音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■ブルックナーとマーラーの自筆譜を見る、正確で美しい筆致に新鮮な喜び■

2019-11-15 17:15:21 | ■ 感動のCD、論文、追憶等■

■ブルックナーとマーラーの自筆譜を見る、正確で美しい筆致に新鮮な喜び■
 ~シフのBeethoven 「皇帝」を聴く、協奏曲の本質に迫れず、単調~


                2019.11.15 中村洋子

 

 


★11月8日の立冬も過ぎ、今日15日は「七五三」です。

七歳、五歳、三歳の可愛らしい皆さまの、健やかな成長を

お祈りいたします。


★先月10月28日は、録音とマスタリングエンジニアの

「杉本一家」さんの告別式でした。

追悼文を掲載する予定ですが、業績をどう表現するか、

未だ考慮中です、もう少しお待ちください。


★先週は、サントリーホールによる日本オーストリア友好150周年記念

ウィーン楽友協会アルヒーフ展「19世紀末ウィーンとニッポン」
                    ~音楽のある展覧会~に、

行ってきました(会場:ホテルオークラ東京別館 11月17日まで)。


★絵画や書類、手紙、全部で200点余りのオリジナル資料のうち、

時間が限られていましたので、

・Johannes Brahms ブラームス (1833-1897) 
・Anton Bruckner アントン・ブルックナー(1824-1896)
・Gustav Mahler グスタフ・マーラー(1860-1911)
・Franz Liszt フランツ・リスト(1811-1886)
・Hugo Wolf フーゴー・ヴォルフ(1860-1903)
・Richard Strauss リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の

自筆譜に絞って、じっくり見てきました。


★まずは、ブラームス中年期の肖像画(ルートヴィヒ・ミヒャレク画)に

ご挨拶。

青年期と老年期の肖像画はよく目にしますが、この中年期の自信に

満ちた大作曲家の、今にも「僕の作品はね・・・」とでも、

話し出しそうな顔を、心に刻み付けました。


★彼の煙草入れや手巻煙草も展示されていました。

もうもうと煙草をくゆらせながら、作曲したのかしら。


Brahms ブラームスの自筆譜は、クラリネット五重奏 作品115の、

第2楽章のスコア一葉でした。

この曲の自筆譜を見るのは、初めてでした。

Brahmsの自筆譜ファクシミリは、かなりの点数が出版されており、座右の

楽譜にしていますので、見た瞬間、「懐かしい」という感情でした。


★これは、Liszt リストについても同様のことが言えます。

しかし、Bruckner ブルックナー、Mahler マーラーについては、

自筆譜ファクシミリはあまり出版されておらず、見ていませんので、

新鮮な驚きでした。

 

 


Bruckner ブルックナーは、交響曲第8番ハ短調 第3楽章が一葉、

Mahler グスタフ・マーラーは、交響曲第2番ハ短調 
             第5楽章(30小節目以降)が一葉でした。


★オーケストラのスコアと言いますと、大型の五線紙を想像しますが、

ブルックナー、マーラーともに、展示ケースのガラス越しに見た印象では、

かなり小さい五線紙でした。


ブルックナーは、まるで写譜屋さんが書いたかのように、

正確に整った美しい筆致。

マーラーも、ブルックナーほどではないにしても、正確で几帳面な

書き方でした。

二人とも、その楽譜に、分かりやすく修正がたくさん施されていました。


★自筆譜は、一葉をみただけでは、たまたまそのページが、

自分が疑問に思っていた箇所の一葉でしたら別ですが、

その一葉による発見はそれほど多いとは、言えません。

やはり、全ページを見ながらの勉強が必要なので、

ファクシミリを徹底的に学ぶ必要があります。

しかし、たった一葉であっても、大作曲家の自筆譜の放つ

存在感には、圧倒されます。


★どの作曲家についても言えますが、自筆譜ファクシミリの出版点数は、

ごく僅かですから、私たちは普段、実用譜で勉強するしかありません。

「百聞は一見に如かず」ですから、自筆譜を見ることができる機会が

ありましたら、見逃すべきではありません。


★受付で販売していました“Die Emporbringung der Musik”という、

ウィーン楽友協会のカタログには、Anton Webernアントン・ヴェーベルン

(1883-1945)の、パッサカリアのタイトルページと、冒頭ページの

自筆譜が掲載されており、大好きな曲ですので、ホクホクしております。

Anton von Webern
Passacaglia für Orchester op.1 Titel und erste Notenseite
der autographen Partitur

 

 


★先週は、ピアノのアンドラ―シュ・シフ&カペラ・アンドレア・バルカ

コンサートに行ってきました(11月5日、東京文化会館大ホール)。

「Sir Andras Schiff サー・アンドラーシュ・シフ」と、

「サー」の称号が付いていました。

「カペラ・アンドレア・バルカ」は、1999年にシフが Mozartの

ピアノ協奏曲全曲演奏をスタートした折に結成されたオーケストラで、

シフの友人、仲間によって構成されているそうです。

カペラは、楽団やサロンオーケストラの意、シフはドイツ語で船、

イタリア語ではバルカだそうで、「カペラ・アンドレア・バルカ」は、

アンドラーシュ・シフのオーケストラ、という意味だそうです。

 

