不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

遥か遠く福島への認識の侵食

2011-03-28 | 文学・思想
三月十一日にラッツィンガー教授の新著が発売されていたとは気がつかなかった。数年前に出版されたものの続きである。ヨハネの福音からも受難が扱われている。それどころではなかったので、今もそのような心理的な余裕はない、それでも四月になってから手にとってみる心算だ。

先週の火曜日にはバルタザー・ノイマン合唱団が初期からのお付き合いのあるフランクフルトのアルテオーパーで二十周年の演奏会を開いた。そしてバッハのカンターターを三曲披露した。

トーマス・ヘンゲルブロックのドイツ風の音楽作りは、今や殆どフルトヴェングラーを髣髴させる指揮ぶりから、ドイツの聴衆をも辟易とさせるほどドイツ風のそれも強くホモフォニーなバッハを奏した。そして、そうした演奏実践でなにを描いたかが問題なのだ。

「わが心に憂い多かりき」BWV21のそれによって慰めを得るなどは全く嘘っぱちである。偽善である。そのような慰めがないところに現実がある。今時、そしてその時、そのような音楽はもはや芸術でもなんでもなかろう。

私達はここで幾つかの名言を思い出さずにはいられない。

そこで、予定調和的な慰めや希望などに一筋の光明を見出すことすら叶わない。

「認識が生む苦しみの認識を禁ずる事も統治機構の一つである。」、更に続けて「真っ直ぐと伸びる道は、人生の喜びの福音から、 遥 か 遠 く のポーラ ンドの収容所の人間場へと続く。こうして、絶叫などは聞いていないと自国の一人一人のアーリア人に思い込ませる事が出来る。」(Theodor W. Adorno: „MINIMA MORALIA“ 1951)

「いさかいは起これり」BWV19において、悪魔と天使の弁証となるとき、そこに成就よりも顕現、そのことによって自己崩壊する逆説をそこに読み取る方が自然なのである。

そこで「アウシュヴィッツ以降に詩を書くことは野蛮である」とアドルノの有名な一節に続いて、「そのことは、どうして今日詩を書くことが 可 能 な の か と の 認 識 をさえも侵食しているのでもある」と、先を続けて読む、

「つまり進歩観の前提としての、今日その進歩を完全に汲み尽そうとする究極の顕現に、自己満足の観照に浸かっている限りは、批判精神がそれに優ることはないのである。」(Theodor W. Adorno: „Prismen. Kulturkritik und Gesellschaft“. München 1963. Seite 26.)

これが「黙示」と呼ばれる福島原発事故の姿なのだ。



参照:
フラッシュバックの共観 2007-05-29 | 暦
ヒロシマの生き残り 2005-08-06 | 暦

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 福島から明日が変ってくる | トップ | なにが嬉しくて被爆したいのか »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