<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

深いわけ

2015年06月01日 21時25分46秒 | Weblog

はい、深呼吸しましょう。空気おいしいですか。おいしいです。吸いこんで出して吸いこんで出して、これで元気が保てます。空気はいただきものです。誰からのいただきものなのか、それが分かりませんが、とにかくいただきものです。わたしが創造したものではありません。わたしが運んで来たものでもありません。向こうからわたしの鼻先へやって来てくれます。じゃ、そうしてくださいと頼んだのですか。いいえ、頼んでもいません。頼んでもいないのが運ばれてくるんですね。運搬賃も払ったことがありません。拒否されたらどうします? 拒否されることはありません。いままでだって一度もそういうことは起こっていません。元気になってください元気になって下さいと頼まれるばかりです。これで深呼吸がわたしに成立しています。それをそうせしめられているのには何か訳がありますか? きっと深い訳がありそうですが、それがどうしたことか、いまだ十分に分からないでいます。

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ぴたりと止んだ

2015年06月01日 20時07分52秒 | Weblog

犬がわんわんと吠えている。飼い主に散歩をねだっている。夕方、飼い主が犬を連れ出して散歩に出ると犬の鳴き声はぴたりと止んだ。ねだったことが受け入れられたのだ。

わんわんとさぶろうが吠えている。さぶろうに飼い主はいるか。散歩をねだることはあるか。飼い主に連れられることはあるか。すっかり日が暮れてしまった。さぶろうの鳴き声も止んでいる。一日が終わったのだ。ねだったことがすべて受け入れられたのだ。

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即心是仏(そくしんぜぶつ)

2015年06月01日 19時46分35秒 | Weblog

釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去現在未来の諸仏、ともに仏と成るときは必ず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。   「修証義」より

「即身是仏」の他にこの「即心是仏」がある。同義か。この身心がそのまま仏の身心である。仏法を生きている身である。ダンマに生かされている者はみな斉しく仏陀である。現在過去未来にそれぞれ仏と成る者が出るだろうが、成仏したときはいずれもそこを現在として己が釈迦牟尼仏となるのである。これをよそに求めてはならぬ。

さぶろうには禅宗の教義は難しい。難しいが、読んでいれば元気を貰う。釈迦牟尼仏はご自分を仏とされたのだ。己に仏を見出されたのだ。仏界に生きている者とされたのだ。

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呪文

2015年06月01日 19時23分15秒 | Weblog

南無観世音菩薩は呪文です。南無地蔵菩薩も呪文です。ほんとうに効き目があります。呪文は邪宗の人のすることくらいに思っていましたが、そんなことはありません。それをそうとしていたわたしが狭かったのです。困ったときにわたしは呪文を唱えます。するとわたしは助かっています。それは現世利益だ、あるまじきことだ、といって非難されますが、これは事実として起こりえていることです。助けというのは事実としてあるのです。助けられている事実をこうやって確認しているのです。助けはいつもやってきています。唱えようと唱えまいと平等無差別ですが、これを認識している側に元気が湧いてきます。南無阿弥陀仏も呪文です。南無釈迦牟尼仏も呪文です。たくさんの呪文がわたしを助けています。仏教にはたくさんの仏陀がいます。みんなよってたかってわたしを助けています。一神教の人にはとても考えられないでしょう。浄土宗にもこれと似たところがあります。阿弥陀仏の一仏で足りているとしています。困ったときだけではなく困っていないときにも南無をしていいれば安らぎが来ます。助かっていないと思う気持ちが薄らぎます。

このわたしの雑駁な提案には抵抗を感じられる人が多いことでしょう。南無阿弥陀仏の念仏は呪文ではないと反論される方も多いでしょう。

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不思議な生き物

2015年06月01日 19時02分13秒 | Weblog

詩「不思議ないきもの」

あなたにわたしの/元気を/あげます/わたしがあなたに/元気をあげると/その分だけは/わたしにも元気が/きっちり入り込んで来ます/このシークレットは/なかなか愉快です/分けてあげても減らないのです/

