徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

海達公子 とはいったいどんな存在だったのか・・・

2014-03-26 16:38:36 | イベント
 今日は、大正末期から昭和初期にかけて天才少女詩人と謳われた海達公子の没後81年にあたる日。荒尾市で行われている「第5回海達公子まつり」も今日が最終日。「評伝 海達公子」の著者、規工川祐輔先生の永年にわたる発掘作業によって、海達公子に再びスポットライトが当たり、顕彰事業も行われるようになったが、まだまだ荒尾市民の中でもその名を知らない人が多いという。海達公子とはいったいどんな存在だったのか。その手がかりとなる新聞記事が、荒尾メディア交流館に展示された史料群の中にあった。
 昭和43年7月19日付の熊日新聞記事(下に写真)だが、読みづらいのでその一部を書き直してみた。

 公子の遺稿集は、昭和26年10月、延原慶三(当時荒尾ペンクラブ事務局長)の編集
によって荒尾ペンクラブから発行されたもので、大正13年公子小学校2年のころから、
昭和3年小学6年までの作品5千余編の中から190編を選び、作品年代と掲載誌紙を入
念に紹介したかわいらしい詩集である。
 海達公子の詩集は、この遺稿集が初めてのものではない。正確には昭和8年5月公子の
没後40日目に、九州民謡協会発行の「海達公子嬢の遺稿集」というのがあり、ありし日
の公子の天分をたたえるとともに、その死を悲しんだ追悼詩集ともいうべきものである。
この詩集の巻末を飾る賛助員として、堀内敬三、野口雨情、栗島すみ子、山田耕筰、福田
蘭童、五所平之助、古賀政男、淡谷のり子、西条八十、北原白秋など当代日本一流の知名
人30数人が名を連ねていることは、公子の創作活動が当時の日本における児童詩の夜明
けに、いかに重要な役割りを果たしていたかうかがい知ることができる。
 大正7年鈴木三重吉によって創刊された児童文芸誌「赤い鳥」は、「世俗的な下卑た子
どもの読み物を排除して、子どもの純性を保全開発する」ことを呼びかけ、活発な童心主
義文学運動を展開したものであった。「赤い鳥」創刊の2年前(大正5年)に生まれた公
子は、三重吉らの児童文学運動の開花期ともいうべき大正12年に現在の荒尾第二小学校
に入学している。このめぐり会いは、父貴文氏の異常なまでの熱心な創作指導と相まって
「直感的で簡潔で珍しい詩才の持ち主である」と北原白秋を驚嘆させたほどの天分を、奔
放に発揮する直接的な要因となったものと想像されるのである。
 ともあれ、当時一寒村にすぎなかった荒尾の町にあって、恵まれた詩才をもって、手づ
かみの直截的な表現を駆使し、短い詩編とはいえ膨大な詩片を吐き続けたことは、公子の
幼い生活がそのまま直感的な鋭い詩に、なんの抵抗もなく移行していったのではないかと
思われ、特に2年~3年の作品が圧倒的に多く、高学年になるにしたがってその作品の量
が少なく、鋭さも失われてきていることからも容易に知ることができよう。




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