皆さんもこれでご存知のはず。

 

♪ チャルダッシュ ヴィットリオ・モンティ

なんと珍しい、チャルダッシュをコントラバス独奏で聞いたのは初めてです。
音楽隊唯一の弦楽器であるコントラバス(あ、ハープも弦楽器か)を
吹奏楽全員が伴奏に回ってのこれもかつてない組み合わせで。

ニコニコ動画で演奏しているのはベルギーのコントラバス奏者、
ディース・デ・ボーヴェという人で、とにかくテクが凄い。
コンバスは大きいので、音程をこれだけ正確に取れるのはほとんど「神」です。

特に3:14からのフラジオレット(倍音、ハーモニックス)の部分、
これ、抑えるところも普通と全く違うし、音程とりにくいんですよ。

この曲ソリストを務めたのは中串誠海士長。
ハーモニックスのメロディも見事でした。

広島の音楽高校から京都芸大に進んだという経歴で、
自衛隊に入隊したのは平成29年の3月ということです。

実は、プログラムに書かれた彼の「先生」のなかに一人、
わたしが知っている奏者がいるのですが、中串士長が楽器を抱える立ち姿が
後になって思えば記憶に残るその人にそっくりだったような気がして・・・。
教師のスタイルというのはやっぱり弟子に受け継がれるものなんでしょうかね。

「チャルダーシュ」も世間一般に有名で、誰が聞いても楽しく、
さらには
コンバスによる超絶技巧を目でも堪能できるということもあって、
皆演奏を終えた奏者に惜しみなく拍手を送りました。

日頃はベースを支えるという「地味」な仕事をしているベース奏者ですが、
クラシック、ジャズ、その他を問わず、彼らが実は

「俺がいなければ音楽は成り立たない」

という強烈な自負を持っていることは、関係者なら誰でも知っています。

そのベース奏者をフィーチャーし、主役に据えたこの選曲は
皆にその存在をアピールする意味でも大成功だったといえましょう。

 

♪ SEA OF WISDOM〜知恵を持つ海〜 清水大輔

 

東京音楽隊の高音質の動画が見つかりました。
音楽に興味のない方もぜひ聴いてみて欲しいのですが、
題名を全く言われずに聴いても、クラリネットのマウスピースを使ったカモメの声、
出航に際して聞こえてくる鐘の音など、海をテーマにしている、
とわかる効果があちこちに散りばめられていて、これはもう
海上自衛隊が取り上げるのは当然、という内容となっています。

作者によると、この曲は和歌山県の吹奏楽コンクールのために書かれ、
ここで表現されている海は和歌山県白浜なのだそうです。

朝の海、荒々しい岸壁、そして波を切りながらも進んでいく船・・。
そこには人類の叡智の源である海への敬意が込められています。

この曲が終わった時、まだ時計は開始から1時間半経った3時半をさしていました。
隊長がコールに応えて現我「行進曲 軍艦」を、若い指揮者らしく
少し早めのテンポで演奏し始めた時、もう終わり?と誰もが思った(はずな)のですが、
ここからが大フィナーレだったのです。

 

指揮者が合図をすると、会場から制服の高校生がステージに上がってきました。

呉音楽隊は地元の中高ブラスバンド部の演奏指導もその任務の一環として
恒常的に行なっているのですが、今回はその「生徒」たちを呼んで、
日頃の練習の成果を一緒にお披露目しましょう、というわけです。

♪ 宝島 和泉宏隆  真島俊夫編曲

東京音楽隊が昨年昭和女子大の人見記念講堂で演奏会をした時、
付属中高、昭和女子大の吹奏楽部と合同で演奏した
「宝島」の演奏が見つかりましたので貼っておきます。

この曲をやったことがない吹奏楽団体は日本には存在しない、
と言い切ってもいいくらい人気の高い曲なので、合同演奏には便利。
やってよし、聴いて良し、会場を最後に盛り上げるのにも最高の曲です。

帰りに話したところ、TOがこの曲を知っていたので、

「知ってたんだ」

とちょっと驚いたのですが、なんでもフュージョン全盛の頃、
Tスクエアの演奏がTDKのコマーシャルに使われていたらしいですね。

わたしもこの曲の、

ファ ミードーレドーレドシ♭ラー ソッラシ♭ードー
ラーソッファミーレードー(F)

が来ると、いつも太腿(なぜか必ず左)に鳥肌を立ててます(笑)


さて、ここで終わるかと思ったら、まだまだ。
サーカスを思わせる「大急ぎのマーチ」が演奏されました。
わたしはこの曲のことを知らなかったので、帰りに、ホールに立って
いつものように観客をお見送りしてくれている隊員の方に曲名を聞きました。

♪ マーチ「一度っきりの人生」 伊藤康英

題名を聞いた時、

「はて、一度っきりの人生、というような曲調には聞こえなかったけど」

と少し違和感があったのですが、作曲者によると、

コンサートの一週間ほど前に、アンコールになにかもう1曲足りないなあと思い、
午前中に作曲、午後のリハーサルに間に合わせたクイックマーチで、
予定された編成のために書いたので、おそらく「一度っきり」しか演奏できないだろう、
とこんなタイトルをつけてみた。

だそうで、納得しました。

これは一緒に演奏した中高生たちも楽しかったことでしょう。

 

耳に馴染みのある誰でも知っている曲、音楽童話、そして地元の学生との合同演奏。
地方音楽隊の役割をしっかりと果たしつつ、良質な音楽を提供してくれる
新生呉音楽隊のこれからの活動に期待したいと思います。

またコンサートの参加にあたりご配慮をいただきました関係者の皆様に
この場を借りてお礼を申し上げます。

ありがとうございました。


 

 


スペシャル・ボート・ユニットとSWCC〜メア・アイランド海軍工廠跡博物館

2019-02-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

メア・アイランド海軍工廠博物館内にはこんなバナーがありました。

 

海軍工廠誕生150周年。

メア・アイランドに海軍が造船所を開設したのは1854年のこと。
1854年というと、日本は嘉永6年。

ちょうどこの年の2月、マシュー・ペリー率いるアメリカの艦隊が
浦賀に再来し、江戸湾で威嚇を、それに続く幕府との会談を行なっています。

 

メア・アイランドにはそれから4年後の万延元年、わが国初の遣米使節が
「咸臨丸」を伴って訪れ、咸臨丸はここで修理を受けるという縁がありました。

それから150年後ですから、2004年に華々しく式典行事が行われたのでしょう。
ただし、海軍工廠そのものは1996年に閉鎖されていますが、
国によって海軍工廠跡は歴史的建築物地区に指定されています。

 

 

さて、メア・アイランド海軍工廠跡にある博物館の展示品は、
写真、模型だったり制服だったりという小さなものが多いのですが、
冒頭写真のような大型の展示もあります。

 

シャークをペイントした小型艇。
途端にわたしはPTボートを思い出してしまったのですが、
こちらの方がふた回りくらい小さなイメージです。

しかし、周りには具体的な説明は何もなく、ただ
ボートの上部にこのスコードロンマークが掲げてあるだけ。

後ろに上がって中を見ることができました。

 

舞台で使う大道具、と言ってもいいような雑な作り。
一体この船はなんでしょうか。

この「スペシャル・ボート・ユニット」というのが、このボートの所属先のようです。
調べたところ、まずこのユニットは、現在

アメリカ海軍特殊作戦コマンド

という組織隷下の、

特別戦闘舟艇乗務員 
Special Warfare Combatant-craft Crewmen
 (SWCC)

というものに変わっています。

見て字の通り、小さなボートを使用してミッションをこなす部隊で、
ネイビーシールズとは似ていますが別の部隊です。

SWCCの特別な任務は大きな艦艇には侵入できない浅く狭い水域での
行動、偵察や巡回、突破などです。

SWCC - Navy's Best Kept Secret -Navy's Special Warfare Combatant-craft Crewmen

 

歴史を遡ると、ボートによる特殊部隊が組織されたのは第二次世界大戦中で、
ここでもご紹介したPTボート部隊は主に南太平洋に投入されていますが、
ボートを専門とした特殊部隊の効果が発揮されたのはベトナム戦争の
河川地域での展開においてでした。

メア・アイランドには、特別ボート部隊の第11ユニットの基地があり、

これが組織されたのは1972年で、活動地域はナパやサクラメントに至るこの地域の、
デルタ地域で主に警戒に当たりました。

スペシャルボートユニット11のマークですが、この右側、

「リバー・ラッツ」(川のネズミ)

というのが彼らの自称。
さらに

「ブラウン・ウォーター・ネイビー」

という言葉に聞き覚えはありませんか?

昔このブログでも

「人民海軍はブルーウォーター・ネイビーの夢を見るか」

というタイトルで外洋海軍について説明するついでに、
このブラウンウォーターが水が茶色い河川や沿岸部を意味することから
ブラウンウォーター・ネイビーについても触れたことがありますが、
ボートユニットがまさにこれそのものです。

ただし、この言葉は正式なものではなく、どちらかというと
ブルーウォーター・ネイビーに対して自虐的に自称している雰囲気です。

そう考えれば、「リバーラッツ」(川のネズミたち)も自虐的ですよね。

もう少しかっこいい名称としては、

「The Quiet Professionals 」(静かなるプロ集団)

というのがあります。
シールズや他の部隊の足がかりを作るために初動で
静かに現地に潜入する役割であることからです。

ただし、ワッペンにも「コンバット・レディ!」とあるように、
特殊訓練を受けた彼らは体力的にエリートばかりの少数精鋭、
大変士気の高い部隊であったらしいことが残された写真などからわかります。

ボート部隊の隊員を「クルーマン」と言いますが、クルーマンになるには
厳しい資格検査を経てさらにスクリーニングで生き残らねばなりません。
 
まず、試験資格は
 
裸眼視力1.0以上、色盲でないこと
 
ASVAB (入隊共通試験)で一定以上の成績である
 
17歳以上、30歳以下
 
米国国籍を所有する
 
まあ、この辺は当たり前というか大した問題ではありません。
しかし、クルーマンへの道が開かれるスクリーニングとは、
以下の行程を全て時間以内にこなした者に限られます。
 
 
13分で500ヤード(457m)をサイドストローク(横泳ぎ)
あるいはブレストストローク(平泳ぎ)で泳ぐ
 
 (10分休憩)
 
2分以内に50回の腕立て伏せ
 
  (2分休憩)
 
2分以内に6回の懸垂(鉄棒)
 
  (10分休憩)
 
12分以内に1.5マイル(2,4 km)ランニング
 
シールズのブートキャンプで行われる水中破壊訓練
 
あのー、最後でほとんどが落とされるような気が・・。
上級メンバーの資格は以下の通り。
 
9分30秒以内で500ヤード泳ぐ(50mを約1分のペース)
 
  (10分休憩)
2分以内に腕立て伏せ80回
 
  (2分休憩)
 
2分以内に75回腹筋運動
 
  (2分休憩)
 
2分以内に15回懸垂
 
  (10分休憩)
 
10分30秒以内に2,4kmランニング
 
水中破壊訓練
 
ただし、このスクリーニングに合格しても、
まだクルーマンになれるわけではありません。
 
9週間、ランニング、水泳、ボートなどで基礎体力の錬成とともに、
精神力のテストも行われるため、ほとんど寝ることもできない状態の中、
過酷な訓練で訓練生は限界にまで追い詰められるそうです。
 
SWCC Training Video (2010)
 

世間ではネイビーシールズばかりが有名で、SWCCの訓練と
スクリーニングの厳しさはあまり知られていない気がします。
わたしが寡聞にして知らなかっただけならすみません。
 
Navy SEALs & SWCC Training Program
 
このビデオでボートを漕いだり担いだりしているのが基本SWCCです(多分)
後半、氷の張った川にみんなでせーの!と潜ったりしてます。
こんな訓練を続けているだけで、皆、肩やの筋肉は盛り上がり、
首がほとんど顔と同じくらいの幅に太くなって皆同じ体型になってます。
 
そして晴れてSWCCとなると、こういうことに・・・
 
 
(音量注意)
 
ブラウンウォーター・ネイビーそのままですね。
 
 
ところで、メア・アイランドのボート・ユニットのアルバムに残るこの写真。
一番右、もしかしてこれは我が海上自衛隊の士官ではございませぬか?
 
そう思ってこのメンバーを見ると、どうも世界各国の海軍軍人の集合みたい。
 
SBU11の歴史をもう一度見ると、本隊は教育機関でもあり、また
 
"ONE NAVY CONCEPT"

のもと、世界各国の海軍との技術交流を行なっているようです。
それにしてもこの士官さん、どういう立場でここで写真に収まっているのか。

もう退官された方かなあ。
どなたかこの士官をご存知の方がいたらぜひご一報ください。

メア・アイランドに所属していたSWCCの前身であるボートユニットで
使われてきたボートが、保存されることになって搬入されるシーン。

ここの展示のおかげで、ボートユニット、そしてSWCCなる特殊部隊があることを
今回初めて知ることになりました。

 

 

続く。


映画「今日もわれ大空にあり」〜「最後の有戦闘機」映画?

2019-02-25 | 映画

「今日もわれ大空にあり」最終回です。

同梱されていた解説の扉絵は公開当時のプログラムの復元で、

「F104全機出動!
驚異のスピードで描く迫力と感動!」

そして、総天然色の文字がすごく目立つところに書いてあり、さらには
航空自衛隊全面協力という表示までが見られます。

続きと参りましょう。

機を降りる決心をした山崎、最後の日々に部下を一層鬼となって鍛え抜きます。

「タイガー5、お前は死んだ!」

「タイガー4、殉職!帰れ」

「タイガー3、お前も殉職!帰れ」

ただ編隊飛行しているだけなのにいつの間にか死んだ認定され、
隊長によってバンバン地上に戻されていきます。

「お前もか」

「パイロットの人権を無視しとるよ!」

「この分だとF104に乗れるのは二人、もしかしたら隊長だけかもしれんな」

「ハッハッハッハッハ」

何がおかしい小村。

最後まで食いついてきた三上一尉と隊長機。

画面は合成です。
実機を使って合成、ところどころ模型による特撮が挿入されています。

これは映画前半の訓練シーンですが、こんな風に
地上目標を攻撃する様子が描写されるのも空自としては大サービスといえましょう。

さて、厳しく錬成されたタイガー部隊が、いよいよF-104の操縦課程を受けるために
千歳に転勤する日になりました。
移動はF-86に乗って、夕刻出発、つまり夜間飛行で行うことになっています。

ところが千歳の天候は超荒れ模様。
嵐が来ているとの報告も受けています。

普通なら日を改めて明るいうちに出発、ということになろうかと思いますが、
映画ですからそうはなりません。

いかに全天候型戦闘機とはいえ、夜間嵐の日に戦闘機を飛ばすのは無謀なので、
基地司令は当然飛行中止を言い渡すのですが、隊長はきっぱりとこう言います。

「決行します!
わたしは四人に最後のはなむけをしたいんです。

それはF104のパイロットとして成長していくためにも
ぜひ必要な空への自信です。
今夜の悪天候を克服できれば、彼らはどんな状況にも
立ち向かえる確信がつかめると思うんです」

こういう科学を無視した根性論って、どうなの。
状況待ちのタイガー部隊が他のパイロットたちに

「ヒロイズムかい?やめてくれよ」

「跳べるか跳べないか判断するのも
新しいパイロットの勇気だと思うんだがな」

とか言われるシーンがありますが、全くその通り。禿げ上がるほど同意。

第四艦隊事件を旧軍軍人のくせに知らんのか隊長。
根性論で危険を回避できるのだとしたら、そもそもあなただって
戦時中に機を撃墜され、民間人の命を奪うこともなかったでしょうに。

部下に自信を与えるためといい後部座席から飛び降りて骨折したり、
貴重な搭乗員と、何億もする機体を失うかもしれない状況下に
あえて「自信をつけさせるために」飛行を強行する。

これって指揮官としてという前に、一人の社会人としてどうなの?

でもそこは映画なので、俺たち、隊長を信じてついていくZE!
という体育会的ノリで全員が同意の上、悪天候の夜間飛行が強行されることに・・。

しかしこれはクレージーシリーズ+若大将シリーズの古澤節に加え、あの須崎脚本。
こういう無茶な方向に突き進むのはある意味自然のことわりというものかもしれません。

そして案の定本人たちが苦労するのはもちろん、受け入れる方の千歳基地では
このためてんやわんやの大騒動になるのでした。

このシーケンス、画像が真っ暗で非常に見にくいので状況の推移を書き出すと、


離陸(ここの音楽は全体の中でも比較的マシ)

それを見送る隊長の妻と娘(どこから見ていたのかは謎)

千歳基地管制「瞬間最大風速15ノット、暴風雨圏内にあり」

部隊「第二進路変換点金華山へ向かう」

ブレイクした編隊、集合するも案の定風間が来なかったりする

全機で暴風圏に突っ込み散り散りに!なんとか集合することに成功

千歳着、アプローチをなんどもやり直している間に燃料がなくなってくる

「佐々、53引く28は?」

「えーとえーと」

「25!お前は父親が25の時に生まれたんだろう」

「小村、奥さんの顔を思い出せ」

「それどころじゃありません!」

「おまえの機の翼灯を由紀ちゃんだと思え!」(はい?)

「はい!」(納得してんじゃねー)

千歳上空着

地上では救急車を出し、雨の中全員が走り回る騒然とした状態

全員を着陸させているうちに案の定隊長機の燃料切れる

「燃料が切れた。滑空で着陸する」

「隊長があぶなーい!」

着陸

浜松基地で部下の報告を受ける司令

「タイガー部隊無事到着しました」

「これで連中もわかってくれただろう。山崎という男を。
そしてパイロットの根性を。よかったよかった」

よくねーよ!

 

着陸した飛行機を土砂降りの中誘導するために走っていく人たち、
神経をすり減らして管制指示を行う人たち・・。
そういういらん心配と勤務時間外労働を強いられる大勢の地上勤務隊員のことを
少しでも自衛隊の組織の上に立つ長ならまず考えるべきではなかったのか。

「あーえらい目にあった」( -_-)旦~ ( -_-)旦~ フゥ...

