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教条主義と独断論(小論文)

2011年11月20日 | カ行
 教条主義という日本語はマルクス主義の理論と運動の中で Dogmatism(ドグマティズム)の訳語として使われ、その用法が一般化したものと考えられる。従って、教条主義の概念を理解するためには「ドグマティズム」の理解が欠かせない。

 「ドグマティズム」はギリシャ語の「ドグマ」に由来するが、後者は「~と思う」を意味する動詞「ドケオー」から派生した。その意味は「何らかの積極的な意見」ということであり、「説」ということである。従って、「スケプシス」(疑い)を事とし、いかなる定説をも立てようとしない人々つまり懐疑論者たち(スケプティコイ)が、何らかの積極的主張をする哲学者たちを、最初は主としてストア派の人々を「ドグマティコイ」(定説を立てる人々、定説主義者たち)と呼んだのは、当然である。ここに 「ドグマティズム」は「スケプティシズム」(懐疑論)の対概念として生まれた。

この古代ギリシャ哲学における「ドグマティズム」は普通「独断論」と訳されているが、その意味内容を端的に表現し、後に述べる他の独断論から区別するためには、「定説主義」と名付けられてよいであろう(出隆『懐疑論史』岩波書店参照)。

 この意味の「ドグマティズム」はその後注目されることなく歴史を下ることになる。近世においてこの語に新しい意味を盛ったのはカントである。カントは「何らかの積極的な主張をすること」自体はdogmatisches Verfahren(ドグマーティッシュス・フェアファーレン。普通は「独断的方法」と訳されるが、上記の理由により「定説方式」とでも訳しておこうか)として肯定する。

 しかし、「ドグマティズム」自身の意味は、「認識能力(純粋理性)の内容(意義)と限界の吟味をしないで、無媒介に形而上学を立てること(経験外の対象について説を立てること)」として否定する。逆にこの吟味をすることを「批判」と呼び、そういう態度を「批判主義」とした。カントがヒュームの懐疑論によって「独断の微睡(まどろみ)から覚まされた」という時の「独断」とはかかる意である。従って、この意味の「ドグマティズム」は批判主義つまり認識論先行主義の対概念であり、これも通常は「独断論」と訳されているが、その意味内容からは「形而上学主義」とか「存在論先行主義」と訳してよい。

 カントの「純粋理性批判」の抜本的改作によって自分の「論理学」を築いたヘーゲルは、カントのこの認識論先行主義を「認識する前に認識能力を吟味しようとするもの」であり、「水に入る前に泳ぎを習おうとするもの」であるとした。

 しかし、存在論にとっての認識論的反省の必要は認め、それを「認識論であると同時に存在論でもある論理学」として解決した。カントが認識能力の吟味をしたのに対して、ヘーゲルは概念の吟味をした。カントはその12個の悟性概念(カテゴリー)の客観的妥当性(悟性〔主観〕の形式である概念がなぜ客観的認識を与えうるのか)を平等に問題にしたが、概念の真理性(1つ1つの概念がどの程度真理であるか)を問題にせず、従って真理を判断のみに関わる問題とした。ヘーゲルは真理概念を改作して個々の概念の真偽(意義と限界)を問い、そこから判断と推理と科学的体系の真理性を問題にした。

 従って、ヘーゲルの「ドグマティズムス」は「1つの命題で真理を捉え表現できるという考え」という意味になった。真理の具体性を「真理は対立物の統一である」という意味で使うヘーゲルの弁証法的真理観の立場からは、真理は最少限でも相反する2つの命題の統一によってしか捉ええず、表現されえないということになるのである。だから、逆に、真理を一命題で捉える立場は抽象的(一面的)な考え方であり、これは悟性の立場だとした。

 従って、この立場としての「ドグマティスムス」は、これも通常「独断論」と訳されているが、「判断主義」とか「一命題主義」と名付けてよい。その時、それはヘーゲルの「概念主義」ないし「体系的科学主義」を意味する「弁証法」に対置され、止揚されているのである(ヘーゲル『小論理学』第26~33節、特に第32節への付録)。

 しかしここで注意しておかなければならない事は、この時ヘーゲルが「ドグマティスムス」として念頭に置いていたのがヴォルフ流の悟性的存在論で、それは「形而上学」と呼ばれていたという事である。従って、その「形而上学」にはその内容としての存在論とその形式ないし方法としての独断論(判断主義)つまり悟性的な考え方の二面があり、ヘーゲルの弁証法と差し当たって対立したのはその悟性的方法だったという事である。

 エンゲルスはこの事情を知っていたが、その説明をしないでその方法の面だけを取り上げ、「形而上学的方法」という語を作り、弁証法的方法に対置した。そのため、エンゲルスの説を追体験しないマルクス受け売り主義者たちの間で、この事情が知られず、「形而上学」概念が一面化されることになった。そして、その時、ヘーゲルの独断論批判、つまり判断主義批判は受け継がれなかった。

