則皆見我身(そっかいけんがしん=誰もが仏の姿を見るだろう、見えるだろう)の一偈がわたしをあたたかくしています。
「我が身」とは「仏の身」ということです。仏様に遭って法を聞いていたいのです、わたしも。
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諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法
妙法蓮華経 如来寿量品第十六より
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しょううしゅうくどく にゅうわしちじきしゃ そっかいけんがしん ざいしじせっぽう
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諸々(の苦難)有れども(なおも)功徳を修して、(しかも)柔和にして質直なる者は、則(すなわ)ち我が身の、此処に在って法を説く(姿を)見ん。
(わたしはこう読んでみました、此処を)
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人はさまざま苦難の道を歩んでいるけれどもそこでもなお努力精進をして進歩向上を図り、柔和な心を保ち、質実実直に生きている者は、自ずからにして仏のわたしが、今此処で説法をしている姿を見ることができるであろう。きっと見えるだろう。
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柔和な心を保つのは難しい。質実でいることも実直でいることも難しい。功徳を修することはなお難しい。柔和でなくなっていることが多いかも知れない。質実さを失っているかもしれない。実直でいられなくなっているかもしれない。
でも大丈夫。仏はみずから其の身を現して下さるであろう。そういう人の前にこそ其の身を現して下さるであろう。そうでなければ、わたしが仏身を見ることはありません。
(そういう曲解をこころみてみました)
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そっかいけんがしん。則ち皆我が身を見ん。そこで必ず誰もがそこに現れた仏の姿を見るであろう。
そうであれば嬉しいのです。仏様に遭いたいのです。じきじきに説法を聞きたいのです。聞けばわたしは百年、落涙に噎びます。