そこに辞令を持ってやって来る教官の平田昭彦(様)と田崎潤千歳基地司令。

「航空史上誰もやったことがない壮挙をやってくれてありがとう」

嫌味か。それは嫌味なのか司令。

そこで山崎隊長、おもむろに、

「実は・・」

自分がこの任務を最後に飛行機を降りることを皆に告知します。

「わたしですか!わたしのせいで飛行機を降りるんですか!」

まあ間接的にはそうかな。
君のトラウマ克服のために飛行機から飛び降りて、腰を痛めたのが理由だからね。
もちろん隊長が勝手にやったことで君には責任はありませんけどね。

「それよりみんなF104を立派に乗りこなして欲しい」

「隊長!」×4

「みんなよくやった。自信を持っていいぞ!」

 明けて次の日、爽やかに晴れ渡った千歳基地。
一日待ってこの日に出発すれば、あんな苦労しなくてすんだと思うんですけどね。

山崎隊長は浜松基地に戻って地上勤務に就くため、千歳を出発します。

これから自分たちが挑戦するF-104の機上から隊長を見送るタイガーたち。

「隊長!体に気をつけてください!」

「たいちょおおおおお!」

当銀長太郎はこの後怪獣映画や時代劇のバイプレイヤーとして活動を続け、
アクション俳優として息長く、現在も後進の指導に当たっているそうです。

間接的には自分のせいで隊長のパイロット人生を終わらせた風間。

この俳優さん、結構なイケメンで、デビュー当時は加山雄三の後継者、
みたいなキャッチフレーズだったそうですが、何か深い事情がおありだったのか
5年間ほど活動したあと、映画界からは姿を消してしまいました。

この最後のシーンで、大変なことに気がつきました。

最初の回で、映画公開された1962年はまだF-104は配備されていなかった、
と書いたのですが、千歳基地にはご覧のように少なくとも10機が並んでいます。

その訳は、DVDに添えられていた解説によって判明しました。

本作の本当の撮影時期は1963年秋、公開は1964年2月29日。
つまり映画のwikiの公開年が間違っていたのです。


この画像には533番という機体番号が見えます。

最初の3機はアメリカで生産して運ばれてきたもの、そのあとの17機がノックダウン生産、
20機目以降は国内ライセンス生産ということですので、すでに三菱が
ライセンス生産した機体が千歳に配備されていたという証拠となります。

撮影時期の1963年には配備が完了し、映画に登場していた千歳基地では
第201戦闘機隊が編成され、

「F-104機種転換操縦過程(操縦者教育」

の任務を請け負っていたのでした。

平田昭彦(様)はこの教官だったという設定ですね。

ちなみに第201飛行隊は現在では戦闘機F-15J/DJの部隊であり、
愛称は「ファイティングベアーズ」、部隊マークはヒグマの横顔だそうです。

司令とともに基地を去る山崎の最後のフライトに手を振る千歳基地のみなさん。
わたし、田崎潤の左側の人が本物の千歳基地司令だと思う(笑)

これを見て思ったのですが、空自では「帽振れ」は正式な慣習ではないようですね。

パイロットとして最後の離陸を行う山崎二佐。

爆音を残して単機離陸した山崎は管制に

「限度いっぱいまで登ってみたいんですが」

と最後のささやかなわがままを。

ところが、彼のF86を、F-104の6機編隊が軽々と飛び越えていくではありませんか。
まるでミサイルのような「最後の有人戦闘機」の姿を誇示するかのように。

その未来そのものの機体、性能を目の当たりにし、
山崎は自分の時代が終わった、という寂寥と、後進を育てるという役目を
果たすことができたことに対する安堵感を感じました(たぶんね)

「ありがとう。所定の高度に降下します」

色々と突っ込ませていただきましたが、本作において、一人の飛行機乗りが機を降りる、
切ない気持ちが端的に表されているこのシーンは秀逸です。

老兵は死なず、ただ消えゆくのみ。

彼らに手を振ると、新しい任務が待っている浜松基地に向けて
山崎二佐は、F-86によるラストフライトを行うのでした。

・・年次飛行があるのでまだ本当に最後ってわけじゃないですけど。

監督こだわりの「日の丸の赤」に染められた「終」の文字が
最後に現れて映画は終わり。


歴史的な戦闘機が実際に飛ぶ姿だけでなく、当時の自衛隊の基地内の様子、
映像を見ることができるこの映画、自衛隊に関心のある方は必見です。

なんでも、最近この映画を勧めてくれた方によると、今の空自広報室では
この作品について「誰も知らなかった」ということでしたが、そう言わず、
現役の自衛官も、機会があればぜひ見ておいていただきたいと思います。


それから余談ですが、これも今回聞いたところ、この映画制作に対する
防衛庁・航空自衛隊の献身とも言える協力ぶりに、当時、
社会党が国会で噛み付いて大騒ぎしたそうです。

のみならず、当時左に傾いていた映画界は、自衛隊に協力させた映像を
「反戦」をアピールするシーンで逆説的に使ったりして防衛庁を怒らせ、
以前ここで扱った陸自のレンジャー課程を扱った映画「激闘の地平線」の時のように
武器兵器の撮影を拒否され、映画で自衛隊を扱えなくなりました。
(ゴジラ映画のぞく)

爾来何十年。
国家観はないがミリオタな当時の防衛庁長官、石破茂のほぼ唯一の功績となった
海上自衛隊協力による映画「亡国のイージス」制作まで、映画界は
防衛省の全面協力を得ることはなかったに等しく、それまでの間、本作は

最後の有人戦闘機ならぬ「最後の有戦闘機」映画

(誰が上手いこと言えと)の座にあったと言えるのかもしれません。

しかしみなさん、ご存知ですよね?
今年5月に公開の「空母いぶき」は、
海上自衛隊協力の下に撮影された久々の自衛隊もの。

すでに試写会を観てきたメディア関係の方のご報告によると、

「完全な自衛隊賛美映画」

だということです。
原作では主人公の艦長は空自出身ですし、テーマが空母なので、
おそらく「空母いぶき」が「今日もわれ大空にあり」の
「最後の有戦闘機映画」のタイトルを塗り替えることになるでしょう。

テレビ分野における「空飛ぶ広報室」の成功もあったように、
自衛隊を主人公に描くことがタブーでなくなりつつあるのは喜ばしいことです。


それから最後に。

本作が公開された1964年の10月10日、アジア圏初のオリンピックが東京で開かれ、
開会式では航空自衛隊の「ブルーインパルス」が
会場上空に五輪を描きました。

この時機体に施されていた塗装は、この映画への空自の全面協力に対するお礼として、
東宝映画美術部の沼田和幸が、浜松基地を拠点としていた航空自衛隊戦技研究班
「ブルーインパルス」のためにデザインしたものです。

東宝のプレゼントしたデザインは、オリンピックイヤーの1964年より
使用機F86Fセイバーの塗装として制式採用されることになりました。


( ;∀;)イイハナシダナー


終わり。

 

 


映画「今日もわれ大空にあり」〜ジェットジェットジェットパイロット♪

2019-02-24 | 映画

映画「今日もわれ大空にあり」、二日目です。

監督の古澤憲吾の代表作は「クレージーシリーズ」や若大将シリーズ。
戦争映画は加山雄三主演の「青島要塞爆撃命令」だけですが、
当時の映画界では珍しく愛国心の発露を憚らないタイプで、
東京裁判に異議を唱える立場から日本の近現代史を描く
『アジアの嵐』というタイトルの映画を制作しようとしていたほどです。

もちろんその計画は、政治的話題を嫌う東宝によって潰されることになるのですが。

この映画のタイトルです。
真っ赤に染められたタイトル文字、これは古澤の大好きな「日の丸の赤」で、

この色にこだわるあまり監督自ら現像所にまで出向いて作り上げたもの。
現像所ではこの色を古澤オリジナルの「パレ赤」と特に名付けていたそうです。

航空自衛隊の宣伝ともなる映画の企画が立ち上がったとき、
左翼隆盛の当時の映画界の中でも愛国心を隠さない古澤に、
監督の白羽の矢が立ったのはごく自然なことだったと言えるかもしれません。

古澤に加え、のちに「連合艦隊」など戦争映画の脚本を多く手がけた
須崎勝彌が脚本家として選ばれたことも、企画側の強いこだわりが感じられます。

 

で、この須崎さん、わたしはかねてからしつこくしつこく、
戦争映画の骨子はともかく、肝心の人間描写、特に女性の描きかたが
かなり変だと言い続けて今日に至ります。
この映画にも、こんな不可解なシーケンスが展開します。

食堂従業員の由紀をめぐってライバル同士の小村と佐々(いずれも二尉)。

風間の件で彼女を怒鳴りつけ、これですっかり嫌われてしまったと思いこむ小村に、
佐々は勝ち誇って彼女への手紙をことづけ、パシリを命じます。

腐りながら夜の浜辺で由紀に佐々からの手紙を渡す小村。

ところが佐々が由紀に当てた手紙に書いてあったのは

「小村はあなたと怒鳴りつけた。
あなたは風間をかばう小村の男らしさに改めて惚れたはずです」


田嶋陽子先生ならずともびっくりせずにはいられないこの超マチズム。
こういうのも時代だったのか、それとも単に戦前の男の主観なのか。

 

人物描写が雑すぎてわかりにくいながらも想像するに、どうやら佐々は
由紀が実は自分ではなく小村に惹かれていることを知っていたらしく、

「あなたの揚げた軍配に間違いはない。僕の負けだ」

だからいつ軍配が上がったんだようー!


要するに自分は身を引くから小村と付き合ってやってくれと。
それ以上に不可解なのが由紀さんの反応で、佐々からの手紙を読んで

「佐々さんて・・・・いいひとね」

そりゃどういうことだ。

わたし的にはパイロットならどちらでもよかったけどお、
どうせならイケメンの小村さんの方がいいって思ってたのでえ、
佐々さんが身を引いてくれてラッキー!

ってことかな。
そのあとの小村のセリフもすごいよ?

「あの野郎・・・・(由紀に向かって)おい!・・おい!」

女性に向かっておいとはなんだおいとは。
やっぱりこういうのも、怒鳴る男は男らしい、の延長線上ですかね。
その後二人は手を取り合って

「うふふふふふふふ」

「あははははははは」

と夜の浜辺をどこまでも疾走していくのでした。

そして次の瞬間、パーンパーーカパーン♪ と結婚行進曲が鳴り響き、
空自基地あげてのエプロンでの結婚式シーンとなって、観客の度肝を抜きます。

当時の観客、特に若いお嬢さんたちは、航空自衛隊のパイロットのお嫁さんになったら、
基地をあげてこんな素敵な結婚式をしてくれるのかしら、素敵!
と思った人も多かったんじゃないかな。知らんけど。

花嫁の控室は司令室。
由紀の着ているドレスは50年代の砂時計型シルエット。
ディオールなどのラインでも見られた最新流行型です。

由紀を諦めた佐々ですが、パイロットで女性にモテモテなのを自覚しているせいか
全く落ち込んでおらず、早速後任の栄養士さんに目をつけております。

ところが結婚式だというのに花婿は飛行テストに出かけて行って不在。
ん?ということはこの日は平日の勤務日だってことですかね。

案の定、霧が発生して浜松に帰って来られなくなり、小松基地に緊急着陸。
花婿不在の結婚式続行です。
パイロットの妻になったからには、こんなことはいくらでもある!
ということを新婦に叩き込むための航空自衛隊あげたヤラセに違いありません。

遠く離れた小松基地からかかってきた新郎の電話を神妙に受ける由紀。
新郎は偉そうに小松の管制室の椅子に脚を組んで座り、

「やあ由紀ちゃん、頼むよ末長く。(さらっと)
それから、君は二号で一号は俺の愛機だってことも忘れないでくれ」

態度悪すぎ。こいついったい何様のつもり?(怒)

わたしはこの後日本をも席巻したフェミニズムムーブメント、
通称「ウーマンリブ」に対して必ずしも肯定的な立場ではありませんが、
(というかむしろ否定的)もしこれが当時の男性から見た理想の夫で、
これに対して

「不束者ですがよろしくお願いいたします」

と答える由紀さんのようなのが理想の妻の姿だったとすれば、
その運動を起こす人の気持ちは、ほんの少しだけわかるような気もします。


それから皆で「大空の歌」という映画のオリジナル曲を合唱。

メロディはあの「空の精鋭」に通じる底なしの明るさに満ちており、
また「お座敷小唄」を思わせる「手拍子の似合う」曲調となっております。

でこの歌、世間的には全く有名ではないのですが、映画を見た人は
おそらくご存知の通り、
非常に強い印象を残す歌詞とメロディです。

かくいうわたし、今回エントリ制作のために何度かリピートして全篇を視聴するうち、
頭の中でこの曲の最後のフレーズ、

「ジェット ジェット ジェットパイロット〜♪」
(ミーレ  ドーラ  ソーソ ミーレードー)

がぐるぐるしているという「リフレイン地獄」に陥ってしまい、
それは今現在も続いていて、時々口ずさんでいる自分に愕然としています。



今、ブルーインパルスを音楽で表すとすれば、例えば
ブルーインパルスのテーマソングのように、映画「トップガン」などの
航空映画音楽の影響を受けた、スネアが刻むリズムに音速を表す金属音、
金管群の上昇的なメロディという一定のパターンに則ったイメージですが、
昭和30年代の超音速戦闘機の世界は、まだ旧陸海軍戦闘機隊の
「加藤隼戦闘機隊」や「搭乗員節」の延長にあったことがわかります。

というか、当時の自衛隊はこの映画の山崎二佐のように、
旧軍のパイロットがまだ現役で活躍していたという時代ですからね。

 

それにしてもこの歌っている隊員たちが、本物っぽい。
みんなちょっとずつ階級章やウィングバッジの有無などが違うし、
着ている制服もくたびれた感じだし、よく見ると
胸ポケットには
自衛官手帳が入っていそうだし、ペンを入れている人もいたりして。

もしかしたらこれも浜松基地の人たちがエキストラ(口パク)をしているのかも。

音楽隊はおそらく完璧に本物。
中央音楽隊か、基地所属の音楽隊かはわかりません。
こちらも音は吹き替えだと思います。

祝辞を述べる隊長は心中複雑でした。
何しろ、その直前、基地司令に戦力外通告をされてしまったのです。

「君には飛行機を降りてもらうことになった」

「そんなバカな!」

「飛行機を降りろというのは死ねと言われるのと同じです!」

うーん、自衛隊のパイロットがどういう形で飛行機を降りるのかは知りませんが、
いくらフリーダムな空自でもこんなことをいう人は絶対にいないと思う。

現場を退いて地上勤務に入るのは自衛官にとってごく当たり前のことだし、
(上に行く人なら一層)海自の固定翼操縦者だった人にラストフライトについて聞くと

「今にして思えばあの時が最後のフライトだったんだなという感じだった」

なんてことをおっしゃっていたこともあるので、
空自もきっとこういうものではないと思います。

それに二佐ならまだ年次飛行っていうのもあるよね?

しかし、上からの命令は、隊長が先日勝手に練習機から飛び降りて
腰を痛めたことが「パイロットの資格にどうしても抵触する」のだそうで。

つまりあの熱血指導が自分の首を絞めてしまうことになったってわけですね。

自分のパイロット生命を賭してまで部下を導く、そんな熱すぎる隊長には
大東亜戦争中に搭乗員として負った、辛い過去がありました。

隊長の一人娘(15歳の酒井和歌子)は、父が入院している病室で
女性に宛てられた現金封筒を見つけてしまいます。
怪しんだ彼女は、その住所に訪ねて行きました。

これが文字通り「二号」とかだったらどうするつもりだったのか。

ところが彼女の想像に反して、宛先の家には老人が一人。

かつて戦闘機パイロットだった山崎、戦争末期に農村上空で飛行機が墜落し、
自分は落下傘降下で助かったものの、機が墜落したところにあった
幼稚園の先生、つまりこの老人の娘は死んでしまったのです。

山崎はそれからずっと亡くなった女性の名前で父親に送金を続けていたのでした。

その晩、二人がしみじみと来し方を振り返っていると、
嫁がいきなりこんなことを言い出します。

「もう(わたしは)あなたの世界に入り込めなくて
寂しい思いをすることもなくなりますわね」

「知っていたのか・・・!」

驚く山崎。黙って頷く山崎の妻。
奥方、自衛隊の内示情報を一体どこから手に入れた?



さて、今日で終わるつもりだったのですが、案の定後半が長すぎて
ブログ運営に表示できないと怒られてしまったので、もう一日やります。


続く。




映画「今日もわれ大空にあり」〜空自広報映画?

2019-02-22 | 映画

1964年、航空自衛隊の全面協力のもとに製作されたパイロットものです。

昔DVDが発売になってすぐに買って観たのですが、その時には
それほどとも思わなかったこの映画のツッコミどころに
今回大いに笑わせていただきました。

それだけ当社比で自衛隊についての理解と知識が増えたってことでしょう。

ストーリーのしょうもなさはさておき、当時の自衛隊基地や
航空機の実写映像が見られるある意味お宝映画です。

 

さて、映画は、とても制限時速などなさそうな農道をバイクでぶっ飛ばす、
三橋達也扮する新任の隊長を、警官が捕まえるところから始まります。

「あんた今何キロ出してた?」

「1200キロ」

「せんにひゃっきろ〜?」

かのように、全く面白くもおかしくもない滑りまくりのギャグ満載。
脚本があの須崎勝彌であることを考えると納得です。


まずタイトルロールの最初に、各支援団体名がずらずらと出てきます。

浜松北基地 第一航空団

千歳基地 第二航空団

小牧基地 第三航空団

静浜基地 第十五飛行教育団

輸送航空団

保安管制気象団

航空救難群

第一術科学校 第二術科学校

特別飛行研究班 ブルーインパルス

ブルー・インパルスの正式名は、発足時は「空中機動研究班」で、
その後この「特別飛行研究班」となり、現在は「戦技研究班」となっています。

さて、三橋が隊長として赴任してきたのは、「タイガー部隊」というニックネームの戦闘機班。

三上一尉、(佐藤充)小村二尉、佐々二尉、風間三尉の四名は、
技量が高く「選ばれしエリートパイロット」という設定ですが、
破天荒な三上のせいで「荒くれ者」と呼ばれています。

うーん・・戦後自衛隊における「荒くれ者」とは。

「おいみんな、調子はどうだ」

「爽快爽快!」

「大いにハッスルしとります」

「それならいっちょいこうか!レッツゴー!」

「地球を蹴っ飛ばすぞ!」

「音速突破ー!」

そして宙返りしたりコルクスクリューや上むき空中開花を行なったり。
このあたり、ブルーインパルス(この少し前に結成)の全面協力によって
ここぞと戦技が披露されます。

ってか自衛隊がこんなふざけた態度で訓練するか!といきなりツッコミ全開です。

「地球を蹴っ飛ばす」

というのは三上の決め台詞なのですが、当方ついうっかり、
冒頭のイラストで

「地球をぶっ飛ばす」

と書いてしまいました。
でも直すのが面倒なのでそのままにしときます<(_ _)>


それから、しょっぱなからBGMがものすごくヘンです。
なんかいかにも素人が思いつきで作ったようなヘンなメロディで、
個人的には最後までこれにはもやっとさせられっぱなしでした。

こちらレコードをかけてパイロットの皆様の帰りをお待ちする食堂の看板娘。

「チキンフライにサーモンステーキ、コーンスープの取り合わせで
皆様のお帰りをお待ちしております。オールパイロット、グッドラック、オーバー」

どうやらこの娘(星由里子)、パイロットしか眼中になさそうです。
きっとこの空自の食堂で働いているのも、パイロット狙いでしょう。

努力の甲斐あってアフターはパイロット4人に囲まれて女王様気分を満喫しています。
小村(夏木陽介)と佐々の二人をメロメロにさせることに成功し、
彼らを張り合わせて今どちらにするか吟味しているところです。


しかしこの宴会、制服を着たまま浜辺でピクニック、しかも「デカンショ節」って・・。
いくらなんでも昭和30年代にこの海軍のレスみたいなノリは如何なものか。

と思ったら脚本は須崎勝彌でした。

散々訓練ではしゃぎ、ゲラゲラ笑いながら飛行機から降りてきた4人の前に、
いきなり新任の隊長が立ちふさがりました。

「どうだった今日のフライトは」

「まあまあっすね」

「ふざけるな!
平気で制限空域はオーバーする、燃料ギリギリで滑り込んできて得意になる、

見世物小屋の芸人根性もいいところだ」

「あのーちょっと伺いますがどなた様でしょうか」

二佐の制服を着た人に向かってどなた様って・・。
というか、こんな自衛官がいるかー!

