こんにちは江崎遊子です。

ちょっと言ってもいいですか。

お天気が続いています。

2024年04月14日 | 日記
家に戻って、4週間ほどです。
コーヒー豆が手に入らなかったり、新鮮な魚が手に入らなかったりしますが、
輪島のドラッグストアやスーパーマーケットも再開しました。
暮らしにさほど支障がありません。ですが、物価が上昇してることを実感します。
これは庶民は耐え忍ばなければなりません。
これまで、何度も輪島に出かけました。
やっと、朝市通りの焼け野原の撤去が始まっていました。
公費解体も少しづつ始まっています。
しかし、町の瓦礫はまだ放置に近い状況です。

これがなかなか慣れません。
一月の初め、総務省の消防庁、緊急消防援助隊の方達の活躍を、生で感じることができました。
我らの仲間が豆炭あんかによる一酸化炭素中毒にかかり、(長年使っていたものの今まで経験したことのないこと)恐らく機密性の高い車内で使ったためと思われたのですが、頭痛と吐き気、それに意識が朦朧となった為、金沢の身内が救急援助を依頼してくれたのです。しかし頭痛がひどく、たまたま陣痛剤を飲んだ所、症状が回復し、ホッとしていたところ、夜の道路状況が悪い中、担架を3台持って8人くらいの救急隊員さんが到着。我らのところはポットン便所であり、薪ストーブがあり、薪風呂も使えました。家に入ってきた隊員さんは部屋の暖かさにびっくりしていました。被災地は電気がなく、暖房もままならず、寒い時間を過ごしていた頃です。
余震がひどい時期であり、みんな車中泊でしたが、少しづつ、被害の少ない寺の庫裡の宿坊に寝る人もありました。
途中救急車の要請の中止を連絡したものの、うまく伝わらず、来てくれたのです。
一応具合の悪くなった3人を診察してくれ、「また何かあったら言ってください」と丁寧に対応してくれ帰って行ったのでした。申し訳ないと思いましたが、その動きの迅速さにとても安堵させてもらったのです。
震災直後は、夜には毎晩救急車の走る音が聞こえていました。
誰かが助けられたか亡くなったか。と思いました。
のべ59000人の動員は東北大震災に次ぐ人数だったようです。
息子の家から時々戻っていましたが、車で走っていると、九州から北海道に至るまでの県外ナンバーの救急車に何度も出会いました。
その度に「ご苦労様です」と車の中から謝意を聞こえないと思いつつ言いました。
先日、テレビで消防隊員の入社式(?)を目にしましたが、こういう人たちがいざという時に活躍してくれるのかと、感慨深く眺めました。
携帯会社のこういう車もよく目にしました。
仮設住宅も少しづつ出来ています。
まだまだ7000には程遠いけれど、街が動き始めるのは嬉しい事です。
時々、体がふわーんと浮くような感じがします。
戻らない人もいるでしょう。
寂しいけれど仕方ありません。元気であればいいです。
自分のこと始めましょう。病院も、スーパーも美容院も始まっています。
日本中、世界中、油断できませんよ。
備えあれば憂いなし、そうありたいです。
コメント
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