★曲目は、第1部がBachの「音楽の捧げもの」より

「6声のリチェルカーレ」と、Mozart の交響曲第41番 K.551

ジュピター。

第2部は、Beethoven ピアノ協奏曲第5番 Op.73 皇帝。

第1部開始前「Bach リチェルカーレとMozart ジュピターは、続けて

演奏されるため、リチェルカーレ演奏後の拍手はご遠慮下さい」との

放送がありました。


「6声のリチェルカーレ」は、ハ短調 c-Moll ですので、


 

C-Dur のジュピターと一組として演奏する発想だったのでしょう。


★「6声のリチェルカーレ」の演奏では、シフは指揮台に立っている

だけでした。

弦楽オーケストラの自主性に任せているようにみえました。

古楽器(ピリオド楽器)の演奏法を取り入れた、魅力的な演奏でした。

拍手無しでそのまま始まった「ジュピター」は、

私がこれまで聴いたうち、最も“長く”感じた演奏でした。


★シフは、オーケストラに時々キュー(指示)を出していますが、

オーケストラは、延々と平坦で変化に乏しい退屈な演奏を続けました。

例えば、同型反復があった場合、その同じ型の1回目とは色彩や表情を

変え、キラキラと輝く生の躍動感を表現するのがMozart の音楽の筈

ですが、坦々と、アメリカ大陸の真っ直ぐで単調なハイウェイを

車で走るかのような演奏でした。

 

 


★「図書」(岩波書店)6月号10ページに、梯久美子さんと若松英輔さん

の対談で、若松さんは、文学について「現代では、書き手が書いたものが、

完成形で、それをどれだけ正確に理解するかが読み手の仕事だと思われ

がちですが、本当は書き手すら気がつかなかったこと、もしくは書き手が

深層意識でとらえながらも、意識できなかったことを読み手が新しく

深めていくのが≪読む≫ということです」と、指摘しています。


これは「音楽」にも当てはまります。

「書き手」を「作曲家」、「読み手」を「演奏家」と「聴き手」に

置き替えられます。

「読み手」が演奏家と聴き手の二段階に分かれることが、音楽の楽しさ、

素晴らしさでもありましょう。


★この文章を「作曲家」「演奏家」に書き換えてみますと、

「作曲家が書いたものが完成形で、それをどれだけ正確に理解するかが

演奏家の仕事だと思われがちですが、本当は作曲家すら気がつかなかった

こと、もしくは作曲家が深層意識でとらえながらも、意識できなかった

ことを演奏家が新しく深めていくのが≪演奏する≫ということです」と、

なります。


Mozart ですら、新しく深めていくことが≪演奏する≫ことでしょう。

その意味では、Mozart はこの21世紀の現在でも毎日、生まれ、育っているのです。

今回の「ジュピター」は残念ながら、≪惰性の産物≫でした。




★続く第2部の「皇帝」、世界を駆け巡るピアニストは、行く先々で、

気心の知れないオーケストラ、指揮者と数回のリハーサルで本番に

臨むのはさぞやフラストレーションが溜まることであろうと、

日ごろ私も思っています。

自分の思い通りになるオーケストラと一緒に、ピアノ協奏曲を演奏したいと

思うのは、当然の帰結です。

「concerto 協奏曲」を、Oxford Dictionary で見てみましたら、

ORIGIN early 18th cent : Italian, from concertare “harmonize”

とありました。


「concertare 」は、調和させる、合わせるという意味でしょう。

「調和させる」、「合わせる」というのは、たった一人ですることでなく、

必ず他者の存在があります。

ピアノ協奏曲は、「ピアニスト」と「指揮者に率いられているオーケストラ」

という両者、あるいは「ピアニスト」と「指揮者」と「オーケストラ」という

三者を「調和させる」ところに、面白みがある形態です。

今回の「皇帝」は、その「両者」あるいは、「三者」ではなく、

アンドラーシュ・シフ「一者」のみでした。


★オーケストラを掌握し切っていなかった
こととは別にして、

作曲家が協奏曲という形式に求めるものは、

個性と個性とがぶつかり、そこから調和が生まれることですが、

ピアニスト一人の個性の成就では、単調さは否めません。


★オーケストラのピツィカートに合わせる叙情的なピアノの音色など

美しいところは、沢山ありましたが、どうもピアノ協奏曲を「聴いた!」

という気持ちには、なりませんでした。

Beethoven の大きな世界に、小さく咲いた花のような感じが

否めないのです。

 

 


★マエストロと言われるシフにとっても、Beethoven は大きく

立ちはだかる巨大な山脈なのですね。

私はCDで聴く、若い頃のシフの独奏は大好きです。

今回は、いろいろ考えされられた音楽会でした。


★アンコールは、同じBeethoven のピアノ協奏曲第2番の第2楽章と、

同ピアノ協奏曲第1番の第3楽章、さらに独奏でBeethoven の

ピアノソナタ12番の第1楽章 Klavier sonate As-Dur Op.26でした。

このソナタの第1楽章は、主題と変奏です。

主題だけかと思いましたが、変奏も含めて第1楽章全部の演奏でした。

 

 

★この演奏は、いつものシフ本来の彫琢したソナタではありません

でしたが、しみじみ、“いい曲だなあ”と、いまさらながらそう思い

ながら聴いていました。

 



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