と思ったら脚本は須崎勝彌でした。

 

三橋隊長は、着任早々基地司令から

「F-104に乗ることのできるF-86のパイロットがは1000人に一人」

と脅かされ、これではいかん!と鬼隊長になるつもりで張り切っているのですが、
1000人に一人って・・・86Fのパイロットってそんなにいる?

 

この映画に空自が全面協力した背景には、導入間近だったF-104を宣伝し、
世間に広く知らしめるという思惑が絡んでいたようで、こんなセリフも飛び出します。

「とにかく人間が乗る最後の戦闘機とまで言われているんです」

これはF-104が当初「最後の有人飛行機」と呼ばれていたことをいうのですが、
実はこのような呼び方をしていたのは日本だけで、今ではこれは

「The Ultimate Manned Fighter 」(究極の有人戦闘機)

の誤訳だとされていますね。
(というか、どう見ても『最後の』という意味はないんですが)

ともあれ、このキャッチフレーズ、もしかしたら当時の航空自衛隊が
宣伝のためにあえて曲訳したんじゃないかとわたしは疑ってます(笑)

タイガー部隊なので、彼らは互いのタックネームを「タイガ−1」から4と名乗っており、
ヘルメットには中華風味の虎の絵が描いてあって、

「フライングタイガースか?」

とツッコんでしまったわけですが、まんざらこの映画とフライングタイガースは
無関係でもないのです。

彼らが乗ることになっているF-104は実はこの映画公開の1962年当時、
まだ日本に導入されていませんでした。

前年度の1961年、

 

フライング・タイガー・ライン(フライングタイガースの残党が作った会社)
のCL-44で

 

空輸されてきているのです。

さて、鬼隊長がそのタイガースを率いて最初に行なった訓練飛行で事故発生。

風間三尉の飛行機がきりもみ状態に入ってしまったのです。
隊長は舵をニュートラルに入れるように叫びますが風間テンパって聞く耳持たず。

そうこうするうちキャノピーが吹き飛ばされ、操縦桿から風間の手が離れた途端、
ギアはニュートラルに入ってあら不思議、機は立ち直りました。

(´・ω・`)ショボーンとする風間。

ベイルアウトを命ずるべきだったのにそれをせず、
風間を危険な目に合わせた、と隊長に食ってかかる三上。

ベイルアウトというのは最後の手段。
機体を失い当人も無傷ではすまないのでどちらが安全かは微妙ですが、
三上を「反抗キャラ」にするため、あえてこんなことを言わせています。


そんなある日、食堂でアイスクリームを食べようとしていた隊員たちの耳に
突如新型機F-104の爆音が聴こえてきました。

アイスを配っていた食堂従業員由紀は皆が自分を放ったらかして出て行ったので
ほっぺたを膨らませてブンむくれ。
というかなんなんだよこの女。

と思ったら脚本は須崎(略)

滑走路を疾走してくる「人間が乗る最後の戦闘機」(笑)

ちなみにこの時の音楽もすごく変です。
どうヘンかというと、メロディの起承転結が無茶苦茶。
音楽の基礎が全くできていない人が作ったとしか思えません。

基地中の隊員が集まってくる中、F-104から颯爽と降り立ったのは・・・・

平田昭彦(様)ではありませんか!

久しぶりなので紹介しておくと、平田昭彦(様)は陸軍士官学校卒、
戦後は東京大学に学ばれその後俳優になったという経歴で、
デビュー当時から軍医といえば平田、平田といえば軍医、というくらい、
何かとインテリな軍人の役を演じてきた俳優さんです。

今回は、千歳基地でF-104部隊の教官をする予定の潮三佐役。

 

そしてここでもF-104のマニアックな紹介が台本に挿入されております。
潮三佐、物珍しげに翼を触っている佐々二尉をいきなり

「あぶなーい!」

と突き飛ばし、

「なまくらな刀よりよっぽど切れるからな!」

翼を触っている人を突き飛ばす方がずっと危ないと思うがどうか。

F-104の主翼は、超音速飛行のために極限までに薄く設計されたため(O.41mm)
作業員の安全対策として
翼には保護材を設置せねばならなくなったといわれています。

ちなみに実際にはこの映画が製作されていた当時、まだF-104は導入段階で
国内でノックダウン生産が開始されていた時期に相当します。

ということは、平田(様)が乗ってきたこのスターファイターは
最初にフライングタイガースの残党が運んできたアメリカ製の3機のどれか、
ということになります。

さて、場面は代わり、自衛隊主催の夏祭りで、恋敵同士のパイロット二人に伴奏をさせ、
ヘンな歌(与三郎さん怒る気持ちはわかるけどゆすりたかりはご法度よ以下略
とかいう歌詞)を得意げに歌う食堂の娘。

左側の演目には「流行歌」と書かれています。
歌詞でググってみると、畠山みどりの「ちょうど時間となりました」で、
映画公開時のヒット曲だったようです。

三上は、風間が隊長の家に行って連れてきた娘(酒井和歌子)に

「あたし好きだわ三上さんみたいな人」

「三上さんもあたしのこと好きなんでしょ」

とか初対面で言われてあっけに取られます。
酒井和歌子はデビューしたばかりで、この時役柄と同じ15歳です。

15歳の娘がいうセリフか?と思いますが須崎作品なので仕方ありません。

風間のスランプは続いていました。
次の訓練飛行でまたもやめまいを起こし・・・

これがその時の風間の心象風景(笑)

ついにテイクオフもできなくなってしまったのです。

ところが機附長(中丸忠雄)がパイロットに不安を与えるのはメカニックのせいだ!
とあさっての解釈をして皆に説教を始めたので、たまりかねた風間は

「怖かったんです!」

とカミングアウトしてしまいました。

さて、飛べなくなったパイロットをどうするか。
幹部会議の席で、
短絡思考の三上が

「隊長じゃダメだから、わたしになんとかさせてください」

としゃしゃり出てきました。

またこういう三上に対し、藤田進の基地司令、

「それではお手並み拝見しよう」

とか実際にはありえないことを言いだすんだな。

ちなみにこの映画の撮影が行われたある空自基地の司令は、かつて海軍時代に
エースと呼ばれたこともあるようなパイロット出身の自衛官だったそうですが、
この時の藤田のことを、

「司令室に座っている藤田さんはわたしなどよりずっと貫禄があって圧倒された」

と述懐しています。

教育係を買って出た三上、何をするかというと、後部座席に乗って後ろからヤイヤイ騒ぐだけ。
三日という期限内になんとかしようと焦って、

「どうしてお前はそうダメなやつになっちまったんだ。しばらく考えとけ」

一番言ってはいけなそうなことを言いまくるものだから、
案の定耐えきれなくなった風間は、パイロットを辞めると宣言してしまいました。

 

辞めたパイロットに食わす飯はねえ!ということなのか(笑)
空自基地はその日から風間の食事を差し止めにしてしまいました。

上からもう風間の食事は作らなくてもいい、と言われたので
食堂の一従業員に過ぎない由紀がその通りにしたら、今度は小村が
一従業員に過ぎない彼女を怒鳴りつけにやってきます。

「パイロットの皆様空から無事に帰ってどうかわたしの食事を食べてください?
まるで天使みたいなこと言って自分でさっさと食事を引っ込める。冗談じゃねーよ」

食堂の一従業員に対し八つ当たりもいいところですし、何言ってるかわかりませんが、
脚本が須崎勝彌なのでわたしは全く驚きません。


激怒した小村は隊長と司令に風間を辞めさせるな!と食ってかかります。
だから辞めさせられたんじゃないってばー。

仕方ない、こうなったらわしがなんとかしちゃる。
と隊長が後部座席に乗ってご指導ご鞭撻を行うことにしました。

仕様機は昔懐かしの練習機、ノースアメリカンT-6 テキサンです。

全編に登場する管制の英語が実に本物っぽい。
これもしかしたら本物の自衛官だったんじゃないでしょうか。

で、隊長、何をするかというと、

「自信をつけてやる」

と言い残して後部座席から飛び降りてしまいました。

しばらく操縦していてふと後ろに誰もいないのに気づく風間。
あれ?俺操縦できてるじゃね?ってか?

あのさー。
子供の自転車の稽古じゃないんだから・・・。

しかも落下傘降下した際骨折するという。
お断りしておきますが、二等空佐です。

あまりの展開に呆然とする基地のみなさん。

でも、なぜか風間はこれで完璧に立ち直り、ちゃんと操縦できるようになるのです。

調子こいて着陸せずタッチアンドゴーでもう一回テイクオフしていく風間。
タイガースの残りの三人は追いかけていって合流し、大空を縦横に駆け巡ります。

ちょっとフリーダムすぎませんかね。いくら空自でも。

そして、航空自衛隊はここぞと編隊飛行シーンを投入してきます。
まずは富士山をバックに、全国の名所案内の始まり始まり。

いつの間にか飛行機が86Fに変わっていることは言いっこなしだ。

富士山の噴火口を見せるというサービスぶり。

日本アルプス。

槍ヶ岳。

神戸。
画像上部に見えているのは、当時まだ埋め立て工事中だった現六甲アイランドです。

瀬戸内海。
この後、関門海峡や阿蘇山まで行ってしまうタイガー部隊でした。


後半に続く。

 

 

 

 

 


ミッドウェイの戦闘功労章〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-02-21 | 軍艦

サンディエゴの「ミッドウェイ」シリーズ、再開です。
2016年と17年、続いて見学をして、ようやく艦橋を残す
全部を見学することができました。

サンディエゴでの用事が終わって、ようやく見学の時間が取れることになり、
わたしは今度こそ一人で思う存分「ミッドウェイ」に浸ろうとホテルを出ました。

グーグルでは「ホテルから6分」とありますが、ご覧のような広場ができているので
実際には3分くらいの感じです。
この道は「ブロードウェイ・ピア」につながるのでブロードウェイと言いますが、
名前の由来はニューヨークのではなく、直接は軍艦の中の、
食堂などにつながる交通の多い通路をこう呼ぶからではないかと思います。

だって、隣が「ネイビー・ピア」なんですからね。
ネイビー・ピアからは各種軍港めぐりの遊覧船や、向かいのコロナドと
こちらを繋いでいるフェリーが発着します。
コロナドにはブリッジで行くことができますが、大回りなので
こちらを通勤に使う海軍の人も多いでしょう。

江田島の第一術科学校を海軍基地と考えた場合、早瀬大橋に相当するのが
コロナド・ブリッジと考えていただくとわかりやすいです。

しかし考えれば考えるほど、コロナドと江田島は似ています。

「ADMIRAL HORNBLOWER」・・・・

しばらくこの船名を見ていて、

「なぜわたしこの名前を知っているんだろう・・・・」

お節介船屋さんに教えていただいたこれでした。
ホーンブロワーは平民にも関わらず、最終的には
アドミラル、元帥になり、男爵位まで授けられています。

ちなみに本場イギリスでテレビシリーズ化された時、
ホーンブロワーの役は「ファンタスティック4」のゴム人間役、いや
「タイタニック」でロウ航海士役をしたヨアン・グリフィズでした。

これ合ってるような気がする。観てみたいなあ。

さーて、今年もやってきたよ「ミッドウェイ」。
アプローチまで、重複になることも多いけど我慢してください。

艦尾には「ファンテイル・カフェ」というカフェがあって、
ちょうどこの写真でもパラソルが見えています。

Fantail Cafe

「ファンテイル」とは扇型の鳥の尾のことです。

さて、エントランスに向かいましょう、と歩き出して、ふと
左手に人の姿を見たような気がして振り返ると・・・・・。

こんなところで語らう水兵さん二人の仲睦まじい姿あり。
配慮して白人とアフリカ系のマネキンです。

最初の年は家族とジョアンナが一緒だったので、立ち止まることもなく
気づきもしなかったのですが、ここに人形がいるのをこの瞬間に初めて知りました。

左の白人は口ひげをは生やしていて、名前が「CRISTOPH」
である事まで望遠レンズでわかってしまうのだった。

手前に貼られた「COMAR」というシールはよくわからないのですが、
この部分に出資した会社ではないかと思われます。
ネットで調べたのですが同名の会社があまりに多くて、どの会社かわかりません。

USS MIDWAY CV-41と書かれたところがハンガーデッキにつながる入り口です。
まな板みたいなデッキからはこれでもかと艦体に繋留がかけられて固定されています。

入館するための階段に貼ってあったバナー。
現役時代、登舷礼を行っている「ミッドウェイ」の雄姿です。

艦首の「鼻面」部分に飾りがついている気がしますね。
海に向かって突き出すように出ている二つの滑り台みたいなのは、
現在柵で囲われているので先まで降りることができます。

艦首に一列になって立っているのは海兵隊員たち。
「ミッドウェイ」を守るのは俺たち、といいたげに最前列を固めています。

見ていると「錨を上げて」が聞こえてきそうです。

前にもご紹介しましたが、画質がいい写真をもう一度あげておきます。

カラーと白黒写真が対になって「今昔」を表すという趣向です。
「今」の男の子が甲板で発進ポーズを一緒に取っているのは
写真ではわかりませんが、実は甲板に常設してある人形なのです。

このことも実際に甲板に上がった今年初めて知りました。

一番右のシューターが発進させているのは「グラウラー」(かプラウラー)ですね。

トラクターでコンテナを積み込んでいる現場に遭遇しました。
こちらの「はたらくくるま」のメーカーは「キャタピラー」という
アメリカ本社の多国籍企業の製品であることが多いです。

これも今回改めて知ったのですが、わたしたちが普通

「キャタピラー」

と呼んでいるところの履帯は実は「ホッチキス」や「セロテープ」
「エスカレーター」「宅急便」
「パーソナルコンピュータ」と同じく、
一般名詞化している商品名で、
その心はキャタピラー社が作ったからです。

ついでに「宅急便」はヤマト運輸が登録した名称で、一般名称は「宅配便」。
「エスカレーター」はオーティス社の製品名で、1925年に権利を放棄し一般名称になりました。

そして「パーソナルコンピュータ」という言葉を作ったのはスティーブ・ジョブズです。

艦載機用のエレベータを昇降させず、コンテナを持ち上げるんだ・・・。

エレベータが固定されているのはハンガーデッキ階で、ここには
各種カフェや売店がありますから、商品の補充などでしょっちゅう
コンテナによる運搬を行うのでしょう。

チケット売り場の付近から見上げてみました。

「ミッドウェイ」の受けた功労章は

白文字に影付のE 武器・戦術・作戦遂行等において最高評価

黄色のE  水上艦の安全優秀賞

緑のE  水上艦戦闘情報センター優秀賞

赤のDC ダメージコントロール優秀賞

緑のC  コミュニケーション部門優秀賞

白の舵輪 ナビゲーション優秀賞

となります。
ただしこれらの賞は毎年更新なので、前年度受賞しても翌年
条件を満たさなければ剥奪され、消さねばなりません。

よくEの下に何本も線が引いてあったりするのを見ますが、これは
毎年受賞した場合、線を描き足していった形跡です。

「ミッドウェイ」は現役艦ではないのでこれらの賞は無効のはずですが、
やはりアメリカの軍艦としてここが何もなしなのはかっこ悪い、という理由で
(多分ですけど)取ったことのあるマークを再現したのではないでしょうか。

あくまでも想像なので、違ってたらごめんなさい。

前も同じような写真をお見せしたかと思いますが、もう一度。

ここをくぐると、横須賀の「三笠」のラッタルを上がる時と同様、
どこからともなく号笛の音が聴こえてきます。

水兵さんがホヒーホーと吹鳴するボースンズコール、そして
海軍士官の敬礼は乗艦するあなたに送られているもの、という設定です。

通路から左手を見るとこのような眺めとなります。
出っ張りの「1」は艦載機のエレベーター番号でしょうか。

そこからは大きなクレーン・デリックが見えますが、かつては
これがボートを海面に降ろすのに使われたのだと思われます。

エントランスの前に時鐘があります。
拡大してみると無数の傷が年月を感じさせます。

1945年の就役以来退役までの50年間、一貫して使われてきた時鐘です。

エントランスを入ったところについては以前もご紹介しましたが、
今年はパネルもちゃんと撮影してきましたよ。

「ミッドウェイ」の甲板は一度大改修して現在の形になっています。

上が1955年に行われた改装まで。
まな板を乗せたようなまっすぐな甲板から、下の現在の形、
アングルド・フライト・デッキを採用したものに変更されました。

このアングルド・デッキを採用した最初の空母になったようです。

去年は気づかなかった、あるいはなかった「頻繁な風」作戦の展示が!
ベトナム戦争の撤退の時に人命のために海にヘリをぽんぽん捨てた、あれですよあれ。

モニターでは作戦の時に現役だったベテランが思い出を語っていますが、
モニター下部に当時の「ミッドウェイ」艦長だった

ローレンス・チェンバーズ(Lawrence Chambers)1929〜

の写真が見えます。
この人が、北ベトナム軍の軍人とその家族の乗った軽飛行機の着艦を
許可したというわけですが、実はチャンバース中佐、
アフリカ系アメリカ人で初めて
海軍空母の司令官となった人物でもあります。

確かにアフリカ系の顔ですが、目の色とかに白人種の遺伝子が見えます。
チャンバースはその後中将まで昇進しています。

昔から同じフネに載せてきた関係で、アフリカ系に対する差別は陸ほどではない、
という(陸軍はセグレゲート、つまり部隊を分けていた)海軍ですが、
それでも黒人が白人部隊を率いるようになったのはかなり最近のことです。

前に撮ったのと違う角度で、「頻繁な風作戦」の時「ミッドウェイ」に
着陸を要請した
北ベトナム軍の軽飛行機を撮ると、新しい発見がありました。

なんと、ベトナム人パイロットブワン軍曹とと女性(奥さん)の姿が!
ちゃんとマネキンを乗せて再現していたんですね。


「ミッドウェイ」については、まだまだ「行きつ戻りつ」
新しく気づいたことを加えながらお話しするつもりですので、
どうかのんびりお付き合いください。

 

続く。

 

 




