マキペディア(発行人・牧野紀之)

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唯物史観

2011年11月29日 | ヤ行
  参考

 01、産業が、あるいは一般的に富の世界が政治の世界に対して取る関係が現代の主要問題である。(マルエン全集第1巻382頁)

 02、この歴史観は次の事に基づいている。即ち、〔第1に〕生産の実際の過程を、しかもそれを直接的生命の物質的な生産から展開すること、〔第2に〕この生産様式と結びつき、それによって生み出される交流の形式を捉えること、かくして〔第3に〕その様々な段階における市民社会を全歴史の基礎として叙述し、かつ意識の理論的な形成物や形態、即ち宗教、哲学、道徳等々は全て市民社会から出発して説明し、それらの理論的諸形式の生成過程を市民社会の諸段階から出発して跡づけること、である。その時にはもちろん又、事柄をその全体性において〔従って又、これらの諸側面の相互作用も〕叙述されうる事に成るのである。(マルエン全集第3巻37-8頁)

 03、プルードン氏は、人間がラシャ、亜麻布、絹布を作り出すのだということを十分好く理解している。このようなつまらない事を理解しているとは確かに偉大な功績である。しかし、それに反して、プルードン氏は、その中でラシャや亜麻布を生産するところの社会的な関係も又、人間はその生産力に応じて生産しているのだという事は理解していない。まして、その物質上の生産性に応じて社会的な関係を生産する人間が、観念やカテゴリーも又、即ちこれらの社会的な関係の抽象的な観念上の表現も又、生産するのだという事は、全く理解していないのである。(マルエン全集第4巻554頁、「アンネンコフへの手紙」)

 04、近代社会主義はその方向がどんなものでも皆、ブルジョア経済学から出発している。その限り、例外なくリカードの価値論としっかり結びついているのである。(マルエン全集第4巻559頁、「哲学の貧困」ドイツ語版第1版への序文)

 05、ドイツ哲学、特にヘーゲル哲学という先行者がなかったならば、ドイツの科学的社会主義(現存する唯一の科学的社会主義)は生まれなかったであろう。〔ドイツの〕労働者たちの間にある理論的な感覚がもしなかったならば、この科学的社会主義はこのように早く労働者たちの血肉とならなかったであろう。(マルエン全集第7巻541頁、「ドイツ農民戦争」第2版への序文)

 06、私にとって〔その研究の結果〕明らかになり、そして一度(ひとたび)それを獲得してからは〔その後の〕研究にとって導きの糸として役立ったところの一般的な結論は次のように公式化できる。

 〔①〕人間たちは自分たちの生活を共同で生産していく時、確定された諸関係を、即ち必然的な諸関係を、即ち自分たちの意志に依存しない諸関係を受け入れる。〔それでは〕これらの諸関係は〔どういう性質のものか、どういう風にして決まるのかというと、それは〕その人間たちの物質生活の生産に関する諸力がどの程度発達しているかに対応するようなそういう関係である。

 〔②〕これらの生産諸関係の総体がその社会の経済構想を形作るのだが、それが実在的〔実在世界の〕土台〔柱脚〕となり、その上に法律とか政治という「上部構造」〔上階の突出部〕とでもいうべきものがそびえ立つのである。そしてその社会の経済構造にはその社会の意識形態が対応しているのである。〔すなわち〕物質生活を生産する様式が社会生活と政治生活と精神生活の過程全体を条件付けるのである。人間たちの意識が人間たちの存在〔あり方〕を決めるのではなく、逆に、人間たちの社会のあり方が人間たちの〔社会=人間関係についての〕意識のあり方を決めるのである。

 〔③〕社会の物質的生活の生産に関する諸力はその発展が或る段階に達すると、それがこれまでその中で運動してきたところの既存の生産諸関係と、あるいはその生産諸関係のたんに法律上の表現にすぎない所有の諸関係と、矛盾するようになる。これらの〔生産あるいは所有の〕諸関係は生産力を発展させる形式から〔その発展を阻止する〕鎖に転化する。その時、社会革命の時代が始まる。〔すなわち、社会の〕経済的な基礎が変わるにつれてかの巨大な上部構造全体が、あるいはゆっくりと、あるいは急激に、変わっていくのである。

 〔④〕これらの〔基礎部分におけるのと上層部分におけるのとの二種類の〕変革を考察する時には、つねに、生産の経済的諸条件の中に起きる物質的な変革、つまり自然科学的に忠実に確認できる変革と、法律や政治や宗教や芸術や哲学といった形式〔の中に起きる変革〕、要するにその中で人間たちがこの〔基礎部分での〕葛藤を意識しかつ戦い抜くところのイデオロギーの諸形式〔の中に起きる変革〕とを区別しなければならない。或る人が何であるか〔どんな人であるか〕を判断する時に、その人自身が自分についてどう考えているかを基準にしないように、そのような〔社会のいろいろの領域に起きる〕諸変革の時期を人々の意識〔人々がどう考えているか〕から判断することはできない〔し、してはならない〕。むしろ、人々の意識をば物質的な生活の中に含まれている諸矛盾から、すなわち生産の社会的な諸力と社会的な諸関係との間にある諸矛盾から、説明しなければならない。

 〔⑤〕社会構成体はどれもみな、その社会構成体が許容しうる生産力が全部展開されきるまでは決して亡びない。そして、これまでよりも高く新しい生産諸関係は、それを生み出す物質的な諸条件が古い社会自身の胎内にはぐくまれるまでは決して現れ出ない。従って、人類はいつでも解決しうるような〔そういう性質の〕課題しか立てない〔と言える〕。というのは、一層詳しく考察するとつねに確認できることは、〔そもそも〕その課題自身がそれの解決に必要な物質的諸条件が既に存在しているか、少なくとも生まれつつある時にしか、発生しないからである。

