<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

大空は祝福の大空である

2015年06月07日 16時13分29秒 | Weblog

是人之功徳(ぜにんしくどく) 無辺無有窮(むへんむうぐう) 如十方虚空(にょじっぽうこくう) 不可得辺際(ふかとくへんざい)   法華経「神力品」より

是の人の功徳は 無辺にして窮まり有ることなく、十方の虚空の 辺際を得るべからざるが如し。

法華経を信じて実践する人の功徳は限りがなく、窮まりあることはありません。それはこの大空のようです。大空が辺境がないのと同じです。お釈迦様はこのように法華経の教えを聞いている大衆に諭されて、みなをこの上なくお褒めになりました。

大空(虚空)が広がっているのはこれは法華経信者の功徳である。さぶろうはここをこんなふうに読み直して、嬉しがっています。「如し」と「等し」を混同して受け取って見ました。

法華経信者の功徳を分けて貰っているので、大空が果てしなく広がっているのだと。それをさぶろうが打ち仰いで功徳に与っているのだと。横取りのようにも聞こえて来ますが、そんなことはありません。功徳は万人に惜しみなく平等に与えられているのですから。

功徳は辞書にはこう説明してあります。①よい結果。②果報。③そのもとになる善行。④神仏の恵み。⑤神仏のご利益。わたしはこれにプラスして⑥神仏の褒美。⑦祝福を容れてみたいと思います。

徳の高い人だけがその功績としていただくもののはずですが、それをまったくそうではないさぶろうが無条件に仏陀から捧げて貰っています。これが眼前の大空です。これはご褒美であり、祝福です。大空は仏陀のご褒美であり、仏陀の祝福の表れです。

これを見ていながら、見なかったとはもう言えません。いただいていながら、いただいてなかったとはもう言えません。わたしたちは仏の功徳を呼吸しながらその真っ只中で生きているのです。しかも仏陀に祝福されながら。

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履き物をそろえるという小さな実践

2015年06月07日 15時40分26秒 | Weblog

はきものがそろうと心もそろう/心がそろうとはきものもそろう/ぬぐときにそろえておくと/はくときに心がみだれない/誰かがみだしておいたら/だまってそろえておいてあげよう/そうすればきっと/世界中の人の心もそろうでしょう/

これは「はきものをそろえる」という詩です。長野の曹洞宗のお坊さん藤本幸邦という人が書かれた詩です。藤本さんは自分お寺に戦争孤児になった子どもたちを引き取って育てられます。奥様と共同で、我が子といっしょに、路頭に迷っている孤児をたくさんたくさん連れてきて育てられます。この詩は、だから、その預かっているこどもたちに読んでもらうための詩でした。彼は利益衆生の仏の教えを実践した人です。実際に行動に移した人です。そこで大きくなった人はだからまた仏の教えを次々に実践して行ったことでしょう。誰にでもできることではありません。ただただ頭が下がります。

わたしも若い頃にこの詩を読みました。わたしも高校生の合宿訓練などをした折にこの詩を読んであげたこともありました。入り口のスリッパが乱れていることがよくありました。今でもホテルの大きなお風呂の入り口のスリッパがそろえてないときには、人様が見ていないときにわたしもこれをそろえてから上がることにしています。お風呂を出るときにもできるだけそろえてから出て来ます。小さな小さな実践です。

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川の蟹はすぐに石垣の奥に隠れる

2015年06月07日 14時58分40秒 | Weblog

お布団から這い出してきました。ブログを書き足します。書いたからと言ってどれほどのお役に立つものではありませんが。

これまでに書いたものを後になってときどき読み返しています。誤字脱字があります。やはりその都度その場でしっかり読み返して間違いを直しておかねばならないなあと反省しています。原稿無しというのもよくありませんね。想を練ってから書き始めるべきです。性格がざっくばらんにできていますから、どれも丁寧さがありません。横着者です。