コヨーテポイントと「ジャパノロジスト」ヘンリー・P・ボウイ〜サンフランシスコ

2019-02-19 | アメリカ

サンフランシスコ滞在中、一度だけコヨーテポイントに歩きに行きました。

コヨーテポイントは正確にはサンマテオにあり、
サンフランシスコに飛行機が着陸するとき、左側の窓に座っていると
眼下にその場所を確認することができます。

ところで皆さん、いきなりですが、アメリカでは、歴史を

Pre-Columbian (先コロンブス期)

とそれ以降に分けることをご存知でしょうか。
つまり、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見し、
彼らが上陸して大陸にいた先住民族(俗にいうインディアン)を
征服した後とそれ以前、というわけかたをするとき、
この言葉を使います。(厳密なものではありません)

それでいうと、プレコロンビアン期には、ここコヨーテポイントは
今のような地続きではなく、沼地に囲まれた島だったと言われています。

そんな地形なので真水を確保することができなかったはずなのですが、
地層を調べてみると、わずかながら人が住んでいた痕跡があるそうです。

この土地一帯はメキシコ統治時代、

コエターノ・アレナス( Cayetano Arenas)

という個人に譲渡されており、「コヨーテ・ポイント」の名前は
おそらく動物ではなくこちらからきたのだろうといわれているそうです。

その後、アレナス一族は1850年、ハワードという実業家に土地を売却し、
ハワードはここで「パシフィックシティ・アミューズメントパーク」という
スパ&プールを経営していました。

政府がここを買い取ったのは1942年のことです。

かつてここにあったというアミューズメントパーク、
パシフィック・シティの大きなエントランスの写真です。

向こう側にはジェットコースターのようなものが見えていますね。

実はこんな楽しげなものができていた模様。

記録によると、ボードウォーク、遊園地、観覧列車、メリーゴーラウンド、
回転木馬、ダンス場ともちろんフードコートのようなものもありました。

そして、今写真を撮っているところをサンフランシスコ側から見たところ。
海水浴をするにはサンマテオは今ひとつ気温がやばいのです(笑)

このアミューズメントパーク、シーズン制で最初の年には大盛況でしたが、
(100万人訪れたとある)次のシーズンには4分の1に減り、
第3シーズンの開催が行われることはありませんでした。

その理由はわたしの予想通り、午後になると強風が吹き付けるここの気候と、
それから湾岸に都市部の汚水が流れ着いたためだといわれています。

上の写真に見えている島部分がここだと思われます。

 

ところで、先ほど名前の出たハワード(ホワードとも)家の
裕福な未亡人、アグネス・ポエト・ハワードは、15歳下の、

ヘンリー・パーク・ボウイ(ブイ)

という弁護士、のちに「ジャパノロジスト」、つまり「日本学」の
権威となる男性と結婚するのですが、この男性が、
アグネスの死後、日本政府に招かれて来日し、横浜に住み、
日本女性との間に子供までなしました。

ルーズベルトかと思った(笑)

この人が、フランス文学者であり翻訳家でもある平野威馬雄の父親、
つまり平野レミのおじいちゃんです。

日本美術愛好家として「武威」(ぶい)という雅号をもち、
日本画を嗜み、サンマテオに日本から呼び寄せた庭師に庭園を作らせ、
排日運動の起こっていたアメリカでサンフランシスコ日米協会初代会長として
日本文化の普及に務めました。

ここコヨーテ・ポイントも、アグネスから相続した土地を
他の海岸沿いの町と同様観光地にするため彼が尽力したそうです。

ここには毎年のように訪れていながら、日本との意外な関係について
初めて知ることとなり、また、大変驚かされました。

今では観光地といっても州が保有する公園で、自然博物館やピクニックエリア、
そしてゴルフコースとヨットハーバーしかありません。

向こうに見えているのはサンマテオブリッジ。
サンフランシスコ側からバークレイに渡る長い橋です。

海沿いにはカメラクルーがいるようですね。

コヨーテポイント・マリーナにはヨットクラブがあります。
先ほどの話によると、午後は風が強いということなので、
ヨットを楽しむ人には絶好のコンディションなのでしょう。

とはいえ、午前中にはこの通り鏡のような海面です。

この日は週末でしたが、ヨットをする人はわかっているのか、
ほとんど漕ぎ出そうとする人の姿はありませんでした。

かろうじて浮かんでいたヨットは2隻だけ。
遠目に見てもキャビン?ではのんびりとした雰囲気で、
お茶でも飲んでいるのではないでしょうか。

決して体育会系ヨット部のようなクルーズにはならなそうです。

桟橋には鵜が羽を乾かしていました。
鵜は水鳥ですが、なぜか羽に防水性があまりないため、
水に入るとその度にまめに羽を乾かす必要があるのだそうです。

コヨーテポイントはバードウォッチングのポイントでもあります。
自然公園の一環でもあるんですね。

この日も近くに舞い降りてしばらく生態観察させてくれた鳥さん。

何枚も写真を撮らせてくれました。

ここコヨーテポイントには子供向けの自然博物館
キュリオシティという施設がありますが、その中では保護動物などを
人口で飼育したりもしているそうです。

その中には、こんな生物たちも・・・・。

バナナスラッグ

とか。

タランチュラ

とか。

西洋ヒキガエル

とか。
野生生物で保護しなくてはいけないけど、公園にいるとまずい、
そんな生物をここでは保護しているのだそうです。

コヨーテポイントを歩いていると、頭上を何度も鳥の群れが行ったり来たりします。

カッショクペリカンです。
北アメリカにはアメリカシロペリカンという白い種類がいますが、
この地域には羽が薄茶ミックスのこのペリカンが生息しています。

遠目にはペリカンに見えませんが、彼らは飛ぶとき
長い首を折りたたんで邪魔にならないようにします。

海の上を列を作って何往復もしていましたが、何をしているかというと
魚の群れを見つけると空中から水中へ飛び込んで魚をとるのです。

このようなダイナミックな方法で魚を捕らえるペリカンは珍しく、
例えばシリコンバレーにいた白いペリカンは集団行動をせず
泳いで餌を探し、大抵は他の鳥の獲物を盗んだりするのだそうです。

ここには第二次世界大戦の間、ほんのいっときでしたが、
戦地に赴く商船船員のための特別の訓練を行う施設がありました。

昔このテーマに一項を割いて説明したことがあります。

この石碑は、その学校があったことの記念と、戦地に赴いて
命を落とした船員たちの慰霊碑を兼ねています。

もし皆さんもサンフランシスコに行くことがあったら、
左側の窓の下を見ていてください。

マリーナにヨットが並ぶ突き出した半島がコヨーテポイントです。

逆にいうと、ここにいると、一日世界の航空機が飛んでいる姿を
場合によっては驚くほど近くで見ることができるので、
飛行機好きには「ウォッチングポイント」としても知られています。

アメリカン航空。

デルタ航空。
アメリカ国内便搭乗の経験から個人的にすっかり「見切りをつけた」航空会社。
合言葉は ” Delta, Sucks ! "

この日の旅客機には翼の上にこのようなベイパーが観測されました。
戦闘機のベイパーは翼端から溢れるように現れますが、
かなり速度を落とした着陸寸前の旅客機は、翼の上だけが
薄っすらと煙ったようなベイパーです。

ベイパーは、翼の上下を空気が流れる時、上部に流れる空気と
翼の下部を通る空気に負圧の差が生じ(距離が違うので)
翼の上を通る空気の圧力が下がって温度も下がるため、
空気中の水蒸気が翼の上だけに水滴となって現れる現象です。

(ということでいいですよね?)

というわけでこれは中国南方航空です。

ユナイテッドのおそらく国内便。
よく見ると翼端から細いベイパーが見えます。

KLMオランダ航空。
旅客機の着陸車輪は小型のタイヤが複数あるのが普通らしいと
今回この写真を見て初めて気が付きました。

岩を積んで作った洲には、

「危険は自己責任で」

と釘を刺してあります。
自己責任で釣りをしている人たちがこの日は結構な数いました。

公園内にはポプラクリークとい名前のゴルフコースもあります。
フィーは平日で38ドル、サンマテオ市民なら33ドル、
また「トワイライト」「スーパートワイライト」料金はさらに安く、
それぞれ27ドル、19ドルといったところですが、トワイライトは
午後1時以降にプレイを始めればいいそうです。

ゴルフをしないのでこれが普通なのかどうかわかりませんが、
日本と比べて安いんじゃないでしょうかね。

ちなみに190ドル払えばメンバーになれるそうです。

アメリカは公園のように街中に普通にコースがあるので
ここでならゴルフやってもいいなあ、とよく思ったものです。

公園ではヒスパニック系の家族が子供の誕生パーティを行うらしく
木に誕生日のくす玉人形、「ピニャータ」が吊り下げられています。

中にお菓子やおもちゃなどが詰めてあり、本日の主人公が
目隠しをして棒で叩き割るのがお誕生日のクライマックス。

割れたピニャータからはお菓子が溢れるので、それを
こどもたちがわっと拾いに来るまでがセットです。

アメリカのトイザらス(もうないですが)などには
ピニャーターのコーナーにいろんなデザインのものが売られていました。

わたしの直感が「これは不倫」と決めつけた黒人男性と白人女性のカップル。
男性は結構な年齢、女性は若いけど後ろ姿はご覧の通り。前に回ってもご想像の通り。
きっと男の方には嫁がいるな。

なぜそう確信したかというと、二人の異常なはしゃぎ方です。
人目のつかないこんな公園をイチャイチャしながらもつれ合うように歩き、
いきなりきゃっきゃうふふと走り回る。こんな夫婦っていると思う?

まあ付き合い始めか新婚さんという可能性もないではないですが。

という(面白くもない)ドラマが最後に待ち受けていたわけですが、
ほとんど人気のないこの公園では珍しい出来事でした。

「見てみい、旭日旗や」

映画「トラ、トラ、トラ!」で淵田美津雄隊長を演じた田村高廣が
真珠湾攻撃に向かう機上でいうセリフです。

この、祖国を象徴する太陽の光を写真に撮っていた時、
ここコヨーテポイントと日本の縁など知る由もありませんでした。


ヨットやゴルフ、ピクニックでここを訪れるアメリカ人も、
今やほとんどがそのことを知らない世代になっていますが、
わたしだけはそれを覚えておこうと思います。

 

 


海賊対処行動水上部隊「いかづち」への功労章授与

2019-02-18 | 自衛隊

無事に「いかづち」が第31回海賊対処行動を終えて帰国しました。
我々は乗員家族とともに「いかづち」を横須賀に迎え、
彼らに功労賞を授与する帰国式典に立ち会うことになりました。

天気が良ければ帰国行事はいつもの逸見岸壁だったかもしれませんが、
流石に氷雨まで降ってきてしまっては、実施場所を屋内にせざるを得ず。

まあ、お天気が良かったとしても厳寒期の埠頭にずっと立っているのは
一般人にはなかなか辛いものがあったと思われるので、
この変更は歓迎すべきことだったといえましょう。

おかげで横須賀地方総監部の体育館に初めて入れたし。

他の家族が入場してくる前にわたしは体育館に到着しましたが、
写真を撮るため、パイプ椅子には最初から座らず立っていました。

儀仗隊がすでに整列をしており、横須賀音楽隊が待ち時間の間
「宇宙戦艦ヤマト」などマーチを中心に演奏を行なっています。

二階通路の手すりには

「いかづち おつかれさまでした」

というシンプルなバナーが掲げられました。

「おとうさん おかえりなさい \(^▽^)/」

AAはおそらくこれ\(^o^)/が原型だと思うのですが、
これ\(^o^)/は実は 、オワタ\(^o^)/という意味のAAであるため、
ちょっとアレンジしたのではないかと思われます。

ところで、「おとうさん」・・・・・とは?
もしかしたら「いかづち」には「おかあさん」はいないってことですか。
そういえば東一佐以外の女性自衛官を一人も見なかったなあ。

もしかしたら、海賊対処行動の遠征には女性の隊員は参加しないのでしょうか。

来賓席には早くから海上保安庁の偉い人たちの姿が。
わかりにくいですが、向こうから一等海上保安官(甲)
一等海上保安官(乙)、海自でいうと海将と海将補、
管区本部長や次長クラスの人が三名来ているようです。

そこへやってきて挨自衛艦隊司令がやってきて海保代表と挨拶を交わしました。
その向こうは横須賀地方総監、椅子から立ち上がっているのは
アメリカ第7艦隊の中佐です。

程なく「いかづち」乗員が入場してきました。

本来ならラッタルを「軍艦」の調べに乗って降りてくるはずで、
その写真が撮れなかったのは少し残念でした。

「軍艦」の調べに乗って乗員代表と司令官、艦長、そして
海上保安官全員が整列します。

手前の赤さんにそっくりな自衛官も、もしかしたらこの中にいるかもしれません。

日本の海軍史で初めて、派遣部隊を率いた女性司令官、東一佐。
そして「いかづち」艦長櫻井敦二等海佐。

海保職員は四名ずつ2列で整列しています。

海保の最先任は、「いかづち」艦長の二等海佐のカウンターとなる
三等海上保安官監であろうと思われます。

防衛副大臣が入場してくるというアナウンスがありました。
保安官を含む全員が大臣の入場してくる入り口を見ていますが、
自衛官とアメリカ海軍軍人は一切頭を動かさず、正面を向いたまま。

こういうところにも「軍人」と一般人との意識の違いが出ますね。

原田防衛副大臣は絵に描いたような「政治家」タイプですが、
その政策を見る限り

憲法改正に賛成
村山談話・河野談話を見直すべき
女性宮家の創設に反対
選択的夫婦別姓制度の導入に反対

防衛族としては個人的に「ヨシ!」(by 現場猫)と思われる政治家です。
所属団体は

神道政治連盟国会議員懇談会
みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会
自民党動物愛護管理推進議員連盟
国際観光産業振興議員連盟

など。(最後はちょっと微妙)

音楽隊の演奏する「栄誉礼冠譜および祖国」に続き、
「巡閲の譜」の調べの中巡閲を行う防衛副大臣。

儀仗隊長が捧げ銃で終了の合図。

どなたか来賓席の(おそらく)政治家とご挨拶。

続いて、防衛副大臣に司令官より任務終了の報告がされ、
大臣の挨拶、続いて表彰が行われました。

まず、内閣総理大臣より授与される特別賞状。

海賊対処行動のみならず、インド海軍をはじめとする
各国海軍との共同訓練によって、各国との防衛協力を強化した、
ということも賞状には記されています。

受け取ったあとには、防衛大臣、司令官が共にそれを持ち、
写真撮影が行われるので、東良子司令個人に授与された
賞詞の内容もこのように写真に撮ることができました。

「右の者は 派遣海賊対処行動水上部隊指揮官として卓越した
指揮・統率力を持って職務を遂行し 国際社会の取り組みである
海賊行為の抑止に大いに寄与すると共に 各国指揮官等の信頼関係を醸成し
ソマリア沖・アデン湾の平和と安定に寄与し持って
自衛隊に対する国内外の理解と信頼を深めた
これは事故の職責をよく自覚し 旺盛な世紀任官と不断の努力をもって
職務に邁進した賜物であり 推賞に値する顕著な功績である
よってここに第一級防衛功労章を添えて表彰する」

授与者は岩屋防衛大臣となっています。

続いて来賓の紹介が行われました。
紹介されると皆一言ずつ簡単な挨拶を述べます。
海上保安庁の偉い人。

これをもって「いかづち」の帰国行事は終了。
退場前に、防衛副大臣は隊員家族の前に来て、労いと感謝の言葉をかけました。

賞状と盾は、いったんテーブルに安置され、誰でも見ることができます。

こちらが派遣部隊に対する賞状。

これによると、水上派遣部隊が現地に到着したのは9月5日。
それから今年の1月4日に至るまで、そこで任務に就いていたことになります。

ソマリア沖・アデン湾における海賊対処行為に関する業務の遂行
派遣海賊対処行動水上部隊(第31次)

 

「いかづち」の後は、第32次派遣隊として、12月2日に呉地方総監部から
護衛艦「さみだれ」 が現地に向かっており、1月5日には現地で
交代を行なって現在任務を行なっているということです。

ちなみに、第30次の「あけぼの」はDD-108、「いかづち」は107、
現在の「さみだれ」がDD-106、ということは、その次の第32次派遣は
DD-105の「いなづま」になるんでしょうか。

帰国式典が終了し、「いなづま」乗員に対する個別表彰式が始まりました。
周りを家族に囲まれての功労章表彰となります。

賞状を授与するのは自衛艦隊司令山下海将補です。

表彰は続いていましたが、わたしたちは体育館をあとにすることにしました。

館内にさりげなく置いてある南極の石。
これいつかどこかで見たことがあったなあ。

マジンガーZのアニメが1年前公開されましたが、その便乗ポスター。
前にもサンダーバードとコラボしたポスターを見たことがあります。

体育館からは「いかづち」の係留されている桟橋がよく見えます。
雨のおかげでこんな角度からの横須賀港を見ることができました。

突堤にも「いかづち」にも人影は全くありません。

何を待っているのか、三名のレインコートを着た自衛官の姿あり。

同じ吉倉桟橋の枝分かれした先に「むらさめ」がいました。
そういえば、前回の観艦式でこの岸壁(今『いかづち』がいるところ)から
先導艦だった「むらさめ」に乗ったことを思い出します。

海賊対処行動には第5次、第11次、第21次と参加しています。
2015年の第21次派遣では今回の「いかづち」と共に行動しました。

変わった形の船を見つけました。

水中処分母船といい、水中処分員の作業を支援する船です。
処分員の乗るボートを搭載しているほか、船内には減圧症に対応する
チェンバーや洗身・洗浄区画、乾燥区画を備えているそうです。

YOの「O」はオイルのO、ということで2隻とも油ぶねと言われる
艦艇用燃料補給船です。

ちなみに支援船には必ず「Y」がつきますが、これは「yard」、つまり作業を意味します。
YDTは yard diving tenders で、tenders の意味は「補給船」ですね。

そのまま歩いて駅前で連れと別れてから、わたしは一人で
メルキュールのレストランに飛び込み、冷え切った体に燃料補給を行いました。

窓の下には先ほどまでいた横須賀地方隊と「いかづち」の姿が見えています。

 

迂闊なことですが、わたしは先日の東京音楽隊定期演奏会で司会が言っていた、

「今こうしているこの瞬間にも、わたしたちのために
世界のどこかで任務に就いてくれている自衛官たち」

の中に、かように継ぎ目なく派遣されているソマリア沖・アデン湾への
海賊対処行動部隊が含まれることを、この日実際に帰国した部隊を
横須賀に迎えるまで、強く意識したことはありませんでした。


半年もの間国を離れる遠征任務、これに、転勤などによって、
幾度も参加しているような自衛官もいるかもしれません。

帰国式典会場で見かけた赤ちゃんの父親がそうであったように、
可愛い盛りの我が子の成長を半年間も見ることがなかった自衛官も数多くいたことでしょう。

そういった自衛官個人の生活に思いを馳せる時、その家族たちに対してもまた、
隊員に対するのと同じくらい、深い
感謝と尊敬の気持ちを抱かずにいられません。

皆さん、お帰りなさい。そしてお疲れ様でした。

 