減らないどころではありません/それまで静止していたのが/一挙に活動を始めるので/もりもり盛り上がってきます/

あなたがわたしへ/元気を分けてくれても/同じ事が起こります/元気は/二人の間を/行ったり来たりしながら/それで増殖をします/どんどん増殖をします/元気とは/不思議ないきものです/

元気は/ことばにもなります/おはようはことばのいきものです/きみが大好きだよ/これもことばのいきものです/ふたりが一度に/元気を取り戻します/

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女生徒の太股きびりきびり

2015年06月01日 18時45分08秒 | Weblog

先頭にプラカード持つ女性徒の太ももきびりきびりとあがる   俵万智

高校総体が始まった。5月の末から6月の頭にかけてこれがある。総合開会式に選手が集う。試合会場のグランドを行進をする。先頭に制服を着た女生徒がいてスポーツマンらを先導する。プラカードには高校名が太字で書いてある。アナウンスがある。日差しが降り注いでいる。芝生からはバッタが飛ぶ。毛虫も這っている。しかしそんなことには構っていられない。吹奏楽が高らかに鳴っている。ヒダリミギヒダリミギ。足を揃える。頭(かしら)右! 女生徒の額から大粒の汗が流れ落ちている。スカートを穿いているから肌は露わには見えないが、それでも太股のあたりがきびりきびりとして躍動しているのが見て取れる。みな若々しい。元気いっぱいだ。生きて弾んでいる人間の英気と健康が会場いっぱいに溢れていて、夏空と同じくらい地上が広く明るい。

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元気

2015年06月01日 18時10分21秒 | Weblog

元気をもらう。すると元気になる。そういうことがある。何処から貰ってくるのだろう? 何処かに行けばそれを分けて貰える仕組みがあるのだろうか? 

元気というものが何処かにあるはずだ。レトルト食品みたいにしているのだろうか。手っ取り早くすでに固形としてあるのだろうか。

英語でこの元気にあたる語を探す。名詞では、vigor、 spirit、 energyなどがある。動詞では、 cheer、 refresh、 console、 bear up、 recover、 get wellなど。形容詞では vigorous、 lively、 fine、 active、 high-spirited 。どれもなるほどと頷かせる。

国語辞典を引くとこうある。①天地間に広がり、万物生成の根本となる精気。②活動の源となる気力。③健康で勢いのいいこと。そうか。精気のこと、気力のこと、健康のことか。

元気を貰うとも言うが元気を出すという表現もある。とすると、自分で生成できるものなのだな。

人と別れる際には「ではお元気で!」と言う。人は元気な状態を保つことができるということだ。元気は人間の体の健康な状態を指しているのだろうか。

人は熟睡をすると元気回復する。睡眠中に元気回復のモーターが始動する。起きたら、元気という電気が充電されている。そういうこともある。元気というのは電気みたいなものか?

ここらでケリを付けよう。質問をいろいろ出したがちゃんとした答が出ない。出ないけれども、元気でないと一日だって過ごせない。それなのに、何処にそれがあるのか、知らない。誰がこれを分けてくれているのかも知らない。そこら辺がいい加減であってもいいということらしい。不思議だ。

ホトトギスが鳴いている。祇園山あたりで鳴いている。これを聞いている。夕風が涼しく吹いて来る。ひんやりする。たったこれしきだが、なんだかこれで幾ばくか元気の泉が湧いてきたようだ。むくむくする。元気というのは割と簡単簡潔なもののようだ。

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塩っ気は塩昆布だ

2015年06月01日 17時57分36秒 | Weblog

ああ、もう夕暮れだ。夕闇が迫ってきている。日は、釣瓶を井戸に落としたように、海の井戸に真っ逆さまに落ちて行く。一人で暮らしていると、しかし、お昼も朝も夕方も同じ色をしている。ぼんやりの灰色をしている。世の中一人暮らしの老人はごまんとおられる。彼らがそうだとは言わない。だらしないさぶろうは、一日三度の食事を作るのが面倒だ。食べるのも面倒だ。おまけに今は買い出しにも行けない。腰痛がひどくて立って弁当を買ってくることもできない。またお茶漬けだ。冷凍のご飯を電子レンジでチンしてこれに熱めの緑茶をぶっかける。これで出来上がり。塩っ気は薄醤油の効いたジャコと塩昆布だ。