 そのため、哲学を生業とする人々にすらヘーゲルの独断論批判は知られず、多くの運動において「教条主義反対」が十分な成果をあげられないことになった。まさに低い理論が低い実践を結果したのである(市販されているどの哲学辞典の「独断論」と「教条主義」の項を見ても、ヘーゲルの「ドグマティスムス」概念への言及が無い)。

 これが「独断論」と訳される「ドグマティズム」の系譜だが、ここで日本語の「独断」という語を考えてみよう。その意味は、字面(じづら)から明らかな如く、「一人で決める」という事であり、「他人に相談しないで決める」という事であろう。しかし、その場合の「他人」とは、当然、文字通りの他人一般のことではなく、「事の性質上事前に相談すべき関係者」の意であろう。しかし、独断というのは、このような決め方の形式面だけを指すのではなく、そこから転じて、「決定の内容に必要な配慮が欠ける」という意味を持たされていると思う。

 しかし、このように取ると、全ての間違いは「必要な配慮に欠けている」のだから、全ての間違いを独断的としなければならず、これでは独断と間違い一般との違いが無くなってしまう。上記の3種の独断論(定説主義、存在論先行主義、一命題主義)を比較してみると、最も広い意味での認識論的反省に欠けるという共通点のある事が分かる。恐らくこれが独断論と総称される所以(ゆえん)なのであろう。

 さて、次に「教条主義」と訳される「ドグマティズム」の歴史を見てみよう。

 これはどうやらマルクス主義の立場に立つ運動の内部で発生した概念のようだが、レーニンの『何をなすべきか』(1902年)の第1章の題名の中に「ドグマティズム」という語があるところを見ると、ドイツのマルクス主義運動の中で以前から使われていたのであろう。しかし、その「ドグマティズム」は「独断論」と訳される「ドグマティズム」の哲学史的伝統とは関係が無かったようである。

 それはエンゲルスが「行動の手引」に対置した時の「ドグマ」から作られたのか、明らかではないが、いずれにせよ、そこでの「ドグマ」とはカトリック教会の「ドグマ」(教条)のことであった。そのため、カトリック教会の教条が疑ってはならないものとされている面を捕らえて、マルクスの理論を無批判に信じ、主張し、守る態度が「ドグマティズム」と呼ばれた。
 だからこれが「教条主義」と訳したのは正しいが、その意味内容からは「原則墨守主義」とでも表現されえよう。その時、この対概念は「批判的原則主義」か「主体的継承主義」くらいになるだろう。しかし、その時、実際には、「教条主義反対」の名の下に、マルクスの全理論の核心であるプロレタリアート独裁の理論を修正しようとする人々が出た。そして、これは当然の事ながら「修正主義」と呼ばれることになった。即ち、修正主義とは「原則放棄主義」であり、従ってその対概念は「原則主義」である。

 「われわれの理論は、教条ではなく、行動への手引である」という句は、レーニンの『共産主義における左翼小児病』(1920年6月)の第8節に見られ、これによって知られるようになったものと考えられる。この句は、エンゲルスの1886年11月29日付ゾルゲ宛ての手紙の中にある句に拠っているのだが、エンゲルスは手紙以外でも、仲間たちとの会話の中でその表現を使っただろうから、「教条」と「行動の手引」とを対置し、理論を教条として扱う態度に「教条主義」という名を付けるようになったのがいつかは、定めにくい。しかし、これは大した事ではない。

 大切な事は、この場合の「教条主義」が「行動の手引主義」と対置される時、その対立は行動と手引のどちらとの対立だったのか、である。主として行動と対置された時、「教条主義」は「実践と結びつけずに理論を弄ぶ態度」の意となった。それが「手引」と対置された時、それは「現実の特殊な諸条件を考慮しないで一般理論をそのまま適用する態度」の意味を持った。

 レーニンは「教条主義」という言葉までは作らなかったが、前記の本で戒めていたのはこの後者の意の「教条主義」であった。そして、この「教条主義」概念は、毛沢東が語として使い、繰り返し批判したために、そして中国革命の成功の一因がここにあったと考えられたために、少くとも日本の左翼陣営では広く知られるようになった。

 それは、先の定義から分かるように、一般には公式主義とか図式主義と呼ばれている態度である。従ってそれは決してマルクス主義運動だけの問題ではないのだし、こうした旧来の語を使えば、カントの図式論のような学ぶべき遺産もある事に思い当たるはずなのだが、新語を使うことで何か新しい事をしたかのように思い込むのが好きな小児病患者には、歴史の連続性は分からないらしい。

 ともかく、かくして公式主義の意の「教条主義」概念が確立し、現実の特殊的諸事情を過大に見たり、自分の特殊な経験を一般的に考え直すことのできない傾向が「経験主義」とされ、この一対の間違いが「主観主義」という語でまとめられた。この命名は、多分、毛沢東の愛読したレーニンの『哲学ノート』の中で、主としてカントの認識論が主観主義とされ、真の弁証法が「最高の客観主義」とされていることに由るのであろう。