 


第31次派遣海賊対処水上部隊「いかづち」横須賀に帰港

2019-02-16 | 自衛隊

ヴェルニー公園を歩きながら偶然潜水艦の出航に出会い、
一連の作業を写真に撮ってから、横須賀地方隊に到着しました。

「いかづち」帰国行事について聞いたのはわずか前で、
どうします?と聞かれて今から間に合うなら連れてってください、
と返事して、軽い気持ちで参加を決めたのですが、
受付で名前を言うと、なんの手違いか、

(誘ってくれた人に向かって)「名簿にお名前がありませんが」

「そんなはずは・・・」

「と言うことはわたしの名前も当然ないってことですか」(´・ω・`)

しかし幸い、通知しておいたはずの関連団体の名前を告げると、
名簿に新たに名前を書くことで無事に入場させていただけました。

この死ぬほど寒い中、わざわざ横須賀までやってきたと言うのに
門で追い返されるようなことにならなくてよかったです。

構内に入っていくと、グラウンドの前でミニバンが待っていて、
自衛官が

「良かったらお乗りください」

と客引き?をしています。
お天気が良ければ歩いていくのにやぶさかではないのですが、
あまりの寒さに、ありがたくお言葉に甘えました。

「あったか〜い」

「ほっとしますね」

ずっとそのまま乗っていたいくらいでしたが、
後にやってきた一団が乗り込むとすぐに発車し、
練習艦隊がいつも停泊する速見岸壁ではなく、その奥の、
吉倉桟橋の手前で降ろされました。

桟橋には「とわだ」型補給艦の二番艦「ときわ」が係留されています。
補給艦は、湖の名前が命名基準となっており、「ときわ」とは
山口県宇部市にある常盤湖から取られた名前です。

岸壁の先の方に行ってみるとすでに「いかづち」の艦隊が近づいていました。
岸壁には早くから来て歓迎ののぼりを立てて待っていたらしい
自衛隊家族会の人たちや、自衛官などがいます。

曳船が寄り添うようについて来ていますが、
先ほどの潜水艦の支援をしていたのとは別のタイプのようです。

潜水艦と護衛艦など大型艦では支援船が変わるんですね。

押し船に左舷を押されている「いかづち」の向こうには
第7艦隊の艦番号56、

ミサイル駆逐艦「ジョン・S・マケイン」

が甲板全部をおおうようなカバーがかけられて係留されています。
そういえば、「マケイン」、2017年にシンガポールでタンカーと衝突し、
乗組員が10名死亡すると言う大事故を起こしていましたね。

wikiより、事故直後の「JSM」。

この事故の後、アメリカ海軍ではなぜか衝突事故が相次ぎ、
(アンティータムの座礁事故、フィッツジェラルドの衝突事故)
第7艦隊は一時全艦艇の一時運用禁止を決め、艦長と副長は解任、
さらに軍法会議にかけ、司令も交代ということになりました。

事故原因は現場の疲弊と経験不足のためであり、それは
管理・設備のための予算が減らされていたこともある、とされます。

そういえば、昨年8月にジョン・シドニー・マケイン3世が逝去しました。
駆逐艦「ジョン・S・マケイン」は、ジョン・シドニー・マケイン・シニア、
ジョン・シドニー・マケイン・ジュニアの二人の名前を
(同じイニシャルなのをいいことに)負っていましたが、
最後に亡くなった3世も当然同じ名前なので、逝去後、
3世の名前も「統合」されたそうです。

祖父、父、子三代の海軍軍人を意味する一隻の軍艦というのは
いかにアメリカ海軍といえども他に例はないかもしれません。
(あったらごめん)

逆に穿った考えですが、海軍一家が息子に同じ名前を与え続けるのは、
あるいは死後艦名に名を残すことを期待してのことだったりして。

そこでふと思うのですが、海軍軍人のマケイン4世はいるのでしょうか。


いるんですよこれが。

ジョン・シドニー・マケイン・4世は2009年、海軍兵学校を卒業し、
海軍軍人になりましたが、艦艇乗りではなくヘリパイになっています。
アナポリスの成績が1100人中1002番だった、なんてことも、
もうすでにwikiに書かれていて、気の毒としか言いようがありません。

マケイン4世は現在は執筆活動をしており、結婚した相手はなんと、
エアフォースの女性パイロットだったそうです。
(『裏切り者〜!』←マケイン1〜3世)

しかし、まだわかりません。
もしかしたら彼もいずれ政治家への道を進むかもしれませんし、

この「ジョン・S・マケイン」にいつか名前を連ねる可能性もあります。

まあ問題はその時までこの艦が生き残っているかだな。

係留する予定の場所まで移動して来たのですが、
この少し前から横須賀では雨が降り始めました。

この日酔狂にも(失礼)、このわりと近くでヨットに乗っていた人が
今日のクルーズは辛かった、とあとで弱音を吐いていたくらいです。

しかしながら、こんな天気なのに傘を持ってこなかった愚か者もいてだな。

「困ったな・・わたし傘持ってないんですよ」(´・ω・`)

「えー!なんでよりによってこんな日に持ってないんですか」

本気で呆れられながら同行者が差しかけてくれた傘で雨を凌ぎますが、
そんな親しくもない仲なので、身体を密着させるわけにもいかず、
ほぼ半身はノーマークの濡れっぱで大変冷たかったです。

もちろん自衛官はこんな時も絶対傘をさしませんが、その代わり
彼らの多くは黒いレインコート(かっこいい)を着込んでいます。
つば付きの帽子もかぶってるし、これくらい彼らにはなんともなさそう。

上がっている信号旗は、バース信号かなんかでしょうか。
この時傘の中で並んでいた知人が、

「案外艦体が綺麗ですね。ピカピカしている」

と呟きました。

「入港前に手入れする時間なんてあったのかな」

しかし、艦体が近くにつれ・・・

全然ピカピカじゃねーし。

「いや、流石にこれは綺麗ってことはないんじゃないですか」

横須賀を出航したのは2018年の8月5日、それ以来この日まで
約6ヶ月間の海外勤務を行って来たわけですから、綺麗な方がおかしい。

これは海外でついた曳船の押し跡だと思われます。

舷側には「いかづち」乗員たちが整列しています。
海上自衛隊の艦船の出入港を見慣れている目にはいつもの光景ですが、
実はそれが案外「特殊」なものであったことを、わたしはこの日、
実感することになったので、それは後述します。

写真にも雨粒がはっきり映るほどに雨が激しくなって来ました。
スマートな弧を描く艦首に描かれた107の番号にも錆が浮いています。

艦首付近には入港作業で舫を持ち待ち構える乗員たちの姿。

この時、知人がこう言いました。

「あれ?『いかづち』の艦長って女性でしたっけ?」

「いや、そんな話は聞いたことがないですが」

「ほら、あの赤い双眼鏡の」

わたし「ああ、あれは艦隊司令の東一佐ですよ」

知人「半年間同行されてたんですかね」

わたし「同行されてたから乗っておられるんでしょう。
  乗ってなかったとすれば日本近海で瀬取りしたとしか」

知人「・・・その言葉は今大変不適切なのでは」

大変失礼な軽口を叩いてしまいましたが、東良子一等海佐は、
2018年8月5日から、ソマリア沖・アデン湾における
派遣海賊対処行動水上部隊(第31次)指揮官として派遣されていました。

日本初女性艦隊司令のこの貫禄のある立ち姿を見よ。

アメリカ海軍ではそう珍しい光景でもないのかもしれませんが、
我が自衛隊で女性司令官が赤いストラップをかけて
艦橋デッキに立っている姿が見られる日が見れるなんて、感無量です。

「いかづち」の艦体が岸壁に近づいて来た時、デッキには
海自とは違う色の制服の一団の姿があることに気がつきました。

「海保の人たちですね。一緒に行ってたんだ」

「海自には法執行をすることができませんから、同乗してるんです」

海賊および会場武装強盗の脅威から海上輸送の安全を確保するために、
海上保安庁では、海自護衛艦への海上保安官が同乗して
ソマリア沖、アデン湾、あるいは東南アジア海域などの
沿岸国海上保安機関に対する法執行能力向上支援を行なっているのです。

昨年8月に第31次派遣海賊対処水上部隊として出航した「いかづち」には
海自部隊とは別に、海上保安庁の保安官8名で構成される

「ソマリア周辺海域派遣捜査隊」

が同乗し、約半年の行動を共にして来ました。

彼らは特別警備隊、通称「トッケイ」で、「いかづち」には
彼らが使用する硬式ゴムボート、特別機動船が2隻搭載されていました。

トッケイのゴムボートといえば、昨年海保の観閲式で見た、
あの半端ない技術で相手を追い込みまくっていたのを思い出します。

ということは、この8名は、あの暴走いや失礼、爆走するボートの
「使い手」ってことですか。
実際の海賊相手にあんなことをするかもしれない(もしかしたらした?)
任務を負って乗り込んでいた海保の皆さん、本当にお疲れ様でした。

8名のトッケイ保安官たちですが、写真に撮ってみて、
ちょっとした海自との文化の違いみたいなものに気がつきました。

入港の時にデッキに整然と並ぶ海自隊員を見慣れているせいか、
保安官たちが整列しながらお話したり、ついニコニコしたり、
そういうくだけた佇まいがやたら目についたのです。

隣には海保のみなさんをお迎えに来た人たちがバナーを持って
満面の笑顔で立っておられました。

おそらく保安官たちの笑顔は、迎えに来た人に向けられたものでしょう。

保安官でも、比較的年配の偉そうな人はまっすぐ前を見ていますが、
そのほかの人たちはこんな感じ。

周りの海自隊員との違いは写真で歴然です。
家族を見つけて思わず微笑んでいるのでしょうか。

自衛官たちは居並ぶお迎えの中に愛する妻子を見つけても
こうして立っているとき、感情を表情に表しません。
海上自衛隊というのは、こういう点教育の段階でかなり厳しく、
姿勢や私語の禁止、頭の位置や表情までを叩き込まれ、それらが
自然に身についているんだろうな、とこれを見て考えました。

そういえば海保の船が出入港するとき、乗員が舷側に立ち、
登舷礼を行うというような慣習は、観閲式以外にないのでは・・。

(これはあくまでも想像なので違っていたら教えてください)

良い悪いではなく、文化が違うんだなと思った、というのはこのことです。

「いかづち」では粛々と繋留作業が行われています。
まず、「サンドレットが投げられますのでご注意ください」
というようなアナウンスがありました。

艦体と舫杭をつなぎとめる舫を岸壁で受け取ることができるように
艦上からはサンドレットという細いロープのついた錘が投げられ、
ロープは舫に繋がっています。

わざわざサンドレットのことがアナウンスされたのを初めて聞きました。
そもそも観客がサンドレットに「ご注意」する状態って何?

サンドレットを投げる瞬間を撮り損ないました。

岸壁でサンドレットを受け取った人たちが、「舫ダッシュ」
(勝手に命名)で舫を持っては走り、離しては取る方法で
杭につなぐ作業を行います。

年季の入り方がハンパない海曹長が号令一下。

「すげー貫禄」

「潮っ気そのものって感じですね」

「松崎しげる並みに日焼けしてる・・・」

艦橋ウィングに立つ乗員も、全員が自分の任務をこなしています。
「ロナルド・レーガン」の動画でナレーションが語っていた

「空母では一人一人のやることはごく簡単なことであるが、
その小さな仕事を空母乗員全員が行うことによって初めて
この大きな艦が機能することができる」

という言葉を思い出します。

手を挙げている二人が甲板の責任者(幹部と海曹)でしょうか。

さて、このように無事に岸壁に「いかづち」は入港を終えました。
しかし、氷雨はいっときみぞれに姿を変えて降り続いています。

「皆が移動する前に帰国行事の行われる中に入りましょうか」

「あ、外でやるんじゃないんですね。よかった」

傘を持っていない上、足の先が冷たさでジンジンしてきたので、
わたしは喜んでそのご提案に従い、横須賀地方総監部の建物に向かいました。

 

続く。


ヴェルニー公園から見た潜水艦出航

2019-02-15 | 自衛隊

 先日、派遣海賊対処行動水上部隊の一員として、
アデン湾等に派遣されていた護衛艦「いかづち」が帰国しました。

横須賀地方総監部では「いかづち」の帰国を迎える行事が行われ、
わたしも国民の一人としてお迎えをしてまいりました。

お誘いくださった方と朝9時にヴェルニー公園で待ち合わせることになり
メルキュールホテルの地下に車を停めて歩き出しました。

海軍関係の慰霊碑などがまとめて設置されているところを通りかかり、
久しぶりにまた写真を撮ってみました。

軍艦「長門」の碑。

在りし日の聯合艦隊旗艦長門の

姿をこゝに留めて

昭和激動の時代を

偲ぶよすがとする 政一書

揮毫した「政一」とは海軍中将新見政一のことで、撰文は
阿川弘之が行いました。

新見は戦後「海軍反省会」の最高顧問も務めていました。
海軍反省会は上は中将から下は少尉、予備士官までが名を連ねた
文字通り戦後の元軍人による「学習会」です。

軍艦「山城」の碑。
スリガオ沖で米国艦隊の集中砲火を浴び力尽きて沈んだ「山城」の
最後については以前もこの碑を紹介した時に調べて思わず涙したものです。

裏面には戦死者・不詳 三十三名 合計一、六二四名の名が刻まれています。

平成七年に、湾越しにかつて存在した海軍工廠を見守るように
建てられた「海軍の碑」。

旭日旗をあしらった黒曜石の碑石は、海軍終息五十年目に建造されました。
敷地内の掲揚竿には、海軍記念日に旗が揚げられるのでしょうか。

銘板が剥がされ、今となっては何のために建てられたのか
その意図も不明となっている「国威顕彰」と書かれた碑。

土台の上の部分が戦艦の艦橋を象ったものとなっています。
おそらく、戦後の「軍国主義的なものをパージする」という
あの時代に無残にもこのような姿になったものでしょう。

さて、この日の横須賀は震え上がるほどの寒さでした。
ヴェルニー公園のウッドデッキは、港を吹き上げる冷たい風に曝され、
週末だというのに公園をそぞろ歩く人の姿はほとんどありません。

外での帰国歓迎行事はかなり辛いものになるだろうな、
とコートの襟に身をすくめるようにして思わず早足になりかけた時、
潜水艦基地で、しお型潜水艦の出航作業が行われているのに気づきました。

外型の潜水艦のデッキにはオレンジのカポックをつけた乗員が
ほぼ整列するように並んでいます。

目刺しに係留されている向こう側の潜水艦との舫、
そして防舷物を外し終わった所のようでした。

自衛艦旗と星条旗が綺麗に並んでいるので二度見したら、
星条旗は向こう側の「ベンフォールド」のものでした。

それにしても「ベンフォールド」、少しは艦体のサビを何とかしてはどうか。

舫を巻き取っている・・・。

これはもしかして、いやもしかせずともこれから出航するつもりか。
でもちょっと待って?
今日って週末、つまり自衛隊といえども休みの日じゃなかったのか。

立ち止まり、写真を撮りながら集合場所に近づくと、そこで
連れも写真を撮っています。

「休みなのに出航するんですね」

「ブラック企業ですから」

しかも一旦出航したらしばらく帰ってこなかったりするんでしょ?
この極寒の港で作業をしているというだけでも大変そうなのに、
これが日常とは・・・。
改めて日夜問わず、週末も平日もなく粛々と任務を行う
自衛隊の皆さまの姿には頭が下がる思いです。

こちらが歩くにつれて角度が変わり、潜水艦の向こうに
沿岸警備隊のカッターが見えてきました。

 USCGC BERTHOLF 「バーソルフ」

というテントの文字が読み取れます。
昔「税収カッター」艦隊があった頃の司令官、

エルスワース・プライス・バーソルフ代将(准将)

にちなんで受け継がれている船名です。


この人の写真を見て、一度ご紹介したことがあるのを思い出しました。
アメリカのコーストガード・アカデミー見学についてお話しした時、
黎明期に「ベアー」というカッターでアラスカ遠征をした人です。

乗員たちの背後から支援の曳船が近づいてきました。

朝の冷たい空気の中でもうもうと立ち昇る白煙。
ギリギリまで潜水艦は充電を行なっています。

出航支援は二隻の曳船が行います。

最初から艦船を押すことを目的に作られた船体は、
船首そのものが硬化ゴム? のような素材でできているようです。

昔からあった形かもしれませんが、初めて見たような気がします。s

いよいよ押し船が近づく最後に盛大に白煙を噴く艦体。
乗員は白煙に包まれていますが、中に立つとどんな匂いがするのかな。

潜水艦出航作業をしているこちら側を、何隻かの支援船が通り過ぎます。
手前のユニークな「台だけ」の船体の戦場に立っている人(民間人)が
こちらに向かって手を振ったように見えたので反射的に振り返したのですが、
実は岸壁で親と一緒に立っていた子供が手を振っていたのでした。

彼らは「いかづち」乗員の家族だったかもしれません。

白煙が出ていたところからは排水が盛大に噴出しているのが見えます。
岸壁側に係留している潜水艦の乗員はいつものブルーの作業着ですが、
潜水艦乗員の着ているのはあまり見たことがないグリーンの上下です。

防水加工した潜水艦専用作業着かな。

歩いていくと、「バーソルフ」の後部が見えてきました。
艦体が白なので、汚いのが目立ちますね(−_−)

彼女の定係港は通常サンフランシスコのアラメダらしいので、
何かの任務で一時的に日本にやってきていることになります。

ちなみに海保の船には武器らしい武器は必要最小限しか搭載していませんが、
コーストガードの「レジェンド」級は、ボフォース57mm砲搭載です。

この写真を見る限り、ファランクス・シウスも搭載しています。

曳船が潜水艦の艦首側についてタグで引っ張る作業を始めました。

艦尾側も。

見ているとあっという間に支援作業は終わり、艦体から離れていきます。

潜水艦は自力で後進を始めました。
横に動けない潜水艦の艦体の角度を変えるだけの支援だったようです。

外側の潜水艦が出航していった後、岸壁側の「そうりゅう型」が
防舷物の片付け作業に入りました。
ということは出ていった「しお」型はもう今日は帰ってこないのでしょうか。

潜水艦の出入港の際、必ずフィンの上に立つ人がいます。
セイルの上にいる艦長以下出航作業の様子がよく見えます。

ある程度まで沖に出ると、先ほどの押し船のうち一隻が、
潜水艦の艦首側を向こうに押して、方向を変えてあげていました。

さて、ところで先ほど通過していた妙な形の船ですが。
まるでボートハウスのようなこれも変わった船を押しています。

何をする船かはわかりませんが、アメリカ海軍の所属であることはわかりました。
そちらに乗っているのも民間の日本人のようですが。

ちょっと調べてみたところ、YFN−934は「台船」だそうです。
なんと進水(まさか進水式はしてないと思うけど)は1945年3月。
進水と同時に就役したという(笑)、つまり大東亜戦争では
我が国と干戈を交えた戦歴を持ちます。

まじかよ。アメリカ海軍物持ちがいいな。

台船が乗っけているのはタンクなのか家なのか。
まさか・・・プール?