 〔⑥〕大づかみに見て、アジア的生産様式、古代的生産様式、封建的生産様式及び近代ブルジョア的生産様式〔の四つ〕を、経済的社会構成体〔社会の経済上の形態構造〕が前進的にたどる諸時期と見なすことができる。生産のブルジョア的諸関係は、生産の社会的な過程が持つ敵対的な形式としては最後の形式である。ここで「敵対的」とは個人的敵対という意味ではなく、諸個人の生活の社会的な〔個人では変えられない〕諸条件から生まれ出る敵対という意味である。〔それはともかく〕そのブルジョア社会〔近代市民社会〕の胎内で発展する生産諸力は同時にこの敵対関係を解決するための物質的諸条件をも生み出す。従って、この社会構成体をもって人間社会の前史は終わるのである。(「経済学批判」への序文)

 07、この画期的な歴史観〔ヘーゲルの歴史観〕が、新しい唯物論的な見方の理論上の直接的前提であった。(マルエン全集第13巻474頁)

 08、唯物史観は次の命題から出発する。即ち、〔第1に〕生産が、そして生産に次いではその生産物の交換が、あらゆる社会秩序の基礎であるということ、〔第2に〕歴史上に登場するどの社会でも、生産物の分配及びその分配と共に与えられる階級や身分への社会の編成は、何がどのように生産されるか、そしてその生産されたものがどのように交換されるかということによって、決められているということ、これである。(マルエン全集第20巻248頁)

 09、この世界解放の事業を貫徹することが近代プロレタリアートの歴史的使命である。この事業の歴史的諸条件とその性質そのものを究明し、それによって、その行為に使命づけられているが今日は抑圧されている階級に、彼ら自身の行為の諸条件とその性質とを意識させることが、プロレタリア運動の理論的表現である科学的社会主義の課題である。(マルエン全集第20巻265頁)

 10、人間の理念(Idee)や観念が人間の生活諸条件を創造するのであってその逆ではないという考えは、これ迄の全歴史によって否認される。これ迄のすべての歴史で、つねに、意欲された事とは違った事が起ったし、その更に後には大抵、意欲された事と反対の事が起ったのであった。観念が生活条件を創造するというような事が起るのは、多かれ少なかれ遠い将来においてであり、しかも人間が自己変化しつつある諸関係によって命ぜられた社全体制の変化の必然性を前以て認識し、意識もせず欲しもしないのに社全体制の変化を強制されるというようなことになる前に、その変化を欲するという限りにおいてのみである。(マルエン全集第20巻582頁)

 11、人がマルクスに賛成しないのは勝手だが、マルクスが以前の社会主義者に比べて新しい者である自分の見解を最も完全な明解さを以て定式化したことを否定する事はできない。

 この新しい物とは、これまでの社会主義者が自分の考えを基礎づけためには現制度の下での大衆の抑圧を示し、各人が自分で作ったものを受け取るような体制の優越性を示し、この理想的体制が人間の本性とか理性的・道徳的生活の概念等々に適合している事を示せば十分であると考えていたのに対して、マルクスは、このような社会主義に満足することは不可能である、と考えた点にある。マルクスは、現代の体制を特徴づけてそれを評価し非難するに止まらず、この体制を科学的に説明し、ヨーロッパ及びヨーロッパ以外の諸国家で様々なこの近代的体制を共通の基礎へと還元し、即ち資本主義的社会構成体へと還元し、この社会構成体の機能と発展の法則を客観的に分析したのである(彼は、この体制の下での搾取の必然性を示した)。

 それと全く同様に、社会主義的体制だけが人間の本性に合致するという主張(偉大な空想的社会主義者たちやその亜流たる主観主義的社愛主義者たちはこう言ったのだ)に満足することは出来ないと考えた。そして、資本主義体制を分析したのと同じ客観的分析によって、資本主義の社会主義への転化の必然性を証明したのである。……マルクス主義者においてしばしば見られることだが、あのような必然性を引き合いに出す事の起源はここにあるのである。(レーニン邦訳全集第1巻152-3頁)

 12、この社会主義社会の到来の必然性を現存する社会関係のなかに見ぬくことこそ、科学的社会主義が空想的社会主義から区別される点である。空想的社会主義は現実を反映せず、頭の中からデッチあげられたものだという説は、文字通りの意味で言うなら、反唯物論的である。唯物論は現実を少しも反映していない認識の存在を認めないものだからである。

 しかし、「(ヘーゲルにあっては)現実性という属性は、同時に必然的でもあるところのものごとにのみ属するのであつた」(マルエン2巻選集第2巻331頁)。従って、社会主義の到来の必然性の洞察のない社会主義思想は、たとえ個々の点でどれだけ鋭い洞察と批判とを含んでいようとやはり「空想的」と評されなければならなかったのである。(「『フォイエルバッハ・テーゼ』の1研究」、『労働と社会』41頁に所収)

 感想・マルクスとエンゲルスの社会主義思想も、本人たちは「社会主義社会の到来の必然性」を証明したつもりでしたが、客観的にはその証明はできていませんでした。ですから、この自称「科学的社会主義」思想も、客観的には「空想的社会主義」と評すべきものです。

    関連項目

土台と上部構造

『マルクスの空想的社会主義』
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