Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

フラッシュバックの共観

2007-05-29 | 
承前)「記憶」を「意識」によって整理すれば、それはフラッシュバックのようなものなのである。前者が現実の日常生活の中へとそっと挿入されても、後者の覚醒を生むことはないと思われる。反対にそうした効果が表れずに次から次へと蓄積されるからこそ、記憶として積み重ねられていくのであろう。新著「ナザレのイエス」の著者は、それにイエス・キリスト、使徒、教会などの主観と客観を使い分け、パズルのようにこれらを組み合わせることで、その目的を達成している。

ヨゼフ・ラッツィンガーは、第十章「イエスの自己賓辞」でヨハネによる福音書を取り上げている。そこでは、イエスの言葉が直説話法で最も多く扱われているから、イエスの主観を通した形で、その「記録」を読み解いている。

先にあげた「わたし」の述語が不特定な箇所があり、これの意味を考える。その前に、述語が特定されている箇所は計七箇所あり「生命のパン」、「世の光」、「入口」、「良い羊飼い」、「復活と生命」、「道と真実と命」、「まことの葡萄の木」と続く。それについて、もっとも重要な並列的に対照され応対される二箇所が7章から挙げられる。

― 祭りの終りのいちばんたいせつな日に、イエススは立ち上がって大声で言った。「のどが渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。聖書に書いてあるとおり、わたしを信じる人は、その内部から生きた水が川となって流れ出るようになる」―

― この言葉を聞いて、群集の中には、「この人は、ほんとうにあの預言者だ」と言うものがいた。―

― 彼らは答えた。「あなたもガリラヤ出身ですか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことがわかります。―

この箇所は、三人称で描かれる客観によって、一人称で説明されたことが、三人称で疑惑として議論を呼んでいる。そしてその回答として、当然のことながら「記憶」が呼び興されて蘇るのである。それは、イエスが出生した古里の世界であり、旧約聖書「出エジプト記」3章14なのである。JHWHと奇怪に呼ばれる者こそが、ここで一人称で語るものであり、つまりANIとJHWH省略されてANI HUと言う者なのである。

つまり、国土も寺院も無いイスラエルの神はただ唯一の神であって、民衆の神であって、世界の神で無ければいけなかった。つまり、述語が代名詞化する「俺、俺」(It is I)とは、一人称で称する神なのである。

ここで初めてイスラエルは神を持つ、視点をかえれば、未知との遭遇がなされ意識が芽生えたとしても良いかもしれない。さらに、14章9「わたしを見た人は、父を見たのだ」と語り、神と相対的に一体化して存在することになる。それが「俺」となる。人の子、子、父、これをして、一体・HOMOOUSIOSと呼び、ニケアの初回公会議にて定まり、これを以ってヘレニズム化に防波堤を築き、多神教化を避けたとする。

多神教の序に、ここでは扱われなかったグノーシスの思考は、既にこの新著の第八章で比較言及されている。そして、その「状態の変容」や「事象の境界」やその倒錯を考えるとき、あくまでも実であるユダヤ教の全能の見えない神に対して、二元論を想定するのは不可能であると判る。なぜならば、それは、あくまでも閉じた系を仮定しなければいけないからである。

意識の覚醒を未知の受容と認識とすると、こうした思考において閉じた系が不可知論の領域にあろうが、ネオプラトニズムの領域にあろうが、陰陽の領域にあろうが、その意識においては大して代わり映えしない。

それゆえか、上記カトリシズムにおいては、湖の上を歩く奇跡の観測者もしくは遭遇者の恐怖心を、また取れすぎた魚に不審を懐くペトロスの主観を強調して、彼らの意識を垣間見せる。これを著者は、人を襲う典型的な「霊感の恐怖」であり、「神の畏怖」であるとして、人力の及ばない未知のものへの意識の拡大を暗に示唆している。

当然のことながら、未知への遭遇と五感を越えた霊感の存在を、三人称として記録してそれをフレッシュバックすることで、覚醒の意識層の「開かれた境界」を定義することが出来る。そして、ここでの本題である不可解な表現「わたしだ」が、一人称の主観の記録としてまたは神秘として、マタイの福音14章にプロスキネシスとして表れ、三人称複数の弟子の二人称の言葉に切り替えられて、その記憶を呼び起こす。

― 船の中にいた人たちは、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言ってイエススを拝んだ。

(聖霊降臨祭の月曜祝日に)



参照:
みちをきくたのしみ [ 文化一般 ] / 2007-05-26
一神教と多神教の対話について(PDF)
一神教と多神教(PDF)
聖書資料におけるイスラエルの一神教(PDF)

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