ところでノーズの向きを変えている潜水艦ですが、よく見ると、
支援しているのは二隻で、艦首と艦尾を押していました。

支援作業終了。
押し船が離れ、ここから先は潜水艦は自力で湾を出ていきます。

そして我が潜水艦は、週末の朝だというのに横須賀港を出発し、
今日も任務へと向かっていくのでした。

本当にご苦労様です。
そしていつもありがとうございます。

横須賀港には額が白く真っ黒な「オオバン」が泳いでいました。


さて、それでは横須賀地方隊に「いかづち」をお迎えに行きますか。

 

 

 

 


海上自衛隊東京音楽隊 第58回定期演奏会 @ サントリーホール 後半

2019-02-14 | 音楽

サントリーホールで行われた東京音楽隊定期演奏会、
当日のプログラムにはロビーにあったような
自衛隊の広報写真が掲載されていました。

訓練のシーンや災害救助活動の写真など。

左はRIMPACでのスポーツ交歓でしょうか。
映画「バトルシップ」で主人公とナガタ2佐が喧嘩になった
サッカーの試合のシーンを思い出しますね。

右ページは音楽まつりの東京音楽隊おなじみの「錨」フォーメーションと、
下はよこすかYYフェスタでの艦艇の一般公開でしょう。

上の「ニコニコ超会議」って何をしたのかな?

 

昔、プログラムには楽曲解説のページもあった記憶がありますが、
いつの頃からかそれらはなくなり、自衛隊広報一本!という感じの
プログラムになりました。

コンサートのMCが、必ず

「今こうしている間も、日本の至る所で日本を守る為に勤務についている
自衛官がいることを思い出していただければと思います」

というようなことを付け加えるようになったのも、近年になってからです。

♪ 華麗なる舞曲 クロード・トーマス・スミス

【世界最速】華麗なる舞曲/C.T.スミス -Dance Folatre-

後半の最初に演奏されたのが、前回わたしが「やる気ですね」と
ここでも書き、この日一番聴くのを楽しみにしていた難曲、
クロード・トーマス・スミスの「華麗なる舞曲」でした。

インターミッション中、二人でお昼がわりのサンドウィッチをつまみながら
わたしはTOにこの曲について「聴きどころ」を解説しておきました。

「技量の高いアメリカエアフォースのバンドに『挑戦』するという意味で
作られた難度の高い曲で、一人一人にソリストの技量が求められる。
東京音楽隊が今日どんな速さでこの曲に挑戦するのか楽しみ」

 

そして、始まった瞬間・・・・!

は  や  い (  )

この時の演奏がいつか動画にアップされることになったら、
アップした動画の「世界最速」タイトルは剥奪か、あるいは
控えめに言ってもタイになるだろう、と大予言しておきます。

動画のように大人数での演奏ではないので、最初の部分はまるで、
全体的にスモークがかかったように滑らかな音形の上下降を、
要所でティンパニがピリッと引き締める、というような印象の出だしです。

この動画でわたしがあまり評価できない緩徐部分への急激な転換部分ですが、
この日は指揮者の統率によってごく自然にテンポが制御され、
実に気持ちのいい減速だったことに、いきなり唸らされました。
そして、それに続いて現れるクラリネットソロの清冽なまでの美しさ。

そのクラリネットが導くトゥッテイ(全員での演奏)は、出だしと対比を見せて、
くっきりと、かつ力強い低音を刻み、曲に尋常でないメリハリを与えていました。

後半のフーガ風の部分でもスタミナ切れすることなくテンションを維持していたのは
やはり一人一人の技量の高さの賜物であったといえましょう。

速度に関していえば、作曲者がバンドに要求する速さは

♩= 146 - 152

上に挙げた動画は168くらいと、かなり常識外れの部類なのですが、
この日の演奏も指揮者の要求を上回っていたのは間違いありません。

ただしこちらはそれでいて粒の揃い方が半端なく、一人一人が
完璧に(ここは実に自衛隊らしく)仕上げてきていると思われました。

曲が終わってから、あちらこちらでブラボーの声が上がりましたし、
司会の村上氏が改めて、

「この曲で皆さんの技術の高さがおわかりいただけたと思います」

というようなことを言ったとき、一斉に拍手が起こったことからも
当日の演奏が耳の肥えた人が多い聴衆の心に響いたことがわかります。


前に指揮者樋口二佐が横須賀音楽隊で同じスコアを振ったときには

「速ければいいってものではない。
その点今日の演奏は音を認識するのにちょうどよかった」

という感想を述べたものですが、今回、同隊長は東京音楽隊という「名器」で
あえてこの常識はずれのテンポに挑戦されたのに違いありません。

演奏後のコールでは、ミュート楽器を持ち替えてソロを行なった
トランペットの奏者がメンバーからも喝采を受けていました。

とにかくすごかったです。
この夜、この曲の世紀の名演に立ち会った気がしました。

 

♪ 歌劇「椿姫」より ヴィオレッタのアリア
不思議だわ! 〜ああ、そはかの人か〜花から花へ  ヴェルディ

ここで「華麗なる舞曲」で一仕事終えたバンドに休憩を取らせる為か、
歌手の三宅由佳莉三等海曹がピアノ伴奏だけであまりにも有名なオペラ、
「椿姫」のアリアを披露しました。

音楽隊に続き、音楽隊歌手にとってもこれは大変な「挑戦」だったと思います。

 

「椿姫」は実際のオペラでは二度見ています。
ご存知かと思いますが、原題の「ラ・トラヴィアータ」の意味は、
「道を誤った女」。

ドミモンド(高級娼婦)として裏社会を渡ってきた主人公、
ヴィオレッタのことで、昔一度、このオペラを

クラブ「つばき」のママ「菫」と、彼女を好きになってしまう
おぼっちゃまの有人(アルフレード)が、男の父(会社経営者)に
別れさせられるが、菫が癌で病死する時になって再会し、死を看取る
(ただし社長が会うのを許したのは菫が死ぬとわかったから)

と現代に設定を変えてストーリーを解説したことがあります。

享楽的な水商売の世界に生きてきたヴィオレッタが、
おぼっちゃまのアルフレードを愛しかけている自分を否定し、

「やっぱせっかくの人生楽しく過ごさなくっちゃだわ!」

と思い直して、これからも花から花へ飛び回る蝶のように
男を手玉に取って生きていく、という部分を、清楚な三宅三曹が歌いました。

 

華やかだけれどエキセントリックな主人公を表す、
コロラトゥーラ唱法を駆使した曲は普通に難曲です。

わたしが観に行ったNHKホールでの引っ越し公演で、本番をキャンセルした
歌手(ゲオルギュー)のピンチヒッターが、この曲で音を盛大に外し
その後ステージを降りてしまったことがありましたが、それも
このアリアを歌いこなすことがいかに重圧であったかということでしょう。

 

三宅三曹の場合は、この曲をマイクで歌うという時点で
すでにオペラ歌手と同じ土俵に立たせて語るべきではないので
テクニカルな点は抜きにしても、ヴィオレッタが、

「馬鹿げてるわ!こんなわたしにできるのは楽しむことよ」

と自暴自棄になって自分を嘲笑う部分など、ヴィオレッタになりきって
たった一人のステージを作り上げ、聴き手を楽しませてくれました。

椿姫・花から花へ/森 麻季

色々上がっている日本人歌手が歌うこのアリアで、
一音も装飾音を外さず、最後のEs音が完璧だった唯一の歌手、
森麻季さんの動画を上げておきます。
ご本人も会心の出来だったのか、ガッツポーズしてますね。

 

♪ 交響曲4番 「イエローストーン・ポートレイト」ジェイムズ・バーンズ

イエローストーン国立公園はアメリカ中西部、モンタナ、
アイダホ、ワイオミングの三州の境の広大な地帯に属します。

東京音楽隊は、

「SALUTE TO JAMES BARNES」(ジェイムズ・バーンズに敬礼)

というトリビュートアルバムを出したことがあり、そこには

I .Down on the Yellowstone River (イエローストーンを下る)

II. Pronghorn Scherzo(プロングホーンのスケルツォ)

III. Inspiration Point(霊感の湧く場所)

というこの交響曲が全て収められていますが、このライブ録音で
指揮をしているのは、バーンズ本人です。

CDのクレジットは2005年となっていますから、
実際に作曲者の指導を受けた隊員もまだ現役のはず。
指揮者の樋口二佐もその一人だったかもしれませんね。

彼は親日家で、数多くの日本の吹奏楽団から委嘱作品を発表していますし、
度々来日して自作の指導や指揮などを行なっていることで知られています。

この曲は、いわばバーンズ直伝の演奏を経験した東京音楽隊、
つまり「本家」ならではの演奏であったと言えるのかもしれません。

ところで、そうと知って聞くと余計に思うのですが、親日家というのは
日本的なものが琴線に触れることもあるらしく、
例えば動画の12:58からのメロディは実に日本的です。

和風、というのではなく、日本人の作った曲みたいに聴こえます。

 

イエローストーンといえば余談ですが、スーパーボルケーノ、
地球全体を変えてしまうほどの威力を秘めた巨大火山が存在します。

これが噴火を起こせば、付近一帯を大地震が襲い、続く超巨大噴火によって
イエローストーン国立公園が完全に消失するだけでなく、
火山灰によって空の便をまひさせ、世界的な食糧危機になるそうです。

つまり地球は終わるってことですね。

これを防ぎ地球を救うべく、NASAはマグマまで掘り進んで
火山の根元から冷却するついでに地熱を利用することも考えているそうですが、
うまく行っても何百年単位のプロジェクト、うまくいくものでしょうか。

イエローストーンの噴火は約60万年単位で起こっていて、
今はちょうど前回から60万年目くらいに当たるらしいですが、
これ、時差が1万年どころか千年単位でも、カスリもしないってことになるよね。


プログラム終了後、ステージに現れた司会の村上新悟さんですが、
前回は俳優の平幹二朗氏がカンヌ映画祭で着たタキシードを着用していたのに、
今回はなぜか最初から音楽隊(三等海佐の階級章)の制服を着ていました。

いつそれについて説明があるのかわたしとしては楽しみにしていましたが、
最後までそれについての釈明はなし。
つまり前のタキシードが何かの事情で着られなくなって、
用意していた服に何か問題が(ラフすぎるとか)あったため、
急遽音楽隊が制服を貸したのかと邪推されます。

制服については、

「自衛隊の制服をお借りしていますが、いいものですね。
今日はこのまましれっと着て帰ろうと思います」

と言って皆を笑わせ、さらに、

「去年の『西郷どん』で山県有朋の役をしたので、
旧陸軍の制服を着たのだが、時代や他の違いがあっても、
国を守ろうとする人の制服(つまり軍服ね)を着ると、
身も心も引き締まるような気がします」

「だから今日はこのまましれっとこれを着て帰ろうと思います」

「しれっと」・・・・。
この言葉が海軍発祥だということは村上さんご存知だったかな?

そして、アンコールはその大河ドラマ「西郷どん」のテーマソングでした。

♪ 西郷どん メインテーマ 富貴晴美

昨年12月22日にアップされていた東音の演奏で、
この日の演奏と同じように、三宅三曹のボーカルが部分的に参加です。

♪ 行進曲「軍艦」 瀬戸口藤吉 

アンコールの「軍艦」については、いつも何かしら
ちょっと違う演出を見せてくれる樋口隊長です。
例えば、観客を「指揮」して拍手の場所を指定したり、
歌手に歌わせたり・・・。

いつも通り始まった「軍艦」、今回は「観客指揮」なし、
歌手も出てくる様子がありません。

珍しく普通に始まり普通に終わるのかな、と思っていたら、
サントリーホールのあのステージ後方席、(P席と言います)
パイプオルガンの下の通路に、先ほどの「イエローストーン」で
ファンファーレの演奏を行ったトランペットのバンダが、
再び現れて、最後の「守るも攻むるも」からのメロディを
高らかに吹き鳴らしたのでした。

「軍艦」の生演奏をこういうホールで聴くと、わたしはしばしば
得体の知れない感動が込み上げてきてしまうのですが、
トランペット6本によって演奏される「軍艦」の輝かしい響きは
またしても一瞬瞼の奥が熱くなる現象を生み、
その感動の余韻は、サントリーホールを出て、買ったばかりの
我が「527」に乗り込むまで続きました。

コンサートの後の感動というのはどんな演奏であっても
それなりなのですが、音楽隊の演奏は、彼らが属する自衛隊という
組織に対し、一段と好感が深まるという余禄が加わります。

自分たちの磨きあげた演奏技術を国民のために、工夫を凝らして
披露してくれる自衛隊音楽隊に対し、いつもながら
深く、そして熱く心から賞賛と賛辞を送ったこの日の演奏会でした。

 

最後になりましたが、演奏会参加にお気遣いいただきました
関係者の皆さまがたに対し、心より御礼を申し上げます。

 



 

 


海上自衛隊東京音楽隊 第58回定期演奏会 @ サントリーホール 前半

2019-02-12 | 音楽

昨年12月にお知らせを頂いて以来、楽しみにしてた
海上自衛隊東京音楽隊第58回定期演奏会、
シンフォニックコンサートに行ってまいりました。

今回頂いたチケットは二枚。
いつも誰と一緒に行くか悩むのですが、途中で寝てしまいかねない人は
問題外なので、予定されていたプログラムが「難しい」と思われる場合
それなりに音楽に興味のある人を誘うことになります。

今回予告されていたプログラムはスミスの「華麗なる舞曲」とバーンズの曲。
ちょっと難易度が高めなので、「イ・ムジチ」のバッハプロで寝るという
許し難い前科を持つTOには、当初戦力外通知をしておりました。

ところが、コンサート当日の朝、買い替えた車の納車が行われることになり、
我が家にとって最初のドライブとなるのが、外でもないサントリーホール、
となれば、やはりここは、初乗りがてら参加させてあげるべきかと。

本人も力強く、

「東京音楽隊のコンサートなら寝ないと思うよ」

と言い切るので安心し、新車に乗ってアークヒルズの駐車場までやってきました。

車種を隠すために相変わらずの陸自カモ使用です(笑)

(実はこの加工をした後、イメージホースの柄を変えられることに気づき、
冒頭写真のマスキングはその中から「渡り鳥」を選択してみました)

皆さんに見ていただきたいのはこのナンバープレート。

「次のお車のナンバーは何番にされますか」

とディーラーに聞かれて「(海軍記念日の)527!」と即答したものです。
車体はこれまで頑なネイビーブルーにこだわってきたのですが、
新しく出たこのシリーズにネイビーはなく、メタリックブルーのみだったのと、

「白ならディーラーにストックがあるのですぐにご納車できますし、何より・・」

結構な値引きがあるということで、久しぶりの白い車になりました。

今回楽しみにしていたのは会場がサントリーホールであったことです。

全盛期を知る者にとっては特に、今でも行くたびに華やかな時代の記憶が蘇り、
今より「サントリー」が特別な場所だった頃の高揚した気持ちが思い出されます。

バブルの終りかけの頃、ホール前のカラヤン広場で
ロングドレスにタキシードの人々が笑いさざめく、などという
今ではちょっと考えられない光景を見たこともありました。

到着後、その頃にはなかったスターバックスでコンサートまで
ゆっくり過ごし、心の準備をしてから会場入りしました。

ホールの一隅には海上自衛隊の宣伝ポスターが貼られています。

「GODSPEED」というわたしの好きな言葉がポスターに使われていて素敵。

「ゴッドスピード!」という(アメリカ海軍軍楽隊出身の人が作った)曲を
かつて東京音楽隊がコンサートで取り上げたこともありましたっけね。

このポスターの「ゴッドスピード」は、「祝福」から転じた
「ご安航を」という意味でこのように使われているのだと思われます。

ゴッドスピードの語源は

「GOD」+「SPEDE」(繁栄するという意味の古語SPEDENの仮定法)

で、その意味は

“may God cause you to succeed”

なのだそうです。
ちなみに英語の「スピード」には、実は「速さ」だけでなく
成功、繁栄、幸運という意味も含まれるのだそうですが、これも
「SPEDE」が語源となっている言葉だからでしょうか。

 しかしこの「ゴッドスピード」という言葉、海上自衛隊の印象にぴったりですね。

左は横須賀教育隊の紹介ポスター。
呉教育隊が海軍時代には「呉海兵団」だったように、ここもまたかつては
「武山海兵団」の名で新兵教育ならびに予備士官育成教育を行なっていました。

現在では関東以北の出身者の新入隊員の教育、予備自衛官の教育ですから、
つまり昔とほとんど変わらない機能を持っていることになります。

RIMPAC、環太平洋軍事演習のことですが、2016年の写真です。
我が国の自衛隊は1980年以降のすべてのRIMPACに参加しています。

ちなみに、アメリカ主催で行われるRIMPACには、オバマ政権時代の
4年間の間にわたって中国海軍が招待されていたのですが、
堂々とスパイ艦で諜報活動を行なったり、自衛隊だけレセプションからハブったり、
オープンハウスで自衛官を追い返したりして、
自衛隊への無礼を働いた
ので、現場から偉い人まで業を煮やした米海軍が、政権交代した去年からは

もうあんなやつら招待しねえ!ということになったようです。

南シナ海でのあれやこれやと、トランプ政権の意向で完璧に
敵となった(海軍も)ということなんだと思います。

ちなみに、RIMPACにおける韓国についてですが、アメリカは主催者として、
韓国が日本に何かやらかさないか、いつも懸念し注視し続けており、
これまでのところ韓国海軍と自衛隊は良好にやってきています。
今年あたりからどうなるかはちょっとわかりませんけど・・・。

 

おっと、肝心のコンサートの話の前に、何を寄り道してるんだか。

いつの頃からか、東京音楽隊のコンサートはチケット発行の段階で全席指定です。
来場した順番に席を割り振るやり方や、招待者以外自由席、ということにすると、
下手したら朝早くテント持参で並ぶ人が出てくるので、こうなったのでしょう。

それだけ昔より音楽隊ファンが増えているということになりますが、
それもこれも三宅由佳莉三曹以降の歌手採用効果だと思われます。

 

さて、いよいよ第一部が始まりました。

♪ 喜歌劇「天国と地獄」序曲 J・オッフェンバック

【フル音源】喜歌劇「天国と地獄」序曲/オッフェンバック(八木澤教司)

途中まではともかく、途中からは知らない人のいないオープニングです。

夫が冥府に死んだ妻を取り戻しにいく、という話が、結果の違いはあれど、
洋の東西に昔から伝わっているというのは偶然でしょうか。

この「天国と地獄」の原題は「地獄のオルフェ」

「オルフェオとエウリディーチェ」というグルックのオペラのパロディで、
愛するがゆえに妻を地獄に迎えに行く原作とは違い、実は妻の死後
愛人など作っている夫が、世間体のために冥府にいやい妻を取り戻しにいく
(ふりをする)というドタバタ喜劇に変えてしまいました。