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人間は根無し草ではない

2015年06月01日 17時34分47秒 | Weblog

さぶろうはどうもノウタリンだ。人間の足は根の役割をしているだなんて言う。どうもノウタリンだ。人間は動き回れるから、根は無用である。必要なエネルギー吸収は口や胃袋、小腸、大腸などの消化器官がしてくれる。

必要なエネルギーというのは、では、それだけなのか。人間の足は動き回れるための道具である。走って行って獲物を捕まえるには長くて強靱な脚が欠かせない。このために人間は体の半分の長さを足に充てている。そう言えないこともない。さぶろうは、しかし、それでも、それ以外の役目をしている足というのを考えている。

足の裏に土踏まずがある。あそこだ。ここに神秘が隠されている。ここで繋がっているのだ。大きなものと繋がっているのだ。走り回らないで居るとき、静かなとき、休息のとき、眠っているとき、ここが作動する。

ここは地球と繋がるところだ。根だ。するすると根が伸びて地球と繋がる。地球の中心核マントルまで根は伸びていく。ここで安定エネルギーを摂取するのだ。切り離されて単独になっているふうに見えているが、これで、より大きなもの、全体と繋がって合体することが許されている。そんなことはないか。

人間は根無し草ではない。ふらりふらりしているわけではない。ないように思う。人間もまた見える根と見えない根で以て大地に支えられているのだ。大地に立って安定を得ているのだ。

人間の深い深い根。さぶろうは今日はそんなことを思った。仏陀とも繋がっている根が、さぶろうに生えている。全宇宙と繋がる根も頭のてっぺんに生えている。

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汝に精神あらん

2015年06月01日 17時05分19秒 | Weblog

喉が渇いた。水が飲みたい。庭や畑の植物たちの悲鳴が聞こえてきそうだが、どうしてやることもできない。腰痛が昂じたさぶろうは身動きができない。外は日照りが続いている。土がからからに乾いている。植え付けたばかりでまだ深く根を下ろしていないトマトや茄子や胡瓜は、焼け付く土の浅さでは耐えようがない。萎えて縮れて形すら保てなくなっている。たった二日水遣りをしなかったばかりで、この様子だ。明日は、天気予報を信じるならば、雨。明日を待っていてくれ。汝に精神あらん、汝また精神一到すれば何事かならざらん。さぶろうは布団の中で祈るしかない。

ユリなどの球根類は土の深いところにいて、雨が降った後で、水を貯めておくことができる。球根はダムの役割を果たしている。ユリは少々の乾燥にも耐えられるから、知性派だ。木々の根っこが深いというのもこのためだろう。夏草も根が深い。横に根を張るよりも縦に根を下ろしている。さすがだ。とすれば、「根深さ」が生き延びるキーワードのように思われる。人間の「根深さ」は恨みが深いニュアンスを伴っているが、案外、人間の場合だってこの「根深さ」が生き延びる智慧なのかも知れない。水生植物の水草は、水がふんだんにいつでもあるから、根はわずかで足りているようだけど。

人間の根は何処にあるか。ふっとこれを考えた。腰から下がそうではないか。進化の途中で、走り回るようになったから、根は不用になったであろうが、もともとは腰から下、つまり足は根だったのではないか。行動半径が狭かった時代には、そこが根の役割をしていたのではないか。水(地中のエネルギー)を吸い上げていたのではないか。足の裏に土踏まずという場所がある。ここは足呼吸のポイントである。愚問であって愚答か。長い脚は長い根であった。そう思うとにわかに植物と親戚関係にあるようで、親しさが増してきた。

 

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