Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

風光明媚な独逸の心象風景

2024-04-06 | 
(承前)ブラームスが何故オペラを作曲しなかったかはよく話題になる。夏のテュッツインゲン滞在中にミュンヘンの作者を訪ねて検証していたりするのだこれという結論には至らなかった。しかしそこでハイドンの主題と弦楽四重奏曲の一番と二番を作曲している。当時の日記にはティロルに続くカールヴァンデルからの帰りの山の天候の情景が印象として認められている。各地の美しい情景に旅情を抱く人には中々ドラマは書けないのかもしれない。

交響曲四番の三楽章でのハ長調主題は「マイスタージンガー」のそれから影響されているようだが、そこにト長調の対抗主題が。シュタインバッハ版のコメンタールを改めてみると、やはり作曲家のイムプレッションが表れているようなところが多い。それはここではピアノに対してその繰り返しにはピューを書き込んだりしていて、その空気を伝える。以前ミュンヘンでの演奏時にも言及したのだが、同様の繰り返しのフォルティシモに対して繰り返される時の脱力などが書き込まれているのはその直後のシンコペーションが繰り返される時の意味合いを示している。つまり主題におけるドイツ的な響きに対置している。それは、先日言及した当時の軍楽隊の管楽合奏が進歩したことに背景があっただろう。そしてその音響は必ずしもピラミッド型の和音主体ではなくて、対位法的なあっちこっちへと主題が移されることにその主旨がある。

四楽章でのパッサカリアでのその音楽がどのようになるのかは既に昨夏の「ハイドンの主題」で馴染みであるが、こういう音楽こそ音に語らせることが重要になる。ブラームスは「ハイドンの主題」においても連弾などの楽譜も有名で、今もそれが演奏されることもある。

冒頭の動機に対して、友人のハンスリックが二人の争いと表現した様であるが、それは管弦楽による音色がないピアノによる演奏となればそうした骸骨しか描けないであろうとある。それも一理あり、それゆえに戦後はベルリナーフィルハーモニカーでもカラヤン指揮で豪勢な管弦楽の音色で一気に一つの大きな流れのように演奏された。勿論そこには渦や停滞などもあるのだが、この楽曲でもっとも重要な動機の扱いなども聴きツ屈すような聴衆は端から相手にされていなかった。それゆえに世界中の巷迄ブラームスの交響曲が録音を通じて流された状況が拓けたのだった。

しかし、キリル・ペトレンコ指揮によってその初演へとその主旨が立ち帰られることで、2021年にティロルでエンゲル指揮カメラータザルツブルクがやったような息吹の音響は求めようがなくとも、少なくともフルトヴェングラー時代にはブラームスの交響曲がこうした大交響楽団で如何に演奏されたかのその音響へと遡ることは可能となった。

ペトレンコの中共デビューとなる五月の上海大演奏会で、昨秋の極東公演同様に「英雄の生涯」と並んでこのブラームスの交響曲四番がメインレパートリーとして取り上げられている。東京より古く西洋音楽を受容してきた土地で、ブラームスの作品の音来のその意味が広く上海の聴衆に伝わるか。カラヤン時代の影響を受けずにはあり得なかったであろうが、より戦後日本などよりもその真髄に迫れるのではないだろうか。



参照:
無意識下の文化的支配 2024-04-04 | 文化一般
ブラームスの先進性から 2023-09-06 | 音
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