<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

山里は寒さが募ってきていよいよ寂しい

2017年10月29日 20時40分13秒 | Weblog

今夜は此の歌を想起してしまった。我が山里はそうでなくとも寂しいところである。そうであるのに秋が深まって草が枯れていく。木が落葉していく。人の訪れもない。

山里(やまざと)は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目(ひとめ)も草も かれぬと思へば    源宗于朝臣 (みなもとのむねゆきあそん)(28番) 『古今集』冬・315

寒い。都ではない山里はもう冬に入ってしまったのだろう。人の気配もなくて寒い。寂寞としている。寂しい。誰も来ない。草でさえもが枯れてしまっている。そう思ってみるといよいよ寂しい気持ちが勝ってくる。

「かれる」は掛かり言葉。草が「枯れる」と人が「離(か)れていく」が重なり合っている。「冬ぞ」の「ぞ」は強意。

作者は、血筋では天皇家に繋がってはいたのですが、出世に恵まれず不遇でした。臣下に下って、源性を賜っています。

もうやすむとするか。まだしかし9時を過ぎたばかりだ。老爺の冬は夜が長い。

 

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我が弟に追善供養の必要はあるまい

2017年10月29日 18時41分33秒 | Weblog

往復280kmを運転した。台風22号は過ぎ去っていった。昼過ぎには秋晴れのいい天気になった。夕方5時半に帰宅した。温泉の硫黄分が染み付いてる。臭い。

明日は10月30日。明後日は31日。弟の命日である。阿弥陀仏はお浄土に迎えて救うと約束されているから、弟は救われているだろう。お浄土での安らかな日暮らしをしているだろう。お浄土に迎えて成仏に導くと約束してあるから、そうなっているだろう。心配には及ばない。悔やむことはない。成仏を果たしているのだから、こちらからの追善供養などの必要はさらさらないだろう。

 

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観察はそこで中断した

2017年10月29日 11時37分46秒 | Weblog

風呂場で人の裸を観察する。もちろん男性の。腰の下に足がある。歩けるように2本ある。すらりとしている。歩くと前に進む。反対方向にはくるりと回る。歩くところが前になる。常に前を向くように造られている。足は膝のところで曲がる。曲がらなかったらどうなっただろうと考える。足の先は平べったくなっている。これで安定が保てる。巧い具合に造られているなあと感心する。足の付け根のところには性器と排尿器排便器が配置されている。そこに配置されている理由も理解できる。腰の上部からは胴体になっている。腹があって胸があって背中があって、首と肩がある。肩からは長い手が伸びている。その全体の支えを背景にして頭が最上部に陣取っている。全体は皮膚に覆われていて内部は見えない。見えないけれどたくさんのたくさんの臓器や脳や神経や骨や筋肉や血液などなどなどなどがびっしり詰まっている。全てが調和して機能している。

肉体の主が声を発して話し掛けてきた。びっくりした。我に返った。観察はそこで中断した。

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朝風呂入って酔いがさめたようだ

2017年10月29日 08時51分14秒 | Weblog

朝風呂入って酔いがさめたようだ。夕食後も寝るまで部屋で冷酒をちびりちびりやっていた。柿の種おかきを肴にして。ホテルの部屋は五階。一晩中風が唸った。朝食をすませてごろりとしているところ。窓に日が射してきた。明るくなった。これからどうしよう。このままゆっくりするか。

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