■スイスの映画監督ダニエル・シュミットが亡くなりました■
2006/8/10(木)
★訃報:ダニエル・シュミットさん64歳=スイスの映画監督、AP通信などによると、
スイス東部で2006年8月5日死去。がんで闘病していた。
私がきちんと見た彼の作品は、「書かれた顔」(The Written Face)のみです。
アンゲロプロスの「ユリシーズの瞳」に匹敵するほど感動しました。
観た直後より、後になってからジワジワと映像が甦ってきます。
1995年の作品で、いまはなき「シネ・ヴィヴァン・六本木」で5月の連休に見た記憶があります。
この映画に対する事前の情報をもっていませんでしたが、たまたま友人に誘われて入りました。
坂東玉三郎主演のドキュメンタリーとされていますが、監督自身は、これを「フィクション」と主張しております。
「ドキュメンタリーではありません。私は、黄昏についての物語を作ったのです。」
「映画の主題は、歌舞伎のスターである坂東玉三郎と呼ばれる男ですが、
彼は同時に虚構の人物でもあります。・・・。
彼の周辺にはまるで竜安寺の石庭のように、武原はんのような、杉村春子のような、
大野一雄のようなモニュメントが置かれるのです。」とシュミット監督は語っております。
★10年たったいまでも、その映像は鮮烈に心に甦ります。
ところが、それは、主演の坂東玉三郎ではなく、杉村春子や大野一雄の映像なのです。
特に、監督が杉村に≪歩いては、正座をしてお辞儀をする≫という動作を、
何度も繰り返してもらう場面が映画に登場します。
その腰の入れ方、首の微妙な角度、手先の美しさ。
寸分の隙もない、動く彫刻のような完成された「立ち」・「居」・「振る舞い」でした。
大野一雄は女装して、隅田川のような川岸で踊っていました。
グロテスクな扮装ですが、植物が枝をのばし、くねらせているような印象。
彼が踊りから得た「自由」というようなものを強く感じました。
ある種の開放感に満ちていました。
不思議に、日本舞踊の名人といわれた武原はんの映像は、全く心に残っていませんでした。
玉三郎もほとんど記憶に残らず、移動中の高級車の中で、シュミットのインタビューを受け、
話している彼の顔だけが焼き付いています。
★玉三郎を映し出す「光」であった杉村が、玉三郎を圧倒していました。
この映画をきっかけに是非、生身の杉村春子を見たいと思い、数ヵ月後、帝劇での『晩菊』を見ました。
思い立って急に劇場に電話しましたので、残っている切符は1枚だけでした。
それも二階席で、舞台を覗きこむバルコニーのような席でした。
ところが、一階席では絶対に見ることが出来ない杉村の足元を、素晴らしい角度で観察できました。
日本の伝統芸術の基礎である腰の入れ方に、近代的な劇の心理をも反映させた足裁きでした。
シュミット監督の目の付けどころの深さ、鋭さにいまでも驚いております。
彼のお陰でかろうじて、生前の杉村春子を見ることに間に合いました。
シュミット監督の64歳という早すぎる死が残念でなりません。
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★杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年1月6日 - 1997年4月4日)は、広島県広島市出身の日本の新劇女優。本名は石山 春子(いしやま はるこ)。旧姓は中野(なかの)であり、杉村は芸名である。築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の背骨を支え続け、文化史に大きな足跡を残した文字通りのカリスマ女優。強烈な個性ゆえに批判も多い。
[来歴・人物]
遊女の私生児として広島市の色街に出生。幼時に両親が死んだため、事業家の養女にもらわれ何不自由なく育つ。山中高等女学校(現広島大学付属福山高)卒業後、声楽家になるべく上京して東京音楽学校(現東京芸術大学)を受験するが、二年続けて失敗。広島に戻り広島女学院で音楽の代用教員をしていたが、築地小劇場(俳優座の前身)の旅芝居を見て感動、再び上京してテストを受けるが、広島訛りがひどくまたも不合格。しかし次回公演の背中を向けてオルガンを弾く役(台詞無し)で採用され築地小劇場の研究生となる。こうして日本演劇史上、最大の大女優が長い演劇人生の一歩を踏み出す。
1997年4月4日、膵臓癌のため東京都文京区の病院で死去。享年91。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より
△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします△▼▲▽
