Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音響のドラマテュルギー

2024-04-01 | 
承前)新制作「エレクトラ」千秋楽を観た。文字列は初日と同じ感じがしたのは同じ席から見る光の加減だろうか。はっきりしているのは中日は撮影用に入念な演技をさせていたことで、初日と楽日は同じような印象だった。カメラは中日と楽日が同じように入っていたので、中日が映像で楽日の音声をはめ込むのだろう。

主役のシュテムメ以外は千秋楽が圧倒的に音楽的に頂点だった。何よりもベルリナーフィルハーモニカーによる管弦楽が私と同様に内容を漸く把握して来ていた感じで明白な表情が付けられていた。やはりの往路の車中ではベーム博士最後の制作録音を聴いていたのだが、分かれば分かるほどほど見事な演奏で、テムポ感はゆったりしているが恐らく現存する最高の制作映像である。ゲッツ・フリードリッヒの演出も悪くはない。

何が素晴らしいかというとやはり音楽が語る内容であって、漸く三回目の公演でペトレンコ指揮で語りだした。なるほどミュンヘンの劇場で振っていたならば最初からその効果はあったのだろうが、それでもフィルハーモニカーの様なダイナミックスを活かしてのポリフォニックな演奏は不可能だったろう。

その点でも昨年の「影のない女」以上にフィルハーモニカーの利点が表れた制作だった。同時に「サロメ」、「エレクトラ」、「ばらの騎士」の三代表作をどのように捉えるかでは南ドイツからのヴィーンへの視点の有無がある。その意味からも効果的に鳴らされたヴィーナーヴァルツァーはオーストリア国籍でヴィーンで学んだペトレンコがベルリンに根付かせた伝統になるものだった。この点に関しては今回のこの楽劇の内容としてとても重要な議論であるので、再考する。勿論来シーズンのオープニングにもってきているブルックナーの交響曲五番に深く関わっている。

既に言及したように、なぜフィンランドの小澤の天才性には比較に為らないが踊りの上手い指揮者が独墺圏では相手にされないか。そして端から歴史の中に組み込まれない意味のない作曲をしているのか。それは、楽劇「エレクトラ」の楽譜をハ長調に統一して仕舞えという西洋音楽への基本的な不理解がそこにあって、奇しくも金曜日に続いて最終日の月曜日にはシベリウスの協奏曲がなんとブラームスの前に演奏される。まさしくヴァ―クナーガラとこうした曲が音楽祭のプログラムになっていたのかのそのコンセプトが明らかになる。

序ながら、多くの日本からかのお客さんが集っていた。団体さんも入っていた。そして最後の音と同時に拍手が炸裂したことに驚いていた様子が聞こえた。上の中欧と北欧における西洋音楽の長短和声の差異以前に、その音響の受け取り方に明らかに差異があるという事だろう。

頻繁になされる右脳左脳の差異に通じるのかも知れないが、なぜか日本の好楽家は音楽を聴いて涙する。情感に触れるのだろう。そして音楽劇場というのはそうした情感を如何にドラマとして展開するかにその目的の全てが傾けられている。要するに音楽が琴線に触れるとかいうようには創作されていないのである。それならばどのように音楽劇場作品が創作されているか、この楽劇「エレクトラ」はそういう意味からもとても価値がある作品に違いない。(続く



参照:
浪漫的水準化の民族音楽 2024-03-30 | 音
聖金曜日からの不信感 2024-03-31 | 暦
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