<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

バターを塗って口の中に放り込む。

2024年03月23日 17時47分02秒 | Weblog

ゴルフボールくらいの小さな里芋が捨てられない。そんな小さな里芋なら、捨てられるに決まっているのだが、栽培をした者には、それができない。

家内に頼んで、大鍋で茹でてもらうことにした。もちろん、その前に、何度も何度もゴシゴシゴシゴシ皮を削ぎ落としたが、なお少しは残っている。土はしっかり落ちている。

茹でた里芋のあつあつに、バターを塗って口の中に放り込むのである。これがおいしい。小さいのでなおさらおいしい。酒の肴にもできる。

里芋のお命様にも申し訳が立つ、というものだ。ケチケチするなあと言われそうだけど。そろそろ夕食の時間だ。

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尊富士が右足を負傷。心配だなあ。

2024年03月23日 17時35分17秒 | Weblog

朝の山との相撲で、尊富士が右足を負傷した。心配だなあ。12勝2敗となった。

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永遠の命を生きる者、われわれはすべて。

2024年03月23日 16時58分02秒 | Weblog

或る時には此の衆の為に、仏の寿命は無量なりと説き、(遭わざること)久しくして及(いま)し仏を見る者には、(その人たちの)為に仏には値(あ)うこと難しと説かん。

妙法蓮華経 如来寿量品第十六より

仏は(たまたま仏に遇えた人の)為には、此の時には、仏の寿命は永遠である(ので大安心をしてもよい)と説かれるであろうが、これまでずっと仏から遠離っていた人のためには、今遇っておかねばこの先も仏に遭うことなんて難しいぞと説かれるだろう。

仏が死んでしまわれたら、いまここでわたしが仏道を聞くことはない。永遠無量のいのちを生きているということを身を以て明らかにされたので、仏陀となられたのである。しかも仏陀一人が永遠のいのちをいきているのではなく、いのちを生きる者すべてが永遠のいのちを生きていると説かれたのである。もしも仏陀一人で在れば、われわれは安心を得ることはできない。

「永遠のいのち」という命を、我々は初めから生きているのである。始めも終わりもないいのちを生きているのである。粗末に出来るようないのちではない。

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そっかいけんがしん。仏の姿が見えるだろう。

2024年03月23日 16時09分54秒 | Weblog

則皆見我身(そっかいけんがしん=誰もが仏の姿を見るだろう、見えるだろう)の一偈がわたしをあたたかくしています。

「我が身」とは「仏の身」ということです。仏様に遭って法を聞いていたいのです、わたしも。

諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法

妙法蓮華経 如来寿量品第十六より

しょううしゅうくどく にゅうわしちじきしゃ そっかいけんがしん ざいしじせっぽう

諸々(の苦難)有れども(なおも)功徳を修して、(しかも)柔和にして質直なる者は、則(すなわ)ち我が身の、此処に在って法を説く(姿を)見ん。

(わたしはこう読んでみました、此処を)

人はさまざま苦難の道を歩んでいるけれどもそこでもなお努力精進をして進歩向上を図り、柔和な心を保ち、質実実直に生きている者は、自ずからにして仏のわたしが、今此処で説法をしている姿を見ることができるであろう。きっと見えるだろう。

柔和な心を保つのは難しい。質実でいることも実直でいることも難しい。功徳を修することはなお難しい。柔和でなくなっていることが多いかも知れない。質実さを失っているかもしれない。実直でいられなくなっているかもしれない。

でも大丈夫。仏はみずから其の身を現して下さるであろう。そういう人の前にこそ其の身を現して下さるであろう。そうでなければ、わたしが仏身を見ることはありません。

(そういう曲解をこころみてみました)

そっかいけんがしん。則ち皆我が身を見ん。そこで必ず誰もがそこに現れた仏の姿を見るであろう。

そうであれば嬉しいのです。仏様に遭いたいのです。じきじきに説法を聞きたいのです。聞けばわたしは百年、落涙に噎びます。

 

 

 

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お彼岸のヨモギ団子

2024年03月23日 11時59分49秒 | Weblog

お彼岸なので、ヨモギの団子。仏壇にお供えした。

ヨモギの青が鮮やかだ。きな粉にまぶして食べた。春が匂った。

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一番乗りの山桜が公園裏手に咲き出した。

2024年03月23日 11時58分15秒 | Weblog

もうお昼時だ。外は雨。朝からずっと降っている。風は止んでいて、静かだ。

何処にも行かない。行けないから行かない。

県立日ノ隈公園の裏手には池がある。池に半島がある。そこに山桜が咲き出した。

一番早く咲いた。先日、車を止めてしばらく眺めた。

山桜は、葉といっしょに花が咲き出す。大木である。こんもりとしている。

誰もまだこんなところに桜が咲いたことを知らない。

桜の花の色が池水に映える。

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そろそろ桜が開花しますね。浮かれます。

2024年03月23日 07時35分21秒 | Weblog

雨の音が止みました。静かになりました。でも、空の色は変わらずに灰色をしています。7時半を過ぎていますが、光が明るく射してきません。予報では「一日雨」になっています。数日晴れマークがありません。そろそろ桜が開花してきます。浮かれます。

佐賀はこの時期「桜マラソン」が予定されています。桜街道桜トンネルの多布施川川土手を走るマラソンです。川土手の道幅をはみ出してしまうくらいに、たくさんのたくさんの人が走ります。みなみな楽しみにしています。雷が鳴れば中止になってしまうかもしれません。

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聞こうとすると聞こえて来ます。

2024年03月23日 06時59分01秒 | Weblog

助けが入っています。入って入って入っています。それを思うと有り難くなって胸の奥が熱くなります。

入っていなかったら、今日のわたしはないはずです。

それがそうだと分からないようにしてあります。そっとそっとしてあります。わたしが気付かないようにしてあります。

助けを入れた行為主は外には出ずに、ハタラキだけにしてあります。そこに意思がないようにしてありますが、ハタライテイル意思がちゃんとあります。

聞こうとするとしかし、ときおりふっと聞こえて来ます。苦しいときや悲しいときにふっと。「おまえを助けるぞ助けるぞ」の声が聞こえて来ます。聞こえて来ると泣き出します。

「助けられて今此処に居るわたし」がいます。息をしています。明け方の窓の外の大空を見ています。春の鳥の声が聞こえて来ます。

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軒の被災を打つ雨の音がここちよい。

2024年03月23日 06時47分36秒 | Weblog

今日は3月23日、土曜日。雨になりました。そんなに激しい雨ではないようです。軒の庇を打つ雨が、心地よい音楽を響かせています。

たくさんたくさん寝たのでもう十分量になったので起きて、部屋の障子を開けました。まだやや暗いようです。

「ああ、生きて目が覚めたぞ、有り難いなあ」になります。老いて老いていますから、いつ「機能不全につき運転を停止しました」になってもフシギではないのです。よろよろよぼよぼの度合いが深まっています。

見えるところにアネモネの花が咲いています。咲いたらしばらく咲き続けますが、すぐ次の花芽が伸びて来ます。それがまた咲き出します。美しいなあと思います。

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「いいね」ボタン押して頂いて有り難うございました。

2024年03月23日 06時44分50秒 | Weblog

meikouseiseiさん、「いいね」ボタンを押して頂いて有り難うございました。お礼が遅くなりました。元気をもらいました。

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