われわれはどこから来たか。そしてどこへ行くか。
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何処からも来ていないし、何処へも行かない。ここで完結する。そういう考え方だってある。ありうる。
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われわれは此処にいる。これは否めない。確定している。何処から来て何処へ行くのかについての確かな答は出せないが。
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では此処で何をしているか。仏教は人生は苦であるとしている。煩悩の火、欲望の火が燃え盛る。意のままにはならない。四苦八苦する。こうであって欲しいと思うことはこうならず、こうであって欲しくないと思うことが次々に襲ってきて、これに捕まえられる。生老病死が恐怖心を煽ってくる。われわれは苦しみから逃げ惑いながら、おのれの敗北を迎える。
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苦しむことには、では、どんな意味があるのか。よろこび楽しみに至るためである。では、よろこび楽しむことにはどんな意味があるか。苦しみに舞い戻るためである。この振り子に振らされ続ける。
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われわれは死ぬ最期まで悶える。死を拒否してもだえる。たたかう。根が尽きる。たたかいは終わる。たたかった成果は得られていないから、この時点ではあきらかに敗北である。
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根が尽きたところで堅く握りしめていたあらゆる執着も、一気に手放すことになる。われわれは生きていたときの価値判断から自由になる。そうするとあんなに嫌がっていたことが、実はそんなに嫌がることでもなかったということに気がつく。新しい価値判断に衣替えしてみたら、わがこの位置もまんざらではなさそうである。少なくとも生きていた頃の制約は受けないで済んでいる。軽く自由だ。
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生きていた頃の生老病死の四苦八苦が懐かしく思い出されてくる。なあんだ、そういうことだったのか。これでよかったんだ。やってきたことすべてが正解だったんだ。これまでのすべての道筋に目的があったのだ。すべてを経巡りしながら、このゴールに辿り着いた。われわれは達観をする。実に爽やかな勝利だ。そういう一種の悟りが見えてくる。我々は此処で仏に出会う。観念の仏ではなく、理屈で製作した仏ではなく、大きな智慧の仏がまぎれもなく出現していることを知る。
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此処で見るもの聞くものすべてが有り難く尊く感じられて来る。ここまでずっと見守られてきたのか、導かれてきていたのか。この正しい位置に来るように計らわれていた。そういうことが分かってくる。しみじみと分かってくる。星々がきらめいている。星々と同じ大きさになっている自分がいて、かがやいている。不思議なことが起こるものだと思うが、その摩訶不思議を体現している。これが真如界なのか。
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真如界へ来た者は大きな力を感じていることができる。自分をここまで導いてきたその大きな力を感じていることができる。彼は、己は仏陀になさしめられていることを実体験する。