2006/8/10(木)
★訃報:ダニエル・シュミットさん64歳=スイスの映画監督、AP通信などによると、
スイス東部で2006年8月5日死去。がんで闘病していた。
私がきちんと見た彼の作品は、「書かれた顔」(The Written Face)のみです。
アンゲロプロスの「ユリシーズの瞳」に匹敵するほど感動しました。
観た直後より、後になってからジワジワと映像が甦ってきます。
1995年の作品で、いまはなき「シネ・ヴィヴァン・六本木」で5月の連休に見た記憶があります。
この映画に対する事前の情報をもっていませんでしたが、たまたま友人に誘われて入りました。
坂東玉三郎主演のドキュメンタリーとされていますが、監督自身は、これを「フィクション」と主張しております。
「ドキュメンタリーではありません。私は、黄昏についての物語を作ったのです。」
「映画の主題は、歌舞伎のスターである坂東玉三郎と呼ばれる男ですが、
彼は同時に虚構の人物でもあります。・・・。
彼の周辺にはまるで竜安寺の石庭のように、武原はんのような、杉村春子のような、
大野一雄のようなモニュメントが置かれるのです。」とシュミット監督は語っております。
★10年たったいまでも、その映像は鮮烈に心に甦ります。
ところが、それは、主演の坂東玉三郎ではなく、杉村春子や大野一雄の映像なのです。
特に、監督が杉村に≪歩いては、正座をしてお辞儀をする≫という動作を、
何度も繰り返してもらう場面が映画に登場します。
その腰の入れ方、首の微妙な角度、手先の美しさ。
寸分の隙もない、動く彫刻のような完成された「立ち」・「居」・「振る舞い」でした。
大野一雄は女装して、隅田川のような川岸で踊っていました。
グロテスクな扮装ですが、植物が枝をのばし、くねらせているような印象。
彼が踊りから得た「自由」というようなものを強く感じました。
ある種の開放感に満ちていました。
不思議に、日本舞踊の名人といわれた武原はんの映像は、全く心に残っていませんでした。
玉三郎もほとんど記憶に残らず、移動中の高級車の中で、シュミットのインタビューを受け、
話している彼の顔だけが焼き付いています。
★玉三郎を映し出す「光」であった杉村が、玉三郎を圧倒していました。
この映画をきっかけに是非、生身の杉村春子を見たいと思い、数ヵ月後、帝劇での『晩菊』を見ました。
思い立って急に劇場に電話しましたので、残っている切符は1枚だけでした。
それも二階席で、舞台を覗きこむバルコニーのような席でした。
ところが、一階席では絶対に見ることが出来ない杉村の足元を、素晴らしい角度で観察できました。
日本の伝統芸術の基礎である腰の入れ方に、近代的な劇の心理をも反映させた足裁きでした。
シュミット監督の目の付けどころの深さ、鋭さにいまでも驚いております。
彼のお陰でかろうじて、生前の杉村春子を見ることに間に合いました。
シュミット監督の64歳という早すぎる死が残念でなりません。
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★杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年1月6日 - 1997年4月4日)は、広島県広島市出身の日本の新劇女優。本名は石山 春子(いしやま はるこ)。旧姓は中野(なかの)であり、杉村は芸名である。築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の背骨を支え続け、文化史に大きな足跡を残した文字通りのカリスマ女優。強烈な個性ゆえに批判も多い。
[来歴・人物]
遊女の私生児として広島市の色街に出生。幼時に両親が死んだため、事業家の養女にもらわれ何不自由なく育つ。山中高等女学校(現広島大学付属福山高)卒業後、声楽家になるべく上京して東京音楽学校(現東京芸術大学)を受験するが、二年続けて失敗。広島に戻り広島女学院で音楽の代用教員をしていたが、築地小劇場(俳優座の前身)の旅芝居を見て感動、再び上京してテストを受けるが、広島訛りがひどくまたも不合格。しかし次回公演の背中を向けてオルガンを弾く役(台詞無し)で採用され築地小劇場の研究生となる。こうして日本演劇史上、最大の大女優が長い演劇人生の一歩を踏み出す。
1997年4月4日、膵臓癌のため東京都文京区の病院で死去。享年91。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より
△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします△▼▲▽