簡潔をこころざした方がいいように思います。できるだけ短くまとめた方が読みやすいだろうとも思います。

お昼は広島風のお好み焼きを食べました。野菜たっぷりでした。お好み焼きのタレとマヨネーズを塗りつけて、大きな一枚をぺろりと平らげました。食欲は旺盛のようです。

このグーのページで人様のブログも読むことがあります。その都度、作者の博学博識さに感心させられます。わたしはあんな風には書けないなあと萎縮してしまいます。ですから、慌てて引っ込んでしまいます。まるで川の蟹のようです。川蟹は石垣の奥に棲んでいて、異変が発生するとすぐにそこへ引っ込んで隠れてしまいます。

珠子のことを何度か書いています。その時だけは、小説の手法である<見て来たような嘘>をついています。さぶろうの現実にはありえないことだから、余計にそれらしく書いてみたくなります。そしてそれが読者の誰にも一番軽々と関心を持って貰えそうな題材だからです。小説家はたくさんの恋愛小説を書きます。世の中に居るのは男と女ですからその種の話はうんと転がっているのかもしれません。そんな小説も書けたらいいだろうなあと思います。

川端康成の「伊豆の踊子」でも、あれがすべて実話に基づいているようには思えません。そうであればいいなあという憧憬みたいなものがペンを走らせている場合だってありそうに思えます。小説はフィクションであればどれだけでも面白く工夫できるでしょう。若々しい人物を配置しておけば、書く人が幾つになっても、男女間の愛憎を面白く楽しく書くことができるのかもしれません。

 

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柔軟心(にゅうなんしん)

2015年06月07日 12時23分51秒 | Weblog

道元禅師のいう「柔軟心(にゅうなんしん)」は「事事無碍」の世界を指しているだろうか。さぶろうにはこれが著しく欠けている。堅物で頑なだから事ごとにぶつかってそこで立ち往生している。

「柔軟心」は「やわらかな心」「こだわらない心」か。「無碍」は「妨げにはならない」ということか。何が起きてもそれがさまたげにならずにいられるなら、これに越したことはあるまい。

声も聞きたくない。顔も見たくない。ということがある。すると喧嘩別れになる。原因はたいしたことではない。不機嫌だったから、相手の言うことがうまく受け取れなかった。そんなところだ。不機嫌の度が増せば狂気の沙汰になる。クレイジーになる。いったんそうなったら中々引き返せない。仲直りができない。

あなたはわたしの妻ではない。だからわたしはあなたの夫でもない。あなたはわたしの味方ではない。だからわたしもあなたの味方を断る。こうやって次々に悪化を辿る。本心はそうじゃないのに。妻であって欲しいし夫であり続けたいし、最愛の友であってほしい。国と国だってそうじゃないか。戦争をするより平和友好をしたいのだ。それを頑なに一方的な主張を繰り返して口をとがらせる。

道元禅師はもっと精神的な求道の領域での発言だろうが、さぶろうにはわだかまりがあって、そのわだかまりからの脱出が先のようだ。困ったものだ。

 

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此処はいいところだあ

2015年06月07日 11時58分21秒 | Weblog

心は万境に従って転じ、転處実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば、喜も無く亦た憂も無し    「まぬら尊者伝法の偈」

「性を認得する」の「性」は「無自性」のことらしい。もともとの色づけはしてないということか。

「喜もなく憂もなし」 憂いがないのはいいが、喜がないのは困る。だがこれは名コンビだから、片方だけは受け入れますという具合にはいかないと見える。両方を嫁にするか、断るか。

転じた先が幽邃だった、深く青く透明に澄んでいた。というが、たまさかそっちに転んでいったのでは、そっちへ転ばぬこともありうる。だからこれはそうしようと意図してそっちへハンドルを回したに違いない。無執着の方へ。ほんわかした方へ。すっきりする方へ。「ここはいいところだあ」が叫べたら一応成功か。

