☆・・・あああ、これは素晴らしい作品であった^^;
私は、アカデミー賞なんてのは、『オーストラリア』(←これはこれで楽しい^^)みたいな「お祭り作品」に与えられるものとばかり考えていたのだが、この作品は、主人公がTV番組『ミリオネア』と言う番組に出演し、何億円と言う賞金を得る勝負の構造にインド国民が熱狂するというスケールの大きな「お祭り」がありつつも、翻ってミクロな視点においてもきっちりと撮られている超傑作であった。
・・・と、こうして、一文で、この作品を語ってしまうのはきつい。
この作品は、そんなもんじゃない。
私は、あらゆる表現を考えるとき、常に「全体作品」と言う、この世のあらゆる事象を包括したものを至高と考える。
この作品は、インドの全体を包括し得、また、その普遍的なテーマ<真摯な思い>において、全世界を表現できていると思うのだ。
物語は、インドのスラムで育った、学のない主人公・ジャマールが、ミリオネアで難問を着実にクリアーしていき、生放送ゆえに、最終問題の前に翌日に持ち越しになる。
「そんなはずはない」と、詐欺行為を疑った主催者によって警察に引き渡され、過酷な尋問の様子から始まる。
警部や尋問官には、圧倒的な先入観がある。
この無学な育ちの悪い野郎が、数々の難しい問題を解けるはずがない!
◇
彼には、奇跡的なめぐり合わせの数々があり、それらの問題の答えを偶然にも知っていた。
捜査官から、殴られ、吊るされ、電気ショックを与えられ、朦朧とした意識の中、ジャマールは、過去を思い出していくのだ。
この辺りの、その作り手のモンタージュ手法に、観ている者は、最初、すんなりとついて行きにくいのだが、それが、この作品の過去現在を行き交う迷宮的なマジック(by キューブリック)効果を生んでいる。
『ミリオネア』の各難題があり、ジャマールは、それまでの半生を省みる。
更に、それは、付随して、多くのキーワードで、あたかも現在のインドの持つ、表に表れない細やかな歴史を語ってくれる。
・・・優しい母さん、兄貴サリーム、国民的スター、肥溜め、小銭、厳しい教師、三銃士、衣服の色鮮やかな洗濯場、民族紛争、逃走、クリシュナ神、暴力、豪雨、孤児、少女ラティカ、スラム、逃走、ゴミ拾い、コカ・コーラ、偽善者ママン、お代わり、集団おもらい、赤ちゃん、唐辛子、悪魔ママン、目潰し、スプーン、逃走、列車、売り子、無賃乗車、タージ・マハル、靴泥棒、ポラロイド、ガイド、暴力、100㌦紙幣、ボンベイ、ムンバイ、盲目の少年、ベンジャミン・フランクリン、踊り子ラティカ、処女、銃、銃殺、廃ホテル、再会、ギャング集団、別離、ラティカの視線、お茶汲み、電話局、ミリオネア、通話、建設中のビル、兄との再会、兄の行状、組長の家、女ラティカ、サンドイッチ、クリケット、駅、ラティカの自由への微笑、頬に傷、不在の家、絶望、…そして、ミリオネアへのささやかな希望。
ジャマールは、『ミリオネア』出演によって、「俺はここにいるよ」とラティカに伝えたいだけなのだ。
ダニー・ボイルと言うのは、凄まじい監督だ。
これらを圧倒的な絵と、スタイリッシュかつスピーディーな演出で見せてくれる、魅せてくれる。
勝負としての『ミリオネア』も忘れておらず、3つのライフラインの使い方も、その、一癖も二癖もある司会者との駆け引きとともに、実に面白い。
再会のたびに、ラティカは、「好きだ」「愛してる」と言うジャマールに聞く。
「で、その後は?」
「その後」とは、こうして仲良くお喋りして、で、その後にすべきことは? でもあり、でもなくて、あなたの「愛してる」の言葉の後には甲斐性はあるの? という意味である。
しかし、最終的に、ラティカは、『ミリオネア』でのジャマールの奮戦を見て、その結果などはどうでも良く、彼の元に走る。
◇
エンドロールのバックに流れるカーテンコールのダンスが能天気で素晴らしい。
幼少時の、ジャマールとラティカが、指導されてなくて、自由気ままに奔放に体を動かしているのもいい。
◇
私は、インドこそ行ったことはないが、やや似てる雰囲気を持つカンボジアには詳しく、スラムや物乞い集団の実情にも、多少は免疫がある。
・・・この作品の唯一の欠点は、ママンに目を潰された少年は、歌う物乞いになり、後にジャマールと再会するのだが、
