去年の夏、畑仕事真っ盛りの頃だった。ふと、「遊びをせんとや生まれけり」と言う言葉が浮かび、その言葉の出どころが知りたくなった。
私は小林一茶の言葉か、と思ったものの、調べたら「梁塵秘抄」という大衆歌謡の中に載っていた。それは子供の遊ぶ姿を読んだものだった。わたしは、生きている姿があそびのようなもんと思いたかったのだ。
はじめに、旦那の本棚に確か小林一茶の本があったと思い、探した。
あったあった。
興味をそそられて、畑仕事の合間にチラチラ読み始めた。
大根引大根で道を教へけり
一度聞いたら忘れられない句だ。
是がまあつひの栖か雪5尺
これも知っていた。
著者の山尾三省はよく知っている。この村の図書館(みんなの本を集めた書庫)
には著書が色々ある。もう亡くなったけど、屋久島に住んでいた。
読み終えて、しばらくぼーっと考えていた。名著だと思う。
本には何箇所か付箋をつけていて、まだまだ開くことがありそうである。
自分の言葉で説明すると歪曲してしまいそうなので抜粋する。
山尾三省の生き様を表した言葉だと思う。彼は詩をたくさん書いている。
「野の道ー宮沢賢治随想」の中で宮沢賢治の事を野の僧と言っていた。
「ぼくの行先は非僧非俗を生きる事。つまり野にあるただの人でありながら、
真実と真理を求めるもう一人の野の僧としての自分をどのように実現していくか
と言う事であった」
この本を書くのは大変だったらしい。
「ぼくがしばしば芭蕉にも言及してきたのは、一茶が心から芭蕉の徒であったからでもあるが、それと同時に芭蕉がその農的文明世界の光を初めから捨象した人であり、ひたすらに俳諧というサービス業の光に専念し得た人で、その点では一茶とは明らかに異質の人だからでもあった。一茶と芭蕉の間には、個性はもとよりその出自の違いに原因する、どう埋めても埋めつくすことのできない世界観の
相違がある事を見ておきたかったのである」
まだ読みきれてないけれどいくつか印象に残った句がある。
通し給え蚊蝿の如き僧一人
月花や四十九年のむだ歩き
目出度さもちう位なりおらが春
この本は2000年9月に初版本が出た。この本の中に宮台真司さんの名前が出てきて驚いた。
「ここで一茶が引きつかんだ、ー目出度さもちう位なりーという感興に関して、若い時分のぼくはそれを一種のニヒリズムと受け取り、ニヒリズムでありながら明るい新鮮さを秘めたリアリズムと受け取って、下五のーおらが春ーという方言が醸し出すぬくもりとともに、自分の胸の内なる愛称句の一つとしてきた。すなわち、人生というものは江戸時代であるにせよ、それほど大した目出度さ(幸福)という質を孕んでいるものではないのだ、という、ニヒリズムでありリアリズムでもある事実を引掴んだ句として受け入れてきたのである。それを現代の言葉に直せば、「終わりなき日常を生きろ」と叱咤する社会学者の宮台真司さんの激励と諦念に通じなくもない。
我が敬愛する宮台真司さんがすでに20年以上も前から、激励し続けてくれている事にびっくりしました。
ウサギの足跡を発見した。卯年だって知ってるのか?我が家のすぐ前にやってきていたのでした。
今朝の雪景色です。