「こころを万境に随って転じる」とある。運転技術がいりそうな難所を下っている。水流の早い瀬がある。水しぶきがあがる。小舟の操縦者はこれを櫂一つで操って進んで行く。転じていれば転覆することは免れる。ぶつからないようにすればいいだけである。眼前に迫り来る大岩に正面衝突をしないように舳先を切ればいいのである。「転」は「回転」「反転」「逆転」の「転」である。切り替えることだ。小舟の櫂の役目をするのが心だ。要するに、切り替えて、次の幽玄の新境地へ進めばいいのだ。それができるかどうか。「転」は禅のテクニークらしい。

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心に於いて無事

2015年06月07日 11時27分09秒 | Weblog

座椅子に凭れてこれを書いている。でもやはり腰に負担がかかってしまう。常に鈍痛が走る。これに耐えるしかない。厄介だ。スミルを何度も患部に塗っているのだが、速効が現れて来ない。

西瓜を今夏はじめて食べました。糖度17%。おいしい西瓜でした。4分の1の大きさの西瓜はすぐに食べ尽くしました。贅沢をしました。腰痛見舞いです。

「心の於いて無事、事に於いて無心」これは中国の唐の時代に生きた禅僧徳山(とくさん)和尚の言葉らしい。分かるようで分からない。分からないようで、なんとなく元気を貰う。

起きる事ごとにそこに心を寄せて執着をして、われわれは泣いたり笑ったりしているが、事そのものには泣き笑いする心は付着していない。だから、外から来たこころが追いかけっこをしてそこで泣き笑いをしているのである。その「こころ」とやらを別個にして、事そのものに没頭すれば事はそこで大活躍をするかもしれない。

無事であろうとするな。ということか。無心でいよ。ということか。無事であろうとする度にこころが動揺をする。事をおのれのこころでひっかき回しているつもりだが、引っかき回されているのは心のようだ。これでは随所為主とはなれない。随所為従属ではおもしろくない。

 

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貧富の差がない社会には永遠の繁栄力がある

2015年06月07日 11時04分08秒 | Weblog

貧富の差がない社会は理想的な社会である。お金持ちはどんどんお金を増やしていき貧乏人のわずかな富はどんどん剥がされていく。この方式には先がないのではないか。お金持ちだけが得をするということには限界があるはずである。世界の富の97%を3%のお金持ちが独占しているということは、富がそれだけ活用されずに死んでいるということになるのではないか。富はできるだけ多くの人に行き渡った方がいい。多くの人がこれを活用した方がいい。そういう社会でなければ多くの歪みをうむだろう。不満や憎しみが増幅されてこれを覆そうとして内乱があちこちで勃発するだろう。その予想図は描きたくないものだ。我以外の世界中の貧困を期待するよりか、世界中の裕福を期待した方が、すべての人類の繁栄を実現しやすいからである。

ぼくは近いうちにその変革が、この星にも訪れて来ると思っている。楽観しすぎかも知れないが。地球はそういう変革期を迎えていると思いたい。われわれ向上する意識体はこの上向きのアセンションをしている。向上と発展の方向へ進んでいる。その方に賭けたい。

前回のブログでも書いたが、海はいつも平均化している。水面が一定でなだらかである。ある場所だけは塩の成分が極端に高いということはありえない。水分が濃すぎたり薄すぎたりということもない。本来はそうでなければならないはずである。一つの地球をみんなで共有しているのだから。

 

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この便利にあやかりたい

2015年06月07日 10時32分29秒 | Weblog

わたしにないと、助けが来る。わたしが貧乏をしているとその足りない分を無償で分けて貰えるのである。繁栄というのはたゆたう海のようだ。海の水はあるところが沈没して表面が極端に低くなっているということはない。そう言う珍現象は起こらない。大波小波が立って、すべてを一定にしようと努力しているからだ。だから世界は常に一定を保つようになっている。貧しい者も裕福な者も、持てる者も持たざる者もこれで一定となる。だから、貧富の差などはない。