 この毛沢東による主観主義反対運動は大きな役割を果した。その理由は、第1に、教条主義や経験主義が「言葉としては」正しく定義されていたからである。第2に、こういう事を自覚的に反省して、「こういう間違いを少なくしよう」と決心するだけでも、そういう自覚を持たない場合よりも、判断や行動ははるかに正しくなるからである。まして、それが最高指導者によって唱えられ、運動となれば尚更である。

 しかし、その後の歴史を見てみると、この種の主観主義反対を自覚しても、中国でも日本でも、教条主義や経験主義の誤りが繰り返された事が分かる。寺沢恒信氏の『毛沢東の実践論』や『毛沢東の矛盾論』(共に理論社刊、1954年)の中で述べられている日本共産党の路線は、その後日本共産党自身によって自己批判されたし、毛沢東自身多くの間違いを犯し、いわゆる「プロレタリア文化大革命」という愚行を強行した。

 なぜこういう事が起きるのだろうか。それは、教条主義反対がどんなに正しく理解されても、それも所詮一般論であり、個々の場合への正しい適用は保証されないからである。或る理論が或る現実に適用されて或る現状分析が出たとしよう。その時、その分析が「教条主義」か「経験主義」か「弁証法的唯物論の正しい適用」か、これを判定する間違い無い基準が無いからである。

 適用ということは、へ-ゲルが言うように(『法の哲学』第3節)本来悟性の仕事であり、偶然的要素を必然的に伴い、従って概念から内在的に展開することが出来ないからである。「実践による証明」とやらを振り回す人には、「実践という基準は、事の本質から言って、人間の何らかの観念を決して完全には確証も反駁もしない」(『唯物論と経験批判論』第2章第6節)というレーニンの句を引いておこう。

 従って、教条主義反対を押し進めるには、人間の不完全性を認めて、人間は間違えるものだという事を前提して、間違いをなるべく小さくし、なるべく早く是正する道を整備するという事になる。これこそ民主主義の具体化である。それは、言論の自由を保証するラウンド制であり、自己批判の強要の禁止であり、情報の公開であり、反省会の制度的義務付けである。

 同時に、それは、人間関係や自他の態度が本当に民主主義的かを意識的に反省する「民主主義の時間」の制度化によって「形式的運動」の要素を取り入れ、それを「内容的運動」と並ぶ位置にまで高めることである。しかし、どんなに民主的に話し合っても、無い物は出て来ない。だから、この民主主義は、他方において、思考能力と判断力と勇気を高める修業を奨励することになる。

 終わりに当たって、「教条主義」と訳される「ドグマティズム」と「独断論」と訳されるそれとの共通点を考えてみよう。それは「批判精神の欠如」ということではあるまいか。
 独断論は、説を立てるに当たって自分の認識の根拠や方法に対して無自覚無批判な事であったが、教条主義は、既成の一般理論を受け入れ、あるいは適用する際に、その内容の吟味が不十分だという事だからである。

 先に、マルクス主義の運動での「ドグマティズム」批判はヘーゲル迄のそれとは無関係だと言った。しかし、カント・ヘーゲル的問題意識自身は、「ドグマティズム」批判としては受け継がれなかったが、形を変えて受け継がれた。それが「認識論としての弁証法」の問題であり、弁証法的唯物論における自然弁証法と史的唯物論(社会弁証法)の論理的関係の問題である。

 ここでは、毛沢東における主観主義と客観主義の関係とは反対に、自然弁証法が先でそれを社会に適用して史的唯物論が出来たという考えは客観主義とされた。逆に、史的唯物論が生まれてこそ自然の弁証法的な見方が出来るようになったのだとする考えは、「主体的唯物論」と呼ばれた。後者が正しいのだが、多くの主体的唯物論者は「実践の分析が根本だ」としながら、その分析を実際には展開できず、現象から本質への認識の歩みを悟性的にしか理解できなかったために、主体的唯物論を完成できなかった。

 ヘーゲルとマルクスとエンゲルスとレーニンの弁証法の学説史的研究によってこの史的唯物論主導説の「骨格」を正しく示したのが、許萬元氏である。氏は言う。「弁証法的唯物論は自然弁証法と史的唯物論との統一であり、自然弁証法を存在根拠として史的唯物論を把握し、あるいは逆に、史的唯物論を認識根拠として自然弁証法を再把握したりすることを可能にする円環的体系と考えられなければならない」(『現代と思想』誌第32号所収の「スターリン哲学の問題点」)。

 しかし、氏自身はこの「円環的体系」を実際には展開せず、学説史研究に終始した。その上、その表現が難解で、ほとんど誰にも理解されていない。これは氏の立場が講壇哲学であることから来るのだが、理論的には、自我論が無く、概念の個別論が無く、ヘーゲルの目的論の分析が無いことに拠ると思われる。(1987年10月23日執筆)

  関連項目

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