目が見えないので、ジャマールの顔をまさぐり、「ジャマールだね? 出世したね」と言うシーンだ。
目の見えない人物が、手探りで、対象を言い当てるのは感動的なシーンだが、
この少年が目を潰されるのは、ジャマールらが、ママンのもとから脱走する直前だから、手探りでジャマールを言い当てる時間経過的な下地はないのである。
・・・おっと、それから、一度目にジャマールがラティカと再会したとき、ラティカはまだ「処女」だったのだが、私は、「ママン、良心を守ってやがるぜ^^」と思いました。
でも、だからこそ、その後の、廃ホテルからジャマールが追い出されるくだりが、非常に悔しい。
◇
少女時代のラティカを演じた娘が可愛い。
私は、あんな小汚い服をまといつつも、どうしようもない美しさを無自覚に持っている「少女」と言う存在に、ただひたすらにコンプレックスを持たずにはいられない。
うん、映画『バロン』のサラ・ポリーもそうだった・・・。
少女は、人類の宝^^
(2009/04/29)
私は、アカデミー賞なんてのは、『オーストラリア』(←これはこれで楽しい^^)みたいな「お祭り作品」に与えられるものとばかり考えていたのだが、この作品は、主人公がTV番組『ミリオネア』と言う番組に出演し、何億円と言う賞金を得る勝負の構造にインド国民が熱狂するというスケールの大きな「お祭り」がありつつも、翻ってミクロな視点においてもきっちりと撮られている超傑作であった。
・・・と、こうして、一文で、この作品を語ってしまうのはきつい。
この作品は、そんなもんじゃない。
私は、あらゆる表現を考えるとき、常に「全体作品」と言う、この世のあらゆる事象を包括したものを至高と考える。
この作品は、インドの全体を包括し得、また、その普遍的なテーマ<真摯な思い>において、全世界を表現できていると思うのだ。
物語は、インドのスラムで育った、学のない主人公・ジャマールが、ミリオネアで難問を着実にクリアーしていき、生放送ゆえに、最終問題の前に翌日に持ち越しになる。
「そんなはずはない」と、詐欺行為を疑った主催者によって警察に引き渡され、過酷な尋問の様子から始まる。
警部や尋問官には、圧倒的な先入観がある。
この無学な育ちの悪い野郎が、数々の難しい問題を解けるはずがない!
◇
彼には、奇跡的なめぐり合わせの数々があり、それらの問題の答えを偶然にも知っていた。
捜査官から、殴られ、吊るされ、電気ショックを与えられ、朦朧とした意識の中、ジャマールは、過去を思い出していくのだ。
この辺りの、その作り手のモンタージュ手法に、観ている者は、最初、すんなりとついて行きにくいのだが、それが、この作品の過去現在を行き交う迷宮的なマジック(by キューブリック)効果を生んでいる。
『ミリオネア』の各難題があり、ジャマールは、それまでの半生を省みる。
更に、それは、付随して、多くのキーワードで、あたかも現在のインドの持つ、表に表れない細やかな歴史を語ってくれる。
・・・優しい母さん、兄貴サリーム、国民的スター、肥溜め、小銭、厳しい教師、三銃士、衣服の色鮮やかな洗濯場、民族紛争、逃走、クリシュナ神、暴力、豪雨、孤児、少女ラティカ、スラム、逃走、ゴミ拾い、コカ・コーラ、偽善者ママン、お代わり、集団おもらい、赤ちゃん、唐辛子、悪魔ママン、目潰し、スプーン、逃走、列車、売り子、無賃乗車、タージ・マハル、靴泥棒、ポラロイド、ガイド、暴力、100㌦紙幣、ボンベイ、ムンバイ、盲目の少年、ベンジャミン・フランクリン、踊り子ラティカ、処女、銃、銃殺、廃ホテル、再会、ギャング集団、別離、ラティカの視線、お茶汲み、電話局、ミリオネア、通話、建設中のビル、兄との再会、兄の行状、組長の家、女ラティカ、サンドイッチ、クリケット、駅、ラティカの自由への微笑、頬に傷、不在の家、絶望、…そして、ミリオネアへのささやかな希望。
ジャマールは、『ミリオネア』出演によって、「俺はここにいるよ」とラティカに伝えたいだけなのだ。
ダニー・ボイルと言うのは、凄まじい監督だ。
これらを圧倒的な絵と、スタイリッシュかつスピーディーな演出で見せてくれる、魅せてくれる。
勝負としての『ミリオネア』も忘れておらず、3つのライフラインの使い方も、その、一癖も二癖もある司会者との駆け引きとともに、実に面白い。