ここでは、しかし、お金のことを言っているのではなく、われわれが所有する知識や才能、あるいは幸福感受力のことを言っている。わたしに才能がないとそれを補ってくれる力が働いてくるのである。これはわれわれみんなの共通にして共有の遺産だから遠慮はいらないよと言って来る。わたしに知識が乏しいと雪崩を打ってこれを均してなだらかにして、平面化してくるのである。さぶろうにはそういうことがたびたびある。自力ではできないはずのことがいつの間にかできあがっているということがある。下を向いて暗くしているとそこへベクトルが働いてきて上を向かされ明るくされるということがある。

人類全体がみんなで使っていい遺産が、ほんとうにあるのかもしれない。空の何処かに「人類全体の共有資産・文明分化・全エネルギー保管場所」というのがあって、いろんなジャンルの資産が自由裁量になっているかもしれない。しかも、貸出料無料で。これを精神分析では「共通意識」といったり「潜在意識」と呼んだりしている。「潜在」となると、それは地下水の地下に潜っているものなのかもしれない。立脚している足の下は大きな海になっていてそこにいくらでも保管されているのかもしれない。

わたしたちはこれを使いたいときにいつでも遠慮なく使っていいのかもしれない。なにしろ人類が長い間に蓄積してきた遺産なのだから。この遺産の才能が流れ込んでくるパイプは何処にあるか。アンビジュアルだが、イメージトレイニングすればいいだけなのかもしれない。「はい、お願い。パイプさん繋がって下さい」というふうに呼びかければ、個人個人のもとに繋がれて、その種類のエネルギーがどっと流入して来るのかもしれない。この便利には是非あやかりたいものだ。

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またまたダウン

2015年06月07日 10時24分06秒 | Weblog

また酷くなってしまった。昨日午前中に無花果の木の下で草引きをしていた。夏の雑草の成長は早い。あっというまに藪を作る。それでショウケに草を盛って、これがいっぱいに積み上がったので、草積みの山にこれを放り投げたのである。投げる姿勢が悪かったのか、その拍子に腰のあたりの神経が電気ショックを起こしてしまった。これで一巻の終わりだ。痛みが走って、途端にその場で青ざめてしまった。またまた這うようにして家に戻ってきて、それからは寝たままで過ごすしかなかった。トイレに通わなくて済むように、枕元に溲瓶を2箇用意して貰った。ご飯はおにぎりを作ってもらった。これだと寝たままで食べられる。痛い痛いの昼と夜を明かして朝になった。部屋に溜息の海ができてしまった。

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三世の諸仏を一口に呑む蛙

2015年06月07日 10時03分02秒 | Weblog

江戸時代の禅僧仙崖和尚の水墨の禅画「蛙」の賛に「三世諸仏 一口呑」とある。悟りを得た人間なら兎も角、池の中の蛙がその小さな口をもぐもぐと動かして、三世の諸仏を一口に呑み込む。そんなことが起こり得るはずはない。蛙はこれを腹中に収め飄然としている。こんな異界同化がここに現出している。もちろんこの蛙は、仙崖その人なのであろう。三世の諸仏が己の腹中に座っていなければ、それは三世を貫いていようと、利生の大悲にあたたまっていようと、ただの小石、無用の長物である。これを己の腹に収めていて、そこではじめて三世が生きるのである。諸仏の諸仏たるはたらきが己の腹中で活動を始めるのである。アメリカの著名な経済学者ドラッガーは、この飄々然とした仙崖のファンだったらしい。

いや、待て。にんげんは煩悩のにんげんである。迷妄のにんげんである。その隙を割って、青蛙が三世諸仏を我が物にして、ひょい呑み込んで、お先にご免をしたのかもしれない。蛙こそは悟りの禅者なのかもしれぬ。

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