司会の俳優村上新悟さんは、

「この曲を聴くとカステラを思い出します」

と言っていましたが、わたしは関西育ちなのであまりピンとこず、
どちらかというと小学校の時の運動会を思い出します。
今は運動会で「天国と地獄」なんかやらないかもしれませんが。

ついでに言えば、当時は「クシコスポスト」なんかも運動会の定番でしたね。

 

村上新悟さんは、以前も一度東音のコンサートの司会をされたことがあります。
樋口隊長が飲んでいたお店で村上さんが隣に座っていて知り合ったのがきっかけ、
という話が忘れられません(笑)

♪劇的物語「ファウストの劫罰」より ハンガリー行進曲 
ヘクトル・ベルリオーズ

吹奏楽 ラコッツィ行進曲 L.H.ベルリオーズ作曲 陸上自衛隊第1音楽隊

前半のプログラムは、「今年で何周年記念」という節目に当たっている曲ばかりが
セレクトされたそうで、オッフェンバックは生誕200周年、
そして今年はベルリオーズ没後150年に当たります。

この企画は、今回のコンサートのタイトルにある

「祝天皇陛下御在位三十年」

にかけたものだと思うのですが、それにしては
一曲目が地獄行きの妻を救う話、二曲めが悪魔(メフィスト)に
魂を売り渡した男の話、となかなかエッジの効いた出だしです。

 

この「ハンガリー行進曲」(ラコッツィー行進曲)も、「天国と地獄」
ほどではないにせよ、「どこかで聴いたことがある」と皆が思うでしょう。

ちなみに「ファウスト」の舞台はハンガリーではないのですが、
ベルリオーズは最初にこの地方特有の旋律を使った曲を使いたいがため、
無理くり原作から舞台をハンガリーに変えてしまったという経緯があります。

動画で陸自の司会が説明しているように、「ラコッツィー」とは
軍隊を率いたハンガリーの英雄の名前なんですね。

♪ 交響詩「フィンランディア」ヤン・シベリウス

Brass of the Royal Concertgebouw Orchestra - Finlandia

コンセルトヘボウの吹奏楽演奏が見つかりました。
ロシア帝政下のフィンランド大公国で作曲された「民族の歌」で、
帝政ロシアによって演奏禁止処分にもなっていた曲です。

動画の4:42秒から始まる美しいメロディの部分は

「フィンランディア賛歌」

と呼ばれ、歌詞がつけられて作曲者本人が合唱用に編曲しました。

この部分に入ると、それまで椅子に座って待機していた三宅三曹が
立ち上がり、メロディを歌い始めました。
彼女が参加すると分かったとき、ヴォカリーズ(歌詞なし)かと思ったのですが
なんと日本語の歌詞でした。

残念ながらマイクを通しても歌詞は全く聞き取れませんでしたが、
もし堀内敬三の訳詞であったのならこのような内容です。

雲湧く静寂(しじま)の森と 豊かに輝く湖(みず)
野の花 優しく薫る スオミよ 平和の里
野の花 優しく薫る スオミよ 平和の里

幾たび嵐に耐えて 過ぎ越し 栄えある都市
新たな 文化は薫る スオミよ 清(さや)けき国
新たな 文化は薫る スオミよ 清けき国

スオミよ 平和の里 

「スオミ」とか歌詞で言われても聞き取れなくて当然かもしれません。
日本のことを「大和」「倭国」「瑞穂の国」「扶桑」というように、
フィンランドを表す言葉が「スオミ」です。

 

わたしにとって自衛隊音楽隊の歌手投入については、大変興味のあるテーマで、
音楽隊のコンサートを鑑賞するときには、歌手をどんな曲に、どんな形で、
さらにどういうパートを担わせるのか、その点をいつも注目しているのですが、
今回の「フィンランディア」でのヴォーカルの使い方は実に適宜適切であり、
バンドと歌手、どちらをも生かしきる「巧いやり方」と思えました。

「フィンランディア賛歌」の後のフィナーレ最終 IV-I の部分では
原曲にはないハイトーンで歌手の「見せ場」をちゃんと作っており、
これがまたなかなか心憎い演出だったと思います。

「フィンランディア」は、日本とフィンランドの国交樹立100周年、
ということで選ばれました。

♪ 二つの交響的断章 ヴァーツラフ・ネリベル

 

生誕100年(つまり最近の作曲家)であるネリベルはチェコの生まれ。
近現代的な技法で作られている曲ですが、吹奏楽シーンでは有名で、
日本ではコンクール課題や、中学生でもレパートリーにするくらいおなじみです。

司会が最初に、

「この曲はレ、ラ、ファ、シ(正確にはシ♭)に支配される」

と前もって説明してくれるので、聴きならがらまるで宝探しのように
「レラファシ」を探すという楽しみ方ができます。

低音で執拗に繰り返されるクラスターのような「レラファシ」、
「♪ フォ〜フォフォ〜〜〜」(サックス)「レラファシッ!」(グロッケン、シロフォン)
みたいに使われたり、ときには順番を変えてでてきたり。

フルートやオーボエなどのソロも堪能できますが、何と言っても
ティンパニをはじめとする打楽器陣の大活躍が見た目にも痛快な曲でした。

そして、前半が終わったとき、意外やTOが、

「一番面白かった」

と言ったのがこの曲です。

うーん、わたしは彼を少しなめていたかもしれん。

 

 

続く。

 

 


基地訪問の記念品〜海上自衛隊岩国航空隊訪問

2019-02-11 | 自衛隊

岩国航空基地訪問記、最終日です。

じっさいにUS-2の内部を見せていただき、コクピットに座って
機体の前で記念写真を撮った後は、引退したUS-1Aの最後の機体を
この目とカメラに刻み、第71航空隊の資料室にやってきました。

部隊がこれまでに授与された盾や記念品が収められています。

上段左端の盾は、平成15年12月14日に授与された
救難出動700回達成記念

その二つ横は、救急搬送実績累計1000回を超えた記念
平成26年12月15日の日付です。

「シャクティ」はインド海軍の補給艦です。
日付も贈呈の理由もわからないのですが、贈呈者が艦長と士官であることだけわかります。

ちなみに、この週末帰国した「いなづま」はインド太平洋方面派遣隊として
昨年10月インドに寄港し、海軍同士の相互協力と信頼関係を強化する目的で
「かが」と共にインド海軍との訓練を行なっています。

インド海軍の参加艦艇の中に「シャクティ」も含まれていたようです。
写真の下にはサッカーのユニフォーム交換のようなことを海軍も行うのか、
「シャクティ」の帽子があります。

「いなづま」の帰国に当たってはわたしもお迎えに行ってまいりましたので、
またこの後にでもここでご紹介するつもりです。

どこかでみたつっぱりイワトビペンギンのマークは「みちしお」のマスコット。
その横は、木更津駐屯地の第1ヘリ部隊からの感謝状です。

「平成30年7月豪雨に伴うご行啓に対する支援への感謝を込めて」

 

ガラス棚に並んだキャップには

USS「ステサム」「キティホーク」「カリフォルニア」(クマのマーク)
USCG「ロラン・ステーション」(マーカスアイランド、JA)

などがあります。
ロラン「LOLAN」とはLOng-RAnge Navigation、地上系電波航法システムの一種で、
アメリカ沿岸警備隊は沖縄返還まで南鳥島にロラン基地を持っていました。

返還後ロラン局は海保の管轄となっていましたが、GPSの発達で不要のものになり、
2009年に廃止になっています。
なぜ沿岸警備隊のロラン基地のキャップがここにあるのかはわかりませんが、
第71飛行隊が何らかの支援を行なっていたことは確かです。

亀の剥製は父島村長からの急患搬送200回記念で贈られました。
亀・・・・贈られた方もこりゃびっくりだ(笑)

時計、メダル、名刺入れは、駐日大使ウィリアム・ハガティー氏からの記念品です。

岩国基地という米軍との合同基地であるため、資料には英語の説明もありました。
800名以上の人命がUS-1Aのサーチアンドレスキューによって救われたこと。

そして離島に住む人々の救難救急に活躍してきたこと。

US-2のスペックが簡単に説明されています。
でも、アメリカ人は多分メートル法で書かれてもピンとこないと思う(笑)

第71航空隊が今まで出動した救難実績を記したボード。
これからもその実績が増えればボードにマークが増えていきます。

ふと

「辛坊さんの事故ってどこだったんですか」

と尋ねると、聞かれ慣れているのか司令はためらうことなく
宮城県沖の一つのマークを指さしました。

「意外と本土近くだったんですね」

wikiによると、それはに宮城県・金華山の南東約1,200km沖合とあります。
わたしが思っていたより、東北方面に近い感じでした。

どなたかは存じませんが名前が読めない方の色紙の下に
「そこまで言って委員会」のシールが・・・・。

辛坊さん関係のグッズだと思いますが、もしかしてこれが救出のお礼のつもり?
ま、まさかね(震え声)

US-1Aの実績の中には、三沢基地所属のF-16から緊急脱出した
アメリカ空軍のパイロットの救助派遣というものがあります
おそらくこの本にはそのことも記されているのでしょう。

日本の沖合約1キロ地点の現場、30分の猶予しかない厳しい状況で
救助されたパイロットは、のちに在日米軍司令となって、岩国基地訪問を果たしました。

海兵隊ニュース「在日米軍司令が命の恩人と再会」

この時海上で救出にかかった時間は20分ほどでしたが、
クルーにとっては永遠のように長く感じられたそうです。

ジョン・ドラン中将は当時28歳の空軍中尉。
救出されてすぐ、彼は自衛官たちにこんなメモを寄越したそうです。

「わたしには妻と息子、妻のお腹の中にベビーがいる。
助けてくれたクルー全員に感謝したい」

この時に墜落したF-16戦闘機も空中給油中にタンカーと接触したのが
事故の原因だったということです。

なお、このニュースでドラン中将と一緒に歩いているのは
航空集団司令官、園田直紀海将です。

 

ところで、昨年末のレーダー照射問題はいまだに全く収まる気配を見せませんね。
あまりに支離滅裂、かつ痛々しい嘘をつき続ける韓国に日本側は呆れ果て、

「これ以上の話し合いは無駄」

と切り捨てたのを、韓国は根に持って(笑)どうやら今後日本の哨戒機を
見かけるたびに「威嚇飛行された」と大騒ぎすることにした模様。

その最初の衝突のきっかけとなった韓国海軍のイージス艦、
世宗大王と同級の駆逐艦の乗員が第71航空隊によって救出されたのをご存知でしょうか。

2010年(平成22年)8月12日、海上保安庁から災害派遣要請を受けたUS-1Aが、
急病(胃に穴が開き出血)となった韓国海軍の駆逐艦の乗組員1名を
宮城県金華山 沖880kmの海上で収容し、厚木基地に搬送した。
これは自衛隊が災害派遣要請を受けてアメリカ軍以外の外国兵を搬送した初の事例であった。

この件についてメディアが大きく取り上げたり、ましてや韓国政府が
(中国政府ですらお礼とともに記念品を贈って来ているのに)
何かこれに政府級で謝意を表したかについては、少なくとも
ここに展示してある記念品にそれは見られなかった、とだけ言っておきます。

陸自が困った韓国軍に弾薬を貸した時も、当の軍は大変感謝したのに、
上でそれを「握りつぶした」という話ですし、本当になんと言うか・・嫌気がさしますね。

「コリア・ファティーグ」ってアメリカからきた言葉だと思うけど、そのまんまって感じ。

さて、それでは最後に、この時いただいた記念品を大公開します。
まずお土産が入っていた紙袋。裏も表もUS-1Aです。

またもや海自のメダルのコレクションが増えてしまったぜ。
第71航空隊、アイボリーレスキューのメダル。

裏に刻まれた飛行艇はUS−1Aの方かもしれません。

こちらは岩国航空基地のメダル。
標的機のの部隊、電子戦機の部隊など隷下の5部隊のマークです。

航空基地のマークは錦帯橋とウィングをあしらって。
海将補からいただいたメダルなので桜が二つです。

こちらはUS-2をあしらったペーパーホルダー。

ものすごく立派すぎるクリスタルのペーパーウエイトも頂きました。
US−1除籍記念に式典を行なったので、参加者に贈呈されたものでしょう。

わたしにとっては、最初で最後にUS-1Aをこの目で見ることができた記念でもあります。

ーと、このネクタイを頂いたのが、岩国基地だったか
それともこの後の呉地方総監部からだったかがわからなくなってしまい・・・。
これって、自衛官がしているのと同じタイプですか?


 

第71航空隊の見学が終わり、持っていったお土産を航空隊司令にわたして
わたしたちは車に乗り込みました。
基地司令、航空隊司令、副長以下隊員の皆さんが整列してお見送りくださっています。

最後に資料室で航空隊司令とこんな話をしました。

「最後の飛行艇(日辻常雄著)という本があるんですが」

「読みましたー!」

「最後に二式大艇が着水し、焼却処分された池にこの間行ってきました」

あの本のそのシーン、燃える二式に敬礼をしながら皆滂沱の涙を流したという
その記述は、まるで実際に見た気がするほどありありと記憶に残っています。

「え、まさか、まだそこに機体が沈んでるとか」

「いや、それはもう昔に回収されてないですが」

「それって・・・聖地巡礼ですね」

(笑いながら)「聖地巡礼です」

司令によると、それは岩国基地から車でちょっと行ったところにあるとか。
(本を見つけることができなくて、その池の名前は不明)

わたしもいつか「聖地巡礼」でその場所に実際に行ってみたいと思います。

岩国基地から江田島に向かったのですが、もう気分が悪くなるほどの渋滞でした。
幹線道路なのにところどころ1車線になるので渋滞してしまうんですね。

江田島の幹部学校にはこのために遅れてしまったのですが、現地でそのことを言うと

「あの道はいつも混雑しているんですよ」

と気の毒そうに言われました。
つまり、常態的に混雑している道を普通に来ようとしたこちらの落ち度だったってことですわ。
以後反省して二度とないようにします<(_ _)>

 

というわけで、岩国基地と第71航空隊訪問記を終わります。

基地訪問に際して全てをお取り計らいくださった基地司令、
エスコートしてくださった広報の皆さま、水上艇について何から何まで詳しく、
そして熱く説明してくださった航空隊司令、副長、US-2乗員の皆さま方、
心からお礼を申し上げます。

ありがとうございました。

 

 


新明和 飛行艇の系譜〜岩国航空基地見学

2019-02-09 | 自衛隊

前回、US-2に搭乗、などと思わせぶりな表現をしたため、体験搭乗で実際に
その辺を飛んできたような含みを持たせてしまってすみません<(_ _)>

流石に新明和の研究技術陣でもない限り、実際に飛んで着水し、
救難訓練を行なってまた離水して帰ってくる体験搭乗などというのは無理です(笑)

5機しか存在しないこのUS-2機体の中を実際に見られるだけでも
僥倖だったのは確かですが、しかし、今にして思えば、

「何か特に見学したい機体はありますか」

と尋ねられて「US-2!」と即答しなければどうなっていたでしょうか。

岩国基地所属の海自航空機は、他に掃海ヘリと電子戦機、標的機です。
電子戦機は、まず機密的観点から見学は不可能となると、どう考えても
MCH−101かUS-2のどちらかになっていたような気がします。

さて、US-2の見学を終え、また機体からまっすぐエプロン端まで行って
シャキーン!と直角に曲がるあの歩き方で(笑)格納庫まで戻ってきました。

消火器と自転車が並列駐車されています。

向こうにはエプロンにあるMCHー101が写っています。
その向こうはF-35がタッチアンドゴーを繰り返していた滑走路ですが、
残念なことに、幸い写真には何も写っていませんでした。

も、もちろん、もし写っててもこんなところに上げませんよ?

 

の格納庫のこちら壁には二階に上がる階段があり、
そこには航空隊司令がおっしゃったようにちょっとした資料館があります。

これは美しい。同時に編隊着水するPS−1。
まるでシンクロナイズドスイミングをしているようです。
これは誤変換でなく「変態着水」と言ってもいいのではないか(笑)

上の「エミリー(二式大艇)の系譜」(勝手に命名)を見ていただければわかりますが、
戦後初めて海上自衛隊として取得した飛行艇、それがこのPS-1です。

PS-1は対潜哨戒機として生まれた飛行艇です。

今からはちょっと考えられない方法ですが、つまり潜水艦を探すため、
飛行艇が海面に着水してソナーを海中に吊るしていたんですね。

しかし、PS-1のために弁明しておくと、

「潜水艦を”船でなく”飛行機で探す」

というのは、当時としては画期的な新機軸だったのです。
速度の遅い潜水艦にすればこれは大変な恐怖?ですからね。

その話で思い出したので、ちょっと余談です。

よく潜水艦の人が、

「P-3Cが空を飛んでいるのを見ただけでイヤーな気持ちになる」

というくらい哨戒機が嫌いらしい、というのが、わたしの知っている
ごく少ないサンプルからも薄々浮き彫りになっているわけですが、
逆の話、つまり固定翼の人が「潜水艦が憎い」とわざわざ言っているのを
これまで寡聞にして一度も聞いたことがないのです。

「なんでだろうね?」

先日、そういうことに全く知識のないTOに、ふと世間話のついでに
(どんな世間話だ)言ったところ、

「そりゃ、上から飛行機で探される方が嫌に決まってるでしょうよ」

なるほど、探す方と探される方、どちらがより相手に忌避感が起こるかって話か。

だから、PS-1(パトロールシップ=PS)が登場したときにも、おそらく
潜水艦隊の人たちはかなーり嫌なものができたな、と思ったに違いないのです。

PS-1はそもそもディッピングソナーの運用というのがアウトオブデイズで、
高い調達費をかけた割にはイマイチな哨戒機、という烙印を押されてしまったのですが、
飛行艇としての機体の完成度は非常に高かったため、これを哨戒用でなく
多用途、ひいては救難用にしようと方向転換したことが、のちに繋がったのです。

下右側の立派なUS−1Aの写真額は、新明和工業から防衛省に送られた

「US-1A型救難艇完納記念」

で、日付は平成17年2月22日となっています。
このとき、防衛省は通算20機目の、機体番号9090をもって
US-1Aの生産を正式に終了することを決めたということでもあります。

左上は平成6年、父島にご出発される両陛下のお写真。

その二つ右は、平成15年度観艦式で3機編隊で飛ぶUS-1Aです。

資料館のほとんどがUS-1Aの偉業を称えるコーナーのようになっていました。
これが新明和が最後に納入した機体番号9090のUS-1Aです。

綺麗に角度を合わせて飛ぶ三機のUS-1A。
機体番号9088、9089、そして9090は

「最後のUS-1A」

の三機ということになります。
ところでこの写真をご覧くださいます?