再会のたびに、ラティカは、「好きだ」「愛してる」と言うジャマールに聞く。
「で、その後は?」
「その後」とは、こうして仲良くお喋りして、で、その後にすべきことは? でもあり、でもなくて、あなたの「愛してる」の言葉の後には甲斐性はあるの? という意味である。
しかし、最終的に、ラティカは、『ミリオネア』でのジャマールの奮戦を見て、その結果などはどうでも良く、彼の元に走る。
◇
エンドロールのバックに流れるカーテンコールのダンスが能天気で素晴らしい。
幼少時の、ジャマールとラティカが、指導されてなくて、自由気ままに奔放に体を動かしているのもいい。
◇
私は、インドこそ行ったことはないが、やや似てる雰囲気を持つカンボジアには詳しく、スラムや物乞い集団の実情にも、多少は免疫がある。
・・・この作品の唯一の欠点は、ママンに目を潰された少年は、歌う物乞いになり、後にジャマールと再会するのだが、
目が見えないので、ジャマールの顔をまさぐり、「ジャマールだね? 出世したね」と言うシーンだ。
目の見えない人物が、手探りで、対象を言い当てるのは感動的なシーンだが、
この少年が目を潰されるのは、ジャマールらが、ママンのもとから脱走する直前だから、手探りでジャマールを言い当てる時間経過的な下地はないのである。
・・・おっと、それから、一度目にジャマールがラティカと再会したとき、ラティカはまだ「処女」だったのだが、私は、「ママン、良心を守ってやがるぜ^^」と思いました。
でも、だからこそ、その後の、廃ホテルからジャマールが追い出されるくだりが、非常に悔しい。
◇
少女時代のラティカを演じた娘が可愛い。
私は、あんな小汚い服をまといつつも、どうしようもない美しさを無自覚に持っている「少女」と言う存在に、ただひたすらにコンプレックスを持たずにはいられない。
うん、映画『バロン』のサラ・ポリーもそうだった・・・。
少女は、人類の宝^^
(2009/04/29)
>甲斐性はあるの?
最終的にはラティカもジャマールもミリオネアの結果などどうでもいいわけなんですが、ふと考えると、ジャマールってここに至るまで、節目節目でラティカに助けられっぱなしなんですよね。
あまりにも無力だったジャマールでしたけど、最後のライフラインでは初めてラティカの助けが得られないまま、運とはいえ自力でクリアするわけです。
結果的にですけど、賞金が得られたことは、蘭さんの書かれた「その後は?」に答えているんですよね。もちろんそこまで推測するのは無粋なのかもしれないですが、ある一面の現実としては、お金で彼らが幸せになるということもあるんだろうなと思ったのでした。^^;
ですね。
インドだったら、2000万ルピー、日本円換算4000万で幸せに暮らせるでしょうね^^
多くの、この作品に否定的なブログで、「ご都合主義が目立つ」とありましたが、
私は、それはちょいと違うと思うのです。
この作品では、その「ご都合主義」が物語を牽引していると思うのです。
そもそもが、うまい具合にミリオネアの問題に答えられること自体が「ご都合主義」で、そういった展開をなくしたら、もはや、この物語の良さがなくなっちゃうと思うのです。
それから、エンディングのダンスを嫌がる人も多かった。
あれは良かったですよ^^
ビートたけしの『座頭市』のエンディングのタップダンスも、ダニー・ボイルの念頭にはあったと思うのです。
あの、子供時代の子役が踊るのも、『座頭市』と同じです。
『座頭市』はヨーロッパで多くの映画賞を取ったので、ダニー・ボイルも見たと思うのです。
この作品、去年の『落下の王国』と匹敵する魅力ある作品です。
ウンコには参りました^^;
では^^
近年のハリウッド映画にはない「パワー」に満ち溢れていましたね。
「ご都合主義」に対する反論、僕も同じ考えです。
そもそも「ご都合主義」というのはストーリーの展開において、強引な手法で物語を進めようとするスタイルのことで、ある種の運命的なものによってクイズに正解していくといったことが物語の肝である本作においては当てはまりませんよね。
後、僕も「落下の王国」好きですよ。
格好いいハンドルネームですね^^
ジャマールが下町を逃走する様の空撮のダイナミックな映像が、時おり、私の日々の生活の中で思い出されるのです^^
これからもよろしくです!