Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ブーレーズの死へグルーヴ

2024-04-18 | 
承前)新しい音楽への認識を問われ、具体的な例が挙げられる。指揮者エンゲルの学生時の論文として、同時代の音楽と新しい音楽へのテーマもあったようで、自然な音楽「小さな夜の音楽」として、メシアンでの例からそもそもは天井と地上を結ぶ使者の鳥の歌自体が抑々調性音楽ではなくて、オーヴァートーンなどの自然がそもそもの人類の音楽だったと考える。

バーゼルでは首席指揮者として、最初の四年間の計画として1950年以前の音楽は取り上げないとした。その背景には、アドルノなどの軍楽のアンチとしてそうした明晰さが疎まれたその戦後の反動期を排除するとなる。

しかし同時に昨今の特にアメリカなどで作曲されているネオロマンやネオクラシックなどをやるぐらいならブルックナーやそのものバロックを聴いていればいいのだと言明。これを聴くと流石に僕のお友達だと嬉しくなる。

そして音楽市場での興行のふがいなさを嘆く。つまりエンゲル自身が指揮してシュトッツガルトの「アシジの聖フランシスコ」で街中を巻き込んでの公演などは新制作「魔弾の射手」ではあり得ないことで、ベルリンのテムペルホーフでの「メデューサの筏」での追加公演など、真面に上演する時のその興行的な価値を証明しているとぶちあげる。

それでもベルリンなどではユロウスキーが興味深いプログラムを放送交響楽団で行っていたりと各々にはあるのだが、まだまだ駄目だと批判。ユロウスキーも熱心にエンゲル指揮の公演に来てアシスタントに講釈しているぐらいなので、もう一つの手兵放送交響楽団に客演で呼んで欲しいものだ。

そこで、20世紀の新しい音楽への持論を展開する。つまり、その世紀はリズム的な魅力的な展開があまりなかったとするのである。ストラヴィンスキーにはそれがあったが、その後の12音楽でも更にトータルセリアルになると最早音色にしか興味がなかったとなる。ブーレーズは死んだである。

しかしその後のポップスの展開に見るようにリズム的な否パルスによるドライヴがグルーヴ感こそが大きな魅力になる為に、どうしても音楽が堅苦しく感じられるようになったというのである。

当然のことながらバーゼルでの10年にかけて育って来た良質の定期会員層へ広い帯域でのプログラムを提供する一方なにも大衆を動員するという意味ではなく、難しい音楽つまり新たな音への耳を拓く音楽を提供する。態々遠くから駆けつけてくれる人がいる - 私のことでしょうか。

上の理由からヴェルトミュラーの作品などは素晴らしいと語る。そうした音楽の推進力で以って、手応えのある音楽も受ける可能性があるのだという。それを作曲家にも幾らかは考えて欲しいという言い方をしている。確かにあそこまでの初演魔になって仕舞うとそこまで言う資格はある。(続く



参照:
音楽劇場的な熱狂とは 2023-06-29 | 音
長短調性システムの解放 2023-09-23 | 音
エントロピー制御の作曲 2023-12-26 | 音

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