この日、格納庫にあった機体番号9089のUS-1Aです。

「もしかして、今解体してます?」

「そうですよ」

「ということは、もう次に来た時には・・・無くなっている?」

「そうなると思います」

「しゃ、写真撮っていいですか!」

「どうぞどうぞ」

2017年に最後の飛行を行った「最後の機体」は9090ですから、
その一つ手前の89が今解体の前の作業をここで行っているということです。

この時聞いた話によると、90はもうすでにこの世におられないとか(-人-)ナムー

機体の右翼側に回り込んで、機体番号を写真に収めました。

窓にはビニールでカバーがされ、ノーズは無くなっています。
おそらく、今は中の部品を取り出している段階なのだと思われます。

この話を知人に後日話したところ、

「機体、壊してしまうんですね。勿体無い」

「アメリカなら一機くらいは航空博物館に残すでしょうけどね」

「維持費がかかるからダメかな」

各務原の航空博物館にはもう展示スペースはないのでしょうか。

 

それではあらためて、US-1Aとはどんな救難機だったのでしょう。

それに言及することは、上位変換種のUS−2が「補った部分」でもあるのですが。
まず、一言でいうと

「哨戒機とペアを組むことで初めて哨戒活動が可能になる水上艇」

であったと言えます。

まずP3ーCなどが現場に駆けつけ、捜索を行って目印を投下し、
後から駆けつけたUSー1Aが着水して救難活動を行っていました。

しかしながら、それでも固定翼機であるUS-1Aがヘリよりも速く
現場に到達することができるというのは、一刻を争う救難活動において
従前より優れた方法であったのも確かです。

 

コメント欄でもunknownさんがおっしゃっていたように、
US-1Aの後継機はV-22オスプレイになる予定でしたが、
オスプレイが試作機の段階で全損事故などを起こしてしまったので、
調達の目処がつかなくなり、結果的に飛行艇の後継であるUS-1A改、
のちのUS-2の開発に繋がったという経緯がありますね。

意地の悪い言い方をあえてするならば、新明和工業にとって
「敵失」による棚ぼたのようなプライムメーカー獲得ではありましたが、
それもこれも

「飛行艇の後継機は(ヘリではなく)飛行艇でなければならない」

という同社の執念が、これも敢えて言えば「天に通じた」のかもしれません。

(個人の感想です)

 

しかし、実際問題として、巨大なティルトローター機であるオスプレイが
救難活動をすることを想像してみると、救難はそのローターの引き起こす
盛大なダウンウォッシュの中で行われるわけです。

地上でもローターの下に立つだけでもかなりの恐怖があるのに、水上で、
そのダウンウォッシュの中、ホバリングしたヘリに揚収されるのは
要救助者にとってかなりの心理的な恐怖ではないかと思われるのです。

US-2の誕生はこの点から言っても正解だったのではないでしょうか。

より、冒頭写真に挙げた「飛行艇の系譜」が途切れることなく
未来に繋がっていく可能性が生まれたことの意義はあまりにも大きいと言えましょう。

第71飛行隊に贈られた各国からの記念の品々。

左上から、

●昭和59年12月9日、トルコ駐日大使ご夫妻から
US-1搭乗記念として贈られた飾り皿

(やっぱり搭乗って、こういう時に使うべきですね)

●インド海軍アニルチョプラ中将から
日印SAREX記念として贈られる

SAREXというのはサーチアンドレスキューを目的とした
国際組織の略称だと思われます。

●韓国参謀総長KIM CHON-HO大将より昭和63年12月17日

理由はわかりません。
海軍大将が訪問し、メダルの交換を行ったということでしょうか。

●平成21年4月21日 在日海軍司令部SNFJ-J2
情報幕僚 ペンス海軍大佐より贈られた時計と磁石

●統合幕僚長折木陸相が搭乗した記念メダル
平成22年3月2日

下段左より、

●「海梅」の輪沙恵船長を救ってくれた感謝の意
中華人民共和国寄贈 77年12月14日

調べましたがネットには全く情報が上がっていません。

奥ゆかしいというのか、自衛隊はどこの国の人を助けた!などと
全く発表しないため、こんなことがあっても史実として人の目に触れることは
まずないので、おそらく中国の人たちも全く知らないのだと思います。

●フランス海軍参謀総長イブ・R・ボナルト大将より贈呈される
1983年9月7日

そもそもこの贈呈された物体の正体がわからないんですが・・・。

●新庁舎落成記念 南鳥島航空派遣隊より贈呈
平成21年5月9日

南鳥島には自衛艦が定期的に派遣されますが(聞いたところ
期間は週単位でそんなに長くないらしい)その送り迎えには
必ず水上艇が使われます。

フランス海軍参謀総長 ベルナール・ルソー大将から
US-1搭乗記念として贈られる(厚木〜江田島)
平成元年12月13日

江田内のあの内海にUS-1は着水を行ったということなのでしょう。

ところで、冒頭の資料館に飾ってあった絵ですが、
下から順番にUSー2に至るまでの水上艇の系譜が描かれています。

上からUS-2、US-1A、PS-1、そして帝国海軍の二式大艇。
ここまでは今までお話ししてきたところですが、その下の
二機についても触れておきます。

まず二式の下が、川西飛行機の

川西H6K 九七式飛行艇

通称「九七大艇」「九七式大艇」などと言い、コードネームは「Mavis」。
メイヴィス・・・なんか宮崎駿のアニメに出てきそうな名前ですね。

新明和の前身、川西機械製作所は、その前に日本初の本格的水上機、

川西K-5水上郵便機

なるものを送り出していました。
それが一番下の複葉機だと思われます。

つまり日本は、川西のおかげで、海外の飛行機にこだわらない独自技術が、
水上機という分野にこの時期に根付いたということもできそうですね。

 

そもそも、日本で最初にできた飛行機制作会社は、川西航空機の創業者
川西清兵衛と、中島飛行機の創業者中島知久平によって作られた
日本飛行機製作所でした。(2年で解散し、お互い川西と中島を作る)

その川西航空機における主力商品の一つが大型飛行艇だったのは皆さまご存知の通り。

大型飛行艇の系譜は、このように受け継がれていきます。
97式飛行艇が高速の能力を得て「二式大艇」に。
二式がさらなる高耐波性を得て「PS-1」に。
「高速性」「耐波性」「航続距離」全ての能力が補強されて「PS-2」へと。

最初にK-5ができた1922年からUS-2の誕生する2003年に至るまで、
そしてUS−2が生まれた後も最終形に至ることなく進化を続ける機体の系譜は、

このように100年もの間、脈々と受け継がれてきたのです。

 

ちなみに、戦後開発された水上艇の離水所要時間は、

PS-1US−1 約30秒

US-1A   約20秒

US−2    約10秒

と10秒ずつ縮まってきているそうです。

たかが10秒、されどこの10秒の短縮が救難救急の現場でいかに偉大な進歩か、
それは、実際にそれらに乗って幾多の命を救ってきた
第71航空隊の「飛行艇乗り」が一番よく知っているはずです。

 

続く。

 

 


救難飛行艇US-2に搭乗!〜岩国航空基地訪問

2019-02-08 | 自衛隊

というわけで乗ってまいりましたよ。あのUS-2に。

写真は、見学を終えてから他のまずいものが写り込まない絶妙な角度で
海自のカメラマンがわたしのカメラで撮ってくれたもので、
左から航空隊司令、群司令、TO、わたし、そして副長です。

それにしてもこの写真を見て思うのですが、海自迷彩っていいものですね。
スマートな方ばかりなので余計にそれが引き立っていますが、
やはり現場の自衛官というのは奥様なら二度ぼれしてしまわんばかりの凛々しさ。

しかも命をかけた任務についている人の気魄は、本人が思うよりずっと
溢れ出ているもので、この時ハンガーですれ違ったパイロットからは、
オーラの目に見えないわたしにも、その緊張感がビリビリ伝わってくるような
一種の「殺気」が感じられました。

ちなみに前にそれを強く感じたのは、掃海隊の訓練でヘローキャスティングを終え、
水中処分員たちが揚収されてヘリから母艦の甲板に降りてきたときでした。

 

車から降りたわたしたちをお迎えくださったのは航空隊司令。
救難飛行艇一筋で来られた、「熱い男」というイメージの自衛官です。
格納庫から群司令、副長とともに航空隊司令に扇動されてエプロンに出ると、
なんと!

そこには 洗機真っ最中のUS-2の姿が見えているではありませんか。

(イメージ図)

ただし、この写真の頃の洗浄システムより、見たところもう少し
スッキリしていたというか、地面からただ水がシュワシュワ出ていただけだったような。

新明和のHPにある洗浄システムと同じものではないかと思われます。

さて、その歩いていくコースですが、直線に歩いて直角に曲がり、
見学する予定のUS-2が駐機してあるところにたどり着きました。

わかりにくいので図に書くと、こんな感じです。

グーグルアースの画像なので飛行機がUS-1Aですが。

斜めに歩けば距離として近いのに、こういう風に歩くことが
厳格に決められているその訳は、「安全上の理由」です。
航空機が動くところを横切ったりすると危険なので、
出来るだけエプロン端を歩き、目的の機体の前まで最短距離で到達するのだと。

そして、機体の前まで来ると、US-2を飛行艇たらしめている
船底?の波消し装置の説明から始まりました。

「こんなところの”気配り”がすごいんですよ」

二式大艇にはなかった、船底(とは言わないかもしれない)を囲むような
薄型の波消し装置は水流が上に跳ね上がるのを防ぎ、さらに、
船底(としか言いようがないよね)のスプレーストリップという装置で
波を横に逃がすなどという細かい仕掛けを見せられ、うーんと唸ります。

いや確かにこういうのは日本人得意だわ。
あんなこといいなできたらいいなを割と本気でやってしまう、
そのこだわりとお節介なくらいの懇切丁寧な「思いやり」が
波の高い海象条件でも離着水が可能な機体を作り出しました。

その「気配り」の部分の写真を撮れなかったのは残念ですが、
外側が撮影不可だった理由は、滑走路が米軍との共同使用だからに他なりません。

 

現にこの時、エプロンを歩いていると、外でもないあのF-35
タッチアンドゴーをやっておりました。

「ああー降りてくる降りてくる」

「凄い音ですね」

F-35飛行中は会話もちゃんと聞こえないくらいの轟音です。
そうかと思えば、しれっとオスプレイもその辺を飛んでいるではありませんか。

「特にF-35の離着陸が見られるなんて珍しいと思います」

「ラッキーです〜」

ミリオタには眼福のこの景色ですが、やっぱり写真に写っちゃまずいので、
エプロンでは冒頭写真のような条件での写真だけが許されるというわけです。

外で行われたもう一つの説明は、

BLC(Boundary Layer Control)

についてでした。

日本語だと「境界層制御」と訳す動力式高揚力装置のことですが、
ぶっちゃけこれがUS-2の超低速を可能としているのです。

そういえば、観艦式でまだUS-2が着水と離水の展示をやっていた時、
こちらに向かう機体がいつまでもやってこないので、皆等しく、
あれ?なかなか来ないんだけど遅くね?という雰囲気になったものですが、
あれもBLCエンジンが可能にした極低速なのです。

それは、説明によると、翼のフラップから圧縮された空気をエンジンから出して
翼の上に流し、プロペラから取り込んだ気流を下方に流すことで、
高揚力を得て極短距離での離着水をも可能にしたということでした。

時速は90キロ。
航空機の速さにおいて、車と同じ速度というのがどれだけ低速かってことですね。

黄色いラッタルを上り、機内のコクピットに座らせてもらいました。
当然のように?わたしキャプテンの席に座ります。
(しかも『左が機長ですよね』と聞いた上での故意犯)

「中は写真を撮っても構いませんよ」

そう言われて、初めて撮った写真がこれ。

新明和のスペルが「ShinMaywa」であることに迂闊にもこの時初めて気が付きました。
前にも言いましたが、実家の近くに新明和の社員寮らしきものがあって、
もしかしたらこのロゴを見ていたかもしれないのに・・。

ちなみにそのことを隊司令にいうと、

「あそこは若い時にいたことがあります」

もしかしたら、道ですれ違っていたかもしれないとわかりました。
神の視点でいうところの、

「今から何十年後にこの二人は岩国基地で再会するのである」

という一瞬があったかと思うと胸熱です(笑)

操縦桿の会社のロゴのところには、ブリーフィングの内容を書いた紙などを
くっつけるのかなと思ったり。

座席奥にはヘリコプターの操縦席のようなペダル、座席右には
バインダーを入れるためのスリットがあります。

これは座席の左側。左側にはハンドルがあるぞ。

このコンソールは通信関係のボタンが集まっています。
『レシーバー』のなかに「 TACAN」のボタンもあります。

機長と副機長の間のコンソール。

写真を見て初めて気がついたのですが、速度ギア(ですよね)の数字を
覆うようにシールが貼られています。(その時には気づかなかった)

一般人には内緒の数字だったのかな。

見やすくするために写真を縦にしてみました。
確かに複雑そうですが、それでもUS-1Aに比べると、機能向上によって
シンプルになった部分も多いのかと思われます。

隊司令は、US-1AからUS-2に乗り換えた時のことを

「自分がものすごく巧くなったような気がしました。
実は全部飛行機がやってくれていたんですが」

と笑いながらおっしゃっていましたが、US-1AからUS-2の最も大きな変化は
操縦系統のフライ・バイ・ワイヤ(FBW) 化であったと思われます。

「ワイヤによる飛行」とは、いかにもアナログな印象を素人は受けますが、確かに
直接操作を繋がれた線でパイロットの操縦を各部分に繋げる方法を思わせます。

実はそちらの「線」はケーブルと呼び、ワイヤとは電線のことなのです。
つまりパイロットの操作を電線に流れる電気信号によって伝え、
操縦翼面を操作する方法です。

US-1Aでどうだったのか聞きそびれましたが、従来の飛行機で必要だった
機体の姿勢を変える時の「当て舵」という中立の位置に舵を戻す動作も要らなくなります。

司令が

「巧くなったような気がした」

という、もっとも大きなFBWのメリットは、荒海での着水だったでしょう。
FBW以前は荒海の中で最適な場所に着水する技術は、もはや「名人芸」に近く、
相当な熟練を要したものだそうですが、FBW化により、今までカンに頼っていた部分の
操縦の自動化だけでなく、たとえば荒天時にもコンピュータのアシストにより
より安全な着水が可能になったのです。

もっとも、どんなに機体性能が向上しても、水上艇の着水、
特に荒れた海での離着水が100%安全なものになることはありません。

そのため、第71航空隊の隊員たちは、

「訓練で泣いて本番で笑おう」

をモットーに厳しい訓練を日々行なっているのです。

今地上にいるので「LAND」の表示が出ているインジケーターは
着水した時の喫水を表すものではないかと思われます。

右は現在の機首の方角を表していますね。

これがコクピット(階段数段分高いところにある)から見たキャビン。
見学に際しては、クルーが何人か立ち会ってくれています。

このキャビンは航行時与圧されます。

ちょっと驚いたのですが、哨戒機から救難機へと変遷を遂げたUS-1Aには
機内与圧がなく、まず病人や負傷者にとって過酷な状態を余儀なくされていたそうです。

与圧装置がないということは、飛行機は高高度の飛行ができないということであり、
悪天候下でも低高度で揺れながら飛ばなくてはならなかったのですが、
これにより、US-2は3万フィートの安定した高度で患者輸送することが可能です。

新しい救急救難艇を開発する時、この与圧装置の付加は必須とされました。

 

しかしそのために当初の予算は膨れ上がってしまいます。

US-2開発の段階で、いかにコストカットするかという問題になった時、
一つの方法として艇体の重量を軽くすることがあげられましたが、そのために
複合材を使うことは、リスク面からも慎重にならざるを得ませんでした。

水に触れることの多い飛行艇で複合材の使用をすると、外の傷が発見されないまま
内部だけが損傷し、ある日突然急激な破壊に至るという可能性もあったためです。

そこで、重量とコストの兼ね合いから考えられたのが与圧の区画を
搭乗員のスペースだけに限定するという案でした。

この写真でいうと、ドア近くに隊員が立っているその向こう、
荷物輸送などのスペースが、おそらくその無与圧になっているのだと思われます。

ちなみに、新明和のHPには、開発の最大の難関は重量軽減で、
このためにスタッフはそれこそグラム単位の削減策を積み上げて行くという
血の滲むような苦労があった、と書かれています。

捜索、洋上救難、患者輸送、そして物資の特別輸送。

辛坊治郎氏の救難でUS-2のことを初めて知った国民もいたかもしれません。
あの事件は、US-2を世間に広く知らしめるいう思わぬメリットを生みましたね。

これまでの飛行艇による救難活動実績は出動件数1000件以上、
救助人員も1000名以上。

US-2の行動半径は1900kmと、US-1Aの2時間捜索に対し
1500kmという限界を軽く超えています。

写真の囲み四角右側の「Murcus」とは南鳥島のことです。

機内には他にも展示パネルがいっぱいあったのですが、
うっかりして写真を撮り忘れました。

 

機内に備え付けてある担架のラックです。
すぐに取り出せるのが2基、あとは畳んで収納してあります。

ターゲットを捜索するときにクルーが装着するインカムシステムと
スコープのついたヘッドセットを一瞬被らせてもらいました。

重かった(笑)

スコープは片目だけで見るようになっています。

クピット後ろのスペースをなんとなく撮ってみました。

棚の上に第71航空隊のUS-1Aがプリントされた袋がありますが、
これは降りるときにいただいた「お土産」です。

これに何が入っていたかもまたご紹介します。

US-2の搭乗員は機長、副操縦士の他にフライトエンジニア2名、捜索救難調整官2名、
航法・通信員1名、機上救護員2名、機上救助員3名、総勢11名です。

ここは航法・通信員の席です。

機上救助員とは、着水してから潜水や遊泳、ゴムボートで機外に出て
対象者を救助する隊員で、潜水資格のある隊員から選抜されます。

先ほどのゴーグルで飛行中に監視するのもこの人たちです。

機上救護員は、飛行艇に登場して対象者を機内で治療する衛生員です。
准看護師や看護師、救急救命士の資格を持っています。

写真に写っているのは説明してくださった航空隊司令の「説明棒」。

「荒れた海に着水するのは何回やっても怖いと聞きましたが」

と尋ねると、

「その話を私にさせたら、もう6時間くらい喋りますよ」

FBW以前の、操縦が「名人芸」だった頃からのパイロットである航空隊司令、
そう言って周りを笑わせました。

通信士の席ではないかと思われます。

航法士のコンソール、各席に外を目視できる丸窓が必ずあります。

「救難のときにはここに担架を置きます」

と説明してくださっている隊司令。

このあと機外に出て記念写真を撮ったところでとりあえず
見学ツァーは終了ということだったのですが、
こちらの熱心さに免じてか?司令は、航空隊のちょっとした
資料のあるコーナーを見学するかどうかを聞いて下さいました。

「是非お願いします!」

今を逃したら、今度いつ見学の機会が訪れるかわかりません。
わたしはそのお申し出に、こう即答しました。

 

 

続く。